ペレーニとシフによるベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集


ベートーヴェン チェロ・ソナタ全集
 ペレーニ(vc)、シフ(pf)
 ECM 2001・02年 4724012
4724012

ミクローシュ・ペレーニとアンドラーシュ・シフのデュオによるベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集のCDを聴きました。これは2004年にECMレーベルからリリースされたCDです。

先週サントリーホールでペレーニのチェロ演奏を聴き大いに感銘を受けましたし、まだ余韻の醒めないうちに、ペレーニの一連の録音の中でも巷間最も評価の高いと思われる、このベートーヴェンのソナタ録音に改めてじっくり耳を傾けたくなった、というのが理由のひとつですが、それとは別の理由もあります。

実は先週末、アンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルを聴きました。といっても実演ではなくテレビ放送を通しての視聴で、NHK教育の「芸術劇場」で、「アンドラーシュ・シフの芸術」というタイトルでもって、昨年12月に紀尾井ホールで行われたリサイタルでの演奏が放送されていたのを見ました。演目はオール・ベートーヴェンで、ピアノ・ソナタの第30番から第32番までの3曲でした。

このシフの演奏、ちょっと不思議な感覚のベートーヴェンでした。なにぶんテレビの音質ですし、あんまり迂闊なことを書いてもと思わなくもありませんが、それは聴いていてベートーヴェンというよりむしろバッハに近いとも思えるような深い思索の美しさを湛えたピアニズムの色合いが印象深く、しばし時間を忘れて聴き入ってしまいましたし、テレビの音質であそこまでの精彩が感じられるのであれば実演では一体どんな音がしたのだろうと大いに興味を引かれました。

ペレーニとシフ、いずれも音楽大国ハンガリーの生んだ世界的名手。彼らの演奏には確固としたパーソナリティの刻印のようなものがありながら外面的な効果とは無縁な行き方にして、ストイックなくらい音楽に誠実、こういった特性にハンガリーの音楽家の気質がどの程度まで絡んでいるのか?

先週のペレーニの実演とシフのリサイタルのテレビ放送での印象を思い起こしつつ、両者が録音したこのベートーヴェンのソナタのCDを楽しみながら、そんなことを思ったりしました。

カルロス・クライバー/バイエルン国立管によるベートーヴェン交響曲第7番の82年ライヴ


ベートーヴェン 交響曲第7番
 C.クライバー/バイエルン国立管弦楽団
 オルフェオ 1982年ライヴ ORFEOR700051
ORFEOR700051

昨日の更新でも少し触れましたが昨年秋に邦訳版が刊行されたカルロス・クライバーの自伝「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記」下巻を読み終わりました。ちょっと俄かに信じがたいような奇抜なエピソードがゴロゴロ掲載されていて(クライバーらしいといえばらしいんでしょうけど)、読んでいて面白いことは面白いんですが、ただ、何といいますか、、

そのあたりの感想についてはいずれ読書エントリーで取り上げようかとも思っていますが、そういったクライバー晩年の人となりに関する話とは別に、彼の残した各録音にまつわるエピソードも豊富に掲載されていました。例えば本CD、クライバーの死後2006年に独オルフェオから突如としてリリースされ、センセーショナルな話題となった、バイエルン国立管とのベートーヴェン7番、1982年5月3日ミュンヘンのナツィオナル・テアターでのコンサートのライヴ。このコンサートは前半にベートーヴェンの4番、後半に7番というプログラムで、その4番の方のライヴはクライバーが生前に発売許可を認めた数少ないライヴ録音としてあまりに有名です。

このコンサートに関しては伝記下巻のP.151~152に記載があり、もともとはカール・ベームが振る予定のコンサートであったこと、そのベーム死去に際しての追悼としてクライバーが指揮を許諾したこと、この時の前半の4番のライヴ録音をクライバーが発売許可した背景に、父エーリッヒゆかりの劇場であるプリンツレゲンテン劇場の再開のために収益を役立てるという契約がレコード会社と交わされていたことなどが書かれています。

もっとも、この時の7番の方のライヴ盤リリースをクライバーが生前ついに許諾しなかった理由については特に言及がありませんでした。やはりクライバー自身がこの時の7番の演奏内容に満足していなかったのか、あるいはクライバーはベートーヴェンの7番をウィーン・フィルを指揮してグラモフォンにスタジオ録音しているので、それとの関係で同じ曲の録音を他のレーベルからリリースすることを(少なくともクライバーの生前は)禁止するような契約条項がグラモフォンとの間にあったのか、、いずれにしても真相は分かりません。

本CDの演奏内容はクライバーの一連の正規録音の中でも最高度にエキサイティングなものですし、こんな凄い録音を何故クライバーはリリースしなかったのかと訝りたくもなりますね。

ポリーニとアバド/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集


ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集
 ポリーニ(pf)  アバド/ベルリン・フィル
 グラモフォン 1992・93年ライヴ POCG-1767/9
POCG-17679

マウリツィオ・ポリーニのピアノ演奏、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集のCDを聴きました。1992年と93年にベルリンのフィルハーモニーでおこなわれた演奏会のライヴ・レコーディングで、1994年にグラモフォンから鳴り物入りでリリースされたディスクです。

なにを今さらと思われるかもしれませんが、これは実は昨年の暮れに神田界隈の中古店で購入したものです。

昨年の秋にポリーニの来日リサイタルを耳にして彼のピアニズムに対する感銘をあらたにしたこともあり、ポリーニの最近のレコーディング動向には注目するようにしていますが、残念ながら2009年のバッハ平均律第1巻を最後に新譜が途絶えているという状況です。

それならば過去の録音ということで、このCDを中古買いしてみました。ただし、この全集、実は私は以前に新品で購入して、聴いていたんですが、どうにも演奏が面白くなくて最終的に売り払ってしまっていました。今回それを10年ぶりくらいで聴き直してみたことになります。

その感想ですが、10年前と違って今後は演奏の面白さが良くわかりました、買い戻して良かったです、、、ということになれば良かったんですが残念ながらそうは問屋が卸さずであり、やはり印象に大きな変化がなく、この全集はやっぱり私にとってピンとこない演奏だなという再認識を得たに留まったというのが正直なところです。

それでは演奏自体が良くないのか、と言われるとよくわかりませんし、おそらくそうではないようにも思えます。というのもこのCDは演奏云々以前として音質に問題がありすぎるのではないかと私には思われるからです。

全体的に、いかにも加工臭が強すぎて鼻につく音質です。だいたい実演での響きの感覚からすると、こんなバランスで聴こえるはずがないというシーンが(オケのパート同士のフレーズの重なりとか、ピアノとオケとが同期する場面などで)頻繁に聴かれますが、おそらくこういったハーモニーの溶け合いをリマスタリングで調整する段階でエンジニアの作為が入り過ぎているのではないかと思えてなりません。

グラモフォンが「4D」を謳い出した頃の録音で、初期の4Dにはこういう聴いていて首を傾げたくなる音質が多いと思います。そのあたりも90年代後半になると随分と改善されてきたようでしたが(そのうち4D自体を謳わなくなってしまいましたけど)、少なくとも90年代前半の時期の4Dは録音技術的にまだ試行錯誤の段階だったのではないかというような印象があります。

そういうことで、このベートーヴェンのピアノ協奏曲全集はポリーニおよびアバド/ベルリン・フィルの演奏の真価を伝えるにはいささか問題が多い録音ではないかという印象を否めず、まことに申し訳ないですけれども再び売り払うことを検討しているところです。

余談ですが、つい最近に読んだカルロス・クライバーの自伝の中で、ポリーニとクライバー/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集のレコーディングをグラモフォンが真剣に検討していたという記載がありました。ポリーニがクライバーとの録音を熱望し、クライバーの方でも協奏曲を録音するならポリーニしかいないとまで語ったそうです。これが実現すればポリーニ3度目のベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集となるはずでしたが、諸般の事情で最終的に実現に到らずじまい。実に惜しい話ですね。

ツィメルマンのピアノ演奏によるバツェヴィチのピアノ作品集


バツェヴィチ ピアノ作品集
 ツィメルマン(pf)他
 グラモフォン 2009年 4778332
4778332

腹が立ちました。このCDを聴き終えて。

独グラモフォンから先月リリースされた、クリスティアン・ツィメルマンのピアノ演奏によるバツェヴィチのピアノ作品集のCDを聴きました。収録されているのは主に20世紀中葉に活躍したポーランドの女流作曲家グラジナ・バツェヴィチのピアノ作品のうちピアノ・ソナタ第2番、ピアノ五重奏曲第1番・第2番の3曲。なおピアノ五重奏曲ではポーランドの4人の弦楽奏者が録音に参加しています。

これはツィメルマンのCDとしては同じグラモフォンから2005年にリリースされたブラームスのピアノ協奏曲第1番以来、実に6年ぶりの新譜になります。

私は昨年6月のツィメルマン来日リサイタルでの演奏に大いに感銘を受けましたので、この新譜は待ってましたとばかり購入しました。

その来日リサイタルで思い出されるのが、公演プログラムの中に掲載されていたツィメルマンへのインタヴュー記事です。そこでは最近の彼が何故レコーディングを行わないのか、その理由が開陳されていました。それがレコーディングという行為に対して非常に懐疑的かつ否定的な論調で書かれていたものですから、それを読んだ私は今後ツィメルマンの新録音がリリースされる可能性がほとんどゼロに近いのではないかと思ったほどでした。

しかし、ツィメルマンの前回の録音である前述のブラームスのCDのライナーには、そのブラームスの録音のために、ツィメルマンが80種以上ものレコードに耳を傾け作品の正しいテンポを研究した旨が記載されていましたし、これまでの彼の潤沢なレコーディング歴からしても、くだんのインタヴュー記事は一体どうしたことかと思わせるような文調でした。

そして今回リリースされたバツェヴィチの作品集のCDを聴きましたが、これは一体なんという演奏なのだろうという深い驚嘆を禁じ得ませんでした。どの音、どのタッチひとつ取っても有機的な響きと得難いまでの表出力が漲る、そして時には死力を尽くして弾いているのかとさえ思えるほどの張り詰めたピアニズムの緊迫感。

このバツェヴィチの作品集のCDは、実はグラモフォンがバツェヴィチ生誕100年記念となる2009年にリリースされる予定であったところ、その発売が何度も延期されたあげくに発売自体が立ち消えになっていたという経緯があったと記憶します。

しかし、これほどにツィメルマンの死力を尽くしたような掛け替えのない演奏内容のCDの発売を、よくもここまで延期したものだ、グラモフォンは一体なにを考えているのか、と、冒頭に書きましたように、聴き終えて何だか無性に腹が立ったのでした。

おそらくツィメルマンとしてもバツェヴィチ生誕100年記念となる2009年にリリースを強く望んでいたと思われます。これはあくまで私の憶測ですが、前述のインタヴュー記事で示したツィメルマンのレコーディングに対する拒絶姿勢は、もしか今回のグラモフォンの不誠実なCD発売延期が絡んでのことではないかという風に思えなくもありません。

いずれにしても、これほどの実力のピアニストがレコーディングを行わないという事態はどうにかならないものかと思いますし、今後のツィメルマンの新譜リリース(もう難しいのかもしれませんが)の動向には一層の注意を払いたいと思います。

読書間奏「物理学はこんなこともわからない」


「物理学はこんなこともわからない」 
川久保達之・著 PHPサイエンス・ワールド新書

    PHP-036

・・昭和の初め、物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦は「映画の世界像」という随筆で映画のフィルムを逆回しにしたときに見られるような現象、たとえば、燃え尽きた灰が焔に変わって最後に白い紙になるような現象が実際には絶対に起こらないのはなぜか、という問題に言及しています。
・・。
 ここで「現象が不可逆的である」とは上のような意味です。普通の人にとっては当たり前のことで、バカバカしい疑問をもつものだと思うでしょう。しかし、物理学者がなぜこんな奇妙なことに興味をもつのかというと、ニュートンの運動法則にその理由があるようです。・・・

先月に発売されたPHPサイエンス・ワールド新書「物理学はこんなこともわからない」を読みました。物理学者の著者による、物理学に関するエッセイ集といった趣きの内容ですが、ここでは現代の物理学をもってしても完全には解明できない幾つかの問題が話題として取り上げられています。

現代の物理学でも解明できない問題と言われると、我々は例えば現代宇宙物理学におけるダークマター問題などの壮大なスケールの話題を連想しがちですが、本書で取り扱われているのはそういった壮大なトピックスではなく、むしろ我々の日常と隣り合わせともいうべき「身近な物理現象」に徹底的にこだわっている点が非常にユニークなところです。

まず、なぜ5メートルもの高さから飛び降りた猫は人間と違って怪我もせず無事なのかという話題から始まり、なぜ10メートル以上もの高さの樹木が地中からてっぺんまで水を吸い上げられるのか、なぜ磁石は肩こりに効くのか、など、いずれも我々が日常的に当たり前だと思っていることの中に実は未知の問題が潜んでいるという視点に基づいて、それぞれの現象が物理学的にどういう原理にのっとって生じるのかということが考察されています。

私は本書を書店で手に取って最初の方を少し読んでみた時に「これは何となく寺田寅彦のエッセイに似ている」と思って購入し、読んでみたところ、ついに最終章で寺田寅彦の名前が出てきて(上記引用部)、ああやっぱり!と思いました。

著者は本書の中で「日常当たり前だと思っていることのなかに問題があることに気づくことが大切な態度」と書いていますが、これは実は寺田寅彦の研究スタンスと軌を一にするもので、実際にも寺田寅彦のエッセイの中には例えば金平糖のツノが生まれるメカニズムとか、水の入った洗面器が振動して音が出るメカニズムとか、そういった身近な現象を究明せんとしたものが数多くあります。おそらく本書もそのようなスタンスで書きおろされたものではないかと読んでいて思いましたが、寺田寅彦の名前を見るにおよびそれを確信しました。

とくに面白いと思ったのが、浴槽や流しの吸い込み口から水が流れ出ていくときに渦ができる現象に関して、「北半球では浴槽の水は左巻きの渦をつくる」という俗説があり、それが本当か検証するというトピックス。そもそも渦が発生する原因として、まず地球の自転により生じる慣性力として知られる「コリオリ力」に着眼する。しかし実際に方程式を解いて検証を行ってみるとコリオリ力が有効に作用するには水流の速度が小さすぎるということが判明、そこで、さらに詳しく水槽実験と流体方程式に基づいた検証を行ってみる。結果、吸い込み口からの水の流出量が大きく粘性が小さいほど渦が出来やすいということまでは物理学的に究明されるが、渦の回りが左右がどちら向きになるのかは、初期条件や環境条件などの、いわゆる境界条件(と私は理解したが)により左右されるので、現在の物理学では予測が難しい(要するに非平衡系の相転移の問題なので)という結論が呈示されます。

このように、現在の物理学ではここまでは分かるがここからは分からない、というあたりの限界点が示されている点が本書の特徴で、けっこう思いもよらない未知の領域が日常の中にあるものだと読んでいて唸らされました。なんだか寺田エッセイの21世紀版を読んだみたいで面白かったです。

シノーポリ/フィルハーモニア管によるプッチーニ歌劇「トスカ」全曲


プッチーニ 歌劇「トスカ」全曲
 シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団
 グラモフォン 1990年 POCG-1580/1
POCG-15801

オペラを劇場で観るとき、できるだけ字幕を観ないようにしています。字幕を観ることで舞台上の世界から現実に引き戻される感じがする、あの感覚がイヤなので、、

それでオペラを観に行く前に歌詞対訳を一通りさらっておく、というのを私は大体やっていますが、いつからやっているのかといえば11年前のミラノ・スカラ座の来日公演がきっかけでした。というのも、それが字幕スーパーなしの上演だったからです(確かムーティの要請だったと記憶しますが)。

その時までは歌詞が分からなくても字幕を観ればいいということから、とくに準備もせず聴きに行ってました。それが字幕なしっていうので仕方がないから、まあ対訳を一通りさらっておくか、と、、

そうしたら感覚的に全然ちがう、ということを実感しました。字幕を観ないというだけで、これだけ舞台の世界に集中できるのかと思い知ったといいますか、、

そうはいっても歌手が何を言っているのか全く分からないとなれば、どうしても字幕を見たくなるのが人情というもの、、だったら最初から歌手が何を言っているのか大体の見当がつくようにしていけばいいわけで、、

今月フィレンツェ歌劇場の来日公演「トスカ」を観に行きますので、シノーポリ/フィルハーモニア管の同オペラ対訳付き全曲盤、この週末に聴いてみたいと思います。

札幌交響楽団の東京公演(サントリーホール 3/1)の感想


昨日(3/1)のサントリーホール、尾高忠明/札幌交響楽団の東京公演の感想です。オーケストラの配置は第1ヴァイオリンとヴィオラとを対向させたドイツ式、編成は前半が8型(武満作品)と14型(協奏曲)、後半が16型。

2011-03-02

まず武満徹の、オーケストラのための「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」。正直よく知らない曲でしたが、ロビーで配布されたパンフの解説によると1991年に作曲された作品で、エミリー・ディッキンソンの詩から取られたタイトルを持ち、抑制された色彩のなかで微妙なニュアンスの変化による、音の遠近法が試みられているとのこと。最晩年の武満作品に特有の神秘的な雰囲気を湛えた、弱音主体の密やかな曲であり、細やかな音の静寂の中に吸い込まれそうなくらいの密やかさがとても印象的でした。

と同時に、この演奏で一貫して張り詰めていたように思われた、ある種独特のアンサンブルの凄味もまた印象的なものでした。それは例えば昨年の秋にクリーヴランド管弦楽団の来日公演で聴いた、武満徹「夢窓」での、緻密な音の造形に徹したような怜悧なアンサンブル展開ともまた一味ちがう、おそらく生前の作曲家が格別の愛情をもって接した札幌交響楽団ならではの、武満作品に対する深いシンパシーに根ざした凄さではないかと感じられましたし、とにかく再弱音にいたるまで個々の音の訴求力が並みでなく、その音楽の隅々まで血の通ったアンサンブル展開が最晩年の武満の静謐な音世界を鮮やかに浮かび上がらせていて見事というほかありませんでした。

続いてショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番が、ミクローシュ・ペレーニをチェロ奏者に迎えて演奏されました。

ここでのペレーニのチェロ演奏の凄さを一体なんと表現すべきか、もはや途方にくれるというのが正直なところです。全楽章とも、いかにも飄々とした速めのテンポで悠々と弾き進めていきながら、その速めのテンポに不釣り合いなほどに、どのフレージングにもどっしりと落ち着いた佇まいが絶えない、そこから紡ぎ出される音色の高貴なまでの深みも絶え間ない、何より音楽の含蓄には筆舌に尽くし難いものがあり、このショスタコーヴィチ最晩年の、苦悩を訴えているのかふざけているのかも判然としない、何となく人を食ったような楽想に対し、そんなすべての機微を了解した泰然たる大局観をもって深々と音楽を奏でている、というような趣き、、

とにかくペレーニのチェロで聴くと、この掴みどころのないチェロ協奏曲が実に凄い曲のように思えてきます。聴いていて、この底の知れない音楽のパースペクティヴがまざまざと浮かび上がるかのような感覚、、なんだか凄い音楽を、凄い演奏で聴いた、という感覚が強烈に残りました。

後半のショスタコーヴィチ交響曲第5番は、尾高/札響の一八番の演目とのこと。前半と異なり尾高忠明は暗譜で、実にダイナミックで凄味のある指揮ぶりを披露しました。

尾高忠明という指揮者に対して私は「実質的な」指揮をする人という印象を持っていました。構えを拡げない端正な造形展開、強奏時においても繊細なダイナミクスの処理、弱奏時においても明快なアーティキュレーションの刻み分け、いずれひとつとっても、聴き手の意表を突くような強烈な刺激こそ控えめである反面、音楽の持つ生理を徹底的に語り尽くす表現が持ち味だと。

しかしこの演奏ではそういった持ち味をベースとしつつも、またそれとも一味ちがう凄味が全体的に漲っていた点に少なからず意表を突かれました。いかにこの曲を尾高/札響が自家薬籠中のものとしているかを聴き手に強烈に印象付けるに十分な、アンサンブルの張りつめた緊張感や高揚感、パワフルなまでの燃焼力、ここぞという時のクレッシェンドで強烈な加速を仕掛けつつ迫真のクライマックスを築きあげる、そのアグレッシヴなスタンス。ことに終楽章の完全燃焼ぶりは凄いとしか言いようがなく、手兵の札響ならではの指揮者会心のオーケストラ・ドライブが生み出す迫真のドラマに聴いていて胸を大きく揺さぶられました。

凄い演奏会でした。これほど「凄い」という言葉が似合うコンサートに、久しぶりに出会いました。

札幌交響楽団の東京公演(サントリーホール 3/1)


3/1 サントリーホール
札幌交響楽団 東京公演

2011-03-01

指揮:尾高忠明
チェロ:ミクローシュ・ペレーニ

演目:
武満徹 オーケストラのための「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」
ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第2番
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番

アンコール:
シベリウス アンダンテ・フェスティーボ

凄い演奏会でした。素晴らしいという言葉よりも、むしろ凄いという言葉が似合う、そんなコンサートに久々に出会いました。

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