ゼペックとシュタイアーのデュオによるシューマンのヴァイオリンとピアノのための作品集


シューマン ヴァイオリンとピアノのための作品集
 ゼペック(vn)、シュタイアー(pf)
 ハルモニア・ムンディ 2009年 HMC902048
HMC902048

ハルモニア・ムンディから今月リリースされた、ダニエル・ゼペックのヴァイオリンとアンドレアス・シュタイアーのピアノとのデュオによる、ロベルト・シューマンのヴァイオリンとピアノのための作品集のCDを聴きました。2009年5月のテルデックスタジオでの録音です。

収録曲は以下の4曲です。
①J.S.バッハ シャコンヌ(シューマン編曲)
②シューマン ヴァイオリン・ソナタ第1番
③シューマン 暁の歌
④シューマン ヴァイオリン・ソナタ第2番

なお①はバッハのBWV1004のシャコンヌをシューマンがヴァイオリンとピアノのための曲としてアレンジした作品です。

ダニエル・ゼペックはドイツ・カンマー・フィル・ブレーメンのコンマスを1993年から務めると共にソリストとしての活動も行い、さらに2004年からはアルカント四重奏団のヴァイオリン奏者としても活躍中という辣腕ヴァイオリニストですが、ここでは鬼才シュタイアーと組んでシューマンの室内楽作品がレコーディングされています。

ちょうど同じハルモニア・ムンディから今月リリースされた、ゼペックを擁するアルカント四重奏団の演奏によるドビュッシー、ラヴェル、デュティユーの弦楽四重奏曲のCDが素晴らしい演奏内容でしたので、こちらのゼペックによるシューマンの室内楽アルバムに対しても興味が湧き、追って購入した次第です。

さっそく聴いてみると、①のシャコンヌにおいてはゼペックの披歴するアグレッシブなボウイングの運びが際立っており、(4:18)あたりの尋常ならざるほどのパッショネイトな色合いといい、終盤に向けて沸々と高まっていくフレージングの熱気といい、全体にヴァイオリニストとしての感情のほとばしりを仮借なく表現したような主情性の発露が並々ならず、その熱気に聴いていて当てられてしまうかと思われるほどでした。

続く②以降のシューマンにおいても、やはり凄い集中力と求心力の漲るボウイングの、素晴らしいアクティビティが聴いていてジリジリ伝わってくるような、刮目すべき演奏と感じるものの、造型的には概ね均整の取れたもので、①のバッハに聴かれたような主情性の発露は、むしろ抑制されており、その意味では表現として穏健というか自然体の構えというべきで、①のバッハのようなアグレッシブな表現を②でも期待していた私には、聴いていて最初おやっと思えたくらいでした。

しかしながら、それでもじっと演奏に耳を傾けていると、このソナタにシューマンが込めた切々とした訴えかけのようなものが次第次第にジワジワと胸に染み入ってくる、そんな感覚に捉われました。というのも、このソナタに内在する抑制された情動性、あるいは仄かなロマン味、内面的なニュアンス、内省的な美、といった多様な音楽の側面が、その均整の取れたプロポーションの中から実にリアルに浮き上がっているように聴いていて思われ始めたからです。もし仮に、このシューマンのソナタを最初のバッハみたいに主情的に弾き抜いたならば、シューマンの音楽の多様性や奥深さのようなものが脆くも崩れ去っていたかも分からない、とも思えます。

フォルテ・ピアノの鬼才と謳われるシュタイアーも、ここでは③の「暁の歌」を除いて、一切ハメを外さずに真摯にゼペックに合わせることに徹している感があり、彼のアクロバティックなまでのフレージングの切れなり打鍵のテクニックなりを堪能するという観点においては、甚だ物足りない表現であることは事実としても、ゼペックとの掛け合いでの息の合った呼吸などは絶妙と言うほかなく、ここでは少なくとも鬼才シュタイアーではなくゼペックの最良の共演パートナーとしてのシュタイアーの横顔が、聴いていて最高度に表れている感じがします。

以上、本CDの2曲のヴァイオリン・ソナタは、いずれもシューマンの室内楽を聴く醍醐味のようなものを改めて浮き彫りにしたかような、独特の深みと味わいのある演奏と感じました。これは私にとっての新たな愛聴盤として、今後も手に取る機会が多くなりそうです。

夏目漱石の作品論(漱石本)について


先日も書きましたように今後このブログにおいて、夏目漱石の各小説を個別に取り上げていきたいと思うところですが、その前に、「漱石本」と呼ばれる漱石の作品論の、代表的な著作について触れておきたいと思います。

「漱石本」といっても、本格的な文学評論としてのものから感想文風なものまでふくめて、それこそ星の数ほど世に出ていますが、その中でも特に優れた著者の手になる漱石論というものは、例えば私のようなボンクラな読み手が何度読んでも認識さえできないような事象を教唆してくれるという点で、ある意味で漱石の小説自体に匹敵するほどの感銘を与えられます

逆に言うなら、そもそも夏目漱石という近代日本の生んだ最高の叡智の筆による著作というのは、相応にレベルの高い読み手でなければ、作品内で彼が本当は何を言いたかったのか、その核心に迫ることが甚だ困難である、ということでもあり、私なども漱石の小説をひと通り読んだ後で、いくつかの優れた漱石論を読んでみて、実は自分が何も読んでいないに等しかった、という思いを幾度となく味わいました。

そのあたりの経験を踏まえて、これまで私が読んだ漱石の作品論の中で特に素晴らしいと思われた、珠玉の5冊を以下に紹介してみたいと思います。

①「漱石論集」江藤淳・著 新潮社

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あまりにも有名な漱石論の古典です。小宮豊隆の漱石評論に端を発する、あたかも漱石を神のように崇めるスタンスに対する反動として、いわゆる漱石神話からの解放を目指した点を始め、著者ならではの鋭い論考に充実した読み応えがあり、21世紀の現在においても、まず読むべき漱石論としては外せない一冊だと思います。

②「小説家夏目漱石」大岡昇平・著 筑摩書房

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稀代の小説家・大岡昇平の「小説家としての目線」を通して稀代の小説家・夏目漱石を批評した渾身の作品論です。とくに①の江藤淳の漱石論の「漱石とアーサー王伝説」に対する、大岡氏の痛烈な批判的論調は読んでいて様々なことを考えさせずには置きません。真実の追及と、人間の尊厳、どちらを、どれだけ重んじるべきかということを、、

③「拝啓 漱石先生」大岡信・著 世界文化社

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詩人にして文芸評論家の大岡信による漱石関連の著作をまとめた一冊です。特に「漱石と『則天去私』」が素晴らしく、人間としての漱石と作家としての漱石とを無媒介に結びつけるべきではない、という切り口により、①と同様に小宮豊隆の漱石評論に対する懐疑が基調とされています。しかし、これは実は著者が1952年に書いた東大文学部の卒業論文であり、古典的名著である①よりも先に書かれているという点で、その先見の名に改めて驚かされます。

④「漱石を書く」島田雅彦・著 岩波新書

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「いかにして漱石のような小説を書くことが可能か」という、作家としての視点に基づく作品論です。「吾輩は猫である」から「明暗」までの主要作が一通り取り上げられています。このため個々の作品の扱いは少し総花的にならざるを得ないとしても、各作品のコアのようなものが読んでいて良く分る書かれ方をされていて、一連の漱石作品に対する理解を一段階深い地点に導いてくれる良書として強くお勧めしたい本です。

⑤「夏目漱石を江戸から読む」小谷野敦・著 中公新書

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気鋭の文学研究家の手による卓抜した漱石論として知られる一冊です。漱石文学の源流を江戸文芸に求め、漱石の作品には「江戸的」なものが地下水脈のごとく流れている、という視点にもとづく作品論。漱石の作品には江戸的な価値観なり女性感なりが潜んでいるという切り口から、通常の読み方では全く思いもよらない視点から徹底的に掘り下げられた作品論となっており、読んでいて目から鱗がガンガン落ちるような、圧倒的に面白くてエキサイティングな漱石論です。

むろん以上の5冊以外にも優れた著作は多く出ていますが、あくまで私なりの印象からベスト5として挙げさせていただきました。今後、漱石の各作品を個別に取り上げる際に改めて触れます。

以下、つい最近に発売となった、2冊の注目すべき漱石本について簡単に。

⑥「漱石論 21世紀を生き抜くために小森陽一著 岩波書店

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今年の6月に発売されたばかりの新刊で、21世紀に漱石の一連の作品を読み直す意義をテーマに据えた漱石論集です。序文を読みますと、「100年前に日本の中で漱石ただ一人が感じ、察知し、心と神経を悩ませていた資本主義社会の矛盾と、その脅威は、おそらく21世紀、資本主義システムの崩壊がはっきりしてしまった現在、ほとんどの人が日常的に感じるようになっているはずなのだ。21世紀の日本語使用者は、みな漱石を生きているのである。」という強烈なメッセージが掲げられています。

まず読んでいて「え?」と思ったのが、冒頭いきなり「南アフリカの話題」で始まっている点です。夏目漱石と南アフリカ、、ちょっと意表を突いた関係ですが、実は漱石がイギリスに国費留学していた当時、イギリスは南アフリカと戦争状態にあり(世に言う「ボーア(ブール)戦争」)、この戦争について漱石は1901年に子規に送った「倫敦消息」という有名な書簡の中で、「英国はトランスヴァールの金剛石(ダイヤモンド)を彫り出して軍費の穴を埋めんとしつつある」と書き、当時の目まぐるしい世界情勢に嘆息の意を表しています。

この当時の、南アフリカのトランスヴァール共和国の国民はボーア人と呼ばれていましたが、このボーア人というのが実はケープタウン周辺にいたオランダ人が長い世代を経て現地人化した人々なのだということが本書で述べられていて、ちょっと興味深く思いました。というのも、その部分を私が読んでいた時分に、ちょうどサッカーワールドカップの南アフリカ大会で、オランダが快進撃を続け、ついに決勝にまでコマを進めていたからです。この南アフリカ大会でオランダが鬼のように強かったのは、もしか南アフリカという地に浅からぬ因縁があるせいではないか、などと思わず妙な妄想を抱いたりしました。

まだ本書は読み切っていませんが、今日的なテーマに則した漱石論ということもあり、なかなかの読み応えです。

⑦「漱石はどう読まれてきたか」石原千秋・著 新潮選書

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本書も今年の6月に発売されたばかりの新刊です。この100年の間、文学の研究者たちによって漱石が一体どう読まれてきたかをテーマとする、いわば漱石論のカタログ的な内容となっています。総論としての漱石論から各論としての作品論まで、いわば「漱石学」の歴史が手に取るように分かる画期的な本です。

著名な漱石研究者である著者が選りすぐった著作が多数取り上げられており、漱石を読む上で非常に参考になると思います。

「ジュリーニ・イン・アメリカ」ロスアンジェルス・フィル編


「ジュリーニ・イン・アメリカ」(ロスアンジェルス・フィル編)
 ジュリーニ/ロスアンジェルス・フィル
 グラモフォン 1978~81年 4778840
4778840

独グラモフォンから今月リリースされた、「ジュリーニ・イン・アメリカ」ロスアンジェルス・フィル編と題されたCD6枚組のボックス盤を聴きました。

これは名匠カルロ・マリア・ジュリーニがロスアンジェルス・フィルの音楽監督時代にドイツ・グラモフォンに録音した交響曲と管弦楽曲のCDが集成されたもので、以下の11曲が収録されています。

①ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
②シューマン マンフレッド序曲
③ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」
④ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」
⑤ブラームス 交響曲第1番
⑥ブラームス 交響曲第2番
⑦シューマン 交響曲第3番「ライン」
⑧チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
⑨ドビュッシー 交響詩「海」
⑩ラヴェル マ・メール・ロア
⑪ラヴェル スペイン狂詩曲

ジュリーニのロスアンジェルス・フィル時代の一連の録音というのは、これまで様々な方面から絶賛されており、その意味では既に評価の確立されている録音ばかりとも言えそうで、また何だって今さら?と思われるかもしれませんが、実は私は以上の録音を⑤を除いて未聴でして、この機とばかりに購入してみたのでした。

それでロマン派作品の方から聴き始めて、⑥~⑪を一通り聴きました。やはり、と言うべきでしょうか、いずれも程度の差こそあれ聴いていて痛切に胸に迫ってくるような演奏となっていて、この時期のジュリーニ&ロス・フィルのコンビの充実度を、今更ながら認識させられました。とくに力強さ一辺倒でない、聴き手を陶酔に誘うような洗練されたソノリティの味わいだとか、カンタービレの魅力など、およそアメリカのオーケストラから、これほどに深い含蓄のある演奏が可能であるということに、聴いていて驚嘆の念を禁じ得ませんでした。

そして一連の演奏を聴きながら、なぜ当時ジュリーニひとりがアメリカのオーケストラから、およそ他と一線を画するとさえも言えるような、ここまでの深みのある表現を成し遂げ得たのか、ということを考えたのですが、おそらくスローテンポ、場合によっては超スローテンポで粘りに粘るというジュリーニの「様式」に依拠する割合というのが高いのではないかと思いました。実際⑥や⑦などで、かなり思い切ったスローテンポが展開されています。

それで試みに、この当時において大胆なスローテンポのスタイルを採るような指揮者をシェフに擁するアメリカのメジャー楽団、というものを考えてみたら、私にはジュリーニ&ロス・フィル以外、どうも思い浮かびません。当時はシカゴ響のショルティ、ボストン響の小澤征爾、ニューヨーク・フィルのメータと、いずれも颯爽とした快速調のスタイルを旨とする指揮者がアメリカのメジャー・オケのシェフに君臨していたはずですし、クリーブランド管のマゼールにしても、彼が後年に示すようになったスロー基調は、この時期には未だ顕著には聴かれなかったはず、、そんな中にあって、このジュリーニの確信犯的なスローテンポ志向は、当時のアメリカの聴衆の耳には、さぞかし斬新に映ったのではないかと想像されます。

しかし余裕あるテンポ運用と言っても、必ずしも細部をほじくり出すといった稠密型の演奏とも一味ちがった、いわば大らかで懐の深い、どっしりとした音楽の印象というものが、ジュリーニの一連の演奏からは聴いていて明瞭に伺えるようにも思われ、そのあたりの表情にも私は聴いていて強く惹き込まれました。

まだ未聴のベートーヴェンの録音の方も、じっくり聴いてみたいと思います。

グシュルバウアー/読売日響のコンサート(サントリーホール 8/26)の感想


昨夜のグシュルバウアー/読売日響のコンサート(サントリーホール 8/26)の感想です。

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたVn-Va対向配置、編成はシューマンとドヴォルザークでは16型、ブルッフでは12型でした。

まずジョセフ・リンをソリストに立てたブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番の演奏の方ですが、ここでは辣腕ヴァイオリニストたるジョセフ・リンの弾き回しに充実感が絶えず、快刀乱麻なボウイングというのか、揺るぎもないテクニックをバックに切れ味の鋭いフレージングでバリバリと弾き進めるという、まさに名手の演奏を地でいくような刮目すべき表現力の演奏で、そのあたりに関しては聴いていて率直に恐れ入ってしまうというほどでした。

もっとも、こと技術に関しては確かに刮目に値する表現力の演奏ではあったとしても、それでは音楽自体の訴えかけとして直截に心を動かされた演奏であったかと言うと必ずしも、という感もあり、あまりにもスラスラと軽やかに弾き回していくものですから、あれよあれよという間に演奏が進んでいって、気が付いたら終わっていた、という感覚に近く、聴いていて強く引っ掛かってきたり、食いついてきたりするような感覚には、聴き終えて結局それほどに縁がなかったなというのが正直な印象でした。

それはおそらく、ここでのジョセフ・リンの演奏が速めのテンポでササッと走り抜けていくようなスタイルであったことに拠ると思うのですが、しかし考えてみれば、このブルッフのコンチェルト自体が、そういった軽やかなスタイルを本来的に要求している作風であるとも言え、演奏がサラッとしているというより、曲自体がサラッとしているので、その生理に逆らわずにサラッと演奏したという方向性であったのかも知れません。

そういうわけで、直截に心を動かされるまでの演奏では正直なかったにしても、その類まれな演奏技術の凄さにおいて、聴き終えて何か特別なものを体験したという気持ちが残る、そんな演奏でした。

シューマンのゲノヴェーヴァ序曲とドヴォルザークの交響曲第8番に関しては、いずれもオーソドックスなスタイルの演奏であり、これまで何度か共演を重ねているグシュルバウアーと読売日響との、概ねピタリと息の合った呼吸から音楽が淀みなく進められ、各パート間の均衡において細やかなコントロールの行き届いたようなアンサンブルのバランスといい、構えを必要以上に拡げない端正な造形展開、強奏時においても繊細を尽くしたようなダイナミクスの処理、など、いずれも中庸な表現ながら各曲の味わいを十分に感じ取ることができるものでしたし、この両曲ともグシュルバウアーが譜面を置かずに指揮をした(ブルッフの方は譜面を見ながらの指揮でした)ことからも、おそらく作品が手のうちに入っているであろうことが端的に伺えるような、安定感のある演奏でした。

しかし逆に言うなら、全体的に聴き手の意表を突くような刺激性とは無縁である、いわば常套的で当り前の演奏に終始した、という風に言えなくもなく、そのあたりに聴いていて正直それなりの物足りなさも感じないではありませんでした。

確かに何ら奇を衒わずに音楽生来のロマンティズムを十分に汲み出そうとするようなグシュルバウアーの演奏ポリシーには、音楽の一面を強調するよりも様々な要素の均衡を大事にした演奏であるがゆえの味わい深さ、そういったものが潤沢に感じられたように思われますし、それはそれで一つの演奏ポリシーとして尊重されて然るべきものであるとも思いますが、特にドヴォルザークのような定番系の名曲に対しては、もう少し何らかの冒険なりを敢行してみるというのも一つの興ではないかという気も正直しました。

以上、いろいろ書きましたが当夜のコンサートは曲目自体が比較的ライトなものでしたので、厳しい残暑の続く中、いい暑気払いになりましたし、何より久しぶりに実演の音楽の雰囲気に触れて、暑さに少しバテ気味だったのがキリッと引き締まったような、爽快な気分でホールを後にしました。

グシュルバウアー/読売日響のコンサート(サントリーホール 8/26)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団のコンサートを聴いてきました。

2010-08-26

指揮者はテオドール・グシュルバウアー。演目は前半がシューマンのゲノヴェーヴァ序曲 、続いてブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(ソリストはジョセフ・リン)、後半がドヴォルザークの交響曲第8番というものでした。

アンコールはモーツァルトの「魔笛」序曲でした。また前半部の最後にはジョセフ・リンの演奏でJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番の第3楽章が披露されました。

8月に入って一度もコンサートに足を運んでおらず、そろそろ実演が恋しくなってホールに赴きました。

感想は後日に改めて出しますが、今日は親しみ易いロマン派の曲目が中心でしたし、いい暑気払いになりました。

それにしても、今年に入ってから読売日響のコンサートを聴くのが、今回で通算9回目(セーゲルスタム、スクロヴァチェフスキー×2、カンブルラン×5、グシュルバウアー)。ちょっと偏りすぎかも、、、

引き続き、夏目漱石のベートーヴェン的なアナロジー


昨日の続きです。

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まず私が挙げた一連の9作品を漱石の「主要作」とした理由についてですが、理由と言っても私としては別に変な選択はしていないつもりで、基本的には真っ当な選択と思っています。

まず「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」については、まさか外すなんて有り得ない話ですし、「三四郎」「それから」「門」の、いわゆる「前期3部作」も外すなんて無理ですし、「彼岸過まで」「行人」「こころ」の、いわゆる「後期3部作」も、一体だれが外すんだ、ということになると思います。

したがって、ここで唯一、判断が分かれるのは「虞美人草」でしょう。この小説は、確かに現在でも評価が二分しています。つまり失敗作ではないかという意見も根強いところです。

ただ私自身この作品は大好きなので、何を言われようと入れます(笑)。

逆に9つに入れなかった作品についてですが、まず「明暗」ですが、これは超名作であることは全くもって論を待たないのですが、何と言っても未完作ですので、他作品と同列には扱えないという意味で外しました。「道草」は漱石の自伝小説なので、その意味で特殊ですし(それに正直あまり好きな作品でもない)、「草枕」は随筆的な色彩が強く、やはり特殊です。「野分」は名作ですが、これは短編ですし、主要作に含めるには少し弱いと言わざるを得ないでしょう。

以下、昨日の話の補足になりますが、もともと、漱石というのは実はベートーヴェンに似ているのではないかという私なりの着眼が出発点となっています。何より夏目漱石の書いた小説の主要作をひと通り読んだ時点で、そのジャンルなり、文体、構成、雰囲気といったものが、作品相互に著しく異なっている、という点に驚かされると同時に、直観的に「これはベートーヴェンの9つの交響曲に似ているのではないか」と感じたのです。周知のようにベートーヴェンの9つの交響曲というのも、9つの一つ一つが際立って個性的であり、相互に著しく相違していて、9曲の中に互いに似たような曲など基本的に含まれていません。

考えてみればベートーヴェンと夏目漱石は、西洋近代音楽史と日本近代文学史において、いずれも際立ってエポックメイキングな業績を残し、もしも各ジャンルにおいて彼らが存在しないと仮定した場合、その後のジャンルの歴史というものがおよそ想像もつかないような状態に陥ってしまう、というくらい、それぞれのジャンルにおいて後世に絶大な影響を与えた不正出の才人として認知されていることは論を待たないところです。

更にベートーヴェンと夏目漱石に共通する点として、ポピュラリティとキャパシティとの稀有なほどの両立関係を達成せしめているという点も見逃せないと思います。ともに、一見して間口が広くて入りやすいが、入ってみると途方もなく深くて底が見えない、そんな深遠さを保有するという感覚は、まさに双方の作品に共通する性質です。今日において、例えばベートーヴェン作品の録音が他のどの作曲家の録音と比べても、断然に多いこと、そして漱石の作品を扱った文献、いわゆる「漱石本」の出版数が、他のどの作家を扱った本の出版数と比べても、断然に多いこと、これらは偶然ではなく、いずれもそれだけ、時代を超えて人を惹きつけてやまない魅力を備えているからこその現象なのだろうと思われます。

そして、両者とも「フォルマニスト」、つまり形式重視者であった点。ベートーヴェンの場合は、もちろん「ソナタ形式」と切っても切れないという点ですが、夏目漱石の場合も、その作品には明らかにフォルマニズム、つまりフォルムに対する拘りが強く伺われ、それは同時代の作家の作品と比べてみれば歴然です。そのフォルマニズムが時に「気取り」と取られ、時に「余裕派」という悪名を被ったりもしますが、むしろ漱石の場合は基本的に俳句や漢詩の強固な形式性が小説にも導入されている、という側面が強いようです。

もっとも漱石の小説がベートーヴェンの交響曲に対応すると言っても、そもそもベートーヴェンは交響曲だけ書いて残したわけでなく、特に「交響曲」と「ピアノ・ソナタ」と「弦楽四重奏曲」とが創作の3本柱だったはずだが、そのへんはどうするんだと思われるかもしれません。しかし夏目漱石の場合も別に小説だけ書いて残したわけでなく、特に「小説」と「俳句」と「漢詩」とが創作の3本柱だったわけですから、このあたりの点でも絶妙に対応しているように思われます。

さらには、彼らの後に続く世代(ロマン派の作曲家、白樺派の作家)に対する絶大な影響力という点でも、かなり似ています。シューベルト、ブラームス、ブルックナー、マーラーといったロマン派の作曲家が、どれだけベートーヴェンに敬意を払ったか、おそらくクラシック愛好家なら誰でも知るところですし、同じように武者小路実篤、志賀直哉といった白樺派の作家が、どれだけ漱石に敬意を払ったか、おそらく文学愛好家なら誰でも知るところだと思います。

ついでに、夏目漱石というと強迫神経症に悩まされたこと、癇癪もちであったことなども有名ですが、これらはベートーヴェンにも当てはまります。

以上、いろいろ書きましたが、基本的に以上のような切り口から、これから漱石の各小説を個別に取り上げてみたいと思う次第です。

夏目漱石のベートーヴェン的なアナロジー


ブログのカテゴリーに「夏目漱石」を追加しました。

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先週までは寺田寅彦の随筆を順次、取り上げて参りましたが、それが一区切りつきましたので、今度は夏目漱石の小説の方に移りたいと思います。

とはいえ、漱石の小説の素晴らしさという点については何を今さらという話に過ぎませんし、たとえ感想めいたものを書くにせよ、それこそ膨大な量の漱石論が何らかの形で世に出ている状況のもと、ここで私のような凡庸な人間が何か書いたとしても、もはや目新しいことは何一つ書き得ないのではないかという気もします。

でも、それでは曲がないので、ここでは敢えて私なりの、独自なテーマというか切り口を導入してみたく思います。それは夏目漱石とベートーヴェンの類似性という視点です。普通こんなテーマは考えないと思いますが、でも私は結構おもしろいと思うので、敢えてやってみたいと思う次第です。

これは要するに、夏目漱石の一連の主要作とベートーヴェンの一連の交響曲とが、互いに似ているのではないかと私には思われるという話です。まず、夏目漱石の小説の中から、9つの主要作品を選び出します。

ここで私の考える「主要9作品」というのは以下の通りです。

①吾輩は猫である(1905年)
②坊っちゃん(1906年)
③虞美人草(1907年)
④三四郎(1908年)
⑤それから(1909年)
⑥門(1910年)
⑦彼岸過まで(1912年)
⑧行人(1912年)
⑨こころ(1914年)

以上9作品を、発表年の順に並べました。カッコ内の数字はそれぞれの小説の発表年です。

この9作品ですが、実はベートーヴェンの9つの交響曲に、そのまま番号まで含めて対応するような類似性がありますと言ったら面白いと思いませんか?

つまり、以下のような対応関係です。

①「吾輩は猫である」はベートーヴェンの交響曲第1番に対応する。
②「坊っちゃん」はベートーヴェンの交響曲第2番に対応する。
③「虞美人草」はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」に対応する。
④「三四郎」はベートーヴェンの交響曲第4番に対応する。
⑤「それから」はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」に対応する。
⑥「門」はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」に対応する。
⑦「彼岸過まで」はベートーヴェンの交響曲第7番に対応する。
⑧「行人」はベートーヴェンの交響曲第8番に対応する。
⑨「こころ」はベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」に対応する。


①~⑨の対応理由、つまり各々の持つ類似点ですが、①は9作中で最もユーモア性・諧謔性が高い、②は疾風怒涛のテンポ感を特徴とする作風、③はジャンル初の実質的な長編作品にして、「驕れる英雄」(ナポレオン/藤尾)の破滅というエピソードを有する、④は9作中で最も幸福な情緒に満ちた作風、⑤はそれまで(①~④)とは打って変った「短調」の作風にして、「運命が突如として戸を叩く」を地で行くストーリーを有する、⑥は9作中で自然観照の描写が最も多く、後半で主人公は唐突な「嵐」に見舞わる、⑦は9作中で最も娯楽志向性の強い作風、⑧は9作中で最も強迫神経症的な度の強い作風、⑨は畢生の名作として一般には認知されており、さらには偶然にも「人は他者とこころを通じ合えるか」という命題が双方ともテクストとして作品に含まれています。

このあたりの話は、とくに漱石の上記9作品すべてを一度でも読まれた経験があり、それらの作品の雰囲気なりを御存じで、かつベートーヴェンの9つの交響曲、それぞれの雰囲気も同様に御存じである方が読まれたなら、私の云わんとすることが何となく分かっていただけるのではないかと思います。

念のため書きますと、以前ブログに書いたとおり漱石は生涯ベートーヴェンの交響曲を一度も耳にしていません。つまり、上記①~⑨の対応関係に何らかの原因があるとするなら、それは全くの偶然の為せる業ということにならざるを得ません。

それだけに、私には何か非常に神秘的な感じがします。どちらの系列も作品発表順にキレイに並んでいて、それでいて互いに対応する要素を含んでいる。そのあたりが神秘的であり美しくさえ思えます。

おいおい、ちょっと待てよ、確かにベートーヴェンの交響曲は9つだけだが、漱石は上の9作品以外にも小説を書いたじゃないか、それを差し置いて勝手に「主要9作品」とするのはおかしくないか、と思われる方もおられるかも知れない。だいたい「明暗」がないのは有り得ないだろ、「道草」を外すなんて、こいつ何も分かってないな、「草枕」を入れないなんてオレは認めないからな、「野分」がないなんて、お前それでもクラシックファンか、などなど、いろいろと御意見もあろうかと思われます。

そのあたりも含めまして、続きは次回に、、、

ティーレマン/ドレスデン・シュターツカペレによるブルックナー交響曲第8番


ブルックナー 交響曲第8番
 ティーレマン/ドレスデン・シュターツカペレ
 Profil 2009年ライヴ PH10031
PH10031

Profilから先月リリースされた、クリスティアン・ティーレマン指揮ドレスデン・シュターツカペレの演奏によるブルックナー交響曲第8番のCDを聴きました。2009年9月のドレスデンゼンパーオーパーでのライヴ録音です。なお、スコアはハース版が選択されています。

ティーレマンというと、今年の3月にサントリーホールで耳にしたミュンヘン・フィル来日公演における「完全ドイツ・プログラム」では彼ならではの重厚を極めたようなワーグナーやベートーヴェンが披歴され、すっかり魅了させられましたが、もうひとつの来日プログラムだった(東京公演では披露されなかった)ブルックナーの8番の方の公演も絶賛を博していました。

今回リリースされたブル8はティーレマンが2012年より首席ポストに就任するドレスデン・シュターツカペレを指揮してのライヴということで、どんな演奏なのか興味津々です。

さっそく聴いてみると、全4楽章を通してティーレマンらしいドッシリとしたスローテンポをベースとしつつ、時には遅いペースを鋭く打ち破るテンポの揺さぶりを交えつつ、このオーケストラ特有のトラディショナルな響きの持つ深々とした含蓄をアンサンブルから絶妙に抽出しながらの、まさにドイツ本場ともいうべきブルックナーの醍醐味を本格的に湛えた演奏内容となっており、それがSACDによる音響の良好な空間的ひろがり(2チャンネル・ステレオ再生の方です。ちなみに私はマルチチャンネル再生は使ったことがない)と相まって、久しぶりに純然ドイツ仕様とも言うべき充実したブルックナーを堪能させられました。

しかし、このブルックナーを手放しで絶賛できるかというと、正直どうだろうと思うようなところもあります。まず全体的にティーレマンにしてはアンサンブル低弦の押し出しが意外に大人しい印象を感じます。このため例えば私が上述の来日公演時に体験したような、ハーモニーの振り切れたような重厚感が、ここでのブルックナーでは比較的ひかえ目と感じられ、そのぶんスケール感が伸び切らないように聴いていて思えなくもないですし、逆に言うならティーレマンなら、もっともっとオーケストラを深々と重厚に鳴らすことができる余地があるのではないか、という風に思えなくもありません。

この点に関し、あまり他盤との比較を持ち出すのは良くないのかも知れませんが、同じく「ドレスデン・シュターツカペレのブル8」のCDとしては昨年リリースされたベルナルド・ハイティンクのライヴ録音が素晴らしさの限りで、私の記憶に深く根付いています。詳しい感想は以前ブログに書いたとおりですが、そこでは弦パートの充実感がすこぶるつきで、ずしりとした質感、際立った密度感、そして何より、美しいというだけに終わらない内燃的な迫力が素晴らしく、これはまさにハイティンク会心のブルックナーというべき内容ではないかと思われるほどでした。それに対して今回リリースされたティーレマンのブル8は、上述のように相当に充実した演奏内容であるとしても、前記ハイティンクの演奏の域までには僅かに及ばないように思える、というのが率直な印象です。

もう一つ、私が聴いていて気になったのは、第2楽章の第51小節(01:22)あるいは第185小節(5:12)などの決まった小節の箇所で、その小節だけ(fffの指定なのに)何故かピアニッシモに落として演奏されていることです。これはハース版あるいはノヴァーク版のスコアにもない作法ですし、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのブル8の録音でも聴かれないので改訂版でもない。つまりティーレマン流の作法だと思うのですが、その意図が私には不明で、聴いていて強い違和感を覚えます。同じ楽章の例えば(2:27)あたりの猛烈を極めたようなリタルダンドといい、聴いていて何か過剰に芝居がかったような印象を与えられるのです。

以上、いろいろ書きましたが、いささかの留保はあるとしても全体的にはブルックナーの充実的名演であると感じましたし、最近あまり耳にしなくなった、ドイツ本場を地でいくようなブルックナーの録音を、久々に堪能できた点も嬉しく思いました。ただティーレマンが同オケのシェフに就任した暁には、このオーケストラに特有の響きの感触を保持しつつ、ティーレマン特有の重厚濃密な表現にさらに磨きが掛かることを期待したいと思います。

以下は余談ですが、御存じの方も多いかと思われますが、KAZUOさんという方の運営されている「KAZUO-WORLD」というサイトの中に「シュターツカペレ・ドレスデンの部屋」という素晴らしいページがあります。

オーケストラの新譜情報なども網羅されていますし、何よりも読んでいて「カペレ・ファン&マニア」を自認するサイト製作者の方の、このオーケストラに対する愛着の念が強烈に伝わってくる、すごく充実したサイトです。私自身こちらのサイトの一連の記事を拝見して、このオーケストラの素晴らしさを改めて教えられたように思います。

カルロ・グエルフィによるオペラ・アリア集


「カルロ・グエルフィによるオペラ・アリア集」
 グエルフィ(br)パルメッジャーニ/ヴュルテンベルク・フィル
 Solo-Voce 2007年 SV8553156
SV8553156

独Solo-Voceから先月リリースされた、イタリアの名バリトンであるカルロ・グエルフィの歌唱、ロベルト・パルメッジャーニ指揮ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、イタリア・オペラのアリア集のCDを聴きました。

収録曲はヴェルディ「仮面舞踏会」のレナート、「トラヴィアータ」のジェロモン、「リゴレット」のリゴレット、「トロヴァトーレ」のコンテ、「ドン・カルロ」のロドリーゴ、「オテロ」のヤーゴ、「ナブッコ」のナブッコ、「エルナーニ」のカルロ、「マクベス」のマクベス、ジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」のジェラール、ポンキエッリ「ジョコンダ」のバルナバ、レオンカヴァッロ「道化師」のトニオ、それぞれが歌う主要アリア計15曲です。

このCDは、HMVのオンラインサイトで新譜を物色していた際に見つけたものですが、そのページには、ヴュルテンベルク・フィルを指揮しているのが「ロベルト・パーテルノストロ」と表示されています。パーテルノストロは昨年、突如としてリリースされたヴュルテンベルク・フィルによるブルックナー交響曲全集での指揮者です。

ところが、実際に送られてきたCDの表示を見ると指揮者名がロベルト・パーテルノストロではなく「ロベルト・パルメッジャーニ」と表記されています。

そうするとHMVが間違えたのかと思って念のためタワーレコードのオンラインサイトでも確認すると、そちらのページでも、やっぱり指揮者が「ロベルト・パーテルノストロ」と日本語で表示されています。

要するに、双方とも輸入販売元であるキングインターナショナルの提供資料のミスを鵜呑みにして、間違いに気付かずに掲載しているようです。これだと仮にパーテルノストロの指揮ということで購入した人にとっては、いわば騙されたも同然ということにもなるので、HMVもタワレコも、きちんと確認してから情報を掲載すべきかと思います。

さて、私が何故このCDを購入したかと言いますと、私が2001年に観たフィレンツェ歌劇場来日公演のヴェルディ「椿姫」でジェロモンを歌っていたのがカルロ・グエルフィでしたので、そのあたりの懐かしさから購入したのでした。

2001-3-27

この時の「椿姫」では今だ全盛期に近い歌唱水準にあったエディタ・グルベローヴァがヴィオレッタを歌い、ちょうど先月に私が観たトリノ王立歌劇場の来日公演のプッチーニ「ボエーム」でロドルフォを歌ったマルセロ・アルバレスがアルフレードを歌うという、かなり豪華な舞台でしたが、その中にあってグエルフィの披歴した、ヴェルディに相応しい見事な歌唱ぶりが今でも私の記憶の奥底に残っています。

それでCDを聴いてみると、さすがに当代随一のヴェルディ・バリトンとされる歌い手だけあって、いずれのアリアにおいてもグエルフィの披瀝する堂々たる歌いっぷりに惚れぼれさせられるとともに、9年前に文化会館で耳にした「椿姫」第2幕の「プロヴァンスの海と陸」も収録されていることもあって、聴いていて何だか当時の感銘が記憶の奥底から呼び覚まされるようでした。

その9年前の舞台でのグエルフィの歌唱に関する私の感想は、先日ブログにも掲載しましたが、それは「ジェロモン役カルロ・グェルフィは歌としての抑揚感が何となく自然で、概ね力まずさらっと歌うようで本質的に発声の味が濃いような印象。そのあたりがヴェルディに良く合うと思った。」というものでした。

そして、今回あらためてCDを聴いても、やはり概ね同様の印象です。グエルフィの歌唱というのは、例えば感情を赤裸々に叩きつけるというのとは違った、むしろ淡々と、粛々と歌っていくという趣きが強いのに、その発声には独特の抑揚の美しさというのがあって、その溢れんばかりのニュアンスの豊かさが、過度にセンチメンタルに流れることなく各アリアの核心部を聴き手に伝達することに成功している、という風に思えます。

パルメッジャーニの指揮も、ドイツのオケだからといってワーグナーのアリアのような重々しい伴奏に流れることなく、しっかりと地に足の着いた「ヴェルディの伴奏」が展開されていて、安心してグエルフィの名唱に浸ることのできるものと感じました。

サロネン/フィルハーモニア管によるマーラー交響曲第9番


マーラー 交響曲第9番
 サロネン/フィルハーモニア管弦楽団
 シグナム・クラシックス 2009年ライヴ SIGCD188
SIGCD188

英シグナム・クラシックスより先般リリースされた、エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏による、マーラー交響曲第9番のCDを聴きました。2009年3月のロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴ録音です。

サロネン/フィルハーモニア管というと今年の6月に来日公演を聴いたばかりで、そこで耳にしたシベリウスはサロネンならではと言うべき卓抜した演奏内容でしたし、今年の秋にもサロネンはウィーン・フィルの指揮者として来日しマーラーの交響曲第9番を振る予定ですが、そのチケットも既に確保しているところで、その秋の公演の試金石にもなるかもしれないと思って、このマーラーの新譜を購入しました。

それで聴いてみると、全体的に重厚感こそ希薄であるものの、メロディの鋭い切れ味やリズムの張りのある弾力感といった特色を押し出しつつ、アーティキュレーションを実に細かく描き分けていながらフレーズの進行を停滞なくスムーズに流していく作法といい、ハーモニーにおける考え抜かれたような遠近のバランス(弱音展開などマニアックなくらいの細やかさ!)といい、いずれもサロネンならではというような凝りに凝って彫像された個性的なマーラーであり、例えば耽美性ばかり強調せんがためハーモニーを極彩色で塗りつぶすような愚にも程遠い、その情報量たっぷりのハーモニーのパースペクティヴに聴いていて強く惹き込まれる思いです。

しかし、この演奏を聴いて私が真に凄いと感じたのは、そういった音響的な洗練で聴かせる一辺倒の演奏だけに留まっていない点にあり、ここぞという時のフォルテッシモでは暴力的なほどに金管を咆哮させ、打楽器を激打し、トッティを壮烈に鳴らし切ったような凄味がみなぎり、いずれも単に美しいだけの生ぬるいマーラーとは一線を画した抜群の訴求力が付帯されており、そこには何かサロネンのマーラーに対する内的な表現衝動が、その洗練された音楽のフォルムの中から時おり激しく噴出するかのような印象さえ感じます。とりわけ第1楽章(16:57)での最強奏に聴かれる震撼的な迫力は総毛立つほどであり、まさに破滅的とも破局的ともつかない、その全てが燃え尽きるような白熱感に聴いていて胸をえぐられんばかりです。

こうして聴いてみると、この演奏においては例えばユダヤ系の指揮者がマーラーを振る時に、しばしば示すような強烈な気質とも、一風ちがったアプローチで、この作品ならではの精神的明暗が激しく交代する、その揺さぶりが絶妙に表現されている点に、あらためて驚かされました。基本的なスタンスとしてフレージングの一点もゆるがせにしない、凝りに凝ったアンサンブルの彫像という方向性から、ある時には獰猛なまでの牙を容赦なく剥き出しにする、その痛烈な変転性において、マーラーの音楽とは、やはりこういったものだという説得力を強固に感じます。

そして、やはりサロネンはマーラー指揮者なのだと思いました。これまでサロネンはマーラーのレコーディングに関しては、ロス・フィルを指揮した3番、4番、「大地の歌」の3曲のみであり、いずれも声楽付きの比較的地味な作品に留まっていましたが、今回の9番で、彼のマーラー指揮者としての真価が浮き彫りにされたような、そんな気がします。

ウィーン・フィルとの来日公演では、どのようなマーラーを聴けるか、俄然たのしみになりました。

おかげさまでブログ開設2周年


今週をもちまして、このブログを開設してから2年になりました。あらためまして、皆様方の御愛顧に深く御礼申し上げます。

基本的にマイペースで地道に書いてきた駄文の山ですが、あらためて振り返ると結構な量です。今日の更新分のブログエントリー番号が「666」なので、だいたい2年で666個の記事を書いたことになる、、、それにしてもブログというのは更新が実に簡単で、その点では本当に重宝してます。

正直、最初はブログというものを少し見くびっていたかなと、、お手軽そうだけど、そのぶん自由度が低そうだし、どうなんだろうと。

しかし始めてみると、何よりHTMLを直に書かなくていいというのが小さいことのようで実は大きい。追加したエントリーのためのリンクの整合などの面倒なことを考えなくていいので、そういった時間を他のことに回せるから、そのぶん効率的に運営ができる。おそらくブログでなかったら、多分これだけの更新頻度は維持できなかったと思います。

逆に言うなら非ブログ系のサイトというのは、その分だけ手間が掛かってくるはずですが、それでも非ブログ系のサイトをブログのような感覚で運営することも、できなくはないかもしれない。ブログが自動的にやってくれることを人にやらせるなどするなら、、例えば誰かが書いたテキストを機械的にHTML化するだけのような人をサイトに常駐させる、とか? 無論そんなサイトもないでしょうし、やはり非現実的なので、それなりの更新頻度を維持するならブログの優位性は動かないように思えます。

話は変わりますが、この一ヵ月ほどの期間で作成した、寺田寅彦の随筆に関するエントリーですが、それをブログに掲載し始めて一週間くらい経った頃、意外なことに(!)始める前に比べてブログへのアクセスが若干ですが増え始めました。アクセス解析でみる限り、ユニークアクセスが始める前より2割ほど増えています。

むろん大幅に増えたという訳ではないにしても、正直これは私には予想外で、たぶんアクセスが一時的に減ることはあっても特に増えることはないだろうと思っていました。基本的に音楽関連の話題ではないので、少なくとも音楽のブログでは特に受けないのではないかという気がしていたからです。

もしかしたら音楽愛好家以外の方が読んで下さっていたのかも知れない。もしそうなら喜びに堪えませんが、しかし休止を決めたらアクセスが増えるというのも少し複雑な思いです。

本当のところ、あの一連のエントリーは、どうせ休止するんだし、ということで別にアクセスが減ろうと構わないという気で、なかば開き直って始めたものでした。どうせなら後々まで役に立つようなものを残したかったので。文庫5冊に収録の全作品を取り上げているという点で網羅性がありますし、あれほど多数の寺田随筆を概観した書籍なりサイトなりというのも私の知る限り無いはず。例えば個々のエッセイの内容をサッと確認したいという時などにも使えますし、一連の作品を読んだことのない方が見られた場合も、どの作品に何が書かれているかが大雑把に判るので、少なくとも作品自体に興味を持たれるキッカケくらいにはなるかも知れない。

ただブログの性質上、そのあたりの使い勝手は今の状態だと必ずしも十分でないので、別館に特設ページをこしらえて閲覧し易くするつもりです。まあ、それはブログ休止後にでもやろうかと思っています。

あとは休止まで今まで通り、それほど役にも立たない駄文の感想を、つらつら書いていくつもりです。むろん私としても、例えば貴方の感想記が参考になりましたというコメントを頂いた時などは本当に嬉しく思いますが、ただ私は別にそれを「狙って」書いているわけではなく、本音を言うなら、もっぱら自分自身の備忘録のために感想記を付けている、という感覚に近い。

こんなしょうもないブログではありますが、開設2年で8万を超すアクセスを頂き恐悦の至りです。今後とも宜しくお願いします。

真夏の奥日光とカッチェンのベートーヴェン


今日まで二泊三日で奥日光へ避暑に行っていました。

奥日光といっても、その入口にあたる中禅寺湖の周辺が今回の避暑の中心地。

Oku-Nikko-1

奥日光は東京から近場で、気軽に行ける避暑地として便利。中禅寺湖のあたりは標高1269メートルという高地に位置するため、夏でも相当に涼しい。

Oku-Nikko-2
華厳の滝(観瀑台から撮影)

 昔し巌頭(がんとう)の吟(ぎん)を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍(きゅうたん)に赴いた青年がある。余の視るところにては、彼の青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものは洵(まこと)に壮烈である、ただその死を促がすの動機に至っては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体し得ざるものが、いかにして藤村子(ふじむらし)の所作を嗤い得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味(あじわ)い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。
                   夏目漱石「草枕」より

あとは東照宮に参拝し、霧降高原を散策し(ここには霧降の滝がある)、男体山に途中まで登り、ついでに戦場ヶ原の方まで足を伸ばしました。標高の比較的低い東照宮以外は、軒並み涼しくて真夏とは思えないくらい。もう少し余裕があれば湯元の方まで行きたかったですが、二泊三日では、このあたりが限界。まあ、快適な避暑旅行でした。

明日から仕事なので今日の夕方早めに東京へ引き返してみると、こっちは相変わらず暑いこと暑いこと。また奥日光へ戻りたくなりました(笑)。

帰宅するや何か聴きたくなって、ラックから取り出したのがジュリアス・カッチェンのベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集でした。

4758449
ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集
 カッチェン(pf) ガンバ/ロンドン交響楽団
 デッカ 1958~65年 4758449

私の愛聴盤のひとつで、こういう場合やはり新譜よりも聴き慣れたCDの方に手が伸びます。引き締まった表情でスケール味豊かに描かれる、聴いていて胸のすくようなベートーヴェン。カッチェンとオーケストラの織り成す表現力のある響きが何とも言えない。

ところで漱石の方のエントリーですが、取りあえず当初の予定も過ぎましたし、最終的に休止するにしても、別に休止を待っているような人もいるとも思えず、急ぐ必要性も特段ないかと思いますので、寅彦の時のようなカツカツしたペースではなく、少し落ち着いたペースで進めようと思います。

ブログ休止の件


当ブログは現在、一定期間の後に休止することを前提とした上での、暫定的な再開として運用を継続しているところですが、当初の予定では、その期限が8月15日、すなわち本日でした。

しかし私の目算が甘かったこともあって、その期限までに「やるべきこと」が終わっておりません。寅彦のエッセイの方は、何とかギリギリ終わりましたが、続いて取り上げる予定としていた漱石の小説の方が、まだ全く手付かずです。

別に弁解するわけではないですが、私としても更新をサボっていたわけではなく、むしろ、この一ヵ月に限っては本業に差し障りのない限りで少しムリをしてまで連日のように更新を続け、何とかして期限どおり終えようと思っていました。

しかしいざ始めてみると、特に寺田寅彦のエッセイに関しては私自身なまじ愛着が強いこともあり、アインシュタインなどの余計な話をゴチャゴチャと書いてしまい、その結果しわ寄せが来て大幅に期限オーバーとなってしまいました。

こうなった以上は終わろうと終わるまいと当初の期限どおり、つまり今日をもって休止すべきかとも考えましたが、よくよく考えると8月15日という期限自体に深い意味は何もなく、それよりも暫定再開の本来の趣旨に立ち返るなら、あくまで休止前に「やるべきこと」を終わらせないで休止したのでは、これまで当ブログを読んできて下さった方々に対して申し訳ないように思うという気持ちからのことですので、ここで休止すると何のための暫定再開だか分からなくなってしまうという意味でナンセンスのように思われます。

以上の理由により、今後しばらくブログの更新を継続することにしました。

改めての期限ですが、寅彦の方で一ヵ月掛かってますから、漱石の方でも概ね一ヵ月と考えるのが妥当かと思われるため、9月の中旬くらいがメドになろうかと思います。

そういう次第ですので、引き続き当ブログを宜しくお願い致したく存じます。


・・と意気込んでおいて済みませんが、実は明日から、ちょっと旅行に出る予定です。

その間(2~3日ほど)更新を休ませて頂きます。

「寺田寅彦随筆集」第5巻より「小浅間」から「俳句の精神」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は最終回として、「小浅間」「日本人の自然観」「小爆発二件」「三斜晶系」「俳句の精神」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-5

小浅間
(昭和十年九月、東京朝日新聞)

1935年の夏に寅彦が長野県の小浅間山に登り、頂上で火山観測のためにテントで泊まり込んでいる東大地震観測所のT理学士と合流、そこで歓談のひと時を過ごす、という内容。

地道な地質学の研究に邁進する一研究者へ捧げられた、短いながらも重みのあるエッセイです。

日本人の自然観
(昭和十年十月、東洋思潮)

 今私は浅間山のふもとの客舎で、この原稿を書きながらうぐいすやカッコウやホトトギスやいろいろのうたい鳥の声に親しんでいる。きじらしい声も聞いた。クイナらしい叩音(こうおん)もしばしば半夜の夢に入った。これらの鳥の鳴き声は季節の象徴として昔から和歌や俳句にも詠ぜられている。また、日本はその地理的の位置から自然にいろいろな渡り鳥の通路になっているので、これもこの国の季節的景観の多様性に寄与するところがはなはだ多い。雁やつばめの去来は昔の農夫には一種の暦の役目をもつとめたものであろう。

寅彦が昭和10年の8月に浅間山の麓に避暑に赴いたおりに、ホテルの一室で書きあげた長編エッセイ。テーマは「日本の自然」で、日本の自然というものが世界的に見て如何に特異であるかを論じ、その特異性が日本人の生活に如何なる作用をもたらしたか、いう風に論が進められています。

なお、ここでいう「日本」というのは日清戦争以前の日本の領土が対象であるということが間接的に仄めかされています。要するに朝鮮、台湾、南樺太は(当時の)日本ではあっても本エッセイの範疇にない、ということなのでしょう。

それにしても、これは自然を生涯こよなく愛した寅彦の、日本の自然に対する親愛の念が読んでいてヒシヒシと伝わってくる素晴らしいエッセイです。さすがに地球物理学者の筆になるだけに、日本の地質学的な特性が的確に指摘され、それを踏まえた論理的な文章の展開であり、ほとんど学術論文と言ってもいいほどの密度で書かれていますが、それでいて、そこに寅彦一流の風流な表現が散りばめられており、無味乾燥な論文とは程遠い、深い趣きが全編に溢れています。例えば以下の部分。

 このような理由から、日本の気候には大陸的な要素と海洋的な要素が複雑に交錯しており、また時間的にも、週期的季節的循環のほかに不規則で急激活発な交代が見られる。すなわち「天気」が多様でありその変化が頻繁である。
 雨のふり方だけでも実にいろいろさまざまの降り方があって、それを区別する名称がそれに応じて分化している点でも日本はおそらく世界じゅう随一ではないかと思う。試みに「春雨」「五月雨(さみだれ)」「しぐれ」の適切な訳語を外国語に求めるとしたら相応な困惑を経験するであろうと思われる。「花曇り」「かすみ」「稲妻」などでも、それと寸分違わぬ現象が日本以外のいずれの国に見られるかも疑問である。たとえばドイツの「ウェッターロイヒテン」は稲妻と物理的にはほとんど同じ現象であってもそれは決して稲田の闇を走らない。あらゆる付帯的気象条件がちがい従って人間の感受性に対するその作用は全然別物ではないかと思われるのである。
 これに限らず、人間と自然を引っくるめた有機体における自然と人間の交渉はやはり有機的であるから、たとえ科学的気象学的に同一と見られるものでも、それに随伴する他要素の複合いかんによって全く別種の意義をもつのは言うまでもないことである。そういう意味で私は、「春雨」も「秋風」も西洋にはないと言うのである、そうして、こういう語彙自身の中に日本人の自然観の諸断片が濃密に圧縮された形で包蔵されていると考えるのである。
 日本における特異の気象現象中でも最も著しいものは台風であろう。これも日本の特殊な地理的位置に付帯した現象である。「野分(のわき)」「二百十日」こういう言葉も外国人にとっては空虚なただの言葉として響くだけであろう。

小爆発二件
(昭和十年十一月、文学)

 昭和十年八月四日の朝、信州軽井沢千が滝(せんがたき)グリーンホテルの三階の食堂で朝食を食って、それからあの見晴らしのいい露台に出てゆっくり休息するつもりで煙草に点火したとたんに、なんだかけたたましい爆音が聞こえた。「ドカン、ドカドカ、ドカーン」といったような不規則なリズムを刻んだ爆音がわずか二三秒間に完了して、そのあとに「ゴー」とちょうど雷鳴の反響のような余韻が二三秒ぐらい続き次第に減衰しながら南の山すそのほうに消えて行った。大砲の音やガス容器の爆発の音などとは全くちがった種類の音で、しいて似よった音をさがせば、「はっぱ」すなわちダイナマイトで岩山を破砕する音がそれである。「ドカーン」というかな文字で現わされるような爆音の中に、もっと鋭い、どぎつい、「ガー」とか「ギャー」とかいったような、たとえばシャヴェルで敷居の面を引っかくようなそういう感じの音がまじっていた。それがなんだかどなりつけるかまたしかり飛ばしでもするような強烈なアクセントで天地に鳴り響いたのであった。

浅間山で起こった火山爆発について綴られたエッセイ。「一度浅間の爆発を実見したいと思っていた念願がこれで偶然に遂げられたわけである。」として、現地の様子が活き活きと描写されています。

 毎回の爆発でも単にその全エネルギーに差等があるばかりでなく、その爆発の型にもかなりいろいろな差別があるらしい。しかしそれが新聞に限らず世人の言葉ではみんなただの「爆発」になってしまう。言葉というものは全く調法なものであるがまた一方から考えると実にたよりないものである。「人殺し」「心中」などでも同様である。
 しかし、火山の爆発だけは、今にもう少し火山に関する研究が進んだら爆発の型と等級の分類ができて、きょうのはA型第三級とかきのうのはB型第五級とかいう記載ができるようになる見込みがある。
 S型三六号の心中やP型二四七号の人殺しが新聞で報ぜられる時代も来ないとは限らないが、その時代における「文学」がどんなものになるであろうかを想像することは困難である。

そのうち、S型三六号の感動やP型二四七号の名盤が音楽雑誌で報ぜられる時代も来ないとは限りませんが、その時代における「音楽」がどんなものになるであろうかは想像したくもないですね。

三斜晶系
(昭和十年十一月、中央公論)

「夢」「とんぼ」「三上戸」の3編からなるショートエッセイ集。

このうちの「夢」は、寅彦が自分の夢の中で「何か法事のような儀式」に立ち会うという話です。

「何か不安な予感のようなものがそこいらじゅうに動いているよう」な儀式で、その夢の中で行われたことを後から寅彦が色々と分析するが、結局はよく分らず、夢の解明をフロイトにでもお願いしたいというユーモアで終わっています。

このエッセイが書かれたのは昭和10年の7月から8月にかけての時期ではないかと推察されるところ、その同じ年の12月に、寺田寅彦は脊髄の病気により享年58歳で死去することになります。

おそらく、このエッセイを書いた時は本人は思いもよらなかったはずですが、ここでいう「法事のような儀式」「何か不安な予感のようなもの」などは、寅彦自身の死の前触れというか、ある種の予兆だったのではないかと思えなくもありません。これは何か妙に、不思議な余韻を醸すエッセイです。

俳句の精神
(昭和十年十月、俳句作法講座)

 ステファン・マラルメは仏国の抒情詩をおぼらす「雄弁」を排斥した。彼は散文では現わされないものだけを詩の素材とすべきだと考えた。そうして「ホーマーのおかげで詩は横道に迷い込んでしまった。ホーマー以前のオルフィズムこそ正しい詩の道だ」と言ったそうである。
 この所説の当否は別問題として、この人の言う意味での正しい詩の典型となるべきものが日本の和歌や俳句であろう。雄弁な饒舌は散文に任して真に詩らしい詩を求めたいという、そういう精神に適合するものがまさにこうした短詩形であろう。この意味でまた日本各地の民謡などもこのいわゆるオルフィズムの圏内に入り込むものであるかもしれない。
 詩形が短い、言葉数の少ない結果としてその中に含まれた言葉の感覚の強度が強められる。同時にその言葉の内容が特殊な分化と限定を受ける。その分化され限定された内容が詩形に付随して伝統化し固定する傾向をもつのは自然の勢いである。さらばこそ万葉古今の語彙は大正昭和の今日それを短歌俳句に用いてもその内容において古来のそれとの連関を失わないのである。またそれゆえにそれらの語彙が民族的遺伝としての連想に点火する能力をもっているのである。

このエッセイは実質的に寺田寅彦の生涯最後の作品です。寅彦が生涯にわたり趣味として愛して止まなかった俳句を題材とする長編のエッセイで、俳句という日本に独特の文化が発達した背景には、日本に特有の自然感と切っても切れないとして、この直前に発表した「日本人の自然観」の内容を引き継ぐような形で論が進められています。

 一例として「荒海や佐渡に横とう天の川」という句をとって考えてみる。西洋人流の科学的な態度から見た客観的写生的描写だと思って見れば、これは実につまらない短い記載的なセンテンスである。最も有利な見方をしても結局一枚の水彩画の内容の最も簡単なる説明書き以外の何物でもあり得ないであろう。それだのにこの句が多くの日本人にとって異常に美しい「詩」でありうるのはいったいどういうわけであろうか。この句の表面にはあらわな主観はきわめて希薄である。「横とう」という言葉にわずかな主観のにおいを感ずるくらいである。それだのにわれわれはこの句によって限り無き情緒の活動を喚起されるのは何ゆえであろうか。
 われわれにとっては「荒海」は単に航海学教科書におけるごとき波高く舟行に危険なる海面ではない。四面に海をめぐらす大八州国(おおやしまのくに)に数千年住み着いた民族の遠い祖先からの数限りもない海の幸いと海の禍(わざわ)いとの記憶でいろどられた無始無終の絵巻物である。そうしてこの荒海は一面においてはわれわれの眼前に展開する客観の荒海でもあると同時にまたわれわれの頭脳を通してあらゆる過去の日本人の心にまで広がり連なる主観の荒海でもあるのである。「大海(おおうみ)に島もあらなくに海原(うなばら)のたゆとう波に立てる白雲」という万葉の歌に現われた「大海」の水はまた爾来(じらい)千年の歳月を通してこの芭蕉翁の「荒海」とつながっているとも言われる。

このエッセイは、文筆家としての寺田寅彦を読み解く上でも興味深い事柄が多く記述されていて興味が尽きません。「俳句の修業はその過程としてまず自然に対する観察力の練磨を要求する。俳句をはじめるまではさっぱり気づかずにいた自然界の美しさがいったん俳句に入門するとまるで暗やみから一度に飛び出してでも来たかのように眼前に展開される。今までどうしてこれに気がつかなかったか不思議に思われるのである。」「一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これは普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性によるものと解釈されるようであるが、しかしそれよりも根本的なことは、書く事の内容の取捨選択について積まれた修業の効果によるのではないかと思われる。俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。」こういったあたりを読むと、寅彦文学の本質は夏目漱石と同じく、実は俳句にあり、ということもできるように思えます。

そして最後、以下の一文をもって彼の最後のエッセイは結ばれます。

自分は、俳句のほろびない限り日本はほろびないと思うものである。



以上、寺田寅彦の随筆集として岩波文庫から刊行されている全5巻に収録のエッセイ、そのすべてを今回までに一通り、ざっと概観しました。

かなり駆け足での取り上げ方となってしまい、それでも結局まる一ヵ月も掛かってしまいましたが、如何だったでしょうか。

寺田寅彦の随筆には、何より21世紀の現在に起きている、さまざまな事象のレファレンスとして読まれるようなところが至る所に出てきます。時代を超えた訴求力というのか、そういう意味では、漱石の小説にさえ比肩するようなパワーがあると言っても過言ではないかも知れない。

もちろん、寺田文学の本当の真価を伝えるとなると私ごときには甚だ任が重く、とても無理な話ですし、むしろ私などよりも遙かに適任な方も多く居られるでしょう。あくまで私は私なりに寺田寅彦を読んで感じた面白さをいうものを、素直に書いたまでのことで、おそらく私が見落としている大事なことも、それこそ無数にあると思います。

それでも私の一連の記事から、私なりに感じた面白さというものを少しでもお伝えできたならば、本懐の至りです。

「寺田寅彦随筆集」第5巻より「映画雑感4」から「映画と生理」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「映画雑感Ⅳ」「B教授の死」「災難雑考」「糸車」「映画と生理」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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映画雑感Ⅳ
(昭和十年六月、渋柿)

寅彦の「映画雑感」シリーズの4番目のエッセイ。「商船テナシティ」「外人部隊」「ベンガルの槍騎兵」「ロスチャイルド」「麦秋」といった当時の映画館での話題作が多く取り上げられています。

興味深いのは「四 映画批評について」の以下の部分。

 このごろはそれほどでもないがひところはソビエト映画だとなんでもかでもほめちぎり、そうでない映画は全部めちゃくちゃにけなしつけるというふうの批評家があった。しかしそういう批評をいくら読んでみても一方の映画のどういう点がどういうわけで、どういうふうによく、他方のがどうしていけないかという具体的分析的の事はちっともわからないのであった。こういうふうに純粋に主観的なものは普通の意味で批評とは名づけにくいような気がする。
 批評はやはりある程度までは客観的分析的であってほしい。そうしてやはりいいところと悪いところと両方を具体的に指摘してほしい。

B教授の死
(昭和十年七月、文学)

このエッセイ、最初に読んだときには「本当に実話なのか?」と思ったくらいでしたが、やはり実話のようです。

ここで書かれているのは、「十余年ほど前に東京のSホテルで客死したスカンジナビアの物理学者B教授のこと」ですが、かなり衝撃的な内容で驚かされます。

1917年の春、ノルウェーの物理学者B教授が日本に来日して東京帝大の理科研究室を訪れ、そこで寅彦と知遇を得ます。

 それから二三日たって、箱根のホテルからのB教授の手紙が来て、どこか東京でごく閑静な宿を世話してくれないかとのことであった。たしか、不眠症で困るからという理由であったかと思う。当時U公園にS軒付属のホテルがあったので、そこならば市中よりはいくらか閑静でいいだろうと思ってそのことを知らせてやったら、さっそく引き移って来て、幸いに存外気に入ったらしい様子であった。

なお、文中の「U公園」というのは上野公園で、「S軒」というのは精養軒のことです。

 ある日少しゆっくり話したいことがあるから来てくれと言って来たのでさっそく行ってみると、寝巻のまま寝台の上に横になっていた。少しからだのぐあいが悪いからベッドで話すことをゆるしてくれという。それから、きょうはどうもドイツ語や英語で話すのは大儀で苦しいからフランス語で話したいが聞いてくれるかという。自分はフランス語はいちばん不得手だがしかしごくゆっくり話してくれればだいたいの事だけはわかるつもりだと言ったら、それで結構だと言ってぽつぽつ話しだしたが、その話の内容は実に予想のほかのものであった

その話というのは、B教授が何か軍事的に重大な発明をして、それがもとで某国の軍事スパイから命を狙われている、というものです。

 翌朝P教室へ出勤するとまもなくS軒から電話でB教授に事変が起こったからすぐ来てくれとの事である。急病でも起こったらしいような口ぶりなので、まず取りあえずN教授に話をして医科のM教授を同伴してもらう事を頼んでおいて急いでS軒に駆けつけた。
 ボーイがけさ部屋をいくらたたいても返事がないから合いかぎでドアを明けてはいってみると、もうすでに息が絶えているらしいので、急いで警察に知らせると同時に大学の自分のところへ電話をかけたということである。
 ベッドの上に掛け回したまっ白な寒冷紗(かんれいしゃ)の蚊帳(かや)の中にB教授の静かな寝顔が見えた。枕上(まくらがみ)の小卓の上に大型の扁平なピストルが斜めに横たわり、そのわきの水飲みコップの、底にも器壁にも、白い粉薬らしいものがべとべとに着いているのが目についた。

この事件は実際に1917年6月15日に発生しており、表向きはB教授の自殺ということで処理されたそうですが、果たして真相は、、、?

災難雑考
(昭和十年七月、中央公論)

「まさか、あの寺田寅彦が、こんなことを書くなんて?」と思わせられるエッセイ。防災の必要性を繰り返し提言してきた寅彦ですが、本エッセイでは、あきらかに論調が「おかしい」のです。

・・・よくよく考えて見ていると災難の原因を徹底的に調べてその真相を明らかにして、それを一般に知らせさえすれば、それでその災難はこの世に跡を絶つというような考えは、ほんとうの世の中を知らない人間の机上の空想に過ぎないではないかという疑いも起こって来るのである。
 早い話がむやみに人殺しをすれば後には自分も大概は間違いなく処刑されるということはずいぶん昔からよくだれにも知られているにかかわらず、いつになっても、自分では死にたくない人で人殺しをするものの種が尽きない。若い時分に大酒をのんで無茶な不養生をすれば頭やからだを痛めて年取ってから難儀することは明白でも、そうして自分にまいた種の収穫時に後悔しない人はまれである。
・・・
 また一方ではこういう話がある。ある遠い国の炭鉱では鉱山主が爆発防止の設備を怠って充分にしていない。監督官が検査に来ると現に掘っている坑道はふさいで廃坑だということにして見せないで、検査に及第する坑だけ見せる。それで検閲はパスするが時々爆発が起こるというのである。真偽は知らないが可能な事ではある。
 こういうふうに考えて来ると、あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えをもう一ぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものであるという、奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。

要するに、人類が災難に遭うのは一種の宿命であり、人為的に軽減できるものではないのではないか、と言うのです。

 もしもこのように災難の普遍性恒久性が事実であり天然の方則であるとすると、われわれは「災難の進化論的意義」といったような問題に行き当たらないわけには行かなくなる。平たく言えば、われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって、ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育って来たと同じように災難を食って生き残って来た種族であって、野菜や肉類が無くなれば死滅しなければならないように、災難が無くなったらたちまち「災難饑餓(さいなんきが)」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか。
 古いシナ人の言葉で「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」といったような言い草があったようであるが、これは進化論以前のものである。植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下泰平だと分裂生殖が終息して死滅するが、汽車にでものせて少しゆさぶってやると復活する。このように、虐待は繁盛のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれない。
 日本の国土などもこの点では相当恵まれているほうかもしれない。うまいぐあいに世界的に有名なタイフーンのいつも通る道筋に並行して島弧が長く延長しているので、たいていの台風はひっかかるような仕掛けにできている。また大陸塊の縁辺のちぎれの上に乗っかって前には深い海溝を控えているおかげで、地震や火山の多いことはまず世界じゅうの大概の地方にひけは取らないつもりである。その上に、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分(のわき)は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止を企て、このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれないが、幸か不幸か今のところまずその心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように、また一般民衆はいっこうそんな事には頓着しないように、ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。

「地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値する」「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止を企て、このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれない」など、思わず目を疑う主張が展開されています。

 以上のような進化論的災難観とは少しばかり見地をかえた優生学的災難論といったようなものもできるかもしれない。災難を予知したり、あるいはいつ災難が来てもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残り、そういう「ノア」の子孫だけが繁殖すれば知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まって行く一方であろう。こういう意味で災難は優良種を選択する試験のメンタルテストであるかもしれない。そうだとすると逆に災難をなくすればなくするほど人間の頭の働きは平均して鈍いほうに移って行く勘定である。それで、人間の頭脳の最高水準を次第に引き下げて、賢い人間やえらい人間をなくしてしまって、四海兄弟みんな凡庸な人間ばかりになったというユートピアを夢みる人たちには徹底的な災難防止が何よりの急務であろう。ただそれに対して一つの心配することは、最高水準を下げると同時に最低水準も下がるというのは自然の変異(ヴェリエーション)の方則であるから、このユートピアンの努力の結果はつまり人間を次第に類人猿の方向に導くということになるかもしれないということである。

「優良種を選択する」などという、ナチス・ドイツのような発想が平然と書かれている点にもビックリします。

しかし以上のような主張は、むろん額面どおりに捉えるべきではないのでしょう。こういったことを本心から書いているのではなくて、おそらく当局なり国民なりに、防災意識の重要性を「強烈に」訴えたいがために、敢えてこういう過激とも思える論調を採ったものと思われます。その意味で、このエッセイは寅彦一流のブラックユーモア、といったところでしょうか。

糸車
(昭和十年八月、文学)

 祖母は文化十二年(一八一五)生まれで明治二十二年(一八八九)自分が十二歳の歳末に病没した。この祖母の「思い出の画像」の数々のうちで、いちばん自分に親しみとなつかしみを感じさせるのは、昔のわが家のすすけた茶の間で、糸車を回している袖(そで)なし羽織を着た老媼(ろうおう)の姿である。・・・この糸車というものが今では全く歴史的のものになってしまったようである。自分の子供などでもだれも実物を見たことはないらしい。産業博物館とでもいうものがあれば、そういう所に参考品として陳列されるべきものかもしれない。

以上のような書き出しに始まり、かつての祖母の回していた糸車の追憶が語られます。

 昔の下級士族の家庭婦人は糸車を回し手機を織ることを少しも恥ずかしい賤業とは思わないで、つつましい誇りとしあるいはむしろ最大の楽しみとしていたものらしい。ピクニックよりもダンスよりも、婦人何々会で駆け回るよりもこのほうがはるかに身にしみてほんとうにおもしろいであろうということは、「物を作り出すことの喜び」を解する人には現代でもいくらか想像ができそうである。
 ついでながら西洋の糸車は「飛び行くオランダ人」のオペラのひと幕で実演されるのを見たことがある。やっぱり西洋の踊りのように軽快で陽気で、日本の糸車のような俳諧はどこにもない。また、シューベルトの歌曲「糸車のグレーチヘン」は六拍子であって、その伴奏のあの特徴ある六連音の波のうねりが糸車の回転を象徴しているようである。これだけから見ても西洋の糸車と日本の糸車とが全くちがった詩の世界に属するものだということがわかると思う。
 この糸車の追憶につながっている子供のころの田園生活の思い出はほんとうに糸車の紡ぎ出す糸のごとく尽くるところを知らない。そうして、こんなことを考えていると、自分がたまたま貧乏士族の子と生まれて田園の自然の間に育ったというなんの誇りにもならないことが世にもしあわせな運命であったかのような気もしてくるのである。

文中、「飛び行くオランダ人」のオペラのひと幕とあるのは、おそらくワーグナーの「さまよえるオランダ人」第2幕冒頭の「糸紡ぎの場」を指しているのでしょう。

映画と生理
(昭和十年八月、セルパン)

 ある科学者で、勇猛に仕事をする精力家としてまた学界を圧迫する権威者として有名な人がある若いモダーンなお弟子に「映画なんか見ると頭が柔らかくなるからいかん」と言って訓戒したそうである。この「頭が柔らかくなる」というのはもちろん譬喩的(ひゆてき)の言葉であるには相違ないが、しかしその言った先生の意味が正確にどういう内容のものであったか、当人に聞いてみなければ結局ほんとうのことはわからない。ただその先生の平生の勉強ぶりから推して考えてみると、映画の享楽の影響から自然学問以外の人間的なことに興味を引かれるようになり、肝心の学問の研究に没頭するに必要な緊張状態が弛緩すると困るということを、こういう独特な言葉で言い現わしたのではないかと思われる。
 この訓戒はこの学者の平生懐抱するような人生哲学からすればきわめて当然な訓戒として受け取られるのであるが、これとは少しちがった種類の哲学の持ち主であるところの他の学者に言わせると、それと反対に「映画でも見ないと頭がかたくなっていけないから時々見るほうがいい」とも言われうるからおもしろいのである。

冒頭「ある科学者」というのは、当時の寅彦の東大での同僚の物理学者・長岡半太郎のことだそうです。対して「これとは少しちがった種類の哲学の持ち主であるところの他の学者」というのが寅彦自身なのでしょう。

 たださえ頭を使い過ぎて疲れている上に、さらにまた目を使い耳を使いよけいな精神的緊張を求めるのであるから、結果はきわめて有害でありそうにも思われるであろうが、事実は全くその反対で、一、二巻のフィルムを見ているうちに、今まで頭の中に固定観念のようにへばりついていた不思議なかたまりがいつのまにか朝日の前の霜柱のようにとけて流れて消えてしまう。休憩時間に廊下へ出て腰かけて煙草でも吹かしていると、自然にのどかなあくびを催して来る、すると今までなんとなしにしゃちこばってぎこちないものに見えた全世界が急になごやかに快いものに感ぜられて来て、眼前を歩いている見知らぬ青年男女にもなんとない親しみを感じるようになるのがわれながら不思議なくらいである。

これだけなら映画が気分転換になって健康にいい、という割りと有り来たりの話ですが、ここからが寅彦ならではの展開で、そこから一歩進んで「映画の生理的効果」について思考を巡らせているのです。

 若い人にはとにかくとしても、もはや人生の下り坂を歩いているような老人にとっては、映画の観覧による情緒の活動が適当な刺激となり、それが生理的に反応して内分泌ホルモンの分泌のバランスに若干の影響を及ぼし、場合によってはいわゆる起死回生の薬と類似した効果を生ずることも可能ではないかという、はなはだ突飛な空想も起こし得られる。
 内分泌の病的異常が情緒の動きに異常な影響を及ぼす一方で、外的な精神的の刺激が内分泌の均衡に異常を生じうることも知られているようである。映画の場合でも、官能の窓から入り込む生理的刺激が一度心理的に翻訳された後にさらにそれが生理的に反応する例も少なくないようである。最も卑近な例をあげると、スクリーンの上にコーヒーを飲む場面が映写されるのを見て急に自分もコーヒーが飲みたくなるような場合もあるであろう。
 それとほぼ同じようなわけで、もはや青春の活気の源泉の枯渇しかけた老年者が、映画の銀幕の上に活動する花やかに若やいだキュテーラの島の歓楽の夢や、フォーヌの午後の甘美な幻を鑑賞することによって、若干生理的に若返るということも決して不可能ではないように思われる。ことに、年じゅう研究室の奥にくすぶって人間離れのした仕事ばかりしているような人間にはそうした効果が存外に著しいかもしれないと思われる。昔の人間でも貝原益軒(かいばらえきけん)や講談師の話の引き合いに出る松浦老侯(まつうらろうこう)のごときはこれと同じ種類に属する若返り法を研究し実行したらしいようであるが、それらの方法は今日一般にはどうも実用的でない。これに反してここで言うところの「映画による若返り法」はきわめて実用的に安直であり、しかもなんらの副作用や後害を及ぼす危険がないようである。

映画を観ると生理学的に若返る、、かなり突拍子もない話とも思えますが、意外と本当なのかも知れないですね。

カルロス・クライバー/バイエルン国立歌劇場のヴェルディ「椿姫」75年ライヴ


ヴェルディ 歌劇「椿姫」全曲
 C・クライバー/バイエルン国立歌劇場管弦楽団
 メモリーズ 1975年ライヴ ME-1014/5
ME-1014-5

「カルロス・クライバーのオペラ録音」カテゴリーのエントリーとして、2004年にイタリアのメモリーズからリリースされた、クライバーの指揮によるバイエルン国立歌劇場のヴェルディ「椿姫」1975年ライヴのCDを取り上げます。

 《椿姫》の準備は、ほとんどスキャンダルというべき困難な状況から始まった。準備不足のまま行われた練習のせいだったと「南ドイツ新聞」が憶測しただけではない。ブダペストのバリトン歌手シャーンドル・シューヨム=ナジがジェロモンを歌う予定だったが、バイエルン州立歌劇場のだれもが、事前にその歌を聴いたことがなかった。クライバーは怒りをあらわにし、シェンクは骨折り損とわかっていながら、この役をマスターしていない歌手と語り合う羽目になった。・・・このハンガリーの歌手の代りに登場したのは、わずか27歳のバリトン歌手ヴォルフガング・ブレンデルであり、シェンクはブレンデルがジェロモン役には若過ぎると考えていたが、クライバーは彼の面倒を見て、励ました。・・・

       「カルロス・クライバー
         ~ある天才指揮者の伝記(上)」より

この公演の翌年にクライバーは、同じバイエルン国立歌劇場のオーケストラを起用してグラモフォンに「椿姫」全曲をスタジオ録音しますが、その契機となったのが、この空前の成功を収めたという75年のバイエルンでの「椿姫」上演とされています。

この時のヴィオレッタ役は翌年のスタジオ録音と同じイレアナ・コトルバスですが、アルフレード役をジャコモ・アラガルが、ジェロモン役をヴォルフガング・ブレンデルがそれぞれ務めている点で、スタジオ録音のキャストとは相違しています。

この公演は、後にヴィオレッタ歌いとして一世を風靡することになるコトルバスが、同役に初めて挑んだ舞台としても知られています。

 コトルバスにとって、ヴィオレッタの役作りには、当初まったく希望が持てなかった。一年前のバイエルン州立歌劇場の日本公演で、コトルバスはヒルダ・デ・グローテの代役として《ばらの騎士》ゾフィーを歌った。この出演がコトルバスにとって初めての、そして後年振り返ってみれば、さほど幸せとは言えないクライバーとの出会いだった。なにしろ日本公演の間はずっと、風邪に苦しめられていたのである。クライバーが《椿姫》の表題役にコトルバスを起用することを承諾したのは、ひとえにオットー・シェンクがコトルバスのためにクライバーを説得したためである。だが、この配役にクライバーはその後も異議を唱えなかった。・・・

       「カルロス・クライバー
         ~ある天才指揮者の伝記(上)」より

実際このCDを耳にした印象としても、クライバーの指揮、コトルバスのヴィオレッタ、いずれもグラモフォンのスタジオ盤とは一味違ったリアリティが充溢していて聴いていて惹き込まれますし、ブレンデルのジェロモンも、知らなければ当時27歳とは、ちょっと思えないくらい貫禄のある堂々たる歌いっぷりです。

録音は残念ながらモノラルですが、かなり実在感のあるモノラル音質ではあり、音質操作の作為感があまりなく、雰囲気として劇場で聴いている感覚に近いソノリティが確保されている感じがします。テープ・ノイズも割合と低めで、この種のライヴ盤としては良好な部類の音質だと思いますが、それでもボリュームを上げすぎると、アリアの最高音で音が割れたりトッティが歪んだりと、それなりに苦しい部分も聴かれます。

もちろん正規録音が(例えば一昨年に正規盤の出たクライバーの「ばらの騎士」のように)SACDなりでリリースされるに越したことはないですが、少なくとも往年のクライバーの記念碑的なオペラ上演の雰囲気が窺い知れるだけでも、私には聴く意義のある録音です。

「寺田寅彦随筆集」第5巻より「俳句の型式とその進化」から「自由画稿」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「俳句の型式とその進化」「あひると猿」「詩と官能」「物売りの声」「自由画稿」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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俳句の型式とその進化
(昭和九年十一月、俳句研究)

「新型式俳句」と呼ばれる現代俳句の新型式に対して、寅彦が思うところを書いたエッセイ。

「新型式俳句」というのは、いわゆる従来までの「五・七・五」の17文字の型に捉われない新型式の現代俳句のことで、文中では以下のように書かれています。

 二十二字三字四字から二十五字六字というのがあるかと思うと三十四字五字というのもある。文字数においてすでに短歌の三十一文字を凌駕しているのであるが、一方ではまた短歌のほうでも負けていないで、五十文字ぐらいは普通だし六十字ぐらいまではたいして珍しくもないようである。

読んでみると、どうも遠まわしに新型式俳句を批判している感じがします。

 古い昔の短い詩形はかなり区々なものであったらしい、という事は古事記などを見ても想像される。それがだんだんに三十一文字の短歌形式に固定して来たのは、やはり一種の自然淘汰の結果であって、それが当時の環境に最もよく適応するものであったためであろう。それには、この詩形が国語を構成する要素としての語句の律動(リズム)の、最小公倍数とか、最大公約数とかいったようなものになるという、そういう本質的内在的な理由もあったであろうが、また一方では、はじめはただ各個人の主観的詠嘆の表現であったものが、後に宮廷人らの社交の道具になり、感興や天分の有無に関せずだれも彼もダンスのステップを習うように歌をよむことになって来たために、自然に一定の型式を必要とすることになったのではないかと想像される。
 こういうふうにいったん固定してしまうと、それが他のあらゆる文化の伝統と連鎖を成してあたかもクロモソームのように結合し、そうして代から代へと遺伝されて来たものであろう。
 しかしまた遺伝のほうでいわゆる「突然変異(ミューテーション)」が行なわれるように、時々はいろいろな奇形児が生まれたであろうということは想像し難いことではない。しかしまた、そうした奇形児がいくらできてもその当時の環境に適合しなければその変形は存続することができなくて死滅したであろうと考えられる。

新型式俳句を「奇形児」に喩えて、まあ、そのうち自然淘汰されるだろうというのが大まかな見解のようです。

現在にしても「五・七・五」の17文字に拠らない形式の俳句というのは、ほとんど聞きませんので、当時の寅彦の予想は正しかったと言えそうです。

あひると猿
(昭和九年十二月、文学)

昭和9年の夏、寅彦が軽井沢の星野温泉という旅館に避暑に赴いた際の動物観察を題材とするエッセイ。旅館の前の池に住んでいる何匹かのあひる、それに当地の動物園にいる猿の、それぞれの生態について写実的な視点で生々しく記述されています。掲載雑誌が雑誌なだけに、少々えげつないことも書かれていますが、それだけにリアリティのある内容となっています。

詩と官能
(昭和十年二月、渋柿)

自分自身の「詩心」が、なぜだか「味覚」と密接に結びついた地点から発生し易いようだ、という自己観察に基づくエッセイ。これはあまり自慢にならない話のようにも思えるが、しかし松尾芭蕉のように、抽象的精神的な要素の多い詩を作るよりは具象的官能的な要素に富んだ詩に長じた人もいるようだから、「官能的であるということ自身がそれほどいけない事でもなさそうである」という風にまとめています。非常に短いエッセイですが、言いたいことが無駄なくコンパクトにまとめられているあたりなど、やはり読んでいて流石と言うほかないものです。

物売りの声
(昭和十年五月、文学)

 毎朝床の中でうとうとしながら聞く豆腐屋のラッパの音がこのごろ少し様子が変わったようである。もとは、「ポーピーポー」というふうに、中に一つ長三度くらい高い音をはさんで、それがどうかすると「起きろ、オーキーロー」と聞こえたものであるが、近ごろは単に「ププー、プープ」というふうに、ただひと色の音の系列になってしまった。豆腐屋が変わったのか笛が変わったのかどちらだかわからない。
 昔は「トーフイ」と呼び歩いた、あの呼び声がいったいいつごろから聞かれなくなったかどうも思い出せない。すべての「ほろび行くもの」と同じように、いつなくなったともわからないようにいつのまにかなくなり忘れられ、そうして、なくなり忘れられたことを思い出す人さえも少なくなりなくなって行くのであろう。
 納豆屋の「ナットナットー、ナット、七色唐辛子」という声もこの界隈では近ごろさっぱり聞かれなくなった。そのかわりに台所へのそのそ黙ってはいって来て全く散文的に売りつけることになったようである。

以上の書き出しに始まる、街の路上での昔ながらの物売りの声が、時代の流れとともに消えゆくことを惜しむような内容のエッセイ。

これら「物売りの声」は、当然ながら21世紀現在の東京では、すでに「絶滅」という状況にあります(廃品回収のように、録音した声を拡声器で機械的に流して周る業者は今でもいるが、無論それには風情も何もない)。

以下、寅彦自身が幼少のころに耳にした、さまざまな「物売りの声」が次々に回想されていき、かつての日本の街の路上が、いかに物売りの声で賑やかであったかが読んでいて偲ばれます。

そして最後、以下のように百年後の時代を思った、寅彦らしい提言で結ばれます。

 今のうちにこれらの滅び行く物売りの声を音譜にとるなり蓄音機のレコードにとるなりなんらかの方法で記録し保存しておいて百年後の民俗学者や好事家に聞かせてやるのは、天然物や史跡などの保存と同様にかなり有意義な仕事ではないかという気がする。国粋保存の気運の向いて来たらしい今の機会に、内務省だか文部省だか、どこか適当な政府の機関でそういうアルキーヴスを作ってはどうであろうか。

自由画稿
(昭和十年一月~五月、中央公論)

最初に「はしがき」に始まり、以下18編のショート・エッセイが続きます。いずれのエッセイも最晩年の寅彦の熟練した筆致といい、内容の面白さといい、絶品ともいうべきエッセイ集に仕上げられていますが、この中で私が特に興味をそそられたものは、9番目の「歯」と題されたエッセイです。

まず、冒頭あたりで、

 子供の時分から歯性が悪くてむし歯の痛みに苦しめられつづけて来た。十歳ぐらいのころ初めて歯医者の手術椅子一名拷問椅子(torture-chair)にのせられたとき、痛くないという約束のが飛び上がるほど痛くて、おまけにそのあとの痛みが手術前の痛みに数倍して持続したので、子供心にひどく腹が立って母にくってかかり、そうしてその歯医者の漆黒な頬髯(ほおひげ)に限りなき憎悪を投げつけたことを記憶している。コカイン注射などは知られない時代であったのである。

という読むからに痛々しい記述に始まり、寅彦が幼少の時分から虫歯に苦しめられているという境遇が語られます。

それに続いて、以下の文章が続きます。

 徴兵検査のときに係りの軍医が数えて帳面に記入したむし歯の数が自分のあらかじめ数えて行った数よりずっと多かったのでびっくりした。それが徴兵検査であっただけにそのびっくりはかなり複雑な感情の笹縁(ささべり)をつけたびっくりであったのである。
 とうとう前歯までがむしばまれ始めた。上のまん中の二枚の歯の接触点から始まった腐蝕がだんだんに両方に広がって行って歯の根もとと先端との間の機械的結合を弱めた。そうして、いつかどこかでごちそうになったときに出された吸い物の椎茸(しいたけ)をかみ切った拍子にその前歯の一本が椎茸の茎の抵抗に負けてまん中からぽっきり折れてしまった。夏目漱石先生にその話をしたらひどく喜ばれてその事件を「吾輩は猫である」の中の材料に使われた。この小説では前歯の欠けた跡に空也餅(くうやもち)が引っかかっていたことになっているが、そのころ先生のお宅の菓子鉢の中にしばしばこの餅が収まっていたものらしい。とにかく、この記事のおかげで自分の前歯の折れたのが二十八歳ごろであったことが立派に考証されるのである。立派なものがつまらぬ事の役に立つ一例である。

以上は本エッセイの導入部分で、この後も歯に関する話は続いていきますが、ここに書かれている「折れた前歯」の話が夏目漱石の小説の中で使われたという、いわゆる「楽屋ネタ」みたいな話を読むに及んで、私が以前、同小説を読んだ際に引っ掛かっていた素朴な疑問が氷塊したのです。

以下は、夏目漱石「吾輩は猫である」の中で水島寒月が初めて登場する場面です。

 おりから門の格子がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。吾輩は肴屋(さかなや)の梅公がくる時のほかは出ない事に極めているのだから、平気で、もとのごとく主人の膝に坐っておった。
 ・・・
 しばらくすると下女が来て寒月さんがおいでになりましたという。この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという話しである。この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る。
 ・・・
 「しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から大(おおい)に活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐(ひも)をひねくりながら謎(なぞ)見たような事をいう。
・・・
 見ると今日は前歯が一枚欠けている。「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええ実はある所で椎茸(しいたけ)を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭(じじいくさ)いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く叩く。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大(おおい)に吾輩を賞める。「近頃大分(だいぶ)大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。

           夏目漱石「吾輩は猫である」より

この部分、「しいたけを食べて前歯が折れた」という設定は、てっきり私は後々で何かの伏線に違いないと(勝手に)思いこみ、それで読んでいっても、以降その折れた前歯のことには小説中、とうとう最後まで触れられずじまい。あれは一体、なんだったんだろう?という素朴な疑問が残りました。

要するに、あれは伏線でも何でもなく、水島寒月のモデル寺田寅彦そのひとの前歯が、しいたけを食べたせいで折れていたという「実話」が、そのまんま小説の設定として取り込まれていただけだった、ということが本エッセイにより判明したわけです(笑)。

まあ些細なことですけど、これで何となくモヤモヤが晴れた、みたいな気分になったのでした。

グルダが1958年に録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番
 グルダ(pf)
 デッカ 1958年 443012-2
443012-2

独オルフェオから先月リリースされた、フリードリヒ・グルダが1953~54年に録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集についての感想を、先日ブログに書きましたが、その中のベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番につき、グルダが1967年、および1984年に録音した同曲の演奏と聴き比べての印象の違いについて触れました。

その記事を掲載してから日を置いて、今度はグルダの残した同曲の4種類の録音のうちの、残る一つを聴いてみました。これはグルダのベートーヴェン・ソナタ全集としては、これまで「初録音」とされていた、1954年から58年にかけてデッカに録音した全集に含まれる録音です。

その印象ですが、決して凡庸な演奏ではないとしても、このベートーヴェンの第32番ソナタの、グルダの残した4種類のスタジオ録音の中では、このデッカ盤が最も精彩に欠けるような気がしてなりませんでした。少なくとも、今回リリースのオルフェオ盤での演奏と比べるなら、このデッカ盤の方は、確かに完成度は高いものの個々の打鍵の訴求力がオルフェオ盤ほどの水準になく、そのぶん音楽全体としての訴えかけもグルダにしては意外に振るわず、表現が常套的というのか、特にオルフェオ盤を聴いて私が感じた、聴いていて息の詰まるような音楽のドラマという側面は、こちらのデッカ盤には明らかに希薄と感じられるのです。

このあたり、双方とも同じ50年代の録音なのに、まるで別人かと思えるほど印象が違っていて、聴き比べて不思議に思ったくらいなのですが、もしか当時弱冠20代のグルダにとって、デッカという大レーベルへの録音に際し、表現が多少かしこまってしまい、そのぶん「構えた演奏」となってしまったのかも知れないという風にも思えます。

もちろん聴き手によっては、デッカ盤での円満なピアニズムの方が好ましいという意見もあろうかと思いますが、少なくとも私としてはデッカ盤の表現はオルフェオ盤でのそれに比べて全体的に物足りなく、その意味で今回リリースされたオルフェオのソナタ全集は、50年代のグルダのベートーヴェン演奏ならではの充実感なり凄味なりを後世に伝える上で、相当に貴重な発掘ではなかったかと改めて感じた次第です。

「寺田寅彦随筆集」第5巻より「地図をながめて」から「天災と国防」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回から「寺田寅彦随筆集」第5巻に収録の作品を順次、取り上げていきます。

Torahiko-Essay-Collection-5

この巻の収録作品のタイトルは以下の通りです。

地図をながめて
映画雑感Ⅲ
疑問と空想
破片
天災と国防
俳句の型式とその進化
あひると猿
詩と官能
物売りの声
自由画稿
映画雑感Ⅳ
B教授の死
災難雑考
糸車
映画と生理
小浅間
日本人の自然観
小爆発二件
三斜晶系
俳句の精神

以上20編。

今回は「地図をながめて」「映画雑感Ⅲ」「疑問と空想」「破片」「天災と国防」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

地図をながめて
(昭和九年十月、東京朝日新聞)

陸地測量部から安価に出版されている地図(特に五万分一地形図)の有用性を讃え、測量部員の地形測量の際の苦労話を紹介し、その労をねぎらうという内容。

さらに、今のところ人間の活動範囲は主に地上に限定されているが、これから航空が発達していくと空中用地図が必要になる時代がくるかもしれない、と述べ、さらに「空中ばかりでなく人間の交通範囲は地下にも拡張される傾向がある」として、「関東大震後に私は首都の枢要部をことごとく地下に埋めてしまうという方法を考えたことがある」という、壮大な構想を披露します。

 九月一日は帝都の防空演習で丸の内などは仮想敵軍の空襲の焦点となったことと思われる。演習だからよいようなものの、これがほんとうであったらなかなかの難儀である。しかし、もしも丸の内全部が地下百尺の七層街になっていたとしたら、また敵にねらわれそうなあらゆる公共設備や工場地帯が全部地下に安置されており、その上に各区の諸所に適当な広さの地下街が配置されていたとしたら、敵の空軍はさぞや張り合いのないことであろうし、市民の大部分は心を安んじてその職につき枕を高くして眠ることができるであろうと思われる。もしそうなれば、東京の地図が一枚で足りないというめんどうぐらいは我慢してもだれも小言はいわないであろう。
 これは今のところでは一場の夢物語のようであるが、実はこの夢の国への第一歩はすでに踏み出されている。そうして昨今国民の耳を驚かす非常時非常時の呼び声はいっそうこの方向への進出を促すように見える。

このあたりは、あながち「夢物語」とも思えず、むしろ慧眼とも言えるでしょう。事実このエッセイが書かれてから10年後、東京は米軍の大空襲により焼土と化すことは周知の通りです。防空壕などという一時凌ぎでなく、最初から首都の枢要部を地下に建造していたなら、「敵の空軍はさぞや張り合いのないことであろう」ということにもなっていたはず、、、

映画雑感Ⅲ
(昭和九年十月、映画評論)

寅彦が昭和9年に観た、計13本の映画に対する各々の所感が綴られています。

これに限らず、寅彦の映画評を読むと、当時の日本映画、おおむねチャンバラ映画に対して辛辣な評が書かれているのが目を引きます。ここでの13番目の「血煙天明陣」は、その典型例で、「この映画は途中から見た。ずいぶん退屈な映画であった。」と書き出し、チャンバラの場面の立ち回りの「お約束」ぶりに辟易したことが書かれています。

 子供の時分に老人から聞いた話によると、ほんとうの真剣勝負というものはこれとはまるでちがうものだそうである。にらみ合う時間ばかり長くて、刀の先がちょっとさわったと思うと両方一度にぱっと後ろへ飛びしざってまたにらみ合う。にらみ合うだけでだんだん呼吸がせわしくなって肩息になるのだという。聞いただけでもすごくなる。
 ・・・
  千篇一律(せんぺんいちりつ)で退屈をきわめる切り合いや追っ駆けのこんなに多く編入されているわけが自分には了解できない。あるいは、これがいちばん費用がかからないためかとも思う。
 こういう時代物の映画で俳優たちのいちばんスチューピッドに見えるのは、彼らが何かひとかどの分別ありげな思い入れをする瞬間である。深謀遠慮のある事を顔に出そうとすればするほどスチューピッドになるのは当然のことである。
 日本の時代物映画も、もうそろそろなんとか頭脳の入れ換えをしたらどうかと思う。

疑問と空想
(昭和九年十月、科学知識)

ほととぎすの鳴き声には、どのような意味があるのか、および九官鳥の口まねは、どうして人語のように聴こえるのか、という2つの疑問に対して、自由に空想を膨らませて思うところを述べる、という内容。注目すべきは以下の部分でしょう。

 われわれの言語を言語として識別させるに必要な要素としての母音や子音の差別目標となるものは、主として振動数の著しく大きい倍音、あるいは基音とはほとんど無関係ないわゆる形成音(フォルマント)のようなものである。それで考え方によっては、それらの音をそれぞれの音として成立せしめる主体となるものは基音でなくてむしろ高次倍音また形成音だとも言われはしないかと思う。
 こういう考えが妥当であるかないかを決するには、次のような実験をやってみればよいと思われる。人間の言葉の音波列を分析して、その組成分の中からその基音ならびに低いほうの倍音を除去して、その代わりに、もとよりはずっと振動数の大きい任意の音をいろいろと置き換えてみる。そういう人工的な音を響かせてそうしてそれを聞いてみて、それがもし本来の言葉とほぼ同じように「聞こえ」たとしたなら、その時にはじめて上記の考えがだいたいに正しいということになるであろう。
 これはあまりにも勝手な空想であるが、こうした実験も現在の進んだ音響学のテクニックをもってすれば決して不可能ではないであろう。

この「空想」は実のところ当たらずとも遠からじで、特に音響学的な倍音の重要性はオーディオマニアならずとも現在では多くの人の知るところとなっています。つまり、一般に倍音成分が多いほど、響きが良く通る、豊かな音になる。逆に倍音成分が少ないほど、くぐもったような、通りの悪い響きになる。しかし、こういう知識は、今だから普通に言われているのであって、昭和9年という段階で、こういう知識なり発想なりを持ち得た人というのは、ほとんどいなかったのではないかと思うのです。寅彦自身「あまりにも勝手な空想」と断っていますが、実際ある程度の真理を突いているところが凄いところです。

破片
(昭和九年十一月、中央公論)

13編のショート・エッセイを集めたもので、いずれも当時の何気ない日常のひとコマが題材とされています。読んでいると昭和初期の時代の東京の空気がリアルに伝わってくるよう。例えば4番め収録のエッセイは、、

 八月二十四日の晩の七時過ぎに新宿から神田両国行きの電車に乗った。おりから防空演習の予行日であったので、まだ予定の消燈時刻前であったが所によっては街路の両側に並んだ照明燈が消してあった。しかし店によってはまだいつものように点燈していたにもかかわらず、町の暗さが人を圧迫するように思われた。いつもは地上百尺の上に退却している闇の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた。これでは、明治時代、明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである。
 一週間も田舎へ行っていたあとで、夜の上野駅へ着いて広小路へ出た瞬間に、「東京は明るい」と思うのであるが、次の瞬間にはもうその明るさを忘れてしまう。
 札幌から出て来た友人は、上京した第一日中は東京が異常に立派に美しく見えるという。翌日はもう「いつもの東京」になるらしい。
 けんかでなしに別居している夫婦の仲のいいわけがわかるような気がする。

最後の一文は寅彦らしいオチでニヤッとさせられますが、それにしても、「新宿から神田両国行きの電車」に乗っている時の外の景色が、「町の暗さが人を圧迫するように思われた」、「闇の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた」というのは、今では想像もつかない光景というほかなく、これについて文中では「明治時代、明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである」と書かれていますが、21世紀の我々にしてみれば「思い出す」以前に想像すらできないものです。

天災と国防
(昭和九年十一月、経済往来)

「天災は忘れた頃にやってくる」の名言を後世に残し、防災意識の重要性と必要性を生涯に渡り訴え続けた寅彦ですが、その中でも本エッセイは最高位に属するものだと思います。

 日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。

ちょうど日本が国際連盟から脱退し、諸外国との関係が緊張を孕んできた時期のエッセイだけに、日本政府は今まで以上に国防に力を注ぎ始めますが、それと同じくらい防災にも力を注ぐべきではないか、という提言が為されています。

 二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう。
 ・・・
 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

この部分、「二十世紀の現代では」と書かれているものの、これを「二十一世紀の現代では」と置き換えると、ますます妥当してしまう点が読んでいて恐ろしいところです。

 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤(えんてい)が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる。
 こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂ではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。

このあたりの記述は、今の時代に読んでも、いささかも訴求力が衰えないばかりが、むしろ増大しているとも言えます。21世紀に(必ず)起こるであろう関東大震災クラスの地震に見舞われた際、果たして「この世の地獄」は出現するのでしょうか。

 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究の描き出した空中楼閣だとばかりは言われないであろう。五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。

これに関しては、「五十年百年の後」に洋上どころか宇宙空間に人工衛星を飛ばして気象を観測するとまでは、さしもの寅彦も読めなかった、というところでしょうか。

鈴木秀美/オーケストラ・リベラ・クラシカによるモーツァルト、ハイドン及びベートーヴェンの交響曲のライヴ


モーツァルト 交響曲第29番
ハイドン 交響曲第88番「V字」
ベートーヴェン 交響曲第1番
 鈴木秀美/オーケストラ・リベラ・クラシカ
 アルテ・デラルコ 2009年ライヴ ADJ027
ADJ027

アルテ・デラルコから先月リリースされた、鈴木秀美の指揮オーケストラ・リベラ・クラシカ(OLC)の演奏によるモーツァルト、ハイドン及びベートーヴェンの交響曲のCDを聴きました。

これは昨年10月17日の浜離宮朝日ホールでのOLCの定期公演と、その翌日の逗子なぎさホールでの演奏会とにおけるライヴ音源に基づく演奏とされ、演目はモーツァルトの交響曲第29番、ハイドンの交響曲第88番「V字」、それにベートーヴェンの交響曲第1番です。

この浜離宮朝日ホールでの昨年10月17日の演奏会には私自身も足を運んでおり、その演奏を客席で聴いていますが、特にベートーヴェンにひとかたならぬ感銘を覚えた記憶が新しいので、その追体験を期待して本CDを購入したのでした。

さっそく聴いてみると、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンともに昨年、実演で耳にしたOCLの演奏のそれと、私の中で概ねの印象においてマッチングするもので、最初のモーツァルトでは女性的な感じのソフトな表現から始め、ハイドンを中間点として、ベートーヴェンになるとむしろ男性的なイメージを強く押し出した、強烈なヴァイタリティとゴツゴツとしたハードな感触を伴う表現にシフトしていった、あの演奏会での音楽の雰囲気が、かなり高感度な再現となっていて、それゆえ当時の実演から受けた感銘もまた、聴いていて生々しく蘇ってくるようでした。

その演奏会の感想は以前ブログに書いたとおりですが、このCDを聴いて改めて印象的だったのは、これまでハイドンの交響曲作品を中核としながらC.P.E.バッハやモーツァルトなども取り上げてきたOLCが、彼らのホームグラウンド浜離宮朝日ホールでの公演としては初めてベートーヴェンの交響曲を演目に載せた、その意気込みが如何に並々ならないものであったか、ということで、「ここにいたって初めてベートーヴェンという大きな境目を超える」と、鈴木秀美氏みずから公演プログラムに記した通り、それはOLCとしては異例とも思えるほどに熱のこもったベートーヴェンとして結実していた、という事実を、改めて強く認識しました。

もっとも、音質に関しては少し改善の余地もあるかなというのが率直なところで、確かにアンサンブルの細部までクリアな録られ方となっていてディテールの解像度が高い反面、個々のパートの音が過分に立ち過ぎ、パート同士の溶け合った音色のニュアンスが、実演の時と引き比べて幾分か阻害されているような印象も否めず、とくに朝日ホールは潤沢な残響で知られるホールですので、そのあたりのホール感の再現は聴いていて必ずしも万全でない気もしますし、もし万全なら実演での醍醐味が更にビビッドに伝わっていたかも知れないとも思えました。

「寺田寅彦随筆集」第4巻より「踊る線条」から「とんびと油揚」までの6編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「踊る線条」「ジャーナリズム雑感」「函館の大火について」「庭の追憶」「藤棚の陰から」「とんびと油揚」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-4

踊る線条
(昭和九年一月、東京朝日新聞)

 フィッシンガー作「踊る線条」と題するよほど変わった映画の試写をするからぜひ見に来ないかとI氏から勧められるままに多少の好奇心に促されて見に行った。プログラムを見ると、第五番「アメリカのフォクストロット」。第八番、デューカーの「魔術師の徒弟」。第九番、ブラームス「ウンガリシェ・タンツ」というふうに楽曲の名前が並べてあるだけで、いったいどんなものを見せられるか全く見当がつかない。

念のため書きますと、上記でデューカーの「魔術師の徒弟」というのはデュカスの「魔法使いの弟子」のことです。

 さて、映写が始まって音楽が始まると同時に、暗いスクリーンの上にいろいろの形をした光の斑点や線条が順次に現われて、それがいろいろ入り乱れた運動をするのであるが、全く初めての経験であるからただ一度見ただけでは到底はっきりした記憶などは残りようがない。しかし都合六編だけ通覧したあとでの印象は、実に思いのほかにおもしろいものであったということである。
 たぶんは退屈で、しいて理屈をつけて見ているうちに頭が痛くなるようなものではないかと思っていた予想に反して、ただぼんやり見ているだけでなんとなく気持ちのいい、ともかくも充分楽しめるものであるということを発見して少々驚いたのであった。残念ながら大部分は肝心の楽曲をよく知らないから困るのであるが、ただ一つモツァルトの「ニ長調メヌエット」だけは曲の構造をよく知っている上に、光像の踊りも簡単であるから、比較的らくに光像の進行を追跡することができたようである。第一のテーマは楽譜の形からも暗示されるように、彗星のような光斑がかわるがわるコンマのような軌跡を描いては消える。トリラーの箇所は数条の波線が平行して流れる。

以下、クラシックの名曲をスクリーン上の線条の運動に見立てて表現した当時の実験映画「踊る線条」を観た印象が、新鮮な感懐とともに綴られていきます。

 舞踊というものをその幾何学的運動学的要素に一度解きほごして、それから再び踊りというものを構成するとすればその第一歩はおそらくこの映画のようなものになりそうである。そういう意味でわが国の舞踊家ならびに舞踊研究家にとってもこの映画は必ず一見の価値があるであろうと思われる。一方ではまた純粋音楽というものの「空間化」の一つの試みとして音楽家ならびに音楽研究家にとっても多少の興味がありそうである。これは決して音楽を冒涜するものではなくて、音楽の領域に新しきディメンジョンを付加することの可能性を暗示するものではないかと思われる。これが、別に頼まれもせぬ自分がこの変わった映画の提燈(ちょうちん)をもって下手な踊りを踊るゆえんである。

ジャーナリズム雑感
(昭和九年四月、中央公論)
 
 ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出て来る。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする。その殺人現場における事件の推移はもちろん、その動機から犯行までの道行きをたとえ簡単にでも正確につきとめるためには、実は多数の警察官や司法官の長日月の精査を要し、しかもそれでもなかなか容易にはすみからすみまで明白にしにくいのが通例である。それを僅々(きんきん)数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末を記述し関係人物の心理にまでも立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。
 この不可能事を化して可能にする魔術師の杖は何かと調べてみると、それは、言わば、具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化とでも名づけるべき方法であると思われる。・・・

主にジャーナリズムの弊害について寅彦が思うところを自由に書いたという趣きのエッセイ。寅彦の新聞嫌い、ジャーナリズム嫌悪の性癖は割り引いて読むとしても、空論には程遠く、現代の我々が読んでも傾聴に値する内容だと感じます。

 このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撤き広げ、あたかも世界じゅうがその類型で満ち満ちているかのごとき錯覚を起こさせ、そうすることによって、さらにその類型の伝播をますます助長するのである。ジャーナリズムが恐るべき性能を充分に発揮するのはこの点であろうと思われる。たとえば大新聞がいっせいにある涜職事件(とくしょくじけん)を書き立てると全国の新聞がこれに呼応してたちまちにして日本全国がその涜職事件でいっぱいになったような感じをいだかせる。冷静なる司直の手もまたいくぶんこれに刺激されてその活動を促進されることがないとも限らない。またたとえば忠犬美談で甲新聞が人気を呼ぶと、あとからあとからいろいろな忠犬物語がほうぼうから出て来て、日本じゅうが犬だらけになり昭和八犬伝ぐらいはまたたくひまに完成するのである。一犬は虚をほえなくても残る万犬の中にはうそ八百をほえるようなのもたくさんに交じるのであるが、それがみんな実として伝えられるのである。ジャーナリズムの指はミダスの指のように触れる限りのものを金に化することもあり、反対に金もダイアモンドもことごとく石塊とすることもある。キルケのごとくすべての人間を動物に化することもあるが、また反対にとんでもない食わせものの与太者を大人物に変化させることもできるのは天下周知の事実であって事新しく述べ立てるまでもないことであろう。そうしてだれしもそれを承知していながら知らず知らずこのジャーナリズムの魔術にかかってしまうのは実に恐るべきことと言わなければならない。

函館の大火について
(昭和九年五月、中央公論)

昭和9年3月21日の夕から翌朝へかけて函館市に発生した大火が、二万数千戸を焼き払い二千人に近い死者を出したという大惨事を受けてのエッセイ。「これが昭和九年の大日本の都市に起こったということが実にいっそう珍しいこと」と述べています。

そして、火災発生当時の気象条件を細かく検討した上で、不幸にも偶然に偶然が重なった結果かくも歴史的な大火災が生じたに違いない、と分析しているのです。あたり、さすがにひとかどの学者の手によるエッセイだと読んでいて唸らされます。
 火事は地震や雷のような自然現象でもなく「おやじ」やむすこのような自由意志を備えた存在でもなく、主としてセリュローズと称する物質が空気中で燃焼する物理学的化学的現象であって、そうして九九プロセントまでは人間自身の不注意から起こるものであるというのは周知の事実である。しかし、それだから火事は不可抗力でもなんでもないという説は必ずしも穏当ではない。なぜと言えば人間が「過失の動物」であるということは、統計的に見ても動かし難い天然自然の事実であるからである。しかしまた一方でこの過失は、適当なる統制方法によってある程度まで軽減し得られるというのもまた疑いのない事実である。

寅彦の防災意識の強さは彼の他のエッセイにも度々見られますが、本エッセイは大惨事の直後だけに、舌鋒の鋭さがひときわ目立ちます。

 いずれにしても今回のような大火は文化をもって誇る国家の恥辱であろうと思われる。昔の江戸でも火事の多いのが自慢の「花」ではなくて消防機関の活動が「花」であったのである。とにかくこのたびの災害を再びしないようにするためには単に北海道民のみならず日本全国民の覚醒を要するであろう。政府でも火災の軽減を講究する学術的機関を設ける必要のあることは前述のとおりであるが、民衆一般にももう少し火災に関する科学的知識を普及させるのが急務であろうと思われる。少なくもさし当たり小学校中等学校の教程中に適当なる形において火災学初歩のようなものを插入したいものである。

今でこそ小中学校で当り前のように行われている火災発生を想定した避難訓練なども、ほとんど行われていなかった時代に書かれているだけに、ズシリと重みのある提言となっています。

庭の追憶
(昭和九年六月、心境)

土佐にある寅彦の実家を貸しているT氏から、その屋敷の庭の紅葉を写生した油絵が、このたびの上野の美術展に出品されているという書信を受けて、その絵を寅彦が観に行った際のエピソードが綴られています。

 さっそく出かけて行って見たら、たいして捜すまでもなくすぐに第二室でその絵に出くわした。これだとわかった時にはちょっと不思議な気がした。それはたとえば何十年も会わなかった少年時代の友だちにでも引き合わされるようなものであった。「秋庭」という題で相当な大幅である。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るもまぶしいくらいなので、一見しただけではすぐにこれが自分の昔なじみの庭だということがのみ込めなかった。しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。

そして、持ち前の写実的な筆致から、自身の屋敷の庭を写生した油絵を観た寅彦の脳裏に去来する思い、ある種のノスタルジックな感懐が、その少年期における幸福な記憶とともに、鮮明に描き出されていきます。

さらに以下のように、寅彦の最晩年の、孤独に囚われた心境が生々しく綴られていて、読む者に少なからぬ感銘をもたらしているのです。

 このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇(うちわ)で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩の飛び石であった。・・・飛び石のそばに突兀(とっこつ)としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。

そして、最後に以下のような文章で、このエッセイは締め括られます。とくに「死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない」と書かれた寅彦の重い言葉は、ひとつの真理を照射して止まないとともに、深々とした余韻を読み手に投げかけているように思えます。

 国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請(いとまご)いをした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像(ナハビルト)のようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
 こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下のほうへおりて行くのであった。

藤棚の陰から
(昭和九年九月、中央公論)

19編の短いエッセイをまとめたもの。

 電車に乗って空席を捜す。二人の間にやっと自分の腰かけられるだけの空間を見つけて腰をおろす。そういう場合隣席の人が少しばかり身動きをしてくれると、自然に相互のからだがなじみ合い折り合って楽になる。しかし人によると妙にしゃちこばって土偶か木像のように硬直して動かないのがある。
 こういう人はたぶん出世のできない人であろうと思う。
 もっとも、こういう人が世の中に一人もなくなってしまったら、世の中にけんかというものもなくなり、国と国との間に戦争というものもなくなってしまうかもしれない。そうなるとこの世の中があまりにさびしいつまらないものになってしまうかもそれはわからない。
 こういう人も使い道によっては世の中の役に立つ。たとえば石垣のような役目に適する。もっとも石垣というものは存外くずれやすいものだということは承知しておく必要がある。


かなり痛烈なことが書かれていますが、おそらく道徳の重要性を言いたかったのでしょう。特に年々モラルの廃れつつある感のある最近の日本の状況においては、あながち笑って読み過ごすわけにもいかない気がします。

とんびと油揚
(昭和九年九月、工業大学蔵前新聞)

「とんびに油揚(あぶらげ)をさらわれるということが実際にあるかどうか確証を知らないが、しかしこの鳥が高空から地上のねずみの死骸などを発見してまっしぐらに飛びおりるというのは事実らしい」と書き出し、「高空から地上のねずみの死骸を判別するには、視覚的には不可能ではないか」という問題提起を行い、「とんびが実は視覚ではなく嗅覚を利用して高空から地上の物体を判別して飛び降りてくるのではないか」という仮説を立て、それを検証するという内容。

寅彦の学者としての斬新な着眼点と思考力の鋭さが端的に発揮された内容ゆえ、彼のエッセイ中でも比較的有名なものの一つです。ただし残念ながら、ここでの寅彦の仮説は、現在では否定されているというべきでしょう。というのも、とんびの視力というのは異常なまでに発達していて、嗅覚など他の助けによらず、視力だけで高空から地上の様子が手に取るようにわかる、ということが今では解明されているからです。

ただ、それは現在だから分かっていることに過ぎず、そのあたりのメカニズムが当時は解明されていなかった以上、一概に「ハズレ」として責めることはできませんし、むしろ、その発想の柔軟性にこそ注目し、讃えられて然るべきものと思えます。

以上、これで「寺田寅彦随筆集」第4巻に収録の全エッセイを一通り取り上げました。次回からは最後の第5巻に収録のエッセイに移ります。

ハーディング/バイエルン放送響によるオルフのカルミナ・ブラーナ


オルフ カルミナ・ブラーナ
 ハーディング/バイエルン放送交響楽団
 グラモフォン 2010年ライヴ 4778778
4778778

独グラモフォンから今月リリースされた、ダニエル・ハーディング指揮バイエルン放送交響楽団の演奏によるオルフのカルミナ・ブラーナのCDを聴きました。

これは今年4月のミュンヘン・ガスタイクでの演奏会のライヴ録音で、合唱はバイエルン放送合唱団とテルツ少年合唱団、独唱陣はソプラノがパトリシア・プティボン、テノールがハンス・ヴェルナー・ブンツ、バリトンがクリスティアン・ゲルハーヘルです。

このカルミナはハーディングとしてはグラモフォンからの第2弾リリースとなるものですが、その第1弾はというと2年前にリリースの、ウィーン・フィルを指揮したマーラー交響曲第10番(クック補筆全曲版)のCDでした。それはマーラー交響曲第10番の5楽章全曲版の、グラモフォンとしての初録音、さらにウィーン・フィルにとっても初録音と、初物尽くしで当時かなり話題になり、好評を博したディスクですが、私には正直いまひとつピンとこない演奏内容でした。

対して今回のカルミナでは、バイエルン放送響という強力オケを指揮してハーディングがどのような演奏を展開するか興味深く思い、購入してみました。

それで聴いてみると、この演奏に対するハーディングのアプローチは全体を通してストレートかつオーソドックスなものであり、すこぶる円滑なオーケストラ・ドライブからアンサンブルをシンフォニックに晴々と鳴らしつつ、弱奏でのキメ細やかなコントロールなどにも十分に目配せを利かせながら、ここぞという時にはバイエルン放送響の類まれなるポテンシャルを効果的に駆使して音楽の高揚力をグッと高めていく、という按配で、テンポ面としても、全25曲中の3曲めの「春の愉しい面ざし」を5分20秒も掛けて(普通だと3分半くらい、遅くても4分半くらい)ゆっくりと進めているあたりが聴いていてオヤッと感じたくらいで、それ以外は概ねオーソドックスで、特に奇を衒ったものではなく、その意味では安心して聴いていられるといった感じの運用でした。

歌手に関してもプティボン、ブンツ、ゲルハーヘル、それぞれの歌唱上の持ち味が比較的よく発揮された歌唱が展開されており、このカルミナの歌詞に特有のコミカルな側面もシニカルな側面も過不足なく表現されていて、聴いていて気持よく惹き付けられました。

この演奏は確かに完成度の高さという点では疑いなく抜群ですし、歌唱陣の出来ばえも素晴らしいと思うのですが、肝心のオーケストラ演奏において、いまひとつ引っ掛かりに乏しい演奏だなという印象を聴いていて払底できなかった感もあり、完成度が高いという以上の特色に乏しいような印象を最後まで拭えませんでした。

ハーディングの指揮者としての才は誰しも認めるところですし、彼の実演の印象としても、例えば昨年の新日本フィルを指揮してのベートーヴェン「エロイカ」などはハーディングの持ち味が良く発揮された、類まれなほどの演奏内容と感じたことを覚えていますが、その意味では、このカルミナではハーディング自らの持ち味が必ずしも生かし切れていないのではないか、という感想を聴き終えて抱いたというのが率直なところです。

これは私の勝手な思い込みなのかもしれませんが、どうもハーディングはマーラーやオルフといった近現代の作曲家の大規模な管弦楽スペックの作品よりも、むしろモーツァルトやベートーヴェンといった古典派の規模の作品の方が、彼の持ち味が発揮されやすいのではないかという風にも思えます。

なお音質に関しては、バイエルン放送局との共同制作とクレジットされている通り、いわゆるグラモフォン的なリマスタリングよりは音響操作が抑制された、ホールで耳にするような作為感の少ないソノリティのバランスとなっていて好感的なものでした。

「寺田寅彦随筆集」第4巻より「試験管」から「思い出草」までの7編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「試験管」「科学と文学」「科学者とあたま」「沓掛より」「さるかに合戦と桃太郎」「人魂の一つの場合」「思い出草」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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試験管
(昭和八年九月、改造)

「靴のかかと」「草市」「熱帯魚(その一)」「熱帯魚(その二)」「熱帯魚(その三)」「音の世界」「においの追憶」「鏡の中の俳優I氏」の8編からなるショート・エッセイ集。

いずれも日常生活の些細な物事をキッカケに話を膨らませたエッセイばかりで、昭和初期の東京の風物詩がありありと息づいている点も素晴らしく思われます。

特に興味深く思ったのは、「音の世界」の以下の部分です。

 すべての音は蓄音機のレコードの上に曲線として現わされる。反対にすべての週期的ないし擬週期的曲線は音として現わすことができる。たとえば験潮儀に記録されたある港の潮汐(ちょうせき)昇降の曲線をレコード盤に刻んでおいてこれを蓄音機にかければ、たぶんかなりな美しい楽音として聞かれるであろう。そうしてその音の音色はその港々で少しずつちがって聞こえるであろう。それでこのようにして「潮汐の歌」を聞くことによって、各地の潮汐のタイプをある度まで分類することができるかもしれない。あるいはまたこの方法によって、調和分析などにはかからない潮汐異常や、地方的固有振動を発見することもできるかもしれない。
 またたとえばひと月じゅうの気圧の日々の変化の曲線を音に直して聞けば、月によりまたその年によっていろいろの声が聞かれるであろう。その声を聞いてその次の月の天候を予測するようなことも、全く不可能ではないかもしれない。
 同じように米相場や株式の高下の曲線を音に翻訳することもできなくはないはずである。

主に音を実利的に活用する話ではあるものの、例えば港の潮の満ち引きの曲線を音楽に変換するという発想など、かなり大胆な感じがしますが、これに近い発想を20世紀の現代音楽の作曲家は行っているのです。

例えばイアニス・クセナキスの1950年代の確率論的な音楽作品(ストカスティック・ミュージック、いわゆる確率音楽)においては、音の密度など様々な音楽的要素を決定するための確率計算において、自然現象の内部論理が利用されています。「雨がテントを打つ音」といった自然界の「音の出来事」を数学的に処理したうえで音楽的な構造に置換する、という発想です。

こういった自然界の「音の出来事」を音楽に変換するという発想において、上の寅彦のエッセイでの考え方は、後年のクセナキスの作曲技法に相通じるものがあるような印象があって興味深く思えたのでした。

科学と文学
(昭和八年九月、世界文学講座)

以前に発表した「科学者と芸術家」(第1巻に収録)での話を更に推し進めたような内容です。

 たとえばある一人の虚無的な思想をもった大学生に高利貸しの老婆を殺させる。そうして、これにかれんな町の女や、探偵やいろいろの選まれた因子を作用させる。そうして主人公の大学生が、これに対していかに反応するかを観察する。これは一つの実験である。ただしこの場合における実験室は小説作者の頭脳であり、試験される対象もまた実物ではなくて、大学生や少女や探偵やの抽象された模型である。こういう模型は万人の頭の中にいるのであるが、すぐれた作者の場合にのみ、それが現実の対象とほぼ同じ役目をつとめることができるのである。そういうすぐれた作者の作品を読むときにわれわれはその作の主人公のすべての行為が実に動かすべからざる方則のもとに必然な推移をとっていることを悟るであろう。
 ・・・
 このようにして、作者は、ある特殊な人間を試験管に入れて、これに特殊な試薬を注ぎ、あるいは熱しまた冷やし、あるいは電磁場に置き、あるいは紫外線X線を作用させあるいはスペクトル分析にかける。そうしてこれらに対する反応によってその問題の対象の本性を探知すると同時に、一方ではまたそれらの種々の環境因子に通有な性質と作用の帰納に必要な資料を収集するのである。ただ物質と物質的エネルギーの場合とちがって、対象のすべてが作者の中にあるのであるから、その作者が最も鋭利な観察と分析と総合の能力をもっていない限り、これらの実験が失配に終わることはもちろんである。

以上のように、ここでは文学の創作を科学的な実験になぞらえて論が進められます。

 しかし、こういう実験が可能であるということは古来今日に至るまでのあらゆるすぐれた作品がこれを証明している。シェークスピアとかドストエフスキーとかイブセンとかいう人々は、人間生死の境といったような重大な環境の中に人間をほうり込んで、試験檻の中のモルモットのごとくそれを観察した。しかしまたチェホフのような人は日常茶飯事的環境に置かれた人間の行動から人性の真を摘出して見せた。
 ・・・
 文学が芸術であるためには、それは人間に有用な真実その物の記録でなければならない。また逆にすべての真実なる記録はすべて芸術であるというのである。どんな空想的な夢物語でも多感な抒情詩でも、それが真の記録であるゆえに有益であり同時に美しいというのである。ここまではおそらく多くの読者も少なくも多少の条件付きでは首肯されるであろうと思われる。しかし、さらに一歩を進めて、科学上の傑出した著述はすべて芸術であると言おうとすれば、これにはおそらく容易に同感を表しかねる人が多いであろうと思われる。
 ・・・
 手近な例を取ってみても、ファーブルの昆虫記や、チンダルの氷河記を読む人は、その内容が科学であると同時に芸術であることを感得するであろう。ダーウィンの「種の始源」はたしかに一つの文学でもある。ウェーゲナーの「大陸移動論」は下手の小説よりは、たしかに芸術的である。そうしてまた、ある特別な科学国の「国語」の読める人にとっては、アインシュタインの相対性原理の論文でも、ブロイーの波動力学の論文でも、それを読んで一種無上の美しさを感じる人があるのをとがめるわけにはゆかないであろうと思う。ただ事がらが非情の物質と、それに関する抽象的な概念の関係に属するために、明白な陳套(ちんとう)な語で言い現わされるような感情の動揺を感じることはないであろうが、真なるものを把握することの喜びには、別に変わりはないであろう。
 それだのに文学と科学という名称の対立のために、因襲的に二つの世界は截然(せつぜん)と切り分けられて来た。文学者は科学の方法も事実も知らなくても少しもさしさわりはないと考えられ、科学者は文学の世界に片足をも入れるだけの係わりをもたないで済むものと思われて来たようである。
 しかし二つの世界はもう少し接近してもよく、むしろ接近させなければならないように自分には思われるのである。

そして「科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる」と記していますが、これは少々、我田引水な印象がないでもありません。

科学者とあたま
(昭和八年十月、鉄塔)

 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
 この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。

「頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人」は、おそらく科学者ではなく評論家ということなのでしょう。

沓掛より
(昭和八年十月、中央公論)

夏の2週間ほどを避暑を目的に信州の沓掛(今日の軽井沢)で過ごした際の体験を踏まえたエッセイ。「草をのぞく」「盆踊りとあひる」の2編からなり、高原での植物観察のこと、盆踊りのこと、温泉宿の前の池に住むあひるの生態などが新鮮な驚きと共に語られているあたり、読んでいて惹き込まれてしまいます。

さるかに合戦と桃太郎
(昭和八年十一月、文芸春秋)

最近ある地方の小学校の先生たちが、児童に共産主義を教化する目的で日本固有のおとぎ話にオリジナルな解釈を付加して教授した、という新聞紙上の話題から始められます。「なんでもさるかに合戦の話に出て来るさるが資本家でかにが労働者だということになっており、かにの労働によって栽培した柿の実をさる公が横領し搾取することになるそうである」。

そして、このような教育方法に、以下のような苦言が呈されています。

 おとぎ話というものは、だいたいにおいて人間世界の事実とその方則とを特殊な譬喩(ひゆ)の形式によって表現したものである。さるやかにが出て来たりまた栗のいがや搗臼(つきうす)のようなものまでも出て来るが、それらは実はみんなやはりそういう仮面をかぶった人間の役者の仮装であって、そうしてそれらの仮装人物相互の間に起こるいろいろな事件や葛藤も実はほんの少しばかりちがった形で日常にわれわれの周囲のどこかに起こっていることなのである。その事が善いとか悪いとかいう批判を超越して実際にこの世の中に起こっている事実なのである。
 ・・・
 さるのような人もありかにのような人もあるというのも事実であって、それはこの世界にさるがありかにがある事実と同じような事実である。さるなどというもののあるのはいったい不都合だと言って憤慨してみたところで世界じゅうのさるを絶滅することはむつかしい。かにの弱さいくじなさをののしってみたところでかにをさるよりも強くすることは人力の及ぶ限りでない。蜂やいが栗(ぐり)や臼がかにの味方になって登場するのもやはり自然の方則に従って出て来るので、法律で蜂と栗と臼の登場を禁じると、今度はさそりやばらやたくあん石が飛び出して来るかもしれない。また、桃太郎が生まれなかったらそのかわりに栗から生まれた栗太郎が団子の代わりにあんパンかキャラメルを持って猫やカンガルーを連れてやはり鬼が島は征伐しないでおかないであろう。いくらそんな不都合なことはいけないと言っても、どうしてもだれか征伐に行くのが現世の事実である。
 ・・・
 おとぎ話というものは、そういう人間世界の事実と方則を教える科学的な教科書である。そうして、どうするのが善いとか悪いとか、そんな限定的なモラールや批判や解説を付加して説明するにはあまりに広大無辺な意味をもったものである。それをいいかげんなほんの一面的なやぶにらみの注解をつけて片付けてしまうのではせっかくのおとぎ話も全く台無しになってしまう。
 おとぎ話はおとぎ話でよいのである。

それにしても「桃太郎が生まれなかったらそのかわりに栗から生まれた栗太郎が団子の代わりにあんパンかキャラメルを持って猫やカンガルーを連れてやはり鬼が島は征伐しないでおかないであろう」というあたりのユーモアは痛快です。

人魂の一つの場合
(昭和八年十一月、帝国大学新聞)

寅彦が信州の温泉宿の離れに泊まっていた、ある夏の夜の事、寅彦の家族が宿のベランダから人魂が動くのを見たと話します。例によって好奇心に駆られた寅彦が、その目撃証言に基づいて実地検証した結果、温泉の浴室の天井の電燈の明滅を人魂と錯覚したのではないかと推断します。

人魂が「動く」のを見たと言うのに、動かない浴室の天井の電燈では辻褄が合わない点に関しても、これは暗黒に馴らされた目に、あまり強くない光の帯が映ずる場合に生ずる主観的・生理的錯覚として説明できるとしています。

思い出草
(昭和九年一月、東炎)

俳句を題材とした短いエッセイ。まず松尾芭蕉の「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」、次に夏目漱石の「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿(つばき)かな」が取り上げられ、以下の思い出の文章が続きます。

 漱石先生の熊本時代のことである。ある日先生の宅で当時高等学校生徒であった自分と先生と二人だけで戯れに十分十句(じっぷんじっく)というものを試みたことがあった。ずいぶん奇抜な句が飛び出して愉快であったが、そのときの先生の句に「つまずくや富士を向こうに蕎麦(そば)の花」というのがあったことを思い出す。いかにも十分十句のスピードの余勢を示した句で当時も笑ったが今思い出してもおかしくおもしろい。しかしこんな句にもどこか先生の頭の働き方の特徴を示すようなものがあるのである。たぶんやはりその時の句に、「駝(たくだ)呼んでつくばい据えぬ梅の花」というのがあった。その「たくだ」がむつかしくてわからず、また田舎者の自分にはその「つくばい」がなんだかわからなくて聞いたのであった。また別なときに「筋違(すじかい)に葱(ねぎ)を切るなり都ぶり」という句を君はどう思うと聞かれたときも句の意味がわからなかった。説明を聞かされて事がらはわかったがどこがいいのか了解できなかったので、それは月並みじゃありませんかと悪口を言ったものであった。今考えてみるとやはりなかなか巧妙な句であると思う。

このあたり、何となく「吾輩は猫である」でのクシャミ先生と水島寒月との遣り取りを思い起こさせる、ほのぼのとしたエピソードです。

アルカント四重奏団によるドビュッシー、ラヴェル、デュティユーの弦楽四重奏曲


ドビュッシー 弦楽四重奏曲
ラヴェル 弦楽四重奏曲
デュティユー 弦楽四重奏のための「夜はかくの如し」
 アルカント四重奏団
 ハルモニア・ムンディ 2009年 HMC902067
HMC902067

ハルモニア・ムンディから今月リリースされた、アルカント四重奏団の演奏によるドビュッシー、ラヴェル、デュティユーの弦楽四重奏曲のCDを聴きました。2009年10月のテルデックスタジオでの録音です。

アルカント四重奏団は名手ジャン=ギアン・ケラスを中心的な奏者とし、ソリストとしても名うてのタベア・ツィンマーマンをヴィオラに、ドイツ・カンマー・フィルのコンマスであるダニエル・ゼペックとウィーンの名手アンティエ・ヴァイトハースとをヴァイオリンに迎えた名手ぞろいのカルテット団体です。

ハルモニア・ムンディへのデビュー盤であるバルトーク、続いてリリースされたブラームス、いずれも大変に見事な演奏でしたので、今回リリースされた第3弾のフランス作品のアルバムも、待ってましたとばかりに購入しました。

さっそく聴いてみると、最初のドビュッシーにおいては、全体的に各パートのフレージング面での尋常ならざる切れ味が圧巻で、さすがに4パート各々が一騎当千の猛者ぞろいという、アルカント四重奏団ならではの特性が良く発揮された演奏だなと感じますが、それらのフレージングがバランス良く溶け合い、みるみるドビュッシーの精妙な響きの音韻に結実していく様はまるで魔法でも見るような思いがしますし、ここぞという時に聴かれる強烈味を帯びたハーモニーから繰り出される迫真の表情形成も素晴らしく、そのハーモニーのシビアな痛撃感の導出するゾクゾクするような感覚は、この曲において私が最高の名盤と仰ぐカルミナ四重奏団の演奏にも比するかと思えるくらいでした。

続くデュティユーの「夜はかくの如し」は1970年代に作曲された弦楽四重奏のための作品で、絶対音楽を志向したドビュッシー、ラヴェルのカルテットとは一風ことなり、ここでは7つの楽章すべてに標題が付されていますが、ここでは特にボウイングの特殊奏法において個々の奏者の技術力の高さが如実に発揮された演奏となっていて、ひんやりとした夜のしじまに身を浸すような特異な音響展開に聴いていて独特の緊張感と心地良さを覚えます。

最後のラヴェルも類まれなる名演と感じられました。フレーズの切れ、テクニックの冴え、そしてアンサンブルとしての合奏力の練達ぶり、そういった要素が実に高い地点で表現された演奏であり、このラヴェルの作品に常識的に期待されるメロディ・ラインの美しさとか、エレガントな耳当たりの良さとか、そういったファクターの描出は概ね控え目で、よって必ずしもフランス作品らしい表現ではないのかも知れないですが、各奏者の辣腕ぶりと、それが一点に集結する地点で生み出される音楽の圧倒的なまでの訴求力が素晴らしく、聴いていて現代的な解釈におけるラヴェル演奏の極地というような醍醐味を堪能させられました。

以上、今回のアルカント四重奏団の新譜は期待通りの充実した内容のアルバムと思えましたし、今回も含めてバルトーク、ブラームス、フランスものと録音してきているあたり、いかにもコスモポリタンなカルテット団体としての個性が良く表れているような気がします。リリースの頻度は決して高くないようですが、着実に歩を進めているという感じがしますし、次回はイギリス作品のアルバムあたり、バンと出してきそうな予感がします。

「寺田寅彦随筆集」第4巻より「蒸発皿」から「神話と地球物理学」までの6編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「蒸発皿」「記録狂時代」「感覚と科学」「涼味数題」「錯覚数題」「神話と地球物理学」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-4

蒸発皿
(昭和八年六月、中央公論)

「亀井戸まで」「エレベーター」「げじげじとしらみ」「宇宙線」の4編からなるショート・エッセイ集。

「亀井戸まで」では、夜風が寒い晩に道を歩いていると、いかにも身すぼらしい風をした三十格好と思われる病身そうな男に出会った、という体験が話題とされます。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てたような格好でぐったりとして眠っている。男は寅彦に、興奮したような口調で、亀井戸への道を尋ねる。寅彦は男に、亀井戸の大まかな方角を教えて別れる・・・

 しばらく行き過ぎてから、あれは電車切符をやればよかったと気がついた。引っ返して追い駆けてやったら、とは思いながら自分の両足はやはり惰性的に歩行を続けて行った。しかし、また考えてみると、近ごろ新聞などでよく、電車切符を人からねだっては他の人に売りつける商売があるという記事を見ることがある。この男は別に切符をくれともなんとも言いはしなかったが、しかし、あの咄嗟の場合に、自分が、もう少し血のめぐりの早い人間であったら、何も考えないで即座に電車切符をやらないではおかないであったろうと思われるほどに実に気の毒な思いをそそる何物かがあの父子の身辺につきまとっていたではないか。

ここから寅彦は、以下のように随想を進めていきます。

 そうは言うものの、やはり初めの仮説に基づいてもう一ぺん考え直してみると、異常な興奮に駆られ家を飛び出した男が、夜風に吹かれて少し気が静まると同時に、自分の身すぼらしい風体に気がついておのずから人目を避けるような心持ちになり、また一方では内心の苦悩の圧迫に追われて自然に暗い静かな所を求めるような心持ちから、平生通ったこともないこの区域に入り込んだと仮定する。見慣れぬビルディング街の夜の催眠術にかかって、いつのまにか方角がわからなくなってしまう、ということは、きわめて有りそうなことである。それが、たださえ暗い胸の闇路を夢のようにたどっている人間だとすれば、これはむしろ当然すぎるほど当然なことである。それで急に道を失ったと気がついて、はっとした時に、ちょうど来かかった人にいきなり道を聞くのになんの不思議もないことである。
 しかし、こんなことを考えている元のおこりはと言えば、ただかの男が自分に亀井戸への道を聞いたというきわめて簡単なただそれだけの事実に過ぎない。たったそれだけの実証的与件では何事も実証的に推論できるはずはない。小説はできても実話はできないのである。
 こんなことを考えながら歩いているうちに、いつのまにか数寄屋橋に出た。明るい銀座の灯が暗い空想を消散させた。

そして最後は、以下のように重く締め括られています。

 それにしても、あれはやはり電車切符ぐらいをやったほうがよかったような気がする。もしだまされるならだまされても少しも惜しくはなかったであろう。そんな芝居をしてまでも、たった一枚の切符を詐取しなければならない人がかりにあるとすれば、それほどに不幸な哀れな人がそうざらにたくさんこの世にあるであろうとは思われない。これに反して、こんな些細な事実を元にしてこんな無用な空想をたくましゅうしていられるような果報な人間もいるのである。やはり切符をやればよかったのである。

「宇宙線」では、上空から常に降り注いでいる宇宙線が、実は人間の自由意思に干渉しているのではないか、という随想が披歴されます。

 宇宙線が脳を通過する間に脳を組成するいろいろな複雑な炭素化合物の分子あるいは原子の若干のものに擾乱を与えてそれを電離しあるいは破壊するのは当然の事であるが、その電離または破壊が脳の精神機能の中枢としての作用になんらかの影響を及ぼすことがあるかもしれないと想像することは、決して科学的に全く不合理のことではないように思われる。
 ・・・
 人間の自由意志と称するものは、有限少数な要素の決定的古典的な物理的機巧では説明される見込みのないものであるが、非常に多数な要素から成り立つ統計的偶然的体系によって説明される可能性はあるであろう。そういう説明が可能となった暁には、この宇宙線のごときもその自由意志の物理的機巧の一つの重要な役目をもつものとして幅をきかすようにならないとも限らない。

なお、ここでは「人間の自由意志と称するものは、有限少数な要素の決定的古典的な物理的機巧では説明される見込みのないものである」として、いわゆる「ラプラスの魔」を否定した上での話である点には注意すべきかと思います。

記録狂時代
(昭和八年六月、東京朝日新聞)

 何事でも「世界第一」という名前の好きなアメリカに、レコード熱の盛んなのは当然のことであるが、一九二九年はこのレコード熱がもっとも猖獗(しょうけつ)をきわめた年であって、その熱病が欧州にまでも蔓延した。この結果としてこの一年間にいろいろの珍しいレコードが多数にできあがった。それら記録の中で毛色の変わったのを若干拾いだした記事が机上の小冊子の中で見つかったから紹介する。

ここにいう「レコード」というのは音楽を聴くためのレコードではなく、「記録」のことを指しています。

七十九秒間に生玉子を四十個まるのみしてレコードを取った人の話に始まり、シガー一本をできるだけゆっくり時間をかけて吸うという競技で優勝の栄冠を獲た人の話、一枚のはがきに十四年も費やして一万七千百三十一語を書き込んでレコードを取った人の話、タイピストで一分に九十六語を打ってレコードを取った人の話、八十二時間ピアノをひき通してレコードを取った人の話、などなど。

そうして、以下のように「レコード至上主義」をチクリと揶揄しているのです。

 数字のレコードで優勝したとしても、その人が、その数字の代表する量の大小以外の点でもすぐれているという証拠には決してならない。これは明白なことであるが、しかし、往々忘れられ勝ちな事実である。帽子のサイズのレコード保有者は必ずしも足袋の文数のレコードをもっていると限らない。百メートル競走の勝利者は千メートルでびりにならないとも限らない。気球に乗って一万メートルの高さにのぼって目をまわしておりて来たというだけの人と、九千メートルまでのぼってそうして精細な観測を遂げて来た人とでは科学的の功績から採点すればどちらが優勝者であるか、これは問題にもならない。

感覚と科学
(昭和八年八月、科学)

近代の物理科学(たとえば量子物理学など)が、人間の五感による計測と無関係な領域に向かって突き進んでいることに対する懐疑を述べたエッセイ。

「器官の機構は、あらゆる科学の粋を集めたいかなる器械と比べても到底比較にならないほど精緻をきわめたものである。これほど精巧な器械を捨てて顧みないのは誠にもったいないような気がする」と述べ、いかに実験機器が発達したとしても、人間の五感の活用というものが物理学の発展の上で重要であるという考えが開陳されています。

涼味数題
(昭和八年八月、週刊朝日)

 われわれ日本人のいわゆる「涼しさ」はどうも日本の特産物ではないかという気がする。シナのような大陸にも「涼」の字はあるが日本の「すずしさ」と同じものかどうか疑わしい。ほんのわずかな経験ではあるが、シンガポールやコロンボでは涼しさらしいものには一度も出会わなかった。ダージリンは知らないがヒマラヤはただ寒いだけであろう。暑さのない所には涼しさはないから、ドイツやイギリスなどでも涼しさにはついぞお目にかからなかった。ナイアガラ見物の際に雨合羽(あまがっぱ)を着せられて滝壺(たきつぼ)におりたときは、暑い日であったがふるえ上がるほど「つめたかった」だけで涼しいとはいわれなかった。

ここでは何といっても「涼しさ」を日本の特産物と捉える発想が興味深いところです。

さらに「少なくも日本の俳句や歌に現われた涼しさはやはり日本の特産物で、そうして日本人だけの感じうる特殊な微妙な感覚ではないかという気がする」、「この日本的の涼しさを、最も端的に表現する文学はやはり俳句にしくものはない。詩形そのものからが涼しいのである」として、夏目漱石の俳句集から「涼しい」数句が例示されます。

 いろいろなイズムも夏は暑苦しい。少なくも夏だけは「自由」の涼しさがほしいものである。「風流」は心の風通しのよい自由さを意味する言葉で、また心の涼しさを現わす言葉である。南画などの涼味もまたこの自由から生まれるであろう。
 風鈴の音の涼しさも、一つには風鈴が風に従って鳴る自由さから来る。あれが器械仕掛けでメトロノームのようにきちょうめんに鳴るのではちっとも涼しくはないであろう。また、がむしゃらに打ちふるのでは号外屋の鈴か、ヒトラーの独裁政治のようなものになる。自由はわがままや自我の押し売りとはちがう。自然と人間の方則に服従しつつ自然と人間を支配してこそほんとうの自由が得られるであろう。
 暑さがなければ涼しさはない。窮屈な羈絆(きはん)の暑さのない所には自由の涼しさもあるはずはない。一日汗水たらして働いた後にのみ浴後の涼味の真諦(しんたい)が味わわれ、義理人情で苦しんだ人にのみ自由の涼風が訪れるのである。

ヒトラーの独裁政治がチクリと批判されています。もっとも後年、日本がナチス・ドイツと軍事同盟を結ぶことは、さしもの寅彦でも予期できなかったようです。

最後に「涼味の話がつい暑苦しくなった」と、気の利いたオチが付けられています。

錯覚数題
(昭和八年八月、中央公論)

目の錯覚をテーマとした5編のショート・エッセイ集。なかでも「錯覚利用術」が滅法おもしろい。

まず「目のたよりにならぬ話」として、以下のような他愛もない話から入ります。

 急に暑くなった日に電車に乗って行くうちに頭がぼうっとして、今どこを通っているかという自覚もなくぼんやり窓外をながめていると、とあるビルディングの高い壁面に、たぶん夜の照明のためと思われる大きな片かなのサインが「ジンジンホー」と読まれた。どういうわけか、その瞬間に、これは何か新しい清涼飲料の広告であろうという気がした。しかしその次の瞬間に電車は進んで、私は丸の内「時事新報」社の前を通っている私を発見したのであった。
 宅に近い盛り場にあるある店の看板は、人がよく「ボンラクサ」と読んでなんのことだろうと思うそうである。丸の内の「グンデルビ上海」の類である。東海道を居眠りして来た乗客が品川で目をさまして「ははあ、はがなしという駅が新設になったのかなあ」と言ったのも同様である。

後半で品川を「はがなしという駅」と書くことで、「ボンラクサ」が「サクランボ」を、「グンデルビ上海」が「海上ビルデング」を指していると分かる仕掛けになっています。

そして、こういう錯覚を、新聞報道が利用して読者をたぶらかしているのではないか、という話に及びます。

 たとえば、ある学者が一株の椿(つばき)の花の日々に落ちる数を記録して、その数の日々の変化異同の統計的型式を調べ、それが群起地震の日々あるいは月々の頻度の変化異同の統計的型式と抽象的形式的に類型的であるという論文を発表したとする。そのような、ほんのちょっとした論文の内容がどうかすると新聞ではたいした「世界的」な研究になったり、ラジオでまで放送されて、当の学者は陰で冷や汗を流すのである。この新聞記事を読んだ人は相当な人でも、あたかも「椿の花の落ち方を見て地震の予知ができる」と書いてあるかのような錯覚を起こす。そうして学者側の読者は「とんでもなく吹いたものだ」と言って笑うかおこるかである。ところでその記事をよくよく読んでみるとちっとも、そんなうそは書いてないのである。ともかくもその論文の要点はそんなにひどく歪曲されずに書いてある。それなのに、活字の大小の使い分けや、文章の巧妙なる陰影の魔力によって読者読後の感じは、どうにも、書いてある事実とはちがったものになるのである。実に驚くべき芸術である。こういうのがいわゆるジャーナリズムの真髄とでもいうのであろう。

「こういうのがいわゆるジャーナリズムの真髄」と言うあたり、すごい皮肉を効かせています。

 この術は決して新しいものではなくて、古い古い昔から、時には偉大なる王者や聖賢により、時にはさらにより多く奸臣(かんしん)の扇動者によって利用されて来たものである。前者の場合には世道人心を善導し、後者の場合には惨禍と擾乱(じょうらん)を巻き起こした例がはなはだ多いようである。いずれもとにかく人間の錯覚を利用するものである。
 もしも人間の「目」が少しも錯覚のないものであったら、ヒトラーもレーニンもただの人間であり、A一A事件もB一B事件も起こらず、三原山(みはらやま)もにぎわわず、婦人雑誌は特種を失い、学問の自由などという言葉も雲消霧散するのではないかという気がする。しかしそうなってははなはだ困る人ができてくるかもしれない。「錯覚」を食って生活している人がどのくらいあるかちょっと見当がつかないのである。

神話と地球物理学
(昭和八年八月、文学)

日本の神話伝説中の記述を、日本の国土特有の自然現象と結びつけて考えるという、寅彦らしい捻りの効いたエッセイ。

例えば天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が、引き明けた岩戸を取って投げたのが、虚空はるかに消し飛んで現在の戸隠山(とがくしやま)になったという話を、その実態は火山爆発ではないかと考察しています。

神話と地球物理という、明らかに異質な2つの事象を並べて、その異質性により常識的な価値観に揺さぶりを掛けるというのは寅彦のエッセイにおける常套手段のひとつですが、その持ち味が本エッセイでも良く発揮されています。

グルダが1953~54年に録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集
 グルダ(pf)
 オルフェオ 1953・54年 ORFEOR808109
ORFEOR808109

独オルフェオから先月リリースされた、ウィーンの名ピアニスト、フリードリヒ・グルダが1953~54年に録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を聴きました。なお他に、フィルアップとして1957年に録音されたエロイカ変奏曲、ディアベッリ変奏曲、バガテル作品126も収められています。

この初リリースとなるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、当時24歳のグルダが、ウィーンのラジオ放送局(RAVAG)のために行ったセッション録音とされています。これまでグルダのベートーヴェン・ソナタ全集としては、1954年から58年にかけてデッカに録音したものが全集としての「初録音」とされていたところ、今回このソナタ全集がリリースされたことにより、こちらのオルフェオの録音がグルダの正真正銘のベートーヴェン・ソナタ全集の初録音、デッカの録音がグルダ2回目のソナタ全集の録音、そして1967年に墺アマデオに録音したものが、グルダ3回目のベートーヴェン・ソナタ全集の録音ということになるようです。

そして、今回のソナタ全集のリリースにより、グルダはベートーヴェン・ソナタ全集の録音を計3セット残したということにもなります。ベートーヴェン・ソナタ全集の録音を計3セット残したピアニストは、他にはアルフレート・ブレンデルと園田高弘の名前が挙げられるところですが、3セットすべてを40歳未満という若い時期に録音したピアニストはグルダただ一人のはずです。

それでソナタ全集の全9枚のうち、まずは最初の一枚であるソナタ第1番~第3番と第8番「悲愴」を収録したCDを聴いたのですが、その印象として、何というか私のイメージするグルダのベートーヴェンとは、何だか随分と違うような感じがするように思えたのです。

そのあたりの興味から、続いてピアノ・ソナタ第32番の演奏を聴いてみました。これはベートーヴェン全ソナタの中でもグルダの最愛の曲とされているもので、事実グルダがピアニストとしてデビューした1946年のウィーンでのリサイタルにも、あるいは1950年のカーネギーホールへのデビュー・リサイタルにも、このピアノ・ソナタ第32番が演目として選ばれており、最晩年の1994年までレパートリーとされ続けた曲ですが、その演奏を、グルダの代表的録音たる以下のアマデオ盤と聴き比べてみました。

415193-2
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集
 グルダ(pf)
 アマデオ 1967年 415193-2

その第32番ソナタの演奏ですが、今回リリースのオルフェオ盤の演奏はアマデオ盤の演奏に比べて、演奏時間こそ概ね同一ながらフレージングが全体的に荒削りであり、アマデオ盤ほどには一音一音の粒が立っているという感じはしませんが、そのぶんパワフルな迫力と切れ味の鋭い打音の個性が際立っているため、聴いていて息の詰まるような音楽のドラマが披歴されているという趣きが強く、第1楽章の終盤(6:38)あたりの猛烈な指回りなど、まさに全身全霊的なインパクトがありますし、第2楽章にしても、例えば(6:50)あたりの燃え上がるような感興の高まりなど、随所にアマデオ盤を上回るかのような、音楽としての訴えかけの強さが感じられるのです。

さらに、以下の演奏とも聴き比べてみました。

PHCP-9250
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番
 グルダ(pf)
 フィリップス 1984年 PHCP-9250

こちらはグルダが晩年にザルツブルグでセッション録音したもので、オルフェオ盤とアマデオ盤では約15分の第2楽章に19分が掛けられている点からも伺えるように、ここでは悠々として落ち着きのあるテンポにより作品を丁寧に描き抜いた演奏を聴かせており、聴いていて作品に隅々まで馴染んだような響きが、聴き手に和やかな充実感をもたらしてくれる演奏です。

こうして約15年の間隔で録音された、グルダの3つのベートーヴェン第32番ソナタを聴き比べてみると、同じピアニストとは思えないような表現の違いが克明に刻まれていることは明確なのですが、それらの表現の底に流れる演奏のヴィジョンにおいては、何か互いに相通ずるような確としたアイデンティティが感じられるようにも思うのです。それはおそらくグルダの人格的なものからくるピアニズムの真摯さと、ベートーヴェンに対する汲めども尽きぬ情熱のようなもの、と言うべきでしょうか。

いずれにしても、今回オルフェオからリリースされたソナタ全集は、まだ32曲のうち5曲しか聴いていないので、残り27曲は少し時間をかけて、ゆっくりと噛みしめながら聴いていきたいと思っています。

「寺田寅彦随筆集」第4巻より「銀座アルプス」「コーヒー哲学序説」「空想日録」「映画雑感2」ほか


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「銀座アルプス」「コーヒー哲学序説」「空想日録」「映画雑感Ⅱ」「映画『マルガ』に現われた動物の闘争」「物質群として見た動物群」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-4

銀座アルプス
(昭和八年二月、中央公論)

これは寺田寅彦のエッセイの中でも有名な作品のひとつです。

自分の幼時の記憶の断片の中に、明治18年ごろの東京の銀座の、ある冬の夜の一角が映し出される、として、自身の幼少のころの銀座の冬の夜にまつわる思い出が、いくぶん感傷的な色彩を帯びて生々しく綴られます。

そして明治28年になって銀座尾張町に下宿した際の思い出が語られます。ここは当時の銀座の風物詩が鮮やかに活写されており、読んでいて思わず惹き付けられます。

さらに明治32年、東京帝大の学生として上京した際、銀座に数日のあいだ下宿し、それが現在に至るまでの、自身の長い東京生活の起点となったと述懐します。

 震災以後の銀座には昔の「煉瓦(れんが)」の面影はほとんどなくなってしまった。第二の故郷の一つであったIの家はとうの昔に一家離散してしまったが家だけは震災前までだいたい昔の姿で残っていたのに今ではそれすら影もなくなってしまい、昔帳場格子(ちょうばごうし)からながめた向かいの下駄屋さんもどうなったか、今三越(みつこし)のすぐ隣にあるのがそれかどうか自分にはわからない。十二か月の汁粉屋(しるこや)も裏通りへ引っ込んだようであったがその後の消息を知らない。足もとの土でさえ、舗装の人造石やアスファルトの下に埋もれてしまっているのに、何をなつかしむともなく、尾張町のあたりをさまよっては、昔の夢のありかを捜すような思いがするのである。
・・・
 今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の町が恋しくなるであろう。いったいに心のさびしい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似ている。自分の知った範囲内でも、人からは仙人のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。考えてみるとこのほうがあたりまえのような気がする。日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰(じんかん)を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。

以上のように、自身のギンブラ趣味が人恋しさのあまりのものかもしれない、という思いが述べられます。

それに続いて、銀座の街に最近できた高層デパートを「アルプス」に喩えています。

 アルプスと言えば銀座にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働である。そうして夏の暑い日にその屋上へあがれば地上百尺、温度の一度や二度ぐらいは低い。上には青空か白雲、時には飛行機が通る。駿河の富士や房総の山も見える日があろう。ついでに屋上さらに三四百尺の鉄塔を建てて頂上に展望台を作るといいと思う。その側面を広告塔にすれば気球広告よりも有効で、その料金で建設費はまもなく消却されるであろう。
・・・
 デパートアルプスには、階段を登るごとに美しい物と人との「お花畑」がある。勝手に取って持って来ることは許されないが、見るだけでも目の保養にはなる。千円の晴れ着を横目ににらんで二十銭のくけひもを買えば、それでその高価な帯を買ったような不思議な幻覚を生ずる事も可能である。陳列されてある商品全部が自分のもので、宅へ置ききれないからここへ倉敷料なしのただで預けてあると思えば、金持ち気分になりすますことも容易である。入用なときはいつでも「預かり証」と引き換えに持って帰ることができるのである。ただ問題は、肝心の時にその「預かり証」がなくなっていることである。
・・・
 デパートアルプスの頂上から見おろした銀座界隅の光景は、飛行機から見たニューヨーク、マンハッタンへんのようにはなはだしい凹凸がある。ただ違うのはこっちのいちばん高い家の高さがかの地のいちばん低い家の高さに相当する点であろう。このちぐはぐな凹凸は「近代的感覚」があってパリの大通りのような単調な眠さがない。うっかりすると目を突きそうである。また雑草の林立した廃園を思わせる。蟻のような人間、昆虫のような自動車が生命の営みにせわしそうである。

このあたり、寅彦らしいユーモアを交えた軽快な筆致で、銀座のデパートをアルプスに喩えた、独特の随想が綴られていきますが、最後の最後に、ものすごい事が書かれています。

 人は老ゆるが自然はよみがえる。一度影を隠した銀座の柳は、去年の夏ごろからまた街頭にたおやかな緑の糸をたれたが、昔の夢の鉄道馬車の代わりにことしは地下鉄道が開通して、銀座はますます立体的に生長することであろう。百歳まで生きなくとも銀座アルプスの頂上に飛行機の着発所のできるのは、そう遠いことでもないかもしれない。しかしもし自然の歴史が繰り返すとすれば二十世紀の終わりか二十一世紀の初めごろまでにはもう一度関東大地震が襲来するはずである。その時に銀座の運命はどうなるか。その時の用心は今から心がけなければ間に合わない。困った事にはそのころの東京市民はもう大地震の事などはきれいに忘れてしまっていて、大地震が来た時の災害を助長するようなあらゆる危険な施設を累積していることであろう。それを監督して非常に備えるのが地震国日本の為政者の重大な義務の一つでなければならない。それにもかかわらず今日の政治をあずかっている人たちで地震の事などを国の安危と結びつけて問題にする人はないようである。それで市民自身で今から充分の覚悟をきめなければせっかく築き上げた銀座アルプスもいつかは再び焦土と鉄筋の骸骨の砂漠になるかもしれない。 それを予防する人柱の代わりに、今のうちに京橋と新橋との橋のたもとに一つずつ碑石を建てて、その表面に掘り埋めた銅版に「ちょっと待て、大地震の用意はいいか」という意味のエピグラムを刻しておくといいかと思うが、その前を通る人が皆円タクに乗っているのではこれもやはりなんの役にも立ちそうもない。むしろ銀座アルプス連峰の頂上ごとにそういう碑銘を最も目につきやすいような形で備えたほうが有効であるかもしれない。人間と動物とのちがいはあすの事を考えるか考えないかというだけである。こういう世話をやくのもやはり大正十二年の震火災を体験して来た現在の市民の義務ではないかと思うのである。

このくだり、21世紀の我々には本当にゾッとする話として読まれます。まさに未来に向けて昭和初期に書かれた、ずしりと重い警鐘というべきものではないでしょうか。

コーヒー哲学序説
(昭和八年二月、経済往来)

現在、自分がコーヒーを愛好しているのは、幼少のころ初めて口にしたコーヒーの味が忘れられないからだということを軽く述べて、海外留学時代にコーヒーを愛飲したエピソードなどが語られます。

 西洋から帰ってからは、日曜に銀座の風月へよくコーヒーを飲みに出かけた。当時ほかにコーヒーらしいコーヒーを飲ませてくれる家を知らなかったのである。店によるとコーヒーだか紅茶だかよほどよく考えてみないとわからない味のものを飲まされ、また時には汁粉(しるこ)の味のするものを飲まされる事もあった。風月ではドイツ人のピアニストS氏とセリストW氏との不可分な一対がよく同じ時刻に来合わせていた。二人もやはりここの一杯のコーヒーの中にベルリンないしライプチヒの夢を味わっているらしく思われた。そのころの給仕人は和服に角帯姿であったが、震災後向かい側に引っ越してからそれがタキシードか何かに変わると同時にどういうものか自分にはここの敷居が高くなってしまった、一方ではまたSとかFとかKとかいうわれわれ向きの喫茶店ができたので自然にそっちへ足が向いた。
 自分はコーヒーに限らずあらゆる食味に対してもいわゆる「通」というものには一つも持ち合わせがない。しかしこれらの店のおのおののコーヒーの味に皆区別があることだけは自然にわかる。クリームの香味にも店によって著しい相違があって、これがなかなかたいせつな味覚的要素であることもいくらかはわかるようである。コーヒーの出し方はたしかに一つの芸術である。
・・・
 しかし自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。宅の台所で骨を折ってせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味わうのではどうも何か物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。やはり人造でもマーブルか、乳色ガラスのテーブルの上に銀器が光っていて、一輪のカーネーションでもにおっていて、そうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のようにきらめき、夏なら電扇が頭上にうなり、冬ならストーヴがほのかにほてっていなければ正常のコーヒーの味は出ないものらしい。コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光のアルペジオは確かにそういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであろう。

確かに自宅でCDを聴くのと、コンサートホールで生の演奏を聴くのとでは、基本的に雲泥の差ですが、そのことに相通ずるものがあるようにも思われます。

さらに、自分のコーヒー好きに対して、「コーヒー中毒の症状ではないかと思ってみたことがある」と書いています。「しかし中毒であれば、飲まない時の精神機能が著しく減退して、飲んだ時だけようやく正常に復するのであろうが、現在の場合はそれほどのことでないらしい」から、まあコーヒー中毒ではないだろうと述べています。

このあと、話は意外な方向に発展し、タイトルどおり哲学序説的な様相を呈し始めるのです。

 芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないかと言われればそのとおりである。しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。
 宗教は往々人を酩酊させ官能と理性を麻痺させる点で酒に似ている。そうして、コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ているとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである。前者は信仰的主観的であるが、後者は懐疑的客観的だからかもしれない。
 芸術という料理の美味も時に人を酔わす、その酔わせる成分には前記の酒もあり、ニコチン、アトロピン、コカイン、モルフィンいろいろのものがあるようである。この成分によって芸術の分類ができるかもしれない。コカイン芸術やモルフィン文学があまりに多きを悲しむ次第である。

そして最後の一文は「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった。これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」とユーモアたっぷりに結んでいて、それこそ良質のコーヒーを飲んだ後のような気分に読み手を誘っています。

空想日録
(昭和八年三月、改造)

「白熊の死」「製陶実演」「身長と寿命」「空中殺人法」の4編からなるショート・エッセイ集。どれも面白いですが、なかでも「身長と寿命」が素晴らしい。同じ「1秒」でも人間にとっての1秒と象にとっての1秒とは、実は違うのではないか、という話です。

 今かりにここに侏儒(しゅじゅ)の国があって、その国の人間の身体の週期がわれわれの週期の十分の一であったとする。するとこれらの侏儒のダンスはわれわれの目には実に目まぐるしいほどテンポが早くて、どんなステップを踏んでいるか判断ができないくらいであろう。しかしそれだけの速い運動を支配し調節するためにはそれ相当に速く働く神経をもっていなければならない。その速い神経で感ずる時間感はわれわれの感じるとはかなりちがったものであろう。それで、事によるとこれらの一寸法師はわれわれの一秒をあたかもわれらの十秒ほどに感ずるかもしれず、そうだとすれば彼らはわれわれのいわゆる十年生きても実際百年生きたと同じように感じるかもしれない。

つまり生物によって、「時間感」が違うのではないかという仮説を立てているのです。おそらくアインシュタインの特殊相対性理論が寅彦の頭にあったのではないかと想像されます。

 さて、人間がいろいろの器械を作って、それを身体の代用物とする傾向がだんだんに増して来る。そうしてそれらの器械のリズムがだんだん早くなって来ると、われわれの「秒」は次第に短くなって行くかもしれない。それで、もしも現在の秒で測った人間の寿命が不変でいてくれればわれわれは次第に長生きになる傾向をもっているわけである。しかし人間の寿命がモーターの回転数で計られるようになることが幸か不幸かはそれはまた別問題であろう。

ちなみに「空中殺人法」は、一流の科学者になるための心構えのような話。タイトルからは想像もつかないですが、それだけに意表を衝いていて面白い内容です。

映画雑感Ⅱ
(昭和八年三月、帝国大学新聞)

「制服の処女」「ひとで」「パリ―ベルリン」「パリ祭」「人生謳歌」、以上5本の映画を観ての所感が綴られています。

「ひとで」に対しては、「この「ひとで」はあまりに細工が過ぎているように思われる。もう少し自然な真実なものの適当な理解ある編集によって、もっともっと美しい詩が構成されてもいいはずである。真実でないものをいくらどう並べてみたところで美しくなりようがないと思うのである」と、かなり手厳しい評です。

「パリ祭」は以下の通り称賛しています。
 この映画も言わばナンセンス映画で、ストーリーとしては実にたわいないものである。しかし、アメリカ人のナンセンスとは全く別の種類に属するナンセンス芸術である。「猿蓑(さるみの)」や「炭俵」がナンセンスであり、セザンヌやルノアルの絵がナンセンスであり、ドビュシーやラベールの音楽がナンセンスであると同じような意味において立派なナンセンス芸術であるように思われる。

「人生謳歌」は、、、
 動物のように戯れ、動物のように子供を生むだけの事ならば人生は謳歌すべきものとは自分には思われない。作者はロシア人でも映画は純粋なドイツ映画である。ロシア映画にはもう少しのんびりした愉快な所もあるはずである。一応わかった事をどこまでも執拗にだめを押して行くのがドイツ魂であって、そのおかげで精密科学が発達するのであろう。 
 この種類の映画がこの方向に進歩したらおしまいにはドイツの古典音楽のようなものができるという可能性があるかもしれない。そういう意味ではこの映画は大いに研究に値するものかもしれない。しかしこういう行き方では決してドビュシーの音楽のようなものはできないであろう。それはやはりフランス人に待つほかはない。

・・・かなり手厳しい評です。

映画「マルガ」に現われた動物の闘争
(昭和八年三月)

「映画「マルガ」の中でいちばんおもしろいと思ったのは猛獣大蛇などの闘争の場面である」という書き出しで始まり、「闘争者のほうではほんとうに真剣な生命をかけた闘争をして見せるのであるから、おもしろくないわけには行かない」とし、その理由を「動物のほうでは芝居気などは少しもない正真正銘の命がけの果たし合いだからである」と述べています。

 ジャングルの住民は虎でも蛇でもなんでもみんな生きるために生まれて来ているはずである。ところが、それが生きるために互いにけんかをして互いに殺し合う。勝ったほうは生きるが負かされた相手は殺される。そうして、その時には勝ったほう殺したほうも、いつまた他のもっともっと強い相手に殺されるかもわからない。してみると、彼らは殺されるために生まれて来たのだとも言われる。ここにジャングルの生命の深いなぞがあり、これと連関して人生のなぞがあり、社会のなぞがある。このジャングルのなぞが解かれる日までは、われわれはそう軽々しくいろいろなイズムを信用して採用するわけにはゆかないであろうという気がするのである。

物質群として見た動物群
(昭和八年四月、理学界)

 せんだって、駿河湾北端に近い漁場における鰺(あじ)の漁獲高と伊豆付近の地震の頻度との間にある関係があるらしいということについて簡単な調査の結果を発表したことがあった。このように純粋に物質的な現象、すなわち地震のような現象と、生物的、かつ人為的要素の錯雑した漁獲といったようなものとの間の相関を取り扱うことが科学的に許容されるかどうかという問題については、往々物理学者の側でもまた生理学者の側でも疑問をさしはさむ人が存するようである。近ごろまた自分の知人の物理学者が魚群の運動に関する研究に物理学的の解析方法を応用しておもしろい研究をしているのであるが、これに対しても、生理学者の側では「生物の事が物理学でわかるはずがない」という簡単な理由から、その研究の結果に正当な注意の目を向けることなしに看過する傾向があるかと思われる。

以上のような問題提起を冒頭でしたうえで、その非凡な考察力を働かせ、「動物群を物質群として見ることにより、生物の問題も物理学において探求可能である」という自説が開陳されています。

「寺田寅彦随筆集」第4巻より「鐘に釁(ちぬ)る」から「藤の実」までの7編


寺田寅彦のエッセイですが、今回から「寺田寅彦随筆集」第4巻に収録の作品を順次、取り上げていきます。

Torahiko-Essay-Collection-2

この巻の収録作品のタイトルは以下の通りです。

鐘に釁(ちぬ)る
北氷洋の氷の割れる音
鎖骨
火事教育
ニュース映画と新聞記事
自然界の縞模様
藤の実
銀座アルプス
コーヒー哲学序説
空想日録
映画雑感Ⅱ
映画「マルガ」に現われた動物の闘争
物質群として見た動物群
蒸発皿
記録狂時代
感覚と科学
涼味数題
錯覚数題
神話と地球物理学
試験管
科学と文学
科学者とあたま
沓掛より
さるかに合戦と桃太郎
人魂の一つの場合
思い出草
踊る線条
ジャーナリズム雑感
函館の大火について
庭の追憶
藤棚の陰から
とんびと油揚

以上32編。

今回は「鐘に釁(ちぬ)る」から「藤の実」までの7編を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

鐘に釁(ちぬ)る
(昭和八年一月、応用物理)

むかし中国で、鐘を鋳た後、鐘の割れ目に牛羊の鮮血を塗ったことが伝えられていることにつき、その物理学的な意味について想像を巡らせるという一編。

これは宗教的な意義だけでなく、金属と油脂類との間の吸着力を利用して、割れ目のために生じた鐘の欠点を補正し、鐘の振動を完全にする意図があったのではないかと指摘します。短いエッセイながら、寅彦の鋭い洞察力が凝縮されている一編です。

北氷洋の氷の割れる音
(昭和八年一月、鉄塔)

 一九三二年の夏の間に、シベリアの北の氷海を一艘のあまり大きくない汽船が一隊の科学者の探険隊を載せて、時々行く手をふさぐ氷盤を押し割りながら東へ東へと航海していた。しかしその氷の割れる音は科学を尊重するはずの日本へ少しも聞こえなかった。満州問題、五・一五事件、バラバラ・ミステリーなどの騒然たる雑音はわれわれの耳を聾していたのである。ところが十一月になってスクリューを失った一艘の薄ぎたない船が漁船に引かれて横浜へ入港した。船の名はシビリアコフ号、これがソビエト政府の北氷洋学術研究所所属の科学者数名を載せて北氷洋をひと夏に乗り切ったものであるということが新聞で報ぜられた。それでもわれわれはまだかの有名なバラバラ事件の解決以上の興味を刺激されることもなくて実にのんきにぼんやりしていたのである。
 O氏の主催で工業クラブに開かれた茶の会で探険隊員に紹介されてはじめて自分のぼんやりした頭の頂上へソビエト国の科学的活動に関する第一印象の釘を打ち込まれたわけである。

以上のような書き出しで始まり、1932年11月にソビエト政府の北氷洋学術研究所所属の調査船シビリアコフ号が横浜に入港した際に、その調査船の隊員を通して、ソビエトの現在の科学技術力の実態を伝え聴くに及び、近い将来ソビエトが日本にとって脅威になるであろうことを予見しています。

 ソビエト政府はこれらの学術的探険のために五百五十万ルーブリを投じたそうである。東洋の学術国日本の政府が学術のために現にどれだけの金を出しているかが知りたいものである。
 新聞で見るとソビエトの五か年計画の一つとしてハバロフスクに百三十キロの大放送局を建設し、イルクーツク以東に二十キロ以上の放送局を五十か所作るということである。これが実現した暁には北西の空からあらゆる波長の電磁波の怒濤が澎湃(ほうはい)としてわが国土に襲来するであろう。
 思想などというものは物質的には夢のようなものである。・・・しかし科学的物質的の侵略の波は決して夢のようなものではない。これにはやはり科学的物質的の対策を要する。将来の外交はもはやジュネヴで演説をしたり、たんかを切ってうれしがるだけではすまなくなるであろう。北氷洋に中央アジアに、また太平洋に成層圏に科学的触手を延ばして一方では世界人類の福利のために貢献すると同時に、他方ではまた他の科学国と対等の力をもって科学的な競技場上に相(あい)角逐(かくちく)しなければおそらく一国の存在を確保することは不可能になるであろうと思われる。まさにこの意味においても日本が今「非常時」に際会していることを政府も国民も考えてもらいたいものである
 北氷洋の氷の割れる音は近づく運命の秋を警告する桐(きり)の一葉の軒を打つ音のようにも思われるのである。

これは、ソビエトが日本に参戦する13年前に書かれたエッセイです。ここでも寅彦の慧眼に驚かされます。

鎖骨
(昭和八年一月、工業大学蔵前新聞)

子供が階段から落ち、鎖骨を折るという大怪我をしたというエピソードに基づくエッセイ。

 鎖骨というものはこういう場合に折れるためにできているのだそうである。これが、いわば安全弁のような役目をして気持ちよく折れてくれるので、その身代わりのおかげで肋骨その他のもっとだいじなものが救われるという話である。
 地震の時にこわれないためにいわゆる耐震家屋というものが学者の研究の結果として設計されている。筋かい方杖(ほうづえ)等いろいろの施工によって家を堅固な上にも堅固にする。こうして家が丈夫になると大地震でこわれる代わりに家全体が土台の上で横すべりをする。それをさせないとやはり柱が折れたりする恐れがあるらしい。それで自分の素人考えでは、いっその事、どこか「家屋の鎖骨」を設計施工しておいて、大地震がくれば必ずそこが折れるようにしておく。しかしそのかわり他のだいじな致命的な部分はそのおかげで助かるというようにすることはできないものかと思う。こういう考えは以前からもっていた。時々その道の学者たちに話してみたこともあるが、だれもいっこう相手になってくれない。

このエッセイも、なにげなく書かれているようでいて、読んでいてハッとさせられます。特に耐震設計の構想など、普通の人間には、ここまでの大胆な思考は働かないですし。

火事教育
(昭和八年一月)

 昭和7年12月16日に発生した東京白木屋本店火災(店員14人が焼死、日本初の高層建築の火災例とされる)の大惨事に関するエッセイ。火災に関する心得があれば、これほどの惨事は防げたはずとし、ソビエトにおける火事教育の事例を引き合いに出しつつ、日本における火事教育導入の必要性を痛切に訴えています。

ニュース映画と新聞記事
(昭和八年一月、映画評論)

ニュース映画が将来、新聞記事に取って代わるまでに成長するのではないか、という予想が語られています。ニュース映画に期待するというより、どうも新聞記事の弊害を痛烈に批判するのが狙いのようで、常に紋切型の修辞に終始する新聞記事の面白味の欠如を痛切に批判しているのです。

 新聞記事というものは、読者たる人間の頭脳の活動を次第次第に萎縮させその官能の効果を麻痺させるという効能をもつものであるとも言われる。これはあるいは誇大の過言であるとしても、われわれは新聞の概念的社会記事から人間界自然界における新しき何物かを発見しうる見込みはほとんど皆無と言ってよい。しかるに一見なんでもないような市井の些事を写したニュース映画を見ているときに、われわれおとなはもちろん、子供ですら、時々実に驚くような「発見」をする。それはそのはずである。映画はある意味で具象そのものであって、その中には発見されうべき真なるものの無限の宝庫が隠れているからである。こういう点では新聞の社会記事というものは言わば宝の山の地図、しかも間違いだらけの粗末な地図以上の価値はないと言ってもよい。・・・
 ずっと前に、週刊ロンドン・タイムスで、かの地の裁判所における刑事裁判の忠実な筆記が連載されているのを、時々読んでみたことがある。それはいかなる小説よりもおもしろく、いかなる修身書よりも身にしみ、またいかなる実用心理学教科書よりも人間の心理の機微をうがったものであった。今、もしも、こういう場面の発声ニュース映画の撮影映画が許容されるとしたら、どうであろう。多少の弊害もあるかもしれないが、観客に人間の本性に関する「真」の一面の把握を教えるものとしてはおそらく絶好な題目の一つとなるであろう。こういう種類のテーマでまだ従来取り扱われなかったものを捜せばいくらでも見つかりそうな気がする。近ごろ見たニュースの中で実におもしろかったのはオリンピック優勝選手のカメラマイクロフォンの前に立ったときのいろいろな表情であった。言葉で現わされない人間の真相が躍然としてスクリーンの上に動いて観客の肺腑に焼き付くのであった。・・・
 広い意味でのニュース映画によって、人間は全く新しい認識の器官を獲たと言ってもはなはだしい過言ではない。そういう新しい人間としてはわれわれはまだほんの孩児(がいじ)のようなものである。したがって期待されるものはニュース映画の将来である。演劇的映画などは一日一日に古くなっても、ニュース映画は日に日に新たに、永久に若き生命を保つであろうと思われる。そういう将来における新聞はもはや社会欄なるものの大部分を喪失しているか、さもなければ、ほんとうの意味での「記事」となって、真に正確で啓発的な記述に変わってしまっているであろう。

まだテレビというものさえ無かった時代に書かれたエッセイですが、ここでの寅彦の見識は現在においてはテレビ報道のニュース映像において受け継がれています。

自然界の縞模様
(昭和八年二月、科学)

自然界に天然に生ずる様々な縞模様に関する科学的考察を綴ったエッセイ。ガラスや氷を割った時の割れ目のパターン、金平糖の凹凸の出来具合などが例に採られ、これまで、あまり物理学の研究の俎上に登っていなかった事柄に目を向けるように若手研究者に提言する形になっています。自然界のパターンの形成原理という観点では、後年に確立されるフラクタル理論などの先駆けを成す発想とも言えるかも知れません。

藤の実
(昭和八年二月、鉄塔)

ある日の夕方、自宅の庭の藤棚の藤豆が跳ねて、その実の一つが居間の机に座っていた寅彦へ飛んで来た、というエピソードを踏まえての短いエッセイ。その日に限って、申し合わせたように庭の藤の実が一斉に弾け飛んだ偶然に対して、なにか人智を超えた力が作用しているのではないかという風に想像を巡らせています。

パリー/フィルハーモニア管によるドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」全曲


ドニゼッティ 歌劇「愛の妙薬」全曲
 パリー/フィルハーモニア管弦楽団
 シャンドス 1999年 CHAN3027
CHAN3027

デイヴィッド・パリー指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏によるドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」全曲盤を聴きました。これは以前にHMVオンラインサイトのセールで購入したCDの一つです。キャストはネモリーノがバリー・バンクス、アディーナがメアリー・プラザス、ベルコーレがアシュレイ・ホランド。

この録音はシャンドスの「オペラ・イン・イングリッシュ」シリーズのもので、原語ではなく英語歌唱で収録されています。このシリーズを耳にするのは、昨年購入した「シャンドス30周年ボックス」の中に含まれていた、R・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」の英語歌唱盤(パリー/ロンドン・フィル)を聴いて以来になります。

「愛の妙薬」は今年の春に、新国立劇場で観たばかりですし、その印象が濃いうちにと思って聴いてみたのですが、その印象はと言うと、英語歌唱という点が独特であるという以上に、聴いていて相当に違和感を覚えるのです。

前に「ばらの騎士」の英語歌唱盤を聴いたときも、それなりに違和感を感じたものですが、この「愛の妙薬」の録音のように、イタリア語が英語に置き換わると、ドイツ語が英語に置き換わる以上に、根本的な何かが置き変わってしまう、、、、そんな気がします。

このあたり、ちょっと上手く言えませんが、少し乱暴に言ってしまうと、イタリア語のリズムだと何となく感情が赤裸々な感じがするのが、それが英語だと、どうもツンツンした感じに聴こえて、結果的にイタリアオペラらしさ、みたいなものが消失してしまうような印象なのです。パリー/フィルハーモニア管のアンサンブル展開の無色清潔なムードも、そういう雰囲気を助長している気がします。

そういうわけで、やっぱりイタリアオペラにはイタリア語というのが、コーヒーのカフェインみたいに、本質的に外せないような気がしたというのが正直な印象です。ただ、そう思うのも先入観の問題なのかも知れませんし、英語ならではの美しいニュアンスというのものも感じられなくもないので、いずれにしても、もう少し聴いてみようかと思います。

「寺田寅彦随筆集」第3巻より「夏目漱石先生の追憶」「田丸先生の追憶」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「夏目漱石先生の追憶」「田丸先生の追憶」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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夏目漱石先生の追憶
(昭和七年十二月、俳句講座)

寺田寅彦の文学における師である夏目漱石の追憶のために書かれた作品。寅彦の全エッセイの中でも最も有名なもので、特に漱石の作品の裏話的な話題が豊富に記載されていることから、漱石文学に関する貴重な資料として研究者からも重要視されているエッセイです。

まず熊本の高等学校時代、英語教師として赴任していた漱石との出会いから話が始まります。そこでは当時の漱石の高校での授業の様子が以下のように書かれています。

 教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった。当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。
 科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロを講じていた。・・

ちなみに文中の「オセロ」というのはシェイクスピアの有名な作品のことです。それにしても、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」という漱石の言葉は何とも愉快で、この21世紀の現在の日本においても、おそらく漱石の「こころ」などの作品は、高校の期末試験なり大学の入学試験なり、とにかく国語の試験問題として、よく取り上げられるところですし、私なども高校時代に例えば「『こころ』の以下の部分で作者は何を言おうとしたのか、次の中から選べ」みたいな問題、何度となく目にしたものですが、漱石に言わせれば、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」ということになるのではないでしょうか(笑)。

そのあと、上京したおりに漱石の紹介で正岡子規に面会したこと、漱石がイギリスに洋行する際に横浜へ見送りに行ったこと、漱石がイギリスから帰国して東京・千駄木へ居を定めてからは、三日にあげず遊びに行ったこと、そして「吾輩は猫である」で漱石が一足飛びに有名になってしまったこと、などが順々に語られていきます。

そして、その「猫」に出てくる水島寒月が語る有名な講釈「首つりの力学」が、寅彦が漱石に話したレヴェレンド・ハウトンという学者の論文を元に書かれたことが明かされています。「高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養をもっていたのである。文学者には異例であろうと思う。」とも書かれています。

また、「Tは国のみやげに鰹節(かつおぶし)をたった一本持って来たと言って笑われたこともある」というエピソードも、漱石の「猫」にそのまんま出てくる話です。

 「虞美人草」を書いていたころに、自分の研究をしている実験室を見せろと言われるので、一日学校へ案内して地下室の実験装置を見せて詳しい説明をした。そのころはちょうど弾丸の飛行している前後の気波をシュリーレン写真にとることをやっていた。「これを小説の中へ書くがいいか」と言われるので、それは少し困りますと言ったら、それなら何か他の実験の話をしろというので、偶然そのころ読んでいたニコルスという学者の「光圧の測定」に関する実験の話をした。それをたった一ぺん聞いただけで、すっかり要領をのみ込んで書いたのが「野々宮さん」の実験室の光景である。聞いただけで見たことのない実験がかなりリアルに描かれているのである。これも日本の文学者には珍しいと思う。

この「光圧の測定」は漱石の「三四郎」に出てくる有名なエピソードで、小説中、野々宮が所属する東大の理学研究室を訪問した三四郎が、そこで野々宮の研究テーマである、光の圧力の測定を目の当たりにして驚かされ、そのあと研究室を出て、池(今でいう三四郎池)の周りをブラブラしていると、そこでヒロインの美禰子に出会うことになるわけです。

ところで先月のことですが、「宇宙ヨット『イカロス』 太陽光の圧力で加速」というニュースが報道されました。これは宇宙航空研究開発機構(JAXA)が今年7月9日、金星方面に向けて航行中の宇宙ヨット「イカロス」が、太陽光の圧力によって加速したことを確認したと発表したのです。約14メートル四方の帆(樹脂膜)で光の粒(光子)を受け止め、地球上で0.114グラムの物体がぶら下がったのと同程度の推力が得られたことから、JAXAは「これにより、惑星間航行で光子による史上最大の加速度を発揮した実証機になった」としています。

漱石の「三四郎」は1908年に朝日新聞紙上で連載された小説ですが、その中で取り上げられている、当時の最先端研究テーマが、ほぼ100年後の2010年に、宇宙で実証されているというのは、考えてみると凄い話ですね。

 臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
 先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。
 しかし自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば、自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった。いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである。先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がするのである。

ここは何度読んでも胸を打たれます。「むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかった」というあたり、寅彦の赤心が直截に滲み出た、まさに迫真の叙述というべきものではないでしょうか。

田丸先生の追憶
(昭和七年十二月、理学部会誌)

寅彦の地球物理学の師である田丸卓郎の追憶のために書かれた作品。上記「夏目漱石先生の追憶」と同時期に書かれ、その意味で対を為す作品です。

ここでは寅彦の熊本での高校時代における田丸卓郎との邂逅が、以下のように綴られています。

・・いろいろ雑談をしているうちに、どういうきっかけであったか、先生が次の間からヴァイオリンを持ち出して来られた。まずその物理的機構について説明された後に、デモンストレーションのために「君が代」を一ぺんひいて聞かされた。田舎者の自分は、その時生まれて始めてヴァイオリンという楽器を実見し、始めて、その特殊な音色を聞いたのであった。これは物理教室所蔵の教授用標本としての楽器であったのである。それから自分は、全く子供のように急にこの珍しい楽器のおもちゃがほしくなったものである。そうして月々十一円ずつ郷里からもらっている学費のうちからひどい工面をして定価九円のヴァイオリンを買うに至るまでのいきさつがあったのであるが、これは先生に関係のない余談であるからここには略する。とにかく自分がこの楽器をいじるようになったそもそもの動機は田丸先生に「点をもらい」に行った日に発生したのである。ずっと後に先生が留学から帰って東京に住まわれるようになってから、ある時期の間は、ずいぶん頻繁に先生のお宅へ押しかけて行って先生のピアノの伴奏で自己流の演奏、しかもファースト・ポジションばかりの名曲弾奏を試みたのであったが、これには上記のような古い因縁があったのである。

寅彦が漱石と親しくなったのは俳句の話題がきっかけだったのに対し、田丸と親しくなったのはヴァイオリンの話題だったということになりますが、このヴァイオリンのお陰で、いつしか寅彦は西洋音楽に精通することになり、西洋音楽に疎かった漱石のために数々の、文字通り「話の種」を提供するということにもなります。

なお、この寅彦がヴァイオリンを買う話は、漱石の「猫」の最後の章で落語のような話に変形されて使われています。この話は長期連載の「猫」の終幕を飾るためのとっておきとして、漱石が満を持して書きあげたエピソードと言われています。

以上、これで「寺田寅彦随筆集」第3巻に収録の全エッセイを一通り取り上げました。次回からは第4巻に収録のエッセイに移ります。

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