マリインスキー歌劇場管弦楽団来日公演の感想


昨日のサントリーホール、マリインスキー歌劇場管弦楽団来日公演の感想です。

2009-12-03

オーケストラ編成は12型で開始されました。配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置でした。

まずバレエ音楽「カルタ遊び」が演奏されたのですが、これはポーカーの3番勝負を音楽で表現した作品で、ストラヴィンスキーの新古典主義時代に作曲されたバレエ音楽のひとつです。

「ハルサイ」に代表されるストラヴィンスキーの原始主義時代の激しいリズム的ダイナミクスの名残を宿しながら、全体的にはユーモアたっぷりの、面白い音楽に仕上げられているのですが、ゲルギエフの指揮は、やや抑制を効かせてアンサンブルを整然と鳴らしつつも、この作品のユーモラスな側面を殊更に強調するというよりは、どっしりと構えた本格的な演奏を展開するという趣きでした。

必然ある種の洒脱さには乏しい憾みもあるとしても、例えば第1ラウンドのジョーカーの踊りのグロテスク感の強さとか、第2ラウンドでのハルサイを思わせるようなアンサンブルの目まぐるしい変わり身とか、あるいは第3ラウンドで、いきなりロッシーニ「セビリアの理髪師」の主題を真似したメロディが唐突に響きわたるあたりの、突拍子もない面白さなど、いずれも演奏が本格的であるがゆえに、作品のシュールな側面が浮き彫りにされるという印象があり、そのあたりが聴いていて新鮮でしたし、同時にオーケストラの素晴らしいアンサンブル能力を存分に印象づけられました。

続いて、編成を14型に拡大した上で、アレクサンドル・トラーゼをピアノ・ソロに迎えて「ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ」が演奏されました。この曲はストラヴィンスキーの作曲したピアノ協奏曲のひとつなのですが、協奏曲ではなく敢えてカプリッチョと命名されているように、かなり自由な形式で書かれていて、その雰囲気にはエレガントな側面も強く、ロマン派のピアノ協奏曲のムードを随所に散りばめた、ストラヴィンスキーとしてはかなり聴き易い部類に入る曲です。

しかし、見かけの自由なメロディの造りに対し、そのリズム構造は、それこそバッハ並みの厳格さで緻密に組みあげられているため、ラプソディックな即興性を強調するか、緻密なリズム構成の質量感を強調するかで、演奏の雰囲気がガラッと変わってくるのですが、当夜のトラーゼのピアノ・ソロは、ゲルギエフの伴奏ともども、おそらく後者の行き方であったようでした。重くて、ワイルドな打鍵から展開される演奏の趣きは、カプリシャスな味わいよりも重厚な表情を指向した雰囲気が強く、聴き応え抜群でしたが、作品の性格からすると、ちょっと気真面目過ぎるというのか、正直もう少しジャズ的な味付けを押し出して欲しいなと、いうような不満も幾つかの局面で感じました。

休憩を挟んで、いよいよ「春の祭典」が演奏されました。この演奏に関しては、昨日も書きましたように同じ顔合わせで録音されているハルサイのCDで披露されている表現に、概ね沿った行き方でした。言わば予想された通りの「ゲルギエフのハルサイ」に他ならないのですが、少なくとも、その人間業を超えたような驚異的なまでのパフォーマンスの凄さには、もう聴いていて圧倒されっぱなしという状態でした。

そもそもマリインスキー歌劇場のオーケストラは、基本的な合奏性能からして惚れぼれするばかりで、これほどまでに重量感満点のアンサンブルが、ゲルギエフのタクトに俊敏に反応し切って意のままに一体的に駆動していく様子だけでも、十分に途方もないのに、そのアンサンブル展開というのが、例えばバス・パートの法外なまでの押しの強さとか、金管パートの豪烈を極めたような最強奏の迫力、あるいはトッティにおけるメガトン級ともいうべき響きの戦慄感とか、ここぞという時にホールを文字通り震撼させるティンパニの猛烈な激打など、もはやこれ以上にワイルドなハルサイというのもちょっと考えられないのではないかというくらいの迫力がみなぎるものである以上、その激烈なまでの演奏の聴き応えは圧巻というほかなく、クライマックスに到ってはそれこそホールを吹き飛ばすかのような壮絶な音響展開をもって聴き手を問答無用の興奮のるつぼに叩きこむというような勢いでしたし、私も実際そのるつぼに投げ込まれたクチなのでした。

そういうわけなので本来なら無条件で絶賛して然るべきところなのですが、それが昨日も書きましたように、そう単純にはいかない側面があり、確かにCDで聴く以上に興奮度満点の演奏でしたが、それに伴い、この演奏の弱いところ、いわば問題点もまたCDで聴く以上に実感せざるを得なかったというのが率直なところです。

というのもゲルギエフのハルサイは、ある意味かなり極端な解釈に立脚しているため、それによりもたらされる音楽的な快感や興奮が確かに途方もないのですが、その極端さの代償として失われている側面もまた小さいものではない、という風に私には思われるからです。

何が問題なのかと言えば、まずハーモニーにおける透明感の不足、そして作品自体の構造的ニュアンスの伝達不足ということになり、このために、確かに聴いていて演奏としての途方の無さは良く伝わるかわりに「音楽自体が途方も無い」という感覚が十分に付随しないもどかしさが残ります。

つまり、このハルサイにおけるゲルギエフのアプローチというのは極めて主観性が強くて、スコアを有りのままに再現するという意識よりも、おそらく自分の絶対的なビジョンというのが強くあるがゆえに、やりたい放題とまでは言わなくても、それにかなり近いところまで作品を誇張化した演奏を展開しているように感じられます。その象徴が例の最後2小節における前代未聞ともいうべき「4秒のパウゼ」で、誰もやらないことを敢えてやる、というゲルギエフのスタンスが端的に伺われるものです。

実際ゲルギエフの展開したハルサイは緩急や強弱を中心に、デフォルメ感のかなり強い演奏であって、例えば春のロンドの中盤、スコアの練習番号53から54に到るまでの部分で猛烈なリタルダンドを仕掛けて引き摺るような歩みを強調するなど、かなり大胆な表情付けが随所に敢行されていました。

もともと強靭なバスの威力を伴う厚ぼったい響きであるところへ大胆な緩急強弱の揺さぶりを仕掛けるものだから、ひっきょうハーモニーの透明感が犠牲になり、トッティで特定のフレーズが埋没してしまい、それが聴き手に音楽の構造的な醍醐味を必ずしも明確に伝え切らないという弱点となって現われる、という図式です。結果、確かに聴いていて血湧き肉躍るような快感を味わうという点では、これ以上ないというくらいの成果に到った演奏である反面、もうひとつの側面つまり当時の前衛作曲家ストラヴィンスキーの手による精巧を極めた音楽造型の精華としての側面が希釈化されてしまっているような印象を否めません。

そもそも、このハルサイという作品は現代音楽のスペシャリスト達が好んで演奏したり録音したりするように、緻密な変拍子構造に代表される、考え抜かれたようなリズムに基づく斬新な構成力といい、無調的な響きに対する希求の度合い(先祖の霊を呼び覚ますあたりなど、シェーンベルクの語法を思わせる、ひんやりとした気配があります)といい、純粋な「ロシア音楽」としての意味合いだけでなく現代音楽の起点としての意味合いの方も大きいと思うのですが、当夜のゲルギエフの演奏においては、そういう方面に対する目配せが必ずしも十分なセンに到っていない、要するに「ロシア音楽」としての醍醐味を圧倒的に推し進めた代償として「現代音楽」としての醍醐味が相当に引っ込んでしまった、これが「ゲルギエフのハルサイ」における一つの難点だと私には思われました。

当夜のコンサートはゲルギエフならではの、最高にエキサイティングな「春の祭典」を実際に耳にできて感無量でしたし、最後のパウゼで聴衆の誰もが期待していることを期待通りに実行してしまう、そのゲルギエフの胆力においては感服の極みでしたが、同時にウィークポイントも相当程度に露見された演奏でもあったと感じました。

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