広上淳一/新日本フィルの「第9」演奏会



きのうは仕事が取り込んでしまい、ブログを更新できませんでした。11月15日以来の連日更新もついにストップ。やはり年の瀬は時間的に厳しいものがありますね。

そういうわけで、今週はおそらく隔日更新になろうかと思いますが、ひとつご容赦を。

それはさておき、今日はすみだトリフォニーで、ベートーヴェンの「第9」を聴いてきました。広上淳一の指揮、新日本フィルの演奏です。

広上淳一といえば先月、米コロンバス交響楽団の音楽監督の職を任期半ばで辞任した件が記憶に新しいところです。もっとも辞任の原因は例のリーマンショックに端を発する労使交渉のいざこざで、音楽的な理念に拠るものではないとされますが、いずれにしても広上にとって不幸な出来事であることには変わりなく、その広上が一年を締めくくる「第9」のコンサートでどのような指揮をするのか、そのあたりの興味を伴ってコンサートに足を運びました。

プログラムはメインが「第9」ですが、その前にミヒャエル・ハイドンの「クリスマスのパストレッロ」というクリスマス・コンサート用に作曲された作品が演奏されました。「第9」の前座というと昨今ではベートーヴェンの序曲やヴィヴァルディの「四季」あたりが多いですが、安直にそうしないあたりに広上のセンスの良さが伺えました。

「第9」ですが、概ね名演だったと思うんですが、第1楽章に関してのみ広上にしてはいまひとつ内容が薄かったような気もしました。

広上の指揮は端的に正攻法で、全編において変則的なテンポやバランスを選択するようなことはなく、その指揮の主眼はおそらくアンサンブルの内声の埋没を出来る限り抑止し、全奏であろうと弱奏であろうと個々のパートの輪郭線を曖昧なくクッキリと描き切ることにあったように思われます。奇を衒わずにベートーヴェンのスコアの一音一音を誠実かつ丁寧に音化していき、その蓄積によってベートーヴェンの音楽に潜在する本来のダイナミックな書式的迫力をえぐり出すことで、ハッタリを超えた本物の演奏を志向しようというような広上の確たる意志というかメッセージ性が聴いていて伝わってくるような演奏でした。

ただ、第1楽章に関してのみ、上に書いたような広上のアプローチがいささか空転気味であるような印象も否めませんでした。すなわち、アンサンブル内声部に対する尊重がいささか過ぎて、高弦、バス、ティンパニといったあたりの上声や低声に対する抑制が少し効きすぎではないかという感触があり、聴いていて音響的にややちんまりしたような印象を感じました。すこぶるバランスのいいアンサンブル展開ではありましたが、そのバランスを維持した上で迫力面に圧倒的なものを付加するまでには到らなかったという感じがしました。

しかし第2楽章になると迫力的にも格段に冴えが増し、バランスの良さも相変わらずで、ようやく広上の指揮の本領発揮という感じがしました。ハッタリの無い、すこぶる本格的な演奏。それは第3楽章も同様で、途中ホルンが大きく音程を外すアクシデントはありましたが、弦を中心に音楽の流れに淀みがなく、ハーモニーが冴え、その澄んだ美しさはあたかも指揮者の今の心境の現れかとも思われるような、ある種の吹っ切れたすがすがしさを湛えたものでした。

終楽章はやはり本演の白眉で、アンサンブルの音勢的迫力といい音色の表出力といい前3楽章に輪をかけて良く、バランス的にも練り切られていて、この終楽章本来の神々しい色合いが雑味なくストレートに出たような演奏でした。また第1楽章からステージ上でずっと立ちっぱなしだった栗友会合唱団(すみだトリフォニーのステージは奥行きが狭いので、椅子が置けない)の合唱の素晴らしさも特筆すべきもので、オーケストラと合わせて、実演ならではの(どんなに音質がいいCDでも及ばないような)「第9」の音響的醍醐味を十分に堪能することができました。

以上、いろいろ書きましたが、内容的にはやはり聴きに行って良かったと思えるコンサートで、その演奏のみならず、コロンバス響ポスト辞任を余儀なくされ間もないのにこれほどの吹っ切れた表現を成し得た広上淳一の非凡な音楽性に対しても率直に感服させられた演奏会でした。

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