フィラデルフィア管弦楽団の来日公演の感想


昨夜(4/28)のサントリーホール、フィラデルフィア管弦楽団の来日公演の感想です。

2010-04-29

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと並べた通常配置、いわゆる「ストコフスキー配置」でした。やはりフィラ管の伝統というところでしょうか。今では外来オケの公演でも滅多に見られなくなった配置ですが、、

まず16型の編成でベルリオーズの「ローマの謝肉祭」が演奏されました。いきなりフィラデルフィアサウンドが炸裂といった風で、そのアンサンブルのめくるめく音響美をストレートに堪能させられた演奏でした。

続いて編成を14型とし、イーヴォ・ポゴレリッチをソロに迎え、ショパンのピアノ協奏曲第2番が演奏されました。

ここでは文字通り常軌を逸したようなショパンが披歴されました。第1楽章ピアノ独奏部の冒頭から、およそポゴレリッチの他には誰もやらないのではないかと、いうくらいの変則を極めたルバートやデュナーミクの変化ないし音色の推移の連続に、聴いていて驚嘆させられるとともに、これら予断を許さない所作を伴うピアノソロの、音の脈動が集積していった果てにおいて、すごい真実味に裏打ちされた、真正のエモーションとしての音楽が鳴り響く、そんなような演奏でした。

このピアノ演奏には、およそ紋切型の動きというものが何処にもなく、むしろ押し潰されそうな抑圧感があったり、発作的なまでに激烈な感情の高まりがあったりという風で、その突き放したように冷たい感触のピアニッシモには、耳にして思わずゾッとするような戦慄があり、その熾烈なまでに強打されるフォルテッシモには、強度に比例して音楽の内面にグッと踏み込んでいくかのような凄味があり、そして時おり不意に湧きあがるような激しい情感の放射に、思いのほか強く胸を打たれたり、、、、とにかく私は、この規格外のショパンに、もう固唾を飲んで聴き入るばかりでした。

第2楽章ラルゲットにおいても、冒頭のソロの入りの暗みを帯びた独特のフレージングからして、得体の知れない憂い、虚無感が安らぎに交錯するような不可思議な感覚があり、この気分が楽章全体を支配していたのです。それは際立って内向的な気分であり、少なくとも、ショパン19歳の筆による、青春の喜びを反射したような、天真爛漫とした楽想からすると、全く異色な肌合いの演奏と言えるものでしたが、それを聴いているうちに何だか私には、このポゴレリッチの演奏こそが、本当にショパンの言いたかったことではないか、という気がし出しました。それは終楽章も同様で、この演奏を聴いて、私は初めて、この終楽章の安逸な楽想を疑ったように思うのです。

デュトワ/フィラ管は、持ち前の洗練された響きで、ポゴレリッチの変則を極めたピアニズムに懸命に付けていくのですが、その晴れやかで爽やかな伴奏が、ピアノソロに付き纏う、ある種の暗黒を、反射的に浮き上がらせる効果を出していることに、途中から気が付きました。それゆえ、この作品の背反性に、初めて気が付いたような、そんな気さえしたのでした。

それにしても、このポゴレリッチの演奏においては、何か恐ろしいほどに鋭敏な音に対する感性とイマジネーションが背景にあることは疑いないとしても、到底それだけで済むような演奏とは私には思えず、おそらく私のような凡人などには想像もつかないまでの、彼のショパンに対する何か、ひねくれた共感のようなものがあり、それが独自の感性を通して音化された結果、ああいった独創的な表現に結晶したということなのでしょうか。

このショパンは、おそらくポゴレリッチ唯ひとりが表現することのできる世界と思われましたし、その途轍もないピアニズムが聴き手に強度の緊張を強いると同時に、法外な感銘を聴き手にもたらす、まさに衝撃的な演奏でした。

休憩を挟んだ後半は、編成を16型に戻し、まずラフマニノフの交響的舞曲が演奏されました。

この作品は1941年にオーマンディ/フィラデルフィア管により世界初演され、作品自体も同楽団に献呈されている、このオーケストラゆかりの曲であるとともに、ラフマニノフとしても、おそらく当時のフィラ管の特性を考慮して作曲したものと思われる、全編に華麗かつ絢爛な色彩美を有する作品です。

いわばフィラ管にとってはホームグラウンドともいうべき作品であって、まるで水を得た魚のごとく、そのアンサンブルが曲想にフィットしていること比類なく、第1曲の中間部のオーボエ、クラリネット、それにサクソフォーンが絡むところなど、メロディの夢想な味わいが素晴らしくて、聴いていて軽い眩暈を催すほどでしたし、クライマックスのスペクタクルも壮麗の極みでした。

第2曲のワルツにしても、おどけた感じの諧謔を巧みに描き出しつつ、そこにエレガントで蠱惑的な響きを存分にまぶして、えもいわれぬ陶酔の境地をホールに現出せしめ、それは聴き手の耳を捕らえて離さないほどに魅惑的なものでした。

終曲も洗練を極めた絢爛たるサウンドの妙あり、エスプリを効かせたフレージング妙あり、独特の光沢と艶やかさを帯びた音色の妙あり、そして、そういったものが合併して一体化する時の音響的な快感には途方もないものがあり、終盤のクライマックス形成に聴かれたアンサンブルの充実した迫力、響きのめくるめく光彩美、いずれも抜群で、その全開とも言うべきフィラデルフィア・サウンドの醍醐味に素直に酔わされた、そんな演奏でした。

続いて、ラヴェルのラ・ヴァルスが演奏されました。

ラフマニノフの交響的舞曲がフィラ管のテリトリーとするなら、こちらのラヴェルはデュトワのテリトリーと言えそうですが、ここでもフィラ管はラフマニノフ同様、絢爛豪華な音響美が充溢する、エレガントな打ち上げ花火のようなラヴェルを披歴し、冒頭の静謐な弱音から終盤のフォルテッシモの最高潮に至るまで間然とすることなく、聴き手の高揚をじわじわと高めていく感動的な演奏を成し遂げていました。

しかし、ここでは音楽の全体の雰囲気が、あまりにもラフマニノフに似通って聴こえたのが私には少し引っ掛かったように思いました。正直なところ、ゴージャス一辺倒とまでは言わなくとも、キンキラキンとした眩さが凄くて、それが過ぎて陰影から何から全部おもてに出してしまい、外面的で含むところの少ない演奏として、聴かれなくもなかったのでした。

要するに、その表情における屈託の少なさが聴いていて気になったのでした。というのも、本来この曲には鬱屈したところも何パーセントかあって、例えばフランスのオケの含みのある音色で聴くと、それが自然におもてに出てくるのではないかと思われるからです。

デュトワがフィラ管の首席指揮者に就任してまだ1年余り、いくらデュトワでも、そんなに短期に、強固な伝統を背負ったフィラデルフィアサウンドを自己の理想の響きに染め上げるのは、さすがに無理な話だと思われますし、それなりの時間をかけて、おそらくデュトワが真に望むような、よりフランス音楽に適応した色合いに変容させていくのではないか、今はその過渡期ではないか、、、アンコールも含めて当夜のラヴェルに関しては、そんな風に私には思えました。

以上、当夜のフィラデルフィア管弦楽団の来日公演は、少しだけ違和感の残ったラヴェルは別としても、ラフマニノフにおいては同楽団の持ち味が、ほぼ全開と思えましたし、何よりポゴレリッチのショパンという法外な演奏を耳にできたことが大いなる僥倖でした。

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