「寺田寅彦随筆集」第1巻より「春六題」から「断水の日」までの8編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「春六題」「蓑虫と蜘蛛」「田園雑感」「ねずみと猫」「写生紀行」「笑い」「案内者」「断水の日」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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春六題
(大正十年四月、新文学)

春にまつわる6編の短いエッセイを集めた作品。この中の最初のエッセイの話題は、いかにも春に相応しく、アインシュタインの一般相対性理論(!)です。

 近ごろ、アインシュタインの研究によってニュートンの力学が根底から打ちこわされた、というような話が世界じゅうで持てはやされている。これがこういう場合にお定まりであるようにいろいろに誤解され訛伝(かでん)されている。今にも太陽系の平衡が破れでもするように、またりんごが地面から天上に向かって落下する事にでもなるように考える人もありそうである。そしてそれが近代人の伝統破壊を喜ぶ一種の心理に適合するために、見当違いに痛快がられているようである。しかし相対原理が一般化されて重力に関する学者の考えが一変しても、りんごはやはり下へ落ち、彼岸の中日(ちゅうにち)には太陽が春分点に来る。これだけは確実である。力やエネルギーの概念がどうなったところで、建築や土木工事の設計書に変更を要するような心配はない。

文中で、「相対原理が一般化されて重力に関する学者の考えが一変」とありますが、これは「一般相対性理論」、すなわちアインシュタインが1915年に発表した、従来までの「重力」の概念を一変させた理論のことを指しています。

アインシュタインの一般相対性理論というのは、メチャクチャ難しい理論ですが、そんな難解な理論が何故「世界じゅうで持てはやされている」のかというと、1919年に行われた有名な実験観測により、この理論の正しさが実証され、その事実が世界中に大々的に報道されたことによります。

この一般相対性理論というのは、ものすごく簡単に言うなら、物質の存在と時空の歪みとの関係について規定した理論ということになります。つまり、何らかの物質が存在すると、そのまわりに重力場が発生し、そのせいで時空が歪む、という物理法則です。

しかし、いきなり「時空が歪む」とか言われても、なんのこっちゃと思うのが人情?で、その「時空が歪む」証拠を実際に目で確認でも出来ない限り、ピンと来ないところですが、困ったことに、その空間の歪みを目に見える形で確認するためには、途方もない質量の物質を観測する必要があり、その可能性のある物質としては、どうも「太陽」くらいしかないのではないか、とされていたのです。

とはいえ、もし太陽の直近に位置する星の光を観測できれば、「時空の歪み」の有無が証明できるはずでした。というのも、アインシュタインの理論によると太陽の直近の周囲においては空間が歪むために光の直進が妨げられるので、周囲の星の光が本来の位置よりもズレて見えるはずだからです。

要するに、太陽が直近にあるときと、無いとき、それぞれでの星の位置を観測して、双方の位置が同じであればアインシュタインの主張は間違いということになりますが、もし位置が違って観測されれば、それは空間が歪んでいるとしか考えようがないので、アインシュタインの理論の正しさが事実上、証明されることになるのです。

ただ、「太陽の直近に位置する星の光を観測」と言っても、太陽のすぐ近くの星なんて太陽光にジャマされて見えないので、少なくとも当時の天体観測の技術では観測不能であり、どうやって観測するんだという問題が生じます。

しかし、この問題は意外と簡単で、要するに太陽さえ光らなければ、周りの星が見えるはずなのです。

それなら日食を利用すればいいわけで、皆既日食の際に太陽を観測すれば、近辺の星の位置がクッキリ見えるので、それらの星の光の位置を検証することができます。

というわけで、1915年にアインシュタインが一般相対性理論を発表してから、次の皆既日食は1919年にヨーロッパを中心に発生するということが分かり、その機会を利用して、上記のような観測を実施した結果、アインシュタインの主張のとおり、確かに太陽の周囲の星の光の位置はズレて見える、という事実が判明しました。これにより、アインシュタインの理論が正しいということが事実上、世界に認知されたのでした。

以上のような背景があって、世界中で当時ちょっとした相対論ブームのようなものが起こり、その流れから、このようなエッセイが書かれたのではないかと推察されるのです。

 アインシュタインおよびミンコフスキーの理論のすぐれた点と貴重なゆえんはそんな安直な事ではないらしい。時と空間に関する吾人の狭いとらわれたごまかしの考えを改造し、過去未来を通ずる大千世界の万象を四元の座標軸の内に整然と排列し刻み込んだ事でなければならない。夢幻的な間に合わせの仮象を放逐して永遠な実在の中核を把握したと思われる事でなければならない。複雑な因果の網目を枠に張って掌上に指摘しうるものとした事でなければならない。
 この新しい理論を完全に理解する事はそう容易な事ではないだろう。アインシュタインが自分の今度書くものを理解する人は世界じゅうに一ダースとはあるまいと言ったそうである。この言葉がまた例によって見当違いに誤解されて、坊間に持てはやされている。そして彼の理論の上に輝く何かしら神秘的の光環のようなものを想像している人もあるらしい。
 特別な数学的素養のない人でも、この理論の根底に横たわる認識論上の立場の優越を認める事はそう困難とは思われない。かえってむしろ悪く頭のかたまったわれわれ専門学者のほうが始末が悪いかもしれない。この場合でも心の貧しき者は幸いである。
 一般化された相対論はとにかくとして、等速運動に関するいわゆる特別論などはあまりにわかりきった事であるためにわかりにくいと言われうるかもしれない。それはガリレー以来、力学が始まってこのかただれも考えつかなかったほどわかりきった事であったのである。ここでアインシュタインが出て来てコロンバスの卵の殻をつぶしてデスクの上に立てた
 だれにでもわかるものでなければそれは科学ではないだろう。

確かにアインシュタインの一般相対性理論というのは、アインシュタイン自身「この理論を理解する人は世界じゅうに一ダースとはあるまい」と言うだけのことはある理論だと感じます。

それはさておき、上で引用した文章の最後のあたりは注目に値すると思います。「一般化された相対論はとにかくとして、等速運動に関するいわゆる特別論などはあまりにわかりきった事であるためにわかりにくいと言われうるかもしれない。」「アインシュタインが出て来てコロンバスの卵の殻をつぶしてデスクの上に立てた。」「だれにでもわかるものでなければそれは科学ではないだろう。」これらは、いずれも後に書かれる「相対性原理側面観」での寅彦の主張と軌を一にするものです。

蓑虫と蜘蛛
(大正十年五月、電気と文芸)

寅彦の得意とする、生物観察に基づくエッセイのひとつ。蜘蛛が蓑虫(みのむし)の天敵であり、さしもの「蓑」も蜘蛛には役に立たない、という話。

 この恐ろしい敵は、簔虫の難攻不落と頼む外郭の壁上を忍び足ではい歩くに相違ない。そしてわずかな弱点を捜しあてて、そこに鋭い毒牙を働かせ始める。壁がやがて破れたと思うと、もう簔虫のわき腹に一滴の毒液が注射されるのであろう。
 人間ならば来年の夏の青葉の夢でも見ながら、安楽な眠りに包まれている最中に、突然わき腹を食い破る狼の牙を感じるようなものである。これを払いのけるためには簔虫の足は全く無能である。唯一の武器とする吻(くちさき)を使おうとするとあまりに窮屈な自分の家はからだを曲げる事を許さない。最後の苦悩にもがくだけの余裕さえもない。生物の間に行なわれる殺戮の中でも、これはおそらく最も残酷なものの一つに相違ない。全く無抵抗な状態において、そして苦痛を表現する事すら許されないで一分だめしに殺されるのである。


田園雑感
(大正十年七月、中央公論)

日本古来の風習や行事が、新時代になって次第に廃れていくことを憂う内容のエッセイ。明治期以後の西洋化の流れのなかで、昔ながらの盆踊りのようなものが反文明的という理由で当局により規制され、滅亡の危機に瀕している状況に対して、以下のような危機意識が開陳されています。

 簡単な言葉と理屈で手早くだれにもわかるように説明のできる事ばかりが、文明の陳列棚の上に美々しく並べられた。そうでないものは塵塚(ちりづか)に捨てられ、存在をさえ否定された。それと共に無意味の中に潜んだ重大な意味の可能性は葬られてしまうのである。幾千年来伝わった民族固有の文化の中から常に新しいものを取り出して、新しくそれを展開させる人はどこにもなかった。「改造」という叫び声は、内にあるもののエヴォリューションではなくて、木に竹をつぐような意味にのみもてはやされた。それであの親切な情誼(じょうぎ)の厚い田舎の人たちは切っても切れぬ祖先の魂と影とを弊履のごとく捨ててしまった。そうして自分とは縁のない遠い異国の歴史と背景が産み出した新思想を輸入している。伝来の家や田畑を売り払って株式に手を出すと同じ行き方である。
 新思想の本元の西洋へ行って見ると、かえって日本人の目にばかばかしく見えるような大昔の習俗や行事がそのままに行なわれているのはむしろ不思議である。


ねずみと猫
(大正十年十一月、思想)

まず寅彦の家の中で繰り広げられる「ねずみ退治」の話に始まり、やがて野良猫を飼い始める話になります。寅彦お得意の生物観察エッセイのひとつですが、猫を色々と観察してリアルに描述しているあたりには、寅彦が登場人物のモデルとされた漱石の「吾輩は猫である」のような趣きが読んでいて感じられます。

なお、このエッセイの続編的な作品が「子猫」で、さらにその続編が「備忘録」収録の「猫の死」になりますが、いずれも「寺田寅彦随筆集」第2巻に収録されています。


写生紀行
(大正十一年一月、中央公論)

「自画像」に続いての、趣味の油絵に関するエッセイ。風景の写生のために東京郊外(埼玉の大宮と浦和、東京では日暮里、世田谷、成増の新開地など)に足を運ぶという話。

このエッセイは、油絵としての風景の写生を題材としながら、それがそのまま「文章による風景の写生」とも言うべき内容になっている点が素晴らしく、読んでいて当時の東京郊外の自然味豊かな風景が目に浮かぶよう。そして、いまだ昔ながらの美しい自然が残る中にも、文明の病理は着実に侵食しているという、ずっしりと重い感懐も披歴されています。

笑い
(大正十一年一月、思想)

子供の時分から、医者の診察を受けていると、理由もないのに何故だか笑いたくなってしまうという妙な癖が自分にはあるという話。こういう経験は実のところ私にも覚えがありますし、多かれ少なかれ、おそらく誰もが覚えのある体験なのではないでしょうか。

その話題を発端に、「普通いかなる意味においても決して笑うべき理由は見つからないが、それにもかかわらず笑いの現象が現われ来る」のは何故だろうかと考えます。

 この種の不合理な笑いはすべて自分だけに特有な病的の精神現象ではないかと思っていたが、その後だんだんに気をつけて見ると、必ずしも自分だけには限らない事がわかって来た。子供の時分に不幸見舞いに行って笑い出した事や、本膳(ほんぜん)をふるまわれて食っている間にふき出したような話をする人も二人や三人はあった。
 ある時、火事で焼け出されて、神社の森の中に持ち出した家財を番している中年の婦人が、見舞いの人々と話しながら、腹の底からさもおかしそうに笑いこけているのを、相手のほうでは驚き怪しむような表情をして見つめているのを見かけた事もある。
 戦争の惨劇が頂点に達した時に突然笑いに襲われるという異常な現象もどこかで読んだ。
 これらはむしろ狂に近い例かもしれないがしかしともかくもこんないろいろの事実を総合して考えると、一般に「笑い」という現象の機能や本質について何かしらあるヒントを得るように思う。

以下、笑いという生理現象の機能や本質的な意味についての考察に移行していき、「笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではない」という結論に到達するのです。なにやら禅問答のようですが、要するに「笑い」とは、精神ならびに肉体の一時的あるいは持続的の緊張が急に弛緩する際に起こるものではないか、という見解が述べられているのです。

案内者
(大正十一年一月、改造)

旅行案内のためのガイドブック、いわゆる旅行ガイドの功罪についての話です。

 私が昔二三人連れで英国の某離宮を見物に行った時に、その中のある一人は、始終片手に開いたベデカを離さず、一室一室これと引き合わせては詳細に見物していた。そのベデカはちゃんと一度下調べをしてところどころ赤鉛筆で丁寧にアンダーラインがしてあった。ある室へ来た時にそこのある窓の前にみんなを呼び集め、ベデカの中の一行をさしながら、「この窓から見ると景色がいいと書いてある」と言って聞かせた。一同はそうかと思って、この見のがしてならない景色を充分に観賞する事ができた。
 私はこの人の学者らしい徹底したアカデミックなしかたに感心すると同時に、なんだかそこに名状のできない物足りなさあるいは一種のはかなさとでもいったような心持ちがするのを禁ずる事ができなかった。なんだかこれでは自分がベデカの編者それ自身になってその校正でもしているような気がし、そしてその窓が不思議なこだわりの網を私のあたまの上に投げかけるように思われて来た。室に付随した歴史や故実などはベデカによらなければ全くわからないが、窓のながめのよしあしぐらいは自分の目で見つけ出し選択する自由を許してもらいたいような気もした。
 ベデカというものがなかった時の不自由は想像のほかであろうが、しかしまれには最新刊のベデカにだまされる事もまるでないではない。ある都の大学を尋ねて行ったらそこが何かの役所になっていたり、名高い料理屋を捜しあてると貸し家札が張ってあったりした事もある。杜撰(ずざん)な案内記ででもあればそういう失敗はなおさらの事である。しかし、こういう意味で完全な案内記を求めるのは元来無理な事でなければならない。そういうものがあると思うのが困難のもとであろう。

ちなみに文中の「ベデカ」とは、今で言う「地球の歩き方」のような旅行ガイドのことです。

 案内記が詳密で正確であればあるほど、これに対する信頼の念が厚ければ厚いほど、われわれは安心して岐路に迷う事なしに最少限の時間と労力を費やして安全に目的地に到着することができる。これに増すありがたい事はない。しかしそれと同時についその案内記に誌してない横道に隠れた貴重なものを見のがしてしまう機会ははなはだ多いに相違ない。そういう損失をなるべく少なくするには、やはりいろいろの人の選んだいろいろの案内記をひろく参照するといい。ただ困るのは、すでに在(あ)る案内記の内容をそのままにいいかげんに継ぎ合わせてこしらえたような案内記の多い事である。これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い。
 しかしいくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにはならない事はもちろんである。


旅行ガイドのみならず、名盤ガイドのようなものにまで当てはまりそうです。

断水の日
(大正十一年一月、東京・大阪朝日新聞)

大正10年12月8日に強い地震が東京を襲い、寺田家が断水に見舞われた体験を踏まえて、当時の社会の仕組みに不満の念を表明するという趣きのエッセイ。

 翌日も水道はよく出なかった。そして新聞を見ると、このあいだできあがったばかりの銀座通りの木煉瓦(もくれんが)が雨で浮き上がって破損したという記事が出ていた。多くの新聞はこれと断水とをいっしょにして市当局の責任を問うような口調を漏らしていた。私はそれらの記事をもっともと思うと同時にまた当局者の心持ちも思ってみた。・・・
 長い使用に堪えない間に合わせの器物が市場にはびこり、安全に対する科学的保証の付いていない公共構造物が至るところに存在するとすれば、その責めを負うべきものは必ずしも製造者や当局者ばかりではない。
 もしも需要者のほうで粗製品を相手にしなければ、そんなものは自然に影を隠してしまうだろう。そしてごまかしでないほんものが取って代わるに相違ない。
 構造物の材料や構造物に対する検査の方法が完成していれば、たちの悪い請負師でも手を抜くすきがありそうもない。そういう検定方法は切実な要求さえあらばいくらでもできるはずであるのにそれが実際にはできていないとすれば、その責任の半分は無検定のものに信頼する世間にもないとは言われないような気がする。

このあたり、今の時代で言うなら「ISO-9000」のような品質管理のための統一規格などが該当しそうですが、その必要性を大正時代に訴えるあたり、やはり慧眼と言えるように思います。

 私が断水の日に経験したいろいろな不便や不愉快の原因をだんだん探って行くと、どうしても今の日本における科学の応用の不徹底であり表面的であるという事に帰着して行くような気がする。このような障害の根を絶つためには、一般の世間が平素から科学知識の水準をずっと高めてにせ物と本物とを鑑別する目を肥やしそして本物を尊重しにせ物を排斥するような風習を養うのがいちばん近道で有効ではないかと思ってみた。そういう事が不可能ではない事は日本以外の文明国の実例がこれを証明しているように見える。

以上、これで「寺田寅彦随筆集」第1巻に収録の全エッセイ22編を一通り取り上げました。次回からは第3巻に収録のエッセイに移ります。

コメント

 
 お疲れさまでした。
 読んで、楽しませていただきました。
 一般法則論のブログを読んでください。 一般法則論者.
一般法則論者様
初めまして。コメント有難うございます。

貴ブログ、興味深く読ませて頂きました。おそらく科学と宗教と哲学、すべての統合を目標とされているように思うのですが、実に壮大な発想ですね。

コメント

 
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