夏目漱石の小説「三四郎」


「夏目漱石の小説シリーズ」(←どうもパッとしないタイトルですが、他に思いつかないので、、最初「夏目漱石を語る」にしようと思いましたが、傲慢にも程があると思って止めました)ですが、今回は「三四郎」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-17

 三四郎はまったく驚いた。要するに普通のいなか者がはじめて都のまん中に立って驚くと同じ程度に、また同じ性質において大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きとともに四割がた減却した。不愉快でたまらない。
 この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。
 三四郎は東京のまん中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動には毫も気がつかなかった。――明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。

「三四郎」は1908年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、後に「それから」「門」と続く、いわゆる前期3部作の先駆けとなる作品です。東京大学(旧帝大)を舞台とし、主人公の三四郎が、親友の与次郎、ヒロインの美禰子、博識な広田先生といった個性豊かな登場人物を交えて織りなす学生生活の顛末が、漱石一流のユーモラスにして風格ある文調により鮮やかに活写されています。

この「三四郎」という小説の雰囲気は漱石の一連の作品群の中でも、かなり独特ではないかと思います。作品を支配する諧調はバラ色に近く、確かに、自分と社会との関係、距離感を計り切れない、青年期特有の不安や苦悩が随時、描かれはしますが、そういった色彩は作品全体の雰囲気を支配するまでには至らず、むしろ青春小説としての幸福な味わいの方が読後感として強く残るものです。

もうひとつ、この「三四郎」という小説が独特なのは、作品中に占められるユーモアとペーソス、つまり「笑い」と「涙」の配置関係が絶妙であるがゆえに、作品としての奥行きが深く感じられる点です。

「坊っちゃん」などは明らかにユーモア、笑いに傾斜していますし、「こころ」などは逆に、明らかにペシミズムに傾斜しています。もちろん、それぞれにおける漱石の語り口の巧さ、その表現の味わいなど、全く並のものではありませんが、「坊っちゃん」を読んで「こころ」のようなホロっとした感じにはなりにくいですし、「こころ」を読んで「坊っちゃん」のようなユーモアを楽しむこともまた難しいでしょう。

その点「三四郎」は、この両者が何か理想的ともいうようなバランスで拮抗していて、それが他の漱石作品にはない独特の複層的な味わいを形成せしめている、ように私には思えます。

ユーモアという点では、例えば以下のくだりなどが抜群です。

 その代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前をこれで三、四へん耳にしている。そうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名をつけている。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑われたのもやはり広田先生にしてある。ところが今承ってみると、馬の件ははたして広田先生であった。それで水蜜桃も必ず同先生に違いないと決めた。考えると、少し無理のようでもある。

実は「少し無理」どころではなく、はっきり言ってムチャクチャなんですが、こういうことを、こんな格調高い文体で平然と書かれると、どうしたって読んでいて笑ってしまわずにはいられません。とにかく面白い。

逆にペシミズムという点でも、ヒロインの美禰子が大活躍?することにより、深い味付けが大いに為されています。

この美禰子のキャラクタに関しては、指揮者、もとい識者の書かれた作品論をひもといてみますと「矛盾の女」「無意識の偽善者(アンコンシャス・ヒポクリット)」「迷える子羊(ストレイ・シーブ)」などなど、いろいろな切り口で書かれているようですが、例えば吉本隆明の作品論「夏目漱石を読む」(筑摩書房)では、最初に「虞美人草」の藤尾がもし自殺しなかったら「三四郎」の美禰子になったはず(!)、という大胆な仮説から始めて、「三四郎」という作品が「第一級の作品だけにある文学の初源性」をもっている点で、「最後の青春小説」であるという風に論じています。いずれにしても、美禰子をどう捉えるかが「三四郎」の作品論の根幹となっているようです。

そして、この長編小説のクライマックスは、あまりにも有名な以下のシーンです。

 女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香(かおり)がぷんとする。
 「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎(びん)。四丁目の夕暮。迷羊(ストレイ・シープ)。迷羊(ストレイ・シープ)。空には高い日が明らかにかかる。
 「結婚なさるそうですね」
 美禰子は白いハンケチを袂(たもと)へ落とした。
「御存じなの」と言いながら、二重瞼(ふたえまぶた)を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉(まゆ)だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎(うわあご)へひっついてしまった。
 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
「我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり」
 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。

まさに珠玉の名文。その抑制された慎ましい文調に漂う無限の情感。

例によってベートーヴェンとの対応についてですが、「三四郎」はベートーヴェンの交響曲第4番に対応すると考えます。主要9作品の中では異例ともいうべき、幸福で満ち足りた雰囲気の作風という点で共通項がありますし、それより何より、音楽の雰囲気と小説の雰囲気とがピタリと一致します。もしベートーヴェンの交響曲第4番に標題を付けるとしたら、私には「三四郎」しか思い浮かびません、というのは少し言い過ぎですが、「青春」くらいは付けても良さそうです。いずれにしても、この交響曲の全体に浮遊する独特の幸福な情緒は、作曲当時のベートーヴェンの幸福な恋愛事情が反映されたものであるというのが通説であり、そこに三四郎という作品の持つ青春の儚いまでの幸福な雰囲気と相通ずるものがあるような気がします。

以上、次回は「それから」についてです。

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