カルロス・クライバー/ウィーン響によるマーラー交響曲「大地の歌」


マーラー 交響曲「大地の歌」
 C・クライバー/ウィーン交響楽団、ルートヴィッヒ、クメント
 EISEN 1967年ライヴ 42103-2
Eisen42103-2

昨日の続きとしまして、今回はカルロス・クライバーがウィーン交響楽団を指揮したマーラーの交響曲「大地の歌」です。歌手はテノールがヴァルデマール・クメント、アルトがクリスタ・ルートヴィッヒ。

・・・ウィーンの芸術週間の12回の演奏会で初めてマーラーの交響曲の全曲が取り上げられることになっていた。演奏会の大部分はマーラー演奏で定評のある楽員を擁するウィーン交響楽団が担当し、そのほかにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、それにベルリン放送交響楽団も客演することになっていた。このマーラー・ツィクルスを活気づけたのは、レナード・バーンスタイン、カール・ベーム、クラウディオ・アバド、ラファエル・クーベリック、ジョルジュ・プレートル、ロリン・マゼール、それにブルーノ・マデルナなどの指揮者が登場することだった。そしてバーンスタインはマーラーの交響曲第2番「復活」を引き受けた。カルロスにとってこれはチャンスだった。というのはウィーンの多忙この上ないオーケストラはいつも指揮者にとってスプリングボードを意味したからである。
 彼を呼んだのは1961年からウィーン・コンツェルトハウス協会の事務局長を務めているペーター・ヴァイザーだった。・・彼がカルロスを呼ぶきっかけを作ったのは演出家のオットー・シェンクだった。・・「『あなたはクライバーを知っていますか』と彼は訊いた。『すごい男だよ』。それでわたしはシュトゥットガルトへ行った。そして彼に《大地の歌》を提案した。彼は答えた、『承知しました』。しかしモーツァルトのピアノ協奏曲は拒否した。とても父にはかなわないからということだった。そして『ハイドンかモーツァルトの交響曲なら』と対応し、モーツァルトの交響曲第33番を提案してきた」・・・
       「カルロス・クライバー
         ~ある天才指揮者の伝記(上)」より

マーラーは基本的にクライバーのレパートリー外の作曲家ですし、この「大地の歌」をクライバーが振った経緯なども、これまでよく知られていなかったところ、以上のように、少なくともクライバーの方から進んで提案した曲目ではなかったことなどが明らかにされています。

しかしクライバーは「大地の歌」の提案を承諾し、この曲を探究するために「ある指揮者」に直接教えを乞いに行きます。「その指揮者はだれよりも《大地の歌》に通じていた。彼はベルリン時代まで遡ってカルロスの父の同僚でライヴァルのオットー・クレンペラーだった。カルロスはチューリヒのクレンペラーを訪れ、《大地の歌》の楽譜をもとに検討することを求めた。そして数時間ともに勉強した。クレンペラーは来訪者の音楽性に深い感銘を受けたが、その人柄にはべつの印象を抱いた。・・・

このあたりの記述も実に興味深く、あのクライバーの「大地の歌」に、まさかクレンペラーの影響が紛れ込んでいるとは思いもしませんでした。

このクライバーの「大地の歌」のライヴは、これまで複数のレーベルからCD化されていますが、2002年リリースの独EISEN盤が比較的良好です。ある程度リマスタリングで加工がなされていますが、フラット感を薄め、空間的なプレゼンスを可能な限り与えようという意図が伺えます。このため下記Casanova盤に比べて若干アンサンブルの線が細くなったかという印象もありますが、全体的には聴き易い音質です。ただ、編集ミスで終楽章の冒頭部がリピートされているのが、ちょっといただけませんが、、

CA-005
マーラー 交響曲「大地の歌」
 C・クライバー/ウィーン交響楽団、ルートヴィッヒ、クメント
 Casanova 1967年ライヴ CA-005

上記Casanova盤は全体的にフラットな音質で、おそらくモノラルのオリジナルテープそのままに近い音質ではないかと思われます。それだけに聴き易い音質ではないですが、そのぶんライヴ時の音響的な生々しさは聴いていて良く伝わる感じはします。なお、両盤とも終演後の拍手まで収録されています。

カルロス・クライバー/ケルン放送響によるベートーヴェン交響曲第7番の72年ライヴ


ベートーヴェン 交響曲第7番
 C.クライバー/ケルン放送交響楽団
 Artists 1972年ライヴ FED018
FED018

カルロス・クライバーの自伝「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記」の日本語訳の下巻が発売されることを先週ブログで書きましたが、その上巻の方で取り上げられているクライバーの幾つかの演奏につき、実はブログで取り上げたいと思っていたものがいくつか残っていました。

と言っても正規盤でリリースされている演奏については、以前すべて取り上げていますので、それ以外(いわゆるプライヴェート盤)の方のCDで聴くことのできる演奏の方です。

具体的には、ケルン放送交響楽団とのベートーヴェン交響曲第7番のライヴと、ウィーン交響楽団とのマーラー交響曲「大地の歌」のライヴ、この2つです。ともにクライバーファンにはお馴染みというべき演奏ですが、いずれも正規盤でリリースされていないため、これまで演奏自体に関する情報が乏しく、どういう経緯での演奏だったのかが判然としなかったところ、かの伝記により、そのあたりが明らかにされています。

そのベートーヴェン交響曲第7番を含むケルン放送交響楽団とのコンサートに関しては、以下のように書かれています。

1972年の初頭、クライバーは父親と関わりのあった都市の一つであるケルンに客演する機会を得た。エーリッヒ・クライバーは、50年代に入ってから1956年1月まで、ケルン放送交響楽団で数回演奏会を行っただけでなく、ベートーヴェンの《フィデリオ》、ウェーバーの《魔弾の射手》、という2つのオペラを録音している。・・・カルロス・クライバーは1972年5月26日に演奏会を催し、ヨゼフ・ハイドンの交響曲第94番ト長調《驚愕》を指揮した。当時、この作品は彼のレパートリーに入っていた。クライバーはベートーヴェンの交響曲第7番イ長調に大きな畏れを抱いていたが、この作品に対する彼の新たな解釈は、かつてプラハの聴衆をいらだたせたことがあった。
・・・
ハイドンとベートーヴェンの間には、アルバン・ベルクの《ヴォツエックからの3つの断章》が、クライバー自身の強い希望で選ばれた。この曲は父親が1953年11月に、まさに同じこの場所で演奏した曲であり、聴衆の喝采を遮り、総譜を高く掲げて、次のように発言した。「皆さんが感謝すべきは、この音楽です!」このことを、古参の楽員はいまだによく覚えていた。・・・
・・・
演奏会の実況録音は、今日もなお聴き手を興奮させるだけの効果を有している。爆発的な力が聴き手を押し流し、この力に自らをゆだねた聴き手は、幸福感を味わうとともに、疲労感も味わうことになる。ケルンの演奏会録音が残っていたことは、大変な僥倖である。ほかの録音で、これほどまでに直接的に、人を引きつけるカルロス・クライバーの炎のような演奏とともに、その抜きんでた様式感を味わえることはまれである。
       「カルロス・クライバー
         ~ある天才指揮者の伝記(上)」より

クライバーの死後2006年になって遺族承認のもとバイエルン国立管とのベートーヴェン7番のライヴがオルフェオからリリースされたため、こちらのケルンでのベートーヴェン7番ライヴの録音の意義は相対的に下がったかもしれませんが、いずれにしてもクライバーの残した数少ないライヴ録音の中でも屈指の名演奏である点は揺るがないと思います。

このクライバーのケルンでのベートーヴェン7番のライヴは、これまで複数のレーベルからCD化されていますが、Artistsレーベルの音質が比較的良好です。後述のFirst-Classics盤のような余計なエコー処理がなく、実演時の迫力を比較的よく窺い知ることができます。

FCM-2001
ベートーヴェン 交響曲第7番
 C.クライバー/ケルン放送交響楽団
 First-Classics 1972年ライヴ FCM-2001

こちらは同日のハイドン「驚愕」との組み合わせで、Artists盤に入っていなかった終演後の拍手まで入っています。しかし、肝心の音質がイマイチです。全体に変なエコー処理がされている感じで、音がモワモワしています。もうひとつ問題なのが、このベートーヴェンはArtists盤で聴くと、終楽章の冒頭でアインザッツが大きく乱れる事故が耳に入りますが、こちらのFirst-Classics盤では、それが跡形もなく修正されてしまっています。これだとライヴのリアリティが削がれますので、あまり感心できません。

ウィーン交響楽団とのマーラー交響曲「大地の歌」のライヴについては後日に。

読書間奏・ベスト新書の「新書がベスト」


久々に「読書間奏」のエントリーです。おもに通勤電車の中で読みました。

C0295
小飼弾・著「新書がベスト」
ベスト新書 

今年の6月に発売の新書で、著者は月間で100万ページビューを集める著名な書評ブログを運営されているとのこと。

テーマは読書のためのノウハウですが、読むべき対象を「新書」に限定している点がユニークです。本書の構成を見ますと、まず序章があり、第一章「新書の買い方、読み方」、第二章「新書を10倍生かす方法」、第三章「新書レーベルめった斬り!」、終章「新書と電子ブックの未来」。全体を通して新書を情報ツールとして最大限に活かすための読み方、新書の楽しみ方のようなことが書かれています。

特に最初の序章で書かれていることが印象深く、それは「なぜ今、本を読まなければならないのか」と「新書以外は買わなくていい」という2つの部分からなりますが、前者の部分では、インターネットが発達して誰でも膨大な情報にアクセスできるようになった今こそ、むしろ私たちは積極的に本を読まなければならない、という逆説的な主張が述べられています。

普通に考えるなら、インターネットが発達して情報に手軽にアクセスできるようになったのなら、別に読書など必要ないのではないか、そこまで言わなくとも、少なくとも読書の価値は以前よりも下がっているのではないか、と思いがちですが、そうではないと著者は言います。

その理由を要約すると以下のようになりますが、最終的に読み終えた時点でも、ここを読んだ時のインパクトが私にとって特に大きかったような気がします。

・確かにインターネット上には日々、膨大な量の情報が流れているものの、向こうから積極的にプッシュされてくる情報を眺めているだけでは意味がなく、それだと結局は情報弱者に転落するだろう。

・なぜなら、そのような情報は今やあっという間にコピーされて広まり、すぐ陳腐化するので、誰もが簡単に手に入れられる情報を貯め込んでいるだけでは何ら強みにならないからだ。

・多様な考え方を取り入れつつ自分なりの「知の体系」を構築するには、自分から積極的に情報を取らなくてはならず、この点において本に勝るメディアはない。

・ネット上に漫然と散らばっているだけの情報に大きな価値はなく、むしろ一人の著者の独自の考え方なりが詰め込まれた本に書かれた「偏った情報」こそが、これからは情報として大きな価値を帯びるようになる。


次の「新書以外は買わなくていい」の部分では、「ハードカバーは滅びてしまえ」という、かなり過激な主張まで披歴されていますが、ここでは主にハードカバーに対する新書の優位性について論じられています。何より価格が安く、「ハズレ」を引いてもダメージが少ない点、持ち運びなどの取り扱いが便利なので時と場所を選ばず読み易い点、そしてハードカバーの方が新書よりも内容の問われるメディアである点(新書はハードカバーのように装丁で誤魔化しが効かないし、ひとたび新書に組み込まれるとハードカバーと違って後々まで出版が継続されるので、自ずと内容に対する出版社の吟味が厳しくなるから)、などがその優位性として挙げられています。

確かに理にかなった主張ですが、ただ本書の言うとおり今後は新書以外は買わないかというと、ハードカバーにも優れた著作は少なくないと思うので、さすがにそこまではしないと思いますが、私の場合おおむねハードカバーは主に自宅でじっくり読むのに向いた本、新書は電車などの自宅外で読むのに向いた本、というように漠然と切り分けていたので、そうとは限らないという視点が新鮮でした。

マイヤー兄妹とカルミナ四重奏団の共演によるモーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏曲


モーツァルト クラリネット五重奏曲、五重奏曲断章K.580b
&ブラームス クラリネット五重奏曲
 マイヤー兄妹(cl) カルミナ四重奏団
 ソニー・クラシカル 2010年 88697646892
88697646892

ソニー・クラシカルから今月リリースされた、マイヤー兄妹とカルミナ四重奏団の共演によるモーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏曲のCDを聴きました。2010年、ドイツのリューベックでの録音です。ここでは妹のザビーネ・マイヤーがモーツァルトでのソロを、兄のヴォルフガング・マイヤーがブラームスでのソロを、それぞれクラリネットで演奏しています。

なおディスクの余白にはモーツァルトの、クラリネットとバゼット・ホルンと弦楽のための五重奏曲の断章K.580bが収録されていますが、ここではザビーネがクラリネットを、ヴォルフガングがバゼットホルンを演奏するという形で兄妹の共演が為されています。

ザビーネ・マイヤーというと昨年の6月に来日し、下野竜也/読売日響と共演してウェーバーのクラリネット協奏曲第1番を披露したコンサートを私はサントリーホールで聴きましたが、そのころ偶然にもカルミナ四重奏団も来日しており、そのザビーネを聴いたコンサートから5日後、私は第一生命ホールでカルミナ四重奏団の来日公演も耳にしました

その2つのコンサートでのザビーネとカルミナの演奏はいずれも素晴らしいものでしたが、今回リリースのCDでは奇しくも、そのザビーネとカルミナ四重奏団とが初共演を果たしているということで、どのような演奏なのか大いに興味を惹かれます。

さっそくモーツァルトのクラリネット五重奏曲を聴いてみると、その透きとおるように美しいクラリネットの響きと、細やかなアルペッジョの音形など素早いタンギングのシーンで示される、余人の追随を許さなりようなテクニックの冴え、それに一つ一つのフレージングの表情の豊かさ、音色の移ろいゆくあたりのコントラストの鮮やかさなど、いずれもザビーネならではの個性が満面に披歴された演奏となっていて聴き惚れるばかりですが、そういった特性に耳を傾けていると、いつしか私の記憶にある、昨年のザビーネの実演において感じた印象が呼び戻されてくるような気がし始めました。

例えばザビーネのクラリネットの音色が人声のようなフィーリングを帯び出し、コンチェルトというよりむしろオペラ歌手がアリアを歌っているのを聴いているような錯覚を喚起させられたこととか、その驚異的に流暢な吹き回しに基づく、天衣無縫のフレージング展開が、クラリネットの器楽的ソノリティを超え、何か別次元の表現力を獲得したかのような、そんな希有の感触を味わったこととか、あのコンサートで私が体験した、そういう様々な印象が今回リリースのモーツァルトからも同程度に感得されるように思われ、その意味で幾ばくかの懐かしみとともに、このモーツァルトに耳を傾けていると、このクラリネット五重奏曲というのが、その本来のディヴェルティメント的な性格を超えて聴く者の胸に強く迫る力を付帯させている点に気付かされました。

そして、それはザビーネが1980年代に録音した同曲の3種類の録音、そのどれとも違う、一種独特の深みのある美しさと静けさとを湛えた表現からくるものかも知れないという風に私には思えます。例のベルリン・フィルとの騒動の余波の残る時期の録音と違い、ここでザビーネは生来の高度な演奏センスが完全に開花し、真に芸術的なモーツァルトを披歴しているのだなと、聴いていてしみじみと感じました。カルミナ四重奏団も完璧なアンサンブルの呼吸でザビーネのクラリネットのメロディを絶妙に盛り立てています。

これに対し、ヴォルフガングのブラームスの方はシックな諧調の音色をベースに終始おだやかな節度を保った演奏で、フレージングに必要以上に表情が付けられていないせいか、ロマン味ある情緒を厳しく律した、禁欲的な趣きが強く、その意味ではブラームスに良く調和する反面、ザビーネのモーツァルトに聴かれた強い個性感は希薄であり、聴き手の方から音楽に向かっていかなければならない表現といえるかもしれません。

以上、本CDはマイヤー兄妹それぞれのクラリネット演奏の持ち味が良く活かされたアルバムながら、私としては特にザビーネのモーツァルトの方に強い魅力を覚えました。彼女の、これが4回目の同曲録音にして、遂に彼女の最高に近い境地に至ったかと思わせるような、素晴らしい演奏と感じました。

カルロス・クライバー/バイエルン国立管によるベートーヴェン交響曲第4番の82年ライヴ


ベートーヴェン 交響曲第4番
 C.クライバー/バイエルン国立管弦楽団
 オルフェオ 1982年ライヴ C100841S
C100841S

稀代の名指揮者カルロス・クライバーの自伝「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記」の日本語訳の上巻が昨年9月に発売され、少なからぬ反響を巻き起こしたことは周知のとおりですが、その下巻がいよいよ近日発売される模様です。

出版元である音楽之友社サイトにある紹介ページによりますと、「下巻では、頂点に上り詰めたこの指揮者が、徐々にファンの前から登場機会を減らし、ついに没するまでが描かれる。来日公演をいつも楽しみにしていたというこの指揮者の、日本という国に寄せる思いも記されていれる(←原文ママです、念のため)」とあり、非常に興味をそそられます。

昨年リリースの上巻に関しては、私も読んでみたらものすごく面白かったので、このブログでも取り上げました。とくにクライバーの残した、決して多くはない一連の録音につき、各演奏の背景や裏話といったエピソードが豊富に記載されていた点が大きな魅力であり、何しろ今まで何度となく耳にしてきた、お馴染みとでもいうべきクライバーの一連の録音について、あれこれ興味深いことが書かれているのですから、評伝中で言及されている録音のCDについては、該当箇所を読みながら改めて聴き直してみたくらいでした。

今回発売の下巻においても、我々のお馴染みというべきクライバーの録音に関するエピソードが多数取り上げられていると思われますので、上巻同様、おおいに興味を惹かれます。

例えばバイエルン国立管弦楽団との、あのベートーヴェン交響曲第4番。1982年5月3日、ミュンヘンのナツィオナル・テアターでのライヴ。これは有名にもほどがあるような録音ですし、その演奏内容にしても、古今のあらゆるベートーヴェン4番の録音の中でも、おそらく5本のうちに入るかと思われるくらいの超絶的名演で、これまで私も何度聴いたか分からないくらい聴いていますが、この録音のリリースされた背景に関しては謎も多く、例えば、あの完全主義者クライバーがライヴ一発取りを比較的すんなりとリリースした背景とか、CDリリースに際してのオルフェオ側からの働きかけの内容とか、そのあたり何か面白い話が書かれているのではないかという気がします。

もっとも、周知のようにクライバーは1980年代後半から新譜リリースが激減するため、こと正規盤に関しては上巻ほど多くの演奏は取り上げられていないはずで、割合的には、むしろ非正規に出回っているCDの演奏に関する記載の方が多いのではないかと思われますが、いずれにしても発売を待ちたいと思います。

サヴァール/ル・コンセール・デ・ナシオンによる「ルイ15世時代のコンセール・スピリチュエル」


「ルイ15世時代のコンセール・スピリチュエル」
 サヴァール/ル・コンセール・デ・ナシオン
 アリア・ヴォックス 2010年 AVSA9877
AVSA9877

アリア・ヴォックスから今月リリースされた、ジョルディ・サヴァール指揮ル・コンセール・デ・ナシオンの演奏による「ルイ15世時代のコンセール・スピリチュエル」と題されたCDを聴きました。2010年2月、カタルーニャ自治州カルドーナ城参事会教会での録音です。

収録曲は以下の通りです。

①コレッリ 合奏協奏曲Op.6-4
②テレマン 組曲ニ長調TWV55:D6
③テレマン フラウト・ドルチェとヴィオラ・ダ・ガンバのための二重協奏曲TWV52:a1
④テレマン ターフェルムジーク第1集より組曲TWV55:e1
⑤ラモー  「優雅なインドの国々」管弦楽組曲(抜粋)

アルバムのタイトルにある「コンセール・スピリチュエル」というのは1725年にパリで生まれた市民のための音楽会の場のことですが、これは今日では普通にコンサートと呼ばれる、聴衆に王侯貴族ではなく民衆を想定した「パブリック・コンサート」の元祖として知られており、フランス革命後の1790年に消滅するまでパリ市民のための音楽会の場を提供し続けたとされています。

ちなみにモーツァルトがパリに楽旅した際、コンセール・スピリチュエルのオーケストラのために交響曲第31番「パリ」を作曲したエピソードは有名です。この時にコンセール・スピリチュエルの支配人ジャン・ル・グロが、初演時の第2楽章アンダンテに対しパリの聴衆に合わないとしてNGを出したためモーツァルトは作り直すことになり、その結果この交響曲には「初版稿」と「初演稿」という2種類の版が存在することになりました。

サヴァールの主宰するピリオドアンサンブルのル・コンセール・デ・ナシオンは1989年の結成以来、アストレーを中心にバロック作品の録音を継続しているところですが、最近はリリース頻度が緩やかになってきており、今回のバロック・アルバムも、このコンビとしては久しぶりの録音になります。

さっそく聴いてみると、いずれもサヴァールとル・コンセール・デ・ナシオンならではの、アンサンブルの極上ともいうべき響きの肌触りが素晴らしく、少人数の弦のパートを中核に他パートも含む響きの相互の溶け合いが、完璧な調和の中で実現されていて、ため息が出るほどのハーモニーの美感が充溢する演奏で、何とみずみずしく爽快なバロック・サウンドだろうと、聴いていて心底から感服させられました。これにはおそらくSACDの高音質の貢献も大きいのでしょう。

それにしても、このコンビの1990年代の録音には、古楽器アンサンブルとしてはレガートの使用比率の高いものが多く、いわゆるパンチの効き具合に関しては大人しい演奏も少なくありませんでしたが、それ以上に音響の純然たる美感の練り上げが他の追随を許さないレベルでした。しかし、この2010年の最新録音においては、透明で軽やかな響きと柔らかな音色の肌触りをベースとした、かつての音響美を阻害しない範囲で、強めのアタックや勢いを効かせたフレージングが随所に加わり、結果アンサンブルの鋭角感が相対的に増しているように感じます。

その意味では、このコンビの熟成期における録音と言えるのかもしれません。ダイナミクスとエレガンシーとが絶妙に調和し、かつ拮抗したようなバランス、その意味で最高度に音楽的な表現のバロック演奏がここに実現されているように思えます。

以上、久々に「サヴァール・サウンド」を満喫しました。このコンビの今後のリリースにも注目していきたいと思います。

夏目漱石の小説「虞美人草」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「虞美人草」です。テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

      NatsumeSoseki-16

 神の代(よ)を空に鳴く金鶏(きんけい)の、翼(つばさ)五百里なるを一時に搏(はばたき)して、漲(みな)ぎる雲を下界に披(ひら)く大虚の真中(まんなか)に、朗(ほがらか)に浮き出す万古(ばんこ)の雪は、末広になだれて、八州の野を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫(そうぼう)の裡(うち)に、腰から下を埋(うず)めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫(むらさき)の襞(ひだ)と藍(あい)の襞とを斜めに畳んで、白き地を不規則なる幾条(いくすじ)に裂いて行く。見上ぐる人は這う雲の影を沿うて、蒼暗(あおぐら)き裾野(すその)から、藍、紫の深きを稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然(かつぜん)として眼が醒(さ)める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘(いざな)う。
 「おい富士が見える」と宗近君が座を滑り下りながら、窓をはたりと卸(おろ)す。広い裾野(すその)から朝風がすうと吹き込んでくる。

「虞美人草」は1907年に朝日新聞に連載された長編小説で、東京帝大の職を辞して朝日新聞に入社した夏目漱石が執筆した最初の小説です。これ以後、絶筆で未完の「明暗」まで漱石の小説は朝日新聞を通して世に広く読まれることになります。

この「虞美人草」というタイトルの由来についてですが、出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版)によると、漱石の「虞美人草」の新聞連載の1年前に大塚楠緒子が同名の小説を書いていて、それに因んでいるのではないか、とのことです。なお、大塚楠緒子というのは漱石の最愛の女性の一人ではないかと目されている小説家(ベートーヴェンでいうなら「不滅の恋人」に対応する女性)です。

ところで、以下の記述には強度の「ネタばれ」が含まれています。もし、この「虞美人草」を読まれていない方でストーリーを知らないのであれば、差し出がましいようですが小説を読まれてから以下を読まれることをお勧めします。というのも、この「虞美人草」は、筋を知らないで読むのと知った上で読むのとでは、おのずと感銘の度合が大きく違ってくるのではないかと思われるからです。

さて、この「虞美人草」は周知のように漱石の一連の作品群の中でも賛否両論のある作品です。特に正宗白鳥の批評が有名で、「才にまかせて詰まらないことを喋り散らしているような小説。近代化した馬琴といったような物知り振りと、どのページにも頑張っている理屈に、私はうんざりした。」と、まさに一刀のもとに切り捨てています。

そして現在でも「虞美人草」を漱石の失敗作とする論調は依然として根強くあるようです。文体が装飾過剰である、ラストが取って付けたようだ、シナリオが破綻している、など。

確かにそうかもしれませんが、しかし私の場合この「虞美人草」が文学的に失敗作であるかないか、そこには正直それほど興味がなく、そのストーリーが読んでいて見事に私のツボにハマってしまったので、いい小説だと思っている次第です。

それはさておき、まず本作品で印象的なのが文体の革新性です。

 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫ぬいて、煙(けぶ)る柳の間から、温(ぬく)き水打つ白き布を、高野川の磧(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路を、おおかたは二里余りも来たら、山は自(おのず)から左右に逼(せま)って、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更(ふ)けたるを、山を極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾(すそ)を縫うて、暗き陰に走る一条(ひとすじ)の路に、爪上(つまあが)りなる向うから大原女(おはらめ)が来る。牛が来る。京の春は牛の尿(いばり)の尽きざるほどに、長くかつ静かである。

俳句とも漢文ともつかない、独特の絢爛たる美文がどこどこまでも押し通される、、これは前代未聞というより空前絶後とさえ思われます。ひとり漱石のみ書き得る世界とさえ言えそうです。

そして、しばしば問題視されるストーリー、というか構成ですが、確かに「玄人筋」の目からは「何だこの話は、ふざけるな」ということになろうかと思われもしますが、私は漱石の小説の中では珍しくストーリー性の高い小説だと思っていますし(いや、それが問題だというのも分かりますけど)、特に後期作品になるとストーリーの大きな動きを楽しむというのは少ないですし、これくらい話がダイナミックに「動く」作品となると、他には「こころ」くらいかと思います。

その「虞美人草」のストーリーですが、要するに第18章でドーンと泣き落とすという話です。確かに強引にオチを付けたという感なくもないですが、それでも、この破壊力には侮りがたいものがあります。「人情もの」が好きな人なら、ここを読んで涙が止まらなくなったというケースも多いのではないかと推察します。

何故そうなるのかと言えば、まず何より読者をラストでドカンと泣かせるようと、作者が意識的に仕組んでいる点があり、それに「まさか、こうくるとは!」という読み手の意表を突いた反動の効果が加算されるからでしょう。正直、私も最後の最後ああいう風に小夜子が救われるとは思いもよらなかったです。

むしろ漱石が本当に書きたかったのは、あの第18章のエピソードではないかとさえ思います。実は「取って付けたようなエピソード」ではなく、あのエピソードのために、それ以外の方を取って付けたのではないかと言うのは言い過ぎでしょうか。おそらく自然主義文学への確信犯的な当て付けというのもあるのでしょう。自然主義文学だったら、あんな絵に書いたようなハッピーエンドは絶対に有り得ないでしょうから。小夜子はあのまま不幸のどん底で終わるはず。「これが現実だ」とか言いつつ。そうしないのが、やはり漱石なのだろうと思います。

そういうわけで、端的には「人情もの」が好きな人なら楽しめる、そうでないなら白ける、というのが「虞美人草」のストーリーです。私の場合、例えば黒澤明の全映画で一番好きなのが「赤ひげ」というくらい人情もの好きなので、その意味で「虞美人草」は忘れ難い小説になっています。

そして、ここから例によって話が飛躍しますが、この漱石の「虞美人草」は、私にはベートーヴェンの交響曲でいうと、ちょうど第3番「英雄」に対応するように思えます。

まず、双方ともにジャンル初の実質的な「長編」作品です(漱石の「猫」は確かに見かけは長編ですが、長編小説としてのプロットはなく、実質的には短編を積み上げた小説ですので)。また、ともに造型的に前代未聞の革新性を備えている点も大きな共通点でしょう。

そして、ベートーヴェンの「英雄」の作曲当時、皇帝の座に就いたナポレオンの傲慢な振る舞いにベートーヴェンが激怒し、ナポレオンに献呈するつもりであった「英雄」のスコアの表紙をズタズタに破り捨てた、という話は余りにも有名ですし、後年ナポレオンの最後を耳にしたベートーベンが、「英雄」第2楽章の葬送行進曲を指して「それを私は予見していた」と言ったという逸話も有名です。一方、漱石の「虞美人草」における藤尾を「英雄」とし、藤尾を主人公とする英雄的な女性の物語とする視点での作品論というのも古来、多く書かれています(この場合の英雄というのは「傾国の美女」、具体的に言うならクレオパトラが当てはまるのでしょう。実際、作中でもクレオパトラの物語が引用されています)。

つまり、双方とも、偶然にも「驕れる英雄(ナポレオン/藤尾)の破滅」に関係した作品となっている、という側面があります。葬送行進曲といえば、漱石の「虞美人草」において実際に虞美人草が登場するのは、英雄である藤尾の葬送の場面ただ一か所となっていますが、このあたりも「葬送行進曲として描かれる虞美人草」として面白い共通点を有しています。

そして実は、もうひとつ不思議な共通点があります。それは、ベートーヴェンが「英雄」交響曲の作曲に着手する直前に書かれた「ハイリゲンシュタットの遺書」と、夏目漱石が「虞美人草」を執筆する直前に書かれた「門下生・鈴木三重吉宛ての手紙」とが、後年のベートーヴェンおよび漱石の作風の変遷を考える上で、およそ外すことのできない重要なファクターとして双方の研究者から認知されている点です。

「ハイリゲンシュタットの遺書」はベートーヴェンの音楽を愛する者ならば知らないものはいないというくらい有名なものですが、そのころ難聴の兆しが現われ始め、自身の作曲家としての人生の困難を自覚し、そこに絶望を覚えたベートーヴェンが、「死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。」と、いわば遺書の形を借りてまで、今後の創作活動に向けての壮烈な決意表明を記した文書です。そして遺書の執筆後、ベートーヴェンは「英雄」交響曲を皮切りに、後世「傑作の森」と呼ばれる充実を極めた創作期に突入していくことになるのは周知の通りです。

対して漱石の「門下生・鈴木三重吉宛ての手紙」ですが、こちらも夏目漱石の文学を愛する者ならば知らないものはいないというくらい有名なもので、当時の漱石の文学に対する創作態度が端的に表現された書簡として漱石論などで盛んに引用されています。そこには「間違ったら神経衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思う。」「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。」という、珍しくも漱石が自己の創作活動に対する激しい闘志を剥き出しにしたような、壮烈な決意表明がしたためられています。そしてこの書簡の執筆の直後、漱石は東大の講師のポストを投げ打って朝日新聞に入社し小説の執筆に専念、以後「虞美人草」を皮切りに前期三部作、後期三部作といった後世に残る名作を次々に生み出していくことになります。

この2つの文書は、いずれも「死」という文字が記されている点のみならず、書かれている内容の壮烈性、その後の創作活動へ向けた新たな決意表明と認められる点、そして書かれる前と後とで、双方とも明らかな作風の変化が認められる点など、偶然にも多くの共通した性質を備えているように私には思えます。おそらく、これらの決意表明があったからこそベートーヴェンは「英雄」交響曲という前代未聞のシンフォニーを産み出し、夏目漱石は「虞美人草」という前代未聞の小説を産み出すことになったのではないかと私には思えます。

以上、次回は「三四郎」について書きます。

朝比奈隆の指揮によるベートーヴェン「エロイカ」のディスコグラフィ(その3)


名にし負う ロイヤルオペラの 奥深さ
 千秋楽に まさかネトレプコ 字余り

そういうわけで(どういうわけだ?)、先週に引き続き朝比奈隆のベートーヴェン「エロイカ」のディスコグラフィです。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
 グリーンドア 1975年ライブ GDOP-2001
GDOP-2001

これは朝比奈の死後の2002年に初CD化されたもので、朝比奈と大阪フィルの1975年ヨーロッパ・ツアーのライブ録音です。余白にはワーグナーの「マイスタージンガー」前奏曲が入っていますが、ワーグナーはスイス、ベートーヴェンはベルリンで演奏されており、時期的には聖フローリアンで行われた例のブルックナー7番のライブと前後しています。

このエロイカは少なくとも70年代までの朝比奈の全録音中でも白眉ではないかと思える素晴らしさです。本場ヨーロッパに乗り込みながらもその演奏は全く朝比奈流の様式であり、その徹底ぶりにも驚かされます。第1楽章冒頭の弦の厚味とバスの豊かな支えに立脚したメインテーマの風格といい、遅めのテンポを持続させつつ弦パート上位的なアンサンブルの組み方といい(なお朝比奈が提示部の反復を始めたのは77年からですので、ここではリピートなしです)。展開部においては(6:10)前後でのものすごいテンポダウンが強烈で、テンポが減速するにつれて響きの凝縮力が跳ね上がるのは朝比奈演奏の大きな特徴ともいえますが、まさにその最良の例を聴く思いです。

第2楽章も相変わらず見事で、(6:20)あたりのフォルテッシモなどを聴くと、演奏を無難に、小さくまとめよう、という気が全然ないのが良く伝わってきます。ただ、後半のフーガはいまひとつ押しが弱く、やや力み過ぎで、ソノリティの厚味が削がれているように思えますが、、後半の2楽章に関して、難を言うなら管パートの技巧面でしょう。大フィルの当時の水準からするとやむなしという気もしますが、80年代以降の大フィルの技術レベルの向上がめざましいだけに、逆に気になってしまうところです。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/新日本フィルハーモニー交響楽団
 TokyoFM 1977年ライヴ TFMC-0006
TFMC-0006

朝比奈の死後、2003年に初リリースされた録音。1977年4月、東京文化会館でのライヴです。

これは朝比奈と新日本フィルとの初期の協演による「エロイカ」で、朝比奈が初めて新日本フィルの定期に登場したのが75年とされますので、その2年後のライヴになります。

朝比奈の残した一連の「エロイカ」の中では、残念ながら最も訴求力が大人しいものです。ライヴ一発取りゆえか完成度が低く、ところどころ演奏ミスが聴かれるのは御愛嬌としても、なにより全体的に響きの重厚味が弱く、アンサンブルの重心が高く、腰が軽く、響きに朝比奈ならではの「どっしりした感じ」が希薄と言わざるをえません。テンポも速めで、スケール感も今一つ伸びない。それでも第1楽章(6:08)あたりの猛烈なクレッシェンドに組み合わされる猛烈なリタルダンドなど、随所に通常とは一線を画した朝比奈のエロイカの個性感が耳を捉えます。

おそらく朝比奈と新日本フィル、両者の後年における良好な協演関係の基礎が、この時期に築かれたものと思われ、この10年後に両者が成し遂げた「至高のエロイカ」への土台が育まれたのではないかと思えます。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/NHK交響楽団
 フォンテック 1967年ライヴ FOCD9200
FOCD9200

このベートーヴェン選集は朝比奈隆が1967年から95年にかけてNHK交響楽団の定期演奏会でベートーヴェンを指揮してのライヴ録音を集成したもので、2004年にリリースされました。収録されているのはベートーヴェンの①交響曲第1番、②交響曲第3番「英雄」、③交響曲第4番、④交響曲第5番「運命」、⑤交響曲第7番、⑥エグモント序曲の6曲。出自は①と②と⑥が1967年10月17日東京文化会館でのライヴ、④が1994年6月3日NHKホールでのライヴ、③と⑤が1995年12月13日NHKホールでのライヴとされます。

このうち②のエロイカを含む1967年のコンサートは、N響設立40周年の年に朝比奈が初めて定期の指揮台に招かれた時のものとされています。自身初めてのN響定期にオール・ベートーヴェンで臨んだことになりますが、このとき朝比奈は既にベルリン・フィルでベートーヴェンの4番を振っていましたし、相手が国内トップのN響だからといって気後れせずに自身の音楽を貫徹していることが演奏から伺えます。

それにしても、このエロイカは素晴らしく、音質の限界からボリュームを上げると音の濁りが大きいのがネックですが、例えば第1楽章の展開部の入りで大胆にテンポを落としつつアンサンブルの重心を下げる、ドッシリとした進め方など、後年の彼の流儀が早くも確立されていることが、くっきりと確認できますし、第2楽章も(13:34)あたりのティンパニ激打の震撼といい、実に壮絶な演奏が披歴されていてゾクゾクさせられます。ただし完成度は低めで、時々アンサンブルのタテの線が揃ってないところが聴かれたりもしますが、なにしろ予定調和な表現からは程遠い迫真のベートーヴェンがここにありますし、後年に朝比奈が残すことになる10種を超えるエロイカの演奏の原点をここに聴く思いがします。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/ベルリン・ドイツ交響楽団
 ヴァイトブリック 1989年ライブ SSS0104
SSS-0104

2009年にリリースされた、朝比奈隆が当時のベルリン放送交響楽団であるベルリン・ドイツ交響楽団を指揮したベートーヴェンのエロイカです。第39回ベルリン芸術週間におけるコンサートのライヴで、1989年9月24日、ベルリン・フィルハーモニーホールでの演奏とされます。この演奏の感想に関しては以前ブログに掲載済みです


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/倉敷音楽祭祝祭管弦楽団
 東武レコーディングス 1990年ライヴ TBRCD0009
TBRCD0009

今年2010年にリリースされた、1990年3月の倉敷市民会館大ホールにおける「倉敷音楽祭」のコンサートのライヴです。この演奏の感想に関しては先週ブログに掲載済みです

コヴェントガーデン王立歌劇場(ロイヤルオペラ)来日公演・ヴェルディ「椿姫」(NHKホール9/19)の感想


昨日(9/19)のNHKホール、コヴェント・ガーデン王立歌劇場(ロイヤルオペラ)の来日公演・ヴェルディ「椿姫」の感想です。

2010-09-20

ヴィオレッタ役エルモネラ・ヤオ(第1幕のみ):
ゲオルギューの代役として外題役にキャストされていたアルバニア人ソプラノ歌手ですが、昨日は観ているのが気の毒なくらいに不調を極めており、全体的に声がうわずっている、音程を頻繁に外す、細かい歌詞を飛ばすなど、第1幕を通して明らかに精彩を欠いた歌唱に終始し、これはちょっとヒドイなと聴いていて思わざるを得ませんでした。

特に決定的だったのが、第1幕の幕切れ直前あたりの聴かせどころが、全然まともに歌えていなかったことです。こう書くと、このオペラを聴き慣れている人は「ああ、あのハイEsをしくじったのか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。ここは確かに実演でソプラノ歌手が技量のほどを観客に示すため、スコアから1オクターブ上げたハイEsを披露して場を盛り上げるのが通例ですが、この公演ではリチャード・エアの演出において「ヴェルディの原曲を最大限に尊重する」というコンセプトが掲げられており、かつて1994年プレミエのエア演出「椿姫」のCDとDVDでも、外題役のゲオルギューがオクターブ上げない「スコア通りのEs」で歌っていることからしても、おそらく昨日の公演では歌手の好不調に関係なく、原曲どおりに歌わせることになっていたはずと予想されました。

したがって、今回の公演でも間違いなく「スコア通りのEs」なんだろうと思っていましたので、私はハイEsは最初から期待していませんでした。全然まともに歌えていなかったというのは、幕切れの直前で最高音にまで持っていく過程での小刻みに上昇する音程のところ、このあたりの技巧的に難しい場面が、「ええ面倒だ」と言わんばかり、完全に飛ばされたことです。これはさすがに聴いていて目が点になりましたし、何しろハイEsと違ってスコアに歴然と書かれていますから、これを飛ばされてしまうと、原曲を最大限に尊重するという演出のコンセプトもどこへやら、もう聴いていて何が何やらという印象でした。

おそらくはゲオルギューのドタキャンによる準備不足に、体調不良が重なって、本来の実力を全く発揮できなかったのではないかと思慮します。その意味では気の毒な舞台だったとも思いますが、、、

ヴィオレッタ役アイリーン・ペレス(第2・3幕):
アメリカ出身の若手ソプラノ歌手とのこと。降板したヤオのピンチヒッターとして第2幕から登板し、最後までヴィオレッタを無難に歌い切りました。突出した個性こそ感じませんでしたが、とにかく安定していました。歌唱技術、声量、表情の出し方、声の美しさ、そういった要素が高いレベルでまとまった好歌手という印象で、とくに第2幕の幕切れのシーンでは本当に泣くように感情を込めて歌い抜いたり、第3幕の瀕死のシーンでは息も絶え絶えという情感が(やや大袈裟なくらい)良く出ていたり、きめ細かく丁寧に歌われたピアニッシモのシーンを含めて、全体的に歌に感情を乗せるのが上手い歌手だなと感じました。もっとも、肺活量が弱いのか、やや不自然なところで所々フレージングを切って息継ぎをするので、フレーズがスムーズに流れていかない局面が散見された点が聴いていて少し気になりました。

それにつけても、これだけ歌える歌手であるなら、何故ヤオの体調不良を事前に見抜いて、ペレスを第1幕から歌わせなかったのかという疑問が残ります。初めてのケースというならまだしも、伝え聞くところによると先週の神奈川での日本公演初日でも昨日と同じような交代劇があったとか。であれば十分に予見できたはずですし、ペレスが第2・3幕を上手く歌えば歌うほど、これなら第1幕もペレスで聴きたかったという思いが募りましたし、そのあたりの劇場側の不手際に呆れる思いでした。

アルフレード役ジェームズ・ヴァレンティ:
ファッションモデルのように長身で見栄えのするルックスともども、甘く艶やかな美声と切れのある歌唱テクニックとでスタイリッシュに聴かせるアルフレード、なんですが、第2幕冒頭のアリア「燃える心を」などでは高音の線が細く、聴かせどころでの力強さに物足りなさが残りました。全体に高音域の表出力に難があるようですが、その点に関しては、先々月のトリノ王立歌劇場の来日公演・プッチーニ「ボエーム」でのロドルフォ役マルセロ・アルバレスが圧巻の歌唱を聴かせていただけに、逆にヴァレンティの弱点が引き立ってしまった感がありました。

ジェルモン役サイモン・キーンリーサイド:
キーンリーサイドの声質はヴェルディにはどうなのか、合わないのではないか、と思っていたら、やっぱり微妙に合わないと思いました。さすがに歌唱力そのものは抜群でしたが、声質がぎりぎりのところでノーブルなので、そのぶんジェロモンに必要な、相手の弱みを冷酷に突く、蛇のようにネチっこい性格の発露が弱く、どうも聴いていて好々爺に思えてしまうのが難点と感じました。しかし、オペラ歌手としての絶対的な貫禄で押し切ったという感じでしょうか。存在感そのものは全キャスト中で間違いなく抜きん出ていましたし、「プロヴァンスの海と陸」での風格あふれる歌いっぷりも見事でした。

オーケストラの演奏:
パッパーノのことだから、テンポの速い部分と遅い部分とを比較的に強調してくるかとも予想したんですが、テンポやダイナミクスの起伏など、全体的に絵に描いたようにオーソドックスでした。さすがに音楽監督として8年を務めているだけに、オケの緩急強弱に対するレスポンスは全般に機敏で、よくこなれた感じの演奏だったと思います。弦楽器の明るくて綺麗な響きが印象的で、聴かせどころでヴァイオリンが艶のある響きで奇麗に浮き上がって聴こえるあたりなど、耳をそばだたせられました。

しかし聴いていて、いまひとつ濃厚な味わいというのが薄く、良く整った演奏であるのが過ぎ、アンサンブルの燃焼の足りないような感触も否めず、例えばイタリアのオペラハウスのオーケストラのように内から突き上げてくるような強烈な情動のほとばしりのようなものとは、一線を画した行き方のようであって、そこに今一つの迫真が生まれてこないもどかしさが感じられたのが少々残念でした。

演 出:
一言でいうなら照明を含めた舞台装置の高級感が際立っていて、これは観ていて率直に素晴らしいと感じました。単なるオペラの舞台のためのセットという範疇を逸脱し、むしろ真正の美術品に近いのではないかとすら思われるほど。観ていて造り物という感覚が希薄なくらい、とにかく入念に造り込まれていました。現実感を重視しながら観る者を一場の夢のような境地へと誘うという離れ業的な演出。この美術的な感触がDVDの画面だと伝わり切らないので、私はDVDを観て、そのあたりのリアリティがピンと来なかったところが、実物を見て腑に落ちましたし、少なくとも日本の新国立劇場の低予算の舞台セットとは、そのあたりのレベルの違いが端的に出ているように思えました。

そういった非常に手の掛かった舞台装置という要素とは別に、演出自体としては全体的にオーソドックスを地でいくアプローチであり、下手に奇を衒わない、堅実で常識的な演出内容でした。最後の幕切れの場面でヴィオレッタが全力で部屋中を走り回り、息絶えるあたりが唯一「常識的でない」光景ですが、それだけに最後の現実離れした光景は強烈な余韻を残します。それまでの常識を積み上げた光景との反動から、あのシーンに劇的なエネルギーが一気に充満し、それが観る側に強烈なインパクトを叩きつける、そういう風に緻密に計算された演出であるように思えました。

コヴェントガーデン王立歌劇場(ロイヤルオペラ)の来日公演・ヴェルディ「椿姫」(NHKホール 9/19)


今日はNHKホールでコヴェントガーデン王立歌劇場(ロイヤルオペラ)の来日公演、ヴェルディ「椿姫」を観ました。

2010-09-19-1

指揮はアントニオ・パッパーノ。主要歌手は以下の通りです。

ヴィオレッタ: エルモネラ・ヤオ(第1幕)
ヴィオレッタ: アイリーン・ペレス(第2・3幕)
アルフレード:ジェームズ・ヴァレンティ
ジェルモン:サイモン・キーンリーサイド

この公演は先日も書きましたようにアンジェラ・ゲオルギューが外題役としてキャストされていたところ、先月末になって突如キャンセルとなり、代役としてアルバニア人ソプラノ歌手のエルモネラ・ヤオがキャストされていました。

2010-09-19-2

ところが今日の公演では、そのエルモネラ・ヤオも第1幕を歌ったあとで体調不良のため降板してしまうというハプニングがあり、また別のソプラノ歌手が「代打の代打」として第2幕以降を務めました。

2010-09-19-3

実際、第1幕のヤオのヴィオレッタは観ているのが気の毒なくらいに不調を極めており、幕切れ直前あたりなど、全然まともに歌えていないというくらいにボロボロな状態でした。

第2幕が始まる直前、ロイヤルオペラのゼネラルマネージャーが通訳とともに舞台上に現れ、エルモネラ・ヤオが体調不良のため第1幕のみで降板すると告げました。第2幕以降に関しては「幸いにも我々はもう一人、素晴らしいソプラノ歌手アイリーン・ペレスをご用意しております」と告知。このとき激しいブーイングが場内の方々から湧き起こり、「いいかげんにしろ!」と大声で怒鳴った人も、、、結局、代わったアイリーン・ペレスが最後までヴィオレッタを歌い切りました。

今日の公演の感想は後日、改めて出しますが、率直に言って大きく不満の残る舞台でした。

ちょうど先々月に観たトリノ王立歌劇場の「ボエーム」が、およそ非の打ちどころがないくらい素晴らしい舞台だったのに対し、こちらのコヴェントガーデン王立歌劇場の「椿姫」は残念ながら非の打ちどころ大あり、突っ込みどころ満載というのが率直なところです。私にとって唯一の収穫というべきは、リチャード・エア演出の勘どころが自分なりに腑に落ちたこと(やはりDVDで観るのと生で観るのとでは大違い)でしたが、いずれにしても世界有数の名門歌劇場とは、ちょっと思えないくらいのドタバタぶりに正直言って呆れました。

朝比奈隆の指揮によるベートーヴェン「エロイカ」のディスコグラフィ(その2)


昨日の続きです。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
 キャニオンクラシックス 1992年 PCCL-00196
PCCL-00196

朝比奈の第5回ベートーヴェン交響曲全集の中の録音。大阪シンフォニーホール収録。

ここではライブとゲネプロの録音を編集することにより、燃焼度と完成度の双方に配慮した表現が指向されています。またオンマイク型の鮮明な音質も、彼の以前までの「エロイカ」での音質と一線を画します。

かつて朝比奈自身「これが私のベートーヴェン演奏の結論」と語ったとされる5回目ベートーヴェン全集ですが、やはり並々ならない手応えを感じていたのでしょう、演奏の素晴らしさは85年ライヴもしくは89年ライヴの「エロイカ」と甲乙付け難いものです。大阪シンフォニーホール特有の豊かな残響の加減から弦と管が程よくブレンドされた音質の良さも含めて、朝比奈のエロイカの醍醐味が最良の形で示された名演のひとつと思います。まさに朝比奈イズムがオーケストラの隅々にまで浸透したかのような表現で、巨大な建造物が眼前に聳えるような雄大なスケール感に聴いていてゾクゾクする思いです。

総タイムは57分、そして第1楽章の総タイムは、大フィルとの録音としては初めて20分の大台に到達します。この録音では第1楽章のコーダでメインテーマのトランペットを、これまでと違って「原譜どおり」吹かしているのが耳に付きますが(89年までの4つのエロイカでは原譜どおりではなく慣用に従いトランペットの旋律線を延長させていた)、この方針転換の理由についてはビクター盤85年ライヴのライナーノートの方に詳しい解説があります。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
 キャニオンクラシックス 1996年ライヴ PCCL-00417
PCCL-00417

朝比奈の第6回ベートーヴェン交響曲全集の中の録音。大阪シンフォニーホールでのライヴ収録。

60分を超える総タイムもさることながら、第1楽章の総タイムは20分半に至り、いずれも朝比奈の13種の録音中これが最長です。第1楽章コーダのメインテーマのトランペットはスコア通りに「途中まで」で、これは92年盤と同じやり方となります。

第1楽章冒頭部分は何しろテンポが遅いため少し異様に聞こえるくらいですが、その荘厳な音楽の歩み、広々とした音楽の景観など、この97年盤のエロイカならではの特徴とも言え、通常の演奏とは相当に感触の異なる演奏であるだけでなく朝比奈の「エロイカ」としても特異な位置づけにある録音です。おそらく「巨匠風の表現」という言い方の最たる演奏が、この97年盤のエロイカなのでしょう。

もっとも、ここまでの極端なスローテンポには幾ばくかの作為を感じなくもありません。穿った見方をするなら、過去5種類もの自身の「エロイカ」との差別化を押し出すため、やや無理をして遅めのテンポを維持しているようにも思えてしまいます。

そして、ここまで肥大化した造型に対しオーケストラのアンサンブル密度が十分に追いついていない点が、この97年盤エロイカの最大の問題点と思われ、確かに並のエロイカに比べれば比べ物にならないくらい重厚濃密な演奏ながら、朝比奈の他のエロイカと比べると、とくに大フィルのアンサンブルの内的充実度においては前回リリースの92年ライヴに一歩を譲る感が否めないと感じます。

特に気になるのはアンサンブルが基本テンポの遅さに堪え切れず彫りが浅くなっている局面が部分的にしろ耳につく点で、聴かせどころは相変わらず凄いものの、聴かせどころ以外でのアンサンブルの弛緩気配が聴いていて耳につきます。第2楽章のティンパニも随分おさえて叩いていたりなど、残念ながら迫力が十分に伸び切りません。

しかし、それでも録音時80代後半という超高齢を考えると、やはり聴いていて凄いなと素直に感嘆させられてしまいます。音質は優秀で、バランスを考えると全13種類中これがベストかもしれません。

⑦&⑧
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
 エクストン 2000年ライヴ OVCL-00026
OVCL-00026

朝比奈隆の通算7回目の、そして最後となったベートーヴェン交響曲全集からの録音。2000年7月8日大阪シンフォニーホールでのライヴ録音、および23日東京のサントリーホールでのライヴ録音の2種類の「エロイカ」がCD2枚に収録されています。

両演奏ともに最晩年の巨匠・朝比奈の残した至高ともいうべき「エロイカ」であり、彼の一連の同曲の録音の中では、全体的に多少アンサンブルのキメが粗い感じはするものの、遅めのテンポで頑強にリズムを刻んでゆく、朝比奈流アプローチは健在ですし、何よりオケの気力の充実度、アンサンブルの発する音の勢い、いずれも素晴らしく、聴いていて嘆息を禁じえません。

ここで興味深いのは、8日の大阪ライヴでの第2楽章の総タイムに19分20秒も掛けられている点で、これは23日の東京でのライヴ(18分20秒)よりも1分も長くなっています。この楽章で19分を超えるものは朝比奈の「エロイカ」全種を通しても他にないですし、ちょっと異常とも思える遅さです(最初にCDを見た時は思わずタイムの表記ミスかと思ったほど)。

この超スローペースを背景に、音楽の歩みは荘厳を極め、スケールも極大(とくに(9:46)あたりのティンパニ強打の迫力は尋常でない)ですが、この異端とも思えるペース、その造型のいびつさに対し、さすがに朝比奈もやり過ぎたと判断したのでしょうか、直後の東京公演では通常のペースに戻されています(それでも十分に遅いテンポですが)。

その東京ライヴの方はサントリーホールのふくよかな残響の追い風を受け、彼の生涯最後のエロイカの録音を飾るに相応しい、掛け値なしに気宇壮大な演奏に仕上げられていて、聴いていて実に深い感動の奥底に誘われる思いがします。決して艶やかとはいえない大フィルから、ここまで雑味のなく抜け切ったような美しさが奏でられるあたり、何という演奏だろうと耳を奪われる思いですし、何より驚くべきは、このとき朝比奈は実に92歳(!)の誕生日を目前に控える高齢。これほどの年齢で、これほどのベートーヴェンが振れるというのは一種の奇跡とも思えますが、彼の手兵・大フィルとの積年の信頼関係があればこそ、なのでしょう。名実ともに前人未到の偉業というに相応しいエロイカです。

以上7点のCD(8種類の録音)が朝比奈の生前にリリースされたエロイカになります。この他、朝比奈の没後にリリースされた5点のCDに関しては後日に。

朝比奈隆のベートーヴェン「エロイカ」のディスコグラフィ(その1)


昨日の更新で、朝比奈隆の指揮したベートーヴェンの「エロイカ」の録音が2010年9月現在、計13種類に及ぶということを書き、そのうち新日本フィルとの1989年ライヴの演奏について簡単に触れました。 
 
その13種類の録音それぞれに対する私なりの簡単な感想も含めて、これから3回にわたり、朝比奈隆のベートーヴェン「エロイカ」のディスコグラフィを掲載してみたいと思います。

以下、録音年順ではなくリリース順に掲載します。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
 学研カペレ 1973年 GD174914
GD174914

朝比奈の第1回ベートーヴェン交響曲全集の中の録音。初めてリリースされた朝比奈のエロイカです。これ以後、朝比奈は2001年に亡くなるまでに実に計7回のベートーヴェン交響曲全集の録音という、前人未到の業績を成し遂げていますが、その第一歩となる録音です。

第1楽章は反復が省略されている上にテンポも朝比奈にしては速め。第2楽章も総タイム16分半と、後年の録音からすると速足です。それでも(8:42)あたりのクレッシェンドのド迫力など凄まじい限りで、並の演奏とは一線を画した凄味がみなぎります。

しかし全体に、この73年録音のエロイカは彼の後年の一連の「英雄」の中では訴求力が比較的おとなしい感が否めなせん。朝比奈にとって同曲の初めてのレコーディングということで、堅さもあったのでしょうか、後年の朝比奈のエロイカ各録音と比べると、全体に彼の個性感の発露の度合が比較的弱く、大フィルのアンサンブルもスタジオ録りにしては全体にフレージングがぎこちなく、呼吸も浅く、ここぞいう時のティンパニも大人しく、どうも聴いていて思い切りが悪いというのか、オケの動きがガチガチという感じで、少なくとも後年の同フィルに聴かれる伸び伸びとした解放感は希薄と言わざるを得ないというのが率直な印象です。

なお彼の計13種類に及ぶベートーヴェンのエロイカの録音の中で、純粋なスタジオ録音は唯一この73年録音盤のみとなります。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
 ビクター 1977年ライヴ VDC-5528
VDC-5528

朝比奈の第2回ベートーヴェン交響曲全集の中の録音で、大阪フィル東京公演における東京文化会館でのライヴ録音です。

この演奏は朝比奈のエロイカの決定盤と昔から評価されており、現在でもこの77年録音をベストに推す人は多いようですが、私の印象は違っていて、確かに朝比奈流の重厚かつ濃密にして味の濃いベートーヴェンである点は疑いなく、また前述の73年録音エロイカに比べれば格段に進境の著しい演奏内容である点も疑いないところとしても、彼の残した後年の「エロイカ」の録音まで含めてベストだとまでは、ちょっと思えません。文化会館の残響の薄さを差し引いたとしても、重厚性、濃密性、味の濃さといった特性が後年の演奏よりも引き立っておらず、そのぶん押しが弱いですし、何より重低音が薄い印象があり、例えばディスクの余白に入っているエグモント序曲(同年9月大阪フェスティヴァルホールでのライヴ)の方が格段にバスが効いていることが、続けて聴けば明瞭に伺えます。

この77年ライヴは朝比奈としても自身初のライヴ録音によるリリースということで、慎重に過ぎたのか全体的にオケの鳴りが弱く、アンサンブルもスローペースに煮え切らないようなムードが伺えます。終楽章の中盤に差し掛かったあたりから、何か吹っ切れたようにスコーンと響きが良くなり、ようやく大フィルのアンサンブルの真価が発揮され出した感があるも、時すでに遅しという感は否めません。

朝比奈のエロイカは、この77年ライヴから第1楽章の反復が始まって全体のタイムが伸び、それに伴いテンポもスローに傾斜していきます。その意味で、これは後年のスタイルに移行する過渡期にあるエロイカではないかと私には思われます。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
 ビクター 1985年ライヴ VICC-60025
VICC-60025

朝比奈の第3回ベートーヴェン交響曲全集の中の録音であり、大阪シンフォニーホールでのライヴです。

朝比奈の「エロイカ」が70年代の過渡期を経て、80年代になって一つの完成形を示したことが如実に伺われる、充実を極めた演奏内容です。

第1楽章は反復を含めて20分に到らんとする、どしりとしたスロー基調。(9:42)のオケ渾身の迫力からして度肝を抜かれますし、広々として雄大な演奏のスケール、確信に満ちた音楽の風格、アンサンブルの豪快な鳴り具合、バスの豊かな実在感、どれひとつ取っても同じ大フィルとの77年ライヴを上回り、同ライヴが霞んでしまうくらいです。同曲2回目のライヴ録音とあってか、初ライブ録音の時よりアンサンブルが伸び伸びと呼吸している感じがしますし、少なくとも大フィルとのエロイカとしては一つの絶頂期の録音ではないでしょうか。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/新日本フィルハーモニー交響楽団
 フォンテック 1989年ライヴ FOCD9001/7
FOCD9001-7

朝比奈の第4回ベートーヴェン交響曲全集の中の録音。演奏については昨日の更新で書いたとおりです。

朝比奈隆/新日本フィルによるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」の1989年ライヴ


一昨日の更新で、先月リリースされた朝比奈隆/倉敷音楽祭祝祭管弦楽団によるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」のCDを聴いての感想を掲載しました。ところで、朝比奈隆の指揮する「エロイカ」として、今回リリースの録音を含めて、これまで全部で何種類の録音がリリースされているのでしょうか。

実際のところ私は必ずしも熱烈な朝比奈ファンというわけではなく、所有するCDにしても、朝比奈隆の残した一連の録音のコンプリートには程遠いような状況です。しかし朝比奈の指揮したベートーヴェンの「エロイカ」だけは私にとって別格的な位置にあり、この曲だけは、これまでにリリースされた朝比奈のCDを、その都度すべて購入していました。

その朝比奈隆の指揮するエロイカとして今までにリリースされた演奏を録音年順に、オーケストラ、レーベル名とともに以下に列記してみます(なおメディアはCDであり、LPやDVDなどは含まれません)。

①NHK交響楽団
 フォンテック 1967年(ライヴ)
②大阪フィルハーモニー交響楽団
 学研カペレ 1973年
③大阪フィルハーモニー交響楽団
 グリーンドア 1975年(ライヴ)
④新日本フィルハーモニー交響楽団
 TokyoFM 1977年(ライヴ)
⑤大阪フィルハーモニー交響楽団
 ビクター 1977年(ライヴ)
⑥大阪フィルハーモニー交響楽団
 ビクター 1985年(ライヴ)
⑦新日本フィルハーモニー交響楽団
 フォンテック 1989年(ライヴ)
⑧ベルリン・ドイツ交響楽団
 ヴァイトブリック 1989年(ライヴ)
⑨倉敷音楽祭祝祭管弦楽団 
 東武レコーディングス 1990年(ライヴ)
⑩大阪フィルハーモニー交響楽団
 キャニオンクラシックス 1992年
⑪大阪フィルハーモニー交響楽団
 キャニオンクラシックス 1996年(ライヴ)
⑫大阪フィルハーモニー交響楽団
 エクストン 2000年7月8日(ライヴ)
⑬大阪フィルハーモニー交響楽団
 エクストン 2000年7月23日(ライヴ)

以上、計13種類です。

Asahina-eroicas-1
Asahina-eroicas-2

生前からベートーヴェンの中でも朝比奈の一八番と言われていたエロイカですが、それは泰然自若として悠揚迫らざるようなテンポからオケをフルに鳴り切らせる、朝比奈ならではの雄渾な指揮ぶりが、作品自体の雄大なスケール感に対して絶妙に照応した結果、そのように認知されるに至ったのだろうと私には思えます。

これら13種類のうち私が最初に朝比奈のエロイカに「開眼」した演奏は、⑦の新日本フィルを指揮した1989年のライヴでした。

FOCD9001-7
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/新日本フィルハーモニー交響楽団
 フォンテック 1989年ライヴ FOCD9001/7

これは朝比奈隆が新日本フィルに客演し、88年から89年にかけてベートーヴェンの交響曲全9曲をサントリーホールにおいて演奏した際のライヴ録音で、朝比奈のベートーヴェン交響曲全集としては通算4回目のセットに含まれるエロイカとなります。

このエロイカは昭和天皇の崩御の後、平成元年2月の演奏ですが、このとき昭和天皇に捧げられた第2楽章の葬送行進曲は後年、朝比奈自身をして「生涯最高の演奏」と述懐せしめているものです。

総タイム60分、20分を掛けた第1楽章、18分を超える第2楽章、いずれも気宇壮大なスケール感に満ち、新日本フィルの(当時の大フィルよりも一回り優れた)アンサンブル性能がもたらす完成度も高く、それが朝比奈ならではの重厚濃密なアンサンブル展開と相まって、彼の残した同曲の他の録音と比較しても音楽としての感銘が抜きん出ていると思われますし、なにより第2楽章の葬送行進曲の演奏が迫真を極めています。

音質は幾分オフマイク気味の録られ方であるのに加え開館直後のサントリーホールの潤沢な残響が素直に取り込まれ(例えば東京文化会館で録音された朝比奈/大フィルの77年ライヴのエロイカと比べると、はるかに音響がふくよかです)、そのぶん重厚味が立ち、結果的に朝比奈のエロイカを聴く醍醐味を存分に引き立たしめている感じがします。

朝比奈隆の1990年倉敷音楽祭におけるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」のライヴ


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/倉敷音楽祭祝祭管弦楽団
 東武レコーディングス 1990年ライヴ TBRCD0009
TBRCD0009

東武レコーディングスから先月リリースされた、朝比奈隆の指揮する倉敷音楽祭祝祭管弦楽団の演奏によるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」のCDを聴きました。

この「英雄」は1990年3月の倉敷市民会館大ホールにおける「倉敷音楽祭」のコンサートのライヴですが、この時のオーケストラの編成は全体で30人程度の室内管規模であったとのことです。なおCDの余白には同じ顔合わせによるベートーヴェン交響曲第1番の第3楽章が収録されていますが、こちらは1988年の同音楽祭でのライヴ収録とされます。

朝比奈隆の指揮のベートーヴェン「英雄」の新譜としては、昨年末にリリースされたベルリン・ドイツ交響楽団を指揮した1989年ベルリン・フィルハーモニーでのライヴ録音が充実を極めた演奏内容でしたが、今回の倉敷音楽祭祝祭管とのライヴでは、この曲を十八番とした朝比奈が室内管規模のオーケストラを振り、どのような「英雄」を披露するか興味深いところです。

さっそく聴いてみると、第1楽章冒頭から弦の厚味とバスの豊かな支えに導かれるように、朝比奈らしい風格に満ちたメインテーマが描き出され、以降も堂々たるスローテンポを持続させつつ、全体的に弦パートを確として上位に据えた、まさに朝比奈流アンサンブル展開の特性が如実に伺われる演奏となっていますが、しかし私が聴いていて特に新鮮味を感じたのは、そのアンサンブル展開が構築する、濃密にして透明なハーモニーの肌ざわりでした。

濃密にして透明って、なにを理屈に合わないことを言ってるんだと思われるかも知れませんが、少なくとも私の印象において、そうとしか書きようがなく、これは濃密を尽くしたようなハーモニーとしては信じ難いくらいの透明感が宿されている、と言い換えてもいいかも知れません。

この点、かつての朝比奈が通常ベートーヴェンの「英雄」を演奏する際に用いた倍管のフル編成と違って、ここでは1管編成の、おそらく8~10型程度のオーケストラ編成であろうと思われますが、その編成スケールゆえに我々がイメージする「朝比奈のエロイカ」の演奏像からすると異例なくらいに、聴いていて各パートの音の一つ一つが手に取るように眺められるという印象を受けます。

しかし、それでも上記したとおり、たとえ室内管編成であっても朝比奈流ともいうべき弦パートを確として上位に据えたアンサンブルの、濃密な響きの特性は頑強に維持されているのは事実であり、そうすると単純に通常の「朝比奈のエロイカ」での16型2管編成を8~10型1管編成に置き換えただけの演奏と言うことはできず、そのあたりの濃密性と透明感との両現的な感触こそが、この演奏における本当の凄さ、いわば真価のように私には思えますし、それは倉敷音楽祭祝祭管のメンバーひとりひとりの、この演奏に賭ける並々ならない意気込みの度合いこそが生ぜしめたものではないかと思われます。

もっとも、室内管編成ゆえにヴォリューム的な意味での音楽のスケール感には一定の限界が感じられ、その意味では、通常の「朝比奈のエロイカ」に聴かれる途方もない音楽のスケール味は、さすがにいまひとつという感が否めませんし、テンポ的にも、特に第2楽章の総タイムが16分半と、朝比奈にしては少々「速足」で進めている点は聴いていて少しアッサリしているように思えました。

とはいえ、この倉敷音楽祭祝祭管とのエロイカは演奏の燃焼度においてルーティンワークから最も遠い演奏である点は疑いがないですし、その独特の濃密透明なアンサンブル特性の斬新な感触に、斬新であるという以上の掛け替えのない真実味が付帯されているように思えます。先週のテンシュテット/ウィーン・フィルに続いて、格別な余韻の残るベートーヴェンのエロイカを耳にしました。

小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラの記事に関する訂正とお詫び


先週、私がブログに書いた記事「小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラによるチャイコフスキーの弦楽セレナード」に関してですが、それを書いた際の私の事実認識に、実は少なからぬ錯誤があり、そのため相当に見当外れなことを書いてしまった怖れがあることを後日に知りました。

その錯誤というのは、今回の小澤征爾の公演キャンセルに伴い「希望者には当然にチケットの払い戻しがあるもの」と私が思い込んでいたことです。

というのも、私自身の過去のチケット購入経験などに照らしても、小澤征爾→下野竜也ほどの指揮者の大変更であれば当然にチケット代の払い戻しがあって然るべきだと思っていたからで、このため払い戻しの可否につき特に調べもせず、あの記事を書いてしまったのでした。

ところが、後日ネット上で当該公演の評判を調べてみると、当該公演でチケットの払い戻しがないことに納得がいかないという書き込みをされている方々が相当数おられることが判り、上記のように私の認識が根本的に間違っていたことを知るに及びました。

実際ネット上で少なからぬ方々が書かれておりますように、これが仮にチケット購入者への払い戻しの口実を封じ込めるため、敢えて小澤征爾に第1楽章だけを無理やり指揮させた(若しくは、そのために小澤氏が自発的に指揮をした)のだとしたら、それはいかにも酷い話だと私も思います。もし私が当該公演のチケット購入者の立場であれば、かなり複雑な心持ちになっていたかもしれませんし、実際そういう心持ちで演奏を聴かれた方も少なからずおられるものと思慮します。そうだとするなら、そのような主催者側の対応は不誠実の誹りを免れ得ないように思えます。

先週の記事で、私が「後々まで語り草になるような素晴らしい演奏会というのは、こういう時に得てして生まれるものかもしれない」とか、「そんな無二のコンサートの機会で掛け替えのない時間を共有し得た聴衆の方々が羨ましく思える」という風に書いたのは、あくまでチケット購入者が払い戻しの自由を付与された上で、なおかつ小澤征爾の数分間の指揮を聴きたいがため払い戻しの権利を行使しなかった聴衆の方々を想定してのことであり、これが払い戻し不可という状況であるならば話が大きく違ってきますし、実際その記事を読んで「あのコンサートに関係のない人間が、何を勝手な事を書いているんだ」と不快に思われた方々も相当数おられたかもしれません。

そういうわけで、よく調べもせずに迂闊なことを書いてしまったなと今更ながら猛反省している次第です。ひとえに私の想像力の欠如によるものであり、深く反省し、以後は気をつけたいと思います。

夏目漱石の小説「坊っちゃん」


「夏目漱石の小説シリーズ」ですが、今回は「坊っちゃん」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

    NatsumeSoseki-13

 野だは大嫌いだ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だ。惚れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな悪るい教師なら、早く免職したらよかろう。教頭なんて文学士の癖に意気地のないもんだ。蔭口をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極まってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。大方田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかも知れない。

「坊っちゃん」は1906年に俳句雑誌「ホトトギス」に発表された中編小説で、四国(の松山と言われますが、その地名は作品中には出てきません)の中学校の数学教師に赴任した、奔放な江戸っ子気質の主人公「坊っちゃん」の活躍を描いた作品です。

何ら気取りのない、いわば「本音全開」の文体による文章の面白さに加えて、この小説のトレードマークともいうべき痛快な江戸弁口調をベースに描かれる、主人公「坊っちゃん」の無鉄砲を地で行く一連の行動は読み手を胸がすく思いに誘いますし、「悪役」の赤シャツと野だいこをボコボコにするあたりには勧善懲悪の分かり易さもあり、それゆえに小中学生の読書感想の課題などにも頻繁に取り上げられている作品でもあります。私自身、この小説を最初に読んだのは、そのくらいの頃だったと記憶しています(もっとも、自発的に読んだのか、読まされたのかは判然と覚えていませんが)。

とはいえ、この小説は実のところ「見た目ほど」分かり易い作品でもなく、いわんや小中学生が「坊っちゃん」の小説としての奥深さのようなものを実感するのは、自分の経験を踏まえてみても、かなりしんどいような気がします。それは、例えば社会人として社会経験なりを積んで初めて見えてくるような性質のものではないかと思うからです。

この点に関連しますが、この小説の真のキーパーソンは「赤シャツ」ではないかと私は思っています。いや、大胆に言うなら、この小説の真の主人公が「赤シャツ」であると言い換えてもいいかもしれません。というのも私の印象として、主人公の「坊っちゃん」に対しては、そんなに実在感が湧きませんが(実際こんな人いませんし)、「赤シャツ」には強烈な実在感を覚えるからです。

「赤シャツ」は姦計に長けた悪人で、とにかく人を貶めることばかり考えているようなヤツですが、「坊っちゃん」の正義感というのがステレオタイプなのに対し、「赤シャツ」の悪役ぶりというのが、強烈なリアリティで描かれている、この対照関係が「坊っちゃん」の凄いところだと、私は(勝手ながら)解釈しています。

つまり「赤シャツ」というのは、いわばシェイクスピア「オセロ」のイアーゴみたいな人物像というべきで、やはり読んでいてゾッとするような悪役です。なぜゾッとするかというと、現実に迫ってくるような恐ろしさがあるから。こういう人って、いなさそうで実社会には案外います。むしろゴロゴロいるんじゃないか、というくらいに。

赤シャツの腰ぎんちゃくである「野だいこ」も結構リアルで、その太鼓持ちっぷりは、いわゆる「世渡り上手の人間」の実像を良く表していて読んでいて感心してしまいます。いやあ、いつもいつも最高ですねえ、さすがですねえ、とか言っておだてたり、すかしたりして、自分が本来やるべきことを赤シャツみたようなのにやらせ、ちゃっかり澄ましているような人、案外いそうじゃないですか。

この「坊っちゃん」の作品論で印象深いものとしましては、まず詩人で文芸評論家の大岡信氏は著作「拝啓 漱石先生」の「『坊っちゃん』の読み方」において、作中に登場する頻度こそ低いものの、坊っちゃんに仕えた下女の清こそ、この小説の真のキーパーソンであるという読まれ方をされています。その意表を突いた視点が私には印象的でした。

また文学研究家の小谷野敦氏は著作「夏目漱石を江戸から読む」において、この小説は文明の持つ本質的な矛盾を鋭く突いた作品であり、そこには辛辣な文明批判が潜んでいる、という風に書かれています。

さらに著者は「坊っちゃん」のアイデンティティとしての、その強固な反骨精神の源流が、一般的な意味での江戸っ子、すなわち江戸町人階層の「江戸っ子」にあるのではなく、実は御家人階層の「江戸っ子」にこそあるのではないかと問題提起したうえで、江戸文芸の伝統に位置する人形浄瑠璃の主人公「坂田金平」こそが坊っちゃんの原型ではないかと述べ、それを切り口に、「坊っちゃん」という作品自体、徳川政権の崩壊に対する漱石の複雑な思いが宿されている小説に他ならないという風に、この作品の中枢に切り込んでいます。その視点なり着眼の鋭さには読んでいて驚嘆すること頻りで、私が知る限り最もエキサイティングな「坊っちゃん」の作品論として印象に残ります。

以下、「ベートーヴェンの交響曲との対応」の話ですが、前に書きましたように私は漱石の「坊っちゃん」が、ベートーヴェンの交響曲第2番の雰囲気に近いという感覚を有しています。どちらも主要作中で「疾風怒涛のテンポ感」という特徴が強く打ち出された作品であり、その歯切れの良いリズムと推進的な流動感の併有という点でも共通する特性があると思われるからです。雰囲気としても、若々しい感情が前向きにほとばしるような、作品を支配する諧調が似ています。

また前回と同様いささか妄言めいた事を書くとするなら、ベートーヴェンの交響曲第2番の第1楽章冒頭、以下のようにニ長調の主音を全合奏でバーンとぶつけるあたり、どこか江戸弁で豪快に啖呵を切っているような雰囲気に似ていると思えなくもありません。

NatsumeSoseki-15

これは弱音で密やかに始まった交響曲第1番の第1楽章冒頭とは正反対なくらいに豪快を極めた開始の仕方で、漱石の「猫」と「坊っちゃん」との作風の違いにも照応している感じがします。

そしてアレグロ・コン・ブリオに入ってからの、あの息つく暇もないくらいにグングン突進する音楽の流れ、これなど第2章に入って坊っちゃんが四国に上陸し中学校に赴任し、話が一気呵成にグングン流れ出すあたりを彷彿とさせる雰囲気を感じます。

NatsumeSoseki-14

交響曲の「顔」ともいうべき第1楽章第1主題のイメージというのは、その交響曲のムードを決定づける作用がありますが、これを交響曲第1番の、あの猫がモソモソっと歩くかような主題と比べると、その雰囲気の差異は歴然ですし、その雰囲気の違いというのが、そのまま漱石の「猫」と「坊っちゃん」との違いに対応するような印象を感じるのが何となく面白いところです。

あるいは第3楽章の「スケルツォ」なども傍若無人な坊っちゃんの性格にピッタリという感じがしますし、全体にベートーヴェンの交響曲第2番という曲自体、どこか「坊っちゃん」という作品を音楽的に表現すると、こんな風になるのではないかと思わせるような趣きがあると私には思われます。

以上、次回は交響曲第3番「虞美人草」について書きます。

ショルティ/コヴェント・ガーデン王立歌劇場管によるヴェルディ歌劇「椿姫」全曲(DVD)


ヴェルディ 歌劇「椿姫」全曲(DVD)
 ショルティ/コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
 デッカ 1994年ライブ UCBD1003
UCBD1003

昨日に引き続きコヴェント・ガーデン王立歌劇場(ロイヤルオペラ)の来日公演、ヴェルディ「椿姫」に関してです。ゲオルギュのキャンセルは残念とはいえ、この歌劇場(18年ぶりの引っ越し公演とか)によるオペラを実際に観るのは今回が初めてなので、どんな舞台が観られるか楽しみです。

ところで、今回のロイヤルオペラ来日公演における「椿姫」の演出は、1994年プレミエのリチャード・エアのプロダクションを、そのまま持ってくるということですが、そのプレミエ時の舞台の映像がDVDとしてリリースされています。

このリチャード・エア演出による「椿姫」は、稀代の名演出として絶大な人気を博しており、プレミエから15年以上経った今でも英国ロイヤルオペラの看板演目たらしめているといわれます。

第1幕
UCBD1003-1

第2幕第1場
UCBD1003-2

第2幕第2場
UCBD1003-3

第3幕
UCBD1003-4

これは主に演劇的なリアリティを追求した演出と称賛されていますが、私の印象だと正直どうだろうという気もしています。ちょっと普通すぎるのではないか、という気が観ていて拭えず、その名演出たる所以が、いまひとつピンと来ません。

視覚範囲が限定されるからか、あるいはカメラワークによるのか、いずれにしてもDVDだと今一つ、その良さが伝わってこないように感じるので、そのあたりのところが今回の舞台で実感できればいいなと思っています。

ゲオルギューとアラーニャによるヴェルディのオペラのデュエット集


ヴェルディ デュエット(ソプラノ&テノール)集
 ゲオルギュー&アラーニャ、アバド/ベルリン・フィル
 EMIクラシックス 1998年 5566562
5566562

今月、私が観に行く予定のコヴェント・ガーデン王立歌劇場(ロイヤルオペラ)来日公演・ヴェルディ「椿姫」で、外題役のヴィオレッタにアンジェラ・ゲオルギューがキャストされていたところ、そのゲオルギューの降板が告知されて残念だ、ということを昨日の更新で書きました。

私が最初にゲオルギューというソプラノ歌手に注目した契機となったのが、確か上記CD、EMIから1998年にリリースされたヴェルディのソプラノとテノールのためのデュエット集だったと記憶しています。デュエットの相手歌手は当時のゲオルギューのパートナーだったテノールのロベルト・アラーニャ。周知のようにゲオルギューとアラーニャは昨年に離婚が報道されましたが、当時は「おしどり夫婦による黄金のデュオ」などと盛んに喧伝されていました。

このデュエット集のCDで披歴されているゲオルギューの歌唱というのは、ちょっと信じられないくらい声が綺麗です。こんな澄んだ声で歌えるソプラノがいたのか、というくらいの驚きを感じます。

最初の「ドン・カルロ」第5幕の「シェーナと別れの二重唱」からしてそうですが、次の「十字軍のロンバルディア人」第3幕の二重唱に至っては、何という美しい声なのだろうと実直に恐れ入ってしまうほどです。美しいと言っても、他にも美声のソプラノ歌手というのは確かに少なくはないと思いますが、ゲオルギューの場合は何と言いますか、水晶のような怜悧さと、幾ばくかの頼りなさとを兼ね備えた独特の美声です。少なくとも美声と同時に声の逞しさを押し出すようなタイプではない。

その歌い方にしても、全体的に感情を強く込めている歌い方ではなく、すこぶる現代的というのかスタイリッシュな歌い方に属するものであり、いわば感情移入ではなく、その意味において、純粋に声の美しさだけで聴かせ得るようなタイプの歌手と言ってしまっても、あながち間違っていないかも知れません。

果たして実際もこうなのだろうかと思い、機会があれば生で聴いてみたいと思っていた歌手の一人でした。

その彼女も今では40代後半ということで、さすがに全盛期のレベルは過ぎているでしょうし、購入した席も席なので、雰囲気だけでも味わえればと思っていました。いずれにしても残念です。

ショルティ/コヴェント・ガーデン王立歌劇場管によるヴェルディ歌劇「椿姫」全曲


ヴェルディ 歌劇「椿姫」全曲
 ショルティ/コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
 デッカ 1994年ライブ POCL-1578/9
POCL-1578-9

今回は特段CDの話ではありません。

今月、英コヴェント・ガーデン王立歌劇場(ロイヤルオペラ)の来日公演が行われますが、そのヴェルディ「椿姫」を観に行く予定です。

この公演では外題役のヴィオレッタにアンジェラ・ゲオルギューがキャストされており、上記CDでも名唱を聴かせているゲオルギューのヴィオレッタが生で聴けるということで楽しみにしていたところ、残念なことに先日、以下のような告知が興行元のNBSから届きました。

2010-09-08

プリマのゲオルギューが降板するという告知です。詳しくはこちらにある通りですが、彼女の愛娘の手術に立ち会わなければならないため、日本公演に参加できなくなった、とのことです。代役にはアルバニア人ソプラノ歌手、エルモネラ・ヤオがキャストされるとのこと。

そういう次第で、正直かなりガッカリです。もっとも、私が購入したのは例によって最安席(F席)でしたので、ゲオルギューの降板に伴う金銭的ダメージも最小限で済んだのですが、これが仮にゲオルギューのヴィオレッタが聴けることを目当てに、S席(5万4千円)のチケットを購入していたとしたら、おそらく「かなりガッカリ」どころの騒ぎではなく、とても怒りが収まらないというような面持ちにまでなっていたかもしれません。

実際ネット上をざっと見た限りでも、そういった方々の書き込みを結構みかけます。いずれも心中お察し申し上げます。

こういった著名なオペラ劇場の引っ越し公演における大物歌手の直前キャンセルというのは、確かに比較的よくあることとしても、それに対してチケットの払い戻しといった何らかの救済措置というのも、本来あって然るべきではないかとも、私は以前から思っています。

これに関連して私に思い出されるのは、今年の春に聴きに行ったフィラデルフィア管弦楽団の来日公演のことです。この時も大物ピアニストであるマルタ・アルゲリッチの出演が予定されていたところ、今回のゲオルギュー同様に直前キャンセルとなりました(確か彼女の愛娘の出産に立ち会わなければならないためという、奇しくも今回のゲオルギューと似たような理由だったはずです)。

しかし、そのアルゲリッチのキャンセルに際して主催者側の取った対応というのは、アルゲリッチと同格のピアニストであるポゴレリッチを代役に立てた上で、本来であれば出演者の変更によるチケットの払戻しは受け付けないところ今回は事の重大性に鑑み、特別に払戻しを受け付けるという、かなり誠意のあるものでした。

このあたりの対応は、オペラ公演でも見習うべきではないかという気がします。むろん少々の変更のために一律に払い戻しに応ずるのはナンセンスとしても、少なくとも今回のゲオルギューのような外題役を歌う目玉歌手の直前キャンセルに限り、なおかつS席の高額チケットに限り、希望者にはチケットの払い戻しに応ずる、といった対応が出来ないものかと。

いずれにしても現状ではチケット購入者にリスクのすべてを被せているような状況なので、こういったことが何度となく続くと、不信感から高額チケット購入に対する抵抗感が増していき、最終的には主催者側の首を絞めるような状況にならないとも限らない。

以上、何しろ最安席購入者の分際で、あんまり偉そうなことを言うのも正直どうかとも思いますけど、以前から疑問に思っていたことを、この際ちょっと書いてみたくなった次第です。

小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラによるチャイコフスキーの弦楽セレナード


チャイコフスキー 弦楽セレナード
&モーツァルト 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」ほか
 小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
 フィリップス 1992年 PHCP-5158
PHCP-5158

食道がんの手術を終えて本格的な指揮活動の再開を目指す小澤征爾の、手術後初となる復帰コンサートが今月5日、長野県松本文化会館における「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」において行われたというニュースが大きく報道されました

報道によると、この復帰コンサートでは、もともと約70分の指揮を予定していたところ、長期安静で筋力が低下したことが原因で腰痛が悪化し、現状で長時間の指揮をすることは回避すべきだと主治医から忠告を受け、指揮する時間を10分以内に変更することが事前に発表されていたそうです。

そのコンサートで小澤征爾が指揮した演目はチャイコフスキーの弦楽セレナード、その第1楽章でした。

チャイコフスキーの弦セレはサイトウ・キネン・オーケストラにとっての恩師ともいうべき齋藤秀雄ゆかりの曲であり、かつて齋藤秀雄が亡くなるわずか数週間前に、自身の病の悪化を省みず、桐朋学園オーケストラの団員を引き連れて志賀高原に合宿に赴いた際に指導した演目が、このチャイコフスキーの弦セレであったと言われていますが、今回の小澤征爾の指揮台への復帰、ならびに演目選択においては、そのあたりの師・齋藤秀雄の思い出が作用したものかも知れないと、そのニュースを聞いて思いました。

それにしても、その復帰コンサートでの弦セレ第1楽章、どのような演奏だったのでしょうね。よく言われるようにコンサートというものは生き物であり、後々まで語り草になるような素晴らしい演奏会というのは、こういう時に得てして生まれるものかもしれません。病の悪化を省みず、文字通り自身の生命を削るようにしてタクトを振っている、そんな指揮者を前にし、オケの奏でる響きとは果たして如何ばかりのものかと思えますし、そのような無二のコンサートの機会で、掛け替えのない時間を共有し得た聴衆の方々が羨ましく思えます。

そんなことを考えながら今夜、小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラによるチャイコフスキーの弦楽セレナードのCDに耳を傾けつつ、かの松本の地での同曲の演奏に想像を巡らせてみました。

追記(2010/9/13):
 上記のエントリーを書いた際に、私の事実認識に少なからぬ錯誤があったことを後日に知りましたので、こちらの記事のとおりに訂正させていただきます。

テンシュテット/北ドイツ放送響によるベートーヴェン「英雄」のアスコーナライヴ


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」、エグモント序曲
 テンシュテット/北ドイツ放送交響楽団
 メモリーズ 1979年ライヴ ME1069/70
ME1069-70

昨日の更新で、アルトゥスから先月リリースされたクラウス・テンシュテットとウィーン・フィルの一期一会のコンサートでのベートーヴェン「英雄」のライヴ盤を聴いての感想を掲載しましたが、テンシュテットの指揮によるベートーヴェン「英雄」の録音としては、これまで1991年のロンドン・フィルとのライヴがEMIからリリースされていたものが唯一の正規盤であったところ、今回のアルトゥスの正規盤が加わったという形になりましたが、もうひとつ有名なものとして、1979年の北ドイツ放送響との録音が知られています。

この「英雄」は同年のスイス・アスコーナ音楽祭でのライヴで、当時テンシュテットが音楽監督をしていた北ドイツ放送響を指揮した演奏ですが、伊メモリーズからCD化されています。これはCD2枚組で、もう一枚にはトロント交響楽団とのベートーヴェン交響曲第1番と第2番の77年ライヴが収録されています。

このテンシュテット/北ドイツ放送響の「英雄」、久しぶりに聴いてみました。アンサンブルに対する細大漏らさぬコントロールをベースに、ここぞと言う時の最強奏においてはオーケストラを臨界点にまで追い込む、テンシュテットの流儀に基づくベートーヴェンですが、聴いていてウィーン・フィルとの「英雄」ライヴでの演奏と似た印象が、そこかしこに感じられる点が興味深く、例えば第2楽章(11:20)あたりなどの壮絶な鳴りっぷりなど、響きの感触こと違えども、ウィーン・フィルとの「英雄」と同じく容赦のないものであり、凄まじいばかりです。

しかし音質に関しては、それなりに改善の余地もありかと思われ、確かに解像度は高いものの多少のっぺりとして横一線的な音場感という、ウィーン・フィルとの「英雄」のメモリーズ盤と同じような印象が、この北ドイツ放送響との「英雄」の音質にも当てはまり、いまひとつアコースティックにリアル感が乏しく、もし更に向上した音質で聴くなら、もっと凄い演奏なのではないかという予感を抱かなくもありません。

その意味で、この北ドイツ放送響との「英雄」の方も、いずれ正規盤が良好な音質でリリースされることを期待したいと思います。

テンシュテットとウィーン・フィルの一期一会のコンサートでのベートーヴェン「英雄」とマーラーのアダージョ


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
&マーラー 交響曲第10番より「アダージョ」
 テンシュテット/ウィーン・フィル
 アルトゥス 1982年ライヴ ALT195
ALT195

アルトゥスから先月リリースされた、クラウス・テンシュテットがウィーン・フィルを指揮した一期一会のコンサートのライヴCDを聴きました。1982年8月19日ザルツブルク祝祭劇場でのコンサートで、演目はマーラー交響曲第10番の「アダージョ」とベートーヴェン交響曲第3番「英雄」です。

これはオーストリア放送協会の音源提供に基づき、このたびアルトゥスがCD化したものとされますが、このテンシュテット/ウィーン・フィルのベートーヴェン「英雄」に関しては以前からプライヴェート盤がリリースされており、私は以下のメモリーズ盤を入手していました。

M1020-24
ベートーヴェン 交響曲全集
 テンシュテット/ウィーン・フィル他
 メモリーズ 1982年ライヴ 1020/24

これはテンシュテット指揮によるベートーヴェンの交響曲全曲の実況録音が集成されたもので、詳しい感想は以前こちらに掲載していますが、この中ではメクレンブルク・シュターツカペレとの交響曲第1番、キール・フィルとの「運命」、ロンドン・フィルとの「第9」が抜群に素晴らしい演奏内容ながら、その3曲の他はウィーン・フィルとの「エロイカ」も含めて正直それほどパッとしない印象だなという風に感じていました。

対して今回リリースされたCDではアルトゥスがオーストリア放送協会の音源提供に基づき万全のマスタリングを施しているということで、そのあたりの音質向上に対する興味もあり、購入して聴いてみました。

それでまず、初めて耳にする音源であるマーラーの方から聴いてみたところ、これが稀代のマーラー指揮者テンシュテットの本領が仮借なく発揮された、もの凄い演奏内容となっていて驚嘆を禁じえませんでした。

ギリギリまで凝縮されて煮詰められたアンサンブルの響きから繰り出される、音楽の張り裂けんばかりのドラマ、その感情の壮絶なまでの揺籃、なかんずく(21:02)からのウィーン・フィルの死にもの狂いのフォルテッシモ、(21:55)からの世界が引っ繰り返るかというくらいの最強奏、いずれも尋常一様のものから程遠く、どこかの優美一辺倒のマーラーなどとは次元を違えた迫真の表出力が漲り、聴いていて圧倒させられんばかりであり、これはウィーン・フィルの残したマーラーの中でも特筆的な演奏ではないかとさえ感じました。

そしてベートーヴェンの方ですが、問題の音質は聴いた限りかなり良くなっているように思います。全体にアコースティックがリアルになったというのか、解像度は高いものの多少のっぺりとして横一線的な音場感だったメモリーズの音質と比べると重低音にふくよかさがあり、重心が低くなっている感じがしますし、高音域にしても倍音成分の豊かなソノリティに仕上げられており、かなりハーモニーが立体的に感じられると同時に、ウィーンフィルの深みのある響き、色彩感が巧く捉えられた音質だなという印象を受けます。

そして、この音質向上を背景に、メモリーズ盤では感得が難しかった本演奏の真価のようなものが、聴いていてジリジリ伝わってくる点が何よりで、例えば第1楽章の(6:01)あたりの真に迫ったフォルテッシモの壮絶感、同コーダでメインテーマを最強奏で吹く(14:10)でのウィンナトランペットの痛切味など、メモリーズ盤と同一の録音とは思えないほどですし、第2楽章も、全体で18分を掛けてのスローテンポが深い趣きを湛え、(11:43)のあたりなど、あの優雅なウィーンフィルが、よくもこれほどの断末魔的な響きをというくらい深刻を極めた響きが充溢していたりもしますが、そういった本演奏の醍醐味、いわばテンシュテットとウィーン・フィルの組み合わせが生んだ特有の個性味が、この音質ではガッチリと捕捉されているので、受ける感銘も尋常でなく、のみならず演奏当時に指揮者とオーケストラの間に生じていたとされる、何か抜き差しならない緊張関係まで意識させられるような、名状しがたい緊迫感が漂っているような雰囲気なども聴いていて強く印象的なものでした。

以上、本CDを耳にしてテンシュテットとウィーン・フィルの一期一会のコンサートというのが、いかに歴史的な大演奏だったかということを初めて認識させられた気がしましたし、特にベートーヴェンの「英雄」に関しては、これまでの非正規盤が必ずしも本演奏の真価を伝えるに十分でない音質であったように思われるので、その点でも大きな意義のあるリリースではないかと思います。

夏目漱石「吾輩は猫である」に書かれている「ベートーヴェンのシンフォニー」について


昨日の続きとしまして、漱石の「猫」で出てくる「ベートーヴェンのシンフォニー」というのが、実はベートーヴェンの交響曲第1番のことではないか、という話です。

     NatsumeSoseki-11

まず漱石の「猫」の中で、くだんの「ベートーヴェンのシンフォニー」が出てくる、第10章の最初の方の部分を以下に引用します。

 吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。・・吾輩はたまらなくなって台所へ這出した。・・御三(おさん)はすでに炊き立の飯を、御櫃に移して、今や七輪にかけた鍋の中をかきまぜつつある。・・もう飯も汁も出来ているのだから食わせてもよさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望通りにならなくったって元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら居候の身分だってひもじいに変りはない。と考え定めた吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた怨ずるがごとく泣いて見た。御三はいっこう顧みる景色がない。生れついてのお多角だから人情に疎いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの手際である。今度はにゃごにゃごとやって見た。その泣き声は吾ながら悲壮の音を帯びて天涯の遊子をして断腸の思あらしむるに足ると信ずる。御三は恬として顧みない。この女は聾(つんぼ)なのかも知れない。聾では下女が勤まる訳がないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。
・・・
こんなものを相手にして鳴いて見せたって、感応のあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音と確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。・・・・・・・とうてい吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから悄然と茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか繁昌している。・・

この「ベトヴェンのシンフォニー」というのが、実はベートーヴェンの交響曲第1番のことではないかと私はニラんでいると書きましたが、そう思うキッカケとなった書籍について、以下で少し触れます。

     NatsumeSoseki-12
「楽聖」ベートーヴェンの誕生~近代国家がもとめた音楽
西原稔・著 平凡社 

現在なぜベートーヴェンが「楽聖」と呼ばれるまでになったのか、そもそもベートーヴェンを頂点とする「西洋音楽史」という歴史の叙述が、どのようなモーメントによって生まれたのか、について詳細に論じられた一冊です。近代国家におけるベートーヴェン受容の経緯が、近代日本と近代ヨーロッパとに分けて論述されています。

 ベートーヴェンがかくも日本で高く評価され、しかもいわば第二の国民的作曲家となったのは、どのような社会的、歴史的、政治的な背景によるのであろうか。またそれ以前に、なぜわが国においてかくもドイツ音楽が尊重されたのであろうか。
 ・・・
 わが国がドイツの文化を導入するに至った経緯は単純ではない。しかもわが国が難解なベートーヴェンの音楽をかくも高く評価するようになった事情も単純ではない。そこには明治維新期のさまざまな政治力学、それにおそらく旧来の儒教思想、天皇を頂点とした国家理念などがさまざまに関連している。そしてドイツ文化がある時点において国策として導入されたとき、そこには天皇制とともに、身分秩序と忠義を旨とする儒教思想、そして後進国でありながら破竹の勢いで近代化を達成しつつあったドイツへの共感が結合され、理想主義的なまでのドイツ文化像が形成されていったのではないだろうか。わが国の「ドイツびいき」の精神風土を考えるとき、昨今の「ロマン主義のふるさとドイツ」のイメージ以前に、もっと深い層におけるドイツに対するある共感が潜んでいる。その共感がわが国におけるベートーヴェン理解の基層となっているように思える。・・

以上を始めとして、我々が当たり前のように「楽聖」と看做しているベートーヴェンの、日本における「楽聖」たる所以を著者なりの考えに従って論じている点に読み応えがあります。機会があればブログで取り挙げたいと思っていましたので、この機に簡単ながら紹介した次第です。

本題に戻りますが、本書にはベートーヴェンの9大交響曲それぞれが、いつ日本初演されたか、について記述されています。それは以下の通りです。

交響曲第1番(第1楽章のみ)1887年
交響曲第3番(第1楽章のみ)1909年
交響曲第1番(全曲)     1920年
交響曲第2番          1924年
交響曲第3番(全曲)     1920年
交響曲第4番          1922年
交響曲第5番          1918年
交響曲第6番          1919年
交響曲第7番          1925年
交響曲第8番          1922年
交響曲第9番          1924年

なお「第9」に関しては、厳密には1918年に徳島県鳴門の外国人収容所でドイツ人捕虜が全楽章演奏したのが日本初演と言われていますが、日本人の手による初演は、かつて寺田寅彦も足を運んだ1924年(大正13年)11月29日、上野の奏楽堂でのグスタフ・クローン指揮、東京音楽学校のオケの演奏ということになります。

さて、漱石の「吾輩は猫である」は1905年から翌年にかけて執筆されています。そうすると、この「猫」が書かれた時点で、日本という国において実際に演奏されていたベートーヴェンのシンフォニーは、交響曲第1番(の第1楽章)のみということになります。

その演奏会を漱石自身は聴いていませんが、例えば演奏会に立ち会って直にベートーヴェンを聴いた聴衆の誰かの話から、こんな音楽だったと、当時の漱石が漏れ聴いた可能性は排除できないと思われます。それには、あるいは寺田寅彦も一枚噛んでいたかも知れない。

そもそもベートーヴェンの交響曲における全ての主題を見回しても、猫の鳴き声で模倣できるモチーフとなると、昨日も書きましたように交響曲第1番の第1楽章第2主題くらいしか無いような気がします。こういったことから、おそらく「猫」に出てくる「ベトヴェンのシンフォニー」というのは、交響曲第1番ではないかと私には思えます。

その真偽のほどは置くとしても、少なくとも漱石が「美妙の音」と書いた「ベトヴェンのシンフォニー」において、当時の日本で実際に鳴り響いていたのが交響曲第1番のみだった、ということは動かし難い事実ですし、この点でも漱石の「猫」とベートーヴェンの交響曲第1番とは、偶然ながらも不思議な結びつきがあるように私には思えます。

以上、次回(来週)は交響曲第2番「坊っちゃん」について書きたいと思います。

夏目漱石の小説「吾輩は猫である」


以前から予告していました通り、「夏目漱石の小説シリーズ」を開始します。

今回は「吾輩は猫である」です。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

       NatsumeSoseki-11

 吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の膝の上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣をそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭を撫で廻しながら、突然この猫の皮を剥いでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない了見をむらむらと起したのを即座に気取って覚えずひやっとした事さえある。怖い事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合で幸にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩の大いに栄誉とするところである・・。

「吾輩は猫である」は1905年から翌年にかけて執筆された夏目漱石の処女作です。主人公の猫である「吾輩」の目から見た、5人の「太平の逸民」(英語教師、美学者、理学者、詩人、哲学者)の生活ぶりが、漱石一流のユーモアを極める独特の文体から鮮烈に活写されていて、まさに抱腹絶倒ともいうべき面白さの「笑いの小説」に仕立てられています。

もっとも単純に「笑いの小説」というのみではなく、風刺小説としての側面や思想小説としての側面なども十二分に加味されているため、単純に笑って終わりで済むような小説でもなく、深く読もうと思えば幾らでも読める、途方もない奥行きを備えた小説と言うこともできますし、特に「猫の思考」という奇想天外な設定に注目するなら、当時としては類例に乏しい、SF小説的な位置づけで捉えることも可能です。

実際、本作の「猫」は「人間の心の中を知ることができる」という特殊能力をもっており、その理由が上の引用部に書かれていますが、要するに「電気を利用した読心術」というわけで、この奇想天外な発想には読んでいて見事にしてやられたという感じがしました。この時代には一般家庭に電気は普及しておらず、ガス灯の時代だったことを考えると、今で言う「ハイテク」の発想を取り入れたと言うべきでしょうか。

そして、序盤から中盤までの底抜けなくらいに明るく楽天的な諧調が、物語が進むにつれてジワリと曇り掛かっていって、最後にはズッシリとした文明批評で終わるあたりの流れなども、極めて印象深いものです。最終章ではかなり深刻な文明批判が展開され、読みようによっては21世紀の現状を予言していると言えなくもないと思えます。このまま文明が進んで行けば果てに自殺者が飛躍的に増えるであろうとか、別居する夫婦の数も飛躍的に増えるであろうとか、少なくとも近年の日本の状況に照らせば、ちょっと「笑えない話」が開陳されています。

それにしても、この小説の全編に散りばめられているユーモアの、あの破壊的なまでの面白さは、一体どこから来るものなのかと考えるに、それは、ひっきょう「笑いの質」というものなのではないかと思い至ります。笑いと言っても、薄っぺらい笑いから奥の深い笑いまで、それこそ千差万別ですが、例えば最近のテレビのバラエティ番組を席捲しているかのような「お笑い」と決定的に違うところは、おそらく漱石の持つ、圧倒的なまでの教養なり、深々とした思考力なり、そういうものを全てひっくるめた人間性の豊かさなりが、この作品の水面下にデンと構えているため、そこからの反動から、個々の笑いの破壊力とでもいうべきものが凄いことになっているのではないかと私には思えます。

作品論として読み応えがあるのは、まず大岡昇平氏の「小説家夏目漱石」。「吾輩は猫である」と「倫敦塔」と「カーライル博物館」、この「3点セット」が漱石の未来の作品すべてを告げている、と書かれています。これら3作を互いに絡めて論じているところが面白く、一見して何の関係もないような3作が、実は大いに相互に関連しているということ、特に死の影がさしているのは注意すべきだという指摘などが私には興味深く読まれました。

もうひとつ挙げたいのは張建明著「漱石のユーモア 明治の構造」(講談社選書メチエ)。漱石のユーモアの本質について正面から論じた著作で、日本近代文学史上、「猫」が如何に異色な作品か、突然変異的な作品であるかが良く分かります。ここでは「人の深刻な獣性に直面して震えおののくような、明るい笑いがあるわけがない自然主義文学」の全盛期に、何故あのような小説が生まれたのか、が論じられています。

そして本題?の、「ベートーヴェンの交響曲との対応」ですが前に書きましたように漱石の「吾輩は猫である」が、ベートーヴェンの交響曲第1番に対応するという感覚を私は有しています。どちらも記念碑的なジャンル処女作にして、主要作中で最もユーモア性が高い作品であることが、その理由です。

夏目漱石の他の作品で、私の知る限りにおいて「吾輩は猫である」と同じくらいユーモア性の高い作品を挙げるとすると、その発表から約1年後の作である「趣味の遺伝」という短編小説が思い当たります。これは「吾輩は猫である」の猫を人間に置き換えたような作風に、幾分オカルトチックなテイストを加味したような趣きのある作品です。

ベートーヴェン交響曲第1番が、彼の全交響曲中で最もユーモラスな作風を備えている点は、おそらく論を待たないでしょう。何しろ第1楽章の、以下の有名なハ長調の第1主題からして、いかにもユーモラスです。

thema-1

少し妄言めいたことを言うなら、この第1主題部の弦の動き、どこか猫がノソノソ歩いているような趣きがあるようにも思えます。

続く以下の第2主題も、やっぱりユーモラスです。

thema-2

この第2主題部の木管同士の掛け合いも、どこか猫がニャーニャー鳴いているような趣きがあるようにも思えます。

ところで、漱石の「猫」には「ベートーヴェンのシンフォニー」が出てくるところがあります。それは第10章の最初の方ですが、この「シンフォニー」というのは、具体的にベートーヴェンの交響曲第何番を指しているのでしょうか。

これはズバリ、「交響曲第1番」のことではないかと私はニラんでいます。この点につき次回で思うところを少し詳しく書きます。

諏訪内晶子とマリナー/アカデミー室内管によるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番とスコットランド幻想曲


ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番、スコットランド幻想曲
 諏訪内晶子(vn) マリナー/アカデミー室内管弦楽団
 フィリップス 1996年 454180-2
454180-2

もう9月だというのに、東京は連日の酷暑で、暑さの退くような気配が全然ありません。暑気払いに涼しい曲でも、と思って、諏訪内晶子のヴァイオリン・ソロによるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番とスコットランド幻想曲のCDを久しぶりに聴きました。伴奏はサー・ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ。

これは諏訪内晶子のフィリップスへのデビュー盤としても有名な録音です。ちょうど先週サントリーホールでブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番の実演を(ジョセフ・リンのソロで)聴いたばかりですが、CDでも聴きたくなり、本CDを取り出してブルッフの音楽を堪能しました。

諏訪内晶子が1990年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝を果たしてから6年を経ての、満を持してのデビュー盤であるだけに、やはり素晴らしい演奏です。少なくとも私の印象では同曲のあらゆる録音の中でも、この諏訪内盤が一頭地を抜くように思えますし、これ以後の彼女の一連の録音の中でも、このブルッフのアルバムがベストではないかという気がしています。購入して10年以上経つ今でも、私の愛聴盤のひとつとして存在感を保ち続けているCDです。

ところで夏目漱石の小説を個別に取り上げるという件ですが今後だいたい1週につき1作品の割合で進めていこうと思っています。

まず明日の更新で、「吾輩は猫である」を取り上げる予定です。

マンゴヴァ、プリシチェペンコ、クリンガーのトリオによるショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番


ショスタコーヴィチ ピアノ三重奏曲第2番、7つのロマンス
 マンゴヴァ(pf) プリシチェペンコ(vn) クリンガー(vc)ほか
 リベラ・フーガ 2006年 MFUG525
MFUG525

ベルギーのリベラ・フーガから2007年にリリースされた、ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番と「アレクサンドル・ブロークの詩による7つのロマンス」のCDを聴きました。演奏者はピアノがプラメナ・マンゴヴァ、ヴァイオリンがナターリャ・プリシチェペンコ、チェロがゼバスティアン・クリンガー、ソプラノがタチヤーナ・マリニチェンコというメンバーです。なお、これは以前にHMVオンラインサイトのCDセールで購入した10点のCDのうち未聴だった最後の一枚です。

ナターリャ・プリシチェペンコはアルテミス四重奏団の第1ヴァイオリン奏者、ゼバスティアン・クリンガーはバイエルン放送交響楽団の現在の首席チェロ奏者、プラメナ・マンゴヴァは録音時弱冠26歳のブルガリアの名手とのことです。

それで聴いてみると2曲ともに素晴らしい演奏で、特にピアノ・トリオは驚異的な演奏内容と感じました。

そのピアノ・トリオ、第1楽章冒頭のチェロのハーモニクス奏法からピリピリするような尋常でない気配が立ち込め、その異常な気配が徐々に音響的に凝縮されて前面に展開されていく様は圧巻としか言い様がなく、(4:08)あたりの壮絶な感じなど聴いていて鳥肌ものでしたし、何より、この楽章というのが本来的に如何に恐ろしい空気を孕んでいるか、ひしひしと伝わってきます。

第2楽章も冒頭から怒涛のようなテンポ上で苛烈なまでの色合いのアンサンブルが展開される様は、何か狂気と絶望とが、こんがらがって縺れるといったような、聴いていて息の詰まるような緊張感が立ち込めていて圧倒されるばかりです。

第3楽章は悲痛な鎮魂の調べが素晴らしい真実味をもって纏綿と奏でられていき、聴いていて胸を押さえつけられるようでしたし、終楽章では3人の奏者のポテンシャル全開と思えるまでの強烈な演奏が展開され、(5:25)あたりのクライマックスなど聴いていて震えのくるほどであり、聴き終えて残された痛いほどの余韻の深さも容易に忘れ得ぬものでした。

バーゲン買いしたCDでしたが、これほどの演奏に出会えた僥倖を喜びたいと思います。

グシュルバウアー/リンツ・ブルックナー管によるブルックナー交響曲第0番


ブルックナー 交響曲第0番
 グシュルバウアー/リンツ・ブルックナー管弦楽団
 カメラータ 1981年 25CM-257
25CM-257

テオドール・グシュルバウアー指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第0番のCDを聴きました。これは新譜ではなく、新規購入盤でもないですが、ちょうど先週サントリーホールでグシュルバウアーの実演を聴いたのを機に、久しぶりに彼のブルックナーを聴いてみたくなったからです。

このグシュルバウアーのブル0、あまり話題にならないような印象ですが、私の気に入っている演奏のひとつです。音楽生来のロマンティズムを奇を衒わずに十分に汲み出そうとするようなグシュルバウアーの演奏ポリシーに、リンツ・ブルックナー管の味の濃いアンサンブル展開が、十全なレスポンスで応えている点が素晴らしく、聴いていて心地よい充実感に誘われます。長らく廃盤のようで今では入手しにくいCDのようですが、実はウィーンのオーケストラによるブル0の録音というのは、このグシュルバウアー盤以外に無いと思います。ウィーン・フィルも録音してませんし、、

余談ですが、グシュルバウアーの実演を聴いたのは以下の、2007年1月の読売日響の定期コンサート以来、3年半ぶりでした。

2007-1-22

この時も先週と同様にシューマンのゲノヴェーヴァ序曲で始まり、以下シューマンの交響曲2曲を含むオールシューマンプログラム。指揮者の流儀は、やはりオーソドックスを地でいくものだったと記憶しますが、この時はオケの食い付きなりレスポンスなりが全体的に良好を極めていたので、シューマンの音楽を聴く楽しさ、面白さを、とっくりと堪能させられたコンサートだったと記憶しています。この年はサントリーホールが春から秋まで改修工事のため閉館したので、聴いたコンサートも例年より少なかったのですが、そのぶん個々のコンサートの印象が今でも割合と鮮明です。

そのサントリーホールですが、今年の10月と11月の公演予定を見ると、なかなかに凄い状況となっています。たしかに例年、この時期には相応の公演が揃うとはいえ、今年は何やら例年に輪をかけて、と言いますか、、

海外オケの来日公演だけでも、まず大御所のウィーン・フィル、そしてゲルギエフ/ロンドン響、ヤンソンス/コンセルトヘボウ、ウェルザー=メスト/クリーヴランド管、上岡敏之/ヴッパータール響、加えてアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの(最後の?)来日公演。

ピアニストの公演の方に目を向けるとポリーニ、ルプー、ブレハッチ、ブーニン、内田光子、辻井伸行、さらにヴァイオリニストの方でもパールマン、庄司紗矢香、神尾真由子など。

在京オケの公演の方に目を移しても、スクロヴァチェフスキ/読売日響、カンブルラン/読売日響、メッツマッハー/新日本フィル、インバル/都響、などなど錚々たるラインナップ。それに11月にはミョンフン/東京フィルと高関健/日本フィルとスダーン/東響とが、なんと揃いも揃ってブル8を演奏するとのこと。

とにかく来月と再来月のサントリーホールは目移りするばかりに豪華な公演のオンパレードで、まるで何かの大規模な音楽祭のような趣きです。

まあ、とても全部は聴けませんけど(笑)。予算オーバーもいいところです。是非とも聴いてみたいと思う目ぼしい公演は、だいたいチケットを確保していますが、それ以外で、できれば聴きたいという公演も沢山あって、迷いが尽きません。

全部は到底ムリでも、せめて半分近くまでは何とか、、などと懐具合をニラんで思案する今日この頃です。

Powered by FC2 Blog
Copyright © クラシックCD感想メモ All Rights Reserved.