ブログを休止します


今後、ブログは休止いたします。これまで御覧になられた方々におかれましては、今日までの御愛顧に深く御礼申し上げます。

ニーナ・カフタラージェによるショパンのピアノ作品集


ショパン ピアノ作品集
 カフタラージェ(pf)
 ダナコード 2006年 DACOCD657
DACOCD657

ニーナ・カフタラージェによるショパンのピアノ作品集のCDを聴きました。

これは昨日のバーコヴィッツによるブラームスのアルバム同様、HMVのオンラインサイトにおけるCDのセールで購入したものの一つで、デンマークのダナコードから2006年にリリースされたCDです。

収録されているのはショパンのピアノ曲で、まず作品1のロンド・ハ短調に始まり、6曲のマズルカと3曲のワルツを挟んで、作品23のバラード・ト短調で締め括るという構成になっています。

ニーナ・カフタラージェはロシア生まれの若手女流ピアニストとのことで、その演奏を本CDで初めて聴きましたが、全体的に美しいタッチを駆使して作品を有るがままに描いているという風で、様式に誠実である反面、創造的なニュアンスに乏しい気配もあり、自己の内面を曝け出すというよりはショパンという作曲家に奉仕することで独自の音楽美を打ちたてた演奏のように思われました。


バーコヴィッツによるブラームスの後期ピアノ作品集


ブラームス 後期ピアノ作品集
 バーコヴィッツ(pf)
 MERIDIAN 1996年 CDE84287
CDE84287

ポール・バーコヴィッツの演奏によるブラームスの後期ピアノ作品集のCDを聴きました。収録曲はブラームス晩年のピアノ作品集のうち、7つの幻想曲op. 116、3つの間奏曲op. 117、6つの小品op. 118の計16曲です。

これは先日も書きましたように、HMVのオンラインサイトにおけるCDのセールで購入したものの一つで、英MERIDIANレーベルから1997年にリリースされたCDです。

バーコヴィッツはモントリオール生まれのピアニストで、ルドルフ・ゼルキンに師事し、英MERIDIANレーベルにシューベルトのピアノソナタ全集を録音しています。

聴いてみると、全体にブラームス晩年の寂寥感、落莫とした心境を虚心坦懐に弾き抜いたような演奏で、時おり示す思いを込めたようなタッチに潜む、内面的な抒情味に、聴いていて胸打たれる思いでした。これは一切の小細工なしに聴き手を惹き付ける、独特の説得力を感じさせるブラームスだと思います。

ヌーブルジェによるツェルニーの「指使いの技法(50番練習曲)」


ツェルニー 指使いの技法(50番練習曲)Op.740ほか
 ヌーブルジェ(pf)
 Mirare 2006年 MIR023
MIR023

フランスの若手ピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェのピアノ演奏による、ツェルニーの「指使いの技法」(通称50番練習曲)のCDを聴きました。なお、このCDにはリストの演奏会用練習曲3曲(「森のざわめき」、「小人の踊り」、「軽やかさ」)、およびステファン・ヘラーの「4つの練習曲」も併録されています。

これは仏Mirareより2007年にリリースされたもので、新譜ではありませんが、先月に「ル・ジュルナル・ド・ショパン~ショパンの音楽日記」と題されたCDを聴いた際の感想の中で、特にヌーブルジェのピアノ演奏が素晴らしい旨ブログに書きましたところ、それを読まれた方からコメントをいただき、このツェルニーのCDがヌーブルジェのデビュー盤であることを教えていただきました。

デビュー盤にしてツェルニーという演目の珍しさもあり、さっそくHMVに注文してみたのでした。

それで聴いてみると、全編にヌーブルジェ持ち前の強靭にして高貴な輝きのある打鍵、それに目覚ましいテクニックを駆使しつつ、聴いていて唖然とするほどに卓抜した指まわりのモビリティから積極果敢なピアニズムが披歴されており、その演奏の充実感たるや途方もなく、たかだかツェルニーの練習曲で、などというと怒られるかも知れませんが、それでも作品自体の訴求力の限界から、例えばショパンやリストの作曲した練習曲と比べるなら、ある種の霊感の高さ、インスピレーションの豊かさに不足するのは否めないはずの、そのツェルニーの練習曲で、聴いていて何か異様とも思えるまでの強い表出力を捻出せしめる様相には、聴いていて思わず感動を禁じえないくらいでした。

周知のようにカール・ツェルニーは、ベートーヴェンの弟子にしてリストの師として知られる作曲家ですが、その作品はコンサートで取り上げられるというよりは、むしろピアノ学習者向けの実践的な練習用の曲に留まっており、私自身も正直、そんなに真剣に聴くような作品でもないのでは、という印象でした。

しかし、このヌーブルジェの演奏で聴くと、何というかイヤでも真剣に聴かざるを得ない、そんな気配が全50曲を貫いているのです。なかんずく50曲に設定された個性や特徴の闊達な浮き出し方が素晴らしく、もともと作品が実践的な練習曲ゆえに、やや強引なダイナミクスの転換が頻繁に訪れるのですが、その転換のツボをヌーブルジェが絶妙に刺激し聴き手に呈示するため、ユーモラスな楽想のナンバー(第30番など)ではウキウキするような享楽感あり、ロマンティックなメロディを持つなナンバー(第43番など)では得も言われぬ陶酔あり、シリアスな憂いを湛えたナンバーでは胸を揺さぶられるような感懐あり(例えば第28番などショパンの「革命」さながら!)と、いずれも名人芸的で華麗なだけのデモンストレーションとは一味ちがう、絶品というほかない演奏が展開されています。

このツェルニーにおいてヌーブルジェは、作品を完全に掌握していることは疑いないとしても、その演奏の裏には、真剣に作品に対峙する強い情熱のようなものが沸々と感じられ、この練習曲をデビュー盤に選んだ点からしても、ヌーブルジェ自身なにかツェルニーの50番練習曲に対し、並々ならない思い入れのようなものがあるのではないでしょうか。

カップリングとしてリストとヘラーを合わせているのも、自身のツェルニー演奏が、それらに優に比肩しているということを、それとなくアピールしている、、そんな風に私には思えました。

引き続き、読書間奏・中公新書「漱石が聴いたベートーヴェン」


「漱石が聴いたベートーヴェン」
 -音楽に魅せられた文豪たち-
  瀧井敬子・著
  中公新書
ISBN4-12-101735-8

昨日の続きです。

③島崎藤村
藤村の場合、ミッションスクールの在学当時に、主に賛美歌で西洋音楽に馴染んだとされます。そして藤村は明治30年(1897年)に東京音楽学校へ入学するという、文学家としては異例の経歴を持っているのです。

・・藤村が音楽学校に入学したとき、家族も友人たちもびっくりしたという。短編「沈黙」で自身と等身大の主人公に語らせているように、彼には「あらゆる芸術を味わえるだけ味わうという若い了見」があり、「若菜集」が世間から認められ、「文学と音楽とを並べて考えたい時代」でもあった。さらに、上野の音楽学校へ入れば、「そこに蔵ってある図書を猟ることを許された」から、・・シューマンの「音楽と音楽家」やバッハの伝記など、音楽の専門書が読めた。楽譜も見ることができた。・・「真実に自分をショパンやワーグナーまで連れて行ってくれるような人も見当たらなかった」が、奏楽堂で開催されるコンサートへは簡単に切符を入手して、行くことができた。・・・

さらに、当時の藤村が親しく付き合っていた上田敏について触れられています。

上田敏は明治27年(1894年)奏楽堂のコンサート(この時の演目は、ベートーヴェンのロマンス、シュポアのヴァイオリン協奏曲第9番など)の演奏評を文学雑誌に掲載するなど、19世紀当時の日本においては他の追随を許さないほどの西洋音楽通として知られていたこと、その上田敏から得た知識を、藤村が自身の小説に取り入れていることなどが書かれています。

④夏目漱石
いよいよ本書のタイトルにもなっている「漱石が聴いたベートーヴェン」の話になります。まず「夏目漱石は大正時代の初め、日本の洋楽史上重要な二つのコンサートに行っていた」として、以下の2つの演奏会に漱石が足を運んだ事実が示されます。

まず、大正元年(1912年)12月1日、漱石門下生の寺田寅彦・小宮豊隆と共に、漱石は上野奏楽堂でグリーグのピアノ協奏曲、シュポアのヴァイオリン協奏曲の演奏を聴いています。この時のヴァイオリン独奏者は幸田幸で、幸田露伴の実の妹です。

このコンサートは、東京音楽学校のお雇い外国人教師である、指揮者アウグスト・ユンケルの送別演奏会という位置づけだったと書かれています。なお、ユンケルは日本史上初のフル・オーケストラ「東京音楽学校管弦楽団」を組織した指揮者として知られます。

次に大正2年(1913年)12月6日、ユンケルの後任のドイツ人指揮者グスタフ・クローンの就任披露演奏会を聴いています。演目はベートーヴェンのエグモント序曲、それにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(クローンの弾き振り)でした。なお、クローンはベートーヴェンの9大交響曲のうち6つまでの日本初演指揮者です。

以上の2つのコンサートに加えて、明治39年(1906年)10月28日、奏楽堂「明治音楽会」で寺田寅彦と共に、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ(第何番かは不明)の演奏を聴いたことも書かれています。この時の漱石の体験が、後に短編小説「野分」の題材として活用されたことは有名です。

そして「漱石が聴いたベートーヴェン」は、結局のところ以上の、ヴァイオリン・ソナタ、エグモント序曲、ヴァイオリン協奏曲の計3曲に留まるようです。ということは、ベートーヴェンの交響曲を、漱石は遂に一度も耳にしていなかったのです。

この事実を本書で知って、私は意外の感に打たれました。というのも、漱石の処女作「吾輩は猫である」を読まれた人なら分かると思いますが、あの小説には、「ベートーヴェンのシンフォニー」が出てくるからです。出てくると言っても、猫の鳴き声の喩えで、ほんの一か所に用いられているだけなのですが、あれが私の頭にあったので(なにしろ、あの場面の文章の面白さは常軌を逸している)、漱石が生涯において、ベートーヴェンの交響曲を、ただの一度も耳にしていないという事実に、ちょっと意表を突かれたような感じがしたのでした。

⑤永井荷風
荷風ですが、明治38年(1905年)12月から明治40年(1907年)7月までの間、アメリカに滞在し、ニューヨークの2大歌劇場、すなわちメトロポリタン歌劇場とマンハッタン歌劇場でオペラ三昧の日々を送っています。

そのあたりの様子を記述した本書の部分を以下に引用します。

・・ニューヨークに滞在した1年と8ヶ月足らずのあいだに、荷風はワーグナー作品では「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」「ローエングリン」「パルジファル」、「ニーベルンゲンの指輪」4部作中の「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」を見ている。メトロポリタン歌劇場では、イタリアものが多く上演されたのでヴェルディの「アイーダ」「リゴレット」「椿姫」、プッチーニ「トスカ」と「ラ・ボエーム」、ドニゼッティの「ドン・パスクアーレ」「ランメルモールのルチア」、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、それにモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」と、ポピュラーな作品はほとんど見ている。
 フランスもので荷風が見たのは、ビゼーの「カルメン」、グノーの「ファウスト」と「ロメオとジュリエット」、ドリーヴの「ラクメ」、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」などである。・・明治40年(1907年)にフランスに渡ってからはリヨン市立歌劇場を中心に、ニューヨークで観れなかったワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などを見ている。・・

まさに圧巻の一言。今から100年も前の明治時代に、これほどに多数のオペラ作品の実演に触れた日本人が実在したという事実、それ自体に驚嘆させられます。21世紀の今でさえ、年間こんなにオペラを観る日本人って、そうはいないでしょう(むろん音楽評論家でなく、仕事と無関係に観るオペラ愛好家として)。それを、100年も前の時代に、これだけ観ているんですから、途方もないというか、想像を絶するというか、、

そして後年、荷風は坪内逍遥の書いた台本のオペラ「新曲浦島」に対抗意識を燃やし、国産オペラ「葛飾情話」の台本を執筆し、昭和13年(1938年)に浅草のオペラ館で上演されました。これは日本人の書いたオペラの記念碑的初上演として伝えられています(なお、逍遥の「新曲浦島」は2003年に初演されました)。

・・音楽が彼にもたらしたのは、「慰藉」以上のものであった。日本にいたころには高いと思って敬遠していた洋楽の敷居を軽々と越え、洋楽三昧の生活に耳も肥えた彼が、ニューヨーク、リヨン、パリで重ねたオペラやコンサートの体験は、文学創造と結びついた。「あめりか物語」「ふらんす物語」はいうまでもなく、帰国後の随筆や小説には、その成果が明白である。・・・

読書間奏・中公新書「漱石が聴いたベートーヴェン」


「漱石が聴いたベートーヴェン」
 -音楽に魅せられた文豪たち-
  瀧井敬子・著
  中公新書
ISBN4-12-101735-8

・・今日、私たちはベートーヴェンの交響曲は、生でほとんどつねに聴くことができるし、第9交響曲にいたっては、年末になると日本各地で年中行事のように演奏されている。オペラも日本にいながらにして、世界の一流歌劇場の引っ越し公演をしばしば見ることができる。こうした現状を考えると、本書での文学者たちがもし今の日本に現われたとしたらそれこそ浦島太郎になるかもしれない。明治期を中心とした文学者たちの洋楽希求の動きを参照しながら、読者の方々に、欧米文化受容の問題を改めて考えていただくことができれば幸いである。・・

「読書間奏」ですが、今回は中公新書「漱石が聴いたベートーヴェン」について書きます。

これは2004年に刊行された新書で、明治期の5人の文学者が西洋音楽と、どのように関わったか、どのように西洋音楽を受容したのか、その経緯が綿密な事実関係の考証に基づいて記述されています。なお、本書で取り上げられている5人の文学者とは、森鷗外、幸田露伴、島崎藤村、夏目漱石、永井荷風です。

この本を数年前に購入した際、ここに記述されている興味深い事実の数々を、それこそ夢中で読んだことを覚えていますが、その内容の面白さに反して、一般にあまり話題になっていないように思うので、この機会に取り上げたく思ったのです。

この本の最大の魅力としては、少なくとも5人の文豪に、多少なりとも親しんでいる読み手においては、彼らとクラシック音楽との関係にまつわる、様々な興味深い話題が満載されていて、読んでいて目が離せないような面白さに満ちている点でしょう。

逆に短所としては、記述の仕方が典型的な事実羅列型で、文章の流れに起伏が乏しく、要するに記述されている事実自体に興味が持てない場合、読んでいて退屈ということにもなりかねない点で、したがって読み手の方で、前記5人の文学者に特に興味がないならば、例えば本書を読んで彼らの作品に興味を持つ、という風になるのは難しいかと思います。

以下、本書を読んで私が特に面白いと感じた部分を、5人の文学者ごとに個別に書いてみることにします。ちなみに、5人の文学者のクラシック音楽に対する興味の度合い、いわゆる「ハマり度」に関しては、5人中ダントツなのが永井荷風で、以下、森鷗外、島崎藤村、夏目漱石、幸田露伴という順番になると思います。

①森鷗外
鷗外の場合、明治17年(1884年)から21年まで足掛け5年に及ぶドイツ留学が、西洋音楽に「ハマる」きっかけとなったようです。なお1884年は、ちょうどワーグナーが死んだ翌年にあたります。

この間、当地のオペラ劇場に数十回通っていること、そこで「タンホイザー」「さまよえるオランダ人」「フィガロの結婚」といったオペラ作品を観劇したことなどが書かれていますが、本書で特に詳しく触れられているのは、1885年6月21日にライプツィヒ市立劇場で、グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」を観劇したことについてです。

この時のオケはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で、指揮者はアルトュール・ニキシュ(!)。この上演を観ながら、鷗外が劇場で購入した台本に、詳細な書き込みを残したことなどが述べられていますが、いまだ19世紀という時代に、ドイツの歌劇場で、台本を現地で調達して本格的にオペラを聴いていた日本人としての文豪・鷗外の実像を知るに及んで、何だか深い感慨に捉われました。

そして鷗外は帰国後、ライプツィヒ劇場で観た実演の印象と、その時のメモ等を元に、グルックの「オルフェオ」の日本語翻訳作業に従事することになりますが、それは明治・大正期の近代日本にオペラを根付かせたいという、鷗外の強い思いに貫かれた行為であったと本書では叙述されています。

②幸田露伴
幸田露伴ですが、実は露伴自身、特にコンサートに行くなり楽器を習うなりといった、能動的なアクションは取らなかったとあります。しかし露伴の実の妹に、日本トップレベルの演奏家がいたため、アクションを取る必要もなかったのかも知れない、とも書かれています。

その露伴の妹というのは幸田延のことで、彼女に関しては前々回の読書間奏「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」で詳しく書きましたが、本書では特に幸田延が、国費による初めての音楽留学の例にあたるとして、その留学の内容について詳しく触れられています。

いわく、1889年にアメリカに渡り、さらに1890年にウィーンへ。この時代のウィーンはブラームスとブルックナーという2大作曲家が音楽界に君臨していた時期にあたり、そこで幸田延は名門ウィーン音楽院に合格し、ヴァイオリンを専攻したことなどが書かれていますが、その音楽院で幸田延が作曲を学んだロベルト・フックスは、なんとマーラーの作曲の師でもあるのだそうです。

残り3人の文学者(島崎藤村、夏目漱石、永井荷風)に関しては後日に書きます。

ライプツィヒ四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1番と第4番


ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第1番・第4番
 ライプツィヒ四重奏団
 MDG 1999年 30708532
30708532

ライプツィヒ四重奏団の演奏によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1番と第4番のCDを聴きました。

これは2か月ほど前、HMVのオンラインサイトにおけるCDのクリアランスセール(全品70%オフ)で購入したものです。

このとき、以下の10点を注文していました。
2010-04-10

しかし購入したはいいものの、これまで聴く機会がないまま(基本的に私は新譜を優先して聴くので)、2か月も過ぎてしまい、このままだと、どうも何時まで経っても聴かないような気がして何だか勿体ないので、このさい少しずつでも聴いていこうと決めました。

そういう次第で手始めに、ちょうど先月のラ・フォル・ジュルネで実演を聴いたばかりの、ドイツの名門カルテット、ライプツィヒ四重奏団の演奏による、ベートーヴェンの初期の2曲を収めたCDを選びました。

それで聴いてみたところ、第1番と第4番いずれも表現としては常套的な演奏であり、こと独創性という観点に幾ばくか物足りなさを感じたのも事実ですが、こなれたアンサンブル展開と、どこにも無理な調子のない造形とにより、音楽本来の格調が、少しの押しつけがましさなしに描き出されているので、そのあたりに聴いていて好感の持てる演奏だなと感じました。

井上喜惟/ジャパン・シンフォニアによるラヴェル「クープランの墓」とフランクの交響曲


フランク 交響曲&ラヴェル 組曲「クープランの墓」
 井上喜惟/ジャパン・シンフォニア
 アルトゥス 2009年ライヴ ALT187
ALT187

アルトゥスから先週リリースされた、井上喜惟の指揮ジャパン・シンフォニアの演奏による、フランクの交響曲とラヴェルの組曲「クープランの墓」を収録したCDを聴きました。両演とも昨年の4月29日に第一生命ホールで行われたジャパン・シンフォニア定期演奏会におけるライヴ録りです。

その当日の演奏会を私は客席で聴きましたが、各演目とも音楽のフレッシュな妙味の豊かな演奏であり、とりわけ後半のフランクは、およそ井上喜惟とジャパン・シンフォニアのコンビのみが為し得るのではないかと思われるほどに個性的でありながらも、表現としての高い純度を示した、聴きどころ満載の演奏でした。ので、その時のライヴ録音がリリースされたと知り、すぐさま購入したのでした。

なお当日は他に、蔵野蘭子のソプラノ独唱でショーソンの歌曲集「愛と海の詩」も演奏され、こちらも傾聴に値する演奏でしたが、今回リリースのCDには残念ながら含まれていません。

さっそく聴いてみると、ラヴェル、フランク、ともに概ね私が昨年ホールで体験したイメージ通りの演奏という感じで、特に後半のフランクにおいては、8型という小編成のアンサンブルならではの求心力に由来する音響的な集中力が素晴らしく、テンポ等においても、随所にアンサンブルの量感的な弱みをカバーする工夫が聴かれ、決して重厚ではないのに聴き応えは濃厚、そんな充実した手応えを感じさせる演奏であり、聴いていて昨年のコンサートで味わった際の感興が、まざまざと蘇ってくるような感覚に満たされました。

もっとも、実演において小ホールの空間を飽和させることなく満たしながら、こよなく引き締まって響いたトッティでの、あの絶妙な感触などは、こうしてCDで聴くと正直、微妙に違うかなという印象も受けますし、管パートの音色に関しても、もう少し木目が細やかであったような印象があり、そういったあたりはCDの音質的制約上、実演が万全に収録されるには至らずという感なきにしもあらずでした。

いずれにしても、このCDを聴いての私の感想というのは、以前ブログに掲載した、当日の実演を聴いての感想と概ねにおいて一致しますので、それをもって本CDに対する感想に代えたいと思います。ただ結局のところ、私の印象というのは当日の演奏会での実演のイメージから派生し、当然それに引き摺られているため、もし演奏会を聴きに行かなかったなら、本CDを聴いて何か全く異なる印象を感じるということも、十分あり得るだろうとは思います。

引き続き、新国立劇場のビゼー「カルメン」の感想


昨日に引き続き、新国立劇場のビゼー「カメルーン」・・・ではなく、「カルメン」(6/13)の感想ですが、今日は演出について、思うところを書きます。

# しかし日本、よく勝ちましたねカメルーンに。

2010-06-14

今回の「カルメン」のプロダクションは、2007年に初演されたものの再演とのことで、その初演は観ていませんが、再演に掛かる以上、それなりに評判の良い演出なのだろうと思って、期待していました。しかし、、

何と言いますか、これは新国立劇場としては近年まれに見るくらいに、オーソドックスな演出のひとつではないか、というのが率直な印象でした。

公演プログラムに、演出を担当した鵜山仁のインタヴューとして、本プロダクションにおける演出のコンセプトについて記載されていましたが、読むと、このオペラに内在する、聖と俗、愛と裏切りとかの相反するエネルギーを表現することを重視した、という趣旨のことが書かれていました。

ただ、それは多分に観念論的な話で、具体的な手法として、そういった切り口が演出に活かされているようには私には思えませんでした。むろん私が気が付かなかったというだけかもしれませんけど、、

少なくとも私が観ていて感じた演出上の美質を挙げるとするなら、それは「演劇的な意味でのリアリズム」でした。例えばカルメンと女工達が取っ組み合いの喧嘩をするシーンで、女工の一人が屋台の食器台を引っ繰り返す、と、ものすごい音がホールに鳴り響くんですが、これなどオペラというよりは演劇の舞台のワンシーンのような強烈な印象を感じましたし、歌手の立ち回りにも総じて芝居役者の振る舞いのようなリアルさが出ていたと思うのです。

鵜山仁は新国立劇場の演劇部門の芸術監督なのだそうで、そのあたりの演劇的な感覚が、おそらくオペラに巧く取り入れられていたように感じられました。

しかし、この演出で大きく不満だったのは、この演出ならではという「ひねり」のある視点が伺われなかった、という点に尽きます。

この意味で、この舞台演出は観ていて、何だか7年前に私が観た「カルメン」の舞台に似てるなと思いました。

それは2003年の東京文化会館における二期会の公演です。

2010-06-15

この時の「カルメン」は二期会の創立50周年記念公演で、飯森範親の指揮、東京フィルの演奏、外題役が板波利加、そして演出を担当したのが、「ウルトラマン」シリーズで知られる実相寺昭雄でした。

が、その演出に関しては観ていて正直ものたりない気がしたのを覚えています。ステージの進行に伴い回転していく舞台装置のアイディアなどに、実相寺昭雄の特撮方面での経験が活かされているのかなと思う程度で、全体にはオーソドックスを地で行く演出という感じでしたし、群衆の乱闘シーンが観ていてリアルに思えた点が、今でも何となく印象に残っている程度です。

といって別にウルトラ怪獣を出せというのではありませんが、少なくとも、このオペラにおける既成観念を揺さぶるほどの力のある演出とまではいかなかった、というのが率直な感想でした。

そして、今回の鵜山仁の手による「カルメン」の演出も、やはり7年前に観た実相寺演出の「カルメン」と同じ意味での物足りなさを感じたのです。

先日も書きましたが、要するに「カルメン」というのは、筋としての強烈なメッセージ性には欠けるオペラではないかという前提が、私にはあるので、いかに舞台をリアルに描き切ろうとも、もともとカルメンというオペラが本来的に内在するドラマツルギーだけでは限界がある、ように思えるため、それに加算されるプラスアルファ的な視点がないと、演出としての機能に物足りなさを覚えてしまうのです。この意味において悪い演出ではないにしても良い演出とは言えないのではないか、というのが私なりの忌憚ない所感になります。

この点、「カルメン」のシナリオでいうと終盤あたり、例えば「ヴォツエック」に似た雰囲気を漂わせる点とか、そのあたりを演出的に強調しても面白そうな気がしますし、そうでなくても、既存の有り来たりの視点からの、何らかの逸脱を提示して、価値観に揺さぶりを掛けて欲しかったというのが正直なところでした。

新国立劇場のビゼー「カルメン」の感想


昨日(6/13)の新国立劇場、ビゼー「カルメン」の感想です。

2010-06-14

キルスティン・シャベス(カルメン):
「カルメンを演じるために生まれてきた歌手」とも評されているという、特にカルメン役を得意として世界の歌劇場で活躍中のメゾ・ソプラノ、ということで、興味深く聴きましたが、なるほど確かに素晴らしい歌手だと思いました。

声量の豊かさ、盤石の歌唱テクニック、そして、いわゆる「見栄え」の良さ(これがカルメンのイメージに良く合う)、3拍子揃った歌手だなというのが率直な印象で、カルメンを歌った往年の歌手と対比するなら、マリア・カラスの激情、アグネス・バルツァの野生味などとも一味ちがった、スマートでコケットリーな側面を強く打ち出した現代的な?カルメンと映りました。

そして、聴いていて確かにカルメンのエキスパートかも知れないと思った点は、単に役柄に没入するに留まらず、そのキャラクターの掘り下げの度合いが深いと感じたことです。例えば第1幕の「ハバネラ」には、彼女の良い意味でクレバーな歌い方というのが良く出ていて、押すところは押す、引くところは引くというのか、グッと力を込めてドスを効かせるかと思うと、次の瞬間にはスッと力を抜いて、エレガンスな色っぽさを醸し出すなど、ニュアンスの細かい切り分けが、とにかく上手いのです。

そういう風に、一つのアリアの中に様々な感情のニュアンスを盛り込もうとする結果、感情の短絡から離れた、含みのある、つまり「謎めいた」カルメン像が形成される、、それが引いては「ファム・ファタル」のイメージに収斂されていくのかなと、観ていて感じました。

歌唱テクニックの点でも聴きごたえがありました。第1幕の「ハバネラ」ではダンスをしながら歌い、その後の「セギディリャ」ではベンチに寝そべって歌い、第2幕の「ジプシーの歌」ではスカーフをブンブン振り回しながら歌い、という風に、アリアを歌いながら変則的な身体動作の要求されるシーンが多かったのに、ピッチもぶれず、普通に歌っているのと何ら変わらないように聴こえるあたり、聴いていて凄いなと唸らされました。

このような歌唱において更に、例えば録音に聴く往年のカラスやバルツァのカルメンのような、ドン・ホセのみならず聴き手までをも圧倒する様な声自体のスケール味が加われば、さぞかしとも思いますが、とまれカルメンの歌唱としては、これは確かに一つの理想形なのかも知れないなと、感服する思いで聴き入るばかりでした。

トルステン・ケール(ドン・ホセ):
ドイツ生まれのテノールで、経歴としてはワーグナーの方面を得意役とする、ヘルデンテノール型の歌手のようです。なるほどという感じで、聴いていて声量こそ少し振るわないように思えましたが、艶やかな美声と、伸びやかな高音の輝かしさ、いずれも一級という風で、それは聴いていて惚れぼれすること頻りでしたし、全体に考え抜かれたような、知的な歌い回しの中に、溢れるような情熱や、抑えがたい衝動といった生々しい感情も濃く息づいていて見事でした。

ただ正直、特にカルメンに対する、抜き差しならない愛憎のニュアンスの浮き出しにおいて、全体に今一つの物足りなさも残りました。そのあたりカルメン役のシャベスが光っていただけに、ホセの方が対比的に何か大人しいなという風に映ったのです。

そもそもドン・ホセって、往年の歌手でいうとカレーラスとかドミンゴとか、イタリアオペラ本線の歌手が当てられることは多くても、ワーグナー歌手が当てられることって、あんまり無いような気もしますが、今では割と普通なんでしょうか。

ジョン・ヴェーグナー(エスカミーリョ):
ドイツ生まれのバリトン、、やっぱりドイツオペラの方が得意なのだろうな、という風に聴いていて思いました。いかにもダンディなエスカミーリョという感じで、前述ドン・ホセ役ケールと同様、声自体は素晴らしいと思うんですけど、フランス語の発声が、なんとなく固くて滑らかさを欠くなど、このオペラの性格からすると、やや違和感も感じました。そもそも、何故わざわざドイツ人を二人も主要キャストに、、?

浜田理恵(ミカエラ):
同じ劇場で、一昨年の「トゥーランドット」のリューを聴いて以来ですので、そのイメージが何となく聴いていて重なる感じでした。今回のミカエラも前回のリュー同様、いわゆる「可憐な女性」の最大公約数的なイメージが十分に醸し出されていて、オーソドックスながら聴いていて好感の持てる歌唱でした。

バルバチーニ/東京フィル:
響きの感触としては聴いていて少なくとも「フランスもの」という印象は薄くて、むしろ少しワーグナーっぽい感じの、コッテリとしたアンサンブル展開だったかなという印象です。その意味で必ずしもラテン的な陰影をクッキリと感じさせる音の造り方ではなかったようにも映りました。

しかし基本的に、このオペラのオーケストラ・パートというのは聴き手にとって御馳走攻めのようなものですので、その絶大なまでの音楽の愉悦味を堪能するという観点では、全く申し分のない、ダイナミックで溌剌とした演奏でした(張り切り過ぎて中盤ややオーバーペースの感もありましたが)し、カルメンの音楽は生で聴くと、やっぱりいいなあと、始めから終わりまで聴いていて、何というかウキウキしっ放しな状態でした。

「カルメン」の版について:
ロビーで購入した公演プログラムには、「今回、新国立劇場で上演されるのは、フリッツ・エーザー版に基づくものの、台詞部分はレチタティーヴォにした折衷版である」と書かれています。

いや、よく知らないんですけど、どうも「カルメン」って幾つかの版があるみたいですね。例えば第1幕で女工達が登場する直前の、ホセとスニガの会話のシーンですが、小澤征爾の全曲盤だと「語り」で録音されていたのが、昨日の舞台だとレチタティーヴォで歌われていたので、このあたりが版の違いなのかなと聴いていて思いました。と言って、それ自体どうこうという感想は特にないですけど、、

演出に関しては、また後日に。

新国立劇場のビゼー「カルメン」(6/13)


今日は新国立劇場でビゼーの歌劇「カルメン」を観ました。

2010-06-13

指揮はマウリツィオ・バルバチーニ、オケは東京フィルハーモニー交響楽団。歌手は以下の陣容でした。

カルメン:キルスティン・シャベス
ドン・ホセ:トルステン・ケール
エスカミーリョ:ジョン・ヴェーグナー
ミカエラ:浜田理恵

さすがに超有名オペラだけあって、「カルメン」は新国立劇場では過去に4回も上演(1999年、2002年、2004年、2007年)されていて、今回が5回目の公演とのことです。

しかし私は折り合いが悪かったりで、その過去の公演を4回とも観逃していました。ので、この劇場で「カルメン」を観るのは、今日が初めてです。

そういうわけで、今日は満を持して新国立劇場の「カルメン」を、じっくり観ました。

感想は改めて後日に出しますが、演出がちょっとアレかなと思った以外は、全体的に良かったです。特にカルメン役キルスティン・シャベスの歌いっぷりは、見事の一言でした。

# サッカーの、ワールドカップが始まって、
  連日連夜かまびすしいサッカー評論家 字余り

小澤征爾/フランス国立管弦楽団によるビゼーの歌劇「カルメン」全曲


ビゼー 歌劇「カルメン」全曲
 小澤征爾/フランス国立管弦楽団
 フィリップス 1988年 PHCP20038
PHCP20038

今月の新国立劇場の、ビゼー「カルメン」を観に行く予定です。

その予習として今日は小澤征爾の指揮、フランス国立管弦楽団の演奏による、カルメンの全曲盤を、付属の対訳を見ながら一通り聴きました。カルメンがジェシー・ノーマン、ミカエラがミレッラ・フレーニ、ドン・ホセがニール・シコフ、エスカミーリョがサイモン・エステス。

なにしろ有名にも程があるくらいのオペラですし、今さらシナリオの確認もないようなものですが、しかし聴き終えてみると、ある疑問が、何となくですが浮かんできました。ので、それについて以下、つらつら書いてみたいと思います。

「このオペラって、出自からしても、音楽の性格からしても、明らかにオペラ・コミックのジャンルなのに、なんで最後にカルメンが刺し殺されて終わるのか?」

そもそも「ヒロインが最後に死んでしまうオペラ」という類型でみた場合、①病死する②自殺する③殺される、という3パターンがあると思うんですが、例えばヴェルディのオペラでみた場合、①は「椿姫」②は「アイーダ」③は「リゴレット」と、ことヴェルディの場合ほぼ万遍なくという感じなのに、これがワーグナーになると、何故だか異様に②が多い。「オランダ人」「タンホイザー」「神々の黄昏」、いずれも②ですね。

まあ、それはいいとして(←いいのか?)、今は③について更に考えますと、他のオペラでは「サロメ」のサロメ、「ヴォツェック」のマリー、あたりでしょうか。

これら③の類型に属するオペラを個別に見ますと、最後にヒロインが、どうも死なざるを得ないのではないか、というような、ある種のメッセージ性を内包するオペラと、そうでないオペラとに大別されるように思うのです。

サロメは、人としてのモラルから死なざるを得ない、のでしょう。マリーは、このオペラの醍醐味ともいうべき終盤のカタストロフに突き進むために死なざるを得ない、のでしょう。ジルダは、「人を呪わば穴二つ」という因果応報的な教訓のために死なざるを得ない、のでしょう。

これに対しカルメンはどうか? となると、あまり必然性はないのではないか、という風に思えます。敢えて言うなら、ストーリーを「割りと良くある、リアルな話」に仕立てるために、殺した、みたいな、、?

何が言いたいのかというと、要するに「カルメン」というのは、筋としての強烈なメッセージ性には欠けるオペラかもしれないということを考えたのでした。いかに、このオペラのためにビゼーの書いた音楽が、天才的に素晴らしく、めくるめく管弦楽の色彩感に満ち、濃密に立ち昇るスペイン情緒と共に、局部的に人間の持つ情熱性が猛烈に立ち込めたり、いずれも革命的なオペラとしての音響感を備えていたとしても、シナリオそのものは、なにしろ社会面の3面記事に出てくるような、ありきたりの話に過ぎないのですから。

このオペラの原作は、1845年に発表されたプロスペル・メリエの小説「カルメン」なのだそうですが、これは全く評判にならなかったそうで、なるほどそうだろうなぁという気もしますが、いずれにしても、このビゼーの「カルメン」は、その音楽の絶大なインパクトゆえの傑作なのだなという、半ば当たり前のような結論に結局、行き着いたのでした。

ホルスト・シュタイン/ウィーン・フィルによるブルックナー交響曲第6番


ブルックナー 交響曲第6番、他
 シュタイン/ウィーン・フィル
 デッカ 1972年 POCL-4322
POCL-4322

昨日に続いてサロネン関連の話題になりますが、先月にサントリーホールから発表されたところによると、今年秋の「ウィーン・フィルハーモニー・ウィーク イン・ジャパン 2010」で、サロネンがウィーン・フィルを指揮することが正式に決まったようです。

そのサロネンが振る公演の演目に、ブルックナーの交響曲第6番が含まれているのを知って歓喜しました。私は基本的にブルックナーの交響曲は全て好きですが、特に6番は気に入っているもののひとつですので、ぜひ聴きに行きたいと思います。

ところで、サロネンのブルックナーの録音として、現在リリースされているのは以下の交響曲第4番のみです。

SRCR2157
ブルックナー  交響曲第4番「ロマンティック」
 サロネン/ロスアンジェルス・フィル
 ソニー・クラシカル 1997年 SRCR2157

このCDの感想はこちらに掲載済みですが、アメリカのオーケストラに拠るブルックナー演奏という範疇では、稀に見る名演ではないかというのが率直な印象で、この演奏で発揮されているサロネン一流の現代的に洗練された色彩感覚が、ウィーン・フィルを相手にどのように昇華されるか、注目したいと思います。

逆に、ウィーン・フィルの演奏によるブル6のCDとしては、周知のようにホルスト・シュタインの指揮で1972年に録音されたものがデッカよりリリースされています。

これはウィーン・フィルによるブル6の初録音ですが、これ以降ウィーン・フィルによる同曲の正式な録音は、現在に至るまでリリースされていません。

この曲はウィーン・フィルゆかりの交響曲なのに、21世紀の現在まで、このシュタイン盤の他に同楽団のレコーディングがないというのも、何だか不思議な気がしますが、幸いにと言うべきか、このシュタイン盤の演奏内容は聴きごたえ十分で、シュタインの規範的なイン・テンポの解釈から繰り出される、オーケストラのみずみずしい音彩、ここぞという時のウィンナ・ホルンのコクの深さ、いずれも絶品ですし、音質が優秀な点も何よりです。

それにしても、このシュタイン盤のライナーノートを読みますと、このブル6が作曲当時いかにウィーン・フィルと関係が深かったかが良く分ります。いわく、世界初演は1883年2月11日、ヤーン指揮ウィーン・フィルですが、しかし指揮者の強い要望により第2・第3楽章のみの演奏に留まり、全曲としての世界初演は1899年2月26日に、やはりウィーン・フィルにより行われました。このときは、かのグスタフ・マーラーの指揮でした。

ともあれ今年のウィーン・フィル来日公演は、この曲を同楽団の実演で聴けるという、掛け替えのない機会になるので、公演を楽しみに待ちたいと思います(まだチケットも売り出されていない段階で、気の早い話ですが)。

サロネン/フィルハーモニア管によるシベリウスの交響曲第5番


シベリウス 交響曲第5番ほか
 サロネン/フィルハーモニア管弦楽団ほか
 ソニー・クラシカル 1986・90・91年 SMK66234
SMK66234

先週、サントリーホールでエサ=ペッカ・サロネン率いるフィルハーモニア管の来日公演を聴き、そこで演奏されたシベリウス交響曲第2番に関しての感想をブログに書きましたが、サロネンはシベリウスの交響曲を、かつてフィルハーモニア管弦楽団を指揮して一曲だけ録音しており、それが1986年にソニーに録音した、この交響曲第5番になります。

この録音ですが、あまり話題にはならないようですが、私としては素晴らしい演奏内容だと思うので、この機会に感想を簡単に書きます。

まず第1楽章冒頭部でホルンと木管の対話が、弱音の中から精妙に浮かび上がるあたりから、アンサンブルの響きに独特の柔らか味が付帯しているのが耳を引きます。(1:54)からの主題の導入なども、スフォルツァンドをさほど強調せず、聴いていて何か掴みどころのない、虚無的な気配を浮遊させている感じがしますが、それは(2:49)からの付点リズムの流れにおいても同様で、ここでもスフォルツァンドの鋭さを強調するというより、サラッとした旋律の流れが活かされ、外見的な盛り上がりと裏腹に、どこか寄る辺の無い心細さを、聴き手に惹起させる演奏、そんな印象を聴いていて受けます。

この寄る辺無さは続く(6:36)からの最弱音進行部において極みに達しますが、その精妙にして非熱的な弱奏は、あたかも真夜中の、漆黒の闇に佇むかのよう。(7:53)からのラルガメンテのfの旋律展開も、依然として虚無感が強く、およそ高揚とは無縁ですが、それだから(9:20)からのクライマックスに到ったときの対比的なインパクトが、およそ絶妙であり、このシーンの感動的なサンライズの情景に、これこそ相応しい響きではないか、、そんな風に聴いていて思わされるのです。

続くアレグロ・モデラート以後も音色の感触はかなり繊細なもので、(10:50)からのトランペットのマルカーティッシモなども、かなりサラッとしていますが、しかしコーダの、プレスト以降のアンサンブルの畳み掛けはかなり強烈であり、何か一瞬の感情のほとばしりが、ありありと刻み込まれているような、そんな強烈な余韻を残して音楽が去ります。

第2楽章は淡いタッチの色彩の中に、夢想的な音色の妙感が絶えず色付く、そんな演奏で、終楽章も同様に、フォルテッシモにおいてもデリケートな客観的起伏という風であり、いわゆる「熱い演奏」という感じからは遠いものですが、その独特の、ひんやりと冷却的なアンサンブルの感触が誘起する、神秘的で幻想的な音楽の美感には何か名状しがたい魅力があり、そのあたりに聴いていてジワジワと魅了させられてしまいます。

おそらくサロネンの現代的な感性と、作品に対する冷静にして怜悧な目線とがあいまって、こういった個性味を生み出しているのではないかという気がします。

なお、本CDには同じくシベリウスの「ポヒョラの娘」、「伝説」、「悲しきワルツ」、「フィンランディア」がカップリングされていますが、こちらのオーケストラはポヒョラがフィルハーモニア管、伝説がロス・フィルで残りがスウェーデン放送響となっています。

N.ヤルヴィ/ハーグ・レジデンティ管によるブルックナー交響曲第5番


ブルックナー 交響曲第5番
 N.ヤルヴィ/ハーグ・レジデンティ管弦楽団
 シャンドス 2009年 CHSA5080
CHSA5080

英シャンドスより先月リリースされた、ネーメ・ヤルヴィ指揮ハーグ・レジデンティ管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第5番のCDを聴きました。

これはオランダのドクター・アントン・フィリップザールでのセッション録音ですが、このホールは2005年からヤルヴィが首席指揮者を務めるハーグ・レジデンティ管の本拠地のようです。なお、メディアはSACDハイブリッドです。

さて、このヤルヴィのブル5ですが、このCDを購入したのには正直「怖いもの見たさ(聴きたさ?)」という気持ちが、半分くらいありました。というのも、このCDに表記されている演奏タイムというのが、明らかに異様だったからです。総タイムが62分、第2楽章は11分15秒で、終楽章は20分に満たない、、、いずれも常識では考えられないくらい短いタイムが記載されています。

それで聴いてみると、第1楽章の冒頭から速めのテンポで快調にリズムを刻んで、スピードに乗った勢いでアンサンブルが進行し、このテンポならではの、ハキハキとしたアーティキュレーションも含めて、独特の運動感、フットワークが演奏を支配していて新鮮な趣きを感じます。

ハーモニーのバランスに関しては、総じて弦の音層が薄めで、おそらく12型くらいに編成を絞っているか、もしくは意識的に重く鳴らさない処置が採られているか、どちらかだと思われますが、いずれにしても全編に金管と木管のフレージングが目立って鮮明に響き渡り、音響的にカラフルです(ティンパニは総じて控えめですが)。

続く第2楽章ですが、とにかくハイテンポでひた押しに押しまくる演奏となっていて、何しろ今まで聴いたことのないくらいに速いので、この曲に、こんな顔もあったのかというような、何か知己の新鮮な横顔に出会ったような軽い驚きがあり、面白いと思う反面、どうしても腰の軽い、せかせかした印象も受けることも否定できず、第2楽章の最後のところ(第5部)など、この快速型だと、何となくパフォーマンスじみた演奏に聴こえてしまい、ここはやっぱり遅いテンポの方が楽想が映えるなと、そんな風にも思ってしまいました。

第3楽章もハイテンポの急迫感が目覚ましく、時々ヤルヴィの息を切らせるような呼吸音が聴こえてくるので、テンポに見合うような、相当にハイ・モビリティな指揮ぶりが聴いていて目に浮かぶようでしたし、終楽章も、こんな速いテンポで、よくここまで整然とアンサンブルが鳴るものだと感心させられますが、やはり変則的というか、強引な側面も否めず、特に(9:17)での唐突なテンポチェンジなど、最初は一体何が起きたのか分からないくらいでしたし、そのような奇抜さが過分に鼻についてしまうのも事実でした。

以上、この演奏は、おそらく激しく評価の分かれる演奏ではないかと思いますし、正直なところ私自身、この演奏をいかに咀嚼するべきか、戸惑っているところで、もう少し聴き込んでみないと見えてこないのかもしれないですが、聴き終えて何となく思い浮かんだのは、ヤルヴィの師匠筋ムラヴィンスキーが、もしブルックナーの5番を演奏したら、こういう風な造型になったのではないか、というような想像でした。

いずれにしても、このブルックナーは全編にヤルヴィの旺盛なチャレンジ精神が発揮された演奏である点は疑いなく、その結果やや怪演がかった表現に帰着した感なきにしもあらずですが、少なくとも本演奏でなければ体験できない場景が多く聴かれることも揺るぎない事実であって、そのあたりの個性味を聴き手が肯定的に捉え得るかが、この演奏に対する聴き手のスタンスを決定する分かれ目ではないかと思います。

ツィメルマンとラトル/ベルリン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第1番


ブラームス ピアノ協奏曲第1番
 ツィメルマン(pf) ラトル/ベルリン・フィル
 グラモフォン 2003・04年 289-477-6021
289-477-6021

先週末サントリーホールで聴いたクリスチャン・ツィメルマンのショパン・リサイタルにつき、その感想を一昨日ブログに出しましたが、そのツィメルマンは近年、CDのレコーディングに対して消極的な姿勢をとっており、特に最近5年間は、新譜を全くリリースしていない状況です。

それに関してですが、実は当夜のリサイタルの公演プログラムの中にツィメルマンへのインタヴュー記事が掲載されていて、そこで最近の彼が何故レコーディングを行わないのか、その理由が明らかにされていました。

2010-06-08

これは少し興味深い内容だと思うので、以下で簡単に触れます。

まず、インタヴュアーから発せられた、「現在のコンサートをライヴ録音したらどうか」という提案に対し、「それはファゴット奏者に対して肺のレントゲン写真を渡すようなもの」という、かなり痛烈なコメントを返した後で、以下のような自論を開陳しています。

・・・基本的に言って、録音したものは、缶詰を買って、その外側だけを考えているような気持ちにさせます。音楽とはいったい何なのだろう、と私は自問します。私たちは当然録音というものを聴きますが、それは、私にとって音楽のなかでいちばん重要な、『いま』というファクターを欠いている。演奏者から伝わってきて、また戻ってくるというこのサイクル、それをまたモデュレーションしてまたそのサイクルのなかに入れていく、ということが私には大切なのです。レコーディングではインプットが一方向になってしまう。つまり、壁に向かってなにかを投げるようなもので(笑)、なにかが戻ってくることはない。スタジオにいると、自分がばか者のように思えてくるときがある。・・・

このあと、「楽譜も録音も同じくらい芸術からかけ離れている」、「音楽というのは、音ではなく、時間なのです。音楽いうのはそれを再現している時間そのものにあるのだと私は思います」という風に述べてインタヴューを締めくくっています。

以上のツィメルマンへのインタヴューからは、少なくとも以下の2つのことが、客観的に言えると思います。

①現在のツィメルマンのレコーディングに対するスタンスが、かつてのグレン・グールドとは正反対の境地にあること。

②今後、ツィメルマンの新録音がリリースされる可能性が、ほとんどゼロに近いのではないかと思われること。

その上で問われるのは、我々CD受容側の人間が、上記のツィメルマンのコメントに対し、どう思うか、ですが、「それでは、お前はどう思うんだ」、そう聴かれた場合、私はフィフティフィフティと答えるでしょう。読んで首肯できる部分が5割、そうでもない部分も5割、ひいては五分五分かなという感想を持ちます。

しかし、例えばCD命で、コンサートなど歯牙にもかけない人が読んだら、まるっきり納得できないという話になると思いますし、逆にコンサート命で、CDなど歯牙にもかけない人が読んだら、まさにその通り、よくぞ言ってくれたという話になろうかと思われます。しかし私は、結局そのどちらでもないと思うので、フィフティフィフティなのかなと考えます。

そんなことを考えながら、そのツィメルマンの現状における最後のレコーディングである、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共に録音し、2005年にリリースされた、ブラームスのピアノ協奏曲第1番のCDに、久しぶりに耳を傾けました。

ここではレコーディングに際してラトル/ベルリン・フィルを、わざわざEMIからレンタルしていることからも伺えるように、ほぼツィメルマンの主導で行われた録音でした。

このCDの英文のライナーには、このブラームスの録音のために、ツィメルマンが80種以上ものレコードに耳を傾け、作品の正しいテンポを研究した旨が記載されています。

確かに上に挙げたコメントを読む限りは、いかにも彼が録音を全否定しているようにも読めますが、しかし彼が「芸術からかけ離れている」と評したレコードを、自身の解釈のための研究材料としている事実に鑑みると、本心ではレコードの価値なり効用なりを、ある程度まで認めているのではないかと思えなくもないのですが、どうでしょうか。

クリスチャン・ツィメルマンのピアノ・リサイタルの感想


昨日(6/5)のサントリーホール、クリスチャン・ツィメルマンのピアノ・リサイタルの感想です。

2010-06-06

なお、以下の演目はすべてショパン作品です。

最初のノクターン第5番は、何となく指馴らしという感じで、終始リラックスして、しなやかに弾き通した印象でした。その意味では、続くピアノ・ソナタ第2番「葬送」からツィメルマンのピアニズムの醍醐味が、本式に発現され始めたように思えました。

ここでは全体的にルバートを多用しながらショパンのメロディの魅力を存分に強調せしめつつ、かつ落差の大きなデュナーミクの演奏効果を積極的に取り入れつつ、ここぞという時には燃えるように鮮烈なフォルテッシモを披歴する、そんな演奏で、それは聴き手の胸を真っ直ぐに突くような、素晴らしい表現力と思えましたし、その演奏から終始立ち込めていた濃密な情緒は、どこか19世紀のロマンティズムを受け継ぐような、主観的な演奏様式でありながら、同時に現代のピアニズムを強く意識させる、研ぎ澄まされた音響のリファインメントをも排斥しない、不思議な味わいの演奏でした。

続くスケルツォの2番も同様で、例えばポゴレリッチのやるような、スコアを解体して音楽を再創造するというのでなく、スコアの許容するギリギリの範囲内で、ツィメルマンの主観性と、ショパン自体の音楽とが、激しいせめぎ合いを演ずる、というような演奏。であればポゴレリッチの強烈な苦味の放射に欠けるとしても、その説得力は何ら欠けるところはなく、むしろ虚心に作品に対しアプローチしているツィメルマンのスタンスには、聴いていて直截に胸を打たれる思いでした。

休憩を挟んで演奏されたピアノ・ソナタ第3番では、さらに深く充実したピアニズムの粋が披歴され、これには聴いていて陶然とさせられるとともに、何というか「本場のショパン演奏」とは、もしあるなら、こういうものなのかもしれないとさえ思えるような演奏でした。

基本となる演奏の組み立て方は、前半の2番のソナタと同じ行き方と思えましたが、3番のソナタの方が、作品自体の訴求力において優位するのか、そのピアニズムの深々とした訴えかけの度合いが素晴らしく、その意味では、この第3ソナタが当夜の白眉と思えました。

この演奏においては、どんなにロマンティックにテンポが揺れようと、あるいはエスプレシーヴォにフレージングが閃こうと、ショパンの様式感の確固とした把握が、常に裏打ちされている均整さがあり、言うなれば造型は揺らぐけれども、造形感は揺るぎないという、そんな得難い感覚を聴いていて味わうとともに、ひと月ほど前に同じホールで聴いた、ポゴレリッチの弾くショパンのコンチェルトとの著しい対照に、聴いていて思いが至りました。

あの時のポゴレリッチのショパンは、必要以上にショパンの構成感に拘らなかったからこそ、あそこまでショパンの音楽の暗黒の表情を引き摺りだすことに、おそらく成功したのに対し、当夜のツィメルマンはあくまで、ショパンの構成感を尊重するので、その表情は病的となり得ず、むしろショパンの表の側から作品としての本質に鋭く迫るような凄味に満ち、ポゴレリッチと同格の表出力を漲らせた演奏でしたが、その意味ではツィメルマンとポゴレリッチのショパンは、互いに表裏一体の関係にあるのかもしれないと、いう風に思えなくもありませんでした。

最後に、舟歌(バルカロール)が演奏されました。これはリサイタルのトリを飾るには、いささか地味な曲だなと思ったのですが、ロビーで購入したプログラムの作品解説には「ショパンのピアニズムの集大成とも評される傑作」であり「これを演奏するピアニストには完璧な技巧と適切な表現手段、そして『心』が要求される」と書かれていました。

ここでツィメルマンは、そのヴェネチアのゴンドラの歌を連想させるリズムの扱いは言うに及ばず、一つ一つのメロディに込められたロマンティックな情感さえ、細やかに美しく描き出すとともに、フレージングのテンポ感、タッチの強弱、音色の陰影などを小刻みに変化させながら、まさに絶妙というほかないような音楽の運びを披歴し、その演奏の味わいは無類とも思えるほどでしたし、何だか聴いていて音楽の優しさに心が満たされるような、そんな感動的な面持ちで、ただただ聴き惚れるばかりでした。

以上、当夜のツィメルマンのピアノ・リサイタルで披歴された一連のショパンは、この前のポゴレリッチのショパンのような、聴いていて様々な思索を余儀なくされる演奏とは一味ちがって、いずれの演奏も夢中でショパンの音楽の魅力に浸ることのできる、類い希なる表現と感じられましたし、それゆえに聴いていて心の深いところに染み入る、そんな掛け替えのない演奏だったと思います。

クリスチャン・ツィメルマンのピアノ・リサイタル(サントリーホール 6/5)


今日はサントリーホールでクリスチャン・ツィメルマンのピアノ・リサイタルを聴きました。

2010-06-05

演目はすべてショパンで、以下の5曲が順に演奏されました。

①ノクターン第5番
②ピアノ・ソナタ第2番「葬送」
③スケルツォ第2番
④ピアノ・ソナタ第3番
⑤舟歌op.60

ラ・フォル・ジュルネから一ヵ月が経って、何となくショパンの実演の感触が懐かしい頃合いに、折よくツィメルマンによるオールショパンプログラムのリサイタルがあるということで、楽しみにホールへ赴きました。

感想は後日に改めて出しますが、聴いていて心の深いところに染み入るような、素晴らしいショパンでした。もし「本場のショパン」というのがあるとしたなら、こういう演奏なのかもしれない、、

引き続き、フィルハーモニア管弦楽団の来日公演の感想


昨日に引き続き、サロネン/フィルハーモニア管弦楽団の来日公演(サントリーホール 6/2)の感想です。

2010-06-03

休憩を挟んで、16型の編成でシベリウスの交響曲第2番が演奏されました。

このシベリウスにおいては、サロネン一流の瑞々しい音響の色彩感が、卓抜した合奏能力を誇る名門フィルハーモニア管のアンサンブルから、こよなく冴えざえと紡ぎ出されていく様が素晴らしく、それはある意味で期待通りとも言えるものでしたが、やはり客席で聴いていて、改めて驚嘆させられてしまうものでした。

全体を通してアンサンブルの、合奏上の透明感が驚異的に高く、弦の音彩は清らかというか清潔というか、余分な贅肉のない、すっきりとしたものでしたが、それは風通しが良いとか、見晴らしが良いとか言うに留まらない、音楽の持つ知的な側面を聴き手に意識させるに足る、考え抜かれた遠近法のバランスと感じられました。フォルテッシモにおいてさえそうで、渾身の最強奏において最弱奏の静謐を聴き手にイメージさせることのできる、希有の演奏、というべきでしょうか。アンサンブルの色彩面での途方もないニュアンスの豊かさも絶品であり、瞬間瞬間の響きの、多様な推移が、何と雄弁であったことか。その個々の音色に対する研ぎ澄まされた才覚は、おそらくサロネンのハーモニーというものに対する鋭敏なセンスの賜物なのでしょう。

あるいは、そこにはサロネン自身の持つ確固たる演奏スタイルというかアイデンティティに、同郷の作曲家シベリウスに対する何らかのシンパシーが加算されたのかもしれませんが、いずれにしても当夜のシベリウスは、情緒の力に頼らず、純音楽的な処理に徹する行き方に依拠した演奏としては、驚異的な表出力を漲らせていた演奏と思われ、聴き終えて感服の極みでした。

フィルハーモニア管は周知のように、オーケストラとしては世界でも珍しい、「レコーディングのためのオーケストラ」という出自を持ちますが、それだけにベルリン・フィルを凌ぐとすら言われる、アンサンブルの指揮者に対するレスポンス感度、すなわち指揮者の解釈に対しての適応力の高さが尋常一様でなく、おそらくサロネンの望んだであろうデリケートな色彩表情が、抜群の感度で音響化されていく様は聴いていて圧巻で、この名門オーケストラのアンサンブル能力の高みが、そのあたりに端的に伺えるような気が聴いていてしました。

余談ですが、当夜の公演プログラムを見たら、「ロンドンのオーケストラ界は目下サロネン&フィルハーモニア管、ゲルギエフ&ロンドン響、そして若き精鋭ユロフスキ率いるロンドン・フィルの三者の激戦区となっている」と書かれていて、すごい贅沢な状態だな現在のロンドンは、、と思ってしまいましたし、これらの世界的にも傑出した三者が、本気で互いに凌ぎを削った日には、一体どれだけ演奏水準が上がるものだろうか、という漠然とした興味もそそられました。

以上、当夜のフィルハーモニア管弦楽団の来日公演は、聴き手(日本人)に対して何か抜き差しならない問題提起を突き付けたかのようなサロネンのへリックス自作自演に始まり、ヒラリーハーンの珠玉の名演を経由し、そしてサロネン会心ともいうべき素晴らしいシベリウスで結ばれた、私にとって聴きごたえ120%とも言うべき、充実を極めたコンサートでした。

フィルハーモニア管弦楽団の来日公演の感想


昨夜(6/2)のサントリーホール、サロネン/フィルハーモニア管弦楽団の来日公演の感想です。

2010-06-03

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと並べた通常配置でした。

まず16型の編成で、サロネン「へリックス」の自作自演が披露されました。

この曲はサロネンが、友人であるワレリー・ゲルギエフの提案を受けて作曲したコンサート・ピースで、2005年のロンドンのプロムスでの、第二次世界大戦終戦60周年を記念したコンサートにおいて、ゲルギエフ/ロンドン響により初演されています。

ロビーで購入した公演プログラムには、「題は螺旋(らせん)の意味で、円錐面上を進んで最後に頂点に至る螺旋の形状が、アッチェレランド(速度の増加)しながらフレーズの音価を長くしていく音の動きによって描かれている」と書かれていますが、確かに聴いた印象としても概ね、その通りの音楽で、特に終盤の猛烈なアッチェレランドの生み出す、もの凄いカタストロフの迫力には聴いていて息を呑むほどでした。

しかし、それ以上に聴いていて考えさせられたのは、この曲というのが実は我々日本人にとって、それなりに「重い」意味があるのではないか、ということでした。

というのも、この曲が第二次世界大戦終戦60周年記念コンサートのために書かれたものである以上、要するに「第二次世界大戦終戦」イコール「日本の敗戦」なんですから、そのあたりの含みもまた音楽に内蔵されている、と考えるのが自然のように私には思えるからです。

もっとも、その内蔵されている含みというのが具体的に何なのか、となると正直、分かりませんでした。が、たとえ思い到らずとも、我々が「何かを突き付けられている」と感じること、その感覚自体が案外、大事なのではないかという気もするのです。

折しも、その第二次世界大戦の終戦と、極めて密接に連関する事象である、沖縄・普天間基地移設問題の責任を取る形で、鳩山首相が総理職の辞任を表明した、その同じ日に、皮肉にもサントリーホールで高らかに鳴り響いた、サロネンの「へリックス」、、

わずか10分ほどの小曲でしたが、聴いていて何だか色々と考えさせられた演奏でした。

続いて編成を14型とし、真紅のドレスに身を包んだヒラリー・ハーンのソロで、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が演奏されました。

このチャイコフスキーに関しては、今まで私が耳にした同曲の実演と引き比べても、おそらく一頭地を抜く演奏ではないかと思わせられるほどに素晴らしく、これには聴いていて脱帽の一言でした。

ここでのヒラリー・ハーンの演奏は、作品の様式を完全に掌握していること、比類ないほどのテクニックで万全に聴かせた演奏であったこと、これらについては紛れもなく、その時点で既に私は客席で感嘆させられっぱなしという状態だったのに、その上さらに音楽としての深い感銘、強烈なまでの訴えかけまでもが付随しているのですから、なるほど非の打ちどころの無い演奏というのは、こういうものなのかという実感を伴った感動で満たされたような心持で、ハーンのヴァイオリンに、ひたすら聴き入るばかりでした。

一言でいうなら、このチャイコフスキーの華やかなコンチェルトを、その華やかな摂理に逆らわずに、最後まで華やかに弾き通した、そんな演奏でありながら、その演奏にはケレン味のようなものが希薄で、むしろ思いもよらない作品の新鮮な美しさが、聴いていて次から次へと耳に飛び込んでくる、そんな演奏でもあり、正直この聴き慣れたはずの曲が、こんなに詩的な奥行きのある曲だったのかと、聴いていて全く驚かされたくらいでした。

そのヴァイオリンの音色の得もいわれぬ美しさ、繊細なボウイングの表現力、研ぎ澄まされた音色の訴求力、冴えわたるテクニックの切れ味、そのどれひとつ取っても尋常なものではなく、何という音楽的にハイレベルな演奏なのだろうと、もうひたすら圧倒されるばかりでしたが、そんな中でも特に印象深かった点は、作品との相性の良さというのか、いかにも華麗にして艶美な弾き回しでありながら、それらが外面的な効果に落ちないのは、ひっきょうハーンの持って生まれた音楽性、天性の華やかさのようなものが、なにか作品の性格に強くマッチしているからではないか、というようなことでした。

ハーンというと、これまで私の印象ではCDで聴くかぎり、特に可もなく不可もない演奏という感じで、特に注目していたアーティストというのでは、正直なかったのですが、昨夜の実演を聴くに及んで何かガラッと、印象が変わったような気がします。何より、聴き手を惹きつけて止まないような、表面的な意味での華やかさと、内面的な意味での訴えかけの強さとが、相互に排斥せず同居している演奏が可能であるという点で、なにか別次元の演奏を聴くような衝撃を味わいました。

サロネン/フィルハーモニア管の伴奏も、ハーンの華麗な弾き回しを絶妙に盛りたてつつ、同時にハーンの内面的な語りかけをも絶妙に引き立てた、およそハーンにとって理想的と思われるもので、おそらく両者の間に、相応の信頼関係が築かれているのではないかと思わせられるものでした。

後半のシベリウスについての感想は、今日は時間切れにつき、また後日に出します。

フィルハーモニア管弦楽団の来日公演(サントリーホール 6/2)


今日はサントリーホールでフィルハーモニア管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2010-06-02

指揮者はエサ=ペッカ・サロネン。演目は前半がサロネン「へリックス」の自作自演と、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(ソリストはヒラリー・ハーン)、 後半がシベリウスの交響曲第2番というものでした。

アンコールは以下の4曲でした。
①イザイ メランコリア
②J.S.バッハ ヴァイオリン・パルティータ第3番よりジーグ
③シベリウス 「ペレアスとメリザンド」より「メリザンドの死」
④シベリウス 組曲「カレリア」より「行進曲風に」

このうち①と②は前半のアンコール曲でヒラリー・ハーンにより演奏されました。なお、「メランコリア」というのはイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の第2楽章の通称です。

今日の公演は、俊英サロネンの指揮で名門フィルハーモニア管の実演を聴けるという点でも楽しみでしたし、以前サロネン/フィルハーモニア管が録音したシベリウス交響曲第5番が素晴らしい演奏だったこともあり、特に後半のシベリウスに期待してホールに足を運びました。

感想は改めて後日に出しますが、シベリウスに関しては変な言い方かもしれないですが、期待通りの、驚嘆に値する演奏内容でした。しかし期待以上という観点で言うならヒラリー・ハーンのチャイコンが圧巻で、その演奏はCDの比ではなく、大いに魅了させられました。

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