夏目漱石の小説「吾輩は猫である」


以前から予告していました通り、「夏目漱石の小説シリーズ」を開始します。

今回は「吾輩は猫である」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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 吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の膝の上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣をそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭を撫で廻しながら、突然この猫の皮を剥いでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない了見をむらむらと起したのを即座に気取って覚えずひやっとした事さえある。怖い事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合で幸にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩の大いに栄誉とするところである・・。

「吾輩は猫である」は1905年から翌年にかけて執筆された夏目漱石の処女作です。主人公の猫である「吾輩」の目から見た、5人の「太平の逸民」(英語教師、美学者、理学者、詩人、哲学者)の生活ぶりが、漱石一流のユーモアを極める独特の文体から鮮烈に活写されていて、まさに抱腹絶倒ともいうべき面白さの「笑いの小説」に仕立てられています。

もっとも単純に「笑いの小説」というのみではなく、風刺小説としての側面や思想小説としての側面なども十二分に加味されているため、単純に笑って終わりで済むような小説でもなく、深く読もうと思えば幾らでも読める、途方もない奥行きを備えた小説と言うこともできますし、特に「猫の思考」という奇想天外な設定に注目するなら、当時としては類例に乏しい、SF小説的な位置づけで捉えることも可能です。

実際、本作の「猫」は「人間の心の中を知ることができる」という特殊能力をもっており、その理由が上の引用部に書かれていますが、要するに「電気を利用した読心術」というわけで、この奇想天外な発想には読んでいて見事にしてやられたという感じがしました。この時代には一般家庭に電気は普及しておらず、ガス灯の時代だったことを考えると、今で言う「ハイテク」の発想を取り入れたと言うべきでしょうか。

そして、序盤から中盤までの底抜けなくらいに明るく楽天的な諧調が、物語が進むにつれてジワリと曇り掛かっていって、最後にはズッシリとした文明批評で終わるあたりの流れなども、極めて印象深いものです。最終章ではかなり深刻な文明批判が展開され、読みようによっては21世紀の現状を予言していると言えなくもないと思えます。このまま文明が進んで行けば果てに自殺者が飛躍的に増えるであろうとか、別居する夫婦の数も飛躍的に増えるであろうとか、少なくとも近年の日本の状況に照らせば、ちょっと「笑えない話」が開陳されています。

それにしても、この小説の全編に散りばめられているユーモアの、あの破壊的なまでの面白さは、一体どこから来るものなのかと考えるに、それは、ひっきょう「笑いの質」というものなのではないかと思い至ります。笑いと言っても、薄っぺらい笑いから奥の深い笑いまで、それこそ千差万別ですが、例えば最近のテレビのバラエティ番組を席捲しているかのような「お笑い」と決定的に違うところは、おそらく漱石の持つ、圧倒的なまでの教養なり、深々とした思考力なり、そういうものを全てひっくるめた人間性の豊かさなりが、この作品の水面下にデンと構えているため、そこからの反動から、個々の笑いの破壊力とでもいうべきものが凄いことになっているのではないかと私には思えます。

作品論として読み応えがあるのは、まず大岡昇平氏の「小説家夏目漱石」。「吾輩は猫である」と「倫敦塔」と「カーライル博物館」、この「3点セット」が漱石の未来の作品すべてを告げている、と書かれています。これら3作を互いに絡めて論じているところが面白く、一見して何の関係もないような3作が、実は大いに相互に関連しているということ、特に死の影がさしているのは注意すべきだという指摘などが私には興味深く読まれました。

もうひとつ挙げたいのは張建明著「漱石のユーモア 明治の構造」(講談社選書メチエ)。漱石のユーモアの本質について正面から論じた著作で、日本近代文学史上、「猫」が如何に異色な作品か、突然変異的な作品であるかが良く分かります。ここでは「人の深刻な獣性に直面して震えおののくような、明るい笑いがあるわけがない自然主義文学」の全盛期に、何故あのような小説が生まれたのか、が論じられています。

そして本題?の、「ベートーヴェンの交響曲との対応」ですが前に書きましたように漱石の「吾輩は猫である」が、ベートーヴェンの交響曲第1番に対応するという感覚を私は有しています。どちらも記念碑的なジャンル処女作にして、主要作中で最もユーモア性が高い作品であることが、その理由です。

夏目漱石の他の作品で、私の知る限りにおいて「吾輩は猫である」と同じくらいユーモア性の高い作品を挙げるとすると、その発表から約1年後の作である「趣味の遺伝」という短編小説が思い当たります。これは「吾輩は猫である」の猫を人間に置き換えたような作風に、幾分オカルトチックなテイストを加味したような趣きのある作品です。

ベートーヴェン交響曲第1番が、彼の全交響曲中で最もユーモラスな作風を備えている点は、おそらく論を待たないでしょう。何しろ第1楽章の、以下の有名なハ長調の第1主題からして、いかにもユーモラスです。

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少し妄言めいたことを言うなら、この第1主題部の弦の動き、どこか猫がノソノソ歩いているような趣きがあるようにも思えます。

続く以下の第2主題も、やっぱりユーモラスです。

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この第2主題部の木管同士の掛け合いも、どこか猫がニャーニャー鳴いているような趣きがあるようにも思えます。

ところで、漱石の「猫」には「ベートーヴェンのシンフォニー」が出てくるところがあります。それは第10章の最初の方ですが、この「シンフォニー」というのは、具体的にベートーヴェンの交響曲第何番を指しているのでしょうか。

これはズバリ、「交響曲第1番」のことではないかと私はニラんでいます。この点につき次回で思うところを少し詳しく書きます。

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