リヒテルによるバッハ・平均律クラヴィーア曲集全曲(セッション録音)


J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻・第2巻
 リヒテル(pf)
 ビクター 1972・73年 VICC-40210-3
VICC-40210-3

一昨日・昨日と、スヴィヤトスラフ・リヒテルによるバッハ・平均律クラヴィーア曲集全曲のインスブルック・ライヴを聴いた印象について書きましたが、その中で度々言及したリヒテルの同曲のセッション録音、すなわちリヒテルが1972年と翌年にザルツブルクのクレスハイム宮殿でセッション録りしたバッハ平均律全曲録音に関して、今日は少し書きます。

とはいえ、こちらは既に語り尽くされた感のある有名な演奏ですし、あくまでインスブルック・ライヴとの対比という観点で思うところを書いてみます。

このセッション録音に対する私なりの印象というのは、昨日書いたとおり、「その独特の残響特性と、リヒテルならではのピアニズム、ことに個々のフレージングに対する吟味と研磨の際立った度合いとの、幸福な融合により、聴き手を深い思索の境地へ誘うような佇まいがあり、それゆえに聴いていて深いところで癒される思いのする演奏」というものです。

それを少し踏み込んで書くならば、20世紀の最高峰のヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのリヒテルのピアニズムを惜しみなく投入しながらも、ある種の高踏的な精神も同時に持ち合わせていて、それがバッハの哲学的ないし瞑想的な音楽の雰囲気と絶妙に整合している(そして、その整合剤として作用しているのが、あの独特の濃密な残響感なのでしょう)、そのあたりの音楽の深淵に途方もない魅力ならびに吸引力を保有する演奏で、何度聴いても飽きないというより、むしろ何度も聴きたくなるような、そんな演奏でした。

対して、インスブルック・ライヴの方は、セッション録音で示した、ある種のゆとりを排してギリギリの地点で勝負したバッハ、という気がします。往年のリヒテルのピアニズムが如何に超絶的なものであったか、それがスタジオ録音以上に克明に伝わってくるのです。

したがって、セッションでの哲学的ないし瞑想的な音楽の雰囲気は後退していて、代わりに抜き差しならないまでの表現衝動の高まりが聴き手の胸をえぐる、そんな演奏になっているのです。

そのあたりの雰囲気の違いを一つとして、もう一つ私が興味深く思ったのは、個々の曲に対する演奏タイムにおける、セッションとライヴでの顕著な違いでした。

というのも、インスブルック・ライヴの方が、セッションよりも全体的に演奏時間が短く、要するにテンポスピードが速くなっているのです。

具体的に見ると、第1巻と第2巻の全48曲のうち、実に47曲において、インスブルック・ライヴの方がセッションよりもタイムが短いのです。この47/48という徹底ぶりにおいて、私は明らかに偶然ではないリヒテルの確信を感じました。

この点、このライヴがセッションを経由した直後の時期であったことが、この曲をリヒテルにとって自家薬籠中のものとし、揺るぎもない自信で一気に弾き抜いてしまったということなのかも知れません。

しかし周知のように、バッハの平均律はモダン・ピアノ演奏における最難曲のひとつであり、それは、この曲のライヴ録音をリリースするピアニストが、(リヒテルを除いて)ほぼ皆無に近いことからも裏付けられます。

この超難曲を、ミスをしたら取り返しのつかないライヴで、ミスをしても録り直しが効くセッションよりも、一回り速めのテンポで弾き抜いてしまうというのは、一体どういう発想なのでしょう。それでいて、この驚異的な完成度! ほとんど常人の理解を超えているように思えますし、それこそ神業の領域にある演奏というべきでしょうか。いかにリヒテルが天才であったか、その証左がこのインスブルック・ライヴなのかも知れません。

それが過ぎて、時に技術的な凄さが全面に出過ぎて、バッハの音楽の落ち着きや内面性と不和を来たす局面も聴かれることを考慮すると、「リヒテルの真骨頂」を聴くならインスブルック・ライヴ、「リヒテルのバッハ」を聴くならセッション、ということになるのではないでしょうか。

いずれにしても、それぞれに掛け替えのないピアニズムの粋が披歴された、リヒテルの2つの平均律、いずれも今後100年経とうとも色褪せない人類の至宝の一つではないかと思います。

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