ブリュッヘン/新日本フィルによるバッハ・ロ短調ミサの演奏会(すみだトリフォニーホール 2/27)の感想


昨日(2/27)のすみだトリフォニーホール、ブリュッヘン/新日本フィルによるバッハ・ロ短調ミサの演奏会の感想です。

以前ブログに書いたことがありますが、私はブリュッヘンが手兵18世紀オーケストラを指揮してフィリップスに録音したロ短調ミサのCDにかなり愛着がありますし、また最近ブリュッヘンが再録音した同曲のCDもとても見事な演奏でしたので、そのブリュッヘンの指揮するロ短調ミサを実演で聴く機会ということで聴き逃せないと思っていました。

しかし過剰な期待をしていったつもりはなかったものの、最初のうちは聴いていて演奏に落胆させられる部分も大きかったというのが正直なところです。まず前述のブリュッヘン/18世紀オーケストラのロ短調ミサの録音というのが私にとって同曲の規範的な位置づけにあるため、そこでの盤石なピリオドアプローチに基づく演奏で示されている表出力との差異がどうしても意識されてしまうこと、そしてそれとは別に、去年のアーノンクールと、おととしのコルボによるロ短調ミサの実演が、いずれも素晴らしすぎるくらいの演奏であったため、それらの表出力との差異も少なからず聴いていて意識に登ってきてしまったこと、、、

つまり上で挙げたような過去の録音ないし実演と比べると、昨日のブリュッヘン/新日本フィルによるバッハは、やはり制約条件が多すぎた感が否めず、そのあたりが聴いていてもうひとつしっくりこない原因として作用していた感がありました。ブリュッヘンにしてみれば2年間隔での客演指揮、新日本フィルはバッハの演奏に不慣れで、そのピリオド奏法にしてもオケとして恒常的に行っている奏法とは言えないこと、など、、

こういった制約から、果たしてブリュッヘンが思い描いているはずの同曲の演奏コンセプトのうち、どれだけの部分を妥協せざるを得なかったか、ということを聴いていて少なからず意識してしまったように思われましたし、コルボとアーノンクールがそういう制約条件とまったく無縁な地点での演奏であっただけに、やはり表出力において少なからぬ差が生じていた感が否めませんでした。

しかし、それでもなお昨日の演奏会が私にとって素晴らしかったと思えたのは、あらためてバッハの音楽の奥深さに眼を向けられる貴重な機会となったからでした。

というのも、前述のように私は昨日を含めて3年連続でバッハのロ短調ミサの実演に接していて、まず2009年の東京LFJでのコルボ/ローザンヌ、そして昨年のアーノンクール/CMW、それに昨日のブリュッヘン/新日本フィルのロ短調ミサが加わりましたが、この3つの演奏が偶然にも相互に全く異なるアプローチに基づく演奏となっていたからです。

コルボ/ローザンヌはいわゆるピリオド・アプローチとは対極にあるような地点での演奏、それに対してアーノンクール/CMWはもちろんピリオド・アプローチの究極点ともいうべき地点での演奏、そして昨日のブリュッヘン/新日本フィルはというと、アーノンクールと並び称される古楽演奏の旗手ブリュッヘンを指揮にむかえつつオーケストラはモダン型という、いわばピリオド/モダンの折衷様式での演奏でした。

この3者3様の演奏様式なりアプローチの違いというのが音楽の表情なり雰囲気なりに及ぼす影響というのが私の感覚からすると途方もないくらいに大きく、同じ曲なのに演奏様式の違いでこれほどの差別化がもたらされるのかと驚かされるほどでしたが、それは例えば量子宇宙論の多世界解釈に基づくマルチバースの宇宙像のように、各アプローチから導出されるバッハの演奏世界があたかも相互に独立する別の宇宙のような様相を呈していると考えると、この根源にあるのがバッハの音楽の持つ、それこそ宇宙に匹敵するくらいの、途方もないほどに広大な奥行きにほかならない以上、その奥行きの一端をこうして否応なく実感させられたからにはアプローチの違いによる表出力の優劣など、もう取るに足らない次元のことのようにさえ思えますし、むしろその広大無比なバッハの「音楽の奥行き」にまざまざと眼を向けられる貴重な契機となったこと、それ自体が昨日のコンサートの掛け替えのない収穫にほかなりませんでした。

なおオーケストラ編成は8型(8-8-6-4-3)、配置はステージ向かって左から第1&第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、木管群と順に並べられましたが、これは昨年のアーノンクールの実演と概ね同じような形でした。

ブリュッヘン/新日本フィルによるバッハ・ロ短調ミサの演奏会(すみだトリフォニーホール 2/27)


2/27 すみだトリフォニーホール
新日本フィル定期演奏会

演目:J.S.バッハ ミサ曲ロ短調

2011-02-27

指揮:フランス・ブリュッヘン

第1ソプラノ:リーサ・ラーション
第2ソプラノ:ヨハネッテ・ゾーマー
アルト:パトリック・ヴァン・グーテム
テノール:ヤン・コボウ
バス:デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン
合唱:栗友会合唱団

ブリュッヘンの指揮するロ短調ミサ、これは聴き逃せないと思いホールに馳せ参じました。

正直、少なからず落胆もしたんですけど、、

最終的にはバッハの音楽の奥深さにねじ伏せられたといいますか、、

(無題)


# いちおう書いておいた方がいいかと思いまして、、

昨年のある時期、私はブログ休止の告知を出したことがありました。

そのときは私は本気でブログを休止しようと思ってそのように告知しましたが、やると言ってやり残した事項が幾つかあったため暫定的に再開するとして更新を続けてきました。そのやり残し事項も一通り済みましたので本来なら休止すべき時期にきています。

ですが今では、むしろ少しでも長くブログ更新を続けたいと思っております。ブログ休止は取りあえず撤回します。

とはいえ仮にも休止の告知を出した以上は無碍に反古にするのも私としては不本意ですので、その代わりとしまして、主要なブログ情報ポータルサイト(ドリコムやブログピープルなど)に対して更新pingを送信することを休止するという形にさせて頂きました。すでに先月末から送信を止めています。

そういう次第ですので、ブログ更新自体は今後も今まで通り続けますね。

以上。

シノーポリ/フィルハーモニア管によるプッチーニ歌劇「マノン・レスコー」全曲


プッチーニ 歌劇「マノン・レスコー」全曲
 シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団
 グラモフォン 1983・84年 F70G5007/8
F70G50078

どういうわけか、今年の上半期に東京で、プッチーニの主要なオペラが立て続けに上演されるような状況になっています。

まず今月マリインスキー歌劇場の来日公演で「トゥーランドット」が上演されたのを皮切りに、来月にはフィレンツェ歌劇場の来日公演で「トスカ」が上演されますし、ちょうど同じ時期に新国立劇場で「マノン・レスコー」、そして6月にメトの来日公演で「ボエーム」が上演されるので、奇しくも「蝶々夫人」を除くプッチーニの主要なオペラが伊・露・米・日を代表する(?)オペラ劇場により各個に上演されるという珍しい状況になります。しめし合わせたわけでもないのに偶然そうなったというのが面白いといいますか、、、

せっかくの機会ですので、このさい4つとも観に行こうと思います。すでにマリインスキーの「トゥーランドット」は観たので、次は来月の新国立劇場「マノン・レスコー」。

そういうわけで、このシノーポリ/フィルハーモニア管の同オペラ対訳付き全曲盤、この週末にでも聴いてみようと思います。

テンシュテット/ロンドン・フィルによるマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」の91年ライヴ


マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」
 テンシュテット/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 1991年ライヴ LPO0052
LPO0052

ものすごい演奏でした。アンサンブルが導出する濃密な陰影から、音楽の深刻なニュアンスが赤裸々に紡ぎだされていく様がただごとでなく、そのライヴ全体において充満している名状しがたい緊迫を孕んだパトスが、歌唱も含めたアンサンブルが各フレーズに刻みつける抜き差しならない表出力からくるものであること、それがテンシュテット晩年の神憑り的な指揮に依拠すること、そして何より、この様々な意味で「規格外の」シンフォニーの、その真に規格外たる所以を、このテンシュテットの演奏で聴くと聴き手は否応なく理解することになるのではないかと思えること、、、

ロンドン・フィル自主制作レーベルより今月リリースされた、クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルの演奏によるマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」のCDを聴きました。1991年1月27日、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおける演奏会のライヴ録りで、歌唱陣はユリア・ヴァラディ、ジェーン・イーグレンら7人のソリストとロンドン・フィルハーモニー合唱団、ロンドン交響楽団合唱団、イートン・カレッジ少年合唱団という陣容です。

テンシュテット最晩年の時期のライブ、ことにマーラー演奏においてはEMIから91年の「悲劇的」、93年の7番、BBCレジェンドから90年の「巨人」、89年の「復活」と、いずれも神憑り的な演奏がリリースされていますが、今回リリースの8番もまたこの時期のテンシュテット特有の神憑り的なマーラーでした。

思うにマーラーの8番という曲はその常軌を逸した編成規模から、なにか宇宙的なスケールの作品というように称揚される傾向にあり、聴く方にしても、このシンフォニーならではの合唱を含めた絢爛豪華なオーケストレーションを中核とする、いわば宇宙的な調和の世界を堪能するという聴き方に(私も含めて)傾斜しがちな感もあるところ、このテンシュテットの演奏はそういった宇宙的な調和の世界を描き出すというよりもむしろ地上的な苦悩の世界とか、そうでなければ世界の潜在的な不調和(例えば、ラテン語で交響曲的構造の第1部とドイツ語でオペラ的構造の第2部とがぎこちなく同居する作品構造を始めとして、この8番シンフォニーには本来なら調和して然るべき世界感の断絶がそこかしこに抜き差しがたく潜在するように思えてならない)からくる、人間の精神の世界観における深刻な断絶の風景のようなものを、必死に描き出そうとしているように聴いていて思えてきますし、その方面のアプローチでこれほど振り切れた解釈の演奏というのも類例に乏しいのではないかと思えます。

いずれにせよ、このテンシュテットのマーラー8番ライヴはとても気軽に聴けるような演奏ではなく、聴き手の方も一定の覚悟をもって聴かないと返り討ちに合いそうな気がしますし、そういう私も実のところ、いささか気軽な気持ちで聴いてしまい見事に返り討ち状態です(汗)。

引き続き、マリインスキー・オペラ来日公演プッチーニ「トゥーランドット」(NHKホール 2/20)の感想


一昨日の続きです。演出について。

2011-02-21

今回の「トゥーランドット」の演出はマリインスキー歌劇場による2002年プレミエのプロダクションとのことで、ロビーで購入した公演プログラムを読みますとゲルギエフ自身がプロダクションの演出の特徴について語っています。まず華やかな色彩感(舞台装置や衣装のデザイン)を特徴として挙げており、また奇をてらい過ぎてオペラの主題から懸け離れてしまった演出と違い、あくまで「クラシカルなプロダクション」であることを強調しています。

つまり正攻法のオーソドックスな演出ということですが、それは私の観た印象としても同様で、目立った仕掛けとしては舞台中央のターンテーブルを巧く使って動きを出していたくらいでしたし、少なくとも、このオペラを観る者に対して価値観の転換を迫るような要素はなく、どこまでも音楽とシナリオを阻害せずに寄り添っている、という印象。その限りでは確かに好演出ですが、その場合あくまで演出がピタリと寄り添っている音楽とシナリオ自体の訴求力に演出の評価がダイレクトに依存することになるところ、「トゥーランドット」のシナリオには問題が結構あると思うので、観ていて演出がさほど魅力的に感じられず、逆に平凡さが際立ってしまったような印象を覚えました。

そのあたりを掘り下げてみたのが以下のチャートです。文章で長々と書くよりこの方がマシかなと思いまして、、

>この「トゥーランドット」という作品、音楽はプッチーニのオペラ全作品中でも屈指の素晴らしさであるのに反し、シナリオが何だかヘンテコリンだ。そのあたりのシナリオの脆弱性がなまじオーソドックスな演出ゆえに強調されてしまったのではないか。
                ↓
>そもそも私はプッチーニの主要作のうち「トゥーランドット」のシナリオには何か据わりの悪いような違和感を感じている。
                ↓
>プッチーニの5大オペラ(マノンレスコー、トスカ、蝶々夫人、ボエーム、トゥーランドット)のなかで、トゥーランドットを除いて、すべてラストで外題役のヒロイン(ボエームの場合はミミ)が非業の死を遂げているが、トゥーランドットは真逆に、それこそ絵に描いたようなハッピーエンドで終わっている点がまず引っ掛かる。
                ↓
>大体このオペラの結末、いかにも取って付けたような印象が否めないぞ。この結末により、シナリオ自体が、トゥーランドットの勝利、リューの敗北という、極めて理不尽な状況となっているのだが、これは漱石の「虞美人草」に喩えるならば最後に小夜子が敗北し藤尾が勝利するという構図に相当するものであり、極めて不条理である。
                ↓
>だが、この不条理性こそが実は「トゥーランドット」のシナリオの真価であって、その不条理ゆえにオペラが光り輝く、というのであれば、それはそれで大いに傾聴に値するシナリオなのかもしれない。それならば話が分かるが、本当に、このオペラというのは、そのような形で(不条理を味わうという風に)受容されているものだろうか? 
                ↓
>ここで視点を変えると、そもそも、このオペラが未完成なのは、プッチーニが最終幕のリューの死を書きあげた時点でガンの手術に失敗し心臓発作のため急死しているからだが、これは全くの偶然としても、このリューの死のくだりをもって、このオペラの幕引きと仮定するなら、ヒロインの非業の死という観点において、「トゥーランドット」以外の主要作のエンディングと整合的になる。
                ↓
>この点に関し、当日ロビーで購入した公演プログラムに掲載されていた音楽評論家小畑恒夫氏による作品解説に「もし手術が成功して生き永らえたとしても、彼がこのフィナーレを完成できたかどうかは疑わしい」という記述があったのが興味深い。
                ↓
>要するにシナリオがあまりに不条理なので、プッチーニ自身も折り合いが付けられなくて、病気云々に関係なく完成できなかったのではないか、ということらしい。
                ↓
>そうなら、2008年の新国立劇場の「トゥーランドット」の、あのややっこしい演出は、これを強調したかったのではないか?
                ↓
>あれはプッチーニの音楽とアルファーノ補完部との間の「音楽の断絶」に折り合いをつけるという演出意図だと、その時は思ったが、それだけのためにあそこまで手の込んだことをするか?
                ↓
>本当は、あれは「シナリオの断絶」(「トゥーランドット」と、他の4作との間の)に折り合いをつけるという演出意図の方がむしろ主眼だったのでは? 実際、このオペラが仮にリューの死のくだりでもって終わった場合の方が、いかにもプッチーニのオペラを味わったという余韻が強く残るのではないか?

以上。

# できれば文章で出したかったんですが、途中で力尽きました、、(汗)

マリインスキー・オペラ来日公演プッチーニ「トゥーランドット」(NHKホール 2/20)の感想


マリインスキー・オペラ来日公演プッチーニ「トゥーランドット」(NHKホール 2/20)の感想です。

2011-02-21

トゥーランドット役マリア・グレギーナ:
ちょっと期待値が高すぎた、、ような、、確かにドラマティック・ソプラノとしての超人的な声の表現力は健在でしたし、この超難役を技術面で十全に歌いこなすという点でも流石と思わせる歌唱でした。ただ正直、昔に比べると少々衰えたのでは、という印象も受けました。

11年前、ミラノ・スカラ座の来日公演でヴェルディ「運命の力」のレオノーラをグレギーナが歌ったのを文化会館で聴きました。「その凄さは端的にいうなら絶大的な声量にもかかわらず発声的な力みが実に少ないという点」「どんなに声量を出そうとも歌唱が絶叫的に流れず発声をきっちりコントロール出来ているという点において驚異的」とかなんとか、当時の私は自分の感想サイトにグレギーナのレオノーラに対する雑駁な感想を書いていました。

昨日のトゥーランドットの場合、まず全体的に高音がくぐもるのが聴いていて気になりました。音程をきっちりコントロール出来ているという点では概ね11年前と同じ印象ですが、声自体の質に若干の開きが感じられ、部分的にしろ力んだり絶叫的に流れたり(その場合に声がくぐもる)、また謎かけの場での3点Cなどでは声量が意外に伸び切らず、声の透明感もいまひとつ突き抜けない、など。

ただグレギーナに対しては昔の実演のインパクトが強烈だったことから、私としての期待値が非常に高いレベルに置かれてしまっていたこともあるし、レオノーラとトゥーランドットでは要求される歌唱技術自体に差があること(当然トゥーランドットの方が一回り高い)、また聴いたホールの相違など、相応の要因が考えられるので、単純に11年前と比べて声が衰えたとは言えないかもしれませんが、、、いずれにしろグレギーナにしては、ちょっと物足りなさが残る歌唱でした。

カラフ役ウラディーミル・ガルージン:
この歌手は前評判が高かったこともあり期待していたんですが、確かに名歌手の風格は十分でしたが正直ホールを震撼させるとまでは行かなかったか、という印象。トゥーランドットが局地戦なのに対しカラフは出ずっぱりという感じなので単純に比べるのは酷かもしれませんが、グレギーナに二重唱で圧され気味な気配が見受けられましたし、単独のアリア(「泣くなリュー」「誰も寝てはならぬ」)でも、中音域の充実感には総じて目覚ましいものを感じたものの、肝心の高音域が少し擦れ気味で苦しそうでしたし、必ずしもカラフ向きでの歌手ではないような気も、、、声質自体は非常に聴き映えのするものだっただけに、そのあたりが惜しまれました。

リュー役ヒブラ・ゲルズマーワ:
昨日の舞台の最高殊勲歌手といえるほどの素晴らしさであり、その歌唱はグレギーナやガルージンさえも凌ぐくらいの表出力を湛えていて聴き惚れるばかり。高音が実に奇麗にピーンと伸びる、まさに「透きとおるような美声」というに相応しい、艶やかで張りのある声質が実に独特ですし、特にグレギーナの声がここぞという時に少しくぐもっていたので尚更そのあたりの美質が映えた感がありました。リューはキャラクター自体が日陰の存在ゆえに普通は目立ちにくい役柄ですが、このオペラはリューを歌う歌手がいいと舞台がグッと引き締まるのも事実。自害直前のアリアは聴いていて素直に目頭が熱くなりました。

オーケストラの演奏:
まずテンポ設定が全体的に速めで、冒頭の幕開けから音楽がグングン進んでいく感じでしたが、このあたりの推進力とテンポ運びの小気味よさ、そしてがっちりと引き締まったアンサンブルの描き出す、威風堂々とした音楽の佇まいに聴いていて惹き込まれましたし、あいかわらず押しの強い低弦の充実感をベースとする、重厚で味の濃いアンサンブル展開、ここぞというときの再弱音の美しさや最強音の凄味なども見事でした。

全体的にゲルギエフらしい、タフな聴きごたえを伴うハードタッチの音楽造りという感じであって、それだけにプッチーニならではといった、とろけるような甘さというのは希薄でしたが、本来このオペラの、イタリアオペラとしては例外ともいうべき(むしろワーグナーを思わせる)豪壮な音楽の雰囲気は、それ自体ゲルギエフの音楽の波長にフィットしていたような気がしますし、また、殊更にセンチメンタリズムを強調した形で演奏されなくても「トゥーランドット」の音楽はやっぱり素晴らしい!、ということをはっきりと認識させられた演奏でした。

演出:
・・・まともに書くと長くなりそうで、、どうしようかと考え中です。

マリインスキー・オペラ来日公演プッチーニ「トゥーランドット」(NHKホール 2/20)


2/20 NHKホール
マリインスキー・オペラ来日公演
 プッチーニ「トゥーランドット」

2011-02-20

指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演出:シャルル・ルボー

トゥーランドット:マリア・グレギーナ
カラフ:ウラディーミル・ガルージン
リュー:ヒブラ・ゲルズマーワ
ティムール:ユーリー・ヴォロビエフ

寸感
歌唱陣:O オーケストラ:◎ 演出:△

アルブレヒト/読売日響の演奏会(サントリーホール 2/18)の感想


昨日はどうも失礼しました。いささか感情的な書き方となってしまったようで、、

今回、コンサートの感想はパスしますね。気勢を削がれたというか、どうも気が乗らないので。

アルブレヒト/読売日響の演奏会(サントリーホール 2/18)


2/18 サントリーホール
読売日本交響楽団・名曲シリーズ

2011-02-18

指揮者:ゲルト・アルブレヒト
ソロ:神尾真由子

前半:ブラームス ヴァイオリン協奏曲
後半:ブラームス 交響曲第2番
アンコール:パガニーニ カプリース第24番(神尾真由子)

開演の前、例の「拍手は指揮者のタクトが下りてから・・」のアナウンスがありまして、、、

これで、どうやら今日は貴重な余韻のひとときが確保されそうだしめしめ、とか思っていたら、そうは問屋が卸すかといわんばかり、終楽章のコーダが終わった直後の、指揮者のタクトが全然おりてないタイミングで「ブラヴォー」を野獣のような大声でかっ飛ばされた方がおられました、、それもご丁寧なことに前半の協奏曲と後半の交響曲、両方ともで。

なるほどねぇ。アナウンスは確かに『拍手は』指揮者のタクトが下りてからと言ったのであってブラヴォーは埒外だから問題なしという発想ですか? ふざけるなよ。一休さんのトンチ合戦じゃあるまいし。駄目に決まっているでしょうが!

・・ったく冗談ぬきでこういうマナー感覚ゼロの人はホールに来ないでもらいたいんですが。

フェドセーエフ/モスクワ放送響によるショスタコーヴィチ交響曲第1番と第15番


ショスタコーヴィチ 交響曲第1番・第15番
 フェドセーエフ/モスクワ放送交響楽団
 キャニオンクラシックス 1996年 PCCL00351
PCCL00351

先週サントリーホールでフェドセーエフ/東京フィルの演奏会を聴きましたが、そのときのストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」を聴いていたら、ずっと以前に同ホールで耳にしたフェドセーエフ率いるモスクワ放送交響楽団の来日公演のことが思い出されました。

2001-7-9

2001年7月の同楽団の来日公演で、この時の演目はオール・チャイコフスキー(弦セレ、1812年、交響曲第5番)でしたが(確かアンコールとして外山雄三「管弦楽のためのラプソディ」も演奏されたはず)、特に後半の交響曲第5番の演奏が圧巻でした。このオーケストラが名称に持つ「チャイコフスキー記念」の名に恥じない、そのアンサンブルの表現力、ことに管楽器とティンパニの雄弁な迫力といったらなく、ここぞという時にはホールを吹き飛ばすかのような最強奏をお見舞いする、かと思えば、理性的にまとめるべきところでは徹底的に理性的にまとめる、この変わり身の凄さにも聴いていて唖然とさせられたことを憶えています。

そのフェドセーエフの録音に関しては最近モスクワ放送響とのベートーヴェンとブラームスの交響曲全集がリリースされて話題となりましたが、それらのドイツ・レパートリーの演奏はなかなかに個性的であり私も耳にして新鮮な印象を与えられるものでしたが、しかしフェドセーエフの本領はやはりロシア系ないし旧ソ連系の作品群にあるように思えますし、特にショスタコーヴィチの交響曲全集の完成こそは、おそらくフェドセーエフに対して多くのリスナーから最も期待されている仕事ではないかと思えます。

そのショスタコーヴィチの交響曲全集にフェドセーエフ/モスクワ放送交響楽団が着手したのが1996年、第1番と第15番の組み合わせでキャニオンからリリースされました。これは交響曲全集の第1弾であるとライナーノートに明記されているとおり、この時点ではキャニオンが全集として録音を継続する意図があったはずですが頓挫し、現在はレリーフから全集録音が継続的にリリースされているという状況です。

旧ソ連系の指揮者と旧ソ連系のオケによるショスタコーヴィチ交響曲全集としては、現状コンドラシン/モスクワ・フィルとロジェストヴェンスキー/ソ連文化省交響楽団の2セットしかないですし、ここにフェドセーエフ/モスクワ放送響の全集も(ゲルギエフ/マリインスキーとともに)加わるべきではないかと思っています。

ただ、仮にフェドセーエフとモスクワ放送響が今後ショスタコーヴィチの交響曲の録音を続けていって最終的に全15曲を録音したとしても、複数レーベルにまたがっている以上、将来的に全集としての一体的なリリースは難しいのかもしれません。同じことはゲルギエフ/マリインスキーにも言えますが、どうも旧ソ連系のオケは何故だか、総じてショスタコーヴィチ交響曲全集の録音に恵まれないなという気がしています。

イヴァノフと大野和士/リヨン国立歌劇場管によるデュティユーとデハーンのヴァイオリン協奏曲集


デュティユー ヴァイオリン協奏曲「同じ和音の上に」・「夢の樹」&デハーン ヴァイオリン協奏曲
 イヴァノフ(vn) 大野和士/リヨン国立歌劇場管弦楽団
 APARTE 2009年 AP007
AP007

仏APARTEレーベルから先月リリースされた、ヨッシフ・イヴァノフのヴァイオリン・ソロと、大野和士の指揮するリヨン国立歌劇場管弦楽団の演奏による、デュティユーとデハーンのヴァイオリン協奏曲集のCDを聴きました。

収録曲はデュティユーのヴァイオリンと管弦楽のためのノクターン「同じ和音の上に」、同じくヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲「夢の樹」、それにベルギーの作曲家ラファエル・デハーンのヴァイオリン協奏曲の3曲です。

先般の新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」での好演が記憶に新しい大野和士の最新録音ということで購入しました。ので、ここでヴァイオリン・ソロを務めているヨッシフ・イヴァノフは私には全く未知のヴァイオリニストですがライナーノートの情報によりますと、弱冠16歳でモントリオール国際コンクールに優勝し、2年後のエリザベート王妃国際音楽コンクールで第2位という経歴を持つとのことです。

デュティユーの「夢の樹」は1985年にアイザック・スターンのために書かれた作品、同じく「同じ和音の上に」は2002年にアンネ=ゾフィー・ムターのために書かれた作品で、いずれも高度なヴァイオリン技術が要求される難曲ですが、ここでのイヴァノフのソロは作品が要求する技術を無難にクリアしたうえで細やかなフレージングのニュアンスの移り行き、あるいは音色のデリケートな変遷までも余すところなく描き尽くとさえ思われるほどのボウイングの緻密ぶりが素晴らしく、大野和士の指揮もすこぶる機動的にアンサンブルを運用しながら時に透き通るような美しい肌ざわりと、時に白熱的な情熱の高揚とを十分に描き尽くし、それこそデュティユーの音楽の機微に寄り添った演奏を展開せしめていて間然とせず、デュティユーの録音としては希に見るほどに魅力的な演奏に仕上げられて見事というほかありません。

対して1990年に作曲されたデハーンのヴァイオリン協奏曲は30分近くを要する大曲ですが現状ほとんど知られておらず録音されることも希と思われます。こちらは私自身まだ咀嚼が十分でないゆえ特に感想はひかえますが技巧的にはデュティユー同様かなりの難曲と思われ、少なくとも腕の立つヴァイオリニストには挑戦しがいのある曲ではないかと感じました。

バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンによるマーラー交響曲第9番


マーラー 交響曲第9番
 バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリン
 テルデック 2006年ライブ WPCS12017
WPCS12017

昨日の更新で、シュターツカペレ・ベルリン自主制作レーベルから先般リリースされたダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリンの演奏によるブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」のCDを聴いた感想を掲載しました。その中でも少し触れましたが、そのCDの音質の感触において、このコンビが以前テルデックに録音していた一連のCDに聴かれる音質とは明らかに諧調が違っていたことに聴いていて少なからず驚きを覚えました。

それに関して私に思い起こされたのが、かつて2007年の秋に聴いたバレンボイム率いるシュターツカペレ・ベルリンの来日公演のことです。演目はマーラーの9番でした。

07-10-12

この時に披歴されたマーラーは今でも忘れ難く、なによりもホールに広がるオーケストラのソノリティの感触に得難いまでの味わい深さがあり、とりわけ弦パートの発した渋め基調の音色が実に良く、その一切のぎらつきを抑えたような、まったく独自の深みを湛えたアンサンブルの響きが第1楽章冒頭の最弱音から心にグッと訴えかけてきて、そのまま終曲まで聞き惚れてしまったほどでした。

あまりに素晴らしかったものですから終演後に、そのときロビーで売られていた同じ演目のCDを買い求めました。それが本CDです。

ところが、このオーケストラの独特の音色感は実演でこそ大変に魅力的だったのに、それがCDの録音になると、それほど良さが伝わってきません。全般的にオーケストラのソノリティのギラつき感が強く、特に弦の味わいが実演と比べてかなり薄くなっているように感じますし、録音バランスにしても全体的に管パートが過大に強調されているように聞こえ、フォルテッシモでの金管の強奏ぶりなど、確かに凄い威力ですが、そのため弦がかなり食われてしまっているようですし、それ以前に、何か不自然なバランスという感が否めません(少なくとも実演の時とはバランスがかなり違っているはず)。そもそも音質的に、かなり硬質感の強い録音で、確かに細部までクリアーなサウンドの拡がりではあるものの、このオーケストラ特有のふくよかなソノリティの良さは、あまりマイクに入っていないのではないかと思えてしまいます。

もともとテルデックの、レーベルとしての音質的傾向は、おおむね残響感を抑制した硬質な音録りに特徴があると言われています。であるなら、これまで同レーベルからリリースされているバレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンの多くの録音も多かれ少なかれ、そういったトーンポリシーの影響を良くも悪くも被った形になっていたのではないかと思えなくありません。

これに対して今回シュターツカペレ・ベルリン自主制作レーベルからリリースされたCDの音質は、かつて私の体験した同オケの生の響きの感触にかなり近いものであるように思えます(少なくとも、テルデックよりは音場感がナチュラルに録られている感じがする)。

そういうわけで、今回の自主制作レーベルのCDリリースは、このオーケストラ固有の音響面での魅力を高感度に聴き手に伝えるという点で、好ましいものではないかと感じられますし、その意味でも私は今後の継続リリースに大いに期待したいと思っています。

バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンによるブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」


ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」
 バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリン
 SKB自主制作 2008年ライヴ SKB0001
SKB0001

シュターツカペレ・ベルリン自主制作レーベルから先般リリースされた、ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリンの演奏によるブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」のCDを聴きました。2008年10月、ベルリンのフィルハーモニーでのライヴ録りです。

私がバレンボイム率いるシュターツカペレ・ベルリンの実演を最初に耳にしたのは2005年2月の来日公演でした。前半がバレンボイムの弾き振りでベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、後半がシューマンの2番という演目でしたが、特にオーケストラの響きが保持する深々とした奥行きのある諧調に聴いていて惹きつけられたことを今でも覚えています。

2005-2-17

それはおそらく現在では耳にし難くなったような、おそらく古き良き時代から引き継がれているドイツのトラディショナルな響きと思えるような独特の感触であって、これほどの奥深い伝統を感じさせるオーケストラが21世紀のヨーロッパに現存していたのかという軽い衝撃を覚えました。

そして今回リリースされたブルックナーのCDを聴いてみたところが、私には上記のコンサートで感じた驚きが再び呼び起されるような印象を受けました。このシュターツカペレ・ベルリン自主制作に係る録音からは、このオーケストラの持つ響きの特質が十二分に捉えられているように思われ、そのいぶし銀ともいうべき質実剛健な美しさに、実演同様に聴いていて惹きつけられっぱなしでしたし、少なくとも、このコンビが以前テルデックに録音していた一連のCDに聴かれる響きとは明らかに諧調が違っているように思えます。

このブルックナーにおいてバレンボイムは全体に遅めのテンポを基調に、重心の低く安定したオーケストラバランスを維持しつつ、実に勇壮なブルックナーを形成せしめていて間然とせず、わけてもオーケストラ低弦部とホルンパートの充実感たるや目覚ましく、ここぞという時に必ずホルンの馥郁たる響きが、ピラミッド型の重厚なアンサンブルの頂点で整然と鳴り響く様は聴いていて爽快を極める聴きものと思えますし、全編を通しても、このオケ特有の稀にみるほどに魅力的なオーケストラサウンドの醍醐味が充溢し、その響きに身を任せているだけで心が満ち足りるような思いでした。

このように、このブルックナーを聴いて私は主としてオーケストラの深みのある響きに対し得難い魅力を覚えましたが、しかし考えてみれば、それも同オーケストラのシェフを長きに渡り務めているバレンボイムの手腕あってのものと思われ、このオーケストラの音響的な特性を知り尽くした指揮者にして、初めてここまでの奥行きや陰影の深さが可能になるのではないかと思えます。また、これがバレンボイムの同曲3度目の録音であり自家薬籠中ともいうべき作品である点も大きいような気がします。

このブルックナーの新譜はバレンボイム3度目のブルックナー交響曲全集の嚆矢だそうです。ブルックナー交響曲全集を3度も録音したのは日本の朝比奈隆のみ(70年、80年、90年代に一回ずつ録音)ですが、世界レベルのディストリビュートとしてはバレンボイムが初の偉業となるかもしれません。いずれにしても、このシリーズの今後のリリースに期待したいと思います。

フェドセーエフ/東京フィルの演奏会(サントリーホール 2/11)の感想


昨日(2/11)のサントリーホール、フェドセーエフ/東京フィルの演奏会の感想です。

前半のドヴォルザークのチェロ協奏曲はアレクサンドル・クニャーゼフのチェロで演奏されましたが、この演奏は実に素晴らしくて、私はこの曲の実演でこれほど濃密な歌ごころに満ちた演奏というのを聴いた覚えがなく、その意味で当夜のクニャーゼフのチェロ演奏は私にとっての「ドヴォルザーク未体験ゾーン」として新鮮を極めた演奏でした。

ここでのクニャーゼフのチェロ演奏は様式的には緩急の変化を活発に織り交ぜながら、本来的にロマンティックで歌謡的なドヴォルザークの楽想の妙味を絶妙に引き立てるというような行き方でしたが、その表情の大胆なまでの抑揚がもたらす音楽の濃度や密度がハンパなものでなく、ここぞという時に猛烈な加速をかけてアップテンポで畳み掛けたり、逆に遅めのテンポをてこでも動かさない構えからチェロのカンタービレの魅力をホールに満面に充溢させる(第1楽章の第2テーマや展開部冒頭あたりでの、これでもかと言わんばかりの強烈なヴィブラート!)など、その音楽の造型においては時にロシア音楽の風貌さえ呈していて、それゆえ私は演奏を聴いていて、この曲がチャイコフスキーの書いたチェロ協奏曲かなにかでもあるかのような錯覚さえおぼえたほどでした。

その意味で、これはまさにクニャーゼフならではのドヴォルザークに違いないと思いました。ドヴォルザークのチェロ協奏曲の実演というと私には一昨年このホールで耳にしたヨーヨー・マの演奏が思い出されますが、そのヨーヨー・マの演奏で凄かったのは途方もない運動性と躍動感を帯びたフレージングとか、機を見るに敏とでもいうべき変幻自在な変わり身を呈するボウイングの表現力などで、いずれも感嘆の極みでしたが、造形的にはオーソドックスでしたし、特に作品のロマンティックで歌謡的な側面を造型の上で大胆に強調するという形ではありませんでした。しかし当夜のクニャーゼフは、かつてヨーヨー・マが愛嬌たっぷりのボウイングを披露した幾つかのパッセージにおいてさえ、そのメロディの持つ、むせ返るようなカンタービレの魅力を主張して揺るがず、そこにスラブ的な激しい抑揚とパッションの高まりを絶妙に交えた演奏様式を存分に披歴するものですから、その音楽の濃密な味わいに半ば当てられたような形で愉悦感に浸って聴き惚れているうちに、それがいつしかジーンとくるような深々とした感銘へと収斂していく、そんな特異な感覚を体験するに至りました。

そのクニャーゼフのソロにフェドセーエフ/東京フィルも万全のバックアップで応え、総じて素晴らしく味の濃い、とても高密度な聴きごたえの演奏として仕上げられていたことも特記すべき点でした。クニャーゼフが演奏中にフェドセーエフの指揮棒をジッと見据えるシーンが何度も見られましたが、その両者の間の意思疎通に関しては完璧としか言いようがなく(両者による同曲の録音がワーナーからリリースされていますから、おそらくレコーディングの過程で意思疎通が固まったのでしょう)、フェドセーエフのオケに対する統制も良く整っていましたので、ソロ・指揮・オケ3者の音楽の呼吸も万全で、安心してクニャーゼフのチェロに耳を傾けることができました。また、アンコールで披歴されたバッハは造型的には少し奇抜な感じがしましたが、それだけに不意打ち的な音楽の新鮮味が印象的でした。

クニャーゼフの生演奏は以前に一度だけ聴いたことがあり、それは2008年のラ・フォル・ジュルネ東京音楽祭で演目はベートーヴェンのトリプル・コンチェルトでしたが、そこでは正直さほど強烈な印象ではありませんでした。しかし当夜の実演は本当に見事でした。今後クニャーゼフは私にとって要チェックのチェリストになりそうです。

後半のストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」ですが、これは4管編成の1911年版での演奏でした。ロビーで配布された冊子を読むと、当夜の公演では「東京フィルの創立と同じ年に書き上げられた1911年版を取り上げます」というフェドセーエフの談話が掲載されていました。

このペトルーシュカは全体的に速めの快適なテンポで飛ばしながらも、フェドセーエフ持ち前の知的でアグレッシヴなオーケストラ・ドライヴは健在で、東京フィルの持つ高いポテンシャルを存分に活かしつつ万事に抜かりなくアンサンブルをまとめあげながら、ここぞという時に披歴する打楽器の激打や金管楽器の熾烈な咆哮が強烈なスパイスを音楽に与えていて、このペトルーシュカというバレエ音楽の持つ土俗的なバーバリズム、それは例えばリズムの異様さ、不協和音のどぎつさ、野生的な色彩感、暴力的な音響感といった要素に、ピタリと標準を合わせた行き方であるとともに、この曲がいかに凄まじい曲か、ちょうど今から100年前という時代における前衛性がこよなく充溢する曲かを聴き手に否応なく再認識させるだけのパワーに富んだ演奏でした。

その意味で、さすがフェドセーエフ!と聴いていて唸らされる演奏でしたが、少しだけ残念だったのが、金管パートの完成度にムラが感じられたことでした。というのも、ホルンといいトランペットといい、いずれも首席奏者がパーフェクトの吹き回しだったのに比べて、2番以下の奏者にピッチのミスが少々目立ったからで、そのあたりの(首席以外の)金管奏者の演奏技術に不安定さが伺われたのが聴いていて少し気になりました。

なお、オーケストラの配置は第1ヴァイオリンとヴィオラとの対向型、編成は前半のドヴォルザークが14型、後半がストラヴィンスキーが16型でした。

以上、当夜のコンサートは総じて演奏者の、それぞれの作品に対する熱い共感に裏打ちされた、すこぶるホットな演奏が披歴され、その熱気に当てられたような体でホールを後にしました。昨日の東京は朝から雪が降っていて、ホールに入る時は寒さで凍えんばかりだったのが、ホールを出る時は雪の降りしきる寒さが実に心地よかったです。

フェドセーエフ/東京フィルの演奏会(サントリーホール 2/11)


サントリーホールで東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴きました。指揮者はウラディーミル・フェドセーエフです。

2011-02-11

演目は前半がドヴォルザークのチェロ協奏曲(チェロ奏者はアレクサンドル・クニャーゼフ)、後半がストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」でした。前半のアンコールとしてクニャーゼフにより、バッハの無伴奏チェロ組曲から第1番のプレリュ-ドと第3番のサラバンドとジークが演奏されました。

先月の新国立劇場「トリスタン」初上演が成功裏に終わってオーケストラとして乗りに乗っている東京フィルが、時に爆演とも評されるほど豪快で個性的な演奏を展開することで知られる鬼才指揮者フェドセーエフを迎えてのコンサート、加えて時に異端の解釈を披歴することで知られる鬼才チェリスト・クニャーゼフとの共演ということで聴きに行きました。

そのコンサートの寸感ですが、特に前半のドヴォルザークが素晴らしかったです。クニャーゼフの濃密な語り口がドヴォルザークの濃密な楽想に照応して聴きごたえ満点! 後半も後半でフェドセーエフのロシア音楽に対する才気が如実に発揮された、これまた凄い演奏でした。

ブリュッヘン/18世紀オーケストラによるベートーヴェン交響曲第1番と第3番「英雄」


ベートーヴェン 交響曲第1番、第3番「英雄」
 ブリュッヘン/18世紀オーケストラ
 フィリップス 1984年・87年ライヴ PHCP10553
PHCP10553

昨日の続きですが、一昨日(2/8)すみだトリフォニーホールでのブリュッヘン/新日本フィルの演奏会(ベートーヴェンの交響曲第1番・第2番・第3番「英雄」)は、私にとっての「ブリュッヘンのベートーヴェン」体験としては3番目の段階となるものでした。

その1番目の段階はブリュッヘンが80年代に18世紀オーケストラを指揮して録音した、例のベートーヴェン交響曲全集です。当時ノリントンやホグウッドも同じ時期に手兵のピリオドオケを指揮してベートーヴェン交響曲の全曲を録音中でしたが、それらと比べてもブリュッヘン/18世紀オーケストラのそれは格段に響きが洗練されていましたし、その洗練味の中に浮かび上がる荒ぶる表出力の高まりもすこぶる印象的でした。

その全9曲の録音の中でも特に素晴らしい印象を与えられるのが、このディスクに収録されている交響曲第1番と第3番「英雄」の2曲です。この2曲に関してはブリュッヘン自身が特別の思い入れを持っているとのことで、まずベートーヴェン交響曲第1番は1984年に18世紀オーケストラ自体のファーストレコーディングの演目としてブリュッヘンが選んだ曲ですし、「英雄」に関してはブリュッヘンが18世紀オーケストラを設立した際に目標とした曲だったと語っています。

この「英雄」においてブリュッヘンは、緩急のレンジを比較的おおきめに取ったダイナミックなテンポで造型(この点は一昨日の新日本フィルとの演奏会でも概ね同じ行き方でした)しながら、随所で金管・打楽器による劇的な強奏強打を加えた、スリリングな緊張と、ピリオド楽器ならではの繊細な肌触りの音色を特徴とする趣きの深い演奏内容となっていますが、とにかく私はこのブリュッヘンの「英雄」は素晴らしいと思っていたので、2002年の秋にブリュッヘン率いる18世紀オーケストラの来日公演がありベートーヴェンの交響曲の全曲チクルスが行われた際、特に「英雄」がかかる公演を選んで東京芸術劇場に聴きに行きました。

2002-11-7

このときブリュッヘン指揮する18世紀オーケストラの生演奏を聴いた印象はとても強烈でした。大体ベートーヴェンの交響曲の、この部分が、ピリオドオケの実演だとこんなバランスで聴こえるのか!、といった驚きと、ノンビブラート&低ピッチをはじめとするピリオド楽器特有のハーモニーの特徴(当時の私の耳にはかなり異彩に響いた)、それにアンサンブル各奏者の練達ともいうべき演奏テクニックの冴えとか、そういったものに聴いていて強烈に魅了された公演でした。

それでも十数年前の彼らの録音よりは尖鋭性が多少は後退し、解釈が丸みを帯びている印象もあり、かれらの演奏が円熟期を迎えたことを印象づけるものでもありましたが、それが却って様々な相反する(尖鋭と円熟との)要素が内部で融合し一種独特の風貌や深度を音楽に与えていたように、少なくとも当時の私には思われました。

この2002年の公演が私にとっての「ブリュッヘンのベートーヴェン」体験としては2番目の段階であり、一昨日のすみだでの公演が3番目の段階でした。そして、この先さらに円熟と深みを増した4番目の段階が訪れる日も、また将来あるような気がしています。

ブリュッヘン/新日本フィルの演奏会(すみだトリフォニーホール 2/8)の感想


昨日(2/8)のすみだトリフォニーホール、ブリュッヘン/新日本フィルの演奏会の感想です。

2011-02-09

当夜の演目はオール・ベートーヴェンで、交響曲第1番から第3番「英雄」までの3曲が順に取り上げられました。オーケストラは両翼配置、編成は全曲とも10型でした。

全体的には確かに素晴らしい演奏内容でしたし3曲いずれも掛け値なしにブリュッヘンならではの個性感あふれるベートーヴェンであったように思いましたが、それでも正直なところ2年前のハイドンほどには私自身もうひとつ演奏に惹き込まれ切れなかったという部分も残りました。それは別にブリュッヘンのアプローチ自体に問題があるという話ではなくて、あくまで私の主観的な印象です。ですので以下に書くことは大して音楽の分からないド素人の戯言と受取っていただければと思います。

まず私が2年前に同じホールでブリュッヘン/新日本フィルによるハイドンの交響曲の公演を聴いたときは、そのときの私の事前の予想とはかなり違った様式だったこともあり最初はちょっと面食らったような気持ちで聴いていたところが、コンサートが進むうち「でもこういうハイドンもいいな」という気持ちの方が強くなっていきました。

しかし昨夜の場合は前回みたいな「こういうベートーヴェンもいいな」という気持ちとともに、その逆に「こういうベートーヴェンでもいいのかな」という幾ばくかの疑問符も私の中にあって、聴き終えたときには大いなる爽快感と満腹感と、そして一抹の複雑な聴後感とが残りました。

「こういうベートーヴェンもいいな」という印象を覚えた点に関しては前回のハイドンと概ね同様であって、まず10型という中編成の弦合奏の発するハーモニーの得難い個性、それは例えばヴィブラートを抑えたピリオド奏法ならではの、引き締まった合奏展開が醸し出す、キリッとしたピントの合ったハーモニーの見晴らしの良さ、風通しの良さ、そこでの各声部が重なるときの、フォーカスのキリリと絞られたように鮮やかな色彩の溶け合い方、そして入念に差別化の行き届いたような稠密感のあるフレージング構成の連なりが醸し出す、多感なニュアンスの描き分け、その変容の鮮やかさなど、いずれもブリュッヘンの沈着を絵に画いたように冷静なアンサンブル・コントロールから高感度に描き出されていて、それらの総合的な音楽の奥行きには掛け替えのない味わいが宿っていましたし、こういった側面を耳にする限りにおいては当夜のベートーヴェンにすっかり魅了させられたと言うに尽きるくらいでした。

しかし同時に、ある種のクエスチョンマークもまた私の中に付きまとって離れなかったように思います。それは「往年のブリュッヘンのベートーヴェン」のイメージとして私の中にあるところの、ピリオド楽器の洗練された響きの中にも隠しようのなく滲み出る野性味のようなもの、いわば緻密な音楽づくりと獰猛な語り口とが絶妙に同居したような独特の音楽の風貌が先入観として確固としてあるからであって、実際に往年のブリュッヘンが手兵18世紀オーケストラを指揮したベートーヴェンの録音、ないし私が以前に耳にした彼らの実演においては、すこぶる尖鋭性の強い演奏様式(とくに特定のフォルテッシモでの獰猛なまでの荒々しさ、猛々しい表出力の高まりなど)が顕著に認められたと記憶しているからです。

そういうイメージからすると当夜のベートーヴェンは全体において表情が往年よりも穏健と感じられた点にそれなりの物足りなさがありましたし、また正直オーケストラにしても確かに完成度は揺るぎないものでしたが、特に前半の2曲においてどこか積極性なり内的な燃焼力に欠けるような気配があったようにも思えました(それは、もしかしたら全曲演奏プロジェクトの初日という点、あるいは公演時間2時間半の長丁場という点などが微妙に響いたのかもしれませんけれども)。

そういう次第で、ベートーヴェンの音楽に満腹し(なにしろ一晩で1~3番の3曲!)、とても爽快な気分で、そこに少しだけ複雑な気持ちが混ざってホールを後にしました。無論そのあたりの捉え方は人それぞれと思いますし、なによりも現在のブリュッヘンならではの演奏コンセプトの徹底度それ自体に関しては何の留保もなく感服の極みでした。

ブリュッヘン/新日本フィルの演奏会(すみだトリフォニーホール 2/8)


すみだトリフォニーホールで新日本フィルの演奏会を聴いてきました。指揮者はフランス・ブリュッヘンです。

2011-02-08

演目はオール・ベートーヴェンで、前半が交響曲第1番および第2番、後半が交響曲第3番「英雄」でした。

ブリュッヘンと新日本フィルの共演といえば前回の客演時に取りあげられたハイドンが素晴らしい演奏だったことが思い出されますが、今回はベートーヴェンの交響曲が取り上げられるということで期待して聴きに行きました。

今日のコンサートの寸感ですが、こと満腹度に関しては申し分なしでしたし(なにしろ一晩の公演でベートーヴェンの1~3番を一気に聴いたのは初めての体験だった)、演奏内容も確かに掛け値なしにブリュッヘンならではの個性感あふれるベートーヴェンであったと思います。ただ往年のブリュッヘンのベートーヴェン演奏の尖鋭なイメージからすると、ずいぶん丸くなったなというのもまた正直な印象でした。

エンゲラーによるリストの「詩的で宗教的な調べ」全曲


リスト 「詩的で宗教的な調べ」全曲
 エンゲラー(pf)
 MIRARE 2010年 MIR084
MIR084

仏MIRAREから先月リリースされた、ブリジット・エンゲラーのピアノ演奏によるリスト「詩的で宗教的な調べ」全曲のCDを聴きました。

ブリジット・エンゲラーといえば私はラ・フォル・ジュルネ東京音楽祭で2008年から3年連続で生演奏に接していますが、とくに昨年は2つの公演でリストの3曲(弦楽のための「夕べの鐘、守護天使への祈り」、「詩的で宗教的な調べ」より葬送、十字架への道)を耳にし、あらためて彼女のピアニズムに対する感銘を深めました。

今回リリースされた新譜には、そこで披歴された3曲のうちのひとつ「葬送」が含まれていることもあり、さっそく購入しました。

それで聴いてみると、このリストはまさにリスト弾きとしてのエンゲラーのピアニズムの持つ掛け替えのない魅力の充溢する演奏であり、その素晴らしい演奏内容に聴いていて心洗われるような清々しい感懐を禁じ得ませんでした。

そしてリストの本当に素晴らしい演奏というのは実に高貴な清らかさを内包するものであるという事実をあらためて認識させられた演奏でした。それは何も本作品が文学を題材とするものだからとか、もともとピアノの圧倒的なテクニシャン向けに書かれているからとか、そういう表面的なことではおそらくなく、まるで人智を超越した深い瞑想の中に佇むかような、この作品固有としか言いようのない一種独特の諧調それ自体がそういう気分に聴き手を誘うのではないかと思われますし、このエンゲラーの弾く荘厳なリストを耳にすると、リストのピアノ音楽に対してよく言われるような華麗な技巧の極致だとか悪魔的なムードだとかいう言葉が、この偉大な作曲家の音楽の本質に対して何と貧相というか的外れな形容に過ぎないかという風にも思えてきます。無論それは演奏するピアニストの作品に対する深々とした共鳴の心情あってのことなのでしょう。

2011年の今年はフランツ・リスト生誕200年にあたる年ということで、この作曲家の音楽に接する機会も例年以上に増えそうです。

リヒター=ハーザーとケーゲル/ライプツィヒ放送響によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番と「皇帝」


ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番・第5番「皇帝」
 リヒター=ハーザー(pf) ケーゲル/ライプツィヒ放送響
 Weitblick 1978・71年ライヴ SSS0068
SSS0068

昨日の更新で、仏EMIより先月リリースされたハンス・リヒター=ハーザーによるベートーヴェンのピアノ作品集について書きましたが、その中でリヒター=ハーザーに関し、数年前に購入したピアノ協奏曲第5番「皇帝」での目覚ましいピアニズムの魅力に惹かれたことに触れました。

その「皇帝」のCDというのが2007年にヴァイトブリックからリリースされた、ヘルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団との1971年ライヴでした。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番も併録されており、こちらは1978年のライヴで、余白には当日のアンコール曲と思われるベートーヴェンのピアノ・ソナタ第25番の第1楽章も収録されています。

ハンス・リヒター=ハーザーは1912年ドイツのドレスデンに生まれ、1980年にブラームスのピアノ協奏曲の演奏中に倒れ、68歳で急逝という経歴を持つピアニストです。そのドイツ伝統の様式美ならびにテクニックを伝えるピアニズムは構築的にして質実剛健であり、特に得意としたレパートリーであるベートーヴェンやブラームスでは、重厚で求心力のあるタッチからドイツ音楽の内面性を掘り下げた解釈を披歴し、外面的な効果を狙わず、あくまで構造的な視点から表現を選択するというようなピアノ表現に独自の魅力を湛えています。

なかんずく本CDで披歴されている「皇帝」は素晴らしく、ドイツ伝統の流れを汲む正統的な解釈と、そこから導かれる古典的な格調の高さを感じさせる揺るぎない構築力が見事ですし、全体的に無愛想なくらいに淡々としたテンポの運びなのに、これほど心に訴えてくるベートーヴェンも珍しいと思えます。

リヒター=ハーザーはバックハウスやギーゼキングといった19世紀に生まれたドイツ系ピアニストの一つ後の世代に属するぶん、彼ら先達よりも一回り洗練された解釈を持ち味とするようにも思えますが、少なくともバックハウスのようにフィジカルな要素を前面に押し出したタフな解釈とも、ギーゼキングのような即物主義的にドライな解釈とも一線を画した、いわく独特の様式美のようなものを感じさせるピアニズムのように思えます。

なお、リヒター=ハーザーの「皇帝」にはもうひとつ、以下の録音もリリースされています。

3202021
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
 リヒター=ハーザー(pf)ザンデルリンク/デンマーク放送響
 Kontrapunkt 1980年ライヴ 32020/21

これはデンマークのコントラプンクト・レーベルからリリースされた、クルト・ザンデルリンク指揮デンマーク放送交響楽団とのライヴ録音で、同じ顔合わせのブラームス・ピアノ協奏曲第1番(1979年のライヴ)も合わせて収録されています。

この「皇帝」はピアニストの死の前年の録音となるもので、多少タッチの精度は甘くなっているものの、併録のブラームスともども、重厚な響きと潤いのある音色とが織りなす音楽の佇まいが独特の味わいを醸し出しています。

リヒター=ハーザーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲集


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ&協奏曲集
 リヒター=ハーザー(pf) ケルテス/フィルハーモニア管他
 EMIクラシックス 1959~64年 6483092
6483092

仏EMIより先月リリースされた、ハンス・リヒター=ハーザーのピアノ演奏によるベートーヴェンのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲の集成ボックス盤を購入しました。

これは「EMI Coffrets Classiq」からの復刻リリースで、リヒター=ハーザーが1959年から64年にかけてEMIに録音したベートーヴェンの演奏がCD6枚組に収録されています。

収録曲はピアノ・ソナタ第1番~第3番、第16番~18番、第22番、第26番、第27番、第29番~32番、ディアベッリ変奏曲、幻想曲(作品77)、ロンド(作品51-1)、ロンド(作品51-2)、ピアノ協奏曲第3番~第5番の計20曲で、協奏曲はオケがフィルハーモニア管弦楽団、指揮は第3番がカルロ・マリア・ジュリーニ、第4番と第5番「皇帝」がイシュトヴァン・ケルテスです。

リヒター=ハーザーといいますと、私は数年前に購入したベートーヴェン「皇帝」のCDで耳にした精彩あふれるピアニズムに惹かれていましたが、残念ながら今では入手できる録音が限られていて残念に思っていたところ、今回EMIから彼のベートーヴェンがまとめてリリースされると聞いて勇んで入手しました。

それでまず音質のチェックとして、ピアノ協奏曲第4番と第5番「皇帝」の収録されている6枚めのCDを、以下のCDの音質と簡単に比べてみました。

SBT1299
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番・第5番「皇帝」
 リヒター=ハーザー(pf) ケルテス/フィルハーモニア管
 テスタメント 1960年 SBT1299

このCDは2003年に英テスタメントから復刻されたCDで、今回リリースのEMIのセットに含まれる演奏と同一音源です。

比べてみますと両盤ともノイズレベル自体は同じくらいですが、今回のEMI盤の方が若干ですがノイズ感が高い感じがします。というのも、テスタメント盤の方が音の擦れ、あるいはザワザワしたイレギュラー・ノイズなどが全体的に少なく、ソノリティが程よく馴らされており、聴き易く感じるからです。それでいてフラットでもなく、EMI盤と同じくらい実在感のあるソノリティが確保されているのですが、これはおそらく、テスタメントの方がEMIよりもリマスタリングが入念かつ丁寧な結果ではないかと思えます。

そういうわけで少なくともこの2つの演奏に関してはテスタメント盤の音質の方が私には好ましく思えますが、EMI盤の方も多少ノイズ感が気になる程度ですし、何といってもテスタメントから出ていないリヒター=ハーザーのベートーヴェンがまとまって聴けるのが楽しみです。今後じっくり聴いてみたいと思います。

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