インバル/都響の演奏会:マーラー交響曲第3番(サントリーホール 3/31)


今日はサントリーホールで東京都交響楽団のコンサートを聴いてきました。

2010-03-31

(「今日は」というより、「今日も」ですね。最近6日間で3回目のサントリー、、、)

指揮者はプリンシパル・コンダクターのエリアフ・インバル。演目はマーラーの交響曲第3番でした。アルト独唱はイリス・フェルミリオンが歌いました。

インバルといえば何といってもマーラーですが、今日の公演ではマーラー随一の作品規模を持つ、大作の「3番」に挑むということで、興味津々でホールに赴きました。

感想は、例によって後日に出します。が、最近のコンサート続きから、少しバテ気味で、きちんと演奏を消化できたか、何となく不安な気がしなくもなく、、

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の来日演奏会の感想


昨夜のサントリーホール、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の来日演奏会の感想です。

2010-03-30

オーケストラ配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置でした。

最初のワーグナーのタンホイザー序曲は、予想通り16型のフル編成で演奏されました。しかしテンポは予想を裏切る、胸のすくような快速テンポで、これには正直びっくりしました。

そしてティーレマンは、その速めの一糸乱れぬ足取りから深々とアンサンブルを鳴動させ、まさに重厚を極めたようなワーグナーを披歴したのです。特にタンホイザー序曲は昨年の秋に同じサントリーホールで、バイエルン放送交響楽団の来日公演で演奏されたのを聴きましたが、あの時の演奏がヘビー級とすると、このミュンヘン・フィルの演奏は超ヘビー級とでもいうようなもので、とにかくアンサンブルの重心の低いこと、バスの物々しいこと、この上なく、最強奏など客席がグラグラと揺らぐ地震のような感覚に襲われたほどでした。

これは確かに、もの凄いワーグナーでしたが、ここまでの重量感の捻出というのは、ミュンヘン・フィルの伝統からくるアンサンブルの自発性から、やや逸脱したものではないか、という印象も受けなくもなく、いわばティーレマンの主導により、ギリギリまで捻り出された重み、という感があり、逆に言うと、ティーレマンでなかったら、ここまで超ヘビー級の演奏とはならなかったのでないか、という気もするのです。

その意味では指揮者のイニシアチブがフルに発揮された演奏で、それは感服の極みでしたが、反面ここまでハーモニー下層部の押し出しが強いと、どうしてもアンサンブルの見通し、透明感が割を食う局面があり、そのあたりにバイエルン放送響のワーグナーの趣きとの、若干の違いが伺われたような気もしました。

続いて編成を14型に刈り込み、ワディム・レーピンをソロに擁してブラームスのヴァイオリン協奏曲が演奏されました。

レーピンを実演で聴くのは一昨年12月のロンドン交響楽団来日公演以来で、その時の演目はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番でした。

そして、その来日公演の直後にリリースされたレーピンの新譜CDが、ほかならぬブラームスのヴァイオリン協奏曲なのでした。ちなみにバックはシャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団です。

そのCDを聴いての私の感想は以前こちらに書いていますが、昨夜の実演で披歴されたブラコンも、その印象が概ねにおいて重なるものでしたが、それに実演の掛け替えのないリアリティと、ブラームスの重厚な楽想を無上に引き立てるミュンヘン・フィルの充実したバックが加わった、掛け値なしに素晴らしい演奏が展開されました。かつては旧ソ連の神童ヴァイオリニストとして喧伝されていたレーピンですが、やはり今のレーピンには、ショスタコーヴィチよりブラームスの方が似合うなと、心底から思わされた演奏でした。

休憩をはさんで、いよいよベートーヴェンの「運命」が演奏されました。なお、編成は再び16型に戻されました(ワーグナーと同編成!)。

ベートーヴェンの「運命」といえば、かつてティーレマンがグラモフォン・デビューを劇的に飾った因縁の曲ですが、そのフィルハーモニア管とのベートーヴェンのCDは、かつて私も度肝を抜かされた記憶が残っています。また凄い若手指揮者が出てきたものだと素直に驚かされ、それでティーレマンの名前が強くインプットされたのでした。

そして昨夜の「運命」では、そのフィルハーモニア管との「運命」での流儀をベースとして継承しながら、そこにミュンヘン・フィルならではのドイツ本場のアンサンブルの醍醐味、その濃厚な音響の味わいと、ティーレマンの表現の円熟が加味された結果、かつてのデビュー盤とは一味異なる、濃密な聴きごたえのベートーヴェンが展開されたのです。

第1楽章冒頭の全奏による運命動機の、大きく間合いを取った重々しい響かせ方、その最後の和音が終わらぬうちに次の弱奏のフレーズをハイ・テンポで進め、続く和音強打ではまた間合いを大きく広げ重々しく響かせ、というように、フォルテで強調して聞かせるところは遅く、それ以外の推移的フレーズのところは速く、というメリハリの効いた演奏スタイル。そして、安定感のあるテンポを基調にアゴーギグの変化を闊達に組み込み、必要とあらば大規模なテンポの振幅すら辞さない、そんな往年のドイツの巨匠指揮者の様式を匂わせる、ロマンティック型の、それでいて巨大なスケールのベートーヴェン。前半のワーグナー同様、ここでもバスの圧倒的な質感、超ベビー級ともいうべきアンサンブルの重量感も健在で、ティーレマンの手に掛かると、ワーグナーもブラームスもベートーヴェンも、まるで同じ時代の作曲家であるかのような印象さえ受けるのです。

それにしても、当夜のティーレマンのベートーヴェンには、あのデビュー盤で聴かれた、大胆不敵なテンポ取り、ないし局面によっては不自然とも見られたフレージングの呼吸感のような、まるで自己を過剰に肥大化させているかのような、ある種の生硬な感じは影を潜め、むしろ自己の等身大の表現の反映として、あれだけの巨大な演奏を現出させたとでもいうような、ベテラン指揮者としての円熟が、はっきりと音楽に現われていたように思うのです。

もっとも、あのデビュー盤はデビュー盤で、なにか死にもの狂い的な強い表出力が感じられた演奏でしたが、そのあたりは当夜のベートーヴェンでは希釈化されていたようにも思えたので、必ずしも得たものばかりではなかったのかも知れませんが、それでも充実を極めたミュンヘン・フィルのアンサンブル展開の助力を得た、現在のティーレマンの、あれはやはり会心のベートーヴェンではなかったかと思います。いずれにしても、聴いていて深い感動の境地へ誘われるような、素晴らしいベートーヴェンでした。

そして嬉しかったのがアンコール曲。ベートーヴェンの終楽章が終って、ティーレマンがステージに最初に戻ってきた時、それに合わせてホルンの増援部隊とハープ奏者、それにシンバル奏者がステージに駆け込んできたのを見て、たぶんアンコールはワーグナーではないかという予感はしましたが、まさか「マイスタージンガー」の前奏曲を、本場ミュンヘン・フィルの演奏で聴けるとは。これはもう感激の極みでした。

それにしても当夜の公演のように、ドイツの名門オーケストラが、ドイツ人のシェフに率いられて来日するというケースは、よくよく考えてみると今では本当に珍しいのですね。私の聴いた限りでも、一昨年のベルリン・フィル、去年のバイエルン放送響、あるいはゲヴァントハウス管、いずれの来日公演でも指揮者はドイツ人ではありませんでした。

だから、それだけ取っても何だか貴重な気がするのですね。演奏も圧巻でしたが、ホールの隅々まで「ドイツ」の濃度が充溢し、それに酔わされたような、そんなコンサートでした。

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演(サントリーホール 3/29)


今日はサントリーホールでミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2010-03-29

指揮者はクリスティアン・ティーレマン。演目は前半がワーグナーの「タンホイザー」序曲、それにワディム・レーピンをソロに擁してのブラームスのヴァイオリン協奏曲、後半がベートーヴェンの交響曲第5番「運命」というものでした。

またアンコール曲は、前半がレーピンによるバッハの無伴奏パルティータ第2番から「サラバンド」、 後半がワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲でした。

今回は名門ミュンヘン・フィルの、わずか一度の東京公演ですが、そのプログラムが豪勢で、このラインナップだけでも今日の公演はちょっと聴き逃せないと思っていました。

まずティーレマンのワーグナーといえば、私には最近CDで聴いたバイロイトの「リング」の強烈な印象が記憶に新しいですし、レーピンのブラコンといえば、やはりCDでの演奏が素晴らしいですし、そしてベートーヴェンの「運命」といえば、かつてティーレマンがグラモフォンへのデビューを飾った、あの鮮烈な録音が思い出されます。

今日のコンサートの感想は改めて後日に出しますが、簡単に言うなら、ちょっと近年では覚えのないくらい圧倒的な「ドイツ濃度」とでもいうべきものに心ゆくまで酔わされた、そんなコンサートでした。

スクロヴァチェフスキー/ザールブリュッケン放送響によるブルックナー交響曲第8番


ブルックナー 交響曲第8番
 スクロヴァチェフスキー/ザールブリュッケン放送交響楽団
 エームス・クラシックス 1993年 BVCO-38013-14
BVCO-38013-14

昨日の続きになりますが、一昨日のサントリーホールでのブル8の実演で、ミスターSがノヴァーク版には無いはずの(ハース版に特有の)楽節を引用したことについて少し思うところがあり、それについて書いてみたく思います。

というのも、とくにブルックナーの版に対するミスターSの扱いに関しては、そこに彼のブルックナー演奏全般の根底にある思想のようなものが、何か見え隠れするような気がするからです。

ただ、お断りしておきますが、私もブルックナーの版について、ノヴァークとハースの違いがどうとか、第1稿がどうしたとか、どこかの本に書いてあるような蘊蓄話を、これ見よがしに書き連ねることが、いかに悪趣味で見苦しいか、そのあたりは心得ているつもりです。

したがって、以下に書くことは基本的に私の主観であり、別に「権威筋」の裏付けのある話ではなく、全く見当はずれである可能性もありますので、その点は御注意ください。

さて、一昨日の実演において終楽章の第2テーマ再現部、第566小節のところに挿入されていたハース版の楽節ですが、これは実はミスターSの、ザールブリュッケン放送響との録音でも同じように演奏されているのです。

そして、このCDのライナーには、それに関するミスターS自身の説明が掲載されています。それを要約すると、ノヴァーク版はハース版よりも深く研究されて出版されている、また音楽的にも楽器法的にも最上と思える選択をしていると思える、従ってノヴァーク版を基本とする、しかし第8交響曲に関しては、1箇所だけ腑に落ちないところがあり、音楽の構成面から考えても絶対に必要な個所なので、そこだけハース版をノヴァーク版に取り入れるようにしている、ということです。

この部分、とくに「音楽の構成面から考えても絶対に必要」という部分に、私には何かミスターSの、「作曲家」としての特別な矜持のようなものが伺われるように思えるのです。

この点、昨日の感想において私は「一体、ミスターSのブルックナーというのは、客観的なアプローチなのか、主観的なアプローチなのか、主知的なのか主情的なのか、聴いていて分からなくなることがしばしばなのですが、当夜もまさにそうであり、そんな単純な二分法では割り切れない、何か絶対的な図面が指揮者の根底にあり、そこには常人には想起しがたい模様が描かれている、そんな気がしてならない」という風に書きました。

その図面というのは、もしか彼の作曲家としての卓抜した知見をもって、ブルックナーの音楽に改めて創造的な萌芽を吹き込もうというような、果敢なアプローチから描かれるものではないかと思えなくもなく、事実このCDの録音を聴いても、スコアに従うところと、従わないところとが、きちんと切り分けて演奏されていることがわかるのです。

要するにミスターSのブルックナーというのは、必ずしも機械的にスコアに従った演奏ではなく、かなり主観的に再構成している局面が随時に聴かれるのですが、その度合いが徹底しているため、むしろ構成自体が強化されたような錯覚さえ聴き手に抱かせるような感じがするのではないか、という風に私には思われるのです。このあたりに、ミスターSのブルックナー演奏に対する固有のアプローチと、その掛け替えのない表出力の、ひとつの源泉がありはしないかという想像も働きます。

以上、昨日の補足という形で思うところを自由に書きました。基本的に彼のブルックナーというのは、演奏自体の充実に加えて、聴く度に何か面白い発見があるような、そんなタイプの演奏ですね。

読売日響の定期演奏会(スクロヴァチェフスキーの指揮によるブルックナー交響曲第8番)の感想


昨夜のサントリーホール、スクロヴァチェフスキー(以下、ミスターS)/読売日響によるブルックナー交響曲第8番の演奏会の感想です。

オーケストラ編成は16型、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べた変則配置(Vn-Va対向配置)でした。

まず第1楽章冒頭部、トレモロに先導される各主題の提示場面から落ち着いた足どりで開始されましたが、この幽漠とした楽章に隠された意味深さを掘り起こし、それを聴き手に漏らさず伝えようとするかのような、凄い気迫を伴うアンサンブルの充実感、その奏された主題の堂々たる立体感、訴求力、いずれも目覚ましく、聴いていて早くも胸が高鳴るような思いでした。

この第1楽章に関しては、特に終盤でトランペットとホルンを中心に金管パートの音程に安定感を欠く局面が見受けられたのが残念でしたが、全体としてはミスターSならではの稠密なブルックナーの世界が十分に開陳され、フォルテッシモの見事な鳴動力ともども、その広々として雄渾な音景に強く魅せられましたし、特に主題に昇華される前の萌芽状態にあるメロディがハーモニーから鮮明に浮き上がっているのを耳にした時など、そこにミスターSのブルックナー演奏に対する拘り、執着ともいうべきものが描き切られていたように思えました。

それは第2楽章も同様で、特に内声部に対しては非常な神経が行き届いた演奏であることが聴いていて伝わってくるような情報量の豊かなアンサンブル展開が、このひとつ間違うと単調な舞曲にも落ちやすいスケルツォを、すこぶる複層的なメロディの絡み合う美しい趣きの音楽として描き出していました。

ただ惜しむらくは、ここでも強奏時のいくつかで勢いあまったかのごとくに、金管パートの音程が少し不安定な局面が散見されたこと、それに伴いアインザッツが少々揺らぐような感覚を聴いていて余儀なくさせられたことでした。それほど大きな瑕疵ではないにしても、昨年秋のブル9の実演がパーフェクトであっただけに聴いていて少し気にならざるを得ませんでした。

しかし再チューニングを挟んで開始された第3楽章以降は、そのあたりの瑕疵も影を潜め、完成度と表出力とが高いレベルで融合したような素晴らしい演奏が披瀝されました。

ことに第3楽章は、あたかもハーモニーを顕微鏡で覗くような細密感を伴う、主観的に練り切られたアンサンブルが素晴らしく、そのあたりのミスターSの練達のアンサンブル展開が、この楽章の途轍もない深淵に照応し、その音楽が如何に雄大で、いかに深刻な内容であるかを、否応なく実感させられるような演奏でした。その細密的な表現の濃厚な味わいというのが途方もなく、まさしくパトスも感傷もない絶対音楽としてのブルックナーでありながら、たとえ安寧で穏やかな雰囲気の背後にさえ恐怖にも似た圧迫感が潜んでいるのではないか、、そんなことを聴いていて感じさせられました。

そうかと思うとシンバルを伴う終盤の最強奏においては、スコアに無い強烈なリタルダンドを仕掛けるなど、ギクリとするようなテンポの動きで指揮者としての主観をアンサンブルに刻み込むのです。この押し引きの手腕が絶妙なのであり、このようなスタイルはブルックナー指揮者としても珍しい部類に入るのではないでしょうか。

一体、ミスターSのブルックナーというのは、客観的なアプローチなのか主観的なアプローチなのか、主知的なのか主情的なのか、聴いていて分からなくなることがしばしばですが、当夜もまさにそうであり、そんな単純な二分法では割り切れない何か絶対的な図面が指揮者の根底にあり、そこには常人には想起しがたい模様が描かれている、そんな気がしてなりません。

それでいて決して表情があざとくならないのは、やはり音楽の本質をがっちりと掴んでいるからなのでしょう。いずれにしても、その音楽の福浄感は名状を超えたものでした。

そして終楽章はミスターSの持ち前の流儀で造形を為した個性的な表現でありながら、同時に張り詰めるようなダイナミクスと、ハーモニーの素晴らしい見通しとが絶妙にバランスされた、ものすごい演奏でした。

この終楽章に関しては、昨年耳にした9番の実演の再来というべき内容で、このブルックナーのシンフォニーがいかに構造的に美しく、そして同時に、いかに音響的に凄絶であるかを、ギリギリのバランスでもって並列的に突き付ける、そんな演奏が展開されました。

しかし、こと表出力の点では当夜の方が僅かに凌駕していたとも思えます。ミスターSの常任指揮者としての最終公演、その最終局面において、おそらくアンサンブルの持つ全てを振り絞った、それこそ命懸けというくらいのものが、そこには発揮されたのではないか。そんな風に思われてなりませんでした。クライマックスでの肺腑をえぐるような最強奏、コーダでの世界を包み込むような壮大な響きと、乾坤一擲の凄味。まさに「燃え尽きた」演奏であって、そこには指揮者とオーケストラ双方に去来する万感の思いのような感情の動きがあったのかも知れません。

以上、本公演のブルックナーは作曲家の畢生の大作ともいうべき第8交響曲に対して世界最高峰のブルックナー指揮者と、その手兵オーケストラが為し得た、こと表出力において最高水準の演奏と思われましたし、聴き終えて激しい感動に打ちのめされ、これほどのブルックナーを日本のオーケストラで耳にし得たことに感無量の思いでした。

なお、昨日の更新で「終楽章で一か所、ノヴァーク版には無いはずの(ハース版に特有の)楽節が確かに演奏されていた」と書きましたが、これは第2テーマ再現部の第566小節のところに、ハース版の楽節が挿入されていたのでした。

このことにつき後日、少し思うところを書きたいと思います。

読売日響の定期演奏会:スクロヴァチェフスキーの指揮によるブルックナー交響曲第8番(サントリーホール 3/26)



今日はサントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。

2010-03-26

指揮者はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、演目はブルックナーの交響曲第8番です。

今月をもって読売日響の常任指揮者の契約が満了となるミスターSですが、その常任ポストでの最終公演に選んだ曲は、やはりブルックナー、それも畢生の大作ともいうべき第8交響曲でした。

ところで今日の演奏について、ロビーで配布された公演プログラムには、版に関して「ノヴァーク版第2稿を基本に指揮者自身の解釈を加えた、スクロヴァチェフスキ版での演奏ということになります」と書かれていました。

その「指揮者自身の解釈」については言及がないので、確かなことは分かりませんが、私が聴いたかぎりだと終楽章で一か所、ノヴァーク版には無いはずの(ハース版に特有の)楽節がはっきりと演奏されていましたので、或いはそれを指しているのかも知れません。

それはともかく、ミスターSのブルックナーといえば、何といっても昨年の9月に東京芸術劇場で聴いた交響曲第9番の実演が超絶的な名演でしたし、今日の最終公演の8番は、それこそ万難を排しても聴かなければと思い定めていました。

その8番の演奏ですが、こと完成度においては若干の瑕疵もあり、昨年の9番のような鉄壁の完成度と行かなかったのが惜しいところでしたが、こと表出力においては昨年の9番と優に肩を並べるか、僅かに凌ぐか、というくらいの超弩級のアンサンブル展開が披歴され(特に終楽章は圧巻!)、聴き終えてもう感無量でした。

そのあたりの感想は改めて後日に出しますが、やはりミスターSの、文字通り有終の美というに相応しい、素晴らしいブルックナーでした。

ユロフスキ/ロンドン・フィルによるブラームスの交響曲第1番と第2番


ブラームス 交響曲第1番・第2番
 ユロフスキ/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 2008年ライヴ LPO0043
LPO0043

ロンドン・フィル自主制作レーベルから今月リリースされた、ウラディーミル・ユロフスキ指揮ロンドン・フィルの演奏によるブラームスの交響曲第1番と第2番を収録したCDを聴きました。2008年の5月と9月のロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのコンサートのライヴ録りです。

ユロフスキは次代の指揮界を担うであろう有望な若手株として、以前から私が注目している指揮者の一人で、これまで主にロンドン・フィル自主制作レーベルを中心に、ライヴ盤が断続的にリリースがされています。最近では昨年秋にチャイコフスキーの2つの交響曲(第1番と「悲愴」)を収録したCDが出ましたが、続いて今回はブラームスの2つの交響曲のリリースされましたので、さっそく購入して聴いてみたのでした。

その印象ですが、確かに聴いていて凡庸なところは何処にもなく、むしろ30代の若さで、これほどのブラームスを名門ロンドン・フィルを駆って表現することのできる点においては素直に感嘆させられる、そんな演奏でしたが、しかしユロフスキとしては、幾ばくか物足りなさの残るような演奏ではなかったかという印象もまた、最後まで拭えませんでした。

ここでの交響曲第1番と第2番は、ともに竹を割ったような快速テンポが支配的で、交響曲第1番の第1楽章は提示部反復を敢行してタイムが15分を切っていますし、交響曲第2番の終楽章もタイムが8分30秒を切るという、まさに怒涛のようなスピードでアンサンブルを走らせています。

もちろん単に快速型の演奏というに留まらず、何よりアンサンブルが揺るぎなく頑強に構築されていますし、そこにはコクと潤いのある管パートを中心に個々のフレーズの連なりも鮮やかに綴られていますし、音勢的な迫力も申し分なく、ここぞという時にはユロフスキの本領たる熾烈な強奏展開の醍醐味が存分に披歴されていて、このテンポで、よくここまで鳴らし切れるなと聴いていて驚嘆させられるほどでした。

これだけの演奏をして、では何が物足りないのかということになるのですが、要するにアンサンブルの組み上げ自体においてユロフスキならではという強烈な個性味の刻印が弱く、鳴りがいいという以上の切羽詰まった情感のようなものが振り切らない感じがするのです。

そして、この印象というのは実は、前回リリースのチャイコフスキー「悲愴」を聴いた時の印象と、ほぼ同様なのです。例えば以前のロシア・ナショナル管とのショスタコーヴィチのアルバムなどでは、ただ迫力があるというに留まらない、ギラリとした凶暴性をもアンサンブルから抽出せしめていることに惹かれる感じがしたのに対し、そのあたりの、若さの特権ともいうべきような過激な色合いが思ったほどには発揮されていなかったのが、残念と言えば残念な気がした、というのが、その「悲愴」を聴いた際の私の感想の要旨でした。

そんなこともあり、もしかユロフスキは現在、ちょっと伸び悩んでいるのではないかという印象を、今回のブラームスを聴いて感じてしまったのでした。何しろブラームスのシンフォニーですし、作品自体のキャパシティを考えると表現力の掘り下げの余地が、ユロフスキの実力からして、まだまだ有るのではと思えてしまうのです。例えば彼のデビュー盤のラフマニノフ、ロシア・ナショナル管とのショスタコーヴィチ、あるいはロンドン・フィルとのチャイコフスキーのマンフレッド交響曲など、数年前までは、それこそ目の覚めるような録音を次々に繰り出していたのですから、、

音質ですが、全般にノイズ感が高いのが気になりました。それもライヴ的なザワザワしたノイズというのでなく、どうもサーフェス・ノイズみたいな、シャーという感じのものなのです。音像そのものは高い臨場感でリアルに捕捉されていると思われるだけに、そのノイズの聞き苦しさが、ピアニッシモなどの局面によっては少々煩わしく感じられました。

アンスネス/ノルウェー室内管によるモーツァルトのピアノ協奏曲第17番と第20番


モーツァルト ピアノ協奏曲第17番・第20番
 アンスネス(pf、指揮)/ノルウェー室内管弦楽団
 EMIクラシックス 2007年 5002812
5002812

昨日の続きになりますが、まず私が一昨日のコンサートを聴きに行くきっかけになったCD、アンスネスがノルウェー室内管を弾き振りして録音したモーツァルトのコンチェルト・アルバムについて書きます。

最初の協奏曲第17番K.453においては、オーケストラ云々よりもアンスネスのピアニズム自体の魅力に惹かれました。その印象は一昨日のピアノ協奏曲第23番の実演でのそれに、ほぼオーバーラップします。アンスネスのタッチから繰り出される玲瓏な音色、ルバートの排されたフレージングの織り成す、無謬のプロポーション、いずれもモーツァルトの音楽の無垢な佇まいに対する、絶妙な照応として感じられましたし、第2楽章の(7:05)からのカデンツァなど、何と深い音楽であることかと、この演奏を聴いて作品の持つ深み、あるいは隠れた美のようなものに、不意に気付かされたような、そんな気さえしました。

そして、これが次の協奏曲第20番K.466になると、前述のピアニズムの魅力が引き継がれている上に、さらにオーケストラの驚異的な表出力がプラスされて、それこそ聴いていて震えがくるほどの名演として昇華されていたのです。

ここでのノルウェー室内管の、ヴィブラートを抑制した小編成のアンサンブルは、ピリオドアンサンブルのような趣きが強く、甘さを排した精悍な響き、ハードでアグレッシブなフレージング展開、ここぞという時におけるティンパニの凄い豪打を伴う壮絶なフォルテッシモ、など、すこぶる表現主義的なアンサンブル展開から、凄い緊張感を孕んだ演奏が披瀝されています。

これに対してアンスネスのピアノはと言うと、アンサンブルのハードな音彩に呼応するのでなく、前の協奏曲第17番と特段変わることのない行き方なので、そのコントラストが引き立ちます。

おそらく、この演奏が個性的で素晴らしい理由は、この作品に内在する二面性、デモーニッシュなまでの感情の高まりと、無垢なまでに透徹した音楽自体のプロポーションの美しさ、この両面をひとつの演奏において成立させるために、オーケストラの方に感情的な動きを担わせて、ピアノの方は、あくまでモーツァルトの音楽の無垢な美しさの描出に専念するといった、弾き振りならではの複面的なアプローチが、ある種の絶妙な効果を演奏にもたらしている点にありはしないかと、私には思われるのです。この演奏を聴いていると、何だかモーツァルトの引き裂かれた自我が乗り移ったような演奏として感じられ、これこそがモーツァルトの本当に望んでいたアプローチなのではないか、みたいなことさえ思ってしまうのでした。

そもそも弾き振りによる演奏というのは、概ねアンサンブルをピアノ演奏と齟齬なく付けていく、という方向で演奏を組みあげていくものが普通で、本職の指揮者さながらに、オーケストラにピアノとは対照を行く色合いを与えるという発想は、なかなか難しいのではないかと、そんな気がするのです。このアンスネスの弾き振りは、そのあたりが十全に為された演奏であったので、率直に凄いなと思ったのでした。

それにしても、これは何と禁欲的なピアニズムなのでしょうか。このモーツァルトの20番、第1楽章ピアノ独奏部の第2テーマ(3:43)あたり、ルバート未満というべき微妙なフレーズの揺らぎが聴かれたり、決して機械的な演奏に徹しようとしているのではないことが随所に伺われるのですが、そこから立ち昇る演奏は、モーツァルトの音楽の無垢な造型そのものであり、ひとつ間違えば通俗に落ちる危険を孕んだ第2楽章においても、フレージングを厳しく律して、ストイックに、虚飾のない音楽の世界を聴き手に伝達することに成功しているのです。

そこには、北欧のピアニストならではの、ある種の気質が介在しているようにも思えます。無駄に飾り立てない、ということの徹底されたピアニズムというべきでしょうか。

以上が、CDを聴いての私の感想ですが、おとといの演奏会においてプログラムの最後に披露された、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番の実演も、上述のピアノ協奏曲第20番に対する印象が、ほぼオーバーラップする演奏でした。

その意味では、20番と24番とは曲想が互いに似ているので、おそらく同じような雰囲気の演奏が披歴されるのではないか、という私の読みどおりでした。

しかし、やはり実演のリアリティというのは強烈無比ですし、何より、EMIの録音では今一つ再現し切れていない感のあった、冷たい感触を孕んだピアニッシモの音彩がゾクゾクするほど素晴らしく、表情がストイックであるがゆえの音彩そのものの訴求力というのが、尋常でないと感じられたのでした。

以上のようなことから、そのピアノ協奏曲第24番の実演は、アンスネス/ノルウェー室内管の会心のモーツァルトと思われる、珠玉の名演としてコンサートの白眉を飾ったように思われましたし、聴き終えた時のすがすがしい余韻も、CDのそれとは比べられない、格別なものとして心に残りました。

アンスネス/ノルウェー室内管の来日演奏会の感想


昨日の東京オペラシティ・コンサートホール、レイフ・オヴェ・アンスネスとノルウェー室内管弦楽団の来日演奏会の感想です。

2010-03-22

オーケストラ編成は6型(6-6-4-4)、配置は「ハフナー」とホルベルク組曲ではステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと並べた通常配置、対してモーツァルトのコンチェルトでは左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置で、ピアノ(スタインウェイ)は中央に置かれました。

なお、ノルウェー室内管弦楽団は1977年に設立された、ノルウェーのオスロを本拠地とする室内オーケストラで、現在はコンサートミストレスのイザベル・ファン・クーレンが音楽監督を兼任し、アンスネスが首席客演指揮者という体制とのことです。また、おそらく今回が初来日ではないかと思われます。

まず最初はモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」でしたが、これは指揮者を置かないオーケストラ合奏での演奏でした。てっきりアンスネスが指揮すると思っていたので、チューニング後すぐに第1楽章が開始されたのに少々面喰いました。

この「ハフナー」は、ノルウェー室内管のアンサンブルの強烈な表出力に聴いていて惹き込まれました。その合奏能力も目覚ましいものでしたが、ヴィブラートの抑制されたフレージング、ハキハキとしたアーティキュレーション、胸のすくようなティンパニのアタックなど、全体的にピリオドアプローチの特性をモダン型アンサンブルに巧く溶融させているなという印象で、コンミスのクーレンの誘導のもと、この作品の晴れやかで祝祭的な曲想を朗々と描き切っていて、その点では惚れぼれする演奏でした。

もっとも、これほどのポテンシャルのアンサンブルであれば、指揮者を立てることで、もう一歩踏み込んだ表現というか、何らかの個性的な色付けの余地が伺われる演奏でもあったように思います。

続くモーツァルトのピアノ協奏曲第23番は、ピアノとオケ相互の緊密な連携を活かしつつも、何ら奇を衒わずに、このコンチェルトを有るがままの姿で再現しているといった趣きの演奏でした。したがって、この演奏はウィット感とか遊び心のようなものを希求する聴き手にとっては、きまじめ過ぎて多少物足りなく感じられたかも知れません。

しかし、ここでのアンスネスのピアノ演奏は素晴らしく、そのタッチから繰り出される雑味のない、玲瓏ともいうべき澄んだ音色といい、ルバートの排されたフレージングの織り成す、誇張感の不在な、無謬のプロポーションといい、いずれもモーツァルトの音楽の無垢な佇まいに対する絶妙な照応として感じられ、その純真なピアニズムに、聴いていて率直に胸を打たれました。アンスネスの真摯なピアニズム、その魅力の一端が十分に開陳された演奏だったと思います。

休憩を挟んで、グリーグのホルベルク組曲が演奏されました。この作品は「ホルベアの時代から」とも呼ばれる弦楽合奏用の組曲で、グリーグの代表作の一つです。

このホルベルク組曲もハフナー同様、指揮者を置かない形での演奏でした。ここではハフナーよりも幾らか音勢を落として、メロディの抒情性や、北欧的な香りのする清潔なハーモニーの描き出しにアンサンブルとしての意の注がれたような、かなり木目細かい演奏が展開されました。

したがって、ハフナーよりは格段に清潔なイントネーションの演奏でした。そして、まさに自分達の音楽と、言わんばかりに練り切られたアンサンブルの佇まいが素晴らしく、その奥には本場の演奏ならではの理解の深さや説得力が、おそらくデンと構えており、その音楽の深い味わいは、およそ他の演奏からは容易に聴かれないと思えるほどです。いわばグリーグの音楽の美に奉仕した演奏と言うべきでしょうか。

最後のモーツァルトのピアノ協奏曲第24番は、この演奏会の白眉でしたが、この演奏についての感想は後日に書きます。

というのも、これが少し長くなりそうなのと、それ以前に、このコンサートを私が聴きに行くきっかけとなったCDについて先に触れないと、うまく話が繋がらないような気がするからです。ですので、そのCDの感想の方を先に書き、その文脈からコンサートの演奏の方に繋げるという流れにしたいと思います。

アンスネス/ノルウェー室内管の来日演奏会(東京オペラシティ 3/21)


今日は東京オペラシティ・コンサートホールでレイフ・オヴェ・アンスネスとノルウェー室内管弦楽団の来日演奏会を聴きました。

2010-03-21

以下、演目を記します。

前半:
 ①モーツァルト 交響曲第35番「ハフナー」
 ②モーツァルト ピアノ協奏曲第23番
後半:
 ③グリーグ ホルベルク組曲
 ④モーツァルト ピアノ協奏曲第24番
アンコール:
 ⑤モーツァルト ピアノ協奏曲第14番の第3楽章
 ⑥ショパン ワルツ嬰ハ短調Op.64-2

以上のうち、①と③は指揮者を置かないオーケストラ合奏で演奏され、②、④、⑤はアンスネスの弾き振りで演奏されました。

アンスネス/ノルウェー室内管の演奏としては、数年前にリリースされたモーツァルトのピアノ協奏曲集のCDが私には印象的で、その録音で耳にしたモーツァルトの名演ぶりに誘われて、今日コンサートに足を運んだのでした。

そして今日の公演では、そのCD以上に素晴らしいモーツァルトのコンチェルトが披歴され、すっかり魅了させられました。

それはアンスネス/ノルウェー室内管のコンビならではと思われる、珠玉のモーツァルトと思えましたし、それらコンチェルト以外の演目も含めて、全体に北欧の演奏家の音楽に対するストイックな気風のようなものが聴いていて伝わってくるような、充実したコンサートでした。

そのあたりの感想は、あらためて後日に出します。

スクロヴァチェフスキー/読売日響のコンサート(サントリーホール 3/19)の感想


昨夜のサントリーホール、スクロヴァチェフスキー(以下、ミスターS)/読売日響のコンサートの感想です。

オーケストラ編成ですが、「ドン・ファン」と「ライン」は共に16型で、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べた変則配置(Vn-Va対向配置)でした。これに対し、「Music for Winds」は弦楽器なしの編成、すなわち管楽器編成にピアノと幾つかの打楽器を加えた形で演奏されました。

最初のリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」は、標題音楽というより絶対音楽の雰囲気を感じさせる、純音楽風に丁寧に処理された演奏でした。音勢を幾分か犠牲にしてまでも、リヒャルトの複雑なスコアの、明晰な再現にオケの意識が注がれたような趣きがあり、あたかも精巧なガラス細工を観るような感触があり、その点では傾聴させられました。

しかしながら、この曲の本来の面白さという点では、本質的に絶対音楽ではない以上、やはり標題音楽の領域においてこそ、という気もします。ので、ミスターSの絶対音楽型のアプローチに、いささかの限界を感じないでもありませんでした。要は、この作品はさほど深い内容ではなく、オペラ的な雰囲気でアンサンブルを情緒的に流した方が、より曲想が立つような作品ではないかと、そんな気もするのです。この点、当夜の演奏は、やや生真面目すぎるかなという印象も聴いていて少し感じました。

続く「Music for Winds」はミスターSが昨年に作曲したオーケストラ作品で、これは「19世紀から21世紀(ベートーヴェンからショスタコーヴィチとそれに続く時代)の交響曲に登場する管楽器のための交響曲か協奏曲を書きたい」という構想から作曲された作品であると、当夜の公演プログラムには書かれています。

最初のうちは、何だかマーラーに雰囲気が似ている感じがしたので、ちょっと面喰いました(ミスターSはマーラーを振らないはず)。しかし聴き進むにつれ、どうも似ているのはマーラーではなくショスタコーヴィチの方ではないか、という気がしてきたのでした。

つまり、ショスタコの音楽の剽窃とまでは行かなくとも、どこか似た雰囲気のフレージングが随所に聴かれるように思われたのです。かと思うと、3つのサクソフォンの奏でるパッセージがジャズ風に聴こえなくもないなど、かなり錯綜した感じの音楽だなという印象を受けました。

確かに聴いていて斬新な趣きの、面白い曲だなとは思いつつも、結局どういう曲なのか、その距離感を掴み損ねたというのが率直なところでした。少なくとも本格的な現代音楽として聴くには、少なからず無理があるように思えましたし、さりとてショスタコーヴィチなど特定の作曲家へのオマージュとすると、前述の構想から外れるような気がします。

あるいは、ルトスワフスキやペンデレツキといった、現代ポーランドの音楽として捉えるにしても、作風的に当てはまらないような気がするのです。深刻な部分とアッケラカンとした部分とが、不可分に織り交ざったような雰囲気は、むしろマーラーに近いような気がしますが、しかしミスターSはマーラーを振らない、ということで結局、堂々めぐりとなってしまうのでした。

後半のシューマン交響曲第3番「ライン」は、ミスターSの真骨頂を久しぶりに体感させられた演奏でした。そのアンサンブル展開の目覚ましいまでの充実感もさることながら、全5楽章において、速めの引き締ったテンポから繰り出される入念を極めたアンサンブルのディテールの迫力が素晴らしく、まるでオーケストラを完全に手中に収めたかのごとく、アンサンブル各パートの動きを丁寧に描き切り、その演奏の細密的な表出力には聴いていて圧倒させられるばかりでした。

とりわけ私が驚嘆させられたのは、そのテンポの速さとアンサンブルの稠密性との、絶妙なまでの共存関係で、これほど速いテンポなのに、これほどアンサンブルの細部にまで拘った演奏というのも凄いなと、聴いていて思わされたのでした。

このあたりは、ミスターSの作曲家としての目線の行き届いた演奏と言う方が、むしろ当を得ているような気もします。というのも、当夜のシューマンにおいては、アンサンブル内声部の実在感がコンスタントにものを言い、結果シューマンの「厚塗り」のオーケストレーションが、透かし彫りか何かみたいに、ふくよかな透明感を帯びた様相を呈して立ち現われ、まるでシューマンがオーケストレーションの名手であるかのような「錯覚」をも聴き手に誘発させる、そんな演奏でもあったからです。

さらには、アンサンブルの内声部の捌き方が堂に入っているため、それが高声や低声に埋もれるどころか、局面によっては内声が恐るべき存在感を纏って高声・低声を脅かすという、独特の遠近感が耳を捉え、それがゾクゾクするような新鮮な趣きを投げかけもしました。

このようなスタイルであってみれば、シューマンの4曲のシンフォニーの中でも、特に「ライン」が最も適合するように思われるのです。というのも、4曲中で最も雄大かつ荘厳な曲想を有する「ライン」においては、どっしりと構えた楽想ゆえに、深く掘り下げれば掘り下げるほど、情報量の多いアンサンブル展開における細密的な表出力が映え、ひいては音楽としての奥行きも深まっていくように思われるからです。

再びテンポの話に戻りますが、全編に推進的な、速めのテンポが維持されました。もったいぶった遅めのテンポなど自分には不要と、言わんばかりの確信すら感じられる、このテンポ設定にもミスターSの強固な主張が見え隠れしました。

むしろ、このテンポだからこそ意味があると、そう主張しているように思えたのです。86歳という巨匠指揮者なのに、テンポを落として「巨匠風の構え」を強調し、などということは全く考えない、その潔さが聴いていて何とも痛快でしたし、同時に音楽としての切実な訴えかけ、ハッタリではない強い真実味を、そこに聴いたような気がしたのでした。

このシューマンを、ミスターSは暗譜で指揮しました。前半の自作の曲ではスコアを食い入るように見ながらの指揮でしたので、そのあたりの光景の対照も私には少なからず印象的でした。

スクロヴァチェフスキー/読売日響(サントリーホール 3/19)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団のコンサートを聴いてきました。

2010-03-19

指揮者はミスターSことスタニスラフ・スクロヴァチェフスキーで、今月をもって読売日響の常任指揮者の契約が満了となります。

演目は前半がR・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」 、 続いてスクロヴァチェフスキー作曲のオーケストラ作品「Music for Winds」の自作自演(日本初演)、後半がシューマンの交響曲第3番「ライン」というものでした。

今日は主にシューマンの「ライン」を目当てに赴きました。シューマンはミスターSの得意とするところですが、私の印象として、その4曲のシンフォニーの中でも特に交響曲第3番「ライン」が、その演奏スタイルに対して最も適応するような気がしていたからです。

そのシューマン、期待通りの素晴らしい演奏でした。前半の2曲に関しては少し思うところもあるので、そのあたりも含めて、後日に改めて感想を出します。

ブログアクセス累計5万カウント到達御礼


今週、当ブログのアクセスが累計5万カウントに到達しました。あらためまして、皆様のご訪問を感謝いたします。

この機会に、当ブログの最近のアクセス状況に関して簡単にご報告しておきたく思います。

FC2ブログでは専用のアクセス解析ソフトが利用できるようになっていますので、それを実行して、今月分のアクセス状況を出力させてみました。その出力画像を以下に転記します。

blog-access

ここで示されている「ユニークアクセス」というのは、一日当たりの同一アカウントからのアクセスの重複分をカウントしない場合の数値で、この場合、同じ日に同一アカウントから何度アクセスしても「1回」として厳密にカウントされます。これに対して「トータルアクセス」というのは、同一アカウントからのアクセスの重複分を、その都度カウントする場合の数値になります。

なお、FC2ブログではカウンターの累計値表示をユニークアクセス方式とトータルアクセス方式とから選べるようになっており、当ブログはユニークアクセスの方を選択しています。したがって、このたび5万に到達したブログ上のカウント表示は、ユニークアクセス方式による累計値です。

ちなみに、これを仮にトータルアクセス方式(一般には、こちらを選択されているサイトの方が多いようですね)でカウントした場合、当ブログは現在ひと月あたり平均1万5~6千カウント程度で推移しているようです。年間だと18万~20万カウント相当で、このペースで仮に10年続けた場合、累計にして180万~200万カウント相当となるようです。

もちろん、このペースで果たして10年も続けられるか否かは別問題ですが、今後も出来るだけ地道にコツコツ続けようとは思っています。

以上、当ブログの最近のアクセス状況に関する大まかな報告でした。今後とも宜しくお願い致します。

ムターによるブラームスのヴァイオリン・ソナタ全集の再録音


ブラームス ヴァイオリン・ソナタ全集
 ムター(vn)、オーキス(pf)
 グラモフォン 2009年 4778767
477-8767

グラモフォンより先週リリースされた、アンネ=ゾフィー・ムターのヴァイオリンとランバート・オーキスのピアノによるブラームスのヴァイオリン・ソナタ全集のCDを聴きました。

これはムターとしては2回目となるブラームスのソナタ全集の録音で、初録音はムターがハイティーンの頃の1983年、ワイセンベルクとのデュオでした。

その録音で披歴されている超絶技巧にして天真爛漫とした弾きこなしは見事なものでしたが、その録音から25年を経て、この再録音ではどのようなブラームスが披歴されるか、興味深く思い購入しました。

ところで、このCDでは収録の順序として、まず最初にイ長調のソナタ第2番が収録され、その後にト長調ソナタ第1番「雨の歌」、そしてニ短調のソナタ第3番の順に収録されています。

わざわざ2番と1番の収録順を入れ替えたのは、何か理由があるのかと思って、ライナーノートを見ると、本録音に関してのムターのインタビューが掲載されていたので、その英文を一通り読んでみたのですが、収録順を入れ替えた理由は特に書かれていませんでした。ただ、ムター自身が3曲の中で最も気に入っているのがト長調ソナタ第1番「雨の歌」であるということを仄めかしたような記載はありました。

さっそく演奏に耳を傾けてみましたが、3曲のソナタいずれも艶麗を極めたようなブラームスとなっていて、何という演奏だろうと、聴いていて率直に驚嘆させられました。どこか天真爛漫とした趣きの強かった旧録音での演奏よりも、(当たり前ですが)圧倒的に大人びたような表情が演奏に憑依して、それが独特の異彩を演奏にもたらしているのです。

この演奏におけるムターのヴァイオリン・ソロにおいては、およそヴァイオリンという楽器が鳴らし得る最高の地点とも思えるほどの豊潤なボウイングが披歴され、それだけでも凄いのに、その驚異的なまでの音響美に加えて、旧録音で披歴された卓越したテクニックも揺るぎなく、しかし、そこでの初々しさは影を潜め、それに取って代わるかのように、まるで光の中で踊りまわる女神とでもいうかのように艶麗を極めたフレージングの艶やかさと、情熱的というのを通り越して煽情的とも思えるほどの強烈なテンペラメントの放出とが、混然一体となって聴き手に迫ってくるような、そんな演奏なのです。

このような演奏であってみれば、確かに聴き手の感覚に訴えてくる力はもの凄く、聴いていてクラクラするような感じさえするのですが、その副作用として、これはブラームスの音楽のパルス、その独特の波長に対して、本当に適合した演奏なのだろうかという、ある種の違和感も聴きながら台頭してくるような演奏でもあったように思います。

その違和感というのは、あたかも「タンホイザー」のヴェーヌスベルクのごとき、これほど妖艶で煽情的な演奏を、何もブラームスのソナタで披瀝しなくても、、ということなのです。その「タンホイザー」で言うなら、むしろエリーザベトみたいな清楚な雰囲気を湛えた演奏の方が、よりブラームスの音楽の本質に近いような気がしますし、その方が少なくとも、これらブラームスのソナタ特有の内省的な味わい、ある種の枯淡の色合い、ないしブラームス晩年の諦観の混じったような気分などが、より仮借なく描き出されるのではないかと思えなくもありません。

もちろん聴く人によっては、このムターの新録音のブラームスのソナタを文句なく素晴らしいと感じられても全く不思議ではない抜きん出た表現力の演奏ではないかと思われますが、私としては聴いていて魅了させられる部分と、いささか辟易させられる部分とが、相互に織り交ざった複雑な構図の絵図面を観るような演奏だった、というのが率直な感想でした。

リヒテルによるバッハ・平均律クラヴィーア曲集全曲(セッション録音)


J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻・第2巻
 リヒテル(pf)
 ビクター 1972・73年 VICC-40210-3
VICC-40210-3

一昨日・昨日と、スヴィヤトスラフ・リヒテルによるバッハ・平均律クラヴィーア曲集全曲のインスブルック・ライヴを聴いた印象について書きましたが、その中で度々言及したリヒテルの同曲のセッション録音、すなわちリヒテルが1972年と翌年にザルツブルクのクレスハイム宮殿でセッション録りしたバッハ平均律全曲録音に関して、今日は少し書きます。

とはいえ、こちらは既に語り尽くされた感のある有名な演奏ですし、あくまでインスブルック・ライヴとの対比という観点で思うところを書いてみます。

このセッション録音に対する私なりの印象というのは、昨日書いたとおり、「その独特の残響特性と、リヒテルならではのピアニズム、ことに個々のフレージングに対する吟味と研磨の際立った度合いとの、幸福な融合により、聴き手を深い思索の境地へ誘うような佇まいがあり、それゆえに聴いていて深いところで癒される思いのする演奏」というものです。

それを少し踏み込んで書くならば、20世紀の最高峰のヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのリヒテルのピアニズムを惜しみなく投入しながらも、ある種の高踏的な精神も同時に持ち合わせていて、それがバッハの哲学的ないし瞑想的な音楽の雰囲気と絶妙に整合している(そして、その整合剤として作用しているのが、あの独特の濃密な残響感なのでしょう)、そのあたりの音楽の深淵に途方もない魅力ならびに吸引力を保有する演奏で、何度聴いても飽きないというより、むしろ何度も聴きたくなるような、そんな演奏でした。

対して、インスブルック・ライヴの方は、セッション録音で示した、ある種のゆとりを排してギリギリの地点で勝負したバッハ、という気がします。往年のリヒテルのピアニズムが如何に超絶的なものであったか、それがスタジオ録音以上に克明に伝わってくるのです。

したがって、セッションでの哲学的ないし瞑想的な音楽の雰囲気は後退していて、代わりに抜き差しならないまでの表現衝動の高まりが聴き手の胸をえぐる、そんな演奏になっているのです。

そのあたりの雰囲気の違いを一つとして、もう一つ私が興味深く思ったのは、個々の曲に対する演奏タイムにおける、セッションとライヴでの顕著な違いでした。

というのも、インスブルック・ライヴの方が、セッションよりも全体的に演奏時間が短く、要するにテンポスピードが速くなっているのです。

具体的に見ると、第1巻と第2巻の全48曲のうち、実に47曲において、インスブルック・ライヴの方がセッションよりもタイムが短いのです。この47/48という徹底ぶりにおいて、私は明らかに偶然ではないリヒテルの確信を感じました。

この点、このライヴがセッションを経由した直後の時期であったことが、この曲をリヒテルにとって自家薬籠中のものとし、揺るぎもない自信で一気に弾き抜いてしまったということなのかも知れません。

しかし周知のように、バッハの平均律はモダン・ピアノ演奏における最難曲のひとつであり、それは、この曲のライヴ録音をリリースするピアニストが、(リヒテルを除いて)ほぼ皆無に近いことからも裏付けられます。

この超難曲を、ミスをしたら取り返しのつかないライヴで、ミスをしても録り直しが効くセッションよりも、一回り速めのテンポで弾き抜いてしまうというのは、一体どういう発想なのでしょう。それでいて、この驚異的な完成度! ほとんど常人の理解を超えているように思えますし、それこそ神業の領域にある演奏というべきでしょうか。いかにリヒテルが天才であったか、その証左がこのインスブルック・ライヴなのかも知れません。

それが過ぎて、時に技術的な凄さが全面に出過ぎて、バッハの音楽の落ち着きや内面性と不和を来たす局面も聴かれることを考慮すると、「リヒテルの真骨頂」を聴くならインスブルック・ライヴ、「リヒテルのバッハ」を聴くならセッション、ということになるのではないでしょうか。

いずれにしても、それぞれに掛け替えのないピアニズムの粋が披歴された、リヒテルの2つの平均律、いずれも今後100年経とうとも色褪せない人類の至宝の一つではないかと思います。

引き続き、リヒテルによるバッハ・平均律クラヴィーア曲集全曲のインスブルック・ライヴ


J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻・第2巻
 リヒテル(pf)
 Poloarts 1973年ライヴ CL4B860802
CL4B-860802

昨日に引き続いて、スヴィヤトスラフ・リヒテルによるバッハの平均律クラヴィーア曲集「インスブルック・ライヴ」に関してですが、昨日の第1集に続いて今日は第2集の方の演奏を一通り聴きました。

これで2日掛けてCD4枚の全48曲を耳にしましたので、私なりに思うところを書いてみたいと思います。

まず音質ですが、昨日も書きましたように、セッション録音の音質との違いに最初は面食らいました。

ザルツブルクのクレスハイム宮殿で録音されたセッション録音の方は残響感の強さが大きな特徴でしたが、インスブルックのヴィルテン修道院付属教会で録音されたインスブルック・ライヴの方は、本当に教会なのかと言うくらいに抑制された残響感で録られていて、個々のタッチの放つ音価の減衰率がセッション録音よりも際立って高く、それこそスタジオ録音なみのクリアーな輪郭で演奏が捕捉されているのです。

続いて私が面喰ったのがリヒテルのアプローチで、全体的にセッションでの演奏よりも一回りアグレッシブというのか、緩急強弱の起伏を相対的に大きく取り、セッションでの瞑想的な雰囲気とは離れた、むしろ表現主義的なバッハが披歴されていたのでした。

そして、このインスブルック・ライヴは、聴いているうちに何だか怖くなってくるような演奏なのです。超絶的なテクニック、強靭な打鍵、硬質にして透徹したタッチ、厳しくも内省的な音色、いずれもセッション録音で披露されているリヒテルならではのピアニズムの特性が、このライヴにも存分に聴かれるのですが、上記のような音質の違いと、表現の取り方の違いとにより、それらの凄味が増幅されて途方もないインパクトを帯びたものとして立ち現われてきたのでした。

また同時に、バッハの音楽の中に内蔵されている、多様なニュアンスや情緒(喜怒哀楽の一歩手前とでもいうべき、曖昧模糊とした)に聴いていて不意に胸を打たれる、そんな演奏でもあると思います。

というのも、もともとリヒテルの弾くバッハは、作品と同化するようにピアニズムを構築するというより、むしろ自身の枠組みに作品を再構築して掛かるというアプローチであって、そのデュナーミクの広いレンジ、積極的なアゴーギグの活用、明暗や硬軟の多彩なタッチの表現など、バッハというよりロマン派の音楽に近接した雰囲気をまとわせているのですが、それがセッションよりも一層に推し進められている、という感じがするからです。

そのあたりの、「バッハの知」と「リヒテルの情」との、抜き差しならないせめぎ合いこそが、このライヴの真骨頂ではないか、そんな気もします。

とはいえ、昨日も書いたとおり、このインスブルック・ライヴの方がセッション録音を凌いでいるとは、私には一概に思えません。

というのも、リヒテルが1972年から73年に掛けて録音した、かのバッハ平均律全曲のセッション盤には、その独特の残響特性と、リヒテルならではのピアニズム、ことに個々のフレージングに対する吟味と研磨の際立った度合いとの、幸福な融合により、聴き手を深い思索の境地へ誘うような佇まいがあり、それゆえに聴いていて深いところで癒される思いのする演奏であるからです。

つまり、あくまで私の印象において、インスブルック・ライヴは前述のように、聴いているうちに何だか怖くなってくるような演奏であり、そしてセッションの方は、聴いていて深いところで癒される思いのする演奏であり、この両演を単純に対比して、どちらが優れているとか凌いでいるとかいう考えは、何かズレているというか、ナンセンスなように思われてなりません。

いずれにしても、このインスブルック・ライヴは、セッションとは別の方面において、モダンピアノによるバッハ平均律の表現としての1つの究極の地点を伺わせる超絶的な演奏であり、他のピアニストには容易に真似のできないような独特のスケール感と、汲めども尽きない泉のような深い内面性とを兼ね備えた、驚異的なバッハというのが率直な感想で、この掛け替えのない演奏をこうして耳に出来たことは私にとって大きな僥倖でした。

なお、もう少し書き足したいことがあるので、後日に続きます。

リヒテルによるバッハ・平均律クラヴィーア曲集全曲のインスブルック・ライヴ


J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻・第2巻
 リヒテル(pf)
 Poloarts 1973年ライヴ CL4B860802
CL4B-860802

昨日に入手した、スヴィヤトスラフ・リヒテルによるバッハの平均律クラヴィーア曲集「インスブルック・ライヴ」のうち、今日は第1集の方の演奏を一通り聴きました。

昨日の更新でも簡単に触れましたが、この「インスブルック・ライヴ」について少し詳しく書きますと、これはリヒテルが1973年の7月と8月にオーストリア、インスブルックのヴィルテン修道院付属教会で演奏したバッハの平均律クラヴィーア曲集全曲をライヴ録音したものです。

リヒテルはバッハの平均律クラヴィーア曲集の全曲を70年代初頭にセッション録音しており、それは現在もビクターからリリースされていて、バッハの平均律の珠玉の名演として今日まで広く認知されています。

対して、このインスブルック・ライヴの方のバッハは、もともとリヒテルの死去した1997年にビクターから国内盤としてリリースされたのが初出でしたが、それが契約の問題(最終的にリヒテル本人の許諾が降りなかったとも言われている)からリリース直後に市場から急遽回収を余儀なくされてしまい、それ以後二度とリリースされることはなく現在に至り、文字通り「幻の録音」とされてしまったのでした。

その後、中国のPoloartsというレーベルが正式なライセンスを取得し、そこから正規にリリースされる運びとなったのですが、少数生産ゆえにリリースのたび即座に売り切れてしまうという有り様で、この録音が広く普及するには程遠い状態が続いていました。

そういうわけで、このインスブルック・ライヴについては、私は聴くのを半ば諦めていたのですが、今回そのPoloartsから再生産された盤が入荷したとのことで、半信半疑でCDショップを覗いたら無事に買うことができたという次第です。

あまりにもあっけなく買えてしまったので、これって本当にあのインスブルック・ライヴかと疑いたくなるくらいでしたが、とまれ晴れて「幻の録音」が聴けるという喜びにうきうきして帰宅しました。

昨日すぐに聴こうかとも思いましたが、ものがものだけに、休日にゆっくり聴いた方がいいと思い定めて、今日まず第1巻のCD2枚を聴いてみたのでした。

まず、最初の1曲め(第1番)を聴き終えて「セッション録音とは随分ちがうな」と感じました。リヒテルがセッション録音として残した平均律全曲盤の方は、これまで幾度となく耳にしているので、それとの違いというのが気になったのでした。

しかし、この差違というのは多分に音質的な特性によるものだろうと思って、音質的差違を横に置くならピアノ表現そのものはセッション録音で披歴されている行き方と、それほど違わないのではないかという感触でした。

ところが、その考えは続く第2番を聴くに及んで、変更を余儀なくされたのです。というのも、この第2番のプレリュードにおいてはセッション録音での演奏とは明らかに一味ちがう、何か鬼気迫るものが色濃く表出されていたように思われたからで、ことにプレスト部(0:51)あたりなど聴いていて震えがくるほど凄く、そのあと同じシーンをセッション録音で聴いて比較してみると、その表出力において歴然の差が認められたのでした。

同じような局面は他にも見受けられ、例えば第10番のプレリュード最後のプレストからフーガに飛び込んでいくところなど、まるで狂気すれすれといった凄味が放たれていて、聴いていて恐ろしくなるくらいでした。そして、この凄味は、セッション録音の方では必ずしも十分に聴かれない性質のものなのです。

つまり、このインスブルック・ライヴのライヴ録音をセッション録音と比較した場合、まず音質が全然ちがいますし、それに照応するかのように、演奏自体の行き方においても少なからぬ相違が、かなり克明に認められるように思います。

それでは、このインスブルック・ライヴとセッション録音、どちらの演奏が優れているのでしょうか。これまでも「インスブルック・ライヴでの演奏はセッション録音を凌くほどの名演」というような話は、ちらほら耳にしていたのですが、なるほど聴いてみると、私も思わず首肯したい誘惑に駆られます。それほどに、このインスブルック・ライヴでのバッハは圧倒的に素晴らしい演奏です。

しかし同時に、そのようなセッション録音を凌ぐとか凌がないとかいう視点は、あまり意味がないのではないかという気もします。というより、この演奏をそういう視点で一面的に捉えるのは、むしろ危険な気がするのです。

いずれにしても、まだ第1巻の24曲を聴いた時点で、あと第2巻の24曲が残っているので、それを聴いた上で、このインスブルック・ライヴに対する私なりの感想を後日に改めて出したいと思います。

キングス・シンガースのオリジナル・デビュー・レコーディングス


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に28枚まで掲載していますが、今回はCD29を聴きました。

ANNI-29
オリジナル・デビュー・レコーディングス
 キングス・シンガース、ゴードン・ラングフォード・トリオ

このディスクは、アカペラの世界的人気グループである英キングス・シンガースのデビュー・アルバムとのことです。

録音年は1970年頃のようですが、これはシャンドスレーベルが発足した1979年以前のレコーディングであり、おそらく別レーベルが録音した音源をシャンドスが引き継いだものではないかと思われます。

収録曲は①南京豆売り②シェナンドー河③熟したサクランボ④サマー・タイム⑤タイム・ワズ⑥スカボロー・フェア⑦ただ憧れを知る人だけが⑧リンステッド市場⑨樫とトリネコ⑩素晴らしき恋人たち⑪朝霧にそよぐ風⑫遥かなるアラモ⑬ホワット・カインド・オブ・シングス、以上13曲です。各曲とも平均3分程度のもので、収録タイムもディスク全体で36分ほどに収まっています。

内容的にはポピュラー・ソングが基本ですが、クラシックのジャンルとしては④と⑦の2つが含まれています。④はガーシュウィンのオペラ「ポーギーとべス」の有名なナンバー、⑦はチャイコフスキーの歌曲がそれぞれ原曲です。

とはいえ、このアルバムは私には正直ちょっとジャンル外という感じで、何とも言えないところですが、肩肘張らないアカペラ歌唱には聴いていて心地いい雰囲気があり、おそらくそのあたりの「歌の楽しさ」が魅力のアルバムではないかと思います。

以下、余談ですが、今日の会社帰りに都内のCDショップに寄って、性懲りもなく新譜を物色していた際に、以下のCDが売られているのを見つけて狂喜し、目ぼしい新譜ともども購入して帰りました。

CL4B-860802
J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻・第2巻
 リヒテル(pf)
 中国Poloarts 1973年ライヴ CL4B860802

激レア盤として知られる、リヒテルによる1973年の平均律全曲ライヴ、通称「インスブルック・ライヴ」です。

これと同じ録音の国内盤(ビクター)のCDは鉄壁の入手不能盤とも言われていますが、この中国盤も、過去に何度かリリースされたことがあったものの、瞬時に売り切れてしまい、買えずじまいでした。

これは単に「幻の録音」としての稀少価値だけでなく、その演奏内容の素晴らしさにおいても語り伝えられていた録音でもあり、私も一度は聴いてみたいと思っていたのですが、ようやく入手することができました。

果たして如何なる演奏なのか、さっそく明日にでも、じっくりと聴いてみたいと思います。

引き続き、小山実稚恵とカスプシク/シンフォニア・ヴァルソヴィアによるショパンのピアノ協奏曲集


ショパン ピアノ協奏曲第1番・第2番
 小山実稚恵(pf) カスプシク/シンフォニア・ヴァルソヴィア
 ソニー・ミュージック 2009年 SICC10090
SICC10090

昨日の続きですが、結局まとまり切らずでした。

ところで、本CDの演奏の使用楽譜には、ヤン・エキエル校訂ナショナル・エディションという、特殊な版が使われています。ライナーノートにいわく、「2005年にポーランドで刊行された校訂で、日本でこの楽譜を使って録音されるのは初めて」とのことですが、例えば第1協奏曲の第1楽章(6:38)からのピアノパートの第2テーマの前に、聴いたことがないような即興的なフレーズが聴かれるなど、聴いていて普通とは少し違う演奏だなという感じがしました。もっとも、従来版との具体的差違に関する言及はないので、どこまでがピアニスト独自の表情付けで、どこまでがスコアの指示なのかは、聴いていて判然としません。

そのあたりの版の新規性と関係するか否かは正直よく分らないですが、ここで聴かれるピアノ演奏においては、ある種の名人芸の発揮というか、技巧の誇示といった、言うなれば押し付けがましいような表情の強さがあって、そのあたりが私には最後まで引っ掛かったのでした。

この点、私が最近聴いたショパンのCDで深い感銘を与えられたものとして、ちょうど本CDと同時期にリリースされた、仲道郁代のショパン・アルバム(ショパニズム)が思い出されるのですが、その仲道郁代のショパンの感想として、「そのピアニズムというのは、盤石のテクニックにより幾つかの難所を魅力的に引き立たせる華を感じさせる演奏であったりもするのですが、むしろ彼女の幅広い表現力からは、どの曲ひとつとっても、聴いていて歪みの無い作品本来の美しさというものが、仮借なく描き出されている点に真価があるように思われる」という風にブログに書きました。

その仲道郁代の演奏を現時点で思い返すと、そこにはある種の表情の絶妙な抑制というか、含羞、慎ましさのようなものがあって、それが聴いているうちにジワジワと効いてきたのではないか、というように思えるのです。

ひるがえって小山実稚恵のショパンですが、その演奏を聴いていると、どうも「自分はこんなにショパンを上手く弾けるんだ、演奏技術が目覚ましいのだ」、という強烈なまでの自己アピールの度合いが、場面によっては聴き手の感興の高まりを阻害してしまうようなこともなくはないのではないか、という風にも思えるのです。

ただ、使用楽譜の件もありますし、ピアニストの主観的には必ずしも強烈アピール型の演奏を意識したアプローチではないのかもしれないですが、少なくとも演奏を聴いた印象としては、そういう感じに聴こえなくもなくて、そのあたりの微妙な気配から、これほど素晴らしいショパンなのに意外に感銘の度合いが伸びないという、むず痒い感覚が聴き終えて少しだけ残留したような、そんな気がしたのでした。

小山実稚恵とカスプシク/シンフォニア・ヴァルソヴィアによるショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番


ショパン ピアノ協奏曲第1番・第2番
 小山実稚恵(pf) カスプシク/シンフォニア・ヴァルソヴィア
 ソニー・ミュージック 2009年 SICC10090
SICC10090

ソニー・ミュージックより先般リリースされた、小山実稚恵のピアノ・ソロによるショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番が収録されたCDを聴きました。昨年5月にワルシャワでセッション録音された演奏とされ、伴奏はヤツェク・カスプシク指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィアが務めています。

小山実稚恵は、周知のように1982年チャイコフスキー国際コンクール第3位、そして1985年ショパン国際コンクール第4位と、これら2大国際ピアノ・コンクールに初めて入賞した日本人ピアニストですし、おそらく日本の女性ピアニストの中でも最高峰の演奏技術の保持者の一人と思われます。

もっとも、彼女のレパートリーにはショパンも含まれるものの、むしろリスト、ラフマニノフ、スクリャービンといった超絶技巧系の作品を得意とするピアニスト、というのが私の印象でした。

いずれにしても、前述のような輝かしい経歴を持つ小山実稚恵の、ショパンのコンチェルトの初リリースということで、その演奏に耳を傾けてみました。

全体を聴き終えての率直な印象は、「何と素晴らしいショパン演奏なのだろう」というものでした。何より、ショパン・イヤーに向けての初録音に懸けるピアニストとしての強い意気込みが、聴いていて自ずと滲み出るような、果敢な表現意欲に溢れた演奏ですし、また同時に、日本人のピアニストの演奏としては、おそらく演奏技術に関して最高の境地の開陳された演奏のひとつではないか、とも思われました。

演奏の造型としては、杓子定規のイン・テンポ演奏ではなく、むしろテンポ振幅を大きく取ったロマンティック型のスタイルに拠っているのですが、およそフレージングの強弱や緩急に左右されず、どんな場面でも高度に磨き上げられたような、キラリと粒の整った打音の揺るぎない安定感、盤石の技巧など、いずれも聴いていて惚れぼれするばかりでしたし、アクセントの置き方ひとつ取っても、何か堂に入った貫禄のようなものさえ伺える、そんな演奏なのです。

カスプシク指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィアも中編成の利を活かした、機を見るに敏なレスポンスの速さと、内声の充実感が抜群で、ピアノとの連携も含め、これらコンチェルトの伴奏として求められる要求を万全に満たしていて、およそ申し分のない演奏のように思えます。

しかしながら、これだけ素晴らしいショパンが披歴されているのにも関わらず、この演奏から圧倒的な感動がもたらされるかというと、正直さて、どうだろうという疑問符が浮かんでしまうのです。演奏は確かに素晴らしいと思われるのに、その素晴らしさに比例するはずの感銘が十分に付随しない、そんなもどかしさというべきでしょうか。

その理由ですが、私の考えがまとまる前にタイムオーバーとなってしまったので、また後日に続きを書きたいと思います。

ブラック・ダイク・ミルズ・バンドの「ザ・コンプリート・チャンピオンズ」


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に27枚まで掲載していますが、今回はCD28を聴きました。

ANNI-28
「ザ・コンプリート・チャンピオンズ」
 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド
 1986年録音

イギリスの名門ブラスバンドとして有名なブラック・ダイク・ミルズ・バンドの演奏による、「完全なる勝利者」と題されたアルバムです。

収録曲は以下の4曲です。

①ウィルフレッド・ヒートン「コンテスト・ミュージック」
②ジョージ・ロイド「ロイヤル・パークス」
③ギルバート・ヴィンター「サリュート・トゥ・ユース」
④ジョン・マッケーブ「クラウドキャッチャー・フェルズ」

聴いた限りでは、いわゆるブリティッシュ・ブラスバンド方式に基づいたバンド編成のようですね。大編成のコルネット部隊を中核に、フリューゲル・ホルンやテナー・ホルンといったブリティッシュ様式に特有のパートが、ハーモニーに多彩な色合いを付与していて、なんともカラフルな響きに満たされています。

ブラック・ダイク・ミルズ・バンドの演奏は、やはり流石というべきでしょうか。ブラスの豪快な鳴りっぷりといい、アクロバティックなフレージングの切れ味といい、聴いていて爽快の一言でした。

テンシュテット/ロンドン・フィルによるマーラー交響曲第2番「復活」の89年ライヴ


マーラー 交響曲第2番「復活」
 テンシュテット/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 1989年ライヴ JLPO0044
JLPO0044

ロンドン・フィル自主制作レーベルより先週リリースされた、クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルの演奏によるマーラー交響曲第2番「復活」のライヴCDを聴きました。

この録音は1989年2月におけるロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールでの演奏会のライヴ録りで、歌唱陣はソプラノ独唱がイヴォンヌ・ケニー、メゾ・ソプラノ独唱がヤルド・ファン・ネスとなっています。

1989年というと、テンシュテット最晩年の時期で、喉頭ガンとの闘病生活から復帰した時期の演奏になりますが、この時期のテンシュテットのライブ、ことにマーラー演奏においては、91年の「悲劇的」、93年の7番、そして昨年末にBBCレジェンドからリリースされたばかりの90年の「巨人」と、いずれも神憑り的な演奏が残されています。

また、テンシュテットの「復活」としては、何といっても超絶的な名演として巷間名高いのが、以下の北ドイツ放送響との80年ライブです。

ME102526
マーラー 交響曲第2番「復活」
 テンシュテット/北ドイツ放送交響楽団
 MEMORIES 1980年ライブ ME1025/26

上記CDは非正規盤ではあるものの、その演奏内容の超絶性ゆえに、テンシュテットの残したマーラー演奏中でも指折りの名演として広く認知されているものです。

そのようなことから、今回リリースされたテンシュテットの「復活」89年ライヴにおいては、果たしてどのような凄絶なマーラーが展開されているのか、興味津々で、さっそく演奏に耳を傾けてみました。

その印象ですが、ここには果たして超絶的なまでのマーラーが展開されていて、その意味では予想通りとも言えるのですが、その演奏内容というのが凄すぎて、その意味では私の想像を遙かに超えていました。

ところで、上記の北ドイツ放送響との80年ライブの「復活」に対する私の感想ですが、実は以前こちらに掲載済みで、それを引用すると、「全編を通してアンサンブルの発する響きの表出力が桁外れであり、その迫力が振り切るともはや狂的という域にまで到達している。ことに第1楽章の(15:40)から再現部突入までのくだりなど、聴いていて頭がどうにかなるかというほどに凄まじい。まさにマーラーの音楽の真骨頂がここにある。」というのものでした。

しかし今回のロンドン・フィルとの89年ライブの「復活」は、その北ドイツ放送響との「復活」とは、印象的に少なからぬ違いが認められるのです。

なによりテンポ設定の差が大きく、ことに第1楽章は、北ドイツ放送響との演奏では21分半だったのが、今回のロンドン・フィルとの演奏では25分ジャストとなっていて、圧倒的なスローテンポです。

そして、このスロー基調は第1楽章以降においても一貫され、これが大きく影響して、北ドイツ放送響との演奏とは一味ちがった、途方もない音楽的な濃密さが全体に充溢する演奏となっているのです。

もっとも遅い一辺倒という単純なものでもなく、ここぞという時には、まるで悠然とした大河が一気に激流するかのような、凄まじいテンポのうねりが披歴されていますし、どんなにテンポが振幅しようと、その異常なまでの響きの濃密さや、各パートの放つ音色の持つ、抜き差しならない表出力など、その緊迫した音楽の色合いが絶えることはなく、まるで一音一音、指揮者が自らの命を削って刻みつけているのではないかというくらいの、名状しがたい緊迫の空気が充満している、そんな演奏なのです。

このような演奏であるがゆえに、テンポを軸とする造型面においては、それこそ踏み外しの連続ともいうべき表現内容ですので、ことマーラーの音楽をスコア通りに歪みなく、整然と再現するという観点においては、まったく当を逸した演奏内容と視ることも可能であり、例えばカラヤンのマーラーのような、それこそ健全を尽くした演奏を愛聴するような嗜好をもたれる聴き手にとっては、このテンシュテットのマーラーは、もう聴いていられないというくらいの演奏内容ではないかと察せられます。その意味では、必ずしも誰にでも受け入れられるような演奏ではないのかも知れません。

しかし、こと演奏内容の真実味という観点においては、どうにも抗い得ない精神の迫真が、この演奏の中枢として確かに息づいているという風に私には思われてなりませんでした。指揮者の生命力が凝縮されたような、そんなマーラーというべきでしょうか。

アーノンクール/コンセルトヘボウによるハイドンの交響曲第101番~第104番


ハイドン 交響曲第101番~第104番
 アーノンクール/アムステルダム・コンセルトヘボウ
 テルデック 1987・88年 0630-18953-2
0630-189532

ニコラウス・アーノンクールがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して録音した、ハイドンのザロモン・セットのうち交響曲第101番から第104番までの4曲を収録したCDを聴きました。

もちろん新譜ではありませんし、新規購入盤でもありませんが(10年くらい前に購入)、一昨日ブログで取り上げた、アーノンクール/ウィーン・フィルによるハイドンの最新録音を聴いた際、その参考のため(交響曲第103番「太鼓連打」冒頭部のロール打ちのやり方の確認)取り出してみて、少しだけ耳にしたのをきっかけに、何だか久しぶりにじっくりと聴いてみたくなり、今日その録音に改めて耳を傾けてみたのでした。

これは1980年代にアーノンクールがハイドンの交響曲の録音に集中的に取り組んでいたころの録音で、この時期にコンセルトヘボウ管を指揮してザロモン・セット全曲に第68番を加えた計13曲が録音され、それと並行する形で、ほぼ同じ時期に、手兵のピリオドオーケストラであるウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを指揮して、ハイドンの初期から中期の交響曲計11曲が録音されています

さらに21世紀に入ってからは、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを指揮してパリセット全曲が録音されていますので、現在までのアーノンクールにより為されたハイドンの交響曲の録音は、104のうち計30曲という計算になるようです。

それにしても、録音から20年が経過した現在の耳においても、古くさいどころか、むしろ強烈な個性感を今だに匂わせるハイドンとして響きてくる演奏と感じられ、あらためて驚かされてしまいました。

世界有数の高性能モダンオーケストラであるコンセルトヘボウのポテンシャルに、ピリオドアプローチを融合させてしまう、その独創的な手腕からして感服せざるを得ませんし、そこから奏でられる音楽の得難いまでのインパクトも素晴らしく、これはやはり後年のアーノンクールの快進撃を予告するような、会心のハイドンだなというのが率直な感想でした。

ただ、そのあたりに関しては、ほぼ評価の定まった録音ですし、別に今さら改めて言うほどのことでもないのかも知れません。それより私としては、一昨日ブログに掲載したところの、ウィーン・フィルとの最新録音のハイドンとの違いについて、少し考えてみたくなりました。

というのも、特に第103番「太鼓連打」に関しては、同じ指揮者の演奏にしては、双方で随分と違うような印象を受けるからです。

まずウィーン・フィルとの「太鼓連打」を聴いた印象としては、一昨日書いた通りで、多分に遊びごころを前面に押し出したユニークな演奏、いわば真剣に遊んでいるという風情、ウィットに富んだアーティキュレーションが随所に散りばめられた、面白い演奏、聴いていて「どこがオーセンティックなんだ?」と思ってしまうような、大胆な表情付け、というようなものでした。

これに対し、コンセルトヘボウ管との「太鼓連打」は、アーノンクールの往年の辛口なバロック・スタイルの残照が随所に滲み出るような、アンサンブルの声部対比のどぎつさ、あるいはハーモニー内の色彩的対照の強烈さ、などがあり、それらが表現主義的というか、独特の尖った感触を演奏に付帯せしめていて、それがピリオド奏法とかピリオド・バランスなどと結託し、いわく型破りなインパクトを叩きつけている、そんな衝撃的な演奏内容です。

このコンセルトヘボウ管との演奏とひき比べてみると、今回リリースされたウィーン・フィルとの「太鼓連打」は、かなり表情が丸くなっているように感じられます。そこではアーノンクール往年の尖った表現主義的な色彩は相対的に影を潜めていて、少なくともシリアス一辺倒の息苦しさからは逃れていますし、むしろ往年のアーノンクールには聴かれなかった、遊びごころというか、いい意味での余裕のようなものからくるユーモア精神が、演奏のそこかしこに顔を出していて、そのあたりが演奏に独特の魅力を付加せしめているように思われたのでした。

このあたりの変化は、ちょうど80歳を迎えたアーノンクールの円熟から来る変化のようにも思えますし、ウィーン・フィルという特殊なオーケストラからくる事情のようにも思えますが、そのあたりは正直よく分かりません。

以上のようなことを、アーノンクール/コンセルトヘボウのハイドンを聴きながら、つらつらと考えたのでした。やはり素晴らしい演奏ですが、現時点でのアーノンクールとは多少距離感を感じさせる演奏だなという印象も付随しました。

引き続き、ウィーン・フィルの自主プロデュースによるハイドンの交響曲集


ハイドン 交響曲集
 ヴェルザー=メスト/ウィーン・フィル(第98番)
 ブーレーズ/ウィーン・フィル(第104番)
 ウィーン・フィル自主制作 1996年・2009年ライヴ WPHLH2009123
WPHLH2009123

昨日に引き続き、ウィーン・フィルの自主プロデュースによるハイドンの交響曲集に関してですが、続いて3枚目の、ヴェルザー=メスト指揮による交響曲第98番およびブーレーズ指揮による第104番の収録されたCDを聴きました。

まずヴェルザー=メスト指揮による交響曲第98番ですが、これは2009年9月8日のルツェルン・コンツェルトザールでの録音とされるので、わずか半年前の演奏のようです。

聴いた印象としては、悪い演奏とは思わないんですが、やはりアーノンクールの後で聴くと、それなりにインパクトが弱いかなと、、ヴェルザー=メストのハイドンというよりは、率直にウィーン・フィルのハイドンという感じでしょうか。

基本的には正攻法の路線によるハイドンと言い切っても良いかと思います。オーソドックスな解釈であるがゆえに、少なくともアーノンクールよりは、ウィーン・フィルのアンサンブルの自発性を尊重した行き方のように思われますし、ある種の衝撃性にこそ乏しいものの、安心して音楽に浸れる心地良さがあって、そのあたりが好感的な演奏でした。

最後はブーレーズ指揮による交響曲第104番「ロンドン」で、これは1996年のムジークフェラインザールでのコンサートのライヴ録りのようです。

あのブーレーズがハイドンを振る?何かの間違いでは?なんて思ったくらいですが、聴いてみると意外や意外、すこぶる魅力的な演奏で思わず惹き込まれてしまいました。

強奏部ではアンサンブルが強力に鳴らされて、ことにクライマックスの迫力などは圧倒的ですが、それ以上に、一音一音のアーティキュレーションが緻密かつ明晰に構築されている点に驚かされますし、どんなに強くアンサンブルが鳴らされても、ハーモニーに混濁といったものがなく、澄んだ透明度を絶やさないあたり、聴いていて思わず唸ってしまうような、そんな演奏なのです。

このブーレーズのハイドンには、おそらく揺るぎなく知的な分析というのが土台にあって、客観を極めた視点からハイドンの音楽にアプローチし、純粋な音響的構築物として再構成したという趣きがあり、その意味においてアーノンクールと同様に指揮者の怜悧な目線の冴えた、新鮮なインプレッションのハイドンと感じられました。

アーノンクール/ウィーン・フィルによるハイドンの交響曲第93番と第103番「太鼓連打」


ハイドン 交響曲第93番・第103番「太鼓連打」
 アーノンクール/ウィーン・フィル
 ウィーン・フィル自主制作 2009年ライヴ WPHLH2009123
WPHLH2009123

昨日に引き続き、ウィーン・フィルの自主プロデュースによるハイドンの交響曲集に関してですが、続いてアーノンクール指揮による交響曲第93番と第103番「太鼓連打」の収録されたCDを聴きました。

両演奏とも2009年5月10日における演奏会のライヴとされます。場所はムジークフェラインザールではなくコンツェルトハウスのようです。

まず交響曲第93番ですが、全体的にアーノンクールの味付けが強烈で、まさにアーノンクールのハイドン、というべきでしょうか。弦の編成を絞り、ヴィブラートを抑えたピリオド型アプローチをベースに、精力的なフォルテの表出力といい、ウィーン・フィルのアンサンブルの充実感が素晴らしいですし、この演奏で聴くと、ちょっとしたメロディひとつ取ってもフレージングに巧みなメリハリが与えられていたり、音色に細やかな陰影が与えられていたりと、それこそ間断なく耳を楽しませてくれるのです。

ハイドンから、これほど強烈な色彩のコントラストを捻り出してしまうアーノンクールの手腕には脱帽ですが、それに対しウィーン・フィルもよく喰らい付いているなと、聴いていて感心させられることしきりでした。

続く交響曲第103番「太鼓連打」ですが、その演奏の前に、アーノンクールによる演奏についてのトークが録音されています。

そのトークの内容ですが、これから演奏する交響曲第103番「太鼓連打」がロンドンで初演された際、当時オーケストラのコンサートマスターが使用したストラディヴァリウスというのが、実は現在のウィーン・フィルのコンサートマスターであるフォルカート・シュトイデが携えている楽器に他ならない、ということを聴衆に告げて、「これ以上オーセンティックな演奏が、果たしてあるものでしょうか?」と冗談げに話しているのです。

その交響曲第103番「太鼓連打」ですが、おそらくコンサート前半に演奏された第93番での、真剣な演奏よりも、多分に遊びごころを前面に押し出したユニークな演奏となっていて、いわば真剣に遊んでいるという風情です。

まず第1楽章冒頭の、スコア上わずか第1小節の「ロール打ち」の部分で、なんと40秒近くもティンパニの即興演奏が展開されているのに驚かされました。

これって以前からなのかと思い、この交響曲を以前アーノンクールがコンセルトヘボウを指揮してスタジオ録音したテルデック盤を取り出して確認してみると、なるほど確かに同じようにティンパニの即興演奏が展開されているのですが、それは最初の14秒だけなのです。

それにしても、ウィットに富んだアーティキュレーションが随所に散りばめられた、面白い演奏です。聴いていて「どこがオーセンティックなんだ?」と思ってしまうような、大胆な表情付け。第2楽章で展開されるシュトイデ演奏のヴァイオリン・ソロにも惚れぼれさせられます。

これは聴き手によっては、多少クセが強すぎて煩わしいと思えるかもしれませんが、気楽にハイドンを楽しもうと安易に構えていると、良い意味で意表を突かれるような、そんな斬新なインパクトのある演奏だと思います。

ウィーン・フィルの自主プロデュースによるハイドンの交響曲集


ハイドン 交響曲集
 ドホナーニ/ウィーン・フィル(第12番)
 メータ/ウィーン・フィル(第22番)
 ヴェルザー=メスト/ウィーン・フィル(第26、98番)
 アーノンクール/ウィーン・フィル(第93、103番)
 ブーレーズ/ウィーン・フィル(第104番)
 ウィーン・フィル自主制作 1972年~2009年 WPHLH2009123
WPHLH2009123

先週リリースされた、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるハイドンの交響曲集のCDを聴きました。

これは昨年のハイドン・イヤーを記念してウィーン・フィルが自主的に製作したパッケージとのことで、オーストリア放送とスイス国営放送ドイツ語局の音源から、ウィーン・フィルと縁の深い5人の指揮者とのコンサートにおけるライヴ録音が選択され、3枚のCDに収録されています。

収録内容は以下の通りです。

①交響曲第12番
 クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮、1991年録音
②交響曲第22番「哲学者」
 ズービン・メータ指揮、1972年録音
③交響曲第26番「哀歌」
 フランツ・ヴェルザー=メスト指揮 1998年録音
④交響曲第93番
 ニコラウス・アーノンクール指揮 2009年録音
⑤交響曲第103番「太鼓連打」
 ニコラウス・アーノンクール指揮 2009年録音
⑥交響曲第98番
 フランツ・ヴェルザー=メスト指揮 2009年録音
⑦交響曲第104番「ロンドン」
 ピエール・ブーレーズ指揮 1996年録音

このハイドンの交響曲集には、最近めっきり新譜リリースの数が少なくなった感のあるウィーン・フィルの、最新の録音が含まれているのも注目されるところですが、ウィーン・フィルによるハイドンの録音の集成という観点でも興味深いところです。というのも、ウィーン・フィルのハイドンの録音というのは、アナログ期には隆盛を極めていたにもかかわらず、デジタル期に入ってから滅多にリリースされなくなっているからで、ことに21世紀に入ってからは、これが初めてのリリースではないでしょうか。

そういう興味から購入し、さっそく3枚のうちの最初の1枚、上記①~③を聴いてみました。なお、3曲とも収録場所はウィーン・ムジークフェラインザールとされています。

まずドホナーニ指揮による交響曲第12番ですが、ハイドン初期の小規模な交響曲ということからか、通奏低音にチェンバロが使われているのが耳を引きます。

しかしこの演奏は、かなり気合いの入った演奏内容であり、ウィーン・フィルの分厚いハーモニー(編成は中規模か?)をもって、この交響曲をシンフォニックに鳴らし切って見事な聴き映えです。ただ音質面では、全体的にノイズ感がそこそこ高く、少し気になりました。

次のメータ指揮による交響曲第22番「哲学者」ですが、第1楽章の冒頭からホルンのフレージング・ラインがたどたどしいですし、以降も管パートのフレーズがシャッキとしておらず、何かおっかなびっくりという感じで、いまひとつ冴えに乏しい感じがします。第2楽章も全体的に弦の音勢が弱く(特にドホナーニの12番から続けて聴くと、そう感じる)、いささかパンチ力不足の演奏だなというのが率直な印象です。音質は年代的には良好と思います。

最後のヴェルザー=メスト指揮による交響曲第26番「哀歌」ですが、これはヴェルザー=メストが1998年にウィーン・フィル定期公演にデビューした際の録音とのことです。

造型的にはテンポの速い場面と遅い場面とを強調したロマンティック・スタイルで、こと音勢や迫力などはドホナーニの演奏に及ばないようですが、ウィーン・フィルのアンサンブルの美感は、全般にナチュラルに描き出されていて、そのハーモニーの美感に聴いていて随所に惹き込まれました。音質はCD1の中では最も良好で、ノイズ感の少ないソノリティが確保されているのが何よりです。

残り2枚における④~⑦の演奏に関しては未聴ですので、聴いた時点で改めて感想を出します。

キタエンコ/アンサンブル金沢によるショスタコーヴィチとチャイコフスキーの管弦楽作品集


ショスタコーヴィチ バレエ組曲第3番&チャイコフスキー ロココ風の主題による変奏曲、弦楽セレナード
 キタエンコ/アンサンブル金沢
 ワーナー 2006年ライヴ WPCS-12031
WPCS-12031

ドミトリ・キタエンコがアンサンブル金沢を指揮してライヴ録音した、ショスタコーヴィチとチャイコフスキーの管弦楽作品集を聴きました。

このCDは2007年にリリースされたもので、新譜ではありませんが、先日、都内のCDショップを覗いたおりに目に付いたので購入したのでした。

というのも、キタエンコと言うと私には今年の秋に購入した、ケルン・ギュルツェニヒ管とのショスタコーヴィチ交響曲全集が印象に新しく、オケは違えども、そのキタエンコ指揮のショスタコーヴィチ演奏ということで興味を引かれたからです。

収録されている演奏は2006年5月、石川県立音楽堂コンサートホールでのライヴで、ライナーノートによると、これはキタエンコがアンサンブル金沢のプリンシパル・ゲストコンダクターに就任した直後のコンサートとのことです。

それで聴いてみたのですが、やはりというべきか素晴らしい演奏で、ことショスタコーヴィチの演奏に関しては、キタエンコは何という凄い指揮者なのだろうと、改めて感服させられてしまいました。

このバレエ組曲は、ジャズ音楽を愛したショスタコーヴィチの残した隠れた名品にして、娯楽志向性に富んだ、聴き易い音楽なのですが、彼の音楽一流の諧謔的なスパイスも随所でピリッと効いていて、ちょっと一口では言い表せないくらいな独特の趣きのある作品に仕上げられています。

キタエンコ/アンサンブル金沢の演奏ですが、最初のワルツから響きの生彩が目覚ましく、強和音の強烈味と、優雅な弦のメロディが絶妙に交錯し、面白味満点で、聴いていて頻りにワクワクしますし、続くガヴォット、ダンスと、いずれもユーモアとウィットと、一抹のアイロニーを絶妙にまぶしたような色合いの快演というべきもので、最後のギャロップの楽しさも何ともいえないものでした。
 
続くチャイコフスキーのロココ風は、チェロ独奏のルドヴィート・カンタの、現実感と潤いのある音色に歌心満点のフレージングが魅力的な演奏でした。最後の弦セレは、編成の小振りゆえ、この曲に特有の、あのむせ返るような弦の濃密感に欠ける憾みがあることから、最初は違和感もあったのですが、響きの透明感と細部の緻密ぶりに抜きんでいているので、聴いているうちにジワジワと惹き込まれてしまい、その美しい余韻に聴き終えて暫くボーとしてしまうという有り様でした。

そういうわけで、このCDは私にとって大収穫でしたし、これに味をしめて、今後もキタエンコの指揮するショスタコーヴィチのCDを見かけたら積極的に買っていこうかと思っています。

クラッゲルードのヴァイオリン演奏によるシンディングのヴァイオリンとピアノのための作品集(第2集)


シンディング ヴァイオリンとピアノのための作品集(第2集)
 クラッゲルード(vn) ハドラン(pf)
 ナクソス 2006年 8.572255
8572255

ナクソスから先般リリースされた、クリスチャン・シンディングの「ヴァイオリンとピアノのための作品集」の第2集を聴きました。昨年の12月にリリースされた第1集と同様、今回もヘンニング・クラッゲルードのヴァイオリンと、クリスチャン・イーレ・ハドランのピアノによる演奏です。

収録曲は以下の通りです。

①前奏曲 Op.43-3
②ロマンス・ニ長調 Op.100
③夕べの歌 Op.89-3
④春のささやき Op.32-3
⑤ロマンス ホ短調 Op.30
⑥古い様式のソナタ Op.99
⑦エレジー Op.61-2
⑧バラード Op.61-3
⑨夕べの気分 Op.120a

このうち④のみハドランのピアノ・ソロで演奏され、それ以外はクラッゲルードとハドランのデュオで演奏されています。

今回の曲目を見ると、まずシンディング作品としては最も知名度の高い④のピアノ曲「春のささやき」が収録されているのが目を引きますが、前回の第1集のそれと比べてみると、今回はシンディングの後期作品が比較的多いかという気がします。なお⑨はヴァイオリンとピアノのための曲としては、シンディングの最後の作品となるようです。

いずれにしても、第1集の方のアルバムが素晴らしかったので、今回の第2集も聴くのが楽しみでした。

さっそく一通り聴いてみましたが、その印象は前回の第1集を聴いたときのそれと概ね同じでした。少なくともノルウェーの民族的な色彩は、それほど分かりやすい形では表面化していないものの、そこかしこに北欧の抒情的な気分が音楽の中から不意に顔を出してきて、いつのまにか北欧の空気に触れているような爽快感、すがすがしさにドップリと浸っている、そんな感じですね。

クラッゲルードのヴァイオリンも相変わらずの素晴らしさで、1744年製ガルネリから繰り出される響きの芳醇なことも、同郷の若手ピアニスト、ハドランとの息の合った呼吸や連携の見事なことなど、前回の第1集を聴いた時と同様の印象を受けます。

と、結局は前回と同じことを書いているだけなのですが、それでも敢えて言うなら、例えば前回の第1集に含まれていた「古風な組曲 Op.10」のような、こと演奏面でアルバムの中でも抜きんでて秀逸と感じられたナンバーが、今回は残念ながら見当たらなかったなという気はします。それは全体的に高いレベルで安定した演奏内容だったということかも知れませんが、、

それにしても、これら一連のシンディング作品に聴かれる、愚直なまでのロマンティズムの濃度には独特の味わいがあり、この作曲家の作風の特異性を改めて印象づけられました。

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