カンブルラン/読売日響によるラヴェルの「クープランの墓」とベルリオーズの幻想交響曲


ベルリオーズ 幻想交響曲&ラヴェル クープランの墓
 カンブルラン/読売日本交響楽団
 エクストン 2009年 OVCX00055
OVCX00055

昨日も書きましたが、これまで当ブログではCDのジャケ写真の掲載につき、基本的にスキャナー取り込み画像を用いていたのですが、そのスキャナーが故障してしまったため、しばらくの間、私の携帯のカメラでCDを撮影した写真で代用することにします。

さて、昨日はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキーが読売日本交響楽団を指揮したブルックナー交響曲第9番のライヴ盤を聴きましたが、続いて今日はシルヴァン・カンブルランが同じく読売日本交響楽団を指揮した、ラヴェル・クープランの墓およびベルリオーズ・幻想交響曲の演奏が収録されたCDを聴きました。

これはエクストンより先週リリースされた新譜で、ラヴェル・ベルリオーズともに東京芸術劇場でのセッション録音です。

この録音の収録日は2009年4月17日ですが、その翌日18日に、カンブルラン/読売日響は東京芸術劇場で同一演目のコンサートを行っています。

私は当該コンサートを聴いていて、その感想もブログに書いていますが、それはカンブルランという指揮者がただ者ではないと痛感したコンサートでもあり、特に幻想交響曲に関しては、それまで生で聴いた「幻想」の中でも屈指の名演とさえ思われるものでした。

したがって、私としては昨年のコンサートの追体験を今回の新譜に期待して購入し、その演奏に耳を傾けてみました。

ところが一通り聴いた印象として、「クープランの墓」に関しては私が実演を聴いて感じた印象と概ねオーバーラップする演奏内容だったのですが、幻想交響曲に関しては必ずしもそうではなく、実演時の私の印象と重なる部分が5割、重ならない部分が5割というところで、その重ならない部分が最終的に響いて、このCDの幻想交響曲には、正直いまひとつ物足りない印象を抱かざるを得ませんでした。

その意味では残念ながら、昨日のミスターSのブル9と同じようには、実演時に受けた感銘の追体験とはならなかった、というのが率直なところです。

それでは幻想交響曲の演奏の、どのあたりが実演と重ならないように思えたかというと、とくに後半の楽章において実演時に感じた猟奇的なまでの音響面での苛烈性が、このCDで聴くと随分と大人しくなっているような気がするのです。

あの実演を聴いて私が何より感嘆したのは、前半までのクールで静的なアプローチと、後半以降のアグレッシブで動的なアプローチとの、強烈なコントラストにあったと記憶しており、そのようにブログにも書いたのですが、このCDで聴くと、そのあたりのコントラストの強烈性が、実演の印象と引き比べて全体的に手ぬるいように思えます。

もちろん実演時の私の印象というのが、そもそも間違っていて、このセッション録音に聴かれる演奏こそが、かの実演の実態であったということも、あるとは思います。しかし仮にそうでないとすると、幾つか思い当たることもあります。

まず音質面ですが、確かにSACDメディアによる臨場感の豊かなソノリティが確保されているものの、これは明らかにホールの潤沢な残響感を豊富に取り込んだトーンでもあり、いささか残響を素直に取り込み過ぎて、音響的に柔らかさが強調された格好になり、例えばティンパニの最強打とか、トッティの最強奏などでの痛烈性が弱まっているのではないかと思われる節があります。

また、セッションとライヴとの差違というのも、案外に大きいのではないかと思われ、特に、このCDがカンブルランにとって読売日響との、初のセッション録音ということで、慎重の上に慎重を期した結果、アンサンブルのダイナミクスが実演よりも多少なり、縮こまり気味になったということもあるのかも知れません。

この点、私は実演を聴いての感想の中で、「特に後半部においてカンブルランのアグレッシブな指揮ぶりに対するレスポンスが万全とは言い難い面もあり、クレッシェンドの時に縦の線がぐらついた感じになったり、最強奏時の金管の音程がやや危なっかしかったりと、現状ではパーフェクトとは言い難いものでしたが、肝心の音楽の表出力において素晴らしい個性味が聴かれた」という風に書きました。

しかし本CDを聴いての印象は上記と逆で、演奏自体の完成度としては万全であるのに、音楽の表出力が必ずしも伸び切らないように思えるのです。

周知のように、カンブルランは今年の4月から読売日響の首席ポストに就任することになっていますが、本CDの録音時点では、まだ純粋な客演指揮に近い状態であったことから、必ずしも以心伝心の演奏展開とまでは行かず、それを考慮し、無難な落とし所に落とし込んだ、そんな演奏のように思えなくもありません。

その意味では本CDのベルリオーズも、この録音の時点では、こと完成度の面ではベストを尽くした演奏であったのかも知れませんが、少なくとも実演の時に私が受けた感銘の度合いから計ると、いささか物足りない演奏内容でもあり、その実演のイメージを引き摺っている私の耳には、少し期待が外れた演奏だったというのが率直な感想です。

スクロヴァチェフスキー/読売日響によるブルックナー交響曲第9番


ブルックナー 交響曲第9番
 スクロヴァチェフスキー/読売日本交響楽団
 DENON 2009年ライヴ COGQ41
COGQ41

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキーが読売日本交響楽団を指揮したブルックナー交響曲第9番のライヴ盤を聴きました。

ところでCDのジャケット画像に関してですが、今まで使っていたスキャナーの調子が急に悪くなってしまったため、今回は取りあえず私の携帯のカメラで撮影したものを載せています。

このCDはDENONから今週リリースされた新譜で、収録されているのは2009年9月23日における東京芸術劇場でのコンサートの演奏です。

このコンサートは私も聴きに行っており、そこで披歴されたブルックナーの、あまりの素晴らしさに打ちのめされ、終演後に楽屋前で行われたスクロヴァチェフスキーのサイン会にすっ飛んで行って、プログラムにサインを頂いたのでした。

そのブルックナーは驚異的な名演であり、私がここ数年来で耳にしたブルックナーの実演の中でも、最高度に魅了させられた演奏でしたし、この演奏の時点で86歳にもなろうとするミスターSの、まさに老巨匠ならではの至芸が招来するかのような、極め付きの充実感を伴う、本当に素晴らしいブルックナーでした。

そのブルックナーがCD化されたということで、もう飛びつくように購入してしまいました。

さっそく聴いてみましたが、あの実演時の圧倒的な感銘が、まざまざと蘇ってくるような演奏で、聴き終えて言葉もありませんでした。このCDには、私の印象に残っている当時の実演そのままの演奏が、まさしく再現されている、と言って過言でないと思います。

このときのブルックナーの実演に対する私の感想としては、以前ブログに書いていますが、今回こうしてCD化された演奏を耳にした印象としても、それと全く同じでした。そこで私としては言い尽しているので、ここで新たに付け加えることは何一つありません。

その時に書いた感想を引用するならば、このブルックナーが素晴らしいのは、おそらく「スコアの細かい解釈云々などというよりも、むしろスクロヴァチェフスキーの展開する熟達のアンサンブル運用に、読売日響のアンサンブルが最高のレスポンスで応答し切ったということ」だと思うのです。

それにしても私にとって堪えられないのは、あのホールでの至福の1時間が、こうやって自宅において相当なレベルまで再現できてしまう、ということです。もちろんSACDの極上な音質の恩恵に他ならないのですが、しかし、あの実演を何時でも聴けて、そこでの感興を何度でも味わえるなんて、それこそ夢のような気さえします。

この演奏は、おそらく日本のオーケストラが到達した最高地点における、極めつきのブルックナーのひとつだと思いますし、私としては一人でも多くの人が、この演奏を聴かれることを、心から願って止みません。

仲道郁代のオール・ショパン・アルバム「ショパニズム」


「ショパニズム~オール・ショパン・アルバム」
 仲道郁代(pf)
 RCA 2009年 SICC1326
SICC-1326

今月RCAよりリリースされた、仲道郁代のオール・ショパン・アルバム「ショパニズム」を聴きました。

収録曲は以下の12曲です。いずれも2009年9月、笠懸野文化ホールでのセッション録音とされます。

①ワルツ第2番「華麗なる円舞曲」作品34-1
②バラード第3番作品47
③バラード第1番作品23
④練習曲第1番作品10-1
⑤練習曲第5番作品10-5
⑥練習曲第9番作品10-9
⑦練習曲第13番「エオリアンハープ」作品25-1
⑧練習曲第12番「革命」作品10-12
⑨練習曲第3番「別れの曲」作品10-3
⑩幻想ポロネーズ作品61
⑪マズルカ第13番作品17-4
⑫ワルツ第9番「告別」作品69-1

仲道郁代のレパートリーの中核は、もともとショパンとシューマンだったと記憶しています。しかしショパンに関しては暫く録音から遠ざかっていたようで、このアルバムも、彼女のショパン録音としてはピアノ・ソナタ第3番とスケルツォ全曲を収録した、以下の1993年の録音から、16年ぶりとなっています。

BVCC642
ショパン ピアノ・ソナタ第3番、スケルツォ全曲
 仲道郁代(pf)
 RCA 1993年 BVCC642

ちなみに上記CDを聴いての感想(メモ書き)はこちらに掲載しています

仲道郁代のショパンと言えば、私は先月サントリーホールでピアノ協奏曲第1番の実演を聴いたのですが(ズデニェク・マーカル指揮プラハ交響楽団の伴奏)、そこでは実に美しいショパンが披歴され、その演奏の印象として「単に和音が奇麗だとか、フレージングが滑らかだとかいう話とも違って、いわば音楽それ自体としての美しさというのか、ショパン演奏の一つの様式美とでもいうべきものが、おそらく彼女の中で完全に確立されていて、それが全体として聴き手に訴えかけて、その心を揺さぶらせずに置かない、そんな演奏」という風にブログに書きました。

おそらく本CDはショパン生誕200年の記念イヤーである今年を睨んだ、満を持してのショパン・アルバムという感じがしますが、いずれにしてもピアニストとして円熟の境地にある彼女が、どのようなショパンを披露するか、その演奏に耳を傾けてみました。

そして全体を聴き終えて、彼女のピアニズムが如何にショパンの音楽に「馴染んでいる」か、その度合いの強さが並々ならない点に、私は何より驚かされました。

これは先月のコンサートの実演からも感じたのですが、一体に仲道郁代のピアノ・ソロには、弱音での夢のように柔らかいタッチから、強音での凛々しいフレーズの躍動に至るまで、すべてのフレージングがショパンの音楽に吸着するかのような、揺るぎない様式感と多彩なニュアンスの反映が随所に聴かれるのです。

そして、そのピアニズムというのは、盤石のテクニックにより幾つかの難所を魅力的に引き立たせる華を感じさせる演奏であったりもするのですが、むしろ彼女の幅広い表現力からは、どの曲ひとつとっても、聴いていて歪みの無い作品本来の美しさというものが、仮借なく描き出されている点に真価があるように思われるのです。言わば、その場面ごとのニュアンスの移ろいを楽しみながらショパンの音楽を表現しているというような、ピアニズムと作品との馴染み具合が絶妙な演奏、というべきでしょうか。

もっとも彼女のピアニズムの性格としては、おおらかで、健康的なものであり、ショパン音楽の病性を際立たせるような病的で不健康な表情付けなどは、ここには皆無といってよいほど聴かれません。

しかし、それでも彼女の演奏に耳を傾けていると、ある種の「孤独の痛み」というのか、最晩年のショパンの苦悩のような疼きが、確かに息づいているように私には思われるのです。

特に素晴らしいのが⑩の幻想ポロネーズで、この演奏には実に美しく、同時に哀しい響きが充溢しているのです。

この幻想ポロネーズについては、仲道郁代が久しぶりのショパン録音にあたって、これこそはと特に収録を熱望した作品とされており、本CDのライナーノートには、作品に対する自身の思いが以下のように開陳されています。

この曲ではショパンが人生の最後に到達した境地が形になっていると思います。ポーランドに対する彼の思いをシンボリックに封じ込めたポロネーズという形式の中に、繊細で、雄々しく、しかも深い芸術の極みがあふれんばかりにきわめいている。ショパン芸術の頂点に立つ至高の作品。ショパンのピアニズム、言うなれば〈ショパニズム〉をきわめた作品ともいえるでしょう。・・・フォームの調性感覚も、崩れてはいないけれど、進む先はワーグナー的なところまでいくのではないか、と感じさせる作品です。ショパンのあらゆる要素がここにあります。

この幻想ポロネーズの演奏には、確かに最晩年のショパンの音楽に去来する痛みと慰めとが、ぎっしりと詰め込まれており、それは聴いていて強く心を打たれ、揺さぶられるほどに感動的なものでした。

ヨーヨー・マとアックスのデュオによるブラームスのニ長調のチェロ・ソナタ


ブラームス ピアノ協奏曲第2番、チェロ・ソナタニ長調Op.78
 アックス(pf) ヨーヨー・マ(vc) ハイティンク/ボストン響
 ソニー・クラシカル 1997・98年 SK63229
SK63229

昨日の更新で、ヨーヨー・マ、パールマン、アックスの共演によるメンデルスゾーン・ピアノ三重奏曲集の新譜についての感想を書きましたが、その中で、「音楽の友」昨年11月号に、ヨーヨー・マのディスコグラフィが掲載されていることに触れました。

それに改めて目を通してみると、もう10年以上も前に購入した懐かしいCDの数々が思い出されます。

例えば、今回の新譜のメンデルスゾーンではヨーヨー・マとパールマンが共演しているのですが、この両者の共演した録音のリリースとしては、1996年録音のブラームスのダブルコンチェルト(オケはバレンボイム/シカゴ響)以来ということが分かります。

0630-15870-2
ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲
 ヨーヨー・マ(vc)パールマン(vn)バレンボイム/シカゴ響
 テルデック 1996年ライブ 0630-15870-2

なお、上記CDを聴いての私の感想(メモ書き)はこちらに掲載しています

また、「ピアノ三重奏曲」のジャンルでのリリースとしては、1993年録音のモーツァルト・ベートーヴェン・ブラームスのピアノ三重奏曲集以来のようです。

SRCR9812
モーツァルト ピアノ三重奏曲「ケーゲルシュタット」
&ベートーヴェン ピアノ三重奏曲「街の歌」
&ブラームス クラリネット三重奏曲
 ヨーヨー・マ(vc) ストルツマン(cl) アックス(pf) 
 ソニー・クラシカル 1993年 SRCR9812

上記CDを聴いての私の感想(メモ書き)はこちらに掲載しています

それではヨーヨー・マとエマニュエル・アックスとの共演という観点ではどうでしょうか。両者は室内楽の良きパートナーとして、多くの録音をソニーに残しているところですが、その直近の録音としては、どうやら1998年に録音した、ブラームスのニ長調のチェロ・ソナタ(ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調のブラームス自身によるチェロ編曲版)の録音以来ということになるようです。

これは1999年にリリースのCDですが、そのジャケット写真にはエマニュエル・アックスとベルナルド・ハイティンクの二人が並んで映されており、これだけ見ると、いかにもピアノ協奏曲がメインで、その埋め草にチェロ・ソナタが収録されている、という印象を与えられます。

しかし、そのメインのピアノ協奏曲の方は確かに一定の聴き映えはするものの、残念ながら聴き終えて必ずしも強い余韻を残すという演奏内容ではなかったのに対して、チェロ・ソナタの方は、聴き終えて実に深々とした余韻の残る、水際立った名演でした。

私は当時、この作品に対するチェロ・ヴァージョンの演奏としては、これ以上のものはないのではないかとさえ思ったくらいでしたが、それでも10年以上経った今でも、このヨーヨー・マの録音に匹敵するのは、2006年のウィスペルウェイの録音くらいではないかと思っているところです。

そのヨーヨー・マによるチェロ・ソナタの演奏ですが、第1楽章冒頭の第1テーマからチェロ演奏としては驚異的な旋律的流動力でフレーズを刻みこんでいき、思わず耳をそばだたせられてしまうのです。(1:30)からのコン・アニマの第2テーマなども、旋律美がひきたつことおびただしく、こうなると原曲はヴァイオリンなのかチェロなのか、というくらいですし、展開部においてもヨーヨー・マは快刀乱麻を断つフレージングを披歴し、(5:18)あたりのチェロの訴求力など鳥肌ものだったり、アックスとの息の合った掛け合いの妙も素晴らしくて聴き惚れるばかりです。

第2楽章においては、およそヴァイオリンでは出せないような天国的なまでのリリシズムと、激しい情熱のほとばしりとの、一体的な共存に聴いていて胸打たれる思いがします。終楽章もボウイングにおける良い意味での奔放さが全開という風で、まさに円熟期に入ったヨーヨー・マならではの、珠玉のブラームスがここにあると思います。

ヨーヨー・マとパールマンとアックスの共演によるメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲集


メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲第1番・第2番
 ヨーヨー・マ(vc)、パールマン(vn)、アックス(pf)
 ソニー・クラシカル 2009年 88697521922
88697521922

ソニーから今月リリースされた、イツァーク・パールマンのヴァイオリンとエマニュエル・アックスのピアノ、それにヨーヨー・マのチェロという豪華メンバーの共演によるメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲集を聴きました。

収録されているのは、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲のうち一般に録音される2曲で、このうち作品49の第1番はシューマンが「ベートーヴェン以降の最も偉大なるトリオ」と評したことで有名ですが、楽想的にもベートーヴェンを随所に匂わせるような、力感に溢れる楽想が魅力であるのに対し、作品66の第2番の方は、その終楽章の中盤で顔を出す聖歌のメロディが、バッハの教会カンタータ第130番でも使われているなど、ベートーヴェンというより大バッハに接近した雰囲気があります。

さて、このアルバムは何といってもヨーヨー・マのチェロが聴きたくて購入したのでした。

近年のヨーヨー・マは、特に21世紀に入ってから新譜リリースの頻度がグッと減っており、それもクロスオーバー的な演目にかなりシフトしている(ブラジル音楽、エンリコ・モリコーネあるいはジョン・ウィリアムズなどの映画音楽など)ため、本格的なクラシックのアルバムとなると最近10年間、ほとんどリリースされていない状況にあります。

この点、「音楽の友」の昨年11月号に、ヨーヨー・マの来日記念特集記事として、これまでの彼のディスコグラフィが掲載されているのですが、それを見ると、21世紀に入ってからの録音としては、2003年に録音された、わずか2枚のCD(コープマン/アムステルダム・バロックと共演したヴィヴァルディのアルバムと、フォーレおよびフランクのヴァイオリン・ソナタをチェロ編曲して演奏したアルバム)だけなのです。

しかし、私は昨年サントリーホールでバイエルン放送交響楽団の来日公演を聴いたのですが、そこでヨーヨー・マ独奏のドヴォルザーク・チェロ協奏曲の実演に接し、ひとかたならぬ感銘を受け、もし今ヨーヨー・マが例えばベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集とか、バッハの無伴奏チェロ、あるいはドボコンなど再録音したなら、彼の過去の各録音とも、また一味もふた味も異なる名演に結実するのではないかと思い、そのことをブログにも書いていました。

そういうこともあり、今回久々にリリースされた、クラシック本流の分野におけるヨーヨー・マの録音に、さっそく耳を傾けてみました。

そうしたら三重奏曲第1番の冒頭の第1テーマから、いきなりゾクゾクするほど素晴らしいチェロのボウイングが耳を捉えました。

まさに目も覚めんばかりのフレージングの訴求力! このメンデルスゾーンにおいてヨーヨー・マが展開するチェロは、その有機的な音色の彩りといい、懐の深い響きの奥行きといい、惚れぼれするくらい素晴らしく、そのフレージングがパールマンにアックスという二人の腕達者の繰り出す響きと、絶妙に絡み合い、三者一体となった室内楽の空間的な融合を揺るぎなく成し遂げている点において、私には驚嘆の念をもって全曲を聴き通す以外の術を持ち得ませんでした。

ここでの三人の名人によるアンサンブルは、誰が先導するというのではなく、常に各奏者の深く揺るぎないアイデンティティが確固としてあって、各々の個性を出し切りながらも、そこには気心の知れた相手とインティメートな会話を楽しむかのようなゆとり、和やかさのようなものも顕在で、それが演奏全体の表情に名状しがたい深みをもたらし、ひいては聴き手に圧倒的な充実感をもたらしているのではないかと、そんな風に私には思えるのです。

それでも敢えて言えば、昨年の実演での呆気に取られんばかりだった、あの変幻自在ともいうべきボウイングの変わり身という点で、この録音では割と控えめで、今のヨーヨー・マにしては大人しいかなという印象も感じたのですが、ソロやコンチェルトならともかく、トリオという形態の制約を考えると、さすがに止むを得ないのかも知れません。

いずれにしても私としては、これが今後ヨーヨー・マの復活(もちろんレコーディングの話です)の嚆矢となることを、ひとまず願いたいと思います。出来れば過去に録音した有名作品の再録音を期待したいのですが、どうでしょうか。

以下は演奏内容とは関係ないですが、今回の新譜も含めて、ソニーの輸入盤CDには往々にして、以下の写真のような、バーコード付きのビニールのシールがCD上部に貼られているのですが、これが実に剥がしにくいのです。

88697521922-2

やっと剥がしたと思ったらシールの粘着部がCDに残って汚くなるなど、このシールには正直ウンザリで、できれば出荷時に張るのを止めてもらいたいです。

小澤征爾/ウィーン・フィルによるドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」


ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
 小澤征爾/ウィーン・フィル
 小学館(デッカ) 1991年ライヴ SHWP-1
SHWP-1

小澤征爾がウィーン・フィルを振って1991年にライヴ録音したドヴォルザーク「新世界より」のCDを聴きました。

これは先月に発売された、小学館のCD付きマガジン「ウィーンフィル魅惑の名曲」創刊号の付属CDになります。

SHWP-1-2

他にアンドレ・プレヴィンの指揮で1993年に録音されたドヴォルザークのスラヴ舞曲第1・3・8・10・16番も併録されています。

この小澤/ウィーン・フィルの「新世界」は、それなりに有名な録音だと思うのですが、私は恥ずかしながら未聴でした。というのも、ウィーン・フィルの「新世界」のCDには既にクーベリック、ケルテス、ベーム、コンドラシン、マゼール、カラヤンと、それこそ著名な指揮者の録音が百花繚乱という状況にあるので、この上さらに小澤盤を聴こうという気持ちが湧かなかったからです。

しかし今回の創刊号のみ特別価格で安かったことと、金子建志さんの音楽エッセイ「ウィーン・フィルを聴く・まろやかな音色の秘密」というのが面白そうだったことから、軽い気持ちで購入してみたのでした。

それで何気なく聴き始めたところ、その演奏内容の素晴らしさに驚かされたのです。この「新世界」は、小澤とウィーン・フィルのコンビにおける、会心の演奏のひとつではないかとさえ思えましたし、こんな名演を私は今まで聴き逃していたのかと、軽く自己嫌悪に陥ったくらいでした。

第1楽章の序盤からティンパニの豪快な強打を伴う、大胆なくらいアクセルを踏み込んだ果敢な演奏展開が素晴らしく、アグレッシブに攻めるべきところは的確に攻め、それでいてメロディを強く歌わせるべきところは的確に歌わせる、そのあたりの手綱さばきも絶妙ですし、以降の楽章においても、ウィーン・フィルに下駄を預けるところは預けた上で、手綱を引き締めるところは確実に引き締める、そんな小澤のアンサンブル・ドライブが堂に入った感があり、終楽章のはち切れんばかりのパワフルな強奏展開などには、絶好調のウィーン・フィルならではの痛快な表現力が披歴されていて、聴いていて惹き込まれるばかりでした。

もっとも、この「新世界」においては、その演奏の魅力の大部分をウィーン・フィルという掛け替えのないオーケストラの性能と個性に依拠しているのかなという気も、正直します。というのも、この演奏のアプローチ自体は絵に描いたようにオーソドックスでもあり、そこに指揮者としての掛け替えのない色付けがあるのかというと、そのあたりは少々苦しいようにも思えるからです。

しかし、あのウィーン・フィルを、これほど本気にさせるということは、それが取りも直さず、小澤の指揮者としての類まれなる技量ということになるのかも知れません。いずれにしても、この「新世界」は聴いておいて良かったと思います。

そういえば、この小澤征爾の録音以後、ウィーン・フィルは現在まで20年くらいドヴォルザークの「新世界」を録音していないと思うのですが、もし録音がされるなら、この小澤盤をも凌ぐくらいの凄い演奏を期待したいですね。

ティーレマン/バイロイト祝祭管によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲より「神々の黄昏」


ワーグナー 楽劇四部作「ニーベルングの指環」全曲より
「神々の黄昏」
 ティーレマン/バイロイト祝祭管弦楽団
 オーパス・アルテ 2008年ライヴ OACD9000BD
OACD9000BD-4

クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲CDにつき、先々週に聴いた「ジークフリート」に続いて今日は「神々の黄昏」を一通り聴きました。

この四部作第三夜「神々の黄昏」全曲の歌手は、以下のような陣容です。

ジークフリート:ステファン・グールド
ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン
グンター:ラルフ・ルーカス
ハーゲン:ハンス=ペーター・ケーニヒ
アルベリヒ:アンドリュー・ショア
グートルーネ:エディット・ハッラー
ヴァルトラウテ:クリスタ・マイヤー

既に「ラインの黄金」から「ジークフリート」までは感想を掲載済みですが、それらの中で、ティーレマンの指揮についてや音質、そしてジークフリートとヴォータンの歌唱については触れているところですので、今回はブリュンヒルデ役リンダ・ワトソンの歌唱についての印象が中心になります。

そのリンダ・ワトソンですが、ドラマティック・ソプラノとしては当代屈指の実力とされる、日本でも御馴染み(新国立劇場の常連)のワーグナー歌手です。

私も新国で生を何度か聴いているのですが、ワトソンの一番の持ち味としては、その盤石の歌唱力にあるように思います。およそ技巧的に難が無い、ドラマティック・ソプラノとしては異例なくらいのテクニシャン(特に高音域のフレーズの揺るぎない安定感!)という感じなのですが、それでいて純粋な声の力にも素晴らしいものがあり、それに加えて見事な美声ときていては、なるほどバイロイトでブリュンヒルデを歌うに相応しい歌手だなと、納得させられるに充分です。

そして以上のようなワトソンのワーグナー歌手としての美質というか才能は、この「神々の黄昏」の録音からも明瞭に聴き取ることが出来るのです。特に終幕まぎわの長大なアリアなど、技巧的に困難になればなるほど彼女の本領発揮という風でもあり、この終幕の場面をライヴで、こんなに見事に歌い切ることの出来る歌手は、おそらく歴史的にも稀ではないか、そんな風にすら思える名唱でした。

とはいえ、それほど見事な歌いぶりが披露されているにも関わらず、こと「ブリュンヒルデ歌い」としてみた場合、私にはワトソンの歌唱は必ずしも理想形とは言えないような、そんな気もするのです。

確かに素晴らしい歌唱であり、私なども聴いていて何度も陶然とさせられたほどなのですが、やはり技巧的に突き抜けているがために必然的に欠落する要素というものも、おそらくあるのではないかという印象も同時にあり、例えばニルソンのブリュンヒルデに聴く、ここぞという時の強烈な情熱の沸騰、あるいはベーレンスのブリュンヒルデに聴く、それこそ聴き手の胸に喰い込んでくるような表情の痛烈さ、こういったものが、ワトソンのブリュンヒルデに充分に備わっているかというと、そういったあたりに関しては、それなりに留保が付くように思われる、、というのが私の率直な感想になります。

その他、ハーゲンやグンターなどは、いずれも概ね自分の役柄を過不足なく演じ切っていて、強烈な個性感の発散こそ薄い代わりに、ワーグナーの音楽の流れを阻害することなく、その流れに乗り切っているという風で、その音楽に安心して身を浸すことのできるものでした。

さて、ティーレマン/バイロイトの「リング」全曲を、これで一通り聴き終えたのですが、さすがにバイロイトというべきでしょうか、この「リング」には、すっかり魅了させられてしまいました。

何より私には、「バイロイトだと、こんな風に聴こえるのではないか」と漠然と考えていた、その通りの音響バランスで「リング」が楽しめたことが最大の収穫だったように思えるのです。

たとえ「ライヴ録音」であれ、多かれ少なかれリマスタリング・エンジニアの作為された音響を聴かされているのだなという気持ちはあって、それは言わばアプリオリというか、ほとんど織り込み済みという感じだったのですが、この「リング」全曲盤に限っては、必ずしもそうでなくて、もしバイロイトの客席で聴いているとするなら、あの「穴倉」と呼ばれる、独特のオーケストラ・ピットから、直接的に音響がガンガン響いてくるようなことは有り得ない、そんな当たり前のことが、当り前のバランスで録られている、そんな音質というべきでしょうか。そこでは、おそらくオケの渾身の最強奏においてさえステージ上の歌い手の歌唱を阻害しない、音響的なバランスの上での、ある種の絶妙さが確かに感じられたのでした。

そのようなバイロイト的な音場感の擬似体験とともに「リング」全曲を聴き通せたことは、あらためて良かったなと思います。

クセナキスのテープ音楽「ペルセポリス」(仏フラクタル盤)


クセナキス 「ペルセポリス」
 フラクタル 2000年録音 FractalOX
FractalOX

ゼウスは世界の臍(へそ)の位置を正確に決定しようと思いたち、世界の果てと果てから2羽の鷲を同時に放ち、2羽の鷲が飛行中どこで交差するかを調査した。交差した地点はデルポイだったので、ギリシアが東西および南北の接するところとなり、以来、互いに独自の文明がここで逢引し、欲に駆られて遍歴する世界中の軍隊がここで鉢合せをすることになった。
            「コレリ大尉のマンドリン」より

現代イギリスの小説家ルイ・ド・ベニエールの長編小説「コレリ大尉のマンドリン」を本日ようやく読了しました。

いきなり何の話だと思われるかと存じますが、これは実は私が先の年末年始に読んでいた、3冊の単行本のうちの一冊です。それについては、このブログの今年最初の更新で「もう一冊はイギリスの長編小説なのですが、まだ半分くらいしか読めていません」と書いたのですが、それがこの小説になります。

私は現在ブログ上で「シャンドス30周年ボックス」の収録盤すべての感想記を掲載するという、マラソンみたいな企画を継続中なのですが、その最後の30枚目のCDというのが、この小説のサウンドトラック的な内容となっていたのです。

そのCDの感想を書いて企画を満了させるためには、この小説を読まなければならない、ということもないのですが、なにしろ当ブログで1年近く掛けて地道に進めてきた企画でもあり、そのゴールをキチンと飾る意味でも、出来れば読んだ方が良いと思い、アマゾンで注文して取り寄せ、それで昨年末あたりから読み始めたのでした。

この小説について簡単に説明しますと、もともと1994年にイギリスで刊行されたものですが、その後イギリスで社会現象と言われるまでの大ヒットとなり、現在まで世界26か国まで翻訳されている、世界的なベストセラー小説です。

その大まかなストーリーは、ギリシアのケファロニア島という、イオニア海に面する小島を舞台として、1940年初頭から1990年代までの、約50年に渡って繰り広げられる、壮大な人間ドラマです。

そのドラマの中心軸として設定されているのは、イタリア軍の大尉としてギリシア占領の役務に服するためケファロニア島に来たアントニオ・コレリ大尉と、その島で育った娘キリア・ペラギアとのロマンスなのですが、この二人を取り巻く島の住民たちが、20世紀中葉において立て続けにギリシアを襲った「4つの災厄」(①イタリアによるギリシアへの軍事進攻と占領、②それに続くナチス・ドイツのギリシア制圧、③第2次大戦後に台頭する共産勢力が引き起こしたギリシア内戦、④1953年のギリシア大地震)になすすべなく翻弄されていくという、その過酷な運命の流れが小説全体のバックボーンとして大河的に描き込まれているのです。

この小説の感想については、いずれ改めて書こうと思っていますが、今日は、この小説を私が読みながら聴いていたCDについて書こうと思います。

それがヤニス・クセナキスのテープ音楽「ペルセポリス」で、これはフランスのフラクタル・レーベルから2000年にリリースされたCDです。

ギリシアが舞台の小説ですので、ギリシアの作曲家クセナキスの音楽が私の頭にまず浮かんだのですが、それ以上に、この「ペルセポリス」の持つ独特の音響的雰囲気というのが、この小説の特定のシーンに対し、絶妙にマッチするように思えたから、というのが最大の理由です。

そのストーリーに関する具体的な話は、また後日この小説の感想をブログに出す時にでも触れるつもりですが、この小説は基本的に文学のジャンルに属しているため、文学の本分ともいうべき、ある種の極限状態における人間性の赤裸々な描写なども、それなりに多く含まれています。特にナチス・ドイツによるギリシア人の迫害、あるいはギリシア内戦による同胞同士の血なまぐさい粛清などに、かなり凄惨な描写があります。

そして、そのあたりの情け容赦のないリアルな文調と、このクセナキスの「ペルセポリス」に聴かれる、あたかも大自然の暴風雨に身を晒すような壮絶な感覚とは、不思議に調和するようなところがあるのです。

実はクセナキスの経歴を調べてみて分かったのですが、彼は第2次大戦において、ギリシャ国内で反ナチス・ドイツのレジスタンス運動に参加していて、そのあたりが偶然にも小説の設定の一部と重なっているのです(実際この小説にもマンドラスという反ナチス・ドイツのレジスタンス兵士が登場しています)。

そういうわけで私には、このクセナキスの「ペルセポリス」における音楽に特有する趣きというものが、(それが果たしてギリシア的なものの、深い部分での符合なのか否かは別としても)あたかも小説の重要な要素の一部でもあるかのように、しごく鮮やかに感じられたのでした。

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マリナー/アカデミー室内管によるウォルトンの映画「ヘンリー5世」付帯音楽


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に26枚まで掲載しているのですが、今回はCD27を聴きました。

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ウォルトン 映画「ヘンリー5世」付帯音楽
 マリナー/アカデミー室内管弦楽団
 1990年録音

これは映画「ヘンリー5世」の付帯音楽としてウォルトンが作曲した音楽を組曲形式で収録したアルバムで、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏により録音されています。

百年戦争を題材とする映画「ヘンリー5世」付帯音楽は、ウォルトンの作曲した映画音楽の中でも「ハムレット」、「リチャード3世」とともに「シェークスピア三部作」として知られているものです。

もとは映画音楽とはいえ、その音楽的水準の高さゆえに演奏会用組曲として数種類のアレンジ版が存在し、その中にはウォルトン自身による編曲版も含まれています。

本ディスク収録の組曲アレンジ版はクリストファー・パルマー編曲に基づく世界初録音とされているようです。

このパルマー編曲は、最初の「プロローグ」から最後の「エピローグ」まで全8曲で構成されていますが、全曲のハイライトともいうべき曲は、何といっても6曲目「アジャンクール」でしょう。1415年のアジャンクール戦役においてイギリス軍がフランス軍を打ち破る場面を描いた、勇壮を極めるスペクタクルな音響絵巻です。これと並んで有名なのは、4曲目の間奏曲「柔らかな唇に触れて旅立たん」あたりでしょうか。一度聴いたら忘れ難いほどの、甘美で感傷的なメロディの流れ。

マリナー/アカデミーの演奏ですが、室内管レベルを明らかに超越した音響的迫力に、聴いていて圧倒させられます。軽い気持ちで聴き始めて、プロローグ最初の(2:30)あたりの強烈ぶりに、度肝を抜かされました。このプロローグ、6曲目「アジャンクール」、そして5曲めの最初の「アルフルール」に聴かれる音楽の迫力が凄いですね。

「アルフルール」では、ナレーターのクリストファー・プラマーの常軌を逸したようなテンションでの語り口も凄いです。

アルブレヒト・マイヤーのオーボエ演奏による「ヴォイス・オブ・バッハ」


「ヴォイス・オブ・バッハ」
 A.マイヤー(ob)/イングリッシュ・コンサート
 デッカ 2009年 4781517
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デッカより先月リリースされた、「ヴォイス・オブ・バッハ」と題されたCDを聴きました。

これはベルリン・フィルの首席オーボエ奏者アルブレヒト・マイヤーの演奏による、大バッハのカンタータ作品のオーボエ、コーラングレおよびオーボエ・ダモーレ編曲アルバムです。

伴奏オーケストラは老舗バロック・アンサンブルのイングリッシュ・コンサート、合唱はトリニティ・バロック、録音はロンドンのセント・ポール大聖堂でのセッションのようです。

全18曲の収録曲には、例えばBWV147「心と口と行いと命もて」の、あの誰でも知っている有名な楽章も含まれているなど、総じてメロディの魅力の立ったカンタータ楽章を自由に選んで、それらにオーボエ等のための編曲を施したアルバムという感じになっています。

それらの18曲も、ただバラバラに配置されているのではなく、例えば送別のためのカンタータとして有名な世俗カンタータBWV209「悲しみを知らない人」からは3つの楽章が抽出されているのですが、それらは「オーボエ・ダモーレ協奏曲」として一括りにされていますし、同じく教会カンタータ第54番から抽出された3楽章は、ひとつの「コーラングレ協奏曲」として、また教会カンタータ第31・140・166番から一つずつ抽出された各楽章も、ひとつの「オーボエ協奏曲」として演奏されているのです。

このアルバムは、都内のCDショップで先日、性懲りもなく新譜を物色していた際に目に留まったものです。マイヤーと言えば、一昨年のデッカへのデビュー・アルバム「アルブレヒト・マイヤー/イン・ヴェニス」で耳にしたオーボエの美しい音色が印象に残っていたからです。

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写真左が前回の「マイヤー/イン・ヴェニス」、写真右が今回の「ヴォイス・オブ・バッハ」。

聴いてみると、今回のバッハにおいても、マイヤーの演奏は前回のヴェニスのアルバム同様に素晴らしく、その楽器がオーボエでも、コーラングレ、あるいはオーボエ・ダモーレでも、およそ息継ぎの形跡すら聴いていて分らないほどのメロディの流動感が際立つ、その天衣無縫のフレージングの美しさに聴き惚れるばかりでした。およそヴィブラートを控えめにした、キリリとシャープな響きの結像感が、これほどまでのウェットな美麗さを身に纏うあたり、聴いていて信じがたい気がするほどです。

もっとも、このアルバムは私の当初の目論みとしては、少々誤算だったのかも知れません。実のところ私は、わりと「軽め」のムードの演奏を期待して、このアルバムを求めたのでした。

というのも、最近に私が購入して耳にした新譜として、ティーレマン/バイロイトのリング全曲(CD14枚)、スヴェトラーノフのマーラー交響曲全集(CD14枚)、ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団のライヴ集成ボックスセット(CD8枚)と、質的にも量的にもヘヴィー級の「大物」が立て続いたため、その反動から、このへんで何か軽めのCDが聴きたいなと思っていたところが、このバッハ・アルバムを見て、これはちょうどいいと思って購入したのでした。

しかし聴いてみると、少なくとも事前に思っていた音楽の雰囲気よりも、ずっと重みのある演奏でしたし、聴き進めているうち、バッハの音楽固有の重みというものが、オーボエの軽やかに浮遊するフレーズを透かして、私に圧し掛かってくるような感覚に捉われたのです。

これはマイヤーの展開する演奏というのが、単に美しい一辺倒でなく、自身のバッハへの深い帰依を拠り所とした、本格的な演奏に他ないものであったからで、要するにバッハの教会カンタータを聴く感覚と、ほとんど変わりがなく、音楽自体が軽くないのですから、それを軽く聴こうという私の気持ちに誤りがあったということになるのでしょう。

そういうわけで、そのあたりは反省しつつ、ここで披歴されているバッハの音楽美と演奏美のユニークな融合とも言うべきものを堪能したのでした。このアルバム、私は今後も定期的に耳にして楽しむつもりです。

引き続き、新国立劇場のワーグナー「ジークフリート」の感想


昨日に引き続き、一昨日(2/14)の新国立劇場ワーグナー「ジークフリート」の感想です。

私はオペラの演出というものを、基本的に大きく2つの観点から考えていて、それは演出の「手法」という観点と、演出の「目的」という観点になります。

つまり、その演出の「手法」がどれだけ斬新で意欲的で面白いか、そして平凡な演出を観ていたのでは気がつかない、そのオペラ作品の隠れたビジョンなりメッセージなりを浮き上がらせるという「目的」に、その手法がどれだけ貢献しているか、という観点から演出というものを眺める形になります。

そして、私にとって好感の持てるオペラの演出というのは、その手法と目的とが高いレベルでバランスし合っている演出です。

それを具体的に言うなら、例えば去年の新国立劇場「ヴォツエック」の演出では、このオペラの抱える残酷な側面を、えげつないまでに剥き出しにせしめるという目的なり方向性が如実に感じられましたし、同じく去年の新国立劇場「オテロ」の演出では、水と照明とを巧妙に駆使することで、「オテロ」という演劇が本来的に持つリアリズムの視覚的な増幅が意欲的に試みられていましたし、また昨年のミラノ・スカラ座の「ドン・カルロ」の演出では、このオペラの幾重もの主題の中から、カルロとロドリーゴとの友情という観点にバシッと焦点が当てられていましたし、一昨年の新国立劇場「トゥーランドット」の演出では、その未完成部分(アルファーノの補筆部分)をプッチーニが作曲したスコアから切り離すという意表を突いた目的を果たすために斬新な演出が仕組まれていたのでした。

これらの演出については、いずれも私は過去にブログで「好感の持てる演出だった」という風に書いているのですが、それは演出手法の斬新性だけでなくて、何のための演出であるかという、その目的がハッキリと定まった演出だったからです。

ひるがえって「トーキョー・リング」ですが、キース・ウォーナー演出は手法としては文句なく抜群で、画期的なくらいだと思うのですが、しかし目的に関しては、どうでしょうか?

これだけ大胆な、やりたい放題の読み換えをしておいて、これだけメッセージ性に乏しい演出というのも、また滅多にないのでないか、というのが私の率直な印象です。「労多くして実少なし」というべきでしょうか。

要するに、演出が目的とする収束点が見えてこないので、演出のコアも見えないのです。もしこれが、読み換えの限界に挑戦とか、おもしろおかしい「リング」を作ってみたかったとか、そういう目的の演出だとするなら、収束点が見えないのも当然だと思うのです。

そもそも読み換えというのは、何らかの演出上の目的に基づいて行われるものであって、最終的には収束ポイントに向かって収斂していくはずのものであり、読み換え自体は決して目的とはならないはず、、

しかし、この演出では、どうも観ていて読み換え自体が目的化してしまっている気配がありありと伺えるのです。

そういうわけで、私は別にギャグ的な見せ物に笑ったり、あるいは散りばめられた謎かけ(ジグソーパズル)を解いたりしながら劇を楽しんで観る、という形そのものが問題だと言いたいのではなくて、あくまで演出上の収束点が見当たらないのが問題ではないか、ということなのです。

しかし、この演出には本当に何ら収束点が無いのでしょうか?

仮に収束点があると考えた場合、この演出の性格を考えると、それは必然的に諧謔であって、例えば文明批判のように、何らかに対する批判性の込められたメッセージが観客に対して向けられている、と考えざるを得ないと思います。

その批判性が何を対象としているか、、、そこで唯一考え得る対象は、やはり「トーキョー」なのでしょう。つまりマンガとか、コスプレとか、着ぐるみとか、そういったトーキョー・カルチャーとでも言うべき総体のことです。

あの舞台上の情景が、トーキョー・カルチャーのカリカチュアだとしたら? そして、あの演出の投影する「軽さ」が、「トーキョー」の文化的軽量度のメタファーだとしたら? あの演出を観て笑っている我々を観て笑っているキース・ウォーナー、という図式だとしたら?

こういう意図だとしたら、それはそれで敬服に値する演出とも思えるのですが、もう笑っている場合でもなくなるでしょう。

結局この演出は、何かキナ臭いのですね。演出の持つメッセージ性を考えないなら楽しいが、それだけ。考えるなら、楽しいとばかり言ってもいられなくなる、、、

つまり、どっちに転んでも、やっぱり共感が持てない、というのが本演出に対しての私の結論なのでした。すごく独創的な演出ですし、これで手法に見合った何らかの訴えかけが伴っていたなら、名実ともに「リング」の画期的演出として成功を収めていたような気もするのですが、どうでしょうか。

新国立劇場のワーグナー「ジークフリート」の感想


昨日(2/14)の新国立劇場のワーグナー「ジークフリート」を観ての感想ですが、今日は時間切れで書き切れなかったので2回に分けます。

まず歌手とオケの印象から個別に。

ジークフリート役クリスティアン・フランツ:
新国立劇場とは7年前のプロダクション初演時からの繋がりがあるとはいえ、本場バイロイトの「リング」で昨年ジークフリートを歌った歌手が、その同じ役を歌うのを、こうして実演で耳に出来るのですから、その点は素直に有り難いという気持ちでした。

とはいえ昨日の歌唱は、、、残念ながら彼のベスト・コンディションではなかったようにも思えました。高音域を中心に安定感のある歌唱が聴かれたものの、全体として思ったより声が飛んでこない感じでしたし、特に第1幕と第2幕は中音域の発声に重さが乗り切らない、軽い感じの歌唱に終始した感があり(第3幕では相当に盛り返した感じでしたが)、英雄ジークフリートとしては少々ひ弱かなという印象も聴いていて随所に感じられたのでした。

しかし、それはおそらく彼の歌唱力云々というのではなくて、むしろ演出上の制約から、そういう風に歌わざるを得なかったのではないか、という風に思えます。

というのも、この演出ではジークフリートは随分と「軟弱な」英雄像として規定されていて、例えば剣を刺したファフナーの容体を心配するような仕草をしたり、殺害したミーメの死を必要以上に悲しむような仕草をしたり、ヴォータンの槍をへし折った際にヴォータンが倒れないように支えるような仕草をしたりと、少なくとも非情には程遠い、むしろ優しい性格の持ち主として設定されているので、そういう性格設定に歌唱の様式も多少なり引き摺られるような形となっていたようにも思えるのです。

そういう意味で、こと演出的な面に対しては良くフィットしていたジークフリートではあったのですが、純粋な歌唱面では聴いていて少し不満も残った、というのが率直な感想です。

ブリュンヒルデ役イレーネ・テオリン:
イレーネ・テオリンを聴くのは、一昨年の新国立劇場「トゥーランドット」で外題役を歌ったのを聴いて以来です。その時は凄いドラマティック・ソプラノだなと、聴いていて感心させられたのを覚えていますが、今回のブリュンヒルデはトゥーランドットと違って終盤のみの局地戦ということもあり、前回以上に彼女の本領に迫ったような歌唱が披露されたように思います。高音域の澄んだ美声と危なげない歌唱力をベースに、ここぞという時に突き抜ける凄味を湛えた超高音が素晴らしくて感嘆させられました。

さすらい人(ヴォータン)役ユッカ・ラジライネン:
ラジライネンのヴォータンは今回はじめて聴きました。印象的には可もなく不可もなく、という感じで、突出した個性味はないものの技術的には手堅くて隙がなく、何となくヴォータンを歌い慣れているような感じもしましたし、演出に要求される細かいニュアンスにも良く対応した、クレバーな歌唱ぶりと映りました。正直もう少し貫禄のあるヴォータンも聴きたい気もしたのですが、ジークフリートと同様、演出とも絡みから難しかったのかも知れません。

エッティンガー/東京フィルの演奏:
私の印象だと第1幕と第2幕が総じて低回気味で、逆に第3幕の鳴り具合が秀逸という感じでした。それも徐々に持ち直したとか、尻上がりに良くなったとか言うのでなく、何か第3幕に入るやギアチェンジしたみたいにスコンと良くなった、という風に思えました。

その第1幕と第2幕ですが、聴いていて気になったのが、オーケストラが時々ガクンとテンポを落とす場面があって、それが音楽的に考えると「何故この場面で?」というような不自然なところ(例えば第1幕でミーメがジークフリートに両親の話を語って聞かせる途中とか)で聴かれた点です。

これはおそらく演出に引き摺られて、そういう動きになったのではないか、という気がします。何しろコミカルな演出ですので、そのコミカルな味を強調するために、テンポを必要以上にうねらせるということが割りと頻繁に(特に第1幕と第2幕で)行われていたように思えたからです。

特に第1幕ラストの「鍛冶の歌」のシーンでのオケの迫力の弱さなど、聴いていてビックリしたくらいでしたが、あの場面のステージ上で展開されていたコミカルな光景を考えるなら、あの音響的さじ加減は、ある意味でジャストフィットかも知れないという気もするのです(逆に第3幕は、そういう演出的なコミカル性が相対的に希薄だったため、オーケストラが「本来の」演奏に集中できた、というような気が、、)。

つまり演出との関係で捉えるなら、オケの演奏は大健闘だったとも思われるのですが、演出と切り離した純粋な鳴りっぷりとか、響きの充実感とか、そういう面で捉えるならそれなりに不満の残る演奏、というのが率直な感想です。

演出について:
ロビーで購入した公演プログラムに目を通したのですが、やはりというか、演出についての記載が全く無いですね。新製作ではないにしろ、これだけ大胆不敵な演出内容にしては、ずいぶん不親切に突き放したものだという感じを受けます。要するに「自分で考えなさい」ということなのでしょうか。

昨日も書きましたが、このプロダクションのキース・ウォーナー演出に関しては、私は正直それほど共感が持てません。

それは例えば「リング」には重厚な演出こそ相応しいだとか、軽いノリを強調した雰囲気の演出はストーリにそぐわないからダメだとか、そういう話では全然なくて、もっと根本的な部分で、この演出には好感が持てないのです。

その演出ですが、印象を一言でいうなら「意表を突いたユーモアとジクソーバズル的な謎かけとで構築されたマンガ的な演出」という感じでしょうか。

まず第1幕冒頭の舞台上に表示された「ハイルミーメ」というのが「ニーベルハイム」の文字を並び替えた細工という、一発ギャグのようなユーモアを披露して幕が開きます。そこで観客には「赤色がヴォータンで緑色がアルベリヒ」という、ジクソー的な謎かけの「鍵」が与えられ、それに従い「ここは舞台が赤だからヴォータンの勢力が強くて、、」などと思いつつ観ていくことになるのです。

全編でステージの基調となっているのはマンガさながらのユニークかつファンキーな光景。例えばノートゥングの鍛冶がキッチン・クッキングに置き換えられていたり、ミーメがコスプレよろしく衣装を頻繁に変えたり(クイズ番組の司会者→学者→コック)、第2幕の森のささやきの場面でジークフリートが「父さんに会いたい」と言うとジークムントが着ぐるみから顔を出し、「母さんの顔が見たい」というとジークリンデが着ぐるみから顔を出したり、ファフナーとの戦いが8人のゾンビ?とのチャンバラに置き換えられてたり、など例示するだけでも枚挙に暇がないくらいです。

これは確かに、無類に面白い演出であることは間違いないですし、観ている時には面白くてしょうがないという気にもなる、楽しい演出とも思うのですが、結局そこから伝わってくるもの、ひいては演出として最終的に言わんとすることの正体が私には掴めないから、観終わった後に何だか視界不良な面持ちになってしまうのです。

続きは後日に書きます。

新国立劇場のワーグナー「ジークフリート」(2/14)


今日は新国立劇場で、ワーグナーの楽劇「ジークフリート」を観ました。

2010-02-14

指揮はダン・エッティンガー、オケは東京フィルで、歌手は以下の陣容でした。

ジークフリート:クリスティアン・フランツ
ブリュンヒルデ:イレーネ・テオリン
さすらい人:ユッカ・ラジライネン
ミーメ:ヴォルフガング・シュミット
アルベリヒ:ユルゲン・リン
ファフナー:妻屋秀和
エルダ:シモーネ・シュローダー
森の小鳥:安井陽子

この公演は2001年から04年に掛けて上演された、新国立劇場オリジナル・プロダクションによる「指輪」上演プロジェクト(いわゆる「トーキョー・リング」)の再演で、そのうち2003年上演の「ジークフリート」を再演に掛けたものです。

この「トーキョー・リング」、私は01年の「ラインの黄金」と02年の「ワルキューレ」、04年の「神々の黄昏」は観たのですが、03年の「ジークフリート」だけは観ていませんでした。

なぜ「ジークフリート」だけ観なかったのかは、よく覚えていません。確かオケがN響に変わると聞いて、軽くガッカリした覚えはありますが、、

いずれにしても7年前は見逃していたので、今回は観に行ったのでした。ちょうど先週、ティーレマン/バイロイトの「ジークフリート」全曲盤を一通り聴いていたので、予習も万全でしたし。

感想は後日、改めて出します。ただ私は、このプロダクションのキース・ウォーナー演出に関しては、正直それほど共感が持てないので、それなりにキツいことも書くかも知れませんが、、

セーゲルスタム/読売日響のコンサートの感想


昨日のセーゲルスタム/読売日響のコンサート(サントリーホール 2/12)の感想です。すいませんが長いです。

まず16型のオーケストラ編成から、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死が演奏されました。オーケストラの配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べた変則配置でした。

しかし、これは少し物足りない演奏に終始しました。遅めのどっしりとしたテンポ感で一貫された、重々しい足取りのワーグナーでしたが、いかんせんアンサンブルが、まだ十分に調子づいていないような感があり、最強奏の迫力の大人しさなど、どうも煮え切らないような印象でした。後半部のワーグナーの方での充実感からすると、この時は車で喩えるならエンジンが十分に温まっていない状態だったのかも知れません。

続いて編成を10型に刈り込み、ルベン・シメオのトランペット・ソロでハイドンのトランペット協奏曲変ホ長調が演奏されました。

シメオはトランペットの神様モーリス・アンドレの唯一の弟子にして、10代の若さで幾つもの国際コンクールで上位入賞という輝かしい経歴を収め、現在は弱冠18歳ながら既に天才トランペッターとしての名声を勝ち得ている、凄腕のアーティストとのことです。

その演奏ですが、確かに技術的な安定感が抜群で、演奏ミスも皆無。その点では聴いていて素直に感心させられましたが、トランペットの表現力に関しては正直、そんなに凄いのかなという印象も拭えませんでした。

ただ、それは私がハイドンのトランペット協奏曲という作品を良く知らないからそう思うだけで、本当は凄い演奏だったのかも知れません。というのも私は、この曲を実演で聴いたのも今回が初めてなら、CDでも聴いたことがあったかなというくらい知らないのです。

プログラムの作品解説を読むと、本来この作品は当時ハイドンが鍵盤付きトランペットという「特殊楽器」のために書いた曲とされますが、それだと、いかにも簡単そうに吹いていても実は非常に難しいテクニックが必要だったりとか、そういうことがあるのかも知れないですし、そもそも作品自体の奥行きが今一つピンとこないので、演奏自体の出来栄えもピンと来なかったのかも知れません。要するに私は、この曲を少し持て余しながら聴いていたのでした。

休憩を挟んで、編成を16型に戻し、いよいよセーゲルスタムの交響曲第198番の自作自演(世界初演)が披露されました。

この交響曲には「Spring or Winter, Winter or Spring」という副題があり、休憩時に目を通したプログラムの作品解説によると、「冬と春の境目にある季節の姿を描いた作品」とあり、曲の主な要素は鳥の鳴き声で、例えば「チチ・チー」というのが、「まだ冬が支配していても春がすでにそこまで来ていることの前兆」などと書かれています。また「指揮者はおらず、セーゲルスタム自身がオーケストラに入って第2ピアノを演奏する」とも書かれています。

後半が始まってステージを見ると、なるほどセーゲルスタムの姿は指揮台になく、第1ヴァイオリン後方とヴィオラ後方とに、それぞれピアノが一台ずつ配置されていて、セーゲルスタムは第1ヴァイオリン後方のピアノの奏者としてスタンバイしているのです。

何ら予備知識のない私は、作品解説を読んで「もしかして、ムード音楽っぽい曲なのかな」とも思ってしまったのですが、いざ演奏が始まってみると、いきなりトロンボーンの強烈な咆哮で幕を開け、その後もムード音楽どころか壮絶な雰囲気に満ちた、本格的な現代音楽が披歴され、良い意味で意表を付かれる思いでした。全曲で約20分ほどの規模でしたが、そこではトーン・クラスターの過激な和音を随所に交えての、すこぶる熾烈な音響展開がホールに充溢したのです。

その無調ベースのハーモニーにおいてはおよそ耳当たりの良いメロディなどは聴かれず、その中において一定の間隔でベルが強打する「チチ・チー」の動機がベルリオーズ「幻想交響曲」終楽章の鐘の音形さながらに鳴り響いたり、時にはマーラーの交響曲第6番よろしく木製のハンマーが振りあげられ、激烈な3連打を叩き込んだりと、全編ある種の抜き差しならない痛みを孕んだような、その表現主義的な作風の度合いと、アンサンブルとしての表出力が素晴らしく、これは少なくとも前半のワーグナーの数倍くらいは聴いていてゾクゾクさせられたように思います。

それに加え、16型の大編成のアンサンブルが、指揮台をカラにして、これだけの大規模な管弦楽作品を、これだけ精妙に演奏できるという事実にも、少なからず衝撃を受けました。なにしろ前半のワーグナーをも凌ぐ音量をもって無調の複妙なハーモニーが指揮者なしでガンガン繰り出されてくるのですから、何か魔法でも見ているような面持ちでステージに見入ってしまったほどでした。

したがって、このセーゲルスタムの自作自演は、私にとっては視覚的にも聴覚的にも希有の体験でしたし、それだけなら大満足なのですが、この作品には実は、どうしても聴く側が考えざるを得ないような問題提起が内在されていて、その回答が私には聴き終えた時点で掴めず、それゆえ何かスッキリしない気持ちも残ったのでした。

その問題提起というのは、要するに「交響曲第198番」というネーミングのことです。

少なくとも私の認識だと、ベートーヴェン以後、交響曲という名を冠する全ての作品は、およそベートーヴェンとの関係から逃れられないのであって、実際ベートーヴェン以後で交響曲を作曲した作曲家で、ベートーヴェンを意識しなかった人など、ほとんどいなかったのではないでしょうか。

そうすると、このセーゲルスタムの交響曲も、やはりベートーヴェンとの関係で捉えるべき作品ということになるのでしょうか。

そうなると私にとって分からなくなるのが、セーゲルスタムが2010年の現在で200曲を超える大量の交響曲を作曲し終えていて、それも年間数十曲もの交響曲を毎年のように作曲している、という事実の意味です。なにしろベートーヴェンは生涯をかけて9曲ですから、これは幾らなんでも多すぎるのではないか、と思わざるを得ません。

変に誤解されないよう書き加えますが、私には別にセーゲルスタムの作曲スタンスを揶揄するような意図は全然なくて、ただ単純に私が「分からない」から書いているだけで、あの交響曲はベートーヴェンとの関係で捉えて聴くべき作品なのか、そうでないのか、それが分からなかったということなのです。

あの交響曲が、もしムード音楽的な軽い作風だったとしたら、私はベートーヴェンとの関係なんて全く考えず、「名ばかり交響曲」で済まして終わっていたと思うのですが、少なくとも私の印象として、今回披露されたセーゲルスタムの交響曲は、ベートーヴェンの交響曲に内在する精神と、一脈通じるような気配が垣間見られたような気がしたので、そういう疑問が聴いていて私の中に湧き起こったのでした。

最後のワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲は、アンコールの「ローエングリン」第3幕への前奏曲も含めて、前半のトリスタンとは打って変わったような充実した演奏でした。セーゲルスタムの重厚で濃密な音楽のスタイルをアンサンブルが高い共感をもって受け入れ、恰幅良く鳴り切ったようなアンサンブルから繰り出される、有機的な音楽のうねりが素晴らしく、聴かせどころにおいて大編成の厚ぼったいハーモニーが抜群の秩序を持って鳴動する様は聴いていて率直にジーンとくるものがあり、それも突き詰めると指揮者のアンサンブルに対するメンタル面での牽引力の賜物のように思えました。

ただそれでも、というよりむしろ、その演奏が素晴らしいものであったがために、却って日本のオーケストラの、現状における限界点のようなものが薄らと伺われたような気もしたのです。

というのも、私は同じサントリーホールで昨年の11月に、バイエルン放送交響楽団によるワーグナー作品の実演を聴いたのですが、偶然か否か、その時の公演と当夜の読売日響とが、割り合いに「かぶっている」のです。具体的には、編成(16型)、配置(変則型)、曲目(アンコール曲)が両公演で同じでした。

その公演の感想は以前にブログに書きましたが、その時にバイエルン放送響が披歴した本場のワーグナーと引き比べると、当夜の読売日響のワーグナーは正直それなりに聴き劣りがすると言わざるをえませんでした。

しかし何が原因で聴き劣るのか、となると、私には明瞭な理由がズバッと浮かばず、正直わからないのですが、ひとつだけ気が付いたことを書くなら、当夜の読売日響のワーグナーの場合、ハーモニーが一定以上の大音量になると、アンサンブル全体としてアクセルの踏み込みを抑え、ハーモニー相互のバランスを整えにかかる傾向があるのに対し、バイエルン放送響の場合は、ある一定以上の大音量になってもアクセルの踏み込みを抑えるどころか、更に踏み込むような、もの凄い音を出しておいて、そのくせアンサンブル相互のバランスは最良ともいうべきプロポーションに保たれ、聴いていて危うさというものを感じないのです。

とはいえ、それが日本とヨーロッパのオケの、現状における自力の差だとか、伝統というものに歴然の違いだとか、そんな単純な話でもないような気もするのです。むしろ音楽というものに対する日本と西洋との捉え方の違いに根ざした何かが、、?

以上、当夜のコンサートは、何だか色々と考えさせられることが多くて、案の定というか、かなり長々とした感想になってしまいました。それは演奏内容が良くないという話では全然なくて、ひとえに私の思考力の低さゆえなのですが、どうも聴き終えてモヤモヤした気持ちの残った、そんなコンサートでした。

セーゲルスタム/読売日響(サントリーホール 2/12)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団のコンサートを聴いてきました。

2010-02-12

指揮者はレイフ・セーゲルスタム。演目は前半がワーグナー「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死、 続いてハイドンのトランペット協奏曲変ホ長調(ソリストはルベン・シメオ)、後半がセーゲルスタムの交響曲第198番(!)の自作自演(世界初演)、最後にワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲というものでした。

アンコールはワーグナー「ローエングリン」第3幕への前奏曲でした。また前半部の最後にはシメオのトランペットソロによる、リムスキー・コルサコフ「くまんばちの飛行」のカデンツァの演奏が披露されました。

今日のコンサートでは、その独特の風貌(サンタクロース?)と巨体で知られる、フィンランドの指揮者にして作曲家のセーゲルスタムが指揮台に登場するというので、その自作自演も含めて、どのような演奏が聴けるか興味深く思い、ホールに足を運びました。

演目としては古典派・ロマン派・現代音楽と多岐に渡っていましたが、個々の作品の演奏タイムは総じて短めで、終演時刻も20時45分頃と少し早めでした。

それにしても今日は、いろいろと考えさせられたコンサートでした。

感想は後日に改めて出します。

ヴァント/ベルリン・ドイツ響によるブラームスの交響曲第1番


ブラームス 交響曲第1番・第4番
&シューマン 交響曲第4番
 ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団
 Profil 1994年~96年ライヴ PH09058
PH09058

ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・ドイツ交響楽団のライヴ集成ボックスセットにつき、今日はブラームスとシューマンの交響曲を収録したCDを聴きました。

これで、先週末に購入した本ボックスセットのCD8枚すべて、ようやく一通り耳を通しました。

とはいえ、感想については本ボックスセットの他盤の方において、私としては既に書き尽くしているつもりですので、特に新たな感想というのも無いのですが、このブラームスもシューマンも、やはり素晴らしい演奏でした。

それで終わっても何ですので、以下、ヴァント指揮のブラームス交響曲第1番の幾つかのCDにおける、各演奏の雰囲気の違いについて、軽く書いてみようと思います。

ヴァントが晩年(80年代後半以降)に録音したブラームスの1番のCDには、今回のベルリン・ドイツ響の演奏を含め、以下の4種類がリリースされています。

①シカゴ交響楽団とのライヴ(1989年)
②北ドイツ放送交響楽団とのライヴ(1996年)
③ベルリン・ドイツ交響楽団とのライヴ(1996年)
④ミュンヘン・フィルとのライヴ(1997年)

以上のうち①は、ヴァントが唯一アメリカのオーケストラに客演した際のコンサートのライヴで、演目はシューベルトの「未完成」とブラームスの1番というものでした。

当時ヴァントはアメリカのオケとしてはシカゴ響のほか、ボストン響やクリーヴランド管といったビッグネームからオファーを受けていたのですが、ヴァントの要求する膨大なリハーサル時間の要求に応じられず、いずれも実現化しなかったこと、このシカゴ響の客演にしても、世界屈指のオーケストラに対する「ウルトラスタンダードな」演目のリハーサルとしては、通常の2倍という異例の時間をオケ側に呑ませた上で、漸く実現したものであったこと、などがライナーノートに書かれています。

とはいえ、このシカゴ響とのブラ1は、音響的にアンサンブルのバスが大人しくて腰が軽い感じがしますし、ここぞという時のアンサンブルの質感の集約もいまひとつ弱いですし、ティンパニもずいぶん大人しいですし、要するにヴァントのブラームスとしてみると、いまひとつ表出力が弱いなというのが率直な印象です。

②~④の3つの演奏については、いずれも素晴らしいのですが、それらの雰囲気の違いとしては、同じように3つのオケによるヴァントの録音の残されている、ベートーヴェンの交響曲第1番に関して、先週末にブログで書いたことと、概ね重なるように思います。

つまり、豪快さより緻密さを志向したような稠密なまでの北ドイツ放送響とのライヴ、逆に緻密さよりも豪快さを志向したようなミュンヘン・フィルとのライヴ、そして豪快で緻密な様相を兼ね備えたベルリン・ドイツ響とのライヴ、という図式です。

そういうわけで、もし仮に私が、これら①~④の中から一つだけベストと思える演奏を選ぶと言うなら、おそらく③を選んでしまうと思うのですが、ただ聴き手によっては、おしなべてテンションの高いベルリン・ドイツ響との演奏よりは、緊縮的で引き締った構えからヴァント盤石の造形美を聴かせる北ドイツ放送交響楽団との演奏や、ヴァントにしては開放的で大らかなアンサンブル展開に独特の魅力のあるミュンヘン・フィルとの演奏に軍配が上がるという意見もあるのかも知れません。

そして、ほぼ同じ時期の録音に係る②~④において、何故これほどの雰囲気の違いが出るのか、という点に関して、私はベートーヴェンの交響曲第1番に関しては音質的な要因ではないかと書いたのですが、あれから、また少し考えてみました。

つまり純粋に、各オーケストラに対する指揮者の立ち位置の違いという点に要因を求めるとするなら、まず②は紛れもない手兵オケに対する指揮、③はヴァント第2の手兵ともいうべきオケに対する指揮、④は純粋な客演指揮となるのですが、手兵オケの場合、その求心力ゆえに音楽の雰囲気としても緊縮的で引き締ったものになり、逆に客演指揮だとオケ本来の色合いというもの遠心力として働き、そのぶん開放的な雰囲気が付帯されるところ、それが「第2の手兵」オケともなると、そのへんの求心力と遠心力とが、絶妙なバランスで作用し、結果あのように、ヴァントとしても希有なほどの高い訴求力を獲得するに至ったのではないか、という気もするのです。もちろん私の勝手な想像であり、まったく見当外れかも知れません。

それにしても本ボックスセットは、まさにヴァント珠玉の名演が満載という感じで、先週から連日それらを耳にしたことは、私には何とも言えない喜びの連続でした。

ヴァント/ベルリン・ドイツ響によるシューベルト「未完成」とブルックナー交響曲第9番


シューベルト 交響曲第8番「未完成」
&ブルックナー 交響曲第9番
 ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団
 Profil 1993年ライヴ PH09061
PH09061

ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・ドイツ交響楽団のライヴ集成ボックスセットにつき、一昨日に感想を掲載したブルックナー5番に続いて、シューベルトの交響曲第8番「未完成」とブルックナーの交響曲第9番を収録したCDを聴きました。

両演とも、実に素晴らしい演奏内容でした。ただ、その感想に関しては一昨日に書いたことと異口同音とならざるを得ません。

ですので今回は、ちょっと別のことを書きたいと思います。

ここでの2つの演奏は共に93年3月20日のベルリン・コンツェルトハウスでのコンサートのライヴ録音とされており、おそらく当日は前半がシューベルト「未完成」、後半がブルックナーの9番、というプログラムであったと思われます。

そして、この公演プログラムを目にして私が直ぐに思い出すのは、2000年11月に東京オペラシティ・コンサートホールで実演に接した、ギュンター・ヴァント/北ドイツ放送響の来日公演です。この時も同じく前半がシューベルト「未完成」、後半がブルックナーの9番というプログラムだったからです。

そんなことから、その10年前の公演のことが、私には本CDを聴きながら頻りに思い出されました。当時、高齢による健康上の問題から、一時は来日公演の実現自体が疑問視されていたのですが、ヴァント本人の強い来日意欲が追い風となり、ついにその来日公演が実現したのでした。

最初に介添え人に付添われてオーケストラ・ステージに登場した際、やや頼りない足取りかなとも思われましたが、ひとたび演奏が始まると別人のようで、そのヨーロッパの現役指揮者としては、最高齢の88歳という年齢が信じがたいほどのかくしゃくとした指揮ぶりでした。

終演後は観客が全員総立ちで、スタンディング・オベイションの嵐。そして、北ドイツ放送響の楽団員が全員退席した後も、その拍手は長く鳴り止なかったのです。

そのコンサートで披歴されたヴァントの神々しいまでの演奏を客席で耳にした当時の私が、それこそ気が動転するほどの衝撃と感動を味わい、そのコンサートの感想を「クラシック招き猫」という(今は休止されてしまった)BBSサイトのコンサート感想の掲示板に、いの一番で書き込んだりしたことなど、いずれも懐かしく思い出されるのです。

あれから10年、、

それ以降、現在まで私は無数のCDを聴いてきましたし、コンサートも数え切れないほど足を運んだのですが、結局あの公演「以上」のものには、ついぞ出会うことはなく、現在に至っています。

あのコンサートを聴けたことは、やはり掛け替えのない体験だったなと、今更ながらに思い返されます。なぜなら、あのヴァントの演奏を聴いたことにより、音楽を聴く上において、私の中に揺るがない「基準」が生まれたことが、現在まで私にとって何よりの財産になっているような、そんな気がするからです。

ヴァント/ベルリン・ドイツ響によるブルックナーの交響曲第5番


ブルックナー 交響曲第5番
 ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団
 Profil 1991年ライヴ PH09042
PH09042

ヴァント/ベルリン・ドイツ響のライヴ集成ボックスセットにつき、前回のベートーヴェンの交響曲集に続いて、ブルックナーの交響曲第5番が収録されたCDを聴きました。

ヴァント指揮のブル5の正規盤としては、ケルン放送響盤、北ドイツ放送響盤、ベルリン・フィル盤、ミュンヘン・フィル盤に続いて、今回のベルリン・ドイツ響盤が5種めのCDということになるはずですが、この中では、とりわけ1996年に録音された2つの録音であるベルリン・フィル盤とミュンヘン・フィル盤が、この作品に対するヴァントの演奏解釈における最高の境地を示すかというほどの圧倒的な演奏内容です。

2010-02-08
左がミュンヘン・フィル盤、右がベルリン・フィル盤です。

今回リリースされたベルリン・ドイツ響盤は、そこまでは流石に及ばないとしても、90年代のヴァントの練達のタクトにより紡がれるブルックナーの素晴らしさに期待して、じっくりと耳を傾けてみました。

ところが驚いたことに、このベルリン・ドイツ響とのブル5は、私の予想を遙かに上回る超絶的なまでの演奏内容だったのです。

上に書いた通り、本演を聴く前、私は愚かにも「そこまでは相対的に及ばないとしても」と思ったのですが、その理由として、ヴァントが96年に録音した2つの同曲の演奏というのが、片や最強オーケストラのベルリン・フィル、片やヴァントに匹敵するブルックナー演奏の大家チェリビダッケの薫陶を受けていたミュンヘン・フィル、それぞれがヴァントのカリスマ的なアンサンブル統制に照応し、そこから至高ともいうべきブルックナー演奏が導き出されているからで、それはおそらく90年代の後半にヴァントが到達したブルックナー表現の高みに、2つの超弩級オーケストラが持てる最高のレスポンスで応えた結果に他ならず、それを90年代初頭の、それもベルリン・ドイツ響への客演である本演に求めるのは難しいのではないか、という先入観があったからでした。

ところが聴いてみると、今回リリースのベルリン・ドイツ響とのブル5のライヴは、かのベルリン・フィル及びミュンヘン・フィルとの96年ライヴのそれに対し、こと表出力という点では同格であるのみならず、むしろ凌いでいるのではないか、とさえ思えるのです。

このベルリン・ドイツ響とのブルックナーを耳にすると、まず先日に掲載したベートーヴェンに対する演奏と同様、ヴァント特有の厳正で緻密を極めるハーモニーの扱い(主要声部と副声部とが強固な秩序をもって共存している!)が聴かれますし、フレージングのニュアンスの精妙さも素晴らしく、圧倒的なフォルテッシモにもかかわらず音響的一体感が全く損なわれていない点や、隙の無い造型の彫刻、充実した音響美、ハイ・スケールのダイナミクス、いずれも尋常一様のものではなく、それは単に聴いていて惚れぼれするというに止まらない、この演奏に対する計り知れない驚嘆の念や畏敬の念を抱きながら、なんと形容すれば良いのか分からないほどの絶大なカタルシスに聴き終えて満たされる、そんな演奏なのでした。

そして、この演奏の素晴らしさが何に起因するものなのか、聴き終えて暫く考えざるを得なかったのですが、到底その結論は出ないまでも、そうではないかという推察までは働きました。

つまり、この演奏におけるベルリン・ドイツ響のアンサンブルには、楽員一人一人の、ヴァントのブルックナー解釈に対する心酔というのか、傾倒の度合いが、ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルのアンサンブルのそれよりも、一回り強いのではないか、と思われる節があるのです。

例えば終楽章の(14:38)を頂点としたクレッシェンドの震撼的な迫力などのように、このブルックナーには何か強く激しいものが炎のように噴き出てくるような瞬間が多々あり、それがヴァントの厳正なアンサンブル統制と全く矛盾しないか、そこにはむしろ強い必然性すら感じられるのでした。

そうすると、おそらく当時のヴァントとベルリン・ドイツ響との関係というのは、ベルリン・フィルないしミュンヘン・フィルとの関係よりは、むしろヴァントの手兵オケ・北ドイツ放送響とのそれに近いのではないかと思えてくるのです。

この点、90年代以降ヴァントは、北ドイツ放送響とブルックナーの交響曲第5番の録音を残しておらず、もし残していたら、おそらく今回リリースのベルリン・ドイツ響との演奏に近い、並はずれた表出力の演奏が聴けたのではないかという気がします。

もうひとつ要因を挙げるなら、音質でしょうか。広々としたダイナミック・レンジにして、作為感のない自然な音響的プレゼンスなので、まるで実演を目の当たりにするような雰囲気を聴いていて感じる、秀逸な音質。

以上、このヴァントとベルリン・ドイツ響とのブルックナー5番の91年ライヴは、おそらくヴァントの残した同曲の、一連の珠玉ともいうべき異演盤の中にあっても、一頭地を抜くとさえ思える超絶的な名演であり、それ故こんな凄い演奏がよくも20年近くも眠っていたものだと呆れもしたのですが、ともあれ最終的に日の目を見て、それをこうして耳に出来たことを本当に感謝したい気持ちでした。

ティーレマン/バイロイト祝祭管によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲より「ジークフリート」


ワーグナー 楽劇四部作「ニーベルングの指環」全曲より
「ジークフリート」
 ティーレマン/バイロイト祝祭管弦楽団
 オーパス・アルテ 2008年ライヴ OACD9000BD
OACD9000BD-3

クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲CDにつき、先週の「ワルキューレ」に続いて今日は「ジークフリート」を一通り聴きました。

この四部作の第二夜「ジークフリート」全曲の歌手は、以下のような陣容です。

 ジークフリート:ステファン・グールド
 ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン
 ミーメ:ゲルハルト・ジーゲル
 さすらい人(ヴォータン):アルベルト・ドーメン
 アルベリヒ:アンドリュー・ショア
 ファフナー:ハンス=ペーター・ケーニヒ
 エルダ:クリスタ・マイヤー

オーケストラや音質に関しては、この「ジークフリート」も先週の「ワルキューレ」までと概ね同様の印象ですので、特に繰り返すことはせず、今回は主に主要な歌手に的を絞って印象を書きます。ただ、ブリュンヒルデについてだけは、次の「神々の黄昏」方に譲りたいと思います。

まず外題役ステファン・グールドですが、その歌唱に耳を傾けると、中音域において屈強な声質を備えている上に、高音域の朗々たる歌唱力も素晴らしく、ここぞという時には高音が見事に突き抜けてきますし、やはり純粋なヘルデンテノールとしての歌唱力には目を見張るものがあり、この役をバイロイトで歌うだけの実力のある歌手だなと聴いていて納得させられます。

ですが、ここで披歴されているグールドの歌唱というのは、正直に言って私の抱いているヘルデンテノールのイメージからは、多少ズレるかなという印象も受けます。

それを一言でいうと、超人的な英雄ジークフリートというよりは、むしろ人間的なスケールでの豪傑ジークフリート、という雰囲気とでも言うべきでしょうか。つまり、歌唱のスケール感において、例えば往年のヴォルフガング・ヴィントガッセンとか、あるいはルネ・コロといった、生粋のヘルデンテノールの発散させていた超人的な雰囲気が、あまりグールドからは感じられない、という風に思われるのです。

もっと言うなら、私は本CDを聴いていて、グールドのジークフリートが、どうにもヴェルディの「オテロ」に重なって聴こえてしまうのでした。

それはなぜかと言うと、私は昨年の秋に新国立劇場でヴェルディの「オテロ」を観劇したのですが、そこで外題役を見事に歌い切ったのがグールドでしたので、そのイメージが今だ私の頭に、それなりに強くあり、その印象に引きずられているような形になっているからです。

もちろん、それは単なる先入観に過ぎないのですが、しかし仮に私が件の「オテロ」を観なかったとしても、やはり同じような印象を感じるのではないか、という気もするのです。

要するに、ステファン・グールドが「オテロ」をレパートリーとするヘルデンテノールであるという「事実」そのものが、私には良くも悪くも印象的なのでした。

というのも、生粋のヘルデンテノールであれば、「オテロ」は歌わないのではないかと私には思われるからです(私にはヴィントガッセンやコロの歌う「オテロ」を想像できない)。

その意味では、グールドの歌うジークフリートは、むしろドミンゴのそれに近いような気もするのです。稀代の「オテロ」歌いドミンゴは、キャリアの晩年にワーグナーの方面へ進出し、ヘルデンテノールとして活躍したことは周知の通りですが、そのイメージに近いものを私はグールドの歌唱に対しても感じました。

その線で捉えてみると、少なくともドミンゴよりは、ワーグナー歌いとして全体的に板に付いているというか、サマになっているというか、そんな感じがします(逆に「オテロ」においては、グールドはドミンゴには及ばないと思います)。

そういうわけで、以上のようなグールドの披歴するジークフリートを、私は新鮮な面持ちで聴き入ったのでした。これを一概に新しいジークフリート像だとか、21世紀のヘルデンテノールだとして捉えようとは思いませんし、それはむしろ危険だと思うのですが、少なくとも私が今まで録音で耳にしてきたジークフリートの歌唱様式とは、良い意味でも悪い意味でも一味ちがうな、というのが率直な印象になります。

さすらい人(ヴォータン)役のアルベルト・ドーメンは全体として安定した低域の重みを披歴しつつ、力強い声に練達の抑揚を絡めて、すこぶる威厳のあるヴォータン像を創造せしめていて、その点では率直に感嘆させられます。さすがに当代随一のヴォータン歌いとされる歌唱なのですが、例えば往年のホッターのような、鷹揚たる歌唱からスケール豊かな表情を聴かせるヴォータンからすると、全体的に技巧が目に付き過ぎるというか、力を込める場面と流す場面とを良くわきまえた、硬軟織り交ぜての老獪な歌唱ぶりで長丁場を乗り切っている、という印象もあり、そのあたりは良くも悪くも、ということになってしまうようです。

他の歌い手に関しては、アルベリヒ役アンドリュー・ショア、ミーメ役ゲルハルト・ジーゲルなど、全体的に突き抜けた個性で聴かせるというより、アンサンブル重視のオーソドックスな様式で安定感のあるワーグナーを聴かせる、というスタンスが伺えるような手堅い歌唱だと思います。ある意味、ジークフリートおよびヴォータンの引き立て役に徹している、という形にも見えますが、それはシナリオ的にも妥当ですし、こういうあたりこそ、むしろバイロイトの地力というべき側面かも知れないと、聴いていて思いました。

ヴァント/ベルリン・ドイツ響によるベートーヴェンの交響曲第1番・第4番・第3番「英雄」


ベートーヴェン 交響曲第1番・第4番・第3番「英雄」
 ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団
 Profil 1994・96年ライヴ PH09060
PH09060

ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・ドイツ交響楽団のライヴ集成ボックスセットを入手したことを昨日ブログで書きましたが、今日はベートーヴェンの交響曲第1番・第4番・第3番「英雄」の収録されたCDを一通り聴きました。

このうち交響曲第1番に関しては、これがヴァントとしてはケルン・ギュルツェニヒ管盤、北ドイツ放送響盤(2種)、ミュンヘン・フィル盤につぐ5種類めのリリース、また交響曲第4番に関してはケルン・ギュルツェニヒ管盤、北ドイツ放送響盤につぐ3種類めのリリース、そして交響曲第3番「英雄」に関してはケルン・ギュルツェニヒ管盤、北ドイツ放送響盤(2種)につぐ4種類めのリリースということになるはずです。

これらベルリン・ドイツ響とのベートーヴェンですが、一通り聴いた時点での感想は、まずヴァント特有の厳正にして緻密を極めるハーモニーの扱いや、フレージングのニュアンスの精妙さが素晴らしいですし、フォルテッシモでもアンサンブルの音響的一体感が全く損なわれていない点や、全体に隙の無い造型的彫刻、充実した音響美、ハイ・スケールのダイナミクス、いずれも尋常一様のものではないと感じられたのですが、それらに加えて特筆すべき点として、ヴァントの演奏にしては過激とも思えるほどの、アンサンブルに対する大胆なアクセルの踏み込みが随所に聴かれることで、実際そのガツンとした音塊的な迫力には、聴いていて驚嘆するばかりでした。

そして、これらの演奏は私には、同じ時期にヴァントが他のオーケストラを振ったベートーヴェンと引き比べてみても、内容的に一段と際立っているように思われてならないのです。

この点、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」と第4番に関しては、現在リリースされているCDでヴァントが90年代に録音した演奏は、他には無いはずですが、交響曲第1番に関しては、今回リリースのベルリン・ドイツ響盤の他に、以下の2種のCDがリリースされています。

2010-02-06

ひとつはミュンヘン・フィルとのライヴ録音(写真左)で、これはちょうど今回のベルリン・ドイツ響とのライヴと同じ1994年の演奏、もうひとつが手兵・北ドイツ放送響とのライヴ録音(写真右)で、こちらは1996年の演奏です。

これら3種の、ほぼ同じ時期にヴァントが異なるオケを指揮して録音したベートーヴェンの1番につき、それらの雰囲気の違いを確かめるため、軽く聴き比べてみました。

そうすると、やはり同一時期に係る録音だけに、3演とも全体的なテンポ感やフレージングのバランス、アーティキュレーションの取り方などに、はっきりと共通した特徴が打ち出されているのですが、それでは演奏の雰囲気も同じかというと、これは驚くほどに相互に異なっているのです。

まず北ドイツ放送響とのライヴ録音ですが、これはヴァントの演奏の持ち味である構築的訴求力の高さが素晴らしい演奏ではあるものの、いささか老獪さが前面に出過ぎて、根源的な迫力に食い足りなさが残るというのが率直な印象です。

これがミュンヘン・フィルとのライヴになると、例えば第1楽章で序奏後の第1テーマがフライング気味に流れるのが聴かれる(1:17)など、アンサンブル統制が必ずしも盤石でない憾みもあるものの、アンサンブルの迫力自体は北ドイツ放送響とのライヴ盤よりワンランク高くなっていて、トッティでの引き締った質感の集約や、ここぞという時のティンパニのアクティビティも素晴らしく、そのアンサンブルの深々とした鳴動力において掛け替えのない魅力を有する演奏という感じがします。

そして今回のベルリン・ドイツ響とのライヴですが、まずアンサンブル統制の盤石ぶりという点では北ドイツ放送響盤と同格であり、そしてアンサンブルの根源的な迫力という点ではミュンヘン・フィル盤と同格という、要するにパーフェクトな演奏内容となっていることが、今回の聴き比べにより強く認識されたのです。緻密ではあるが豪快さが意外に振るわない北ドイツ放送響とのライヴ、逆に豪快ではあるが緻密さが必ずしも万全でないミュンヘン・フィルとのライヴと対比する意味で、ベルリン・ドイツ響とのライヴの印象を敢えて一言でいうなら、豪快で緻密な様相を兼ね備えた鉄壁の演奏内容というべきでしょうか。

とりわけ私が驚いたのは、特にトッティでのズッシリとした質感の手応えや、ここぞという時のティンパニのアクティビティにおいて、北ドイツ放送響盤とベルリン・ドイツ響盤に如実な差違が認められた点でした。これは両盤を聴き比べてみれば、おそらく誰にでも分かるはずです。

そして私が不思議なのは、どうして北ドイツ放送響とのライヴのみ、これほどに表現が穏健なのかということなのです。

以下は私の勝手な想像ですが、本当は実演では3演とも同じように強力なダイナミクスの演奏が披歴されていたのに、そのライヴ演奏がCD化される際、RCA側の録音担当者が録音の編集過程でオーケストラのダイナミクスを(聴き易いように)平板化してしまったのではないか、という気がするのです。というのも、RCAの北ドイツ放送響盤の音質というのが、Profilのミュンヘン・フィル盤およびベルリン・ドイツ響盤の音質に比べて、どこか人工的な肌触りがあり、つまり音響バランスが不自然に操作されているような印象がないこともないからです。

以上、今回リリースされたベルリン・ドイツ響との一連のベートーヴェンのライヴ録音は、間違いなくヴァントの残した複数のベートーヴェンの録音の中でも一頭地を抜く、圧巻の演奏内容で、これらはおそらくヴァントとしても会心ともいうべきベートーヴェンではないか、そんな風にも思えるほどでしたし、ブルックナー、ブラームスの方を聴くのも俄然、楽しみになりました。

ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団のライヴ集成ボックスセット


ヴァント&ベルリン・ドイツ響のライヴ集成ボックスセット
 ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団
 Profil 1991年~96年ライヴ PH09068
PH09068-2

Profilから先般リリースされた、ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・ドイツ交響楽団のライヴ演奏を収録したCD8枚組のボックスセットを注文していたのですが、それが昨夜、自宅に届きました。

収録内容は以下の12曲となっています。

①ブルックナー 交響曲第5番
  91年10月、ベルリン・コンツェルトハウス
②シューベルト 交響曲第8番「未完成」
  93年3月、ベルリン・コンツェルトハウス
③ブルックナー 交響曲第9番
  93年3月、ベルリン・コンツェルトハウス
④シューマン 交響曲第4番
  95年2月、ベルリン・コンツェルトハウス
⑤ブラームス 交響曲第1番
  96年4月、ベルリン・フィルハーモニー
⑥ブラームス 交響曲第4番
  94年11月、ベルリン・フィルハーモニー
⑦シューベルト 交響曲第9番「グレイト」
  93年6月、ベルリン・コンツェルトハウス
⑧ベートーヴェン 交響曲第1番
  94年2月、ベルリン・フィルハーモニー
⑨ベートーヴェン 交響曲第4番
  96年4月、ベルリン・フィルハーモニー
⑩ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
  94年2月、ベルリン・フィルハーモニー
⑪ベートーヴェン コリオラン序曲
  94年11月、ベルリン・フィルハーモニー
⑫ベートーヴェン エグモント序曲
  94年11月、ベルリン・フィルハーモニー

ヴァントが最晩年まで客演を続けたオーケストラとしては、ベルリン・フィルとミュンヘン・フィルの2つに限られていたのですが、そのベルリン・フィルから客演のオファーを受け、96年から指揮を始めるまでは、ヴァントの最大の客演先はベルリン・ドイツ交響楽団でした。

その客演指揮は80年代から90年代中盤まで続いたのですが、ベルリン・フィルからのオファーを承諾したのを契機に、ヴァントはベルリン・ドイツ響へ客演を行わなくなったようです。その理由は、同じベルリンでライバル関係にある2大オーケストラへの客演の掛け持ちをヴァントが嫌ったから、とされています。

しかしヴァントは93年にはベルリン・ドイツ響の首席客演指揮者の地位にあり、96年には名誉指揮者となっていますので、北ドイツ放送響に次ぐ、事実上第2の手兵オケとも言えるでしょう。

そのヴァント第2の手兵ベルリン・ドイツ響への客演ライヴを集成した本ボックスセットは、私は昨年リリースが告知された時から、聴くのを楽しみにしていました。

それで、まずは⑦のシューベルト「グレイト」を一通り聴きました。

PHO9030
シューベルト 交響曲第9番「グレイト」
 ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団
 Profil 1993年ライヴ PHO9030

このヴァント/ベルリン・ドイツ響のシューベルト「グレイト」93年ライヴは、実はプライヴェート盤として以前よりリリースされている有名な録音で、私も以下のEnLarmesのCD-R盤を入手済みでした。

ELS01-139
シューベルト 交響曲第9番「グレイト」
 ヴァント/ベルリン・ドイツ交響楽団
 EnLarmes 1993年ライヴ ELS01-139

上記EnLarmes盤の演奏を聴いた感想は、こちらの方に掲載していますので、演奏自体の感想は、それをもって代えさせて頂くとして、以下では両盤の音質の違いについての印象を書きます。

今回リリースのProfil盤を聴くと、第1楽章の開始40秒くらいのところに小さな音飛びがありますが、これはEnLarmes盤にもあるので、おそらくオリジナル・マスターの瑕疵だと思われますが、いずれにしても、これで両盤は確かに同一の演奏だと分かります。

それで両盤の音質を比較してみたのですが、印象としては一長一短かなという気がしました。

まずEnLarmes盤の方の音質ですが、これが非常に良く、オンマイク型のクッキリとした音像に基づくハーモニーの押し出しの強さが素晴らしくて、聴いていて惚れぼれさせられます。これは正直、プライヴェート盤にしておくのが勿体ないほどの音質だと思っていたのですが、難点として全体にノイズ感が高く、特にシャーというノイズレベルが恒常的に高くて少し耳障りですし、オンマイク的なバランスゆえ距離感に乏しく、またCD-Rメディアの制約に起因するのか、サウンドとしての厚みに少し不足する嫌いがあり、音響の膨らみがデッドなことから音色の潤いにおいて物足りなさも残ります。

対して今回リリースのProfil盤は、ややオフマイク気味に音像が引っ込んでいる感じがあり、少なくとも同じ音量で再生した場合、EnLarmes盤の音像と比べて少々こじんまりした印象を免れないのですが、逆にノイズ感が低く、耳障り感が少ないですし、音響的にも膨らみや潤いがもたらされており、局面によってはEnLarmes盤よりも趣きのある響きが醸し出されている感じがします。

EnLarmes盤は何しろ非正規盤ですので、おそらくオリジナルマスターを何ら加工せずにコピーしたのではないかという感があり、その点Profil盤の方は適切な音質加工が施されているなというのが率直な印象です。

いずれにしても、この名演が漸く正規リリースに漕ぎ着けたのは喜ばしいですし、音質も良好で何よりでした。今回おそらく初出のベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスなども、どのような演奏が披歴されているか楽しみに、明日以降じっくり耳を傾けてみたいと思います。

小林研一郎/日本フィルの06年プラハでのストラヴィンスキー「春の祭典」のライヴ


ストラヴィンスキー 「春の祭典」&芥川也寸志 弦楽のための三楽章
 小林研一郎/日本フィル
 日本フィル自主制作 2006年ライヴ JPOV-6003
JPOV-6003

日本フィルハーモニー交響楽団の自主制作による、「日本フィル創立50周年記念・第5回ヨーロッパ公演記念ライヴ」と題されたCDを聴きました。

このCDは、実は非売品で、先週末にサントリーホールへ日本フィルの定期演奏会を聴きに行った際、ロビーで購入した「日本フィル福袋」の中に含まれていたものです。

JPOV-6003a

上記チラシのとおり、福袋の中身はカレンダー・Tシャツ・CDの3点セットでした。

JPOV-6003b

このCDに収録されている演奏は、2006年5月27日チェコ・プラハのスメタナホールにおける「プラハの春」音楽祭のコンサートのライヴとされ、当日の演目である芥川也寸志の弦楽のための三楽章、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」、それに当日のアンコールとしてのドヴォルザークのスラヴ舞曲第10番と小林研一郎作曲のパッサカリアより「夏祭り」の計4曲が収録されています。

さっそく一通り聴いてみたところ、当該コンサートを一貫してアンサンブルに立ち込めている並々ならない気迫というか熱気が素晴らしく、ことに「春の祭典」の熱演ぶりは極めつきとさえ思われ、聴いていて圧倒させられるばかりでした。

「春の祭典」はコバケンの一八番でもあり、既に日本フィルとのCD録音も為されていますが、このプラハでのハルサイから発せられている猛烈なまでの表出力は只事でなく、おそらくは歴史あるヨーロッパの音楽会という大舞台での、一発勝負のライヴという状況から来る独特の緊張感が、結果的にオーケストラから桁違いの表現力を抽出せしめることになったのではないかと、そんな風に私には思われてなりませんでした。

このハルサイにおいては、ここぞという時に必ずや発せられる、コバケンの怪獣のような唸り声に乗じて、容赦なく沸点を突破するまでに熱狂的な音響がガンガン展開されているのですが、さらに驚異的なことには、ことアンサンブルの完成度というか安定感においても揺るぎない水準にあり、その圧倒的な破壊力を放つフォルテッシモのトッティにおいてさえ、どこか余裕すら感じさせるほどに、万全のアンサンブルの組み上げを成し遂げていることに、実直に驚嘆させられてしまいました。

これはコバケンと日本フィルとが長年に渡り培った信頼関係の賜物というべきものなのでしょうか。いずれにしても、CDで聴いても圧倒的な感動を呼び起こす、このハルサイを、もしナマで聴いていたら私など興奮のあまり卒倒してしまったのではないか、などということも本気で思えるのです。

それにしても、これほどの圧倒的なハルサイの収録されたCDが非売品というのは、どういう理由なのでしょうか。考えられるのは、前述のようにコバケン/日本フィルの「春の祭典」には既にエクストンからリリースされているCDがあるので、オクタヴィア・レコードに対する配慮から敢えて非売とした、ということなのかも知れません。

しかし、そのエクストン盤のハルサイと比べても、このプラハ・ライヴのハルサイは、確かに音質的には一歩を譲るかという気もしますが、完成度は互角ですし、何よりもアンサンブルの意気込みや燃焼力という点において、私はプラハ・ライヴの方に軍配を上げたくなるのです。

そういうわけで、本CDを非売品にしておくのは勿体ないように思われたのでした。僭越ながら、日本フィルにおかれましては市販化を検討されては如何でしょうか。

引き続き、スヴェトラーノフ/ロシア国立響によるマーラー交響曲全集


マーラー 交響曲全集
 スヴェトラーノフ/ロシア国立交響楽団
 ワーナー 1990年~96年 2564688862
2564688862-2

昨日の続きですが、エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団のマーラー交響曲全集につき、以下、各交響曲ごとに演奏の感想を簡単に書きます。

交響曲第1番「巨人」:
スヴェトラーノフにしては抑制を効かせた、万事に抜かりない演奏内容ですが、終楽章など、さすがに決めるところは確実に決めてきます。第3楽章のテンポが異常なほどスローで、(9:30)からのトランペットの凄いヴィブラートを始め、その感情濃度の高さに聴いていて戸惑うくらいでした。

交響曲第2番「復活」:
まずテンポが異常ですね。第1楽章で24分と、際立ってスローペースです。しかし大問題なのが演奏としての完成度の低さで、いきなり第1楽章冒頭のフェルマータ後のチェロとコンバスのユニゾンからしてズレていますし、以降も聴いていて縦の線がグラグラしたり、管楽器があちこちで音を外したり。どうもリハーサル不足の演奏かと思えるのですが、、、加えてトッティが軽くて、全体的に量感不足な点も気になりました。

交響曲第3番:
全体に丁寧で緻密なアンサンブルの組上げが印象的で、第2番と打って変わって完成度の高い演奏です。スヴェトラーノフにしては抑制を効かせたスタイルから、洗練されたロシアン・スタイルとでもいうべき、独特の美質が方々に披歴されていて聴いていて惹き込まれました。特に終楽章が途方もなく美しい!

交響曲第4番:
第2番と同年の録音なのですが、こちらは完成度が高く、アンサンブルが良く練られている感じがします。スローテンポが特徴的で、第1楽章は19分近い時間が掛けられ、その展開部の入り(5:52)あたり、初めて聴くようなユニークな音景に耳を奪われました。第3楽章終盤のクライマックスではトランペットの絶叫とティンパニの豪打が尋常でなく、もの凄い迫力です。終楽章はオリガ・アレクサンドリアが美声を披露しています。

交響曲第5番:
肝心なところで迫力不足な演奏内容、というのが率直な感想です。特に弦パートのバランスがアンサンブルの中で全般的に引っ込んで聴こえてくるのが致命的というのか、表出力の振るわない最大の要因のように思えました。

交響曲第6番「悲劇的」:
これはスヴェトラーノフの代表的な演奏のひとつで、しばしば「爆演」とも言われる演奏です。しかし少なくとも第1楽章の途中までは慎重で、むしろスヴェトラーノフとしては大人しいとさえ思えるのですが、しかし演奏が進むにつれて、次第にアンサンブルに気合いが入った演奏展開となり、第1楽章コーダともなるとアンサンブルが乱れるのもお構いなしの驀進的なテンポで、怒涛のような流れとなります。第2楽章冒頭のリズムのつんのめり具合も独特ですし、終楽章の暴風雨も凄まじい限り。演奏の全体的な仕上がりは、全集中だと「復活」に次ぐ粗雑さですが、この「悲劇的」はアンサンブルの鬼気迫るまでの燃焼力が素晴らしく、こと表出力という点では全集中随一の水準と言えると思います。ちなみにタイムは全体で80分を切っていますので、CD1枚収録でもいいと思われるのに何故かCD2枚に分かれていますね。

交響曲第7番「夜の歌」:
第6番「悲劇的」と並んで、いわゆるスヴェトラーノフ節の充溢する個性的演奏で、金管楽器の強い色彩感が炸裂する、ロシアン・バランスが強烈な演奏です。緩急の対比が強く、遅いところはトコトン遅く、速いところは何かに憑かれたように速い、というドラマティック・スタイル。第1楽章(20:58)のマグマのようなクレッシェンドは圧巻の一言。アンサンブルは精緻とは言えませんが、聴かせどころでの野性的な迫力が素晴らしいですし、第4楽章のような叙情的な場面でもオケの個性味が良く発揮されていて、弱奏時においても味の濃いハーモニーが絶えない、独特の個性感を匂わせる演奏だと思います。

交響曲第8番「千人の交響曲」:
音楽的な格調の高さと高水準の迫力を満たした好演とも言えるのですが、スヴェトラーノフにしてはオーソドックスで、いささか常套的かなという気がします。

交響曲第9番:
この全集中では、なぜか音質が突出的に悪いですね。全体にダイナミック・レンジが平板で、トッティの厚みが乏しく、ステレオ感も不自然なバランス、、、この音質のせいなのか、スヴェトラーノフの指揮ぶりも何となく淡泊で、全編76分というタイムの示すように、テンポも随分と速く、フレージングの呼吸が浅く、音質ともども煮え切らない内容に終始している、そんな風に思えましたし、第3楽章の中間部冒頭(5:01)で全くテンポダウンしないあたりは、私には奇抜というより意味不明としか思えませんでした。

交響曲第10番の第1楽章アダージョ:
この演奏には惚れぼれするばかりで、このコンビとしては会心に近い演奏展開ではないでしょうか。まるでワーグナーを思わせる、むせ返るような響きの濃度と、その深々とした情感が素晴らしく、クライマックスでの絶叫も迫真の極み。聴いていて実直に胸打たれる演奏でした。

スヴェトラーノフ/ロシア国立響によるマーラー交響曲全集


マーラー 交響曲全集
 スヴェトラーノフ/ロシア国立交響楽団
 ワーナー 1990年~96年 2564688862
2564688862

エフゲニー・スヴェトラーノフが、自身の手兵ロシア国立交響楽団を指揮して1990年代に録音したマーラー交響曲全集を先週の頭から聴き始めて、ようやく一通り聴き終えました。

私は先週、カルロス・クライバーの評伝で取り上げられている録音のCDを連日ブログで取り上げていたのですが、その間に、新規購入盤としての当該マーラー全集を聴き進めていたのでした。

これはスヴェトラーノフのニーナ未亡人の監修のもと、ワーナーがリリースを続けている「スヴェトラーノフ・オフィシャル・エディション」に含まれるもので、昨年の12月に仏ワーナーからリリースされたものです。

このスヴェトラーノフのマーラー全集は、かつてSAISON RUSSEなどのレーベルからバラでリリースされていたところ、数年前にヴェネチア・レーベルから全集ボックスとして集約されて廉価でリリースされていたのですが、なまじバラのCDを数枚所持していたばかりに、私は結局そのヴェネチアの全集を買い損ねてしまったのです。

そのヴェネチア盤は現在、廃盤で入手できない状態のため、この全集を聴くことは半ば諦めていたのですが、それが今回ワーナーのスヴェトラーノフ・プロジェクトの一環として復刻されたので、これ幸いとばかりに購入したのでした。

これは「オフィシャル・エディション」と銘打たれていますが、ライナーノートなどを見る限り、少なくとも録音に関するデータは、かなり大雑把のようです。というのも、各曲の録音年までしか記載されていないので、このマーラー全集の録音が、1990年録音の「悲劇的」以降、どういう順序で進められ、どの曲で最終的に完結したのか、そのあたりの過程の詳細が判然としないのです。

本当は録音順に聴いていこうと思ったのですが、仕方なく第1番から番号順に聴き進めていき、今夜で一通り聴き通しました。

総括的な印象としては、何と言いますか、色々な意味で随分とムラっけのあるマーラー全集だなと感じました。演奏様式にしても、完成度にしても、音質にしても、表出力にしても、、、

こと演奏様式という点では、少なくとも交響曲第6番と第7番に関しては、スヴェトラーノフらしい爆演的な範疇に含まれるような雰囲気の強い演奏なのですが、逆に交響曲第3番などは本当にスヴェトラーノフの指揮かと思われるほどに抑制を効かせての、名状しがたいような美演となっていて、聴いていて少々面喰らうほどでした。

こと完成度においても、かなりムラがあり、特に交響曲第2番は聴いていて一体どうしたのかというくらい完成度が低く、逆に交響曲第4番などはアンサンブルが緻密を極めています。

音質ですが、全体的に良好なのですが、なぜか交響曲第9番のみ音質の悪さが突出しています。

表出力、つまり演奏としての魅力の度合いですが、私としては3番、4番、6番、7番、それに10番アダージョあたりに聴いていて惹かれました。逆に2番、5番、8番、9番あたりは、聴いていて正直あまり惹かれませんでした。

以上が当該マーラー全集に対する大まかな所感になりますが、各曲個別の感想についても、改めて後日に一括して出すつもりです。

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