「寺田寅彦随筆集」第4巻より「踊る線条」から「とんびと油揚」までの6編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「踊る線条」「ジャーナリズム雑感」「函館の大火について」「庭の追憶」「藤棚の陰から」「とんびと油揚」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-4

踊る線条
(昭和九年一月、東京朝日新聞)

 フィッシンガー作「踊る線条」と題するよほど変わった映画の試写をするからぜひ見に来ないかとI氏から勧められるままに多少の好奇心に促されて見に行った。プログラムを見ると、第五番「アメリカのフォクストロット」。第八番、デューカーの「魔術師の徒弟」。第九番、ブラームス「ウンガリシェ・タンツ」というふうに楽曲の名前が並べてあるだけで、いったいどんなものを見せられるか全く見当がつかない。

念のため書きますと、上記でデューカーの「魔術師の徒弟」というのはデュカスの「魔法使いの弟子」のことです。

 さて、映写が始まって音楽が始まると同時に、暗いスクリーンの上にいろいろの形をした光の斑点や線条が順次に現われて、それがいろいろ入り乱れた運動をするのであるが、全く初めての経験であるからただ一度見ただけでは到底はっきりした記憶などは残りようがない。しかし都合六編だけ通覧したあとでの印象は、実に思いのほかにおもしろいものであったということである。
 たぶんは退屈で、しいて理屈をつけて見ているうちに頭が痛くなるようなものではないかと思っていた予想に反して、ただぼんやり見ているだけでなんとなく気持ちのいい、ともかくも充分楽しめるものであるということを発見して少々驚いたのであった。残念ながら大部分は肝心の楽曲をよく知らないから困るのであるが、ただ一つモツァルトの「ニ長調メヌエット」だけは曲の構造をよく知っている上に、光像の踊りも簡単であるから、比較的らくに光像の進行を追跡することができたようである。第一のテーマは楽譜の形からも暗示されるように、彗星のような光斑がかわるがわるコンマのような軌跡を描いては消える。トリラーの箇所は数条の波線が平行して流れる。

以下、クラシックの名曲をスクリーン上の線条の運動に見立てて表現した当時の実験映画「踊る線条」を観た印象が、新鮮な感懐とともに綴られていきます。

 舞踊というものをその幾何学的運動学的要素に一度解きほごして、それから再び踊りというものを構成するとすればその第一歩はおそらくこの映画のようなものになりそうである。そういう意味でわが国の舞踊家ならびに舞踊研究家にとってもこの映画は必ず一見の価値があるであろうと思われる。一方ではまた純粋音楽というものの「空間化」の一つの試みとして音楽家ならびに音楽研究家にとっても多少の興味がありそうである。これは決して音楽を冒涜するものではなくて、音楽の領域に新しきディメンジョンを付加することの可能性を暗示するものではないかと思われる。これが、別に頼まれもせぬ自分がこの変わった映画の提燈(ちょうちん)をもって下手な踊りを踊るゆえんである。

ジャーナリズム雑感
(昭和九年四月、中央公論)
 
 ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出て来る。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする。その殺人現場における事件の推移はもちろん、その動機から犯行までの道行きをたとえ簡単にでも正確につきとめるためには、実は多数の警察官や司法官の長日月の精査を要し、しかもそれでもなかなか容易にはすみからすみまで明白にしにくいのが通例である。それを僅々(きんきん)数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末を記述し関係人物の心理にまでも立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。
 この不可能事を化して可能にする魔術師の杖は何かと調べてみると、それは、言わば、具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化とでも名づけるべき方法であると思われる。・・・

主にジャーナリズムの弊害について寅彦が思うところを自由に書いたという趣きのエッセイ。寅彦の新聞嫌い、ジャーナリズム嫌悪の性癖は割り引いて読むとしても、空論には程遠く、現代の我々が読んでも傾聴に値する内容だと感じます。

 このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撤き広げ、あたかも世界じゅうがその類型で満ち満ちているかのごとき錯覚を起こさせ、そうすることによって、さらにその類型の伝播をますます助長するのである。ジャーナリズムが恐るべき性能を充分に発揮するのはこの点であろうと思われる。たとえば大新聞がいっせいにある涜職事件(とくしょくじけん)を書き立てると全国の新聞がこれに呼応してたちまちにして日本全国がその涜職事件でいっぱいになったような感じをいだかせる。冷静なる司直の手もまたいくぶんこれに刺激されてその活動を促進されることがないとも限らない。またたとえば忠犬美談で甲新聞が人気を呼ぶと、あとからあとからいろいろな忠犬物語がほうぼうから出て来て、日本じゅうが犬だらけになり昭和八犬伝ぐらいはまたたくひまに完成するのである。一犬は虚をほえなくても残る万犬の中にはうそ八百をほえるようなのもたくさんに交じるのであるが、それがみんな実として伝えられるのである。ジャーナリズムの指はミダスの指のように触れる限りのものを金に化することもあり、反対に金もダイアモンドもことごとく石塊とすることもある。キルケのごとくすべての人間を動物に化することもあるが、また反対にとんでもない食わせものの与太者を大人物に変化させることもできるのは天下周知の事実であって事新しく述べ立てるまでもないことであろう。そうしてだれしもそれを承知していながら知らず知らずこのジャーナリズムの魔術にかかってしまうのは実に恐るべきことと言わなければならない。

函館の大火について
(昭和九年五月、中央公論)

昭和9年3月21日の夕から翌朝へかけて函館市に発生した大火が、二万数千戸を焼き払い二千人に近い死者を出したという大惨事を受けてのエッセイ。「これが昭和九年の大日本の都市に起こったということが実にいっそう珍しいこと」と述べています。

そして、火災発生当時の気象条件を細かく検討した上で、不幸にも偶然に偶然が重なった結果かくも歴史的な大火災が生じたに違いない、と分析しているのです。あたり、さすがにひとかどの学者の手によるエッセイだと読んでいて唸らされます。
 火事は地震や雷のような自然現象でもなく「おやじ」やむすこのような自由意志を備えた存在でもなく、主としてセリュローズと称する物質が空気中で燃焼する物理学的化学的現象であって、そうして九九プロセントまでは人間自身の不注意から起こるものであるというのは周知の事実である。しかし、それだから火事は不可抗力でもなんでもないという説は必ずしも穏当ではない。なぜと言えば人間が「過失の動物」であるということは、統計的に見ても動かし難い天然自然の事実であるからである。しかしまた一方でこの過失は、適当なる統制方法によってある程度まで軽減し得られるというのもまた疑いのない事実である。

寅彦の防災意識の強さは彼の他のエッセイにも度々見られますが、本エッセイは大惨事の直後だけに、舌鋒の鋭さがひときわ目立ちます。

 いずれにしても今回のような大火は文化をもって誇る国家の恥辱であろうと思われる。昔の江戸でも火事の多いのが自慢の「花」ではなくて消防機関の活動が「花」であったのである。とにかくこのたびの災害を再びしないようにするためには単に北海道民のみならず日本全国民の覚醒を要するであろう。政府でも火災の軽減を講究する学術的機関を設ける必要のあることは前述のとおりであるが、民衆一般にももう少し火災に関する科学的知識を普及させるのが急務であろうと思われる。少なくもさし当たり小学校中等学校の教程中に適当なる形において火災学初歩のようなものを插入したいものである。

今でこそ小中学校で当り前のように行われている火災発生を想定した避難訓練なども、ほとんど行われていなかった時代に書かれているだけに、ズシリと重みのある提言となっています。

庭の追憶
(昭和九年六月、心境)

土佐にある寅彦の実家を貸しているT氏から、その屋敷の庭の紅葉を写生した油絵が、このたびの上野の美術展に出品されているという書信を受けて、その絵を寅彦が観に行った際のエピソードが綴られています。

 さっそく出かけて行って見たら、たいして捜すまでもなくすぐに第二室でその絵に出くわした。これだとわかった時にはちょっと不思議な気がした。それはたとえば何十年も会わなかった少年時代の友だちにでも引き合わされるようなものであった。「秋庭」という題で相当な大幅である。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るもまぶしいくらいなので、一見しただけではすぐにこれが自分の昔なじみの庭だということがのみ込めなかった。しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。

そして、持ち前の写実的な筆致から、自身の屋敷の庭を写生した油絵を観た寅彦の脳裏に去来する思い、ある種のノスタルジックな感懐が、その少年期における幸福な記憶とともに、鮮明に描き出されていきます。

さらに以下のように、寅彦の最晩年の、孤独に囚われた心境が生々しく綴られていて、読む者に少なからぬ感銘をもたらしているのです。

 このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇(うちわ)で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩の飛び石であった。・・・飛び石のそばに突兀(とっこつ)としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。

そして、最後に以下のような文章で、このエッセイは締め括られます。とくに「死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない」と書かれた寅彦の重い言葉は、ひとつの真理を照射して止まないとともに、深々とした余韻を読み手に投げかけているように思えます。

 国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請(いとまご)いをした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像(ナハビルト)のようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
 こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下のほうへおりて行くのであった。

藤棚の陰から
(昭和九年九月、中央公論)

19編の短いエッセイをまとめたもの。

 電車に乗って空席を捜す。二人の間にやっと自分の腰かけられるだけの空間を見つけて腰をおろす。そういう場合隣席の人が少しばかり身動きをしてくれると、自然に相互のからだがなじみ合い折り合って楽になる。しかし人によると妙にしゃちこばって土偶か木像のように硬直して動かないのがある。
 こういう人はたぶん出世のできない人であろうと思う。
 もっとも、こういう人が世の中に一人もなくなってしまったら、世の中にけんかというものもなくなり、国と国との間に戦争というものもなくなってしまうかもしれない。そうなるとこの世の中があまりにさびしいつまらないものになってしまうかもそれはわからない。
 こういう人も使い道によっては世の中の役に立つ。たとえば石垣のような役目に適する。もっとも石垣というものは存外くずれやすいものだということは承知しておく必要がある。


かなり痛烈なことが書かれていますが、おそらく道徳の重要性を言いたかったのでしょう。特に年々モラルの廃れつつある感のある最近の日本の状況においては、あながち笑って読み過ごすわけにもいかない気がします。

とんびと油揚
(昭和九年九月、工業大学蔵前新聞)

「とんびに油揚(あぶらげ)をさらわれるということが実際にあるかどうか確証を知らないが、しかしこの鳥が高空から地上のねずみの死骸などを発見してまっしぐらに飛びおりるというのは事実らしい」と書き出し、「高空から地上のねずみの死骸を判別するには、視覚的には不可能ではないか」という問題提起を行い、「とんびが実は視覚ではなく嗅覚を利用して高空から地上の物体を判別して飛び降りてくるのではないか」という仮説を立て、それを検証するという内容。

寅彦の学者としての斬新な着眼点と思考力の鋭さが端的に発揮された内容ゆえ、彼のエッセイ中でも比較的有名なものの一つです。ただし残念ながら、ここでの寅彦の仮説は、現在では否定されているというべきでしょう。というのも、とんびの視力というのは異常なまでに発達していて、嗅覚など他の助けによらず、視力だけで高空から地上の様子が手に取るようにわかる、ということが今では解明されているからです。

ただ、それは現在だから分かっていることに過ぎず、そのあたりのメカニズムが当時は解明されていなかった以上、一概に「ハズレ」として責めることはできませんし、むしろ、その発想の柔軟性にこそ注目し、讃えられて然るべきものと思えます。

以上、これで「寺田寅彦随筆集」第4巻に収録の全エッセイを一通り取り上げました。次回からは最後の第5巻に収録のエッセイに移ります。

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