カンブルラン/読売日響の演奏会(サントリーホール 4/26)の感想


昨夜(4/26)のサントリーホール、カンブルラン/読売日響のコンサートの感想です(本当はもう少し短くまとめたかったのに、時間切れで、、)。

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたVn-Va対向配置でした。

まず14型の編成でベートーヴェンのコリオラン序曲が演奏されました。公演プログラムによると、この序曲をカンブルランがコンサート冒頭に据えた理由は「常任に就任して最初に出す音には強いアタックが欲しいから」とのことです。

ここでは、その言葉さながらに「強いアタック」の演奏が披歴されました。パンチの利いた演奏と言うのか、やや変則的なアゴーギグから、強和音の音化は鋭く断ち切られ、ティンパニも過激なほど強打され、張り詰めたような空気がホールを満たした、すこぶる鋭利なベートーヴェン。これは初っ端から、かなり凄い演奏でした。

続いて編成を16型に拡大し、マーラー交響曲第10番の「アダージョ」が演奏されました。

ここでカンブルランは、読売日響のアンサンブルから研ぎ澄まされたように怜悧な音色や、運動感と切れを満たしたフレージング、あるいは硬質感のあるリアルな響きの肌合い、といったものを巧妙に抽出していきながら、マーラーの音楽を、自己の目線で再構築してかかるというよりは、むしろ主観を交えず、作品を有るがままに描き出そうとしている風で、その結果マーラーが混ざりっけのないリアルな音のドラマとして響いてくる、そんな演奏でした。

音楽を通底する耽美と苦悩、そして終盤の絶望的なカタストロフ、、、なるほど聴いていて、このマーラーの「アダージョ」というのが、ブルックナーのような超然とした音のドラマとは一線を画した、なにか抜き差しならない人間の感情の動きが音楽にびっしり張り詰められている音楽なのだなと、いうことが、今更ながらに強く実感された演奏でしたし、例えば小説などでも、情を抑えて写実を極めた文章が、私小説のような感情ベタベタな文章よりも、よほど読み手の心を強く揺さぶりたり得るように、カンブルランの客観を極めたような冷厳なアプローチが、マーラーの音楽のヒダに巧く適応していたように感じられ、そのあたりの演奏の佇まいが私には新鮮にして感銘深いものとして映りました。

休憩を挟んで(編成は16型のまま)シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」が演奏されました。

ここでも演奏の方向性としては、前半のマーラーとおおむね同じと思われ、この交響詩に内在する人間のリアルな心の動きのようなものが、硬質に引き締った音響の流れと、情感を殊更に拡大しないシビアなフレーズの筆致とにより、虚飾なく音化された、そんな演奏で、そのクライマックスのカタストロフにおいては、前半のマーラーでのカタストロフ同様、聴いていて肺腑が抉られるかのような痛烈を極めた響きがホールを満たし、圧倒されるばかりでしたし、全体を通してハーモニーの透明感も素晴らしく、この大規模な編成からすると、聴いていて何か魔術的とさえ思えるくらいでした。

このシェーンベルクの交響詩はCDでは耳にしたことがあるものの、生で聴くのは、これが初めてでした。とにかく大編成な曲ですし、その複雑無比な対位法の駆使(あのマーラーですら、これには白旗を上げたという!)にしても、生で聴いてピンと来たようなところもあり、その意味では作品の全体像を初めて眺められた、みたいな爽快感を聴いていて味わったりもしましたが、それというのも、単に生だからというだけではなく、カンブルランのアンサンブルに対する厳しい音響統制の賜物でもあるように思えるのです。その意味では、カンブルランらしい素晴らしい演奏だと思いました。

以下は総括的な話になりますが、当夜の公演の演目を振り返ってみると、ベートーヴェンを境界線として、マーラー、シェーンベルクという、前任者スクロヴァチェフスキー(以下、ミスターS)のレパートリー外の曲目を敢えて打ち出してきたあたり、なんとなく今後のカンブルラン体制の舵取りの方向性が仄めかされているように思えます。

基本的にミスターSの得意としたレパートリーというのが、ベートーヴェンからシューマン、ブラームスなどを経てブルックナーに至る、ドイツ・ロマン派の大きな流れの中に組み込まれていたのに対し、相対的に20世紀音楽は手薄という感じで、実際ショスタコーヴィチは例外としても、例えばバルトークや、ミスターS自身の作品などでは、少なくともブルックナーなどで示すまでの表出力を漲らせるには到らずという印象があり、そのあたりが読売日響のひとつの鬼門となっていた感もありますが、これが一転、現代ものを重視するカンブルラン体制となったことで、今後はアンサンブルの練り上げに関し、ある程度の意識の切り替えが、オーケストラに要求されることになるような気がします。

この点に関連し、当夜の公演では特に後半のシェーンベルクにおいて、聴いていてフレージング間のコントラストの強さ、あるいは音色に対する尖鋭さに、それなりにムラが目立ったように感じられた(つまり、音響的に冴えている局面と、そうでない局面との差が割り合いに大きい)点が少し気になったのですが、このあたりは、結局のところアンサンブルの技術面でのポテンシャルに関係してくるのかなと思うのです。

つまり今後、オケのレパートリーの中心を20世紀音楽に移行していくとなると、そういった感情的にクドくない音楽に必然的に要求される、例えばアンサンブルの音程とかタテヨコの線の精密さ等に対し、それに対応し切るだけの(現代音楽型の)アンサンブル能力の向上が必須要件になると思われるところ、それは見方を変えればアルブレヒト→ミスターSのラインで形成された、いわばドイツ・ロマン派型アンサンブルの中心軸をずらすような形になるので、そのあたりの切り替えに対応できるかがカンブルラン体制の一つの関門ではないかと、そんな風に思えます。

もうひとつ気になった点として、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」は、本来なら弦の編成として16-16-12-12-8が要求されているところ、当夜の演奏での編成は16-14-12-10-8でした。もし、これが読売日響として弦の大規模なスペックをカバーできない結果だとするなら、特に現代曲では少し問題であるように思います。

以上、ダラダラと書いてしまった上、後半は何だか纏まりのない感じになってしまい恐縮ですが、当夜の公演はカンブルランのポスト就任披露演奏会に相応しい、内容の豊かなコンサートと感じましたし、同時に幾ばくかの課題もあるかなという気もしましたが、そのあたりも含めて、新体制となった読売日響の今後の発展がどうなるかを、期待とともに予感させてくれた演奏会だったと思います。

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