カンブルラン/読売日響の演奏会(サントリーホール 11/29)の感想


昨日(11/29)のサントリーホール、カンブルラン/読売日響の演奏会の感想です。

オーケストラ編成は最初の「ペレアスとメリザンド」交響曲と最後のシューマンが14型、それ以外は12型、配置は第1ヴァイオリンとヴィオラを対向させた「ドイツ式」でした。

まずドビュッシー作曲コンスタン編曲の「ペレアスとメリザンド」交響曲が演奏されました。これは現代の作曲家マリユス・コンスタンが1981年に編曲した、ドビュッシーの同名のオペラ作品の音楽を素材とする管弦楽作品として知られています。交響曲というよりは交響詩に近く、概ねオペラでの素材が時系列的に配置された構成で、ゴローによるメリアス殺害の場面とか、最後のメリザンドが息を引き取る場面など、原作オペラでの中核的なシーンがダイジェストのように次々と再現されていきます。

オペラ作品の管弦楽作品化の例としてはリヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」の組曲版あたりが最も有名だと思いますが、このコンスタン編曲の場合、オペラ全5幕の流れのようなものに忠実であり、原作の音楽を疑似的に体験できるという点では、最も優れた編曲作品のひとつだということを、当夜のコンサートで実演を耳にして(私がコンサートで聴くのは当夜が初めて)実感できた気がします。むろん、言ってみれば「いいとこ取り」であって、あの原作のオペラを劇場で観る感銘には及ぶべくもないとしても、演奏に対するカンブルラン/読売日響のディテールを疎かにしない丁寧な音楽造りもあり、その非常に圧縮された濃密な音楽のエッセンスが聴いてきてじわじわと効いてくる、そんな新鮮な印象を覚えました。カンブルランの就任披露演奏会以来の「ペレアスとメリザンド」シリーズの有終の美を飾る、とても印象深い演奏でした。

続いてコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲が、ミュンヘンの女流ヴァイオリニスト、ヴィヴィアン・ハーグナーのソロで演奏されました。

これはコルンゴルトが1930年代に作曲した幾つかのハリウッド映画音楽の素材から編まれた曲。よっていかにも映画音楽を思わせるメロディの美しさと華やかなインパクトに満ちていて、いわば作品自体が半分くらいムード音楽の範疇にあるがため聴き終えて強烈な余韻の残るというまでには至らずとしても、何よりシリアスになりすぎないハーグナーのヴァイオリン・ソロの心地よい解放感が素晴らしく、この作品の演奏の規範的な在り方として称賛されるべきものだと思いました。

次のマーラー作曲ブリテン編曲「野の花々が私に語ること」ですが、これはブリテンが1941年に、マーラー交響曲第3番の第2楽章を、2管編成に縮小した以外ほぼ原曲に忠実に編曲したものです。21世紀の現在でこそマーラーの3番はメジャーな演目のひとつとしてコンサートで頻繁に演奏されていますが、少なくとも編曲当時の20世紀中盤においては、その型破りの長大さもあって、コンサートで演奏される機会にほとんど恵まれなかったようですので、こういったコンサート・ピースの形での編曲の必要性が生じたのでしょう。

その意味では、今日では作品としての使命を既に終えていると解釈することもできるとしても、やはり実演で耳にすると、例えば大編成の原曲の味わいが小規模な編成で同じように再現されている様を目の当たりにしてブリテン練達の作曲の腕前に改めて感服させられたり、音量を恣意的に変更できるCDだと見逃しがちな、原曲と一味ちがう編曲の良さを発見したりなど、いずれもコンサートならではの体験でした。

最後のシューマン交響曲第4番ですが、これは1841年の第1稿での演奏でした。この版の採用自体は今日では必ずしも珍しくなく、90年代のアーノンクールの録音を皮切りに、とくにピリオド志向の指揮者により複数の録音がリリースされていますし、実演で演奏される機会もそこそこ確保されています。

しかし当夜の公演のように、このシュマ4第1稿をメインディッシュとばかりプログラムの最後にどっかり乗せたのは過去あまり例がないような気がします。カンブルランは最近のインタビューで「シューマンがこの作品を最初に書いた際には、改訂版で使用するよりも小さな編成のオーケストラを使っていました。私がここで挑戦するのは、この交響曲を、大編成の、場合によっては木管を倍管にするマーラーの交響曲のようにではなく、その反対に、ブリテンがやったように小さな編成で演奏することです」と語っています

であれば、ここでは上記のブリテン編曲マーラーと同じことが言え、つまり音量を恣意的に変更できるCDだと見逃しがちな、小編成規模のアンサンブル展開ならではのセンシティブな部分を、当夜の実演を通して体感できたことが何よりの収穫でした。確かに、この第1稿が決定稿に対して遜色すると一般に言われている側面、例えば交響曲の領域に足を踏み入れたシューマンの試作品という性格を残している点とか、いまだベートーヴェンの模倣の域から抜けきれずにもがいているような気配とか、若くシューマンの煮えたぎった情熱が剥き出しの状態で投げ出されたような、交響曲としての造形感覚の危うさ、そういった要素はあるにしても、当夜のカンブルラン/読売日響のアンサンブルが細部まで丁寧に組まれていたこともあって、厚塗りスタイルでオーケストレーションが洗練された決定稿よりも、室内楽的な味わいというのが第1稿の方が格段に高いこと、その事実を聴いていて改めて認識させられましたし、この第1稿を書いたあとシューマンが室内楽の方面に傾倒していった理由が何となく分かるような気がしましたし、私が今後この第1稿をCDなり実演なりで耳にする機会があったときも、当夜のコンサートから得た印象が少なからぬ影響を及ぼしそうな気がします。

あらためて当夜の演目設定をふりかえると、実は4曲とも「決定稿」という強大な存在があるがゆえに普通あまり光の当たらない秘曲的な位置づけにある作品であって、それらを確信犯的に並べたという、かなりチャレンジングな演目設定だということに気付かされます。前半の2曲はオペラないし映画に基づく音楽を普遍的なコンサート・ピースに置き換えたような作品だし、後半の2曲はというと、いずれもロマン派の有名なシンフォニーの「異稿」というだけでなく、通常だと大きな編成で演奏されてしかるべき原曲に対し、敢えて室内楽的な規模で演奏するのに適したオーケストレーションを提示することで、原曲に対する既視感が薄らぎ、新鮮な目線で作品を眺める機会がもたらされる、、、

こういったチャレンジングな演目設定というのは、カンブルラン体制になってからの読売日響の一つの大きなウリになってきている感がありますし、この路線は今後も大事にしてもらいたいと思います。

カンブルラン/読売日響の演奏会(サントリーホール 11/29)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。

2010-11-29

指揮者はシルヴァン・カンブルラン。演目は前半がドビュッシー作曲コンスタン編曲の「ペレアスとメリザンド」交響曲とコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲(ソリストはヴィヴィアン・ハーグナー)、後半がマーラー作曲ブリテン編曲「野の花々が私に語ること」とシューマン交響曲第4番(第1稿)というものでした。

カンブルランが読響常任ポストに就任した今年4月以来、このコンビの演奏会は全種類の公演プログラムに足を運んでいます。それが今日で7種類目になりますが、いずれもプログラムビルダーとしてのカンブルランのコンセプトが反映された、ひとひねりある演目設定となっていて新鮮味を覚えます。

今日の演目設定、パッと見だと単にキワモノ的な作品を並べただけという風にも思えなくもないものですが、実際に耳にしてみると、このプログラムには確固としたビジョンが存在していて、こういうプログラムで聴くからこそ初めて視えてくる世界があるということを実感させられました。そのあたりの感想は後日あらためて出します。

<素朴な疑問>
その1:今日の演奏会で開演のベルが鳴った直後、非常ベルがホール内にけたたましく鳴り響いたんですが、あれは何?

その2:演奏が始まる前、今日も例の「拍手は指揮者のタクトが下りてからにして下さい」というアナウンスが入ったんですが、それは非常にいいと思うんですが、先週のカンブルランのハイドンの時のように、時々はタクト無しの指揮の場合もあるので、もう少し文言的に汎用性を持たせた方が良いのではないか?

チョン・ミュンフン/フランス国立放送フィルによるストラヴィンスキー「春の祭典」とムソルグスキー「展覧会の絵」



ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」
&ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」
 チョン・ミュンフン/フランス国立放送フィル
 グラモフォン 2007年・08年 4803653
4803653
 
グラモフォンから先般リリースされた、チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ストラヴィンスキー「春の祭典」とムソルグスキー「展覧会の絵」のCDを聴きました。「春の祭典」は1947年版による演奏で2007年3月に録音されており、「展覧会の絵」(ラヴェル編)は2008年12月に録音されています。
 
チョン・ミュンフンは2000年からフランス国立放送フィルの音楽監督を務めており、しばしば来日公演を行っていますが、私は2004年秋のミュンフン/フランス国立放送フィル来日公演をサントリーホールで聴きました。

2004-09-14

この時はプロコフィエフの組曲「ロメオとジュリエット」とサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」というプログラムでしたが、ミュンフンの鋭敏な指揮ぶりから展開されるアンサンブルの尖鋭な音色の快楽とオーケストラの舌を巻くほどのレスポンス感度などに聴いていて惹き込まれたものの、フランス系オケとしては肝心のパート同士のハーモニーの溶け合いの美しさが万全とは言い難く、そのあたりに軽い違和感を覚えてホールを後にしたことを覚えています。ただ、これは私の席がステージに近すぎたせいかなという気もしました。

今回リリースのCDは私が聴いた当時の公演と同様にロシアものとフランスものを併せた構成ですので興味を引かれて購入しました。

それで聴いてみると「春の祭典」は特に奇をてらわずオースドックスなテンポや強弱の動きをベースに、全体的にフランスのオケ特有のソフトでエレガントな響きの魅惑を重視するというよりは、むしろミュンフンの現代的な感性からくる尖鋭な造形感覚を前面に押し出したコンセプトの伺われる演奏で、実演時と同様にパート相互の溶け合いは今一つ物足りないもののフレージングの切れ味を重視した運用の爽快感と音響自体の洗練を尽くした魅惑と、ここぞという時に披歴されるエネルギー全開というくらいに強烈味の乗ったダイナミックな迫力の充実感、それにオケを完全に掌握した指揮者の棒で繰り広げられる大編成のオーケストラの巧みな表情の変化を伴う一体感に満ちたドライブを聴く愉悦味などいずれも素晴らしくて惹き込まれます。

これが「展覧会の絵」になると「春の祭典」同様やはりオースドックスなテンポや強弱の動きをベースとしながら、そこでの音色の現代的な尖鋭感を適度に保持しながらも、むしろ管パート同士の音色のブレンドを大事にしつつ柔らかくて美しい肌ざわりのハーモニーからとろける様な色彩の表出が随所に聴かれるなど、フランスのオケに我々が期待する魅惑的な響きの醍醐味が前面に現れ出し、いわばハルサイでのスラヴ的な色彩の強烈味の強調から一転ラヴェルの味わいを重視したようなアンサンブル展開が披歴されており、その切り替えの鮮やかさに驚かされるとともにこの作品を本場フランスのオケで聴く音響的醍醐味にすっかり魅了させられてしまいました。

この「展覧会の絵」を聴く限り、かつて私がサントリーの実演で聴いたサン=サーンスでの物足りなさは結局のところ私の席位置の悪さが要因なのかなと考えたりもしましたが、実演の2004年当時よりも2008年の録音時の方がミュンフンのオーケストラに対する掌握の水準が向上していて、このオーケストラの潜在的なポテンシャルをフルに引き出すまでに至ったのではないかという気もします。

久々にミュンフン/フランス国立放送フィルの充実度満点の演奏を堪能しました。このコンビの次回以降のリリースにも注目していこうと思います。

マリナー/アカデミー室内管によるハイドンの交響曲第6番「朝」・第7番「昼」・第8番「晩」


ハイドン 交響曲第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「晩」
 マリナー/アカデミー室内管弦楽団
 フィリップス 1980年 PHCP-9237
PHCP9237

新譜ではありませんが、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏による、ハイドンの交響曲第6番「朝」・第7番「昼」・第8番「晩」のCDを聴きました。先日サントリーホールで聴いたカンブルラン/読売日響の演奏会で、このハイドンのシンフォニー3部作が取り上げられ、新鮮な感懐に打たれましたので、CDでも久しぶりに聴いてみたいと思ったからです。

このマリナー盤に関しては、昨年の7月にブログに掲載した、ドラティ/フィルハーモニア・フンガリカによるハイドンの交響曲「朝」「昼」「晩」の録音を聴いた感想の中で、ドラティ盤と対照的なスタイルの録音の一つとして挙げていました。そのときは本格的なシンフォニー・スタイルのドラティ盤と対比する形で、モダン楽器の名手を揃えた室内オーケストラによる、各種木管ソロを含めた器楽的な表現力の冴えが楽しめる一枚として、このマリナーの録音を挙げていた次第ですが、この3部作を私自身が初めて耳にしたのが、実はこのマリナー盤にほかならなくて、何より一日の時刻の移り変わりを音楽で表現しようというコンセプトが親しみ易く、ひところ頻繁に聴いていたこともあって、このマリナー盤には今でも愛着を持っています。

周知のようにマリナーは1970年代に入ってからハイドンの交響曲を多く録音しており、このCDの演奏もその一環ですが、その録音方針は少しユニークで、「副題(ニックネーム)付きの作品だけ」を選んで録音するという方針で臨んでいました。

これはレコーディングの姿勢としては少々安易な発想とも思えますが、いま思うにマリナーの提案というよりはフィリップス・レーベルとしての方針に従ったまでではないかという気がします。というのも、ちょうどライバルのデッカがドラティ/フィルハーモニア・フンガリカによるハイドンの全交響曲の録音を着々と進めていた時期にあたり、それに対するフィリップスなりの対抗策として打ち出されたプランではなかったかと思えるからです。もうひとつの雄であるグラモフォンの当時におけるハイドンの録音スタンスが、ヨッフム/ロンドン・フィルを起用しながらザロモン・セット限定の録音に留まったことも含め、ことハイドンの交響曲の録音に関しては、当時の三大レーベル三者三様のレコーディング方針が鮮明に浮かび上がります。

このマリナーによる「朝」「昼」「晩」3部作は長らく廃盤状態だったところが最近になってオランダのレーベル「NEWTON CLASSICS」から復刻リリースされたみたいです。しかし30年前の録音なのに新譜と同じレギュラープライスなのは如何なものかという気はしますし、空前の円高の御時世、輸入盤の価格設定はもう少し安くてもバチは当たらないような気もしますが、どうなのでしょうか。

アルテミス四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1番と第12番


ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第1番、第12番
 アルテミス四重奏団
 ヴァージンクラシックス 2010年 6286590
6286590

英ヴァージンクラシックスから先月リリースされた、アルテミス四重奏団の演奏によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1番と第12番のCDを聴きました。

現在ベートーヴェンのカルテットの全曲録音を進めているアルテミス四重奏団としては今年4月にリリースされた弦楽四重奏曲第6番&第13番に続くリリースになりますが、その前回のCDが大変に素晴らしい演奏でしたので、今回の新譜も待ってましたとばかり購入しました。

それで聴いてみたところ、2曲ともに前回同様に素晴らしいベートーヴェンが披歴されていて大いに感銘を受けました。独特のスピード感のあるテンポから、アルテミスならではの贅肉を絞り抜いたような生々しさが導出する、ヴィヴィッドなハーモニーの肌合いが目覚ましく、それがため聴いていて至る所に驚かされるような表情の強さがあり、それを通して聴き慣れたベートーヴェンの作品が、まるで新しい姿で立ち現われたような新鮮な印象に事欠かない、そんな演奏となっています。

特に私が最も驚きを禁じえなかったのが、弦楽四重奏曲第1番の第1楽章、その展開部の山場(5:30)でのヴァイオリンの壮絶なくらいの絶叫ぶりで、正直これはいくらなんでも、このベートーヴェン最初期のカルテットに対しては、やりすぎではないかと、思ったくらいでしたが、しかし考えてみれば、このアルテミスの演奏で耳にする比類無いほどの音楽の高潮力と起伏感こそ、ベートーヴェンの音楽に潜在する革命精神に、絶妙に同調するものではないかという気もします。いずれにしても、この弦楽四重奏曲第1番という曲を、これほどに表現主義的なテイストで描画した演奏というのは覚えがなく、まるで初めて聴く作品のような感さえあり、実に新鮮です。しかし聴き手によっては少し息苦しさが勝ち過ぎ、この曲想を考えると、もっとリラックスした演奏で聴きたいと思っても不思議ではないかもしれません。

弦楽四重奏曲第12番の演奏においても、ベートーヴェン晩年の複雑に交錯する曲趣を、強度のリアリティをもって鮮烈に照射したような趣きが素晴らしく、聴いていて実に強く心を揺さぶられる演奏でした。

今回リリースのCDをもって、アルテミス四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の完成まで、あと第3番・第5番・第10番・第16番の4曲のレコーディングを残すのみとなりました。これまで同様、今後の録音の動向に大きな関心を寄せたいと思います。

クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィルによるブラームス交響曲第3番の1950年ライヴ


ブラームス 交響曲第3番
 クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィル
 IDIS 1950年ライブ IDIS6362
IDIS6362

昨日の更新で、独auditeから先月リリースされた「クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル RIASレコーディングス(1950-52)」について収録曲や音質面などにつき簡単ながら掲載したところですが、このボックスセットには確かにクナッパーツブッシュが1950年から52年にかけてベルリン・フィルと残した数々の著名な録音がカバーされているものの、てっきり含まれていると思ったら漏れていた録音というのも幾つかあります。

その中のひとつが、このコンビによるブラームス交響曲第3番の1950年ライヴで、これは昨日のエントリーの中でハイドン交響曲第94番「驚愕」の音質比較に用いたIDIS盤において、そのハイドンと組み合わされて収録されています。

このブラームスは、その演奏内容の奇形性において、ほとんど怪演・奇演の領域とも思えるものですが、そのインパクトは一度聴いたら容易に忘れられないほどに強烈です。

第1楽章冒頭の2つの強和音から極限的なテヌートをぶちかましておいて、第1テーマは超スロー、第2テーマも超スロー、展開部以降も超スロー、、、このあたり、まるで激流を無理矢理に堰きとめているかのような異様な緊迫感が立ち込めていて、聴いていて何だか恐ろしくなってくるほどですが、さらに驚かされるのがコーダの(19:48)からのフレーズの、ものすごい引き伸ばしで、これは最強奏の最中であるだけにインパクトがハンパでないですし、造型的にもメチャクチャもいいところですが、あの天下のベルリン・フィルをそのメチャクチャに引きずり込む、この指揮者の往年におけるカリスマの本領をここに聴く思いがします。

中間2楽章は第1楽章ほど奇形的ではないものの、スロー調の濃密感が際立ち、ことに第3楽章主部のチェロのむせかえるような音色の濃さは聴いていて強烈な印象を醸し出しています。

終楽章は第1楽章に拍車をかけたような表現で、スロー・テンポの音楽的密度が極地に達しますが、とりわけ(4:44)からの金管強奏展開においては、これ以上不可能というくらいにテンポを落とし、人間の断末魔をも思わせるもの凄い響きを表出せしめていて空恐ろしくなるくらいですし、ここまでくると単なる怪演・奇演では済まされない、その迫真の表現力に聴いていて唸らされます。

以上、このブラ3はクナッパーツブッシュがベルリン・フィルと残した一連の録音の中でも破格の演奏のひとつと思っていたので、これが今回のauditeのセットから漏れたのはいささか残念に思いました。

クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル・RIASレコーディングス(1950-52)


「クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
RIASレコーディングス(1950-52)」
 クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィル
 アウディーテ 1950~52年(含ライヴ) AU21405
AU21405

独auditeから先月リリースされた「クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル RIASレコーディングス(1950-52)」を購入しました。

このボックスセットにはドイツの名匠ハンス・クナッパーツブッシュが1950年から52年にかけてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮しベルリンで行った複数の演奏の、RIAS放送局(当時の西ベルリン・アメリカ軍占領地区の放送局)による録音がCD5枚に集成されています。

収録曲は以下の通りです(カッコ内は収録の年月日)。

1:ブルックナー 交響曲第9番(50-1-28)
2:シューベルト 交響曲第8番「未完成」(50-1-28)
3:ブルックナー 交響曲第8番(51-1-8)
4:ベートーヴェン 交響曲第8番(52-1-29)
5:J.シュトラウス 「千一夜物語」間奏曲(52-1-29)
6:ニコライ 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲(50-2-1)
7:ハイドン 交響曲第94番「驚愕」(50-2-1)
8:チャイコフスキー 組曲「くるみ割り人形」(50-2-1)
9:J.シュトラウス 「こうもり」序曲(50-2-1)
10:J.シュトラウス ピツィカート・ポルカ(50-2-1)
11:コムツァーク バーデン娘(50-2-1)
12:シューベルト 交響曲第8番「未完成」(50-1-30)
13:ブルックナー 交響曲第9番(50-1-30)

このうち1と2がティタニア・パラストでの放送録音、3~5がイエス・キリスト教会での放送録音、残りは全てティタニア・パラストでのコンサートのライヴ録音とされます。

これらの録音は音源的には特に目新しいものはなく、私も大体は所有済みですが、このアウディーテの復刻盤は放送局所有のオリジナル・マスターテープに基づく新リマスタリングに定評があり、事実auditeから昨年7月にリリースされた「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」でも音質が抜群に良くて驚嘆させられたことから、今回のクナッパーツブッシュのRIAS録音集も音質向上に期待が持てそうに思って買ってみました。

さっそく音質の比較ということで、上記7のハイドン・交響曲第94番「驚愕」の音質を、既出盤である以下のIDIS盤の音質と聴き比べてみました。

IDIS6362
ハイドン 交響曲第94番「驚愕」
 クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィル
 IDIS 1950年ライブ IDIS6362

比べてみると、上記IDIS盤の音質も概して悪い水準ではなく、かなり鮮明な解像度とシャープな音像感が確保されていて、録音年代からすれば十分に好ましい音質と思われるものですが、今回リリースされたaudite盤の方の音質は、ほぼIDIS盤と同等の解像度や音像感を確保していながら、さらにIDIS盤よりもボリューム感に優れるとともにハーモニーの立体感とソノリティの重厚な実在感が格段に高まっていて、IDIS盤での音質的な彫りの浅さが解消されている点に驚かされます。

しかし、audite盤の方は第1楽章の(1:13)で、IDIS盤には無い音潰れが聴かれるなど、それなりにノイズ感も高くなっている点が気になります。これはauditeがリマスタリングで用いたマスターテープの経年劣化によるものなのでしょうか。

そういうわけで、音響的なリアリティは今回のaudite盤の方が格段に優れている感じがして好ましいところですが、それに伴いノイズ感も向上しているあたりは少し悩ましい点になるように思います。

いずれにしても、この機会にクナッパーツブッシュ往年の録音の数々を、じっくりと聴いてみたいと思います。

夏目漱石の小説「行人」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「行人」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-21

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。
「しかし宗教にはどうも這入(はい)れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気(しょうき)なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」
 兄さんは立って縁側へ出ました。そこから見える海を手摺(てすり)に倚(よ)ってしばらく眺めていました。それから室の前を二三度行ったり来たりした後、また元の所へ帰って来ました。
「椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切るくらいだから」
・・・
 私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考えていない人の顔が一番気高いと云った兄さんの心を理解する事ができました。兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えた御蔭です。しかし考えた御蔭でこの境界(きょうがい)には這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。

「行人」は1912年から1913年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「彼岸過まで」「こころ」とともに漱石の後期3部作を構成する作品です。主人公の長野一郎の強迫神経症的な苦悩が描かれた作品ですが、その苦悩が狂気の域にまで達しているかのような描写において、漱石作品の中でも独特の凄味を帯びた作風となっています。

最初に読んだときに、これはシェイクスピアの「オセロ」に着想を得た小説ではあるまいかと感じました。オセロが一郎で、デズデモーナが一郎の妻お直、キャシオーが二郎。しかしイアーゴーに対応する人物がいない。それに別に奸計が展開されるわけでもないし、妻を殺害もしないし、自殺もしない。しかしシナリオの差違は別として、イアーゴーを一郎の持つ「強迫神経症」と規定するなら、かなり似ているようにも思えます。

いずれにしても、この「行人」は人生の深い悲劇性を描いた、漱石の円熟期の作品にして、ほとんど哲学の域にまで昇華されたかのような、人間の苦悩から生ずる精神の壮絶なまでの葛藤がリアルに描き切られていますが、それでもやはり人間の理性というものの勝利への確信のようなものが、ここには厳然として存在することが読んでいて窺えるように思えます。

この意味において、以下の作品評に対し私は強いシンパシーを覚えました。

もし、漱石が、アイロニーに満ちた自己認識を繰り返す登場人物のごとく、小説を書いていたとすれば、頭ばかりか胃も痛くなるような風通しの悪い作品を私達は読まされる羽目になっただろう。しかし、漱石は、狂気の領域に踏み込んだ登場人物の内面を書いても、どこか精神分析的な要素も内包させている。・・「行人」などの作品では奇妙な内面の風景が描写されているが、これが写生文の描写のスタイルである。主人公が狂気に至っても、なお語り手は余裕ある視点を保持しているのが、漱石作品の特徴である。
        「漱石を書く」島田雅彦・著 岩波新書

この「行人」という小説を、もしベートーヴェンの交響曲に喩えるなら何が妥当でしょうか? 交響曲第8番ではないでしょうか。なぜなら、ベートーヴェンの交響曲9作中で最も強迫神経症的な度の強い作風を持つのが、実は交響曲第8番にほかならないからです。

・・という風に書いて「なるほど、その通りだ!」と納得される向きが、どれほどいらっしゃるか、さすがに心許ない気がします。そもそもベートーヴェンの交響曲第8番の作風をして強迫神経症に結びつけるのは、あまり一般的でないので、ちょっと飛躍し過ぎでないかと思われるかもしれません。ので、そのあたりを少し詳しく書きます。

ここで強迫神経症的だと言うのは、おもにソナタ形式の構造的な観点に着目した話になります。ふつう交響曲の第1楽章というのはソナタ形式で書かれており、その2つのテーマについては、第1主題は「主調」、第2主題は平行調または属調、要するに(主調に対する)「近親調」という一般的な約束事があります。

例えばベートーヴェンの交響曲第1番で言いますと、主調はハ長調なので第1楽章の第1主題はハ長調、第2主題はというとト長調ですが、これはハ音の5度上なので「属調」にあたり、主調に対する「近親調」です。

あるいはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」で言いますと、主調はハ短調なので第1楽章の第1主題はハ短調、これに対し第2主題は変ホ長調ですが、これは楽譜の上で調号が同じ(構成音が同じで主音が違う)「平行調」にあたり、これもやはり主調に対する「近親調」です。

この点から交響曲第8番の第1楽章を見るに 主調はヘ長調なので第1主題はヘ長調、これに対し第2主題はニ長調となっていて、これは主調であるヘ長調の短3度下なので、平行調または属調とは言えず、第2主題が主調に対する「近親調」という約束事から逸脱した書かれ方となっていることが分かります。

これはつまり調性が推移する上での生理に反しているわけであり、突拍子がなく、いわば聴いていて何事か?という異様な感じになる。これが理由のひとつです。

第2の理由は、この第1楽章の展開部における、何か発作的とも思える調性の動かされ方です。例えばベートーヴェン交響曲第8番の音楽之友社ポケットスコアの作品解説を読みますと、この展開部が如何に異色であるかが、以下のように記されています。

・・主題回想の和声的構成は、ヴィオラのハ音の上に、その属七の和音に基礎を持つ断片が動くという不協和音を作り出している。この不協和音は現在では珍しくないが、ベートーヴェン時代としては大胆なものであった。すぐ最強音で提示部結尾の分散和音(ハの和音)が再現する。謎のようにふらふらするうちに、3回、主題回想が転調しつつ持ちこまれる。ついで激情の門ははねとばされる。あらあらしく鞭打つ弦と管の短いフガート風が短調で始められ、力強い発展をもたらす力へと転ぜられる。チェロとベースとのハ音の力強い跳躍から迫力をまし、fffの主要主題で再現部に入る。・・・

さらに第3の理由を加えるならば、ベートーヴェンの交響曲9作中で「fff」の音量指示が「勇気をもって」書き込まれたのが、この交響曲第8番「だけ」であるという事実(他の8曲はffが最大)が挙げられます。これも既存の約束事を大きく打ち破る大胆な書かれ方です。

そもそも強迫神経症における強迫症状とは、本人の意志と無関係に頭に浮かぶ、不快感や不安感を生じさせる観念を指すと言われますが、この自己のコントロールの及ばない感情の突発的な発生という点で、こうくるだろうという自己または他者の事前の予測が通用しない。ベートーヴェンの交響曲第8番は、敢えて当時のシンフォニーの生理に反する書かれ方が採用されたため、それが革命的であると同時に、その調性の動きにおいて、どこか生理的な違和感ともいうべき据わりの悪さも認められるものですが、こういった特徴が何かしら強迫神経症的な機微と相通ずるように思える、という意味で、漱石の「行人」とベートーヴェンの交響曲第8番とは互いに相通ずる性格を有しているように私には思われます。

以上、次回は「こころ」について書きます。

カンブルラン/読売日響の演奏会(サントリーホール 11/21)の感想


昨日(11/21)のサントリーホール、カンブルラン/読売日響の演奏会の感想です。

オーケストラ編成は前半のハイドンが8型、後半のストラヴィンスキーが16型、配置は第1ヴァイオリンとヴィオラを対向させたドイツ式配置でした。

前半はハイドンの交響曲第6番「朝」・第7番「昼」・第8番「夕べ」が3曲続けて演奏されました。一貫して速めのテンポで通されましたが、スタンスとしては意表を突いた仕掛けで聴かせるというより、むしろアンサンブルのまとまりを大事に、作品を有るがままに描き出そうとしている風であり、そこには音楽として何らのデフォルメ感がなく、したがって音楽の自然な感興の高まりとか、古典派の作品としての調和の取れた情趣といったものが、実に大切に演奏されているという感触において、聴いていてとても好感の持てる演奏でした。

もっとも古典派の作品としての調和と言っても、これらシンフォニー3部作はヴァイオリン、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、ファゴット、という6つのソロ・パートが縦横無尽に活躍する、実質的に言うならコンチェルト・グロッソですので、ちょうどバロック後期から古典派初期に移行する時期に位置する作品という意味では、やはり作風においてエキサイティングなまでの先鋭性に満ちているという性質を、当夜の実演を通じて改めて、まざまざと認識させられました。

やはり実演はCDで聴くより、ずっとエキサイティングでした。朝の爽やかな気配の立ち込めるような清々しい雰囲気の「朝」、旺盛な活動的ヴァイタリティに富んだ快活なムードの「昼」、夕闇の迫る落ち着いた風情に始まり嵐の暴風雨に終わるまで多様な楽想をもつ「夕べ」、、、この3部作は、総じてソロの細かいパッセージが多いことから、ともするとテクニカルを全面に押し出した、機能主義的な演奏に聴こえがち(少なくともCDで聴く限りは)ですが、当夜のカンブルランの披歴した演奏では、個々のソロ単体の演奏技術や表現力のみならず、ソロ以外のアンサンブルの連携に対する配慮も万全であり、それがためソロ一辺倒で聴かせるだけでない、アンサンブル同士の掛け合いの楽しさを聴き手に印象づける、そういった「活きた音楽」としてハイドンの音楽を表現した点が、何より素晴らしい聴きものだったと私には思えました。

カンブルランは事あるごとにハイドンに対する並々ならぬ愛着を表明していますが(現代音楽のエキスパートなのに?)、当夜も指揮棒を持たずに、いかにも楽しそうに指揮をしていて、それは後半のストラヴィンスキーでの(こちらでは指揮棒を手にしての)シリアスな指揮ぶりとは観ていて好対照でしたが、そのあたりの彼独特のハイドン愛のようなものが何か実直に発揮されたような、エキサイティングで、聴いていて心躍るようなハイドンでした。

後半のストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」ですが、これは1910年版の、大編成に基づくバレエ・オリジナル版での演奏でした。そもそもハイドンの最初期の交響曲と、ストラヴィンスキーのバレエ音楽とを組み合わせるプログラムというのも極めて珍しく、何しろハイドンとストラヴィンスキーとの間には150年もの年月の隔たりがあるわけで、これはモーツァルト 「ジュピター」とストラヴィンスキー「春の祭典」とを組み合わせた就任披露演奏会でのプログラム以上に個性的な感じを受けます。

そのコンセプトは、おそらく作風の先鋭性という共通項にあるのでしょう。ハイドンのシンフォニー3部作がバロック後期と古典派初期との接点の作品なら、「火の鳥」は後期ロマン派と20世紀音楽の時代との接点の作品。実際カンブルランは直近のインタビューで、当夜の公演に関して「ハイドンもストラヴィンスキーも当時、非常に先鋭的な作曲家でした。聴衆のみなさんにも、ハイドン、そしてストラヴィンスキーがいかに斬新だったかを感じていただけると思います」と語っています。

そのストラヴィンスキーの「火の鳥」は前半のハイドンとはまた違った意味で、20世紀音楽を得意とするカンブルランの面目躍如たる目覚ましい演奏内容でした。前半の、いわゆる魔法の庭園を舞台にバレエの物語が展開されるシーンでは、アンサンブルの細密感や響きの情報量が素晴らしく、フォルテッシモも含めて常に音響全体のバランスが考え抜かれていたり、細やかなフレーズさえも埋没するのが防がれたり、というのが積もって、「火の鳥」前半部の幻想的なロマンティズムや仄かな官能性といった、後期ロマン派的な音楽の魅力が仮借なく描き出されていましたし、後半の、カスチェイの魔宮を舞台にバレエの物語が展開されるシーンでは、今度は20世紀音楽としての型破りのダイナミクスの魅力を全面に押し出すという変わり身の鮮やかさで、「カスチェイの部下たちの凶暴な踊り」など、ここぞという時にはストラヴィンスキーの前衛的なエネルギーが容赦なくホールに充溢します。やはりカンブルランはリズムに対する感性が押しなべて鋭敏で、アンサンブルのリズム運動が研ぎ澄まされたように鮮烈でした。

それに加えて、演奏を「観ていて」印象的だったのが、この「火の鳥」が20世紀初頭という時期の曲にして、いかに特殊奏法の宝庫であるか、ということでした。弦のグリッサンドを皮切りに、スル・ポンティチェロ奏法、コル・レーニョ奏法、スル・タスト奏法、、、いずれも視覚的なインパクトの強さがあり、それが音響自体の特異性をいっそう際立たせていたように思えました。

カンブルラン/読売日響の演奏会(サントリーホール 11/21)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団の演奏会を聴きました。

2010-11-21

指揮者はシルヴァン・カンブルラン。演目は前半がハイドンの交響曲第6番「朝」・第7番「昼」・第8番「夕べ」 、後半がストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」(1910年全曲版) というものでした。

カンブルラン/読売日響の演奏会を聴くのは、今年7月に彼らの3種類のプロの公演を聴いて以来、久しぶりです。読売日響のホームページに掲載されている直近のインタヴュー記事によりますと、この間4か月、カンブルランはウィーンのザルツブルグ音楽祭を皮切りに、フランスやドイツの音楽祭などで、ほぼ現代音楽漬けの指揮活動を精力的にこなしていたとのことです。

今日の演目は、いかにもカンブルランというような個性的なプログラムでした。普通だと1時間前後を要するハイドン3部作を前半に配置し、後半も大体45分ほどの「火の鳥」全曲版ですから、休憩時間を含めると、おそらくアンコールなしでも2時間のワクに収まらないだろうと思っていましたが、実際は前半のハイドンが、かなり速めのテンポで、かつリピートを全て省略して演奏されたので、3部作全体で45分程度に収まり、終演時刻も(18時始まりで)20時ちょうどでした。

今日のコンサートの感想は後日あらためて出しますが、概ねエンターテイメント型の名曲が並べられたプログラムでしたので、ストレートに楽しい演奏会でしたし、とくに最近のコンサートでバッハ、ベートーヴェン、ブルックナーを中心に聴いていたこともあって、絶妙なタイミングでのリフレッシュになりました。

ワルター/ウィーン・フィルによるマーラー交響曲第9番


マーラー 交響曲第9番
 ワルター/ウィーン・フィル
 オーパス蔵 1938年ライブ OPK2060
OPK2060

先週サントリーホールでウィーン・フィルの来日公演を2日続けて聴き、感想をブログに書きましたが、その最終日の方の公演は本来エサ=ペッカ・サロネンを指揮者に迎えてのマーラー交響曲第9番が予定されていたところ、そのサロネンが公演一ヵ月前に急遽キャンセルを発表、その代役としてプレートルが登板の運びとなり、演目も大きく変更となりました。

そのプレートルは超弩級の演奏を披露し、先週ブログにも書きました通り大感銘を受け、最終的には聴きに行って本当に良かったと思いましたが、ただ、もともと私はマーラーの9番をウィーン・フィルで聴ける貴重な機会と捉えてチケットを購入していたため、それが聴けなかったことが敢えて言うなら残念なところでした。

しかし、そもそも私は何故そんなにもマーラーの9番をウィーン・フィルで聴きたいと思っていたのだろうということを、突き詰めて考えると最終的に行き着くのが、どうやら、このブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルの演奏によるマーラー9番の世界初録音ライヴということになりそうです。

あまりにも有名で、もはや語り尽くされた感すらある録音ですが、この演奏に聴かれる、例えば第1楽章の身を切るような悲しみの訴求力なり、終楽章の死滅的な音彩なりというのが、ほとんど常軌を逸しているほどに鮮烈かつ痛切に表現されているため、むろんマーラーに対する余人の追随を許さないまでに共感に溢れたワルターの指揮に拠るところ大としても、ウィーン・フィルだからこそ出せる響きの表現力というのも少なからず貢献しているのではないかという風にも思えなくもなく、いずれにしても、これだけの歴史的録音を為し得たオーケストラの実演で、一度この曲を聴いてみたいという欲求が私の中に依然くすぶっているような感じがします。

ところで今年のウィーン・フィル来日公演は、最初の段階では小澤征爾が全公演を振るという予定が立てられており、演目がマーラー9番にブルックナー9番、それにドヴォルザーク「新世界」という、要するに3種類の交響曲第9番を並べるという形だったところ、その小澤氏が春先に病気療養のため降板を発表、それを受けてサロネンとネルソンスが演目を分担する形で登板という発表でしたが、その際にサロネンの要請でブルックナーの9番が6番に変更、これで行くかと思いきや公演まで一ヵ月を切った時点でサロネンがキャンセル、それを受けて今度はウェルザー=メストとプレートルとネルソンスが演目を分担する形になりましたが、その際にウェルザー=メストがブルックナーの6番を再度9番に変更するとともにプレートルもマーラー9番をシューベルトの2番とベートーヴェンのエロイカに変更し、これで最終的に落ちつく形となりました。

つまり最初の段階での構想から最終的に漏れた演目は結局マーラー9番だけということになりますが、このような状況に鑑みると、来年のウィーン・フィル来日公演で再度マーラー9番が演目に登る可能性もあるのではないかという気がしますが、どうでしょうか。もし演目に登るのなら万難を排しても聴きに行くつもりですが、、

以下、本CDについてですが、これはオーパス蔵による板おこし復刻ディスクで、2006年にリリースされたものです。それまで私はカナダEMI盤(CDH7630292)で聴いていましたが、音質比較してみたところが、オーパス蔵の方の音質が圧倒的に良く、カナダEMI盤でのぼんやりしたソノリティが、すごい実在感で響いてくるのに度肝を抜かされました(したがってカナダEMI盤は売却しました)。聴いているうちにステレオ録音かとさえ思えてくるほどの音響的な拡がりの豊かさも素晴らしく、この曲を最近ウィーン・フィルは全く録音していないこともあり、このオーパス蔵復刻盤の価値には絶大なものがあると思います。

引き続き、クリーヴランド管弦楽団の来日公演(サントリーホール 11/17)の感想


昨日の続きです。

2010-11-18

後半のブルックナー交響曲第7番ですが、ここでメストが披瀝した演奏方針、それ自体は先週のウィーン・フィルを相手に披歴したブル9と同様と感じられました。作品に極めて誠実にして正攻法な姿勢のもと、その音楽を情緒や激情の世界として描かずに一定の節度をもって、感傷的にならず、ブルックナーの音楽が有する論理の堆積からくる感動を主眼にアンサンブルを理性的に組み立てた、そんな感触の演奏です。

したがって、総括的な音楽の印象としても、先週ウィーン・フィルのブル9で感じた幾つかの特徴、例えば全体を通してアンサンブルに余分な力みや停滞がなく音楽が自然に淀みなく流れていったこと、トッティの響きが円滑に溶け合って決して汚く響かないこと、アンサンブルの運用においては総じてリズムの切れが良く、テンポも速めで、響きのバランスにしても、最強奏のクライマックスでさえ決して無秩序な大音響を炸裂させることをせず、どこまでも理知的に音楽を構築する行き方であったこと、など、いずれも当夜のブル7と印象的にオーバーラップするものでした。

しかし先週と大きく違っていたのは、こういった特性が、当夜のクリーヴランド管との演奏では、ウィーン・フィルとの演奏の時よりも、さらにいっそう突き詰められた状態で音響化されたことだと思います。その点につき、まず挙げられるのはオーケストラがメストの要求する運用に対して、それこそミリ単位の精度で完璧なまでの合奏形成で応じたこと、その結果、これ以上ちょっと考えられないというくらい、完璧を極めた音響体としてのブルックナーがホールに立ち現われたこと、それは少なくとも完成度の観点において、大小のキズを免れなかった先週のウィーン・フィルとのブル9を遙かに凌駕するレベルであったことです。

もうひとつの相違は、そのアンサンブル展開に、およそ淡泊に流れるような印象を受けるシーンが、ほとんどなかったこと。例えば、先週のウィーン・フィルとのブル9の第2楽章で感じたような、個々のフレーズの食い付きが浅く流れるという感じが、ここでは全くない。一点も揺るがせにしないメストの厳格な運用がアンサンブルの隅々まで浸透していて、恐ろしいくらいの稠密感があるし、総じてスムーズかつ流麗なカンタービレ構成を維持しながらの、弱音場面での繊細な機微の浮き出しや、力動的な強奏場面でのダイナミックな起伏形成など、ここぞという時のアンサンブルの表現力においても、先週のウィーン・フィルでのブル9を凌ぐ凄みが充溢していました。

以上の観点に限るなら、私の今まで聴いた中でも、ここまで完璧を極めた完成度を誇るブルックナーの演奏というのは、ちょっと覚えがないというくらいでしたし、その意味で、大変なものを聴いたという衝撃すら覚えるほどでしたが、それほどの演奏であるなら、聴いていて途轍もなく感動したのかというと、あらためて振り返ると、どうだろうという気もします。というのも、確かに凄い演奏であることは十分に認識しながらも、その「凄さ」に見合うだけの感動が伸び切らない、そんなもどかしさが無いとは言えないという印象も、また偽らざるところだったからです。

ただ、これは演奏が良くないという話ではなく、要するに私の主観面の問題であり、ひいては音楽の捉え方の問題ということなりますが、まず第1には、当夜のメストの解釈が十二分に煮詰められ、結果的に作品の持つ内面的な深みのようなものが忌憚なく前面に抉り出されていたことに伴い、この7番という作品自体の、ある種の底の浅さをも露呈することになった、ように感じられたことです。これがブルックナーの、例えば5番、8番、9番あたりであれば、また印象も大きく変わっていたと思いますが、少なくとも7番という曲のキャパシティを考えると、スコアに誠実という以上の何か、例えば先月のスクロヴァチェクスキのように作曲家的な視点からスコアを再構成することも辞さない行き方なり、または昨年のシカゴ響の来日公演でハイティンクが披露したような、管弦のバランスの大胆なくらいの調整なりといった、何がしかの創意工夫が欲しい。むろん、これは私の主観ですが、このために、たとえ当夜のメストのスコアに誠実な行き方は称揚されるべきとしても、やはり何かが物足りないという感も多少なり、という気持ちが残ったように思います。

もうひとつに、先週のウィーン・フィルの圧倒的ともいうべき音響美が今だに頭に強くこびりついているため、「あの響きで聴きたい」という思いが、ついつい付きまとってしまったことです。

例えば先週ブログに書いたウィーン・フィルのブル9の感想でいうなら、「単なるスコアの再現に留まらせず、ウィーン・フィル特有の味わい深いアンサンブルの持ち味を積極的に活かして、非常に含蓄のある世界として描き切った点が素晴らしい聴きもの」だったのが、おそらく当夜のブル7に欠けていた点であり、また「ここぞという時に必ずウィーン・フィルの馥郁たる音響美がホールに充溢する様にも傾聴させられ」たのが、やはり当夜のブル7に欠けていた点です。なまじ演奏が完璧であるだけに、尚更そこに無いものが意識されてしまったのかもしれません。

こういったことは言うまでもなく「ないものねだり」で、そもそもウィーン・フィルの音が出せるのはウィーン・フィルだけで、クリーヴランド管といえども無理であるのは当然ですが、しかし私は一週間という短い間隔で、同じ指揮者、同じホール、同じオーケストラ編成規模(16型)と配置パターン(ドイツ式)で、ブルックナーの交響曲を耳にしている以上、必然的に前に味わった印象というのが色濃く残存しているので、こういった印象に捉われてしまうのです。

こういう風に書いてしまうと、当夜のクリーヴランド管のブルックナーを何か否定的なニュアンスとして受け取られるかもしれませんが、そうではなく、先週のウィーン・フィルのブルックナーの、比類無いほどの音響美、当夜のクリーヴランド管のブルックナーの、比類無いほどの完成度、いずれも圧巻であって、これはもう、どちらが上か下かという話でなく、どちらも掛け替えのない個性かつ美質にほかならないというのが、私の感想の趣意です。

今回、私にとって少なからずラッキーだったのは、一週間という短い間隔で、同一の指揮者が、欧米それぞれの名門オケを振り分ける形で、ブルックナーを演奏するのを聴く機会を得たこと(普通こういうケースは考えにくい)かもしれません。結果として2つの演奏相互の反射的な作用から、それぞれの掛け替えのない個性味が、はっきりとした形で認識させられた、という点で、この素晴らしい偶然には感謝したく、そして先週のウィーン・フィルのブルックナーと対になる形で、当夜のクリーヴランド管のブルックナーもまた、私にとって忘れがたい演奏となると思います。

クリーヴランド管弦楽団の来日公演(サントリーホール 11/17)の感想


昨日(11/17)のサントリーホール、クリーヴランド管弦楽団の来日公演の感想です。2回に分けます。

2010-11-18

オーケストラ編成はドビュッシーとブルックナーともに16型、配置は第1ヴァイオリンとヴィオラを対向させた「ドイツ式」、武満では以下に書くような特殊配置でした。

最初のドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」は、中庸なテンポとオーソドックスな強弱の運用からアンサンブルを精妙に動かし、まさに一点の曇りもないフォーカスのハーモニーとして、スコアの細部に至るまで緻密かつ正確に再現する、そんな意識が徹底された結果、非常に透明感のあるサウンドの、透徹した音響美と、しなやかなアンサンブルの運動性とが結託し、およそ印象派風の曖昧模糊としたムードとは一線を画したような、明晰でクールな肌ざわりの響きが持ち得る感覚的な魅惑が、こよなくホールに充溢する、そんな演奏でした。おそらくメストは、この曲のフランス音楽というより、むしろ新ウィーン楽派に近い性質に着眼し、その音楽の美質を存分に引き出してみせたものと感じられ、そのあたりのメストの視点の徹底ぶりと、その意図を十全に汲み取ったようなクリーヴランド管の精緻を極めた合奏展開に聴いていて唸らされました。

続いて武満徹の「夢窓」が演奏されました。これは武満の晩年、1985年の作で、独特のアンサンブル配置ならびに作品コンセプトを有する作品として知られます。当夜ロビーで配布された公演プログラムの解説を読みますと、以下のように書かれています。

タイトルの夢窓とは、鎌倉末期から室町初期を生きた臨済宗の僧、夢想疎石の国師号であり、武満はこの言葉を「内と外へ向かう二つの相反するダイナミズムの隠喩」として用いたという。夢はひとの内側を照らし、窓はひとの外側へと開かれる。オーケストラの独特の配置はこの隠喩から得られたものだ。左右の弦楽器群に挟まれた中央前方の小アンサンブル(フルート、クラリネット+弦楽四重奏)、これが内面の自我である。中央後方の金管、木管、打楽器群、これが外部世界である。そして中間には、内と外を媒介する透明な音色の通路(2台のハープ、チェレスタ、ギター)。かくして、ドビュッシー流の音響の汎焦点が空間化されて現われる・・・

夢想疎石といえば、私には夏目漱石が敬愛してやまなかった偉人の一人として思い浮かびます。漱石の代表作「虞美人草」や「門」には夢窓国師の名前がさりげなく出てきます(特に「門」という小説は、漱石が夢想疎石ゆかりの鎌倉・円覚寺に参禅し、そこで禅の教えを受けた体験が題材とされた作品です)。

ところで、この曲を武満徹が作曲した1985年は、ちょうど黒澤明の晩年の大作「乱」が公開された年に当たります。周知のように武満徹は「乱」の映画音楽を作曲していますが、この「乱」の音楽をめぐり、武満徹が自分の作曲スタンスに対する、黒澤明の無理解に激昂し、最終的にケンカ別れした事件は(日本映画史的に)あまりにも有名です。あのマーラーさながらの「乱」の音楽と、このドビュッシーを起源とするかのような「夢窓」との、音楽としての大いなる乖離を、当夜の実演で目の当たりにし、そのことに改めて思いを馳せました。

その「乱」に関しては、日本映画界の巨匠・黒澤明と音楽界の巨匠・武満徹が様々な場面で抜き差しならない対立を演じたことが知られています。以下はウィキペディアに掲載されている有名なエピソードです。

黒澤は演奏にロンドン交響楽団の起用を希望していたが、武満が「ロンドン交響楽団は映画音楽の仕事をやりすぎて、仕事が荒れている。」と強く反対し、札幌交響楽団による録音(1985年4月、千歳市民文化センター)となる。札幌交響楽団のような、日本でも有名とは言えない地方のオーケストラを使うことに強い不満を抱いていた黒澤は、録音開始前は楽団員の顔をろくに見ようとさえしない態度であった。しかし、演奏の予想外の素晴らしさに、昼食時の解散前に指揮台に上がると「みなさんありがとう、千歳まで来て良かったです。」と深々と頭を下げ、しばらく顔を上げなかったという。

ちょっと脱線してしまいましたが、当夜の演奏を聴いた印象に話を戻しますと、この「夢窓」という曲は私が事前に予想したような、おそらく日本独自の「わびとさび」の世界をドビュッシーに融合させたような音楽、などという単純なものでは到底なくて、この作品には当時の武満徹の、自身の作曲家としてのアイデンティティを後世に強く刻印せんという強烈な衝動と気概のようなものが、何か色濃く表現されているように思えてなりませんでした。それには当時の黒澤明との確執からくる複雑な思い(武満徹は太平洋戦争のさなか映画館で黒澤明の処女作「姿三四郎」を観て感激して以来、熱烈な黒澤ファンであった)も、少なからず影響を残しているのかもしれない。安易な言葉で語られるのを拒むような、張り詰めるように厳しい音響の世界。ここでメスト/クリーヴランド管が披歴した、緻密にして、ストイックに引き締った虚飾のないアンサンブル展開も、実に見事でした。

後半のブルックナー交響曲第7番に関しては、また後日に。

クリーヴランド管弦楽団の来日公演(サントリーホール 11/17)


今日はサントリーホールでクリーヴランド管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2010-11-17

指揮者はフランツ・ウェルザー=メスト。演目は前半がドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と武満徹「夢窓」、後半がブルックナー交響曲第7番でした。

もともと今日の公演は、ブルックナーゆかりのオーストリア・リンツに生まれたウェルザー=メストの指揮による、ブルックナーの実演を耳にする貴重な機会としてチケットを購入していましたが、その時点ではメストがウィーン・フィル来日公演で、まさかブル9を指揮することになるとは夢にも思わず、図らずも私の当初の目的は、先週すでに達成されていました。

しかし期間的に明らかに準備不足なはずのウィーン・フィルとの客演で、あれだけの見事なブルックナーを披歴したメストが、2002年から長く音楽監督を務めている手兵クリーヴランド管を指揮し、万全に近い状態で、どれほどのブルックナーを披露するのか、という新たな興味に取って代わりました。

そのブルックナーは事前の期待通り、メストの解釈が十二分に煮詰められた、その意味で「完璧」ともいうべき、凄い演奏でした。しかし、その結果として先週のメスト/ウィーン・フィルのブルックナーが色褪せたかというと、やはりそう単純にはいかないようです。そのあたりの感想は後日、改めて出します。

ユロフスキ/ロンドン・フィルによるホルストの組曲「惑星」


ホルスト 組曲「惑星」
 ユロフスキ/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 2009年ライヴ LPO0047
LPO0047

ロンドン・フィル自主制作レーベルより先月リリースされた、ヴラディーミル・ユロフスキ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるホルスト・組曲「惑星」のCDを聴きました。2009年5月、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴです。

ユロフスキは以前から私が注目している指揮者の一人で、これまで主にロンドン・フィル自主制作レーベルを中心に、ライヴ盤が断続的にリリースがされています。前回のリリースは今年3月のブラームス交響曲第1番・第2番でしたが、今回はイギリスゆかりのホルストの「惑星」です。

聴いてみると、まず最初の火星での目覚ましいまでの快速テンポに驚かされました。ユロフスキらしい竹を割ったような高速テンポですが、ここでの凄いハイ・スピードで展開される怒涛のようなアンサンブルの展開は、まるで敵陣に切り込み敵兵を薙ぎ倒していく勇猛な若武者のイメージがオーバーラップし、強烈な印象を与えられます。実際この火星のタイムを見ると6分28秒。ここは普通8分前後、速くても7分切るか切らないかというタイムですので、やはりユロフスキのテンポが際立っていることが伺われます。

続く金星と水星でも軽やかなフットワークから小気味よくアンサンブルを走らせ、聴いていて爽快ですし(とくに金星はタイムが7分を切っていて速さが際立っている)、木星や土星などでも、やはりテンポは相当に速めですが、ただ速いだけの上滑りな演奏とも一線を画していて、響きは明晰そのものであり、アンサンブルの内声がはっきりと聴き取れるなど、存分にオーケストラを鳴らし切った大迫力のスペクタクルな音画を描き切っているあたりも見事のひとことです。木星など、このテンポで、よくここまで鳴らし切れるなと聴いていて感心させられました。

このユロフスキの「惑星」は型破りとも思えるテンポ感をベースに展開される音楽の推進的かつドラマティックな趣きが斬新で、文句なく惹き込まれましたが、少し気になるのは、前回リリースのブラームスや、前々回リリースのチャイコフスキーなどでは今一つユロフスキならではといった個性味の発露が弱く感じられたところが、今回は一転して強烈なまでに個性的であることでしょうか。ユロフスキの潜在的な実力からすると、「惑星」のようなエンターテイメント志向の強い作品だけでなく、クラシック王道の演目でも、これくらいの型破りな表現を聴かせてほしいという気も正直します。

その意味では、ユロフスキの次回以降のリリースでも今回の「惑星」のようなフレッシュな演奏を期待したいと思います。

読書間奏・「ジークフリートの剣」


先月ブログで少し触れましたが、読了しましたので改めて、、

    216453-5
    ジークフリートの剣
    深水 黎一郎 (著)
    講談社

 確かなことは、いまだかつて誰一人として、こんなノートゥングを見たことはなかったということだ。「指輪」の上演史において、これまでさまざまなノートゥングが登場してきたが、ジークフリートの手の中で炬火のように燃えあがる魔剣というものは、存在したことがなかった。13世紀の「ヴォルスンガ・サガ」の中で、レギンがシグルズのために鍛え直したシグムントの折れた剣は、「まるで刃から炎が燃え立つようだった」と描写されていたが、これはそれから700年以上の時を閲(けみ)して、初めてそれが舞台上で視覚化された瞬間でもあった。
 和行は右手に激しい熱を感じながらも、そのまま骨を握りしめていた。たとえ手が燃え尽きようとも、離す気はなかった。・・

本書は今年9月に発売された、主にバイロイト音楽祭を舞台としたミステリー小説です。まず「Vorspiel(前奏曲)」という序章が置かれ、第1章「ラインの黄金」、第2章「ワルキューレ」、第3章「ジークフリート」、第4章「ただ恐れを知らぬ者だけが」、第5章「神々の黄昏」という全6章で構成されています。

序盤までの大まかな粗筋については以前ブログに書いた通りですが、繰り返しますと、ドイツのバイロイト音楽祭における「ニーベルングの指輪」新演出上演(プルミエ)のジークフリート役に大抜擢された日本の若きテノールである藤枝和行が本作の主人公で、彼には有希子というソプラノ歌手の婚約者があり、こちらも同じくバイロイトの「指輪」の「ワルキューレ」でオルトリンデ役に抜擢されます。二人はバイロイトでのキャスティングの発表と同時に婚約を発表し、幸せの絶頂にありましたが、有希子は以前に占い師から「あなたは幸せの絶頂で命を落とす」と予言されていました。その予言は的中してしまい、彼女はバイロイトの舞台に立つ直前に列車事故で命を落としてしまう。悲しみに暮れる主人公は、婚約者の遺骨を抱いてバイロイトの舞台でジークフリートを歌うことを決意する、というものです。

それで、この後どうなるかと思って読んでいったら、結論から言いますと私の予想の範囲を軽く越える展開に、読み終えて脱帽の一言でした。前に紹介した時は序盤しか読んでいなかったので「最終的に読み終えたとき本当に面白かったなと思えるか、なんだガッカリだったと思うか、何とも言えないがもし面白かったなら改めてブログで取り上げてみたい」と書いていました。そして読み終えた時点で本当に面白かったと思ったので、ここに改めて取り上げることにした次第です。

とはいえ最初、私は本書を本格的なミステリー小説のつもりで読んでいましたが、読み終えた時点で必ずしもそうではないということに気が付きました。だから、あくまでミステリー小説として優れた作品を読みたいという読者にとっては、少々肩透かしということになるかもしれません。というのも、本書のストーリーは必ずしもミステリー本線のストーリーに沿って緻密かつタイトに起承転結が練られたものではなく、随時あちこち「脇道」(つまりミステリー本線のストーリーに関係ない話)に入ってしまうからです。だから、緻密かつ周到に設定された全ての伏線が、最後に一点に収束して事件の全貌が明らかになるという、本格的なミステリー小説ならではのカタルシスは読み終えた時点で必ずしも高くないと言わざるを得ない。

それではつまらないのかと言うと、実はそうでなく、たとえ本格的なミステリー小説の構成ではなくとも、詳しくは(ネタばれにならない範囲で)以下に書きますが、私にはミステリーのシナリオそれ自体も十分に面白いと思えましたし、それ以上に、前述の「脇道」というのが読んでいて途方もなく面白い。この「脇道」というのは、具体的には音楽論議を中心とする芸術論のことで、オペラ全般に造詣の深い著者が、オペラ芸術に関して思うところを忌憚なく開陳するという趣向で書かれています(そういう意味では実質的には音楽エッセイに近い性質を有している)。

要するに、本書はジャンルは明確にミステリー小説ですが、それを本線として、オペラを中心とする音楽エッセイを適度に織り込んだような、かなり特異な構成が採用されている点が大きな特徴となっています。

まずミステリーのシナリオ、それ自体に対する私の感想から、ネタばれにならない範囲で書きますと、率直に言って一分の隙もないように練り込まれたシナリオではありません。その理由は前述の通りですが、それでも十分に面白かったのは、以下の2つの特性がしっかりと確保されていたからです。①最後に明かされる犯人が意外な人物であること、②犯人の犯罪行為の態様に一定の現実味があること。

まず①ですが、ミステリー小説を読んでいて最も白けるパターンが、その中盤あたりから「多分この人が犯人なんだろう」と思って、結局そのとおりだった、という場合です。その点、本書に関しては大丈夫。よっぽどのことでもない限り、まず見当もつかない人物が犯人ですので、おそらく心配無用です。

つぎに②ですが、犯人の犯罪行為の態様に一定の現実味があることというのは、要するに殺人のやり方などが現実的にみて理不尽なものでないことと言い換えてもよく、例えば俳句に見立てて殺すとか、子守唄の歌詞に見立てて殺すとか、そういうのは確かに読んでいて気味が悪くてゾッとするでしょうけど、しかし実際そんな奇抜な殺し方がされた事件が実在するかという観点になると、そんな殺人事件の実例を私は聞いたことがないですし、やはりリアリティに乏しいわけで、そういうのは少なくとも私は御免こうむりたい。その点でも本書は大丈夫で、少なくとも犯人は現実味に乏しい行動を採っていないので、その設定に対して好感が持てるものでした。

次に本書の「もう一つの柱」ともいうべき芸術論的な観点に対しての感想ですが、そもそもバイロイトのオペラ上演に関する記述が非常にリアルかつ緻密かつ描き込まれているあたり、著者が筋金入りのオペラ通であることを如実に物語っていますし、特にワーグナーのオペラに対する造詣の深さは本職の音楽評論家も顔負けなくらいで、読んでいて思わず舌を巻くほど。なお、本書では「吉岡秀武」なる音楽評論家の書いた著作が度々引用される形で、著者の音楽論が語られたりしますが、その名前が「吉田秀和」のもじりであることは誰の目にも明白でしょう。

例えば、本書の中盤あたりで、主人公と、本作の実質的なヒロインである佳子という女性とが、「飢えている子供を前にして、芸術に何ができるか」という古くて新しい問題を議論するシーン。「芸術はいま飢えている一人の子供を救うことはできないかも知れないが、十年後の何万人という飢えた子供を救うことは、できるかも知れない」とうそぶく主人公に対し、その女性は反論する。「今そこにある悲劇や危機から目を逸らすのは、逃げ以外の何ものでもない」と。「芸術家は一般の人とは比べ物にならないくらいのポピュラリティと発言力を持っているのだから、それを人類のため、他人のために使わないのは怠慢と言われてもしかたがない」そして以下が続きます。

「・・・・Ihr macht euch schuldig durch euer Schweigen.― つまり、そういうことよ」
「あなたたちは沈黙することによって、罪を犯すことになる?」
「ええ」
 佳子が突然発したドイツ語を日本語に直しながら、和行は頭を巡らせた。何故佳子は最後だけ唐突にドイツ語に変えたのだろう?
 しばらく頭の中を忙しく回転させてから和行は、ようやく最後のそのドイツ語が、オペラの歌詞からの引用であることに気がついた。リヒャルト・シュトラウスの最後のオペラ「カプリッチョ」の中の、舞台監督ラ・ロシュの台詞である。佳子はわざと出典を示さずに引用して、和行がわかるかどうかを試したのだろう。
 しかも「カプリッチョ」は、そんなお固い内容のオペラではない。言葉と音楽、どっちが大切かなんて浮世離れしたことを、延々と議論しているようなオペラである。全然違う文脈で使われている台詞を、佳子は自分の言いたい文脈の中にピタリと嵌め込んで喋ったわけで、佳子の並々ならぬ知性と教養がここでも窺われた。
「もしも芸術にそれだけの力があるのならば、その力をいま使わないで、一体いつ使うの? この世界の悲惨さに目を背けて、自分はただ歌だけ歌っていれば良いんだという態度を取るのは、逃げであるだけでなく、ひょっとしたら罪なのかも知れない。・・

この部分は、ミステリー本線のシナリオとは、何の関わりもなく、その意味では無くても構わないシーンです。しかし面白くないどころか、ある種の問題提起を読み手に投げかけるという意味では、むしろ重大な意義があるし、単なるミステリーを超えた面白さに満ちている。

さらに圧巻なのが、本書の第4章で計10ページにわたって延々と繰り広げられるワーグナー「指輪」談義で、これが読んでいて途轍もなく面白い。あんなに苦労して手に入れた指輪を、アルベリッヒがヴォータンにあっさりと奪われてしまうのはちょっと理不尽すぎないか?「神々の黄昏」の最後でブリュンヒルデがジークフリートの遺体を焼いて、自分も焼身自殺するのは、キリスト教徒の戒律を2重に犯している(自殺の禁止&火葬の禁止)ことになるのだが、そもそもキリスト教徒のはずのワーグナーが何故こんなラストを用意したのか、そして、あの場面でのブリュンヒルデの行動の本当の意味は何なのか、、、など、こういった「指輪」にまつわる疑問点に対して、実に深く掘り下げた考察が披歴されていて、少なくとも私は読んでいて驚嘆を禁じえなかった。途方もない考えのようでいて、実に理に適っている。これは本作のクライマックスというくらいのインパクトを感じましたし、私には犯人が誰かということよりも、この「指輪」談義の方に読んでいて強く惹き込まれたくらいでした。

もっとも、このあたりは諸刃の剣でもあって、例えばワーグナーのオペラを全く知らないし特に興味もないという読者が読んだとしたら果たして、という心配は正直あります。アルベリッヒがヴォータンから指輪を奪われるとか、ブリュンヒルデがジークフリートの遺体とともに自殺するとか、知らない人は全く知らないわけですから、当然この部分を読んでも何が何やらという話になると思いますし、別に犯人を突きとめるのに必要なこととも思えないのに(実際にも全く必要でない)、なんで延々と書いているのだろう、つまらない、ということにもなりかねない。つまり、これはミステリー好きで、かつオペラファンという、かなり限定された読者層を想定して書かれた作品なのです。少なくとも本格的なミステリー小説を期待するコアなミステリー好きが読むには厳しい気がしますし、逆にオペラは好きだがミステリーは嫌いという向きにも厳しいでしょう。

私はミステリーは正直あまり読まないんですが、別に嫌いというわけではないですし、こういった趣向のミステリーなら大歓迎で、とても気に入りましたし、何より、本書を読んで私の中のワーグナーのオペラに対するイメージが一層広がったような読後感を得たことが私にとって最大の収穫でした。

ウェルザー=メスト/ロンドン・フィルによるブルックナー交響曲第7番


ブルックナー 交響曲第7番
 ウェルザー=メスト/ロンドン・フィル
 EMIクラシックス 1991年ライヴ CDC7544342
CDC7544342

まず御礼ですが、今週、当ブログのアクセスが累計10万カウントに到達しました。皆様のご訪問を感謝いたします。

今年の3月に累計5万カウント到達の御礼を掲載したときには、まさか年内に累計10万にまで届くとは思ってもいませんでした。今年の夏あたりからアクセスが急激に増加したような様子ですが、いずれにしても恐悦の至りです。今後とも御愛顧のほど宜しくお願い致します。

私のブログは基本的にCD感想記がメインのサイトですが、ほかにコンサート感想記も書きますし、時々は読書感想記も書いています。読書感想記の方は今年から始めたもので、音楽の話題ばかりだと広がりに欠けるから、たまには何か別のこともと考え、ちょうど今年が国民読書年なので、やり始めました。とくに私の座右の作家が夏目漱石と寺田寅彦なので、この2人に関しては重点的にやりたいと考え、寺田寅彦の方から始めて取りあえず一通り終わりましたので、現在は夏目漱石の方を進めているという次第です。コンサート感想記に関してはブログ開始当初から続けており、こちらはCD感想記の延長のような感覚でやっています。

そのコンサート感想記ですが、私は基本的にオーケストラの配置と編成について必ず書くようにしています。なぜかと言いますと、当日の実演において、指揮者が選択した配置と編成の状態から、その指揮者の演奏に対するビジョンなりコンセプトなりが、客観的に伝わってくる部分も少なからずあるのではないかと考えているからです。

配置であれば、例えば第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを対向させる配置というのは当時の演奏習慣を重視する姿勢の表れと捉えられますし、第1ヴァイオリンとチェロの対向なら高低分離の音響重視、第1ヴァイオリンとヴィオラの対向なら内声部重視と、それぞれに明確な意味がありますし、編成にしても、例えばベートーヴェンの同じ交響曲を演奏するにしても、弦が16型か8型かで両者の演奏コンセプトに明確な違いが認められるでしょうし、そういった客観的な事実の提示というのは、私の書くヘボな感想などよりも雄弁に何かを物語ることがあるかもしれない。ですので、別に酔狂で書いているわけではないということはお伝えしておきます。

ところでメインのはずの新譜CDの感想の掲載ですが、このところコンサート続きのため、少し滞っています。

まったく今年の東京は凄まじい限りで、これでは聴きたい公演を全て聴こうなんて思った日には、お金が幾らあっても足りない。音楽評論家や音楽ジャーナリストと違って、チケットが天から降ってくるわけではないので、実際かなりの散財になりますが、それでも聴きに行くのは、この公演を聴き逃すと一生後悔するのではないかという、強迫観念みたいな衝動に駆られるからです。まあ音楽が好きな人というのは、多かれ少なかれ大体そうではないかと思います。

そういうわけで、性懲りもなく来週もクリーヴランド管の来日公演を聴きに行くつもりです。中心演目がブルックナー7番で、当日の指揮者フランツ・ウェルザー=メストは昔EMIに同曲をロンドン・フィルと録音しているので、今日それを予習がてら、久しぶりに聴きました。1992年にリリースされたCDで、ロンドンのプロムス・コンサートのライヴ。メストがロンドン・フィル首席指揮者に就任する前年の録音。ブルックナーゆかりの地オーストリア・リンツ生まれの指揮者による演奏でありながら、ドイツ・オーストリア風の重厚な演奏スタイルとは一線を画した清新なブルックナー。オーソドックスな運用をベースに、全体的に旋律線を細く維持した、すっきりと細部まで見通しの良い、颯爽とした感じの演奏。いかにもブルックナーというような重厚な響きではないので、聴き手によっては物足りなく思われるかもしれませんが、とにかく音楽の流れが軽やかで、すがすがしい演奏です。

この録音から20年近く経った現在のメストが、2002年から長く音楽監督を務めている手兵クリーヴランド管を駆り、どれほど熟成・深化を遂げたブルックナーを披露するか、興味深く聴いてみたいと思います。

「ギュンター・ヴァント ライヴ・イン・ジャパン2000」


シューベルト 交響曲第8番「未完成」
&ブルックナー 交響曲第9番
 ヴァント/北ドイツ放送交響楽団
 RCA 2000年ライヴ BVCC34039/40
BVCC34039

ちょうど10年前の今日、すなわち2000年11月12日、私は東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアルでギュンター・ヴァント率いる北ドイツ放送響の来日公演を聴いていました。演目はシューベルト「未完成」とブルックナーの9番。

外来オーケストラの日本における伝説的な公演のひとつとして今でも語り継がれている、このコンサートに立ち会い、その演奏を直に耳に出来たことは、それこそ一生の宝というくらいに今日まで私の中で輝きを失わずにいます。

あれから今日で、きっかり10年。その節目に幸運にも当時の演奏がライヴ録音として記録されたCDを聴きました。

2010-11-12

ウィーン・フィル来日公演(サントリーホール 11/9&11/10)の感想


一昨日(11/9)と昨日(11/10)のサントリーホールでのウィーン・フィル来日公演の感想です。2日分まとめて掲載します。

2010-11-11p

まず一昨日の公演(11/9、指揮者はフランツ・ウェルザー=メスト)の感想です。

オーケストラ編成は16型で、第1ヴァイオリンとヴィオラを対向させた配置でした。なお報道で伝えられている通り、ウィーン・フィルのコントラバス奏者の方が先日、不慮の事故で死去されたため、コントラバスは7人編成でした。

前半の演目はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」でしたが、冒頭の引き摺るような足取りで緊迫した静けさを醸しだしたピアニッシモから、クライマックスでの激情がほとばしるようなフォルテッシモまで、そのアンサンブル展開に感情を置き去りにしたような無機的な動きはどこにもなく、文字通りオペラ的な起伏を見事に描き出して間然とせず、メストのオペラ指揮者としてのドライブ感の持ち味が十分に披歴された、大変ダイナミックで充実感のあるワーグナーを聴かせてくれました。

後半のブルックナー交響曲第9番ですが、作品に極めて誠実にして正攻法なメストの演奏姿勢のもと、その音楽を情緒や激情の世界として描かずに、あくまで一定の節度をもって、感傷的にならずに、ブルックナーの音楽が有する論理の堆積からくる感動を主眼にアンサンブルを理性的に組み立てた、そんな感触の演奏が披歴されましたが、それを単なるスコアの再現に留まらせず、ウィーン・フィル特有の味わい深いアンサンブルの持ち味を積極的に活かして、非常に含蓄のある世界として描き切った点が素晴らしい聴きものでした。

全体を通してアンサンブルに余分な力みや停滞がなく、音楽が自然に淀みなく流れていきましたし、トッティの響きも円滑に溶け合って決して汚く響かない。メストの運びはリズムの切れが良く、テンポも速めで、響きのバランスにしても、最強奏のクライマックスでさえ決して無秩序な大音響を炸裂させることをせず、どこまでも理知的に音楽を構築する行き方。その意味では、前半のワーグナーとのコントラストの付け方も絶妙と感じられましたし、ここぞという時に必ずウィーン・フィルの馥郁たる音響美がホールに充溢する様にも傾聴させられました。

ただ、やはり準備不足の影響があるのか、必ずしもメストの解釈が十二分には煮詰められていないのかなという印象も正直ありました。おそらく当夜メストの披歴した解釈を十二分に煮詰めたならば、作品の持つ内面的な深みのようなものが更に前面に抉り出されていたのではないかと思えなくもなく、例えば第2楽章(ここは再現部冒頭のアインザッツが大きく乱れて、思わずドキリとしましたが)では、冒頭からテンポが速くてスイスイ進むものの、そのぶん個々のフレーズの食い付きが浅く流れる印象もあり、もう少し掘り下げて鳴らしてほしいと思わなくもありませんでしたし、続く終楽章も安定感のあるアンサンブル展開から格別な音響的美感をもって作品を描き出しており、聴いていて陶然とするほどでしたが、逆に言うなら音響としてのまとまりが見事であるという地点から、あまり積極的に踏み出していないようにも思えました。

このブル9の第2楽章を、例えばヴァントやスクロヴァチェフスキの指揮で聴くと、それこそ世界が反転するかのような壮絶的な感覚を突き付けられるところですが、当夜のメストの指揮は、やはりぎりぎりのところで音響としてのソフトさ、柔らかみのようなものが優ってしまい、このブルックナー最晩年の音楽が持つ暗く、謎めいた内面の世界の、底知れない感情の揺籃のようなものを作品の奥深くから抽出するまでには惜しくも至らずという印象も残りました。

しかしサロネンの直前キャンセルを受けて、このブルックナーの最難曲を、あの短期間でよくあそこまでの水準に仕上げられたという点では全く驚嘆に値する演奏であった思いますし、こういう事態にこそオーケストラのポテンシャルの高さが端的にものを言うという点では、やはりウィーン・フィルが紛れもなく世界最高峰のオーケストラであるという事実を、今更ながら深く印象づけられた演奏でもあったと思います。何より、このブルックナー畢生の名作をウィーン・フィルの実演で耳にしたことの感激がひとしおでしたし、やはり私にとって忘れられない演奏会になりそうです。

続いて、昨日の公演(11/10、指揮者はジョルジュ・プレートル)の感想です。

オーケストラ編成はシューベルトが14型、ベートーヴェンが16型、配置は前日と同様、第1ヴァイオリンとヴィオラを対向させた配置でした(なお、この配置については勝手に変な名前を付けて後で恥をかいてもと思い、これまで私はブログで上記のような書き方をしていましたが、こちらのサイトに詳しく書かれています通り、これは正しくは「ドイツ式配置」と呼ばれるもののようです)。

まず前半のシューベルトの交響曲第2番ですが、これは公演プログラムによるとサロネンの直前キャンセルを受けてプレートルの方でオケ側に提案した演目のようです。シューベルトの交響曲というと、確か数年前のウィーン・フィル来日公演でムーティが3番・4番・「未完成」・「グレート」を披露したと記憶していますが、この2番をウィーン・フィルが日本で演奏するのは今回が初めてかもしれません。

ここでのプレートルの披歴したシューベルトは、湧き立つような音楽の躍動感に満ちた、健康的で、大変に聴き映えのする演奏でした。柔軟なテンポ運用、洒脱なフレージング展開、そしてウィーン・フィルならではの陶酔的な音色。なにより音楽が品の良いユーモアに溢れていましたし、聴き手を幸せな気持ちに誘うシューベルトの音楽の魅力が、これ以上ないというくらいにホールに充溢する、その意味でプレートル&ウィーン・フィルの会心のシューベルトではないかと思えましたし、これはもう本当に聴いていて楽しくて仕方がないというくらいの演奏でした。

ここでプレートルはパントマイム風というようなコミカルな仕草を交えてのユーモアたっぷりの指揮ぶりを披露、そのあたりの雰囲気も音楽の表情を際立たせるのに一役かっていたような気がします。第2楽章のみ指揮棒を脇へ置いて空手で指揮していたのは観ていてちょっと不思議でしたが、後半のベートーヴェンでも同じく第2楽章のみ空手の指揮でしたし、緩徐楽章では指揮棒を持たない方針なのかもしれません。

そして後半のベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」ですが、これは本当に度肝を抜かされました。

第1楽章冒頭の気合い十分の全奏に続いて、すごいアップテンポでオケを走らせ、途中で大きくテンポを落とし、また素早くテンポを切り返す、、このあたりの縦横無尽なテンポの動きに乗って、ウィーン・フィルのアンサンブルが手に汗握るドライブを披露し、そのダイナミックなアンサンブルの駆動力と、溌剌たる響きの充実感が素晴らしく、こんなにワクワクするようなエロイカを実演で耳にしたのは、果たして何時以来だろうかと思いながら、とにかく惹き込まれました。展開部以降もプレートルは伸びやかな指揮ぶりから、すごい牽引力でオケをグイグイと引っ張っていき、それでいて、このオーケストラ独特のふくよかな響きの階調というような味わいが些かも減じていないのは驚異的であり、このあたり何かプレートルのカリスマ性の一端を垣間見たような気がしましたし、聴いていて感服の極みでした。

続く第2楽章は一貫して速めのテンポで通されましたが、どのフレージングにも充実した定着力があり音楽が少しも薄味に流れない。なおかつ後半のフーガのところで、プレートルは更に早めのテンポでグイグイとアンサンブルを引っ張っていき、その速さには驚かされるくらいでしたが、これが実に圧巻で、ハイ・テンポでの葬送行進曲とはいえ「疾走する悲しみ」のような感じとも、また一味ちがう、もっと前向きで、意思的で、ポジティブなエモーショナリティに満ちた情熱的なフーガ。その頂点でのウィンナホルンの雄渾なアーチも絶美で、聴いていて本当に素晴らしくてジーンときました。

第3楽章は緩急を適度に効かせてのメリハリが小気味よく、どこか前半のシューベルトに似た雰囲気を醸した洒脱なムードに惹かれました。そして終楽章は、なんと大胆なオーケストラドライブであったことか。テンポやダイナミクスの大きな振幅にとどまらず、ある変奏部の前に大きなパウゼを仕込んだり、ある変奏部の出だしでレガートを強く聴かせて艶めかしいメロディを造り出したりと、やりたい放題という感じでしたが、それでいて実に音楽的で、名匠プレートルの音楽経験の豊かさを、ここでも垣間見る思いでした。それにウィーン・フィルがまた最高のレスポンスで応えるのだから、もう聴いていて惹き込まれっぱなし。ウィンナ・ホルンのここぞという時の好演ぶりも特筆的でした。

それにしても、ここまでスリリングで精彩に満ちたエロイカが披歴されるとは、本当に驚きでした。サロネン降板のアクシデントを受け、急遽に決まった登板ということで、ぶっつけ本番に近い形になると思われたことから、ほとんどウィーン・フィルに下駄を預けたような安全運転のベートーヴェンが展開されるのではないかと、正直ある程度まで覚悟していたところが、冗談じゃないと言わんばかりに、圧倒的に強烈なパーソナリティを込めたオーケストラ・ドライブを最後まで貫き通した、プレートルの指揮者としての度量に、ほとほと感服しました。「山はただ高きが故に尊いのではない」と言われますが、高齢だから良いという次元ではなく、まさに経験の豊かな86歳の指揮者が持ち得るような素晴らしいアビリティ全開の、充実を極めたベートーヴェンでした。

ウィーン・フィル来日公演(サントリーホール 11/10)


昨日に引き続き、今日もサントリーホールでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

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指揮者はジョルジュ・プレートル。演目は前半がシューベルトの交響曲第2番、後半がベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」でした。また、アンコールにはブラームスのハンガリー舞曲第1番とヨハン・シュトラウス二世のトリッチ・トラッチ・ポルカが演奏されました。

今日のウィーン・フィル来日公演は本来エサ=ペッカ・サロネンを指揮者に迎えてのマーラー交響曲第9番が予定されていましたが、周知のようにサロネンは一ヵ月前に急遽キャンセルとなり、その代役としてプレートルが登板の運びとなり、演目も上記のように変更となりました。

もともとマーラーの9番をウィーン・フィルで聴ける貴重な機会と捉えてチケットを購入していた私には、この変更は発表当初それなりにショックでしたが、しかし日本で人気急上昇中のプレートルの指揮に直に接する機会ができたことは僥倖ですし、気持を切り替えて聴きに行きました。

感想は後日あらためて(昨日の分の感想と一緒に)出しますが、プレートルは本当に素晴らしい指揮ぶりを披露してくれました。特にベートーヴェンのエロイカが圧巻でしたが、シューベルトも含めて、「山はただ高きが故に尊いのではない」、そんな言葉が思い浮かぶような86歳のプレートルの情熱的な指揮ぶりに、聴いていて感服の極みでした。

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          開演前のステージ

ウィーン・フィル来日公演(サントリーホール 11/9)


今日はサントリーホールでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

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指揮者はフランツ・ウェルザー=メスト。演目は前半がワーグナー「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」、後半がブルックナー交響曲第9番でした。なお、アンコールはありませんでした。

今日のウィーン・フィル来日公演は本来エサ=ペッカ・サロネンを指揮者に迎えてのブルックナー交響曲第6番が予定されていましたが、周知のようにサロネンは一ヵ月前、自身のコントロールの及ばない事情のため急遽キャンセルとなり、その代役としてウェルザー=メストが登板の運びとなり、演目もブルックナーの6番から9番に変更となりました。

もともと私はサロネン/ウィーン・フィルのブル6を聴く予定でチケットを買ったのですが、思いがけずウィーン・フィルのブル9をナマで聴ける貴重な機会となりました。

感想は後日あらためて出しますが、何より大好きなブルックナー交響曲第9番をウィーン・フィルの実演で耳にしたことの感激はひとしおでしたし、その点では大きな満足感に満たされた演奏会でした。ただ、やはり準備不足があるのか、メストの解釈が十二分には煮詰められていないのかなという印象もあり、そのあたりは聴いていて多少もったいないように感じました。

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        開演前のステージ

ポリーニによるショパンの「24の前奏曲」


ショパン 24の前奏曲
 ポリーニ(pf)
 グラモフォン 1974年 POCG9957
POCG9957

先週サントリーホールで聴いたポリーニのピアノ・リサイタルの感想を翌日ブログに掲載しましたが、今回のポリーニの来日公演では、私が聴きに行ったバッハ・リサイタルのほかにショパンとベートーヴェンを中心としたプログラムの公演も含まれていました。ところで、こういった来日リサイタルで、バッハの平均律まるまる一巻と、ショパンの「24の前奏曲」とを、2つとも演目として持ってきたピアニストというのは今まで誰かいたのでしょうか。

単に私が知らないだけで実際いるのかもしれませんが、少なくとも私の感覚だと、ちょっと他にいないのではないかという気がします。そもそもショパンが得意で、かつバッハが得意というピアニスト自体、まず滅多にいないように思われますし、、

例えば、ポリーニはショパンコンクールの優勝者ですが、そのポリーニが去年バッハの平均律を録音するまで、歴代ショパンコンクールの優勝者の誰一人としてバッハの平均律を録音していなかったという事実(もちろんアルゲリッチやブーニンにもバッハの録音はありますが、少なくとも平均律のような大曲はないはず)も、そういう印象を助長させます。周知のようにバッハの平均律はピアニストにとって「旧約聖書」と呼ばれており、その録音に多くの名うてのピアニストが挑んでいるにも関わらず、ショパンコンクールの優勝者は、そのピアノの腕前にも関わらず、ポリーニ以外の録音がない、、、

だから、私は正直ポリーニがバッハの平均律を録音したという時点で、ポリーニはショパンコンクール優勝者としては「特殊」だなという印象を抱きました。

しかし本当にポリーニはショパンコンクール優勝者としては「特殊」なのか? そもそもショパンの「24の前奏曲」こそはドビュッシー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチと連なる「24プレリュード」様式ピアノ作品の嚆矢であって、その作曲の原点がバッハの平均律にあることは有名ですし、たとえショパンとバッハそれぞれの時代間に100年の間隙が横たわっていたとしても、ショパンに共感を持つピアニストがバッハに共感を抱いたって別に不思議ではない、、、

いや、何故こんなことを書いているかと言いますと、実はポリーニのリサイタルの公演プログラムに、ポリーニのインタビュー記事が掲載されていまして、それを読むと、ポリーニが以前はバッハを頻繁に演奏会で弾いていたと書かれていたからです。

しかし、そこでのポリーニの弁によると、以前はバッハを弾いていたが、ピリオド演奏様式の台頭とともにバッハをモダンピアノで弾くことの難しさに直面し、次第に弾かなくなった。しかし最近になって、バッハ自身が編曲を好んでいたという事実から作品のエッセンスが失われない限り当時の様式に拘泥する必要はないと考え直し、それから再びバッハを取り上げるようになった、とあります。

とするなら、別にショパンコンクール優勝者だからバッハを敬遠するという話ではなく、ピアノ演奏の分野でのピリオド演奏様式と自己の表現との折り合いをどうつけるかがポイントということになる。そうである以上、ポリーニはショパンコンクール優勝者としては特殊でもなんでもないのかという認識に、ようやく到りました。

そんなことを、ポリーニによるショパンの「24の前奏曲」のCDを聴きながら、つらつら考えました。いずれにしてもモダンピアノで平均律を弾くことの醍醐味は確かにあると私は思うので、こういう揺りもどしは歓迎ですし、ツィメルマンやブーニン、ブレハッチらの弾くバッハの平均律も聴いてみたいと思うのは私だけではないような気がします。

ブロムシュテット/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管によるブルックナー交響曲第5番


ブルックナー 交響曲第5番
 ブロムシュテット/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 クヴェルシュタント 2010年ライヴ VKJK0931
VKJK0931

独クヴェルシュタントから先月リリースされた、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第5番のCDを聴きました。これは2010年5月にライヴ収録された演奏です。

ブロムシュテットのブルックナーとしては昨年7月にリリースされた交響曲第6番に続くものとなりますが、周知のようにブロムシュテットはブルックナーを得意レパートリーとする指揮者であり、これまでゲヴァントハウス管、サンフランシスコ響、ドレスデン・シュターツカペレの3つのオケを振り分ける形でブルックナーの主要曲ともいうべき第3、第4、第6、第7、第8、第9の6曲まで録音済みで、そのうち4番、6番、7番に関してはオケを違えて各2種の録音まで残しているにも関わらず、どういうわけか第5番だけ今まで一度も録音が行われていませんでした。

今回の新譜はそのブロムシュテットが初めて録音した5番ですし、前回リリースの6番の演奏が素晴らしかったこともあり興味津々で購入しました。

それで聴いてみると第1楽章の冒頭からブロムシュテットのブルックナーらしく職人気質的に折り目正しい運用から何ら奇を衒うことなくオーソドックスにアンサンブルを進めていきつつ、そこに立ち昇る深々とした響きの得もいわれぬほどの味わいと恰幅のあるスケールの大きさを意識させられる音楽の風貌が何とも素晴らしく、ゲヴァントハウス管の充実を極めたアンサンブル展開の醍醐味もあり、いわばブルックナーを知悉した指揮者が奥深い伝統を背負ったオーケストラを指揮してブルックナーを演奏した場合このような充実を極めた演奏になるだろうという聴き手の期待感どおりの見事な演奏が披歴されており、実に深々とした余韻とともに第1楽章を聴き終えました。

そしてこのような印象は第2楽章以下を聴き進めていくうちに一層の確信となるばかりで、全体を通して実質的な意味での音楽としての訴えかけに心満たされる思いでしたし、全編を聴き終え近年まれにみるほどの「本場のブルックナー」としての醍醐味を心ゆくまで堪能することができ感無量でした。

それにしても2010年の現在これほど深々とした味わいを満たしたブルックナーの演奏が一体どうやったら可能なのかとも思いましたが、ここでのブロムシュテットの演奏様式は一言でいうならオーソドックスですが、例えばアタックを強調せず柔らかな手触りを追求しているだけのようなソフト・ライクな運用ではなく、シビアに決めるべきところは的確に決めるあたりなど、ただ練達の表現力というに留まらない、いわば作品が完全に自分の手のうちに入ったかのような余裕あってこその表現力ではないかと思えますし、ゲヴァントハウス管のオーケストラとしての非凡なポテンシャルの賜物という面も大きいような気もします。

おそらく次回リリースされるのは交響曲第4番「ロマンティック」ではないかと思いますが(第3~第9の主要7曲のうちブロムシュテットがゲヴァントハウス管と録音していない曲は、あと4番だけですので)、それも楽しみですし出来ればゲヴァントハウス管と来日してブルックナーの実演を聴かせて欲しいと思います。

夏目漱石の小説「彼岸過まで」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「彼岸過まで」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-20

 須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは傍(はた)から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価(あたい)しないくらいに見限(みかぎ)っていた。その上彼は理窟(りくつ)が大嫌いであった。右か左へ自分の身体(からだ)を動かし得ないただの理窟は、いくら旨(うま)くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう辻占(つじうら)に似た文句を、黙って聞いているはずはなかったのだが、しっとりと潤(うるお)った身の上話の続きとして、感想がそこへ流れ込んで来たものだから、敬太郎もよく解らないながら素直に耳を傾むけなければすまなかったのである。
 須永もそこに気がついた。
「話が理窟張(りくつば)ってむずかしくなって来たね。あんまり一人で調子に乗って饒舌(しゃべ)っているものだから」
「いや構わん。大変面白い」
「洋杖(ステッキ)の効果(ききめ)がありゃしないか」
「どうも不思議にあるようだ。ついでにもう少し先まで話す事にしようじゃないか」
「もう無いよ」
 須永はそう云い切って、静かな水の上に眼を移した。敬太郎もしばらく黙っていた。不思議にも今聞かされた須永の詩だか哲学だか分らないものが、形の判然(はっきり)しない雲の峰のように、頭の中に聳(そび)えて容易に消えそうにしなかった。

「彼岸過まで」は1912年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「行人」「こころ」とともに漱石の後期3部作を構成する作品です。主人公の田川敬太郎と友人の須永市蔵を中心的なキャラクターとして話が進められますが、小説全体が副題を持つ幾つかの章に分割されている点も本作品の特徴です。

本作は小説の本筋に入る前に、著者・漱石の前口上である「彼岸過迄に就いて」が書かれています。「修善寺の大患」で文字通り生死の境を彷徨い、奇跡的に一命を取り留めた漱石の復帰後の最初の作であるだけに、「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。」と本作への意欲が語られています。また、「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空(むな)しい標題(みだし)である。」として、そのタイトルと小説のストーリーとが何ら関係がない事実も示されています。

本作は一般的には「漱石の晩年様式への過渡期的な作品」と評されることが多いようです。例えば島田雅彦・著「漱石を書く」(岩波新書)では以下のように評されています。

「彼岸過迄」は後期の作品群への橋渡し的作品ともみなされる。この再出発は結果的に大成功だったといってもいいだろう。なぜなら、「彼岸過迄」において、写生文は近代小説の手法と混じり合い、空前絶後のエクリチュールを生み、のちの「明暗」につながるようなポリフォニックな展開を予感させるまでに洗練されたからだ。「明暗」のような作品は少なくとも「彼岸過迄」の試みを経由しなければ、書かれようがなかった。

まさに本作の本質が簡潔にして的確に指摘された名評ではないかと思いますが、ただ私のような素人的な観点から本作を読んだ場合に最も驚かされる点は、この小説の破格ともいうべき娯楽性ではないかと思われます。

つまり、専門家の方々が本作に関して最も評価されているのが「須永の話」「松本の話」を中核とする後半部であるのに対し、私などは、むしろ前半部の「風呂の後」「停留場」「報告」あたりで書かれる、後年のミステリー小説(この時代にミステリー小説というジャンルは日本に無かった)みたいな部分を読んで、驚嘆するわけです。あの漱石が、こんなエンターテイメントな話を書くなんて、という印象。あの「門」の後だけに、よけい本作の娯楽色が目立って感じられます。

この点、大岡昇平・著「小説家夏目漱石」では、その第4章の中の「彼岸過迄をめぐって」において、この「推理小説仕立て」に関する氏の自論が開陳されています。それはつまり、あの平凡な日常の延長のような前半があるから、後半の深刻な側面が活きてくる、という趣旨なのです。

そして氏はオカルト、すなわち「へんな感じ」が我々の合理的な解釈を超えて、作品の魅力を形作っているとし、その変に薄気味の悪い感じにおいて、合理的な漱石を超える、という意味で漱石が漱石を超える部分に一番興味がある、とされています。

実のところ私も同じような印象を感じたのでした。といっても氏ほど深く考えたわけでは全然ありませんが、あの気楽を絵にかいたような前半部の「敬太郎編」と、深刻を極めたような後半部の「須永編」との著しいコントラストが、この「彼岸過迄」の魅力ではないかと思ったもので、氏の作品評にシンパシーを覚えたのでした。

さて、この漱石の「彼岸過まで」という作品をベートーヴェンの交響曲に喩えるなら何が妥当か、という話ですが、これはズバリ言って交響曲第7番のイメージが私にはオーバーラップします。

その理由として最も大きいものが娯楽志向性(エンターテイメント性)の高さです。漱石の主要9作品のうち娯楽志向性の最も高いと思われる作品が「彼岸過まで」であることは、上で書いた通りですが、それではベートーヴェンの9つの交響曲のうち最も娯楽志向型の作品はというと、それは交響曲第7番ということになるでしょう。

この第7交響曲の初演は周知のように1813年12月8日、ウィーン大学の講堂で、それはハナウ戦争で傷ついた兵のための慈善音楽祭だったわけですが、その舞踏的なリズム感を全面に押し出したエンターテイメントな楽想が聴衆の心を強く捉え、その演奏会は大変な盛り上がりを呈したと伝えられています。このような音楽としての良い意味での俗っぽさ、景気の良さは本作品の大きな特徴として認められています。日本で最近ヒットしたというトレンディードラマで主題歌の代わりに、この交響曲第7番の第1楽章が用いられていたという話ですが、これなども多分そういった娯楽色と無縁ではないと思います。

もうひとつの共通点は作品としての構造的アナロジーです。周知のようにベートーヴェンの交響曲第7番は後年ワーグナーによって「舞踏の神化」と評されるなど、4つの楽章において、それぞれに固有のリズム・モチーフが支配する特異な楽想を一つの特徴としています。ひるがえって漱石の「彼岸過まで」においては、一つの小説作品に対し3種類の語り手を導入するという革新的な構想が導入されています。これは言わば3つの語り手が織り上げる錯綜した舞踏であり、その語り手それぞれの文章に固有のリズム感が設定されているあたり、ベートーヴェンの交響曲第7番の革新的な楽章構造に対して興味深い接近を示しているように思えます。さらに言うなら、「彼岸過まで」の中間に配置されている「雨の降る日」と、「永遠のアレグレット」として名高い交響曲第7番の第2楽章とが、その醸し出す雰囲気において極めて近しい印象を感じさせることも興味深い点です。

もうひとつ、以下のように作品の完成年という面においても両作品には興味深いアナロジーが見受けられます。

まず、この「彼岸過まで」が発表された1912年に至るまでの、夏目漱石の主要作の発表年を以下に示します。

①1905年:吾輩は猫である
②1906年:坊っちゃん
③1907年:虞美人草
④1908年:三四郎
⑤1909年:それから
⑥1910年:門
⑦1912年:彼岸過まで
⑧1912年:行人

このように、1905年に最初の小説を発表してから、几帳面に毎年1作品ずつ主要作とみなされる小説を発表し続けてきたことになりますが、このペースは⑦で破られ、「門」の後「彼岸過まで」が出されるまで1年の空白が存在しています。これは前述のように世に言う「修善寺の大患」のためです。

次に、ベートーヴェンの交響曲第7番が完成された1812年に至るまでの、ベートーヴェンの交響曲の完成年を以下に示します。

①1800年:交響曲第1番
②1802年:交響曲第2番
③1804年:交響曲第3番「英雄」
④1806年:交響曲第4番
⑤1807年:交響曲第5番「運命」
⑥1808年:交響曲第6番「田園」
⑦1812年:交響曲第7番
⑧1812年:交響曲第8番

このように、1800年に最初の交響曲を完成してから、几帳面に2年ないし1年間隔で1作品ずつ交響曲を完成し続けてきたことになりますが、このペースは⑦で破られ、「田園」の後に交響曲第7番が出されるまで4年もの空白が存在しています。これは漱石のような疾患が原因のものではなく、たまたまそうなったというに過ぎません。しかし、これまで2年と置かず交響曲を作曲してきたベートーヴェンが、⑦において初めて大きく「間」を置いたことは紛れもない事実です。そして、この「間」が、あの交響曲第7番での心機一転とでもいうように溌剌とした楽想に対して影響を与えなかったと考えるのは難しく、まさに「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある」と述べた、「彼岸過まで」での漱石の気概に一脈つうずるものがあるように私には思えるのです。

以上、次回は「行人」について書きます。

ルドルフ・バルシャイ死去


旧ソ連出身の世界的な指揮者として知られたルドルフ・バルシャイが今月の2日に亡くなられたとの報道がありました。享年86歳とのこと。御冥福をお祈りします。

BRL6324
ショスタコーヴィチ 交響曲全集
 バルシャイ/ケルン放送交響楽団
 ブリリアントクラシックス 1992~2000年 BRL6324

たとえ月並みと言われようとも、私が追悼盤を選ぶなら迷わずこれです。バルシャイの代表盤、大ベストセラーとなったショスタコーヴィチ交響曲全集。この作曲家の音楽と正面から向き合うのに、これ以上の全集を私は知りません。

この週末、少し時間を取って聴いてみようと思います。

マウリツィオ・ポリーニのピアノ・リサイタル(サントリーホール 11/3)の感想


昨日(11/3)のサントリーホール、マウリツィオ・ポリーニのピアノ・リサイタルの感想です。

2010-11-04

当夜のリサイタルの演目はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻(BWV846~869)の全曲で、まず前半に第1曲から第12曲が、暗譜で演奏され、休憩を挟んだ後半に第13曲から第24曲が、こちらは譜面を見ながら演奏されました。前後半それぞれ50分あまり、休憩時間が30分弱でしたので、アンコールなしにも関わらず終演時刻が21時30分という長丁場のリサイタルでした。

その24曲いずれもが、あっさりした速めのテンポで進めているのに個々の打鍵の充実感と高低のハーモニクスの立体感が立派であったこと、淀みないフレーズの流れから繰り出されるピアノの響きが実に深々としたものであったこと、調性が変化するごとに切り替わる音色の、細やかなニュアンスの濃淡が粒立ちの良いタッチから美しく表現されていたこと、、など、当夜のポリーニの披歴したバッハの美点を挙げていたらキリがないとすら思えますし(完成度の面で部分的に小さな綻びはありましたが、それはピアニストの責というより、おそらく例の客席でのアクシデントの影響で集中力が乱れたことが原因と思えました)、それはCDで耳にした彼のバッハと同じようでいて、やはり同じでない、実演を通してしか伝わり切らない、ピアノ表現の繊細な綾のようなものまで含めて、聴き進むうちに緩やかに感動が高まっていき、最後には目頭が熱くなってしまうくらいに充実を極めたバッハでした。

このようなポリーニの平均律は、例えばグールドやアファナシエフといった大家の録音した、強烈な主観性に基づく表現の平均律とは全く違うし、どちらかというと主観的な表現を抑えながらも意思的にスタッカートを多用したグルダの平均律、あるいは強弱のダイナミクスを強調しテンポレンジも比較的大きめに取ったリヒテルの平均律とも、やはり違う。ポリーニの平均律の場合、なにより主観性を抑えた表現に基づいた、沈着にして格調高い音楽の佇まいが素晴らしく、前述のような数々の特徴にしても、すべてそこから合理的に導かれるのではないかと思えるほどです。このような、構えを過度に大きく広げたり、むやみに深刻がったりということをしない、誇張や感傷を排した表情というのを、このバッハの平均律の演奏においてポリーニほど徹底的にやっているピアニストは他にいないのではないかという気さえします。

そして全24曲のうち、私が最も聴いていて心を動かされた曲を挙げるとするなら、やはり最後の第24曲ロ短調のプレリュードとフーガでした。そこでポリーニが披歴した、深い沈静と思索の表情が絶妙でしたし、それは構成感だけの演奏でもないし、構成感を置き去りにしたような高踏的精神だけの演奏でもない、いわば巨大な大聖堂を仰ぎ見るかのような趣きのフーガであり、それでいて極度に研ぎ澄まされた表情の閃きを帯びたものであり、崇高な楽想からくる緊張感と、聴き手の精神に心地よい癒しをもたらす安らぎとが、不可分に同居する、そんな音楽の不可解で神秘的な情趣にあてられる形で、私は客席で聴いていて前述のように目頭が熱くなりました。

しかしながら、先週ブログに書きましたように私は特段これまでポリーニに注目しているというわけではない。そうである以上、彼のピアニズムをいかにも知った風にあれこれ言い回すのは、本当はお門違いなのかもしれない。そもそも彼の現在のピアニズムから当夜のバッハが必然的なのか特異的なものなのかも正直わからないし、このバッハが「ポリーニらしい」演奏なのか、らしくない演奏なのかも見当がつかない。確かなことは、当夜のポリーニが弾いたバッハの実演それ自体に、紛れもなくバッハの音楽を聴く醍醐味が充溢していたということで、私の本来いうべきことは、それ以上でも以下でもないような気がしなくもありません。

そこで以下、少し視点を変えます。昨日も書きましたが、実は当夜のポリーニのリサイタルと、ちょうど一週間前に同じホールで耳にしたアーノンクールのロ短調ミサとの間に「2つの偶然」が介在していて、そのことが私にはとても印象的だった、という話です。

その2つの偶然のうちの一つは、どちらも演目がバッハの、滅多に演奏されない、いずれも演奏するのに丸々2時間を要する大曲であったこと、もうひとつは、いずれもロ短調という調性が重要な意義をもつ作品であったことです。もちろんアーノンクールとポリーニは別に申し合わせた上そうしたわけではないのに、こうした偶然が重なったのが、私にとっては興味深い体験だったなと思われたのです。

しかし、ロ短調ミサはともかく平均律クラヴィーア曲集は24の調性が平等なのだから別にロ短調が重要ということもないのではないかと物言いがつくかもしれません。しかし、その24の調性の最後に行き着くところ、すなわち最終曲(24曲め)の調性がロ短調であること、その最終曲こそ全24曲のうち最高度に充実的な書式と崇高な佇まいとを備えている点に鑑みると、私は作品全体が「ロ短調」という調性に向かって収斂していくような印象を覚えますし、少なくとも当夜のリサイタルでそう感じたことは前述のとおりです。

このクラヴィーア曲集は確かに作曲の直接的な動機としては、大バッハの息子のための教育用に作曲したクラヴィーア練習曲であったかもしれませんが、その第8曲のフーガのテーマがグレゴリオ聖歌風のメロディだったり、第22曲のフーガが受難曲の雰囲気に近しい性格を帯びていたりなど、いたるところに宗教的な霊感に貫かれていることが感得されますし、その意味では、実は宗教と密接な関連を秘めた作品かもしれない。その第24曲全曲の最後が「ロ短調」で締め括られるという事実も、後年のロ短調ミサと繋がりがあるかもしれない。いや、私は何らかの関連があるという心証を抱かされたのでした。アーノンクールとポリーニのバッハを続けて聴いたことによって、今までとは違う新鮮な角度からバッハの音楽を視れたことが私にはとても嬉しい体験でした。

だから、こういった偶然による体験というものは貴重なので、演奏自体から来る感銘とは別に、この「2つの偶然」は自分の中で大事にしたいと思います。とくに後半部分は演奏本来から離れての散漫な感想となってしまい恐縮ですが、以上が当夜のリサイタルに関する私なりの感想です。また、これだけのバッハを耳にした以上、ポリーニの今後の活動には大いに注目したいと思います。

マウリツィオ・ポリーニのピアノ・リサイタル(サントリーホール 11/3)


今日はサントリーホールでマウリツィオ・ポリーニのピアノ・リサイタルを聴きました。

2010-11-03

演目はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集・第1巻の全曲です。

すでに先月からの来日リサイタルでショパンやベートーヴェンの名演奏を披露していることが伝えられていたポリーニですが、私は最後のバッハ公演を選んでチケットを取りました。先週ブログに書きました通り、ポリーニが最近リリースしたバッハ・平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲のCDで披歴されている演奏が非常に良かったので、ぜひ実演で聴いてみたいと思っていたからです。

感想は改めて後日に出すつもりですが、今日ポリーニが披瀝したバッハは、時折ハミングを気持ち良さそうに口ずさむことまで含めて、概ねCDに聴かれる表現と軌を一にする行き方の、全くもって素晴らしい演奏でした。それは大いに感動的でしたし、その演奏と、一週間前に同じホールで耳にしたアーノンクールのロ短調ミサとの間の「2つの偶然」もまた、私には大いに印象的でした。

ところで今日のリサイタルの演奏中に客席で、すごいアクシデントがありました。私もコンサートホールで、ああいうのを見るのは初めてで、本当に驚きました。何が起こったかは敢えて書きませんが、テレビ録画が入ってなかったのは不幸中の幸いだったと思います。

クイケン/ラ・プティット・バンドによるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全曲の旧録音


J.S.バッハ ブランデンブルク協奏曲全曲
 クイケン/ラ・プティット・バンド
 ドイツ・ハルモニア・ムンディ 1993・94年 BVCD-1906
BVCD-1906-07

昨日の続きというか補足になりますが、先月リリースされたシギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンドの演奏によるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全曲の2回目の録音と、以前にリリースされた初録音との、主な演奏方式上の違いについて簡単にまとめてみました。

ちなみに、こちらの旧録音は世評の高い録音ですし、感想も不要かとも思いますが、私の印象で言うなら、およそバッハ音楽が持っている調和の美というのか、均整感の練られたアンサンブルの醸し出すバッハ音楽としての構築的な美しさの表出という点で際立ったものがあると思います。とくに素晴らしいのが各ソロをバックアップするアンサンブル内声の充実感で、例えばバロック・ヴァイオリンの世界的名手である寺神戸氏をヴィオラ・パートに配していたり(3・4・6番)など、ソロ中心的な様式の演奏とはひとあじ違う音楽の表情の複層さがあり、これが音楽全体に独特の奥行きを与えているように思えます。

この旧録音と、今回リリースの新録音の違いですが、まず「肩のチェロ」と言われるヴィオロンチェロ・ダ・スパラが今回の新録音で用いられている点です。この楽器は旧録音では用いられていないので、これは大きなポイントですが、このヴィオロンチェロ・ダ・スパラ特有のおっとりとした響きの特性は、音楽の表情に温か味と心地よい開放感を加味する効果があると言われます。

近年の研究でバッハが使用したと言われている、この復元楽器は、要するに肩に担いで演奏する小型チェロのことですが、バッハの時代には普通に用いられていたものの、その使用が時代とともに次第に廃れていった楽器とされています。これは昨年BISからリリースされた鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全曲の2008年録音盤においても使われていました。もっともBCJ盤は協奏曲第4番と第6番の2曲のみで用いられていたのに対し、今回のクイケンの新録音では全6曲において用いられています。

さらに2番目の点として、今回の新録音では全6曲ともアンサンブルの奏者を各パート一人に限定した編成(ワンパート・ワンプレイヤー方式)が採用されています。これは旧録音では採用されておらず、例えば第1番と第2番の協奏曲では、クイケンがヴァイオリン・ソロを担当し、それと対置させる弦合奏を、各パート2~3人で編成した、いわゆるコンチェルト・グロッソのスタイルが採用されていました。

これに関しては、ライナーノートに書かれているクイケンの弁によると、旧盤を録音したあとに「第1番と第2番はコンチェルト・グロッソとみなすべきでない」という知見を得たことから、コンチェルト・グロッソのスタイルを捨ててワンパート・ワンプレイヤーのスタイルに移行した、とあります。

この変更により、新録音の演奏では弦の人数が絞られてくるため、第1番・第2番ともに、弦と管のバランスに歴然と違いが認められます。つまり新録音の方が遙かに管楽器のフレーズがくっきりと浮き上がっていることが分かります。

そして3番目の点として、今回の新録音の協奏曲第2番の、本来「トロンバ」のためのパートに、トランペットが使われていることが挙げられます。ここは旧盤ではホルンでした。

そもそも協奏曲第2番のソロ・パートのひとつであるトランペット・パートは、もともとバッハの時代特有の楽器であり現在は存在しない「トロンバ」という楽器のためのパートとして書かれたものであることが知られています。この楽器は現在は存在しないため通常はトランペットで代用されるところ、その選択に違和感を感じる少数の古楽系指揮者が、ここに敢えてホルンを用いることがあります。そのひとつがクイケンの旧盤でした。

ところが今回の新録音では、トランペットが堂々と鳴らされています。これについてライナーノートにあるクイケンの弁を読みますと、旧録音の時にはバロック・トランペットで満足のゆく楽器が見当たらなかったため、妥協の産物としてホルンを用いたが、あれからオリジナル楽器の研究が進み、我々にとって満足のゆくバロック・トランペットを手に入れるに至ったため、今回はホルンではなくトランペットを採用した、とあります。

以上、クイケンの新旧ブランデンブルク協奏曲の録音の違いを簡単に書きましたが、要するに時代考証を更に進めたというべきで、このあたりの演奏方式上の差違も、昨日ブログに書いたところの「まるでバッハの時代の演奏が時代を超えて立ち現われたかと思えるまでのフレッシュでみずみずしいアンサンブル展開を実現せしめており、クイケンのバッハへの深い帰依の度合いが聴いていて端的に伝わってくるよう」という私の印象を客観的に裏付ける「物証」として作用するところ、それなりに大きいのではないかという気がします。

クイケン/ラ・プティット・バンドによるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全曲の新録音


J.S.バッハ ブランデンブルク協奏曲全曲
 クイケン/ラ・プティット・バンド
 アクサン 2009年 ACC24224
ACC24224

ベルギーのアクサンから先月リリースされた、シギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンドの演奏によるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全曲のCDを聴きました。
 
古楽演奏の大家シギスヴァルト・クイケンは手兵ラ・プティット・バンドを率いて、かつてドイツ・ハルモニア・ムンディにバッハのブランデンブルク協奏曲全曲を録音しており、このコンビの2回目の同曲録音ということになります。また、クイケンは1970年代にレオンハルト・コンサートが録音したバッハのブランデンブルク協奏曲全曲にヴァイオリン奏者として参加しているため、クイケンとしては同曲の3回目の録音ということもできそうです。

ブランデンブルク協奏曲はバッハの作品の中でも特に私の好きな作品のひとつで、そのクイケンの旧録音やレオンハルト盤なども、かつて好んで聴いていた時期がありましたが、今回リリースのクイケンの新録音は、とりわけ同じコンビによる旧録音の地点から、どのような演奏解釈の発展なり熟成が聴かれるか興味をそそられます。

さっそく聴いてみると、全6曲を通してクイケンは持ち前のコンセプトとも言うべき、可能な限り緻密かつ周到にスコアの再現を目指すというコンセプトがアンサンブルの隅々まで浸透したかのような、まるでバッハの時代の演奏が時代を超えて立ち現われたかと思えるまでのフレッシュでみずみずしいアンサンブル展開を実現せしめており、クイケンのバッハへの深い帰依の度合いが聴いていて端的に伝わってくるようで、その演奏の音楽の充実感に身を浸しながら全曲を一気に聴き終えました。

このクイケンの新録音を聴いて私が特に素晴らしいと思ったのは、これほど豊潤にして落ち着きのある、懐の深い響きがピリオドオーケストラから聴かれるのかという点に、ある種の驚きを禁じえなかったことです。というのも、このクイケン新録音のブランデンブルクの演奏においては、例えばフレージングの鋭角性を無闇に強調するといったような、ピリオドスタイルの過剰な横溢を厳しく律しているような、その意味で華やかな楽想の中にもどこか禁欲的な佇まいがあり、それが作品への自然な共感を感じさせ、ひいてはバッハの音楽を聴き手に何気なく意識させる、そんな雰囲気が滲んでいるように思われたからです。

この点、私が今回のクイケン盤の直近に耳にしたブランデンブルク全曲の新譜として、昨年リリースされたガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツのCDがありましたが、そのガーディナー盤ではブランデンブルク協奏曲のロックンロールのような側面を強調したいというようなコンセプトがライナーノートに書かれていましたし、実際に聴いてみた印象としても、協奏曲第1番のホルンや第2番のトランペットなどを中心に、聴いていて何となくジャズ演奏を思わせる雰囲気をまとった演奏となっていました。それは確かに聴いていて胸のすくような、快適で、気持のいい演奏でしたが、同時に聴いていて「これって本当にバッハなのか?」というような一抹の疑問も拭えなかったのも正直なところです。

対して今回のクイケンの新録音は、くだんのガーディナー盤に比べれば表情の強さは遙かに穏健ですが、少なくともバッハを聴いたという実感なり達成感が聴後より強く湧きおこる、という観点においては、ガーディナー盤を凌駕する美質を備えているのではないかという気がします。

その意味では、クイケンが一回目のラ・プティット・バンドとの録音から、さらに高い表現を突き詰め、作品の核心に迫ろうとする、そんな地点に到達したような音楽の味わい深さが感じられます。SACDの音質が提供するソノリティの確かな実在感も含めて、これは単なるスコアの綿密な再現というに留まらない、極め付きのバッハ演奏のひとつと思えました。

演奏自体に関する私の感想は以上ですが、以下、クイケン/プティット・バンドのブランデンブルク全曲の旧盤と、今回の新盤との、演奏方式の違いについて言及しておきたいと思います。

今回の新盤が旧盤と明確に違う点は、主に以下の3点です。

①ヴィオロンチェロ・ダ・スパラの使用
②ワンパート・ワンプレイヤー方式
③協奏曲第2番で、本来「トロンバ」のためのパートにトランペットが使われている(旧盤ではホルンだった)

これについては後日あらためて書きます。

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