トリノ王立歌劇場の来日公演・プッチーニ「ボエーム」(東京文化会館 7/31)


今日は東京文化会館でトリノ王立歌劇場来日公演のプッチーニ「ボエーム」を観ました。

2010-07-31

指揮はジャナンドレア・ノセダ。主要キャストは以下の通りです。

ミミ:バルバラ・フリットリ
ロドルフォ:マルセロ・アルバレス
マルチェッロ:ガブリエーレ・ヴィヴィアーニ
ショナール:ナターレ・デ・カローリス
ムゼッタ:森麻季

感想は改めて後日に出しますが、さすがに「ボエーム」の世界初演を(トスカニーニの指揮により)果たした、プッチーニゆかりの歌劇場、というべきでしょうか。感無量としか言いようのないくらい、素晴らしい「ボエーム」の舞台でした。

「寺田寅彦随筆集」第1巻より「自画像」「芝刈り」「球根」「春寒」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「自画像」「芝刈り」「球根」「春寒」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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自画像
(大正九年九月、中央公論)

油絵の入門書を読んだら無性に油絵が描きたくなった寅彦が、自画像「第1号」から「第5号」まで描きながら様々に随想を巡らせるという内容のエッセイ。

 仕上がるという事のない自然の対象を捕えて絵を仕上げるという事ができるとすれば、そこには何か手品の種がある。いったい顔ばかりでなく、静物でもなんでも、あまり輪郭をはっきりかくと絵が堅すぎてかえって実感がなくなるようである。・・・これに反してわざと輪郭をくずして描くと生気が出て来て運動や遠近を暗示する。これはたしかに科学的にも割合簡単に説明のできる心理的現象であると思った。同時に普通の意味でのデッサンの誤謬や、不器用不細工というようなものが絵画に必要な要素だという議論にやや確かな根拠が見つかりそうな気がする。手品の種はここにかくれていそうである。
 セザンヌはやはりこの手品の種を捜した人らしい。しかしベルナールに言わせると彼の理論と目的とが矛盾していたために生涯仕上げができなかったというのである。それにしてもセザンヌが同じ「静物」に百回も対したという心持ちがどうも自分にはわかりかねていたが、どうしてもできあがらぬ自分の自画像をかいているうちにふとこんな事を考えた。思うにセザンヌには一つ一つの「りんごの顔」がはっきり見えたに相違ない。自分の知った人の中には雀(すずめ)の顔も見分ける人はあるが、それよりもいっそう鋭いこの画家の目には生きた個々のくだものの生きた顔が逃げて回って困ったのではあるまいか。その結果があの角ばったりんごになったのではあるまいか。

このあたり、寅彦の絵画美術(特に西洋絵画)への造詣の深さが伺われます。

芝刈り
(大正十年一月、中央公論)

自宅の庭の芝をハサミで刈る間に、いろいろな事を考える、という内容。「文明の葉は刈るわけにも焼くわけにも行かない」として文明論にまで話が発展します。このあたりは読んでいて、どこか漱石の生前の文明論からの影響が伺われるようにも思えます。

球根
(大正十年一月、改造)

寺彦には珍しい、小説テイストのショートストーリー。主人公「堅吉」宛てに差出人不明の小包郵便が届いて、中を見ると植物の球根がどっさり。はて贈り主は一体?、という話。

春寒
(大正十年一月、渋柿)

北欧スカンジナビアの古い伝承記「セントオラー英雄譚」を読んでいると、家の中からメンデルスゾーンの無言歌「春の歌」のピアノが聴こえてきて、それが物語と妙に重なって響くという話。

 私がこの物語を読んでいた時に、離れた座敷で長女がピアノの練習をやっているのが聞こえていた。そのころ習い始めたメンデルスゾーンの「春の歌」の、左手でひく低音のほうを繰り返し繰り返しさらっていた。八分の一の低音の次に八分の一の休止があってその次に急速に駆け上がる飾音のついた八分の一が来る。そこでペダルが終わって八分の一の休止のあとにまた同じような律動が繰り返される。
 この美しい音楽の波は、私が読んでいる千年前の船戦(ふないくさ)の幻像の背景のようになって絶え間なくつづいて行った。音が上がって行く時に私の感情は緊張して戦の波も高まって行った。音楽の波が下がって行く時に戦もゆるむように思われた。投げ槍や斧をふるう勇士が、皆音楽に拍子を合わせているように思われた。そして勇ましいこの戦の幻は一種の名状し難い、はかない、うら悲しい心持ちのかすみの奥に動いているのであった。

この「春寒」においては、特に以下の部分に読まれる、古代ノルウェー王の非業の最期をメンデルスゾーンのピアノ曲と連関して結びつけるあたりの寅彦のイマジネーションが何といっても素晴らしく、これは彼の残した数々の音楽的エッセイの中でも白眉ともいえる作品だと思います。

 私がこのセント・オラーフの最期の顛末を読んだ日に、偶然にも長女が前日と同じ曲の練習をしていた。そして同じ低音部だけを繰り返し繰り返しさらっていた。その音楽の布(し)いて行く地盤の上に、遠い昔の北国の曠(ひろ)い野の戦いが進行して行った。同じようにはかないうら悲しい心持ちに、今度は何かしら神秘的な気分が加わっているのであった。
 忠義なハルメソンとその子が王の柩を船底に隠し、石ころをつめたにせの柩を上に飾って、フィヨルドの波をこぎ下る光景がありあり目に浮かんだ、そうしてこの音楽の律動が櫂の拍子を取って行くように思われた。
 その後にも長女は時々同じ曲の練習をしていた。右手のほうでひいているメロディだけを聞くとそれは前から耳慣れた「春の歌」であるが、どうかして左手ばかりの練習をしているのを幾間か隔てた床の中で聞いていると、不思議に前の書中の幻影が頭の中によみがえって来て船戦の光景や、セント・オラーフの奇蹟が幾度となく現われては消え、消えては現われた。そして音の高低や弛張につれて私の情緒も波のように動いて行った。異国の遠い昔に対するあくがれの心持ちや、英雄の運命の末をはかなむような心持ちや、そう言ったようなものが、なんとなく春の怨(うらみ)を訴えるような「無語歌」と一つにとけ合って流れ漂って行くのであった。

「寺田寅彦随筆集」第1巻より「病院の夜明けの物音」「病室の花」「丸善と三越」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「病院の夜明けの物音」「病室の花」「丸善と三越」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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病院の夜明けの物音
(大正九年三月、渋柿)

「朝早く目がさめるともうなかなか二度とは寝つかれない。この病院の夜はあまりに静かである。・・・ところが五時ごろになると奇妙な音が聞こえだす。・・・」という書き出しに始まる、寅彦が胃を患って入院していた病院での、夜明けの蒸気ストーブの音に関する短いエッセイ。

この作品は最後が特に印象的で、以下のようなズシリと重い文章で締め括られています。

 自分の病気と蒸気ストーブはなんの関係もないが、しかし自分の病気もなんだか同じような順序で前兆、破裂、静穏とこの三つの相を週期的に繰り返しているような気がする。少なくも、これでもう二度は繰り返した。いちばんいやなのはこの「前兆」の長い不安な間隔である。「破裂」の時は絶頂で、最も恐ろしい時であると同時にまた、適当な言葉がないからしいて言えば、それは最も美しい絶頂である。不安の圧迫がとれて貴重な静穏に移る瞬間である。あらゆる暗黒の影が天地を離れて万象が一度に美しい光に照らされると共に、長く望んで得られなかった静穏の天国が来るのである。たとえこの静穏がもしや「死」の静穏であっても、あるいはむしろそうであったらこの美しさは数倍も、もっともっと美しいものではあるまいか。


病室の花
(大正九年五月、アララギ)

寺田寅彦は大正9年になって「病院の夜明けの物音」「病室の花」「丸善と三越」「自画像」と、珠玉のエッセイを立て続けに発表しており、何か文筆家として一皮むけたかの感さえ受けます。

その中でも一頭地を抜くのが、この「病室の花」で、入院している寅彦のもとに見舞客が次々と花を持って訪れる、という、ただそれだけの題材から、様々な方向に話を膨らませて読者を引き込む、寅彦随筆の真骨頂が如実に発揮されているのです。

 いつでも思う事ではあるが、いかに精巧をきわめた造花でも、これを天然の花に比べては、到底比較にならぬほど粗雑なものである。いつかアメリカのどこかの博物館で、有名な製作者の造ったというガラスの花を見たが、それも天然の花に比べてはまるで話にならぬほどつまらない、しかもいやな感じのするものであった。このような差別の根原はいったいどこにあるだろう。・・・「一方は死んでいるが他方は生きている」という人があるかもしれない。しかしそれはただ一つの疑問を他の言葉で置き換えたに過ぎない。実際の明白な区別は、やはり両者を顕微鏡で検査してみて始めてわかるのではあるまいか。一方はただ不規則な乾燥したそして簡単な繊維の集合か、あるいは不規則な凹凸のある無晶体の塊であるのに、他方は複雑に、しかも規則正しい細胞の有機的な団体である。美しいものと、これに似た美しくないものとの差別には、いつでもこのような、人間普通の感覚の範囲外にある微妙な点があるのではあるまいか。人間でも意識の奥に隠れた自己といったようなものが、その人がらの美しさを決定する要素ではあるまいか。こんな事を考えながらベコニアの花をしみじみ見つめていると、薄弱な自分の肉眼の力ですら、花弁の細胞の一つ一つから出る生命の輝きを認めるような気もする。

以上のような、美しいものと、これに似た美しくないものとの差別には、人間普通の感覚の範囲外にある微妙な点が絡んでいる、のではないかという思索が作品冒頭で開陳されます。

さらに、見舞の花ひとつひとつに対して具体的に随想を展開する話に移りますが、中でもベコニアの花に関しての、以下の部分は読んでいて、特に深い感銘を与えられます。

 眠られぬ夜中の数時間はこの花のためにもどれほどか短くされた。眠られぬままにいろいろな事を考えた中にも、N先生が病気重態という報知を受けて見舞いに行った時の事を思い出した。あの時に江戸川の大曲(おおまがり)の花屋へ寄って求めたのがやはりベコニアであった。紙で包んだ花鉢をだいじにぶら下げて車にも乗らず早稲田まで持って行った。あのころからもうだいぶ悪くなっていた自分の胃はその日は特に固く突っ張るようで苦しかった。あとから考えてみるとあの時分から自分の胃はもう少しずつ出血を始めていたのである。そうとも知らずわずかの車賃を倹約するつもりで我慢して歩いて行った。重態の先生には面会は許されなかった。しかし持って行った花は夫人が病床へ運んでくれた。夫人はやがて病室から出て来て「きれいだなと言っていましたよ」と言った。考えてみるとこれが先生から間接にでも受けた最後の言葉であった。今自分は先生の生命を奪い去った病と同じ病で入院している。幸いに今度はたいして危険もなくて済みそうである。同じ季節に同じ病気をして同じベコニアの花を枕もとに見るというのは偶然の事といえば偶然であるが、よく考えてみたらそこに何かの必然の因果があるのではないかという気がした。普通に偶然の暗合と見られる事でも、実はそうでない場合がかなりしばしばある。先生と弟子との間にある共通な点があらば、それは単に精神的のものでもこれが肉体の上に多少の影響を及ぼさないとは言われない。あるいは逆に肉体に共通な点のあるのが原因でそれが精神に影響して二人の別々な人間の間に師弟の関係を生じる一つの因縁にならないとは限らぬ。もしそうだとすれば先生と弟子とが同じ病気にかかる確率(プロバビリティ)は、全く縁のない二人がそうなるより大きいかもしれない。病気が同じならば同じ時候によけいに悪くなるのはむしろありそうな事である。こんな事を考えたりした。そしてその時にはこれがたいへんに確実な理論(セオリー)ででもあるような気がしたのであった。

文中の「N先生」というのは実は夏目漱石その人で、その容体は重く面会謝絶につき、漱石の臨終に立ち会えなかった、その寂しさ、さらには漱石に対する並々ならない敬愛の情、そういった感情が文章全体に滲んでおり、それが読み手に深い感銘をもたらしているのです。

丸善と三越
(大正九年六月、中央公論)

このエッセイも素晴らしい。寅彦は当時、洋書を渉猟する際に銀座の丸善を利用しており、丸善から三越に立ち寄って自宅へ帰る、という日常のひとコマが描かれた作品。当時の各々の店舗の様相がリアルに活写されていて面白い事この上なく、読んでいると、まるで自分が大正時代の銀座にタイムスリップしたみたいな感覚になるくらいです。

このエッセイを読んで私が特に面白いと思った部分である、丸善の美術書の書棚の前での随想を、少し長いですが以下に引用します。

・・・よく考えてみると、自分は自分の手近な「義務」とあまり直接の関係のないあらゆる享楽を味わう時には、たとえその事自身が卑近な感覚的なものでなくてもなんだか一種の不安を感じる場合が多い。いつか田舎から出て来た親戚の老婦人を帝劇へ案内して菊五郎と三津五郎(みつごろう)の舞踊を見せた時に、その婦人が「あまりおもしろくて、見ているうちに、私はこんなにおもしろくてもいいのかしらんと思って、なんだかそら恐ろしくなりました」と言った。この婦人はずいぶん人生の不幸をなめ尽くしたような人であったから、特にそう思われたのかもしれない。しかしこの一例から考えても、同じような経験は存外多くの人に共通なものかもしれない。ウィリアム・ジェームスの心理学の中に「音楽の享楽にふける事でさえも、その人が自分で演奏者であるか、あるいはその音楽を純理知的に受け入れるほどに音楽的の天賦を有するのでなければ、その人の人格をゆるめ弱めるという結果を生ずるだろう。……この弊を矯めるには演奏会で受けた感動を、その後に何か主動的な方法で表現しないではおかないという習慣をつければいい。それはどんな些細な事でもかまわない。たとえば自分の祖母にやさしい言葉をかけるとか、乗合馬車で座席を譲るとかいうくらいな事でもいいが、とにかく何かしないではおかないようにするがいい」という一節がある。これを読んだ時になるほどと思った。昔から世界のいろいろな人種の間に行なわれた禁欲主義の根本に横たわる一面の真理に触れているとも思った。しかし美しい芸術が人の心に及ぼす影響はすぐその場で手っ取り早く具体的な自覚的行為に両替して、それで済まされるものだろうか。それではあまりに物足りない。たとえ音楽会の帰りに電車の中でけんかをし、宅へ帰って家族をしかったりする事があるとしても、その日の音楽から受けた無自覚な影響が、後に思いもかけない機会に、ある積極的な効果として現われる場合がかなり多いのではあるまいか。これは自分にとってはかなりに痛切な問題であるが、まだ充分ふに落ちるような解釈に到着する事ができない。

これを最初に読んだとき、何だか共感的な気持ちを抱いたのです。とくに最後の「その日の音楽から受けた無自覚な影響が、後に思いもかけない機会に、ある積極的な効果として現われる場合がかなり多いのではあるまいか。」あたりなど、なにか真理を突いているかのようにも思えますが、どうでしょうか。

ボーグナーによるバルトークのピアノ作品集「ミクロコスモス」


バルトーク ミクロコスモス(抜粋)
 ボーグナー(pf)
 カメラータ 1998年 30CM539
30CM539

フェレンツ・ボーグナーのピアノ演奏によるバルトークのピアノ作品集「ミクロコスモス」のCDを聴きました。

これは以前にHMVオンラインサイトのCDセールで購入したもので、バルトークのピアノ作品集「ミクロコスモス」全153曲の中から計61曲が抽出され録音されています。

ここに収録されている61曲というのは、同曲集の全153曲のうちバルトーク自身が実際にコンサートで取り上げた曲のすべてなのだそうです。

ライナーノートには以下のようなコンセプトが掲げられています。

・ミクロコスモスの、とくに第1巻と第2巻は基本的にエチュード(練習)のための曲であり、鑑賞するための曲ではない。

・ミクロコスモスで鑑賞に耐える曲を選ぶとするなら、バルトークが生前コンサートで弾いたナンバーが、コンサートピースとしてレコーディングに値するはず。

これは確かに一理あるかなと思いました(鑑賞するための曲ではないか否かはともかく)。というのも、さすがに私も、このミクロコスモス全曲を1番から順に聴いていこう、なんていう気にはならないからですが、そうは言ってもナンバーが3ケタを超えたあたりから、ピアノ曲としてグッと面白くなるのも確かです。

このディスクでの全61曲の内訳を見ると、ミクロコスモス全6巻のうち第1巻からはゼロで、第2巻からは6曲、第3曲からは12曲、第4巻からは14曲、第5巻からは15曲、第6巻からは14曲が選ばれています。要するに第100番以降の作品に比重が置かれていることになり、実際に聴いてみて、この選曲だとCD一枚を続けて耳にしても飽きずに面白く聴くことができる、ということに気付かされました。

なお、フェレンツ・ボーグナーはハンガリー生まれの、シフ、ラーンキ、コチシュの「ハンガリー三羽烏」を生んだラドシュ門下のピアニストです。

「寺田寅彦随筆集」第1巻より「科学者と芸術家」「物理学と感覚」ほか


寺田寅彦のエッセイですが、今回から「寺田寅彦随筆集」第1巻に収録の作品を順次、取り上げていきます。

Torahiko-Essay-Collection-2

この巻の収録作品のタイトルは以下の通りです。

・どんぐり
・竜舌蘭
・花物語
・旅日記から
・先生への通信
・科学者と芸術家
・物理学と感覚
・病院の夜明けの物音
・病室の花
・丸善と三越
・自画像
・芝刈り
・球根
・春寒
・春六題
・蓑虫と蜘蛛
・田園雑感
・ねずみと猫
・写生紀行
・笑い
・案内者
・断水の日

以上22編です。

今回は「どんぐり」「竜舌蘭」「花物語」「旅日記から」「先生への通信」「科学者と芸術家」「物理学と感覚」の7作品を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

どんぐり 竜舌蘭 
(明治三十八年四月、六月 ホトトギス)

いずれも寅彦の最初期の短編エッセイ。「どんぐり」では亡き妻の思い出が、「竜舌蘭」では幼少の頃の思い出が語られます。

基本として日常身辺の些細なことを題材に表情豊かに筆を綴る趣向は、この時期から確立されており、その味わいにおいても非凡なものがあると思うのですが、ただ、後年の寅彦のエッセイにおいて読まれる、独特の切れ味や含蓄などは希薄という感も否めません。

「どんぐり」では自身を「余」と呼称し、エッセイというより小説風に仕立てていますし、「竜舌蘭」は文章が明らかに硬く、ぎこちなさが伺えます。

ちなみに、この時期の「ホトトギス」では、ちょうど夏目漱石が「吾輩は猫である」を連載しており、当時それが大ヒットしていたと言われていますが、さすがに寅彦も相当に緊張して、これらのエッセイを書いたのではないでしょうか。

花物語
(明治四十一年十月 ホトトギス)

上記2つのエッセイから3年後の作です。9編からなるショート・エッセイ集で、昼顔、栗の花、月見草などの花にちなんだ、幼少の頃や学生時代のエピソードが題材とされています。

全体的に3年前の作よりも文体に硬さが抜け、柔軟性が増している感じがします。写生的視点にもとづく写実的な自然観察のもたらす文章の含蓄の豊かさといい、後年の寅彦ならではのエッセイの原型は、この頃に確立されたのかも知れません。

旅日記から 
(大正十年四月 渋柿)

寅彦が明治42年にドイツに留学するため渡航した際の日記風の紀行文。正確には、もともと旅日記として個人的に記していたものを、後年になって雑誌に発表したものになります。

船で日本を発ち、上海、香港、シンガポール、アラビア海、紅海、スエズ運河を抜けてイタリアに到着し、汽車でベルリンへ着くまでの、同年4月1日から5月6日までの旅の記録が綴られています。読んでいて場景が目に浮かぶような写実性が見事です。

先生への通信
(明治四十三年一月~明治四十四年五月、東京朝日新聞)

これは寅彦が明治42年から44年にかけて海外に留学した時期に、ヨーロッパ各地を旅した際の紀行文です。ベニス、ローマ、ベルリン、ゲッチンゲン、パリ、それぞれの街を実際に見た寅彦の印象が、感動を抑えた写実的な文体で綴られています。

 四五日前オペラでグノーのファウストを聞きました。メフィストの低音が気に入りました。道具立ての立派で真に迫ること、光線の使用の巧みなことはどこでも感心します。音楽の始まる前の合図にガタンガタンと板の間をたたくような音をさせるのはドイツのと違っていて滑稽な感じがしました。最後の前の幕にバレーがあります。国にいた時分「スチュディオ」か何かに載せたドガーの踊り子のパステル絵を見て、なんだかばかげたつまらないもののような気がしましたが、その後バレーというものも見、それからドガーの本物の絵も見てから考えてみると、とにかくこの人の絵はこういう一種の光景、運動、色彩、感じというようなものをかなり真実に現わしたものだと思いました。
 役者の唱歌は昨年ウィーンで聞いたほうがむしろよかったと思います。この事を同宿のドイツ人に話したら、オペラはドイツに限るのだと言っていばっていました。ここではワグネル物をたとえば四幕のものなら二幕ぐらいに切って演じたり、勝手な事をすると言ってひどく憤慨していました。

上の部分は、パリ・オペラ座でグノーの歌劇「ファウスト」を観た際の印象ですが、文中「役者の唱歌は昨年ウィーンで聞いたほうがむしろよかった」とあるのは、実は明治42年12月22日にウィーン国立歌劇場で、やはり同じグノーの歌劇「ファウスト」を観ており、それと比べた印象を語っているからです。

科学者と芸術家
(大正五年一月、科学と文芸)

 芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念をいだいているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。
 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。

以上のような書き出しに始まり、「科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものである」という漱石の言葉を引用したりしながら、「科学者と芸術家の生命とするところは創作である」以上、科学者と芸術家とは、実は同じ気質の持ち主にほかならないのではないか、という視点が示されます。

自身のライフワークとして科学と文学の「二刀流」を生涯にわたって貫徹した寺田寅彦ならではのエッセイと言えるでしょう。

物理学と感覚
(大正六年十一月、東洋学芸雑誌)

近年における物理学研究の趨勢を憂うような内容のエッセイ。例えば量子論のように、物理学の研究対象が「人間の感覚」から懸け離れた領域に進展してきていることに対し、「非人間主義の物理学」としての危うさを抱いています。

 物理学発達の初期には物理学者の見方はまだそれほど世人と離れていなかった。たとえば音響というような現象でも昔は全く人間の聴官に訴える感覚的の音を考えていたのが、だんだんに物体の振動ならびにそのために起こる気波という客観的なものを考えるようになり「聞こえぬ音」というような珍奇な言葉が生じて来た。今日純粋物理学の立場から言えば感覚に関した音という概念はもはや消滅したわけであるが因習の惰性で今日でも音響学という名前が物理学の中に存している。今日ではむしろ弾性体振動学とでもいうべきであろう(生理的音響学は別として)。

こういった話が具体的な例を示して述べられています。

しかし、物理学というのは詰まるところ外界の現象を系統立てて解明することが最終目的なのだから、その外界の現象を知覚するための人間の感覚というものの重要性は微塵も揺るがないはずである、というロジックにより、人間の感覚を軽視しがちな近年の物理学者のスタンスに異を唱えます。

その主張自体、実に筋が通っていて読んでいて感心させられてしまうのですが、それより驚くべきは、当時の寅彦が、いかに世界における最新の物理学の動向に通暁していたか、という点なのです。特に以下の部分。

 質量は物体に含まるる実体の量だというように考えたは昔の事で、後にむしろ力の概念が先になって、物体に力が働いた時に受ける加速度を定める係数というふうに解釈した実証論者もある。電子説が勢いを得てからは運動せる電気がすなわち質量と考えてすべての質量を電気的に解釈しようとした。さらに相対性原理の結果としてすべてのエネルギーは質量を有すると同等な作用を示すところから、逆にすべての物質はすなわちエネルギーであると考えようという試みもあるくらいである。

ここで「相対性原理の結果としてすべてのエネルギーは質量を有すると同等な作用を示す」というのは、アインシュタインの特殊相対性理論から導かれた「質量とエネルギーの等価則」を指すものです。

この等価則は有名ですし、ご存じの方も多いと思いますが、一応、以下に簡単に書きます。まず先週も書きました通り、「特殊相対性理論」は、広辞苑では以下のように書かれています。

1905年、アインシュタインが絶対静止の座標系を否定して、互いに等速運動をしている座標系に関してはすべての自然法則は同一の形式を保つということを主張した理論。質量とエネルギーの等価性が導かれた。→相対性理論。

この話を先週ブログに書きました際には、最後の「質量とエネルギーの等価性が導かれた」という点には、特に触れませんでしたが、これは要するに「あらゆる物体はエネルギーを放出すると、そのぶんの質量が減る」という物理法則のことです。

それを前提として、エネルギーを放出すると質量が減るなら、逆に質量を減らせば物体からエネルギーが採り出せるはずだという発想が生まれます。これがエッセイで書かれている「逆にすべての物質はすなわちエネルギーであると考えようという試み」です。

実際アインシュタインの計算式によりますと、質量1グラムが21兆6千億カロリーのエネルギーに相当します。例えば1円玉ひとつ(1グラムのアルミニウム)に21兆6千億カロリーというとんでもないエネルギーが内蔵されている、という風によく喩えられます。

しかし、そもそも「質量を減らせば物体からエネルギーが採り出せる」と言ったところで、物体の質量なんて普通、減らせないので、この等価則をアインシュタインが発表した1905年当時は、単なる「絵に書いたモチ」に過ぎませんでしたが、1930年代になって、原子核を破壊することにより核分裂が生じ、実際に物体の質量を減らせるということが実験により証明され、現実にエネルギーが採り出せることになったのです。

そして、以上のような経緯で出来上がったのが、今で言うところの原子爆弾(および原子力発電)ということになります。実際、広島に落とされたものがウラン1グラム程度、長崎に落とされたものがプルトニウム1グラム程度だったそうです。

以上のような歴史的事実を俯瞰したうえで本エッセイを読むと、このエッセイの書かれた大正6年の時点で、すでに近い将来の、原子爆弾のような存在の登場を予見しているようにも読めるのです。さすがに広島と長崎の悲劇までは夢想だにしなかったと思いますが、、、。

バックハウス最晩年のベルリン・フィルハーモニーでのオール・ベートーヴェン・ライヴ


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第15番「田園」・18番・21番「ワルトシュタイン」・30番
 バックハウス(pf)
 アウディーテ 1969年ライヴ AU23420
AU23420

独auditeから今月リリースされた、ヴィルヘルム・バックハウスの最晩年のピアノ・リサイタルのCDを聴きました。収録されているのは1969年4月18日のベルリン・フィルハーモニーにおけるリサイタルでの演奏で、その演目はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第15番「田園」に始まり、第18番、第21番「ワルトシュタイン」、第30番と続くオール・ベートーヴェン・プログラムです。

周知のようにバックハウスは、このリサイタルから2ヶ月ほど後の、6月28日のオーストリアのオシアッハにある修道院でのリサイタルにおいて、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番を弾いている途中に心臓発作を起こし、それがもとで7日後の7月5日に永眠することになります。なお、この「バックハウス最後の演奏会」のライヴはデッカよりCD化されています(が現在は廃盤で入手困難のようです)。

今回リリースされたバックハウス最晩年のリサイタルのライヴ盤は、何と言っても演目がバックハウスの得意とするベートーヴェンということで、興味津々で購入しました。

それで聴いてみると、最初のピアノ・ソナタ第15番「田園」から何か異様なほどに張り詰めた緊迫感の立ち込める演奏の表情に、聴いていて度肝を抜かれる思いでした。個々のタッチの重厚感が生み出すシンフォニックな響きの、並々ならない迫力、それにもまして一つ一つのフレージングの、ストイックを極めたような厳しさ。続くピアノ・ソナタ第18番も同様で、聴いていて「このソナタって、こんなにシリアスで重々しい曲だったのか」とさえ思えるほどで、作品のキャラクターに合わせて、少しフレージングの緊張を緩め、幾分リラックスしたような表情を出そう、などとは全く考えない。これこそがバックハウスのピアニズムなのだと、聴き終えて改めて感服させられてしまう、そんな演奏なのです。

続くバックハウスの一八番ともいうべき、ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」ともなると、紛れもなく一人バックハウスだけが可能なピアニズムの境地とも言うべき、圧倒的なベートーヴェンが披歴されており、その乾坤一擲ともいうべき強和音の打鍵の、驚嘆的な訴求力といい、ハイスピードで展開されながらも凄い重厚味を帯びたピアニズムの、途方もないスケール感といい、これはバックハウスのベスト・フォームの「ワルトシュタイン」のひとつと確信させられる演奏であるとともに、その充実を極めたピアニズムに、聴いていてグイグイと惹き込まれ、激しく胸を打たれる思いでしたし、それに加えて演奏開始直後の第1楽章(1:52)の最強打のところで勢いあまって盛大に音を外してしまったのに、「それがどうした」と聴衆に言わんばかりの表出力で、以後ミスらしいミスもなく最後まで弾き抜いてしまうあたりの、常人ばなれした胆力にも聴いていて恐れ入ってしまいました。

しかし、このアルバムの白眉は、おそらく最後のピアノ・ソナタ第30番ではないでしょうか。というのも、この演奏においては何というか全体的に法外なまでの表出力を帯び、恐ろしいまでの凄味を発する演奏、といった形容すらも超越していて、聴いていて何だか次第に怖くなってくるほどの、極度に切迫した音が鳴り響いているように思えるからです。

この演奏というのが、何かバックハウスが自身の命を削って音を出しているのではないか、もっと言うなら、この演奏というのが事によると、この2カ月後のリサイタルでの演奏途中の心臓発作の、遠因だったのではないのかとさえ、この30番ソナタの演奏を聴きながら思ってしまったのですが、いずれにしても、これはバックハウス会心のベートーヴェンと思われましたし、聴き終えて猛烈な感銘と余韻の残る、そんな演奏でした。

以上、これほどのベートーヴェンは滅多に聴けるものではなく、今回これを発掘してCD化を果たした独auditeには大いに感謝したい気持ちですが、それにしてもauditeには、今回のバックハウスのリサイタルの録音といい、昨年リリースされたフルトヴェングラーの放送録音集といい、こういった世界遺産級の未発掘音源が、まだ何か手付かずで眠っているのではないかという気もしますし、もしそうなら勿体ない事この上ないので、一刻も早く日の目を見させてやるべきではないかと思います。

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「映画時代」「時事雑感」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「映画時代」「時事雑感」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

映画時代
(昭和五年九月、思想)

映画に関するエッセイ。自身の映画の体験がいかなるものであったか、に始まり、独自の映画論が展開されますが、その驚異的なまでの先見の明には、読んでいてビックリさせられてしまいます。

まず映画との出会いから。

 活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原(かがみがわら)の納涼場で、見すぼらしい蓆囲(むしろがこ)いの小屋掛けの中でであった。おりから驟雨のあとで場内の片すみには川水がピタピタあふれ込んでいた。映画はあひる泥坊(どろぼう)を追っかけるといったようなたわいないものであったが、これも「見るまでは信じられなくて、見れば驚くと同時に、やがては当然になる」種類の経験であった。ともかくも、始めて幻燈を見たときほどには驚かなかったようである。
 明治四十一年から三年までの滞欧中には、だれもと同様によく活動を見たものである。当時ベルリンではこれを俗にキーントップと言っていた。常設館はいくつもあったがみんな小さなものでわずかの観客しか容れなかったように覚えている。邦楽座や武蔵野館のようなものはどこにもなかったようである。各地に旅行中の夜のわびしさをまぎらせるにはやはりいちばん活動が軽便であった、ブリュッセルの停車場近くで見た外科手術の映画で脳貧血を起こしかけたこともあった。それは象のように膨大した片腕を根元から切り落とすのであった。
 帰朝後ただ一度浅草で剣劇映画を見た。そうして始めていわゆる活弁なるものを聞いて非常に驚いて閉口してしまって以来それきりに活動映画と自分とはひとまず完全に縁が切れてしまった。今でも自分には活弁の存在理由がどうしても明らかでないのである。

以上、最初は映画にあまり興味を持てなかったという経緯が語られます。

 長い間縁の切れていた活動映画が再び自分の日常生活の上におりおり投射されるようになったのがつい近ごろのことである。飛行機から爆弾を投下する光景や繋留(けいりゅう)気球が燃え落ちる場面があるというので自分の目下の研究の参考までにと見に行ったのが「ウィング」であった。それから後、象の大群が見られるというので「チャング」を見、アフリカの大自然があるというので「ザンバ」を見た。そのうちにトーキーが始まるというので後学のために出かける。そうしているうちにいつのまにか一通りの新米ファンになりおおせたようである。
 いちばんおもしろいものは実写ものである。こしらえたものにはやはりどこかに充実しない物足りなさがありごまかしきれない空虚がある。そういう意味でニュース映画は自分にとって最もおもしろいものの一つである。たとえばマクドナルドとかフーヴァーとかいう人間が現われて短い挨拶をする。その短い場面でわれわれは彼らがいかにして、またいかに、英国労働内閣首相であり、北米合衆国大統領であるかを読み取ることができるような気がするのである。

以上、映画というものの面白さに目覚めた経緯が語られ、以下、映画論的な話題に移ります。

 ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかという気がする。

このあたり、昨今のハリウッド映画のような、派手ではあるものの必ずしも内容の伴わない荒唐無稽ものが大ヒットする後世の映画情勢を既に予期しているかのようです。

 未来の映画のテクニックはどう進歩するか。次に来るものは立体映画であろうか。これも単に双眼(ステレオ)的効果によるものでなく、実際に立体的の映像を作ることも必ずしも不可能とは思われない。しかしそれができたとしたところでどれだけの手がらになるかは疑わしい。映画の進歩はやはり無色平面な有声映画の純化の方向にのみ存するのではないかと思われる。それには映画は舞台演劇の複製という不純分子を漸次に排除して影と声との交響楽か連句のようなものになって行くべきではないかと思われるのである。

近年の流行ともいうべき3Dの「立体映画」の登場を、昭和初期の段階で既に予期していることに驚かされます。

 元来アメリカにジャズ音曲とナンセンス映画とが流行する事実は、かの国に古い意味での哲学と科学と芸術の振るわない事実の半面であって、そのかわりに黄金哲学と鉄コンクリート科学と摩天楼犯罪芸術の発達するゆえんであろう。・・・
 フランス人は頭のいい人種である。マチスを生みドビュシーを生んだこの国はやがて映画の上にも新鮮な何物かを生み出しそうな気がする。アヴァンガルドというのは未見であるが、ともかくもわれわれはフランス映画の将来にある期待をかけてもいいように思われる

このあたりも、20世紀中盤以降におけるフランス映画の優位性を予見しているあたりが凄いと思います。

 現代の映画を遠い未来に保存するにはどうすればいいかの問題がある。音声の保存はすでに金属製の蓄音機レコード原板によって実行されている。映画フィルムも現在のままの物質では長い時間を持ち越す見込みがないように思われるから、やはり結局は完全に風化に堪えうる無機物質ばかりでできあがった原板に転写した上で適当な場所に保存するほかはないであろう。たとえば熔融石英(フューズドシリカ)のフィルムの面に還元された銀を、そのまま石英に焼き付けてしまうような方法がありはしないかという気がする。とにかく、なんらかの方法でこの保存ができたとして、そうして数十世紀後のわれらの子孫が今のわれわれの幽霊の行列をながめるであろうということは、おもしろくもおかしくもまたおそろしくも悲しくもあり、また頼もしくも心細くもあるであろう。
 はなはだまとまらないこの一編の映画漫筆フィルムにこのへんでひとまず鋏(はさみ)を入れることとする。

実際、日本の戦前映画の保存状態の酷さは現在でも問題となっているそうです。それにしても最後の一文、なかなか気が利いていますね。

時事雑感
(昭和六年一月、中央公論)

「煙突男」「金曜日」「地震国防」の3編からなる、いずれも当時の時事的な話題に基づいたエッセイ。

「煙突男」は、ある紡績会社の労働争議で、工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間も居すわって降りようとしなかった「煙突男」の話で、これは当時メディアで大きく報道されたものらしいです。

「金曜日」は、昭和5年11月14日の金曜日に、時の内閣総理大臣である浜口雄幸が東京駅で狙撃された「浜口雄幸狙撃事件」を話題としたものです。

「地震国防」は同年に伊豆地方を襲った強い地震を引き合いに出し、軍事国防と同じくらい地震対策にも力を入れるように、主に当局に訴えるような内容となっています。

 自分もどこかの煙突の上に登って地震国難来を絶叫し地震研究資金のはした銭募集でもしたいような気がするが、さてだれも到底相手にしてくれそうもない。政治家も実業家も民衆も十年後の日本の事でさえ問題にしてくれない。天下の奇人で金をたくさん持っていてそうして百年後の日本を思う人でも捜して歩くほかはない。
 汽車が東京へはいって高架線にかかると美しい光の海が眼下に波立っている。七年前のすさまじい焼け野原も「百年後」の恐ろしい破壊の荒野も知らず顔に、昭和五年の今日の夜の都を享楽しているのであった。
 五月にはいってから防火演習や防空演習などがにぎにぎしく行なわれる。結構な事であるが、火事よりも空軍よりも数百層倍恐ろしいはずの未来の全日本的地震、五六大都市を一なぎにするかもしれない大規模地震に対する防備の予行演習をやるようなうわさはさっぱり聞かない。愚かなるわれら杞人(きひと)の後裔(こうえい)から見れば、ひそかに垣根(かきね)の外に忍び寄る虎や獅子の大群を忘れて油虫やねずみを追い駆け回し、はたきやすりこ木を振り回して空騒(からさわ)ぎをやっているような気がするかもしれない。これが杞人の憂いである。

ここには、「百年後」という言い方が度々出てきます。このエッセイが書かれてから80年経った21世紀初頭の今では、幸い日本は「恐ろしい破壊の荒野」とはなっていませんが、しかし100年経った時はどうか、誰にも分らない。関東大震災クラスの地震が何時襲っても不思議でない現状においては、「杞人の憂い」と言って笑って済ますことのできないエッセイではないかと思われます。

後に書かれる有名な「銀座アルプス」でも、寅彦は21世紀初頭までに必ず関東大震災クラスの地震が発生するばずだ、その時に日本は大丈夫か心配だ、というようなことを書いているのです。

以上、今回までに「寺田寅彦随筆集」第2巻に収録の全エッセイ21編を一通り取り上げました。次回からは第1巻に収録のエッセイに移ります。

F・アーモンドとW・ウォルフラムによるレスピーギ、ヤナーチェク、R.シュトラウスのヴァイオリン・ソナタ


レスピーギ ヴァイオリン・ソナタ
&ヤナーチェク ヴァイオリン・ソナタ
&R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ
 アーモンド(vn)、ウォルフラム(pf)
 Avie 2005年 AV2113
AV2113

フランク・アーモンドのヴァイオリンとウィリアム・ウォルフラムのピアノのデュオによる、レスピーギとヤナーチェクとR.シュトラウスのヴァイオリン・ソナタを収録したCDを聴きました。

これは以前にHMVオンラインサイトのCDセールで購入したCDの一つで、2006年にアヴィーからリリースされたものです。

フランク・アーモンドはロッテルダム・フィル、ロンドン・フィルのコンサートマスターを歴任し、現在はアメリカのミルウォーキー交響楽団でコンサートマスターを務めているヴァイオリン奏者とされますが、ここでは後期ロマン派の「オーケストレーションの大家」として知られる3人の作曲家の残した、室内楽作品を集めたアルバムというコンセプトがユニークです。

それで聴いてみると、最初のレスピーギのヴァイオリン・ソナタロ短調では、灼熱のような情熱の第1楽章、息の長いメロディのノスタルジックな雰囲気の第2楽章、絵画的な色彩感の終楽章、いずれも素晴らしいパッションをもって表情豊かに弾き抜いた演奏で、そのヴァイオリン演奏に関しては、伸びやかで屈託のないボウイングと、音色の美しさと、胸のすくようなテクニックとが三位一体となって醸し出す豊かな表現力に聴いていて惚れぼれする思いでした。

しかし、これが次のヤナーチェクになると、全体的に円滑ながらも常套的な表現に終始し、どこかしら陰影に欠け、先のレスピーギのように心に染み入るまでには至らない、という印象を禁じ得ませんでしたが、最後のリヒャルトでは、レスピーギと同じような屈託のない情熱を直截にぶつけるような弾き回しが見事であり、表現としては少しストレートに過ぎる印象もあるとしても、リヒャルト初期の作風に対するアプローチとしては変に重くないのが奏功していて、本当に気持よく聴くことができ、その点では類い稀なほどの演奏ではないかと感じられました。

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「ルクレチウスと科学」「LIBER STUDIORUM」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「ルクレチウスと科学」と「LIBER STUDIORUM」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

ルクレチウスと科学
(昭和四年九月、世界思潮)

銀座の丸善の二階で洋書を物色していたおりに見つけた、カールス・ルクレチウス著「物の本性について」を読んだ寅彦が、その内容に驚嘆したという内容のエッセイ。

自身の本領である物理学の分野の話だけに、まさに水を得た魚というくらいに充実を極めたエッセイで、寅彦の全作品中でも特筆に値する作品です。

このエッセイで取り上げられている「物の本性について(DE RERUM NATURA)」の著者カールス・ルクレチウスというのは、紀元前1世紀ごろのローマの哲学者ですが、この本に書かれている哲学思想それ自体は、ルクレチウスの考えた哲学というわけではなく、実は紀元前300年くらいの時代の、古代ギリシャの唯物論的自然哲学なのです。

ここでいう唯物論的自然哲学というのは、森羅万象たる事物の本質や原理を、あくまで物質そのものに帰着させて説明しようとする哲学のことで、その中でも代表的なものが、エピクロス学派と呼ばれる古代ギリシャ哲学の一派が提唱した、いわゆる「原子論」と呼ばれる概念です。

この「原子論」というのは、要するに「原子」と呼ばれる基本的な物質の構成要素により、この世のあらゆる事象を説明しようとする立場ですが、ここでは「霊魂」や「神」などの「非物質的な存在」が否定されるので、例えばデカルトの提唱した、いわゆる「二元論」などと対立する概念とされます。

もともと「原子」という言葉を最初に使ったのは、古代ギリシャの哲学者デモクリトスであって、「物質の中で、それ以上は分割できない粒子のこと」を原子と規定したのが始まりですが、この考え方を発展させ、「自ら運動する原子の衝突で、あらゆる物理現象を説明できる」というのが原子論の考え方になります。

しかし、これだと「神」の出る幕がどこにもなく、必然的に無神論に行き着くため、キリスト教の勢力の強い西洋では長い間「異端」とされていた学派ですが、時代が進んた20世紀初頭において、ボーアを中心に確立された原子構造論により「原子の実在」が科学的に証明されるにおよび、古代ギリシャの「原子論」哲学が再評価されるに到ります。

そういう時代背景のなかで、寅彦はルクレチウスの「物の本性について」に、銀座の丸善で邂逅したのでした。

以上、前置きが長くなりましたが、このエッセイの内容は、ルクレチウスの「物の本性について」全6巻に書かれている内容を、各巻ごとに紹介し、それらを20世紀初頭現在の最新物理学に照らし合わせるという内容なのです。多少なり近代物理の発展の過程に興味があるならば、その内容の面白さに読んでいて引き込まれること請け合いのエッセイです。

まず「ルクレチウスの中には多くの未来が黙示されている」、「要するにルクレチウスは一つの偉大な科学的の黙示録(アポカリプス)である」という風に述べ、紀元前300年という時代の古代ギリシャの自然哲学が、20世紀初頭当時の最新物理学に照らして多くの点が符合していることに驚嘆の意を表しています。

例えば「原子素量の存在、その結合による物質の構成機巧、物質総量の不滅、原子の運動衝突と物性の関係、そういうようなものが予想されているばかりでなく、見方によっては電子のようなものも考えられており、分子格子のごときものも考えられている。」という具合です。

そして、この本が「黙示録(アポカリプス)」だと言うのは、例えばヨハネ黙示録のようなものと同じ意味では必ずしもないとして、以下のように述べています。

 ヨハネの黙示録の第九章に示された恐ろしい蝗(いなご)の災いを欧州大戦における飛行機にうまく当てはめておもしろく書いてある。これもやはり一種の黙示である。しかしいかほどまでに蝗の記述が戦闘飛行機に当てはまってもそれは決して科学的の予言とは名づけ難いであろう。しからばルクレチウスの黙示もまたこれと同じような意味の黙示に過ぎないであろうかと考えてみると、自分には決してそうは思われないのである。ヨハネは目的の上からすでに全然宗教的の幻想であるのに反して、ルクレチウスのほうは始めから科学的の対象を科学的精神によって取り扱ったものである。彼の描き出した元子の影像がたとえ現在の原子の模型とどれほど違っていようとも、彼の元子の目的とするところはやはり物質の究極組成分としての元子であり、これの結合や運動によって説明せんと試みた諸現象はまさしく現在われわれの原子によって説明しようと試みつつある物理的化学的現象である。

そして、古代ギリシャのエピクロス派の自然哲学を以下のように称賛しているのです。

 このおそらく永遠に未完成であるべき物理的科学の殿堂の基礎はだれが置いたか。これはもちろん一人や二人の業績ではない。しかしその最初のプランを置き最初の大黒柱を立てたものは、おそらくルクレチウスの書物の内容を寄与したエピキュリアンの哲学者でなければならない。人はアリストテレスやピタゴラスをあげるかもしれない。前者は多くの科学的素材と問題を供し後者は自然の研究に数の観念を導入したというような点で彼らもまた科学者の祖先でないとは言われない。しかし彼らの立っていた地盤は今の自然科学のそれとはむしろ対蹠的(たいせきてき)に反対なものであったように見える。形而上学的の骨格に自然科学の肉を着けたものという批評を免れることはむつかしい。しかしそういう目的論的形而上学的のにおいをきれいに脱却して、ほとんど現在の意味における物理的科学の根本方針を定めたものはおそらくエピクロス派の人々でなければならない。彼らは少なくも現在の科学の筋道あるいは骨格をほとんど決定的に定めてしまったとも言われる。後代の学者はこれに肉を着け皮を着せる事に努力して来たようにも見られる。
 この大設計は決して数学や器械の力でできるものではなくて、ただ哲人の直観の力によってできうるものである。古代の哲学者が元子の考えを導き出したのは畢竟(ひっきょう)ただ元子の存在を「かぎつけた」に過ぎない。そして彼らが目を閉じてかぎつけた事がらがいよいよ説明されるまでには実に二千年の歳月を要したのである

なお、これほどまで寅彦がエピクロス派を称賛するのは、基本的には前述の、20世紀初頭の原子構造論に基づく「原子の実在」の科学的証明という時代背景もあると考えるべきですが、何より、20世紀の最新科学が導いた多くの結論を、紀元前300年という時代に「哲人の直観の力によって」見抜いていたという、その驚異的な先見性に、寅彦は深い感銘を抱いたのではないかと思うのです。

このあと、「以下ルクレチウスと私の呼ぶものは、必ずしもローマの詩人ルクレチウス・カールスをさすのではなくて、かの書に示された学説の代表者を抽象してそれをさすものである事を承知した上で以下の解説を読んでもらいたいと思うのである。」とした上で、「物の本性について」全6巻が各巻ごとに紹介されていますが、これは確かに読んでいてエピクロス派の先見の明に驚かされるのです。たとえば、以下の部分。

 ここで注意すべきもう一つの事は、「時間」なるものがやはりそれ自身の存在を否定されて、物性や作用などと同部類のいわゆる偶然的な、非永存的のものと見なされている事である。これも一つのおもしろい考え方である。十九世紀物理学の力学的自然観は、すべての現象を空間における質点の運動によって記載しようとした。そのために空間座標三つと時間座標一つと、この四つの変数を含む方程式をもってあらゆる自然現象の表現とした。後に相対性理論が成立してからは、時もまた空間座標と同様に見なされ取り扱われるようになったが、時というものの根本的な位地を全然奪おうとした物理学者はなかった。しかしもともと相対性理論の存在を必要とするに至った根原は、畢竟(ひっきょう)時に関する従来の考えの曖昧さに胚胎(はいたい)しているのではないかと考えられる。時間もそれ自身の存在を持たないと言ったルクレチウスの言葉がそこになんらかの関係をもつように思われる。「物の運動と静止を離れて時間を感ずる事はできない」という言葉も、深く深く考えてみる価値のある一つの啓示である。彼は「運動」あるいは速度加速度にともかくも確実なる物理的現象、可測的現象としての存在を許容して、時間のほうをむしろ従属的のものと考えているかのように見える

上述の、『彼は「運動」あるいは速度加速度にともかくも確実なる物理的現象、可測的現象としての存在を許容して、時間のほうをむしろ従属的のものと考えている』というあたり、アインシュタインの相対性理論の考え方に相当に近いように思えます。

そして同書が、いかに物理学者としての寅彦の琴線に触れたか、以下の結びの言葉に如実に表れているのです。

 ルクレチウスを読み、そうしてその解説を筆にしている間に、しばしば私は一種の興奮を感じないではいられなかった。従って私の冷静なるべき客観的紹介の態度は、往々にしてはなはだしく取り乱され、私の筆端は強い主観的のにおいを発散していることに気がつく。また一方私はルクレチウスをかりて自分の年来培養して来た科学観のあるものを読者に押し売りしつつあるのではないかと反省してみなければならない。しかし私がもしそういう罪を犯す危険が少しもないくらいであったら、私はおそらくルクレチウスの一巻を塵溜(ごみため)の中に投げ込んでしまったであろう。そうしてこの紹介のごときものに筆を執る機会は生涯来なかったであろう。

LIBER STUDIORUM
(昭和五年三月、改造)

7編からなるショート・エッセイ集。なお、このタイトルはラテン語で「学習の本」という意味で、イギリスの画家ターナーの画集のタイトルから取られたものとされます。

この中で有名なのは、関東大震災で倒壊した高層建築「浅草凌雲閣」の爆破を見物した際の印象が記されている部分。

 ぱっと塔のねもとからまっかな雲が八方にほとばしりわき上がったと思うと、塔の十二階は三四片に折れ曲がった折れ線になり、次の瞬間には粉々にもみ砕かれたようになって、そうして目に見えぬ漏斗から紅殻色(べんがらいろ)の灰でも落とすようにずるずると直下に堆積(たいせき)した。
 ステッキを倒すように倒れるものと皆そう考えていたのであった。
 塔の一方の壁がサーベルを立てたような形になってくずれ残ったのを、もう一度の弱い爆発できれいにもみ砕いてしまった。・・・
 爆破の瞬間に四方にはい出したあのまっかな雲は実に珍しいながめであった。紅毛の唐獅子が百匹も一度におどり出すようであった。
 くずれ終わると見物人は一度に押し寄せたが、酔狂な二三の人たちは先を争って砕けた煉瓦の山の頂上へ駆け上がった。中にはバンザーイと叫んだのもいたように記憶する。明治煉瓦時代の最後の守りのように踏みとどまっていた巨人が立ち腹を切って倒れた、その後に来るものは鉄筋コンクリートの時代であり、ジャズ、トーキー、プロ文学の時代である。

写実を極めた文章の中に滲む一抹の感傷のようなものが、何かしら独特の余韻を残すエッセイです。

なお、「寺田寅彦随筆集」第2巻に収録の全21編のエッセイのうち、今回で19編まで取り上げました。残りの2つ、「映画時代」「時事雑感」を次回に取り上げ、そのあと第1巻の方に移ります。

セラフィン/ローマ聖チェチーリア音楽院管によるプッチーニの歌劇「ボエーム」全曲


プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 セラフィン/ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団
 デッカ 1959年 POCL3802/3
POCL38023

今月の下旬から来月初めにかけて、イタリアのトリノ王立歌劇場の初来日となる引っ越し公演が行われますが、その「ボエーム」の公演を観に行く予定です。去年のミラノ・スカラ座の時と同様、安い席が手に入ったので、文化会館の5階で観ます。

以前にもブログに書いたことがありますが、私はプッチーニのオペラの中でも「ボエーム」が大好きで、これはプッチーニの最高傑作ではないかとも思っています。もちろん他にも、出世作の「マノン・レスコー」、人気度ナンバーワンの「トスカ」、日本が舞台ゆえに親しまれている「蝶々夫人」、絶筆の「トゥーランドット」、いずれも名作ですが、どれか一つを取るとすると、私の場合は「ボエーム」です。

トリノ王立歌劇場はプッチーニの「ボエーム」と「マノン・レスコー」という2大オペラを世界初演した歴史を有するという(その「ボエーム」の初演は、かのアルトゥーロ・トスカニーニの指揮だそうです)、重みのある伝統を誇る歌劇場ですので、どのような「ボエーム」が観られるか、今から楽しみです。

それで、性懲りもなく予習ということで、トゥリオ・セラフィン指揮ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団の演奏による「ボエーム」全曲盤をひと通り聴きました。歌唱陣はミミがレナータ・テバルディ、ロドルフォがカルロ・ベルゴンツィ、マルチェルロがエットーレ・バスティアニーニという陣容です。

あまりに有名な「ボエーム」の古典的名盤ですが、私が「ボエーム」というオペラを好きになったのも元はといえば、このセラフィン盤がキッカケだったように思います。特に素晴らしいのがテバルディのミミで、彼女の歌唱には他の誰が歌うミミとも違う独特のスケール感のようなものがあり、とにかく聴いていて惹き込まれます。録音時に80歳を超えていた巨匠セラフィンの指揮も絶妙、音質も抜群。これは私にとっての「ボエーム」最高の愛聴盤です。

以下、私が愛聴している他の「ボエーム」全曲盤の幾つかを簡単に紹介します。

4769212
プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 ジェルメッティ/ボローニャ市立歌劇場管弦楽団
 EMIクラシックス 1990年ライヴ 4769212

イタリアの名匠ジャンルイジ・ジェルメッティの指揮によるボローニャ市立歌劇場でのライヴ。ミミがダニエラ・デッシー、ロドルフォがジュゼッペ・サバッティーニ。気持ちのいいほど「イタリア」で固められたボエームですが、今では一般的になっている1988年発表の新校訂版スコアを初めて使用した録音だそうです。ここでは何といってもダニエラ・デッシーのミミが素晴らしく、「ポスト・フレーニ」としてミミを当たり役としていた頃の彼女の美質が、こよなく発揮されていて聞き惚れてしまいますし、サバッティーニのロドルフォも、往年のパバロッティ張りの高音の表現力が見事です。

UCCG14089
プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 ビリー/バイエルン放送交響楽団
 グラモフォン 2007年ライヴ UCCG-1408/9

このビリー盤については、すでに感想をブログに掲載済みですが、聴くほどに味の出るというのか、あれ以来ちょくちょく耳にして楽しんでいます。

GM60004
プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 C.クライバー/コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
 ゴールデンメロドラム 1979年ライヴ GM6.0004

「ボエーム」と言えばカルロス・クライバーの18番、しかし残念ながら正規盤が一つも無い、という状況です。とはいえ、残されている放送録音の中には音質が良好のものが少なくなく、全盛期のクライバーの振る「ボエーム」の醍醐味を比較的リアルに堪能することができるのは嬉しい限りと言うべきでしょう。その中のひとつが、このコヴェントガーデン王立歌劇場でのライヴ。2000年に伊ゴールデンメロドラムからリリースされたものです。ミミがコトルバシュ、ロドルフォがアラガル。音質は比較的良好で、全体にノイズ感は高いものの、下手なノイズリダクションが打たれていない分、かえって舞台の生々しさが良く伺われます。とはいえ、オリジナルテープの不具合からか、CD1の第12トラック(2:32)で音が数秒間消えていたりもしますし、決して手放しで絶賛できる音質もないので、やはり正規盤がリリースされるに越したことはありませんが、、

recitative-115
プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 C.クライバー/ミラノ・スカラ座管弦楽団
 Recitative 1979年ライヴ recitative-115

こちらは有名な1979年3月30日ミラノ・スカラ座での「ボエーム」のライヴです。ミミ:イレアナ・コトルバシュ、ロドルフォ:ルチアーノ・パヴァロッティ、ムゼッタ:ルチア・ポップという豪華メンバーで、ミラノ・スカラ座をクライバーが指揮した、夢のような「ボエーム」の公演。嬉しいことに音質はまずまず。それなりにノイズレベルも高いものの、少なくとも実演の臨場感は高水準に保たれていて好ましい感じがします。豪華キャストの中でも、やはりパヴァロッティがひときわ目立っていますが、コトルバシュならではの可憐さを全面に押し出したミミも聴きものです。クライバーの指揮も素晴らしい。

FED-015-16-20-21
プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 C.クライバー/ミラノ・スカラ座管弦楽団
 Artists 1981年ライヴ FED-015.16.20.21

1981年のミラノ・スカラ座の日本公演のライブです。同年9月15日の、東京文化会館での公演が収録されています(来日時のもうひとつの演目である、ヴェルディ「オテロ」全曲ライヴも付いていて、こちらは同年9月2日の、NHKホールでの公演のようです)。おそらく公演当日の放送用音源が何らかの形でCD化されたものだと思われますが、幾分こもり気味のモノラル録音で、低音が多少ブカブカしますし、上下左右の音場の広がりが限定されているあたりも惜しいところですが、全体的にノイズ感が低く、聴き疲れしない音質です。ミミがフレーニ、ロドルフォがドヴォルスキーという組み合わせ。フレーニのミミはテバルディのスケール感とコトルバシュの可憐さを共存させたような趣きがあり、「ミミのスペシャリスト」としてのフレーニの持ち味が聴いていてリアルに伝わってくる感じがします。

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「怪異考」「日本楽器の名称」「化け物の進化」ほか


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「怪異考」「日本楽器の名称」「比較言語学における統計的研究法の可能性について」「化け物の進化」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

怪異考
(昭和二年十一月、思想)

古来より「怪異」とされてきた現象は、合理的に解明できるのではないか、という物理学者らしい着眼点に基づくエッセイ。2つの「怪異」が俎上に乗せられています。

ひとつは「孕(はらみ)のジャン」。寅彦の郷里高知に古くから伝わるもので、姿が見えないのに、夜半にジャーンと鳴り響きて海上を過ぎ行く、正体不明の存在とされます。これが出ると魚が音に驚いて逃げ出すことから不漁になり、このことが転じて、何かが破談になる事を「おジャンになる」と言う、と書かれています。

これを寅彦は、小規模な地殻の揺れから生ずる「地鳴り」ではないかと推断しています。

 今問題の孕(はらみ)の地形を見ると、この海峡は、五万分の一の地形図を見れば、何人も疑う余地のないほど明瞭な地殻の割れ目である。すなわち東西に走る連山が南北に走る断層線で中断されたものである。さらにまたこの海峡の西側に比べると東側の山脈の脊梁は明らかに百メートルほどを沈下し、その上に、南のほうに数百メートルもずれ動いたものである事がわかる。もっともこの断層の生成、これに伴なう沈下や滑動の起こった時代は、おそらく非常に古い地質時代に属するもので、その時の歪が現在まで残っていようとは信ぜられない。しかしそのような著しい地殻の古きずが現在の歪に対して時々過敏になりうるであろうと想像するのは単に無稽な空想とは言われないであろう。
 それで問題の怪異の一つの可能な説明としては、これは、ある時代、おそらくは宝永地震後、安政地震のころへかけて、この地方の地殻に特殊な歪を生じたために、表層岩石の内部に小規模の地すべりを起こし、従って地鳴りの現象を生じていたのが、近年に至ってその歪が調整されてもはや変動を起こさなくなったのではないかという事である。

地殻の割れ目という地形上の特徴に着目し、怪異を理詰めで解明せんとしているところが素晴らしいですし、日本有数の地球物理学者の弁だけに説得力も無類です。

もうひとつの怪異は、美濃地方に伝わる「ギバ」と称するもので、これは馬を襲って斃死(へいし)させる魔物とのことです。

「ギバ」とは、「旋風のようなものが襲来し、その際に馬のたてがみが一筋一筋に立って、そのたてがみの中に細い糸のようなあかい光がさし込むと馬はまもなく死ぬ、そのとき、もし、すぐと刀を抜いて馬の行く手を切り払うと、その風がそれて行って馬を襲わない」と書かれています。

この怪異を、寅彦はセントエルモの火、あるいはこれに類似の空中放電現象と連関したものではないかと推断しています。

 ギバがなんらかの空中放電によるものと考えると、たてがみが立ち上がったり、光の線条が見えたり、玉虫色の光が馬の首を包んだりする事が、全部生きた科学的記述としての意味をもって来る。また衣服その他で頭をおおい、また腹部を保護するという事は、つまり電気の半導体で馬の身体の一部を被覆して、放電による電流が直接にその局部の肉体に流れるのを防ぐという意味に解釈されて来るのである。
 またこういう放電現象が夏期に多い事、および日中に多い事は周知の事実であるので、前述の時間分布は、これときわめてよく符合する事になる。


日本楽器の名称
(昭和三年一月、大阪朝日新聞)

三味線、尺八、胡弓を例にとって、日本楽器がルーツを辿れば外国の楽器と親族関係にあるのではないかという仮説を立て、それを楽器の名称の観点から検証しようという試みが述べられています。

 シナのフキン。朝鮮のコクン。日本のコキュー。モハメダンのギゲ。古代フランスのギグ。今のドイツのガイゲ。アフリカのゴゲ。いずれも同一属の楽器としてこんな名前が並べ得られる。
 これについて思い出すのは古いアッシリアの竪琴と正倉院にある箜篌との類似である。クゴはシナ音クンフーでハープと縁がある。アラビアの竪琴ジュンク。マライのゲンゴンと称する竹製の竪琴。シャムのコンヴォン。朝鮮のグムンゴまたクムンコなどが連想される。
 中央アフリカ北東コンゴーのある地方の竪琴にクンディまたはクンズというのがある。ここまで来ると騎虎の勢いに乗じて、結局日本のコトをついでにこれと同列に並べてみたくなるのである。
 竪琴の最古のものはテーベの墓の壁画に描かれたものだそうで恐ろしく古いものらしい。アッシリアのものはわずかに極東日本にその遠い子孫を残すに過ぎないと思われていたが、同じようなものが東トルキスタンで発見されたそうである(紀元一世紀ごろのもの)。これははなはだ意味の深い事実である。
 昔はあらゆる弦楽器がハープという一つの名で呼ばれたらしいという説がある。そういう事を頭においてだんだんに上記のいろいろの弦楽器の名前をローマ字書きに直して平面的あるいは立体的に並列させてみるとこれらはほとんど連続的な一つの系列を作る。これはたぶん偶然であるかもしれない。しかし万一そうでないかもしれない。かりに偶然でないとしたところでそれはこれらの名が擬音的であるために生ずる自然の一致であるか、あるいは伝統因果的関係から来るのか、たぶん両方であるか、これはなかなか容易にはわかりにくい問題であろう。

まさに音楽に造詣の深い寅彦ならではのエッセイ。その博識ぶりに読んでいて舌を巻く思いがします。

比較言語学における統計的研究法の可能性について
(昭和三年三月、思想)

これはエッセイというより、ほぼ学術論文の体をなしています。

「英語やドイツ語とだんだんに教わるうちに、しばしば日本語とよく似た音をもった同義の語に出会う事がある」が、それが偶然か否か、というところから話が始まります。

その内容を簡単に書きますと、地球物理学における大陸移動説においては、太古の昔、世界は一つの大陸であったが、陸地が分化して今のような大陸構成となった、同じことが言語にも言えないか、という壮大な仮説が示され、その可能性を探るために同系言語の「統計的密度」の「勾配(こうばい)」(gradient)によって、その系の言語の拡散方向を推定するという方法が提案されます。さらに統計学上の確率計算式を多数駆使しながら、前述の可能性が模索されるのです。

「学者」寅彦が相当に「本気」を出したようなエッセイで、寅彦の全エッセイの中でも最も理解するのが大変な部類に属する作品と思うのですが、それにしても、独特のロマンに満ちたエッセイだと思います。

化け物の進化
(昭和四年一月、改造)

日本の古き良き風習が、新時代になって消えつつあることを嘆くという趣きのエッセイ。

 不幸にして科学が進歩するとともに科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果として、化け物に対する世人の興味が不正当に希薄になった、今どき本気になって化け物の研究でも始めようという人はかなり気が引けるであろうと思う時代の形勢である。
 全くこのごろは化け物どもがあまりにいなくなり過ぎた感がある。今の子供らがおとぎ話の中の化け物に対する感じはほとんどただ空想的な滑稽味あるいは怪奇味だけであって、われわれの子供時代に感じさせられたように頭の頂上から足の爪先まで突き抜けるような鋭い神秘の感じはなくなったらしく見える。これはいったいどちらが子供らにとって幸福であるか、どちらが子供らの教育上有利であるか、これも存外多くの学校の先生の信ずるごとくに簡単な問題ではないかもしれない。西洋のおとぎ話に「ゾッとする」とはどんな事か知りたいというばか者があってわざわざ化け物屋敷へ探険に出かける話があるが、あの話を聞いてあの豪傑をうらやましいと感ずべきか、あるいはかわいそうと感ずべきか、これも疑問である。ともかくも「ゾッとする事」を知らないような豪傑が、かりに科学者になったとしたら、まずあまりたいした仕事はできそうにも思われない。

ちなみに文中にある「西洋のおとぎ話」の、「化け物屋敷へ探険に出かける話」というのは、おそらくワーグナー「ニーベルングの指輪」での、ジークフリートのファフナー退治のことを念頭に置いた話ではないかと思われます(寅彦はドイツ留学時代に当地でワーグナーのオペラを幾つか観ています)。

 しあわせな事にわれわれの少年時代の田舎にはまだまだ化け物がたくさんに生き残っていて、そしてそのおかげでわれわれは充分な「化け物教育」を受ける事ができたのである。郷里の家の長屋に重兵衛さんという老人がいて、毎晩晩酌の肴(さかな)に近所の子供らを膳の向かいにすわらせて、生(なま)のにんにくをぼりぼりかじりながらうまそうに熱い杯をなめては数限りもない化け物の話をして聞かせた。思うにこの老人は一千一夜物語の著者のごとき創作的天才であったらしい。そうして伝説の化け物新作の化け物どもを随意に眼前におどらせた。われわれの臆病なる小さな心臓は老人の意のままに高く低く鼓動した。夜ふけて帰るおのおのの家路には木の陰、川の岸、路地の奥の至るところにさまざまな化け物の幻影が待ち伏せて動いていた。化け物は実際に当時のわれわれの世界にのびのびと生活していたのである。

そして最後には、寅彦らしい重い提言で結ばれます。「科学教育はやはり昔の化け物教育のごとくすべきものではないか。法律の条文を暗記させるように教え込むべきものではなくて、自然の不思議への憧憬を吹き込む事が第一義ではあるまいか。これには教育者自身が常にこの不思議を体験している事が必要である。既得の知識を繰り返して受け売りするだけでは不十分である」という形で、いわゆる「詰め込み教育」の弊害を間接的に指摘しているのです。

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「備忘録」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「備忘録」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

備忘録
(昭和二年九月、思想)

これは12編からなるショート・エッセイ集ですが、ひとつひとつが珠玉であり、私の印象において、これは寺田寅彦の全てのエッセイの中でも最高クラスのものではないかと思っています。

最初の「仰臥漫録」は、寅彦の愛読書である、正岡子規の「仰臥漫録」(と夏目漱石の「修善寺日記」)についてのエッセイ。

 何度読んでもおもしろく、読めば読むほどおもしろさのしみ出して来るものは夏目先生の「修善寺日記」と子規の「仰臥漫録」とである。いかなる戯曲や小説にも到底見いだされないおもしろみがある。なぜこれほどおもしろいのかよくわからないがただどちらもあらゆる創作の中で最も作為の跡の少ないものであって、こだわりのない叙述の奥に隠れた純真なものがあらゆる批判や估価(こか)を超越して直接に人を動かすのではないかと思う。そしてそれは死生の境に出入する大患と、なんらかの点において非凡な人間との偶然な結合によってのみ始めて生じうる文辞の宝玉であるからであろう。

正岡子規と夏目漱石が寅彦の文学上の師である事実を考慮し、そのあたりを割り引いて読むべきかもしれませんが、しかし、、、

 岩波文庫の「仰臥漫録」を夏服のかくしに入れてある。電車の中でも時々読む。腰かけられない時は立ったままで読む。これを読んでいると暑さを忘れ距離を忘れる事ができる。「朝 ヌク飯三ワン 佃煮(ツクダニ) 梅干(ウメボシ) 牛乳一合ココア入リ 菓子パン 塩センベイ……」こういう記事が毎日毎日繰り返される。それが少しもむだにもうるさくも感ぜられない。読んでいる自分はそのたびごとに一つ一つの新しき朝を体験し、ヌク飯のヌクミとその香を実感する。そして著者とともに貴重な残り少ない生の一日一日を迎えるのである。牛乳一合がココア入りであるか紅茶入りであるかが重大な問題である。それは政友会が内閣をとるか憲政会が内閣をとるかよりははるかに重大な問題である。
・・・
 頭が変になって「サアタマランサアタマラン」「ドーシヨウドーシヨウ」と連呼し始めるところがある。あれを読むと自分は妙に滑稽を感じる。絶体絶命の苦悶でついに自殺を思うまでに立ち至る記事が何ゆえにおかしいのか不思議である。「マグロノサシミ」に悲劇を感じる私はこの自殺の一幕に一種の喜劇を感得する。しかし、もしかするとその場合の子規の絶叫はやはりある意味での「笑い」ではなかったか。これを演出しこれを書いたあとの子規はおそらく最も晴れ晴れとした心持ちを味わったのではないか。

こうして読んでいると、割り引いて読むべきところなど、何処にもないのではないか、という気がしてきますし、もう本当に心の底から愛読しているとしか思いようがないのです。

 夏目先生の「修善寺日記」には生まれ返った喜びと同時にはるかな彼方(かなた)の世界への憧憬が強く印せられていて、それはあの日記の中に珠玉のごとくちりばめられた俳句と漢詩の中に凝結している。子規の「仰臥漫録」には免れ難い死に当面したあの子規子(しきし)の此方(こなた)の世界に対する執着が生々しいリアルな姿で表現されている。そしてその表現の効果の最も強烈なものは毎日の三度の食事と間食とのこくめいな記録である。「仰臥漫録」から「ヌク飯」や「菓子パン」や「マグロノサシミ」やいろいろの、さも楽しみそうに並べしるしたごちそうを除去して考える事は不可能である。
 「仰臥漫録」の中の日々の献立表は、この命がけで書き残された稀有の美しい一大詩編の各章ごとに規則正しく繰り返されるリフレインでありトニカでなければならない。

これに続いての「夏」は、寅彦ならではの風流なエッセイです。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」が不意に出てきて驚かされます。

「涼味」は、人間の持つ涼しさという感覚の特殊性についての自由な随想。

「向日葵」は、自宅の庭のひまわりを観ながら芸術論に思いを巡らせたエッセイ。

「線香花火」は、線香花火の美しさを音楽に喩えて表現した寅彦ならではのエッセイで、燃え尽きたあとの線香花火を見ると「チャイコフスキーのパセティックシンフォニー(「悲愴」交響曲)を思い出す」と叙述されています。

「金平糖」は、寅彦が長いあいだ興味を抱き続けた研究対象のひとつで、金平糖の表面の無数の角の生成が、物理学的にどう説明できるのかについて思考を巡らせています。

「風呂の流し」は、風呂に入る時に、いわゆる三助の存在が自分には有難迷惑だという話。「世の中には、多くの人に喜ばれる流しをはなはだしく嫌忌する人間もまれにはあるという事実を一つの事実として記録しておく事もむだではないかもしれない」と書いていますが、これを読んで我が意を得たりという人も、当時は多かったのではないでしょうか。

「調律師」は、ピアノの調律師を題材としたエッセイ。短いので全文を掲載します。

 種々な職業のうちでピアノの調律師などは、当人にはとにかく、はたから見て比較的きれいで品の悪くないものである。だんだん西洋音楽の普及するに従ってこの仕事に対する要求が増加するので、従業者の数もこれに応じて増加しつつあるにかかわらず、いつも商売が忙しそうである。
 ピアノでもすえてあろうという室ならばたいていあまり不愉快でないだけの部屋ではあるだろうと思う。そうして応接する人間もたぶんはそれほど無作法に無礼でもなさそうに想像される。
 たくさんな弦線の少しずつ調子の狂ったのを、一定の方式に従って順々に調節して行く。鍵盤のアクションのぐあいの悪いのを一つ一つたんねんに検査して行く。これは見ていても気持ちのいいものである。かゆい所をかくに類した感じがある。すっかり調律を終わってから、塵埃(じんあい)を払い、ふたをして、念のために音階とコードをたたいてみていよいよこれで仕事を果たしたという瞬間はやはり悪い気持ちはしないであろうと想像される。
 夏目先生の「草枕」の主人公である、あの画家のような心の目をもった調律師になって、旅から旅へと日本国じゅうを回って歩いたらおもしろかろうと考えてみた事もある。
 狂ったピアノのように狂っている世道人心を調律する偉大な調律師は現われてくれないものであろうか。せめては骨肉相食(あいは)むような不幸な家庭、儕輩(さいはい)相(あい)せめぐようなあさましい人間の寄り合いを尋ね歩いて、ちぐはぐな心の調律をして回るような人はないものであろうか。
 物語に伝えられた最明寺時頼や講談に読まれる水戸黄門は、おそらく自分では一種の調律師のようなつもりで遍歴したものであったかもしれない。しかしおそらくこの二人は調律もしたと同時にまたかなりにいい楽器をこわすような事もして歩いたかもしれない。
 調律師の職業の一つの特徴として、それが尊い職業であるゆえんは、その仕事の上に少しの「我」を持ち出さない事である。音と音とは元来調和すべき自然の方則をもっている、調律師はただそれが調和するところまで手をかして導くに過ぎない。
 いわゆるえらい思想家も宗教家もいらない。ほしいものはただ人間の心の調律師であると思う時もある。その調律師に似たものがあるとすればそれはいい詩人、いい音楽者、いい画家のようなものではないだろうか。
 しかし世の中にはあらゆる芸術に無感覚なように見える人があり、またこれを嫌悪する人さえあるように見える。こういう人たちは「心のピアノ」を所有しない人たちである。従って調律師などには用のない人である。そういう人はいわゆる「人格者」と称せられる部類の人種の中に多いように見受けられる。これはむしろ当然の事であろう。もたないピアノに狂いようはない。咲かない花に散りようはないと同じわけである。

「芥川竜之介君」は、芥川竜之介の自殺に関しての短いエッセイ。寅彦にとって、同じ漱石門下生であった芥川竜之介の突然の自殺が、いかに衝撃的であったか、短い文章のなかに、まざまざと浮き上がっており、読んでいて胸を打たれます。

「過去帳」は、寅彦の幼少の頃に実家で働いていた女中の訃報を受けて綴ったエッセイ。しみじみと故人を偲ぶ文調に独特の趣きがあります。

「猫の死」は、同じ巻に収められている「子猫」の後日譚的なエッセイ。寺田家の飼い猫として家族に愛されていた「たま」と「三毛」の死について、しみじみと綴られています。

「舞踊」は、死んだ飼い猫「たま」が生前に時おり見せた、踊りのような不思議な挙動についてのエッセイ。おそらく亡きペットを偲ぶ気持ちの強さが筆を取らせたのではないでしょうか。

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「伊吹山の句について」「池」「路傍の草」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「伊吹山の句について」「池」「路傍の草」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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伊吹山の句について
(大正十三年二月、潮音)

松尾芭蕉の俳句「おりおりに伊吹を見てや冬ごもり」に対しての、寅彦の特別な興味が綴らせたエッセイ。なお、寅彦は高校時代に夏目漱石から俳句の手ほどきを受けて以来、生涯にわたって俳句を趣味として愛好し続けています。

 学生時代の冬休みに、東海道を往復するのに、ほとんどいつでも伊吹山付近で雪を見ない事はなかった。神戸東京間でこのへんに限って雪が深いのが私には不思議であった。現に雪の降っていない時でも伊吹山の上だけには雪雲が低くたれ下がって迷っている場合が多かったように記憶している。その後伊吹山に観測所が設置された事を伝聞した時にも、そこの観測の結果に対して特別な期待をいだいたわけであった。

以上のような興味に基づき、寅彦は実際に伊吹山の気象状況を調べて、句の妥当性を検証しているのです。

 問題の句を味わうために、私の知りたいと思った事は、冬季伊吹山で雨や雪の降る日がどれくらい多いかという事であった。それを知るに必要な材料として伊吹山および付近の各地測候所における冬季の降水日数を調べて送ってもらった。その詳細の数字は略するが、冬期すなわち十二月一月二月の三か月中における総降水日数を、最近四か年について平均したものをあげてみると、次のようである。

伊吹山  六九、二    岐阜   四十、二
敦賀   七二、八    京都   四九、二
彦根   五九、〇    名古屋  三〇、二

 すなわち、伊吹山は敦賀には少し劣るが、他の地に比べては、著しく雨雪日の数が多い、名古屋などに比べると、倍以上になるわけである。冬季三か月間、九十日のうちで、約六十九日、すなわち約七十七パーセントは雨か雪が降る勘定である。

そして、以下のように結ばれます。

 以上の事実を予備知識として、この芭蕉の句を味わってみるとなると「おりおりに」という初五文字がひどく強く頭に響いて来るような気がする。そして伊吹の見える特別な日が、事によると北西風の吹かないわりにあたたかく穏やかな日にでも相当するので、そういう日に久々で戸外にでも出て伊吹山を遠望し、きょうは伊吹が見える、と思うのではないかとまで想像される。そうするとまたこの「冬ごもり」の五字がひどくきいて来るような気がするのである。
 これはむしろ学究的の詮索に過ぎて、この句の真意には当たらないかもしれないが、こういう種類の考証も何かの参考ぐらいにはなるかもしれないと思って、これだけの事をしるしてみた。もし実際かの地方で、始終伊吹を見ている人たちの教えを受けることができれば幸いである。

読んでいて正直「たかだか俳句ひとつのために、そこまでするのか」とも思ったのですが、しかし最後の結論には、何か無類の説得力があるようにも思われます。ここまで検証されると、もう有無を言わさぬものがあると言いますか、、


(大正十三年十一月、理学部会誌)

寅彦が教鞭を取っていた東大の構内にある池に関してのエッセイ。この池は現在、「三四郎池」の通称で呼ばれます。もっとも、そう呼ばれるようになったのは後年になってからで、この時代には「心字池」と呼ばれていたらしいですが、いずれにしても、時代を超えて構内の学生に親しまれている池です。

 池には大きな鯉がかなりたくさんいる。あたたかい時候には時々姿を見せるが、寒中には、どうしているかさっぱり見えない。大きなすっぽんもいるそうだが、私はまだ見た事がない。・・・鯉については、某教授に関する一插話がある。教授が池を見おろしながら、小使いの某君と話していた。教授が「あいつを食ったらうまいだろうな」とひとり言のように言ったのに答えて、小使いが、あまりうまくないとか、苦いとか言ったそうである。これに対する教授の電光のようなリマークは「ヤ、貴様食ったな」というのであった、と伝えられている。事実は保証しない。

このあたりのユーモアたっぷりの記述をはじめとして、単に池の外観上の特徴にとどまらず、池の地質上の特徴にも言及されているところなど、読んでいて物理学者のエッセイらしいと思わせます。

 われわれの池が、いろんな小説や感想文の場面に使われた例もなかなか少なくなさそうであるが、このほうの文献はそのほうの専門家にお願いしたほうがよいと思うから、ここではいっさい触れない事とする。

明らかに漱石の「三四郎」を意識した結び。敢えて小説名を出さないところが奥ゆかしい感じがします(出すまでもなく十分に有名ということかも知れませんが)。

路傍の草
(大正十四年十一月、中央公論)

6編からなるショート・エッセイ集。

このうちの「車上」は、「いい考えを発酵させるに適した環境」に関する短い随想です。

 電車の中では普通の意味での閑寂は味わわれない。しかしそのかわりに極度の混雑から来た捨てばちの落ち着きといったようなものがないでもない。乗客はみんな石ころであって自分もその中の一つの石ころになって周囲の石ころの束縛をあきらめているところにおのずから「三上」の境地と相通ずる点が生じて来る。従って満員電車の内は存外瞑想に適している。机の前や実験室では浮かばないようないいアイディアが電車の内でひょっくり浮き上がる場合をしばしば経験する

それにしても「満員電車の内は存外瞑想に適している」という考え方は、21世紀の現在でも、そのままに通用しそうな話であって、大正時代の話とは思えないですね。

「ラディオフォビア」は、上野の精養軒で生まれて初めてラジオを耳にした体験を踏まえてのエッセイ。

 現象の本性に関する充分な知識なしに、ただ電気のテクニックの上皮だけをひとわたり承知しただけで、すっかりラディオ通になってしまったいわゆるファンが、電波伝播の現象を少しも不思議と思ってみる事もなしに、万事をのみこんだ顔をしているのがおかしいと言った理学者がある。しかし考えてみると理学者自身もうっかりすると同じような理学ファンになってしまう。相対性理論ファン、素量説ファンになる恐れが多分にある。これは警戒すべきことである。

最後にズシリと重いことを書いて終わらせるのは寅彦のエッセイの常套ですが、これもなかなかに重い。私も「クラシックファン」にならないように気をつけたい、、、

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「浮世絵の曲線」「二十四年前」「解かれた象」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「浮世絵の曲線」、「二十四年前」、「解かれた象」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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浮世絵の曲線
(大正十二年一月、解放)

浮世絵の図柄として描かれている曲線に関する考察を内容とするエッセイです。浮世絵の線の並列交錯に現われる節奏や諧調にどれだけの美的要素が含まれているかを、具体的に論じています。頭髪の輪郭、顔の輪郭の線、着物の襟(えり)の線といった曲線が非常に重要な役目をしていると看破し、「歌麿(うたまろ)以前と以後の浮世絵人物画の区別はずいぶん顕著なものである」と結論づけているのです。

 北斎の描いたという珍しい美人画がある。その襟がたぶん緋鹿の子か何かであろう、恐ろしくぎざぎざした縮れた線で描かれている。それで写実的な感じはするかもしれないが、線の交響楽として見た時に、肝心の第一ヴァイオリンがギーギーきしっているような感じしか与えない。これに反して、同じ北斎が自分の得意の領分へはいると同じぎざぎざした線がそこではおのずからな諧調を奏してトレモロの響きをきくような感じを与えている。たとえば富岳三十六景の三島を見ても、なぜ富士の輪郭があのように鋸歯状になっていなければならないかは、これに並行した木の枝や雲の頭や崖を見れば合点される。そこにはやはり大きな基調の統一がある。

日本画を「線の交響楽」と看做してオーケストラの演奏に喩えているあたり、読んでいて意表を突かれます。日常的に西洋音楽に親しんでいた寅彦ならではの、豊かなイマジネーションの閃きが感じられるエッセイです。

二十四年前
(大正十二年八月、思想)

寅彦の残したエッセイの中でも有名な作品のひとつです。「ちょうど今から二十四年前の夏休みに、ただ一度ケーベルさんに会って話をした記憶がある。ほんとうに夢のような記憶である。」という書き出しで始まり、二十四年前、寅彦が東京帝大の学生だった頃の「ケーベルさん」の思い出が綴られます。

「ケーベルさん」というのは当時、東京帝大で教鞭を取っていたロシア生まれの哲学者ラファエル・ケーベルで、ピアノの名手でもあり、その腕を買われて東京音楽学校でピアノを教えていたとされる人物です。

 そのころ音楽会と言えば、音楽学校の卒業式の演奏会が唯一の呼び物になったがこれは自分らには入場の自由が得られなかった。そのほかには明治音楽会というのがあって、このほうは切符を買ってはいる事ができた。半分は管弦楽を主とした洋楽で他の半分は邦楽であった。そのほかにも何かの慈善音楽会というようなものもあって、そんなおりには私にとっては全く耳新しかったいろいろのソロなどを聞く事もできた。
 記憶が混雑して確かな事は言われないが、たぶんそういう種類の演奏会のどれかで私は始めてケーベルさんの顔を見、ケーベルさんのピアノの独奏を聞いたように思う。曲がどういう曲であったかそれも覚えていない。ただ覚えているのは、ケーベルさんが一曲の演奏を終わって、静かに横にからだを向けて、椅子に腰かけたままじっと耳をすまして楽器と天井の間に往復する音波の反響(リヴァーベレーション)に聞き入っていた瞬間の姿である。聴衆は待ち兼ねていたように拍手をした。ケーベルさんが立ち上がるのも待たないで無遠慮に拍手を浴びせかけた。ケーベルさんは少しはにかんだような色を柔和な顔に浮かべて聴衆に挨拶した。

そして、この演奏会でのケーベルのピアノ演奏を聴いた寅彦が、その演奏と、ケーベルの人そのものに強く惹かれたことが語られます。

 演奏していた時の様子も思い出す。少し背中を猫背に曲げて、時々仰向いたり、軽くからだを前後に動かしたりしているのがいかにも自由な心持ちでそして三昧にはいっているようなふうに見えた。他の多くの演奏者と対比した時にいっそう何かしら全くちがったいい感じがした。
 まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした。
 平たく言えば私はその時から全くケーベルさんが好きになったのであった。もっともその前からその人がらについて充分な予備知識はもっていたのであるが、一度会って話がしてみたかった。しかしなんの用もないのに無紹介で訪問するのはあまりにぶしつけだと思って控えていた。

しかし、ケーベルに会って話がしたい一心で、寅彦は彼に手紙を送ります。

 返事をもらう事ができるかどうかと危ぶんでいる間もないほどに早く返事が来た。何日の何時に来いというのであった。それがどんなに私を喜ばせ興奮させたかは言うまでもない。
 約束の日に白山御殿町のケーベルさんの家を捜して植物園の裏手をうろついて歩いた。かなり暑い日で近辺の森からは蝉の声が降るように聞こえていたと思う。
 若い男の西洋人が取り次ぎに出た。書斎のような所へ通されると、すぐにケーベルさんが出て来た。上着もチョッキも着ないで、ワイシャツのままで出て来た。そしていきなり大きな葉巻き煙草を出して自分にも吸いつけ私にもすすめた。
 ドイツ語は少しも話せず、英語もきわめてまずかった私がどんな話をしたかほとんど全く覚えていない。ただ私がヴァイオリンを独習している事を話した時に、ケーベルさんは私のもっている楽器の値段を聞いた。それが九円のヴァイオリンである事を話したら、ケーベルさんは突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った。私はそれがなぜそれほどにおかしい事であるかをその時には充分理解する事ができなかった。それにもかかわらず私は笑われても別に不愉快でなかった。かえっていかにも罪のない子供のような笑いにつり込まれて私もわけもなく笑ってしまったのであった。

このあたりを読むと、ケーベル邸に招かれて彼と話をした寅彦の感動がいかに大きなものであったかが、まざまざと伝わってきて胸を打たれます。

 しかし私がケーベルさんを尋ねた第一の動機は、今になってみると、ヴァイオリンの問題よりはやはりむしろケーベルさんに会う事であったらしく思われる。考えてみると恥ずかしい事である。その時に私は二十三歳であった。ケーベルさんもまだそう老人というほどでもなかった。
 それきりで私は二度と会って話をした事はない。ただその後に一度駿河台の家へ何かの演奏会の切符をもらいに行った事がある。その時は今の深田博士が玄関へ出て来て切符を渡してくれた事を覚えている。これも恥ずかしい事である。その家の門の表札にはラファエル・フォン・コウィベルとしてあった。
 全く夢のようである。

そして最後に、以下のような、ズッシリとした文章で締めくくられるのです。

 自分のような、みずから求めて世間に義理を欠いて孤独な生活を送りながら、それでいて悟りきれずに苦しんでいるあわれな人間にとっては、ケーベルさんのような人が、どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもどんなに大きな慰藉であったかしれないと思う。その人がもうこの世にいないと思うのは、なんだか少しさびしい。


解かれた象
(大正十三年二月、女性改造)

上野動物園の一匹の象が浅草の花屋敷へ引っ越して行って、そこで何十年ものあいだ縛られていた足の鎖を解いてもらい、久しぶりで檻の内を散歩している、というニュース報道を話題とするエッセイ。

そして象が足に鎖を付けられた所以が語られ、そもそも象が正直で善良すぎるために、何十年ものあいだ足に鎖を付けられ不自由な生活を強いられ続けたのではないか、と述べ、鎖を嵌めた人間の側の非道な行いを間接的に諫めています。

自然と動物を愛する寅彦ならではの、温かい眼差しの感じられるエッセイ、ではあるのですが、読んでいて多少、話が飛躍し過ぎている印象も正直、受けなくもありません。なんとなく動物好きが過ぎる、というのか、それも彼の人柄ではありますけど、、

ヌーブルジェとヴァシリエヴァのデュオによるショパンとアルカンのチェロ・ソナタ


ショパン チェロ・ソナタ&アルカン 演奏会用チェロ・ソナタ
 ヴァシリエヴァ(vc)、ヌーブルジェ(pf)
 Mirare 2009年 MIR107
MIR107

ジャン・フレデリック・ヌーブルジェのピアノとタチアナ・ヴァシリエヴァのチェロのデュオによるショパンとアルカンのチェロ・ソナタのCDを聴きました(なお余白にはショパンの「序奏と華麗なるポロネーズ」も収録されています)。

これは仏Mirareより今年の3月にリリースされたCDで、新譜というには少し時期を逸していますが個人的に注目しているフランスの若手ピアニスト、ジャン・フレデリック・ヌーブルジェの最新録音ということで、どんな感じの演奏だろうと思い、取り寄せて聴いてみました。

ここでデュオを組んでいるチェリストのタチアナ・ヴァシリエヴァは、2001年の第7回ロストロポーヴィチ国際チェロ・コンクールでロシア人として初の優勝を成し遂げた豪腕チェリストとのことで、辣腕ピアニストのヌーブルジェと、どんなデュオが聴けるか、期待して演奏に耳を傾けてみました。

まずショパンのチェロ・ソナタですが冒頭のソステヌートの第1テーマを皮切りに、全体的にヌーブルジェ持ち前の強靭にして高貴な輝きのある打鍵の充溢ぶりが目覚ましく、その色彩的な豊かさ、光沢の美しさ、揺るぎもないいテクニックの切れ、張り裂けんばかりの強音の訴えかけ、すべてが彼のベストフォームではないかというくらいの圧倒的な充実感を示していて、そのピアニズムの素晴らしさに聴いていて惚れぼれさせられます。

そのヌーブルジェのピアノと絡むヴァシリエヴァのチェロもまた絶品というべき演奏を披歴し、しなやかなフレージングワーク、豊かな包容力、味わい深い音色、そして時おり見せる陰の濃い表情、すべてが魅力的であり、なんと素晴らしいチェリストなのだろうと、これまた聴いていて惚れぼれさせられます。

しかし、このショパンにおいて私が真に素晴らしいと思うのは、それぞれのアーティストの訴求力が何か相乗的に高め合って、1+1が3にも4にもなっているのではないかというように思える点で、少なくとも私はショパンのチェロ・ソナタのCDで、これほど共演者の持ち味なりを互いに高め合ったような演奏というのを他に知らないとさえ思えます。

併録のアルカン「演奏会用チェロ・ソナタ」はピアノ、チェロ、両パートとも典型的なヴィルトゥオーゾ・スタイルの作品であり、せわしなく動き回る細かいパッセージの醸し出す悪魔的なムードなど、いかにもアルカン的な印象を受けますし、ショパンに比べると、幾分まがまがしい雰囲気も強く、ショパンの盟友リストが、もしチェロ・ソナタを残していたら、やっぱりこんな感じの曲になるかも、という気がしますが、そういった雰囲気が本演では比較的にダイレクトに聴いていて伝わります、それもやはり二人のアーティストの卓抜した演奏技術の賜物のように思えました。

アインシュタインの特殊相対性理論をベートーヴェンのように味わう


昨日の更新で、寺田寅彦の「相対性原理側面観」を取り上げましたが、その中で寅彦は、アインシュタインの特殊相対性理論を理解することは物理学の素人でも不可能でないばかりか、かえって容易な事だとさえ述べています。そして、「少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではな」いとも書いています。

これに関して以下、余計な御世話かも知れませんが、私なりに補足してみたいと思います。別に難しい話ではないので、気楽に読んでいただければと思います。

ポイントは、寅彦が特殊相対性理論を「コロンバスの卵」に喩えている点にあると思います。あの卵の話を難しいと思う人は、いないと思いますが、それと同じ意味で、おそらく寅彦は特殊相対性理論における発想自体を、それほど難しい話でないと言いたかったのではないかと思うのです。

その特殊相対性理論ですが、もし広辞苑をお持ちであれば、「特殊相対性理論」を引くと、以下のように書かれているはずです。

1905年、アインシュタインが絶対静止の座標系を否定して、互いに等速運動をしている座標系に関してはすべての自然法則は同一の形式を保つということを主張した理論。質量とエネルギーの等価性が導かれた。→相対性理論。

何だか分りにくいことが書かれています。これは一体、何を言っているのでしょうか。

ここで「絶対静止の座標系を否定」というのが、絶対静止の座標系というのが何処かにあって、それを否定したのだろうなということは分かるとして(←そのまんまですが、、)、後半の「互いに等速運動をしている座標系に関してはすべての自然法則は同一の形式を保つということを主張」って言うのが、いかにも分かりにくい。

結論から言ってしまいますと、ここは実は「すべての自然法則は同一の形式を保つ」というのがポイントとなっていて、裏を返すと、自然法則が同一の形式を保たないようなものがあるという考え方が前提としてあります。それが「光の速度」です。

というのも、「光の速度」というのは、たとえ誰が見ても断固として変わらない、ということが判明しているからです。これが「光速度不変の原理」で、これは厳然たる物理的事実です。

「絶対静止の座標系を否定」というのは、「光を特別扱いしません」というアインシュタインの決意表明です。「互いに等速運動をしている座標系に関してはすべての自然法則は同一の形式を保つ」というのは、「一定の速度で動いている限り、それらが止まっていようと動いていようと、成り立つ物理法則は同じです」ということで、これは「相対性原理」と呼ばれています。

なお「相対性原理」と「相対性理論」は、名前は似ていますが、別ものです。「相対性原理」というのは要するにニュートン物理学の基盤というか拠り所のようなもので、これが成り立たないと古典物理学自体が成り立たないというくらい重要な原理です。そしてアインシュタインの考え出した「相対性理論」とは、「光速度不変の原理」と「相対性原理」とを同時に矛盾なく成り立たせるための理論です。

例えば、道路を同じ方向に走っている2台の乗用車があって、片方が時速30キロ、片方が時速50キロだったら、おそい方の乗用車に乗っている人から見たら、速い方の乗用車は時速20キロで走っているように見えるじゃないですか。

要するに50-30だから20なわけで、これをガリレイ変換と言います。

「相対性原理」というのは「一定の速度で動いている限り、成り立つ物理法則は同じです」ということですと書きましたが、ここで問題になる「物理法則」とは、実はガリレイ変換のことです。

いや、こんなもの普通なんだって成り立つでしょう?と思われるかもしれないですが、実は「光」というのは困ったヤツで、唯一これが当てはまらないのです。なぜなら、前述のように「光の速度」というのは、たとえ誰が見ても断固として変わらないからです。

光速を秒速30万キロとすると、宇宙を秒速20万キロで飛行できる宇宙船(実際はないですが、あると仮定します)と同じ方向に、光が追い抜いたとします。宇宙船に乗っている人から見て、光の速度はどう見えるか?

30-20だから秒速10万キロ、としたいところですが、あいにく答えは「秒速30万キロ」です。

これが「光速度不変の原理」で、だれが見たって、こうなってしまう。たとえ秒速29万キロで飛行できるウルトラマンのようなのがいたとして、秒速29万キロで飛んでいるときに、光が追い抜いたとしても、やはりウルトラマンには、その追い抜いた光が秒速1万キロではなく秒速30万キロに見えてしまうのです。つまり30-29=1というガリレイ変換が成り立たない。ので、「成り立つ物理法則が同じ」という相対性原理も成立しなくなってしまう

これって、どう説明すればよいのでしょうか? どうしたら「光速度不変の原理」と「相対性原理」とが同時に矛盾なく成り立つのか? これを鮮やかに解決したのが「アインシュタインの特殊相対性理論」なのです。

その前に、そもそも光の速度が不変って、正しいのか?という話ですが、これは19世紀の物理学者により実験で確かめられてもいますし(マイケルソン=モーリーの実験など)、それ以前に、マックスウェルの電磁方程式から理論的に結論づけられてしまうので、もうどうしょうもなく「事実」なのです。アインシュタインの相対性理論は、「ニュートン物理学とマックスウェル電磁気学の矛盾」を解決するために生まれた理論だとよく言われるのも、それが理由です。

以下、宇宙船と光の進行方向は同一として、

①静止している人から見て、光は秒速30万キロの速さに見える。
②静止している人から見て、宇宙船は秒速20万キロの速さに見える。
③宇宙船の搭乗員から見て、光は秒速30万キロの速さに見える。

「光速度不変の原理」と「相対性原理」とが同時に矛盾なく成り立つためには、この3つが「矛盾なく」成り立つ必要があります

常識的に考えるなら、①と②が成り立つ場合、③は成り立たないはずです。①によると光は秒速30万キロで飛んでいて、②によると宇宙船は秒速20万キロで、同じ方向に飛んでいるんですから、その宇宙船の搭乗員から見て光は秒速10万キロの速さに見えなければ理屈に合わない。しかし、それだと③と矛盾してしまう、、、

これに対してアインシュタイン以前の、つまり19世紀までの物理学者はどう考えたかというと、「もう光は相手にしないことにしよう」でした。要するに光というのは「特別」で、少なくともニュートン物理学の手に負える相手ではないから、もう放っとこう、というわけです。それで光専用の「絶対静止の座標系」という特別イスを用意したのです。つまり光が秒速30万キロの速さに見えるのは、「絶対静止の座標系」の中だけの話で、あとは知らないよ、ということにしたのでした。

しかしアインシュタインは、そうは考えなかった。「絶対静止の座標系」という、わけのわからないもので誤魔化すのを断固として拒否した。ここがアインシュタインの天才たる所以で、彼は1~③を矛盾なく成り立たせる法則を、ついに発見したのです。

③宇宙船の搭乗員から見て、光は秒速30万キロの速さに見える。

ここの「秒速」というのが実はポイントなのです。

③を言い換えると、「“宇宙船の搭乗員にとっての1秒”の間に、光は30万キロ進む」となります。

同様に、①を言い換えると、「“静止している人にとっての1秒”の間に、光は30万キロ進む」となります。

ここでアインシュタインの出した結論は、「宇宙船の搭乗員にとっての1秒の長さ」と「静止している人にとっての1秒の長さ」は、実は同じでないという、およそ突拍子もないものでした。

これで、①~③は矛盾なく成り立つのです。

まさに「コロンバスの卵」!

「いやいや、時間の長さは変えられないだろう」というのが常識的発想で、こんな発想はアインシュタイン以前、誰もしなかった。しかし、①~③を矛盾なく成り立たせるためには、こう考えるよりほかにないんだから仕方がないじゃないか、というのがアインシュタインの考え方でした。

ここでは宇宙船を引き合いに出していますが、今のところ人間には秒速20万キロで動く手段が無いので、架空の宇宙船を出しているだけの話で、その速さで動けるなら人間に置き換えたっていいんです。要するに、ここで重要なのは「光の速度に近づけば近づくほど、その人の周りの時間の流れが遅くなる」という物理法則で、これが「アインシュタインの特殊相対性理論」です。

秒速20万キロで飛んでいる宇宙船の中は、いわば「浦島太郎」状態になっているのです。宇宙船の中で1秒経ったと感じる間に、静止している人には、その何倍もの時間が流れている。ということは、その「何倍もの時間」だけ、光もドンドン進んでいくわけですから、宇宙船の中の人が1秒経ったと感じる間、光もドンドン進んでいってしまって、その結果、秒速20万キロという圧倒的な速さで飛んでいるはずの宇宙船から見ても、光が秒速30万キロの速さに見え、③が成り立つことになるわけです。

これは厳然たる物理的事実であって、おとぎ話ではありません。であればこそ、以上のようなアインシュタインの革新的な発想と、その思考の論理性とから、人は深い感銘を与えられることになるのだと思います。まるでベートーヴェンの交響曲のように、、、

先月、私は「読書間奏」で茂木健一郎の「あなたにもわかる相対性理論」を取り上げましたが、その中で、「相対性原理」と「光速度不変の原理」が成り立つから「時間が遅れる」ということの説明は詳しく書かれているが、「時間が遅れる」から「相対性原理」と「光速度不変の原理」が成り立つということの説明がどこにもない、このことはアインシュタインが特殊相対性理論で本当に言いたいことのはずであり、これが抜けている以上、理論の革命性と偉大さを最後まで感得し切れない憾みが残る、という風に書きました。

同著に限らず、相対性理論の入門書においては、「時間が伸び縮みする」という画期的概念ばかりが強調されており、どの本でも「なぜ時間が伸び縮みするのか」という説明は十二分に為されているのですが、「なぜ時間が伸び縮みしなければならないのか」という点は、およそ十分に説明されていない傾向にあるようです(著者としては説明しているつもりかも知れないが、その重要性が読み手に必ずしも伝わっていない)。

しかし、アインシュタインは別に「時間が伸び縮みする」ことを最初から証明しようと思って同理論を考え始めたのでは全然なく、この理論の核心は、あくまで「相対性原理」と「光速度不変の原理」が同時に成り立つにはどうすればいいか、という考え方にこそあるはずなのです。

以上、いろいろ書きましたが、要するにアインシュタインの特殊相対性理論は、そんなに難しいものではなく、物理学の素人でもベートーヴェンを味わうように味わえるという、寅彦の書いた主張を、私なりに咀嚼して書いてみました(ただし、アインシュタインの一般相対性理論の方は、圧倒的に難しく、とても私の手に負える範疇にありません)。


「寺田寅彦随筆集」第2巻より「電車の混雑について」「相対性原理側面観」「子猫」


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「電車の混雑について」「相対性原理側面観」および「子猫」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

電車の混雑について
(大正十一年九月、思想)

 満員電車のつり皮にすがって、押され突かれ、もまれ、踏まれるのは、多少でも亀裂(ひび)の入った肉体と、そのために薄弱になっている神経との所有者にとっては、ほとんど堪え難い苛責(かしゃく)である。その影響は単にその場限りでなくて、下車した後の数時間後までも継続する。それで近年難儀な慢性の病気にかかって以来、私は満員電車には乗らない事に、すいた電車にばかり乗る事に決めて、それを実行している。・・・

ラッシュ時に満員電車を回避する方法について述べたエッセイ。夢のような話ですが、そんな方法が本当にあるのでしょうか?

その答えは「混雑の週期的な波動の「峰」を避けて「谷」を求めて乗れば良い」というものです。

要するに「1台か2台やり過ごせば、必ず空いた電車が来る」ということが、数式的および実証的に(神田神保町の停留所における実地の検証を踏まえて)論じられています。その内容は確かに興味深いものですが、残念ながら、あくまで大正時代の東京の路面電車を対象とする考察であって、少なくとも21世紀現在の東京のラッシュ時の電車の混雑に対して、これを当て嵌めるのは、さすがに無理だと感じます。

というのも、電車到着の間隔にある程度のムラがあることが前提で、ダイヤ通りにきっちり定刻に、電車が駅に到着するような、現在の電車の運行状況には適応が難しいからです。

しかし着眼の鋭さはさすがですし、まず数式的に理論づけ、それを自分で実証してしまうというあたり、読んでいて唸らされます。

相対性原理側面観
(大正十一年十二月、改造)

 世間ではもちろん、専門の学生の間でもまたどうかすると理学者の間ですら「相対性原理は理解しにくいものだ」という事に相場がきまっているようである。理解しにくいと聞いてそのためにかえって興味を刺激される人ももとよりたくさんあるだろうし、また謙遜ないしは聞きおじしてあえて近寄らない人もあるだろうし、自分の仕事に忙しくて実際暇のない人もあるだろうし、また徹底的専門主義の門戸に閉じこもって純潔を保つ人もあるだろうし、世はさまざまである。アインシュタイン自身も「自分の一般原理を理解しうる人は世界に一ダースとはいないだろう」というような意味の事を公言したと伝えられている。そしてこの言葉もまた人さまざまにいろいろに解釈されもてはやされている。

以上の書き出しで始まり、さらに寅彦は、しかしながらアインシュタインの相対性理論(このエッセイでは「相対性原理」と呼称されています)について、「数学の複雑な式の開展を充分に理解しないでしかも、アインシュタインがこの理論を構成する際に歩んで来た思考上の道程を、かなりに誤らずに通覧する事も必ずしも不可能ではない」と言い切ります。

 不可能でないのみならずある程度までのある意味での理解はかえってきわめて容易な事かもしれない。少なくもアインシュタイン以前の力学や電気学における基礎的概念の発展沿革の骨子を歴史的に追跡し玩味した後にまず特別相対性理論に耳を傾けるならば、その人の頭がはなはだしく先入中毒にかかっていない限り、この原理の根本仮定の余儀なさあるいはむしろ無理なさをさえ感じないわけには行くまいと思う。ある人はコロンバスの卵を想起するであろう。卵を直立させるには殻を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである。
 殻を砕いて新たに立てた根本仮定から出発して、それから推論される結果までの論理的道行きは数学者に信頼すればそれでよい。そして結果として出現した整然たる系統の美しさを多少でも認め味わう事ができて、そうして客観的実在の一つの相をここに認める事ができたとすれば、その人は少なくとも非専門家としてすでにこの原理をある度まで「理解」したものと言っても決して不倫ではない。・・・
 少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではなく、またそういう程度に味わう事がそれほど悪い事でもないと思う。

アインシュタインの特殊相対性理論を理解することは、物理学の素人でも不可能でないばかりか、かえって容易な事だとさえ述べているのが目を引きます。同理論を「コロンバスの卵」と表現している点も注目すべきと思います。「卵を直立させるには殻を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである」・・

そして、「少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではなく、またそういう程度に味わう事がそれほど悪い事でもないと思う」と書き、アインシュタインの相対性理論をベートーヴェンの曲に喩えるという、独特の視点が打ち出されています。

 私は科学の進歩に究極があり、学説に絶対唯一のものが有限な将来に設定されようとは信じ得ないものの一人である。それで無終無限の道程をたどり行く旅人として見た時にプトレミーもコペルニクスもガリレーもニュートンも今のアインシュタインも結局はただ同じ旅人の異なる時の姿として目に映る。この果てなく見える旅路が偶然にもわれわれの現代に終結して、これでいよいよ彼岸に到達したのだと信じうるだけの根拠を見いだすのは私には困難である。・・・
 こういうわけで私はアインシュタインの出現が少しもニュートンの仕事の偉大さを傷つけないと同様に、アインシュタインの後にきたるべきXやYのために彼の仕事の立派さがそこなわれるべきものでないと思っている。
 もしこういう学説が一朝にしてくつがえされ、またそのために創設者の偉さが一時に消滅するような事が可能だと思う人があれば、それはおそらく科学というものの本質に対する根本的の誤解から生じた誤りであろう。
 いかなる場合にもアインシュタインの相対性原理は、波打ちぎわに子供の築いた砂の城郭のような物ではない。狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚である。

以上を読んでいて驚異的だと感じるのは、寅彦が、アインシュタインの相対性理論の重大性と、その将来の発展性を、この時期(大正11年)に見抜いていること。21世紀の現在においても、とくに宇宙物理学の分野で、アインシュタインの相対性理論は必要不可欠なものですが、この理論の重要性を大正時代に見抜いた日本人が、はたしてどれだけいたのでしょう。

 自然の森羅万象がただ四個の座標の幾何学にせんじつめられるという事はあまりに堪え難いさびしさであると嘆じる詩人があるかもしれない。しかしこれは明らかに誤解である。相対性理論がどこまで徹底しても、やっぱり花は笑い、鳥は歌う事をやめない。もしこの人と同じように考えるならば、ただ一人の全能の神が宇宙を支配しているという考えもいかにさびしく荒涼なものであろう。

「四個の座標の幾何学」という、相対性理論の本質を鋭く突く書き方といい、独特の詩的な表現で同理論を賛辞している点といい、いずれも素晴らしい文章だと思わされます。

子猫
(大正十二年一月、女性)

これは「寺田寅彦随筆集」第1巻に収録されている「ねずみと猫」の続編的なエッセイです。

すっかり寺田家に溶け込んだ、2匹の野良猫「三毛」と「たま」を題材に、主に「三毛」の出産と、その後の顛末について語られています。

ほのぼのとした諧調のエッセイですが、それだけに「三毛」が最初に産んだ子猫を、出産直後に寅彦の過失により死なせてしまうあたりのくだりが、ひときわ痛々しい印象を与えます。

そしてエッセイの最後は、以下の、ズシリとした文章で締めくくられています。

 私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない。


ペレーニのウィグモア・ホールでのチェロ・リサイタルのライヴ


「ミクロシュ・ペレーニ チェロ・リサイタル」
 ペレーニ(vc) ヴァーリョン(pf)
 ウィグモアホールLive 2009年ライヴ WHLIVE0035
WHLIVE0035

「ウィグモア・ホール・ライヴ」から先月リリースされた、ハンガリーの名チェリストであるミクロシュ・ペレーニのウィグモア・ホールでのリサイタルをライヴ収録したCDを聴きました。

収録曲は以下の通りです。
①J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲第3番
②ブリテン チェロ・ソナタ
③ブラームス チェロ・ソナタ第2番
④ショパン チェロ・ソナタより第3楽章

このうち②~④はハンガリーのピアニスト、デーネシュ・ヴァーリョンとのデュオによる演奏、また④は当日のリサイタルのアンコール曲です。

なお、ペレーニの録音としては、フンガロトンから昨年末にリリースされたミクロコスモス弦楽四重奏団(ペレーニがチェロ奏者として加わっている)による、珠玉ともいうべきバルトーク弦楽四重奏曲全集に続くリリースとなります。

聴いてみると、①のバッハでは、まるで書の達人が描きだすような、ペレーニならではのフレージングの伸び伸びとした呼吸感と、その開放感が素晴らしく、全体を支配するチェロ独奏の落ち着いたフレーズ構成、音色の開放的な味わい、そして、音楽全体を包み込むような、まろやかな響きの味わい、そのどれもが、まごうことなき「ペレーニの音」というべきものを形成せしめていて、その演奏の醸し出す深々とした含蓄においては、ちょっと名状しがたいものさえ感じられるほどです。

②のブリテンでも全体として、それほどテンポが遅いわけでもないのに、そのフレージングには常にデンと構えたような落ち着いた佇まいが絶えず、そこから紡ぎ出される音色の高貴なまでの深みも絶え間なく、ヴァーリョンとの息の合った呼吸も素晴らしく、なかんずくレントの第3楽章の音楽の含蓄には筆舌に尽くし難いものがあり、その宗教的とさえ言えるような、気高くて美しい静けさを耳にするに及び、この作品の「深さ」を何だか再認識させられたようにも思います。

③のブラームスも圧巻の演奏と言うべきで、その弾き回しにおいては、とにかく音楽の流れが全くの自然体にして、およそ作為の痕跡がないこと、それ自体に聴いていて感嘆させられる、そんな演奏なのです。なぜなら、おそらく技術的に余裕があるがゆえに、難関を難関として聴かせないだけのフレージング技術の高さがコンスタントに発揮された演奏でありながら、同時に所謂「効果狙い」という観念から遠く離れた、孤高なまでの「中庸の美」が、演奏の全体に確として浮かび上がっている、そんな風に聴いていて感じられるからです。

こうして聴いてみると、18世紀のバッハ、19世紀のブラームス、20世紀のブリテンと、相当に幅広い作曲年代の作品を取り上げながら、いずれの演奏においても各作品の深奥に届いたかのような、神韻たる演奏を可能とする、ペレーニのチェリストとしての表現の高みに、あらためて感服させられてしまったのですが、そういった、「作曲家の年代を選ばない」という点のほか、もうひとつ聴いていて私が感服させられたのは、ペレーニが「演奏形態を選ばず、常に自己の持つ最高のパフォーマンスを発揮することができる」という観点なのです。

というのも、前述のように本CDでは、①はペレーニの独奏、②~④はヴァーリョンとのデュオですが、そのペレーニの前回の録音であるバルトークの弦楽四重奏曲全集においては、ミクロコスモス弦楽四重奏団というカルテットのメンバーとして演奏していて、そのいずれの形態においても、必ず「ペレーニの音」が鳴り響いているからです。

このような、作曲家の年代を選ばない、演奏形態を選ばない、というあたり、何か大家のチェリストとしての底知れない懐の深さのようなものが伺われるように思えますし、おそらくテクニックとは別に、そのあたりも聴き手の傾聴を誘わずには置かない、ペレーニならではの掛け替えのない個性の現れのひとつではないかと、このライブ・アルバムを聴き終えて、あらためて感じました。いずれにしても、このペレーニのライブ・アルバムは間違いなく今後、私の愛聴盤のひとつとして長く聴き続けていくCDになると思います。

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「亮の追憶」と「一つの思考実験」


寺田寅彦のエッセイですが、昨日の「蓄音機」に続き、今回は「亮の追憶」と「一つの思考実験」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-2

亮の追憶
(大正十一年五月、明星)

寅彦の甥にあたる亮という人物の追憶を綴った、シリアスなエッセイ。

寅彦と亮とは幼少時から親しく付き合った仲とされ、例えば寅彦は熊本での高校時代に、夏目漱石から俳句を習っていますが、郷里の高知に帰省した折に、今度は寅彦が俳句の先生になって、漱石から教わった事を甥の亮に教えていたことなどが書かれています。

そして亮は寅彦と同様、東京帝国大学に進学しますが、そこで激しい神経衰弱を煩うのです。

 亮は自分の事を頭が悪い悪いと言っていた。しかし私の見るところでは、むしろ珍しいくらいいい透徹した頭脳をもっていたように思われる。かなり複雑な科学上の事実や理論でも気持ちのいいように急所をのみ込んだ。世間に起こっているいろいろな出来事でも、その事がらの表面に現われている現象よりも、その現象の底にある原動力のほうにすぐに目をつけていた。他人の言行でもそれを通して直接に腹の中を見透していた。そういう敏感さは子供の時分からすでにあったのが、病気のためにいっそう著しく病的に敏感になっていたように思う。それだから、他人はもちろん肉親の人々やまた自分自身のでも、胸の奥底にある少しの黒い影でも見のがす事ができなかった。そしてそういう美しくないものに対する極端な潔癖は、人に対し自分に対する無心な純な感情の流露を妨げた。そうしてまたそのような感情の拘束の自覚が最もきびしく彼を苦しめ悩ましていたように見える。しかし人一倍美しいやさしい感情を持っていなかったのであったら、このような煩悶はおそらく有り得なかったのではあるまいか。罪は頭のいい事にあった。もう少し頭が悪かったら、亮はどんなに気らくであったろう。
 こういう不安と煩悶をいだきつつ、学校へ出ては発酵化学の実験をやり、バクテリヤの培養などをやっていた。そして夜は弟と二人で、よく寄席や芝居や活動を見に行って、やるせない心のさびしさを紛らせようとしていたらしい。胃の痛むのによく蕎麦や汁粉を食ったりしては、さらに自分に対する不満を増していたように見える。

大学卒業後、地方の農学校の教諭として赴任しますが、そこで肺病を煩い、その短い生涯を終えます。

自身の幼少時代から兄弟のように育った、この甥の死に対し、寅彦は以下のような感懐を記しています。

「散るべくしてわずかに散らないでいた桐(きり)の一葉が、風のない静かな夕べにおのずから枝を離れて落ちたような心持ちがした。自分の魂の一部分がもろく欠け落ちて永久に見失われたというような心持ちもした。」

一つの思考実験
(大正十一年五月、中央公論)

寅彦の全エッセイ中でも特筆大書すべきエッセイのひとつ。

冒頭の書き出しからして目を見張らされます。

 私は今の世の人間が自覚的あるいはむしろ多くは無自覚的に感ずるいろいろの不幸や不安の原因のかなり大きな部分が、「新聞」というものの存在と直接関係をもっているように思う。あるいは新聞の存在を余儀なくし、新聞の内容を供給している現代文化そのものがこれらの原因になっていると言ったほうが妥当かもしれないが、それはいずれにしても、私はあらゆる日刊新聞を全廃する事によって、この世の中がもう少し住みごこちのいいものになるだろうと思っている。

「日刊新聞を全廃する事によって、この世の中がもう少し住みごこちのいいものになる」という、驚くべき提言です。

新聞がなくても困らない理由を、以下のように述べます。

 海外に起こった外交政治経済に関する電報は重要な新聞記事の一つである。こういうものがあらゆる階級の人に興味があるという事は望まるべき事でもあり、またそれが事実であるとしたところで、これらの報知を一日でも早く知る必要をほんとうに痛切に感ずる人が国民の中で何人あるかという事を考えてみなければならない。
 次には内国の政治経済産業方面に関する記事でも、大多数の国民が一日を争うて知らなければならないものがどのくらいのパーセントを占めているかを考えてみなければならない。
 全くとらわれない頭で冷静に考えてみた時に、これらの記事の大部分は、多数の「善良な国民」がたとえ一か月くらいおくれて知っても少しの不都合のないものであると私は考える。
 ただ国民の中でおそらくきわめて少数なある種のデマゴーグ的政治家、あるいは投機的の事業にたずさわるいわゆる「実業家」のうちの一部の人たちは、一日でも一時間でも他人より早くこれらの記事を知りたいと思うだろう。そういう人々の便宜を計るという事がかりにいいとしたところで、そういう人はよしや新聞を全廃してもおそらく少しも困る事はあるまい。それぞれ自分で適当な通知機関を設けて知るだけの事は知らなければ承知しないに相違ない。これに反して大多数の政党員ないし政治に興味をもつ一般人、それからまじめな商業や産業に従事している人たちにとってたとえば仏国の大統領が代わったとかニューヨークの株が下がったとか、あるいは北海道で首相が演説したとか議会で甲某が乙某とどんなけんかをしたとかいう事を、二週間あるいは一月おそく知ったためにどれだけの損害があるかが私にはよほど疑わしい。
 これらの記事がすべて正確であると仮定した場合でさえ、その必要が疑わしいくらいならば、記事が不正確である場合にはどうなるだろう。

以上のような主張は、確かに大正時代には主張できても、21世紀の現在の高度情報化社会においては通用しにくい理由づけかも知れませんが、それでも傾聴に値するようにも思うのです。

特に社会欄が、この世の中にありとあらゆる醜悪な「罪」に関する、不正確な記事で埋め尽くされているのも大いに問題だと書いています。

新聞を毎日のように読むことで、以下のような弊害があるのではないかと述べてもいます。

 ただ一つだけでも充分な深い思索に値するだけの内容をもった事がらが、数限りもなくただ万華鏡裏の影像のように瞬間的の印象しかとどめない。そのようにしてわれわれの網膜は疲れ麻痺してしまってその瞬時の影像すら明瞭に正確に認めることができなくなってしまうのではあるまいか。
 こういう習慣は物事に執着して徹底的にそれを追究するという能力をなしくずしに消磨させる。たとえばほんとうに有益なまとまった書物でも熟読しようというような熱心と気力を失わせるような弊がありはしまいか。

ここまでは、単に寅彦自身が新聞嫌いであって、それを正当化するために色々と書いているという色合いも強く、これだけだったら、そう大したエッセイでもないと言えなくもありません。

しかし、このエッセイの凄いところは、ここからです。

 このような考えから、私はいっその事日刊新聞というものを全廃したらよくはないかという事につい考え及んだわけである。今のところそれは容易に実行される見込みのない事である。しかし少なくもそういう事を一つの思考実験として考えてみる事はなんのさしつかえもなく、またあながち無意味な事でもないかもしれない。

この「思考実験」というのが、読んでいてビックリさせられるものなのです。

 ここでは私もあらゆる政治欄社会欄等の記事の内容がすべての種類の読者に絶対的必要なものであると仮定する。そういう仮定のもとに新聞全廃の実験を遂行するとすれば、必然の結果として、何か日刊新聞に代わってこれらの知識を供給する適当な機関が必要になって来るのである。

そして、「このような考えから私の「実験」は一つの夢のような大新聞の設立に移って行った」と書き、以下の驚くべき構想を開陳するに至ります。

 この社の主脳を形成するものは、あらゆる官庁学校商社のみならず、各政党や宗教家思想家のあらゆる団体の代表的人物を網羅したものでなければならない。そしてそれらの社員は単に寄書家という格で外様大名のような待遇を受けるのでなくて、その社の仕事の全体に参与しかつ責任を負うものでなくてはならない。これらの記者たちはそれぞれ専門の方面で一般のために有益であるべきあらゆる重要事項の正確な報道紹介や、災害の防止に関する適切な助言や注意を提供し、また公共事業に対する問題を提出して最善の方案を公衆に求める事を努めなければならない。もちろんこれらの人々は一方ではそれぞれの本来の職務に従事しているが、その職務時間の若干をさいて公衆のためにこれらの記事を草するという事は少しも不都合とは思われないのみならず、むしろそういう事は職務に付帯した義務の一部分と考えられない事はない。またそういうものを記述する事によって各自の職務の遂行上有益な啓示(ヒント)を得る場合もかなり多いだろうと思われる。
 こういう大新聞社の経営を少数な資本家の手にゆだねるのは穏当ではあるまい、これはむしろ全国民自身か、少なくもその大部分の共同経営によるものとしなければなるまい。そうするためには経営維持に必要な費用は租税などと類似の方法で一般から集め、記者や編集員らも適当に組織された選挙制度によって定めるべきであろう。しかしこういう選挙制度にいつも付きまとう弊害を防止するためにはこれらの記者の地位を決して物質的に有利なものにしてはならない。記者たる事によって一身の利益を計るに便宜を得るような可能性は始めから除去するような制度組織が必要である。ほんとうに社会の利益のみしか考えない人ばかりならばその必要はないが、この用心はだれも知るとおり今のところどうしても必要である。
 もしこのような新聞社ができたとすれば、それは従来の意味の新聞社とはだいぶちがったものになる。むしろ国民社会一般の幸福安寧に資すべき調査研究報告機関のようなものになってしまう。こういうものは全国にただ一つあって、各地には適当に支局を分配して、中央を通じて相連絡すればよい
 政治経済教育宗教学芸産業軍事その他ありとあらゆる方面にわたる現実の正確な知識を与え、一般の輿望(よぼう)に基づいて各当局の手の回らぬところを研究し補助して国家社会のあらゆる機関の円滑な融合を計るがために、こういう特別な一大組織を設けるという事は、むしろ一国の政府自身としても当然考えなければならない事のように思われる。単に小官衙(しょうかんが)の片すみの一課などに任しておくべきものではないとも思われる。
 もっともいうまでもなく現在の新聞というものも本来はこの仮想的の一大機関と同じような役目を果たすために生まれたものであろう。ただそれが遺憾ながら理想的に行っていないために、ここにこのような問題が起こったわけである。

これを私が読んで驚いたのは、「この仮想的の一大機関」というのが、現在のインターネットに近い性質を持った存在なのではないかと思えたからです。

・「これらの人々は一方ではそれぞれの本来の職務に従事しているが、その職務時間の若干をさいて公衆のためにこれらの記事を草するという事」

・「全国民自身か、少なくもその大部分の共同経営による」

・「これらの記者の地位を決して物質的に有利なものにしてはならない。記者たる事によって一身の利益を計るに便宜を得るような可能性は始めから除去するような制度組織が必要である」

これらは、まさに現在のインターネットにおける個人のウェブサイトの運営形態そのものではないかと思えるのです。

そうだとするなら、インターネットのようなネットワークの存在を、大正時代に夢想し、その実現を予期していたかのような寅彦の想像力には途方もないものがあると言えるのではないでしょうか。

「寺田寅彦随筆集」第2巻より「蓄音機」


昨日の更新で書きましたように、今日から寺田寅彦の残したエッセイ作品につき、まず岩波文庫の小宮豊隆編「寺田寅彦随筆集」第2巻に収録されているものから、順に取り上げていきます。

Torahiko-Essay-Collection-2

まず、「寺田寅彦随筆集」第2巻に収録されているエッセイのタイトルを収録順に以下に列記します。

・蓄音機
・亮の追憶
・一つの思考実験
・電車の混雑について
・相対性原理側面観
・子猫
・浮世絵の曲線
・二十四年前
・解かれた象
・伊吹山の句について
・池
・路傍の草
・備忘録
・怪異考
・日本楽器の名称
・比較言語学における統計的研究法の可能性について
・化け物の進化
・ルクレチウスと科学
・LIBER STUDIORUM
・映画時代
・時事雑感

以上21編です。

今回は、最初の「蓄音機」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

蓄音機
(大正十一年四月、東京朝日新聞)

 グラモフォーンに対する私の妙な反感がいくらか柔らげられるような機会が来たのは私が三十二の年にドイツへ行っていた時の事である。かの地の大使館員でMという人と知り合いになったがその人がラッパのない、小さな戸棚のような形をした上等の蓄音機をもっていた。そしてかの地で聞く機会の多いオペラのアリアや各種器楽のレコードを集めて、それを研究し修練してわびしいひとり居の下宿生活を慰めていた。その人の所で私はいい蓄音機のいいレコードがそれほど恐ろしいものではないという事を初めて知った。しかしそれにしても当時耳にする機会の多かった本物の音楽に比べては到底比較にならない物足りないものだという気がした。曲の構想や旋律を研究し記憶して、次に本物を聞くための準備をするには非常に重宝なものであるとは気がついたが、これを純粋な芸術的享楽の目的物とする気にはどうもなれなかった。それで蓄音機と私との交渉はそれきりになってさらに十年の歳月が流れた。

この「蓄音機」は、寺田寅彦のエッセイとしては比較的有名なもののひとつです。本エッセイは冒頭、まず以下のような書き出しで始まります。

 エジソンの蓄音機の発明が登録されたのは一八七七年でちょうど西南戦争の年であった。太平洋を隔てて起こったこの二つの出来事にはなんの関係もないようなものの、わが国の文化発達の歴史を西洋のと引き合わせてみる時の一つの目標にはなる。のみならず少なくとも私にはこの偶然の合致が何事かを暗示する象徴のようにも思われる。エジソンの最初の蓄音機は、音のために生じた膜の振動を、円筒の上にらせん形に刻んだみぞに張り渡した錫箔の上に印するもので、今から見ればきわめて不完全なものであった。ある母音や子音は明瞭に出ても、たとえばSの音などはどうしても再現ができなかったそうである。その後にサムナー・テーンターやグラハム・ベルらの研究によって錫箔の代わりに蝋管を使うようになり、さらにベルリナーの発明などがあって今日のグラモフォーンすなわち平円盤蓄音機ができ、今ではこれが世界のすみずみまで行き渡っている。もしだれか極端に蓄音機のきらいな人があってこの器械の音の聞こえない国を捜して歩くとしたら、その人はきっとにがにがしい幻滅を幾度となく繰り返したあげくにすごすご故郷に帰って来るだろうと思われる。

蓄音器の誕生の歴史が、軽いウィットを交えた軽快な語り口で的確に語られているのが目を引きます。これを読むと、平円盤蓄音機が当時「グラモフォーン」と呼ばれていたことがわかりますし、その平円盤蓄音機が当時すでに世界中に普及していた事実も窺い知ることができます。

これにつづいて、寅彦が中学生のころ、学校の講堂で蝋管型の蓄音器に関する課外授業があり、そこで生まれて初めて蓄音器を聴いたこと、その時の感動などがエッセイの中で語られます。それに続いて「グラモフォーン」(平円盤蓄音機)との出会いについて以下のように語られています。

 私が初めて平円盤蓄音機に出会ったのは、瀬戸内海通いの汽船の客室であったように記憶する。その後大学生時代に神戸と郷里との間を往復する汽船の中でいつも粗悪な平円盤レコードの音に悩まされた印象がかなり強く残っている。船にいくじがなくて、胸に込み上げる不快の感覚をわずかにおさえつけて少時の眠りを求めようとしている耳元に、かの劣悪なレコードの発する奇怪な音響と騒がしい旋律とはかなりに迷惑なものの一つである。それが食堂で夜ふけまで長時間続いていた傍若無人の高話がようやく少し静まりかけるころに始まるのが通例であった。波が荒れて動揺のすさまじい時だけはさすがにこの音も聞こえなかったが、そういう時にはまた船よいの苦悩がさらにはなはだしかった。・・・蓄音機のラッパというものも私にはあまり気持ちのいいものではなかった。器械全体の大きさに対してなんとなく均衡を失して醜い不安な外観を呈するものである。一寸法師が尨大(ぼうだい)なメガフォーンをさしあげてどなっているような感じがある。これが菊咲き朝顔のように彩色されたのなどになるといっそう恐ろしい物に見えるのである。

以上のような体験が、寅彦の「グラモフォーンに対する私の妙な反感」となって残り、「蓄音機と私との交渉はそれきりになってさらに十年の歳月が流れた」が、それでも時代の流れとともに一般家庭にも蓄音機が徐々に普及し出し、ついに1918年1月4日の午後、寅彦は銀座の三光堂で、蓄音機とレコード数枚を購入するに至ります。

 普通の和製のレコードとヴィクターのと見比べて著しく目につく事は盤の表面のきめの粗密である。その差はことに音波の刻まれた部分に著しい。適当な傾きに光を反射させて見た時に一方のはなんとなくがさがさした感じを与えるが、一方は油でも含んだような柔かい光沢を帯びている。これは刻まれた線の深さにもよる事ではあろうが、ともかくもレコードの発する雑音の多少がこの光沢の相違と密接な関係のある事は疑いもない事である。これは材料その物の性質にもよりまた表面の仕上げの方法にもよるだろうが、少しの研究と苦心によって少なくも外国製に劣らぬくらいにはできそうなものであるのに、それができていないのはどういう理由によるものか、門外漢にはわかりかねる。・・・
 いずれにしても今の蓄音機はまだ完全なものとは思われない。だれにでもいちばんに邪魔になるのはあのささらでこするような、またフライパンのたぎるような雑音である。・・・しかしこの雑音は送音管部のみならず盤や針や振動膜やすべての部分の研究改良によって除去し得ないほどの困難とは思われない。早晩そういう改良が外国のどこかで行なわれるだろうと予期される。
 もう一つの蓄音機の欠点は、レコードの長さに制限があって長い曲が途中で中断せられる事である。この中絶をなくするために二台の器械を連結してレコードの切れ目で一方から他方へ切りかえる仕掛けがわが国の学者によって発明されたそうであるが、一般の人にはこの中断がそれほど苦にならないと見えて、まだ市場にそういう器械が現われた事を聞かない。

このあたり、当時のレコードの国内盤と輸入盤との品質の違い、蓄音器の将来の展望などが、寅彦らしい明晰な視点から述べられており、読んでいて実に面白い。

 ある日K君のうちへ遊びに行ったらヴィクトロラの上等のが求めてあって、それで種々のいいレコードを聞かされた。レコードは同じのでも器械がいいとまるで別物のように感じられた。今までうちで粗末な器械でやっていたのはレコードに対する虐待であった事に気がついた。うちの器械で鋼鉄の針でやる時にあまりに耳立ちすぎて不愉快であったピッコロのような高音管楽器の音が、いい器械で竹針を用いれば適当に柔らげられ、一方ではまた低音の弦楽器の音などがよほど正常の音色を出す事を知った。
 年の暮れに余分な銭のあったのをヴィクトロラの中でいちばん安いのにかえて針も三角の竹針を用いる事にした。同じレコードの中から今まで聞かれなかったいろいろの微細な音色のニュアンスなどが聞き分けられるのが不思議なくらいであった。ごまかしの八百倍の顕微鏡でのぞいたものをツァイスのでのぞいて見るような心持ちがした。精妙ないいものの中から、そのいいところを取り出すにはやはりそれに応ずるだけの精微の仕掛けが必要であると思った。すぐれた頭の能力をもった人間に牛馬のする仕事を課していたような、済まない事をしていたというような気がするのであった。
 鉄針と竹針とによる音色の相違はおそらく針自身の固有振動にも関係するだろうしまた接触点の弾性にもよるだろうが、これらの点を徹底的に研究すれば今後の改良に関する有益なヒントを得られるだろうと思われる。
 いずれにしてもまだ現在の蓄音機は不完全と言われてもしかたのない状態にある。三色写真が絵画の複製術として物足りないごとく、蓄音機は名曲のすぐれた演奏の再現器として物足りないものである。それだから蓄音機は潔癖な音楽家から軽視されあるいは嫌忌されるのもやむを得ない事かもしれない。私はそういう音楽家の潔癖を尊重するものではあるが、それと同時に一般の音楽愛好者が蓄音機を享楽する事をとがめてはならないと思うものである。

このあたりの記述を見ますと、当時の寅彦が相当にオーディオに傾倒していたことが伺われますし、少しでも良い音で音楽を聴きたい、というのは時代に関係ない普遍的欲求なのだということも痛感されます。

 蓄音機でいい音楽を聞くのと、三色版で名画を見るのとはちょっと考えると似ているようで実は少し違ったところがあると思う。私の考えでは、三色版が色彩に対しても不忠実であるのみならず、画面の微妙な光沢や組織に対し全然再現能力のないのに反して、良い蓄音機では音色や強弱の機微な差別が相応に現われ、そして最も重要な要素と考えられる時間関係がかなり厳密に再現される。そういう点で蓄音機のほうがある意味で三色版より進んでいるとも言われる。ただ困る事には今の蓄音機に避くべからざる雑音の混入が、あたかも三色版の面にきたないしみの散点したと同様であるようにも思われる。しかし人間の耳には不思議な特長があって、目の場合には望まれない選択作用が行なわれる。すなわち雑多な音の中から自分の欲する音だけを抽出して聞き分ける能力を耳はもっている。音楽家が演奏をしている時に風や雨の音、時には自分の打っているキーの不完全な槓杆(てこ)のきしる音ですらも、心がそれに向いていなければ耳には響いても頭には通じない。この驚くべき聴感の能力のおかげで、われわれは喧騒の中に会話を取りかわす事ができ、管弦楽の中からセロやクラリネットや任意の楽器の音を拾い出す事ができる。
 これに反して目のほうでは白色の中から赤や緑を抜き出す事が不可能であり、画面から汚点を除却して見る事はどうしてもできない。

雑音に惑わされず音楽を聴く心得というかコツのような話ですが、視覚との対比という着眼が寅彦ならではです。

 もう一つ音楽家にとって不満足であろうと思うのは、たとえ音色がよく再現できていると言ったところで、これをほんとうの楽器に比べればどうしてもいくぶんの差違のある事は免れ難い事である。いろいろな音の相対的の関係はかなりによく行っていても、全体にかぶさっている濁りあるいは曇りのようなものがあってそれが気になるだろうと思われる。しかしこれはたとえば同一の絵を少し暗い室で見るとか、あるいは少し色のついた光の下で見るとよく似た事であって、正常の光で見た時の印象が確実に残っていない人にとってはその区別は全然認識されない。もしそうでなかったら曇り日に見たセザンヌと晴天に見たセザンヌは別物に見えなければならないわけである。同じようなわけで八畳の日本室で聞くヴァイオリンと、広い演奏室で聞く同じひき手の同じヴァイオリンとも別物でなければならない。・・・
  畢竟(ひっきょう)蓄音機をきらいなものとするか、おもしろいものとするかは聞く人の心の置き方でずいぶん広い範囲内でどうにもなるものだろうと思う。これは絶対的善美なものの得られない現世であらゆるものの価値判断に関係して当てはまる普遍的方則ではあるまいか。それで私は蓄音機をきらう音楽家のピュリタニズムを尊敬すると同時に蓄音機を愛好する素人を軽視する事はどうしてもできない。

これなどは「蓄音機」を「CDプレーヤー」に置き換えて読んでも、現在そのまま通用しそうな文章であり、寅彦の思考の普遍性、時代超越性が端的に伺えて驚かされます。

そして最後、以下のような、21世紀を生きる私達にとっては甚だ「重い」文章で、このエッセイを締めくくっています。

 蓄音機に限らずあらゆる文明の利器は人間の便利を目的として作られたものらしい。しかし便利と幸福とは必ずしも同義ではない。私は将来いつかは文明の利器が便利よりはむしろ人類の精神的幸福を第一の目的として発明され改良される時機が到着する事を望みかつ信ずる。その手始めとして格好なものの一つは蓄音機であろう。
 もしこの私の空想が到底実現される見込みがないという事にきまれば私は失望する。同時に人類は永遠に幸福の期待を捨てて再びよぎる事なき門をくぐる事になる。

次回は「亮の追憶」と「一つの思考実験」を取り上げます。

寺田寅彦について


ブログのカテゴリーに「寺田寅彦」を追加しました。

もともと「読書間奏」のカテゴリーで扱う予定でしたが、やはり専用のカテゴリーを振った方がスッキリするので、そうすることにしました。

当面の方針として、とりあえず夏目漱石の方は後回しにして、寺田寅彦のエッセイを集中的に取り上げていきたいと思っています。

というのも、夏目漱石の方は、まさか日本人で名前を知らない人などいないだろうと、いうくらいの大文豪であるのに対し、寺田寅彦の方は、よく知らない、あるいは全く知らないという人も、かなり多いのではないかと思われますし、少なくとも両者の知名度に少なからぬ開きがあるのは事実だと思うからです。ですので私としては、まず寅彦の方から優先的に取り上げたい。

その寅彦のエッセイで何を取り上げるか、ですが、岩波書店から出版されている文庫版の小宮豊隆編「寺田寅彦随筆集」全5巻に含まれる、すべてのエッセイを出来る限り取り上げる方針で考えています。

Torahiko-Essay-Collections

以前に「寅彦のエッセイに関しては私が素晴らしいと思うものを取り上げるようにしたい」と書きましたが、上記の随筆集に含まれている作品群においては、漱石の門弟・小宮豊隆の選りすぐりであるだけに、素晴らしいと思わない作品がほとんどないので、収録エッセイ全部を取り上げるという方針にしました。

順序ですが、まず第2巻から開始したいと思います。全5巻の中でも特筆に値する珠玉のエッセイが相対的に多く含まれていると思われるからで、以後、第1巻→第3巻→第4巻→第5巻という順番で、各巻の収録エッセイを出来るだけ全て取り上げるという形にします。

その前に、寺田寅彦という人物の、文学家および物理学者としての両面につき、以下に簡単に書きます。

寺田寅彦は1878年に生まれ1935年に没した日本の物理学者にして随筆家で、「天災は忘れた頃にやってくる」という、あまりにも有名な格言を残しています。

1896年に熊本の第五高等学校に入学した際、英語教師の夏目漱石、および物理学教師の田丸卓郎との邂逅により、後年において科学と文学を志すようになり、最終的に科学と文学の両分野において傑出した業績を残すに至っています。

まず文学の分野ですが、寺田寅彦は夏目漱石の数多くの門下生の中でも特別な存在であり、例えば同じく当時の漱石の門下生であった小説家・江口渙は、「わが文学半生記 回想の文学」 (1953年刊 講談社文芸文庫)において、寅彦のことを以下のように述懐しています。

多勢のお弟子の中で、漱石が一番高く評価していたのは、何といっても理学博士寺田寅彦だった。いや、寺田寅彦の場合は、高く評価していたという言葉さえもあたっていない。むしろ、漱石の方でも十分な尊敬をもってうけ入れていた、というべきであろう。そして、そのかんけいは弟子というよりも、弟子以上といえば、もっとあたっているかもしれない。

実際、寺田寅彦の随筆を中心とする数々の著作は、他の漱石門下の文人の著作とともに日本文学全集にも組み入れられており、その事実だけでも彼の文学の分野における功績を物語るに十分なものがあると思います。

次に寺田寅彦の科学の分野における功績に関してですが、何といっても当時ノーベル賞に限りなく近づいたと言われるX線の研究が挙げられます。

日本人で初のノーベル物理学賞の受賞者は、1949年に受賞した湯川秀樹であることは、おそらく誰でも知っている事実ですが、では湯川秀樹以前に、ノーベル物理学賞を受賞した可能性のある日本の物理学者はということになると、それは寺田寅彦ということになるのです。

寺田寅彦は1908年に東京帝国大学理科大学物理学科を修了し理学博士となり、直後ドイツに2年間留学し、帰国後、X線の研究に従事するようになります。

もともとX線を最初に発見したのはレントゲンであり、それは1885年のことですが、その発見の後もしばらくX線の正体は不明であったところ、実は波長の極めて短い電磁波であることがドイツの物理学者ラウエにより立証されたのです。ならば、その波としての干渉効果と、波長の短さとを利用して、人間の目どころか顕微鏡からでさえも視認できないような、金属の微細な結晶構造を解析できないかという発想がとられ、その研究に寅彦は従事しました。その方法というのは、金属の結晶の表面にX線を当てて、そこから生成されるX線の干渉模様の状態から、その金属結晶に特有の原子配列を捉えるという、当時としては画期的なものでした。

これらの研究の成果を寅彦は1913年にイギリスの科学雑誌ネイチャーに発表(「X線の結晶透過について」)しますが、不運なことに、それとほぼ同様の研究内容を、イギリスのローレンス・ブラッグとヘンリー・ブラッグのブラッグ親子が、ちょうど寅彦の研究と並行する形で進めており、その研究成果をまとめたブラッグの論文が、寅彦のネイチャー発表のわずか3ヶ月前に発表されてしまったのです。これにより、寅彦の研究はタッチの差で研究としての新規性を失ってしまうことになります。

そして、ローレンス・ブラッグとヘンリー・ブラッグは、そのX線の研究の功績が認められ、1915年にノーベル物理学賞を受賞しているのです。それならば、彼らとほぼ同じ研究成果を発表した寅彦が、もしわずかでもブラッグ親子に先んじて研究発表を行っていたなら、ノーベル物理学賞の受賞は寅彦だったのではないか、と考えることもできるでしょう。この事実が、戦前において日本人にノーベル賞が授与されていたとしたら、おそらく寺田寅彦を措いて他にないと言われる所以となっているのです。

なお、上述した寺田寅彦のX線研究に関する概要は、岩波書店「寺田寅彦全集 文学編 第8巻 科学雑纂・地球物理学」に、「X線の回折現象と物質の内部構造」としてまとめられています。

Torahiko-Zensyu

以上、寺田寅彦の科学と文学の分野における業績について簡単に書きましたが、要するに寺田寅彦の残した一連の著作というのは、彼のノーベル賞に肉薄するほどの天性ともいうべき科学的思考力と、夏目漱石直伝ともいうべき文章表現力とが合併しているので、すごいことになっています。彼の一連のエッセイは、21世紀の現在において読んでも通用するとかいう次元ではなく、むしろ21世紀の今だからこそ我々は読まなければならないというような、啓示に富んだ面白さに満ちているように思うのです。

そういうわけで、私は当ブログにおいて寺田寅彦のエッセイを取り上げ、その素晴らしさを紹介していきたいと思う次第です。

カンブルラン/読売日響の演奏会(7/14 サントリーホール)の感想


読売日響の定期演奏会 
 7月14日(水) サントリーホール

2010-07-14

指揮:シルヴァン・カンブルラン

演目:
 フォーレ 劇音楽「ペレアスとメリザンド」
 メシアン 鳥たちの目覚め
    (ピアノ演奏:児玉桃)
 ドビュッシー ピアノと管弦楽のための幻想曲
    (ピアノ演奏:児玉桃)
 デュティユー  メタボール(5つの変遷)

私がカンブルランに惹かれるキッカケとなった昨年4月の東京芸術劇場でのコンサート以来となる、オール・フランス・プログラムということで期待していました。

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたVn-Va対向配置、編成はフォーレが14型、メシアンが8型(正確には第1Vn・第2Vn・Va・Vcすべて8人ずつ)、ドビュッシーが14型、デュティユーが16型でした。なお、もともとフォーレの後にドビュッシーを演奏する予定だったところ、当日はカンブルランの要望でメシアンと入れ替えたとのことでした。

最初のフォーレ「ペレアスとメリザンド」は、私自身この曲が大好きなこともあり、実演で聴けて素直に嬉しかったです。

欲を言うなら、「メリザンドの歌」も付けてくれると尚のこと良かったですが、全体的にストイックで清らかな響きのアンサンブル展開から、フォーレの音楽の美しい部分が虚飾なく描かれた演奏だったと感じます。

余談ながら、フォーレ「ペレアスとメリザンド」の私の愛聴盤をひとつ。

POCG7064
フォーレ 劇音楽「ペレアスとメリザンド」
 小澤征爾/ボストン交響楽団
 グラモフォン 1986年 POCG7064

もう15年も前に購入したCDで、今でも愛聴しています。「メリザンドの歌」(ロレーン・ハントのソプラノ歌唱)も入っていて、その何とも言えない詩情に、何度聴いても惹かれます。

メシアン「鳥たちの目覚め」は児玉桃のピアノ演奏に充実味を感じました。曲の冒頭でのナイチンゲールの鳴き声の場面から、今年のラ・フォル・ジュルネでの憑依的なショパンを彷彿とさせる独特の、辺りを払うような雰囲気が素晴らしく、その雰囲気が音にも乗り移ったかのような、強い表出力を伴うタッチの凛とした佇まいに聴いていて強く惹き込まれるとともに、バックのオーケストラともども、このメシアンの音楽の異界性というのか、情緒的なものから解放された、抽象的な音の世界へと、ホール全体の世界を居ながらにして塗り替えてしまう、そんな演奏でした。

ドビュッシー「ピアノと管弦楽のための幻想曲」は、ピアノ・オケともども、リアルな目線でクールにスコアを再現し切ったような感のある演奏で、その極めて高い完成度は特筆に価すべきだったと思います。しかし贅沢をいえば聴いていて多少の不満もあり、ドビュッシーの「フランス音楽らしさ」というものが、さほど伺われない演奏だったこと、さらに言うなら、何というか、それこそ現代音楽のように硬い響きの演奏に終始し、フランス音楽としての音色の精妙なエレガンシーとか、エスプリの効いた表情付け、ないしハーモニーのフワッとした溶け合いの妙などは、全般に希薄であったようにも感じられた点です。ギリギリのところで音に硬さが抜けないというのか、そのあたりがフォーレならまだしも、ドビュッシーともなると誤魔化しが効かないこともあって、どうしてもそれなりに耳につく、という感じでした。読売日響としても、やはり本当にカンブルランの欲する音を出せるようになるまで、もう暫らく時間が掛かるのかなという気がします。

最後はデュティユーの「メタボール」。当夜の公演パンフの解説によると、デュティユーは90歳を過ぎた現在でも現役で作曲を続けているそうで、「最後の巨匠作曲家」なんて書かれ方をされていました。

私自身ナマで聴いたのは当夜が初めてでしたが、やはり聴いて良かったなと思いました。先週のヴァレーズみたいに、こういう曲だとナマで聴かないと、どうしても音楽の実感が伝わりにくいこともありますし、弱音中心の変遷Ⅱと変遷Ⅳの、ひそやかな音景など、CDで聴いても今一つピンとこないところに、ナマだとゾクゾクっとしたり、変遷Ⅴの最後の猛烈なクライマックスでの、それこそホールを吹き飛ばすかのような迫力なども、実演ならではのものであったと感じました。

余談ながら、この作品をCDで聴く場合、以下のユッカ=ペッカ・サラステ指揮トロント交響楽団のものが優れているように思います。

3984-25324-2
デュティユー メタボール(5つの変遷)
 サラステ/トロント交響楽団
 フィンランディア 1998年 3984-25324-2

フランスとは関係のないメンバーによる録音ですが、それだけに本式の現代音楽としての醍醐味が比較的強く出ていて傾聴させられます。

以上、当夜のコンサートでは一般に実演で取り上げられにくい演目を積極的に取り上げ、概ね水準以上の演奏に仕上げたカンブルランの手腕に感服させられました。この路線を出来れば今後も継続していって欲しいと思います。

カンブルラン/読売日響の演奏会(7/8 サントリーホール)の感想


訃報です。指揮者のチャールズ・マッケラスが、今月14日にロンドンで死去された旨が昨日、報道されました。享年84歳とのこと。御冥福をお祈りします。

CDQS6071
モーツァルト 交響曲第39番・第35番「ハフナー」・第32番
 マッケラス/イギリス室内管弦楽団
 ASV 1981年 CDQS6071

このモーツァルトは、私の掛け替えのない愛聴盤のひとつです。イギリスのASVが最近、活動休止状態になったとのことで、今は入手が難しくなってしまったCDですが、これほどに素晴らしいモーツァルトの録音が埋もれてしまうのは、本当にもったいない! 追悼盤として、どこかのレーベルから再発されることを強く希望したいと思います。

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読売日響の演奏会
 7月8日(木) サントリーホール

2010-07-08

指揮:シルヴァン・カンブルラン

演目:
 ハイドン オラトリオ「天地創造」から「序奏」
 ヴァレーズ 「砂漠」
 マーラー 交響曲「大地の歌」
   テノール:ミヒャエル・ケーニッヒ
   アルト:エカテリーナ・グバノヴァ

確信犯的に「大地」な演目を並べたプログラム、、何だかユニークです。しかし後述のように、当夜のコンサートでのユニークな趣向は、これだけではありませんでした。

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたVn-Va対向配置、編成はハイドンが12型(ヴァレーズは弦を用いない)、マーラーが16型でした。

まず前半部ですが、当夜ロビーで配布されたパンフレットには、「ハイドンとヴァレーズは休憩なしで続けて演奏される」と書かれていました。それで私はてっきり、ハイドンを終えて、拍手があって、そのあと続けてヴァレーズに入るのだと思っていたら、実際はハイドンからヴァレーズへ、本当に続けて(つまり、アタッカで繋げて)演奏されたのです。

そして、ヴァレーズ「砂漠」の演奏が終ったあとにアタッカで、ハイドン「天地創造」の序奏が再び?? これには、さすがに聴いていてビックリしました。

そして終演後に、ロビーに以下のような張り紙が出ていました。

2010-07-08-2

つまり、ヴァレーズの後にハイドンが繰り返されるという趣向は、当夜の聴衆には事前に知らされていなくて、一種のサプライズだったのです。カンブルランに、まんまと一杯喰わされました。

そのヴァレーズ「砂漠」ですが、当夜の白眉だったと思います。今回この作品を、初めてナマで聴いたのですが、いかに途方もない、もの凄い音楽であるか、ナマで聴いて改めて実感しました。

なにより、その最強奏でのはち切れんばかりの響きの壮絶と、最弱奏での静謐な響きの美しさとの、めくるめく落差、、、この作品というのが、なにか大自然の非情な側面を音響的に表現したものかもしれないとか、いや、むしろ大自然の驚異を目の当たりにした人間の心の揺籃を音響的に表現したものかもしれないとか、そんなことを考えながら演奏に聴き入るばかりでしたし、そのピリピリと張り詰めるような音響の展開に、聴いていてゾクゾクするようなスリルにも似た感興を味わったりもしました。

ここでの読売日響のアンサンブルは素晴らしく、作品の生命線である打楽器のリズムの切れが抜群に立っていたのが何よりでしたし、カンブルランの指揮も、現代曲だからといって必要以上に斜に構えることなく、克明に作品を再現し切るだけの、明晰かつ緻密なアプローチをもとに、この作品の複雑多様なフェイズを描き分け、音楽の醍醐味を聴き手に過不足なく伝えることに成功していたように思います。

なお、ヴァレーズの「砂漠」は本来、オーケストラ部とテープ部が交互に展開されるような構成で書かれていますが、当夜の公演では、テープ部がカットされた、オーケストラ部だけの演奏でした。この形態で演奏することは作曲家も公認しているとのことで、例えば以下のピエール・ブーレーズ指揮のCDでも、同じようにテープ部がカットされた形で録音されています。

471137-2
ヴァレーズ 「砂漠」
 ブーレーズ/シカゴ交響楽団
 グラモフォン 1996年 471137-2

後半部のマーラー「大地の歌」ですが、オーケストラ演奏に関しては、今年4月のカンブルラン就任披露演奏会で演奏された、同じマーラーの交響曲第10番アダージョを聴いた時と概ね同じ印象で、カンブルランは読売日響のアンサンブルから研ぎ澄まされたように怜悧な音色や、運動感と切れを満たしたフレージング、あるいは硬質感のあるリアルな響きの肌合い、といったものを巧妙に抽出していきながら、マーラーの音楽を、自己の目線で再構築してかかるというよりは、むしろ主観を交えず、作品を有るがままに描き出そうとしている風で、その結果マーラーが混ざりっけのないリアルな音のドラマとして響いてくる、そんな演奏でした。

しかし残念なことに歌手の方がいまひとつで、特にテノールのケーニッヒは、全般に声量が弱くて声が飛ばず、とくに第1楽章などオーケストラに埋没して声が良く聴こえない、という有り様でした。声量勝負という歌手ではないのかもしれませんが、それにしても、ちょっとボリューム不足ではという感が聴いていて否めませんでした。

アルトのグバノヴァは、ケーニッヒよりは全体的に声に張りがあり、同時に艶もあり、その意味では充実した歌唱を披歴していた反面、聞き様によっては表現が少し一本調子な感もあり、決して平凡ではないにしても、特に終楽章などは、正直もうひとつ細やかな陰影のある歌唱であれば尚よかったように感じました。

カンブルラン/読売日響の演奏会(7/3 東京芸術劇場)の感想


読売日響の演奏会 
 7月3日(土) 東京芸術劇場 

2010-07-03

指揮:シルヴァン・カンブルラン

演目:
 ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」
 オネゲル 夏の牧歌
 ラフマニノフ パガニーニの主題による狂詩曲
   ピアノ奏者:ニコライ・デミジェンコ
 ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」

アンコール:
 ショパン 夜想曲(遺作)
 スカルラッティ ソナタ嬰ヘ長調
 (いずれもデミジェンコのアンコール曲)

基本的にフランスものを中心としたプログラムですが、ゲスト・ピアニストがロシア人ということでコンチェルトにはロシアものを入れた、という感じでしょうか。いずれにしても、全体に親しみ易いメロディの名曲がズラッと並んだコンサートで、土曜日のマチネということもあり、客席は9割がた埋まっていました。

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたVn-Va対向配置、編成はベルリオーズが14型、オネゲルが12型、ラフマニノフが14型、最後の「展覧会の絵」が16型でした。

前半のベルリオーズとオネゲルに関しては、同じフランス作品ながらも雰囲気としては、かなり対照的で、ベルリオーズでは「強い音」を主体、オネゲルでは「淡い音」を主体に、それぞれに固有の趣きをアンサンブルから緻密に捻出するという風な演奏、フランス人のカンブルランだけに、切り分けが上手いなと聴いていて思いました。ただ、読売日響の響きの性格は現状、必ずしもフランス作品に調和し切ったものではなく、随所に硬さが伺われるので、そのあたりは今後の課題かなという風にも思いました。

ラフマニノフのパガニーニ主題狂詩曲ですが、デミジェンコは全体にテクニックが抜群で指回りの切れること素晴らしく、速いパッセージでも濁りのないタッチの美しさ、ここぞという時の力動的な最強音の迫力、いずれも見事で聴いていて惹き込まれるばかりでした。

ただ、それでも作品自体が半分くらいムード音楽の範疇にあることから、聴き終えて強烈な余韻の残るというまでの印象には至らなかったというのが正直なところです。できればベートーヴェンなどを聴いてみたいように思います。

後半の「展覧会の絵」ですが、これが実は当日、私が最も聴きたかった曲でした。というのも、ちょうど1年前にリリースされたカンブルラン指揮の、「展覧会の絵」を含むラヴェル・アルバム(オケはバーデンバーデン・フライブルクSWR響)を聴いた際、その異色の演奏のインパクトに驚かされたからです。

GC-08061
ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」
 カンブルラン/バーデンバーデン・フライブルクSWR響
 GLOR 2001~2003年 GC08061

このCDの感想は以前ブログに書きましたが、とにかく本CDでの「展覧会の絵」が私の頭にあったので、当日の実演も期待して耳を傾けました。

ただ結果としては、やや期待をはぐらかされた、という感じでした。全体的に、CDでの演奏ほどにはカンブルランの魔術的なまでの音響捻出の度合いが振るわず、確かに普通の演奏に比べれば、随所に新鮮なハーモニーのコントラストが聴かれたり、時にフレージングラインをコミカルに仕上げて音楽の面白さを巧妙に強調したり、などの仕掛けに聴いていて耳をそばだたせられました。

しかし、例えばシュムイレのトランペットのフレージングなど、CDほどは面白味が強調されていなかったりなど、全体的に、もう一押し足りなかったなという若干の不満も残った演奏でしたし、なにより私がCDを聴いて感じた「音楽の表情が強くて演奏の雰囲気がどぎついほどリアル」という感触が、さほどに強くなく、またCDに比べて大胆な表現も影をひそめ、前回の就任披露演奏会でのアンサンブルの充実度と比べても、どこかイージーゴーイングな雰囲気も正直、それなりに感じられ、こういったことなどから、多少なりとも味気ない印象を受けたことも事実でした。

それでも、これまでフランスものを活発には演奏してこなかったはずの読売日響をして、あそこまでの普通とは一味ちがった、手応えのある演奏を為さしめたこと、それ自体は賞賛されるべきかも知れないとも思いますし、土曜の午後の演奏会としては、適度にリラックスしたアンサンブル展開も、余分な力みがなくスッキリとしていて、その意味では、あれで良かったのかも知れないという風に、聴き終えて思いもしました。

いずれにしても、今後のカンブルランの運営如何によっては、読売日響が国内随一のフランス作品を得意とするオーケストラに成長していく可能性が大いにあり、そうなったら楽しみだなと期待を抱かせるに十分なコンサートでした。

セーゲルスタム/モンペリエ国立管によるクリストフ・シロドーの作品集


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。

2010-07-14

指揮者はシルヴァン・カンブルラン。演目は前半がフォーレ「ペレアスとメリザンド」とメシアン「鳥たちの目覚め」 、後半がドビュッシー「ピアノと管弦楽のための幻想曲」とデュティユー「メタボール(5つの変遷)」というものでした(メシアンとドビュッシーでのピアノ独奏者は児玉桃)。

カンブルラン/読売日響の演奏会を聴くのは、実は今月に入ってから今日が3回目です。というのもブログを休止していた期間中、7月3日の東京芸術劇場の公演と、7月8日のサントリーホールの公演とを聴きに行っていたからです。

今日のコンサートの感想は後日、出すつもりですが、その前に、ブログ休止期間中に聴いた前記2つのカンブルラン/読売日響のコンサートの感想の方から先に出していこうと思います。

以下、ブログ休止中に聴いたCDの感想をひとつ。

シロドー 「星の暗い道」
 セーゲルスタム/モンペリエ国立管弦楽団
 アルタルス 2006年 AIRCD9035
AIRCD9035

これは以前にHMVオンラインサイトのCDセールで購入したもので、アメリカのアルタルスレーベルから2006年にリリースされた、クリストフ・シロドーの作品集です。クリストフ・シロドーは1970年パリ生まれの作曲家にしてピアニストです。

収録曲は以下の6曲です(①のみライヴ録音)。
①エルサのための夕べの音楽
②星の暗い道-ピアノ独奏のための夜の幻想曲
③無伴奏ヴァイオリンのための偽りの地平線
④ピアノ独奏のための空の墓~J.S.バッハとサミュイル・ファインバーグに敬意を表して・影の遊び
⑤赤と白のアルルカン
⑥アドラマンドニのためのスケッチ

演奏は、オーケストラがレイフ・セーゲルスタム指揮モンペリエ国立管弦楽団、それにピア・セーゲルスタムのチェロ独奏、ハネレ・セーゲルスタムのヴァイオリン独奏、ジョナサン・パウエルとクリストフ・シロドのピアノ演奏で録音されています。

おそらくアルバムのタイトルになっているところの、22分を要する②(演奏はジョナサン・パウエル)がメインかと思われますが、これは聴いた限り、正直それほど面白い曲とは思えず、むしろ①の方を私は面白く聴きました。エルサというのは2002年に生まれたシロドーの長女の名前で、要するに子守唄ということのようですが、聴いてみると子守唄には程遠い強烈な音響の放出力が素晴らしく、セーゲルスタム/モンペリエ国立管の猛烈なアンサンブル展開と、ピア・セーゲルスタムの切れ味抜群のチェロ独奏とが、名状しがたい緊迫感を醸し出していて傾聴させられます。次いでは⑤が高印象で、ピア・セーゲルスタム(チェロ)とクリストフ・シロドー(ピアノ)の丁々発止の掛け合いがなかなかの聴きものでした。

キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管によるチャイコフスキーのマンフレッド交響曲


チャイコフスキー マンフレッド交響曲
 キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
 エームス 2009年 OC665
OC665

エームス・クラシックスから先月リリースされた、ドミトリー・キタエンコ指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の演奏によるチャイコフスキー・マンフレッド交響曲のCDを聴きました。

これはキタエンコがギュルツェニヒ管弦楽団の名誉指揮者に就任した直後の録音とされますが、このオケの名誉指揮者には、かつてギュンター・ヴァントが就任しており、今回のキタエンコが2人目の名誉指揮者となるようです。

キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管に関しては、私は昨年の8月に耳にしたプロコフィエフ交響曲全集のCDで、まず度肝を抜かれ、続いて昨年の秋に耳にしたショスタコーヴィチ交響曲全集のCDで、さらに度肝を抜かれた経験があるものですから、今回リリースの最新盤であるチャイコフスキーを聴き逃すことなど考えられず、喜び勇んで購入したのでした。

聴いてみると、全編にキタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管ならではの表現力のあるアンサンブル展開が素晴らしく、第1楽章でいうなら、(9:34)あたりの幸福に満ちた、アスタルテの思い出の場景と、(15:28)からのカタストロフなコーダとの、ものすごい落差など、もう聴いていて身が引きちぎられるのではないか、というくらいでしたし、中間の2つの楽章においても、何かしら屈折感のある音楽の陰りが印象深く聴かれましたし、終楽章においては、ここぞという時における高声の熾烈な響きとバスの猛烈な迫力とが、絶妙な地点で結託して破壊力抜群のアンサンブルを供出する、このキタエンコの流儀に、以心伝心のアンサンブルがハイレスポンスで応えていて、その様は聴いていて圧巻の一言というべきものでした。さらに言うなら、この演奏の全般に立ち込める音楽の異様なまでの緊張感により、何か作品に対する見方に揺さぶりを掛けられたような、強烈な印象が聴き終えて残ったのです。

このマンフレッド交響曲は、周知のようにチャイコフスキーの作曲時期としては交響曲第4番と第5番の間に位置し、まさにチャイコフスキー後期の成熟を極めた管弦楽書法の練達によりながらも、チャイコフスキー自身、作品の出来に不満だったとも伝えられている、実質的な交響詩ともいうべき作品ですが、同時にチャイコフスキーの誇大妄想的ともいうような、何か途方もない情念のエネルギーが作品全体を貫いている、という風にも思える作品です。

そして、この作品に潜在する狂気的なまでの暴力性においては、まさに後年のプロコフィエフ、ショスタコーヴィチの交響曲の系譜に連なる音楽なのではないか、ということまで考えが至ったのでした。というのも、主人公マンフレッドの、混沌として底知れぬ自我の不安から懐疑地獄に落ちていく、この主題には、どこかプロコフィエフ、そしてショスタコーヴィチの音楽に通底するものが内在されているような気がするからです。

しかし、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲をして、プロコフィエフやショスタコーヴィチの交響曲との関連性を云々なんて、まず普通は考えないでしょうし、私自身、正直こんなことを自分が書いていることにビックリしているくらいです。

少なくとも私は、このマンフレッド交響曲を、昨年の秋にユロフスキ/ロンドン・フィルのCDで聴いたときは、そんなことは考えませんでした。あのユロフスキ盤は相当に素晴らしい演奏内容と感じたのに、、

今回キタエンコ盤を聴いて、そう感じたのは、キタエンコが今回と同じケルン・ギュルツェニヒ管を指揮して録音していた、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチの両交響曲全集を聴いて深い感銘を受けていたことに大きく依存しているのかも知れません。その意味では、何だか既成観念が随分と揺さぶられた演奏だったと思いますし、もし今回キタエンコ盤を聴かなければ、おそらく考えなかったと思います。

つまり私の中で、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲という作品の価値というか重みが、キタエンコの手により、これまでより一段と高い位置に引き上げられたような、そんな気分を味わいました。この作品の真価というより、真価以上のものを演奏者が付帯させたと言うべきかもしれませんが、このキタエンコ盤は、数ある同曲のCDの中でも、まず最上位に位置づけられるべき、まさに瞠目に値する演奏ではないかと思います。

ヴァンスカ/ミネソタ管によるブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」


ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」
 ヴァンスカ/ミネソタ管弦楽団
 BIS 2009年 BISSA1746
BISSA1746

スウェーデンのBISから先月リリースされた、オスモ・ヴァンスカ指揮ミネソタ管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」のCDを聴きました。

CDジャケットには「1888 version」と記載されていますが、これは実は「コースヴェット校訂版」に基づく録音です。この版はブルックナーの弟子フェルディナント・レーヴェの手による改訂版を、アメリカの音楽学者ベンジャミン・コースヴェットが校訂し、国際ブルックナー協会の承認(「Collected Works edition」)のもと、2004年に出版されたものです。

このコースヴェット校訂版に基づくブル4の世界初録音として、以前に内藤彰の指揮、東京ニューシティ管弦楽団の演奏による国内盤CDがリリースされており、ブルックナー・マニアの間では話題になっていたようでした。ただ私は、この版の元であるレーヴェ改訂版には特に魅力を感じていないので、その内藤/ニューシティ盤はスルーしていました。

しかし、今回こうして世界的なレーベルのBISから新たにリリースされたとなると、今後このコースヴェット校訂版による演奏もそれなりに増えてくる可能性があることから、私も食わず嫌いを止めて、この版の演奏に虚心に耳を傾けてみたいと思い、このヴァンスカ/ミネソタ管のブル4を購入して聴いてみたのでした。

そのコースヴェット校訂版ですが、このCDの英文ブックレットの中で、コースヴェット自らが詳細な解説を行っています。

その解説では、原典版(第2稿)との相違点が、①フォーム②インストルメンテーション③パフォーマンス特性の3つに分類されて解説されています。①のフォームとは楽曲構造の改変のことで、要するにカットの有無のことです。②のインストルメンテーションとは器楽法で、終楽章にピッコロとシンバルが追加されていることを指しています。③のパフォーマンス特性というのはデュナーミク、アーティキュレーション、テンポなどを指し、原典版(第2稿)から更にクレッシェンドやデクレッシェンド等の細かい指示が追加されていることが説明されています。

以上を読む限り、私の印象としても、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなどの一時代前の指揮者がレーヴェ版で録音したブル4の特徴と一致するので、やはりコースヴェット校訂版というのは、レーヴェ改訂版とほとんど同一であるという感触を抱きました。

ただ上でも書いたとおり、私自身レーヴェ改訂版はあまり好きではなく、それというのも、あの一連のカットに馴染めないからです。つまり上記コースヴェット解説の①にあたる点ですが、この版には、前半の2楽章にはカットが無いものの、後半の2楽章に大胆なカットがあります。

まず第3楽章ですが、スケルツォ再現部、このヴァンスカ盤で言うと(6:14)のところ、原典版にある第27~92小節分の部分が、すっぽりカットされているのです。このカットは脈絡が無さ過ぎで、これをもし知らないで聴いたなら、おそらくリスナーは録音の編集ミスによる抜け落ちだと思ってしまうのではないでしょうか。それくらい意味不明なカットです。

ついでに言えば、この第3楽章のスケルツォ主部の終盤、第250小節付近(4:07)から大きくディミヌエンドがかかるあたりも、私には違和感が強く、というのも、ここではティンパニとホルン以外のすべてのパートが取っ払われてしまっている点も含めて、トリオ直前のクライマックスの盛り上がりが御破算になっていて、どうにもブルックナーらしくないからです。

あと終楽章ですが、再現部における第1主題の再現部分(原典盤における第383~412小節の部分)のカット、このヴァンスカ盤で言うと(14:08)のところですが、これなど聴いていて何なんだろうと思いますし、これと第2主題再現部後半(15:58)の旋律の改変とがあいまって、音楽の構造的な不均衡感と単調性が増幅されている点も、やはり感心できない点です。

以上、版について長々と書きましたが、今回コースヴェット校訂版というのを初めて聴いてみて、やはりどうかなというのが正直なところです。しかし困ったことに(?)ここでのヴァンスカ/ミネソタ管の演奏自体は素晴らしいため、版に関しては首を傾げながら、演奏自体に聴き惚れてしまうという、いささかアンバランスな面持ちで全曲を聴き通したという状況でした。

その演奏ですが、全体的にミネソタ管のボリュームに富んだ、肉厚の豊かな響きを基調に展開される、アンサンブルの晴々とした色調が素晴らしく、ヴァンスカは演奏を通してハーモニーのバランスを常にきっちりとコントロールし、豪快に盛り上げるシーンから静謐に沈静するシーンに至るまで、ブルックナーの音楽の醍醐味を常に聴き手に意識させようと手練手管を尽くしているという風で、その溌剌とした音楽の情景には、版云々を忘れて聴き手を惹き込む独特の魅力が感じられるのです。

それでも版の制約から、どうしても聴いていてブルックナーにしては妙に芝居がかったように聴こえてしまうシーンもありますが、おそらくヴァンスカは良い意味で開き直っているように思われ、版の指示をきっちり踏まえながら、何らコセコセせずに思う存分アンサンブルを鳴らしている感じがしますし、それが引いては充実した表現力となって聴き手の心を捉えるような、そんな演奏だと思いました。

以下は余談ですが、ヴァンスカはちょうど10年前にもブルックナーの交響曲を録音してリリースしています。BBCスコティッシュ交響楽団を指揮して英ハイペリオンに録音した、交響曲第3番のCDです。

CDA67200
ブルックナー 交響曲第3番
 ヴァンスカ/BBCスコティッシュ交響楽団
 ハイペリオン 2000年 CDA67200

この時もヴァンスカは、今回のブル4でのコースヴェット校訂版と同様、かなり意表を突いた版の選択をしていました。

というのも、この10年前リリースのブル3で、ヴァンスカは「1876年アダージョ異稿版を伴う1877年版」という、世にも珍しい形態で録音していたからです。要するに第2楽章以外はノヴァーク第2稿で、第2楽章が1876年の異稿版という取り合わせなのです。

この1876年アダージョ異稿版というのは、ブルックナーが交響曲第3番に対する当時のウィーン・フィルの「初演拒否」を受け、第2稿への改訂を進める過程で生まれた、過渡的な作品なだけに、第1稿以上にレコーディングの俎上にのぼることが稀ですが、仮に録音されたとしても、例えばロジェストヴェンスキーの録音のように、普通は他の版と組み合わせず、このアダージョだけ独立して資料的に収録されるという形態が一般的なので、その意味でヴァンスカ盤は二重に珍しい録音形態と言えると思います。

ここでのヴァンスカ/BBCスコティッシュ響の演奏は、全体的に無駄のない引き締った造型の中に、音楽の猛々しさや素朴な味わいがナチュラルに息づいているような演奏で、アンサンブルの飾らない美しさにも傾聴させられます。全体にスタンダードな解釈ながら、第2楽章の版のチョイスの個性も含めて、録音から10年を経過した現在においても独自の存在感を持ったブルックナーだと思います。

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