「寺田寅彦随筆集」第2巻より「電車の混雑について」「相対性原理側面観」「子猫」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「電車の混雑について」「相対性原理側面観」および「子猫」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

電車の混雑について
(大正十一年九月、思想)

 満員電車のつり皮にすがって、押され突かれ、もまれ、踏まれるのは、多少でも亀裂(ひび)の入った肉体と、そのために薄弱になっている神経との所有者にとっては、ほとんど堪え難い苛責(かしゃく)である。その影響は単にその場限りでなくて、下車した後の数時間後までも継続する。それで近年難儀な慢性の病気にかかって以来、私は満員電車には乗らない事に、すいた電車にばかり乗る事に決めて、それを実行している。・・・

ラッシュ時に満員電車を回避する方法について述べたエッセイ。夢のような話ですが、そんな方法が本当にあるのでしょうか?

その答えは「混雑の週期的な波動の「峰」を避けて「谷」を求めて乗れば良い」というものです。

要するに「1台か2台やり過ごせば、必ず空いた電車が来る」ということが、数式的および実証的に(神田神保町の停留所における実地の検証を踏まえて)論じられています。その内容は確かに興味深いものですが、残念ながら、あくまで大正時代の東京の路面電車を対象とする考察であって、少なくとも21世紀現在の東京のラッシュ時の電車の混雑に対して、これを当て嵌めるのは、さすがに無理だと感じます。

というのも、電車到着の間隔にある程度のムラがあることが前提で、ダイヤ通りにきっちり定刻に、電車が駅に到着するような、現在の電車の運行状況には適応が難しいからです。

しかし着眼の鋭さはさすがですし、まず数式的に理論づけ、それを自分で実証してしまうというあたり、読んでいて唸らされます。

相対性原理側面観
(大正十一年十二月、改造)

 世間ではもちろん、専門の学生の間でもまたどうかすると理学者の間ですら「相対性原理は理解しにくいものだ」という事に相場がきまっているようである。理解しにくいと聞いてそのためにかえって興味を刺激される人ももとよりたくさんあるだろうし、また謙遜ないしは聞きおじしてあえて近寄らない人もあるだろうし、自分の仕事に忙しくて実際暇のない人もあるだろうし、また徹底的専門主義の門戸に閉じこもって純潔を保つ人もあるだろうし、世はさまざまである。アインシュタイン自身も「自分の一般原理を理解しうる人は世界に一ダースとはいないだろう」というような意味の事を公言したと伝えられている。そしてこの言葉もまた人さまざまにいろいろに解釈されもてはやされている。

以上の書き出しで始まり、さらに寅彦は、しかしながらアインシュタインの相対性理論(このエッセイでは「相対性原理」と呼称されています)について、「数学の複雑な式の開展を充分に理解しないでしかも、アインシュタインがこの理論を構成する際に歩んで来た思考上の道程を、かなりに誤らずに通覧する事も必ずしも不可能ではない」と言い切ります。

 不可能でないのみならずある程度までのある意味での理解はかえってきわめて容易な事かもしれない。少なくもアインシュタイン以前の力学や電気学における基礎的概念の発展沿革の骨子を歴史的に追跡し玩味した後にまず特別相対性理論に耳を傾けるならば、その人の頭がはなはだしく先入中毒にかかっていない限り、この原理の根本仮定の余儀なさあるいはむしろ無理なさをさえ感じないわけには行くまいと思う。ある人はコロンバスの卵を想起するであろう。卵を直立させるには殻を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである。
 殻を砕いて新たに立てた根本仮定から出発して、それから推論される結果までの論理的道行きは数学者に信頼すればそれでよい。そして結果として出現した整然たる系統の美しさを多少でも認め味わう事ができて、そうして客観的実在の一つの相をここに認める事ができたとすれば、その人は少なくとも非専門家としてすでにこの原理をある度まで「理解」したものと言っても決して不倫ではない。・・・
 少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではなく、またそういう程度に味わう事がそれほど悪い事でもないと思う。

アインシュタインの特殊相対性理論を理解することは、物理学の素人でも不可能でないばかりか、かえって容易な事だとさえ述べているのが目を引きます。同理論を「コロンバスの卵」と表現している点も注目すべきと思います。「卵を直立させるには殻を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである」・・

そして、「少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではなく、またそういう程度に味わう事がそれほど悪い事でもないと思う」と書き、アインシュタインの相対性理論をベートーヴェンの曲に喩えるという、独特の視点が打ち出されています。

 私は科学の進歩に究極があり、学説に絶対唯一のものが有限な将来に設定されようとは信じ得ないものの一人である。それで無終無限の道程をたどり行く旅人として見た時にプトレミーもコペルニクスもガリレーもニュートンも今のアインシュタインも結局はただ同じ旅人の異なる時の姿として目に映る。この果てなく見える旅路が偶然にもわれわれの現代に終結して、これでいよいよ彼岸に到達したのだと信じうるだけの根拠を見いだすのは私には困難である。・・・
 こういうわけで私はアインシュタインの出現が少しもニュートンの仕事の偉大さを傷つけないと同様に、アインシュタインの後にきたるべきXやYのために彼の仕事の立派さがそこなわれるべきものでないと思っている。
 もしこういう学説が一朝にしてくつがえされ、またそのために創設者の偉さが一時に消滅するような事が可能だと思う人があれば、それはおそらく科学というものの本質に対する根本的の誤解から生じた誤りであろう。
 いかなる場合にもアインシュタインの相対性原理は、波打ちぎわに子供の築いた砂の城郭のような物ではない。狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚である。

以上を読んでいて驚異的だと感じるのは、寅彦が、アインシュタインの相対性理論の重大性と、その将来の発展性を、この時期(大正11年)に見抜いていること。21世紀の現在においても、とくに宇宙物理学の分野で、アインシュタインの相対性理論は必要不可欠なものですが、この理論の重要性を大正時代に見抜いた日本人が、はたしてどれだけいたのでしょう。

 自然の森羅万象がただ四個の座標の幾何学にせんじつめられるという事はあまりに堪え難いさびしさであると嘆じる詩人があるかもしれない。しかしこれは明らかに誤解である。相対性理論がどこまで徹底しても、やっぱり花は笑い、鳥は歌う事をやめない。もしこの人と同じように考えるならば、ただ一人の全能の神が宇宙を支配しているという考えもいかにさびしく荒涼なものであろう。

「四個の座標の幾何学」という、相対性理論の本質を鋭く突く書き方といい、独特の詩的な表現で同理論を賛辞している点といい、いずれも素晴らしい文章だと思わされます。

子猫
(大正十二年一月、女性)

これは「寺田寅彦随筆集」第1巻に収録されている「ねずみと猫」の続編的なエッセイです。

すっかり寺田家に溶け込んだ、2匹の野良猫「三毛」と「たま」を題材に、主に「三毛」の出産と、その後の顛末について語られています。

ほのぼのとした諧調のエッセイですが、それだけに「三毛」が最初に産んだ子猫を、出産直後に寅彦の過失により死なせてしまうあたりのくだりが、ひときわ痛々しい印象を与えます。

そしてエッセイの最後は、以下の、ズシリとした文章で締めくくられています。

 私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない。


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