「寺田寅彦随筆集」第1巻より「自画像」「芝刈り」「球根」「春寒」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「自画像」「芝刈り」「球根」「春寒」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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自画像
(大正九年九月、中央公論)

油絵の入門書を読んだら無性に油絵が描きたくなった寅彦が、自画像「第1号」から「第5号」まで描きながら様々に随想を巡らせるという内容のエッセイ。

 仕上がるという事のない自然の対象を捕えて絵を仕上げるという事ができるとすれば、そこには何か手品の種がある。いったい顔ばかりでなく、静物でもなんでも、あまり輪郭をはっきりかくと絵が堅すぎてかえって実感がなくなるようである。・・・これに反してわざと輪郭をくずして描くと生気が出て来て運動や遠近を暗示する。これはたしかに科学的にも割合簡単に説明のできる心理的現象であると思った。同時に普通の意味でのデッサンの誤謬や、不器用不細工というようなものが絵画に必要な要素だという議論にやや確かな根拠が見つかりそうな気がする。手品の種はここにかくれていそうである。
 セザンヌはやはりこの手品の種を捜した人らしい。しかしベルナールに言わせると彼の理論と目的とが矛盾していたために生涯仕上げができなかったというのである。それにしてもセザンヌが同じ「静物」に百回も対したという心持ちがどうも自分にはわかりかねていたが、どうしてもできあがらぬ自分の自画像をかいているうちにふとこんな事を考えた。思うにセザンヌには一つ一つの「りんごの顔」がはっきり見えたに相違ない。自分の知った人の中には雀(すずめ)の顔も見分ける人はあるが、それよりもいっそう鋭いこの画家の目には生きた個々のくだものの生きた顔が逃げて回って困ったのではあるまいか。その結果があの角ばったりんごになったのではあるまいか。

このあたり、寅彦の絵画美術(特に西洋絵画)への造詣の深さが伺われます。

芝刈り
(大正十年一月、中央公論)

自宅の庭の芝をハサミで刈る間に、いろいろな事を考える、という内容。「文明の葉は刈るわけにも焼くわけにも行かない」として文明論にまで話が発展します。このあたりは読んでいて、どこか漱石の生前の文明論からの影響が伺われるようにも思えます。

球根
(大正十年一月、改造)

寺彦には珍しい、小説テイストのショートストーリー。主人公「堅吉」宛てに差出人不明の小包郵便が届いて、中を見ると植物の球根がどっさり。はて贈り主は一体?、という話。

春寒
(大正十年一月、渋柿)

北欧スカンジナビアの古い伝承記「セントオラー英雄譚」を読んでいると、家の中からメンデルスゾーンの無言歌「春の歌」のピアノが聴こえてきて、それが物語と妙に重なって響くという話。

 私がこの物語を読んでいた時に、離れた座敷で長女がピアノの練習をやっているのが聞こえていた。そのころ習い始めたメンデルスゾーンの「春の歌」の、左手でひく低音のほうを繰り返し繰り返しさらっていた。八分の一の低音の次に八分の一の休止があってその次に急速に駆け上がる飾音のついた八分の一が来る。そこでペダルが終わって八分の一の休止のあとにまた同じような律動が繰り返される。
 この美しい音楽の波は、私が読んでいる千年前の船戦(ふないくさ)の幻像の背景のようになって絶え間なくつづいて行った。音が上がって行く時に私の感情は緊張して戦の波も高まって行った。音楽の波が下がって行く時に戦もゆるむように思われた。投げ槍や斧をふるう勇士が、皆音楽に拍子を合わせているように思われた。そして勇ましいこの戦の幻は一種の名状し難い、はかない、うら悲しい心持ちのかすみの奥に動いているのであった。

この「春寒」においては、特に以下の部分に読まれる、古代ノルウェー王の非業の最期をメンデルスゾーンのピアノ曲と連関して結びつけるあたりの寅彦のイマジネーションが何といっても素晴らしく、これは彼の残した数々の音楽的エッセイの中でも白眉ともいえる作品だと思います。

 私がこのセント・オラーフの最期の顛末を読んだ日に、偶然にも長女が前日と同じ曲の練習をしていた。そして同じ低音部だけを繰り返し繰り返しさらっていた。その音楽の布(し)いて行く地盤の上に、遠い昔の北国の曠(ひろ)い野の戦いが進行して行った。同じようにはかないうら悲しい心持ちに、今度は何かしら神秘的な気分が加わっているのであった。
 忠義なハルメソンとその子が王の柩を船底に隠し、石ころをつめたにせの柩を上に飾って、フィヨルドの波をこぎ下る光景がありあり目に浮かんだ、そうしてこの音楽の律動が櫂の拍子を取って行くように思われた。
 その後にも長女は時々同じ曲の練習をしていた。右手のほうでひいているメロディだけを聞くとそれは前から耳慣れた「春の歌」であるが、どうかして左手ばかりの練習をしているのを幾間か隔てた床の中で聞いていると、不思議に前の書中の幻影が頭の中によみがえって来て船戦の光景や、セント・オラーフの奇蹟が幾度となく現われては消え、消えては現われた。そして音の高低や弛張につれて私の情緒も波のように動いて行った。異国の遠い昔に対するあくがれの心持ちや、英雄の運命の末をはかなむような心持ちや、そう言ったようなものが、なんとなく春の怨(うらみ)を訴えるような「無語歌」と一つにとけ合って流れ漂って行くのであった。

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