「寺田寅彦随筆集」第1巻より「科学者と芸術家」「物理学と感覚」ほか


寺田寅彦のエッセイですが、今回から「寺田寅彦随筆集」第1巻に収録の作品を順次、取り上げていきます。

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この巻の収録作品のタイトルは以下の通りです。

・どんぐり
・竜舌蘭
・花物語
・旅日記から
・先生への通信
・科学者と芸術家
・物理学と感覚
・病院の夜明けの物音
・病室の花
・丸善と三越
・自画像
・芝刈り
・球根
・春寒
・春六題
・蓑虫と蜘蛛
・田園雑感
・ねずみと猫
・写生紀行
・笑い
・案内者
・断水の日

以上22編です。

今回は「どんぐり」「竜舌蘭」「花物語」「旅日記から」「先生への通信」「科学者と芸術家」「物理学と感覚」の7作品を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

どんぐり 竜舌蘭 
(明治三十八年四月、六月 ホトトギス)

いずれも寅彦の最初期の短編エッセイ。「どんぐり」では亡き妻の思い出が、「竜舌蘭」では幼少の頃の思い出が語られます。

基本として日常身辺の些細なことを題材に表情豊かに筆を綴る趣向は、この時期から確立されており、その味わいにおいても非凡なものがあると思うのですが、ただ、後年の寅彦のエッセイにおいて読まれる、独特の切れ味や含蓄などは希薄という感も否めません。

「どんぐり」では自身を「余」と呼称し、エッセイというより小説風に仕立てていますし、「竜舌蘭」は文章が明らかに硬く、ぎこちなさが伺えます。

ちなみに、この時期の「ホトトギス」では、ちょうど夏目漱石が「吾輩は猫である」を連載しており、当時それが大ヒットしていたと言われていますが、さすがに寅彦も相当に緊張して、これらのエッセイを書いたのではないでしょうか。

花物語
(明治四十一年十月 ホトトギス)

上記2つのエッセイから3年後の作です。9編からなるショート・エッセイ集で、昼顔、栗の花、月見草などの花にちなんだ、幼少の頃や学生時代のエピソードが題材とされています。

全体的に3年前の作よりも文体に硬さが抜け、柔軟性が増している感じがします。写生的視点にもとづく写実的な自然観察のもたらす文章の含蓄の豊かさといい、後年の寅彦ならではのエッセイの原型は、この頃に確立されたのかも知れません。

旅日記から 
(大正十年四月 渋柿)

寅彦が明治42年にドイツに留学するため渡航した際の日記風の紀行文。正確には、もともと旅日記として個人的に記していたものを、後年になって雑誌に発表したものになります。

船で日本を発ち、上海、香港、シンガポール、アラビア海、紅海、スエズ運河を抜けてイタリアに到着し、汽車でベルリンへ着くまでの、同年4月1日から5月6日までの旅の記録が綴られています。読んでいて場景が目に浮かぶような写実性が見事です。

先生への通信
(明治四十三年一月~明治四十四年五月、東京朝日新聞)

これは寅彦が明治42年から44年にかけて海外に留学した時期に、ヨーロッパ各地を旅した際の紀行文です。ベニス、ローマ、ベルリン、ゲッチンゲン、パリ、それぞれの街を実際に見た寅彦の印象が、感動を抑えた写実的な文体で綴られています。

 四五日前オペラでグノーのファウストを聞きました。メフィストの低音が気に入りました。道具立ての立派で真に迫ること、光線の使用の巧みなことはどこでも感心します。音楽の始まる前の合図にガタンガタンと板の間をたたくような音をさせるのはドイツのと違っていて滑稽な感じがしました。最後の前の幕にバレーがあります。国にいた時分「スチュディオ」か何かに載せたドガーの踊り子のパステル絵を見て、なんだかばかげたつまらないもののような気がしましたが、その後バレーというものも見、それからドガーの本物の絵も見てから考えてみると、とにかくこの人の絵はこういう一種の光景、運動、色彩、感じというようなものをかなり真実に現わしたものだと思いました。
 役者の唱歌は昨年ウィーンで聞いたほうがむしろよかったと思います。この事を同宿のドイツ人に話したら、オペラはドイツに限るのだと言っていばっていました。ここではワグネル物をたとえば四幕のものなら二幕ぐらいに切って演じたり、勝手な事をすると言ってひどく憤慨していました。

上の部分は、パリ・オペラ座でグノーの歌劇「ファウスト」を観た際の印象ですが、文中「役者の唱歌は昨年ウィーンで聞いたほうがむしろよかった」とあるのは、実は明治42年12月22日にウィーン国立歌劇場で、やはり同じグノーの歌劇「ファウスト」を観ており、それと比べた印象を語っているからです。

科学者と芸術家
(大正五年一月、科学と文芸)

 芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念をいだいているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。
 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。

以上のような書き出しに始まり、「科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものである」という漱石の言葉を引用したりしながら、「科学者と芸術家の生命とするところは創作である」以上、科学者と芸術家とは、実は同じ気質の持ち主にほかならないのではないか、という視点が示されます。

自身のライフワークとして科学と文学の「二刀流」を生涯にわたって貫徹した寺田寅彦ならではのエッセイと言えるでしょう。

物理学と感覚
(大正六年十一月、東洋学芸雑誌)

近年における物理学研究の趨勢を憂うような内容のエッセイ。例えば量子論のように、物理学の研究対象が「人間の感覚」から懸け離れた領域に進展してきていることに対し、「非人間主義の物理学」としての危うさを抱いています。

 物理学発達の初期には物理学者の見方はまだそれほど世人と離れていなかった。たとえば音響というような現象でも昔は全く人間の聴官に訴える感覚的の音を考えていたのが、だんだんに物体の振動ならびにそのために起こる気波という客観的なものを考えるようになり「聞こえぬ音」というような珍奇な言葉が生じて来た。今日純粋物理学の立場から言えば感覚に関した音という概念はもはや消滅したわけであるが因習の惰性で今日でも音響学という名前が物理学の中に存している。今日ではむしろ弾性体振動学とでもいうべきであろう(生理的音響学は別として)。

こういった話が具体的な例を示して述べられています。

しかし、物理学というのは詰まるところ外界の現象を系統立てて解明することが最終目的なのだから、その外界の現象を知覚するための人間の感覚というものの重要性は微塵も揺るがないはずである、というロジックにより、人間の感覚を軽視しがちな近年の物理学者のスタンスに異を唱えます。

その主張自体、実に筋が通っていて読んでいて感心させられてしまうのですが、それより驚くべきは、当時の寅彦が、いかに世界における最新の物理学の動向に通暁していたか、という点なのです。特に以下の部分。

 質量は物体に含まるる実体の量だというように考えたは昔の事で、後にむしろ力の概念が先になって、物体に力が働いた時に受ける加速度を定める係数というふうに解釈した実証論者もある。電子説が勢いを得てからは運動せる電気がすなわち質量と考えてすべての質量を電気的に解釈しようとした。さらに相対性原理の結果としてすべてのエネルギーは質量を有すると同等な作用を示すところから、逆にすべての物質はすなわちエネルギーであると考えようという試みもあるくらいである。

ここで「相対性原理の結果としてすべてのエネルギーは質量を有すると同等な作用を示す」というのは、アインシュタインの特殊相対性理論から導かれた「質量とエネルギーの等価則」を指すものです。

この等価則は有名ですし、ご存じの方も多いと思いますが、一応、以下に簡単に書きます。まず先週も書きました通り、「特殊相対性理論」は、広辞苑では以下のように書かれています。

1905年、アインシュタインが絶対静止の座標系を否定して、互いに等速運動をしている座標系に関してはすべての自然法則は同一の形式を保つということを主張した理論。質量とエネルギーの等価性が導かれた。→相対性理論。

この話を先週ブログに書きました際には、最後の「質量とエネルギーの等価性が導かれた」という点には、特に触れませんでしたが、これは要するに「あらゆる物体はエネルギーを放出すると、そのぶんの質量が減る」という物理法則のことです。

それを前提として、エネルギーを放出すると質量が減るなら、逆に質量を減らせば物体からエネルギーが採り出せるはずだという発想が生まれます。これがエッセイで書かれている「逆にすべての物質はすなわちエネルギーであると考えようという試み」です。

実際アインシュタインの計算式によりますと、質量1グラムが21兆6千億カロリーのエネルギーに相当します。例えば1円玉ひとつ(1グラムのアルミニウム)に21兆6千億カロリーというとんでもないエネルギーが内蔵されている、という風によく喩えられます。

しかし、そもそも「質量を減らせば物体からエネルギーが採り出せる」と言ったところで、物体の質量なんて普通、減らせないので、この等価則をアインシュタインが発表した1905年当時は、単なる「絵に書いたモチ」に過ぎませんでしたが、1930年代になって、原子核を破壊することにより核分裂が生じ、実際に物体の質量を減らせるということが実験により証明され、現実にエネルギーが採り出せることになったのです。

そして、以上のような経緯で出来上がったのが、今で言うところの原子爆弾(および原子力発電)ということになります。実際、広島に落とされたものがウラン1グラム程度、長崎に落とされたものがプルトニウム1グラム程度だったそうです。

以上のような歴史的事実を俯瞰したうえで本エッセイを読むと、このエッセイの書かれた大正6年の時点で、すでに近い将来の、原子爆弾のような存在の登場を予見しているようにも読めるのです。さすがに広島と長崎の悲劇までは夢想だにしなかったと思いますが、、、。

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