「寺田寅彦随筆集」第3巻より「映画芸術」から「ロプ・ノールその他」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「映画芸術」「からすうりの花と蛾」「音楽的映画としての『ラヴ・ミ・トゥナイト』」「俳諧の本質的概論」「ロプ・ノールその他」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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映画芸術
(昭和七年八月、日本文学)

かなり本格的な映画論。本職の映画評論家も顔負けという感じです。

ここで注目したいのは、「立体的な映画ができあがったとしたら、それは映画芸術にいかなる反応を生ずるであろうか」として、今で言う「3D映画」に関する考察を、昭和7年という時代に行っている点です。

 現在の平面映画は、前にも一度述べたように立体的な舞台演技を見るよりもかえっていっそう立体的であるという逆説的なことが言われうる。すなわちカメラの任意な移動によって観客は空間内を自由に移動し、従って観客自身画面の中へ入り込むと同等な効果を生ずるからである。
 このようにカメラの焦点とその位置および視角の移動によって現在の映画は、事実上、少なくも心理的には立体的実体的な空間を征服しているのである。それでこの上に多大の苦心をしていわゆる立体映画がようやく成功したとしても、その効能はおそらくそう顕著なものではあるまいという気がする。
 現在の発明家のねらっている立体映画はいずれもステレオスコピックな効果によるものであるが、誇張されたステレオ効果はかえって非常に非現実的な感じを与えるということは、おもちゃの双眼実体鏡で風景写真をのぞいたり、測遠器(テレメーター)で実景を見たりする場合の体験によって知られることである。それでいわゆる立体映画ができると、われわれの二つの目の間隔が急に突拍子もなくひろがったと同様な不自然な異常な効果を生ずることになり、従って映像の真実性が著しく歪曲することになるのではないかと想像される。
 ともかくも、現在の映画のスクリーンが物理的に平面だから映画には心理的にも「深さ」がないという考えは根本的の誤謬であって、この誤りを認証した上では立体映画なるもののもたらしうべき可能性の幅員はおのずから見積もり得られるであろうと思う。

寅彦が昭和5年に書いた「映画時代」の中で、立体映画(3D映画)の到来を予言したことは以前に書きましたが、それに関して更に随想を進めたのが上記の部分であり、「立体映画がようやく成功したとしても、その効能はおそらくそう顕著なものではあるまい」というのも、私の実感として当を得ているような気がするのですが、どうでしょうか。

からすうりの花と蛾
(昭和七年十月、中央公論)

寅彦お得意の生物観察系エッセイのひとつ。主に植物や動物の生態系の神秘が話題とされていますが、このエッセイで特に興味深いのは以下の部分です。

 何か月か何年か、ないしは何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮れにからすうりの花に集まる蛾(が)のように一時に飛んで来る日があるかもしれない。しかしこの大きな蛾をはたき落とすにはうちの猫では間に合わない。高射砲など常識で考えても到底頼みになりそうもない品物である。何か空中へ莫大な蜘蛛の網のようなものを張ってこの蛾を食い止めるくふうは無いものかと考えてみる。あるいは花火のようなものに真綿の網のようなものを丸めて打ち上げ、それが空中でぱっとからすうりの花のように開いてふわりと敵機を包みながらプロペラにしっかりとからみつくというようなくふうはできないかとも考えてみる。蜘蛛のあんなに細い弱い糸の網で大きな蝉が捕られることから考えると、蚊帳(かや)一張りほどもない網で一台の飛行機が捕えられそうにも思われるが、実際はどうだか、ちょっと試験してみたいような気がするのである。
 子供の時分にとんぼを捕るのに、細い糸の両端に豌豆(えんどう)大の小石を結び、それをひょいと空中へ投げ上げると、とんぼはその小石をたぶん餌だと思って追っかけて来る。すると糸がうまいぐあいに虫のからだに巻きついて、そうして石の重みで落下して来る。あれも参考になりそうである。つまりピアノ線の両端に錘(おもり)をつけたようなものをやたらと空中へ打ち上げれば襲撃飛行機隊は多少の迷惑を感じそうな気がする。少なくも爆弾よりも安価でしかもかえって有効かもしれない。

ここの冒頭で寅彦の書いた、「敵国の飛行機が夏の夕暮れにからすうりの花に集まる蛾(が)のように一時に飛んで来る日」というくだりが、不幸なことに的中することは周知のとおりです。彼は後年の太平洋戦争における東京大空襲のような状況が起こり得るものとして、ある程度まで予想していたのでしょう。その先見の明には驚くほかありません。

そして最後は「ソロモンの栄華も一輪の百合(ゆり)の花に及ばない」として、文明に驕る人間も自然に多くを学ぶべきだという、寅彦らし重い提言で締めくくられます。

音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」
(昭和七年十一月、キネマ旬報)

昭和7年10月に日本の帝国劇場で封切られた音楽的映画「ラヴ・ミ・トゥナイト」を観ての印象記。短いエッセイですが、寅彦一流の写実を極めた表現が素晴らしく、読んでいると自分が映画を観たかのような気分にさせられます。

俳諧の本質的概論
(昭和七年十一月、俳句講座)

 俳諧はわが国の文化の諸相を貫ぬく風雅の精神の発現の一相である。風雅という文字の文献的起原は何であろうとも、日本古来のいわゆる風雅の精神の根本的要素は、心の拘束されない自由な状態であると思われる。思無邪(おもいよこしまなし)であり、浩然(こうぜん)の気であり、涅槃(ねはん)であり天国である。忙中に閑ある余裕の態度であり、死生の境に立って認識をあやまらない心持ちである。「風雅の誠をせめよ」というは、私(わたくし)を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞いて、いわゆる格物致知の認識の大道から自然に誠意正心の門に入ることをすすめたものとも見られるのである。この点で風雅の精神は一面においてはまた自然科学の精神にも通うところがあると言わなければならない。かくのごとく格を定め理を知る境界からさらに進んで格を忘れ理を忘るる域に達するを風雅の極致としたものである。この理想はまた一方においてわが国古来のあらゆる芸道はもちろん、ひいてはいろいろの武術の極意とも連関していると見なければならない。また一方においては西欧のユーモアと称するものにまでも一脈の相通ずるものをもっているのである。「絞首台上のユーモア」にはどこかに俳諧のにおいがないと言われない。

これはエッセイというより本格的な俳句論というべきでしょう。「日本人でゲーテやシェークスピアの研究もおもしろいが、しかし、ドイツ人がゲーテを研究したように、芭蕉その他の哲人を研究しなければ、日本人はやはりドイツ人と肩を並べる資格をもたないであろう」とまで述べており、俳句が日本にとって、いかに世界に誇り得る文芸であるかという並々ならない意気込みが全編を貫いていて、読んでいて圧倒させられます。

それにしても寺田寅彦の文化芸術方面に対する多彩な趣味、その守備範囲の広さにはつくづく驚嘆させられます。この巻だけとっても俳句、音楽、映画、人形浄瑠璃、カメラ、ラジオ、と多岐にわたり、これに文学と科学を加えると、まさに途方もない広がりです。

ロプ・ノールその他
(昭和七年十二月、唯物論研究)

東トルキスタンの流砂にある湖水ロプ・ノールの位置が年ごとに変化するという話。地球物理学者として人智を超えた世界の不思議に思いを馳せたエッセイです。

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