夏目漱石の小説「彼岸過まで」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「彼岸過まで」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-20

 須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは傍(はた)から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価(あたい)しないくらいに見限(みかぎ)っていた。その上彼は理窟(りくつ)が大嫌いであった。右か左へ自分の身体(からだ)を動かし得ないただの理窟は、いくら旨(うま)くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう辻占(つじうら)に似た文句を、黙って聞いているはずはなかったのだが、しっとりと潤(うるお)った身の上話の続きとして、感想がそこへ流れ込んで来たものだから、敬太郎もよく解らないながら素直に耳を傾むけなければすまなかったのである。
 須永もそこに気がついた。
「話が理窟張(りくつば)ってむずかしくなって来たね。あんまり一人で調子に乗って饒舌(しゃべ)っているものだから」
「いや構わん。大変面白い」
「洋杖(ステッキ)の効果(ききめ)がありゃしないか」
「どうも不思議にあるようだ。ついでにもう少し先まで話す事にしようじゃないか」
「もう無いよ」
 須永はそう云い切って、静かな水の上に眼を移した。敬太郎もしばらく黙っていた。不思議にも今聞かされた須永の詩だか哲学だか分らないものが、形の判然(はっきり)しない雲の峰のように、頭の中に聳(そび)えて容易に消えそうにしなかった。

「彼岸過まで」は1912年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「行人」「こころ」とともに漱石の後期3部作を構成する作品です。主人公の田川敬太郎と友人の須永市蔵を中心的なキャラクターとして話が進められますが、小説全体が副題を持つ幾つかの章に分割されている点も本作品の特徴です。

本作は小説の本筋に入る前に、著者・漱石の前口上である「彼岸過迄に就いて」が書かれています。「修善寺の大患」で文字通り生死の境を彷徨い、奇跡的に一命を取り留めた漱石の復帰後の最初の作であるだけに、「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。」と本作への意欲が語られています。また、「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空(むな)しい標題(みだし)である。」として、そのタイトルと小説のストーリーとが何ら関係がない事実も示されています。

本作は一般的には「漱石の晩年様式への過渡期的な作品」と評されることが多いようです。例えば島田雅彦・著「漱石を書く」(岩波新書)では以下のように評されています。

「彼岸過迄」は後期の作品群への橋渡し的作品ともみなされる。この再出発は結果的に大成功だったといってもいいだろう。なぜなら、「彼岸過迄」において、写生文は近代小説の手法と混じり合い、空前絶後のエクリチュールを生み、のちの「明暗」につながるようなポリフォニックな展開を予感させるまでに洗練されたからだ。「明暗」のような作品は少なくとも「彼岸過迄」の試みを経由しなければ、書かれようがなかった。

まさに本作の本質が簡潔にして的確に指摘された名評ではないかと思いますが、ただ私のような素人的な観点から本作を読んだ場合に最も驚かされる点は、この小説の破格ともいうべき娯楽性ではないかと思われます。

つまり、専門家の方々が本作に関して最も評価されているのが「須永の話」「松本の話」を中核とする後半部であるのに対し、私などは、むしろ前半部の「風呂の後」「停留場」「報告」あたりで書かれる、後年のミステリー小説(この時代にミステリー小説というジャンルは日本に無かった)みたいな部分を読んで、驚嘆するわけです。あの漱石が、こんなエンターテイメントな話を書くなんて、という印象。あの「門」の後だけに、よけい本作の娯楽色が目立って感じられます。

この点、大岡昇平・著「小説家夏目漱石」では、その第4章の中の「彼岸過迄をめぐって」において、この「推理小説仕立て」に関する氏の自論が開陳されています。それはつまり、あの平凡な日常の延長のような前半があるから、後半の深刻な側面が活きてくる、という趣旨なのです。

そして氏はオカルト、すなわち「へんな感じ」が我々の合理的な解釈を超えて、作品の魅力を形作っているとし、その変に薄気味の悪い感じにおいて、合理的な漱石を超える、という意味で漱石が漱石を超える部分に一番興味がある、とされています。

実のところ私も同じような印象を感じたのでした。といっても氏ほど深く考えたわけでは全然ありませんが、あの気楽を絵にかいたような前半部の「敬太郎編」と、深刻を極めたような後半部の「須永編」との著しいコントラストが、この「彼岸過迄」の魅力ではないかと思ったもので、氏の作品評にシンパシーを覚えたのでした。

さて、この漱石の「彼岸過まで」という作品をベートーヴェンの交響曲に喩えるなら何が妥当か、という話ですが、これはズバリ言って交響曲第7番のイメージが私にはオーバーラップします。

その理由として最も大きいものが娯楽志向性(エンターテイメント性)の高さです。漱石の主要9作品のうち娯楽志向性の最も高いと思われる作品が「彼岸過まで」であることは、上で書いた通りですが、それではベートーヴェンの9つの交響曲のうち最も娯楽志向型の作品はというと、それは交響曲第7番ということになるでしょう。

この第7交響曲の初演は周知のように1813年12月8日、ウィーン大学の講堂で、それはハナウ戦争で傷ついた兵のための慈善音楽祭だったわけですが、その舞踏的なリズム感を全面に押し出したエンターテイメントな楽想が聴衆の心を強く捉え、その演奏会は大変な盛り上がりを呈したと伝えられています。このような音楽としての良い意味での俗っぽさ、景気の良さは本作品の大きな特徴として認められています。日本で最近ヒットしたというトレンディードラマで主題歌の代わりに、この交響曲第7番の第1楽章が用いられていたという話ですが、これなども多分そういった娯楽色と無縁ではないと思います。

もうひとつの共通点は作品としての構造的アナロジーです。周知のようにベートーヴェンの交響曲第7番は後年ワーグナーによって「舞踏の神化」と評されるなど、4つの楽章において、それぞれに固有のリズム・モチーフが支配する特異な楽想を一つの特徴としています。ひるがえって漱石の「彼岸過まで」においては、一つの小説作品に対し3種類の語り手を導入するという革新的な構想が導入されています。これは言わば3つの語り手が織り上げる錯綜した舞踏であり、その語り手それぞれの文章に固有のリズム感が設定されているあたり、ベートーヴェンの交響曲第7番の革新的な楽章構造に対して興味深い接近を示しているように思えます。さらに言うなら、「彼岸過まで」の中間に配置されている「雨の降る日」と、「永遠のアレグレット」として名高い交響曲第7番の第2楽章とが、その醸し出す雰囲気において極めて近しい印象を感じさせることも興味深い点です。

もうひとつ、以下のように作品の完成年という面においても両作品には興味深いアナロジーが見受けられます。

まず、この「彼岸過まで」が発表された1912年に至るまでの、夏目漱石の主要作の発表年を以下に示します。

①1905年:吾輩は猫である
②1906年:坊っちゃん
③1907年:虞美人草
④1908年:三四郎
⑤1909年:それから
⑥1910年:門
⑦1912年:彼岸過まで
⑧1912年:行人

このように、1905年に最初の小説を発表してから、几帳面に毎年1作品ずつ主要作とみなされる小説を発表し続けてきたことになりますが、このペースは⑦で破られ、「門」の後「彼岸過まで」が出されるまで1年の空白が存在しています。これは前述のように世に言う「修善寺の大患」のためです。

次に、ベートーヴェンの交響曲第7番が完成された1812年に至るまでの、ベートーヴェンの交響曲の完成年を以下に示します。

①1800年:交響曲第1番
②1802年:交響曲第2番
③1804年:交響曲第3番「英雄」
④1806年:交響曲第4番
⑤1807年:交響曲第5番「運命」
⑥1808年:交響曲第6番「田園」
⑦1812年:交響曲第7番
⑧1812年:交響曲第8番

このように、1800年に最初の交響曲を完成してから、几帳面に2年ないし1年間隔で1作品ずつ交響曲を完成し続けてきたことになりますが、このペースは⑦で破られ、「田園」の後に交響曲第7番が出されるまで4年もの空白が存在しています。これは漱石のような疾患が原因のものではなく、たまたまそうなったというに過ぎません。しかし、これまで2年と置かず交響曲を作曲してきたベートーヴェンが、⑦において初めて大きく「間」を置いたことは紛れもない事実です。そして、この「間」が、あの交響曲第7番での心機一転とでもいうように溌剌とした楽想に対して影響を与えなかったと考えるのは難しく、まさに「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある」と述べた、「彼岸過まで」での漱石の気概に一脈つうずるものがあるように私には思えるのです。

以上、次回は「行人」について書きます。

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