夏目漱石の小説「行人」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「行人」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-21

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。
「しかし宗教にはどうも這入(はい)れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気(しょうき)なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」
 兄さんは立って縁側へ出ました。そこから見える海を手摺(てすり)に倚(よ)ってしばらく眺めていました。それから室の前を二三度行ったり来たりした後、また元の所へ帰って来ました。
「椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切るくらいだから」
・・・
 私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考えていない人の顔が一番気高いと云った兄さんの心を理解する事ができました。兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えた御蔭です。しかし考えた御蔭でこの境界(きょうがい)には這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。

「行人」は1912年から1913年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「彼岸過まで」「こころ」とともに漱石の後期3部作を構成する作品です。主人公の長野一郎の強迫神経症的な苦悩が描かれた作品ですが、その苦悩が狂気の域にまで達しているかのような描写において、漱石作品の中でも独特の凄味を帯びた作風となっています。

最初に読んだときに、これはシェイクスピアの「オセロ」に着想を得た小説ではあるまいかと感じました。オセロが一郎で、デズデモーナが一郎の妻お直、キャシオーが二郎。しかしイアーゴーに対応する人物がいない。それに別に奸計が展開されるわけでもないし、妻を殺害もしないし、自殺もしない。しかしシナリオの差違は別として、イアーゴーを一郎の持つ「強迫神経症」と規定するなら、かなり似ているようにも思えます。

いずれにしても、この「行人」は人生の深い悲劇性を描いた、漱石の円熟期の作品にして、ほとんど哲学の域にまで昇華されたかのような、人間の苦悩から生ずる精神の壮絶なまでの葛藤がリアルに描き切られていますが、それでもやはり人間の理性というものの勝利への確信のようなものが、ここには厳然として存在することが読んでいて窺えるように思えます。

この意味において、以下の作品評に対し私は強いシンパシーを覚えました。

もし、漱石が、アイロニーに満ちた自己認識を繰り返す登場人物のごとく、小説を書いていたとすれば、頭ばかりか胃も痛くなるような風通しの悪い作品を私達は読まされる羽目になっただろう。しかし、漱石は、狂気の領域に踏み込んだ登場人物の内面を書いても、どこか精神分析的な要素も内包させている。・・「行人」などの作品では奇妙な内面の風景が描写されているが、これが写生文の描写のスタイルである。主人公が狂気に至っても、なお語り手は余裕ある視点を保持しているのが、漱石作品の特徴である。
        「漱石を書く」島田雅彦・著 岩波新書

この「行人」という小説を、もしベートーヴェンの交響曲に喩えるなら何が妥当でしょうか? 交響曲第8番ではないでしょうか。なぜなら、ベートーヴェンの交響曲9作中で最も強迫神経症的な度の強い作風を持つのが、実は交響曲第8番にほかならないからです。

・・という風に書いて「なるほど、その通りだ!」と納得される向きが、どれほどいらっしゃるか、さすがに心許ない気がします。そもそもベートーヴェンの交響曲第8番の作風をして強迫神経症に結びつけるのは、あまり一般的でないので、ちょっと飛躍し過ぎでないかと思われるかもしれません。ので、そのあたりを少し詳しく書きます。

ここで強迫神経症的だと言うのは、おもにソナタ形式の構造的な観点に着目した話になります。ふつう交響曲の第1楽章というのはソナタ形式で書かれており、その2つのテーマについては、第1主題は「主調」、第2主題は平行調または属調、要するに(主調に対する)「近親調」という一般的な約束事があります。

例えばベートーヴェンの交響曲第1番で言いますと、主調はハ長調なので第1楽章の第1主題はハ長調、第2主題はというとト長調ですが、これはハ音の5度上なので「属調」にあたり、主調に対する「近親調」です。

あるいはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」で言いますと、主調はハ短調なので第1楽章の第1主題はハ短調、これに対し第2主題は変ホ長調ですが、これは楽譜の上で調号が同じ(構成音が同じで主音が違う)「平行調」にあたり、これもやはり主調に対する「近親調」です。

この点から交響曲第8番の第1楽章を見るに 主調はヘ長調なので第1主題はヘ長調、これに対し第2主題はニ長調となっていて、これは主調であるヘ長調の短3度下なので、平行調または属調とは言えず、第2主題が主調に対する「近親調」という約束事から逸脱した書かれ方となっていることが分かります。

これはつまり調性が推移する上での生理に反しているわけであり、突拍子がなく、いわば聴いていて何事か?という異様な感じになる。これが理由のひとつです。

第2の理由は、この第1楽章の展開部における、何か発作的とも思える調性の動かされ方です。例えばベートーヴェン交響曲第8番の音楽之友社ポケットスコアの作品解説を読みますと、この展開部が如何に異色であるかが、以下のように記されています。

・・主題回想の和声的構成は、ヴィオラのハ音の上に、その属七の和音に基礎を持つ断片が動くという不協和音を作り出している。この不協和音は現在では珍しくないが、ベートーヴェン時代としては大胆なものであった。すぐ最強音で提示部結尾の分散和音(ハの和音)が再現する。謎のようにふらふらするうちに、3回、主題回想が転調しつつ持ちこまれる。ついで激情の門ははねとばされる。あらあらしく鞭打つ弦と管の短いフガート風が短調で始められ、力強い発展をもたらす力へと転ぜられる。チェロとベースとのハ音の力強い跳躍から迫力をまし、fffの主要主題で再現部に入る。・・・

さらに第3の理由を加えるならば、ベートーヴェンの交響曲9作中で「fff」の音量指示が「勇気をもって」書き込まれたのが、この交響曲第8番「だけ」であるという事実(他の8曲はffが最大)が挙げられます。これも既存の約束事を大きく打ち破る大胆な書かれ方です。

そもそも強迫神経症における強迫症状とは、本人の意志と無関係に頭に浮かぶ、不快感や不安感を生じさせる観念を指すと言われますが、この自己のコントロールの及ばない感情の突発的な発生という点で、こうくるだろうという自己または他者の事前の予測が通用しない。ベートーヴェンの交響曲第8番は、敢えて当時のシンフォニーの生理に反する書かれ方が採用されたため、それが革命的であると同時に、その調性の動きにおいて、どこか生理的な違和感ともいうべき据わりの悪さも認められるものですが、こういった特徴が何かしら強迫神経症的な機微と相通ずるように思える、という意味で、漱石の「行人」とベートーヴェンの交響曲第8番とは互いに相通ずる性格を有しているように私には思われます。

以上、次回は「こころ」について書きます。

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