フィラデルフィア管弦楽団の来日公演の感想


昨夜(4/28)のサントリーホール、フィラデルフィア管弦楽団の来日公演の感想です。

2010-04-29

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと並べた通常配置、いわゆる「ストコフスキー配置」でした。やはりフィラ管の伝統というところでしょうか。今では外来オケの公演でも滅多に見られなくなった配置ですが、、

まず16型の編成でベルリオーズの「ローマの謝肉祭」が演奏されました。いきなりフィラデルフィアサウンドが炸裂といった風で、そのアンサンブルのめくるめく音響美をストレートに堪能させられた演奏でした。

続いて編成を14型とし、イーヴォ・ポゴレリッチをソロに迎え、ショパンのピアノ協奏曲第2番が演奏されました。

ここでは文字通り常軌を逸したようなショパンが披歴されました。第1楽章ピアノ独奏部の冒頭から、およそポゴレリッチの他には誰もやらないのではないかと、いうくらいの変則を極めたルバートやデュナーミクの変化ないし音色の推移の連続に、聴いていて驚嘆させられるとともに、これら予断を許さない所作を伴うピアノソロの、音の脈動が集積していった果てにおいて、すごい真実味に裏打ちされた、真正のエモーションとしての音楽が鳴り響く、そんなような演奏でした。

このピアノ演奏には、およそ紋切型の動きというものが何処にもなく、むしろ押し潰されそうな抑圧感があったり、発作的なまでに激烈な感情の高まりがあったりという風で、その突き放したように冷たい感触のピアニッシモには、耳にして思わずゾッとするような戦慄があり、その熾烈なまでに強打されるフォルテッシモには、強度に比例して音楽の内面にグッと踏み込んでいくかのような凄味があり、そして時おり不意に湧きあがるような激しい情感の放射に、思いのほか強く胸を打たれたり、、、、とにかく私は、この規格外のショパンに、もう固唾を飲んで聴き入るばかりでした。

第2楽章ラルゲットにおいても、冒頭のソロの入りの暗みを帯びた独特のフレージングからして、得体の知れない憂い、虚無感が安らぎに交錯するような不可思議な感覚があり、この気分が楽章全体を支配していたのです。それは際立って内向的な気分であり、少なくとも、ショパン19歳の筆による、青春の喜びを反射したような、天真爛漫とした楽想からすると、全く異色な肌合いの演奏と言えるものでしたが、それを聴いているうちに何だか私には、このポゴレリッチの演奏こそが、本当にショパンの言いたかったことではないか、という気がし出しました。それは終楽章も同様で、この演奏を聴いて、私は初めて、この終楽章の安逸な楽想を疑ったように思うのです。

デュトワ/フィラ管は、持ち前の洗練された響きで、ポゴレリッチの変則を極めたピアニズムに懸命に付けていくのですが、その晴れやかで爽やかな伴奏が、ピアノソロに付き纏う、ある種の暗黒を、反射的に浮き上がらせる効果を出していることに、途中から気が付きました。それゆえ、この作品の背反性に、初めて気が付いたような、そんな気さえしたのでした。

それにしても、このポゴレリッチの演奏においては、何か恐ろしいほどに鋭敏な音に対する感性とイマジネーションが背景にあることは疑いないとしても、到底それだけで済むような演奏とは私には思えず、おそらく私のような凡人などには想像もつかないまでの、彼のショパンに対する何か、ひねくれた共感のようなものがあり、それが独自の感性を通して音化された結果、ああいった独創的な表現に結晶したということなのでしょうか。

このショパンは、おそらくポゴレリッチ唯ひとりが表現することのできる世界と思われましたし、その途轍もないピアニズムが聴き手に強度の緊張を強いると同時に、法外な感銘を聴き手にもたらす、まさに衝撃的な演奏でした。

休憩を挟んだ後半は、編成を16型に戻し、まずラフマニノフの交響的舞曲が演奏されました。

この作品は1941年にオーマンディ/フィラデルフィア管により世界初演され、作品自体も同楽団に献呈されている、このオーケストラゆかりの曲であるとともに、ラフマニノフとしても、おそらく当時のフィラ管の特性を考慮して作曲したものと思われる、全編に華麗かつ絢爛な色彩美を有する作品です。

いわばフィラ管にとってはホームグラウンドともいうべき作品であって、まるで水を得た魚のごとく、そのアンサンブルが曲想にフィットしていること比類なく、第1曲の中間部のオーボエ、クラリネット、それにサクソフォーンが絡むところなど、メロディの夢想な味わいが素晴らしくて、聴いていて軽い眩暈を催すほどでしたし、クライマックスのスペクタクルも壮麗の極みでした。

第2曲のワルツにしても、おどけた感じの諧謔を巧みに描き出しつつ、そこにエレガントで蠱惑的な響きを存分にまぶして、えもいわれぬ陶酔の境地をホールに現出せしめ、それは聴き手の耳を捕らえて離さないほどに魅惑的なものでした。

終曲も洗練を極めた絢爛たるサウンドの妙あり、エスプリを効かせたフレージング妙あり、独特の光沢と艶やかさを帯びた音色の妙あり、そして、そういったものが合併して一体化する時の音響的な快感には途方もないものがあり、終盤のクライマックス形成に聴かれたアンサンブルの充実した迫力、響きのめくるめく光彩美、いずれも抜群で、その全開とも言うべきフィラデルフィア・サウンドの醍醐味に素直に酔わされた、そんな演奏でした。

続いて、ラヴェルのラ・ヴァルスが演奏されました。

ラフマニノフの交響的舞曲がフィラ管のテリトリーとするなら、こちらのラヴェルはデュトワのテリトリーと言えそうですが、ここでもフィラ管はラフマニノフ同様、絢爛豪華な音響美が充溢する、エレガントな打ち上げ花火のようなラヴェルを披歴し、冒頭の静謐な弱音から終盤のフォルテッシモの最高潮に至るまで間然とすることなく、聴き手の高揚をじわじわと高めていく感動的な演奏を成し遂げていました。

しかし、ここでは音楽の全体の雰囲気が、あまりにもラフマニノフに似通って聴こえたのが私には少し引っ掛かったように思いました。正直なところ、ゴージャス一辺倒とまでは言わなくとも、キンキラキンとした眩さが凄くて、それが過ぎて陰影から何から全部おもてに出してしまい、外面的で含むところの少ない演奏として、聴かれなくもなかったのでした。

要するに、その表情における屈託の少なさが聴いていて気になったのでした。というのも、本来この曲には鬱屈したところも何パーセントかあって、例えばフランスのオケの含みのある音色で聴くと、それが自然におもてに出てくるのではないかと思われるからです。

デュトワがフィラ管の首席指揮者に就任してまだ1年余り、いくらデュトワでも、そんなに短期に、強固な伝統を背負ったフィラデルフィアサウンドを自己の理想の響きに染め上げるのは、さすがに無理な話だと思われますし、それなりの時間をかけて、おそらくデュトワが真に望むような、よりフランス音楽に適応した色合いに変容させていくのではないか、今はその過渡期ではないか、、、アンコールも含めて当夜のラヴェルに関しては、そんな風に私には思えました。

以上、当夜のフィラデルフィア管弦楽団の来日公演は、少しだけ違和感の残ったラヴェルは別としても、ラフマニノフにおいては同楽団の持ち味が、ほぼ全開と思えましたし、何よりポゴレリッチのショパンという法外な演奏を耳にできたことが大いなる僥倖でした。

フィラデルフィア管弦楽団の来日公演(サントリーホール 4/28)


今日はサントリーホールでフィラデルフィア管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2010-04-28

指揮者はシャルル・デュトワ。演目は前半がベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、続いてイーヴォ・ポゴレリッチをソロに迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番、後半がラフマニノフの交響的舞曲と、ラヴェルのラ・ヴァルスというものでした。アンコールにはラヴェル「ダフニスとクロエ」から「全員の踊り」が演奏されました。

今日の公演は、当初マルタ・アルゲリッチの出演が予定されており、ラヴェルのピアノ協奏曲を弾く予定でした。しかしアルゲリッチの出演はキャンセルとなり、その代役としてポゴレリッチの出演となったのでした。

今回のアルゲリッチのキャンセルに関しては、詳しい事情はこちらに書かれていますが、発表されたのが先週の19日ですので、ほとんどドタキャンという体です。

ロビーで購入した公演プログラムにも、当夜のソリストとしてアルゲリッチが印刷済みでした。

2010-04-28-p

すでに公演チケットを購入していた私としても、このキャンセルには当初ガッカリしました。というのも、アルゲリッチによるラヴェルのコンチェルトというのは、かなり魅力的な演目ですし、ポゴレリッチのショパンのコンチェルトにしても、ちょうど来週のラ・フォル・ジュルネでの演目となっていて、そちらのチケットも購入済みでしたので、、

とはいえデュトワ/フィラ管の実演については、アルゲリッチとは別に聴きたいと思っていましたし、ポゴレリッチ+デュトワ+フィラ管という組み合わせというのも、こういう機会でもなければ聴けない気がするので、そのあたりの興味に切り替えてホールに赴きました。

感想は後日に改めて出しますが、実は最大の聴きものが、そのポゴレリッチのショパンでした。衝撃的な演奏というのか、聴いていて驚きの連続でした。

デュトワ/フィラ管のめくるめく色彩感も、何とも言えないものでしたが、あれは確かに「フィラデルフィアサウンド」ではあっても、デュトワが本当に望むサウンドとは微妙に違うような気も、、、正直そんな印象も残りました。

カンブルラン/読売日響の演奏会(サントリーホール 4/26)の感想


昨夜(4/26)のサントリーホール、カンブルラン/読売日響のコンサートの感想です(本当はもう少し短くまとめたかったのに、時間切れで、、)。

オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたVn-Va対向配置でした。

まず14型の編成でベートーヴェンのコリオラン序曲が演奏されました。公演プログラムによると、この序曲をカンブルランがコンサート冒頭に据えた理由は「常任に就任して最初に出す音には強いアタックが欲しいから」とのことです。

ここでは、その言葉さながらに「強いアタック」の演奏が披歴されました。パンチの利いた演奏と言うのか、やや変則的なアゴーギグから、強和音の音化は鋭く断ち切られ、ティンパニも過激なほど強打され、張り詰めたような空気がホールを満たした、すこぶる鋭利なベートーヴェン。これは初っ端から、かなり凄い演奏でした。

続いて編成を16型に拡大し、マーラー交響曲第10番の「アダージョ」が演奏されました。

ここでカンブルランは、読売日響のアンサンブルから研ぎ澄まされたように怜悧な音色や、運動感と切れを満たしたフレージング、あるいは硬質感のあるリアルな響きの肌合い、といったものを巧妙に抽出していきながら、マーラーの音楽を、自己の目線で再構築してかかるというよりは、むしろ主観を交えず、作品を有るがままに描き出そうとしている風で、その結果マーラーが混ざりっけのないリアルな音のドラマとして響いてくる、そんな演奏でした。

音楽を通底する耽美と苦悩、そして終盤の絶望的なカタストロフ、、、なるほど聴いていて、このマーラーの「アダージョ」というのが、ブルックナーのような超然とした音のドラマとは一線を画した、なにか抜き差しならない人間の感情の動きが音楽にびっしり張り詰められている音楽なのだなと、いうことが、今更ながらに強く実感された演奏でしたし、例えば小説などでも、情を抑えて写実を極めた文章が、私小説のような感情ベタベタな文章よりも、よほど読み手の心を強く揺さぶりたり得るように、カンブルランの客観を極めたような冷厳なアプローチが、マーラーの音楽のヒダに巧く適応していたように感じられ、そのあたりの演奏の佇まいが私には新鮮にして感銘深いものとして映りました。

休憩を挟んで(編成は16型のまま)シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」が演奏されました。

ここでも演奏の方向性としては、前半のマーラーとおおむね同じと思われ、この交響詩に内在する人間のリアルな心の動きのようなものが、硬質に引き締った音響の流れと、情感を殊更に拡大しないシビアなフレーズの筆致とにより、虚飾なく音化された、そんな演奏で、そのクライマックスのカタストロフにおいては、前半のマーラーでのカタストロフ同様、聴いていて肺腑が抉られるかのような痛烈を極めた響きがホールを満たし、圧倒されるばかりでしたし、全体を通してハーモニーの透明感も素晴らしく、この大規模な編成からすると、聴いていて何か魔術的とさえ思えるくらいでした。

このシェーンベルクの交響詩はCDでは耳にしたことがあるものの、生で聴くのは、これが初めてでした。とにかく大編成な曲ですし、その複雑無比な対位法の駆使(あのマーラーですら、これには白旗を上げたという!)にしても、生で聴いてピンと来たようなところもあり、その意味では作品の全体像を初めて眺められた、みたいな爽快感を聴いていて味わったりもしましたが、それというのも、単に生だからというだけではなく、カンブルランのアンサンブルに対する厳しい音響統制の賜物でもあるように思えるのです。その意味では、カンブルランらしい素晴らしい演奏だと思いました。

以下は総括的な話になりますが、当夜の公演の演目を振り返ってみると、ベートーヴェンを境界線として、マーラー、シェーンベルクという、前任者スクロヴァチェフスキー(以下、ミスターS)のレパートリー外の曲目を敢えて打ち出してきたあたり、なんとなく今後のカンブルラン体制の舵取りの方向性が仄めかされているように思えます。

基本的にミスターSの得意としたレパートリーというのが、ベートーヴェンからシューマン、ブラームスなどを経てブルックナーに至る、ドイツ・ロマン派の大きな流れの中に組み込まれていたのに対し、相対的に20世紀音楽は手薄という感じで、実際ショスタコーヴィチは例外としても、例えばバルトークや、ミスターS自身の作品などでは、少なくともブルックナーなどで示すまでの表出力を漲らせるには到らずという印象があり、そのあたりが読売日響のひとつの鬼門となっていた感もありますが、これが一転、現代ものを重視するカンブルラン体制となったことで、今後はアンサンブルの練り上げに関し、ある程度の意識の切り替えが、オーケストラに要求されることになるような気がします。

この点に関連し、当夜の公演では特に後半のシェーンベルクにおいて、聴いていてフレージング間のコントラストの強さ、あるいは音色に対する尖鋭さに、それなりにムラが目立ったように感じられた(つまり、音響的に冴えている局面と、そうでない局面との差が割り合いに大きい)点が少し気になったのですが、このあたりは、結局のところアンサンブルの技術面でのポテンシャルに関係してくるのかなと思うのです。

つまり今後、オケのレパートリーの中心を20世紀音楽に移行していくとなると、そういった感情的にクドくない音楽に必然的に要求される、例えばアンサンブルの音程とかタテヨコの線の精密さ等に対し、それに対応し切るだけの(現代音楽型の)アンサンブル能力の向上が必須要件になると思われるところ、それは見方を変えればアルブレヒト→ミスターSのラインで形成された、いわばドイツ・ロマン派型アンサンブルの中心軸をずらすような形になるので、そのあたりの切り替えに対応できるかがカンブルラン体制の一つの関門ではないかと、そんな風に思えます。

もうひとつ気になった点として、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」は、本来なら弦の編成として16-16-12-12-8が要求されているところ、当夜の演奏での編成は16-14-12-10-8でした。もし、これが読売日響として弦の大規模なスペックをカバーできない結果だとするなら、特に現代曲では少し問題であるように思います。

以上、ダラダラと書いてしまった上、後半は何だか纏まりのない感じになってしまい恐縮ですが、当夜の公演はカンブルランのポスト就任披露演奏会に相応しい、内容の豊かなコンサートと感じましたし、同時に幾ばくかの課題もあるかなという気もしましたが、そのあたりも含めて、新体制となった読売日響の今後の発展がどうなるかを、期待とともに予感させてくれた演奏会だったと思います。

読売日響の定期演奏会(カンブルランの常任ポスト就任披露演奏会:サントリーホール 4/26)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。

2010-04-26

指揮者はシルヴァン・カンブルラン。演目は前半がベートーヴェンのコリオラン序曲とマーラー交響曲第10番の「アダージョ」、 後半がシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」というものでした。

ちょうど一年前、東京芸術劇場での読売日響のコンサートで実演を聴いて以来、カンブルランは私の注目している指揮者のひとりとなっていますが、今日の公演は、先月をもって読売日響の常任指揮者の契約が満了となったスタニスラフ・スクロヴァチェフスキーに代わり、第9代常任指揮者に就任するカンブルランの、就任披露演奏会という位置付けですので、これは聴いておきたいと思いホールに赴きました。

今日の演奏の印象としては、すごく良かったとも、そうでないとも言えそうなところがあり、いわば見方というか、到達点をどこに置くかで変わってくるのではないかと思われました。

新体制となった読売日響としても、アンサンブルの練り上げに関して、ある程度の意識の切り替えが必要なのかなという気もしました。

いずれにしても、感想は後日に改めて出します。

ところで、ロビーで配布された公演プログラムと一緒に、以下のようなパンフが臨時に配られました。カンブルランが名門シュトッゥトガルト歌劇場の音楽監督に就任することが決まった旨の告知です。

2010-04-26-2

それによると、カンブルランは2012年からマンフレッド・ホーネックの後継として同歌劇場の音楽監督に就任する予定であり、それに伴い、現在まで長期にわたり務めているバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団(南西ドイツ放送交響楽団)の首席ポストは2011年で退任、よって今後のカンブルランの活動としてはオペラのシュトッゥトガルトとオーケストラ・コンサートの読売日響という2本軸となる、ということのようです。

チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルによるブルックナー交響曲第8番の1994年リスボンライヴ


ブルックナー 交響曲第8番
 チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル
 AUDITOR 1994年ライヴ AUD7001/2
AUD7001

アルトゥスから先日リリースされた、セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるブルックナー交響曲第8番の来日ライヴにつき、その感想を昨日ブログに書きましたが、それを聴いたら、何だかチェリビダッケ/ミュンヘン・フィルのリスボンライヴのブル8を聴きたくなってしまって、それを今日、久々に聴きました。

これはチェリビダッケとミュンヘン・フィルが1994年にリスボンに楽旅した際のコンサートのライヴで、正規盤ではありませんが、その演奏内容の凄さゆえに、あまりにも有名な録音となっています。非正規盤にして、これほど有名な録音というのも珍しいのではないでしょうか。

その演奏内容は、既に様々なところで語られているとおり、もはや人間業を超えたようなブルックナーです。とにかく音響の濃度が恐ろしいほどの水準にあり、それがあまりに強烈すぎるものですから、聴いていて頭の中の何かが麻痺してくるような気さえするほどです。ですので、軽々しく聴くのに躊躇を余儀なくされますが、いざ聴くとなると、それこそ世界がひっくり返るかというくらいの感銘を味わうことになるのです。

とはいえ、そのあたりは何を今さらという感想に過ぎませんし、それよりも、ここでは昨日の来日ライヴの方のブル8との相違について、少し書いてみたく思います。

その前に、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルのブル8には、もうひとつEMIからリリースされた正規盤もありますので、それについても触れます。

TOCE-9902-3
ブルックナー 交響曲第8番
 チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル
 EMIクラシックス 1993年ライヴ TOCE9902-3

このEMI盤のブル8に対する私の感想はこちらに掲載していますが、後半の2つの楽章の素晴らしさに対し、前半の2つの楽章での表出力が、チェリビダッケのブルックナーとしては少し弱いかなという印象を持っています。

このEMI盤のブル8は、3種類のチェリビダッケ/ミュンヘン・フィルのブル8の録音の中でも、テンポの遅さが異様に際立っているのが大きな特徴です。特に21分に及ぶ第1楽章、35分に至る第3楽章、32分を超える終楽章と、いずれも来日ライヴとリスボンライヴを一回り凌駕していて、結果的にブル8の史上最長盤という位置づけとなっているのです。

また、比較的デッドなことで知られるミュンヘン・ガスタイクのホールでのライヴ録りであることから、残響感が抑制された録られ方になっていることも、来日ライヴやリスボンライヴと一線を画した感じになっています。というのも、来日ライヴとリスボンライヴの音質が、ともにホールの豊潤な残響感を、素直に取り込んだ形になっているからです。

特にリスボンライヴの方は、とにかくホールの残響の高さが際立っていて、ものすごい響きの膨らみとなって反響しているのです。その意味では、EMI盤とは正反対の音質とも言えそうです。

そして、今回リリースされた来日ライヴですが、EMIのガスタイクでのライヴとリスボンライヴとの、ちょうど中間的な残響感で、要するに過不足の無い、ちょうどいい按配の膨らみ加減ではないかと思われるものです。

もちろん、そのような残響特性だけをもって、3種類のチェリビダッケ/ミュンヘン・フィルのブル8の録音の中で、来日ライヴが最も優れている、などというつもりはありませんが、こと音質に関しては、来日ライヴが最も理想的なのではないか、という気もします。何より音響の豊潤さと細部の克明ぶりとの釣り合いが巧くとれている感じがします。

とはいえ、3種それぞれ残響感の違いという点に起因して、それに伴い音楽から受ける含蓄の印象もまた、ずいぶん違う感じがします。

以上、少し分析的な書き方になってしまいましたが、要するにチェリビダッケ/ミュンヘン・フィルのブル8を収録した、これら3種類の録音には、それぞれに独特の持ち味というのがあって、それはホールの残響特性という客観的要因に、かなり左右されているのではないかと思われたのでした。

逆に言うなら、これだけホールの残響特性が開いているのに、同じ曲を指揮して、ほぼ同等の感銘を聴き手にもたらし得るというのは、おそらくホールの残響に最も適合した音楽造りを生涯にわたって心掛けたと言われる、チェリビダッケ一流の演奏哲学の賜物ではないか、という気もするのです。

生前は極度にレコーディングを嫌ったチェリビダッケですが、結局のところレコーディング技術が一連のライヴの実像を、こうして的確に捕捉する限りにおいて、彼の往年の音楽造りの至芸の一端なりを後世に伝えるのならば、その意義までも彼は、やはり否定してかかるのでしょうか、、、このリスボンライヴの演奏を聴きながら、そんな素朴な疑問が、ぼんやりと頭に浮かんだりしました。

チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルによるブルックナー交響曲第8番の1990年来日ライヴ


ブルックナー 交響曲第8番
 チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル
 アルトゥス 1990年ライヴ ALT183/4
ALT183

今週アルトゥスからリリースされた、セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ブルックナー交響曲第8番のCDを聴きました。

これは1990年のミュンヘン・フィル来日公演の時のライヴで、収録されているのは同年10月20日のサントリーホールにおけるコンサートでの演奏です。

チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルの来日公演におけるブルックナーとしては、1986年の来日の時の交響曲第5番のライヴが出ていますので、それ以来のリリースとなります。

ALT138
ブルックナー 交響曲第5番
 チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル
 アルトゥス 1986年ライブ ALT138/9

これは2006年にリリースされた当時かなり評判となったディスクですが、この録音に関しては、開演の5分前にチェリビダッケにより録音中止の通達がなされたものの、テープを密かに回し続けて録音を敢行するという、ちょっと隠し撮りみたいな方法での収録でした。これは当然ながら、当時チェリビダッケによるリリース許可が出るはずもなく、収録後も眠り続けていたところ、チェリビダッケ死後の2006年に、遺族承認のもとリリースされたという経緯でした。

これに対して、今回リリースされた交響曲第8番の方は、もともとNHKによる映像収録に伴う録音であるとライナーノートに書かれています。ので、少なくともチェリビダッケは録音テープが回っていることを了承していたはずですが、その時の録音テープが、ようやくCD化されたということのようです。遺族承認に基づくリリースである点は、おそらく前回の交響曲第5番の時と同じかと思われます。

前置きが長くなりましたが、上記ブルックナー交響曲第5番は素晴らしい演奏内容でしたし、ミュンヘン・フィルといえば先月、来日公演を聴いたばかりですので、ちょうどいいタイミングと思い購入しました。

さっそく聴いてみたところ、その演奏内容というのが、ちょっと比類ないほどに素晴らしく、聴き終えてしばらく、何だか体が痺れてしまったような感覚に襲われて容易に動く気になりませんでした。

このブルックナーにおいては、チェリビダッケ特有の超時間的な尺度のもたらす音楽の濃密度が比類なく、それは聴いていて文字通り時間の観念すら忘れさせられるほどですし、そのハーモニクスにしても濃密でありながら同時に透明な美しさを湛えつつ、そこに音響的な実在感と儚さとが常に同居でもするような、そんな俄かに名状しがたい深みなり奥行きなりを呈しており、それらを耳にするに及んでは、もはや驚嘆の念をもってジッと耳を傾ける以外の術を持ち得ませんでした。

全編に渡ってペースを速めない、徹底的なスロー基調の、常軌を逸したようなテンポの上で展開される、超越的なまでの音楽のスケール感、巨大な音楽の造形、あり得ないくらいに克明なハーモニーの見晴らし、このテンポだからこそ繊細に浮き上がるフレージングのニュアンス、まろやかに溶け合う音色同士が描き出す無限ともいうべき妙感、、、

音質も素晴らしく、全体的に音のリアリティが豊かというのか、生々しい音楽の息遣いが克明に捉えられていますし、何より実演当日のホールの雰囲気や演奏の質感などが聴いていて仮借なく伝わってくるようです。むろん、それで埋められないものも、相応に大きいとは思いますが、、、

以上、このブルックナーは決してオーソドックスな範疇の演奏とは言えないにしても、およそ演奏行為というものから受ける精神的高揚の極限を狙うほどの、圧巻というも生ぬるい演奏であり、久々に充実を極めたブルックナーの録音を堪能しました。

アルテミス四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第6番、第13番および大フーガ


ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第6番・第13番(大フーガ含)
 アルテミス四重奏団
 ヴァージン・クラシックス 2009年 6945840
6945840

今月ヴァージン・クラシックスからリリースされた、アルテミス四重奏団の演奏によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第6番および第13番を収録したCDを聴きました。

アルテミス四重奏団のベートーヴェンとしては、2008年にリリースされた弦楽四重奏曲第4番および第8番以来のリリースになりますが、その前回のベートーヴェンが素晴らしい演奏内容でしたので、今回の新譜も購入し、さっそく聴いてみたのでした。

まず弦楽四重奏曲第6番ですが、ザクザクと彫りの深いアーティキュレーションの押し出しといい、鋭角感の強いフレージングのシャープな張り具合といい、各パートの音色の強烈なまでのコントラストの立ち具合といい、もう聴いていて嬉しいばかりに、アルテミス四重奏団の持ち味が全開という感じの演奏です。

強烈味のあるフォルテと、フワッとした弱音との、落差の激しいダイナミクスも素晴らしく、その精悍な佇まいにしても、この初期作品のキャラクターとしては異例とも思えるほどで、まるで中期のラズモフスキー3部作のような音楽の密度やスケール感すら聴いていて感じられるのです。

よって聴き手によっては少し息苦しさが勝ち過ぎ、この曲想を考えると、もっとリラックスした演奏で聴きたいと思っても不思議でないくらいなのですが、少なくとも私は、この演奏によって作品の奥に秘められたベートーヴェンの鋭い横顔を、何だか初めて聴いたような、そんな新鮮な印象を味わいました。

続く弦楽四重奏曲第13番ですが、この録音では終楽章に最終稿を用いず、代わりに「大フーガ作品133」が配置された形で収録されています。これは作品の初演時におけるパターンですから、ベートーヴェンの当初の意思を尊重したのでしょうか。

演奏ですが、ここではアルテミスのアグレッシブな表現意欲が作品のキャパシティに対して拮抗しているという意味で、第6カルテットよりも一段と精彩の強いアンサンブル展開が披歴され、もはや圧倒されるばかりです。

そのアンサンブル展開には全体に独特の表現主義的な脈動が充溢していて、活発なテンポ変化やハーモニーの色彩感のめくるめく変容ぶりなど、聴いていて翻弄されてしまうくらいですし、何より、その贅肉を絞り抜いた感のある生々しい感触のアンサンブル展開は、かつて他の演奏から聴かれなかったのではないかとさえ思えるほどです。

これはベートーヴェン晩年の複雑に交錯する曲趣を、ひいては作品の真の姿を、強度のリアリティをもって鮮烈に照射した演奏ではないかという気がしますし、ひいては、このアルテミスならではの、贅肉を絞り抜いたような生々しさが導出する、表現主義的なハーモニーの肌合いが、深いところでベートーヴェンの楽想に対して絶妙な照応を示しているのではないか、という風に私には思われました。

それだからこそ、ここまで強く心を揺さぶる演奏たり得ているのではないかと思うのです。なかんずく最後の大フーガは、超高速キャッチボールともいうべきアンサンブル展開の、すべてを薙ぎ倒すような怒涛のテンポ感ともども、恐るべき表出力を漲らせた演奏に仕上げられており、このアルテミスの演奏で大フーガを聴いてしまうと、他のどの演奏も食い足りなくなってしまうのではないか、とさえ思われるほどです。

以上、これは超越した演奏技術を有するアルテミス四重奏団ならではの表現主義的なベートーヴェンと言えそうな、素晴らしい演奏と感じました。このカルテットの今後の録音の動向に、あらためて大きな関心を寄せたいと思います。

カンブルラン/バーデン=バーデン・フライブルクSWR響によるブルックナー交響曲第9番


ブルックナー 交響曲第9番
 カンブルラン/バーデン=バーデン・フライブルクSWR響
 Glor 2005年ライヴ GC09251
GC09251

# もう5月も間近だというのに、今日の東京は冬の寒さでした。昨日の真夏日といい、何だか季節感が狂ってきそう、、、

独Glorレーベルから先月リリースされた、シルヴァン・カンブルラン指揮カンブルラン/バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団(南西ドイツ放送交響楽団)の演奏による、ブルックナー交響曲第9番のCDを聴きました。2005年におけるフライブルク・コンツェルトハウスでのライヴ録りです。

同じ顔合わせによるブルックナーとして交響曲第6番のディスクを先日ブログで取り上げたところですが、今回の9番も、その6番と同時リリースのCDです。そこでの感想にも書きましたが、その6番の演奏が良かったので、9番の方も聴いてみたくなり、追って購入したのでした。

それで聴いてみたところ、ここでも凡庸な印象は受けず、十分な聴き応えの感じられるブルックナーでした。しかし先日の6番の演奏から計ると、正直どうも全体から受ける感銘が落ちるような気もするのです。

先に聴いた6番と同様、今回の9番も全体的にディテールを重視したような、明晰なハーモニーの組上げの中から、純音響的なドラマを描き出すというような、カンブルランの基本理念の伺える演奏だと思いますが、ことアゴーギグの運用面では6番のそれと、少なからぬ相違が認められるようです。というのも、こちらの9番では速めのテンポを基本とした上で、リタルダンドや長めのパウゼを駆使しながらの、かなりテンポの出入りの多い解釈となっているからで、先に聴いた6番の方はテンポの出入りの少ない高速緻密型の解釈であっただけに、それと同じような演奏だと思っていた私は、ちょっと面喰ったのでした。

そのあたりが長短含めて、この演奏のひとつの特徴となっている感があり、聴いていて確かに、木管の繊細なフレーズの処理ひとつ取ってもキメ細かい感じがする反面、テンポが随所で何かぎこちないというか、例えば第1楽章の、第3テーマ(8:03)からの細かいテンポ・ルバートなど、解釈が斬新というより、私には少し場違いのような違和感が先立つように思えます。それは何かノーブルな気取りのように聴かれなくもないのです。

また終楽章における、いくつかの強奏部で、トランペットを異様なくらい強く響かせるバランスとなっている点も聴いていて引っ掛かりました。それらがギラついた感じに聞こえ、神々しさよりもケバケバしさが優位に立ち、ちょっとどうなんだろうと思われたのでした。

あらためて思うに、このカンブルランのブルックナー9番では、全体的にテンポ運用や管のバランスなどに自己流とも言うべき解釈が目立ち、それが音楽に一定の起伏的な効果を与えて斬新な印象を纏わせることに寄与しているとしても、それらが今一つ真実味というか、ある種の迫真に欠ける表現ではなかったかという疑問も、最後まで拭えませんでした。そこにはブルックナーに対する思い入れの強さというのとは何か違う、自己の解釈に対する、何か過剰な陶酔のようなものが聴かれるように思われるのです。

ただ、そういう風に私が思うのも、このカンブルランのCDの直前にリリースされた、スクロヴァチェフスキー/読売日響の昨年10月23日東京芸術劇場でのブル9のライヴが迫真を極めた超絶的名演であったため、そちらの印象に引き摺られて、結果こちらのカンブルランのブル9の印象を不当に弱めてしまったからなのかも、という気も正直します。ので、もしカンブルランのブル9の方を先に耳にしていたなら、また印象もガラッと変わっていたかも知れません。

そういうわけで、このカンブルランのブルックナー9番は、その完成度、出来栄えとは裏腹に、私に取って少し違和感の残る演奏であり、確かにユニークな解釈とは思われるものの、その出所が引っ掛かって、ぎりぎりのところで、もう一つ訴えてこない演奏だったな、という思いも残りました。

引き続き、新国立劇場のドニゼッティ「愛の妙薬」の感想


昨日に引き続き、新国立劇場のドニゼッティ「愛の妙薬」の感想です。

2010-4-19

つまり、演出において「本のなかで起こる」オペラとして規定したのは、もしかして「これは現実の話では有り得ない」という点を強調したい狙いもあったのかな、と観ていて思ったのです。

というのも、このオペラはストーリーにリアリティが希薄なので、もう徹頭徹尾ファンタジーに仕立てました、みたいな、良い意味での思い切りの良さ(開き直りと言ってもいいかも知れないですが)があり、その結果として何かバラ色の空想世界を観るような幸福感を観客に味わってもらいたいと、そういうことではないかと感じられたからです。

このオペラのストーリーで最も滑稽というか痛快なのは、ドゥルカマーラが何の変哲もないワインを妙薬だと偽っておいて、結局そのウソに、最後まで村の誰ひとり気が付かずに幕切れになる点でしょう。なぜなら、ネモリーノが2つめの妙薬を買って飲んだ絶妙のタイミングで、ネモリーノが大金持ちになるというウワサが広がり、それで村中の女性から引っ張りだこになるからで、ハタから見ると確かに妙薬が効いたとしか思えない。

だから、そういったあたりの「有り得ない」展開を推し進めていくと、ああいう感じのファンキーな演出もアリだなと、そんな風に思ったのでした。

ところで、そのあたりのファンキーな演出手法という観点では、この「愛の妙薬」の演出は今年の春先に観たワーグナー「ジークフリート」のキース・ウォーナー演出とも、表面的には似ている感じがします。

しかし、ここではドゥルカマーラというキャラクターの、ある種のいかがわしさというか、胡散臭さみたいなところを巧く強調したのが演出的に奏功しているような気がするのです。

そのドゥルカマーラが最初に登場するシーンで、村人が全員、空を指さして驚いていました。ドゥルカマーラって馬車で登場するはずなのに、変だなと思って見ていると、なんとプロペラ機に乗ってドゥルカマーラが颯爽と登場するのです。

それが道化師みたいな滑稽な恰好をしていて、二人のコンパニオンを従えて村人にインチキな薬を売りつけに掛かります。このコンパニオンもすごくて、あろうことか指揮者にまで薬を売りに行くのですね。第2幕が始まる時に、パオロ・オルミが指揮を開始しようとすると、おもむろに先ほどのコンパニオンが寄ってきて、オルミに薬を売りつける。するとオルミが金を払って薬を買ってしまう、というユニークなひとコマ。間接的にですがオペラの物語に指揮者が参加するという趣向で、なかなかに面白かったです。

だいたい一介の商人が飛行機を乗り回せるほどに文明が発達しているのに、村の誰もが「妙薬」の効能の有り得なさを疑わないなんて、おかしくないか、、、そんな疑問も「本の中の出来事」ゆえに封殺されるのでしょう。何かズルい気もしますが、それゆえに「余計なことは考えなくてよろしい、とにかく楽しみなさい」という雰囲気が充満するのですね。

これに対して「ジークフリート」のキース・ウォーナー演出って、何だか全キャラクターが胡散臭かったので(笑)、どこに焦点が絞られているのか、ひいては何が言いたいのか、そのあたりが判然としない演出で、演出の方向性とドラマの方向性とが協調していない印象があったのですね。あと、演出自体も何か胡散臭いなあと、いう気がしたりとか、、

以上いろいろ書きましたが、今回の「愛の妙薬」でのチェーザレ・リエヴィ演出には、このオペラ本来の滑稽味が拡大投影されたような幸福感があり、あるいは観る者を腹の底からの笑いに誘うようなユーモアがあり、はたまた妙な「重み」を纏わせない潔さがあり、そういうところに好感が持てました。確かに「軽い」演出で、深みに乏しいという意見も出そうですが、このオペラに対しては少なくとも調和のとれた「軽さ」と思えましたし、その限りで良く練られてバランスのいい演出だったなと思います。

新国立劇場のドニゼッティ「愛の妙薬」の感想


昨日(4/18)の新国立劇場、ドニゼッティ「愛の妙薬」の感想です。2回に分けます。

2010-4-19

ネモリーノ役ジョセフ・カレヤ:
「はまり役」という感じで、惚れぼれするような歌唱でした。初めて聴く歌手でしたが、何となくパヴァロッティみたいで、高音域の表現力が凄いのですね。タイプとしては典型的なリリック・テナーで、おそらく重い声は出せないのでしょうが、少なくともドニゼッティには最適みたいな感じでした。安定感のある発声から繰り出される、伸びやかでブリリアントな高音が素晴らしく、特に「人知れぬ涙」は、このアリアとしては最高とも思えるような歌唱を堪能させてくれました。

アディーナ役タチアナ・リスニック:
ネモリーノ役カレヤの夫人なのだそうで、主人公とヒロインを演ずる歌手が御夫婦なんですね(第2幕のフィナーレで「ベルコーレ、ご覧のとおり彼は私の夫よ」と叫ぶところは、すごい説得力?でした)。リスニックは「フィガロの結婚」スザンナを得意とする歌手とのことですが、聴いた限りでもスブレット風の軽い歌い方だなという印象で、かなり小回りのきく、クレバーな歌唱力の持ち主だと感じました。ただ情感的には、もう少し踏み込んで、第1幕での悪女がかった性格とか、第2幕終盤での憑き物の落ちたような表情だとか、もっとドラマティックに印象づけるという手もあったと思いますが、、さすがに夫婦ということで、少し衒いもあったのかもしれませんが、聴いていて少し表情がよそよそしいな、と感じられなくもありませんでした。

ドゥルカマーラ役ブルーノ・デ・シモーネ:
ドゥルカマーラは、この演出では滅法うさんくさいキャラクターに仕立てられていましたが、そのあたりの「味」が歌唱面でも演技面でも良く出ていて、文句なく面白かったです。シモーネは特にドニゼッティとロッシーニの方面のスペシャリストとのことですが、独特のリズム感のようなものが歌い回しに出ていたように思います。やっぱりドゥルカマーラはイタリア人の歌手が歌ってこそ味が出るのだなと聴いていて感じました。

パオロ・オルミ指揮の東京フィルの演奏:
全体に淡々と進めているようで、結構アンサンブルに細かい起伏が与えられていて、音楽が決して一本調子にならず、決めるところは確実に決める、そんな演奏でした。音勢に頼らない構成力など、聴いていて、なかなか味のある演奏だなという感じがしました。コミカルなフレーズでは、その感触をそのまま曝け出すような絶妙な呼吸のフレージングが聴かれたり、このオペラに対する指揮者の理解の深さ、説得力のようなものが率直に伝わってくるようでしたし、東京フィルも、そのあたりの機微を良く掬い取った、巧みなアンサンブル展開を披露していたと思います。

チェーザレ・リエヴィの演出:
何だか観ていて問答無用に面白い演出でした。別に大したことないと、言う人は言うのかも知れないですが、、、

ロビーで購入した公演プログラムに、演出に関してのリエヴィの談話が掲載されていました。それによると、この演出のキーワードは「本」であり、「本」をメタファーとして使い、時代や場所は特定しないで、本のなかで起こる象徴的な世界を創る、という方針にのっとった演出とのことです。

実際、ステージの両脇には巨大な本が3冊ずつ並んでおり、その背表紙には「トリスタンとイゾルデ」の文字が見えます。舞台装置も妙薬「ELISIR」の6文字を、柱や椅子やバルコニー等に見立てたファンキーなもので、まるで本の中の世界を見るような、ファンタジックな景色が展開されていくのです。

これは観ていて、なるほど「本のなかで起こる象徴的な世界」という雰囲気を思わせるものですが、もともとオペラの物語の発端というのが、一冊の本「トリスタンとイゾルデ」であることから、要するに本の中の住人が本の内容に酔いしれている、というメタ構造を帯びた世界が呈示されていることになるのでしょう。

こうして「本のなかで起こる」オペラとして規定されることにより、スペインの田舎の農村という台本の設定に縛られることなく、演出の自由度が増し、やりたい放題に近い演出すらも可能になる、、、このメタ構造には、そんな演出家の意欲が込められているように思うのです。

ただ、それとは別の意図もあるのかもしれない、という気もします。

以下、後日に続きます。

新国立劇場のドニゼッティ「愛の妙薬」(4/18)


今日は新国立劇場でドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」を観ました。

2010-4-18

指揮はパオロ・オルミ、オケは東京フィル、歌手は以下の陣容でした。

アディーナ:タチアナ・リスニック
ネモリーノ:ジョセフ・カレヤ
ベルコーレ:与那城 敬
ドゥルカマーラ:ブルーノ・デ・シモーネ
ジャンネッタ:九嶋香奈枝

思った以上に楽しい舞台でした。歌手もオケも良かったですし、チェーザレ・リエヴィの演出がとても面白くて、観ていて腹の底から笑えるような舞台の場景に、すっかり惹き込まれました。

こと観客を笑わせるという趣向だけなら、春先に観た「ジークフリート」の演出と少し似たような雰囲気も感じましたが、その「ジークフリート」のキース・ウォーナー演出にはそれほど関心が湧かなかったのに、今回の「愛の妙薬」は何だか観ていて素直に楽しめる演出でした。

何が違うのか?、、そのあたりも含めて、感想は改めて後日に出します。

余談ですが、今日の公演を観ていて改めて思ったんですけど、このオペラのドゥルカマーラって、やっぱり面白いキャラですね。

特に「この薬は飲むと誰でも必ず愛が成就する『妙薬』なのです」なんて言うあたり、「このCDは聴くと誰でも必ず感動する『名盤』なのです」なんて言う人みたいで、何か面白いなと観ていて思ったりしました。

ルイ・ド・ベニエールの小説「コレリ大尉のマンドリン」の感想


コレリ大尉のマンドリン
 ルイ・ド・ベニエール著・太田良子訳
 東京創元社
corellis-mandolin

昨日に引き続きルイ・ド・ベニエールの小説「コレリ大尉のマンドリン」についてですが、今日は私なりの感想を書きます。

まず読み終えて驚かされた点は、長編小説としての構成が優れていることでした。一見すると散漫な進め方のようで、振り返ってみれば実は緻密に伏線が張り巡らされていて、後のほうになって、あれはああいうことだったのか、ということを思い知らされるのです。

ただ、前半あたりは少々しんどかったというのが正直なところです。何より、誰が「主人公」なのかがハッキリしないのですね。「コレリ大尉のマンドリン」というタイトルからして、コレリ大尉が主人公だろうと思って読んでいると、彼は中盤まで登場せず、200ページを過ぎたあたりで、ようやく小説の舞台に出てくるのですが、しかしラスト100ページでは再び姿を消してしまい、小説の完結間際になって漸く再登場を果たす、という按配です。

こういったことから、この小説の真の主人公はコレリ大尉ではなく、実はキリア・ペラギアというギリシア女性なのだなと、読み手は途中で気づかされるのです。要するに、本書はギリシアの激動の時代に活きた、一人のギリシア人女性の伝記のような小説だったのです。

そもそも本書の中心軸として設定されているのが、イタリア軍の大尉としてギリシア占領の役務に服するため、ケファロニア島に来たアントニオ・コレリ大尉と、その島で育った娘キリア・ペラギアとのロマンスである以上、本書を単純な恋愛小説として読むこともできるのですが、やはりジャンルとしては「文学」というのが妥当で、かなり多様なテーマを内包する、複面的な内容となっています。

例えばギリシャという牧歌的な小国家が、欧米の軍事的列強諸国の餌食になる過程を描いた、壮大な歴史小説とも読めますし、文学の本分ともいうべき、極限状態における人間性の赤裸々な描写というあたりも、きっちりと含まれています。ただ最終的に行き着くテーマは、おそらく人間賛歌ということになるのだと思います。

そして、その中において見え隠れするのが、「いかな絶望の淵にあっても、人は音楽によって救われる」という作者の強い主張なのです。

とはいえ、そういう主張を、お題目の如くあからさまに唱えたならば、おそらく読み手は白けてしまうでしょう。この小説の巧いと思うところは、それをあくまで寓意のレベルに留めていること、にあるのです。それを全面に押し出すことは決してしないで、ほんの隠し味ていどに留めている、、、

実際この小説のストーリーというのは、史実の占める割合が極めて高く、ゆえに独特のリアリティが充溢しています。

読んでいて、唯一ウソみたいだと、私が感じたシーンというのが、物語の中盤、コレリ大尉を含むイタリア軍の小隊が、ナチス・ドイツのギリシア駐屯部隊の手により銃殺されるシーン。ここでコレリ大尉だけが奇跡的に一命をとりとめる、というくだりがあり、また随分ご都合主義な話だなと思ったのですが、そのくだりは何と史実であって、そもそも実際に同じような状況で一命をとりとめた当時のイタリア人兵士の存在が、この小説の書かれた動機のひとつとされていたのです。

そうなってくると、この本に書かれていることが、すべて本当のことのようにすら読んでいて思えてくるのですね。細部の描写なども妙に凝っていることも含め、こういうことが「ありそう」というムードが濃密に立ち込めている。ロマンスとしての性格が強いのにもかかわらず、決して読み手の涙腺をゆるませようという小賢しさが感じられない、徹底的にリアルな視線で、過酷な運命に抗う人間の生き様が活写されているので、そういったリアルな記述の蓄積から、読んでいて反動的に涙腺がゆるんでしまうような、そういうタイプの小説なのです。

以上、なんだか纏まりのない感想になってしまいましたが(本の感想って、難しいのですね)、これは色々な意味で読んで得るところの多い小説だったなと思います。

確かに前半から中盤までは、どのファクターを中心に読めばいいのか、少し分かりにくいのですが、それが明確になる後半から終盤までの流れは、もはや圧巻ともいうべき面白さでした。

ルイ・ド・ベニエールの小説「コレリ大尉のマンドリン」の概要


コレリ大尉のマンドリン
 ルイ・ド・ベニエール著・太田良子訳
 東京創元社
corellis-mandolin

ルイ・ド・ベニエールの小説「コレリ大尉のマンドリン」についてですが、まず今日は概要について書き、感想については後日に書きます。

この小説の概略に関しては一昨日も少し書きましたが、もともと1994年にイギリスで刊行されたところ、社会現象と言われるまでの大ヒットとなり、現在まで世界26か国に翻訳されている世界的なベストセラー小説で、その大まかなストーリーは、ギリシアのケファロニア島という、イオニア海に面する小島を舞台として、1940年初頭から1990年代までの約50年に渡って繰り広げられる壮大な人間ドラマです。

具体的に、この小説がどのような内容であるかにつき、これ以上ないと思える記述が単行本のあとがきにありますので、それを転記します。

 イオニア海に浮かぶギリシアの小島を舞台にしたこの小説「コレリ大尉のマンドリン」も、地中海への憧れと情熱を強調した一連の作品の系列につながるように見える。若い貧しい漁夫と医者の娘との恋など、冒頭の部分だけを読むと、「ダフニスとクロエ」や三島由紀夫の「潮騒」もどきの、素朴な牧歌的ロマンスの2番せんじと思いたくなる。
 だが、その後に第二次世界大戦の残酷な現実が、浮世離れした桃源郷と思えた小島に襲いかかる。ファシスト政権下のイタリアの軍隊の侵入・占領。さらにナチス政権下のドイツ軍隊の侵入。ギリシア人によるレジスタンス地下活動。彼らを援助するかのように見せかけたイギリス軍の卑劣な欺きと裏切り。大戦末期にイタリアが単独降服すると、ドイツ軍によるイタリア軍人の冷酷な大量殺戮(これは現実にあったことで、作者は事実を丹念に調べ上げた)。ドイツが降伏した後に、今度は共産党パルチザンの内ゲバ。そして、最後に1953年の地震による大災害。
 人間がこれほど残酷・卑劣になり得るのかと思わせるような描写が、これでもか、これでもかと積み重ねられる。人間絶望の書かと思いたくなるのだが、本書を読み終えての(少なくとも私の)感想は、不思議なほど明るい、肯定的なものだった。
 ひとつには、イタリア占領軍の隊長コレリ大尉の性格による。・・どこか憎めない、あっけらかんとした明るさ(図々しさと言ってもよい)がある。その上彼はマンドリンの名人で、占領地の民心を掴もうとアマチュア音楽グループ(その名が「スカラ座」とは何たる図々しさ!)まで結成する。・・

     小説「コレリ大尉のマンドリン」あとがきより

実際、ここでいうコレリ大尉の楽天的でユーモラス、そして音楽好きな性格というのが独特であって、この小説のムードのようなものを大きく支配するまでの異彩を放っているのです。

例えばコレリ大尉は小説の中で、イタリア軍ギリシア駐屯部隊のメンバーで構成されたアマチュア音楽クラブ「スカラ座」を主宰するのですが、その音楽クラブの規約というのが、またユーモラスです。

・ドニゼッティの方がヴェルディよりも上だと主張してやまないものは女装することとし、中隊とその砲列の前でおおやけの見せ物になり、頭には鍋をかぶり、さらに度が過ぎる場合は、「フニクリ・フニクラ」を歌うか、あるいはアントニオ・コレリ大尉が時に応じてこれと名指しした鉄道関係の歌曲をうたうこと。

・すべからくワーグナー・マニアは裁判なしに一も二もなく銃殺することとし、控訴はいっさい認めない。

          小説「コレリ大尉のマンドリン」より

あるいは、コレリ大尉がナチス・ドイツのギリシア侵攻軍指揮官ウェーバー中尉と邂逅するシーンなどでも印象深い記述が見られます。

 コレリは率直な若い顔を見て、彼に好感を持った。開放的で親しげだったのだ。「ハイル・ヒットラー」とウェーバーが言って片方の手をさしのべた。コレリは、「ハイル・プッチーニ」と言って同じようにした。
・・・「きみはかの偉大な作曲家のご子孫ではあるまいね?」コレリがきくと、ドイツ人は「私はウェーバーと言ったので、ワーグナーとは言っていません」と答えた。
 大尉は笑った。「ワーグナーは偉大な作曲家じゃないよ。やりすぎなんだ、荒れ狂っていて、もったいぶりやがって、威張りくさってる。そうじゃない。私が言うのは、カール・マリア・フォン・ウェーバーのことさ、『魔弾の射手』を書いた人だ。それにクラリネット協奏曲を2つと、交響曲ハ長調も書いた」
 ウェーバーは肩をすくめた。「残念ながら、シニョール、その人のことは聞いたこともありません」
 「きみはきみで、かの偉大な作曲家のご子孫ですかと、私に質問する立場じゃないのかな」コレリはそう言って、笑いながら待った。ウェーバーがまた肩をすくめたので、コレリが助けてやった。「アルカンジェロ・コレリでしょ?『合奏協奏曲(コンチェルトグロッソ)』は?きみは音楽愛好家じゃないね?」
 「ちがいます、私が好きなのは・・」
 中尉は口ごもり、考えてみれば、本当に好きなものはなかった。・・
          小説「コレリ大尉のマンドリン」より

ところが面白いことに、コレリ大尉は小説のタイトル・ヒーローであっても「主人公」ではないのです。

そのあたりも含めて、本書に対する私なりの感想を次回に出します。

今井信子とヴィニョールズのデュオによるブラームスの2つのヴィオラ・ソナタ


ブラームス ヴィオラ・ソナタ第1番、第2番
&シューマン おとぎの絵本 
 今井信子(va) ヴィニョールズ(pf)
 シャンドス 1987年 CHAN8550
CHAN8550

昨日の更新をもって、ようやく「シャンドス30周年BOX」収録盤30枚の感想記の掲載を満了しました。

このボックスセットを購入したのは、当ブログの過去記事を見ると昨年の3月6日でしたが、そのあと最初の1枚目を聴いた感想を出したのが昨年の4月22日、、、結局ほぼ1年かかりました(というか、さすがに1年越えはマズイと思って今週、何とか終わらせたのですが、、)。

内容が拙いのはともかくも、また随分と時間が掛かってしまったものだと、我ながら呆れる思いです。

たかだか30枚のCDの感想を出すのに、どうしてこんなに遅くなってしまったのか、改めて考えてみると2つ理由があります。

ひとつには、やはり私の中で優先順位というのがあり、できるだけ新譜盤(と、それに関連するCD)の感想を先に出したいのですね。新譜というのは時間が経つと新譜でなくなりますので。

もうひとつには、30枚の収録盤の内容が何というか、少しマニアがかっているというのか、ちょっと一筋縄ではいかないようなディスクが割合と多かったため、私としても感想を書く上で、何かと調べたりする必要が出てきて、すんなりと行かなかった、ということもあります。それは単に私の知識不足ゆえですが、、

そんなこんなで、ダラダラと延びてしまったのでした。でも、ともかく全30枚の「感想」を「完走」できてホッとしています。必ず完走すると言った以上は、やらないといけないですよね。

正直このボックスセットは、値段の安さもあり、当初は混交玉石を覚悟で購入したものでしたが、フタを開けてみると驚くべきCDが次から次へと飛び出してきて、今にして思えば宝石箱のようでした。

結果として多くの掛け替えのない録音に巡り合えましたし、普段あまり聴かないジャンルのディスクにもいくつか接することができたのも新鮮な体験でした。こういう安価で良質なボックスセットのリリース企画が、他のレーベルにも波及するといいですね。

ただ敢えて言うなら、この30枚の中に日本人の演奏家のディスクが一枚も含まれていなかったことが、残念と言えば残念でした。

それで、もし私が入れるなら、と考えた場合、真っ先に思い付いたのが、私の愛聴盤である今井信子とロジャー・ヴィニョールズのデュオによるブラームスの2つのヴィオラ・ソナタのCDです。若き今井信子のひたむきなアプローチがブラームスの楽想に真っ直ぐに反響したかのような、飽きのこない名演だと思います。

「コレリ大尉のマンドリン」~ルイ・ド・ベニエールの小説からの音楽


「コレリ大尉のマンドリン」
-ルイ・ド・ベニエールの小説からの音楽 ―
 オグデン(ギター)、スティーヴンス(マンドリン)
 1999年録音
ANNI-30

「あまり知られていないけど、偉大な作曲家の多くがマンドリン用の曲を書いています。ヴィヴァルディやフンメルだけじゃない、ベートーヴェンだって書いているんだから。」
「ベートーヴェンもねえ。」
 ペラギアはくり返した。神秘と畏怖と神話に包まれたその名が、人間が達成できる限界を意味することまではわかっても、それ以上の意味はない名前だった。ベートーヴェンと言われても、彼の音一つ聞いたことがなかったからだ。全能の天才の名という認識があるだけだった。・・・

          小説「コレリ大尉のマンドリン」より

「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に29枚まで掲載してきましたが、今回は最後の一枚となるCD30について書きます。

収録曲は、以下のとおりです。
①ヴィヴァルディ:協奏曲ハ長調RV.425
②フンメル:マンドリン協奏曲ト長調よりアンダンテ
③ジュリアーニ:大ソナタOp.85
④ペルシチーニ:ポルチャ・バリアータ
⑤カラーチェ:愛はゆりかごOp.133
⑥パルンボ:小ボレロ
⑦サグレラス:はちどり
⑧ヴィラ=ロボス:ショーロ第1番、前奏曲第1番
⑨ラウロ:4つのベネズエラ風ワルツ
⑩バリオス:悲しみのショーロ、蜂
⑫リョベート:聖母の御子、アメリアの遺言、先生
⑬作曲者不詳:私の悲しみ
⑭ロメロ:アンダルシア組曲よりソレアレス
⑮トゥリーナ:タレルガ讃Op.69よりソレアレス

以上の作品がそれぞれクレイグ・オグデンのギター演奏、またはアリソン・スティーヴンスのマンドリン演奏により収録されています。

このアルバムのコンセプトはイギリスの小説家ルイ・ド・ベニエールの手による4つの小説(「コレリ大尉のマンドリン」および南米3部作)に関連する、マンドリンおよびギター音楽をピックアップし、一枚のディスクにまとめた、というものです。

その「コレリ大尉のマンドリン」という小説は、ルイ・ド・ベニエールの(南米3部作に続く)4作目の長編小説なのですが、これが1994年にイギリスで発表されるや社会現象と言われるまでの大ヒットとなり、現在まで世界26か国まで翻訳されているという驚異的なベストセラー小説です。

つまり本ディスクは、同小説のいわばサウンドトラック的な位置づけにあるもので、まずその小説を読んでから聴いた方がいいのではと思い、それをアマゾンで取り寄せて読了しました。

このCDは、それ自体としてはロマンティックで甘くて感傷的なムードの演奏が、たゆまなく延々と流れていく、という風で、それはいいとしても、やはりメリハリ不足というのか、同じような風景が連続する鈍行列車の車窓を眺めているような感じであり、もし何の思い入れもなく聴いていたなら、おそらくは途中でウンザリしただろうなと思います。

ですので、私が当該小説を読まずに、このCDを聴いていたとしたら、おそらく特に強い感慨も湧かなかったのだろうと思うのですが、その小説を読んだ今の耳でCDの演奏に耳を傾けると、小説の雰囲気のようなものが頭の中に巻き戻されてきて、それにより何とも言えない気分になるのです。

例えば、④のペルシチーニ「ポルチャ・バリアータ」を聴くと、小説中の以下のようなシーンが回想されます。

・・・「そうだ、ポルカを弾いてあげる。ペルシチーニの曲です。」
 彼はマンドリンをかかえなおし、音符を二つ弾いた。・・・二つの音符をリタルダンドでゆっくりと弾き、さらに八分音符の和音を四つ奏でると、いきなり休符と一六分音符二つを使った一小節をまじえて聞き手をまごつかせ、そのまま単音と和音が入り乱れた一六分音符の高速パッセージに突入したので、ペラギアは度肝を抜かれた。これほど巧みな演奏を聴いたこともなかったし、これほど驚異に満ちた曲目があることも知らなかった。小節のあたまにとつぜん華やかなトレモロが入るかと思うと、テンポは変わらないのに音楽がためらい、速度は変わらないのに半分に減速したり二倍の速さに聞こえた。中でも最高だったのは、音のピッチがあまりにも高いので、勢いよく音階を下っても音が落ちるような感じはなく、響きのいいバスの音に落ちたと見る間に低音部と高音部が甘く交互に響くのだった。踊りだすか、ふざけて遊びたくなるような音だった。・・・大尉は最初の部分をもう一度くり返し、最後をスプレッド・コードで締めくくったので、いきなりおとずれた静寂に、ペラギアは何かを奪われたような気がした。・・・

          小説「コレリ大尉のマンドリン」より

そういうわけで本CDは、おそらくルイ・ド・ベニエールの小説を読んだ者が、その余韻を噛み締めるために製作されたアルバムなのでしょう。

以上をもって「シャンドス30」ボックスセット全30枚の感想記は終了です。これについては後日、私なりの総括のようなものを出します。

なお、小説「コレリ大尉のマンドリン」の感想についても後日に出します。

ブリュッヘン/18世紀オーケストラによるバッハのロ短調ミサの旧録音


J.S.バッハ ミサ曲ロ短調
 ブリュッヘン/18世紀オーケストラ
 フィリップス 1989年ライヴ PCD39-40
PCD39-40

一昨日の補足というわけではないですが、フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラのバッハ・ロ短調ミサの、20年ぶりの再録音を聴いたら、何だか旧録音についても書きたくなりました。

こちらの旧録音は、一昨日も書きましたが私にとって長く、バッハ・ロ短調ミサの愛聴盤のひとつでした。1989年3月、オランダのユトレヒトでのライヴ録音で、ちょうどベルリンの壁が崩壊する年に、18世紀オーケストラが激動のヨーロッパ各地でバッハのロ短調ミサを演奏を行った、その総決算としての録音になります。

合唱はオランダ室内合唱団、独唱陣はソプラノがジェニファー・スミスのみ(再録音では二人)、アルトがカウンターテノールのマイケル・チャンス、テノールがニコ・ファン・デル・メール、バスがハリー・ファン・デル・カンプという陣容でした。

バッハのミサ曲ロ短調の、ピリオドアンサンブルによる録音としては、1985年録音のレオンハルト/ラ・プティット・バンドとガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、翌86年録音のアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスに次ぐ、4番手ということになるようですが、ピリオドアンサンブルによるライヴ録音としては、このブリュッヘン盤が史上初と思われます。

そのあたりの、スタジオ録音とは一味ちがったライヴの空気のようなものが好きで、私は気に入っていたところもあるのですが、純粋な演奏内容としても、何か激動の時代情勢までも伝わってくるような、アグレッシヴでヴァイタリティの豊かなアンサンブル展開に魅了させられますし、そのアンサンブルの能動性がバッハの音楽を少しも阻害しないのにも驚かされますし、いずれにしても聴き終えて圧倒的な高揚感に浸されるような、まさにロ短調ミサ稀代の名演のひとつではないでしょうか。もっとも、それは私などが今更ゴチャゴチャ書くまでもない話かも知れないですが、、

一昨日ブログで取り上げた新録音との主だった違いとしては、こちらの旧録音ではピリオド・アプローチの特性が、ほぼ全開状態にある点ではないかと思います。もちろん新録音とて、ヴィブラートなどは控え目ですし、ガット弦から繰り出されるフレージングのシビアさなども、ピリオド風と言えなくもないですが、たとえそうでも今回の新録音は、何というか自然体としての熟成された音楽の味わいがあり、それがピリオド感を薄めているように私には聴こえるのです。

そういうわけで、新録音と旧録音とでは、随分と趣きが異なります。従って、どちらが優れているかという視点も無意味なのでしょう。

以下は蛇足ですが、一昨日の更新で、今回リリースのブリュッヘン/18世紀オーケストラのバッハ・ロ短調ミサの新譜には編集ミスではないかと思える箇所が一つあったと書きましたが、いちおう簡単に触れておきます。

今回の新録音は、CDのトラック割りで、第19曲の最後のアダージョ楽節「死者のよみがえりを待ち望む」が、第20曲(第2部「ニケア信経」の終曲)の頭に編入されているのです。この編入の仕方は旧録音とも違ってますし、どうも編集ミスではないかと思ったのでした。

ブリュッヘン/18世紀オーケストラによるバッハのロ短調ミサの新録音


J.S.バッハ ミサ曲ロ短調
 ブリュッヘン/18世紀オーケストラ
 Glossa 2009年ライヴ GCD921112
GCD921112

Glossaより先月リリースされた、フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの演奏によるバッハのロ短調ミサの最新録音を聴きました。

2009年4月のワルシャワでのコンサートのライヴ録音で、合唱はカペラ・アムステルダム、独唱陣はソプラノがドロテー・ミールズとヨハネッテ・ゾマー、アルトがパトリック・ファン・ゲーテム、テノールがヤン・コボウ、バスがペーター・コーイという陣容です。

これはブリュッヘン/18世紀オーケストラのバッハ・ロ短調ミサとしては2回目の録音となり、1989年にフィリップスに録音した旧録音から実に20年ぶりの再録音ということになります。

その旧録音は私にとって長くバッハ・ロ短調ミサの愛聴盤のひとつだったこともあり今回の新録音には興味津々で、さっそく購入して聴いてみたところが、その演奏の醸し出すバッハの音楽の深々とした佇まいというのが筆舌に尽くし難いほどに素晴らしくて聴き終えて言葉もありませんでした。

このバッハ・ロ短調ミサにおけるブリュッヘン/18世紀オーケストラの演奏に対しては、第一級の完成度の高さとか磨き抜かれた響きの美しさとか、そんな浅薄な言葉では全く間に合わないくらいの、何か音楽の尋常ならざる生命力が全編に弛緩なく漲っているように感じられますし、そこには、この演奏に懸けるブリュッヘンの尋常ならざる気迫のようなものがヒシヒシと伝わってきて圧倒される思いですし、それが遂には音楽の核心にまで到達してしまったかとさえ思えるような、バッハ演奏としての一線を越えたかのような凄味、説得力、のようなものが聴いていて激しく胸を打つ、そんな演奏でした。

これは一体なんという演奏だろうかと深い感動のうちに演奏に耳を傾けていると、ちょうど昨年の同じ時期、同じようにバッハのロ短調ミサの最新録音に耳を傾けて今回と同じように深い感動に沈んでいた自分を不意に思い出しました。

それというのはミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルによるバッハのロ短調ミサの最新録音で、ちょうど昨年の今頃の時期に聴いて大いに感動し、その感想をブログに書き、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009」において同じ顔合わせで予定されているバッハ・ロ短調ミサの公演を楽しみに待ちたい、と書いていたのでした。

その感想を改めて読み返してみると、私は次のようなことを書いていました。・・このコルボのロ短調ミサは、演奏手法としては近年まれにみるほどにオーソドックスなもので、この曲の演奏において主流の古楽的なアプローチも殊更に強調されてはいませんが、オーソドックスであるがため、演奏主体が作品に込めた真っ直ぐな情感が聴いていてダイレクトに感得されるような趣きがあり、いわく形容しがたいほどの素晴らしい余韻をもって全曲を聴き終えました・・

自分で書いたことながら、これを読んで少しビックリしました。というのも今回のブリュッヘン/18世紀オーケストラのバッハ・ロ短調ミサの新譜を聴いた私の印象と全く同じだったからです。

もちろんローザンヌのアンサンブルと違って18世紀オーケストラはピリオド・アンサンブルですが、この曲の演奏において主流の古楽的なアプローチが殊更に強調されてはいないという点では同じではないかとも思えます。どちらも自然体の構えからバッハの豊かな楽想の実りだけが、この上なく鮮やかに浮かび上がる、そんな演奏なのですから。

今回リリースのブリュッヘン/18世紀オーケストラのバッハ・ロ短調ミサの新譜は、編集ミスではないかと思える箇所も一つありましたが、演奏自体は圧巻であり、その演奏に対しては、多分どんなに言葉を尽くしても足りないとさえ思えるほどでした。

シモーネ/トリノ放送響によるドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」全曲


ドニゼッティ 歌劇「愛の妙薬」全曲
 シモーネ/トリノ放送交響楽団
 フィリップス 1984年 PHCP-1386/7
PHCP-13867

今月、新国立劇場で上演されるドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」を観に行く予定です。その予習として今日はCDの全曲盤を一通り聴きました。

これはクラウディオ・シモーネ指揮、トリノ放送交響楽団の演奏による「愛の妙薬」全曲盤で、キャストはアディーナがリッチャレッリ、ネモリーノがカレーラス、ベルコーレがヌッチという強力な陣容です。

「愛の妙薬」はドニゼッティの代表作として名高いオペラですが、対訳を見ながら聴いていて改めて思ったのは、これってやっぱり特殊なシナリオのオペラではないか、ということなのでした。

一見たわいもない、定型的なシナリオに見えなくもないものですが、実はオペラとしては、かなり珍しい部類に属するシナリオではないかと思うのです。

要するにオペラ・ブッファなのに泣かせようとするのですね。人情に訴えて観客をホロっとさせようとする。このあたり、日本で言うところの人情ものに近い性格がありはしないかと私には思えるのです。

夏目漱石の小説に「虞美人草」というのがありますが、このオペラって、あれに似ているような気がします。似ていると言っても、筋立てとか人物設定などは全然ちがいますが、雰囲気が何となく似ている。とくにハッピーエンドの直前あたりで読み手を大きく泣かせようと誘導するあたりがソックリというか、、

漱石の「虞美人草」は、ストーリーとしては完全に人情ものですが、西洋のオペラで、この「人情もの」というカテゴリーに属するシナリオを有するオペラって、ほとんど無いのですね。少なくとも私は、このドニゼッティの「愛の妙薬」以外では、ちょっと思い浮かばないですし、、

確かに人情ものというのは江戸時代に端を発する日本文芸に特有のジャンルですので、それが西洋のオペラに見られないのは当然とも言えそうですが、しかし、そう考えるとドニゼッティの「愛の妙薬」は、かなり突然変異的なオペラかも知れないという気もしてくるのです。

もちろん、このオペラが音楽的に素晴らしいのは今さら言うまでもないですし、だからこそオペラ・セリアの名作「ルチア」と並ぶ、ドニゼッティの最高傑作としての評価を今日まで享受し続けていると思うのですが、このオペラの醍醐味には、音楽の良さというのに、シナリオの特殊性という要因も一枚噛んでいるような気がします。

70%オフのクリアランスセールでCDを渉猟


珍しく臨時更新です。別に大した話でもないですが、、

HMVのオンラインサイトで、昨日からCDのクリアランスセール全品70%オフというのをやっています。

これは「なくなり次第終了」だそうですが、ほとんど一点もののようで、実際すごい勢いでCD掲載数が減っているのですね。クラシック系だと昨日の夜には300点以上だったのに、今日の夜には50点ほどになっていますし、、

実は私も昨日10点ばかり選んで注文しました。まあCDが新品で70%オフというのは随分と安いですし。こういう機会でもなければ買わないかなというようなものを優先的に選んでみました。

2010-4-10

以上、10点で計11枚。このうち聴いてみて、これは!というようなCDがあれば、ブログで取り上げてみたいと思います。

ケンペ/ミュンヘン・フィルによるワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲


ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
&モーツァルト ピアノ協奏曲第27番
&ドヴォルザーク 交響曲第8番
 ケンペ/ミュンヘン・フィル、グルダ(pf)
 スクリベンダム 1972年ライヴ SC004
SC-004

先週サントリーホールで聴いたミュンヘン・フィルの来日公演の、余韻の残っているうちにと思い、当夜のアンコール曲だったワーグナーの「マイスタージンガー」前奏曲の、ミュンヘン・フィルによる演奏を収録したCDに耳を傾けました。

このCDは2001年にスクリベンダムから復刻リリースされたもので、ルドルフ・ケンペ指揮ミュンヘン・フィルが1972年11月にデュッセルドルフで行った慈善演奏会のライヴ録音です。「マイスタージンガー」前奏曲の他にフリードリヒ・グルダを迎えてのモーツァルトのピアノ協奏曲第27番、それにドヴォルザークの交響曲第8番が収録されています。なお、このCDは現在、残念ながら廃盤のようです

そして、この演奏が先週ナマで聴いたティーレマン指揮の演奏の雰囲気に、同じドイツ人の指揮者ということもあり、おそらく近いのではないかという気がしたのでした。しかし聴いてみると、確かに近いのですが、また微妙に違うような気もするというのが率直な印象なのです。

ところで、やはりドイツ人の指揮者がミュンヘン・フィルを指揮しての「マイスタージンガー」前奏曲の録音としては、押しも押されぬ古典的名盤があります。

WPCC-4187
ワーグナー 管弦楽作品集
 クナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィル
 ウェストミンスター 1962・63年 WPCC-4187

ハンス・クナッパーツブッシュの指揮によるウェストミンスター盤です。こちらの方も聴いてみたのですが、このクナッパーツブッシュ盤のマイスタージンガーも、ケンペ盤のそれとは別の意味で、ティーレマンの実演とは近くもあり遠くもあり、という感じなのです。

まずテンポ感ですが、これは私の印象だとケンペ盤が先週の実演に似ていると思います。というのも、ティーレマンの披露したテンポは胸のすくような快速調で、これは11分を掛けたスロー型のクナッパーツブッシュ盤より、9分半で駆け抜けるケンペ盤の方に明らかに近いものだったからです。

しかし、これが重低音の押し出しというか、アンサンブル下声部の張り出しの強さということになると、当夜のティーレマンの披露したマイスタージンガーはケンペ盤よりも、むしろクナッパーツブッシュ盤のそれに近しい雰囲気をまとっていたような気がするのです。

そうすると乱暴な話、ケンペ盤のテンポ感とクナッパーツブッシュ盤の重量感を足して2で割ると、当夜のティーレマンのマイスタージンガーになるのか、みたいな気もするのですが、そうは多分ならないという気もするのです。

というのも、ケンペ盤での掛け替えのない躍動感と直截な高揚力、クナッパーツブッシュ盤でのデンと構えた巨大な音楽のスケール感は、もし各々のテンポ感やアンサンブルの重心を動かした場合、容易に霧散してしまうと想像され、要するに固有値というか、そもそも変数のような足し引きという概念に馴染まないように思われるからです。たとえミュンヘン・フィルという共通項をもってしても、、

そういうわけで、当夜のミュンヘン・フィルのマイスタージンガー前奏曲をCDで追体験するという目論見は、どうやら難しそうだというのが一応の結論でした。もちろんティーレマン自身がミュンヘン・フィルを振ってワーグナーのアルバムをリリースしてくれれば話は別かもしれないですが、それは既にフィラデルフィア管と録音していますし、もうすぐドレスデンにポストが移ってしまうことも含めて、ちょっと無理そうですね。

ブログのカテゴリーに「読書間奏」を追加


ブログのカテゴリーに「読書間奏」というのを追加しました。

以前にも書いたことですが、ここまでクラシック音楽の感想一辺倒でやってきているので、もう少しテーマに広がりを持たせたいという気持ちがあります。

そこで、ちょうど今年が国民読書年であることに因んで、読書というテーマを考えました。

とは言いつつも、私は普段CDを聴き漁るのと同じ程度には、本を読み漁っているというわけではないので、やり方としては読み終えた本をその都度とりあげるという形ではなく、愛読書とか、これまで読んで面白かった本、感銘を覚えた本など、そういったものを自由にとりあげる、という形にしようかと思っています。

なにしろCDは年がら年中聴いていますし(聴かないと体調が悪くなりますし)、その感想をブログに書くにしても、思ったことを率直に書いているだけですから過度の負担もなく、実際それで今日までブログを運営できてもいるわけですが、読書ということになると、それと同じ仕方ではムリかなと思います。

一応このサイトのコンテンツの中心軸はCD感想記ですので、それは今後も変わりませんが、そこに随時「読書」関連の記事の掲載を、いわば「間奏」的にやってみようかと思う次第です。それゆえ読書感想ならぬ読書間奏としました。

具体的に何を取り上げるか、ですが、基本的には夏目漱石の小説と寺田寅彦のエッセイが中心になると思います(なお、これらは私の愛読書にして座右の書です)。漱石の小説は、もちろん全作品を取り上げるつもりですし、寅彦のエッセイは、特に素晴らしいと思うものを選んで取り上げたいと考えています。

それで余裕があれば他の作家に関しても、特に思い入れのある作品を中心に取り上げるなど、そういった感じになろうかと思います。

いずれにしても、本格的に始めるのは、おそらく来月のラ・フォル・ジュルネが一段落したあたりからになりそうです。CD感想と同様、あまり大したことは書けないと思いますが、宜しければ私の「読書間奏」にお付き合い頂ければと思います。

湯浅卓雄/大阪センチュリー響によるシューマン交響曲全集


シューマン 交響曲全集
 湯浅卓雄/大阪センチュリー交響楽団
 ライヴノーツ 2006年ライヴ WWCC7551
WWCC7551

4月に入ったのに気温がさほど上がらず、3月の終わりごろの真冬のような気温も含めて、あまり春らしくない状態が続いていた東京も、今日はポカポカ陽気となり、ようやく春めいてきたようです。

それで今夜は、湯浅卓雄指揮の大阪センチュリー交響楽団によるシューマン交響曲全集を取り出して、交響曲第1番「春」の演奏を聴くことにしました。

これはシューマン全集における私の愛聴盤のひとつで、2007年にリリースされたCDです。神戸新聞松方ホールでのライヴ録りで、シューマンの4曲の交響曲に「序曲、スケルツォとフィナーレ」を加えた5曲が収録されています。

これらの演奏は2006年に録音されていますが、ライナーノートには、このCDが「おそらく現時点において史上初となる、日本人指揮者によるシューマン交響曲全集」であると書かれています。

最初この記載を見たとき、ビックリしたとまでは言わずとも、ちょっと意表を突かれたような気がしたのを覚えています。というのも、まさかシューマンの交響曲全集を、2006年に至るまで、日本人指揮者が誰一人として録音していないなんて思わなかったからで、「本当にそうなのか?」と考えてしまったくらいでした。

そう言われてみると、例えば小澤征爾などは、彼の広範なレパートリーからすると意外なことにシューマンの交響曲全集の録音には着手していなかったと思いますし、小林研一郎、あるいは故・朝比奈隆といったドイツ・ロマン派の作品を得意とする指揮者にも、何故だかシューマンの交響曲の全曲録音は無かったと思います。

そうやって「誰か、これまでシューマン交響曲全集を録音した日本人指揮者はいなかったかなあ」と考えていって、私には結局、誰の名前も思い浮かばなかったので、そうすると、この湯浅/大阪センチュリー響の録音が、やっぱり日本人指揮者による史上初のシューマン交響曲全集になるのかと、改めて納得してしまったのでした。

そのあたりの記念碑性に相応しく、演奏内容も素晴らしいもので、中規模編成(10型2管編成・53~54名規模と記載されています)にしてはバスに十分な厚みがあり、リズムにもキリりとした張りが常にある、パワフルなのに混濁感の少ないハーモニーに傾聴させられます。それは編成規模の恩恵だけでなく、アンサンブルのバランスが綿密に設計され、最上に整えられているからなのでしょう。

アプローチとしてはシューマンの病性を露骨に抉り出すという風ではない、純音楽的な行き方であり、交響曲第2番のみ、表情が少し健康的に過ぎることに起因する温さもなくもないですが、4曲いずれにおいても常に細部への目配りを怠らず、じっくりと煮詰められたようなアンサンブルが奏でる、その充実し切った響きからは、シューマンの音楽への揺るぎない共感をベースとする演奏なのだなということが、聴いていて自然に伝わってくるような、そんな演奏だと思います。

カンブルラン/バーデン=バーデン・フライブルクSWR響によるブルックナー交響曲第6番


ブルックナー 交響曲第6番
 カンブルラン/バーデン=バーデン・フライブルクSWR響
 Glor 1998年ライヴ GC09241
GC09241

ドイツのGlorレーベルから先月リリースされた、シルヴァン・カンブルラン指揮バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団(南西ドイツ放送交響楽団)の演奏による、ブルックナー交響曲第6番のCDを聴きました。

録音は1998年におけるフライブルク・コンツェルトハウスでのライヴ録りで、南西ドイツ放送のアーカイヴ音源に基づくCD化のようです。

ちょうど今月から読売日響のポストに就任するカンブルランのブルックナーということで、どんな感じの演奏だろうかと興味を引かれて購入したのでした。

それで聴いてみたところ、全体的に速めのテンポの演奏であり、同時にディテールへの配慮が行き届いた、高速緻密型というような演奏で、そこから生ずる純音楽的な音響の醍醐味において、カンブルラン独自の様式を匂わせるような、個性的で興味深いブルックナーではないかと感じました。

まずテンポですが、大局的に速めのテンポが選択されており、全曲の演奏タイムは52分45秒ですが、ブル6の平均的な全体演奏タイムは50分代後半だと思われますから、タイムだけ見ると最短レベルとも言えそうです。

少なくとも最近リリースされたブル6で、このカンブルランの演奏より短い全曲タイムのものとなると、一昨年リリースされた、ノリントン/シュトゥットガルト放送響のブル6(全曲で51分40秒)くらいしか私には思い当たりません。

したがって、今回のカンブルランのブル6は、ことテンポベースの造型的にはザッハリヒな範疇に組み込まれる演奏なのですが、それではテンポが速いだけの、淡泊でアッサリした演奏かというと、そうではなく、聴いているとアンサンブルの中から、ひとつひとつのフレーズに対するカンブルランの強い拘り、あるいは目配りが、音楽の隅々まで浸透しているかのような演奏で、そこから生み出される強い表出力が演奏全体に漲っているのです。

このカンブルランの演奏で聴くと、速めのテンポをベースとしながらも細部への十分な切れ込みの鋭さを伴うフレージングの、シャープな切れ味や強弱の勢いなどが、抜群に描き出されていますし、ここぞという時の決然としたフォルテの迫力も素晴らしく、そのいずれもが、実に良く「鳴り切っている」感じがします。そのあたりに聴いていて惹き込まれるとともに、それが積み上がって、ひっきょうブルックナーの純音響的な断面に根ざした愉悦が充溢する、そんな演奏となっているのです。

この意味において、このカンブルランのブルックナーは、かなり独特な演奏とも言え、聴いていて、ずいぶん新鮮な印象として感じられる局面が多々あったのですが、それを突き詰めると、このテンポ設定と、このカンブルラン独自の入念なアンサンブル処理との融合に、その源が見出されるように思われます。

例えば、先に引き合いに出したノリントン/シュトゥットガルト放送響のブル6における、最短的なタイムというのは、おそらく彼のモットーとするピリオドアプローチ(のロマン派音楽への応用)から論理必然的に導かれるものではないかと思われます。

しかし、このカンブルランの演奏は、そのノリントンと似たような全曲タイムながら、その出所は全然ちがっていて、おそらくテンポの渋滞を回避することによる、ブルックナーの純音響的な意匠性への追及というものが基底にあり、そこからテンポが設定され、そのテンポに対する理想的なダイナミクスが緻密に組み上げられていった、のではないかと私には思われるのです。もっとも、ある種の情緒感に不足する演奏ではあるので、聴き手に拠っては好悪を分ける演奏かも知れません。

いずれにしても、これはブルックナーの音楽に息づいている純音楽的な醍醐味に聴き手の意識を誘導し、それを十分に味わわせてくれる秀逸な演奏として私には感じられましたし、聴き終えて、改めてカンブルランの実力を思い知ったような気がしたのでした。

ポゴレリチとアバド/シカゴ響によるショパンのピアノ協奏曲第2番


ショパン ピアノ協奏曲第2番、ポロネーズ第5番
 ポゴレリチ(pf) アバド/シカゴ交響楽団
 グラモフォン 1983年 410507-2
410507-2

来月のラ・フォル・ジュルネですが、チケット一般販売がスタートして、取りあえず3公演のチケットを押さえたと昨日は書きましたが、引き続き今日も2公演を追加で押さえて、これで計5公演になりました。

その5公演、実は全て2日目(5/3)の公演です。何となく聴きたい公演を選んで取っていったら、結果的にそうなってしまったんですが、一日で5公演、正味6時間だと、大変ですね(←人ごとのように、、)。

というのも、去年のバッハも2日目に4公演、正味5時間を聴いて、この時はクタクタでしたから。だから正直ちょっと悩んだんですが、でもバッハで一日4公演5時間が限界なら、ショパンで一日5公演6時間ならギリギリいけるかも知れないと思い、結局そうしました。

さて、今年は大物アーティストとして、奇才イーヴォ・ポゴレリチが来るのですね。演目はショパンの第2コンチェルト。

このポゴレリチの公演は、昨日も書いたとおり私もチケットを取りましたが、取ったら何だか彼のショパンが聴きたくなり、そのショパン第2コンチェルトのCDを久しぶりに聴いてみました。1983年、彼が25歳の時の演奏です。

全体的にフレージングのテンポ感や音量比などを、かなり恣意的に崩した、情熱的とも頽廃的ともつかない、尋常ならざるピアニズム。醒め切っているようで、没入し切っているのではないかと取れますし、逆に没入し切っているように見えて、実は醒めて斜に構え切った演奏なのかも知れないですし、このわからなさ、得体の知れなさがポゴレリチ独特で、何か常軌を逸した感覚が聴いていて伝わってくるような、異色を極めたショパン、、

そして、これだけの演奏になると、何か録音だけでは伝わり切らない、実体的な雰囲気としての訴えかけのようなものも、あるのではないかという気がします。来月の実演では、そのあたりが果たしてどうかなと、、

そもそもポゴレリチがデビューしたのは1980年のショパン・コンクール、といっても優勝どころか予選落ちでしたが、その裁定に審査員のアルゲリッチが激怒して審査員を降板、それが騒ぎとなって、ポゴレリチが一躍有名に、という有り得ないような経緯でのデビューでした。

そのポゴレリチも、現在51歳。25歳の時の録音との、表情の違いも含めて、来月の公演を楽しみに待ちたいと思います。

アシュケナージによるショパンのピアノ作品全集


ショパン ピアノ作品全集
 アシュケナージ(pf)
 デッカ 1970~85年 POCL-9042/56
POCL904256

いよいよ来月に迫ったラ・フォル・ジュルネに備えて、しっかり予習をと思い、今日はショパンのピアノ音楽に、じっくりと耳を傾けて過ごしました。

・・と言いたいのは山々なんですが、実のところ、今日は一日ダラダラッと過ごしたかったのでした。

先月の下旬あたり、聴きに行きたいと思っていたコンサートが集中し、図らずもコンサート続きとなったことから、まだ少しバテ気味。こういう時にはショパンと思って、ヴラディーミル・アシュケナージ録音のデッカの全集を引っ張り出したのでした。ラ・フォル・ジュルネの予習にもなるので、ちょうどいいかなと思いまして、、

そのラ・フォル・ジュルネですが、今日からチケットの一般販売がスタートしたということで、取りあえずポゴレリチのショパンを含む3公演のチケットを押えました。

おそらく最終的には5・6公演くらい聴くことになると思いますが、ただ正直ショパンに対しては、去年のバッハほどの個人的な熱狂感はなくて、おそらく3日全部は行かないかなと。多くて2日ですね。

もっとも、その去年にしても初日は玉砕でしたし(苦笑)、あの轍は踏まないようにしたいので、基本的に「当日券は買えない」と思っておこうと思います。去年の感覚だと、当日券は買えたら儲けものという感じですね。

以下、話を戻しまして、アシュケナージのショパン全集について簡単に。

この全集では、ショパンの作曲したピアノ独奏曲の全作品がCD15枚に収録(16枚目は歌曲)されていますが、収録順が作曲年代順なので、ひとつのCDの中にマズルカ、ワルツ、ポロネーズ、夜想曲などの雑多なジャンルの曲が、適度に散らばって並んでいたりするのです。

だから、ワルツ集や夜想曲集といったアルバムと違って、音楽の流れに自然なメリハリがついているのですね。メリハリと言っても作曲時期が相互に近いので、音楽の濃度において唐突なムラはなく、一定の雰囲気の中でショパンの楽想の変化、揺らぎを楽しめるというあたりが、聴いていて結構いい感じだなと思いました。

インバル/都響の演奏会(マーラー交響曲第3番)の感想


昨夜のサントリーホール、インバル/東京都交響楽団によるマーラー交響曲第3番の演奏会の感想です。

オーケストラ編成は16型、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと並べた通常配置(この配置をコンサートで見るのは久しぶり)でした。

全体を通して作品の細部の動きが克明に音化されているとともに、内声やディテールの存在感がケレンミなく浮き上がるような、すこぶる精巧な演奏でした。インバルならではの緻密なアンサンブル処理から繰り出される覚醒的な音響の緊迫感には聴いていて強力な吸引力があり、このマーラー屈指の巨大シンフォニーが、圧倒的に見晴らしの良いパースペクティブを帯びた響きでホールを満たす様相は、聴いていて快感以外の何物でもなく、改めてインバルのマーラー表現の練達ぶりを実感させられましたし、都響との以心伝心ともいうべきレスポンスの素晴らしさにも惚れぼれしましたし、とくに終楽章は何か「清らかな濃密さ」とでもいうべき至純な雰囲気がホールに充溢し、演奏が終わって拍手が始まるまでの数秒の間も含めて、その美しさはこの世ならぬものとも思えました。

ただ聴いていて少し気になったのは、まずアンサンブルのキメ細かいコントロールが時に行き過ぎるのか、いささか神経質にも感じられ、それが過ぎてフレージングの伸び伸びとした呼吸感を圧迫しているように聴こえなくもなかった点でしょうか。特に第3楽章はメロディの流れに多少なり窮屈な気配が感じられたように思えます。

また、インバルのマーラーには時としてハーモニーの得もいわれぬ透明感の中にギクリとするような情念の深まり(時には猟奇的なまでの暗さ)が徘徊するような瞬間があり、その感覚が私には斬新で惹かれたりするのですが、当夜はそのあたりのフェイズが全体的に希薄であり、そういった不意打ち的なインパクトとしては大人しい部類の演奏だったように思えました。ただ、それはインバルのイニシアチブの問題というより、むしろ3番という、マーラーのシンフォニーの中でも比較的に平明な楽想を有する作品の性質によるのかもしれません。

なおステージ上に所狭しと配置された膨大な量の楽器群は、演奏とは別に観ていて壮観でした。マーラーの指示の通り、小太鼓の姿はステージ上になく、ステージ脇の出入口の奥に配置されていました(第3楽章のポストホルンも同様でした)。したがって小太鼓(とポストホルン)の出番の時には、インバルがステージ脇の出入口に向かって指揮棒を振るという、珍しい光景が見られました。

また大太鼓とシンバルは一人の奏者の掛け持ちでした。このため大太鼓とシンバルを同時に叩く場面では、シンバルの片方を大太鼓の上に固定し、右手で大太鼓を、左手でシンバルを、同時に叩くという荒技?が披露されました。

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