最近(時々ですが)発生するブログへのアクセス障害につきまして


私のサイトがブログサーバとして使っているFC2ブログですが、最近どうもサーバの調子が良くないのか本サイトにアクセスする際に以下のようなアクセスエラーのメッセージが表示されることが時々あるようです。

    FC2BLOG-Message

これはブログサーバの負荷が一時的に高くなっている状態ですが、早ければ30秒、遅くとも3分くらいでエラー表示は解除されるようですので、お手数ですが少し時間を置いて再アクセスをしていただければと思います。

ただ今後こういうエラーが頻繁に発生するようになると運営に少し支障がでるかもしれません。とはいえ無料でシステムを使っている以上は、そう文句も言えませんけども、、何しろHTML変換機をタダで使っているようなものですので有り難いとは思ってますし。

ところで、FC2以外のブログ運営会社のブログサイトを拝見していて時々思うんですけど、各ブロガーの方々が書いたエントリーがブログに表示される際、そのエントリーの下にスポンサー広告が何行か勝手に挿入されてしまう形態のサイトが、かなり多く見受けられますが、エントリーを書かれているブロガーにしてみれば、あれは結構イヤなのではないかと思うんですけど、どうなんでしょう。

まあ自分のところのサーバを無料で使わせてあげているのだから広告ぐらい表示させろというのがブログ運営会社側の言い分なのでしょうけど、エントリーに何の関係もない広告が逐一表示されるのは何となく目障りな感じがしますし、基本的にブログシステムは単なる「HTML変換機」ですから余計なことをしないで、おとなしくHTML変換だけしていればいいと思うんですけどね。

読書間奏「モーツァルトの陰謀」


「モーツァルトの陰謀」
スコット・マリアーニ著(訳・高野由美) 河出書房

     TheMozartConspiracy

「わたしは、あの手紙がオリバーの死と何か関係あると思うんです」とリーは言った。
 教授の表情が険しくなった。「きっとそうだろうね」
「説明していただけますか?」
 アルノは考えをまとめるまで、少し時間がかかった。「最初から始めなくてはならないな。知ってのとおり、お兄さんの本のテーマはわたしが長年研究してきたものだ」
「モーツァルトの死ですね」とリーは言った。
「モーツァルトの死だけじゃなくて、それにいたるまでの出来事、それにまつわること。それにその原因と思われること。・・わたしはあれが原因だと思っているんだが。これを説明するには、18世紀まで遡る必要が・・・」
「失礼ですが、教授」ベンは口を挟んだ。「ほくたちは、200年以上も前に亡くなった人物について、歴史の講釈を聞きにきたんじゃないんです。ぼくたちはオリバーに何があったのか知りたいんです」
「わたしの話を最後まで聞けば、きみたちがそれを理解するのに役立つと思うよ」とアルノは答えた。・・

スコット・マリアーニ著「モーツァルトの陰謀」を読みました。

これはイギリスでベストセラーになった長編小説の邦訳版で昨年10月に発売されたものです。原題は「The Mozart Conspiracy」。邦題の「モーツァルトの陰謀」だとモーツァルトが陰謀を企てたようなニュアンスがありますが、むしろ「モーツァルトが巻き込まれた陰謀」という方が内容的に近いと思います。

単行本の背表紙に、本作のストーリの簡単な概要が書かれていますので以下に引用します。

軍隊時代の旧友、オリバー・ルエリンの不慮の死を調べていく中で、ベン・ホープは、何世紀も昔の「モーツァルトの死」の謎に巻き込まれていく。オリバーが追い求めたモーツァルトの書簡は、どこにあるのか。そして、オリバーが生命をかけて郵送したCDには何が眠っているのか。オリバーの葬儀のあと、ベンは、世界的に有名なオペラ歌手となっていたリー・ルエリンから突然の呼び出しをうけて再会する。だが、それは二人にとって15年前の苦い過去との再会でもあった。凍てついた冬のヨーロッパ。二人が「モーツァルトの死」の真実に迫るとき、モーツァルトを葬り去った殺人者たちも、歴史のむこうから蘇ってくるのだった。

これを書店で見て興味をひかれて購入し、ひと通り読んでみました。小説の舞台は現代つまり21世紀初頭のヨーロッパで、主人公ベン・ホープというのは、元はイギリス陸軍のエリート戦闘部隊に所属する軍人、今は「危機対応コンサルタント」として、国際的犯罪組織に囚われた人質を奪還するなどの危険な仕事に従事するタフガイ。ヒロインのリー・ルエリンは世界的なオペラ歌手として知られ、おもにロイヤル・オペラを中心に活躍するソプラノ歌手。この二人がふとしたことからモーツァルトの死因をめぐる謎を探っていく過程で、いつしか謎の巨大組織との命がけの抗争に巻き込まれていくという筋立てです。

感想ですが、確かに面白いと言えば面白いんですが、いささかサービス過剰ではないかと思えなくもないです。というのも、これは明らかにハリウッドのアクション映画の雰囲気で書かれていて(そのことは著者も巻末で明言してます。クライマックスでは墜落しているヘリのコクピットの中で主人公と宿敵とが壮絶な肉弾戦を繰り広げるなんてシーンもあるし、もう「ダイ・ハード」さながら)、とにかく読者を飽きさせないようにということが徹底されている。読んでいると、とにかく矢継ぎばやに話が急転し続け、読者が息つく暇も与えないくらい。例えば、主人公たちが逃げる先に面白いように組織の手掛かりが落ちていて、逃げれば逃げるほど、いつのまにか敵を追い詰めている、みたいな展開です。このあたりはエンターテイメントに徹した潔さというべきで、面白いといえば面白いが、そのぶんリアリティが弱いですし、確かに娯楽的な意味でのサービス精神がすこぶる旺盛な反面、ストーリーが多分に御都合主義的な状況に傾き、読み手によってはストーリーが全体的に軽すぎる(軽やかすぎる)と感じるかもしれない(少なくとも重厚感のある話の運び方とは、ちょっと言えない)。

正直なところ、ちょうど私が昨年の今頃に読んでいたイギリスのベストセラー長編小説「コレリ大尉のマンドリン」のような重厚な読みごたえの内容を期待して読み始めたんですが、その意味では期待を少々はぐらかされたかなというのが率直なところです。読んでいる時は確かに夢中で読めるんですけど、ちょっと余韻が薄いといいますか、、

とはいえ「モーツァルトの死の原因」として小説の中で想定されているプロットに関しては読んでいてなかなか面白いと思いました。この小説ではモーツァルトの死に関して暗殺説をベースにしています。その暗殺説として一般に言われているのが(むろん暗殺説自体が超少数説ですけど)サリエリ毒殺説、それにフリーメーソン暗殺説、この2つですが、しかし本書の場合サリエリでもフリーメーソンでもない第3者たる謎の組織にモーツァルトが暗殺されたという斬新なプロットで書かれている。その暗殺理由というものに一定の説得力があり(というか、その設定こそが小説としてのシナリオの肝になっているんですが)、詳しくはネタバレになるので伏せますが、少なくとも、その理由だったら確かにモーツァルトは殺されることも有り得たかもしれないと読者に納得させるだけの理由づけにはなっていると思います。

ラドゥロヴィッチとマノフによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ集


ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」・7番・8番
 ラドゥロヴィッチ(vn)、マノフ(pf)
 ARTACT 2008年ライヴ AR002
AR002

仏ARTACTから先月リリースされた、ネマニャ・ラドゥロヴィッチのヴァイオリンとスーザン・マノフのピアノのデュオによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのCDを聴きました。収録曲はヴァイオリン・ソナタ第5番「春」、第7番、第8番の3曲。いずれも2008年7月のライヴ録音です。

セルビア生まれのヴァイオリニストであるラドゥロヴィチのベートーヴェンといえば私にはラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008での生演奏が思い出されます。曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(指揮はクワメ・ライアン、オケはフランス国立ボルドー・アキテーヌ管)でした。

AR002-2

この時の実演は確かにテクニックにはもの凄いものがあり、その秘めたる音楽性たるや相当なものではないかと感じたものの、テクニックの切れ味や視覚的なインパクトがあり過ぎ、ベートーヴェンの音楽というよりはラドゥロヴィチの音楽を聴かされたような印象でした。

それに対し、今回リリースされたラドゥロヴィチのベートーヴェンの新譜はどんな演奏だろうかと興味が湧き、購入してみました。

それで聴いてみると、ここでもラドゥロヴィッチは歯切れの良いボウイングからバリバリと弾き進む辣腕ぶりをいかんなく発揮し、ことテクニックという点では相変わらず文句のつけようもない出来栄えですし、そのボウイングの切れと運動感も素晴らしく、これには聴いていて何と素晴らしい演奏なのだろうと感嘆を禁じませんでしたし、またこれらのソナタが何と素晴らしい曲なのだろうという感懐を新たにするほどでした。

特に第7番のソナタの演奏が圧巻で、ここでは時に弦を掻き切らんというような切迫感を表出したりなど、その訴えかけの強さが並々ならず、それでいて奇抜なアゴーギグの変化や奇をてらったボウイングの作法は総じて控え目で、いわば知情意のバランスが良く練られています。ベートーヴェンの音楽自体の訴えかけに、自身のヴァイオリニズムを同調させて間然とすることない、ヴァイタリティと充実感に溢れた演奏を展開せしめている、そんな演奏というべきでしょうか。巧く言えませんが、とにかく聴いていて強く惹き込まれます。マノフのピアニズムは自己主張は控え目ですがラドゥロヴィッチとの掛け合いの呼吸は万全であり、完璧に調和のとれたデュオの世界を作り上げていて見事です。

そういう次第で、こうしてCDでじっくり耳にしてみるとラドゥロヴィチのベートーヴェンは何と素晴らしいのだろうと感嘆させられましたが、ラ・フォル・ジュルネの時は音楽祭自体のお祭り的なムードもあってヴァイオリニストとしてのサービス精神が旺盛に出過ぎたのでしょうか(あるいは私の席がステージに近すぎたのかもしれない)。いずれにせよ、本CDのソナタでの表現こそがラドゥロヴィチのベートーヴェンの神髄なのではと思えます。彼の演奏による「クロイツェル」を含む他のソナタ作品の今後のリリースを期待したくなりました。

アルミンク/新日本フィルの演奏会(サントリーホール 1/26)の感想


昨日(1/26)のサントリーホール、アルミンク/新日本フィルの演奏会の感想です。

オーケストラの配置は第1ヴァイオリンとヴィオラを対向させたドイツ式、弦の編成はラヴェルとフランクが15-14-12-10-8、対してプーランクでは8-8-4-4-4という変わったパターンでしたが、これはそのようにスコアで定められているとのことです。

最初のラヴェル「高雅で感傷的なワルツ」ですが、アルミンクによるアンサンブルのコントロールは全体的にデリケートで入念を極めていて、この作品のもつエレガントな気品、そこに宿る儚いくらいに透明な美しさなどが過不足なく描き出されていましたし、ときにはラヴェルの音楽にたゆたう抑制されたリリシズムまでも眼に見えるかのような、実に明晰な美しさを満たしたオーケストラの響きに、それこそ酔わされるような感覚で音楽に惹き込まれました。

続くプーランクの「2台のピアノと管弦楽のための協奏曲」は、実演で聴いたのは初めてでした。ここではトルコ出身の双子の姉妹であるフェルハン&フェルザン・エンダーの2人のピアニストの、息のあった掛け合いの妙が素晴らしく、アルミンクのアンサンブル展開においても気品あるエレガンシーと旺盛なヴァイタリティとを巧みに使い分け、時に華麗に、時にワイルドに、音楽の呼吸に寄り添いながらピアノを盛り立てながら、作品のムードを余すところなく描き出し、そのワクワクするような愉悦味、それに独特のメロディの美しさに、聴いていて惹き込まれっぱなしでしたし、エンダー姉妹のアンコールのピアソラもまた絶妙でした。

後半のフランクの交響曲ですが、ここでは全体に比較的スピーディーなテンポで淡々と進められ、とくに重々しい素振りをみせることもなく、概ね堅実なフレージング運用から実に整然として美しいアンサンブル展開が披歴されました。それは極めて周到で妥当な解釈であるがゆえに、聴いていて音楽生来の持つ局所的な音響面の美しさに、率直に惹きつけられる瞬間も多く、時には音楽の持つ内奥の美まで抽出し聴き手に明晰に伝達するようにさえ聴いていて感じられたほどでした。

ただ正直なところ、それでもこの交響曲に含まれる音楽のドラマを十全に描き切るまでの演奏ではなかったなという、幾ばくかの物足りなさも残りました。おそらく当夜の演奏は「美の極致」というコンセプトが掲げられていたこともあってか、おおむねフランス音楽的な視点でのハーモニーの美しさなり、メロディの麗しさ、アンサンブル全体としての馥郁たる響きの捻出という観点においては十分に練り上げられた演奏と思われましたが、フランクのシンフォニーには、そういったフランス音楽的な美感を超越し、むしろドイツ音楽への力強い接近を示すような、ロマン派の音楽としての仄暗い情念なり、たぎるような情熱の発露なりが不可分に同居する作品というイメージもまた、私の中にあるところ、そういった側面の強調が当夜のアルミンクの表現においては押し並べて大人しく(それは無論「美の極致」という方向性での演奏であれば正解であったとしても)、その点で聴いていて正直もうひとつ音楽に乗り切れないような、そんな軽い違和感が残らなくもありませんでした。

しかしコンセプトに沿った表現という観点では非の打ちどころのない演奏内容と思われた以上、それは本来それで十分なのかもしれませんし、それ以上の望みは筋違いであるのかもしれません。

ところで、当夜の3曲をプログラムに並べたアルミンクの発想それ自体を、私はとても面白いと思いました。つまり、一見フランス音楽系統の作品を3つ並べているように見えて、それらの楽想の源泉を辿ると実は3曲いずれも「ウィーン」に行き着くという視点です。

その事実に思い至ったのが、ちょうどブーランクのコンチェルトを聴いていた時でした。その第2楽章の出だしが、あまりにもモーツァルトそっくりだったものですから、ああやっぱりこの曲は、プーランクのモーツァルトへの敬愛の念が非常に明確な形で出ているなと改めて実感させられましたが、そういえば先刻のラヴェル「高雅で感傷的なワルツ」も、シューベルトの2つのワルツ集がモデルですし、この後のフランクの交響曲も、その楽想のベースにはベートーヴェンの音楽への強固なリスペクトがあるとよく指摘されています。

であれば、3曲ともにウィーン古典派の系統に属する作曲家の音楽からの、明示的な着想がベースとなっていることになります。これが単なる偶然だと思えないのは、なにより当夜の指揮者アルミンク自身もまたウィーンの指揮者であるからです。これだけ「ウィーン」が重なった日には、これはもう必然的理由があると考えた方が合理的で、要するに当夜のプログラムはフランス音楽系の作品という「表の顔」と、それらの楽想の源流を辿るとウィーン古典派系統の作曲家に行き着くという「裏の顔」とを併せ持つという、なかなかに鮮やかなプログラムと私には映りましたし、それできっちり2時間のプログラムを組むコンサートビルダーとしてのアルミンクの構想力もまた私には鮮やかなものとして映りました。

アルミンク/新日本フィルの演奏会(サントリーホール 1/26)


今日はサントリーホールで新日本フィルの定期演奏会を聴いてきました。指揮者はクリスティアン・アルミンク。

2011-01-26

演目は前半がラヴェルの高雅で感傷的なワルツ、プーランクの2台のピアノと管弦楽のための協奏曲(ピアニストはフェルハン&フェルザン・エンダー)、後半がフランクの交響曲というものでした(また前半のエンダー姉妹のアンコール曲として、ピアソラのリベルタンゴも演奏されました)。

当夜のコンサートには「音の点描画-アルミンク作“美の極致”」というコンセプトが掲げられていましたが、「点描画」というのは正直ピンときませんでした。しかし「美の極致」の方はコンセプトに相応しいと思われるような演奏内容が披歴され、それらの音楽の持つ内奥の美のようなものが聴いていて明晰に伝わってくるようでした。

それとは別に、この3曲をプログラムに並べたアルミンクの視点も興味深いと思いました。この3曲いずれも源泉を辿ると実は、、という発想が意表を突いていて面白いといいますか。

そのあたりも含め、感想は後日あらためて掲載します。

クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィルによるブルックナー交響曲第9番の1950年1月28日のライヴ(?)


ブルックナー 交響曲第9番
 クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィル
 グリーンヒル 1950年ライブ GH-0022
GH-0022

独auditeから昨年末にリリースされた「クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル RIASレコーディングス(1950-52)」を購入したことと、その収録曲や音質の印象などについて以前ブログに掲載しました

その際に本ボックスセットにはクナッパーツブッシュが1950年から52年にかけてベルリン・フィルと残した多くの録音が含まれているものの、てっきり含まれていると思ったら漏れていた録音というのも幾つかあり、その中の一つにブラームス交響曲第3番の1950年ライヴがあることも書きましたが、その漏れている録音には他にも、かつてグリーンヒルからリリースされていたクナッパーツブッシュ/ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第9番の1950年1月28日ライヴというのがありました。これはオーディエンスありの、通常のコンサートのライヴです。

それで気が付いたんですが、その「RIASレコーディングス」収録曲の中に、実は同じコンビによるブル9の、1950年1月28日のライヴが含まれています。これはオーディエンスなしの放送用ライヴとされ、実際オーディエンスノイズは聞かれません。

しかし同じ日のライヴ録音が2種類あるというのは何か不自然な気もします。同じ日でもゲネプロの後に本番というなら分かりますが、この場合どちらも本番ですし、もしかしたら、このグリーンヒル盤の記載データが間違っていて、実は全然ちがう日のライヴなのではないかと思えなくもありません。

このグリーンヒル盤のブル9は改悪版として知られるレーヴェ改訂版による演奏ではあるものの、演奏そのものは素晴らしく、クナッパーツブッシュのブルックナー演奏としても内容的に屈指のレベルと思えるものです。またグリーンヒルによる復刻は年代からすると音質がかなり良好です。

なお「RIASレコーディングス」に収録されているブル9には、前述の1月28日のライヴのほか1月30日のライヴのものもあり、こちらはオーディエンスありのコンサート・ライヴです。であれば、こちらがグリーンヒル盤と同一演奏かもと思って演奏を比べてみると楽章タイムが互いに一致せず、やはり別録音のようでした。

以上、要するにクナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィルのブル9には3種類の録音があることになり、以下がそれらのデータです。

①1950年1月28日ティタニアパラスト(オーディエンス無)
「RIASレコーディングス」収録
楽章タイム 22:20 11:05 21:50

②1950年1月28日ティタニアパラスト(オーディエンス有)
グリーンヒル盤
楽章タイム 21:58 11:04 22:16

③1950年1月30日ティタニアパラスト(オーディエンス有)
「RIASレコーディングス」収録
楽章タイム 22:20 11:15 22:50

エッシェンバッハ/パリ管によるブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」


ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」
 エッシェンバッハ/パリ管弦楽団
 オンディーヌ 2003年ライブ ODE1030-2
ODE1030-2

クリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」のCDを聴きました。2003年2月のパリ、モガドール劇場でのライヴ録りです。

これは2004年にオンディーヌからリリースされたCDで、新譜ではありませんが、先週ブログに掲載したエッシェンバッハ/ロンドン・フィルのブルックナー6番の新譜が大変に感銘深い演奏であったことから、エッシェンバッハの直近のブルックナーの録音を聴きたいと思い、先週末にHMVにオーダーして取り寄せたものです。

さっそく聴いてみましたが、これはブルックナーとしてはオーソドックスというより、どちらかというと個性的な部類に入る演奏と感じられ、あまり耳にしないような新鮮な景観が聴いていて随所に耳を捉えます。

例えば第1楽章冒頭の第1テーマ部のテンポはスロー調が際立っていて、それがパリ管のアンサンブル独特の、なまめかしいくらいに艶やかな色彩感を増幅し、それが驚くほどの美彩を放っていますが、この調子でこのまま行くのかと思いきや(3:21)からの第2テーマ以降はオーソドックスなテンポ取りに移行されます。このため逆に第1テーマ部の強い余韻が楽章を通して後々まで持続するような感じがします。

テンポ以外の面で特徴的なのは、弦の刻みの細密ぶりでしょうか。冒頭のトレモロから克明感がすこぶる立っていますし、(10:07)あたりのクレッシェンドの細やかさなども、実に鮮やかです。全体的にパリ管特有の管パートの音色の美質も良く出ていて、例えば(8:22)からの木管のリレーなどは幽艶ともいうべき美しさに染め上げられていて思わず耳をそばだたせられます。

反面、全体的に弦パートの豪壮感がおおむね乏しい点と、アーティキュレーションが軒並みまろやかで時に厳しさを欠く点と、フォルテッシモでの屈強感の物足りなさ、といったあたりは、一般的なブルックナー演奏のイメージからすれば多少の違和感を聴き手に覚えさせるようにも思えます。それとアンサンブルの色彩的特徴を含め、少なくともドイツ音楽としてのブルックナーとしては異色の肌合いの演奏とも思えるものですが、それでも聴いていて思わず耳が捉えられる瞬間が多いのは事実です。こういうフランス風(というべきか?)の演奏スタイルでのブルックナーというのは、少なくとも私にはかなり新鮮な体験でした。

さらに思ったのは、同じブルックナーでも先のロンドン・フィルとの6番での、艶やかさよりも透明感を印象づける、なにか世俗を超越したような美しさとは、ずいぶんと色彩的な肌合いが違うなと感じたことで、これはおそらく各々のオーケストラが持つアンサンブルの固有の色彩性というものを、エッシェンバッハが自己の表現のうちに取り込みながら最大限に活用するようなコンセプトの賜物ではないかと思えます。

であるならば、例えばエッシェンバッハがウィーン・フィルを振った場合には、ウィーン・フィル固有の色彩性というものをエッシェンバッハが最大限に活用する方向での演奏が展開されるのでしょうか。2011年の今年のウィーン・フィル来日公演ではエッシェンバッハの指揮が予定されています(演目はブルックナーではないかもしれませんが)。

ミケランジェリによるベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の1979年ウィーンライヴ


ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
 ミケランジェリ(pf) ジュリーニ/ウィーン交響楽団
 グラモフォン 1979年ライヴ F35G20197
F35G20197

昨日の更新で、英アルタラから先月リリースされたアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのピアノ演奏によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の、1957年トリノライヴのCDについての感想を掲載しましたが、ミケランジェリの「皇帝」には既に広く知られている録音があります。グラモフォンからリリースされている、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団と共演した1979年2月のウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴです。

これはミケランジェリ自身が生前リリースを許可した数少ない録音のひとつですが、それでも録音から3年もの間はピアニスト本人からリリースの許諾がされなかったそうです。稀代のキャンセル魔にして病的なまでの完全主義者として知られたミケランジェリのことですから、おそらく僅かでも自身のピアニストとしての美学に反する録音は残したくなかったのでしょうか。音源に用いられたのは4日間のコンサートのうち最良のテイクとされ、さすがに音質的には申し分がなく、その高音域のタッチに聴かれる音色のうるおいなど、ミケランジェリ独特としか言いようのないものですが、そのあたりのピアニズムの特性が高感度に捕捉されている印象を受けます。

今回あらたにリリースされたトリノライヴと聴き比べてみると、こちらのウィーンライヴの方がトリノライヴよりも基調テンポがひとまわり遅く、音質も当然こちらが遙かに良いため、細部まで明瞭タッチのひとつひとつまでいかに磨きこまれているかが聴いていて明白に伺えるとともに、その完成度にしろ響きの美性にしろ、ミケランジェリならではの完全主義的なピアニズムの醍醐味を享受するには理想的なCDのように思えます。

思えますが、ただ大手レーベルのリリースだけに、リマスタリングエンジニアの過剰な介入による音色の改竄とか微細なミスタッチの修正なりがあったのではという疑念も正直ぬぐえないところです。ので、どちらかというと今回リリースされたトリノライヴの方に、私としては演奏としてのリアリズムの強さを覚えます。

ちなみにミケランジェリの「皇帝」の中で私が最も好きな録音は以下のものです。

ME101819
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
 ミケランジェリ(pf) チェリビダッケ/フランス国立管弦楽団
 メモリーズ 1974年ライブ ME1018/19

大の録音嫌い同士の顔合わせですが、それだけに録音のための録音からは最も遠く、そのあたりの独特の雰囲気に惹かれます。演奏も素晴らしいですし、正規盤として出されても良いのではと思ってます。

ミケランジェリによるベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の1957年トリノライヴ


ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」ほか
 ミケランジェリ(pf) サンツォーニョ/トリノRAI交響楽団
 アルタラ 1957・53年ライヴ ALT1041
ALT1041

英アルタラから先月リリースされた、アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのピアノ演奏によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」のCDを聴きました。ニーノ・サンツォーニョ指揮トリノRAI交響楽団の伴奏で、1957年4月のトリノ・イタリア国営放送大ホールでのライヴです。なおCDの余白にはフランクの交響的変奏曲も収録されていますが、こちらは同じオケでマリオ・ロッシ指揮、1953年のライヴです。

これまでミケランジェリによるベートーヴェン「皇帝」の録音には複数のものがリリースされていますが、今回のトリノでのライヴは初出とのことです。

それで聴いてみると、しかし残念なことに音質のクオリティががいまひとつ、いまふたつという水準で、いきなり冒頭のミケランジェリのフォルテのフレーズがノイズで擦れてしまっていますし、以後も一貫的にアナログノイズが高め、それも不規則にザワザワと耳障りなノイズを発するため、かなり聴き疲れますし、アコースティックとしても少々こもり気味のモノラルで響きの抜けが全体に振るわず、この音質ではミケランジェリの魔術的とも言われるピアノの粒立ちの美しさを感得するには、かなり厳しいものがあるように思えますし、オケの伴奏も特に目覚ましいところはなく、音質の影響もあると思いますが、おしなべて平凡です。

という按配ゆえ、最初のうちは正直ちょっとガッカリして聴いていたのですが、それでもCDを聴いているうち、この決して良好とは言えない音質の中で、そのピアニズムの実在感を揺るぎなく発揮しているミケランジェリのピアニズムの凄みというものが徐々にクローズアップされるように思えてきました。

というのも、まずもってミスタッチが全くと言っていいほど聴かれない点で、この50年代のライヴ一発録りのヒストリカル録音としてみた場合、ここまでピアニズムの完成度の高い演奏というのも類まれと思えるからです。これはミケランジェリの正確無比なテクニックというより、その演奏に対しての集中力の驚異的な高みに聴いていて感服させられてしまいます。

さらに、この水準の音質にもかかわらず、やはり部分的にピアノの音色の美しさが際立っていると感じられるシーンが聴かれる点にも、聴いていて率直に驚きを覚えます。例えば第2楽章の(1:13)からのピアノの出のフレーズがそうで、この音質でここまでの美しさなら実演はさぞかしという想像を聴き手にかきたてさせるに十分な美感を湛えています。

そういうわけで、本CDは音質的制約により決して往年のミケランジェリのピアノ演奏の本領を十分に鑑賞するは適さない印象を否めず、おそらく評価も分かれると思いますが、逆にこの音質ゆえにそのピアニズムの個性点が鮮明に浮かび上がるという側面もあるように思われます。前述のように私も最初は本CDには否定的な印象でしたが、聴き終えた時点ではかなり肯定的な印象に変わりました。

読書間奏「検察に、殺される」


「検察に、殺される」
粟野仁雄 ・著 ベスト新書

   B-307

・・2010年、「天下の特捜検察」がガタガタになっている事件を私たちは目の当たりにした。
 法廷内で繰り広げられるドラマを一部始終見届けたら、終焉の直後に、法廷でいつも見ていた主任検事が逮捕されるという、仰天するような事件に発展したのである。
 ご存じ、郵便不正事件に絡み、厚生労働省の局長だった村木厚子氏が犠牲になった「冤罪裁判」である。そして、その事件にともなうフロッピーディスクの改竄で大阪地検特捜部の前田恒彦検事(当時)らが逮捕された一連の事件である。
・・・
 激震は止まらない。前田検事の逮捕に驚く間もなく、今度は上司の特捜部長だった大坪弘道検事と副部長だった佐賀元明検事が、「前田検事の意図的改竄を知りながら、隠蔽工作を図った」とのことで最高検に逮捕、起訴された。
 最高検の検事が自ら乗り出し、捜査、逮捕するなど聞いたこともない。厳しくなった国民の眼を何とかかわそうとする死に物狂いの組織防衛なのだろうか。
 長年、自己が所属した組織の頂点たる最高検との全面戦争に突入した。もはや、検察庁は「炎上」している。・・

昨年末に発売された新書「検察に、殺される」を読みました。本書で主に扱われているのは世間を大きく揺るがした、例の大阪地検特捜部主任検事の証拠(FDデータ)改ざん事件です。

この検察不祥事に関して私は以前、当該検事の逮捕に伴う一連の報道に触発され、同じベスト新書の郷原信郎・著「検察が危ない」を読んでみたところが、そこに書かれていた内容に衝撃を覚えました。それについては以前ブログに書いたとおりです

ですので、この「検察に、殺される」も興味深く読みましたが、そこに書かれていた内容というのは上記「検察が危ない」に勝るとも劣らないくらい衝撃的なものでした。本書に書かれていることはちょっと俄かには信じ難いくらいです。

しかし著者は徹底した現場取材を旨とするジャーナリストであり、その綿密な取材と検証が、本書の記載事実ならびに問題提起に対し強度のリアリティと説得力を感じさせます。

まず第1章「特捜部の凋落」では一連の事件の中心人物たる、かの検事の逮捕に至るまでの顛末が、第2章「最高検察庁の決断」では同検事の上司の特捜部長と副部長の逮捕に至るまでの顛末が、それぞれ詳細に記述されます。第3章「検察無法地帯の構造」では今回の不祥事が決して検事個人の責任のみに帰すべき特殊な問題ではなく、検察内部の構造的な問題にほかならないという著者の分析が披歴されます。

そして第4章「でっちあげ裁判の全貌」ですが、これが凄まじい。ここでは村木裁判の公判過程における検察側の卑劣を極めた取り調べの状況が生々しく綴られています。その過程での検察官の悪辣ぶりが際立っているがゆえに、最後に村木氏が無罪判決を勝ち取るくだりが、実に感動的な余韻をもって読者の胸を打ちます。と言っても、そんな読後感を別に著者は「狙って」書いているのではなくて、ただ事実を淡々と書き綴っているだけなのに、です。正義のはずの検察の全面敗北によって正義が守られたという壮大なアイロニーも含め、これは少し不謹慎かもしれませんが、下手な小説を読むより遙かに面白く、そして意義深い内容です。

さらに第5章「冤罪の暗黒史」では郵便不正事件に先立つ過去の様々な冤罪事件について言及されていきます。これを読むと冤罪の危険性は何も検察だけでなく実は警察官や裁判官にまで及んでいるという実態が分かります。

そして終章「余波」で本書のタイトルの意味が明かされます。正直に言いますが、私は本書の「検察に、殺される」というタイトルが少しばかりオーバーではないかと、読む前に思いました。村木裁判にしても確かに検察の取り調べの悪辣ぶりは際立っているが、しかし被告人の実際的な生命に関わるというほどではない。むろん何の罪もない村木氏にしてみれば、社会的生命の不当な危機に晒されたわけですし、そういった意味のことを少しばかり大袈裟に表現したタイトルなのだろうと思っていました。

ところが、それは違っていました。この終章に記載されているのは、かつて大阪府枚方市の副市長だった小堀隆恒氏が、無実の罪で逮捕され、検察により熾烈な取り調べを受けた際の体験談です。なお小堀氏は副市長時代の2007年に官製談合事件で業者に落札最低価格を教えたとして大阪地検特捜部に逮捕されましたが裁判で冤罪を晴らし無罪判決を勝ち得ています。

その際の大阪拘置所での、検察による人権無視ともいうべき壮絶な取り調べの実態が著者により取材され生々しく開陳されています。

 取り調べは罵詈雑言・恫喝の繰り返しでした。よくこれほど大きな声で怒鳴れるなと思ったほどです。「クズ野郎」「ゴミ野郎」「バカ野郎」と終始どなっていましたし、「小堀さん」と呼ばれたことは記憶にありません。
 ・・「かみさんも同じ目に遭うぞ」「息子や娘も同じ会社にいられるかわからないぞ」「親戚も徹底的に調べてやる」「介護施設の母親も取り調べするぞ」
・・そして何もわからない妻と姉が取り調べを受けました。
 90歳を超えた下半身不随の母親から何を聞き出そうというのでしょうか。また「どうやって調べるのか」と聞くと、「ストレッチャーがあるやないか」というのです。母親は2年前にわたしの無罪判決を聞く前に亡くなりました。・・・
・・「お前ら家族を、街で歩けないようにさせてやる」「否認しているのはお前だけだ。一人で否認しても全部お前にかぶせられる」「ここから出られなくなるぞ。わかっているのかバカ野郎」・・聞くに堪えないような取り調べが21日間一日も休むことなく続きました。・・・
 取り調べのひどさが拘置所の中で話題になっているのかと思わせることがありました。取り調べが終わってへとへとになって11時くらいに部屋に戻ったときです。入り口に大柄の背広の人がいました。
「お前が小堀か。大変な取り調べを受けているらしいが、くれぐれも間違いを犯すなよ」
 疲れていましたので、とっさに意味がわかりませんでした。「今の人は誰なんですか」と刑務官に聞くと、「ここの一番偉い人や」と答えました。
 部屋に戻ってから、この人は私に「自殺するな」と言っていたのです。・・

おそらく、これが本書のタイトル「検察に、殺される」の本当の意味なのでしょう。21世紀の民主国家どころか戦前の日本さながらの国に我々は住んでいたのかと読み手を愕然とさせる、衝撃的な内容です。

巻末には本書の著者と、前記「検察が危ない」の著者・郷原信郎氏との特別対談が収録されています。これも読んで考えさせられる、重い内容です。

思うに、現在の裁判員制度の施行により我々のひとりひとりが裁判に参加する権利を平等に保有していますが、それに伴い、こういった冤罪に加担して何の罪もない人間を地獄へと落とす、そんな危険性をも、やはり我々は平等に保有しているとも言えそうです。

であれば、これはまさに国民全体の問題とも言えますし、自分には別に関係ない話と目を逸らすことは許されないような気がします。

なお、くだんの検察不祥事に関する直近の動きとして昨年末に、検察のトップたる検事総長が今回の検察史上前代未聞の不祥事の責任を取る形で検事総長の職を辞任しています。現職の検事総長が不祥事で引責辞任するのは史上初めてとのこと。激震いまだ収まらず、、

宇野功芳/日本大学管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第7番とコリオラン序曲


ベートーヴェン 交響曲第7番、コリオラン序曲
 宇野功芳/日本大学管弦楽団
 グランドスラム 1983年ライヴ GS2001
GS2001

グランドスラムより先月リリースされた、宇野功芳の指揮、日本大学管弦楽団の演奏によるベートーヴェン交響曲第7番とコリオラン序曲のCDを聴きました。1983年6月のライヴとのことで、オビ面には「あまりの過激さゆえに10年もの間封印されていた演奏、ついにCD化なる!」と書かれています。一体どのような演奏なのでしょうか。

それで聴いてみましたが、なるほど確かに「あまりの過激さゆえに10年もの間封印されていた」というだけある演奏なのかもしれません。一言でいうならテロリズム的なベートーヴェン演奏というべきでしょうか。

最初のコリオラン序曲は常軌を逸したスローテンポで、総タイムは実に10分30秒。(8:48)でのフレーズの引き延ばしはちょっと正気の沙汰とは思えません。
 
交響曲第7番ですが、第1楽章がこれまた常軌を逸したスローテンポで提示部反復なしで15分半。この常識外れのテンポだけでも十分に異形ですが、このテンポの上で展開されるアンサンブルがこれ以上ド派手な演奏は考えられないというくらい、メチャクチャ派手に鳴らされています。これは吠えているというか、怒鳴り散らしている感じに近く、アンサンブルを整然と組み上げた上で端正に鳴らすという作業を、ほとんど放棄しているのではないかというくらい各パートのバランスが野放図な状態に聞こえます。

ここでの使用スコアは近衞秀麿版準拠とのことで、指揮者の弁によるとベートーヴェンの交響曲第7番は鳴りが悪いので有名なシンフォニーなので近衞版を用いて鳴りを良くしたかったという趣旨のようです。

しかし「技術優先で表面的な美しさのみを追った演奏が流行している今日この頃、ベートーヴェンの心からの苦しみと、激しい情熱の爆発を、自らの心として訴えてみたい」という指揮者の熱いコンセプトも、同じくライナーノートで語られていますが、そのコンセプトと近衞版の採用とがどう結びつくのか正直よく分りません。有名作品の「珍しい編曲版」の演奏だと言って殊更に有り難がる醜悪なマニアならいざしらず、やはり聴き手にとって最も肝要なのは版のセレクトと演奏コンセプトとの整合性のように思えます。

そういうわけで、このベートーヴェンはおそらく賛否両論どころの騒ぎではないのではないかというくらいの演奏だと思いますが、このベートーヴェンを私自身は全否定も全肯定もせず、それなりに距離を置いて、しかし面白く聴きました。

このベートーヴェン演奏に対して私が一つだけシンパシーを覚えた点があります。それはちょっとうまく言えませんが、ベートーヴェンという、他の誰も書かないような隔絶的な曲を書いた作曲家の作品を演奏するのには、敢えて他の誰も絶対に行わないというくらいに隔絶的なやり方で挑むべきではないか、という発想なり考え方も、あるいは成り立つかもしれない(演奏としての説得力は別として)というような視点においてです。

むろん他に誰も行わないというくらい隔絶的なやり方で演奏するというのは言うのは簡単ですが、実行するには相当な困難が伴うはず、、、この宇野功芳/日本大学管弦楽団によるベートーヴェンは、ベートーヴェンを演奏するということの本質的に困難な側面を聴き手に対し間接的にしろ浮き彫りにしているような気がします。

エッシェンバッハ/ロンドン・フィルによるブルックナー交響曲第6番


ブルックナー 交響曲第6番
 エッシェンバッハ/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 2009年ライヴ LPO0049
LPO0049

ロンドン・フィル自主制作レーベルから昨年末にリリースされた、クリストフ・エッシェンバッハ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第6番のCDを聴きました。2009年11月のロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴ録りです。

エッシェンバッハはブルックナーの6番を得意とする指揮者として知られており、エッシェンバッハとしての、これが同曲の実に3度目の録音とのこと。ブル6を3度も録音した指揮者は珍しいですし、ブルックナー全集の未録音指揮者としてはエッシェンバッハが初めてかもしれません。

それで聴いてみると、さすがに作品が指揮者の掌中に入っているような無類の安定感があり、全体的に遅めのテンポをベースに、スコアのあらゆる音に意味を持たせるかのような様相を音楽が帯びていると同時に、そこから導かれる音楽の純粋な美しさが素晴らしく、この交響曲が、これほど美しい曲であったのかという感懐を抱く瞬間が、聴いていて何度訪れたかと思えるほどです。

このエッシェンバッハ/ロンドン・フィルのブル6は総タイムが60分と、明らかに遅めのテンポ設定が敷設されていますが、とくに注目させられるのが第2楽章の20分オーバーというタイム。この楽章は速いテンポだと15分を切る演奏もあり、かつてのチェリビダッケの22分には及ばないとしても、際立った遅めのテンポが顕著だと分かりますが、その沈着なスタンスから展開される、世俗を超越したような音楽の美しさが途方もなく、その晴澄なハーモニーの織り成す壮大な音画には汲めども尽きぬ味わいが宿り、そこには天上の音楽のような趣きすら感じます。

考えてみるに、そもそもブルックナーが作曲家としてブレイクしたのが第7交響曲である以上、基本的に第6交響曲まで彼は俗的な成功とは無縁の人生を歩んでいた作曲家に過ぎず、そういった孤独の境遇の持つ清楚な力、あるいは世俗的な栄達に捉われず独自の感受性を無心に磨きあげた作曲家としての省察的な表現なりが、相対的に強く浮き出ているブルックナー作品が、このブレイクする直前の第6交響曲であるのかもしれません。

そんなことを、このエッシェンバッハ/ロンドン・フィルのブル6を聴きながら考えました。この曲を今までとは少し違った見方で聴くことができたような気がします。

ベーム/バイロイト祝祭管によるワーグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲


ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲
 ベーム/バイロイト祝祭管弦楽団
 グラモフォン 1966年ライヴ 4780279
4780279

カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏によるワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲のCDを聴きました。といっても実際に聴いたのは今年の正月休みの間です。正月明けの新国立劇場の公演を聴きに行く前の最後の予習として耳を傾けました。なお、このCDは数年前に購入したバイロイトのライヴ集成ボックスセットのものです。

いまさら言うのもですが、やはり見事な演奏だと思います。バイロイトのオケの充実を極めたアンサンブル展開の凄味、ヴィントガッセン(トリスタン)とニルソン(イゾルデ)を中心とする歌唱陣の壮絶なまでの声の迫力、いずれも尋常でなく、こんなワーグナーを実演で観た日にはさぞかしと思わされますし何よりベームの展開する音楽の流れにはダイナミックな推進力が常にあり、とにかく基調テンポが速い。改めて耳にして、こんなに速かったのかと驚いたくらいです。

特に第1幕のタイムを、このオペラの有名な幾つかの録音のものと比べてみました。

ベーム/バイロイト盤 75分
クライバー/ドレスデン盤 78分
ティーレマン/ウィーン盤 80分
フルトヴェングラー/フィルハーモニア盤 88分
バーンスタイン/バイエルン盤 92分

そういえば、ベームは2011年の今年が没後30周年にあたるそうです。去年のバーンスタインのように再評価の気運が盛り上がるかもしれませんね。

読書間奏「インフレーション宇宙論」


「インフレーション宇宙論」
佐藤勝彦・著 ブルーバックス

   B-1697

 私たちの住んでいるこの宇宙には、「はじまり」があったのだろうか? もし「はじまり」があったのなら、それはどのようなものだったのか? これらは、人類の歴史が始まった頃から問われつづけている問題です。かつては、これらの疑問に答えられるのは宗教や哲学しかないと考えられていました。あまりにも雲をつかむような話なので、科学では太刀打ちできないとされていたのです。
 しかし、いま、「科学の言葉」でこれらの疑問に答えることができる時代になってきています。宇宙の誕生や進化・構造について研究する学問分野である「宇宙論」が、この100年ほどの間に驚くほどの進歩を遂げたからです。・・

昨年の9月にブルーバックスから発売された新書「インフレーション宇宙論」を読みました。著者は以前ブログで取り上げたPHPサイエンス・ワールド新書「相対性理論から100年でわかったこと」の著者でもあり、宇宙の始まりを解明するための有力な理論「インフレーション理論」の提唱者である宇宙物理学者の佐藤勝彦教授です。

その「相対性理論から100年~」が発売されたのが昨年10月で、このブルーバックス「インフレーション宇宙論」と同じ時期です(なお、私はブルーバックスの方から先に読み、その後で「相対性理論から100年~」を読みました)が、同じなのは時期だけでなく、これら2つの本は実は内容的にも多くの部分で重なっていることが分かります。

「相対性理論から100年~」の方はタイトルの通り直近100年の間の現代物理学の歩みとして相対性理論、量子論、素粒子論、宇宙論という4つのジャンルにつき万遍なく取り上げた構成だったのに対し、その最後の宇宙論に焦点を絞って取り上げられているのが、こちらの「インフレーション宇宙論」ということになります。しかし宇宙論に焦点が絞られていても、その宇宙論の構築の土台となっているのが相対性理論や量子論、素粒子論である以上、これらのジャンルも必然的に本書で参照されることになります。

そういうわけで、本書はちょうど「相対性理論から100年~」の続編的な位置づけになると思われます。現代物理学100年の歩みを踏まえたうえで、最先端の宇宙論がどのような展開を示しているかが、著者独特の簡にして要を得た筆致から綴られていき、おそらく読み終えたときに読者は、この雄大な宇宙における我々人類の立ち位置をリアルに認識させられると同時に、その雄大な思考の広がりに感嘆の念を抱くことになります。

「相対性理論から100年~」の方でも述べられていたように著者は基本的に「宇宙論とは宇宙の膨張の様子を研究する学問である」と規定します。なぜなら宇宙の膨張の様子が分かれば宇宙の歴史や構造が把握できるからですが、しかし宇宙の膨張と言っても、19世紀まで宇宙は膨張などしない永久不変の存在と認識されていたため、宇宙の歴史や構造を研究しようにも、どうにも取っ掛かりが見出せませんでした(なにしろ永久不変の存在であるなら始まりも終わりもなく、そんなもの手も足も出ない)。しかし20世紀になって相対性理論が、時間と空間が伸び縮みするという仕組みを示したことで状況が一変します。時間と空間が伸び縮みするなら宇宙だって伸縮するのではないか、そうなら、宇宙の始まりというものを物理学的に考えても良さそうだ、この発想を後押しするかのように、1929年にアメリカの天文学者ハッブルが宇宙の膨張を実際に確認したことで宇宙論の可能性が一気に広がります。

この流れを受ける形で1946年にビッグバン宇宙論が提唱されます。これは「かつての宇宙は超高音の小さな火の玉だった」とすることで膨張のメカニズムを物理学的に解明した理論であって、一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式が示した「宇宙の膨張」という理論的事実を出発点とするものですが、さらに1965年にビッグバンが事実であったことの決定的な証拠が観測されるに及び、ビッグバン宇宙論は現代物理学的宇宙論のベースとしての地位を不動のものとします。

このビッグバン宇宙論を受けて、本書の著者である佐藤勝彦氏により1980年に、「インフレーション理論」が提唱されます。「宇宙は誕生直後にものすごい急膨張(インフレーション)を遂げた」とするもので、この理論によりビッグバン宇宙論の様々な問題点が一気に解決できる画期的な理論であり、このインフレーション理論は現在、宇宙初期の様子を説明する標準理論として認知されています。

しかし、そのインフレーション理論をもってしても、宇宙誕生直後の状態までは何とか説明できるが、宇宙誕生そのものについてのメカニズムは説明ができず、別の理論が必要になる。著者のいう「私たちが神様の助けを借りずに宇宙の始まり・時空の始まりの謎に立ち向かうための理論」として、宇宙誕生のメカニズムを説明するためには、「量子重力理論」と呼ばれる、相対性理論と量子論を完全に統合した理論が不可欠と言われています。なぜなら 宇宙は過去にさかのぼるほど小さくなり、誕生の瞬間は素粒子よりも小さな超ミクロの存在だった。したがって宇宙誕生の様子を考えるには、ミクロの世界の物理法則である量子論と、ビッグバン宇宙論の土台である一般相対性理論を融合した理論の完成が必須となるからです。

現在、量子重力理論の候補として有力なのはウクライナの物理学者ビレンキンの「トンネル効果理論」、アメリカの物理学者ホーキングの無境界仮説などが知られているものの、いずれも仮設の上に建てられた仮設に過ぎないとして、まだまだ未完成であることが述べられます。つまり、このあたりが現在の人類の、宇宙の真理に接近する臨界点ということになるようです。そして、その臨界点の先には暗黒(ダーク)エネルギー問題という、現在の宇宙論における最大の謎が横たわっており、この解明により現代物理学が次のステージに進めるのではないかと著者は予想しています。

・・エーテルの問題は相対性理論を生み、黒体放射の問題は量子論を生みました。難問を解決することで、まったく新しい20世紀の物理学が創られたわけです。同じように私はダークエネルギーやダークマターの問題を解決することで、21世紀の物理学、、次世代の新たな物理学を創ることができるのではないかと思っています。
 宇宙の中で私たち人間は、確かにはかない存在です。でも私たちは、自分たちが住んでいる宇宙についてみずからの生み出した科学の言葉でここまで認識し、それを通して自分たちが何者であるかを知ることができるようになりました。そのような人間は、この宇宙の中で、はかないけれどもすばらしい存在だと私は思っています。

本書は単独で読んだとしても十分に面白く、新しい知に触れる喜びに満ちていますが、私の印象では「相対性理論から100年~」と合わせて読むとまた、感銘の度合いや知見の密度などがぐっと深まるように思います。

ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管によるショスタコーヴィチ交響曲第2番と第11番


ショスタコーヴィチ 交響曲第2番・第11番
 ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管弦楽団
 Mariinsky 2009・2010年ライヴ MAR0507
MAR0507

昨年末にリリースされた、ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団によるショスタコーヴィチの交響曲第2番と第11番のCDを聴きました。第2番が2010年2月、第11番が2009年2月、いずれもマリインスキー・コンサート・ホールでのライヴ録りです。

かつてゲルギエフとマリインスキー管はショスタコーヴィチの交響曲の4番から9番までをフィリップス・レーベルからリリースしていましたが、その後はマリインスキー歌劇場の自主制作レーベルからのリリースに移行しています。一昨年に同レーベルから交響曲第1番と第15番のCDがリリースされましたが、それに続いて今回は2番と11番がリリースされました。

まず交響曲第2番「十月革命に捧げる」ですが、この作品に関しては最後のレーニン讃歌など、いかにも歌詞が安っぽく、音楽自体にも特に秀逸なものはなく、いかにゲルギエフ/マリインスキーの演奏であろうと惹かれるものはなく、実際これまで誰の演奏で聴いても感銘を受けたことがありません。いくら交響曲全集の完成のために避けて通れないとはいえ、正直この曲を録音する意義がそれほどあるのかとさえ思っています。

交響曲第11番「1905年」ですが、この作品はソビエト政権樹立の正当性の拠り所のひとつである、旧ロシア政府の大虐殺という非道な振るまいを、殊更にクローズアップすることによる作曲家の体制へのあからさまな恭順の意思だとか、例のジダーノフ批判で「推奨」された標題性の導入だとか、いわばソビエト体制に対する当時のショスタコーヴィチの妥協の産物という側面が厳然とあるので、その意味で演奏が難しい曲ではないかと思っています。少なくとも演奏が少しでも生ぬるいならば途端に聴くに堪えないような安っぽい音楽に陥るリスクが常につきまとう曲というべきでしょうか。

このゲルギエフ盤ですが、作品の中核である第2楽章「1月9日」のタイム17分17秒というのが目を引きます。この楽章のタイムは一般的には18分~20分の範囲で演奏が為されるのが普通で、速いものでコンドラシンが17分30秒ですから、このゲルギエフ盤はタイムで見る限り最速水準にあることが伺えます。

その第2楽章を聴くと、冒頭のアレグロをゲルギエフはものすごい突進力で突き進み、まさに怒涛の進軍という様相を示し、その急迫感が目覚ましいですし、途中の弱奏部でもテンポを弛緩させずに不気味な静けさを孕んだ緊張感を持続し、後半の大虐殺の場面へと流れ込みますが、このジェノサイドすなわち王宮の近衛兵による民衆への銃撃の場面においてゲルギエフは急迫的なテンポを最大限に活かし、実に破壊的なエネルギーに満ちた熾烈なアンサンブル展開を築き上げることに成功し、ここに内在する人間の狂気に根ざした暴力性が仮借なく抉りだされていて、その桁外れの表現力に聴いていて息を呑みました。

このジェノサイドのくだりは遅めのテンポでじっくり攻める指揮者が多い(バルシャイ、インバル、ロストロポーヴィチなど)ですが、それだけにゲルギエフのハイテンポは異彩を放っています。かなりテンポが速いので重みが乗り切る前に前へ前へと進んでいく感じで、このコンビ持ち前のヘビー級の音響的重量という点でいまひとつ大人しい印象はありますが、それを急迫感でカバーし、その一糸乱れぬアンサンブルが一気呵成に驀進する様は、かつてのコンドラシンをも凌ぐかというくらいの表出力を見せつけているあたり、大いに傾聴させられます。

以上、このコンビのショスタコーヴィチのレコーディングは依然として好調を維持しているように思えますし、あと残りのシンフォニーのうち10番、13番、14番は是非とも聴きたいです。

アーノンクール/ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート2001


「ニューイヤー・コンサート2001」
 アーノンクール/ウィーン・フィル
 テルデック 2001年ライヴ 8573-83563-2
8573-83563-2

ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による2001年ニューイヤー・コンサートのCDを聴きました。

購入してから、ちょうど10年。新しい世紀の幕開けの記念という意味も込め、クライバー以来ひさしぶりに購入したニューイヤー・コンサートのディスクでした。アーノンクールは、この年がウィンナ・コンサート初登場で、当時、あのアーノンクールがウィンナ・コンサートの指揮台に立つということ自体が話題になり、当日の演奏にしても何か奇抜なことを仕掛けるのではないかと言われたりもしましたが、フタを開けてみればごく普通のウィンナ・ワルツが展開され、その意味では少し拍子抜けな気がしたのを覚えています。もっとも、ラデツキーのオリジナル・バージョンとか、ヨゼフ・ランナーのワルツなど、ここでのアーノンクールの存在感は演奏よりむしろ選曲に色濃いのかもしれませんけど。

それはそれとして、改めてCDを聴いて思ったのが、あれからもう10年が経ったのかというような感懐でした。10年というと長いようで存外に短く、何だかアッという間とさえ思えてくる。この10年で世界の政治状勢や経済状勢は激変し、日本の政治体制や社会構造なども大きく変わりました。その一方で、このウィンナ・コンサートのように、いつまでも変わらないと思えるようなものも確かにある、、、そのコントラストが印象深く思えます。

引き続き、ワーグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」(新国立劇場 1/4)の感想


昨日の続きです。演出に関して思うところを書きます。

2011-01-05-1

演出を担当したデイヴィッド・マクヴィカーはロイヤルオペラなどで斬新な演出を手掛けて好評を博しているということで注目していました。しかし、ロビーで購入した公演プログラムには、演出に関する記載は一切ありませんでした。ので、以下に書くことはあくまで私の印象であり、全然ハズしているかもしれませんが、とにかく思った事をそのまま書くことにします。

まず視覚的に顕著な特徴としては舞台上に大きく張られた水です。その上に船を浮かべたり、ここぞという時に歌手を水の中を歩かせたり、という趣向でしたが、同じように水を舞台上に展開した最近の新国立劇場のオペラ演出としては「オテロ」や「ヴォツエック」がありましたし、それ自体は特段めあたらしいというものではないと思いました。

むしろ私が観ていて強い印象を覚えた事象は、第1幕の冒頭から水の上に浮かべられた「ボロボロの船」でした。今にも朽ち果ててしまいそうなボロボロの状態で、イゾルデを載せて登場します。これはかなり異様な光景でした。

どうして船があんな異様なまでにボロボロなのか、最初は観ていてピンときませんでした。それで、その意図するところは何だろうと考えているうち、10年以上前に私が観た「トリスタンとイゾルデ」の舞台演出のことを思い出しました。それは2000年秋のベルリン・フィルの来日公演、アバド指揮による上演です。

2011-01-05-2

上の写真は当時ホールで購入した公演プログラムのものですが、ここでは船がワイヤーフレームで描かれるという奇抜な演出でした。これは言うまでもなくイゾルデの心象風景の表れであり、本当は立派な船なんだけどイゾルデからは船があのように見える、ということが言いたいのであって、要するにイゾルデにはトリスタンしか視えず、よって船など眼中になし、という意味なのでしょう。これはイゾルデのロマンティックな感情を大きくクローズアップした演出と思えるものでした。

これを思い出した時、今回のマクヴィカー演出におけるボロボロの船の意図というのも、それと同じようにイゾルデの心象風景ではないかと考えました。要するにイゾルデは悲惨な現実に絶望しているからこそ船がああ見えるのでは、というもの。

そして、この視点で改めて第1幕を観てみると、このオペラがまた違った様相を呈してきます。一般に言われるのが、このオペラの主題は「愛」であり、オペラ中のイゾルデの行為が全てトリスタンへの愛に還元されて把握されるという見方ですが、実はそんなに単純な話ではないのではないか、少なくとも第1幕に限っては、ということを、観る者に再考を促す効果を、あの船が担っていたように思えてなりません。

なぜなら、あの船をイゾルデの心象と規定することにより、この第1幕のイゾルデの心境には実に壮絶なものがあるという事実に否応なく気付かされるからです。そもそも何故イゾルデが毒を飲もうとするのかというと、密かに思慕するトリスタンと一緒に死にたいというロマンティックな感情から死を選ぶのか、自身の報われない境遇に対する自暴自棄な感情から死を選ぶのか、アイルランド王女としての自尊心からくる感情から死を選ぶのか、実のところ分からない。ブランゲーネから「貴方は間違っています」とたしなめられているあたりなど、敵国の王と結婚しなければならない絶望感から自暴自棄になっているとしか思えなし、毒(だと思っている薬)を飲む直前まで、昔タントリスを助けたのはマルケ王を悲しませたくないからだとか、本当は思ってもいない建て前ばかり口にしていることからも、王女としての面子に死ぬ寸前まで拘り抜いている。そして、この3つの感情がないまぜになって「死」を向いているという壮絶な心理状況。

要するに第1幕のイゾルデにはギリギリまで追いつめられた人間の絶望的なまでの悲しみというのが確かにあって、そのメタファーがあのボロボロ船なのだろうと、そう考えられます。そして、この視点で第1幕を見ると、ひとりの人間の心理劇としてイゾルデというキャラクターが俄然に精彩を放ってきます。少なくとも薬のせいで理性が消失した第2幕以降のトリスタンとイゾルデには、心理的な葛藤というものがないので、人間の切羽詰まった情感の発露が希薄ですし、そう考えると、この第1幕こそ真のみどころではないかとすら思えてきます。

実際この演出では第2幕と第3幕に関しては比較的オーソドックスで、全体的に色彩的なコントラストを強く際立たせて美術的な美しさと静謐感を浮き上がらせたものでしたが、いずれも第1幕ほどに強烈な印象を放つものではありませんでした。

その意味で、このマクヴィカー演出は、このオペラの第1幕のシナリオとしての真価と、その奥深さを容赦なく抉り出したという点で絶賛に値する演出ではなかったかと思えます。少なくとも観ていて、このオペラのドラマトゥルギーを踏み込んで考えさせられた演出でした。

ワーグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」(新国立劇場 1/4)の感想


新国立劇場のワーグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1/4)の感想です。

2011-01-05-1

トリスタン(ステファン・グールド):
グールドを実演で聴くのは一昨年の新国立劇場「オテロ」外題役以来ですが、相変わらず良い声をしていました。中音域に屈強な声質を備えている上に高音域の朗々たる歌唱力も素晴らしく、ここぞという時には高音が見事に突き抜けてきます。オテロの時は水の中で絶命するなど演出が凝っていましたが、今回は純粋に声自体の訴えかけで勝負という舞台でしたし、それだけヘルデンテノール的な歌唱力の凄味が良く出ていたと思います。素晴らしいトリスタンでした。

イゾルデ(イレーネ・テオリン):
イレーネ・テオリンを新国立劇場で聴くのは08年「トゥーランドット」外題役、去年の「ジークフリート」ブリュンヒルデに続いて3回目です。今回も含めて、ドラマティック・ソプラノとして今や新国立劇場のオペラ上演に不可欠な歌手というイメージですが、今回のイゾルデも見事でした。類まれなる高音域の声質の強さと訴求力を武器に、このドラマティック・ソプラノ最大の難役を最後まで表情豊かに歌い抜いたあたり感動的でしたし、歌い回しにしても演出の意図をよく汲んで適確にニュアンスを描き分けていたと感じられました。特に第1幕の鬼気迫る歌唱表現は圧巻で、このオペラのシナリオ面での醍醐味が第1幕に凝縮されているという側面が観ていて良く伝わってきました。

マルケ王(ギド・イェンティンス):
マルケ王に関しては全体の感銘を損なうほどでないにせよ、歌手にやや人を得ていない印象が残りました。安定したテクニックで危なげない歌唱を披歴し、その点では申し分ないとはいえ、やはり声質が決定的に軽い。ここぞという時に声に重みが乗り切らないので、マルケ王の良識的な訴えが軽く流れてしまいます。理性を喪失したトリスタンとイゾルデに、理性の重みで訴えかけるには、やはりバスの重い声が相応しく、その意味で若干ミスキャストという気がしました。

大野和士/東京フィル:
とにかく聴いていて危なっかしい感じがなく、オーケストラの運用が実に安定していました。細かくみれば時としてホルンが音程を外すといった局所的なキズはありましたが、アンサンブル全体としての動きが歪むことがない、強固な一体感をもってオケをスムーズにドライブさせているあたりが素晴らしく、それはワーグナーの総体的な音響の快楽に聴き手を浸し込むに十分なものでした。例えば昨年のエッティンガー/東京フィルの「ジークフリート」では第1幕と第2幕が低回気味で逆に第3幕の鳴り具合が秀逸という印象でしたが、今回の大野和士/東京フィルにはそういったムラがなく、いわば万遍なく抜かりないアンサンブル運用。そのぶん局所的なインパクトが弱い感も正直あり、音響的なテンションの高いところで一気にフルスロットルとまではいかず、あくまで「まとまり重視」の姿勢を貫いたのは、コンセプトが一貫している反面、聴かせどころで少々もどかしく思えなくもありませんでしたが、全体としてみると、局所狙いに走らない大局観をもって、大河的な流れがとても大事にされていて、そのあたり何か一級のオペラ指揮者としての拘りの強さが伺われたように思えました。

演出についてはちょっと書くことが多いため、また日をあらためて。

ワーグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」(新国立劇場 1/4)


2011年の初更新ということで、昨年に引き続きまして本年もどうぞ宜しく御願いします。

2011-01-04-1

今日は新国立劇場でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を観ました。大野和士の指揮、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏で、歌手は以下の通りです。

トリスタン:ステファン・グールド
イゾルデ:イレーネ・テオリン
マルケ王:ギド・イェンティンス
クルヴェナール:ユッカ・ラジライネン
ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ

感想は後日あらためて出しますが、予想通りオケ・歌手ともに水準の高い舞台でした。全体を通して安心して観ていられつつ、ワーグナーの音楽にどっぷりと浸ることができましたし、演出も面白いと思いました。観ていて、いろいろと考えさせられる好演出だったと思います。

しかし分かっていたことですが、このオペラは実に長いですね。まだ正月気分が抜け切らないせいもあって、終演時はヘトヘトに疲れました。

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