バシュメットとムンチャンによるショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ


ショスタコーヴィチ ヴィオラ・ソナタ
 バシュメット(va)、ムンチャン(pf)
 RCA 1991年 BVCC619
BVCC-619

先月、ユーリ・バシュメット率いるモスクワ・ソロイスツの来日公演を聴きに行きました。ヴィオラ独奏者として一時代を画したと言われる彼のソロはベテランの年齢に達した今もなお切れ味するどく、見事なものでした。

そのバシュメットとミハイル・ムンチャンの演奏によるショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ作品147のCDを聴きました。バシュメットがCDデビューした時期の録音で、グリンカとロスラヴェツのヴィオラ・ソナタも併録されています。

先月バシュメットが披露したパガニーニのヴィオラ協奏曲の演奏は見事なものでしたが、それはやはりパガニーニであって、彼の本領とは少し位相がずれた地点での演奏ではないかと感じなくもなく、そこで彼の本領ともいうべき、このショスタコーヴィチの録音に耳を傾けてみたところ、その研ぎ澄まされたボウイングには先月のパガニーニとは一味ちがう凄絶な表出力が付帯されており、やはり同曲こそが彼の本領なのだなという印象を深めました(かつてバシュメットが西側に名声を轟かせた契機となったのも、リヒテルとの同曲のライヴ盤だった)。

とはいえ、このヴィオラ・ソナタは周知のようにショスタコーヴィチの絶筆、それも死の直前に完成された白鳥の歌ともいうべき作品で、この作曲家の最晩年の作風を思わせる哲学的な音楽の相貌がひときわ色濃く表出されているため、いわば作曲家が死の直前に辿り着いた、この曲の根底に横たわる思索の境地を窺い知ることは、バシュメットの切れ味するどい弾き回しをもってしても容易ではなく、本来とても気軽に聴けるような曲ではないのかもしれません。

ですが、このところ日本の政治家が国会を舞台に繰り広げている、ろくでもない駆け引きばかりの政争にウンザリさせられているときに、このような何の打算も虚飾もない透明な音楽を耳にすると、なんだか救われる思いです。このショスタコーヴィチの音楽は、彼らが繰り広げている見栄と私欲と保身のドラマから、なんと遠いことでしょうか。

ベレゾフスキーによるチャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番の1990年ライヴ


チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
 ベレゾフスキー(pf) キタエンコ/モスクワ・フィル
 テルデック 1990年ライヴ WPCC-3870
WPCC-3870

先月のラ・フォル・ジュルネでのリサイタルが素晴らしかったボリス・ベレゾフスキーのCDを聴きました。これは1990年チャイコフスキー国際コンクール・ガラ・コンサート(同年7月7日、モスクワ音楽院大ホール)でのライヴ録音で、同年のコンクールにおけるピアノ部門優勝者のベレゾフスキーと、ヴァイオリン部門優勝者の諏訪内晶子が、それぞれチャイコフスキーのコンチェルトを披露しています。

このCDは、併録されている諏訪内晶子の演奏も興味深いものでした。というのも諏訪内が同じ曲を10年後にフィリップスにスタジオ録音(アシュケナージ/チェコ・フィル)した演奏と比べると、全体にフレージングにおけるニュアンスが振るわず、後年とは随分と傾向が違う印象を受けるからです。

諏訪内晶子のCDデビュー後の専属レーベルであるフィリップスは残響感の比較的ゆたかな音録りで知られ、すくなくともテルデックとはトーンの傾向が大きく相違するところですが、基本的にフィリップス・トーンで固まっている諏訪内晶子のヴァイオリンのイメージからすると、このテルデック盤の演奏は違和感を覚えます。全体的に音色が味気ない。後年のフィリップス録音に聴かれる甘く、神秘的な音色の妙感が聴かれない。逆にベレゾフスキーの場合は後年のレーベルも同じテルデックなので違和感が少ないのでしょう。

ベレゾフスキーはテルデックからCDを多くリリースしているものの、ライヴ録音は意外と少ないので、敢えて彼のキャリアの出発点ともいうべき、このチャイコフスキーを聴いてみました。このCDに聴かれるベレゾフスキーの表現は彼らしい剛毅さと豪快さを感じさせるマッシブなタッチを中核に展開される、万全のテクニックに基づく痛快なヴィルトゥオジティが素晴らしいものである反面、その若さ溢れる直截的なアプローチが音楽をやや含蓄の乏しいものに留めている印象もあります。少なくとも最近の録音やLFJでの実演に聴かれる彼のピアニズムとは似ているが微妙に違った様相の演奏として感じられました。

メータ/ベルリン・フィルによるR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」


R.シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」
 メータ/ベルリン・フィル
 ソニー・クラシカル 1992年ライヴ SRCR9804
SRCR9804

リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」の実演を先月、2つ聴きました。N響と都響、それぞれの定期演奏会で、たまたま同じ週でした。

この「英雄の生涯」という曲、それまで私は過去に一度もコンサートで聴いた記憶がないので、実演で聴いたのは初めてだったと思います。特に好んで聴きに行く、という曲ではないし、正直わざわざコンサートに聴きに行くほどの曲か?という気もしていました。

それでも聴きに行ったのは、N響の方は昨日ブログで書いたとおりキュッヒルのソロに興味があったからで、都響の方は、インバル指揮の同オケが最近絶好調だという評判が芳しいことから、このコンビの実演を私が最後に聴いたのが去年のマーラー3番で、1年ぐらい御無沙汰だったし、この時期にインバルが果敢に来日するということもあり聴いておきたいと思ったからでした。

つまり双方とも「英雄の生涯」が掛かるからという理由で足を運んだのではなかったわけで、基本的には私はリヒャルト・シュトラウスという作曲家が苦手というか、どうも良くわからない部分があり、実際リヒャルト作品のオペラ上演にも、今まで一度も足を運んでいないという有り様。ヴェルディ、ワーグナー、プッチーニあたりの有名どころの作品のオペラ上演なら大体は観ているのに、リヒャルト作品は全滅。

この「英雄の生涯」という曲は、どういう曲でしょうか。作曲家が30代前半という若さで自分の全生涯を振り返り功績を讃え引退する、という曲だが、どこまで本気なのかというと、この曲を作曲したあと本当に作曲から手を引いたというならまだしも、彼は以後も変わらず作曲を続け、いくつも後世に残る名作を残しているわけで、ある種の冗談めいた、シュトラウス一流のユーモアという側面が色濃く出ているように思われるとともに、そんなに真剣に聴くような曲なのか、というような疑問もよぎる、、

そういうわけで、正直CDもそう滅多には聴かないところが、先日ふと思い立って聴いてみたのが、このズービン・メータ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による同曲のライヴ盤でした。
 
レーベルはソニーで、昨日ブログで触れたクライバー/ウィーン・フィルの「英雄の生涯」ライヴの、幻となったソニー盤と同じ時期の録音というあたり、妙な因果を感じます。解釈は押し並べて規範的であり、細部まで丁寧に配慮されている運用には好感がもてるも、この曲で描かれている波瀾万丈の「英雄」のイメージからは聴いていて少々物足りなさを感じなくもないですが、メータがベルリン・フィルを指揮して集中的にリヒャルト作品に取り組んでいた時期の録音だけに、オケのレスポンスは上々だし、メータとしても同曲の実に3度目の録音ということで、作品を完全に掌握しているかのような余裕のある指揮ぶりです。

このCDには同じ作曲家のホルン協奏曲第2番も収録されています(ホルン奏者はノルベルト・ハウプトマン)。リヒャルト作品の中では気に入っている曲です。1942年、作曲家の晩年の作品で、「英雄の生涯」に比べれば圧倒的に簡素な書法ながら、晩年の作曲家のもつ音楽の含蓄に惹かれます。

キュッヒルによるバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲


J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲
 キュッヒル(vn)
 PLATZ 2003年 PLCC766/7
PLCC-7667

先月のN響の定期演奏会では、ライナー・キュッヒルがコンサートマスターを務めました。客席で聴いていて、まず日本のオーケストラのコンマスの位置に、あのウィーン・フィルの現コンマスが座っているという光景それ自体に新鮮な印象を持ちましたが、なにより「英雄の生涯」で披歴されたヴァイオリン・ソロが忘れ難いものでした。

ライナー・キュッヒルと「英雄の生涯」に関しては、最近読んだカルロス・クライバーの伝記の中に、興味深いエピソードが掲載されていました(『英雄の生涯』をめぐる戦い)。

1993年5月のウィーン・フィルのコンサートにクライバーが登場するというので、彼が何を振るのかが注目されていたが、発表された演目は前半モーツァルトの交響曲第33番、後半リヒャルトの「英雄の生涯」というもので、とくに「英雄の生涯」の選曲に関しては多くの人が首をかしげ、オーケストラも賛否両論だったという。しかしコンサートは成功を収め、聴衆の熱狂のうちに幕を閉じた、、

この「英雄の生涯」は、本来ソニー・クラシカルからライヴ録音としてリリースされることが契約されていた。しかし最終的には日の目を見ないことになった。これはクライバーがリリース許可を出さなかったことが原因だが、この録音のリリースに最初に難を示したのは、実はキュッヒルだった、、

伝記に書かれているところによると、最初の段階ではクライバー自身は「英雄の生涯」の録音にリリース許諾を与えていたところが、キュッヒルが自分のヴァイオリン・ソロに不満があることを理由に、ソニー側にNGを出した。それでソロの部分を録り直した上でキュッヒルはOKを出したが、それに今度はクライバーの方がNGを出した。それで結局お蔵入りという流れに。

そのキュッヒルがソリストとして録音した数少ないCDのひとつが、このバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲のCD。使用楽器はストラディヴァリウス「シャコンヌ」。

あまり話題にならない録音かもしれませんが、これほどストイックに、厳しく織り上げられたバッハも珍しい。名演だと思います。

ブダペスト四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集(戦後のモノラル録音盤)


ベートーヴェン 弦楽四重奏曲全集
 ブダペスト四重奏団
 ユナイテッド・アーカイヴス 1951・52年 UAR001
UAR001

ようやく例のものが戻ってきました。まあ、いろいろと聴いています。

ただ、しばらくオーディオから離れていたので耳を馴らす意味で、取りあえず新譜の方は後回しにして愛聴盤などを優先して聴いているところです。

ということで、このブダペスト四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を聴きました。

この録音は周知のように戦前を代表する名門カルテットであるハンガリーのブダペスト四重奏団による、2回めのベートーヴェン弦楽四重奏曲全集。もともとは米コロンビアからリリースされていた録音でしたが、そのLPの音源を2006年にユナイテッド・アーカイヴスが板おこしのデジタル・リマスタリング盤として、初めてCD化したということで話題になったので買ってみたところが、その音質の良さと演奏の素晴らしさに驚嘆しました。

しかし改めて本演奏に耳を傾けてみたら、これまで何度も聴いていて聴き慣れた録音のはずなのに、どうも初めて聴く演奏のような気もしました、、音楽を聴くというよりはむしろ音楽が身に沁み込んでくるという感覚に近かったし、、

やはり自分の気持ちが、まだ「3・11」の影響下から脱却していないということかもしれませんね。

新国立劇場・プッチーニ「蝶々夫人」(6/18)の感想


    2011-6-19

タイトルロールはロシアのソプラノ歌手オルガ・グリャコヴァ。歌唱技術は全体に堅調でしたし、聴かせどころではホールを圧するほどのボリューム感ゆたかな声量を披露、加えて艶のある美声。高音域は少し苦しそうでしたが不満というほどではなく、スタミナ的にも最後まで無難に歌い切り、聴いていて危なげがないという点では安心して聴いていられましたし、終盤での切迫感も鬼気迫るものが出ていて、このオペラ終盤での加速度的な悲劇色の台頭において、観ていて圧倒させられるほどに壮絶なカタストロフが表現されていました。

しかし全体的に「声が重い」点が聴いていて気になりました。おそらくロシアの歌手特有の重苦しさというのか、とくに発音の軽やかさや発声の透明感が全体的にいまひとつ振るわず、いわばソプラノ・リリコとしての特性が押し並べて弱いので、蝶々夫人のキャラクターが全体を通して一面的なものとして感じられてしまったり、あるいは会話時のイントネーションがべったりとしていて機動性に欠け、蝶々夫人がペチャクチャお喋りするあたりの軽快な発声のニュアンスがいまいち伝わってこない(このあたりは先週のフリットリが素晴らしかっただけに尚更そう感じた)など、つまり優れた歌手であるのは明らかにしても、タイトルロールに要求される歌唱のスペックが十全に満たされていない憾みもあり、そのあたりが聴いていて惜しいなと感じられてしまいました。

ピンカートン以下の歌手に関しては可もなく不可もなく、突き抜けたインパクトこそ受けなかったものの、それぞれに堅実な歌唱力を披歴し、それぞれの役柄における性格表現は十分なものと映りましたが、ピンカートンはもう少し軽薄さを押し出した甘い歌い方の方が、誠実なシャープレスとの対比が冴えていたかもしれないという気はしました。

指揮者はイヴ・アベル。トロント出身で、新国立劇場は初登場とのこと。全体的にアンサンブルを丁寧に取りまとめて堅実に進めていくような感じで、オケのバランスも安定していて安心して聴いていられる演奏でありながら、鳴らすべきところではオーケストラを存分に鳴らし切り、それこそホールを制圧するほどのフォルテッシモを轟かせるあたりの手綱さばきが絶妙で、とりわけ例の切腹の段では打楽器の鋭角的なリズムの刻みを容赦なく押し出して抜き差しならない切迫感を醸しだし、強烈なクライマックスを形成せしめていて惹き込まれました。

しかし、テンポが全体に直線的すぎてメロディの起伏感に乏しい点が気になり、場面によってはもう少し踏み込んでもと思えなくもありませんでした。第1幕終盤の蝶々夫人とピンカートンのデュオのあたりなど、もう少しテンポを揺らして、甘美な旋律の美しさを強調してもいいのでは、あるいは第2幕の後半部など部分的にテンポを落として、ドロドロの愛憎劇を強調してもいいのでは、と思ってしまいましたが、そういった情緒的な運用には与しないスタイルで通しました。その割り切った指揮ぶりはいいとしても、どうも全体的に音楽のテンポが綺麗さっぱりし過ぎているような印象で、もう少し山あり谷ありで聴かせてくれても良いような気もしたんですが、、、正直「このオペラのメロディって、こんなサッパリしたものなのかな」という印象が残りました。

演出ですが、ロビーで売られていた公演プログラムに載っていた、演出コンセプト解説によると、日本が舞台のオペラだからといって殊更に日本的情緒のリアリズムを描くのではなく、むしろ世紀末のチェーホフの風景をだぶらせ、あえて何もないガランとした感じの舞台にした、とのこと。

観ていて、とにかく「動き」がない(場面転換すらない)、なかなか潔い演出でしたが、日本的なものを必要以上に強調しないという観点には好感が持てました。かつてシノーポリが「蝶々夫人」全曲をグラモフォンに録音したとき、このオペラは本質的に日本のドラマではなく、とくに蝶々夫人のアイデンティティの喪失という側面に注目するならば、むしろ20世紀初頭のヨーロッパに典型的な物語ではないか、というようなことを語っていたのを思い出しました(ただシノーポリは同時に、このオペラ終盤のシナリオを、「蝶々夫人の精神崩壊のプロセス」と規定して論じていて、それはさすがに言い過ぎではないかと思いましたが)。

しかし、そういった日本的な風土から距離を置いた、純粋に普遍的なドラマとして観れたか、というと正直この演出では難しく、例えば日本人の登場人物が揃って和服を着ていたりとか、襖を開けたり閉めたりとか、どう観ても日本としか思えないですし、その意味では中途半端に日本的で、かつ脱日本的な演出と感じられ、いまひとつ立ち位置がはっきりしないもどかしさを感じました。無論そのあたりが「蝶々夫人」というオペラに付き纏う演出上の難しさなのかもしれませんが。

それにしても最後の幕切れのシーンで、蝶々夫人の子供が舞台の中央に唯一人たたずんで、自害した母親を不思議そうに見つめるあたり、なんとなく「ヴォツェック」のラストを想起させるもので、観ていて思わずドキッとしました。

新国立劇場・プッチーニ「蝶々夫人」(6/18)


6/18 新国立劇場
 プッチーニ「蝶々夫人」

2011-06-18-1 2011-06-18-2

指揮:イヴ・アベル
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
演出:栗山民也

蝶々夫人:オルガ・グリャコヴァ
ピンカートン:ゾラン・トドロヴィッチ
シャープレス:甲斐栄次郎

久しぶりに新国立劇場でオペラを観ました。今年初めの「トリスタンとイゾルデ」を観て以来なので半年ぶりです。

ちなみに、
2011-3-21
↑ 幻となった新国立劇場「マノン・レスコー」の公演チケット。払い戻し手続きが何かと面倒でしたが、、

前にもブログに書きましたが、どういうわけか今年の上半期に東京でプッチーニの主要オペラの上演が集中するということで、この際だから出来るだけ観に行って、この作曲家のオペラ作品に対する理解を深めよう、とか目論んでいたんですけど、3月の新国立劇場「マノン・レスコー」と、フィレンツェ歌劇場の「トスカ」が中止となったため、結局マリインスキー歌劇場の「トゥーランドット」と先週のMETの「ボエーム」、それに今日の「蝶々夫人」の計3作品を観るにとどまりました。

10年くらい前にヴェルディのオペラが東京で集中的に上演されたとき、それを片っぱしから聴きに行ったことがありましたが(詳しくはこちら)、あの時の雰囲気に何となく近い感じだったんですけど、、

今日の「蝶々夫人」ですが、確かに光る部分もありましたが、観ていて気になってしまう部分も結構ありました。正直「このオペラは、こんなものなのかな」という印象でした。

メトロポリタン・オペラ来日公演プッチーニ「ボエーム」(NHKホール 6/11)の感想


     2011-6-12

バルバラ・フリットリのミミは昨年のトリノ王立歌劇場の来日公演で聴きました(東京文化会館)が、あの時の突き抜けた歌唱ぶりからすると、やや歌い回しが慎重で、全体的に表情が硬いような印象もそこかしこで伺われたというのが正直なところです。が、それをどうこう言うのは酷ですし(そもそも条件が違い過ぎる)、そんなことより今回あらためてフリットリを聴いて、その歌手としての才能が心底すごいと思わされたのは、あれほどの緊急登板でミミをあれだけ歌えてしまうという点です。なにしろ同役はソプラノ歌手にとり難役であり、フリットリ自身、ながらく同役を歌うのを躊躇っていたところ、ようやく最近になってトリノ歌劇場の音楽監督ノセダに説得されて踏み切った、と言っていたはず。

それに彼女ならではというべき、一つ一つの「言葉」としてのフレーズと「歌」としてのメロディとが、歌い回しの中で絶妙の地点で拮抗して成立しているような醍醐味は、少なくとも昨年の実演と全く同じように感じられました。もちろんネイティブの強みもあるにせよ、やはりフリットリはミミという役柄に対する、掛け替えのないアドヴァンテージを生得しているのだなと、聴いていて感嘆を禁じ得ませんでした。

ロドルフォ役はピョートル・ベチャワで、マルセロ・アルバレスとのダブルキャストでした。アルバレスのロドルフォは昨年のトリノ歌劇場の「ボエーム」で聴きましたが、かつてのパバロッティに肉薄するかという印象さえあり、高音域の表現力に貴重な持ち味のある歌手だなと感じました。対して、今回のベチャワは全体的に高音がやや苦しそうで、かわりに中高音が美しく逞しい。第1幕のアリア「冷たい手を」の「speranza」でのハイCはボリューム感たっぷりでしたが、声が少し擦れ気味なのが惜しかった。しかし、ホールは大いに湧きました。

オーケストラの演奏ですが、ファビオ・ルイジの指揮がとにかく素晴らしい。良い意味で抑制を効かせたスタイル。全体に渡って音量を抑え、必要以上にオケを鳴らさない(正直、最初は鳴りが悪いのかと勘違いしたほど)。そのかわり、節度を保ってアンサンブルを丁寧に組み立てる、というスタンスが徹底されていました。それゆえにハーモニーの情報量が抜群であり、響きの細部までくっきりと鮮やかであり、なおかつ透徹した響きの引き締まりぶりがハンパでなく、音量に頼らないぶん、独特の凄味さえ感じさせるものでした。最後のミミ絶命の場面でさえ、叩きつけるような強和音が慎重に避けられ、世界が透明な悲しみで塗りつぶされたような、静謐で、凄絶な音響が展開されていました。あれは聴いていて鳥肌ものでした。

ファビオ・ルイジ、実は今回はじめて実演を聴きましたが、とくに日本では先年のドレスデン・シュターツカペレ来日公演での評判が芳しく、当該公演を聴きに行った人々が絶賛を惜しまなかったと記憶しているだけに、注目はしていましたが、これほどとは、という思いです。来年からチューリッヒ歌劇場の音楽監督となるそうで、今後さらなる飛躍が期待される指揮者ではないでしょうか。

そして演出。あまりにも有名なゼッフィレッリ演出の「ボエーム」の舞台、一度は実演で観てみたいと思っていましたが、ようやく叶いました。やはり舞台の美術的な雰囲気が抜きん出て素晴らしいというほかなく、第1幕や第3幕など、視覚的な遠近法の効果まで考え抜かれていて、観ていて絵画の中に歌手が溶け込んでいるかのような幻想的な感触でしたし、舞台装置の質感や実在感などは美術品なみのリアリティを帯びていましたが、そのいずれもが「ボエーム」というオペラ自体の醍醐味を絶妙に引き立たせていた点において、なるほどオペラというのは視覚と聴覚との融合による総合芸術である、という言葉の意味を、あらためて噛みしめさせられました。

メトロポリタン・オペラ来日公演プッチーニ「ラ・ボエーム」(NHKホール 6/11)


6/11 NHKホール
メトロポリタン・オペラ来日公演

プッチーニ「ラ・ボエーム」

2011-6-11 2011-6-11-2

指揮:ファビオ・ルイジ
演出:フランコ・ゼッフィレッリ

ミミ:バルバラ・フリットリ
ロドルフォ:ピョートル・ベチャワ
マルチェッロ:マリウシュ・クヴィエチェン
ショナール:エドワード・パークス
ムゼッタ:スザンナ・フィリップス

今回のメトロポリタン・オペラの来日公演で、おそらく歌劇場側は2つの難しい決断を迫られたのではないかと思います。ひとつは、今この時期に、オペラハウス引っ越し公演という大所帯で、本当に日本に行くべきなのか、という判断。もう一つが、公演開始一週間前という土壇場で看板のプリマが来日を断るというシビアなアクシデントにどう対応するか、という判断。

前者に関しては、なにしろ原発事故でレベル7やらメルトダウンやら騒がれている国への楽旅、普通は躊躇するでしょうし、実際、欧米のオケの多くは、予定されていた来日公演を次々にキャンセルしているわけで、そういう所へ敢えて来る、というのは、オペラハウスとしても相当の決断だったのではと思慮されますし、実はチケットを取っていた私も半信半疑でいましたが、ピーター・ゲルブ総裁の掲げた「目に見える形での“支援”と“連帯”の気持ちを必要としている日本の人々を勇気づけるために来日する」という言葉のとおり、来日公演を実現しました。この有言実行には敬意を表したいと思います。

後者。こちらも見事な対応でした。あらためて思いだされるのが、昨年に来日した英コヴェントガーデン歌劇場のことで、やはり今回と同じようにプリマ(ゲオルギュー)のドタキャンに見舞われました。今回のメトは、コヴェントガーデンが取った対応のようにサブの歌手をあてがうという安易な道に走らず、どうにかネトレプコと同格ともいうべき歌手を手配することに成功した。このため、もともと「ドン・カルロ」に出演予定だったフリットリをスライドさせた関係上、「ボエーム」以外の演目にも少なからぬ影響が出ることにもなったが、それでも敢えてそうした。

当然のようでいて、実際なかなか出来る処置ではないと思います。並のオペラハウスであれば公演がガタガタになってもおかしくない状況。オペラハウスとしての真価、本当の底力というのは、こういうときに得てしてものをいうのだなと、あらためて感じました。

もちろんネトレプコのキャンセルはガッカリです。だいたい、今回の公演のチケットを買ったのも、もともとネトレプコのミミが目当てでしたし、また今にして思えば、私はネトレプコを、昨年に聴く機会が2回もあり、今回も含めて3回も聴き逃している。前述のコヴェントガーデン来日公演で、ネトレプコが外題役の「マノン」かゲオルギューが外題役の「椿姫」、どちらを観るかで迷った(2つとも観ると足が出るから)が、ネトレプコは今年のメトの「ボエーム」を聴こうと思っていたので、「椿姫」を取ったところ、これが完全に裏目。ゲオルギューはキャンセルし、代役の歌手は聴いているのが気の毒なくらい、ボロボロの歌唱だった。それに危機感を抱いたコヴェントガーデンは、「マノン」のネトレプコを「椿姫」の千秋楽に登板させ、なんとか日本公演の体面を取り繕った。

もし私が「マノン」を選ぶか「椿姫」最終日のチケットを取るかしていたら、そこでネトレプコを聴けていたはずだった。そして今回のキャンセル。これだけ重なると、さすがに私はネトレプコの実演には、たぶん今後も縁がないのかもしれない。

今日のフリットリのミミは、昨年のトリノ王立歌劇場「ボエーム」でフリットリが歌った同役の歌唱と同じくらいの素晴らしさ、とまでは正直いきませんでしたが、それでも十分すぎるものでしたし、ロドルフォ以下の歌唱陣も満足のいくものでした。ファビオ・ルイジの指揮は聴いていて鳥肌が立ちました。ゼッフィレッリ演出の素晴らしさは言わずもがな。そして何より、このメトロポリタン・オペラという、世界屈指の歌劇場の地力をまざまざと見せつけられたという点では、私が近年に接した欧米のオペラハウス引っ越し公演の中でも、ひときわ大きな感銘を受けた公演でした。

引き続き、黒澤明の映画におけるクラシック音楽


今回は原曲をアレンジしたメロディが使われているケースと、映画作品のコンセプト自体としてクラシックの曲が使われているケースについて思いつく限りで。

①ラベル 「ボレロ」

「羅生門」の中の、ある戦慄的なシーンにおいて、ラヴェルの「ボレロ」をアレンジした音楽が流れます。

②ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

「七人の侍」という映画自体を黒澤監督はドヴォルザークの新世界に喩えています。

③ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」

「赤ひげ」の基本理念として黒澤監督はベートーヴェンの第九を掲げています。

④ハイドン 交響曲第94番「驚愕」

同じく「赤ひげ」で、加山雄三が演じる医師を少女が看病する感動的なシーンで、ハイドン「驚愕」の第2楽章のメロディがアレンジされて流されます。

⑤ブラームス 交響曲第1番

同じく「赤ひげ」のメインテーマ曲として、この交響曲の最終楽章の中心主題のメロディがアレンジされて用いられています。

⑥マーラー 交響曲第1番「巨人」

「乱」のラストでの葬送の場面で、この交響曲の第3楽章のメロディがアレンジされて用いられています。

以上のうち②と⑤は少し知られざるところかもしれません。

②は昨年に出版された四方田犬彦・著「『七人の侍』と現代――黒澤明 再考」 に書かれています(P.66)。

⑤は都築政昭「黒澤明と『赤ひげ』」の中で以下のように言及されています。

音楽担当の佐藤勝は、黒澤との作曲打合せの時、前述のようにいきなりベートーヴェンの第九のレコードを聞かされた。そして黒澤は「無味無臭の音楽を書いてくれないか」と言った。・・・佐藤は「第九」と「無味無臭」という黒澤の言葉の呪縛に苦しんだ。
・・・
 それがブラームスの第1交響曲に似た「保本登のテーマ」となった。ブラームスの第1番はベートーヴェンの不滅の9曲につぐ「第10番」だとさえ言われ、ベートーヴェン風の「暗黒から光明へ」の精神的闘争がテーマであり、特に第4楽章の主要主題がベートーヴェンの第九の“歓喜の合唱”の主題とよく似ているのである。黒澤の第九の呪縛の中にあった佐藤が、ブラームスの第1番に似た音楽を書いたのも自然であろう。
 この「保本登のテーマ」は、冒頭とラストで、また幾多の試練を克服して前向きに歩み出す人生の節々に静かに、優しく、力強く、そして激しく鳴り響く。

        都築政昭「黒澤明と『赤ひげ』」P.122

黒澤明の映画におけるクラシック音楽


昨日の話題を少し発展させて、黒澤明監督作品映画の中で使われていたクラシック音楽の曲名を、私の知る範囲で以下に挙げてみます。

①ムソルグスキー 「展覧会の絵」キエフの大門

「わが青春に悔なし」で原節子が演じる主人公の女性が作品中で頻繁に演奏するピアノ曲ですね。

②シューベルト 「楽興の詩」第3番

「素晴らしき日曜日」の冒頭クレジット・タイトルで流れます。ただし原曲のピアノではなく、オーケストラ編曲。

③シューベルト 交響曲第8番「未完成」

同じく「素晴らしき日曜日」のラストで、主人公の男性がヒロインの女性のほかに誰もいない野外音楽堂で空想上のオーケストラを指揮する有名なシーンがありますが、その時に演奏されるのがこの曲。第1楽章のみ演奏され、第2楽章はエンディング曲に使われます。

④シューベルト ピアノ五重奏曲「鱒」

「天国と地獄」で、映画の中盤で山崎努の演じる誘拐犯の姿がスクリーンに初めて登場する場面で、どこからともなく「鱒」の第4楽章が流れてきます。

⑤ショパン 「雨だれの前奏曲」

「夢」で、寺尾聰の扮する主人公の旅人がゴッホの絵画の中に入り込んで旅をするシーンで流されるピアノ曲です。

⑥シューベルト 歌曲「のばら」

「八月の狂詩曲」の、あまりにも有名なラストシーンを劇的に彩った曲です。

⑦ヴィヴァルディ スターバト・マーテル

同じく「八月の狂詩曲」のエンディングで用いられる曲。クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団の演奏です。

以上。挙げてみると意外と少ないですが、大体こんなところではないかと思います。あとは昨日の「まあだだよ」でのヴィヴァルディ「調和の霊感」くらいでしょうか。でも意外と忘れてる曲もあるような気がするので、何か抜けていれば御容赦を。

これらはあくまで(編曲も含めて)原曲のメロディのまま使われていた例になるので、原曲のメロディをアレンジしたケースも含めれば他にも結構あると思います。「赤ひげ」でのハイドン、「乱」でのマーラー、「羅生門」でのラヴェルあたりが有名どころでしょうね。

シモーネ/イ・ソリスティ・ヴェネティによるヴィヴァルディの協奏曲集「調和の霊感」全曲


ヴィヴァルディ 協奏曲集「調和の霊感」全曲
 シモーネ/イ・ソリスティ・ヴェネティ
 エラート 1987年 WPCS4761-2
WPCS4761-2

昨日(6月6日)の朝日新聞の夕刊に、ちょっと興味深い記事が掲載されていました。

愛猫「三味線に」酔って電話 独文学者、告白書簡

詳しくは上記リンク先に書かれていますが、つまり内田百の随筆「ノラや」に出てくる「悪戯電話」の犯人が思わぬ形で判明した、という記事です。

上記リンク先の記事の中でも言及されていますが、この悪戯電話のエピソードが、黒澤明監督の最後の作品であり、内田百の晩年の人となりを描いた映画「まあだだよ」の中で描かれていたことを思い出しました。

この「まあだだよ」という映画、笑いと人情をベースとした、黒澤監督らしからぬとさえ思える穏やかな作風のフィルムで、昔これを観たときには「これってホントに黒澤映画なのか?」と思ってしまったほど。その意味ではヴェルディの最後のオペラ「ファルスタッフ」に似ているなと私は思っています。ともに熾烈な作風で全盛期を築いたヴェルディと黒澤明、いずれも最後に穏やかな笑いの物語りで幕を閉じた。

この映画は上映に2時間を超える長さに反して、劇付帯音楽はたった一曲しか使われていません。クラウディオ・シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティの演奏によるヴィヴァルディ「調和の霊感」第9番の第2楽章です。

これはエンディングを除けば劇中で2回だけ流されていたはずで、いずれも絶妙のシーンで流されるため強烈な印象を醸し出していましたが、その中のひとつが上記「悪戯電話」の直後の場面。この映画のクライマックスというべき名シーンですね。

エンディングシーンも素晴らしく、ヴィヴァルディの音楽の美しさとスクリーンの幻想的な美しさとが渾然一体となり、一度見たら脳裏に焼き付いてしまうほど。映画としては賛否両論の作品ですが、あのエンディングは絶対に一見の価値ありです。

読書間奏「東大生の論理―『理性』をめぐる教室」


「東大生の論理―『理性』をめぐる教室」
高橋 昌一郎 (著)
ちくま新書

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ちくま新書から発売された「東大生の論理―『理性』をめぐる教室」を読みました。

東大の教養学部(駒場での前期課程)で主に理科系の学生を対象とした記号論理学の講義を担当することになった著者が、その講義での学生の受け答え、あるいは提出レポートなどを材料に、東大生の思考における論理、考え方の志向性のようなものを考察することが本書のテーマとされています。

と同時に「講義のさわりの雰囲気を伝えるエッセイ集」として読んで欲しいと著者が述べているとおり、論理学の楽しさを分かりやすく読み手に伝えるという側面もあり、そちらの方がむしろ本書の醍醐味ではないかと思えます。社会心理学者ミリグラムの「スモールワールド仮説」、社会心理学の「腐ったリンゴ仮説」、社会的ジレンマの問題、ナッシュ均衡、パレートの法則、ベンサムの功利主義、ラッセルによる理性主義と神秘主義のイデオロギー、、、

とかく教条的で無味乾燥に陥りがちな学問ジャンルのエキサイティングな側面をエッセンスとして縦横無尽に抽出し、講義での学生との応答というリアルな媒介を介して、その「生きた面白さ」を読み手に分かりやすく伝えていく、いわば「哲学エッセイ」としての部分が滅法おもしろく、しかも分かりやすいので私のような哲学初心者でも一気に読み通せてしまいます。

それに対して本書の中心テーマとされている、東大生の思考における論理の考察に関しては、講義を通して著者が把握した学生の志向性に基づいて、分析力、適応力、洞察力、あるいは理解できたと納得するまで諦めない姿勢とか、正義感が強い、感受性が鋭くユーモアセンスがある、などの人並み以上に優れた「10の志向性」が列挙されていますが、このあたりも流石に論理学の専門家の著者が書かれているだけあって、全体的に理詰めですし、読んでいて納得させられてしまうものでした。

ただ読み終えて、ひとつだけ気になったのは、私が個人的によく知っている、ある東大卒の人物の持つ人柄と、本書で挙げられている「東大生の志向性」とが、どういうわけか随分と懸け離れているように思われた点でした。

その私が知っている人というのは、東大の理科一類に入学し、駒場での教養課程を経て本郷へ進学し機械工学を専攻、さらに大学院に進んで修士号を取ったそうです。その後は都内で普通に会社勤めをしていて、立身や出世などに取り立てて意欲を燃やすでもなく、地道に働きながら、余暇にはCDを人並みに聴いたり、コンサートやオペラなどにも人並みに足を運ぶような、要するに普通の生活を送っているような人で、人物としてみても普通そのもの、という印象しかなく、分析力、適応力、洞察力などが人並み以上に優れているようには到底おもえないような平凡な人物です。

しかし世間では東大を出ると出世が約束されているように思われているふしがあることから、そんな偏見とのギャップにより周囲から言われなき非難に見舞われることも時々あるとかいう話です。

そんなことから彼は夏目漱石の小説がとても好きなんだと言っています。立身や出世などとは縁のない東大卒がゴロゴロ出てくるからだそうです。それらのキャラクターに強いシンパシーを感じるし、ちょっと人事とは思えないとさえ思っているらしいですね。虞美人草が特に好きだと言っていたかな。

赤川次郎の「三毛猫ホームズと芸術三昧!」


作家の赤川次郎氏が朝日新聞夕刊に週一で連載しているコラム「三毛猫ホームズと芸術三昧!」を毎回楽しく読んでいます。

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「芸術三昧」というタイトルのとおり比較的コンサートやオペラ鑑賞の話題が多いですが、時事問題も頻繁に取り上げられており、やはり人気作家というのは物事を観察する視点が鋭いなと、読んでいて唸らされることが多いです。

例えば先週掲載のコラムでは、著者が大阪の松竹座で歌舞伎を観て、その歌舞伎談義をひとしきりしたあと、新幹線で東京に戻ってくると東京の暗さが大阪に比べていっそう際立って感じられる、という印象から、最近の電力問題に話題が振られます。

東京電力はしきりに電力不足を言い立てているが、従来も原発が事故で停止した状態で夏を乗り切っていたはず、原発存続が狙いの情報操作ではないのか、という東京新聞の記事を紹介し(朝日のコラムで!)、そもそもマスコミの多くは、いまだ東電に遠慮しているのではないか、東電の発表をうのみにして記事にするのでなく事実かどうか検証するという「当然の仕事」をしてほしい、と書かれています。

いつもながらの舌鋒の鋭さですが、情報操作云々という話は確かに有り得なくもない。例えばヤフーのトップページなどを見ると、東京電力エリア電気予報と称して、現在の推定電力使用率何パーセントとか、時々刻々と表示されていますが、あれも所詮は東電発表に基づく計算に過ぎない以上、どこまで信用に足るのでしょうね。そういうことを国民の一人一人がきちんと意識することは大事なのではないかと、コラムを読んで考えさせられました。

また、今年4月1日の同コラムではミューザ川崎シンフォニーホールの、震災による天井崩落事故が取りあげられていました。

もし土曜日か日曜日だったら、おそらく昼間の公演の客に大変な被害が出ていただろう。2004年7月開館というから、まだ7年もたっていない新しいホールが、震度5強の揺れでこんなことになるとは、設計ミスか手抜き工事が疑われることになるのは避けられないのではないか。半年、一年と時間を限る必要はない。充分に時間をかけて「安全で音のいいホール」として再生してほしい、という内容のコラムでした。

ここでは設計ミスや手抜き工事の可能性が指摘されている点に読んでいてハッとしました。確かに都内の主要音楽ホールは揃って無事なのに、東京より震源から遠い川崎の、それも比較的あたらしいホールで、あれほどの事故というのは、そう考える方が合理的とも思えますが、実際どうなんでしょう。

いずれにせよ今後のためにも、うやむやにせず、きちんと調査されなければならないはず(もし事実であれば、しかるべき処置も必要でしょうね)。こういった鋭い問題提起は、今後もぜひコラム上で続けてほしいと思います。

ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツによるモーツァルト交響曲第39番(フィリップス盤)


モーツァルト 交響曲第39番
 ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
 フィリップス 1988年 PHCP-10351

PHCP-10351

4月の中旬に新譜CDの感想をひとつブログに掲載しました。ソリ・デオ・グローリアからリリースされた、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏による、モーツァルト交響曲第39番と第41番「ジュピター」のカドガンホール・ライヴのCDです。

そのエントリーの記事中で、同じ顔合わせによる同曲の旧録音の演奏にも言及し、軽く比較を試みていました。旧録音はピリオド楽器によるモーツァルト演奏の可能性を追究する真摯な姿勢に貫かれた、いささか生真面目と思えるくらいに格調の高い様式での演奏だったが、今回リリースのライヴ録音では、全体的にアンサンブルを構成する個々の奏者の自発性が、モーツァルトの音楽性を損なわない限りで最大限に尊重されているという趣きが旧録音以上に強い、という風に感じましたので、その通りブログに書きました

その際に念のため耳を通したのが、この旧録音のCDでした。とくに交響曲第39番の新録音では、第3楽章のメヌエットでクラリネットが即興風フレージングを試みているのが耳を捉えますが、ガーディナーが1988年に同じオケを指揮してフィリップスに録音した同曲の演奏では、そのような即興風フレージングは聴かれず、スコアどおりの演奏が展開されていました。ので、今回の新録音ではアンサンブルを構成する個々の奏者の自発性が旧録音以上に尊重されているのではないかと私には思われました。

ところで、これは先の記事の中でも書いたことですが、イングリッシュ・バロック・ソロイスツは日本では「イギリス・バロック管弦楽団」と呼ばれるが、これだと「ソロイスツ」のニュアンスがいまひとつ伝わらない気がします。例えば先月に来日したモスクワ・ソロイスツをモスクワ管弦楽団と訳さないように、日本でもイングリッシュ・バロック・ソロイスツでいいのではないかと思えます。

しかし「イギリス・バロック管弦楽団」という呼び名は日本では定着しており、例えば音楽之友社から一昨年に発売された「世界のオーケストラ名鑑387」でも、そのように表記されています。

ところが、その「世界のオーケストラ名鑑387」のP.90に掲載されている「イギリス・バロック管弦楽団」の項目を読んでみたところが、このオーケストラは1948年創設で、あくまで現代楽器による演奏で、モーツァルトのピアノ協奏曲全集を3度完成(バレンボイム、内田光子、ペライヤ)云々というように書かれていて、びっくりしたんですが、これはどうもイギリス室内管弦楽団と間違えてしまったようですね(ネット上でも何人かの方々が指摘されていますが、私は最近まで気がつかなかった)。

そもそもイギリス・バロック管弦楽団と訳すからイギリス室内管弦楽団と間違えてしまうわけですから(それにしても、校正の段階で気がつかないものだろうかという、気がしないでもないですが)、やっぱり日本でも「イングリッシュ・バロック・ソロイスツ」で統一した方がいいのではないかと思ってしまいました。

ペレーニとラーンキによるベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集


ベートーヴェン チェロ・ソナタ全集
 ペレーニ(vc)、ラーンキ(pf)
 フンガロトン 1978・79年 HCD11928-29

HCD11928-29

これまで一貫して菅政権を擁護する論調を崩さなかった朝日新聞が、ついに今日の朝刊で菅首相に対する激しい批判記事を、一面トップに掲載していましたね。すみやかに首相職から身を引けと。天声人語でもボロクソに叩かれている、、、

閑話休題。基本的にCD感想のブログなのに最近はコンサートがらみのトピックスばかりで恐縮ですが、先月までに私が接した一連のコンサートをざっと振り返ってみたら、どうも今年はチェロの当たり年というか、優れたチェロ奏者の実演に接して感銘を受ける機会が例年になく多い、ということに気がつきました。クニャーゼフ、ペレーニ、ドマルケット、イッサーリス、ヴァシリエヴァ、ブズロフ、、

そんな中でもひときわ異彩を放っているのがミクローシュ・ペレーニ。3月にサントリーで聴いた彼の実演は見事でしたし、それもあってちょうど大震災の前日のブログ更新において、そのペレーニとアンドラーシュ・シフのデュオによるベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集のCDを取り上げていました。

そして、そのエントリーに続いてペレーニがかつてデジェー・ラーンキと録音したベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集の方もブログで取り上げる予定でした(例によって両盤を聴き比べての感想)。しかし大震災のためブログ更新を中断したことから、機を逸してしまいました。

そういう次第で、故障中のアンプが戻ってきたら真っ先に聴きたいと思っています。

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