ゲルギエフ/ロンドン交響楽団によるラフマニノフの交響曲第2番


ラフマニノフ 交響曲第2番
 ゲルギエフ/ロンドン交響楽団
 LSO-Live 2008年ライヴ LSO0677
LSO0677

LSO-Liveより先月リリースされた、ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏によるラフマニノフ交響曲第2番のCDを聴きました。2008年9月のロンドン、バービカンホールでのライヴ録りで、例によってSACD仕様でのリリースです。

周知のように、ゲルギエフによるラフマニノフの2番には以前フィリップスからリリースされた、キーロフ歌劇場管弦楽団との録音があります。

438864-2
ラフマニノフ 交響曲第2番
 ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管弦楽団
 フィリップス 1993年 438864-2

この旧録音の演奏は世評も高く、私の印象としても、くわしい感想は以前こちらに掲載済みですが、このラフマニノフの2番の数多い異演盤の中でも稀に見る名演ではないかと思っていますが、ただ音質が少しモコモコとして玉にキズかとも思っていました。

ですので、今回の新録音は何しろSACDですし、旧録音を遙かに上回る音質で、あの演奏が聴けるのかと、心躍る思いで演奏に耳を傾けました。

しかし聴いてみると、確かにSACD仕様の音質は優秀というのか、およそコンサートホールで聴く感触に近いのではないかとも思えるほどですが、肝心のゲルギエフ/ロンドン響の繰り広げるアンサンブル展開の方に今一つの物足りなさがあり、並の指揮者であればともかく、ゲルギエフにしては全体的に、いささか低回気味の演奏ではないかと思えなくもありませんでした。

SACDの高音質の利により、一つ一つの木管や金管の旋律などは素晴らしく克明かつヴィヴィッドに捉えられているのに、それらが集積した訴求力が大人しいというのか、全般にトッティの鳴動力が煮え切らない感があるのですが、それがどうも聴いていて音響が高域と低域にエネルギーが分散され過ぎて、密度的に中抜けという感じがしなくもなく、もしかすると、これはSACDの音質の弊害なのかもしれません。

いずれにしても、第1楽章の(16:10)あたりから再現部のクライマックスなど、ゲルギエフにしては随分と淡泊な印象で、旧盤とは随分ちがうなという気がしますし、全体としても、ここぞという時にフォルテの響きの熾烈さが伸び切らず、そうなるとラフマニノフの曲想から不可避的に由来するところの、ムード音楽然とした雰囲気、耳当たりの良さ、安逸な甘美さばかりが耳につき、聴いていて何だかカラヤンのマーラーみたいな演奏だなと思ってしまいましたし、とくに第3楽章は旧盤より1分以上タイムが伸びていますが、しかし、そのぶん甘ったるくなり、間延びし、密度も軽くなったような気がするのです。

以上、このゲルギエフ/ロンドン響のラフマニノフ第2は、ゲルギエフにしては、やや平板な演奏に終始したという印象を拭えず、私としては期待をはぐらかされた結果に帰着したというのが正直なところですが、それも演奏自体が平凡だと言うのならまだしも、もしか音質の弊に拠るところが大きいのではないかという可能性があり、そうなら尚更に残念な気がします。

読書間奏・茂木健一郎の「あなたにもわかる相対性理論」


「あなたにもわかる相対性理論」
 茂木健一郎著
 PHPサイエンス・ワールド新書
2010-05-30

 ・・科学の感動。それは、世界がこれまでとは違った場所に見えることである。私たち自身の存在、私たちを取り囲むものたちのあり方について、より深い見方ができるようになる。
 アインシュタイン自身、「感動することをやめた人は、生きていないのと同じである」という言葉を残している。ここでアインシュタインの言っている感動とは、この宇宙を支配している法則にふれることで私たちの心に起こるさざ波のことであろう。それは発見する歓びであり、創造へと向かう衝動である。
 科学が明らかにするこの世界の真実にふれて、私たちのこころは戦慄する。生きていることの意味が、より深いところで確認できるようになる。少々の困難ではへこたれない、前向きに生きる力が湧きあがってくるのである。・・・

茂木健一郎著「あなたにもわかる相対性理論」を読了しました。昨年秋に刊行された新書ですが、先月に書店で見かけて購入し、おもに朝晩の通勤電車の中で読みました。

著者である脳科学者の茂木健一郎氏は、周知のように音楽にも造詣が深く、音楽関係の著作も多いことから、クラシック愛好家の中にもご存じの方は多いのではないでしょうか。昨年のラ・フォル・ジュルネの地下展示ホール会場で、バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明氏と、バッハについて熱く対談されていた様子が印象に残っています。

本書ではアインシュタインの相対性理論が取り上げられていますが、実は私自身、この理論に以前から少なからぬ興味を持っています。そのきっかけは高校時代にさかのぼり、この理論を課外授業で履修したことがあって、その際に同理論についての大まかな知見を得ました。下の写真の本が、私が高校の時に授業で読んだ教科書です。

2010-05-30-2
相対性理論入門
 ランダウ=ルメル・ジューコフ 著
 鳥居一雄・広重徹 訳
 東京図書

それ以来、市販の解説書を読んだりしながら理論を追い、その考え方を自分なりに何とか咀嚼するところまで漕ぎ着けるとともに、その理論の衝撃性に心打たれるようになりました。

したがって、この茂木健一郎氏の著作を私が読んだ動機は、相対性理論に対して更に深い理解に導いてくれるのではないか、ということでした(何しろタイトルに「わかる」とありますし)。それに、上記のまえがきの文章も私の共感を誘うに十分なものでした。

それで実際に読んでみた感想ですが、以下、本書の素晴らしいと思う点、および疑問に感じた点について書きます。

素晴らしいと思う点:

①すごく分かりやすい。全体的に難解な言い回しが慎重に避けられていて、スラスラと読むことができる。少なくとも相対性理論の入門書で、これほど易しい本は、私の知る限り他にないと思えるほどだった。そもそも相対性理論の解説書というのは、分かりやすさを謳うものでも、読んでみると大して分かりやすく書かれていないものが大半だが、この本は確実に分かりやすい。これは本当に素晴らしいと思う。

②アインシュタインの相対性理論がいかに「感動的か」という観点に焦点が当てられている。これまでも相対性理論を分かりやすく説明することを謳った著作は無数にあるが、相対性理論を理解することにより得られる感動について明確に言及した書物は、おそらく皆無に近く、その意味で画期的な内容とも言える気がする。ちなみに、本書のあとがきには「科学とはクラシック音楽である」と述べられているが、そのあたりに著者のスタンスが垣間見られる。

③何より著者・茂木健一郎のアインシュタインに対する敬愛の念が尋常でなく、それが文章に滲み出ている。単にアインシュタインの相対性理論の説明にとどまらず、アインシュタインの評伝と、そこから派生する人生論も随所に展開されていて、話題がマルチな広がりを呈しており、まるで雑談のような話調から、知らず知らず読み手を理論の核心に導くあたりの、茂木健一郎の文章力に感心させられてしまう。

読み終えて疑問に感じた点:

①タイトルを見るとアインシュタインの相対性理論の説明をメインとする本であるかのようだが、実態は微妙に違っており、バランス的には、アインシュタインの評伝と、そこから派生する人生論の方が、むしろメインではないかと思える。

②純粋に評伝として読むなら面白いと思うものの、そこから更に「見えないものを見る力」とか「粘り強く考える力」というように一般化して人生論に持ち込むのは、何だか天才を無理やり矮小化するみたいで、読んでいて少しだけ違和感を感じた。

③アインシュタインの相対性理論の説明に関しては、確かに完全な初心者向けの入門書としては、内容的に十分であるとしても、完全な理解に到達するためには、惜しいことに抜け落ちているトピックスも多く、その限りでは不十分という感も否めない。このため、本書を完読しても、同理論に対する本当に実感の伴う理解を得るのが、それなりに難しいのではないか、という気もする。具体的に本書で抜け落ちているトピックスとしては、大きなところで少なくとも以下の3点が挙げられると思う。

1、アインシュタインの相対性理論が、ニュートン物理学とマックスウェル電磁気学との間の矛盾を解決するために編み出された理論であることの、具体的な説明(つまり、矛盾の具体的内容)が省かれている。ので、読み手は相対性理論の、そもそもの必要性がいまいち実感しにくいように思う(この説明は確かに難しいが、、)。

2、特殊相対性理論から導き出される「質量とエネルギーの変換式」について、あたかも方程式の上だけで導いたように書かれているが、その前に方程式を生み出す有名な思考実験があるのに、それについては全く触れられていない。ので、アインシュタインが紙の上の計算だけで偶然に方程式を導いたような誤解を与えかねない。

3、「相対性原理」と「光速度不変の原理」が成り立つから「時間が遅れる」ということの説明は詳しく書かれているが、「時間が遅れる」から「相対性原理」と「光速度不変の原理」が成り立つということの説明がどこにもない。このことはアインシュタインが特殊相対性理論で本当に言いたいことのはずであり、これが抜けている以上、理論の革命性と偉大さを十全に感得し切れない憾みが残る。

以上、この本の難点を敢えて挙げるとするなら、全体的に少しでも分かりやすく書こうとし過ぎて、ちょっとでも難解なトピックスを、少々切り捨て過ぎた感なきにしもあらずというのが率直なところですが、しかしながら、何より著者独特の躍動感のある筆致から、アインシュタインの相対性理論の「面白さ」が読んでいて十二分に伝わってくる本ですし、また同理論を理解することが、クラシック音楽に類似の感動を呼び起すという観点に関しても、全くその通りだと思わせられる説得力に満ちています。ので、少なくとも同理論の入門書としては、稀に見る良書ではないかと読み終えて感じました。

ちなみに地球物理学者の寺田寅彦も、かつてアインシュタインの相対性理論を「感動的なもの」として記述していますが(大正時代に書かれた彼のエッセイの中で、相対性理論をベートーヴェンの音楽に喩えている)、本書は、そのあたりの寅彦の視点なり精神を現代に受け継ぐものとしても、貴重な意味合いを持つ本のように思えました。

ウィキペディア「吉田秀和」のページの誤記修正に関して


先日、フリー百科事典ウィキペディアの「吉田秀和」のページを閲覧していたら、そこに誤記があることに気が付いた旨、当ブログに書きましたが、今日、改めて氏の過去の音楽評論の文献を調べたところ、その誤記部分を含む話題に言及されている、氏の音楽評論を特定することができました。

該当する音楽評論ですが、以下の文献に載っていました。

2010-05-29
吉田秀和全集 第23巻 「音楽の時間Ⅴ」 
 吉田秀和 著
 白水社

まず、誤記を含むと思われたウィキペディアの記載部分を再度、以下に抜粋します。

1930年春、4年修了で旧制成城高等学校文科甲類(英語クラス)(現成城大学)に入学し寮生活を送るも、同年秋、文科乙類(ドイツ語クラス)に転じると共に、ドイツ語の師である阿部六郎の成城の自宅に同居(~1931年1月まで)。このころ中原中也にフランス語の個人教授を受ける。小林秀雄や大岡昇平とも交遊(小林は後年吉田をライバル視し、同じく鎌倉に住む吉田の自宅を訪れ、自著の『モオツアルト』を吉田の目の前に放り出して「君、出たよ」と吐き捨てたりした(朝日新聞連載より)。吉田は威勢の良すぎる断定調の小林の批評には批判的になっていった)。

これに対し、上記の吉田秀和全集第23巻に掲載されている、「小径の今」と題された一節(392ページ)において、以下の文章が記載されているのを確認しました。

・・私の知る小林さんは実に親切で情に篤い人だったが、反面、何とも潔い人でもあった。これはあの啖呵の連続みたいな、思い切りがよくて飛躍に富んだ彼の文体によく出ている。あの人はたびたびじっくり書こうとするが、やっぱり一刀両断的に書いてしまうのだ。
 過ぐる大戦中『無常といふ事』を書きあげたあと、彼はきっぱりと筆を折り、何も発表しない時期が続いた。戦後はまた書き出したが、その出処進退も潔かった。最後の大著は『本居宣長』で、ある日何の前ぶれもなく風のようにわが家を訪れた小林さんは「君、出たよ」と言いながら、真新しい本を置いていった。それからしばらくして、お宅に上がった折「やっぱり私にはこの本はわかりません」と申し上げた。せっかくの好意に、正直にいうよりほかないのが悲しかったが。・・・
    吉田秀和全集・第23巻収録「小径の今」より

従いまして、上記ウィキペディアの記載にある『モオツアルト』というのは、明らかに『本居宣長』の誤記であることが確認されました。

以上の事実に基づき、本日、私の方でウィキペディア「吉田秀和」のページの誤記部分を修正させていただきました。

この件に関しては、先日、私の方から文献についての情報提供もしくはウィキペディアの修正を呼び掛けた次第ですので、ページ修正に関する一連の経過につき、簡単ながら以上のとおり御報告させていただきます。

ボロディン四重奏団による第2次ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集


ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲全集 
 ボロディン四重奏団
 メロディア 1978~83年 74321-40711-2
74321-40711-2

昨日の更新で、ボロディン四重奏団の演奏によるボロディン、ストラヴィンスキー、ミャスコフスキーの弦楽四重奏曲を収録した新譜についての感想を書きましたが、そのボロディン四重奏団の残したレコーディングの中でも、おそらく最も重要で知名度も高いと思われる、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集の第2次の録音について、今日は少し書きたいと思います。

なお、ボロディン四重奏団は1962年から72年にかけてショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集の第1次の録音を成し遂げていますが、この時には第14番と第15番のカルテットが未作曲であったため、確定的な全集とならず、作曲家の死後に全曲がレコーディングされた第2次の録音の方で、初めて全15曲の全集となったのでした。

このボロディン四重奏団の第2次ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集は、既に評価も確立されている有名盤ですから、何を今さらと思われるかも知れませんが、以下で私が書きたいのは主に音質の方の話になります。

この全集は現在2つのレーベルから別個にリリースされており、ひとつは本家メロディアからのもの、もうひとつが以下の、露ヴェネチア・レーベルから2005年にリリースされたものです。

CDVE64232
ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲全集 
 ボロディン四重奏団
 ヴェネチア 1978~83年 CDVE64232

私は先にメロディアからの全集を入手していたところ、同じ全集がヴェネチアからもリリースされたので、そちらも購入し、双方の音質を比較してみたのでした。

メロディア盤とヴェネチア盤、どちらもCD6枚組でのリリースですが、全15曲のカルテットの他には、メロディア盤の方では「弦楽四重奏のための2つの小品」とピアノ五重奏曲(ピアノ奏者はリヒテル)が、ヴェネチア盤の方では「弦楽四重奏のためのエレジー」が、それぞれ収録されています。

そして肝心の音質ですが、双方においてトーンの傾向に明らかな相違が認められるのです。

まずメロディア盤の方ですが、やや膨らんだ音像感ながら、重厚で下声部の押し出しが強く、ボリューム感が豊かで、特に下声部の彫りの深い、どっしりとした感じの音質です。

対してヴェネチア盤の方の音質は、全体的にメロディア盤よりも解像度が高く、鮮明でシャープな音像感であり、特にヴァイオリンの上声部の張り出しが強く、ソノリティがバランスよく整理されているものの、メロディア盤よりは下声部を中心に彫りが浅い感があり、その分どっしりと重厚な感じが多少なり削がれている感じも受けます。

こういったことから、双方の音質の特徴を一言でいうなら、アナログ的な重量感のメロディア盤に対し、デジタル的な解像度のヴェネチア盤、という感じになると思うのです。

したがって、肉厚の豊かなアンサンブルのスケール感を望むならメロディア盤を、音響空間の良質な捕捉でアンサンブルの切れ味を楽しむのならヴェネチア盤を、それぞれ選択すべきかと思われます。

以下は私の主観的な印象ですが、全15曲のうち試行錯誤的な生硬さの伺える第1番と第2番の初期作品を別とするなら、ショスタコーヴィチ自身の内的な自我の熾烈な葛藤の産物とも思える第4番~第10番の中期作品を聴くならメロディア盤が、自己の内面に深く沈静しつつ来るべき死に対する諦観とも達観とも片の付かない眼差しを投げかけたような第11番~第15番の晩年の作品を聴くならヴェネチア盤が、それぞれ音質的に「合う」ような気がします。

ただ、ヴェネチア盤でいただけないと思う点は、編集プロセスにおいて全ての楽章の最後の音が、途中で断ち切られて収録されていることで、要するに最後の音が、最後まで鳴り切っていないのです。

そのぶん余韻が削がれますし、第3カルテットの第4楽章から終楽章にアタッカで繋がる場面なども、ちょっと不自然に聴こえてマズいのではないかという気もします。

ボロディン四重奏団によるボロディン、ストラヴィンスキー、ミャスコフスキーの弦楽四重奏曲集


ボロディン 弦楽四重奏曲第1番
&ストラヴィンスキー 弦楽四重奏のためのコンチェルティノ
&ミャスコフスキー 弦楽四重奏曲第13番
 オニキス 2009年 ONYX4051
ONYX4051

オニキスから先月リリースされた、ボロディン四重奏団の演奏によるボロディン、ストラヴィンスキー、ミャスコフスキーの弦楽四重奏曲のCDを聴きました。

収録曲はボロディンの弦楽四重奏曲第1番、ストラヴィンスキーの弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ、ミャスコフスキーの弦楽四重奏曲第13番の3曲です。

このうちボロディンの弦楽四重奏曲第1番はロシア国民楽派ボロディンの代表作として知られると同時に、第1楽章の第1テーマ、このCDの(1:51)からの旋律に、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番の終楽章のメロディが借用されているなど、ベートーヴェンへの深いリスペクトが下敷きとされた作品として知られています。

またストラヴィンスキーの弦楽四重奏のためのコンチェルティーノは、1920年に作曲されたストラヴィンスキーの新古典主義時代の作品ですが、この曲は後年(1952年)に「12管楽器のためのコンチェルティーノ」へと編曲されています。

ミャスコフスキーの弦楽四重奏曲第13番は、彼の全13曲ある弦楽四重奏曲の最後の作品で、その死の前年1949年に作曲された、ミャスコフスキーの絶筆作品です。ミャスコフスキーは旧ソ連の作曲家の中では比較的に保守的な作風ゆえ、プロコフィエフやショスタコーヴィチといったあたりの作曲家ほど後世の評価は高くないようですが、ミャスコフスキー一流のフォーマリズムの中に浮沈するメロディのホットな魅力には傾聴すべきものが多いように思えます。

旧ソ連時代の1945年に結成されたボロディン四重奏団は、途中いくたびかのメンバー交代を経ながらも、現在活動中のカルテット団体の中では、世界で最も古いアンサンブルとして知られています。しかし結成以来のチェロ奏者であったヴァレンティン・ベルリンスキーが2008年12月に死去したことにより、団体の存続が危ぶまれていたところ、新たにウラディーミル・バルシンがチェロ奏者として加入し、新生ボロディン四重奏団として活動を続けることになりました。

このメンバー交代に伴い、1974年加入の第2ヴァイオリン奏者アンドレイ・アブラメンコフが現状の最古参メンバーということになるようですが、とまれ、新たなメンバー加わった歴史あるカルテット団体の、その本場ロシアものの新譜ということで、興味津々で演奏に耳を傾けてみました。

その演奏は聴いていて酔いしれるほどに素晴らしく、ボルディンはもちろんミャスコフスキーまでも含めて、この3曲が「ロシアの音楽」なのだなということが、聴いていて改めて実感されるような演奏というべきでしょうか。味の濃いハーモニーから繰り出される土臭いメロディの訴えかけの強さが何よりですし、朗々とメロディを歌いながら、ロシア音楽としての大きな流れ、起伏感とでも言うべきものが、緩急強弱の落差の大きな表現から堂々と押し出されているのです。現代の若手カルテット団体の、スマートなアプローチの演奏からすると、やや芝居がかった印象も付随すると言えばしますが、その点も含めて、作品が実に生き生きとした生命をもって描き出されていることに、驚きを禁じ得ませんでした。

そもそも現代において一つのカルテット団体が60年以上も活動を続けられるということ自体、奇跡的な偉業とも思えますし、そのあたりの深々とした伝統の力が何らかの形で作用して、このような圧倒的な演奏に集約されるのではないかと思えるのです。

それにしても、もし順調に行くのならば、そのうちショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全集の3回目の録音なんて話が出ないとも限らないのではないでしょうか。いずれにしても、私としては新生ボロディン四重奏団の今後の動向に、ちょっと注目していきたいと思います。

ウィキペディアの「吉田秀和」のページの記載に関して


すみませんが、ここを御覧いただいた方々に、お願いがあります。

実は先日、フリー百科事典ウィキペディアの「吉田秀和」のページを閲覧していたら、そこに明らかな誤りがあることに気が付いたのです。

誤った記載と思われるのは、氏の「略歴」の中の、以下の部分です。

1930年春、4年修了で旧制成城高等学校文科甲類(英語クラス)(現成城大学)に入学し寮生活を送るも、同年秋、文科乙類(ドイツ語クラス)に転じると共に、ドイツ語の師である阿部六郎の成城の自宅に同居(~1931年1月まで)。このころ中原中也にフランス語の個人教授を受ける。小林秀雄や大岡昇平とも交遊(小林は後年吉田をライバル視し、同じく鎌倉に住む吉田の自宅を訪れ、自著の『モオツアルト』を吉田の目の前に放り出して「君、出たよ」と吐き捨てたりした(朝日新聞連載より)。吉田は威勢の良すぎる断定調の小林の批評には批判的になっていった)。

上記の引用部中、「自著の『モオツアルト』を吉田の目の前に放り出して「君、出たよ」と吐き捨てたりした」とありますが、この『モオツアルト』というのは間違いで、私の記憶だと正しくは『本居宣長』ではないかと思うのです。

しかし情けないことに、この話題について書かれた肝心の吉田秀和氏の音楽評論がどれであったか、失念してしまい、その正誤の確認が取れません。

たぶん「本居宣長」ではなかったかと思うのですが、よしんば違っていたとしても、少なくとも「モオツアルト」というのは有り得ないと思います。というのも、吉田秀和氏が小林秀雄の「モオツアルト」を読まれたのは、まだ小林秀雄と親しく交遊していなかった時期のはずだからです。

いずれにしても、小林秀雄の「モオツアルト」というのは吉田秀和氏にとって、自身の著作の中で「それを読んだ時のショックは一生忘れられないだろう」と述懐されていますし、おそらく特別な意味合いの本だと思われますので、あのウィキペディアの記載は良くないと思います。万が一、あれを氏が読まれたら、気を悪くされることも考えられます(むろん、そういうことは言明なさらない方だとは思いますが、、)。

そういう次第ですので、ここを読まれている方で、もし上記エピソードの掲載されている文献をご存じの方がおられましたら、お手数ですが私の方にお知らせいただくか、もしくは直接ウィキペディアの記載を修正していただけませんでしょうか。もし私の方にお知らせいただければ、正誤の確認がつき次第、私の方でウィキペディアの記載を修正させていただきますので、ひとつ宜しくお願いいたします。

ブーレーズ/シカゴ交響楽団によるシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」


シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」、他
 ブーレーズ/シカゴ交響楽団
 エラート 1991年 2292-45827-2
2292-45827-2

ピエール・ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団の演奏による、シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」のCDを聴きました。

もちろん新譜ではないですし、新規購入盤でもありませんが、先月のサントリーホールでのカンブルラン/読売日響のコンサートで、この「ペレアスとメリザンド」が取り上げられたのを聴いて、この曲が何だか初めてピンと来た、ような気がしたものですから、その余韻の残っているうちにと思い、あらためて同曲のCDに、じっくりと耳を傾けてみたくなったのでした。

ブーレーズ盤を選んだのは、おそらく先の実演における、カンブルランの演奏の行き方に近いのではないかと思ったからです。

それで聴いてみたら、やはり先の実演に近い雰囲気が、どことなしに感じられるのです。速めのテンポを基本として、アンサンブルの弦の音層を抑制し、管パートの表出力を全面に展開させた演奏であり、そのブーレーズの精緻なアンサンブル運用からは、この曲が対位法音楽のひとつの極地とも言われる所以が、聴いていて良く伝わってくる、そんな演奏です。

むろん精緻なだけの演奏でもなくて、管パートを中心にオーケストラの卓抜した技術が発揮されていて傾聴させられます。特に(16:45)あたりのトロンボーンの強烈なグリッサンドなど、シカゴ響ならではのものではないかという気がします。(25:36)でのカタストロフから(27:13)の再現部に流れ込むあたりの張り裂けんばかりの音楽の緊張感も、ブーレーズの鋭利な管弦楽運用の賜物なのでしょう。

このブーレーズ盤を聴いたあと、少し間を置いてから以下のティーレマン盤を耳にしてみました。

469008-2
シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」
 ティーレマン/ベルリン・ドイツ交響楽団
 グラモフォン 1999年 469008-2

このティーレマン盤で披歴されている演奏の行き方は、おそらくブーレーズ盤とは正反対とも言うべきで、こうして比べてみると同じ曲でありながら、雰囲気としては全然ちがう曲のように聴かれました。

ここではブーレーズ盤とは反対に、遅めのテンポを基本としながら、弦(ことに低弦)を中心にアンサンブルをどっしりと組み立てた演奏となっていて、結果まるでワーグナーを聴くような感覚に近い、まごうことなき後期ドイツ・ロマン派としての音楽の様相を呈しているのです。

全体的にバスの逞しい力感を伴う、弦合奏部の押しの強さが凄くて惚れぼれするほどですが、ブーレーズの演奏と違って、音符が密集すればするほど各パートの見晴らしが犠牲になる憾みもあり、対位法音楽の極地とも言われる側面に関しては、いまいち実感の湧かない演奏だなという気もしますし、あるいはトロンボーンのグリッサンドのような音響的な異色さ、どぎつさも、さほどに強調されておらず、聴いていてギクリとするような鮮烈な響きの肌合いは総じて大人しい感じがします。

しかし私は、そういったことを、カンブルラン/読売日響の実演で聴くまで、別に考えたこともなく、どちらかというとティーレマンの演奏のように、ワーグナーみたいに演奏する方が好ましいと思っていたのでした。

しかし、そのティーレマンの演奏からは漏れてしまう、この曲の側面、その巨大な対位的スコアの中に潜在している、後年のシェーンベルクの12音技法の萌芽ともいうべきものに対して、あの実演を聴いて何だかピンときたような気がしたのでした。

そのあたりのことを確認したくて、こうして演奏の傾向の違うCDを敢えて対比してみたのでした。これまでは作品に対する興味がさほどでもなかったこともあって、少なくとも私は今まで、こういったことは別に考えなかったところが、それを意識するようになったということが、あのコンサートの最大の収穫だったのかもしれないと、そんな気がしています。

引き続き、読書間奏「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」


寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者
末延 芳晴 著
平凡社

Book001

・・明治32年(1899年)7月、熊本五高を卒業し、東京帝国大学理科大学物理学科に入学するため8月の末、上京してきた寺田寅彦は、9月5日、夏目漱石の紹介で上根岸82番地の根岸庵を訪れ、病床に臥せる正岡子規と対面を果たしている。・・・子規は、一目見て寅彦の才能と人柄の大きさ、頭の働きと芸術的センスの鋭さを見抜き、東京に出てきたばかりの大学新入生を受け入れ、思うところを忌憚なく話してくれた。・・・

昨日の続きですが、今日は本書の第7章「『音楽』する地球物理学者」の中に書かれている「正岡子規との音楽談義」につき、以下で少し詳しく取り上げます。

ここで引用されている寅彦のエッセイというのは、明治32年9月に記された「根岸庵を訪う記」なのですが、これは岩波書店から刊行されている、「寺田寅彦随筆集」全5巻(選・小宮豊隆)に収録されていないエッセイであり、そのため一般に読まれにくい状況にあります。

そのエッセイの中で、正岡子規が西洋音楽について思うところを寺田寅彦に語ったくだりを以下に抜粋します。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

・・色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込(みこみ)がないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考えで何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手の情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽の大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。・・
            寺田寅彦「根岸庵を訪う記」より

なお、最後の「露伴の妹」というのは明治の文豪・幸田露伴の妹である幸田延を指しています。

幸田延はウィーンに5年間留学したあと明治28年(1895年)に帰国、東京音楽学校で演奏の指導にあたった演奏家ですが、特に本書では以下のように記述されています。

・・幸田延は、明治日本が生んだ最初のプロのピアニスト、バイオリニスト、教育家として、明治の音楽界において重きをなしていた。ただ、欧米の音楽の本場に留学し、頭抜けて楽器がよく弾けるということで自尊心も高く、音楽学校教授として思いのまま振る舞い通したので、尊大な態度が嫌われ、「上野の西太后」とあだ名されるほどであった。・・・

「頭抜けて楽器がよく弾けるということで自尊心も高く」、、「尊大な態度」、、、これを読んで私は思わず、現在の日本のトップ・オーケストラと呼ばれている某交響楽団のことが思い浮かび、ハッとしたのです(しかし、そのオケの実演を私は最近数年間まったく聴いていないので、現在は違うかもしれない。ので、ここで名称を出すのは控えます)。

いずれにしても、ここで正岡子規が指摘しているのは、要するに日本人は「弾手の情が単調で狂すると云う事がないから」駄目で、逆に西洋人は「楽の大切な面白い所へくると一切夢中になってしまう」から演奏が良いのだ、という趣旨なのです。

これって何だか、現在の日本のオーケストラに(たとえ某交響楽団ほどではないにしても)多かれ少なかれ当てはまる事実ではないか、という気がします。100年も先のことを、正岡子規は見通していたと言えなくもない、、、そんな風に私には思えたのでした。

読書間奏「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」


寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者
末延 芳晴 著
平凡社

Book001

・・高知で夏子の葬儀をすませ、東京に戻ってきた寅彦は、そのまま大学生活に戻り、学業と物理学の実験に専念、日記には、夏子を失ったことによる心の波立ちは表面上、読み取れないものの、心の深いところに大きな悲しみと傷がわだかまり、強い喪失感と孤独感に苛まれていた。しかし年が明け、明治36(1903)年を迎えると、一筋の光明が寅彦の生活と精神に差し込んでくる。ロンドンに2年あまり留学していた夏目漱石が帰国、1月24日、新橋に帰着したのである。・・

「読書間奏」カテゴリー記事につき、前回の「コレリ大尉のマンドリン」に続く第2弾として、今回は私が年頭に読んだ「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」について書きます。

簡単な概要は以前ブログに書いていますが、これは昨年末に刊行された単行本で、明治・大正期に活躍した地球物理学者および作家として知られる寺田寅彦の、主に西洋音楽との関わりを中心とした評伝です。寅彦の評伝的な内容の著作は、既に幾つか出されていますが、西洋音楽との関わりを中心に据えての評伝は、おそらく初ではないかと思われます。

この評伝で描かれている寺田寅彦は、生活の中に芸術を取り込むことにより、近代日本人としての心身の自由を求め続けた、日本の近代市民の先駆者の一人として規定されていますが、この点において、日本の近代文学の礎を固め、大きく発展させた3人の文学者、すなわち夏目漱石、森鴎外、永井荷風と、ほぼ同格の扱いを寺田寅彦は受けているのです。評伝中の言葉を借りるとするなら、「明治維新以降、国家の意思または命令により西洋の文明・文化を模倣することにより行われてきた日本の近代化が、文明と文化の両面においてもたらしたものを批判的に捉え、そのマイナス面を克服することに悪戦苦闘した文学者」と言うことも可能でしょう。

以下、私が本評伝を読んで面白かった点、および読み終えて疑問に感じた点について書きます。

面白かった点:

①評伝としてのスタイルがこなれている。事実の羅列に留まらない、著者による適度な起伏が与えられており、まるで小説を読むに近い感覚で読んでいける。相応の感動も伴う。例えば東大在学中、寅彦の文学の師である正岡子規と、最愛の妻の夏子とを、立て続けに病死で失うという、過酷なくだりに続いて書かれた一節(上に引用)などは印象深い。

②明治・大正期に活躍した文学者と西洋音楽との関わりについて具体的に触れられている。この点において、特に西洋音楽と日本近代文学に興味がある人の好奇心をくすぐるような話題が豊富に掲載されている。特に第7章の中の「正岡子規との音楽談義」が非常に面白い。

疑問に感じた点:

①寅彦と漱石との西洋音楽を介した親交に関しては、中公新書「漱石の聴いたベートーヴェン」の焼き直し的な内容の域を出なかったこと。この本を読んでいなければ問題はないが、読んだ人には、さほどに目新しいことは書かれていない(なお、この新書に関しても、いずれ「読書間奏」で取り上げる予定)。

②「明治・大正期に西洋伝来の芸術文化や趣味を、市民の文化・教養として積極的に受容」することにまつわる困難さについては明確に触れられていない。要するに、夏目漱石に出会って文学に目覚めた、田丸卓郎に出会って地球物理学に目覚めた、では音楽に目覚めたきっかけは?となると、どうも要領を得ない。結局は生まれついての感性なり資質なりに還元されてしまう。何より、「この時期に西洋音楽を聴く(蓄音器でもコンサートでも)ということの困難さ」が読んでいて最後までピンとこないあたりが歯がゆい。

③寅彦の「物理学者」としての功績が全くと言ってよいほど触れられていない。わずかにエピローグに、「世界的な地球物理学者で、戦前、日本人にノーベル賞が授与されていたとしたら、この人を措いて他にないとまでいわれてきた」人であると記述されているのみ。このノーベル賞の話は、確かに本当だが、それについての話題(X線の研究)に全く触れられていないので、読み手には実感しにくいのではないか、という気がする。

④寅彦のエッセイにおける思考を、ジョン・ケージの音楽になぞらえる記述がある(第12章の「ジョン・ケージの地平に」)が、そもそも両者に接点は無いし、論調的に少し無理やりな感がある。

感想は以上ですが、この本の中の第7章「『音楽』する地球物理学者」にある「正岡子規との音楽談義」が非常に面白く、また21世紀現在の、日本のクラシック演奏の在り方に照らしても、甚だ興味深い内容が書かれていると思うので、それを次回あらためて取り上げます。

アシュケナージ/ベルリン・ドイツ響によるグラズノフの組曲「ショピニアーナ」


ショパン ピアノ協奏曲第1番
&グラズノフ 組曲「ショピニアーナ」
 アシュケナージ(pf、指揮)/ベルリン・ドイツ交響楽団
 デッカ 1997年 POCL1794

POCL1794

昨日に引き続き、ラ・フォル・ジュルネ関連の話です。とはいえ新譜の感想というわけではなく、ちょっとした雑談です。

今回のラ・フォル・ジュルネではテーマ作曲家がショパンということで、ショパンの全ピアノ作品の上演にとどまらず、他の作曲家の作品でもショパンに関連する演目なら積極的にプログラムに載せたりするなど、すごく意欲的な内容でしたが、それでも私の印象として、この作品は上演に掛かるかなと思っていて、掛からなかった作品というのが2つばかりありました。

ひとつは以前このブログでも取り上げた、フンメルのピアノ協奏曲第2番です。後年ショパンが偏愛し、ショパン自身のピアノ協奏曲の曲想の根源にもなったとされる曲ですし、ショパンのピアノ協奏曲を連想させるパッセージやムードが随所に見受けられるので、今回のラ・フォル・ジュルネで演奏されても良さそうな気がしました。

もうひとつがグラズノフの組曲「ショピニアーナ」です。これはオーケストレーションの大家グラズノフが、ショパン追悼のため1893年に編曲した作品ですが、ここではショパンの作曲したピアノ曲のうち、軍隊ポロネーズ、ノクターン第4番、マズルカ第32番、ワルツ第7番、タランテラの計5曲が選ばれて管弦楽化されています。

私がグラズノフの「ショピニアーナ」を初めて聴いたのが、このヴラディーミル・アシュケナージ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団のデッカ盤でした。もう10年以上前に購入したCDになります。

以上、雑談でした。これで一応ラ・フォル・ジュルネ関連の話は終了としまして、以前に予告しました通り、今後は「読書間奏」の方のコンテンツを、少し本格的に書いていこうかと思っています。

ル・ジュルナル・ド・ショパン~ショパンの音楽日記


「ル・ジュルナル・ド・ショパン~ショパンの音楽日記」
 ジュジアーノ(pf)、児玉桃(pf)、ケフェレック(pf)ほか
 Mirare 2008年頃?録音 MIR114

MIR114

仏Mirareから先月リリースされた、「ル・ジュルナル・ド・ショパン~ショパンの音楽日記」と題されたCDを聴きました。

これは先日のラ・フォル・ジュルネのCD売り場で購入したCDで、「ショパンの人生を作品と共に辿る日記風のアルバム」というコンセプトに基づいて、ショパン7歳のときのデビュー作品であるト短調のポロネーズから、死の床で書かれた絶筆であるへ短調のマズルカまで、それぞれの作曲年代が均等になるように計15曲が選ばれ、6人のピアニストにより演奏されています。

その6人のピアニストというのがアブデル・ラーマン・エル=バシャ、アンヌ・ケフェレック、フィリップ・ジュジアーノ、イド・バル=シャイ、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ、児玉桃となっていて、ちょうど私がラ・フォル・ジュルネで実演に接したピアニストが3人含まれていたこともあり、ラ・フォル・ジュルネの余韻に浸るにはちょうどいいかなと思って購入してみたのでした。

なお、録音年は記載されていませんが、このCDと同名の「ル・ジュルナル・ド・ショパン」という、上記6人のピアニストによるリサイタルが、2008年に行われていることから、それと同時期の録音ではないかと思われます。

それで聴いてみたところ、私が実演に接した3人のピアニストに関しては、それぞれの実演での感触が聴いていて蘇ってくるようでしたし、特に児玉桃に関しては収録曲が実演と同じスケルツォ第2番ですので、まさにあの時の演奏そのもの、という感じがしました。

そういうわけで、このCDを購入した当初の目的は達成された次第ですが、それとは別に意外な驚きがありました。

というのも、ここでの6人のピアニストのうち、私が今回のラ・フォル・ジュルネで実演を聴かなかった方の3人の中に、ちょっとビックリするような、素晴らしい演奏を披歴するピアニストが含まれていたからです。

そのピアニストの名前は、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ。このCDでは全15曲のうちのノクターンOp.15-1とバラード第2番の2曲だけを弾いているのですが、その2曲ともピアニズムの表出力がハンパでなく、なんと素晴らしい演奏だろうと、聴いていて心底から感じ入ってしまうほどなのです。

彼は一体どういうピアニストなんだろうと思って、CDのライナーを見ますと(このCDは輸入盤なのに日本語の解説が入っている)、1986年パリ生まれ、著名な国際コンクールでの優勝歴こそ無いものの、バッハからシュトックハウゼンまで幅広いレパートリーを誇り云々とあります。

それにしても、これほどのピアニズムだったら、多少ムリしてもチケットを買って聴いておけば良かったなと、今更ながら少し後悔もしているところですが、とまれ本CDは、コンセプトからしてセンスがいいですし、何より複数のピアニストによる多彩なショパンの名演を楽しめるCDとして、これからも繰り返し耳にしたいと思っています。

ショルティ/ウィーン・フィルによるエルガーのエニグマ変奏曲


エルガー エニグマ変奏曲、他
 ショルティ/ウィーン・フィル
 デッカ 1996年ライヴ POCL-1722

POCL-1722

先週、サントリーホールで聴いたノリントン/シュトゥットガルト放送響の来日公演の演目に、エルガーのエニグマ変奏曲が含まれていたのですが、それを聴いたら、何だかCDでも聴いてみたくなって、ノリントンと同じくサーの称号を持つ指揮者、サー・ゲオルク・ショルティが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したライヴ録音を久しぶりに聴いてみました。

この演奏はショルティの最晩年の時期に係る1996年のウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴで、カップリングとしてコダーイのハンガリー民謡「孔雀」による変奏曲、およびブラッヒャーのパガニーニ主題変奏曲が収録されています。なお、名門ウィーン・フィルがエルガーのエニグマ変奏曲を録音したのは、これが初めてとされます。

ショルティの「エニグマ」には1974年にシカゴ交響楽団と録音したCDもあり、そちらの方が一般には知名度が高く、私も良い演奏だと思うのですが、この最晩年のウィーン・フィルとの「エニグマ」にはショルティ一流の直球勝負的なオーケストラ・ドライヴの醍醐味に加え、ウィーン・フィルならではのコクのある音響美とか、ライヴの高揚感とか、そういった要素も詰め込まれていたりして、私としては数多い「エニグマ」のCDの中でも傾聴すべき一枚ではないかと思っています。

もっとも、ここで敢えて取りあげたのには正直もうひとつ理由があり、このショルティ/ウィーン・フィルの「エニグマ」が普通あまり話題にならないので、もったいない気がしていたのでした。

というのも、前述のように本CDがウィーン・フィルの「エニグマ」の初録音だったのですが、そのすぐ後にエルガーの本家イギリスの指揮者ガーディナーがウィーン・フィルを指揮して録音した「エニグマ」のCDが、大手グラモフォンからリリースされたため、その煽りでショルティ/ウィーン・フィル盤が目立たなくなってしまったように思われるからです(実際このショルティ/ウィーン・フィルの「エニグマ」は長らく廃盤状態)。

そういうわけで、あまり話題にならないCDではあるものの、私としては傾聴に値する演奏だと思っているので、取り上げてみたかったのでした。ちなみに本家イギリスのオーケストラの録音であれば、私としてはプレヴィン/ロイヤル・フィルの「エニグマ」が気に入っています。

アルテミス四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第4番と第8番


ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第4番・第8番
 アルテミス四重奏団
 ヴァージン・クラシックス 2008年 3802682

3802682

昨日の更新で、最近リリースされたアルテミス四重奏団のベートーヴェンのCDについて書きましたが、それに関連して、今日はアルテミス四重奏団の前回リリースのベートーヴェンである弦楽四重奏曲第4番および第8番を収録したCDについて書きます。

これは2008年にリリースされたCDで、私がアルテミス四重奏団を初めて聴いたディスクでもあり、その演奏の素晴らしさに度肝を抜かれたのでした。

このうちの弦楽四重奏曲第4番の演奏ですが、特に第1楽章の第17小節、(0:29)からの第1ヴァイオリンのffのスタッカート(以下の赤いマルの音符)を、渾身の力を込めてテヌートさせて弾いているのに痺れました。

3802682score

これが俗な言い方だと、いきなり私のツボにハマったのでした。ffのスタッカート指定をテヌートさせるなんて、なかなか勇気が要りますね。

併録の第8番(ラズモフスキー第2番)も素晴らしく、これは各奏者の無類ともいうべきテクニックの冴えと、アンサンブル全体としての揺るぎない求心力が、ギリギリのバランスで両立しているような、そんな演奏で、アルテミスならではの表現主義的な訴求力も全開であり、これを聴いて私は、ずっと昔にアーノンクールのベートーヴェン交響曲全集を初めて聴いた時のような興奮が聴いていて湧き起ったのでした。

なおアルテミス四重奏団は、エマーソン四重奏団の薫陶によるのか、第1・第2ヴァイオリン交替制を取るカルテット団体です。このCDでも、弦楽四重奏曲第4番の方はハイメ・ミュラーが、第8番の方はナターリア・プリシェペンコが第1ヴァイオリンを務めています。

アルテミス四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第2番、第9番、第14番および第15番


ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第2、9、14、15番
 アルテミス四重奏団
 ヴァージン・クラシックス 1998年・2002年 6071020

6071020

ヴァージン・クラシックスから先月リリースされた、アルテミス四重奏団の演奏によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲4曲(第2番・第9番・第14番・第15番)を収録したCDを聴きました。

これは同カルテットが1998年と2002年に録音したベートーヴェンの四重奏曲がCD2枚のセットとしてまとめられたもので、かつてアーツミュージックから発売されていた音源の、ヴァージン・クラシックスによる再発盤です。

そのアーツ盤は現在は廃盤で入手出来ない状態でしたので、これらの録音は私も未聴だったところが、先月ヴァージンから再リリースされたので購入し、さっそく聴いてみたのでした。

この4曲はいずれもアルテミス四重奏団がメンバー交代を経る以前の録音となり、現在の同カルテットのメンバーとは異なり、ヴァイオリン奏者にハイメ・ミュラーが、ヴィオラ奏者にフォルカー・ヤコブセンが、それぞれ名を連ねています。

アルテミス四重奏団について少し詳しく書きますと、設立は1989年とされますが、実質的な活動は1994年以降のようで、それまでケルンにおいてアルバン・ベルク四重奏団に師事、そしてアメリカでエマーソン弦楽四重奏団およびジュリアード弦楽四重奏団に師事し、十分な研鑽を重ねた上で満を持してデビューしたのでした。

ところが1998年に初めてベートーヴェンのカルテット2曲(第9番と第15番)をレコーディングした後、アルテミス四重奏団は活動を休止し、アンサンブル能力の一層の向上を期して、ウィーンにおいて再度アルバン・ベルク四重奏団のもとで研鑽を積んだのだそうです。

そして1999年に活動を再開、それに伴いベートーヴェンのカルテットの録音も再開し、2005年からはヴァージンとレコーディング契約し現在に至ります。

以上、前置きが長くなりましたが、ここでの4曲の演奏では、いずれも独特のスピード感のあるテンポから、アルテミスならではの贅肉を絞り抜いたような生々しさが導出するヴィヴィッドなハーモニーの肌合いが素晴らしく、例えば第15番の第3楽章の(3:39)の主題線など今まで聴いたことがないくらいの鮮やかさで奏されていて驚かされますし、聴いていて至る所にドキッとするような表情の強さがあり、その意味で、聴き慣れた作品が新しい姿で立ち現われたような新鮮な印象に事欠かない、そんな演奏です。

ただ、これらの演奏が先般ブログで取り上げたアルテミスの最新録音(6番と13番)のように、深いところでベートーヴェンの楽想に対して絶妙な照応を示しているか、ということになると、正直ちょっと留保を付けたくなるような気がするのです。

というのも、これらの演奏でアルテミスの敷設する表情の強さというのには、いずれも多少あざといような気配も聴いていて付きまとい、それらが外面的な特徴づけの地点から抜け出し切れず、従って新鮮ではあるものの聴き手の心を強く揺さぶる演奏たり得るには、いまひとつ訴えかけが弱い、ような気がするからです。

ただ、進境著しい現在のアルテミスの最新録音である6番と13番の新譜を聴いた後に、これら4曲の録音を聴いたために、相対的に印象が弱められたということもあるのかも知れません。いずれにしても、他のカルテット団体では容易に為し得ないほどに個性的かつ独創的な演奏であることは疑いのないところですし、ここまでの演奏を初録音のベートーヴェンで為すこと自体、驚異的とも思えました。

チョン・キョンファとラトル/ウィーン・フィルによるブラームスのヴァイオリン協奏曲


ブラームス ヴァイオリン協奏曲
&ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」
 チョン・キョンファ(vn) ラトル/ウィーン・フィル
 EMIクラシックス 2000年 5571652

5571652

昨日の続き、というよりは余談になりますが、一昨日サントリーホールで聴いたシュトゥットガルト放送響の来日公演における、韓国の天才ヴァイオリニスト、パク・ヘユンをソリストに立てたブラームスのヴァイオリン協奏曲の演奏に関しての感想を、昨日ブログに書きました。

その感想の中で、私がパク・ヘユンのブラームスを聴きながら、ふと先々月のミュンヘン・フィル来日公演で聴いた、ワディム・レーピンの同じ曲の演奏を思い出したことを書きましたが、そのとき実はもうひとつ、私の脳裏に去来した演奏がありました。

それは今から9年前の2001年、5月21日にオーチャード・ホールで行われた、チョン・ミュンフン率いるローマ聖チェチーリア管弦楽団の来日公演において演奏された、やはりブラームスのヴァイオリン協奏曲で、その独奏者というのが韓国の天才ヴァイオリニスト、チョン・キョンファでした。

2010-05-15

要するに同じ「韓国の天才ヴァイオリニスト」の演奏する「ブラームスのコンチェルト」、という括りでもって自然に当時の演奏が連想されたわけですが、そこでのチョン・キョンファの演奏というのが頗る強烈で、それが9年経った今でも昨日のことのように思い出されるのです。

そんな9年も前の実演を、なぜ今も鮮やかに覚えているのか、、それだけ演奏内容が素晴らしかったというのも理由の
一つですが、なにより彼女の舞台姿、つまりステージ上での演奏の所作が独特を極めたものだったからです。

何かが憑依したかのように辺りを払うような、まるで能楽の演者さながらの立居振舞と、そこから繰り出される、極度の集中力の凝集したようなボウイングの凄味、、、私がチョン・キョンファの実演を耳にしたのは、それが最初で最後ですが、なるほど凄いヴァイオリニストだなと聴いていて感嘆したのを覚えています。

以上、ちょっとした余談でした。チョン・キョンファ演奏のブラームスのコンチェルトには、ラトル/ウィーン・フィルという豪華なバックで録音したCDが出ていますが、ちょうどリリースの時期が、その9年前のコンサートと同じ時期だったこともあり、これは私にとって、あの実演を追体験させてくれる貴重なCDとなっています。

シュトゥットガルト放送交響楽団の来日公演の感想


昨夜(5/13)のサントリーホール、ノリントン/シュトゥットガルト放送交響楽団の来日公演の感想です。

2010-05-14

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置でした。

まずハイドンの交響曲第1番が演奏されました。編成は第1ヴァイオリンのみ3人で第2ヴァイオリン以下2人ずつの弦パート、それにオーボエとホルンが2人ずつにファゴット1名という、こじんまりとした陣容。チェロ以外の弦楽奏者は全員起立しての演奏でした。

この演奏形態やノンヴィブラート奏法などから、聴いていて何となくバロック音楽然とした雰囲気が感じられ、なるほどハイドンの交響曲と言えども第1番ともなれば、まだバロックに近いんだなと実感させられる演奏でしたし、全体で10分程ながら、アンサンブルメンバー同士のインティメートな掛け合いの楽しさが良く伝わってくる、気持ちのいい演奏でした。

続いて編成を12型とし、パク・ヘユンをソリストに立ててブラームスのヴァイオリン協奏曲が演奏されました。

パク・ヘユンは1992年に韓国で生まれ、昨年9月のミュンヘン国際音楽コンクールで史上最年少の優勝を果たした、弱冠18歳の女性ヴァイオリニストです。

そのヴァイオリン演奏ですが、この曲の実演で聴き得るものとしては、紛れもなく最高水準と思える揺るぎないテクニックを存分に開陳しつつ、しなやかなボウイングから美しい膨らみのある音色が安定的に供給されていく様は、聴いていて圧巻というほかなく、相当に困難なフレーズにおいてさえ、どこにも無理がなく鳴らされるヴァイオリンの音色の、得もいわれぬ美しさといい、その演奏技術の素晴らしさと、聴き手を惹きつけて止まないような、独特の華のあるボウイング展開には、客席で聴いていて、ほとほと感嘆させられっぱなしという状態でした。

ノリントンの伴奏も、冒頭こそ大胆なスローテンポで始めたので何事かと思ったものの、全体的には中庸のテンポ運びに落ち着き(最初のあれはノリントン流のハッタリか?)、小振りのアンサンブル編成の機動性というか身軽さを活かしてソロにピタリと付けて間然とせず、安定的に供給されるノンヴィブラートの透明感のあるハーモニーも演奏に清潔な色合いを付与するとともに、パク・ヘユンの華麗な弾き回しを絶妙に盛りたてているかのようでした。

このパク・ヘユンの演奏は、おそらく作品の様式を完全に掌握した上で、比類ないほどのテクニックで万全に聴かせた演奏であったことは確かであり、そこは私も客席で感嘆させられっぱなしという状態でしたが、それでは深い感銘を受けたか、というと、それは正直どうだろうという気もしました。というのも、先々月のミュンヘン・フィル来日公演でレーピンが同じブラームスの協奏曲を弾いた際の演奏との、雰囲気の少なからぬ違いに聴いていて戸惑いもしたからです。

その印象の違いを自分なりに突き詰めると、結局のところパク・ヘユンの演奏があまりに「華やか」であった点に拠るのではないか、という気がします。「華やか」というのはフレージングの弾力感とかテンポの躍動感、それに舞台上の所作まで、そういうものを全てひっくるめての印象になりますが、少なくとも先々月のレーピンの実演においては、このブラームスのコンチェルトに内在するところの、ある種の厳粛な雰囲気、それは内省的な興趣であり、あるいは華やか一辺倒というのではない響きの含蓄と言い換えてもよいかもしれないですが、とにかくそういったものの得難い発露があって、そのあたりに聴いていて痛く心を打たれた記憶が私には新しいのです。ので、当夜のパク・ヘユンの演奏において、何がしか物足りないものがあるとするなら、多分そのあたりに行き着くのかなと、何となく思ったりもしたのでした。

休憩を挟んで、16型の編成でエルガーのエニグマ変奏曲が演奏されました。

この作品は周知のように、エルガーの出世作で、当時エルガーが親しかった人々への感謝の気持ちを込めて、その友人・知人を13の変奏に見立てた上、その最後の変奏としてエルガー自身を見立てて構成された長大な変奏曲であり、一般にはブラームスの「ハイドン主題変奏曲」と双璧をなす、管弦楽向け変奏曲の傑作として認知されています。

また「エニグマ(ギリシャ語で謎の意)」の名のとおり、エルガー自身が「演奏されない、隠された主題が作品を貫いている」と語ったことから、なにか謎の主題があるのではないかとも言われていますが、いずれにしても、ノリントンがこのエルガーの代表作品をどのように仕上げるか、その演奏に耳を傾けました。なお、この曲は編成上オルガンを任意で使用するように書かれていますが、それは当夜の演奏では使われませんでした。

ここで披歴されたエルガーは、一言でいうならシュトゥットガルト放送響のピュア・トーンの面目躍如といった感のある演奏で、その新鮮な音楽の感触というかリフレッシュされたような音響の斬新な肌触りが驚異的なものでした。

そのアンサンブルの徹底したノンヴィブラート奏法が醸し出す透徹したハーモニーにより、全体の響きが良い意味で中性化されていて、何というか媚びのない響きの美しさというのか、そういうのがジワジワと立ち昇ってきて、いつしか聴き手の耳を捉えて離さなくなるという感じです。

しかし、いくらノンヴィブラート奏法と言ったところで、何しろ16型ですし、あそこまで磨き抜かれたような艶やかな響きが出せるものかとも思ったのですが、おそらく常日頃からアンサンブル全体に、この奏法の思想のようなものが浸透し切っているからこそ、出せるのでしょう。それはノリントンの薫陶の賜物であって、ノリントン/シュトゥットガルト以外に出しようのない掛け替えのない音響であり、いずれにしても聴いていて端的に素晴らしいと思えるものでした。

このエルガー作品は、ノリントンには自家薬籠中とみえて、暗譜で楽々と指揮しました(ブラームスは譜面を見ながらだったのに)。このエニグマ変奏曲は各変奏にパーソナリティが持たされているので、それらのキャラクタライゼイションがどうとか、演奏に際してよく言われるところですが、ノリントンは特に奇を衒った仕掛けを打つでもなく、彼にしては生真面目なくらいに、堅実にオーケストラをドライブしていきました。彼がベートーヴェンなどで示すような、ある種の遊びもなく、全体に意外なくらい手堅い指揮ぶりでした。

それなら昨日ブログに書いた「ノリノリ」というのは一体ウソなのかと思われるかも知れないですが、それは実のところ半分シャレですが(すいません、、)、しかしオーケストラの駆動において全体に「ノリの良さ」が強く伺われたことは確かで、少なくともノリントンは自分がノルのではなく、むしろオーケストラを上手くノラせていたな、と思ったのでした。押すところは押し、引くところは引く、そのあたりの手綱さばきが絶妙であり、金管もティンパニも鳴らすと決めた個所は容赦なくバンバン鳴らしますし、なかんずく終盤(第14変奏)での突き抜けるような音響のカタルシスは痛快の一言でした。

もっともノンヴィブラートの特性からくる代償として、アンサンブルに音響的な「ふっくら感」が十分に出ないことも事実で、全体的にマスとしての響きの、ドッシリとしたボリュームの手応えに物足りなさもあった点は止むを得ないところかと感じましたし、それは聴き手によっては何となく違和を感じるところであるかも知れません。

アンコールのワーグナーとウォルトンでは、なにか羽目を外したように猛烈に鳴り響くアンサンブルの、イケイケ的な演奏が披歴され、こちらも凄い聴きものでした。先々月のミュンヘンフィルのワーグナーの重厚型のスタイルとは一線を画した、パンチ力勝負型の演奏展開でしたが、これはこれで凄いと感心しました。

以上、当夜のコンサートは全体的にノリントンの、エンターテイナーとしての才覚、ならびに独自性を追究する音楽家としての才覚の良く発揮された演奏内容と感じられましたし、特にエニグマ変奏曲はノリントン/シュトゥットガルト以外では聴けないかと思えるような、その面目躍如たる見事な演奏内容でした。

シュトゥットガルト放送交響楽団の来日公演(サントリーホール 5/13)


今日はサントリーホールでシュトゥットガルト放送交響楽団の来日公演を聴いてきました。

2010-05-13

指揮者はサー・ロジャー・ノリントン。演目は前半がハイドンの交響曲第1番とブラームスのヴァイオリン協奏曲(ソリストはパク・ヘユン)、 後半がエルガーのエニグマ変奏曲というものでした。

アンコールは以下の3曲でした。
①イザイ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より第1楽章
②ワーグナー 「ローエングリン」第3幕への前奏曲
③ウォルトン 「ファサード」より「ポルカ」
うち①は前半のアンコールでパク・ヘユンの演奏です。

ドイツの交響楽団の来日公演を聴くのは、先々月のミュンヘン・フィル以来になりますが、偶然にも双方の演目に、ブラームスのヴァイオリン協奏曲が重なっていました。

しかし他の演目はというと、ワーグナー「タンホイザー序曲」とベートーヴェン「運命」というドイツのオケ王道のプログラムを持ってきたミュンヘン・フィルに対し、今日のシュトゥットガルトの方は、ハイドンの1番とエルガーのエニグマという、少なくともドイツの名門オケの来日公演の演目としては、いささか奇抜なものでした。(でも、ノリントン的には王道なのかも、、)

いずれにしても、今日の公演はノリントン/シュトゥットガルトの専売特許ともいうべきノンヴィブラートの通称「ピュア・トーン」を耳にするのが楽しみでホールに足を運んだ次第です。

感想は改めて後日に出しますが、後半のエニグマが良かったですね。ノリントンだけに、ノリノリ、、なんて洒落たくもなるくらい、胸のすくような快演で、余韻嫋々でした。

# しかし、後半のアンコールをエルガーの「威風堂々」と予想した人は私だけでないはず、、

LFJ2010公演感想:エンゲラーのリスト「葬送」と「十字架への道」&児玉桃のピアノリサイタル


・公演344(Cホール):
リスト 葬送(「詩的で宗教的な調べ」より)
リスト 十字架への道
 ブリジット・エンゲラー(ピアノ)
 ジャン=クロード・ファゼル(指揮)
 ローザンヌ声楽アンサンブル

LFJ-344

前日の公演245に続いてのエンゲラーの公演でしたが、ピアニズム自体の精彩に関しては、こちらのリストの方が何となく冴えていたように思えました。前日のショパンは、正直ちょっと苦戦しているようにも聴こえたのですが、本公演では「葬送」から何か水を得た魚というみたいにバリバリと弾き切った感じでしたし、リスト「十字架への道」も素晴らしく、こちらはCDも出しているくらいですから、おそらくエンゲラーにとって自家薬籠中という作品なのでしょう。

ジャン=クロード・ファゼルはローザンヌ声楽アンサンブルのメンバーで、コルボのアシスタントとして指揮もするとのことです。ローザンヌ声楽アンサンブルの歌唱も前日のモーツァルト同様、魅力的でした。

この公演で問題があるとするなら、公演時間の設定でしょう。この2曲で45分ワクというのは無理で、実際60分を要する公演でした。おそらく、エンゲラーの「十字架への道」のCDが37分で演奏されているので、それと「葬送」とで45分が妥当と考えたのではないかと思うのですが、「十字架への道」は15ものフェイズからなる曲で、曲の切れ目ごとに間が入りますし、独唱者が入れ替わりする時間も含めて、実演だと最低45分は必要で、結局60分のワクが妥当だと思われます。

LFJ-355

・公演355(D7ホール):
モシェレス メランコリックなソナタ
アルカン 前奏曲「海辺の狂女の歌」
メンデルスゾーン ロンド・カプリチオーソ
ショパン 4つのマズルカop.41
ショパン 幻想即興曲
ショパン スケルツォ第2番
 児玉桃(ピアノ)

D7ホール、実は今回はじめて入りました。キャパが小さいわりに音響的には今一つというところでしょうか。天井もあんなですし、、、

前半3曲に関しては、普通に上手いなという印象で、前日のジュジアーノのように突き抜けたテクニックという感じでもなく、端的に普通の演奏という感じでした。

しかしショパンのマズルカあたりから、そのピアニズムの奥に潜んでいたような何かが、徐々に頭をもたげてきた、のではないかというような演奏に切り替わっていき、演奏自体の訴求力も加速度的に伸びていったように思われたのです。

その何か、というのは、かなり言葉にしにくい感覚的な性質のもので、よって書きにくいのですが、敢えて書くなら例えば役柄に対する没入の度合いというのが尋常でないがゆえに、その役に成り切ることのできてしまう優れたアクトレスのようなメンタリティではないか、という気がします。

つまり、作品の内面から流れてくる、およそ普通の人には聴かれないパルスのようなものに、何時の間にか乗っかったような状態で展開されたのが、この時の一連のショパンではなかったかと思うのです。まるでショパンの音楽への並々ならぬ情熱が高じて、そういう地点にまで気持ちが高まったかのような、、、いずれにしても、そのときに披歴されたピアニズムの精彩は並大抵のものではありませんでした。

なかんずく最後に弾かれたショパンのスケルツォ第2番においては、その一心不乱なピアニズムの迫力に聴いていて度肝を抜かれるくらいでしたし、何だかショパンその人がピアノを弾いているかのような雰囲気を湛えた、すごいインパクトの演奏で、聴いていて素直に感動しました。そしてLFJの最後の最後に、ようやく純正のショパンを聴いたような気がしたのでした。

LFJ2010公演感想:「ショパンの葬送」&「マヨルカの夜」


・公演215(Aホール):
「ショパンの葬送」
ショパン 前奏曲第4番(オルガン独奏)
ショパン 前奏曲第6番(オルガン独奏)
ショパン(ヘルツィン編曲) 葬送行進曲(オーケストラ版)
モーツァルト レクイエム
 シャルロット・ミュラー=ペリエ [ソプラノ]
 ヴァレリー・ボナール [アルト]
 クリストフ・アインホルン [テノール]
 ピーター・ハーヴェイ [バリトン]
 鈴木優人 [オルガン]
 ミシェル・コルボ [指揮]
 ローザンヌ声楽アンサンブル
 シンフォニア・ヴァルソヴィア

LFJ-215

この公演、開始時間が19:30でしたが、実は直前に聴いた公演236の終演時間が19:25。開演ギリギリで飛び込みました。

着席してほどなく、「ショパンの葬送」ということでオルガン演奏が始まりました。このコンサート名の由来ですが、この公演では1849年10月30日にパリ・マドレーヌ寺院で行われたショパンの葬儀での演目が再現されているから、とのことです。

やはり素晴らしかったのはモーツァルトのレクイエムでした。そういえばコルボ/ローザンヌ声楽アンサンブルもLFJでは3年連続で聴いています。一昨年はロッシーニのミサ、昨年はバッハのロ短調ミサ。でもオーケストラは毎年ちがっていて、一昨年はアカペラでしたし、昨年はローザンヌ器楽アンサンブル、そして今年はシンフォニア・ヴァルソヴィア。

ここでのモーツァルトも、聴き進むほどに音楽の懐の深さに魅了させられる、そんな演奏でした。たとえオケは違っても、コルボ/ローザンヌ声楽アンサンブルという基本ラインがデンと構えているので、音楽が揺らがないのでしょう。ローザンヌ声楽アンサンブルを毎年ナマで聴いて思うのは、やはりミサ祈祷文に対する歌唱力が抜群ではないかということで、おそらくミサ曲を歌わせたら敵なしと、いうくらいのアンサンブルではないでしょうか。

・公演227(B7ホール):
「マヨルカの夜」
①ショパン 「ヘクサメロン」変奏曲
②ショパン ワルツop.34-1「華麗なる円舞曲」
③ショパン ワルツop.34-2「華麗なる円舞曲」
④ショパン ワルツop.34-3「華麗なる円舞曲」
⑤ショパン バラード第2番
⑥ショパン 24の前奏曲
 ①②:アブデル・ラーマン・エル=バシャ [ピアノ]
 ③④:児玉桃 [ピアノ]
 ⑤⑥:フィリップ・ジュジアーノ [ピアノ]

LFJ-227

「マヨルカの夜」と題されたこの公演は、ショパンが1830年代に作曲したピアノ曲を演目とするコンサートで、まず俳優の石丸幹二がナレーションを読み上げ、3人のピアニストが順番にショパンを弾くという形態でした。

アブデル・ラーマン・エル=バシャと児玉桃に関しては、それぞれ小曲を2つ弾いただけですので、サッと弾いてサッと帰ったという感じで、正直これといった印象はなく、ほぼフィリップ・ジュジアーノの独演会と言ってもいいものでした。

そのジュジアーノは1973年フランスのマルセイユ生まれのピアニストで、第13回ショパン国際ピアノコンクール(1995年)で最高位(1位なしの2位)を受賞しています。

最初のバラード第2番では、中間部での指回りに圧倒させられました。すごい速さで、おそらくあれ以上速くは弾けないというくらいのスピードでしたが、ミスタッチのミの字もなく、すべてのタッチが燦然としていて、聴いていて人間業とは思えないような、凄いインパクトがありました。

しかし真に驚かされたのは、次の「24の前奏曲」で、これはジュジアーノのヴィルトゥオジティが全開、というくらいの演奏でした。その超絶的な演奏技術から発せられる表出力が圧巻で、何しろ信じられないほどに速いテンポで一気呵成に弾きつつ、技術的に危うさがないという、そんな演奏を至近距離で聴かされた日には、おそらく誰だって参ってしまうのではないか、、、

もっとも、これが仮にベートーヴェンのソナタなり、ブラームスの独奏曲なりだったら、また話は微妙に違ってきたような気もするのですが、ここでのショパンのテクニック主導型のピアノ作品においては、少なくともピアニストのテクニックの凄味というものが、ダイレクトに演奏の表出力に転換されるメカニズムであるからこそ、こういったヴィルトゥオジティ一辺倒の演奏に聴き手は素直に参ってしまうのだと思うのです。

それにしても、このジュジアーノの演奏を聴いていて思ったのですが、私が仮にこれと全く同一の演奏を、もしCDで聴いたとしたら、そのCDの音質が、たとえ実演と寸分たがわないものであったとしても、ひょっとして私は、それを聴いて大きく心を動かされることはないのではないか、、、と、そんな気がしました。完成度は高いが、、とか、そんなことを書いてしまいそうなのです。

いくら聴こえてくる演奏が凄くても、「実際の演奏」が本当に凄いのかどうかは分からない。これは音質の良し悪しとは全く関係のない話で、いわば編集の介在が不可避なCDの宿命。幾らミスをしても録り直せる以上、実演だと絶対にごまかしが効かないことが、CDだと幾らでもごまかせる、、、

それを推し進めると、「結局、クラシック音楽って、CDで聴くのに最も向かない音楽なのでは?」みたいな考えも起きてくるのですね。ウソの介在が排除できない以上、その演奏の真実味を推し量ることが、実演とは比較にならないくらい難しい。かつてチェリビダッケが録音を頑として拒否したのも、突き詰めるとそのあたりに行き着くのかもしれない、、、

そんなようなことを、本公演のジュジアーノの演奏を聴いて、何となく考えさせられたのでした。もちろん凡庸な演奏だったら考えもしないことであり、演奏自体の見事さに加え、こういうことを考える機会を与えられたことも含めて、このコンサートは私には貴重な体験でした。

LFJ2010公演感想:エンゲラー/オーヴェルニュ室内管&シャマユ/ライプツィヒ四重奏団


・公演245(Cホール):
リスト 弦楽のための「夕べの鐘、守護天使への祈り」(「巡礼の年 第3年」より)
ショパン(ワルター編曲) ピアノ協奏曲第2番(ピアノ・弦楽合奏版)
 ブリジット・エンゲラー [ピアノ]
 アリ・ヴァン・ベーク [指揮]
 オーヴェルニュ室内管弦楽団

LFJ-245

LFJでブリジット・エンゲラーを聴くのは3年連続で、何だかエンゲラーを聴くとLFJに来たなと実感するような気がします。

ここではショパンのピアノ協奏曲第2番が演奏されましたが、直前に聴いたポゴレリッチの同じ曲の演奏とは対照的な、伸び伸びとして晴朗な趣きの演奏を披露し、同じ曲で、こうも雰囲気が変わるものかというくらいでした。同じ漱石でも「こころ」の後で「三四郎」を読んだ、みたいな気分です。

オーヴェルニュ室内管ですが、(LFJの常連なのに)実は初めて聴きました。フランスの古都クレルモン=フェランのオーケストラで、アリ・ヴァン・ベークが音楽監督とのことですが、聴いていて深い趣きのある美しい響きが素晴らしくて魅了させられました。ふっくらとして美しい響きを出す低弦、蠱惑的な艶めかしい響きを出す高弦、これらの織り成す絶妙のハーモニー。聴いていて何だか、前週サントリーで聴いたフィラデルフィア管の演奏に、唯一欠けていたものを思いがけず耳にした、みたいな気がしたのでした。2曲とも弦楽パート限定でしたので、出来れば管パートも聴きたかったところです。

ワルター編曲ですが、要するに本来の管のソロをヴァイオリン・ソロに置き換えたりとか、そんな感じでしたが、オリジナルのオーケストレーションの、ある種の贅肉が削がれて、ずいぶんスッキリとして精緻なハーモニーに聴こえました。やっぱりショパンのオーケストレーションって良くも悪くもアマチュア的なんだなと、あらためて思いました。

・公演236(B5ホール):
メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲第6番
シューマン ピアノ五重奏曲
 ベルトラン・シャマユ [ピアノ]
 ライプツィヒ弦楽四重奏団

LFJ-236

ライプツィヒ四重奏団のメンデルスゾーンは、昨年リリースされたカルテット全集のCDを聴いて、いい演奏だなと思ったもので、この公演も楽しみでした。

そのメンデルスゾーンが、やはり素晴らしい演奏でした。この第6番のカルテットはメンデルスゾーンの残した全作品の中で、最も深みのある作品ではないかと思っていますが、メンデルスゾーンの死の直前の作品である、この作品に浮遊する独特な雰囲気が、聴いていてCD以上に、まざまざと伝わってくる、そんな感じでした。

かなり至近距離から聴くライプツィヒ四重奏団は、CDで聴くよりも遙かに熱のあるアンサンブル展開で、実演であるという以上の生々しいリアリティを感じました。CDで聴くと正攻法の手堅い運びという感じのカルテットなのに、実演だと印象がガラッと変わってくる、、いや、正攻法の手堅いのは、同じなんですが、そんなことよりむしろアンサンブルの発する強い熱気に打たれ、大いなる感銘を与えられました。後半のシューマンも(シャマユのピアノともども) 良かったですが、あのメンデルスゾーンの後だと、どうしたって印象が弱くなるのは否めなくも思えました。

そういえばB5ホールって今年はじめて入りましたが、想像以上に音響が良くてビックリしました。同じBでもB7ホールとはえらい違いで、壁を見ても明らかに音の反響を意識した造りになっていたりなど、この東京LFJのベストホールは、実はB5ホールかも知れないと思いました。

LFJ2010公演感想:ケオハネのアリア・コンサート&ポゴレリッチのショパン


・公演243(Cホール):
ヘンデルのアリア・コンサート
 マリア・ケオハネ [ソプラノ]
 フィリップ・ピエルロ [指揮]
 リチェルカール・コンソート

LFJ-243

演目:
①オペラ「ファラモンド」より「ふたつの風に翻弄され」
②オペラ「アルチーナ」より「ああ私の心よ」
③オラトリオ「復活」より序曲
④オラトリオ「テオドーラ」より「わが嘆きの暗闇で」
⑤オペラ「ジュリオ・チェーザレ」より「嵐の海で難破した小舟」
⑥オペラ「アグリッピーナ」より「胸さわぎが私を苦しめる」
⑦オラトリオ「メサイア」より「シオンの娘たちよ、大いに喜べ」
⑧オペラ「リナルド」より「涙の流れるままに」

今年のLFJで最初に聴いた公演ですが、いきなり素晴らしくて、あとで振り返っても、こと感銘度では今回の8公演の白眉というくらいの公演でした。

何といってもマリア・ケオハネのアリア歌唱が抜群で、その声質・歌唱力・演技力が、すごく高いレベルでまとまっていましたし、どのアリアも表情が活き活きと躍動するようで、聴いていてジーンとくるほどでした。

美しさと透明感とを併せ持った、惚れぼれするような声質。音程が少しもブレず、ポルタメントなしでサッと目的の音程に移行できる、見事な歌唱力。それに各アリアの役柄に成り切ったような迫真の演技力(⑤など本当にクレオパトラみたいでしたし)。

伴奏のピエルロ/リチェルカール・コンソートは、昨年のLFJでもバッハのミサ曲ト短調とマニフィカトを聴きましたが、何だか昨年よりも一段と響きの美しさに磨きが掛かっていたように思えました。昨年のLFJではバッハ・コレギウム・ジャパンやル・コンセール・フランセといった他のピリオド・アンサンブルの存在感が強かったので、相対的に目立たない感なくもありませんでしたが、今年は抜群の存在感でした。

・公演213(Aホール):
エルスネル 交響曲ハ長調
ショパン ピアノ協奏曲第2番
 イーヴォ・ポゴレリッチ [ピアノ]
 ゲオルグ・チチナゼ [指揮]
 シンフォニア・ヴァルソヴィア

LFJ-213

最初のエルスネルの交響曲については、感想は特にありません(正直どういう曲だったか記憶が薄れている、、)。

この公演では何といっても、今年のLFJの目玉ともいうべき鬼才ポゴレリッチの登場ということで、この前の週にサントリーホールで聴いたフィラデルフィア管来日公演での、あの凄い演奏が再び聴けるのかと、ワクワクして演奏に耳を傾けました。ところが、、、

率直な印象としてポゴレリッチのピアノは、どうも本調子とは思えませんでした。先週のサントリーでの表出力を10とするなら6くらい、しかしアンコールでは持ち直し8くらい、という風に思えました。

その理由ですが、まずサントリーホールのフィラデルフィア管来日公演で披歴された演奏が、ポゴレリッチの本調子であったとした上で、LFJでのポゴレリッチのピアノ演奏に関して私が感じた点を挙げますと、主に以下の3点です。

1.全般にフォルテッシモの訴求力が振るわなかった。ここぞという時にピアノが鳴り切っていないような印象を受けた。

2.ミスタッチが明らかに多かった。ことに第2楽章は聴いていて一体どうしたのかというくらいだった。

3.緩急の揺さぶりに関しても、いくぶんか手加減が加えられていたように思えた。

言い換えますと、前週のサントリーでの実演ではLFJでの実演に比べて、ここぞという時のフォルテッシモの訴求力が絶大で、全編ほぼノーミスと言える演奏で、緩急の揺さぶりも激烈の極みだったように思えるのです。

ただ結局、2以外は感覚的な話ですし、ホールの違いというのも大きいですし(キャパで2.5倍の差、残響の差となると計り知れない)、LFJでの私の席がステージから相当に遠かったことも大きく影響しているのかもしれないので、本調子でなかったと、一概には言えないかも知れません。

しかし、あの第2楽章のアンコールは、おそらく当初の予定にはなくて(あったとすると、公演の時間ワクの説明がつかないので)、あれはポゴレリッチが本演での不調を挽回すべく独断で弾いたのではないか、とも思えます。

そうでないとすると、サントリーでの実演では大家アルゲリッチの代役ということで、さすがにポゴレリッチとしても相当に気が張っていたと想像されるのですが、LFJでの実演では、例えばホールに家族連れも多かったのですし(そういう問題かどうかはともかく)、意識的にピアニズムに抑制が掛かっていたのかも知れません。

いずれにしても、残念ながらサントリーでの再現とはいかなかった、というのが偽らざる感想ですが、それでも演奏自体の醸し出す、あの尋常ならざる空気は、ポゴレリッチのピアニズムの凄さを聴き手に感得させるに十分過ぎるものであったことは紛れもなく、その点は聴いていて改めて驚嘆させられました。やはり凄いピアニズムだと思います。

LFJ2010雑感


今日あたり、LFJ2010での公演の感想を書き始めて、順次アップしようと思っていましたが、、

2010-05-07

どうもバテ気味につき(コンサート疲れ+連休ボケ)、また後日にします。

それで今日は、LFJ2010についての雑感というか、少し思うところを書いてみようかと、、

今さら言うまでもないことですが、やはりラ・フォル・ジュルネというのは、ものすごく楽しめる音楽祭だと思います。なにしろ外来のアーティストや演奏団体の公演を、一日のうちに次々に聴けて、しかも低料金。

ただ正直、今回(に限らず)気になる点もいくつかあって、そのあたり、出来得るなら今後なんらかの形で改善されたらいいなあ、という思いがあったりもします。

具体的には、、、

●当日券について。

昨年と同様、今年も壊滅的でした(一昨年が懐かしい、と思うのは私だけでないはず、、)。

昨年から3日間公演となった関係で、そのぶんチケット需要がひっ迫するようになったから、仕方がない、というのが表向きの説明のようです。しかし5000席もの規模のホールでの公演で当日券ゼロというのは私の感覚だと考えられなくて、要するに当日券をさばくためのシステムが(おそらく運営コスト削減のため)構築されていないからなのでしょう。

いずれにしても、聴きたい人がいて、空席があるのに、聴けないという状況はもったいないと思うので、何とかなりはしないか、、、と思う次第です。

●公演プログラムについて。

今年からA4サイズとなり、昨年までよりも一回り大きくなりました。

確かに読みやすいのですが、その大きさに比例し、客席での「ガサゴソ率」も、確実に一回り大きくなっていました、、、

、、ので、昨年までのサイズの方がいいのでは、と思う次第です。

●公演時間ワクの設定について。

正直、ちょっとズサンでは?という気がしました。というのも、時間どおりに終わらない公演がほとんどで、その幾つかについては、最初から無理な時間ワクが当てられているようにも思えたからです。

例えば公演344のリストの「葬送」と「十字架への道」ですが、45分の公演として設定されていましたが、この2曲で45分は無理ではないかと、、実際もそうでしたが、60分と見るべきと思います。ポゴレリッチの出演した公演213も、もともと60分のワクでしたが、実際は90分オーバー。あのアンコールは別としても、エルスネルの交響曲が30分、ショパンの第2コンチェルトは、普通だと30分のところがポゴレリッチのテンポだと40分を要するので、最初から75分程度のワクは確保すべきだったように思われます。

結局、次の公演を聴こうと思っている人の予定が狂ってしまうので、、、アクシデント等の不可抗力で遅れるのは止むを得ないとして、アクシデントなしでも無理だと分かっている時間ワクを設けるのは、ちょっとどうかと思う次第です。

以上、僭越ながら今回のLFJで少し気になった点を書かせていただきました。

次回、まず公演243のヘンデルのアリア・コンサート、およびポゴレリッチの出演した公演213についての感想をアップしたいと思います。

写真で振り返るLFJ2010


写真で振り返るLFJ2010~なんて大層なタイトルですが、要は私がコンサートの合間に会場をブラブラ歩いて撮影した写真を以下に並べてみたのでした。

2010-05-05-01
ミュージックキオスクで聴いた酒井茜のショパン。一服の清涼剤のような演奏。

2010-05-05-02
ミュージックキオスクで聴いたモーション・トリオ。アコーディオン3重奏が痛快!

2010-05-05-03
屋台村のパエリア。今年も食べたが、相変わらず美味しい。

2010-05-05-04
屋台村の帝国ホテルの出店では冷水が自由に飲める。コンサートの合間にのどを潤すのに重宝。

2010-05-05-05
フォーラム地下の展示エリアで恒例のコンサート。半券があれば無料で聴ける。

2010-05-05-06
「携帯で高音質の音楽が聴ける」ということで、試聴した。が、、、いかな高音質でも、この音量ではキビシイ、、、

2010-05-05-07
展示エリアの「ショパン・カフェ」。しかしコーヒーは帝国ホテルのものなので、実は昨年の「バッハ・コーヒーハウス」のコーヒーと同一だったり、、

2010-05-05-08
ショパン・カフェで「ショパンと親交の深かったサンド家に伝わるメニューを帝国ホテルがアレンジした料理」を注文してみる。クリームソースが美味。

2010-05-05-09
食事中、ふと横をみるとボリス・ベレゾフスキーが! サイン会で来た模様。昨年のサイン会は体調不良でドタキャンしたのを私は覚えている(笑)。

2010-05-05-10
OTTAVAのブースに出演のブリジット・エンゲラー。自分のピアニズムにはロシアとフランスの伝統が流れている、と語っていた。

2010-05-05-11
積み木で精巧に組み上げられた、ショパンの時代のピアノ。接着されていないので簡単に崩れるとのこと。

2010-05-05-12
ポーランドの民族楽器グループ、ゼスポール・ポルスキの演奏をミュージックキオスクで聴いて会場を後に。来年も、また来ます。

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2010(5/4)


昨日に引き続き、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2010」に行ってきました。

2010-05-04

今日は以下の2公演を聴きました。

・公演344(Cホール):
リスト 葬送(「詩的で宗教的な調べ」より)
リスト 十字架への道
 ブリジット・エンゲラー(ピアノ)
 ジャン=クロード・ファゼル(指揮)
 ローザンヌ声楽アンサンブル

・公演355(D7ホール):
モシェレス メランコリックなソナタ
アルカン 前奏曲「海辺の狂女の歌」
メンデルスゾーン ロンド・カプリチオーソ
ショパン 4つのマズルカop.41
ショパン 幻想即興曲
ショパン スケルツォ第2番
 児玉桃(ピアノ)

以上、2日間で計8公演を聴きましたが、お腹いっぱいというか、質的にも量的にもボリューム満点でした。さすがにバテましたが、心地よい疲れが残りました。

各公演の感想は後日あらためて出すつもりですが、とりあえず以下、それぞれの印象を簡単に。

・公演243:ヘンデルのアリア・コンサート

こと感銘度では今回の8公演の白眉。マリア・ケオハネのソプラノ歌唱が抜群で、聴いていて思わずジーンとくるほど! リチェルカール・コンソートの演奏も素晴らしかった。

・公演213:エルスネルの交響曲&ショパン第2コンチェルト

ポゴレリッチは、本調子とは思えなかった。先週のサントリーでの表出力を10とするなら6くらい、か。アンコールでは持ち直したが、、

・公演245:ワルター編曲のショパン・ピアノ協奏曲第2番

オーヴェルニュ室内管は響きが独特で、日本のオケには出せないような音を出す。ワルター編曲は下手をするとオリジナルより良いかもしれない。

・公演236:メンデルスゾーンとシューマンの室内楽

至近距離で聴くライプツィヒ四重奏団。CDで聴くよりも遙かに熱気ある演奏だった。

・公演215:「ショパンの葬送」

コルボがシンフォニア・ヴァルソヴィアを指揮するという珍しい組み合わせ。やはりコルボのモツレクは素晴らしい。

・公演227:「マヨルカの夜」

フィリップ・ジュジアーノの演奏技術が凄すぎる!さすが1995年ショパン国際コンクール最高位ピアニスト。

・公演344:リストの「葬送」と「十字架への道」

エンゲラーは昨日のショパンよりも良かったと思う。ショパン弾きというよりはリスト弾きなのかも。

・公演355:児玉桃のピアノリサイタル

最後のショパンのスケルツォ第2番には度肝を抜かれた。何かが憑依したかのような、一心不乱なピアニズムだった。

# ところで来年のLFJのテーマ作曲家ですが、「ブラームス」のようですね。これって一年前の私の予想どおりでした(再来年は?、、ハイドンあたりでしょうか、、)。

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2010(5/3)


今日は「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2010」に行ってきました。

2010-05-03

以下の6公演を聴きました。

・公演243(Cホール):
ヘンデル オペラアリア・コンサート
 マリア・ケオハネ [ソプラノ]
 フィリップ・ピエルロ [指揮]
 リチェルカール・コンソート

・公演213(Aホール):
エルスネル 交響曲ハ長調
ショパン ピアノ協奏曲第2番
 イーヴォ・ポゴレリッチ [ピアノ]
 ゲオルグ・チチナゼ [指揮]
 シンフォニア・ヴァルソヴィア
 
・公演245(Cホール):
リスト 弦楽のための「夕べの鐘、守護天使への祈り」
ショパン ピアノ協奏曲第2番(ワルター編曲の弦楽伴奏版)
 ブリジット・エンゲラー [ピアノ]
 アリ・ヴァン・ベーク [指揮]
 オーヴェルニュ室内管弦楽団

・公演236(B5ホール):
メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲第6番
シューマン ピアノ五重奏曲
 ベルトラン・シャマユ [ピアノ]
 ライプツィヒ弦楽四重奏団

・公演215(Aホール):
「ショパンの葬送」
ショパン 前奏曲第4番(オルガン独奏)
ショパン 前奏曲第6番(オルガン独奏)
ショパン(ヘルツィン編曲) 葬送行進曲(オーケストラ版)
モーツァルト レクイエム
 シャルロット・ミュラー=ペリエ [ソプラノ]
 ヴァレリー・ボナール [アルト]
 クリストフ・アインホルン [テノール]
 ピーター・ハーヴェイ [バリトン]
 鈴木優人 [オルガン]
 ミシェル・コルボ [指揮]
 ローザンヌ声楽アンサンブル
 シンフォニア・ヴァルソヴィア

・公演227(B7ホール):
①ショパン 「ヘクサメロン」変奏曲
②ショパン ワルツop.34-1「華麗なる円舞曲」
③ショパン ワルツop.34-2「華麗なる円舞曲」
④ショパン ワルツop.34-3「華麗なる円舞曲」
⑤ショパン バラード第2番
⑥ショパン 24の前奏曲
 ①②:アブデル・ラーマン・エル=バシャ [ピアノ]
 ③④:児玉桃 [ピアノ]
 ⑤⑥:フィリップ・ジュジアーノ [ピアノ]

以上、6公演6時間。昨年のLFJではオール・バッハで一日4公演5時間を聴きましたが、それと同じくらいの満腹感です。何というか、これでこそラ・フォル・ジュルネという感じがします。

今日の6公演、いろいろ書きたいことはありますが、明日に聴く予定の公演と合わせて後日、あらためて感想をアップしたいと思います。

明日の最終日は2公演、聴く予定です。

カンブルラン/読売日響の演奏会(サントリーホール 5/1)の感想


昨夜(5/1)のサントリーホール、カンブルラン/読売日響のコンサートの感想です。

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたVn-Va対向配置でした。

まず16型の編成でバルトーク「2つの映像」が演奏されました。これはバルトークの、最もドビュッシーに接近した音楽と言われ、とくに第1楽章はフランス印象主義的な雰囲気を湛えた作風ですが、そのあたりに相応しい「淡くて、強い音」を出そうと、全体にアンサンブルが苦心して工夫しつつ演奏しているという風で、特に抑制されたヴィヴラートの醸し出す、透明な響きの美感など、聴いていて何となく、一年前のカンブルラン/読売日響の演奏会で聴いたラヴェル「クープランの墓」を彷彿とさせました。

続いて編成を12型として、モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」が演奏されました。

そういえばモーツァルトの「ジュピター」を聴くのは、昨年9月のサントリーホールでの読売日響の定期演奏会以来です。この時はカンブルランの前任者スクロヴァチェフスキーの指揮でした。

ここでカンブルランの披歴した作法は、先日のコンサートでの冒頭を飾ったベートーヴェン・コリオラン序曲で示したものと似たような感じで、やや変則的なアゴーギグを交えつつ、アタックの強い、鋭利な雰囲気の演奏が展開されたのですが、どうも聴いていて先日のコリオラン序曲ほどには音楽が強くに訴えてこない、正直そんな印象を覚えました。

弦のボウイングに関しては、第1楽章ではヴィヴラートをほとんど掛けず、逆に第2楽章はヴィヴラートを多めに、という風に、かなり大胆に変えていましたし、時々パウゼを大きくとったり、テンポを細かく動かしたりと、確かにカンブルランとしては手練を尽くしたような、緻密を極めた演奏だったように思われたものの、聴いていて何か細工が過ぎるというのか、いわば仕掛けが多すぎて、むしろ自然な音楽としての感興の高まりとか、古典派の作品としての調和の取れた情趣といったものに対し、干渉が過ぎるのではないかと、いう風に思えなくもありませんでした。

そのあたりのデフォルメに加えて、提示部の反復された第2楽章の長丁場が、いささか冗長と感じられたことも手伝い、全体を聴き終えて、いまひとつピンとこないモーツァルトだったなと思ってしまったのでした。しかしそれは単に、私自身がカンブルランの巡らせた仕掛けの意図なりを咀嚼し切れなかっただけなのかもしれませんが、、

休憩を挟んで、編成を16型とし、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」が演奏されました。

この曲を私が実演で聴いたのは、昨年12月のサントリーホールでの、ゲルギエフ率いるマイリンスキー歌劇場管弦楽団の来日公演以来でしたが、当夜のカンブルランのハルサイは、あの時のゲルギエフのハルサイとは、おそらく真逆に近いくらいのコンセプトの演奏と思われるのに、それと同じくらいに強い表出力の漲る、素晴らしい演奏でした。

そのゲルギエフ/キーロフのハルサイというのは、例えば重低音の猛烈な押し出しとか金管パートの獰猛な張り出しを伴う、コッテリとして濃密無比で、これ以上にワイルドなハルサイというのも、ちょっと考えられないのではないかというくらいの演奏でしたが、必然ハーモニーの見晴らしとか怜悧な音色のニュアンスなどは二の次、という風な演奏でもあったのでした。

対して当夜のカンブルランのハルサイの場合は、まず何よりアンサンブルの細密感や響きの情報量が素晴らしく、例えば強大なフォルテッシモも含めて常に音響全体のバランスを考えたり、細やかなフレーズさえも埋没するのを防いだり、というのが積もって、音響のバーバリズムというよりは作品自体の構造的な迫力で聴かせる、というような路線がコアとされていた演奏でした。

それでいて例えば練習番号53以降などのように、作品として猟奇的ないし破滅的な響きが要求されているところでは、すごい変わり身で金管パートと打楽器を中心に凄まじく強烈な響きを叩きつけるなどして、尋常でない緊張感を捻出するという、ある種の離れ業を事も無げにやってのけたのです。その強烈なインパクトは聴いていてゲルギエフ/キーロフのハルサイにも匹敵するかと思えるくらいでしたし、白熱部での熾烈なまでのダイナミクスの様相も筆舌に尽くしがたく、聴いていて強烈に惹きつけられましたし、聴き終えてのカタルシスも絶大でした。

このようなスタイルのハルサイであってみれば、例えばピエール・ブーレーズのハルサイのように、客観を極めた解釈の極北に位置する演奏というのとは少し様相が異なり、なかんずく作品の持つ構造美と猟奇性とを鮮やかなまでに切り分けた表現手法という点において、私は聴いていて、ブーレーズよりはエトヴェシュのハルサイを連想しました。かつてアンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督を務めたペーター・エトヴェシュと、その終身客演指揮者であるカンブルランとの間に、何らかの繋がりがあるのかもしれない、、そんなことを聴いていて思ったりもしました。

それにつけても当夜のハルサイにおける読売日響のアンサンブル展開は聴いていて惚れぼれするばかりで、演奏技術、集中力、小刻みに変動するテンポへのレスポンスの良さなど、いずれも抜群であり、おそらくアンサンブルとしての持てる技量の全てを出し尽くした演奏ではなかったかと思えました。

もっとも今回のハルサイの出来ばえは、おそらくカンブルランの就任披露の演奏会ということで、読売日響の少なくとも普段以上に気の入ったアンサンブル展開の結果ではないかという気もします。ので、この水準を今後の定期などでも持続できるか否かは、おそらく今後のカンブルランの運営次第ということになるのではないでしょうか。

以上、当夜のカンブルランの就任披露演奏会は、前半のモーツァルトが私には少しピンと来なかったとはいえ、後半のハルサイは問答無用というほどに素晴らしく、とくに現代もののプログラムにおいて、この演奏水準が今後も維持されることを、ぜひともカンブルランには期待したいと思いました。

# 明日はラ・フォル・ジュルネに行く予定です。

カンブルラン/読売日響(サントリーホール 5/1)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団のコンサートを聴きました。

2010-05-01

指揮者はシルヴァン・カンブルラン。演目は前半がバルトーク「2つの映像」とモーツァルト交響曲第41番「ジュピター」、 後半がストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」というものでした。アンコールにはストラヴィンスキーのサーカス・ポルカが演奏されました。

読売日響の第9代常任指揮者に就任したカンブルランの、その就任披露演奏会として先日、第1弾の公演を聴きに行きましたが、今日は第2弾の公演ということですので、前回に続いて聴きに行きました。

というより、正確には今日の公演が本当の就任披露演奏会なのだそうで、先日の公演は、あくまで読売日響の定期演奏会の中での就任披露演奏会なのだそうです(ややこしいですが、、)。

感想は後日に改めて出しますが、後半のハルサイが非常に良かったと思います。先日のシェーンベルクよりも更に良かったほどで、現代ものを得意とするカンブルランの、その本領発揮というような、強烈なハルサイでした。

しかし前半のモーツァルトに関しては、聴いていて正直ちょっと、、という気もしました。ただ、私自身このところコンサート続きで、少しバテ気味につき(←またか、、)、咀嚼不足なだけかも、、

# コンサートに行くこと自体でバテるというよりは、その感想を書く方でバテるような気がする、、、

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