テンシュテット/シカゴ響によるマーラー交響曲第1番「巨人」の90年ライヴ


マーラー 交響曲第1番「巨人」
 テンシュテット/シカゴ交響楽団
 EMIクラシックス 1990年ライヴ TOCE3321
TOCE3321

先日の更新で、クラスス・テンシュテットがロンドン・フィルを指揮したマーラー「巨人」の90年ライヴを聴いての感想を掲載したのですが、テンシュテットは同じ90年に、シカゴ交響楽団に客演したコンサートにおいて、この同じマーラー「巨人」を取り上げており、その演奏のライヴ盤が以前にEMIからリリースされています。

このシカゴ響との演奏は90年5月・6月におけるシカゴ・コンサートホールでの演奏会のものですが、今回リリースされたロンドン・フィルとの「巨人」が同年1月の演奏会ですので、その直後の演奏ということになります。

そこで良い機会とばかり、これら2つの演奏を聴き比べてみたのですが、さすがに演奏様式として似ている部分も多く伺われる一方で、かなりの相違点も伺われるのです。

こちらのシカゴ盤の方は、まず音質が圧倒的に良いですし、演奏自体の完成度も圧倒的に高く、オーケストラの機能性においても素晴らしく、そこにテンシュテットならではの情動的な振幅の激しさが加えられていることもあり、私としては少なくとも今回リリースされたロンドン・フィル盤を耳にするまで、この作品に対するテンシュテットの演奏としては、それこそ会心の演奏ではないかとも思っていました。

しかし今回のロンドン・フィル盤の後で聴くと、いささか聴き劣る印象も否めませんでした。というのも、私が先日の更新で書いたような、途轍もなく衝撃的で常軌を逸したインパクトが、こちらのシカゴ盤においては、さほどには強く伺われないからです。

つまり、このシカゴ盤の演奏は、おそらく慣れないアメリカのオケへの客演であることによるのか、今回リリースのロンドン・フィル盤のそれに比べて、いくぶんか表情に抑制を効かせているような気配が伺われるのです。

例えば第1楽章の演奏タイム(提示部は共に反復されています)が、シカゴ盤が18分でロンドン・フィル盤が17分と、ちょうど1分もの差があるなど、総じてシカゴ響との演奏の方が、聴いていてアンサンブル展開が慎重な感じを受けます。

結果そのぶんだけ、こと演奏の表出力という点では今回のロンドン・フィル盤の方が一歩凌駕しているように感じられるのですが、これは客演指揮という制約上、止むを得ないのかも知れません。

それでも90年代のテンシュテットの演奏というのは、いずれにも鬼気迫るような独特の凄味があり、その奥部には我々のような凡人からすると、何か迂闊に触れるべからざるものが潜んでいるように思われてならないのですが、それに関連するかどうか、最近に読んだ寺田寅彦の評伝における、以下のくだりが、私には思い起こされるのです。

ところが、もう一つの夢である文学的表現者として立ちたいという願望は、容易には実現しそうになかった。恩師である漱石は、寅彦が東京に出てきた時点では、まだ熊本の五高で英語を教えていたし、一年後にはロンドンに留学することになる。子規という漱石から紹介された師はいたが、六尺の病床に身を横たえ、日々激痛に耐える状態であった。さらにまた、文学者として立つには、文章表現上の才能だけでなく、人生上の深刻な挫折、絶望による精神上の地獄巡りを潜り抜けることが不可欠だが、寅彦にはその体験が欠けていた。しかし二年後、夏子の喀血と自身の発病と療養、さらに夏子の死による絶望という形で、人生上最大の危機にさらされるようになる。
     「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」より


あたかもベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」を彷彿とさせるようなエピソードなので、読んだ際に印象に残っていたのですが、これをテンシュテットの場合に引き直すとするなら、もとからマーラー指揮者としての圧倒的な才覚を有していたところが、ガンという死病との抜き差しならない闘病生活を経ることで、その才に異常なまでの磨きが掛かった、とでも言うべきなのでしょうか。

いずれにしても、最晩年のテンシュテットが到達した演奏家としての境地が、如何に隔絶的であるかを、改めて強く認識させられた次第ですし、今後も彼の同時期のライヴは、ちょっと聴き逃せないと思うので、もし他に埋もれている音源があるのであれば、音質は多少悪くともリリースを切望したいと思います。

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