ツィメルマンとラトル/ベルリン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第1番


ブラームス ピアノ協奏曲第1番
 ツィメルマン(pf) ラトル/ベルリン・フィル
 グラモフォン 2003・04年 289-477-6021
289-477-6021

先週末サントリーホールで聴いたクリスチャン・ツィメルマンのショパン・リサイタルにつき、その感想を一昨日ブログに出しましたが、そのツィメルマンは近年、CDのレコーディングに対して消極的な姿勢をとっており、特に最近5年間は、新譜を全くリリースしていない状況です。

それに関してですが、実は当夜のリサイタルの公演プログラムの中にツィメルマンへのインタヴュー記事が掲載されていて、そこで最近の彼が何故レコーディングを行わないのか、その理由が明らかにされていました。

2010-06-08

これは少し興味深い内容だと思うので、以下で簡単に触れます。

まず、インタヴュアーから発せられた、「現在のコンサートをライヴ録音したらどうか」という提案に対し、「それはファゴット奏者に対して肺のレントゲン写真を渡すようなもの」という、かなり痛烈なコメントを返した後で、以下のような自論を開陳しています。

・・・基本的に言って、録音したものは、缶詰を買って、その外側だけを考えているような気持ちにさせます。音楽とはいったい何なのだろう、と私は自問します。私たちは当然録音というものを聴きますが、それは、私にとって音楽のなかでいちばん重要な、『いま』というファクターを欠いている。演奏者から伝わってきて、また戻ってくるというこのサイクル、それをまたモデュレーションしてまたそのサイクルのなかに入れていく、ということが私には大切なのです。レコーディングではインプットが一方向になってしまう。つまり、壁に向かってなにかを投げるようなもので(笑)、なにかが戻ってくることはない。スタジオにいると、自分がばか者のように思えてくるときがある。・・・

このあと、「楽譜も録音も同じくらい芸術からかけ離れている」、「音楽というのは、音ではなく、時間なのです。音楽いうのはそれを再現している時間そのものにあるのだと私は思います」という風に述べてインタヴューを締めくくっています。

以上のツィメルマンへのインタヴューからは、少なくとも以下の2つのことが、客観的に言えると思います。

①現在のツィメルマンのレコーディングに対するスタンスが、かつてのグレン・グールドとは正反対の境地にあること。

②今後、ツィメルマンの新録音がリリースされる可能性が、ほとんどゼロに近いのではないかと思われること。

その上で問われるのは、我々CD受容側の人間が、上記のツィメルマンのコメントに対し、どう思うか、ですが、「それでは、お前はどう思うんだ」、そう聴かれた場合、私はフィフティフィフティと答えるでしょう。読んで首肯できる部分が5割、そうでもない部分も5割、ひいては五分五分かなという感想を持ちます。

しかし、例えばCD命で、コンサートなど歯牙にもかけない人が読んだら、まるっきり納得できないという話になると思いますし、逆にコンサート命で、CDなど歯牙にもかけない人が読んだら、まさにその通り、よくぞ言ってくれたという話になろうかと思われます。しかし私は、結局そのどちらでもないと思うので、フィフティフィフティなのかなと考えます。

そんなことを考えながら、そのツィメルマンの現状における最後のレコーディングである、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共に録音し、2005年にリリースされた、ブラームスのピアノ協奏曲第1番のCDに、久しぶりに耳を傾けました。

ここではレコーディングに際してラトル/ベルリン・フィルを、わざわざEMIからレンタルしていることからも伺えるように、ほぼツィメルマンの主導で行われた録音でした。

このCDの英文のライナーには、このブラームスの録音のために、ツィメルマンが80種以上ものレコードに耳を傾け、作品の正しいテンポを研究した旨が記載されています。

確かに上に挙げたコメントを読む限りは、いかにも彼が録音を全否定しているようにも読めますが、しかし彼が「芸術からかけ離れている」と評したレコードを、自身の解釈のための研究材料としている事実に鑑みると、本心ではレコードの価値なり効用なりを、ある程度まで認めているのではないかと思えなくもないのですが、どうでしょうか。

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