「寺田寅彦随筆集」第2巻より「映画時代」「時事雑感」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「映画時代」「時事雑感」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

映画時代
(昭和五年九月、思想)

映画に関するエッセイ。自身の映画の体験がいかなるものであったか、に始まり、独自の映画論が展開されますが、その驚異的なまでの先見の明には、読んでいてビックリさせられてしまいます。

まず映画との出会いから。

 活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原(かがみがわら)の納涼場で、見すぼらしい蓆囲(むしろがこ)いの小屋掛けの中でであった。おりから驟雨のあとで場内の片すみには川水がピタピタあふれ込んでいた。映画はあひる泥坊(どろぼう)を追っかけるといったようなたわいないものであったが、これも「見るまでは信じられなくて、見れば驚くと同時に、やがては当然になる」種類の経験であった。ともかくも、始めて幻燈を見たときほどには驚かなかったようである。
 明治四十一年から三年までの滞欧中には、だれもと同様によく活動を見たものである。当時ベルリンではこれを俗にキーントップと言っていた。常設館はいくつもあったがみんな小さなものでわずかの観客しか容れなかったように覚えている。邦楽座や武蔵野館のようなものはどこにもなかったようである。各地に旅行中の夜のわびしさをまぎらせるにはやはりいちばん活動が軽便であった、ブリュッセルの停車場近くで見た外科手術の映画で脳貧血を起こしかけたこともあった。それは象のように膨大した片腕を根元から切り落とすのであった。
 帰朝後ただ一度浅草で剣劇映画を見た。そうして始めていわゆる活弁なるものを聞いて非常に驚いて閉口してしまって以来それきりに活動映画と自分とはひとまず完全に縁が切れてしまった。今でも自分には活弁の存在理由がどうしても明らかでないのである。

以上、最初は映画にあまり興味を持てなかったという経緯が語られます。

 長い間縁の切れていた活動映画が再び自分の日常生活の上におりおり投射されるようになったのがつい近ごろのことである。飛行機から爆弾を投下する光景や繋留(けいりゅう)気球が燃え落ちる場面があるというので自分の目下の研究の参考までにと見に行ったのが「ウィング」であった。それから後、象の大群が見られるというので「チャング」を見、アフリカの大自然があるというので「ザンバ」を見た。そのうちにトーキーが始まるというので後学のために出かける。そうしているうちにいつのまにか一通りの新米ファンになりおおせたようである。
 いちばんおもしろいものは実写ものである。こしらえたものにはやはりどこかに充実しない物足りなさがありごまかしきれない空虚がある。そういう意味でニュース映画は自分にとって最もおもしろいものの一つである。たとえばマクドナルドとかフーヴァーとかいう人間が現われて短い挨拶をする。その短い場面でわれわれは彼らがいかにして、またいかに、英国労働内閣首相であり、北米合衆国大統領であるかを読み取ることができるような気がするのである。

以上、映画というものの面白さに目覚めた経緯が語られ、以下、映画論的な話題に移ります。

 ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかという気がする。

このあたり、昨今のハリウッド映画のような、派手ではあるものの必ずしも内容の伴わない荒唐無稽ものが大ヒットする後世の映画情勢を既に予期しているかのようです。

 未来の映画のテクニックはどう進歩するか。次に来るものは立体映画であろうか。これも単に双眼(ステレオ)的効果によるものでなく、実際に立体的の映像を作ることも必ずしも不可能とは思われない。しかしそれができたとしたところでどれだけの手がらになるかは疑わしい。映画の進歩はやはり無色平面な有声映画の純化の方向にのみ存するのではないかと思われる。それには映画は舞台演劇の複製という不純分子を漸次に排除して影と声との交響楽か連句のようなものになって行くべきではないかと思われるのである。

近年の流行ともいうべき3Dの「立体映画」の登場を、昭和初期の段階で既に予期していることに驚かされます。

 元来アメリカにジャズ音曲とナンセンス映画とが流行する事実は、かの国に古い意味での哲学と科学と芸術の振るわない事実の半面であって、そのかわりに黄金哲学と鉄コンクリート科学と摩天楼犯罪芸術の発達するゆえんであろう。・・・
 フランス人は頭のいい人種である。マチスを生みドビュシーを生んだこの国はやがて映画の上にも新鮮な何物かを生み出しそうな気がする。アヴァンガルドというのは未見であるが、ともかくもわれわれはフランス映画の将来にある期待をかけてもいいように思われる

このあたりも、20世紀中盤以降におけるフランス映画の優位性を予見しているあたりが凄いと思います。

 現代の映画を遠い未来に保存するにはどうすればいいかの問題がある。音声の保存はすでに金属製の蓄音機レコード原板によって実行されている。映画フィルムも現在のままの物質では長い時間を持ち越す見込みがないように思われるから、やはり結局は完全に風化に堪えうる無機物質ばかりでできあがった原板に転写した上で適当な場所に保存するほかはないであろう。たとえば熔融石英(フューズドシリカ)のフィルムの面に還元された銀を、そのまま石英に焼き付けてしまうような方法がありはしないかという気がする。とにかく、なんらかの方法でこの保存ができたとして、そうして数十世紀後のわれらの子孫が今のわれわれの幽霊の行列をながめるであろうということは、おもしろくもおかしくもまたおそろしくも悲しくもあり、また頼もしくも心細くもあるであろう。
 はなはだまとまらないこの一編の映画漫筆フィルムにこのへんでひとまず鋏(はさみ)を入れることとする。

実際、日本の戦前映画の保存状態の酷さは現在でも問題となっているそうです。それにしても最後の一文、なかなか気が利いていますね。

時事雑感
(昭和六年一月、中央公論)

「煙突男」「金曜日」「地震国防」の3編からなる、いずれも当時の時事的な話題に基づいたエッセイ。

「煙突男」は、ある紡績会社の労働争議で、工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間も居すわって降りようとしなかった「煙突男」の話で、これは当時メディアで大きく報道されたものらしいです。

「金曜日」は、昭和5年11月14日の金曜日に、時の内閣総理大臣である浜口雄幸が東京駅で狙撃された「浜口雄幸狙撃事件」を話題としたものです。

「地震国防」は同年に伊豆地方を襲った強い地震を引き合いに出し、軍事国防と同じくらい地震対策にも力を入れるように、主に当局に訴えるような内容となっています。

 自分もどこかの煙突の上に登って地震国難来を絶叫し地震研究資金のはした銭募集でもしたいような気がするが、さてだれも到底相手にしてくれそうもない。政治家も実業家も民衆も十年後の日本の事でさえ問題にしてくれない。天下の奇人で金をたくさん持っていてそうして百年後の日本を思う人でも捜して歩くほかはない。
 汽車が東京へはいって高架線にかかると美しい光の海が眼下に波立っている。七年前のすさまじい焼け野原も「百年後」の恐ろしい破壊の荒野も知らず顔に、昭和五年の今日の夜の都を享楽しているのであった。
 五月にはいってから防火演習や防空演習などがにぎにぎしく行なわれる。結構な事であるが、火事よりも空軍よりも数百層倍恐ろしいはずの未来の全日本的地震、五六大都市を一なぎにするかもしれない大規模地震に対する防備の予行演習をやるようなうわさはさっぱり聞かない。愚かなるわれら杞人(きひと)の後裔(こうえい)から見れば、ひそかに垣根(かきね)の外に忍び寄る虎や獅子の大群を忘れて油虫やねずみを追い駆け回し、はたきやすりこ木を振り回して空騒(からさわ)ぎをやっているような気がするかもしれない。これが杞人の憂いである。

ここには、「百年後」という言い方が度々出てきます。このエッセイが書かれてから80年経った21世紀初頭の今では、幸い日本は「恐ろしい破壊の荒野」とはなっていませんが、しかし100年経った時はどうか、誰にも分らない。関東大震災クラスの地震が何時襲っても不思議でない現状においては、「杞人の憂い」と言って笑って済ますことのできないエッセイではないかと思われます。

後に書かれる有名な「銀座アルプス」でも、寅彦は21世紀初頭までに必ず関東大震災クラスの地震が発生するばずだ、その時に日本は大丈夫か心配だ、というようなことを書いているのです。

以上、今回までに「寺田寅彦随筆集」第2巻に収録の全エッセイ21編を一通り取り上げました。次回からは第1巻に収録のエッセイに移ります。

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