クベーラとコティック/S.E.M.アンサンブルによるケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」


ケージ ピアノとオーケストラのためのコンサート、アトラス・エクリプティカリス
 クベーラ(pf) コティック/S.E.M.アンサンブル
 Wergo 1992年 WER6216-2
WER6216-2

おととい、サントリーホールで開催されているサマーフェスティバルの一環である現代音楽のコンサートを聴き、昨日その感想を掲載したところですが、私がこれまで聴いた同ホールのサマーフェスティバルの中で、最もエキサイティングで面白かったコンサートを挙げるとすると、サマーフェスティバル2002での「ケージ特集 管弦楽」になります。

これはジョン・ケージ没後10年にちなんだコンサートで、演目は①四季②プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲③ピアノとオーケストラのためのコンサート、 指揮は高関健、ピアノが高橋アキと一柳慧、オーケストラは都響でした。

このうち聴いていて断然面白かったのは③で、これはケージが1950年代後半に作曲した一種の実験音楽であり、ケージが偶然性の作曲技法に則して書いたものとしては代表作とも目されている作品なのですが、実演で耳にしたのはその時が初めてでした。

この曲にはスコア(総譜)は無く、指揮者には「指揮者用のパート譜」があてがわれるのですが、そこには数字が並んでいて、それを見ながら指揮者は時計の針のように両手を回していきます。オーケストラ奏者はリハーサルさながらの私服姿で、いちおう楽器を携えてステージに登るのですが、実際は楽器を弾くというより、時折、断続的に音を発するのみで、後は個々の奏者が、唐突に足を踏み鳴らしたり、それまで座っていた椅子をいきなり蹴飛ばしたり、ペットボトルを床に叩き付けたり、紙袋を膨らませて破裂させたり、奇声を発したり、とそういうようなことを、ステージ上で大体30分くらい延々と繰り返す、というものでした。

こういう風に事実だけ書いてしまうと、一体そんなものを聴いて何が楽しいのか、と思われるかも知れないですが、私はこのパフォーマンスに対し、何か自分でも異様なほど興奮した面持ちでじっと聴き入っていたのでした。

それまで私はジョン・ケージというと、時に哲学的とすら思えるほどに難解な思索で理論武装した、かなり取っ付きにくい作曲家として捉えていたのですが、このコンサートを聴いて彼の音楽を、もしくは彼の音楽の醍醐味の一端を初めて自分なりに実感できたような、そんな気がしました。

そのとき私がケージに対して掴んだイメージが、果たして妥当かどうかは正直それほど自信はないのですが、少なくともあのコンサートで聴いた音楽には、上品で優雅で耳当たりが良くて、という「クラシック音楽」のまさに対極に位置する雰囲気が充満していて、それに私は聴いていて強く惹きつけられ、気持ちを大きく動かされました。

ここでCDの話に移りますが、これは上記コンサートを聴いてしばらく後に購入したもので、ジョーゼフ・クベーラのピアノ・ソロ、ピーター・コティックの指揮、S.E.M.アンサンブルの演奏によるケージ作品のアルバムで、「ピアノとオーケストラのためのコンサート」と「アトラス・エクリプティカリス」が収録されています。

もちろんお目当ては「ピアノとオーケストラのためのコンサート」で、つまりサントリーホールで聴いた先の実演での感興なり興奮なりを追体験できるかもしれないと思ったのでした。

それで聴いてみたのですが、やはり、厳しいというのが率直な印象です。収録されている音響そのものは十分に刺激的で、純粋にその刺激感を楽しむというぶんには過不足はないのですが、それはかの実演での感興なり興奮なりからは遠いものでした。

その原因が、視覚的インパクトをも伴う生演奏ならではの醍醐味にあると言ってしまえばそれまでですが、むしろケージの場合、その音楽の根本概念としてチャンス・オペレーションという偶然性の思想があるので、それをCDに録音として固着することの矛盾を考えると、果たしてどうなのだろうという疑問が、CDを聴いていて着かず離れず浮かんできたりもします。

だからケージ作品を録音で聴いてもつまらない、とまでは短絡的に言えないとしても、レコーディングという概念を排斥する要素が他の作曲家よりも格段に強いことはおそらく事実で、したがって同じ曲を実演と録音とで聴いた場合、その落差が最も大きな作曲家のひとりがケージであるということを、このCDをサントリーでの実演とひき比べて思い知らされたような気がしました。

2002-08-28

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