「寺田寅彦随筆集」第3巻より「映画の世界像」「『手首』の問題」「映画雑感Ⅰ」「生ける人形」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「映画の世界像」「『手首』の問題」「映画雑感Ⅰ」「生ける人形」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

映画の世界像
(昭和七年二月、思想)

映画のスクリーン上で展開される「映像の特異性」についてのエッセイです。

とくに映画の世界では「時間の尺度」が自由に変更されうる点が特異的であるとし、以下のように述べられます。

 いっそうおもしろいのは時間の逆行による世界像の反転である。いわゆるカットバックの技巧で過去のシーンを現在に引きもどすことが随意にできるのもおもしろくないことはないが、これは言わば「フィルムの記憶」の利用であって、人間の脳の記憶の代用に過ぎない。しかし真に不思議なのはフィルムの逆行による時の流れの逆流である。たとえば燃え尽くした残骸の白い灰から火が燃え出る、そうしてその火炎がだんだんに白紙や布切れに変わって行ったりする。あるいはまた、粉々にくずれた煉瓦の堆積からむくむくと立派な建築が建ち上がったりする。
 昔ある学者は、光の速度よりもはやい速度で地球から駆け出せば宇宙の歴史を逆さまにして見られるというような寝言を言った。しかしこのような超光速度はできない相談であるし、それができたとしてもやはり歴史の逆さまは見られそうもない。しかし映画の時間は確かにある意味では立派に逆転し、従って歴史はほんとうに掛け値なしに逆さまに流れる。厳密に言えば、時間の連続な流れの中から断続的に規則正しい間隔の断片を拾い上げたものを逆の順序に展開するのであるが、われわれの視覚的効果の上ではまさしく時の逆行となるのである。

上の引用部の「光の速度よりもはやい速度で地球から駆け出せば宇宙の歴史を逆さまにして見られる~このような超光速度はできない相談である」という部分ですが、ここは以下で少し補足したく思います。

先日の「アインシュタインの特殊相対性理論をベートーヴェンのように味わう」の中で、「アインシュタインの特殊相対性理論」とは「光の速度に近づけば近づくほど、その人の周りの時間の流れが遅くなる」という物理法則だと書きましたが、この法則に従うと、仮に人が光と同じ速度で動いたら、その人の周りの時間の流れは止まるはずなのです。

なぜなら「光速」で動いている人が同じ方向に走っている光を見た場合に、その光が「光速」で走っているように見えなければならない(「光速度不変の原理」により、誰が見たって光速は不変だから)以上、その人の周りの時間が止まっているとしか考えようがないからです。

それなら仮に、人が「光速を超える速さ」で動いたらどうなるかというと、その場合、その人の周りの時間の流れは逆行するだろうと言われています。

なぜなら、仮に秒速40万キロで動いている人が、光速(秒速30万キロ)で同じ方向に走っている光を追い抜いた場合、それでも追い抜いたはずの光が「光速」で相変わらず前方に走っているように見えなければならない(「光速度不変の原理」により、誰が見たって光速は不変だから)以上、その人の周りの時間の流れが逆行しているとしか考えようがないからです。

このような理屈から「光の速度よりもはやい速度で地球から駆け出せば宇宙の歴史を逆さまにして見られる」という発想、つまり「時間の逆行」のアイディアが生まれることになります。

しかし残念ながらアインシュタインの理論によって、光速未満の速度の物体が、光速を超えて加速することは不可能だとされているのです。それゆえ、文中に書いてあるように一般には「このような超光速度はできない相談」となります。

ですが、ここに実は盲点があって、アインシュタインの理論で否定されているのは、あくまで「光速未満の速度の物体が、光速を超えて加速すること」です。つまり、「最初から(加速なしで)光速を超えた速度で飛んでいる物体の存在」は実は理論上、否定されていないのです。

それならばということで、1960年代にアメリカの物理学者が提唱したのが、最初から(加速なしで)光速を超えた速度で我々の空間を飛んでいるという、「タキオン」という空想上の超光速粒子です。

つまり、たとえ光速未満の速度の物体が自力で光速を超えて加速することは無理でも、はなから超光速で飛んでいる粒子があるなら、それにくっついた物体も超光速で動けるというわけで、もし万が一、このタキオン粒子が実在して、何らかの手段でタキオン粒子に物体をくっつけることが出来れば、その物体は時間をさかのぼって過去に行くとも言われます。

ところで「タキオン粒子」って確か「宇宙戦艦ヤマト」の波動砲が発射してたヤツでしょ?と思われた方がいらっしゃるかも知れません。御明察で、これは原作者の松本零士が、上記のタキオン粒子が持つ時間逆行の性質を作品に取り込んだものなのです。

つまりヤマトの波動砲で打たれた標的というのは、実のところ破壊されるのではなく、強制的に過去に時間移動させられる(!)のです。結果、打たれた標的を現在の空間座標系から消滅させるわけです。しかし、普通そんなヤヤコシイ理屈を子供は知りませんし、私も子供のころ「ヤマト」のアニメを見ていた時は、あの波動砲というのは、すごい高熱か何かで標的を破壊するものだとばかり思っていました。

話が随分と逸れましたが、このタキオン粒子というのは空想上の産物という側面が大きく、まず実在しないだろうとされていますし、万が一に実在しても、それを利用して時間を逆行というのも非現実的な話なので、結局のところ寺田寅彦の言うとおり「超光速度はできない相談であるし、それができたとしてもやはり歴史の逆さまは見られそうもない」ということのようです。

 時を逆行させることによって起こるもう一つの不思議は、決定的の世界が不決定になることである。たとえば摩擦のある撞球台(どうきゅうだい)の上で球(たま)をころがすとする。球を突き出したときの初速度が与えられればその後に球の動き行くべき道程は予言され、それが最後に静止する位置も少なくも原理的には立派に予報されるはずである。しかるに逆転映画の世界で最初に静止している球が与えられている場合に、どうして、まただれが、その後の運動を少しでも予測しうるであろうか。可能な道は無限に多様であって、その中の一つを指定すべき与件は一つもないのである。
 これと反対に、現世で予測のできない事がらが逆転映画の世界では確定的になるから妙である。たとえば一本の鉛筆を垂直に机上に立てて手を離せば鉛筆は倒れるが、それがどの方向に倒れるかはいわゆる偶然が決定するのみで正確な予言は不可能である。しかし時を逆行させる場合にはいろいろな向きに倒れた鉛筆がみんな垂直に起き直るから事がらは簡単になる
 時の逆行を現実化する映画の世界は、これと比較することによってわれわれの世界像における「時」の意義を徹底的に理解させるに格好な対照となるのである。そういう比較によって始めてわれわれの哲学も宗教も科学もその完全な本体を現わすであろう

上記の部分ですが、あくまで私の印象においてですが、実は一昨年、つまり2008年にノーベル物理学賞を受賞した、日本の物理学者・南部陽一郎氏の「自発的対称性の破れ」という概念と、何かしら発想の共通性というか、不思議な類似性があるように私には思えるのです。

この「自発的対称性の破れ」に関しては、南部陽一郎氏が2008年にノーベル物理学賞を受賞した当時、報道などで大きく取り上げられましたので、ご存じの方もおられるかも知れませんが、実はノーベル賞の授与に関して、授与元のスウェーデン王立科学アカデミーが、賞の授賞理由をウェブサイト上に公開しているのです。南部陽一郎氏の「自発的対称性の破れ」の授賞理由は、ここに公開されています

その中の一枚の図を、以下に転記します。

Spontaneous-broken-symmetry

この図は、「自発的対称性の破れ」の概念を端的に表すために用いられていますが、これがまさに、上記エッセイの中に書かれている文章「たとえば一本の鉛筆を垂直に机上に立てて手を離せば鉛筆は倒れるが、それがどの方向に倒れるかはいわゆる偶然が決定するのみで正確な予言は不可能である。」の部分と符号しているように思えるのです。

この「自発的対称性の破れ」というのは、簡単に言いますとビッグバン、すなわち宇宙の生成の謎を解き明かすための理論のひとつなのです。早い話、なぜ「無」から「有」が生じるのか、ということの説明のための理論であり、具体的には、ビッグバン直後に生じたとされているヒッグス粒子という素粒子が、なぜ質量を持つようになったのか、言い換えるとビッグバン以前は宇宙空間内に質量というものは存在しなかったはずなのに、それがどこから出てきたのか、という話です。

それは南部陽一郎氏の理論によると、宇宙空間には質量生成以前に「ヒッグス場」という、量子論でいうところの「量子場」があり、そのヒッグス場という「不安的な状態」から、ヒッグス粒子という「安定した状態」に移行した結果、質量というものが宇宙空間内に生じた、ということになるのです。そのような「不安的な状態」から「安定した状態」に移行しようとする物理的現象が「自発的対称性の破れ」と呼ばれるものです。

そして、その概念を分かりやすく説明するために上の図のような、立ったエンピツと横たわったエンピツが用いられているのです。ここでは立ったエンピツが「不安的な状態」を、横たわったエンピツが「安定した状態」を、それぞれ象徴しています。

要するに、立った鉛筆は不安定な状態なので放っておいても自然に倒れますが、どの方向に倒れるかは予測できない。これが質量の起源を説明するための概念である「自発的対称性の破れ」です。

なお、このヒッグス粒子というのは先のタキオン粒子のようなSFチックなものではなく、未発見ながら実在するのではないかと言われている粒子です。それどころか、このヒッグス粒子の実在の確認こそが、まさに現在の宇宙物理学の最重要課題のひとつなのです。

話を寺田寅彦のエッセイの方へ戻しますが、この「自発的対称性の破れ」の概念と、寺田寅彦の上記エッセイの記述部分とは、偶然にも何か密接な関連性を有しているように私には思えるのです。

まず「たとえば一本の鉛筆を垂直に机上に立てて手を離せば鉛筆は倒れるが、それがどの方向に倒れるかはいわゆる偶然が決定するのみで正確な予言は不可能である。」という部分は、鉛筆を例にしている点も含めて、「自発的対称性の破れ」の概念の説明に対し、大まかではあるものの当てはまるように思えます

そして、「しかし時を逆行させる場合にはいろいろな向きに倒れた鉛筆がみんな垂直に起き直るから事がらは簡単になる。」というのは、ビッグバン直後の状態にまで時を逆行させる場合、ヒッグス粒子がヒッグス場の状態に起き直るから事がらは簡単になる(宇宙空間に質量というものが未だ無かった状態になる)と対応させて読むこともできるのです。

いや、それはコジツケだろう。だいたい寺田寅彦のエッセイの題材は単なる映画論で、ビッグバン云々は関係ないじゃないか、と思われるかもしれませんが、それは全くその通りで、私の言っていることは、ほとんどコジツケに近いものです。その意味では、私が上で書いた、寺田寅彦のエッセイ「映画の世界像」を「自発的対称性の破れ」の概念に結びつける発想というのは、ほとんど「妄想」に近いのかもしれない。

しかし、たとえそうでも上述のように全く無根拠な「妄想」でもないと思っていますし、それ以上に、以前に書きましたように寺田寅彦はノーベル物理学賞に縁がないわけではないので、その観点から、そういった連想が私の中で働いた結果、こういう結びつきに思い至ったということなのです。その点は、ひとつ御理解して読んでいただければと思います。

「手首」の問題
(昭和七年三月、中央公論)

これは寅彦の多くの「音楽エッセイ」の中でも有名な作品で、ヴァイオリンやチェロを弾いて「良い音」を出せるかは、演奏者の手首の扱い方次第ではないか、という問題提起に始まり、こと演奏の問題に限らない、「柔軟性」という汎用的な話題に発展していきます。

 中学時代にはよく「おれは何々主義だ」と言って力こぶを入れることがはやった。かぼちゃを食わぬ主義や、いがくり頭で通す主義や、無帽主義などというのは愛嬌もあるが、しかし他人の迷惑を考慮に入れない主義もあった。たとえば風呂に入らぬ主義などがそれである。年を取って後までも中学時代に仕入れたそういう種類の主義に義理を立てて忠実に守りつづけて来た人もまれにはあった。これらは珍しい手首の堅い人であろう。しかし手首の柔らかいということは無節操でもなければ卑屈な盲従でもない。自と他とが一つの有機体に結合することによってその結合に可能な最大の効率を上げ、それによって同時に自他二つながらの個性を発揚することでなければならない。・・・
 三つの音が協和して一つの和弦(かげん)を構成するということは、三つの音がそれぞれ互いに著しく異なる特徴をもっている、それをいっしょに相戦わせることによってそこに協和音のシンセシスが生ずる。しかしその場合の争闘相剋は争闘のための争闘ではなくて協和のための争闘である。勝手な音を無茶苦茶に衝突させ合ったのではいたずらに耳を痛めるだけであろう。
 バイオリンの音を出すのでも、弓と弦との摩擦という、言わば一つの争闘過程によって弦の振動が誘発されるとも考えられる。しかしそれは結局は弦の美しい音を出すための争闘過程であって、決して鋸(のこぎり)の目立てのような、いかなる人間の耳にも不快な音を出すためではないのである。しかし弓を動かす演奏者の手首がわがままに堅くては、それこそ我利我利という不快な音以外の音は出ないであろう。そうしてそういう音では決して聞く人は踊らないであろう。
 欧州大戦前におけるカイゼル・ウィルヘルムのドイツ帝国も対外方針の手首が少し堅すぎたように見受けられる。その結果が世界をあのような戦乱の過中に巻き込んだのではないかという気がする。ともかくもこれにもやはり手首の問題が関係していると言ってもよい。これは盛運の上げ潮に乗った緊張の過ぎた結果であったと思われる。深くかんがみるべきである。

映画雑感Ⅰ
(昭和五年十一月~昭和七年五月、東京帝国大学新聞)

昭和5~7年に映画館で観た数本の映画に対する寸評。当時としては本格的な映画評論となっていて読み応えがあります。注目すべきは、昭和7年2月に日本封切りとなった「三文オペラ」に対する論評で、特にワイルの作曲した音楽に関して、以下のような印象が述べられています。

 音楽はなかなかおもしろい。同じジャズの楽器でもドイツ人の手にかかると、こうも美しくなるものかと感心させられる。あのサキソフォーンでさえも実に味のこまやかな音として聞かれる。アメリカのジャズはなるほどおもしろいと思う時はあっても、自分にはどうも妙な臭みが感ぜられる。たとえば場末の洋食屋で食わされるキャベツ巻きのようにプンとするものを感じる。これはおそらくアメリカそのもののにおいであろう。しかしこのクルト・ワイルのジャズ(?)にはそれがみじんもなくて、ゲーテやバッハを生んだドイツ民族の情緒が濃厚ににじみだしている。そうしてそれでいて同時にまたどれにもどこかしら Gallow Song しかもやはりイギリスらしいそれの味がしみじみとかみしめられるような気もするのである。最後に町の暗やみの中に幽霊のように消えて行くルンペンの行列とともにゆるやかに句切って再び響くモリアットの歌も、スクリーンの前の幕がおりて席を立ってそうして往来へ出て後までもいつまでも耳に残って忘れ難いものである。
 この映画を見た前夜にグスタフ・マーラーの第五交響楽を聞いた。あまりにも複雑な機巧に満ちたこの大曲に盛りつぶされ疲らされたすぐあとであったので、この単純なしかし新鮮なフィルムの音楽がいっそうおもしろく聞かれたのかもしれない。そうしてその翌晩はまた満州から放送のラジオで奉天の女学生の唱歌というのを聞いた。これはもちろん単純なる女学生の唱歌には相違なかったが、しかし不思議に自分の中にいる日本人の臓腑にしみる何ものかを感じさせられた。それはなんと言ったらいいか、たとえば「アジアの声」を聞くといったような感じであった。アメリカのジャズとドイツのジャズとの偶然な対比の余響からたまたまそういう気がしたかもしれない。

なお、ここで「この映画を見た前夜にグスタフ・マーラーの第五交響楽を聞いた」とあるのは、マーラー交響曲第5番の日本初演となったコンサートのことです。

生ける人形
(昭和七年六月、東京朝日新聞)

文楽の人形芝居を見物した際の随想。映画との対比の視点が面白いですが、いかんせん文楽の知識が全くない私などには、「松王丸の首実検」とか「葛の葉の子別れ」とか言われてもサッパリで、唯一「三勝半七(さんかつはんしち)」というのが確か夏目漱石の「行人」に出てきたな、と思ったくらいです。

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