カルロス・クライバー/ウィーン・フィルによるシューベルトの交響曲第3番と「未完成」


シューベルト 交響曲第3番、交響曲第8番「未完成」
 C・クライバー/ウィーン・フィル
 グラモフォン 1978年 POCG-1188
POCG-1188

以前にも書きましたように、この年末年始にかけて、私はクライバーの評伝「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(上)」を一通り読んだのですが、それについて思うことを少し書いてみたいと思います。

ちなみに上記シューベルトのCDですが、それを聴きながら評伝を読んでいたので(その理由は以下で触れます)、ここで引き合いに出した次第です。何を今さらという有名盤ですし、ここで特に感想を書くということはしません。

このクライバーの評伝、面白いという点では確かに凄く面白いのですが、それは読んで感動するという性質のものではなくて、純粋に好奇心をくすぐるという観点において面白かった、というべきものでした。

これが例えばベートーヴェンや夏目漱石の伝記だったら、私などは読むと圧倒的に感動してしまうのですが(ちなみに、このクライバーの評伝と並行して読んだ寺田寅彦の評伝も感動的な内容でした)、このクライバーの伝記は特に読んでいて胸を打たれる、という感じにはならないのです。

その意味で、このクライバーの評伝を読んで私が具体的に面白いと感じた要素は、大きく分けて2つあります。ひとつは、これまであまり語られなかったクライバーの人となりが、その仕事ぶりも含め、かなり赤裸々に活写されていて、これが読んでいて滅法おもしろいと同時に、色々と考えさせられるような内容だったからです。

何しろクライバーの辞書には「妥協」の文字がなく、オペラ公演にしろ演奏会にしろ録音にしろ、いかに彼が周囲の人間と火花を散らしながらの、抜き差しならない状況下、あくまで自己の理想としての音楽を作り上げていったか、それがイヤというほど書かれているのです。むろんクライバーの気難しい性格は周知でしたし、ある程度は予想もできた内容であるとはいえ、それでも、まさかこれほどとは、、、というのが率直な印象でした。

この評伝の内容が完全に真実かどうか、それはまた別とするにしても、少なくとも私は、これがもしクライバー以外の指揮者だったら多分、ここに書かれている内容を、まず信じなかっただろうとさえ思うのです。それほど常軌を逸したエピソードがゴロゴロ書かれているのですから。

例えば、64年シュトゥットガルド州立歌劇場「椿姫」のキャンセル事件、、

・・・シェーファー(注:シュトゥットガルド州立歌劇場総監督)は自伝の中でこの出来事をこう述べている、「ある女性歌手がプローベに来なかった、それはもちろんけしからんことだった。カルロスはピアノの前に腰を下ろしてしばらく待っていた。それから私のところにやって来て、降りますと言う。『それじゃあ、帰りの切符代を払おうか』と訊くと、『いいえ、けっこうです。そのくらいの金はあります』。我々は二人ともそれ以上話すことはなかった。わたしはこのクライバーとかいう男にこれ以上会うまいと心に決めた」・・・
               (以上、評伝のP.148~)


あるいは、65年チューリヒ歌劇場「ばらの騎士」キャンセル事件、、

・・・彼に≪ばらの騎士≫の再演を持ちかけた時、最初の問題が生じた。最初のプローベの朝、オーケストラは指揮者が来るのを待っていたが無駄だった。彼に電話してもらちが明かなかったので、心配した劇場総監督は事務局長に様子を見に行かせた。カルロスは寝巻き姿のまま絶望してレコード・プレーヤーの前にしゃがんでいて、『とてもこうはできない』とうめいた。ターンテーブルの上には彼の父のLPが乗っていた。・・・
               (以上、評伝のP.182~)


他にも66年エジンバラ音楽祭での「ヴォツエック」の指揮を、ラジオ中継のマイクが目ざわりという理由で当日キャンセルし、膨大な損害を被らせたことや、69年シュトゥットガルド州立歌劇場「トリスタンとイゾルデ」を、そんなオペラは妻が陣痛で苦しんでいる時には振れないと言って「ばらの騎士」に変更を要求し、劇場側を激怒させたこと、などなど。

そもそもクライバーという指揮者の類型を考えた場合、少なくとも「仕事を巡って周囲の人間と摩擦を起こすことを厭わずに、あくまで自己としての理想の演奏を、徹底的に追求する指揮者」という点において、紛れもなくトスカニーニやフルトヴェングラー、あるいはセル、チェリビダッケといった、いわゆる独裁型の、ドグマティックな指揮者と共通する気質を備えているように、私には思われるのですが、しかし例えば、、、

・・・ある≪ばらの騎士≫の上演では、急遽代役で登場した楽員が、一か所でミスを犯した。クライバーは指揮台で怒り、「出て行く!」と言った。≪椿姫≫では、歌手たちに憤慨し、足を壁にもたせかけ、数分指揮をするのをやめた。70年代初め、≪椿姫≫の演奏がルーティンに陥っていると気がついたクライバーは、その指揮を降り、別の指揮者が代わりに立った。彼の芸術的な要求という観点から見れば、これらはすべて首尾一貫した行動である。二回行われた≪オテロ≫の公演では、「デズデモナは本当に絞め殺されてしまえば良いのに」と言った。歌手かオーケストラが間違えた時は、左手をズボンのポケットに突っ込み、壁により掛かったまま、右手だけで指揮をした。・・・
               (以上、評伝のP.333~)


ここまでになると、さて前述のトスカニーニやフルトヴェングラー、セル、チェリビダッケといった指揮者と、クライバーは果たして同じタイプなのだろうかと、かなり疑問にも思われてくるのです。

こういった巨匠指揮者と、クライバーとの気質の違いを考えるなら、それはおそらく職業指揮者としての社会的責任感とでも言うべき意識が、クライバーには欠落していたということになるのでしょう。自分の関わる演奏会なり舞台なりを、最終的に成功に導く、という意識を、クライバーは基本的に重視しない。自分の理想が実現できるか否かがすべてであって、実現できないと分かった途端、その責任を顧みることなく、実に簡単に投げ出す、、、

常識的に考えるなら、こういう気質を押し通していくとなると、社会的な業務に携わることは、まず不可能とも思えるのですが、そこは演奏芸術という行為自体の特殊性と、何より彼の天才性という要因から、最終的にノープロブレムと看做されたのでしょう。これは考えてみると、実に凄い話ですが、、、

要するに、クライバーという指揮者は、世界中の職業指揮者においても本当に例外的なくらいに、アナーキーな気質の指揮者だったのですね。少なくとも私は、こういったタイプの指揮者を他に思いつきませんし(アーティストという範囲では、ピアニストのミケランジェリが唯一おもい浮かぶくらいですか)。

以上のような話とは別に、このクライバーの評伝を読んで興味深かった、もうひとつの点ですが、それはクライバーの残した一連の録音につき、各演奏の背景や裏話といったエピソードが豊富に記載されていたことです。例えば、ウィーン・フィルとの上記シューベルトの録音に関しては第5章「1974~1978年 ウィーン・フィルとのレコード録音」のP.341~343に記載されています。

何しろ今まで何度となく耳にしてきた、お馴染みとでもいうべきクライバーの一連の録音について、あれこれ興味深いことが書かれているのですから、評伝中で言及されている録音のCDについては、これを機に改めて聴き直してみたのでした。もちろん、該当箇所を読みながらです。

この点については、また次回に改めて書きたいと思います。

コメント

 
Googleのブログ検索で訪問しました。
もっと早く出版されてもよかったような気がしますが、ともかく、ぜひ読みたいと思いました。
ありがとうございます。
コメント有難うございます。

>ともかく、ぜひ読みたいと思いました。
>参考になりました

いつもCDの感想ばかり書いているので、たまには本の感想でも書くかなと思って、私が当ブログ開設以来はじめて書いた読書感想の記事が、あのクライバーの評伝の感想でした。拙い内容ですが、御参考になれば幸いに思います。

下巻の方は今年の春頃に刊行予定とのことです。そちらも読むのが楽しみです。

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