スクロヴァチェフスキ/読売日本交響楽団によるブルックナー交響曲第7番


ブルックナー 交響曲第7番
 スクロヴァチェフスキ/読売日本交響楽団
 DENON 2010年ライヴ COGQ50
COGQ-50

ここしばらく仕事の方が多忙なうえ、酷暑続きから夏バテ気味で、あまりCDを聴けておらず、今月の更新は壊滅状態ですが、その分も含めて来月にはガンガン更新したいと思っています。未聴盤もいい加減たまっていますし、、

さて、今年3月にリリースされた、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団の演奏によるブルックナー交響曲第7番のCDを聴きました。

このCDは、リリース時期が折り悪く大震災の直前期だったため(私の手元に届いたのが確か震災発生の2日前だった)、震災に伴うオーディオ故障につき、これまで未聴を余儀なくされていました。

それで聴いてみたところ、まさに「驚嘆」の一言で、正直これほどとは、というのが率直な感想です。

驚嘆したと言っても、演奏の素晴らしさに驚いたのではありません。

というのも、このCDに収録されている演奏は2010年10月16日、サントリーホールでのコンサートのライヴ録音ですが、私は当日この実演を客席で耳にしており、そこで披歴されたスクロヴァチェフスキならではの卓越を極めたブルックナーの魅力、その素晴らしさを骨の髄まで思い知らされていたことから、この実演の録音がいかに見事なものであったとしてもそのこと自体は私にとって既知の事実であり、別に「驚く」には値しないことだからです。

それでは何に驚嘆したのかというと、音質です。

SACDのスペックを活かした、空間性ゆたかな音の広がりが何とも素晴らしい。これは聴いていて、昨年のホールでの実演の感触、その音響の肌ざわりまでが、私の記憶の奥底から引き出されてくるかのようで、まるで「一期一会」のコンサートに「再会」したかのような不思議な感覚に捉われてしまうほど。

こういった実演のリアルな再現というのは近年のSACDを頂点とする録音技術の賜物であり、あらためて凄い時代になったものだという印象です、が、本来的に「一期一会」であるはずのコンサートで受けた感銘が、これほど気軽に何度も耳に出来て良いものなのかな、という一抹の疑問も正直よぎります。

ともあれ、ここ最近の酷暑&多忙に疲れた私の精神に対し、このブルックナーはまさに干天の慈雨。絶妙のタイミングで耳にできた僥倖を噛み締めています。

シノーポリ/フィルハーモニア管によるプッチーニ歌劇「蝶々夫人」全曲


プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」全曲
 シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団
 グラモフォン 1987年 POCG3491/3
POCG3491-3

昨日に引き続きオペラ全曲盤を聴きました。ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団によるプッチーニの歌劇「蝶々夫人」。このオペラは先月、新国立劇場で観たばかりですので、その復習のような感じで聴いてみました。

キャストは、外題役がミレッラ・フレーニ、ビンカートンがホセ・カレーラス、スズキがテレサ・ベルガンザ。実に豪華なものです。また日本が舞台のオペラということからか、日本人のオペラ歌手が3人も起用されているのが目を引きます。

オーケストラ演奏においてはシノーポリの面目躍如たる鋭い起伏力が印象深く、聴いていて少々エキセントリックなくらいオケを煽りに煽る場面も多々あったりしますが、このオペラの解釈に関してシノーポリ自身がライナーノートで語っているところによると、このオペラは本質的に日本のドラマではなく、とくに蝶々夫人のアイデンティティの喪失という側面に注目するならば、むしろ20世紀初頭のヨーロッパに典型的な物語としてとらえるべきだ、とのこと。

このあたり、先月に新国立劇場で観た、このオペラの栗山民也の演出でも、日本的なものを必要以上に強調しないという点が強調されていたので、考え方として一脈通じるものがあるのではないかと思います。もっともシノーポリは同時に、このオペラ終盤のシナリオを蝶々夫人の「精神崩壊のプロセス」と規定して論じていますが、そこまで行くとさすがに行き過ぎというか飛躍が過ぎるようにも思えますが、ともあれ演奏自体は歌唱陣も含めて素晴らしく、これはシノーポリの残した一連のオペラ録音の中でも出色のものではないかと思います。

ムーティ/ミラノ・スカラ座によるプッチーニ歌劇「マノン・レスコー」全曲


プッチーニ 歌劇「マノン・レスコー」全曲
 ムーティ/ミラノ・スカラ座管弦楽団
 グラモフォン 1998年ライヴ 4631862
4631862

リッカルド・ムーティ指揮ミラノ・スカラ座の演奏によるプッチーニの歌劇「マノン・レスコー」全曲CDを聴きました。2000年に独グラモフォンからリリースされたもので、当時ムーティ/スカラ座のゴールデンコンビが、満を持して録音したプッチーニ、しかもマノン・レスコーがマリア・グレギーナ、デ・グリューがホセ・クーラという非常に豪華なキャスティングということで話題になったものでした。

本CDを聴いた理由は以下の通りです。

①久しぶりにオペラの全曲CDが聴きたくなった。
②今年3月に観に行く予定だった新国立劇場「マノン・レスコー」が大震災のため中止になっていたので、CDで聴いてみたくなった。
③今年2月に観たマリインスキー・オペラ来日公演の「トゥーランドット」で外題役を歌ったグレギーナの歌唱をCDで聴いてみたくなった。

前述のように外題役はマリア・グレギーナですが、マノン・レスコーは本来リリコ・スピント系の歌手が最適だと思われるところ、ドラマティック・ソプラノのグレギーナには少々ミスマッチではないかと思いきや意外とそうでもない、というあたりが面白いところで、むしろグレギーナがドラマティック・ソプラノというよりリリコ・スピントに近い歌手なのではないかと改めて感じました。前述したマリインスキー・オペラ「トゥーランドット」の外題役では正直グレギーナにしては意外と歌唱が振りきらないなと感じましたが、本来マノン・レスコーあたりで最高の実力を発揮するソプラノではないかという気もします。この録音でも実に見事な歌唱を披露していますし、クーラのデ・グリューとの二重唱での両者のパワフルな歌唱バランスも絶妙で素晴らしい聴きごたえです。

ムーティの指揮は、必要以上にテンポの動きを抑えたインテンポ型の運用。最近聴いたシノーポリ盤の「マノン・レスコー」がテンポ起伏の激しいドラマティックスタイルだっただけにコントラストが際立ちますし、同じイタリア人オペラ指揮者にして、その両極端ぶりが面白いと思いました。

マーロウ/ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団によるパーセルの王室礼拝堂のためのアンセム


パーセル 王室礼拝堂のためのアンセム
 マーロウ/ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団
 コニファー 1987年 CDCF152
CDCF152

日本という国は、2011年の「3・11」、その以前と以後とで分けて考えられなければならなくなった、という見解を最近よく目にします。あらためて、あの大震災がこの国にもたらした影響には計り知れないものがあるのだなということを思い知らされます。

最近、リチャード・マーロウ指揮ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団によるパーセルの王室礼拝堂のためのアンセムのCDを、しばしば耳にしています。以前は何ということもなしに聴いていたCDだったのに、あの大震災を経た今の時点で聴くと、自分でも意外なほどグッとくる音楽として感じられてしまうからです。

イギリス音楽史上最大の作曲家ともいわれるパーセルは、周知のように教会音楽の分野で卓抜した手腕を発揮し、とくにチューダー王朝のタリス、バード、ギボンズといった作曲家の伝統を研究し、独自の教会音楽の技法を練り上げ、後世に残る珠玉の声楽曲を創作するに至りましたが、このアンセム集においてもパーセルの個性的な創造力はいかんなく発揮されており、当時の対位法音楽の伝統に新しいバロック様式の技法を取り入れて書かれた、その壮麗な作品の数々は後のヘンデルの音楽にも大きな影響を及ぼしたとさえ言われています。

ここで注目したいのは、このCDに収録されている音楽が、おもに17世紀後半期にイングランド国教会のために書かれた王室礼拝用のアンセムであるということです。イングランド国教会というのは周知のように、イングランドという国の統治者が国教会の首長を兼任している点に大きな特徴があります。

これらアンセムの歌詞に目を通すと、すべての曲が神に対する畏敬の念に満ち溢れていることが否応なく分かります。人間という存在がいかに脆弱で、神の前では無力に等しいものであるか、だからこそ神よ我らを守りたまえ、というような大意の歌詞ばかりです。

本来、イングランドという国の統治者といえば絶大な権力を掌中に収めているはずの人間ですが、彼らの列席する当時の王室礼拝堂では、こういったアンセムが詠唱されていた、という事実には、少なくとも私のようなキリスト教文化とは無縁の人間にとっても興味をひかれます。

今回の大震災は言うまでもなく天災ですが、それに端を発して起こった原発事故の災厄は、明らかに人災的要素が強い。為政者に神を敬う気持ちとまでは言わないにせよ、自然や放射能といった、人間の力では完全に制御し切れない事象に対する、為政者の畏敬の念が大きく欠如していたことは疑いがないように思えます。だから、これほどの甚大な被害に発展し、事故から4か月にもなろうとしている今も収束の兆しが一向に見えないという悲惨な事態にまでなっている、、

As it was in the beginning, is now and ever shall be, world without end.

複数のアンセムで使われている、このフレーズ、もとは聖書の詩篇から取られたものだそうですが、これはズシリと重みを帯びたフレーズだと思いました。少なくとも「3・11」以前よりも格段に、、

バシュメットによるシュニトケのヴィオラ作品集


シュニトケ ヴィオラ協奏曲、トリオ・ソナタ
 バシュメット(va)、ロストロポーヴィチ/ロンドン交響楽団
 RCA 1988・90年 BVCC1949
BVCC1949

昨日にひきつづきバシュメットのCDを聴きました。シュニトケが1985年に作曲した2曲のヴィオラ作品の録音です。

このうちヴィオラ協奏曲の方はシュニトケがバシュメットからの依頼に応じて作曲した作品ですが、彼のソリストとしての卓抜した技量を考慮し、ソロ・パートのテクニック上の上限は考えなかった、とのいうくらいの難曲。ここではロストロポーヴィチ指揮ロンドン交響楽団をバックに演奏されています。トリオ・ソナタの方は本来ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための弦楽三重奏曲が原曲だったものをバシュメットが弦楽オーケストラ版として編曲したもので、手兵モスクワ・ソロイスツを弾き振りしての録音です。

周知のようにバシュメットという人は、ヴィオラという楽器を真に独奏楽器として確立させたという点で革命的な音楽家として知られています。なるほどベートーヴェンでさえヴィオラを独奏楽器としてみなした作品は書かなかったし、ずっと日陰の存在だったヴィオラという楽器の独奏楽器としてのポテンシャルをフルに引き出した、という点では、確かにバシュメットは偉大ですが、その反射としてシュニトケのヴィオラ協奏曲という作品のもつ歴史的な意義もまた同じくらい評価されてもいいのではという気もします。

シュニトケというと、かつてポストモダニズムの先端に立つ作曲家だとかマーラーやベルクの音楽的後継者などという評価が一般に言われていましたが、そういった教条的な見方を離れて彼の作曲した音楽を聴くと、彼の革新的な独創性に満ちた作風(バシュメットの「音楽家としての革新性」に共鳴した理由も、多分そのあたりにあるのでしょう)こそシュニトケの音楽の本質であり、そのことが本CDの演奏ではバシュメットという稀代の名手により明確に表現されている。ナイス・パフォーマンスです。

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