夏目漱石の小説「こころ」


夏目漱石の小説シリーズ、今回は「こころ」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-22

「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増(まし)かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

「こころ」は1914年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「彼岸過まで」「行人」とともに漱石の後期3部作を構成する作品です。いわゆる近代的自我に基づくエゴイズムと、人間としての倫理観との、激しい葛藤に苦悩する明治の知識人の姿が描き出されている、というように一般に読まれています。

しかし「こころ」に関しては少なくとも日本人であれば、どういう小説なのか知らないという人の方が稀だと思われます。ですので、さっそく本題の、ベートーヴェンとのアナロジーの方に入ります。すなわち、漱石の「こころ」はベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」に類似する特質を多分に保有しているように私には思える、という話です。

両作品の共通点ですが、まず両者の主要作中の中でも畢生の名作として一般に認知されている点、両作品とも作者の当初の構想から外れた形での完成となっている点、それがため一般的な「名作」的評価とは裏腹に、彼らの主要作中で際立った「問題作」としての側面をも有している点、そして、両作品ともに「人は他者と心を通じ合えるか」という命題がテクスト形態で明示されている点、以上4点を挙げたいと思います。

順番にいきますが、まず両者の主要作中の中でも畢生の名作として一般に認知されている点については、特に異論の余地はないかと思います(ただし真に文学的ないし音楽的に名作かどうかに関しては後述のように議論の余地がある)。「こころ」に関しては高校の授業における課題図書として概ね必読となっているという状況、「第9」に関しては日本のコンサートホールにおける年末の風物詩となっているという状況が、それぞれ裏付けとなり得るでしょう。

つぎに両作品とも作者の当初の構想から外れた形での完成となっている点ですが、「こころ」に関しては当初の漱石の構想においては複数の短編を執筆した上で、それらを「こころ」というタイトルの小説に一本化する予定だったところ、その第一話であるはずだった短編「先生の遺書」が当初の予期を超えた長編となってしまったため、この一編だけを三部構成に直し、あらためて「こころ」として出版することにした、という経緯があります。

「第9」ですが、ベートーヴェンは当初、終楽章に声楽を含まない器楽のみの編成を予定し、声楽を用いた楽章は交響曲第10番として構想していた「ドイツ交響曲」に組み込もうというアイディアを考えていたことが知られています。しかし諸般の事情により、これら2つの構想が統合され最終的に現在の交響曲第9番としての形に落ち着いたという経緯があります。

このように、「こころ」と「第9」は漱石ならびにベートーヴェンの当初の作品構想から大きく修正をかけられた形で最終形に行き着いたという特異な経緯を持ち、その観点で彼らの主要作中でも異彩を放つものとなっている。このことから、今日の両作品に対する一般的な「名作」的評価とは裏腹に、彼らの主要作中で際立った「問題作」としての側面をも有しているという状況、これが第3の共通点です。

まず「第9」ですが、この交響曲の作曲当時の評価は必ずしも芳しいものではなく、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられたものの、何といっても交響曲としては構造的に観て破綻すれすれである終楽章の存在が大きなネックとなり駄作という烙印を押されてしまうケースも多く、このためベートーヴェン自身でさえ終楽章を器楽のみの編成に改訂する計画を立てていたことも知られています。

「こころ」も同様に、上記のように漱石自身の当初のプラニングから大きく逸脱したこともあり、小説としての構成に多くの難があるという問題点が多くの識者により看破されており、かつて谷崎潤一郎なども指摘している通り、純粋に文学作品として観た場合、「こころ」は少なくとも漱石の主要作の中では駄作ないし凡庸な作品の部類に入るのではないかという見解も、かなりの説得力を帯びた意見として提起されているという状況にあります。つまり「第9」「こころ」ともに、一般の名作的評価からすると意外と思えるほどに、交響曲ないし小説としての構成に関して「問題作」としての側面をも少なからず持っているという構図が成立しています。

そして最後の、両作品ともに「人は他者と心を通じ合えるか」という命題がテクスト形態で明示されている点です。この点は私自身、上記3つの共通点以上に興味深い事実であると思っているので、少し念入りに書いてみたいと思います。

まず、「第9」の終楽章でベートーヴェンが用いた、フリードリヒ・フォン・シラーの詩作「An die Freude(歓喜に寄せて)」における一部分を以下に抜粋します。

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

シラーは周知のようにゲーテと並びドイツ古典主義の代表とされる詩人・思想家であり、18世紀後半のヨーロッパ社会に対し「自由・平等・博愛」といった人間精神の理念・あり方を提唱したことで知られ、前述の「歓喜に寄せて」においても友愛精神の歓びが高らかに謳われた内容となっています。

ここで、この記事の冒頭で引用した漱石「こころ」の中に書かれている文章の「私は死ぬ前にたった一人で好いから~」の部分を抽出し、以下のように上記シラーの歌詞と突き合わせてみます。

・漱石「こころ」:
「私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。」

・ベートーヴェン「第9」:
「地上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ」

この部分、双方ともに「人は他者と心を通じ合えるか」という命題が根底にあることは明らかですが、特に注目させられるのが、漱石の小説中にある「たった一人で好いから」というテクストと、シラーの歌詞にある「ただ一人だけでも」というテクストとが、ちょうど符合している点です。私には、この2つのテクストの偶発的とも思える重なり合いが非常に興味深く思えます。

むろん、この事実を表面的に捉えるならば、たまたまテクストが重なったという、それだけの話にも思えます。しかし、少しだけ深く「こころ」と「第9」の両作品に横たわる思想を俯瞰するなら、そういう表面的な符合だけに留まらない、両作品の潜在的な共通項が浮かびあがってくるのではないか、という風にも考えられなくもありません。

つまり、こういうことです。「こころ」という小説の水面下には、近代的自我より生ずる人間のエゴイズムを探求するという大きなテーマが横たわっている。というのも、「先生」は「社会の中で生きている」が、同時に「社会から独立した存在である」、という背反性を抱きながら、どのように社会の中で生きていけば良いのか、という疑問から発生する苦悩を抱き続けて生きているからであり、そのような、いわば近代的な思想ないし哲学上の問題を描いた小説が「こころ」にほかならないからです。

しかし、そもそも漱石を含む明治期の多くの文学者が題材とした「近代的自我の思想」とは何なのか、という問題に目を転じると、これはもともと封建社会が倒壊し近代の到来したヨーロッパにおいて、それまでの封建主義的な価値観と決別し、自由に自分の意思を表明し、自己の行動を決定することが可能になった個人が自覚した、自由で平等な個人の思想が、時代を遅れて日本に流入したもの、と捉えられている。そして、その思想の近代ヨーロッパにおける大きな源泉として、シラーの提唱した自由思想が横たわっているという事実がある。そもそも「近代的自我」の最初の発見者は、周知のとおりデカルトですが、そのデカルト哲学の最大の継承者がカントであり、そのカント哲学に傾倒し自己の思想に積極的に組み込んだ思想家がシラーその人でした。

そうであるなら、漱石の「こころ」とシラーの「歓喜に寄せて」とは時空を超えた理念の繋がりを示していると、言うことができるのではないでしょうか。そもそも説中に描かれる「先生」の自殺というのは、つまりは自己のエゴイズムに対する断罪であって、その動機は「自由・平等・博愛」といった近代の個人主義道徳に対するストイックな追求姿勢からくるものでしょう。それはシラーの提唱した理念と重なり合う面積が大きく、その限りにおいて漱石とシラーは同じ理念を地域・時代を違えて、異なる方法論で追求した作家である、とみなすこともできそうですし、そう考えると、上で書いたような偶発的ともいうべきテクストの重なり合いも、単なる偶然を超えた意義を帯びたものとして示されたもののように思えなくもありません。

以上、これまでベートーヴェンと夏目漱石とのアナロジーという切り口から、両者の主要作の逐一において相互に驚くほどの豊富な対応を孕んだ関係を保持しているという、私見に基づくトピックスを掲載してきましたが、それは今回の「こころ」をもって終了です。それぞれのジャンルにおいて後世に対し巨大な足跡を刻んだ異才が、洋の東西および100年の時代を超えて、類似する創作上の流れを辿ったという興味深い実例にならないだろうかと、少なくとも私は考えています。

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