バーンスタイン/ウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲第9番「合唱」


ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」
 バーンスタイン/ウィーン・フィル
 グラモフォン 1979年ライヴ POCG-2377
POCG-2377

2010年最後のブログ更新になります。レナード・バーンスタインがウィーン・フィルを指揮したベートーヴェン「第9」のCDを、この大晦日に聴きました。このCDを私が購入したのは20年くらい前になりますか。

先日ラトル/ウィーン・フィルの「第9」を久々に聴いたら、このバーンスタインの「第9」も無性に聴きたくなりました。それに今年はバーンスタイン没後20周年の記念イヤーでしたし、その大晦日に聴くには相応しい「第9」かもしれないですし。

これまで幾度となく耳にしてきたバーンスタインの「第9」、テンポやデュナーミクといった特徴も感覚的に理解しているつもりでしたが、改めてじっくりと聴き直してみると、やはり凄いなと感服しました。当時のバーンスタインという指揮者には、実に多くの財産が備わっていたのだなと、いうことが改めて痛感させられる。あの天下のウィーン・フィルを完全に掌握するだけの、奥深い知性に裏打ちされた人間性、作曲家に対する深いリスペクト、作品に対する真摯な態度、類まれなる音楽的感受性、溢れんばかりに旺盛な表現意欲、そんな様々なファクターが互いに有機的に結びついて揺るぎなく構築された、バーンスタイン以外の何物も為し得ないような独自性と希有の表現力を湛えた「第9」。

このベートーヴェンは1979年9月の、ウィーンのムジークフェラインザールでのライヴ。その僅か一ヵ月後、バーンスタインはベルリンに上陸。周知のように、ベルリン・フィルを相手に歴史的なマーラーを演奏することになる。そう考えると、この時期がバーンスタインの生涯で最も脂の乗り切っていた、全盛期と言い得る時期とも思えますが、いずれにせよ、この時期に彼が世界屈指の2大オーケストラと残した、この「2つの交響曲第9番」の素晴らしいライヴは、いずれも何ら色褪せることなく後世に聴き継がれていくのでしょうし、私も事あるごとに聴き返しては感懐を新たにすることになると思います。

きたる2011年は、どんな未知の演奏に出会えるか、楽しみです。それでは良いお年を。

ラトル/ウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲第9番「合唱」


ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」
 ラトル/ウィーン・フィル
 EMIクラシックス 2002年ライヴ TOCE55505
TOCE55505

年の瀬も押し詰まりました。どうやら今年は年末恒例の「第9」の演奏会には行かずじまいになりそうです。何かと忙しかったし、去年のフルシャのような、どうしてもこの指揮者で「第9」を聴きたいという公演もなかったし、、

しかし年末に「第9」を聴かないというのも、やはり据わりが悪い。それならばCDというわけで、サイモン・ラトル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による「第9」のCDを聴きました。2002年ウィーン、ムジークフェラインザールでのライヴです。

一時代前の巨匠指揮者の第9を連想させるくらいの、大胆なアゴーギグ動き、しかし、神経質なくらい繊細な統制力で刻まれるデュナーミクの動き、これらが奇跡的とも思える融合を示す地点において、「第9」の既存の演奏様式に対するラトルの旺盛な反骨精神の発露が逞しい。それがウィーン・フィルの根元的な鳴動力に照応し、掛け替えのない表出力に昇華された、その意味で希有の演奏であり、この「第9」には何度聴いても色褪せない魅力を感じます。

しかし、このラトル盤がウィーン・フィルの、21世紀になってから唯一の「第9」のCDという現状には、いささか寂しいものを感じます。20世紀に録音されたウィーン・フィルの「第9」のCDには、何といってもフルトヴェングラー、それにベームにそれぞれ何種類かあって、さらにワインガルトナー、ワルター、シュミット=イッセルシュテット、バーンスタイン、アバドと、錚々たる指揮者の録音がリリースされている。それが21世紀になり、このラトルのあと、パタリとリリースが無い。ようやく来年あたりティーレマン指揮のものが出るみたいですが、それにしても、と思います。せっかく録音技術が格段に進歩している現在なのに、これでは宝の持ち腐れではないかという気もしますし。CDが売れないから録音しない、と言う前に、そもそも録音しなければ売れませんよ、とメジャーレーベルに言いたいです。

パールマンとアシュケナージのデュオによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」


ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」
 パールマン(vn)、アシュケナージ(pf)
 デッカ 1973・74年 F35L-21024
F35L-21024

最近なにかと忙しく、コンサートがすっかり御無沙汰、、つい先月まで毎週のように聴いていたのに、、
 
とくに先々週のフルシャ/都響を聴き逃したのは痛かった、、(チケットも取っていたのに)。いくら勤務先がサントリーホールに近いといっても開演時間にホールに行けないのだから、どうにもならない。やはり、この時期に平日のコンサートはきつい、、

が、普通この時期は誰だって忙しいし、それは仕方がない。それはさておき、この秋に聴きに行った一連のコンサートを、ちょっと振り返ってみると、どちらかというと外来オーケストラ公演の方を重視したため、そのぶんソリストのリサイタルの方が割りを食った格好になり、ルプーのドタキャンもあって、結局ブレハッチとポリーニだけしか聴けず、やむなく聞き逃した公演も幾つかありました。

その中のひとつが、イツァーク・パールマンのリサイタル。キャンセルされたルプーのリサイタルの翌日で、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」が演目でした。ルプーのキャンセルが予め分かっていれば、こちらのチケットを取りたかったところでした。

実はパールマンの「クロイツェル」にはちょっとした思い入れがあります。ずっと昔、私がCDを買い始めたころ、そのなかにパールマンとアシュケナージのデュオによる「クロイツェル」のCDが含まれていて、それを繰り返し聴いて、この「クロイツェル」という曲を覚えました。それが、このCDです。

25年くらい昔ですし、何故このCDを購入したのか、は全然おぼえていません。何かのCDガイドに「これはおすすめです」とか書かれていたからなのか。あるいは、このCDに付属のオビ面に書かれている「現在、実力・人気ともに世界最高の境地にある2人の共演に今さら何を語ろう! 高邁な知性と美意識に裏打ちされた稀代の名演奏、名録音!」という、キャッチコピーをみて、何だか良さそうだと、思って購入してしまったのかも知れない。

当時の私は、とにもかくにも「曲を頭に入れる」ことに没頭しました。何度も聴いて、自分なりに作品のイメージを固めることを優先した。今にして思えば、当時ピアノを美しく鳴らすことにかけては余人の追随を許さないと言われたアシュケナージ、ヴァイオリンを美しく響かせることにかけては、これまた余人の追随を許さないと言われたパールマン、この両名がタッグを組んだら、おそらくこうなるであろうという、もう身も蓋もないくらいに想像どおりの演奏が、ここでは展開されています。しかし、そんなことを当時の私は知るよしもなく(何しろ聴き比べるという段階ではないので)、このCDをひたすら繰り返し聴いて作品を頭に浸透させるということをした。

よって、今でもCDの「クロイツェル」が私にとってのデフォルトスタンダードとなりました。第1楽章だと、提示部反復が省略されて録音されているので、開始から5分に差し掛かるあたりで展開部に入る、そんなタイミングとか、テンポの取り方、フレージングの組み方、両楽器のバランス、全体の完成度、いずれも極めて規範的で、その点は幸いでした。

それにしても、このCD、今日ものすごく久々に聴いてみたんですが、今でもちゃんと聴けました。1980年代リリースのCDですから、生産されてから相当経っているのに、昔と同じように聴けます。当たり前? いや、何だか凄いことのような気がします。

タチアナ・ヴァシリエヴァによるバッハの無伴奏チェロ組曲(全曲)


J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲(全曲)
 ヴァシリエヴァ(vc)
 Mirare 2008年 MIR086
MIR086

タチアナ・ヴァシリエヴァのチェロ演奏によるバッハの無伴奏チェロ組曲のCDを聴きました。ヴァシリエヴァは2001年の第7回ロストロポーヴィチ国際チェロ・コンクールでロシア人として初の優勝を成し遂げた豪腕チェリストです。

これは昨年リリースされたディスクで、新譜ではありませんが先月タワレコで本CDを見かけた際に入手しました。というのも半年ほど前に購入した、ヴァシリエヴァの直近の新譜であるショパンとアルカンのチェロ・ソナタのCD(ピアノはジャン・フレデリック・ヌーブルジェ)での素晴らしい弾きぶりが印象に残っていたからです。

それで聴いてみると、このバッハにおいてもヴァシリエヴァは持ち前の切れ味するどいボウイングを披歴し、しなやかなフレージングワーク、味わい深い音色、そして時おり見せる陰の濃い表情など、いずれも最近のショパンのソナタで披露されたヴァシリエヴァならではの魅力を湛えた表情形成が十分に成し遂げられており、単純にチェロ演奏だけの面でいうなら、まさに一点の非の打ちどころのない、充実を極めたバッハが展開されていて傾聴させられました。

しかし正直なところ、ことバッハとしての演奏として観た場合、ショパンの時のように何と素晴らしいチェリストなのだろうと聴いていて否応なく惹き込まれる、という風にはならず、むしろ聴き進めていくうちに表情的に違和感が先立つような、何かしらの据わりの悪さを否めなかった演奏でもありました。

なぜでしょうか。実は自分でも良く分りません。ただ幾つか、聴いていて明確に気になった点はありました。例えばチェロ組曲第1番の第2楽章で、後半部のリピート時のフレージング途中(4:24)で大きめのルバートを掛けているのが聴かれますが、このルバートはリピート時のみでリピート前の同じフレーズには掛けていないし、あるいはチェロ組曲第6番の第3楽章において、後半パートのリピート時のフレージング途中で即興風にピチカートが入れられています(3:30)が、これもやはりリピート時のみでリピート前の同じフレーズにはピチカートはありません。

このヴァシリエヴァの演奏では、こういった同一パッセージに複数のフレージング処理を施すという、いわば自由度の高い所作が全体的に聴かれますが、この即興的ともいうような所作というのが私にはどちらかというとロマン派の作品に適応するような、なにか気紛れな味付けとして感じられてしまい、少なくともバッハの構築的な音楽のスタイルに相対するには異質な表現ではないかという印象を受ける、、あるいは非常に微妙なバランスの上に成立するはずのバッハの造形美に対する配慮が脆弱であると言い換えてもよいかもしれません。

もうひとつ言うなら、ここでのヴァシリエヴァは確かに前述のように、堅実なテクニックとウォーミングな音色を持ち味とした、キビキビとしたフレージングの流れと、パリッと弾力感のあるボウイング展開を成し遂げていますが、時に軽快に過ぎてバッハとしては少し厳しさに欠けるのではと思わせられる局面もあります。例えばチェロ組曲第6番の第1楽章冒頭部など、徹底的にスタッカート奏法の強調されたビート感が際立っているがゆえに、バッハにしては落ち着きが無さ過ぎではないかと思うし(実際スコアにはスタカートとスラーが交互に書き込まれているはず)、ちょっとサーカスじみていて聴いていて何だかなあという印象を否めなかったりします。

・・というあたりが私なりに気になった点ですが、こういった個性的な行き方が原因で私が演奏にのめり込めなかったのかどうかは、やっぱり良く分りません。最近ちょっと忙しいこともあり、私の聴き込みが浅くてアサッテなことを言っているだけかも知れないし、それ以前に私の偏った占有感が原因なのかもしれません。バッハとしては少し異端な表現ですが、決して悪い演奏ではないと思います。ただ、これだけ腕の立つチェリストの演奏なのに、聴いていて心の琴線に触れて来るものが少なく、それは自分でも少々意外なくらいでしたので、そのことについて少し考えてみたく思い、敢えて今回のエントリーを書いてみました。

コンプリート・ディスコグラフィ・オブ・グスタフ・マーラー from 音楽之友社


今年はグスタフ・マーラーの生誕150周年にあたる年ということで、音楽之友社から「コンプリート・ディスコグラフィ・オブ・グスタフ・マーラー 作品別・録音順ディスク完全ガイド(名盤「115付き」)」という冊子が発売されています。マーラーの全ての作品ごとにディスク(レコード、CD)が録音順にリストアップされ、それに定番的な録音115点に関する解説が付されています。

Mahler-Discography

マーラー作品のコンプリート・ディスコグラフィなんて凄いな、と思って購入してみました。リストにざっと目を通してみたところ、これまでリリースされた録音が作品別にきれいにリストアップされていて、かなり壮観です。もっとも、さすがに直近にリリースされたディスク(サロネン/フィルハーモニア管の交響曲第9番など)は掲載されておらず、概ね今年の春ごろリリースされた録音までが対象のようです。

また、てっきり正規盤だけのリストかと思いきや、カルロス・クライバー/ウィーン響の「大地の歌」のようなプライヴェート盤までリストに含まれていたのは意外でした。それではプライヴェート盤まで完全にカバーされているのかと思いきや、例えばテンシュテット/北ドイツ放送響の交響曲第2番「復活」ライヴとかバーンスタイン/ウィーン・フィルの交響曲第5番プロムスライヴといった有名なプライヴェート盤(←変な言い方ですが)がリストに無かったりするので、どうも掲載基準がいまひとつ曖昧な気がします。

しかし正規盤に関しては、さすがに完全に近い形で網羅されている感があります。とはいえ「完全」・「コンプリート」と銘打たれると、何かしら抜けているものがないかと疑いたくなるのが人情ですから(←そうか?)、なにか抜けている正規盤がありはしないかと、ちょっと探してみたら、マーラーの交響曲第6番のリストに、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルのライヴCDが入っていませんでした。これはベルリン・フィル自主制作レーベルからリリースされた、れっきとした正規盤で、このブログでも以前に取り上げたことがありました。

そういうわけで、もしかしたらセミ・コンプリート・ディスコグラフィが実態なのかも知れませんが、たとえそうでも過去の様々なマーラー録音のデータ参照に有効かつ便利なことは事実ですし、なるべく有効に活用したいと思います。

読書間奏「『七人の侍』と現代――黒澤明 再考」


『七人の侍』と現代――黒澤明 再考
四方田犬彦・著 岩波新書

   I1255

 「7人の侍」の結末における勘兵衛の言動はきわめて難解であり、完全に解き明かされてはいない。彼が虚空に投げかけた、勝利とは、敗北とは何かという問いを十全にわがものとできるのは、戦いに倒れた死者ばかりである。問いはいまだに宙に舞っており、このフィルムを観るすべての者に当惑を与える。1954年では自明のものであった感情は、2000年代に入ると註釈をしないと理解できないものとなった。「7人の侍」というフィルムにもし最適の註釈が存在するとすれば、それは同じ年に同じ東宝で本多猪四郎が撮った「ゴジラ」である。どちらのフィルムにおいても死者の追悼儀礼の頭目を演じているのが志村喬であることは、けっして偶然ではない。・・

2010年の今年は黒澤明監督の生誕100年にあたりますが、それを記念してということか同監督の代表作「七人の侍」の新たな作品論が岩波新書から刊行されましたので、読んでみました。

「七人の侍」といえば黒澤フィルムの最高傑作のひとつであり、日本映画のみならず世界の映画をも代表する古典的名作としても知られるフィルムですが、この不朽の名作が、実は21世紀の現在なお、アクチュアルな「現役の」フィルムである、という著者独自の切り口に基づく作品論が本書では展開されています。しかし、今から半世紀近く前に公開された映画が、2010年の今でも「現役」であるとは一体どういうことなのか? 

それが明らかにされているのが本書の第一章「黒澤明、再び」です。ここでは「七人の侍」を含む黒澤映画が、世界のいたるところで今なお現代的なテーマとして受容されているという、興味深い事実が開示されています。まず最初に、意外にも現在のキューバにおいて黒澤映画が広く受容されている、という実態が示されます。とくに「七人の侍」はキューバ人が最も熱狂し、わがごとのように興奮しながら観ている映画であると。

それは単に国境や民族を超えて理解しうる痛快なアクション映画であるという理由だけでなく、革命を体験したキューバが社会主義国家として、長年にわたり超大国アメリカの脅威に晒されてきた特殊事情が、厳然とあるからであり、それが、あの映画での孤立無援の主人公たちへの共感に繋がっているのだと著者は考察します。

続いて、著者が2004年に文化庁の文化交流使としてイスラエル・パレスチナおよびセルビア・モンテネグロに赴いた時の体験が綴られています。

 イスラエルとパレスチナでは、黒澤明に対する姿勢は大きく異なっていた。前者では大方の欧米社会と同じく、彼は日本文化の伝統と現在を統合させた古典的巨匠だった。
・・・・
 だがパレスチナ人の側では、黒澤明の名を出すとまったく違った反応が返ってきた。パレスチナでは黒澤はブルース・リーと同じく、現役の映画監督だった。たとえばわたしが会ったモハメッド・バクリという俳優は、開口一番「どですかでん」を知っているかとわたしに尋ねてきた。日本人に会ったらまずいっておきたいという、性急な口調だった。・・

「どですかでん」のテーマは貧困であり、これは黒澤の全フィルムの中でも最も陰鬱で救いのないストーリーの作品(オペラで言うなら「ヴォツェック」に近いと思う)ですが、この映画が何故パレスチナで受容されているのか。そこにはイスラエル建国に伴いシオニストによりガザの難民キャンプへと強制的に追い立てられた、占領下のパレスチナに生きる人々の人間群像が間接的に投影されているからであり、この意味で黒澤映画はまさに今のパレスチナに生きている、と著者は論じます。

このあと著者はパレスチナを離れ旧ユーゴスラビアのベオグラードに向かいますが、そこでも黒澤映画を現在進行形の作品として捉えようとする旧ユーゴの人々を発見することになる。もともと複数の民族からなる連合体国家であったユーゴスラビアは、カリスマ的指導者ティトー死後に分離独立運動が活発となり、90年代にはクロアチアとセルビアの確執が深刻化し、とくにボスニアで虐殺と破壊が繰り返されたのは周知のとおりです。このボスニア紛争において西欧諸国は反セルビアで団結し、ベオグラードに爆撃を繰り返すなどし旧ユーゴを強制的に解体させ、結局セルビアの敗北という形で幕を閉じます。

まずセルビアとボスニア、クロアチアの三つ巴の戦争の真実が誰にも定かではなくなってしまった現在の状況が、黒澤映画「羅生門」に酷似している(複数の人物がめいめいに真相とやらを証言して譲らないために、究極的な法的裁定が不可能となってしまう事態という意味)ことが示され、ゆえに黒澤映画が現下の政治と歴史を解釈する寓意として働いている実態が述べられます。さらにセルビアの映画研究家ニコラ・ストヤノヴィッチ教授の、以下のような発言が引用されます。「いいかい。コソヴォに出向いてアルバニア人の暴力からセルビアの農民を救った将軍が、どうしてハーグの国際司法裁判所で戦犯として裁かれなければならないのだ。彼は『7人の侍』で志村喬が演じた勘兵衛と同じことをしただけではないか。」

そして著者は本章をこう締めくくります。ユーゴスラビアの悲惨な戦争のさなかにあって、黒澤明はけっして日本やアメリカの映画研究者がアームチェアで分析を試みるような古典なのではないのだと。それは現実の惨事を認識し苦痛に対し心理的な浄化を準備する現役のフィルムなのだと。こう考えると、キューバの国立映画研究所がきわめて僅かの予算しか持たないにもかかわらず世界に先駆けて黒澤明の全プリントを揃え、その死に際してカストロがわざわざ言及したという事実に対しても、論理的に納得がいくのだと、、

驚きました。そのエキサイティングな視点にです。なんと衝撃的なインパクトを持つ黒澤論でしょうか。最初てっきり私は、黒澤映画がアクチュアルな「現役の」フィルムである、という主張を、現在は先の見えない不安定な時代だからこそ黒澤明が各作品に込めたメッセージ性が活きてくるので、それを改めて見直すべきだ、みたいな抽象論だとばかり思っていました。その意味で本書のリアルで切実な問題提起は思いもよらなかった方向性でしたし、こんなに抜き差しならない状況下で黒澤映画がリアルに「必要とされている」とは考えたこともなかったし、映画作品を真に受容するとは、こういうことなのかもしれないと、そんな感懐に打たれました。

これほどの鋭利な着眼点を有する著者の開陳する作品論が面白くないはずがありません。ここを読んだだけで本書に強烈な関心をそそられ、そのまま最後まで興味深く読むことが出来ましたし、この映画の今まで思いもよらなかったビジョンをまざまざと指し示されたような気がします。何故この映画が名作なのか、それは時代と地域を超越した普遍的訴求力があるからであり、その本質性を読者は読み終えたときに深く知覚させられることになると思います。

 本書でわたしが試みたのは、この作品を古典という観念からも、名作という称号からも救い出すことであった。あえていうことにしよう。黒澤明が1954年に監督した『七人の侍』は、21世紀の現在においてすら、いや現在においてこそアクチュアルなフィルムである。都市に失業者が溢れ、農村が疲弊の極地に達している時代。国境を越えて難民が避難所を求め、それを追うように武装集団が略奪を欲しいままにする時代。勘兵衛や菊千代が理念のために戦い、虚無に突き当たって服喪を強いられたのは、実はそのような時代であった。黒澤明は2010年に生誕100年を迎えたが、このフィルムはどこまでも現役のフィルムであり、その意義は映画史の枠を越えて、ますます重要なものとなろうとしている。・・
                   本書「あとがき」より

  Ending
   『七人の侍』エンディング・シーン(市販のDVDより)

ジュリアス・カッチェンの1960年代におけるバッハとベートーヴェンのライヴ


J.S.バッハ パルティータ第2番
&ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番ほか
 カッチェン(pf)、ヨッフム/バイエルン放送交響楽団ほか
 DOREMI 1960~65年ライヴ DHR7936
DHR7936

カナダDOREMIから先月リリースされた、ジュリアス・カッチェンの1960年代におけるバッハとベートーヴェンのライヴCDを聴きました。

アメリカ生まれの名ピアニスト、ジュリアス・カッチェンはデッカに多くの録音を残していますが、その中でも特にベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は私の愛聴盤のひとつとなっています。カッチェンのライヴ録音として残されているものは意外に少ないですし、今回リリースされたライヴ盤にはベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番のライヴが含まれていることもあり、興味津々で購入しました。

聴いてみると、最初のバッハのパルティータ第2番は1965年9月のルートヴィヒスブルクでの演奏ですが、まず音質の良好なことに度肝を抜かされました。モノラルながら良好なプレゼンスの確保された、非常に臨場感のある音質となっていて、聴いていて往年のカッチェンのピアニズムの凄味がひしひしと伝わってきます。知情意のバランスが絶妙に取れている点がカッチェンのピアニズムの大きな持ち味ですが、このバッハがまさにそう。引き締まった表情でスケール味豊かに描かれる、カッチェンならではの素晴らしいバッハを堪能することができました。

そして、この音質で次のベートーヴェンも聴けるなら、これはすごいことになるなとワクワクしながら、次に収録されている1962年にパリで録音されたベートーヴェンの創作主題による32の変奏曲を聴きましたが、残念なことに、こちらのモノラルは少し冴えない音質です。ノイズ感はかなり低めで聴き苦しくはないものの、距離感のある、かなり引っ込んだ線の細いプレゼンスで、直前のバッハとは質的に如実な開きを感じます。ここでもカッチェンのピアニズムとしては、個々のタッチの鮮烈な訴求力には素晴らしいものがあり、ことに(7:40)とか(8:54)あたりの山場での凄まじい表出力など只事ではないにしても、彼の大きな持ち味である繊細な音色の妙感、多様なニュアンスを十分に味わえない嫌いは否めず、またタッチ一つ一つに厚みが十分に乗らない感が否めないあたりも聴いていて少し物足りない気がします。

続いて収録されているのはベートーヴェンのコンチェルト第4番で、これはオイゲン・ヨッフム指揮バイエルン放送交響楽団がバックの、1962年3月の演奏とされています。しかし肝心の音質が、前述の変奏曲よりも一段とモッサリとしており、一段と線の細いソノリティに終始し、これは正直がっかりでした。ピアノやオケの音の擦れなどのノイズ感も相当に高くて聞き苦しいですし、ヴォリュームを適正なレベルまで上げると速いトリルのパッセージなどが潰れて聴こえてしまったりと、どうも良くありません。この曲をカッチェンはデッカに1963年にスタジオ録音しており、このライヴと楽章ごとのタイムバランスが概ね同じなので、多分このライヴも本当は素晴らしい演奏なのではないかと思わずにいられませんが、とにかくこの音質では厳しいと思います。

最後に収録のベートーヴェンのチェロ・ソナタ第5番は1960年8月のプラドでの演奏で、チェロの大家パブロ・カザルスとのデュオです。ここでは再び音質がグッと良くなり、ピックリです。最初のバッハに近い良好なプレゼンスのモノラルで、ややオン気味に録られていて響きが生々しい。そして、この冴えた音質からまざまざと伝わってきたのは、カッチェンを圧倒してしまうくらいの、カザルスのチェロ演奏の凄味でした。そのチェロが繰り出す、重厚、骨太、濃密なボウイングの迫力、そのフレージングの深みに、聴いていて圧倒されるばかり。カザルスの方は自分の流儀を決して崩さないため、絶妙な呼吸でサポートしているカッチェンのピアニズムでさえも、カザルスの前に霞んでしまいがちです。

以上、本CDは本来カッチェンのライヴ演奏におけるピアニズムを堪能するつもりで購入したのが、音質面で一喜一憂を余儀なくされ、そして最後の最後で思わぬ方向で仰天させられたCDでした。正直カッチェンを聴くという観点では最初のバッハ以外あまり聴くべきものが少ないCDでしたが、しかし往年のカザルスの無二ともいうべきチェロ演奏の醍醐味をリアルに伝える貴重なCDでもあると思います。

読書間奏「相対性理論から100年でわかったこと」


「相対性理論から100年でわかったこと」
 佐藤勝彦・著 PHPサイエンス・ワールド新書
 
   PHP-029

・・みなさんに知っていただきたいのは「世界を形づくる最小の部品は、極小の長さのひもである」とか「宇宙は137億年前に生まれた」といった知識ではありません。そうした知識自体には、それほど価値がないとさえいえるかもしれません。
 なぜなら、ほんとうに価値があるのは「なぜそういえるのか」という点にあるからです。私たちは極小の長さのひもを電子顕微鏡で実際に見たわけでも、宇宙が137億年前に生まれた現場を確認したわけでもありません。私たちが明らかにした「物の理」に基づくと、究極の微小構成要素の正体や宇宙の年齢はそのように結論づけられるのです。「なぜかはわからないけれど、そうみたいだ」というのではなく、物理学の知見に基づいてそうだと考えられること、それがすばらしいのです。そのすばらしさを、本書を通してぜひ知ってもらいたい、あるいは再確認していただきたいのです。・・

今年の10月に発売された新書「相対性理論から100年でわかったこと」を読みました。著者は宇宙物理学の第一人者であり、宇宙創世の謎を解き明かす最有力理論と目されているインフレーション理論の提唱者です。

内容はタイトルの通り、現代物理学の分野において、相対性理論の提唱された時代から約100年が経過した2010年現在、我々人類はどこまで、この世界のことわりを解き明かしてきたのかが、極めて分かりやすく説明されています。こんなに分かりやすくていいのかと思うくらい。佐藤先生の著作には、いつも感動させられてしまいます。

具体的には現代物理学の主要4分野である、相対性理論、量子論、素粒子論、宇宙論の4つのジャンルに、各々50ページ程度が割り当てられ解説されています。現代物理学の中でも関心の特に高いジャンルを網羅した欲張りな内容であり、どの理論も専門的な知識なしでもだいたいのことが理解してもらえるように、できるだけやさしい説明を試みたつもりと、著者は最初に書いています。

まず相対性理論と量子論が順に取り上げられます。19世紀の物理学に残された2つの暗雲、それに対する解答が相対性理論と量子論にほかならないこと、いずれも「光の特性」に密接に関係する物理学的な疑問を出発点とした理論であること、相対性理論がアインシュタインという一人の天才の手になる理論であるのに対し、量子論の方は複数の物理学者の段階的な探究により建設された理論であること、など、かなり基本的なことから始めながら、著者は次第に各理論の中枢に鋭利に切り込み、その「すごさ」を我々一般の素人にも分かりやすく開示していきます。

例えば量子論のすごさに関して、著者は「自然現象の未来はただ一つに決まっている」というそれまでの物理思想を根底から変えたこと、これに尽きる、と言い切ります。言われてみれば確かに、我々が高校で習ったニュートン物理学、それにマックスウェル電磁気学はもちろん、あの相対性理論でさえ因果律により未来が定まるという「決定論」に基づく理論だったが、量子論は不確定性原理に基づく確率論として構築されている。そして、このことが20世紀後半の宇宙論の発展において決定的な福音をもたらします。なぜなら、すべての物理的状態を不確定だと考える量子論においては、「何もない」という状態を許さないからで、哲学的な意味での無やゼロという状態は物理学的には有り得ない、という考え方をとる。これは宇宙論における「宇宙創世の段階で、なぜ、無から有が生じたのか」という根本的な疑問に対する有力かつ説得力のある回答を提供するものであり、つまり宇宙の始まりにおける「無」の状態を「量子論的な無」と規定することにより、一気に物理学的な考察が可能になるという流れになります。

そう、本書の真に素晴らしい点は、このような「流れ」が読んでいて自然に理解できてしまう点にある、と私は思う。ほんとうに価値があるのは「なぜそういえるのか」という点にある、と上述のように著者は書いているが、実際その通りの書かれ方がされていて、よくある現代物理学の本のような、無味乾燥な知識の羅列と一線を画していることが実によく分かります。

そして本書の後半では素粒子論と宇宙論が順に取り上げられます。素粒子論とは我々の世界を構成する究極の基本要素である素粒子の正体に迫るための理論ですが、これはミクロの世界の物理現象を扱う量子論を素粒子に対して応用した理論なので、量子論と密接な関係にあるジャンルでもあり、そのあたりの「流れ」は本書でも大事にされています。

この部分は、やはり超ひも理論のトピックスが面白い。これは上で引用した部分の「世界を形づくる最小の部品は、極小の長さのひもである」という話のことですが、要するに原子の中には原子核があり、原子核の中には陽子と中性子がある、それらの微粒子を更に分解するとクォークという素粒子に行き着くが、そのクォークは更に極微小サイズのひもの振動により構成される、これが超ひも理論で扱われる対象になる。そういった極小の長さのひもを電子顕微鏡で実際に見たわけでもないのに、何故そう言えるのか? ここは特に読み応えがあるところです。

そして周知のように素粒子論の分野においては日本人の研究者が果たした功績が甚大です。本書でも、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と朝永振一郎の業績が分かりやすく解説されています。そして、もうひとり忘れてはならないのは2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏の業績です。素粒子物理学における対称性の理論に基づき、素粒子が質量を持つ理由を理論的に解明した「自発的対称性の破れ」の理論は、私のブログでも以前ちょっとだけ取り上げたことがありましたが、その本質が本書では実に分かりやすく説明されています。

さらに、ここで話は素粒子から宇宙論へと発展します。というのも、宇宙初期における真空状態において「自発的な対称性の破れ」が生じ、そこから「真空の相転移」が生じた結果、この宇宙に質量が発生したとする、この南部氏の理論は著者の提唱する「インフレーション宇宙理論」の基礎となっているからです。

まず「宇宙論とは宇宙の膨張の様子を研究する学問である」と著者は規定します(宇宙の膨張の様子が分かれば、宇宙の歴史や構造が概ね分かってしまうから)。その上で、1946年に提唱されたビッグバン宇宙論、さらに本書の著者である佐藤勝彦氏により1980年に提唱された「インフレーション理論」、その先に位置する量子重力理論と、現在の人類の、宇宙の真理に接近する臨界点にいたるまでの、現代宇宙論が辿った「流れ」が綴られていきます。

それでは、その臨界点の先には何が? 現在、宇宙を構成する要素のうち95%は正体不明で、それは暗黒物質(ダークマター)と暗黒エネルギーと便宜的に呼ばれているそうです。そして、宇宙全体の75%が占められる真の主役は暗黒(ダーク)エネルギーであると著者は説きます。現在の宇宙論における最大の謎が暗黒(ダーク)エネルギー問題であり、このエネルギーの正体は「全くの謎」であり、この解明により現代物理学が次のステージに進めるのではないかと著者は予想しています。

現在の状況は、相対性理論が登場したころによく似ています。光の速度をめぐる謎について従来の物理学(ニュートン力学)では答えられず、その限界を乗り越えるものとして相対性理論は生まれました。同じように暗黒エネルギーをめぐる謎から、革新的な物理理論が誕生するのではないでしょうか。そうした際にも、ビッグバン宇宙論やインフレーション理論がまったくの間違いとして否定されたりはしないでしょう。ですがニュートン力学に対する相対性理論のように、私たちの知らなかった、より深い真理が見えてくることは大いに期待できるでしょうね。

なお本書の発売される少し前に、佐藤先生は別の出版社から宇宙論に関する著作を出しています。そちらについても、いずれブログで取り上げてみたいと思っています。

ティーレマン/ウィーン国立歌劇場管弦楽団によるワーグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲


ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲
 ティーレマン/ウィーン国立歌劇場管弦楽団
 グラモフォン 2003年ライヴ 474974-2
474974-2

来週から新国立劇場で上演が始まるワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を観に行きます。

新国立劇場としては今回が初上演とのこと。これだけ有名なオペラにしては、これまで上演に掛からなかったことが不思議な気もしますが、それだけ気合いの入った舞台になりそうで楽しみです。

海外の著名なオペラハウスで多くの実績を残し、オペラ指揮者としての評価が近年うなぎ昇りの、大野和士の指揮という点も楽しみですし、歌手に関しても、今回は錚々たるメンバーが揃っていますね。トリスタンを歌うステファン・グールドは昨年の新国立劇場「オテロ」外題役が素晴らしかったですし、イゾルデを歌うイレーネ・テオリンも、今年の新国立劇場「ジークフリート」で聴いたブリュンヒルデの見事な歌唱が記憶に新しいですし、その「ジークフリート」でヴォータンを好演したユッカ・ラジライネンが今回はクルヴェナールに配されていたり、ずいぶん豪華な陣容です。

それに国際的に評価の高いオペラ演出家デイヴィッド・マクヴィカーがどのような舞台を見せるかにも大いに注目したいです。

そういうわけで、例によって予習としてクリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏による同オペラ全曲盤を一通り聴きました。歌手はトリスタンがトマス・モーザー、イゾルデがデボラ・ヴォイト、マルケ王がロベルト・ホルという陣容。

このティーレマン盤、演奏自体としては特にオーケストラの表現力に相当な充実感があり、後年のティーレマンのバイロイトでの活躍を予言するような立派なワーグナー演奏だと思います。ただ惜しむらくは音質がパリッとしない点で、ソノリティが全体にモコモコとしていて高音の抜けがいまいちですし、肝心なところで響きが混濁する傾向があり、それだけクライマックスの盛り上がりの高揚感が弱められている感、少なからずありです。

このCDは一応グラモフォン・レーベルのリリースですが、レコーディング・プロデューサーにオーストリア・ラジオ放送のプロデューサーがクレジットされていることから、最近よくあるように、オペラ録音コストの削減のため、グラモフォン側がORF収録の音源を譲り受けての、お手軽リリースのようです。しかし、そういった安易なレコーディング姿勢それ自体が、音質的なクオリティを低からしめているのではないかと、そんな風にも思えます。

ギュンター・ヴァント指揮ブルックナー交響曲第8番のディスコグラフィ


最近リリースされたCDを含めた、ギュンター・ヴァントの指揮によるブルックナー交響曲第8番の、これまでのCD録音9種類を一覧にまとめてみました。

2010-12-17-1

①1971年ライヴ録音
 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
 スクリベンダム SC007

②1979年セッション録音
 ケルン放送交響楽団
 RCA 88697776582

③1984年ライヴ録音
 バイエルン放送交響楽団
 The Bells of Saint Florian AB-6-7

2010-12-17-2

④1987年ライヴ録音
 北ドイツ放送交響楽団
 RCA RD60364-2

⑤1990年ライヴ録音
 北ドイツ放送交響楽団
 Altus ALT197
 
⑥1993年ライヴ録音
 北ドイツ放送交響楽団
 RCA 0902668047-2

2010-12-17-3

⑦1996年ライヴ録音
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 
 メモリーズ ME1043/44

⑧2000年ライヴ録音
 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
 Profil PH06008

⑨2001年ライヴ録音
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 RCA 7432182866-2

備考:

・2010年12月現在のリリース済み録音一覧です。

・録音年の古いものから並んでいます。

・CD番号は私の所有するディスクのものです。

・対象はCDのみです(LP、DVD、CD-Rは含まれない)。

・③と⑦はプライヴェート盤です。

・もしかしたら漏れている音源もあるかもしれません。

ヴァント/ケルン放送響によるブルックナー交響曲全集


ブルックナー 交響曲全集
 ヴァント/ケルン放送交響楽団
 RCA 1974~81年 88697776582
88697776582

RCAより先般リリースされた、ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団によるブルックナー交響曲全集のボックスセットを購入しました。

これはヴァント唯一のブルックナー交響曲全集であるとともに、ヴァントにしては稀少なセッション録音によるブルックナーの録音として知られるものです。私はバラ買いで入手していましたが未入手のナンバーも相当数あり、価格も廉価なことから、この機会に入手してみました。さすがに安いだけあってライナーノートの類は一切なく、CDが9枚、紙のケースに個別に収納されているだけの、すこぶる簡素な作りです。

とはいえ先日のW・シューマン交響曲全集、昨日のワーグナーコレクションに続いて未聴CDが増える一方で悩ましいところですが、何とか時間をみつけて(しかし年内は忙しいので年明けにでも)、往年のヴァントのブルックナーをじっくり聴いてみたいと思います。

「ワーグナー・ザ・コンプリート・オペラ・コレクション」 from 独Documents


「ワーグナー・ザ・コンプリート・オペラ・コレクション」
 Documents 1944年~98年 233106
233106-1

独Documentsから先月リリースされた、「ワーグナー・ザ・コンプリート・オペラ・コレクション(Richard Wagner the complete opera collection)と題されたボックス盤を購入してしまいました(この忙しい時期に、、)。

これはCD43枚組で、「オランダ人」から「パルジファル」までの主要作と、「リエンツィ」、「恋愛禁制」、「妖精」という、あまり録音されない作品も含めて、ワーグナーのオペラ作品の録音が一通り収められています。これらは全て他レーベルからのライセンス録音と思われ、いわゆる初出の音源は含まれていないようです。

これは正直、もう衝動買いの類ですが、敢えて動機を挙げるなら、ちょうど先月に読み終え、圧巻というくらい面白かった深水黎一郎の小説「ジークフリートの剣」に啓発されて、あらためてワーグナーのオペラをじっくり聴いてみたいと思っていたところ、この廉価なボックスが折よくリリースされていたので買ってみようかと、、、

233106-2

・・・しかし、いざ現物が届いてみると、あまりのボリュームに気後れしてしまい(笑)、まだ一枚も聴いていない状況です。

、、、、まあ気長に聴いていこうと思います。

なお、各作品として収録されている録音は以下の通りです。

①舞台神聖祝典劇「パルジファル」全曲
 ハンス・クナッパーツブッシュ指揮
 バイロイト祝祭管弦楽団
 1951年ライヴ録音

②楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲
 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
 バイロイト祝祭管弦楽団
 1951年ライヴ録音

③歌劇「さまよえるオランダ人」全曲
 クレメンス・クラウス指揮
 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
 1944年録音

④楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
 フィルハーモニア管弦楽団
 1952年録音

⑤歌劇「ローエングリン」全曲
 ヨゼフ・カイルベルト指揮
 バイロイト祝祭管弦楽団
 1953年ライヴ録音

⑥歌劇「タンホイザー」全曲
 ロベルト・ヘーガー指揮
 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
 1951年ライヴ録音

⑦楽劇4部作「ニーベルングの指環」全曲
 ギュンター・ノイホルト指揮
 カールスルーエ・バーデン州立歌劇場管弦楽団
 1994・95年ライヴ録音

⑧歌劇「リエンツィ」全曲(短縮版)
 ヴィンフリート・ツィリッヒ指揮
 ヘッセン放送交響楽団
 1950年録音

⑨歌劇「恋愛禁制」全曲
 ロベルト・ヘーガー指揮
 オーストリア放送交響楽団
 1962年録音

⑩歌劇「妖精」全曲
 ガボール・エトヴェシュ指揮
 カリアリ・テアトロ・コムナーレ管弦楽団
 1998年録音

シュウォーツ/シアトル交響楽団によるウィリアム・シューマンの交響曲全集と管弦楽作品集


ウィリアム・シューマン 交響曲全集&管弦楽作品集
 シュウォーツ/シアトル交響楽団
 ナクソス 1990年~2008年 8505228
8505228

2010年の今年は、周知のようにロベルト・シューマンの生誕200周年ですが、実はもうひとりのシューマンである、アメリカの作曲家ウィリアム・シューマンの生誕100周年でもあります。それを記念して、ナクソス・レーベルがジェラード・シュウォーツの指揮シアトル交響楽団を起用し継続的に行っていたウィリアム・シューマン作品の録音CD5枚がセット化され、先月リリースされましたので、購入してみました。

収録曲はウィリアム・シューマンの交響曲第3番から第10番までの全8曲、それに管弦楽の歌、サーカス序曲、バレエ音楽「ジュディス」、戦時の祈り、ニュー・イングランド三部作、夜の旅、「アメリカ」による変奏曲(アイヴズ作曲のW.シューマン編曲)の計7曲の管弦楽作品です(なお、交響曲第1番と第2番は後に作曲家自身により作品目録から撤収されているので、このセットには含まれていません)。

ウィリアム・シューマンの交響曲というと、均整の取れた様式の中に現代の都会を思わせる物々しい狂騒感なり、時に無機的なまでに冷たいリリシズムや、赤裸々なくらいにエネルギッシュな感情表出といった構成要素が複雑に錯綜するように散りばめられていて独特の趣きを呈していますが、その中から、まず手始めに交響曲第3番と第5番を収録した一枚を聴いてみました。

交響曲第3番は1941年に作曲されたウィリアム・シューマンの出世作で、かつてバーンスタインがニューヨーク・フィルと録音した演奏などが知られています。交響曲第5番は1943年の作曲に係る弦楽オーケストラのための交響曲で、これは古典的な交響曲の枠組みにジャズを巧妙に融合させた名作です。

それで聴いてみると、交響曲第3番は全体的に速めのテンポによる正攻法な表現で、ある意味スマートに割り切ったような演奏だなという印象。ここでのシュウォーツ指揮シアトル響の演奏はオーケストラの体質にもよるのか、パワフルなアンサンブル展開とカラフルな色彩感に基づく、とても聴き映えのする演奏である反面、スタイリッシュでドライな演奏でもあるがゆえ、時に派手派手しさが勝ち過ぎ、やや外面的で能天気な演奏に聴こえなくもなく、例えばバーンスタイン/ニューヨーク・フィル盤のようなウェットな音楽の味わいなどは、どうも希薄という感が否めませんでした。

続く交響曲第5番ですが、これは1991年に録音されているようですが、2005年録音の第3番から続けて聴くと音質が一回り冴えない印象を感じます。どうも一昔前の安かろう悪かろうの時代のナクソスの典型的な音質という感じで、冒頭のヴァイオリンのフォルテッシモ開始からもっさりとした響きが物足りなく、その後の(1:06)からの第2テーマも、スコアにfが3つ指定されているにしては迫力不足な印象を否めず、以後も全般にモヤッとした響きに終始し、少なくともウィリアム・シューマンがこの作品に込めたと思われる、例えば20世紀アメリカの大都市の熱気のようなものは、さほど伝わってこないこともあり、聴いていて今一つピンと来ない演奏でした。

そういうわけで、この一枚に関しては正直やや物足りないような感じでしたが、挽回を期待して残り4枚のCDをじっくり聴いてみたいと思います。

夏目漱石の小説「こころ」


夏目漱石の小説シリーズ、今回は「こころ」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-22

「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増(まし)かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

「こころ」は1914年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「彼岸過まで」「行人」とともに漱石の後期3部作を構成する作品です。いわゆる近代的自我に基づくエゴイズムと、人間としての倫理観との、激しい葛藤に苦悩する明治の知識人の姿が描き出されている、というように一般に読まれています。

しかし「こころ」に関しては少なくとも日本人であれば、どういう小説なのか知らないという人の方が稀だと思われます。ですので、さっそく本題の、ベートーヴェンとのアナロジーの方に入ります。すなわち、漱石の「こころ」はベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」に類似する特質を多分に保有しているように私には思える、という話です。

両作品の共通点ですが、まず両者の主要作中の中でも畢生の名作として一般に認知されている点、両作品とも作者の当初の構想から外れた形での完成となっている点、それがため一般的な「名作」的評価とは裏腹に、彼らの主要作中で際立った「問題作」としての側面をも有している点、そして、両作品ともに「人は他者と心を通じ合えるか」という命題がテクスト形態で明示されている点、以上4点を挙げたいと思います。

順番にいきますが、まず両者の主要作中の中でも畢生の名作として一般に認知されている点については、特に異論の余地はないかと思います(ただし真に文学的ないし音楽的に名作かどうかに関しては後述のように議論の余地がある)。「こころ」に関しては高校の授業における課題図書として概ね必読となっているという状況、「第9」に関しては日本のコンサートホールにおける年末の風物詩となっているという状況が、それぞれ裏付けとなり得るでしょう。

つぎに両作品とも作者の当初の構想から外れた形での完成となっている点ですが、「こころ」に関しては当初の漱石の構想においては複数の短編を執筆した上で、それらを「こころ」というタイトルの小説に一本化する予定だったところ、その第一話であるはずだった短編「先生の遺書」が当初の予期を超えた長編となってしまったため、この一編だけを三部構成に直し、あらためて「こころ」として出版することにした、という経緯があります。

「第9」ですが、ベートーヴェンは当初、終楽章に声楽を含まない器楽のみの編成を予定し、声楽を用いた楽章は交響曲第10番として構想していた「ドイツ交響曲」に組み込もうというアイディアを考えていたことが知られています。しかし諸般の事情により、これら2つの構想が統合され最終的に現在の交響曲第9番としての形に落ち着いたという経緯があります。

このように、「こころ」と「第9」は漱石ならびにベートーヴェンの当初の作品構想から大きく修正をかけられた形で最終形に行き着いたという特異な経緯を持ち、その観点で彼らの主要作中でも異彩を放つものとなっている。このことから、今日の両作品に対する一般的な「名作」的評価とは裏腹に、彼らの主要作中で際立った「問題作」としての側面をも有しているという状況、これが第3の共通点です。

まず「第9」ですが、この交響曲の作曲当時の評価は必ずしも芳しいものではなく、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられたものの、何といっても交響曲としては構造的に観て破綻すれすれである終楽章の存在が大きなネックとなり駄作という烙印を押されてしまうケースも多く、このためベートーヴェン自身でさえ終楽章を器楽のみの編成に改訂する計画を立てていたことも知られています。

「こころ」も同様に、上記のように漱石自身の当初のプラニングから大きく逸脱したこともあり、小説としての構成に多くの難があるという問題点が多くの識者により看破されており、かつて谷崎潤一郎なども指摘している通り、純粋に文学作品として観た場合、「こころ」は少なくとも漱石の主要作の中では駄作ないし凡庸な作品の部類に入るのではないかという見解も、かなりの説得力を帯びた意見として提起されているという状況にあります。つまり「第9」「こころ」ともに、一般の名作的評価からすると意外と思えるほどに、交響曲ないし小説としての構成に関して「問題作」としての側面をも少なからず持っているという構図が成立しています。

そして最後の、両作品ともに「人は他者と心を通じ合えるか」という命題がテクスト形態で明示されている点です。この点は私自身、上記3つの共通点以上に興味深い事実であると思っているので、少し念入りに書いてみたいと思います。

まず、「第9」の終楽章でベートーヴェンが用いた、フリードリヒ・フォン・シラーの詩作「An die Freude(歓喜に寄せて)」における一部分を以下に抜粋します。

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

シラーは周知のようにゲーテと並びドイツ古典主義の代表とされる詩人・思想家であり、18世紀後半のヨーロッパ社会に対し「自由・平等・博愛」といった人間精神の理念・あり方を提唱したことで知られ、前述の「歓喜に寄せて」においても友愛精神の歓びが高らかに謳われた内容となっています。

ここで、この記事の冒頭で引用した漱石「こころ」の中に書かれている文章の「私は死ぬ前にたった一人で好いから~」の部分を抽出し、以下のように上記シラーの歌詞と突き合わせてみます。

・漱石「こころ」:
「私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。」

・ベートーヴェン「第9」:
「地上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ」

この部分、双方ともに「人は他者と心を通じ合えるか」という命題が根底にあることは明らかですが、特に注目させられるのが、漱石の小説中にある「たった一人で好いから」というテクストと、シラーの歌詞にある「ただ一人だけでも」というテクストとが、ちょうど符合している点です。私には、この2つのテクストの偶発的とも思える重なり合いが非常に興味深く思えます。

むろん、この事実を表面的に捉えるならば、たまたまテクストが重なったという、それだけの話にも思えます。しかし、少しだけ深く「こころ」と「第9」の両作品に横たわる思想を俯瞰するなら、そういう表面的な符合だけに留まらない、両作品の潜在的な共通項が浮かびあがってくるのではないか、という風にも考えられなくもありません。

つまり、こういうことです。「こころ」という小説の水面下には、近代的自我より生ずる人間のエゴイズムを探求するという大きなテーマが横たわっている。というのも、「先生」は「社会の中で生きている」が、同時に「社会から独立した存在である」、という背反性を抱きながら、どのように社会の中で生きていけば良いのか、という疑問から発生する苦悩を抱き続けて生きているからであり、そのような、いわば近代的な思想ないし哲学上の問題を描いた小説が「こころ」にほかならないからです。

しかし、そもそも漱石を含む明治期の多くの文学者が題材とした「近代的自我の思想」とは何なのか、という問題に目を転じると、これはもともと封建社会が倒壊し近代の到来したヨーロッパにおいて、それまでの封建主義的な価値観と決別し、自由に自分の意思を表明し、自己の行動を決定することが可能になった個人が自覚した、自由で平等な個人の思想が、時代を遅れて日本に流入したもの、と捉えられている。そして、その思想の近代ヨーロッパにおける大きな源泉として、シラーの提唱した自由思想が横たわっているという事実がある。そもそも「近代的自我」の最初の発見者は、周知のとおりデカルトですが、そのデカルト哲学の最大の継承者がカントであり、そのカント哲学に傾倒し自己の思想に積極的に組み込んだ思想家がシラーその人でした。

そうであるなら、漱石の「こころ」とシラーの「歓喜に寄せて」とは時空を超えた理念の繋がりを示していると、言うことができるのではないでしょうか。そもそも説中に描かれる「先生」の自殺というのは、つまりは自己のエゴイズムに対する断罪であって、その動機は「自由・平等・博愛」といった近代の個人主義道徳に対するストイックな追求姿勢からくるものでしょう。それはシラーの提唱した理念と重なり合う面積が大きく、その限りにおいて漱石とシラーは同じ理念を地域・時代を違えて、異なる方法論で追求した作家である、とみなすこともできそうですし、そう考えると、上で書いたような偶発的ともいうべきテクストの重なり合いも、単なる偶然を超えた意義を帯びたものとして示されたもののように思えなくもありません。

以上、これまでベートーヴェンと夏目漱石とのアナロジーという切り口から、両者の主要作の逐一において相互に驚くほどの豊富な対応を孕んだ関係を保持しているという、私見に基づくトピックスを掲載してきましたが、それは今回の「こころ」をもって終了です。それぞれのジャンルにおいて後世に対し巨大な足跡を刻んだ異才が、洋の東西および100年の時代を超えて、類似する創作上の流れを辿ったという興味深い実例にならないだろうかと、少なくとも私は考えています。

ヴァント/北ドイツ放送響によるブルックナー交響曲第8番のサントリーホールでのライヴ


ブルックナー 交響曲第8番
 ヴァント/北ドイツ放送交響楽団
 Altus 1990年ライヴ ALT197
ALT197

アルトゥスから先月リリースされた、ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団の演奏によるブルックナー交響曲第8番のCDを聴きました。

収録されているのは1990年11月の東京・サントリーホール、北ドイツ放送響の来日公演のライヴです。この公演直前の10月にはチェリビダッケ率いるミュンヘン・フィルの来日公演もあり、演目も奇しくもブル8。そのミュンヘン・フィル来日公演の伝説的なブル8ライヴは今年4月にアルトゥスからリリースされ反響を呼んでいましたが、今度は同年のヴァント/北ドイツ放送響の伝説的なブル8ライヴの、まさかのリリースとあって勇んで購入しました。

さっそく聴いてみると、第1楽章の冒頭部はゆったりと開始し、落ち着いた気配から徐々にテンポに推進力と活気が付き始め、それでも決して音楽を軽からしめない、厳かにして静かな足どりで質実剛健に進められ、この楽章に秘められた言葉にならない深い情感が切々と奏でられていく様は聴いていて心が深く満たされる思いでしたし、なんと厳しく琢磨されたブルックナーなのだろうと初手から感嘆を禁じ得ませんでした。

第2楽章はもったいぶらない早めのテンポから音楽を過度に重からしめず、リズムが常に生き生きと躍動していること、それに、この推進的なテンポにして強弱の変幻や細やかなニュアンスが実に多彩であること、アンサンブルにおいて常にハーモニーを濁らせない意識が内声部に十分に払われながら、フレージングの流れが円滑に紡がれていくこと、こういったことが総じて、この楽章の高貴な美しさが、なんの虚飾もない姿で音化されていること、そのどれひとつ取っても並みでなく、ここでヴァントは奇を衒ったことは何一つしていないのに、こんなに新鮮な趣きを音楽を呈していることは驚きであり、まさに至芸という印象を禁じ得ません。

第3楽章はヴァントの文字通り面目躍如たる演奏内容で、その超越的な音楽の高みには聴いていて絶句せざるを得ませんでした。アンサンブルは前半の2楽章以上に精緻な合奏を追及し、そのオーソドックスなテンポからは考えられないくらいに途方もない情報量と驚異的なまでのハーモニーの遠近感が、その充実を極めていますし、これを盤石に維持しながら、クライマックスにおいては一糸乱れぬアンサンブルが凄まじい高揚感を示す、それでも音楽本来の透徹した美しさが損なわれていない、ヴァントならではの絶妙のさじ加減が素晴らしい。この世の音楽とも思えないまでの、至福の音の世界が披歴されています。

終楽章は冒頭から細部を克明に処理しながら粛々と進められ、決して遅くならないテンポから、あらゆる音が克明に刻みつけられていくような感覚が素晴らしく、彫りの深い音楽のプロポーションから、なんと新鮮な趣きで音楽が響くことか。ここぞという時に必ず弦の刻みが鋭いアクセントで、スピーディに処理されるため、峻厳な佇まいと深みを帯びた情感がたっぷりと漂わせているあたり、やはり並の指揮者にはない格調高い表現に打たれますし、スコアに誠実に、ブルックナーの肉声を音化するのだというような気迫にも打たれる。独自の音楽の均整美によって格調高く作品を描き切り、全曲を聴き終えて言い様のないほどの充実感に満たされた、ヴァント全盛期の至芸ともいうべき、圧巻というも生ぬるい、凄いブルックナーでした。

ブーレーズ/ニューヨーク・フィルハーモニックによるストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」全曲


ストラヴィンスキー バレエ音楽「火の鳥」全曲
 ブーレーズ/ニューヨーク・フィルハーモニック
 ソニー・クラシカル 1975年 SRCR9221
SRCR9221

さすがに年末は何かと忙しい、、ので、昨日に続いて今回も雑談。なお、またしてもブーレーズですが昨日とは全然べつの話題です。

先月カンブルラン/読売日響の演奏会でストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」の1910年版が取り上げられたのを聴きました。その感想はブログに書いていますが、それをホールで聴いていた時このブーレーズの録音した「火の鳥」のCDのことが、ふと思い出されたという話です。

と言っても、とくに演奏が似ているという話ではなく、思い出されたのは実はCDのライナーノートに書かれていた以下のくだりです。

今世紀の名作のひとつに数えられストラヴィンスキーの栄光の「3大バレエ」の先頭を飾る「火の鳥」。おそらく、クラシック・ファンといわれる人で、この曲を聴いたことがない、という人は、まずあるまい。もちろん、わたくし自身だって聴いたことがある、どころのはなしではないし、この曲についてかなり専門的な知識をもっていたつもりだった・・・。
 そう、まさしく「つもりだった」のだ、あのときまでは。あのとき、つまり1975年5月24日までの夜までは。この日はエリザベス女王の来日記念行事の一環であるBBC交響楽団の日本での最後の演奏会が行われた。もちろん指揮はブレーズで、場所は東京・NHKホール。
・・・
演奏会のプログラムは、ドビュッシーのバレエ音楽「遊戯」、ブレーズの新作「リチュエル--マデルナの追憶のために」、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」。このプログラムで、じつはわたくしが期待したのはまずブレーズの新作であり、ついでレコードの名演でおなじみのドビュッシー、そして、ストラヴィンスキーは、まあオマケだな、というような気でいたのだ。期待した2曲については、当然わたくしはそれなりの感想をもったが、ここはそれを述べる場ではないだろう。問題は「火の鳥」だ。

このライナーノートは音楽評論家M氏によるものですが、これを読んだとき、てっきり私は、この時のブーレーズ/BBC響の披歴した「火の鳥」の実演が、あまりに素晴らしかったので、それまで著者が同曲を知った「つもり」に過ぎなかったことを痛感した、みたいな、よくある評論の筋道なのかなと思いました。

ところが、、、

 エリザベス女王の写真とメッセージが冒頭をかざる豪華なプログラムには、バレエ組曲「火の鳥」・・とある。これはわたくしたちにもっともなじみ深い1919年版の組曲「火の鳥」である。もっとも、ブレーズが以前(1967年)にBBC交響楽団で録音した「組曲」は1911年版なので、そうした点では1919年版だということにいささか興味はあった。
 ところが、聴き進むにつれて、それは「聴いたことがない」火の鳥だということが分かった。だいいち、きわめて次元の低いはなしだが、「切れ目」がないのである。そして1919年版ではピアノになっているところでチェレスタが響く・・そして、わたくしはこのとき、はじめてストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」をほんとうに聴いたのだった。つまり、もちろんこのときの演奏が1910年の全曲版だったのだ
 正直なところ、それが全曲版だと知ったのは後のことで、そのときにはただ、1919年版とも、1911年版の「組曲」ともちがう「火の鳥」を聴いたのだが、それはだんぜん「違う」ものだった。・・・

・・というわけで、なんと著者が1910年の全曲版「火の鳥」自体を全く知らなかったという、驚くべき?オチでした。今では当たり前のように演奏されている1910年版が当時いかに人口に膾炙していなかったか、が伺われるエピソードだと思います。

なお、このピエール・ブーレーズ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏によるストラヴィンスキー「火の鳥」はブーレーズの代表盤のひとつとして有名な録音で、どのような聴かせどころであろうと徹底的に冷静なブーレーズの、とことんまで醒めた指揮ぶりが異彩を放つ演奏です。

ブーレーズ/ニュー・フィルハーモニア管によるベートーヴェン交響曲第5番「運命」


ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」
 ブーレーズ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
 ソニー・クラシカル 1968年 SRCR2510 
SRCR2510

昨日の続き、、というよりは、まあ雑談のような話になりますが、昨日ブログに掲載した読書間奏「指揮者の知恵」の中で、ちょっと細かいところで読んでいて疑問に思われるところもありましたと書きましたが、一応そのことについて簡単に。

疑問に思われたというのは、具体的には以下の記述部分(新書のP.29)になります。

 では、指揮者によって音楽はどのように違ってくるのでしょうか。ベートーヴェンの「交響曲第5番」の冒頭部分は、指揮者による演奏の違いが顕著にわかる例と言われます。「運命」という副題で知られるこの曲、「ンタタタ ターン、ンタタタ ターン」というモチーフ(主題)に聞き覚えのない方はいないでしょう。
 しかし、同じ「ンタタタ ターン」というフレーズでも、テンポが違うだけで、曲全体の印象がまったく変わってしまいます。全4楽章の演奏時間も、動機を「タタタターン」と軽快なタッチで歯切れよく提示するアルトゥーロ・トスカニーニの指揮では30分11秒、「ダッ、ダッ、ダッ、ダーン」とにぶい重厚感を感じさせるピエール・プーレーズの演奏では38分30秒と、8分以上の違いが出てくるそうです。これは、指揮者が楽曲をどのように読み取り表現したかというスタンスの違いから生まれるものです。

この部分の著者の趣意として、たとえ同じ曲でも指揮者が選択するテンポが違うだけで、曲全体の印象がまったく変わってしまう、ということを言いたかったことは文章を読む限り明らかだと思われます。それを受けて、テンポの速いトスカニーニの指揮とテンポの遅いプーレーズの指揮とで、同じ「運命」でも8分以上の違いが出てくる、と例示したのでしょう。

しかし、プーレーズの「運命」は第3楽章をABABAの5部形式で演奏しているため、ABAの3部形式のトスカニーニの「運命」と比べた場合、もし全く同じテンポで演奏しても全曲タイムに差が生じるのは自明なので、残念ながら比較例として妥当とは思えず、この対比にブーレーズ盤を選択したのは著者の勇み足だったように思えます。

ちなみに「ピエール・プーレーズの演奏では38分30秒」とありますが、この全曲タイムはブーレーズがニュー・フィルハーモニア管とCBSに録音した「運命」のタイムと同一ですので、上の引用部において著者が念頭に置いたのは本CDに収録されている「運命」の録音とみなしてよいかと思われます。

なお、このブーレーズ/ニュー・フィルハーモニア管の「運命」の録音で採用されている第3楽章の5部形式は1966年に発表されたクラウス・カニジウスの研究論文(反復記号が除かれたのはベートーヴェンの不注意であるとするもの)に依拠するもので、それをブーレーズは全面的に受け入れた形で演奏しています。この第3楽章の反復は21世紀の今でこそ珍しくなく、特にピリオド志向の強い指揮者を中心に5部形式で録音される例も増えていますが、その論文にいち早く注目して録音を果たしたのはブーレーズの先見の明というべきでしょうね。

読書間奏「指揮者の知恵」


「指揮者の知恵 」
藤野栄介・著 学研新書

 G086

「この指揮者、絶対中身がないよ。こんな指揮者なんかについていけないよ!」
 指揮者という職業は、きらびやかで「絶対君主」的なイメージとは裏腹に、厳しい視線にさらされ続ける職業だとも言えます。「スマートにステージに上がって、おじぎをし、指揮台に立って指揮棒を振り上げれば、オーケストラはしもべのごとく彼に従って演奏する」という指揮者像は、実は、実際とはかけはなれたイメージに過ぎないのです。
 もちろん世界最高と言われるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のようなプロフェッショナル意識の高い集団であれば、(いつもとは言いませんが、)たいていの指揮者の言うことなら素早く理解し、さらにレベルの高い演奏を実現するものです。そうでなくても、「いいんじゃない、この指揮者がやりたいなら。まぁ、とにかくやってあげようよ」「いいよ、いいよ、なんでも。だって、仕事だから。とにかく楽譜通りの音を出してあげるよ。俺たちプロだから」など、音楽家としての自己よりも、指揮者に寄り添い音を奏でることを優先する楽員もいるでしょう。プロフェッショナルなオーケストラは世界に何百と存在し、そこに属する演奏家も十人十色で、様々な考え方や個性をもった音楽家がいます。指揮者にとって、一筋縄でいかないのがオーケストラという集団なのです。

本書は今年の10月に発売された新書で、オーケストラ集団を指揮棒ひとつでまとめ、人の心を打つ音楽を奏でるための方法を現役指揮者が公開する、というコンセプトに基づき、オーケストラの演奏家たちを率いて聴衆が感動する演奏に導くために必要な、指揮者の「リーダーとしての」資質、条件、知恵などが綴られた一冊となっています。なお、著者は本職のオーケストラ指揮者にして音楽プロデューサーであり、ロシアの国立サンクトペテルブルク音楽院にて指揮を学んだ経歴を有しています。

まず第1章「指揮者とオーケストラの基礎知識」で、クラシック音楽の面白さとは何かについて、著者の考えが簡潔に述べられています。その冒頭では、クラシック音楽に興味がない人と話をしていると「クラシック音楽は誤解されているなあ」としばしば思わされる、として、「スター指揮者が大げさに指揮棒を振って、それに一糸乱れぬオーケストラが従い、ひたすら美しい音楽を奏でることを目指している」と「誤解」されているようだということが述べられます。それに対し、クラシック音楽は決して耳に心地よいだけの音楽でないこと、心の葛藤や後悔、別れや悲しみ、そしてあきらめという人間の負の感情に触れるものが少なくないこと、耳に優しく美しい和音だけでなく、音と音とが調和せずにぶつかり、強い緊張感とどこへ向かうかわからない違和感を与える和音も、人々の人生を音楽で表現するには重要な要素であること、優れた作曲家(ベートーヴェンのような)は往々にしてそうした緊張感を伴う和声を重視すること、などが述べられます。

このあたりに関しては、本書の冒頭部において「クラシック音楽鑑賞が趣味でなくオーケストラの世界を遠く感じているかもしれない読者も対象とする」と明記されているため、そういった読者層に対する配慮という意味合いがあるのかもしれません。そのうえで、指揮者の仕事とは楽譜から作曲家のビジョンを読み取ることから、すべてが始まるものだということが、有名な指揮者の具体例を豊富に交えつつ語られてゆきます。

続く第2章「リハーサルで指揮者がすべきこと」では、指揮者がコンサートを作り上げる過程で最も長い時間を占めるリハーサルを通じて、指揮者のオケに対するリーダーシップがどのように発揮されるのかが、実例を交えて、あるいは「オーケストラを動かすのは指揮棒ではなく楽曲への想いの強さだ」といった著者の持論も交えて、分かりやすく論じられます。

第3章「オーケストラを一つの生き物とするために」では、まず冒頭部でクラシック音楽を消費型エンターテイメントのひとつと看做す近年の風潮に疑義を呈し、そのような風潮を過去に決定づけ、いわばクラシック音楽を資本主義・功利主義といった方向へ転換させた張本人である某有名指揮者を軽く非難したうえで、「楽しい」という一言だけでは言い尽くすことのできない広大かつ繊細で深い世界というものが厳然とあること、そのような演奏は指揮者とオケとが深いところでつながり、オーケストラが一つの生き物のようになって初めて可能であるということ、といった著書の音楽に対する考え方が秩序立てて記されていきます。

第4章「指揮者のカリスマ性」では、いわゆるカリスマ指揮者が過去いかにオーケストラに相対したかが、豊富な具体例を交えて記述され、最後の第5章「コンサートが始まり指揮者は瞬間に生きる」では、コンサート本番での演奏中に良い演奏を為すために指揮者はどのような点に意を払っているか、また払うべきなのか、についての著書の考えが述べられています。

本書を読んだ印象ですが、ちょっと細かいところで読んでいて疑問に思われるところもありましたが、全体的には優れたクラシック本の一冊として広く読まれるべき、あるいは読まれてもらいたい本だと感じました。なにより、素晴らしいコンサートを作り上げる過程というのが、いわゆる事務的な作業には程遠い、むしろ指揮者とオーケストラとの「闘い」に近いものである、というあたりの「本音」が、かなり赤裸々に書かれているあたりが、読んでいて非常に面白くて惹き込まれましたし、著者が指揮者であり現場体験が豊富なことから、そのあたりの指揮経験に基づいた教訓なりが端的に活かされているあたりも説得力を感じました。

・・ジョルジュ・プレートルは、リハーサルも本番と同じように、最初から全力でドライブをかけていきます。しかし延々と同じ方法でドライブをかけ続けると、オーケストラも次にどんなドライブが来るか予想ができるので、なぜか演奏が安定してきてしまいます。そうすると彼はさらに違うドライブをかけます。プレートルの指揮はとても「見やすい指揮」とは言えないので、とても演奏しにくく、オーケストラからは批判があがることもあるそうです。しかし、その演奏を聴いている聴衆には、非常に刺激的で退屈の余地のないとてもエキサイティングな演奏となります。・・

上記の部分、ちょうど私が聴きに行った先月のウィーン・フィル来日公演でプレートルが披露した演奏の感触と全く同じでしたので、読んでいて我が意を得たり!でした。

ゼペックのヴァイオリン演奏によるビーバーのローゼンクランツ・ソナタ


ビーバー ローゼンクランツ・ソナタ
 ゼペック(vn)、ベーリンガー(org)他
 Coviello 2009年 COV21008
COV21008

独Covielloから先月リリースされた、ダニエル・ゼペックのヴァイオリン演奏によるビーバーのローゼンクランツ・ソナタ全曲のCDを聴きました。

17世紀の後半にザルツブルグ宮廷楽長として活躍したドイツ・オーストリア・バロックの大家ハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー、その代表作として知られるローゼンクランツ・ソナタ(ロザリオのソナタ)は聖母マリアの受胎告知に始まりイエス・キリストの誕生から受難、復活、昇天、そして聖母マリアの戴冠までが、計15の通奏低音付きヴァイオリン・ソナタで音画的に描写された作品です。この第1~15番のソナタに守護天使の祝日のために書かれた無伴奏ヴァイオリンのパッサカリアが「第16番」として加えられてローゼンクランツ・ソナタを構成しています。

このソナタ集におけるビーバーの作曲意図は現在でも謎に包まれていますが、ビーバーの自筆譜には15曲のソナタに対応した、「ロザリオの祈り」を意味する15の銅版画が添えられていることから、この作品は今日「ローゼンクランツ・ソナタ(ロザリオのソナタ)」という通称で呼ばれています。

本CDでヴァイオリンを演奏するダニエル・ゼペックはドイツ・カンマー・フィル・ブレーメンのコンマスを1993年から務めながらソリストとしての活動も行い、2004年からはアルカント四重奏団のヴァイオリン奏者としても活躍中の辣腕ヴァイオリニストですが、彼の演奏するCDとして最近リリースされたロベルト・シューマンのヴァイオリンとピアノのための作品集が大変に魅力的な演奏でしたので、今回のビーバーのアルバムも購入してみたくなりました。

それで聴いてみると、この作品の限られた器楽構成で展開される音響世界の、途方もない豊かさに対して新鮮な驚きを禁じ得ませんでした。ここでゼペックは持ち前の快刀乱麻なボウイングの切れ味とダイナミックな表現力を存分に駆使して、たった一つのヴァイオリンを基本に奏でられる音楽とは思えないくらいに壮大にして奥行きのある音画的世界を描き出していて惹き込まれます。

このビーバーのソナタに対しては卓抜した演奏テクニックが不可欠であるということがよく言われるところですが、ゼペックの場合、単にテクニックが万全というだけでなく、このビーバーのソナタに対する彼自身の強い思い入れ(これについてはライナーノートでゼペック自身により語られています)が下敷きにあってのものだろうと感じました。録音ロケーションであるドイツ・コルンラーデ教会の深い残響の味が宗教的な荘厳さを助長し、それをSACDの高音質が引き立てています。

なお、ここでゼペックはビーバーの時代にヴァイオリンの名工として知られたヤーコプ・シュタイナーの製作になるヴァイオリンを使用していますが、さらに3本のシュタイナー・ヴァイオリンを曲ごとに使い分けて演奏しています。これについてはライナーノートにゼペック自身による説明があり、いわくローゼンクランツ・ソナタに特有の変則的調弦法(スコルダトゥーラ)に十分に対応するには一つのヴァイオリンでは間に合わないためということのようです。

なお通奏低音の演奏者はヴィオラ・ダ・ガンバがヒレ・パール、テオルボがリー・ サンタナ、チェンバロ&オルガンがミヒャエル・ベーリンガーです。

バーンスタイン/コンセルトヘボウによるマーラー交響曲第9番


マーラー 交響曲第9番
 バーンスタイン/アムステルダム・コンセルトヘボウ
 グラモフォン 1985年ライヴ POCG-1104/5
POCG-1104

レナード・バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏によるマーラー交響曲第9番のCDを聴きました。

稀代のマーラー指揮者バーンスタイン最晩年のマーラー演奏の精華の一つ。そんな説明も不要なくらい有名な録音です。

何故このバーンスタイン盤を聴きたくなったかと言いますと、私が先週サントリーホールで聴いたゲルギエフ/ロンドン交響楽団の来日公演・マーラーの交響曲第9番の演奏会の際にロビーで購入した公演プログラム冊子に「ゲルギエフ、マーラーを語る」というインタビュー記事が掲載されており、その中でゲルギエフが自身のマーラー解釈における「バーンスタインからの影響」について語っていたからです。

2010-12-05

このインタビューの中で、「LSOにはバーンスタイン、アバド、ティルソン=トーマスらと築いてきたマーラーの伝統がありますが、そうした伝統の重みを感じますか?」という問いに対し、ゲルギエフは以下のように答えます。

 私は3人とも親交がありますが、特にバーンスタインからは多くを学びました。ある時、ゆっくりランチをご一緒する機会があり、マーラーやショスタコーヴィチをはじめ、いろいろな作曲家について語り合うことができました。バーンスタインは、私を含むロシアの若い世代の指揮者たちがチャイコフスキーやショスタコーヴィチをどのように理解し、特定のパッセージをどのように解釈しているかについて知りたがっていました。その代わりとして私はマーラーについていろいろと話をうかがうことができたのです。それはたとえばメトロノーム表示について、弦楽器のサウンド、楽章間のバランス、親密な部分と外向的な部分のバランスなどについてでした。5時間以上にわたって、食事やワイン、ウィスキー、そしてバーンスタインはタバコを吸いながら議論は尽きませんでした。この体験は私にとって、マーラーはもちろん、ショスタコーヴィチの交響曲ツィクルスについての理解を深めるのに大きく貢献しました。
 私としてはバーンスタインほどの有名な音楽家が、若い世代の指揮者から話をききたいということ自体が驚きでした。当時私はまだ34か35歳で、ショスタコーヴィチの交響曲でさえ、まだ全部指揮したことがなかったのです。ちょうどキーロフ歌劇場の音楽監督に任命されたばかりでしたが、バーンスタインはキーロフの伝統についても詳しく、話はロシアの作曲家のみならず、キーロフおよびサンクトペテルブルクの歴史に影響を与えたヨーロッパの作曲家にも及び、興味深いものでした。・・

こういった親交がゲルギエフとバーンスタインとの間にあったという事実を私は恥ずかしながら知らなかったので、このインタヴュー記事を読んで意外の感に打たれました。

表面的な印象だけ見るなら、両者のマーラー解釈は接点が薄いようにも思えます。たとえば演奏時間レベルだけで比べても先日ゲルギエフが実演で披歴したマーラー9番は全体で80分程でしたが、バーンスタイン/コンセルトヘボウのマーラー9番は全体で90分。それだけ基調とするテンポ感に開きがありますし緩急の展開の仕方やハーモニーの構成においても比べてみれば相違点は幾らでも挙げられるように思われます。その意味では似ていません。

その限りではゲルギエフは決してバーンスタインの真似ごとをしていないし、先日のマーラーは紛れもなくゲルギエフならではの独創性に富んだ表現でしたが、そういったスタイル以前の姿勢なりビジョン、あるいはマーラーを演奏するモチベーションにおいて、彼らのマーラーの間に一定のアナロジーが存在するとみなすことはインタヴューでゲルギエフ自身がバーンスタインから影響を受けたと語っているからしても、おそらく的外れではないと思われます。特に私が実演で感じた、ゲルギエフの情念を知的にコントロールすることの巧さというか、情念に足元をすくわれない知的な構成力に関しては、彼の今までのロシア音楽に対するキャリアで培ったというだけでなく、もしかバーンスタインからの影響力も少なくないのかも知れませんし、何より、どちらも表面的にアンサンブルをブラッシュアップすることに意を置いていない。そんなことより、例えば作品の深いところから湧き上がる情念が音楽に昇華される際に立ち昇る、名状を超えた美に対する、飽くなき追及姿勢において共通する理念があるように私には思えます。

それにしてもバーンスタイン往年のマーラー解釈というのは21世紀の現在、私の思っていたよりも、ずっと多くの指揮者に影響を及ぼしているのではないかという気がします。

今年はバーンスタインの没後20年の区切りの年ということで、復刻CDの発売、テレビの特集番組、音楽雑誌の特集記事といった形で、バーンスタインが後世に残した仕事への、正当な評価に基づく、敬意に満ちた企画が多く打ち出されているのを目にします。バーンスタインのマーラーを愛好する聴き手の一人として、このような状況を、とても嬉しく思います。

ロンドン交響楽団の来日公演(サントリーホール 12/1)の感想


昨日(12/1)のサントリーホール、ゲルギエフ率いるロンドン交響楽団の来日公演の感想です。

2010-12-02

当夜の演目はマーラーの交響曲第9番のみ。オーケストラ編成は16型、配置は向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べたゲルギエフ常套の変則型対向配置でした。

第1楽章は冒頭のピアニッシモから低弦を強めに鳴らして堂々と始まり、最初のトッティでの深々としたアンサンブルの鳴動力といい、楽章を通じて常に重厚味を帯びたフレージングの訴えかけの強さ、ハーモニーの充実した厚み、いずれも素晴らしく、音楽が進むにつれて複雑に入り組んでいくマーラーの楽想にピタリと照準を合わせながら、アンサンブルの重低音の強烈な押し出しと、高音部の熾烈な色合いとの、劇的な交錯ぶりが目覚ましい効果を上げていき、聴いていて胸を激しく揺さぶられんばかりでしたが、このあたりは第1ヴァイオリンとチェロを隣接させ、コントラバスも含めて重低音と上声部との緊密な連携を可能としたゲルギエフ・シフトの賜物というだけでなく、ロンドン響の高性能アンサンブルをゲルギエフが掌握し切って、自身の思い描くマーラー像を構築していくという自信に満ち溢れた指揮ぶりあっての表現とも思えます。あの重量級のオケがまるで一つの楽器と化したようにゲルギエフの指揮(タクト無しの素手振り)にぴたりと反応する様は聴いていて圧巻の一言でした。

もっとも、ここでのゲルギエフのスタイルはマーラーの情動の激しさを赤裸々に音化するスタイルとも一線を画するものでした。なぜなら、常にアンサンブルの重低音部に強固な存在感を主張させながら、全体的に細かいテンポの変化が抑制された、少し速めの、どっしりと安定したテンポが基調とされ、緩急のコントラストも控えめに処理されていたからで、言うなればゲルギエフがロシア音楽で培った骨太な構築の造型バランスがマーラーにおいて絶妙な形で打ち出されているような行き方でした。

このあたりゲルギエフの持ち味がマーラーに巧く溶け込んでいるように聴いていて感じられましたし、その独創性はクライマックスでの音響バランスなどにも明確に反映されていました。例えば中盤のクライマックスの第201小節あたりなど、そのカタストロフのエネルギーは尋常一様のものでなく、それこそ身の毛のよだつようなクライマックスを形成し、聴いていて思わず息を呑みましたが、このとき弦低声部に聴かれたフレージングの、まるで人間の死に際の呻き声のような恐ろしさを帯びた響きはただごとでなく、これを耳にして私は、この部分にスコア上コントラバスだけにフォルテ記号が3つ与えられている(他は全て2つなのに)ことの、積極的な意義のようなものが、このゲルギエフの演奏により初めて理解し得たように思えました。

続く第2楽章も前楽章からの重みを引き摺るような演奏展開で、この楽章特有のおどけた表現を巧みに描き出そうというよりは真面目一筋に粛々とアンサンブルの歩を進めるという風であり、そのアイロニカルな楽想からすると音楽の表情が今一つ乗り切れない据わりの悪さを聴いていて抱いたのは事実ですが、ここは敢えてゲルギエフ一流のシリアスな解釈で押し通した感があり、それはそれでひとつの解釈として尊重したい気がします。第3楽章では冒頭から速いテンポなのに重量感の強く打ち出されたアンサンブル展開の猛烈なまでの迫力に圧倒させられ、ここぞという時に畳み掛けられるアタックのアグレッシブでワイルドな表現力も素晴らしく、劇的な加速を示したコーダに向かい重量級のアンサンブルが一糸乱れず驀進する様には壮絶なものがあり、これには聴いていて思わず鳥肌が立つのを覚えたほどでした。

そして最後の終楽章は、聴いていて呆気に取られんばかりの美しさに満ち溢れた、超越的な音響展開がホールに満ち溢れ、こんなマーラーが可能なのかという驚きに当てられた状態で聴き尽し、そして聴き終えて言語を絶するほどの感動に捉われました。この楽章で披歴されたゲルギエフの表現というのは凡庸な指揮者のマーラーに聴くような外面的な美しさとは一線を画した、まるで音の中から人間の悲しみが湧き上がるような美しさであり、人の悲しみの深淵の持つ美しさであり、苦悩や悲哀といった濃厚な感情世界を(回避するのでなく)突き抜けてくる美しさとでもいうべきものであり、この終楽章の持つ深度に合い相応しい美しさというべきものでした。

ここでもゲルギエフの運用は緩急の揺さぶりを控え目としながら、音響全体の密度のコントラストが絶妙に強調されていて、ここぞと言う時には苛烈を尽くした壮絶な感情の猛りと爆発を容赦なくぶつけてくるし、それが沈静するときには限りない沈静を示す。強弱のレンジが広いというだけでなく、響きの肉厚それ自体がマーラーの記した感情配列に従って自在に伸縮するとでもいうような、しなやかな表情推移の妙があり、その意味では、まるでアンサンブルが生き物のように呼吸するような感さえある、、そして、それを聴いていて思ったのは、ゲルギエフが情念を知的にコントロールするのが実に巧い指揮者だということです。いわば情念に足元をすくわれない知的な構成力を体内に確立させている、というべきでしょうか。

考えてみれば、これまでの彼のレパートリーは基本的に、それこそ深々とした人間的情念を湛えた、ロシアの近現代の作品群が中核なのであって、そういったあたりの作品を積極的に相手にしてきた以上、おそらく情念の深いところにある急所に対する表現力が練磨されるのではないか、、、そのあたりの他の指揮者と隔絶したゲルギエフの持ち味がマーラーに絶妙な形で持ち込まれた結果、あのような強固な構成力と深々とした情念的訴求力とを兼備した、途方もないマーラーが立ち現われたように思えてならない。そもそも、この終楽章の音楽がもつ抒情性と悲しみには言葉を超えたものがあり、人間の感情を究極まで磨きあげると、これほどの美になるという見本のような楽章だと私は思っていますが、この楽章を実演で耳にして、ここまで背筋が痺れるような感覚を受けたのは初めての体験だったし、最後の最弱奏が澄みきった浄化の世界に誘われるかのように、彼岸の彼方から聴こえてくるような感覚に捉われたのも初めての体験でした。

良い意味で、私の予想を圧倒的に裏切るマーラーでした。ゲルギエフの実演を聴くのは今回が4回目で、過去はすべて演目がロシアものでしたので、そのあたりの感触からロシア風のコッテリとしたマーラーをイメージしていたところ(今にして思えば、なんと安直な考え方であったことか)が、聴いてみたら私の安易な想像の遙か上の高みをいく超弩級の演奏だった、、本当に何年かに一度、実演で聴けるかどうかというくらい、素晴らしいマーラーでした。

ロンドン交響楽団の来日公演(サントリーホール 12/1)


今日はサントリーホールでロンドン交響楽団の来日公演を聴いてきました。

2010-12-01

指揮者はワレリー・ゲルギエフ。演目はマーラーの交響曲第9番でした。

今年秋の怒涛のような外来オーケストラの来日ラッシュも、ようやく一区切りという感じですが、私が特に聴いておきたかったオーケストラは今日のロンドン響の公演をもって一通り聴けました。今日は演目的にも、先月のウィーン・フィル来日公演で予定されていたマーラー9番がサロネンのキャンセルで流れていたので、ちょうど良いタイミングでした。

感想は後日あらためて出しますが、今日のマーラー9番では、おそらくゲルギエフひとりのみが為し得るのではないかと思えるほどに独創的な演奏が披歴され、聴いていて驚嘆の念に打たれましたし、聴き終えての余韻の深さも尋常ではありませんでした。その意味で私の想像の遙か上を行くような、ものすごいマーラーでした。

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