内田光子ピアノ・リサイタルの感想


昨日(11/24)のサントリーホール、内田光子ピアノ・リサイタルの感想です。

2009-11-25

最初に弾かれたモーツァルトのロンドK511では、ある程度まで即興的な揺らぎを意識したような独特の表情の付け方が印象的でした。

内田光子はこの曲を83年と91年に録音していますが、当夜の演奏は明らかに再録音の方に近いものでした。それこそモーツァルトに対しての確固たる音楽観が見え隠れするような、凛として迷いの無いフレージングが導出する天衣無縫ともいうべきメロディの動きと、その妙感が素晴らしく、特に曲の後半で弾かれる、あのイ長調の美しいシチリア風メロディなど、CDで聴くよりずっと深い孤独の影が宿ったような含蓄が託されていたように思えましたし、とにかく魅力的なモーツァルトでした。

続いてベルクのピアノ・ソナタが弾かれたのですが、この演奏は圧巻でした。

本来このソナタは、その調性の希薄な構造からすると意外なくらいに感情の動きに則したような情熱的なフレージング構成を備えているので、ピアニストは普通、現代音楽の方向へ引っ張っていくかロマン派の延長線上で捉えるか、という風に考えて、実際その何れかの線に則して演奏されると思われますが、内田光子のそれは、そういう二分法では計れない彼女特有のアプローチに基づき、他のどんなピアニストからも聴けないような表現を、この作品から引き出したのでした。

そのアプローチは、こと造形的な見方からするとアグレッシブなテンポの変化や、鋭い起伏感を伴う強弱の付け方など、明らかにロマン派の延長線上の情動的な行き方に則したものなのですが、その演奏を情動的というには個々のタッチにおいて、あまりにも響きが透明で、音色が澄み切っていて、和音が恐ろしいほどに研ぎ澄まされているので、そこには夢見心地などという雰囲気は薬にしたくもなく、その底知れないほどに繊細なピアニッシモや、強靭を極めたフォルティッシモを耳にすると、とても安易な陶酔や逸楽が入りこむ隙間がなくて、その凛とした響きの佇まい自体が、とても深くて透明な寂しさをさえ聴き手の心に惹起せしめ、ひいては聴き手に対し厳しいまでの精神の覚醒を強要する、そんな趣きの演奏でした。

以上の感覚はCDにおいても伺われるのですが、実演においてはピアニッシモの訴求力などが段違いであることなどにより、その透徹したピアニズムの真価がまざまざと伝わってきて、もう惹き込まれるばかりでしたし、正直このベルク1曲だけでも、もう十分というくらいに素晴らしい演奏でした。

次に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第28番が弾かれたのですが、これも近年リリースされたCDと同様、全体に内田光子のピアニストとしての主観性が強烈に反映された演奏となっていました。

そのCDを初めて聴いた時の私のメモ書きには、「テンポひとつとっても、遅い部分と速い部分のメリハリが際立っているが、それでいてステレオタイプな運用感からは遠く、いわゆる類型的な緩急展開とはなっていない。よって表現の真実味が高く、演奏者の、こう解釈したいという表力な表現意欲が音楽に満ち溢れんばかりだ」とあるのですが、当夜の演奏において、さらに付け足されるべきと思えるのは、CDで聴くよりも遙かに思索的な演奏だったということです。というのも、どのタッチひとつ取っても和声や、その繊細な移り行きを細かく音化することに対する音響的な突き詰めの度合いが尋常でないと思われたからで、これはCDからは窺い知れない類のものでした。

そして、その厳しく律された音楽の流れから不意に意に浮上してくる思索的な感覚が途方もないほどに素晴らしく、それこそ名状しがたいほどの感銘を聴いていて覚えたほどです。ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタには、人を安易に寄せ付けないような深々とした思索が宿っている、ということを、まざまざと思い知らされた演奏と言うべきでしょうか。

そして最後にシューマンの幻想曲が演奏されました。内田光子としては現時点で未録音の曲ですので、どういう解釈が披歴されるか固唾を呑んで聴き入りました。

その印象を一言でいうなら、彼女のピアニズムは概ね直前のベートーヴェンのそれと軌を一にするアプローチであって、安易なロマンティシズムに流れる風ではなく、この曲を彼女独自の思索で表現しようというスタンス、と思えました。

ところが彼女のピアニズムがベートーヴェンの時に勝るほどの集中力と気迫をもって、作品から必死に思索を彫り出そうとすればするほど、そのような意気込みが空回りし作品の方が十分に応えてくれないような、ちぐはぐな印象が聴いていて感じられてなりませんでした。

何故そうなるのか、演奏を聴きながら私なりに考えたところが、おそらく当夜における彼女のピアニズムの、どの音符ひとつにも吟味し尽くされたような打鍵が披歴する音響的な突き詰めの度合いが尋常でないのと、そこから必然的に導かれる思索の深さゆえに、かえって作品自体の底を露呈してしまったのではないかということに思い到りました。

というのも、この幻想曲はシューマンのベートーヴェンに対する深いリスペクトに立脚する作品であって、作風としてもベートーヴェンのピアノ・ソナタのような古典的な構成感と力強さを備えた作品なのですが、ベルクのピアノ・ソナタのような調性感から離れた地点に成立する厳しい抽象の美や、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタのような人を安易に寄せ付けないような深々とした思索とひき比べて見ると、やはり作品自体のキャパシティに物足りなさが否めないように私には思えるからです。そのあたりの、いわば相対的な作品としての限界が、なまじベルクとベートーヴェンの後に演奏されただけに、かえって仮借なく浮き彫りにされてしまい、演奏自体の素晴らしい充実感と裏腹に聴いていて感銘がいまひとつ伸びてこないという結果に帰着したのではないかというのが私なりの考えです。

とはいえ、これを純粋にシューマンの演奏として耳を傾けるなら、そのピアニッシモはたとえようもないほどに禁欲的な美しさを醸し、全体を包み込む柔らかい詩味も形容のしようもないほどでしたし、その意味では素晴らしい演奏内容でした。ベルクとベートーヴェンの後でなければ、また印象が変わってきたかもしれませんし、当夜は私もベルクとベートーヴェンのソナタで大きく心の動いた後だっただけに以上のような感想を抱いてしまったのかもしれません。

当夜の公演プログラムを読むと、内田光子のプロフィールの中に「シューマンのソロ・ピアノ作品の録音プロジェクトも予定されている」とあるので、この幻想曲も近いうちに録音されるのではないかと思うのですが、その場合はあらためて虚心坦懐に耳を通してみたいと思っています。

以上、いろいろ書いているうちに長くなってしまいましたが、当夜における内田光子のリサイタルは、どの演奏ひとつ取っても聴いていて何らかの啓示があり、作品を再現する意義というものを圧倒的に感じさせるものでした。表情の新鮮さにハッとさせられたモーツァルト、最も心が震えたベルク、思索性に打たれたベートーヴェン、そしてベートーヴェンの思索性を、可能な限り引き継がせようという果敢な意欲の滲むシューマン。

アンコールの2曲も含めて掛け替えのないピアニズムでしたし、現在の内田光子が真に世界に誇り得る数少ない日本人ピアニストのひとりであるという事実を、改めて強く認識させられました。彼女の今後の活躍にも、大いに期待を寄せたいと思います。

コメント

 

コメント

 
管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

Powered by FC2 Blog
Copyright © クラシックCD感想メモ All Rights Reserved.