ロルティによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集
 ロルティ(pf)
 シャンドス 1991年~2010年 CHAN10616
CHAN10616

英シャンドスから今月リリースされた、ルイ・ロルティのピアノ演奏によるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集のCDを聴きました。

カナダの名手ルイ・ロルティは周知のようにシャンドスのトップ・ピアニストの一人として活動を続けていますが、そのロルティが、かつて1991年から取り組んだベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲録音プロジェクトにおいて、98年までに全32曲のうち24曲までが録音されたものの、そこでレコーディングが中断となったため、残り8曲が未録音のまま残されていました。

それが2009年に再開され、最後の第30~32番のソナタ3曲が2010年6月に録音されたことにより、ようやくロルティのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集が、ここに完成の運びとなりました。

ロルティというと私に思い出されるのは昨年5月に聴いたショパンのエチュード集のCDです。これは「シャンドス30周年BOX」というCD30枚組のセットの中に含まれていたCDですが、そこで披歴されたショパンが退屈とは無縁な、聴いていて胸のすくような名演と感じたことを、以前ブログに書いていました

そのロルティが20年をかけて録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、ぜひ聴いてみたいと思い購入した次第です。

まず聴く前に全32曲のレコーディングの流れを確認してみると、最初に第8番「悲愴」、第21番「ワルトシュタイン」、第26番「告別」の3曲が1991年に録音されてスタートを切り、それから92年までに1番から10番までが録音されています。さらに94年に28番と29番「ハンマークラヴィーア」の2曲を録音、続いて98年に11番~20番の計10曲を録音した時点で中断、しかし2009年12月に再開し22番~25番および27番の5曲を録音、そして2010年に30番~32番を録音して、ついに全32曲の録音完了という経緯となっています。

そこで、まず全9枚のCDのうち、2枚目のCD(ソナタ第5番~第8番を収録)、4枚目のCD(ソナタ第13番~第15番を収録)、9枚目のCD(ソナタ第30番~第32番を収録)の3枚を選んで聴いてみることにしました。

それで2枚目のCDである90年代初頭に録音されたソナタ第5番~第8番の演奏を聴いてみると、印象としては前述の、1986年に録音されたショパンのエチュード集と概ね同じような感触の演奏内容で、テンポのコントラストを比較的はっきり取りつつも、緩急のドラマが殊更に強調されるというよりは、音楽の自然な流れとしての起伏を聴いていて意識させられるところに好感を持てますが、個々のフレージングに関しては前述のショパンほどには冴えた印象が正直なく、全体的にピアニズムが荒削りで精密感に欠け、速いパッセージでの(無造作なくらいに)ぶっきらぼうなフレージングなども時おり耳につきます。

続いて4枚目のCDである98年に録音されたソナタ第13番~第15番の演奏を聴いてみると、大局的なテンポ感を中心とする演奏様式としてはソナタ第5番~第8番の演奏と軌を一にするものながら、ここでは気負いのようなものが抜け、全体としてピアニズムに一層の安定感と精密感が加わり、それに伴いピアニズムに落ち着きと風格が備わり、あたかもロルティの演奏が、なにかベートーヴェン弾きとしての貫録のようなものを帯び始めたかのような趣があります。

さらに9枚目のCDである今年(2010年)に録音されたソナタ第30番~第32番の演奏を耳にしますと、第30番の第1楽章冒頭から、ピアノ自体のソノリティが途方もなく美しいことに、ちょっと度肝を抜かされました。その和音の豊麗なこと! 個々のタッチが紡ぎだす、冴え冴えとした音色の艶やかさ、その現実離れした美しさに思わず驚嘆させられたのです。

一体これは何事かと思って録音環境を改めて良く調べてみると、このロルティのピアノソナタ全集では全32曲のうち29番まではスタインウェイが録音に使われているところ、最後の3曲のみ、イタリアの銘器ファツィオーリ(F278モデル)で録音されていることが分かりました。周知のようにファツィオーリは今年のショパンコンクールにおいて公式ピアノに採用されるなど、近年めざましい躍進を続けているイタリアのピアノメーカーで、とくに倍音を豊かに響かせるための独立アリコート方式に特徴があるとされています。そのあたりの使用ピアノ変更の効果がめざましいばかりで、それまでのスタインウェイでも音の美しさは十分なくらい引き立っているのに、それらさえ色褪せてしまうような別次元の響きとさえ聴いていて思えるほどです。

もっとも、ここでの3曲のソナタを聴いていて私が何より素晴らしいと感じたのは、単にピアノの響きが美しいという表面的な特性だけでなく、その演奏自体が厳しい精神性と魅惑的なまでの感覚的な美しさとの、不思議なくらいの共存関係が確立されていることや、音楽の内省と音響の艶美とが相互に少しも矛盾しないことなどに対してです。これにはロルティがファツィオーリの名手であるという事実だけでなく、おそらくはこれが20年に渡る自己の全集の完結であることからくるピアニスト万感の念が演奏に掛け替えのない訴求力を付与しているのではないかと思えてなりませんでした。

残り6枚のCDに収録されているソナタも、じっくりと聴いてみたいと思います。

アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによるバッハのマタイ受難曲(2000年録音盤)


J.S.バッハ マタイ受難曲
 アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
 テルデック 2000年 8573-81036-2
8573-810362

今週サントリーホールで耳にしたニコラウス・アーノンクール率いるウィーン・コンツェントゥス・ムジクス来日公演のバッハ・ロ短調ミサの演奏が圧巻だったことを、先日ブログに書きましたが、そのアーノンクールのロ短調ミサの、およそ開放感とは無縁と言わんばかりに重苦しいリアリズムに貫かれた音楽の表情を聴いている時、それが同じバッハの「マタイ受難曲」の趣きに何となく似ているような印象を覚えました。

ところで、その公演のプログラムに、「アーノンクール、大いに語る」というインタヴュー記事が掲載されていて、その中に幾つか興味深い話が記載されています。

2010-10-30

その中で、「現在の精神状態は?」という問いに対し、アーノンクールは「悲観主義」と答えています。「今日の我々に音楽は何を与えてくれるか?」という問いに対しては、価値観の錯綜する今の時代に、本当に重要なことは何かを教えてくれたり大切なことを思い出させる力があり、私たちを人として成長させ、強くする、ただし、それは個人的な成長であり、人類全体を対象に考えた場合、残念ながら無力である、と。

とくに最後の、残念ながら音楽は無力であるというくだりにアーノンクールの悲観主義的な世界観が反映されているように思えますが、このアーノンクールの悲観主義が私には何となくマタイ受難曲の世界観とオーバーラップするように思われ、その観点から当夜アーノンクールが披歴したロ短調ミサの演奏の印象を改めて振り返ってみると、やはりアーノンクールはロ短調ミサをマタイ受難曲のイメージに出来るだけ近づけようとしたのかもしれないという印象を深めました。

というのも、マタイ受難曲という作品自体そもそも相当に悲観主義的な世界観に貫かれたものであって、そのストーリーの概要を一言でいうなら、要するに堕落した人類が神の怒りにふれて滅ぼされるところをキリスト一人が犠牲になったことにより人類が救われた、という話ですが、旧約聖書の記述に端を発する、この神の手により堕落した人類が滅ぼされる運命にあるという思想自体、まさに極度に悲観主義的なものに他ならないと思えるからです。

ひるがえってバッハのロ短調ミサという作品には、基本的にミサという儀式形態に則っている以上、たとえキリストの磔などが象徴的に語られることはあっても、少なくともマタイのような劇としての強力なドラマトゥルギーは備えていないし、その意味では、本質的に悲観主義的な作品とは言えない。しかし、そのマタイの世界観をロ短調ミサという作品に盛り込もうとした結果、あのような特異な趣きを放つロ短調ミサとしてホールに立ち現われたのではないかと、そんな気が私にはします。全く的外れかもしれませんが、少なくとも当夜アーノンクールの演奏したロ短調ミサには、「マタイ」を彷彿とさせるまでの、何か抜き差しならない緊迫感と名状しがたい暗黒の佇まいが重苦しく居座っていたように思えてならない・・

・・というようなことを考えながら、アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのバッハ・マタイ受難曲のCDを今日、久しぶりに聴きました。2001年にリリースされた、アーノンクール3度目の「マタイ」全曲盤。ドロテア・レッシュマン、ベルナルダ・フィンク、エリーザベト・フォン・マグヌス、ミヒャエル・シャーデと、先日のロ短調ミサの演奏会で歌った独唱陣が多く起用されていますし、当夜のアーノンクールのバッハの余韻に浸るにはもってこいのCDです。

ポリーニによるバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻


J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻
 ポリーニ(pf)
 グラモフォン 2008・2009年 4778078
4778078

イタリアの名ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニのピアノ・リサイタルを来週、サントリーホールに聴きに行く予定です。演目はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻(BWV846~869)の全曲。

ポリーニは今月中旬から東京で来日リサイタルを開き、既にショパンやベートーヴェンのプログラムで見事な名演奏を披露しているところが伝えられていますが、私は最後のバッハ公演を選んでチケットを取りました。

というのも、ポリーニが最近リリースしたバッハ・平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲のCDで披歴されている演奏が思いのほか良かったので、実演で聴いてみたいと思ったからです。

このCDは昨年10月にリリースされたものですが、実はリリース当初に購入したものではなく、これまでブログにも特に感想を掲載していません。あのポリーニがバッハの平均律を録音ということで、かなり話題になっていたように思いますが、私は特段ポリーニに注目しているわけでもないので食指が動きませんでした。

しかし今年の3月にリヒテルによるバッハ・平均律クラヴィーア曲集全曲のインスブルック・ライヴがリリースされ、それを夢中で聴いていた頃、そのポリーニの平均律のCDのことを思い出しました。それで新たに興味が湧き起こり、購入して聴いてみることにしたのでした。

そうしたら、評判通りの素晴らしいバッハが、そこにありました。あっさりしたテンポで進めながらコクの深い響き、無造作に弾き飛ばしているようで緻密に制御されたタッチの妙感、ポリーニらしい正確無比な演奏テクニック、それに何よりモダンピアノで平均律を聴く愉悦感が聴いていて胸に充溢するバッハ。よっぽど感想をブログに書こうかとも思いましたが、その3月の時点でリリースから半年近くも経っていましたし、リスナーの評価も既に芳しいようでしたし、今さら隠れた名盤でも見つけたかのように騒いで笑われてもなあということで見合わせていました。

そういう次第で、このところ直前キャンセルが多いので少しだけ心配ですが、このCDで披歴されているポリーニのバッハがサントリーホールに響きわたる来週のリサイタルが楽しみです。

アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの来日公演(サントリーホール 10/26)の感想


昨日(10/26)のサントリーホール、アーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの来日公演の感想です。

  2010-10-27

オーケストラ編成は6型(6-6-4-2-2)、配置はステージ向かって左から第1&第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、木管群と順に並べられました(第1ヴァイオリンと木管群とが対向するパターン)。オーケストラの背後には5人の独唱陣が配置され、その後方にアーノルト・シェーンベルク合唱団が配置されました。合唱団の人数は、ざっと数えて50人という大所帯でした。

当夜の演目はバッハの「ロ短調ミサ」1曲ですので総括的な感想になりますが、一言でいうなら衝撃的なバッハでした。最初のキリエでの合唱の静謐にしてストイックなソノリティの静寂感(約50人もの合唱の発する音量が、なんと静かで禁欲的であったことか!)、あるいはグローリアでのオーケストラの響きの清冽な佇まいが、ホールの満面に広がる様相など、いずれもオケと声楽との対比という観点からすると、およそ漫然とオケなり合唱なりを響かせているのとは全然違う、緻密に考え抜かれた音量のバランスとしか思えないものでしたし、クレドでの楽曲ごとの陽陰対比が不気味なほどに鮮やかだったり、サンクトゥスでの合唱とオケの響きの溶け合いが異常なまでに美しかったり、アニュス・デイでの緻密を極めた弱音統制が作品の蒼古的な味わいを、これまた異常なくらい浮き上がらせていたり、そういったことが、どれひとつ取っても当たり前のように表現されているあたりが、まず聴いていて驚異的と感じられました。

このようなバッハは、そもそも軽やかで鋭利で明晰なアンサンブル表現力を備えたノンヴィブラートのピリオドアンサンブルでなければ表現できない世界(というものも確かにある)とも、また別の次元の、何かCMWでなければ表現できないような世界というべきであり、それはCMWのアーノンクールに対するレスポンスが、およそ尋常でないレベルだった点も含め、おそらくアーノンクールが思い描いたのではないかと考えられる(後述のような)演奏ビジョンを的確に音響化することのできる手兵オーケストラならではの世界と言い換えてもいいのかもしれない。それは1953年のアンサンブル創立時から音楽監督が半世紀以上も変わらないという、世界的にも他に類例のないコンビである以上、もはや当然のことなのかも知れません。ただ、彼らにとっての「当然」というのは、一般的には全く当たり前でない世界なのだなということを改めて認識させられたことは、ひとつの大きな収穫でした。

しかし当夜のコンサートで私にとっての最大の収穫、すなわち最も意義深く感動的だった事象は、全編を聴き終えた時に少なくとも私の持つバッハのロ短調ミサという曲のイメージが、(以下で具体的に書きますが)こういう曲「でも」あったのかというように、何か全く別のものに新たに塗り替えられたかのような気分を味わったことでした。

私がバッハのロ短調ミサを耳にした直近のコンサートは、昨年の東京ラ・フォル・ジュルネで、演奏はミシェル・コルボ/ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルでした。このコルボのバッハ・ロ短調ミサの実演は素晴らしく、それは演奏手法としては近年まれにみるほどにオーソドックスなものであって、この曲の演奏において主流の古楽的なアプローチも殊更に強調されてはいませんでしたが、オーソドックスであるがため演奏主体が作品に込めた真っ直ぐな情感が聴いていてダイレクトに感得されるような趣きがありましたし、全体的な演奏の雰囲気としても、動的な激しさや音色の厳しさよりもむしろ音楽の開放的な高揚力と内面的な深みを感じさせるものであるとともに、あたかも春の陽光の中に身を沈めているようなアンサンブルのまろやかな味わいに独特にして得難い魅力が感じられたのでした。

そして、このコルボのロ短調ミサの感銘が私の中で大きかったために、自然それを私にとってのロ短調ミサの理想的演奏形態の最右翼として認識していたのです。しかし当夜アーノンクール/CMWが披歴したバッハのロ短調ミサは、前述のコルボのそれとは全くといってよいほどに音楽の表情が違っていました。これはどちらが演奏として上か下かという話ではなく、優劣もなにもないのですが、結果として立ち現われたバッハの音楽の世界という観点からすれば、両者の間には厳然とした雰囲気の違いが認められ、それが私には非常に新鮮でした。いわば、この曲がコルボの演奏したような曲でもあると同時に、アーノンクールの演奏したような曲でもあり、それらが相互に排斥せず両立しうるという事実、ひいてはバッハの音楽の無限とも思える懐の深さのようなものに感銘を新たにしたからです。

そもそも当夜アーノンクールの披歴したロ短調ミサが、コルボのそれと違っていたのは、単に使用楽器が現代楽器かピリオド楽器か、ピッチが現代標準かバロック型か、あるいはフレージングが現代の奏法かバロック奏法か、など、それこそ枚挙に暇がないくらいにありますが、何よりも私が違いを強く意識したことは、このロ短調ミサという、バッハの宗教音楽の金字塔であり当時の典礼音楽としては革命的な音楽が、いかに常軌を逸したような重苦しさ、いわば暗黒を帯びているか、それがアーノンクールの演奏で聴くと恐ろしいほどに仮借なく、リアルな姿で浮き上がってくるように感じられた点です。それは、どちらかというと作品の開放的な様相に焦点を当て、その美質を印象づけたかのようなコルボの演奏とは全く別の曲であるかのような印象すら聴いていて受けました。

何故そうなるのかというと、やはりアーノンクールの表情形成というのが、演奏の雰囲気としてコルボとは逆に音楽の沈鬱な側面なり漆黒の深淵を覗きこむような趣きなりを強調しにかかる傾向が強く、それが作品の重苦しい諸相を自ずと強調することになったのではないかと、聴きながらに思ったりもしました。が、もしかすると、当時の演奏の再現を徹底的に追及するというアーノンクールの意識自体が、そういった音楽のベクトルに同調性を持つものなのかもしれません。つまり、アーノンクールが当時の演奏様式にこだわり、それを忠実に再現すればするほど、たとえば現代楽器が奏でるような華やかな響きの色彩が削ぎ落されていき、この作品が本来的に持つ仄暗い色調が強調されてゆくという図式です。いずれにしても、これほど重い訴求力を帯びたリアリズム的なバッハがホールに響き渡る様は圧巻の一言で、聴いていて震えがくるほどでした。

ただ、それでも往年のアーノンクールの、つまり古楽演奏の旗手と称された頃のイメージからは随分と隔たった地点での演奏であったことも、また動かし難い事実と思えました。そもそも往年のアーノンクールのバッハ演奏においては、なにか抜き身の刃物を振りかざすような、衝撃的で、深刻を極めたような表情付けという特質が確かに存在したように思いますが、そういった露骨な攻撃性を孕んだ音楽の面影は当夜の演奏では希薄であって、もっと表現として円熟して洗練化された、より音楽的な純度の高い形態で立ち現われたバッハでした。それは作品を自己の流儀で捻じ伏せるというより、作品と真正面から向かい合い、落ち着いて対話するかのような老巨匠の姿とも感じられましたし、それが一段と音楽の趣きを深め、当夜の至高のような演奏に帰着したのではないかと思えました。

それにしてもアーノンクールのバッハの実演、また日本で耳にしたいと思うのは私だけではないはず。出来るなら、これで最後と言わずに5年ぐらいしたら再び来日して当代随一のバッハを聴かせてくれたらと思います。

アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの来日公演(サントリーホール 10/26)


今日はサントリーホールでウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの来日公演を聴いてきました。

2010-10-26

指揮者はニコラウス・アーノンクールです。演目はJ.S.バッハのミサ曲ロ短調、合唱はアーノルト・シェーンベルク合唱団で、歌唱陣は以下の通りでした。

ソプラノ:ドロテア・レッシュマン
アルト1:ベルナルダ・フィンク
アルト2:エリーザベト・フォン・マグヌス
テノール:ミヒャエル・シャーデ
バリトン:フローリアン・ベッシュ

アーノンクール率いるウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(CMW)は2006年にも来日していましたが、私はチケット争奪戦に敗れて聴き逃していたところ、今年また来日の運びとなったので、今度は満を持して聴きに行きました。なお今回の来日に関してはアーノンクール自身が「今後、ヨーロッパ以外へのツアーは一切行わない」と断言しているとのことで、おそらく彼の最後の来日公演になるのではないかとも言われています。

今日の公演の感想は後日あらためて出しますが、バッハのロ短調ミサって、こういう曲「でも」あったのか、という視点での驚きを禁じえなかった点も含めて、バッハを聴く醍醐味に溢れた大満足の演奏会でした。往年のアーノンクールのイメージからは随分と隔たった地点での演奏だなと思いながら、彼の披歴したバッハは紛れもなくピリオドアンサンブルでなければ表現できない世界であり、またCMWでなければ表現できない世界でもあったように思います。

オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会(東京文化会館小ホール 10/24)の感想


昨日(10/24)の東京文化会館小ホール、オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会の感想です。

まずハイドンのヴァイオリン協奏曲ハ長調が演奏されました。これは指揮者を立てず、鈴木秀美氏はチェロ奏者として参加、ヴァイオリン独奏が佐藤俊介、オーケストラは4-4-2-1-1の対向配置でした。

このヴァイオリン協奏曲は当時ハイドンが仕えたエステルハージ侯爵家お抱えのオーケストラでコンサートマスターを務めていたヴァイオリン奏者のために作曲した作品とのこと。実演で耳にしたのは、これが初めての機会でしたが、文法的にみるとバロック時代のリトルネロ方式と古典派時代のソナタ形式とが、どっちつかずに混在するような書かれ方をされているので、いわばバロック時代の残滓と古典派時代の萌芽とが、ぎこちなく同居するようなアンバランスさがあります。そのあたりの「どっちつかずさ」が却って斬新でユニークだなと思いながら面白く拝聴しました。

続いて編成を6型とし、ハイドンの交響曲第92番「オックスフォード」が演奏されました。

さすがに彼らが自家薬籠中のものとしているハイドンの交響曲ということもあり、アンサンブルにおける室内楽的なまとまりは揺るぎなく、そこから繰り出されるハーモニーの鮮やかな色彩感も目覚ましく、ピリオド・アンサンブルならではの繊細なニュアンスも素晴らしく、昨年の88番を聴いた時と同じように、ハイドンの綿密な設計によって創り出された音響的なイメージが、曖昧のないキリッとしたオリジナル楽器アンサンブルの手により白日の下にされる、そんな演奏でした。ユーモアを殊更に強調するような拡大解釈をひかえた、スコアに誠実な演奏であるがゆえの良さというべきでしょうか。いずれにしても、このハイドンの90番台のシンフォニーの持つ成熟した音楽の味わいが精妙に浮き上がっていて、これには聴いていてグッと惹き込まれました。

休憩を挟んだベートーヴェン交響曲第2番ですが、ちょうど1年前に彼らが披露したベートーヴェン交響曲第1番での凄い気迫と充実に満ちた表現を踏襲した行き方で、大変な気合いの入りようでした。楽想にふさわしい速めのテンポと小気味良いリズムで曲を運びつつ、適度な緊張感で全体を引き締めながら終始生き生きと音楽を躍動させ、この第2番が第1番よりも格段にベートーヴェンらしさが増大する(逆に言うなら、それだけハイドン的な特性から遠ざかる)ことを、聴き手が強く実感させられる、そんな演奏でした。

それは個々のアーティキュレーションやフレージングのレベルにおいて、「ベートーヴェンはハイドンとは、こんなに音楽の性質が違うんだ!」というようなアンサンブルの強い表現意欲が滲み出るような雰囲気の、極めてアグレッシブなベートーヴェンでした。その並々ならない表出力には聴いていて率直に強い感銘を刻みつけられましたが、そういったビジョンを少しばかり強調し過ぎではないという思いも聴いていて少しだけ感じました。確かにベートーヴェンとハイドンとは違うが、断絶しているわけではなく、ハイドンの音楽の延長線上にベートーヴェンが君臨しているという考え方も真っ当だと思うので、あまり「違い」が強調されすぎるというのも果たしてどうなんだろうと聴いていて思わなくもありませんでした。

むろんベートーヴェンの交響曲第2番は、ハイドンの音楽の影響を如実に残す交響曲第1番とは性質が違っていて、ハイドンから離れたベートーヴェンの個性が強烈に発揮し出される作品なので、そこにハイドン的なものを盛り込もうなんて困難な話とも思えますし、その意味では、上で書いたような私の発想の方が根本的に間違っているのかもしれません。しかし、これまでハイドンの領域を中心にアンサンブルとしての研鑽を積んできたOLCであれば、そういった独創的な表現方法も可能ではないかという個人的な期待感もあったので、そういった「違い」が聴いていて過分に意識されてしまったのでした。

そういった私の浅薄な先入観は置くとしても、私が聴いていて少々気にならざるを得なかったのは、コンサート会場となったホールの演奏環境のことでした。これまでOLCのホームグラウンドだった浜離宮朝日ホールを離れ、今年から東京文化会館小ホールへと移ったわけですが、このホールでベートーヴェンの交響曲を演奏するには構造的に少し問題があるような気がします。何よりステージが小さすぎてアンサンブル奏者が台上にひしめきあっている状態ですし、ホールの構造も、正方形の頂点の一角にステージが配置されるというもので、シューボックス形態の浜離宮朝日ホールとは形が全く違っていて、残響の度合いといった音の響き方に如実に違いが出ていたように思われたからです。

演奏自体は全く素晴らしいものでしたし、何よりもOLCにとっての新たな地平であるベートーヴェンに対しての、果敢なチャレンジ精神と、旺盛な表現意欲とからくるアンサンブルの並々ならない表出力に、聴いていて率直に感動を覚えました。ただ、もしこれが浜離宮朝日ホールであったなら、さらに目覚ましい演奏だったように思えて、もったいない気がしたというのも、また正直なところです。というのも、どうしても響きがデッドになるので、そのぶんハーモニー内のパート相互の溶け合いが鈍く、強奏時に響きの美感が削がれたり、フォルテのフレージングが少々ささくれ立った感じに響いたりといったことが、少なくとも昨年に比べて多かったように思われたからです。

そういう次第で、今回のベートーヴェンは演奏自体としては素晴らしくて感動的なものだっただけに、ホールの演奏環境に関する若干の瑕疵が惜しまれたというのが率直なところですが、どうやら来年秋のOLCの公演会場は浜離宮朝日ホールに戻るようです。おそらく来年は交響曲第3番「英雄」が取り上げられると思いますので、これは期待したいと思います。

オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会(東京文化会館小ホール 10/24)


今日は東京文化会館・小ホールでオーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会を聴きました。

2010-10-24

指揮者は音楽監督の鈴木秀美、演目はハイドンのヴァイオリン協奏曲ハ長調(ヴァイオリン独奏: 佐藤俊介)と交響曲第92番「オクスフォード」、休憩を挟んでベートーヴェンの交響曲第2番というものでした。

またアンコールには、鈴木秀美氏が「コッテリとしたビフテキのようなベートーヴェンの後ですから、サッパリしたシャーベットのような曲をお届けします」と告げてからハイドンの交響曲第62番の第2楽章が演奏されました。

オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会を耳にするのは一年ぶりで、その時の公演ではベートーヴェンの交響曲第1番が演奏されました。それまでレパートリーを古典派の音楽に限定して演奏するというポリシーを掲げ、ハイドンの交響曲作品を中核としながらC.P.E.バッハやモーツァルトなども取り上げてきたピリオドアンサンブルのオーケストラ・リベラ・クラシカが、当時のホームグラウンド浜離宮朝日ホールでの公演として、いよいよベートーヴェンの交響曲を初めて演目とした記念すべきコンサートでした。

その時に演奏されたベートーヴェンが大変見事な演奏だったことは以前ブログに書きましたが、今回はベートーヴェンの交響曲第2番が演目に載せられるということで興味津々で聴きに行きました。

感想は後日に改めて出しますが、ホールに少し難ありというのか、この小ホールにベートーヴェンの交響曲というのは少々スペックオーバーではないかと思われ、そのあたりに聴いていて微妙な違和感が感じられなくもありませんでしたが、演奏自体は昨年の浜離宮朝日ホールでのベートーヴェンを彷彿とさせる充実感に満ちた演奏で、全く素晴らしいものでした。

夏目漱石の小説「門」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「門」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-19

 宗助と御米(およね)とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味(きまず)く暮した事はなかった。言逆(いさかい)に顔を赤らめ合った試(ためし)はなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。
 自然の勢(いきおい)として、彼らの生活は単調に流れない訳に行かなかった。彼らは複雑な社会の煩(わずらい)を避け得たと共に、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分と塞(ふさ)いでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を棄てたような結果に到着した。彼らも自分達の日常に変化のない事は折々自覚した。御互が御互に飽きるの、物足りなくなるのという心は微塵も起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟(しげき)に乏しい或物が潜んでいるような鈍い訴(うったえ)があった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦(う)まず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背(そびら)を向けた結果にほかならなかった。

「門」は、ちょうど今から100年前となる、1910年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「三四郎」「それから」とともに漱石の前期3部作を構成する作品です。

主人公の野中宗助と、その妻の御米の、一見して仲睦まじい夫婦が、実は過去に暗い傷を抱えており、その傷口がふとしたキッカケで大きく開いていく、という話ですが、この小説では特に、主人公の平凡を極めたような日常生活が淡々と綴られる前半部と、主人公の中で過去に犯した「罪」の意識が大きく首をもたげる後半部とのギャップが著しく、そのあたりが批評家から問題視されがちな作品でもあります。

正直、私も最初「門」を読んだ時は、「この小説は、何が面白いのだろう」と思いましたし、特に前半部が読んでいて少々(どころじゃなく)かったるく、その意味で退屈さを感じました。異様なくらい淡々とした筆致から、ひたすらに主人公の平穏かつ無為な日常が綴られていく。とにかく平凡です。「それから」のように主人公の周辺なり意識なりで波風が立つというのでもない。後半の参禅にしたところで、結局のところ何の意味もない。ということで、この「門」という作品を咀嚼しあぐねた私は、識者の作品論を当たらざるを得なかった。しかし幾つか作品論を読んでも、どうもピンと来ない。というのも、漱石作品の中でも「門」は重視しないというスタンスの評者がほとんどだったからです。

しかし、ある一冊の本が私の「門」という作品に対する見方をガラッと変えさせてくれました。それは福永武彦の文学エッセイ「鴎外・漱石・龍之介」(講談社文芸文庫)です。

「私は昔からこの『門』という作品が好きだった」という著者は、「三四郎」「それから」「門」の3部作が、相互に連結することによって一つの長編小説を形づくっている、という視点を私に提示してくれたのです。「門」を欠いては「三四郎」も「それから」も中途半端である。「門」の暗さが前二者に投影して、初めて一つの想像世界が完結する、、、いわば「三部作」という枠組みから一歩進めて、これら3作を一編の長編小説として読むべきという指摘ですが、それを読んだ私は、それが何となく腑に落ちたような気がしたのです。

その後で私が出会ったのが、大岡信・著「拝啓 漱石先生」でした。ここでは、漱石作品の中でも「門」は重視すべきだというスタンスから、「門」の文学的リアリティーを詳細に検討した上で、以下のように結論付けています。

 小説の世界は、つまずきの世界であるといっていい。それは我々に、さらによく物事を理解したいという知的情熱を起こさせるものではあっても、決して我々に悟性や英知をあたえるものではないのである。少なくとも、漱石によって描かれた多くの女性像は、漱石の論理的追究が力尽きて途絶えたと見えるところで、不意に美しい、なまめかしくさえある現実性をもって、立ちあがる。
 作品「門」は、このように見てくると、小説構成で破綻をきたした、ほかならぬその場所で、漱石晩年の作家的道程の決定的里程標となっているわけである。宗助の参禅は、客観的に見るならば唐突であるかも知れない。しかし早晩、漱石は同じようなことを小説の中で扱わなければならなかったのである。宗助の参禅ということによる人間内面の世界への開眼こそ、漱石の向かうべき道を明らかに指し示す最初の事件だったのであった。

私は「三四郎」と「それから」の2作品は掛け値なしに面白い小説だと思っていたのに対し「門」だけは、何が面白いのか良く分らなかった。しかし、福永武彦氏と大岡信氏の作品論を読むに及び、この小説の持つ意義や重みといったものが、以前よりずっと強く実感できるようになった気がします。

そして、この漱石の「門」という作品を仮にベートーヴェンの交響曲に喩えるとすると、私には交響曲第6番「田園」のイメージが最も当てはまるように思えます。

まず作品前半に自然観照の描写が多い点が挙げられます(このことは福永武彦氏が上記エッセイの中で指摘されています)。例えば以下の部分などがそうです。

 今まで陰気な室(へや)にいた所為(せい)か、通(とおり)へ来ると急にからりと気が晴れた。肌の筋肉が寒い風に抵抗して、一時に緊縮するような冬の心持の鋭どく出るうちに、ある快感を覚えたので、宗助は御米もああ家にばかり置いては善(よ)くない、気候が好くなったら、ちと戸外の空気を呼吸させるようにしてやらなくては毒だと思いながら歩いた。
 坂井の家の門を入ったら、玄関と勝手口の仕切になっている生垣(いけがき)の目に、冬に似合わないぱっとした赤いものが見えた。傍(そば)へ寄ってわざわざ検(しら)べると、それは人形に掛ける小さい夜具であった。細い竹を袖(そで)に通して、落ちないように、扇骨木(かなめ)の枝に寄せ掛けた手際(てぎわ)が、いかにも女の子の所作らしく殊勝に思われた。こう云う悪戯(いたずら)をする年頃の娘は固(もと)よりの事、子供と云う子供を育て上げた経験のない宗助は、この小さい赤い夜具の尋常に日に干してある有様をしばらく立って眺(なが)めていた。そうして二十年も昔に父母が、死んだ妹のために飾った、赤い雛段(ひなだん)と五人囃(ごにんばやし)と、模様の美くしい干菓子と、それから甘いようで辛い白酒を思い出した。

生垣の目に、「人形に掛ける小さい夜具」が掛かっていた、という描写。この夜具は、以後の話においても特段、何かの伏線になるということはありませんが、それが逆に、この場面の印象を(私の中で)大きく深めているように思えます。

そして作品後半部で、唐突に主人公を襲う苦悩の暴風雨、そして最後に訪れる(仮初めの)平穏、という流れも、漱石の「門」とベートーヴェンの「田園」とは奇妙な一致を示しています。

もちろん漱石の「門」の前半部の舞台は東京の都市部であり、「田園」ではありませんが、しかし「門」という小説における時間の緩慢な流れは、どこか田園の長閑な時間の流れに似通っているような気が私にはします。

もうひとつ私が面白いと思うのは、この「門」という小説の題名が、漱石の主要9作品の中で唯一、「実質的な標題」としての機能を果たしている点です。ここでいう標題とは標題音楽における標題と同じ意で、その作品の情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを聴き手に喚起させることを意図して与えられるネーミングという意味です。

この点、ベートーヴェンの9つの交響曲の中で、ベートーヴェン自身が与えた「実質的な標題」が、交響曲第6番の「田園」ただ一つしかないことは、ベートーヴェンの愛好家であれば周知の事実でしょう。

対して漱石の主要9作品のタイトルを見ますと、「吾輩は猫である」は小説の最初の一文をそのまま抜き出しただけで「実質的な標題」の機能はないですし、「坊っちゃん」は単に主人公のあだ名ですし、「虞美人草」にも標題性は特に認められませんし(これは別の作家の小説のタイトルを借りたに過ぎないとされます)、「三四郎」などは主人公の名前そのまんまですし、「それから」は単に「三四郎」という作品の「それから」ということを抽象的に示しているに過ぎませんし、「彼岸過まで」というタイトルは小説の筋と一切関係の無いものですし、「行人」と「こころ」も、標題というのは甚だ抽象的なものです。

こう考えると、唯一「門」だけが、標題性、つまり小説の筋と密接に関係する具体的な意味を持っている。ここでの門とは仏門、つまり主人公の参禅を表しているわけですが、この点においても漱石の「門」とベートーヴェンの「田園」とは奇妙な共通点を持ち合っていて面白いなと思います。

以上、次回は「彼岸過まで」について書きます。ただ、これから本格的にコンサートシーズンに入ることから、今後このシリーズは2週に一回くらいの割合で掲載することになると思います。ご了承ください。

引き続き、ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークによるブラームスの交響曲第4番


ブラームス 交響曲第4番ほか
 ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
 ソリ・デオ・グローリア 2008年ライヴ SDG705
SDG705

昨日の続きとしまして、CDを聴いての感想です。

まずアルバムとしての配曲のバランスが毎度のことながら絶妙です。最初のベートーヴェンのコリオラン序曲の終和音が消えるかというタイミングで始まるガブリエリの宗教曲の神秘的な味わいなど、まず本CD以外で耳にすることはないと思いますし、ガブリエリやシュッツの宗教曲の直ぐ後にブラームスの宗教曲を耳にすることで、それら時代を超えた作品相互の類似的な関連性がうっすらと透けて見えたり、ブラームスの「祭典と記念の格言」でのアーメンコーラスが終るや、ひそやかに交響曲第4番の第1楽章が始まるあたりの、あたかも映画のモンタージュ技法を彷彿とさせる、音楽の大胆な場面転換のインパクトなども、このアルバムならではの掛け替えのない聴きものだと思います。

アルバムのメインとなる交響曲第4番の演奏については、これまでリリースの交響曲第1~3番と概ね同様のアプローチと感じられ、全楽章を通して管パートの音色の張りが際立っている点、対して弦楽器の方は重厚さこそ薄いが強靭な音色の切れ味が鋭く、ティンパニの音立ちもパリッとしていて、最先端のピリオドオーケストラならではの洗練された音楽の迫力がコンスタントに立ち現われています。

テンポ面に関しては、例えば第1楽章の楽章タイム11秒ジャストは往年のトスカニーニ並みの高速進行となっていますし、同楽章コーダなど、ここぞという時にはアンサンブルの限界に挑むかのような猛烈を極めるアッチェレランドを仕掛けて迫真の表情を生ぜしめます。第3楽章なども凄い迫力で音楽が突進し、なるほどこれは確かにブラームスがベートーヴェンに触発されたような趣きが濃厚だなと聴いていて納得させられてしまうほどです。

その反面、こと完成度という点においては、ライヴ取りゆえのムラとも思えるようなシーンが時おり耳につくのも事実ですし、ピリオドオーケストラならではの繊細なニュアンスの表出にも難があり、迫力があるだけでない精緻さというものが足りないかなと思われる点、また怒涛のような音の奔流に埋もれて、それなりに細部の機微が阻害されている点は少し気になりますし、あるいはガーディナーの流儀というか、ブラームスに対するポリシーに由来するのか、ほぼハイテンポをベースに造型が組まれているため、メロディを歌謡的に歌い込むシーンでのフレージングの息の短さが気になる、など、聴いていて気になる点も幾つかあるにはありました。

しかし、今回の交響曲第4番の演奏も含め、これまでガーディナーのブラームスシリーズを耳にして私が毎回のように感じたのは、ピリオドアンサンブルによるオーセンティックな表現であるという事実を決して金科玉条のように振りかざさない、およそ無味乾燥な学問的な考証という域を大きく超えた、多くの聴き手にダイナミックに訴えてくるエモーショナルな表出力を備えているという点が何よりの美質ではないかということです。

そして、そこにはピリオドオーケストラにとっての新たな地平を開拓せんというようなガーディナーの並々ならない気概があるのではないかと思います。少なくとも、ピリオドオーケストラの演奏によるブラームスの交響曲全集の録音としては、これまでノリントン指揮ロンドン・クラシカルプレイヤーズ盤しか選択肢が無かったところですが、そこから音響的な洗練を飛躍的に推し進めた、今回のガーディナー/ORRの登場は、ロマン派の音楽に対する表現の多様性が更に広がる可能性を示した点でも大きな成果であるような気がします。

むろん単に既出の録音との差別化という点だけでなく(その意義は大きいとしても)、バッハに端を発してモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトから、シューマンあたりまで開拓されたピリオドオーケストラの演奏領域が、今後ブラームスを超えてマーラーあたりにまで行き着くのか、どうか、現状では不確定ですが、いずれにしても「当時の楽器で」演奏されるということの意義を考えた場合、当時の聴衆の耳にはこんな風に響いたであろう感覚の追体験というだけでも我々聴き手に取って掛け替えのない意義があるように私には思えます。

以上、これでブラームスの全4曲のシンフォニーの録音をコンプリートし、晴れてシリーズ満了、かと思いきや今後のリリース予定としてブラームスのドイツ・レクイエムも入っているとのことです。今度はどんなアルバム構成を打ち出してくるか、興味をそそられます。

ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークによるブラームスの交響曲第4番


ブラームス 交響曲第4番ほか
 ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
 ソリ・デオ・グローリア 2008年ライヴ SDG705
SDG705

英ソリ・デオ・グローリア・レーベルより先月リリースされた、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークの演奏によるブラームス交響曲第4番のCDを聴きました。2008年10月、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのコンサートのライヴ録音です。

このガーディナーのブラームス・シリーズは、手兵オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク(以下ORR)およびモンテヴェルディ合唱団を指揮して、ブラームスの4つのシンフォニーと主要な合唱作品を順次ライヴ録音してゆくというプロジェクトですが、まず交響曲第1番を含むCDが2008年秋にリリースされたのを皮切りに順調にリリースを重ね、今回のCDが第4弾ということになります。

SDG702-704

このガーディナーのプロジェクトは私も2年前のシリーズ開始当初から注目しており、これまでリリースの3つのCDは全て耳にして、いずれも感想をブログに掲載済みですが、そのどれもがピリオド・オーケストラによるブラームスのシンフォニー録音として画期的な成果ではないかという風に感じていましたので、この第4弾CDも迷わず購入しました。

このシリーズはアルバム構成が一風変わっている点も特徴的で、それは例えばブラームスの交響曲ひとつにハイドン主題変奏曲とか悲劇的/大学祝典序曲を抱き合わせるという「お決まりパターン」とは一線を画した、独特のアルバム・コンセプトが伺われるものです。過去にリリースされた3つのCDで言いますと、第1弾のCDでは交響曲第1番の前にブラームスの2つの合唱曲とメンデルスゾーンの合唱曲が配置されていましたし、第2弾のCDでは交響曲第2番の前にシューベルト歌曲のブラームス編曲版が置かれていましたし、第3弾では交響曲第3番の前後にブラームスの声楽曲が絶妙なバランスで配置されていました。

これらを私が耳にした印象としては、例えば第2弾のものでは歌曲王シューベルトの声楽曲がシンフォニーの前に置かれることにより、ブラームスのシンフォニーに内在するところのある種の声楽的な歌謡性とでもいうような性質に、聴いていてかなり意識が向けられたこと、あるいは第3弾のものでは、ブラームス作品の「運命の女神の歌」→交響曲第3番→悲歌(作品82)と続く一連の音楽の流れの、意外な有機性に思いもかけないような新鮮味を感じたりなど、いずれも他のCDでは容易に味わえないユニークな趣きを湛えたものでした。

したがって今回の第4弾ディスクでも、当然なにか大胆な選曲を仕掛けてくるだろうと予想していましたが、案の定、今回は以下のような面白いアルバム編成です。

①ベートーヴェン コリオラン序曲
②G.ガブリエリ シンフォニーエ・サクレ第2集より「サンクトゥス・ベネディクトゥス」
③シュッツ シンフォニーエ・サクレ第3集より「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」
④J.S.バッハ 教会カンタータ第150番より合唱「私の目は常に主を見ています」「苦しみにある私の日々を」
⑤ブラームス 宗教的歌曲「惜しみなく与えよ」
⑥ブラームス 合唱曲「祭典と記念の格言」
⑦ブラームス 交響曲第4番

以上、メインの交響曲第4番の前に合唱曲が盛りだくさんですし、アルバムの初っ端がベートーヴェンのコリオラン序曲というあたりも意表を突かれます。

以上の選曲に関しては、本CDのライナーノートにガーディナー自身による詳細な説明が掲載されています。いわく、調性構造の見地から、ブラームス交響曲第4番の終楽章の第1変奏部に、明らかにベートーヴェンのコリオラン序曲からの影響が認められること、その終楽章のシャコンヌのテーマが、バッハ教会カンタータ第150番の合唱曲で使われているテーマと密接な関連を有していること、またブラームスがジョバンニ・ガブリエリやシュッツの当時あまり知られていなかった作品を積極的にコンサートで指揮したこと、など。

いずれも興味深い事実ですし、ブラームスがベートーヴェンを敬愛していたこと、バロック時代の作曲家に敬意を表していたことなどは良く知られる事実ですが、こう具体的な事実を改めて示されると、また一層の好奇心が湧きたちます。音楽学者にしてみれば、もしかしたら周知事実に過ぎなくて何を今さらというものなのかも知れませんが、少なくとも私は初めて知った話ばかりでした。

以上、どうも前置きが非常に長くなりました。肝心の、CDを聴いての感想については後日あらためて。

D.R.デイヴィス/リンツ・ブルックナー管によるブルックナー交響曲第0番


ブルックナー 交響曲第0番
 D.R.デイヴィス/リンツ・ブルックナー管弦楽団
 アルテ・ノヴァ 2008年ライヴ 88697749752
88697749752

独アルテ・ノヴァから先月リリースされた、デニス・ラッセル・デイヴィス指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第0番のCDを聴きました。ブルックナーゆかりのリンツ、ブルックナーハウスでのライヴ録音です。

リンツ・ブルックナー管によるブルックナー交響曲第0番のCDとしては1981年に録音されたテオドール・グシュルバウアー指揮のものがありますが、周知のようにブル0はウィーン・フィルが現在まで録音をしておらず、そのグシュルバウアー盤が本家オーストリアのオケによるブル0の唯一の録音となっていました。

さっそく聴いてみると、ここでのデイヴィスの表現は、彼が既に録音している他のブルックナー作品での方向性と軌を一にするもので、全体的に弦と管のバランスを拮抗させて弦の音幕を必要以上に押し出さず、トッティ等でのソノリティの肥大化を防ぎながら、極めて効率的に最適化されたアンサンブル展開をベースに、緻密にスコアを再現するというヴィジョンの伺われる演奏です。またアンサンブルの響きの洗練度、管パートのフレージングの切れやハーモニーの克明感、いずれも見事ですし、こういった点において、おおむね管よりも弦を中核とする重厚感と濃密感に特色があり、その音色においても洗練し切らない朴訥な風情を残したグシュルバウアー盤とは、同じオーケストラながら好対照という印象を覚えます。

それでは、このD.R.デイヴィス盤のブル0が私にとってグシュルバウアー盤より好ましい演奏かと言うと、それはどうだろうというのが正直な感想です。確かにデイヴィス盤の方が、オケの機能的な持ち味の良く活かされた演奏であることは疑いがないですし、ここぞという時のティンパニの猛烈な強打も含めて、タフな聴きごたえの強さという点でも、グシュルバウアー盤には無い美質を備えた演奏であることも確かです。しかしグシュルバウアー盤の演奏と比べると、全体的にはソノリティが薄味なきらいが否めず、こと音響的な濃色感や味わい深さという点から導かれる、音楽のしての深みという観点では、私としてはグシュルバウアー盤の方に惹かれるものを多く感じます。

そしてもう一点、私がデイヴィス盤の演奏で引っ掛かったのが、第1楽章の16分30秒という総タイムでした。この楽章は普通は13分から14分、遅くとも15分で演奏されることを考えると、随分と遅いテンポが取られていることが瞭然ですが、実際この演奏では、この第1楽章を悠然とした歩調で、かなり重々しく進めていきます。しかし私には、このスローペースが聴いていて、どうもしっくりこない。率直に言って、なにかテンポ的に「浮いている」ような気がします。

周知のように、ブルックナーの全10曲の番号付き交響曲の中で、作曲家の生前に初演されなかったのは0番と9番のみです。9番は、もちろん未完成だったというのが理由ですが、0番の方はというと、ブルックナーの青年時代の作品でありながら、その死の前年1895年に初めて「第0番」の番号が与えられ、「全く通用しない試作」と判断されて顧みられなかった「異端児」であったからとされています。

だからと言って0番が駄作であるということには全然なりませんし、むしろ今日ではブルックナーの初期交響曲として揺るぎない位置を占めていますが、ただやはり0番は、基本的に作品としてのキャパシティに限界があるのも事実だろうと思います。つまり、ブルックナーの中期から後期の交響曲のような雄渾な作品スケールを帯びたものではなく、いかに遅めのテンポでスケール感を印象づけたとしても、そのテンポに比例した表出力に必ずしも帰着しにくい構図があるように思えるのです。

こういったことから、このデイヴィス盤の第1楽章の異様とも思えるテンポ設定に、少々違和感を覚えたというのが率直なところです。もっとも、そんなことは私の浅薄な偏見に過ぎないのかもしれませんし、聴き手によっては絶妙のテンポ感と捉えられるものかもしれません。

いずれにしても、このデイヴィスの斬新なブル0、もう少し聴き込んでみたいと思います。

ルプーとプレヴィン/ロンドン響によるシューマンとグリーグのピアノ協奏曲


シューマン ピアノ協奏曲&グリーグ ピアノ協奏曲
 ルプー(pf) プレヴィン/ロンドン交響楽団
 デッカ 1973年 POCL9842
POCL9842

今日はサントリーホールでラドゥ・ルプーのピアノ・リサイタルを聴いてきました。演目はヤナーチェクの・・

・・と、本来なら今日のブログ更新で書いていたはずのところですが、昨日も書きましたように、ルプーのピアノ・リサイタルはピアニスト急病のため、残念ながら流れてしまいました。

仕方なしとばかり、代わりに今夜はルプーの最も代表的な録音のひとつである、アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の演奏をバックとしたシューマンとグリーグのピアノ協奏曲のCDを聴きました。もう15年くらい前に廉価盤で購入したものです。

あまりにも有名な録音ですし、いまさら感想を書くのも憚られるくらいですが、こうして改めて聴いてみると、いい演奏だなとしみじみと思いました。とくにグリーグが素晴らしく、清冽なリリシズムをピアニズムの特徴とするルプーの持ち味が良く活かされた演奏でありながら、もともと詩情を極めたかような同曲に対する演奏アプローチとしても、聴いていて詩情過剰に流れる嫌いがない。ここには楽想とピアニズムとの幸福な調和と一体感が息づいていて、それが聴き手を爽やかな感動の境地に導いてくれる、そんな演奏のように思います。

しかし、いくら本CDの演奏が素晴らしいからといって、それで今夜予定されていたリサイタルの代替とはなり得ない。何しろ40年近く前の録音ですし、もう20年近く前から録音を一切リリースしていない、2010年現在の彼のピアニズムの様相を、彼の残した録音から推し量ることは難しいはず、、

それにルプーの場合、周知のように「千人に一人のリリシスト」という異名の通り、当代きっての抒情派ピアニストという「レッテル」を貼られています。その形容からくる先入観と、現在のピアニズムの実態との間に、おそらく少なからぬ乖離が生じているのではないかと私には思えます。私が最近コンサートに接して大いに感銘を受けた、そしてルプーと同じように録音活動から長らく離れている、ポゴレリッチとツィメルマンの現在のピアニズムがそうだったように、、、

ところで今回のリサイタルの主催元のホームページ上に、「ルプー、グラモフォン誌にて『ピアノ界のカルロス・クライバー』と評される」という記事が掲載されているのを以前みかけました。

これは今年7月号のグラモフォン誌に書かれた評論のようで「もしもピアニスト、ラドゥ・ルプーの芸術を一言で表すならば、彼は『ピアノ界のカルロス・クライバー』と言えよう。その音楽の向かう方向性がしっかりと把握され、細部に至るまでの完璧さと豊かな音楽的想像力が一体となった音楽がそこにはある。ルプーはまさに磨き抜かれた芸術家なのだ。・・」という書き出しで始まり、以下、ルプーがデッカに残した一連の録音に対する賛辞が連ねられています。

私は正直それを読んでも、(とくにクライバーとの共通性というのが)いまいちピンと来なかったところ、今回のキャンセルで、もしかして、そういうことか?と腑に落ちた気がしました。だからといって稀代のキャンセル魔クライバーに喩えた時点で、今回のルプーのキャンセルを予期していたわけでもないと思いますが、かつてクライバーのキャンセルに遭って残念な思いをした方々の気持ちなりが少しだけ分かったような気もします。

以上、今日は何だか取り留めもないことを書き連ねてしまいました。明日の更新からは、いつも通りの新譜感想の方に戻るつもりです。

ラドゥ・ルプーのピアノ・リサイタル公演中止・・・!


今月、ルーマニア出身の名ピアニスト、ラドゥ・ルプーの9年ぶりとなる来日リサイタルが東京で予定されていました。

ところが先週末になって「ラドゥ・ルプー ピアノ・リサイタル公演中止のお知らせ」の告知が公演主催元のホームページ上に掲載されました。「10月19日(火)サントリーホール、および、10月29日(金)東京オペラシティで予定しておりました『ラドゥ・ルプー ピアノ・リサイタル』は、演奏者本人の急病による緊急帰国のために中止となりました」とのこと、、

何とも、がっかりです。私は明日(10/19)のサントリーホール公演の方のチケットを購入して、楽しみにしていました。

2010-10-18

とくにシューベルトのピアノ・ソナタ第21番を聴きたかった。私は正直シューベルトのピアノ・ソナタに関しては甚だ心許ない共感しか持ち合わせていませんが、それでもルプーのシューベルトは聴いてみたかったです。

ルプーが9年前に日本で披露したシューベルトのピアノ・ソナタ第19番の演奏について、かの吉田秀和氏は新聞評論で、「シューベルトの音楽には、断崖を前にして後戻りするか、横にそれるか、それともまっすぐに突進するか、迷っているような瞬間がある。その危うくとぎれかける音の流れを表現するのが、すごくうまい」と評していましたし、そこで披歴された繊細なppの妙技についても、「昔、名テノールのカルーソーはどんな広い会場でも隅々まで届くppをきかせたというが、ルプーのもそれに匹敵する」と絶賛しました。

そのあたりのピアニズムの醍醐味を体験できればと思っていただけに、残念です。また来年以降、聴く機会が訪れるのを期待したいと思います。

それにしても、、、、

アルゲリッチ、ゲオルギュー、そして先週のサロネン、、、私が今年に入ってチケットを購入した演奏家で、結局ドタキャン(公演日まで一ヵ月を切った時点でのキャンセル発表)で聴けなかったケースが、これで4度目、、、あまつさえ今回のルプーは公演の3日前にキャンセル発表という超ドタキャン、、

先週ブログに掲載した、サロネンのキャンセルに関する雑談エントリーの中で、「重なる時は重なるもの、2度あることは3度ある」なんて半ば冗談っぽく書いていたんですが、4度目ともなると、、いくらなんでも重なり過ぎで、ちょっと気味が悪くなると言いますか、、、

来週予定されているアーノンクールの来日公演のチケットも取ってあるんですが、大丈夫なんだろうかと、真面目に心配です。

スクロヴァチェフスキ/読売日響の演奏会(サントリーホール 10/16)の感想


昨日(10/16)のサントリーホール、スクロヴァチェフスキ/読売日響の演奏会の感想です。

オーケストラの配置はVn-Va対向配置、編成規模は前半のシューベルト「未完成」が12型で、後半のブルックナー7番が16型でした。

最初のシューベルト「未完成」は、この名曲のスコアの、いわば感傷的な部分を鋭利に削ぎ落した、明晰な音楽の再現にオケの意識が注がれたような趣きの演奏でした。その意味では、絶対音楽の分野で独自の強さを発揮するスクロヴァチェフスキ(以下ミスターS)の音楽造りの特徴が良く発揮された演奏であり、聴いていて何か非常に精巧なガラス細工でも観るような感触がありました。オーケストラも、かつてのシェフのタクトに良好なレスポンスで応え、指揮者の志向する、いわば情緒的な動きよりも作品の持つ内部構造的な意義を重視する、実質的な音楽造りの志向を良く汲み取り、それを十分に音化することに成功していたように思います。

そして、それに成功した結果、厳しくて崇高な表情の「未完成」が立ち現われました。それに客席でジッと耳を傾けていた私は、いま現に響きている音楽に強く惹き込まれてやみませんでしたが、同時に、ちょうど10年前の秋に聴いた同じ「未完成」の実演が、私の記憶の底から不意に響いてきて、いま聴いている「未完成」と二重写しに聴こえるような気がし始めました。

その10年前の秋に聴いた「未完成」というのは、忘れもしない私が2000年11月12日に東京オペラシティ・コンサートホール、タケミツ・メモリアルで耳にした、北ドイツ放送交響楽団の来日公演で披歴された「未完成」のことで、指揮者はギュンター・ヴァント、その年齢は当時88歳でした。

そして今「未完成」を指揮しているミスターSは、現在87歳。

古今東西の無数の指揮者の中でも、85歳を超えてオーケストラの指揮台に立てる指揮者というのは、ほんの一握りでしょう。なぜ、これほどの高齢で指揮台に立ち、オケを指揮できるのか。常人離れした精神力ゆえ? 音楽に対する絶大な執着? 文字通り生涯現役を貫けるほどに旺盛な探究心?

そんなことは私のような凡庸な輩が考えたところで分からないことかもしれません。ひとつだけ確実なことと言えば、ミスターSの「未完成」もヴァントの「未完成」も、途方もなく崇高な趣きを帯びた、仰ぎ見るような演奏としてホールに聳え立ったということ。そこに私は強い感動を覚えました。10年前のように、、、

後半のブルックナーの交響曲第7番も、本当に素晴らしい演奏でした。

ミスターSの指揮でブルックナーを聴く時の醍醐味である、作曲家の想定した用意周到な構造的ロジックが、明晰に音化されていることを聴いていて無理なく認識させられる、そんな演奏でありながら、「ロジックだけ」の薄味で無味乾燥な演奏とも一線を画した、いわば音響自体の持つパワーの凄味をも同時に突き付けられる、そんな演奏でもある、それがミスターSならではのブルックナーであり、これが当夜、久しぶりにホールに満面に響きわたった様を耳にした私は、それこそ感無量な面持ちで、ひたすら演奏に聴き入るほかありませんでした。

基本的にミスターSはハーモニーを漫然と鳴らさない。ことブルックナーに関しては、おそらく彼の中に絶対的な美意識に基づくビジョンが確立されていて、例えば音の強弱なり、フレージンぐの重心の置き方なりに、適度かつ絶妙な軽重の差を与えている。これが結果的に音楽に対して希有なまでの遠近法的な立体感をもたらす、、、そんなことは言われなくても、みんな分かっていると言われそうですけど、こうして実演で耳にして、その「技」の切れ味というのが、やはり本当に凄いなと聴いていて感嘆せざるを得ませんでした。

こういった観点をミスターSの作曲家としての視点に基づく美質とするなら、オケを統率してアンサンブルの高揚力を絶妙に引き上げる「名匠」としての腕前も同時に冴え渡り、ことアンサンブルの鳴り具合に関しては、文字通り入魂の演奏と言うに相応しいものでした。片方で自己の理想とする造型美をミリ単位の誤差で追求しながら、その片方ではアクセルを吹かせるべきところで容赦なくアクセルを踏み込む、まさにオーケストラを信頼し切っているからこその離れ業なのでしょう。

唯一心配だったのが、常任ポストを離脱してからのオケに対するブランク期間の長さでしたが、全く杞憂でした。ミスらしいミスといえば第3楽章冒頭でトランペットが音程を大きく外した時くらいでしたし、全体的な完成度としては申し分がなく、もうDNAがオーケストラに組み込まれたかのごとく、常任ポスト在任当時の切れのあるアンサンブルが忠実に再現されました。それは前回の常任ポスト最終公演の時のブル8、昨年の秋に耳にしたブル9にも比肩する充実を極めたものであり、本来であれば7番という作品のキャパシティは8番と9番には及ばないはずなのに、聴いていて曲自体が8番や9番の水準に引き上げられたような、そんな希有の感覚を味わいました。

終わってみればアっと言う間に時間が過ぎていった感じです。ミスターSのブルックナー、やっぱり凄いなあと、感動することしきりでした。

来年も、再来年も、元気に指揮台に立たれて、他では絶対に聴けないブルックナーを、また披露してくれることを祈りたいと思います。

スクロヴァチェフスキ/読売日響の演奏会(サントリーホール 10/16)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴きました。

2010-10-16

指揮者は読売日響の桂冠名誉指揮者スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、演目はシューベルトの交響曲第8番「未完成」とブルックナーの交響曲第7番でした。

今年の3月をもって読売日響の常任指揮者の契約が満了となり、カンブルランにポストを譲ったスクロヴァチェフスキ(以下ミスターS)、その常任ポスト最終公演での、あの素晴らしいブル8から半年ぶりとなるコンサートですが、今回も得意とするブルックナーを披露するとあって、期待に胸を膨らませて聴きに行きました。

感想は後日あらためて出しますが、本当に素晴らしい演奏会でした。やっぱりミスターSのブルックナーは本当に本当に凄いなあということを、しみじみと実感しました。そして前半のシューベルトも含めて、何だか10年前の「あの公演」を耳にした日にタイムスリップしたような気分でした。

ところで今日の演奏会で、開演のベルが鳴ってから「お客様の鑑賞の妨げにならないように、終演後の拍手は指揮者のタクトが下りるまで控えて下さい」という場内アナウンスが入りました(この種のアナウンスを私がコンサートホールで聞いたのは、これが初めてだと思います)。

そうしたら効果てきめん! タクトが下がるまでの数秒間、どこからもフライングな拍手が聞こえない、、、なんと素晴らしい、、

このアナウンス、できれば今後もコンサート開演前に、是非とも流してくださいますよう御願いします。

ザビーネ・マイヤーとウィーン弦楽六重奏団員によるブラームスのクラリネット五重奏曲


ブラームス クラリネット五重奏曲 
 ザビーネ・マイヤー(cl)  ウィーン弦楽六重奏団員
 EMIクラシックス 1990年 CDC7543042
CDC7543042

ザビーネ・マイヤーとウィーン弦楽六重奏団のメンバーとの共演による、ブラームスのクラリネット五重奏曲のCDを聴きました。

これは新譜ではなく、1991年にEMIクラシックスからリリースされたCDで、私の愛聴盤のひとつです。先月ソニー・クラシカルからリリースされたザビーネ・マイヤーのモーツァルト・クラリネット五重奏曲の新譜を聴いた感想を掲載したのに続いて、そのザビーネの録音したブラームスの方のクラリネット五重奏曲も取り上げてみたくなりました。

このCDは今では廃盤のようですが、入手しにくい状況にあるのが勿体ないくらいの、味わい深い演奏だと思います。もっとも、それほどザビーネのクラリネットが素晴らしいのかと言えば、実は少し違います。

このブラームスで素晴らしいのは、実はザビーネというよりウィーン弦楽六重奏団のメンバーが織りなす弦合奏の方で、とにかく第1楽章から弦の奏でる重厚にして濃密な響きの表出力に聴いていて惚れぼれします。その弦の四重奏が繰り出す馥郁とした響き、芳醇な音色、とろけるようなロマンティズム、時に切羽詰まったような表情の訴えかけの強さ、すべてがベストに色づいていて、このブラームス最晩年の室内楽作品から、こんなに深々とした響きの快感に浸ることのできるディスクは無二ではないかと思えるくらいです。

このような厚ぼったい弦合奏の響きに対し、ここでのザビーネのクラリネットは美麗な音色ながらも線の細くて華奢なフレージング展開で応答しているため、その存在感は霞みがちとも言えますが、視点を変えるなら、弦の造り出す揺るぎない大地の上に咲く一輪の可憐な花とでもいった具合に、さりげなく音楽に華を添えていて、それがまた深みのあるパースペクティブを音楽にもたらしている、と私には感じられます。

要するに、このCDに聴くブラームスは弦合奏上位で少々バランスが悪いと言うなら、そうなりますが、クラリネット五重奏曲というと、普通クラリネットが主役で、弦が脇役という既成観念から離れて、弦楽四重奏を主役としクラリネットがそれに寄り添うような音楽として視点を映した場合、これほど味わい深い演奏というのも珍しいという感覚になる。こういった観点から、私は本CDを長年に渡って愛聴している次第です。

なお本CDの余白には、尹伊桑(イサン・ユン)が1984年に作曲したクラリネット五重奏曲が収録されています。こちらになると、ウィーン弦楽六重奏団員の弦合奏は多少ぼってりした印象が拭えず、その厚みのあるボウイング展開が、現代曲の楽想に相応しいフレージングの鋭角感という点で少々難を感じさせるのも事実です。そして、ここでは逆にザビーネのクラリネットの方が強固な存在感を主張し始めています。

雑談×3(サロネンのキャンセル、クライバーの伝記、バイロイトのミステリー小説)


今日は雑談です。話題は3つ。

まず例のサロネンのキャンセルの話題、ネット上でも随分と取り上げられているようで、あらためて波紋の大きさが伺われます。

私も急な告知で驚きましたが、少なくとも今回の変更に関して取り立てて不満は感じません。昨日も書きましたようにマーラーの9番が流れたのは確かに残念ですけど、その代わりブルックナーの9番が聴けるのは嬉しいですし、代役も申し分のない指揮者ですし。

とはいえ私にとって今年、こういったドタキャンに見舞われたケースとしては、これが実に3度目なんですけど(笑)、、

まず4月にアルゲリッチのラヴェルがドタキャンで流れ、先月にゲオルギューのヴィオレッタがドタキャンで流れ、そして今回またウィーン・フィルのマーラー9番がドタキャンで、、、まあ重なる時は重なるもの、ということでしょうか。2度あることは3度ある。仏の顔も3度まで(←?)。



カルロス・クライバーの自伝「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記」の日本語訳の下巻が先月、発売されました。書店で購入し、さっそく読み始めています。

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この下巻ですが、巻末にカルロス・クライバーのディスコグラフィーとビデオグラフィーが掲載されています。そのディスコグラフィーのリストは正規盤と非正規盤に分けられて掲載されているのですが、正規盤の方が3ページなのに対し、非正規盤の方は8ページに渡ってディスクがリストアップされています。いかに「埋もれている音源」が多いか、一目瞭然です。

まだ最初の方しか読んでいませんが、やはり面白く、とくにCDで聴くことのできる演奏との関係から、いろいろと興味をひく記述が多く見られます。それらについては上巻の時と同様に、個々の録音と本文の記述とを突き合わせる形で、いずれブログに掲載することを考えています。



深水黎一郎・著「ジークフリートの剣」

   216453-5

これは先月発売の新刊で、バイロイト音楽祭を舞台とするミステリー小説です。ミステリーは普段あまり読まないんですが、これは書店で見かけて面白そうだと思い、上のクライバーの本と一緒に購入しました。

とりあえず序盤あたりを読んでみましたが、なかなか面白いです。

 ドイツのバイロイト音楽祭における「ニーベルングの指輪」新演出上演(プルミエ)のジークフリート役に、日本の若きテノール藤枝和行が選ばれたというニュースに、日本の音楽界は湧き立った。ワーグナーの聖地バイロイト、しかも「指輪」のジークフリートとあれば、大騒ぎするなという方が無理な話で、日本じゅうの音楽雑誌が特集を組んで、この若きヘルデン・テノールのプロフィールを紹介した。・・

            「ジークフリートの剣」P.27より

この日本人テノール歌手が本書の主人公。彼には有希子という婚約者があった。彼女はソプラノ歌手で、同じくバイロイトの「指輪」の、「ワルキューレ」でのオルトリンデ役に抜擢されていた。二人はバイロイトでのキャスティングの発表と同時に婚約を発表し、幸せの絶頂にあった。しかし有希子は以前、人の未来が分かるという謎の占い師から「あなたは幸せの絶頂で命を落とす」と予言されていた。その予言は図らずも的中し、彼女はバイロイトの舞台に立つ直前に列車事故で命を落としてしまう。悲しみに暮れる主人公は、婚約者の遺骨を抱いてバイロイトの舞台でジークフリートを歌うことを決意する、、、

・・というのが序盤までの大まかなあらすじです。ここから話がどう展開するかは、まだ続きを読んでいないので分かりません。面白いと言うのは、バイロイトのオペラ上演に関する記述が実にリアルかつ緻密に描き込まれている点です。どうも著者は筋金入りのオペラ通のようで、特にワーグナーのオペラに恐ろしく造詣が深い。それは本職の音楽評論家も顔負けなくらいで、読んでいて思わず舌を巻くほどです。

例えば本書のP.53からP.60に渡って「ある音楽評論家」が書いたとされるバイロイト「リング」演出評が掲載されているんですが、それが実在する、しかも我々の良く知る高名な評論家の文章に、かなり似ています。そして、その後に「著者は日本の音楽評論の草分け的存在であり、音楽評論家としては異例の、個人全集まで出版されている大御所である」と書かれている。ここで読者が、ああやっぱり吉田秀和氏の文章に似せて書いたんだなと分かる仕掛けです。

いずれにしても、まだ序盤しか読んでいませんので、最終的に読み終えたとき本当に面白かったなと思えるか、なんだガッカリだったと思うか、現時点では何とも言えないところですが、もし面白かったなら改めて読書間奏で取り上げてみたいと思っています。

ウィーン・フィル来日公演2010をサロネンがキャンセル!


今日のブログ更新、実は休むつもりだったんですが、いきなり驚くべきニュースが飛び込んできたもので、、

すでに御存知の方も多いと思いますが、サントリーホールのホームページ上に「ウィーン・フィルハーモニー ウィーク イン ジャパン 2010 エサ=ペッカ・サロネン来日中止および指揮者交代のお知らせ」という告知が、本日付けで掲載されています。

そこに書かれているウィーン・フィル楽団長クレメンス・ヘルスベルク氏のコメントにいわく「病気のため、日本ツアーを降板した小澤征爾氏に代わり、アンドリス・ネルソンス氏と二人で『ウィーン・フィルハーモニー ウィーク イン ジャパン2010』を指揮する予定だったエサ=ペッカ・サロネン氏は、自身のコントロールの及ばない事情のため、急遽予定されていた一連の演奏会をキャンセルせざるを得なくなりました」とのこと。代わって9日(火)の公演をフランツ・ウェルザー=メストが、10日(水)の公演をジョルジュ・プレートルが指揮を務める旨も発表されています。演目も含めた詳しい変更内容は以下の通りです。

2010年11月9日(火)
<変更前> 指揮:エサ=ペッカ・サロネン
ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」
ブルックナー 交響曲第6番
    ↓
<変更後> 指揮:フランツ・ウェルザー=メスト
ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」
ブルックナー 交響曲第9番

2010年11月10日(水)
<変更前> 指揮:エサ=ペッカ・サロネン
マーラー 交響曲第9番
    ↓
<変更後> 指揮:ジョルジュ・プレートル
シューベルト 交響曲第2番
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」

私は上記の2公演とも楽しみにしていて、チケットも早々に購入していましたので、急な告知に正直ちょっと面喰っています。

私としては10日の方の変更のショックが大きいです。何しろマーラーの9番をウィーン・フィルで聴ける貴重な機会だったことに加えて、最近リリースされたサロネンの同曲の録音(オケはフィルハーモニア管)が素晴らしかったことから彼の指揮にも大いに期待していましたので、、

しかし9日の方の変更は、むしろ私には僥倖で、ウィーン・フィルのブル9をナマで聴けるなんて、ある意味で夢のよう! この曲をウィーン・フィルが日本で演奏するのは、たぶん今回が初めてのはず。それは変更前の6番にも言えますが、やはり6番と9番とでは曲としてのキャパシティが段違いですし、この変更は私には大歓迎です。

それにしても、もう公演まで一ヵ月を切っている時期の変更にもかかわらず、よくウェルザー=メスト&プレートルという二人もの素晴らしいピンチヒッターを手配できたものだと感心しました。なおかつ希望者には払い戻しを認めるとのこと。最近来日した某オペラハウスとは大違いですね(苦笑)。

いずれにしても気持ちを切り替えて、来月のウィーン・フィル来日公演を聴きに行こうと思います。

スクロヴァチェフスキ/読売日響によるブルックナーの交響曲第8番


ブルックナー 交響曲第8番
 スクロヴァチェフスキ/読売日本交響楽団
 DENON 2010年ライヴ COGQ478
COGQ478

DENONから先月リリースされた、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団の演奏によるブルックナー交響曲第8番のCDを聴きました。

このブルックナーは2010年3月25日の東京オペラシティ・コンサートホールにおける、スクロヴァチェフスキ(以下ミスターS)の読売日響常任指揮者としての最終公演のライヴです。

ミスターSが読売日響を指揮したブルックナーとしては今年2月に発売された交響曲第9番のライヴに続いてのリリースということになりますが、その前回のブル9は私自身がコンサートで耳にした超絶的な実演のライヴ・リリースということもあって、発売されるや飛び付くように購入し、聴いてみたら紛れもなく昨年のコンサートの印象そのままの形で演奏が収録されていたことに狂喜乱舞したことを以前ブログに書きました

対して今回リリースのブル8ですが、私は前述のミスターSの常任ポスト最終公演に足を運んでいますが、それは本CD収録の演奏会の翌日(3月26日)の、サントリーホールでの公演の方でした。

その最終公演で披歴されたブル8の実演が途方もなく素晴らしかったことは以前ブログに書いた通りですが、今回リリースのブル8は私の聴いた日の前日の演奏ですし、ホールも違っていることもあり、前回のブル9の時のように矢も楯も堪らず速攻でCDを聴きたいとまでは気持ちがたかぶらず、先月末に購入して以来、しばらく聴かないで保留していました。

それで昨日ようやく耳にしたのですが、聴き終えた時点での所感を一言でいうなら、ああ、もっと早く聴いておけば良かった!でした。全く素晴らしいブルックナーです。

「こと完成度においては若干の瑕疵もあり、昨年の9番のような鉄壁の完成度と行かなかったのが惜しいところでしたが、こと表出力においては昨年の9番と優に肩を並べるか、僅かに凌ぐか、というくらいの超弩級のアンサンブル展開が披歴され(特に終楽章は圧巻!)、聴き終えてもう感無量でした」というのが、今年の春サントリーホールで前述の最終公演のブル8の実演を耳にして私がブログに書いた短感でしたが、本CDを聴き終えた時点でも、それと概ね同じ感想を抱きました。

もっとも完全に「同じ」かというと、そこは1日違いとはいえ別演奏、それもホールも違うことから、私の記憶する演奏の印象とは若干ながら異なる感じはします。例えば第1楽章の最初のうちはアンサンブルがまとまり切らず、ばらついた状態で進行しているような雰囲気が、私の記憶するサントリー公演の時よりも一回り著しい印象を聴いていて否めない点などです。もっとも、楽章が進むにつれてアンサンブルがみるみる引き締まっていき、後半2楽章の指揮者の求心力とアンサンブルの一体感が比類無いほどになるあたりは、私の記憶と一致します。

あと聴いていて気になったのが、全体的にホールの残響感が強く、部分的に細部が聴きとりにくいなど、アンサンブルの見晴らしが弱められていて、ミスターSのディテールに拘る稠密な音楽造りの醍醐味が、そのぶん聴きとりにくくなっているように思える点、そして残響過多のためオーケストラの響きが柔らかさの強調され過ぎた形に傾き、耳当たりの厳しさを削ぎがちになっている点などです。

こういったことも含め、私としてはオペラシティではなく翌日のサントリーの方の演奏がライヴリリースされていればベストオブベスツだったというのが偽らざるところですが、そのあたりは私自身がサントリーで聴いた実演時の印象に基づいた脳内補完で録音を聴く限りは、さほど気にならないのも事実ですし、何より演奏自体の素晴らしさが、そういった些細な不満を洗い流しました。全体としてミスターSならではの稠密なブルックナーの世界が十分に開陳され、その広々として雄渾な音景に強く魅せられる、そんな稀有のブルックナーだと思います。

ただ演奏とは関係ない話ながら、総タイム79分13秒なのにCD2枚組でリリースされている点は正直ちょっと疑問です。おそらく販売価格を引き上げるためのメーカーの方策と思われますが、まあ価格は良いとしても、これだとCD入れ替えの手間がかかる以上に、本来なら必要の無いはずのCD入れ替え操作により余計な負担をCDプレーヤーに掛けることになるので、こういう不必要な分割は、ちょっと勘弁していただきたいものです。

最後に「版」についてのトピックスですが、コンサート当日にロビーで配布された公演プログラムに、版に関して「ノヴァーク版第2稿を基本に指揮者自身の解釈を加えた、スクロヴァチェフスキ版」と書かれていた通り、この録音でもノヴァーク版をベースに、ハース版の構造が含まれる形になっています。とくに終楽章の第2テーマ再現部での第566小節のところ(14:49)に、ハース版の楽節が挿入されているのが耳を捉えますが、これはミスターSのザールブリュッケン放送響との録音でも同じように演奏されており、いわばミスターSのブル8のトレードマークのような役割を担っているように思えます。

夏目漱石の小説「それから」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「それから」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきましたが、何故か「それから」に限って新字旧仮名になっていましたので、私の方で適宜、新字新仮名に直しました。

       NatsumeSoseki-18

 平岡の眉の間に、一寸(ちょっと)不快の色が閃めいた。赤い眼を据えてぷかぷか烟草(たばこ)を吹かしている。代助は、ちと云い過ぎたと思って、少し調子を穏やかにした。――
「僕の知ったものに、丸で音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読(したよみ)をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寝ている。だから何所(どこ)に音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと聞(きき)に行く機会がない。つまり楽(がく)という一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞わなくっちゃならない。僕から云わせると、是程(これほど)憐れな無経験はないと思う。麺麭(ぱん)に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭(ぱん)を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えてるらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ」
 平岡は巻莨(まきたばこ)の灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、
「うん、何時迄もそう云う世界に住んでいられれば結構さ」と云った。其(その)重い言葉の足が、富に対する一種の呪咀を引き摺っている様に聴(きこ)えた。

「それから」は1909年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、「三四郎」「門」とともに漱石の前期3部作を構成する作品です。主人公の長井代助と友人の平岡常次郎、その妻の三千代との三角関係を主題とした物語で、それゆえに晩年の「こころ」の原型としての意味合いも持つ作品です。

内省的な文調から綴られる、人間の魂の憂悶と苦闘、その果ての悲劇が強烈なインパクトを放つ作品ですが、ここまでの漱石の主要作である、「猫」「坊っちゃん」「虞美人草」「三四郎」、そのいずれとも文章の雰囲気が全く違っている点に驚かされます。いわば、ここまでの4作が「長調」とするなら、「それから」の文調は「短調」とも言えるほどに違っています。

そのストーリーは非常に簡単に言うなら、止むにやまれぬ衝動から、主人公が親友の妻を横取りするという話ですが、そこに至るまでの主人公の心理的な葛藤の度合が尋常ならざる迫力で描き込まれている点、そして、その行動を敢行したことから必然的に発生する結末も、また尋常ならざる迫力で描き込まれている点などを始め、それまでの漱石の主要作とは一線を画した深刻な緊迫感が小説全体を支配している点に驚きを覚えますし、それだけに読後感もまた一味ちがうものがあり、魂の平安を希求するがゆえに破滅に向かう人間の在り方、そのパラドックスなどを読み終えて考えさせられます。

そして、この小説で何より特徴的なのは、長井大助という人物の特殊性でしょう。正直、私も最初に読み終えた時は、わりとよくあるモラトリアムな青年という設定だなと理解しました。しかし作品論などにあたって、色々調べて見ると、ことはそう単純ではないことがわかってくるのです。

いわば、この長井大助の「高等遊民」というポジショニングを、読み手が自分に引き直して考えるのが難しい。これが本作品を読む上での一つの難関です。長井大助は大学を卒業しており、年齢30前後、そして小説の舞台は日露戦争の終戦直後なので、長井大助の出身大学は必然的に東京帝大に決まりますが、いずれにしても当時の「大学卒」というのは相当な特権階級の人間であり、その意味では現在の東大卒などとも全然レベルが違うでしょうし、こと知識力や頭の回転の速さ、という観点からすれば、普通の人からすれば、まさに「雲の上の人」という表現がピタリとくるような人物像です。

しかし、そういった長井大助という人物の特殊性にも関わらず、そこには21世紀の現在にも通用する汎時代性が随所に読まれる点が本作品の面白く、奥深いところです。例えば以下の部分。

 代助は人類の一人として、互(たがひ)を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨脹した生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促がしたものと解釈していた。又これを此等(これら)新旧両欲の衝突と見傚していた。最後に、此生活欲の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)と心得ていた。
 この二つの因数(ファクトー)は、何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較(なら)べる日の来る迄は、此平衡は日本に於て得られないものと代助は信じていた。そうして、斯(か)かる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めていた。だからこの窮地に陥った日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはただ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。そうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつつあるかを、互に黙知しつつ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かかる侮辱を加うるにも、又加えらるるにも堪えなかった。

確かにナイーヴな考え方ですが、冒頭の引用部の最後のところなど、こういう気持ちになったことのない人は少ないのではないか、こういうことを誰でも一度くらいは考えるのではないかともに思えますし、「膨脹した生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促が」すような状況が、果たして無くなったかというと、無くなるどころか、時代が進むにつれ、むしろ拍車がかかっている感すらあることなど、汎時代的な訴求力を読み手に感じさせます。

そして、この漱石の「それから」という小説を、もしベートーヴェンの交響曲で喩えるなら何が妥当か、という問いに対して、私は躊躇なく交響曲第5番「運命」と即答したいと思います。

理由としては第一に、上で書いたように「それから」が漱石の主要作中で初の「短調作品」である点、第二に、「それから」という小説が、代助の三千代との関係において、あたかも「運命が突如として戸を叩く」を地で行くストーリーを有している点です。

この「運命」という点では、この小説では幾つかの「花」に、深い運命的な力の作用が託されているという風に一般に読まれています。冒頭の椿しかり、鈴蘭しかり、白百合しかり。例えば、「それから」の冒頭は以下のように書かれています。

 誰か慌ただしく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従って、すうと頭から抜け出して消えて仕舞った。そうして眼が覚めた。
 枕元を見ると、八重の椿(つばき)が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕床の中で確かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣(あたり)が静かな所為かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはずれに正しく中(あた)る血の音を確かめながら眠(ねむり)に就いた。

「八重の椿(つばき)が一輪畳の上に落ちている」この「椿」が、ベートーヴェンの運命交響曲の第1楽章冒頭の、いわゆる「運命の主題」に対応するように連想されます。

そして第三に、ベートーヴェンの9つの交響曲の中で最も緊密な構成で書かれた作品が「運命」であることは論を待ちませんが、漱石の主要作の中で最も緊密な構成で書かれた作品が「それから」であることも、やはり多くの漱石研究家の見解の一致するところです。この小説では「花」に運命的なメタファーを細かく持たせた描写や、登場人物の人間関係の緻密な描かれ方など、その周到で綿密な設定に読んでいて驚かされますが、事実この小説を執筆するにあたり、漱石は膨大な量の構想メモに基づき、その構成を徹底的に検討したことが知られており、それが漱石の他作品とは一線を画するまでの、あの尋常ならざる迫力の表出に貢献しているのです。

最後に作品論ですが、江藤淳の漱石論集に興味深い論評が収録されています。漱石の中の、小説作家と文明批評家との2つの顔が葛藤した結果、大助のような不思議な自我を持つ主人公が誕生した、というものです。

そして、夏目漱石が江戸時代に生まれた(明治維新の前年)ことから、この「それから」という作品が、江戸時代という古き良き時代の終焉に対する漱石の哀惜の情が、ヨーロッパの世紀末に共鳴した小説ではないかと論じています。

 私は「それから」を渾然たる成功作とは考えない。しかし、漱石がこの小説で、世紀末趣味をではなく世紀末そのものを生きていたことは、疑うべき余地がない。その意味では、漱石は、あるいは白秋よりむしろ世紀末的な人間だったのかも知れないのである。

なお、ここで主人公を「世紀末の趣味人」と規定しているのは、漱石のロンドン体験の反映として、物語の序盤に描かれる大助の生活の様相が、イギリスの独身貴族の優雅な生活そのものである、と看破しているからです。

私も大助が相当な特権階級の人間だと理解したことは上で書きましたが、この江藤淳の漱石論を読んで、それが「貴族階級に近い」という知見を得た際は我が意を得たりという思いでした。

以上、次回は「門」について書きます。

内田光子によるシューマンのダヴィッド同盟舞曲集と幻想曲


シューマン ダヴィッド同盟舞曲集、幻想曲
 内田光子(pf)
 デッカ 2010年 4782280
4782280

英デッカから先月リリースされた、内田光子のピアノ演奏によるシューマンのダヴィッド同盟舞曲集と幻想曲のCDを聴きました。

内田光子は周知のように長らくロンドンを拠点に演奏活動を続けてきた功績が認められ、昨年イギリス政府から男性の「ナイト」にあたる大英帝国勲章「デイム」が授与されるなど、日本が世界に誇るべきピアニストの筆頭格として揺るぎない存在感を示しています。

今回リリースの最新録音はシューマンですが、このうちの幻想曲は私が聴きに行った昨年のサントリーホールでの、内田光子のピアノ・リサイタルでの演目に含まれていました。そのリサイタルを聴いた感想は以前ブログに掲載していますが、そこで披歴されたモーツァルト、ベルクとベートーヴェンに関しては聴いていて深い感銘に誘われたものの、シューマンに関しては意外に感銘が伸び切らず、正直ややピンときませんでした。

その理由を私は主としてベルクやベートーヴェンとシューマンとの音楽としてのキャパシティの違いに求め、おそらくベルクとベートーヴェンの後でなければ、また印象が違っていたのではないかという風に書きました。しかし、その公演のプログラムには「シューマンのソロ・ピアノ作品の録音プロジェクトも予定されている」と書かれており、この幻想曲も近いうちに録音されるはずなので、その場合は改めて虚心坦懐に耳を通してみたいと思っていました。

以上のような経緯から、待ってましたとばかり本CDを購入し、さっそく演奏に耳を傾けてみました。

まず幻想曲の方の印象ですが、聴いてみたらリサイタルの時よりも一回り深く音楽が身に沁み入ってくるような感覚に捉われました。リサイタルの時の印象からすると、何か見違えるようでもあり、聴いていて軽い驚きを覚えたほどです。

もっとも、ここで内田光子が披歴しているピアニズムの性格は、昨年の秋に耳にした実演の際の印象とおおむね軌を一にするものと感じられます。あたかもベートーヴェン作品に相対するような気迫をもって、安易なロマンティシズムに流れるでなく、この曲を彼女独自の思索で表現しようというスタンスと言うべきでしょうか。

しかし昨年のリサイタルでは、彼女のピアニズムがベートーヴェンの時に勝るほどの集中力と気迫をもって作品から必死に思索を彫り出そうとすればするほど、そのような意気込みが空回りし作品の方が十分に応えてくれないような、ちぐはぐな印象が聴いていて感じられなくもなかったのに対し、今回こうしてCDで聴いていると、あたかも彼女のピアニズムがシューマンの一筋縄ではいかないほどに複雑に入り組んだ楽想の綾を緻密に解きほぐし、その作品としての勘どころのようなものを確信をもって呈示し尽くしている様がまざまざと伝わってきて惹き込まれるばかりです。

なぜ実演ではピンとこなかったのにCDでは惹き込まれたのか、おそらく私の意識が直前のベルク・ベートーヴェンの様式に引っ張られて、彼女の繰り出していたシューマンの音楽の美に思いが至らなかったのではないかと、いま自省の念をもって振り返っているところですが、もし万が一そうでないなら、ここでの万全の状態でのセッション録音という環境が、彼女のピアニズムの真価をフルに引き出し、この幻想曲に深く沈在するベートーヴェンのピアノ・ソナタのような古典的な構成感と力強さを、聴き手に最高の形で呈示するに至ったということかもしれません。

そして、もう一曲の方のダヴィッド同盟舞曲集が、また素晴らしい演奏内容でした。というのも後述するように、ここで彼女が示しているアプローチというのが、普通この作品に対して敷衍される「動的なフロレスタンと静的なオイゼビウス」の単純な二分法とは一味違った、かなり独創的なものではないかと聴いていて思わされたからです。

ところで、このCDには内田光子のデビュー以来のディスコグラフィが掲載されています。その内訳を見ますと大多数がモーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンの3人で占められていて、そのほかシューマン、ベルク、シェーンベルク、ドビュッシーが各一枚づつ、という按配です(今回でシューマンが2枚めになります)。これを見ると彼女がピアニストとしてのレパートリーを意識的に絞っているスタンスが一目瞭然です。

この観点から、ここでのダヴィッド同盟舞曲集の演奏の趣きを私の浅薄な言葉で表すとするなら、例えばフロレスタンのナンバー(3・4・6・8・・・曲め)においてはベートーヴェン的な性格が、またオイゼビウスのナンバー(2・5・7・・・曲め)においてはモーツァルト的な色合いが、それぞれ変に強調されることなく演奏の中にナチュラルに息づき、その両者の間に時おりシューベルトの音楽の情趣が揺籃する、それでいてシューマンの楽想を造形的に排斥しない、とでもいうような、なにか非常に複雑に対比されるべき表情同士の絶妙に拮抗したバランスが表現されているように思われ、これはひとり内田光子だけが為し得るシューマンの世界ではないかとすら聴いていて感じられるのです。

この意味で、この内田光子のシューマンは、過去にモーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンの分野で研鑽を重ねた彼女ならではの視点に基づいた、個性的にして卓抜的なシューマンの表現ではないかと私には思えました。今後も内田光子によるシューマンのソロ・ピアノ作品の録音プロジェクトには注目したいと思います。

読書間奏・ベスト新書「検察が危ない」


もしかしたら本書は今年のノンフィクションのベストワンかもしれません。

B274

「検察が危ない」
ベスト新書 郷原信郎・著

 検察は、全知全能の神のように、あらゆる問題について絶対的に正しい判断を行える存在であり、あらゆる刑事事件についての捜査の進め方や処分は検察組織の内部で適正に判断され処理されている。
 こういう建前の下、検察に正義が独占されているというのが、日本の刑事司法の現実である。日本の国民のほとんどは、こうした検察が行うことを絶対的に「正義」だと信じてきた。・・そして、その「検察の正義」が、対社会、政治、経済という面で最も大きな影響を生じさせるのが、特捜検察が手掛ける事件における捜査・処分である。
 しかし、今、その「検察の正義」が危機的な状況に陥っている。それが果たして本当に正義であり、事件が適正に処理されているか、と言えるのかどうか、重大な疑問が生じている。・・

本書は今年の4月に発売の新書です。著者は検察OBにして現在は弁護士およびコンプライアンス研究家として活動されているとのこと。

私が本書を書店で購入したのは先月の末で、今まさに世間を大きく揺るがしている大阪地検特捜部主任検事の証拠(FDデータ)改ざん事件が明るみになった直後です。その事件報道に触発されて本書を読んでみたところが、そこに書かれていた内容に驚愕の念を余儀なくされました。

前述のように、本書が発売されたのは2010年4月であり、まだ郵便不正事件の村木裁判が公判中の時期です。当然、著者は同裁判の結果、村木被告人に無罪判決が為されることとか、その事件に関して現職の検事が証拠を改ざんしていた事実など、いずれも知り得ないところですが、驚くべきことに本書では、そういった検察の暴走に予め警鐘を鳴らすような書かれ方がされています。事が起こってからあれこれ言うことは誰にでもできますが、事が起こる前に、そのことに関して予め警鐘を鳴らすということは、物事の本質を掴んでいる一握りの人間を除いて、なかなか出来ることではなく、その意味で本書は今回のような検察の有り得ない暴走行為の原因を知りたいと思う読み手にとっては、大いに得るべきものを含んでいると思います。

本書を読み進めていくと、「常識では考えられない行為」、「常識を逸脱した暴走」など、検察の非常識を強調するニュアンスが多く書かれているのが目を引きます。そこから透けて見える「世間の常識は検察の非常識」という視点を通じて、一般の国民から見て構造が分かりにくい検察組織という、いわばブラックボックスにおいて根本的に何が問題なのか、その問題の中枢に対して著者は鮮やかに切り込み、その答えを我々を提示してくれるのです。

まず第1章「陸山会土地所得をめぐる政治資金問題」では、民主党・小沢元幹事長の政治資金問題が詳細に取り上げられます。沖縄問題とともに、2010年7月の参院選での民主党の大敗北の原因となった小沢一郎幹事長(6月に幹事長辞任)の政治資金疑惑に対する、検察の捜査方針に著者は強い疑念を表明し、続く第2章「ダガルカナル化する特捜検察」では、2009年3月に小沢氏の公設第一秘書が逮捕された西松建設事件が詳細に取り上げられていますが、ここでも同様に検察の、当時の行き過ぎた捜査態度に激しい疑問が投げかけられています。

これだけ書くと、単に著者が小沢一郎の支持者だから検察を批判しているだけではないかと思われるかも知れませんが、それが全く逆で、著者は本書で「政治手法、政治資金の資金の集め方など全てにおいて、私は小沢一郎という政治家には好感が持てない」と述べ、小沢氏の代表辞任を歓迎すべきものとまで言い切っています。それなのに一連の検察の捜査があまりに常識はずれなので、小沢問題においては検察を批判せざるを得ないという立場なのです。

さらに第3章「世論に煽られ、世論を煽る」において、ロッキード事件、リクルート事件と巨悪に対して華々しい戦果を挙げてきた特捜検察が、東京佐川急便事件(金丸5億円ヤミ献金事件)あたりからおかしくなり(検察組織が過分に「世論」というものを意識しだしたためと著者は分析)、続くゼネコン汚職事件で暴走が顕著となったと主張しています。

そして第4章「検察をめぐる思考停止の構造」が本書の核心部です。

そこでは、まず「人間の生活ではない特捜勤務」において、どんな人間でも思考停止にさせてしまうのが検察特捜部という職場であるという実態が開示されます。続く「自己完結する検察」においては、刑事司法の正義が検察に事実上独占されている構図、その問題点の根本が刑事訴訟法の起訴独占主義と起訴便宜主義にあることなどが述べられ、本来、殺人や強盗といった一般犯罪刑事事件の専門家であるはずの検事に、インサイダー取引違反といった経済的社会的犯罪に対する適切な価値判断をする能力が備わっていない点が大きな問題であるという風に論が進められていきます。

そして、「人質司法」の項で、ついに問題の郵便不正問題が取り上げられます。ここで著者が主張するのは「自分が本当は犯罪を犯していなくても、検察官の思うとおりに自白する方が、最終的に被疑者の得になってしまうという不条理」にほかなりません。要するに、検察官の思うとおりに自白する方が早く保釈で出してもらえる、これが「人質司法」により冤罪が作られる仕組みそのものだと著者は主張するのです。

 極論を言えば、自分が本当は犯罪をしていなくても、検察官の思う通りに自白する方が賢いのである。
 ちょうどそのことが法廷で明らかになっている例が、大阪の郵便不正事件の公判だ。
 偽の障害者団体証明書を発行したとして虚偽有印公文書作成などの罪に問われた厚生労働省元局長・村木厚子被告の公判で、弁護側は元係長・上村勉氏の証人尋問において、取調官の言動などを書き込んだ被疑者ノートを示した。
 ノートには「調書の修正はあきらめた」「冤罪はこうして作られるのかな」などと記されており、法廷で上村被告は「(村木氏の指示を認めないと)死ぬまで拘置所から出られないのではと思い、怖かった」と当時の心境を証言したと報じられている。・・

ここで件の郵便不正問題における最近の動向を簡単にまとめますと、まず先月10日に大阪地方裁判所が村木被告人に無罪判決を言い渡します。さらに同21日、最高検察庁が村木元局長に対する公判の大阪地裁一審無罪判決に対して控訴断念と上訴権放棄を明らかにしたため、同氏の無罪判決が確定判決となりました。そして同日、大阪地方検察庁特別捜査部の主任検事M氏が証拠隠滅容疑で逮捕されるという検察史上前代未聞の不祥事に至っています。まさに本書でいう「冤罪が作られる仕組みそのもの」の構図が現実となっていて改めて驚かされます。

最後の第5章「検察革命」では、暴走と劣化を繰り返す検察に対しての著者なりの改善策がしたためられています。具体的には、個々の検事に今より更に多くの権限・裁量を与えて検事個人の能力を引き出させて組織硬直を打破すべきことや、検察の権限行使に民主的なコントロール働かせる唯一の手段としての法務大臣の指揮権発動を有効に利用すべきことなどが提言されています。

ただ、これらの改善案に関しては私は読んでいて少し違和感を感じたというのが正直なところです。というのも、まず個々の検事の権限・裁量の余地を増やすことは、少なくとも現職検察による証拠改ざんという常軌を逸した行為が明るみになった現状においては、むしろ逆に難しくなった感もありますし、法務大臣の指揮権発動に関しても、(また間の悪いことに)件の証拠改ざんが明るみになった直後に起こった沖縄・尖閣諸島沖の日本領海内での中国漁船衝突事件での、中国人船長釈放における沖縄地検の不透明な司法処置(これには政治的圧力があったと囁かれていますが)に鑑みると、政治の司法への介入という観点から、それなりに厳しいものがあるように思えるからです。

ただ、あくまで今年初頭時点での著者なりの改善案に過ぎないので、直近の検察問題を直接的に踏まえた案ではない以上、さすがに止むを得ないとも思えます。

そして本書は最後に以下の文章で結ばれています。

 今、検察が危ない。無条件に「正義」と信じられてきた検察は、暴走と劣化を繰り返し、日本の社会にとって非常に危険な存在となっている。
 一方で、社会の中で本来の役割を果たせていないということは、検察という組織自体にとって深刻な問題である。その意味でも、検察が危ない。
 しかし、こうした危機的な状況は、組織にとって、大きな変化・飛躍へのチャンスでもある。
 検察がこの窮地を乗り越えて、国民から信頼され、期待に応える存在になってくれることを心から祈りたい。

繰り返しますが、本書は今年の4月に発売の新書なので、上の記述は今まさに大々的に問題になっている検察の不正事件について著者が知り得ない状況下で書かれています。それにもかかわらず、ここまでの強烈な危機意識を著者が検察組織に対して抱いていたという事実が本書の何より特筆すべきところだと思います。

新国立劇場の新体制に関する雑感


おととい(10/6)の朝日新聞の夕刊を読んでいたところ、このたび新国立劇場のオペラ部門芸術監督に就任した指揮者の尾高忠明氏のインタヴュー記事が掲載されていました。主に今季からの劇場運営に向けての抱負が語られています。(なお、同じ記事が朝日新聞のウェブサイトにも掲載されています)。

Asahi-Newspaper10-07

そこで尾高氏が語っている運営方針の骨子を抜粋しますと、以下のようなものになります。

・最大の目標は年間公演回数を増やすこと。ここ数年は約60公演で、オペラが上演されていない日の方が多い。「フィガロ、カルメン、椿姫……こういった定番が一度も上演されない年がある、ということがそもそもおかしい」

・歌手や指揮者には日本人を積極的に起用する考えだ。新日本フィルハーモニー交響楽団と音楽監督のアルミンクをピットに入れ、ウィーン国立歌劇場で才能を見いだした甲斐栄次郎を抜擢するなど、着々と独自の視点を盛り込む。「いずれは全員日本人での舞台をつくりたい」

・欧州並みに、門戸を広げる安い席も増やしたいところ。立ち見席の設置にもこだわる。「少しでも生のオペラの空気に触れたいと思って詰めかける人々の熱気こそが劇場を育てる」と確信している。

つまり年間公演回数を増やす、日本人を積極的に起用、立ち見席の設置といったあたりに意欲を示しているのですが、その記事には同時に以下のような、かなり心配なことも書かれています。

 事業仕分け後の予算1割カットなど、厳しい状況での船出で、問題は山積みだ。倉庫も現在は千葉・銚子にあるのみで、レパートリーを増やしたくても再演のために舞台装置をとっておく場所がない。「トーキョー・リング」として世界的にも注目されたキース・ウォーナー演出のワーグナー「ニーベルングの指環」4部作の装置も、すでに取り壊された。

このような厳しい劇場運営環境に対し、尾高氏の抱負の中で、収益改善に対する方策が特に何も示されていないのが気になるところです。立ち見席の設置などは、むしろ収益低下を招きそうな気もしますし、年間公演回数を増やすにしても、現状の赤字体質の改善なしには実現は難しいように思えますが、どうなのでしょうか。

新国立劇場には私も毎年のように足を運んでおり(今年に入ってからだと「ジークフリート」「愛の妙薬」「カルメン」を観てますし、年末の「トリスタンとイゾルデ」も観に行く予定です)、今後の尾高体制に向ける期待も大きいところですが、どうも上に掲げられたビジョンを実現するための方策が不明確に思えてしまうのが気掛かりです。

いずれにしても、なんらかの打開策を見出さないと難しいのではないかと思いますが、今後も新国立劇場が日本のオペラファンにとって良質な舞台を提供する場であり続けることを願いたいと思います。

ラファウ・ブレハッチのピアノ演奏会(サントリーホール 10/6)の感想


昨日(10/6)のサントリーホール、ラファウ・ブレハッチのピアノ演奏会の感想です。なお、以下の演目はすべてショパンの作品です。

2010-10-07

最初のポロネーズ第1番と第2番は、まず指馴らし程度に軽く流すかとも思いきや、初手から随分とエネルギッシュに弾き始めました。適度にルバートを効かせながらの、落差の大きなデュナーミクの迫力、奇麗に粒の揃って美しいピアニッシモ、煌びやかな響きのフォルテッシモ、そして何より難所に差し掛かろうともビクとも揺るがない完璧な演奏テクニック、そういった要素のすべてが、なるほど直近のショパン・コンクール優勝ピアニストのショパンだなと聴いていて納得させられてしまう、いわば演奏技術的観点においては一分の隙もないような音の造型物としてのショパンがホールに立ち現われました。

続く作品41の4つのマズルカでも、どのパッセージワークひとつとっても流暢な打鍵の運びが際立っており、そこからマズルカのリズム感が絶妙に浮き上がってくる様なども素晴らしく、このあたりは2005年ショパンコンクールにおいて優勝のみならずワルツ賞とマズルカ賞の3賞も独占するという、コンクール史上初の快挙を成し遂げたブレハッチならではの貫禄を見せつけたように思えました。

次のバラード第1番は、そんなブレハッチのピアニズムの醍醐味が存分に乗ったかのような、素晴らしく充実感のある演奏。すさまじいばかりのハイテンポでも正確を極め、粒が完璧に揃ったフレージングの美しさ、音色の几帳面なまでのコントロールの冴え、力一杯のフォルテッシモでも濁らずに透徹した色合いを維持する自制力、まさに稀代のヴィルトゥオーゾのピアニズムここにあり、と聴いていて感嘆することしきりでした。

プログラム最後はピアノ協奏曲第2番で、大友直人の指揮による東京交響楽団の伴奏(オーケストラの配置はVn-Va対向配置、編成は12型)でしたが、オケに関しては全体に音がスカスカで正直さほど感心しなかったのに対し、ブレハッチの「聴かせるテクニック」には、やはり感心させられてしまう演奏でした。その技術的な危なげの無さにもかかわらず、強弱の落差の大きなドラマティック・スタイルのピアニズムから、大変に完成度の高い演奏が披歴され、そこにはショパンに対する強いシンパシーをもって技術的に切磋琢磨を重ねたピアニストとしての姿勢が、端的に演奏に反映していたように思えましたし、それは聴き終えて何か特別な体験を味わったという感銘を聴き手に残すに十分なものと思えました。

アンコールの3曲も含めて、総じて当夜のブレハッチのショパンは確かに紛れもなく、自身の華々しいキャリアに相応しい充実を尽くした演奏内容でしたが、しかしながら最近、私が同じホールで聴いたツィメルマンのショパン、もしくはポゴレリッチのショパンと、当夜のブレハッチの披歴したショパンとを、表現として突き合わせてみるなら、そこには少なからぬ距離が歴然と存在しているように思えてしまったという印象も、また正直なところです。

例えば、最初の2曲のポロネーズでいうなら、聴いていてショパン作曲当時のパリの華やかさなどは良く伝わってきても、そこでホームシックにかかったとされるショパンの屈折した陰影などは、必ずしも十分に浮かんでこない演奏と思えたこととか、4つのマズルカのうちホ短調の曲41-2は、マヨルカ島で作曲された当時のショパンの暗い心境、鬱屈した気持ちなどが、さほど刻印されているようには聴こえなかったり、後半の2曲も同様に、いわばヴィルトゥオーゾ型のピアニズムの訴えかけの華やかさ、分かりやすさが強調されすぎ、ショパンの音楽の暗み、ある種の分かりにくさの方が埋もれがちになっているように思われたのです。

そこで思い出されたのが、同じホールで今年の6月に聴いたツィメルマンのショパンと、同4月に聴いたポゴレリッチのショパンでした。というのも、ツィメルマンはブレハッチと同じくポーランド人のショパン・コンクール優勝者ですし、ポゴレリッチもショパン・コンクールには浅からぬ縁がある上、ピアノ協奏曲第2番の演目が重なっていたからです。

その対比でピアニズムの性質を考えてみると、ブレハッチのショパンというのは、例えばポゴレリッチのやるような、スコアを解体してまで自己の描く音楽を再創造するというのでなく、さりとてツィメルマンのやるような、スコアの許容するギリギリの範囲内で自己の主観性とショパン自体の音楽との激しいせめぎ合いを突き詰めるというようなものでもない。おそらくブレハッチの場合、自己の盤石とも言うべきテクニックありきの演奏のように(本人の主観はともかく)聴き手に感じられてしまう点に、いくばくかの問題があるのではないかと私には思えます。つまり、自己の内奥から突き上げる衝動から音楽を構築するというのではなく、いわば自己のテクニックというカードを最大限に生かすにはどうすればいいか、という視点から音楽を構築しているような感じがあり、それがピアニストとしての強烈な個性味の放射を薄めているのではないかという風に、当夜の公演での一連の演奏を聴いて私には思われました。

そもそもショパンコンクールのような大会で優勝するためには、まずテクニックという万国共通言語に磨きを掛けることが絶対条件であり、表現の個性味に磨きを掛けるのは2の次3の次(なぜなら、それが審査員の感性に受け入れられるか否かはバクチに近いから)ということが、よく言われるところですが、当夜の公演を聴いた限りでも、そういったコンクール様式の発想の残滓が随所に伺われるように思えたのでした。ここぞという時のブレハッチの大見得を切るかのようなピアノの立ち回りは演奏効果としては抜群ではあっても、必ずしも強烈な余韻を残さない、そんな時に、そういったコンクール様式の呪縛から完全に解き放たれたかのような現在のツィメルマン、あるいは最初から呪縛されなかったポゴレリッチとの違いが出たのかもしれないと、ふと思えました。

むろん、こういったことは私の矮小な思い込みに過ぎないのかも知れません。いずれにしても全体的にブレハッチの非凡な才能の発露、それ自体に対しては聴いていて素直に感服させられたのですが、しかし少なくともツィメルマンやポゴレリッチの披瀝したショパンほどには、聴いていて私の心が強く揺さぶられなかったのも事実ですし、その意味で聴き終えて私の中で100パーセントまでは満たされなかった演奏会でもあったというのが偽らざるところです。

ラファウ・ブレハッチのピアノ演奏会(サントリーホール 10/6)


今日はサントリーホールでラファウ・ブレハッチのピアノ演奏会を聴いてきました。

2010-10-06

演目はすべてショパンで、以下の曲が順に演奏されました。

①ポロネーズ第1番
②ポロネーズ第2番
③4つのマズルカ作品41
④バラード第1番
⑤ピアノ協奏曲第2番
 (大友直人の指揮による東京交響楽団の伴奏)

アンコール:
⑥ワルツ第4番
⑦マズルカ作品50-2
⑧夜想曲第20番

ラファウ・ブレハッチは周知のように2005年ショパンコンクールに弱冠20歳で優勝を果たしたピアニストで、かつ1975年のクリスティアン・ツィメルマン以来となる同コンクールのポーランド人優勝者です。

そのツィメルマンのオールショパンリサイタルを私は今年6月に同じホールで聴き、ひとかたならぬ感銘を受けたことは以前ブログに書きましたが、その時と同様オールショパン、それも直近のショパン・コンクール優勝ピアニストの演奏会とあって期待も膨らみ、楽しみにホールに赴きました。

感想は後日に改めて出しますが、全体的にブレハッチの非凡な才能の発露は聴いていて良く伺える演奏内容でしたし、その意味では彼の披瀝した驚異的なまでのピアニズムに素直に感嘆させられました。もっとも、前述のツィメルマンで聴いたショパン、あるいは、その少し前に同じホールで聴いたポゴレリッチのショパンなどと引き比べてみた場合に、それぞれの演奏としての色合いの違いに関し、それなりに思うところもありました。

読書間奏・文春新書「名文どろぼう」


少し前に読んだ本ですが、、

「名文どろぼう」
文春新書 竹内政明・著

BS745

今年の3月に発売の新書で、いわゆる名文集ですが、やや変則的です。直球勝負の名文集とは一味ちがう、変化球勝負型というべきでしょうか。著者は読売新聞の論説委員にして、看板コラム「編集手帳」の執筆者とのこと。

本書のカバー裏に書かれている短い紹介文には「人の心を打つ名文を書くには、名文を盗むことから始めよう。当代随一の名文家が、小林秀雄からスティーヴン・キング、落語、六法全書まで、秘密のネタ帳から古今東西の名文を絶妙に引用して綴る人生の四季。名文の芳香に浸る至福のひととき。 」とあります。また序文のページには「新聞社に籍を置いて三十年、しゃれた言葉や気の利いた言い回し、味のある文章を、半分は仕事の必要から、半分は道楽で採集してきた。本書ではコレクションの一部をご覧いただく。」と書かれています。

そのあたりを本屋で読んで、年がら年中しょうもない駄文の音楽感想をブログに書き散らしている私も、これを読めば少しは今よりマシな文章が書けるかもしれないという、甚だ不純な動機から購入した次第です。

それで、どんな素晴らしい「人の心を打つ名文」が書かれているのかと思い、さっそく最初に挙げられている名文を見ますと、、

命あってのモノマネ 
         高田文夫「娯楽・極楽・お道楽」より

テレビで見る傑作な物まねを楽しんでいたので、タレントの松村邦洋さんが急逝心筋梗塞で倒れたと聞いたときは心配した。幸い深刻なことにはならず、今はまた元気な顔を見せてくれている。・・・
放送作家の高田さんは松村さんの師匠筋にあたる。このダジャレが活字になったのは松村さんが倒れる四年前のことで、現実のほうがダジャレを模倣したらしい。・・・

2番目に挙げられている名文は、、

四十にしてマドモアゼル 
         戸坂康二「夜更けのカルタ」より

劇作家の戸坂さんが半世紀近く前につくった論語もじりの名作も、「適齢期」という言葉からして口にしにくいご時世を迎えては、いずれ滅びてしまうしかあるまい。

それぞれ「命あっての物種(ものだね)」「四十にして惑わず」をもじったダジャレで、名文というより言葉遊びに近い気もしなくもないですが、なるほど確かに発想が秀逸で面白い、、

以下などは名文というよりは、むしろ著者のユーモラスな視点が絶妙という気がします。

学問の 自由はこれを 保障する 
            日本国憲法第二十三条

内容というよりも俳句調、五七五の調べが気に入っている。・・・
条文の執筆者は日本古来の調べを新憲法に刻印し、古き伝統を滅ぼしていく占領体制に抵抗の矢を放った、ということはないにしても、河竹黙阿弥がお嬢吉三の名セリフ「月も朧に白魚の」以下を思いついたときの十万分の一くらいの満足感はあっただろう。・・・

この手の名文ばかりではなく、正統派の名文も多く挙げられています。例えば、、

呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。 
           夏目漱石「吾輩は猫である」より

この一文が多くのひとに親しまれるのは、人の世を見つめる猫の透明にして深遠なまなざしもさることながら、七・五・七・七・七・五の流れる調べがあってだろう。

さすがに漱石は複数の名文が挙げられていますし、寺田寅彦の文章も取り上げられています。

なかなかに印象深かったのが、文藝春秋の編集者、車谷弘氏が俳句集を出版したとき、井伏鱒二から届いた葉書に、たった2行書かれていたという以下の文。

うますぎると評判ですが
私もそう思います。     井伏鱒二
         
車谷氏は全身が痺れるほど感激したという。感激の経路をたどれば、「うますぎる」でまず引っ掛かり、批判めいた内容かしらと不安が兆し、逆接の「が」で不安は高まる。後段を読み終えて一気に喜びがこみ上げる仕掛けだろう。「とてもうまいと評判です。私もそう思います。」では、通り一編のお世辞にしか聞こえない。

以上、本書をひと通り読んで、名文の何たるかに思いを馳せつつ、いずれにしても私などにはレベルが高すぎて結局のところ参考にならないという事実に気がつきました。愕然、、

カピュソンとブラレイのデュオによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集


ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全集
 カピュソン(vn)、ブラレイ(pf)
 ヴァージンクラシックス 2009年 6420010
6420010

英ヴァージンから先月リリースされた、ルノー・カピュソンのヴァイオリンとフランク・ブラレイのピアノのデュオによる、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集のCDを聴きました。

この全集は2009年9月の4日間にセッションで集中的に録音されていますが、この録音に入る前、カピュソンとブラレイはフランスを中心に全ヨーロッパでベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲のマラソンコンサートを開催、それら数十回に及ぶコンサートを経て録音に万全を期したと伝えられています。

そういった経緯も含め、フランスの名ヴァイオリニストとして近年とみに評判の高いカピュソンが名ピアニストのブラレイと組んで、どのようなベートーヴェンを披露するか興味深く、さっそくソナタ全集の中から第5番「春」と第9番「クロイツェル」を選んで聴いてみました。

まず第5番「春」ですが、第1楽章冒頭から明晰なイントネーションと美麗な響きを帯びたカピュソンのヴァイオリンのフレージング展開が素晴らしく、これにブラレイのピアノソロが春の陽光のごとく夢幻的かつ温かく包み込み、まさに春の陽だまりに身を浸すような音の快楽というべき、この作品の趣きが抜群の感度で再現された演奏となっていて初っ端から大きく惹き込まれました。

そうかと思うと第2テーマ部(1:13)ではスフォルツァンド記号を大胆に強調した弾き回しが耳を捉えるのを皮切りに、展開部最初の(5:02)での不協和音の強烈味も聴いていてヒリヒリするほどであり、展開部が進むにつれて徐々に切迫した表情をつけていくあたりなど、ただ安逸なだけではない「ベートーヴェンらしさ」が充溢する演奏となっているあたり、大いに傾聴させられますし、「春宵の一刻」のような第2楽章、妖精が跳びはねるような第3楽章、本当にベートーヴェンかと思うほどの幸福なリリシズムの溢れる終楽章、いずれも各楽章の個性を精妙に描き分けている点にも聴いていて感嘆するばかりです。

続いて第9番「クロイツェル」を聴きましたが、まず第1楽章のタイムが提示部反復ありで13分半となっているのが目を引きます。これは相当に短いタイムです。ここでは主部プレストでの怒涛のテンポが強烈ですし、同時にカピュソンのバロック奏法を思わせるような、シャープにザクザクと運ばれるボウイングの迫力も素晴らしく、ブラレイの一体感のあるピアノともども、それは表現主義的な表出力とともに抜き差しならない感情のほとばしりや、ひいてはベートーヴェンの音楽の真実性を、聴き手に十二分に伝えることのできる希有な演奏のひとつと思われるほどであり、この楽章を聴き終えて感嘆を禁じえないほどでした。

第2楽章と終楽章においては、およそテンポの取り方に四角四面な印象がないためか、決して緩急レンジの大きな表現ではなく、むしろ古典的造型を大事にした生き方とさえ思えるのに、そこからは来るべきロマン派の音楽に似た情感が溢れんばかりに息づいている、そんな気配が随所に伺われ、それらが聴き手の心にじわじわと染み入ってくる感があり、いわく新鮮な面持ちで全体を聴き終えました。

以上、「春」「クロイツェル」ともに、おそらく作品の隅々まで両者の解釈なり共感なりが行き渡っていると感じられるだけでなく、多くの共演を重ねて満を持して録音に挑んだカピュソンとブラレイの自信のほどが良く伝わってくるような掛け値なしの名演と感じられましたし、音質も優秀です。残りの8曲のソナタも、じっくりと聴いてみたいと思いますが、これはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集としては、近年まれにみるほどの成果ではないかと思えました。

夏目漱石の小説「三四郎」


「夏目漱石の小説シリーズ」(←どうもパッとしないタイトルですが、他に思いつかないので、、最初「夏目漱石を語る」にしようと思いましたが、傲慢にも程があると思って止めました)ですが、今回は「三四郎」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-17

 三四郎はまったく驚いた。要するに普通のいなか者がはじめて都のまん中に立って驚くと同じ程度に、また同じ性質において大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きとともに四割がた減却した。不愉快でたまらない。
 この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。
 三四郎は東京のまん中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動には毫も気がつかなかった。――明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。

「三四郎」は1908年に朝日新聞紙上で連載された長編小説で、後に「それから」「門」と続く、いわゆる前期3部作の先駆けとなる作品です。東京大学(旧帝大)を舞台とし、主人公の三四郎が、親友の与次郎、ヒロインの美禰子、博識な広田先生といった個性豊かな登場人物を交えて織りなす学生生活の顛末が、漱石一流のユーモラスにして風格ある文調により鮮やかに活写されています。

この「三四郎」という小説の雰囲気は漱石の一連の作品群の中でも、かなり独特ではないかと思います。作品を支配する諧調はバラ色に近く、確かに、自分と社会との関係、距離感を計り切れない、青年期特有の不安や苦悩が随時、描かれはしますが、そういった色彩は作品全体の雰囲気を支配するまでには至らず、むしろ青春小説としての幸福な味わいの方が読後感として強く残るものです。

もうひとつ、この「三四郎」という小説が独特なのは、作品中に占められるユーモアとペーソス、つまり「笑い」と「涙」の配置関係が絶妙であるがゆえに、作品としての奥行きが深く感じられる点です。

「坊っちゃん」などは明らかにユーモア、笑いに傾斜していますし、「こころ」などは逆に、明らかにペシミズムに傾斜しています。もちろん、それぞれにおける漱石の語り口の巧さ、その表現の味わいなど、全く並のものではありませんが、「坊っちゃん」を読んで「こころ」のようなホロっとした感じにはなりにくいですし、「こころ」を読んで「坊っちゃん」のようなユーモアを楽しむこともまた難しいでしょう。

その点「三四郎」は、この両者が何か理想的ともいうようなバランスで拮抗していて、それが他の漱石作品にはない独特の複層的な味わいを形成せしめている、ように私には思えます。

ユーモアという点では、例えば以下のくだりなどが抜群です。

 その代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前をこれで三、四へん耳にしている。そうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名をつけている。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑われたのもやはり広田先生にしてある。ところが今承ってみると、馬の件ははたして広田先生であった。それで水蜜桃も必ず同先生に違いないと決めた。考えると、少し無理のようでもある。

実は「少し無理」どころではなく、はっきり言ってムチャクチャなんですが、こういうことを、こんな格調高い文体で平然と書かれると、どうしたって読んでいて笑ってしまわずにはいられません。とにかく面白い。

逆にペシミズムという点でも、ヒロインの美禰子が大活躍?することにより、深い味付けが大いに為されています。

この美禰子のキャラクタに関しては、指揮者、もとい識者の書かれた作品論をひもといてみますと「矛盾の女」「無意識の偽善者(アンコンシャス・ヒポクリット)」「迷える子羊(ストレイ・シーブ)」などなど、いろいろな切り口で書かれているようですが、例えば吉本隆明の作品論「夏目漱石を読む」(筑摩書房)では、最初に「虞美人草」の藤尾がもし自殺しなかったら「三四郎」の美禰子になったはず(!)、という大胆な仮説から始めて、「三四郎」という作品が「第一級の作品だけにある文学の初源性」をもっている点で、「最後の青春小説」であるという風に論じています。いずれにしても、美禰子をどう捉えるかが「三四郎」の作品論の根幹となっているようです。

そして、この長編小説のクライマックスは、あまりにも有名な以下のシーンです。

 女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香(かおり)がぷんとする。
 「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎(びん)。四丁目の夕暮。迷羊(ストレイ・シープ)。迷羊(ストレイ・シープ)。空には高い日が明らかにかかる。
 「結婚なさるそうですね」
 美禰子は白いハンケチを袂(たもと)へ落とした。
「御存じなの」と言いながら、二重瞼(ふたえまぶた)を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉(まゆ)だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎(うわあご)へひっついてしまった。
 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
「我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり」
 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。

まさに珠玉の名文。その抑制された慎ましい文調に漂う無限の情感。

例によってベートーヴェンとの対応についてですが、「三四郎」はベートーヴェンの交響曲第4番に対応すると考えます。主要9作品の中では異例ともいうべき、幸福で満ち足りた雰囲気の作風という点で共通項がありますし、それより何より、音楽の雰囲気と小説の雰囲気とがピタリと一致します。もしベートーヴェンの交響曲第4番に標題を付けるとしたら、私には「三四郎」しか思い浮かびません、というのは少し言い過ぎですが、「青春」くらいは付けても良さそうです。いずれにしても、この交響曲の全体に浮遊する独特の幸福な情緒は、作曲当時のベートーヴェンの幸福な恋愛事情が反映されたものであるというのが通説であり、そこに三四郎という作品の持つ青春の儚いまでの幸福な雰囲気と相通ずるものがあるような気がします。

以上、次回は「それから」についてです。

ルプーによるシューベルトのピアノ・ソナタ第16番と第18番「幻想」


シューベルト ピアノ・ソナタ第16番、第18番「幻想」
 ルプー(pf)
 デッカ 1979・74年 F35L-20108
F35L-20108

ルーマニア出身の名ピアニストとして知られるラドゥ・ルプーが、今月サントリーホールで来日リサイタルを行います。

主催者のサイトに掲げられている公演案内を読みますと、ルプーの来日は9年ぶりで、レコーディングは1993年に録音したシューマンのアルバム以来、一切を拒否、インタビューも同じく拒否、彼と接することができるのは今やコンサート会場のみ、という沈黙のスタンスを貫き、特に日本にとっては「幻のピアニスト」のような状態にある、とのことです。

ルプーは周知のように、かつて「千人に一人のリリシスト」という異名で知られたピアニストですが、特にシューベルトのピアノ・ソナタの演奏に関しては余人の追随を許さぬほどの名演奏を披歴することで知られます。9年前の来日で弾いたとされるシューベルトの第19番のソナタに関しても、音楽評論家の吉田秀和氏が新聞評で絶賛していたのを読みましたが、今年はシューベルト最後のピアノ・ソナタ第21番がプログラムに上っています。

その今月のルプーのリサイタル、私は聴きに行こうかどうか迷っていて、実際まだ決めかねています。

迷っているくらいなら思い切って聴きに行けばいいんですがこの前も書きましたように、この秋は聴きに行きたいコンサートというのが他にも山ほどあり、聴きたい公演を片っぱしから聴きに行ったらアッと言う間に予算オーバーです。行くか行かないか、ルプーのリサイタルは私にとって、ちょうどその微妙なセンです。

それにメインの演目がシューベルト最後のピアノ・ソナタ、第21番である以上、シューベルトのソナタを心から愛する聴衆が多く集まるに決まっているような当夜のサントリーホールに、私みたいにシューベルトの音楽に対する共感が甚だ心許ない聴き手が紛れ込んでしまって良いものかどうか、という気後れも正直あります。

それで大昔(20年くらい前?)に購入した、ルプーの弾くシューベルトの16番と第18番のソナタのCDの、尋常ならざる美しさを湛えた演奏を、改めて聴き直してみることにしました。それを聴いた上で聴きに行くかどうか、最終的に決めようと思っているところです。

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