ティーレマン/バイロイト祝祭管によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲より「ワルキューレ」


ワーグナー 楽劇四部作「ニーベルングの指環」全曲より
「ワルキューレ」
 ティーレマン/バイロイト祝祭管弦楽団
 オーパス・アルテ 2008年ライヴ OACD9000BD
OACD9000BD-2

クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲CDにつき、先週の「ラインの黄金」に続いて今日は「ワルキューレ」を一通り聴きました。

この第一夜「ワルキューレ」での歌唱陣は以下のような陣容です。

 ヴォータン:アルベルト・ドーメン
 ジークムント:エントリク・ヴォトリヒ
 ジークリンデ:エファ=マリア・ウェストブロック
 ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン
 フリッカ:ミシェル・ブリート
 フンディング:クヮンチュル・ユン

「ラインの黄金」同様、豪華といえば豪華ですが、ジークムントとジークリンデのキャストに関しては、やや小粒かなという気もします。エントリク・ヴォトリヒは、最近どこかで聴いたなと思ったのですが、昨年秋の新国立劇場「ヴォツェック」を聴きに行く前に予習で聴いた、バレンボイム盤の「ヴォツェック」にアンドレス役で出ていました。

ヴォータンやブリュンヒルデの歌唱に関しては素晴らしいと思うのですが、それは次の「ジークフリート」に譲るとして、今日は音質面と、あとティーレマンの指揮ぶりを中心に書きたいと思います。

先週も書きましたように、このオーパス・アルテからリリースされた「リング」全曲は、音質が独特な感じで、ベーム、バレンボイム、カイルベルトといった、これまでのバイロイト・ライヴのリング全曲盤とは、明らかに毛色の異なる音質だと思われるのです。

その印象を簡単に言うなら、特にオーケストラの響きが良い意味で「くぐもっている」のです。

このティーレマン盤の「リング」を聴くと、アンサンブル各パートの器楽的なバランスに過分なメリハリというか凹凸感がなく、ひいては音響のプレゼンスにおいて誇張感というものがなく、空間的な奥行きに幾分か限界が感じられることを除いて(このあたりSACD仕様であったならば、また印象が違ってくると思うのですが)、かなりライヴ感の豊かなソノリティが耳を捉えます。そして、このソノリティの感触というのは、もしバイロイト歌劇場の客席で実演を耳にしたなら、こんな風に聴こえるのではないかと、そう思われるようなリアルな音場的感触なのです。

というのも、私がこれまで耳にしてきたバイロイトの「リング」というのは、こと音質面に関しては、二極化ともいうべき傾向があって、例えばクナッパーツブッシュの56年全曲盤のように、どうにもならない平板な音質というのが一方にあり、他方ベーム、バレンボイム、カイルベルトの全曲盤のように、いずれも鮮明という点では圧倒的に優れた音質ではあるものの、本当にバイロイトの客席で聴いていて、あの「穴倉」のオーケストラ・ピットから、こんなに鮮明に音が届くものだろうかと、そういう疑問の付きまとう音質のものと、両極に分かれていたように思われるからです。

この意味において、今回リリースされたティーレマン盤の「リング」は、もしかして画期的なものではないかと、私は密かに思ってもいるのですが、とにかく聴いていて音響面での不自然な加工臭とでも言うようなものがなく、その実在感のある響きの饗宴に安心して身を委ねることのできる音質、そんな風に感じました。ただ、出来ればSACDでのリリースが、更に望ましかったとは思いますが、、

音質に関しての印象は以上で、続いてティーレマンの指揮に関して書きますと、全体的にバイロイトのオケから、実に深々とした響きや表現力のある音色を抽出せしめていて惹き込まれるばかりです。

決して重々しく引き摺るようなテンポではないのに、音楽としての重量感が素晴らしく、バイロイトの力強いアンサンブルの起伏が、ここぞという時に大きなうねりとなって押し寄せる様相を、フル・ヴォリュームで耳にすると、聴いていて本当に体が舞い上がるような衝動に駆られるほどです。

それにしても、これはドイツ正統派のワーグナーなのでしょうか。重厚感という意味では、多分そうなのでしょうが、例えば第3幕冒頭「ワルキューレの騎行」の(4:07)からの最強奏で、いきなりズドンとテンポを落として音楽の恰幅の良さと迫力を圧倒的なまでに強調する、これなど何か一時代前の大指揮者のような古風な趣きがあり、演奏スタイルとしては古い部類に属するような、そんな気もするのですが、そのはち切れんばかりのダイナミクスにおいては、むしろ若々しい情熱と堂々たる風格とが、ティーレマンの中で激しいせめぎ合いを演じているような、そんな風にも聴いていて思われるのです。

「ワルキューレ」に関しては取りあえず以上で、あと「ジークフリート」と「神々の黄昏」は、また来週以降、じっくりと聴くつもりです。

日本フィル定期演奏会の感想


日本フィル定期演奏会 (サントリーホール 1/29)の感想です。

最初に演奏された小山清茂の「管弦楽のための鄙歌」第2番は、全体で15分程度の、4楽章の作品ですが、その雰囲気を一言でいうなら西洋楽器を用いての「盆踊り」とでも言うべきでしょうか。

ホールのステージ上に、ところ狭しと並べられた沢山の種類の打楽器(盆踊りに使われる和太鼓、木魚などの寺の仏具など)が繰り出す多彩なリズムに乗って、親しみやすい祭ばやしがホールに充溢する、賑々しい音楽。かなりエンターテイメント色の強い作品でもあり、これを本格的な現代音楽と言うには、正直いささか楽天的に過ぎるような印象も感じたのですが、聴いていて何だかウキウキと踊り出したくなる趣き(実際、飯守泰次郎は指揮台で、盆踊りさながらに躍るような指揮ぶりを披露しました)でしたし、そのあたりのムードを素直に楽しむべき作品なのだなというのが聴き終えての率直な印象でした。

続いて湯浅譲二の交響組曲「奥の細道」が演奏されました。こちらも4楽章の、全体で20分程度の作品ですし、ここでも木魚などの特殊楽器?を使用するなど、直前の小山作品と類似点も多いのですが、音楽の雰囲気自体は相当に異なるものでした。

「奥の細道」というタイトルから察せられるように、松尾芭蕉の4つの俳句を音楽に見立てたような静謐な雰囲気の作品であり、ひっきょう賑々しさよりも侘しさや寂しさ(いわゆる、わび・さび?)といった感情を聴き手に湧き起こさせる、そんな音楽。第3楽章「夏草や 兵どもが夢の跡」における打楽器の戦慄的な強打音は憤怒とも慟哭とも片の付かない、凄まじい響きでしたし、終楽章「閑かさや 岩にしみ入る蝉の声」においては、グリッサンド奏法や特殊奏法(ヴァイオリンの木部を指でノックする)から発散される超常的な音響により、まるで蝉時雨の中にじっと佇んでいるかのような不思議な感覚に捉われたりなど、聴いていてハッとするような音楽の雰囲気が独特で傾聴させられました。なお演奏終了後、湯浅譲二本人が客席から登場し、ステージ上で聴衆の拍手に応える場面が見られました。

休憩を挟んで、ブラームスの交響曲第4番が演奏されました。オーケストラの編成は(前半・後半とも一貫して)16型、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べた変則配置でした。

ちょっと脱線しますが、この配置パターン、私は昨年あたりからコンサートで割りと頻繁に見かけるようになったのですが(流行りなのでしょうか?)、これを何と呼べばいいのか、実のところ私には分からないのです。

第1ヴァイオリンとチェロが向かい合っているのが通常配置、第1・第2の両ヴァイオリンが向かい合っているのが対向配置、では第1ヴァイオリンとヴィオラが向かい合っている場合、さて何配置と言うのでしょう? このブログでは便宜上、変則配置などと暫定的に書いているのですが、もし何か妥当な呼称があるのならば御教示いただければと思います。

話を当夜のブラームスに戻しますと、この演奏の雰囲気につき、昨日は激情型とか劇場型とかいう書き方をしたのですが、要するにオペラティックな衣装を纏ったブラームス、という様な演奏として私には聴かれたのでした。

テンポ面においては緩急の揺さぶりを活発に展開し、強弱面においては局部的に、それこそ一呼吸で最高点にまでデュナーミクを高める、ドラマティックな起伏の取り方が披歴され、一つ一つのフレージングには歌謡的なメロディの流動なり歌唱的な情感なりが比較的に強く、こういった要素が総合的に形成する演奏の雰囲気というのが、シンフォニーの強固な構築性と言うよりも、むしろオペラの舞台に接しているかのような表情の豊かさがありありと感じられ、それでオペラティックなブラームスだなという印象を私は聴いていて自ずと抱いたのでした。

これでもしアンサンブルのレスポンスが万全であったなら、おそらく聴き手をグイグイと惹き込みながら、興奮のるつぼに導かずに置かない、素晴らしいブラームスに結実していたと思われるところ、残念ながら当夜の演奏においては、客演指揮の限界ということなのか、指揮者の解釈を具現化しようという意識が、オケ側に必ずしも十分に浸透してしないのではないか、という印象も随時に感じられてしまい、いわば音楽の運びの緊迫感や迫真度において、聴いていてギリギリのところで食い足りなさが顔を出してしまうのです。

例えば第1楽章のコーダで怒涛のような加速を仕掛ける場面では、あまりのテンポの速さのためアンサンブルの刻みが甘く流れ、個々のフレージングが上滑っているように聴かれましたし、終楽章で披歴された、ティンパニの意思的な強打を前面に押し出したバランスにしても、それに弦のバス部の響きの質感が十分に付随せず、ティンパニが半ば浮いた形になってしまい、結果的に音楽の流れが少し芝居がかったような感じになってしまったり、こういったことから、局所的なインパクトが全体的な感銘に直結せず、いささか脈絡を欠いた演奏のようにも思えてしまったのです。

そういう次第で、当夜のブラームスは、飯守泰次郎のブラームスに対する確固たる演奏ビジョンのようなものは強く滲み出ていたように思うのですが、そのビジョンに対してのアンサンブル側の感応力に難があり、その意図がフルに音化されて聴き手に伝達されるまでには、おそらく到らなかったのではないか、というのが聴き終えての率直な印象でした。

しかし、飯守泰次郎のブラームス解釈そのものに対しては傾聴させられるものを感じましたし、出来れば別の機会にでも、そのブラームスにじっくり耳を傾けてみたいと思いました。

日本フィル定期演奏会 (サントリーホール 1/29)


今日はサントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。

2010-01-29

指揮者は飯守泰次郎。演目は前半が小山清茂の「管弦楽のための鄙歌」第2番と湯浅譲二の交響組曲「奥の細道」、後半がブラームスの交響曲第4番というものでした。

飯守泰次郎の指揮と言えば、私がまず思い出すのは2008年2月に東京文化会館で上演された、二期会のワーグナー「ワルキューレ」です。

2008-02-23
           その時のチケットです。

これは二期会の威信を掛けたような全力投入による、見事なワルキューレの舞台だったのですが、その中にあって飯守は東京フィルを指揮し、長丁場ゆえに時折アンサンブルの綻びも耳に付いたとしても、全体を通して音楽を舞台の流れに密着し切り、この記念碑的な上演全体をグッと引き締めていたのが客席で聴いていて感銘深く、それが今でも強く印象に残っています。

対して今日の公演ですが、私は飯守の指揮によるブラームスを聴いたのは今日が初めてでしたが、聴いた印象として、彼のブラームスに対する確固とした演奏ビジョンのようなものは比較的明確に打ち出された演奏ではあったものの、そのビジョンが実際にオーケストラを媒介として音化される段階において、残念ながらレスポンスが必ずしも充分でない憾みがあり、その表現意欲が少なからず空転気味なようにも思えたのでした。

その演奏様式を一言でいうなら、それは激情型のブラームス、あるいは劇場型のブラームス、、?

いずれにしても、感想は例によって後日あらためて出すつもりです。

それにしてもサントリーホールの今年2月から3月の公演予定が、例年に比べ、目に見えてスカスカなのですが、これは一体どうしたことでしょうか。

カルロス・クライバーとリヒテルの共演によるドヴォルザークのピアノ協奏曲


ドヴォルザーク ピアノ協奏曲
 リヒテル(pf) C・クライバー/バイエルン国立管弦楽団
 EMIクラシックス 1976年 TOCE-3044
TOCE-3044

「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(上)」で言及されているクライバーの(オペラ以外の)正規録音につき、連日ブログで取り上げているところですが、その最後として、今日はリヒテルと共演したドヴォルザークのピアノ協奏曲について書きます。

《椿姫》の最初のレコーディングが終った直後、クライバーはふたたびバイエルン州立歌劇場管弦楽団とスタジオ入りすることになる。今回はEMIとの録音だった。独奏者との妥協点を見つけだすのが非常に難しいカルロス・クライバーだが、今回は売れっ子ピアニスト、スヴァトスラフ・リヒテルと、アントニーン・ドヴォルザークのピアノ協奏曲ト短調作品三三を録音することになった。
               (以上、評伝のP.460)


なお上記引用文中に「独奏者との妥協点を見つけだすのが非常に難しいカルロス・クライバー」とありますが、これはミケランジェリとのベートーヴェン「皇帝」の録音が頓挫した事件を受けての記述のようです(P.347-352)。

ところで評伝によると、この録音と同じ時期に、クライバーの指揮によるワーグナーの「リング」全曲録音という、驚異的なプロジェクトの契約交渉がEMIにより密かに進行していて、クライバーの確約を得る直前まで話が進んでいたそうです。しかし最終的には惜しいことに、ミケランジェリとの「皇帝」同様、やはり頓挫してしまいます。

クライバーは不運な状況にはまり込む。リヒテルとの共演を打診された時は喜びで我を忘れるほどだったのに、ドヴォルザークのピアノ協奏曲を録音するという提案を知り、はじめの感激に一抹の不安がかげる。だが、クライバーはリヒテルのためにそれを受け入れた。リヒテルは、チェロ協奏曲やヴァイオリン協奏曲に比べ、つねに影のような存在であるこの協奏曲をレパートリーに加えており、初演から百年経つ1976年に録音したいと考えていた。・・・カルロス・クライバーは、ドヴォルザークを高く評価していたが、劇的な交響曲第九番ホ短調などの作品に比べると、単なる狂詩曲的なピアノ協奏曲は取るに足らないもののように思われた。市民ピアノホールでの録音セッションは1976年6月18日から21日まで行われたが、なかなかうまくゆかなかった。・・
               (以上、評伝のP.462~)


このあとに続いて、リヒテルとカルロスとの録音をめぐる意見の対立と、そのことによる両雄の丁々発止のやり取りが掲載されていて興味深いのですが、要するにクライバーにしては必ずしも乗り気でなかった録音、ということのようなのです。

読んでから、改めて当該録音に耳を傾けてみると、なるほどリヒテルのピアノ・ソロとクライバーの管弦楽伴奏との間に、多少の温度差のようなものが透けてみえるか、という気もするのですが、そもそも当評伝を読む前に、このドヴォルザークの録音につき私がどう思っていたかと言うと、確かに素晴らしい演奏だと思いつつ、クライバーの演奏展開としては、少し違和感があるような気もしていたのです。

それはただ、これがクライバーの録音で唯一EMIからのリリース盤なので、このレーベル特有の彫りの浅いトーンの傾向から、そう感じるだけで、実際は凄い演奏なのだろうなということは全く疑いませんでした。

だから、今回クライバーの評伝を読んで、そうだったのかと感じるところも多かったのですが、結局このドヴォルザークは、ことクライバーの演奏ポリシーにおいては、彼の一連の録音の中で、本当に例外中の例外だったのですね。これだけ素晴らしい演奏であるにも関わらず、、

「リヒテルがどう反応するか、クライバーにはわからなかったようで、まったく妥協というものがありませんでした。彼は器楽奏者の伴奏には向いていなかったのだと思います。」とはいえ、この録音の批評が賛辞に埋め尽くされたことは、ここ数年の録音と変わらなかった。リヒテルは、さらにクライバーと、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音したいと願ったが、クライバーはそれを望まず、結局《ばらの騎士》へと戻っていった。・・・
               (以上、評伝のP.464)

カルロス・クライバー/シュトゥットガルト放送響によるボロディンの交響曲第2番


ボロディン 交響曲第2番
 C・クライバー/シュトゥットガルト放送交響楽団
 E・クライバー/NBC交響楽団
 ヘンスラー 1972年/1947年ライヴ 93116
93116

昨日の続きになりますが、「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(上)」で言及されている録音として、今日はボロディンの交響曲第2番について書きます。

なぜクライバーはこの曲を選んだのか。それは、この曲を気に入っており、すでにキューバとニューヨークで、父親の指揮による演奏を聴いていたからである。クライバーによる交響曲の演奏は、1972年12月12日、ヴィラ・ベルクにあるシュトゥットガルド放送(SDR)の放送用スタジオで、聴衆を入れずに行われた。ドイツでは、この交響曲は中心的なレパートリーにあったとは言い難く、そのため残念ながら、この素晴らしいクライバーの録音も、どちらかといえばあまり注目を集めるには至らなかったと言わざるを得ない。シュトゥットガルドのレーベル、メディアフォンがこの録音を(あまり良い編集とは言えないまでも)初めて商品化するまでは、いくつかの海賊盤に頼らざるを得ない状況が長く続いた。2004年、南西放送(SWR)とヘンスラー社が共同で発表した新しい盤は、1947年ニューヨークの父親の演奏と、この1972年シュトゥットガルドの息子の演奏を収録した素晴らしいものだった。
               (以上、評伝のP.289)


このCDにカップリングされている父エーリッヒのボロディンの方は、1947年12月のニューヨークでのコンサートのライヴ録りですが、上記引用にある「ニューヨークで、父親の指揮による演奏を聴いていた」というのは、実は当該コンサートのことを指しています(そのことは評伝のP.42で言及されています)。

このカルロスのボロディン録音に関しては以下のような後日譚が書かれています。

SDRとクライバーによる共同作業は成功を収めたにもかかわらず、クライバーをもう一度捕まえることはできなかった。オーケストラの楽団長フライフォーゲルも、同じようにミュンヘンを訪れ、クライバーを獲得しようとしたが、「クライバーはわたしに、一流オーケストラからの招待状の束を見せるんです。契約の部分は白紙のままのね。それで、あらゆる懇願は無駄だと知ったのです。我々とはレヴェルの異なるオーケストラの名前がそこに揃っているのですから。」
               (以上、評伝のP.290)


そういうわけで、このボロディン以後、クライバーとシュトゥットガルド放送響との録音は遂に為されなかったのですが、その「レヴェルの異なるオーケストラ」というのが、おそらくドレスデン・シュターツカペレなりバイエルン国立管弦楽団なり、あるいはウィーン・フィルなりということになるのでしょうか。

ところで、評伝に「いくつかの海賊盤に頼らざるを得ない状況」と書かれているように、このカルロス・クライバーのボロディンに関しては、長らく海賊盤が流布していたのでした。

私も、このヘンスラーの正規盤を入手する以前に、以下の海賊盤を入手し、それで当演奏を初めて耳にしました。

HR4410
ボロディン 交響曲第2番
 C・クライバー/シュトゥットガルト放送交響楽団
 メモリーズ 1972年 HR4410

上記メモリーズ盤の音質は、テープ・ノイズがかなり多めで、それなりに聴き苦しい感じもするのですが、ほとんどリマスタリングを施していないと思われるため、ことソノリティの生々しさという点では抜群で、はち切れんばかりのダイナミクスの感触が聴いていてジリジリと伝わってくるようです。

対して、正規盤のヘンスラー盤は、ノイズ感が圧倒的に低く、上記メモリーズ盤より遙かに聴き易い音質ですが、ノイズリダクションの影響からか、メモリーズ盤のそれと比べて多少なり音響的な彫りが浅いかと感じられなくもありません。

ここでのカルロスの演奏に関しては、なにしろ有名な演奏ですし、私などが今さら何か言うこともないのですが、このヘンスラー盤でエーリッヒ指揮の方のボロディンを初めて聴いた時、それがカルロスのボロディンに随分と似ていることに軽く驚いた覚えがあります。もちろん、これは正確には「カルロスのボロディンがエーリッヒのそれに似ている」と言うべきでしょうけれど、、

いずれにしても、このヘンスラー盤というのは、カルロスのエネルギッシュなボロディン演奏のコンセプトが、父エーリッヒのそれに由来していることが、おそらく誰の耳にも明白に判るようなCDだったのですが(特にテンポ感がソックリですね)、あの評伝を読むと、そのあたりのことが裏付けられていて、読んでいてやっぱりと思われたのでした。

カルロス・クライバー/ウィーン・フィルによるベートーヴェンの交響曲第5番「運命」


ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」、交響曲第7番
 C・クライバー/ウィーン・フィル
 グラモフォン 1974~76年 POCG-9526
POCG-9526

昨日に引き続き、クライバーの評伝「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(上)」に関する話になりますが、昨日も書きましたように、この評伝には、クライバーの残した一連の録音につき、各演奏の背景や裏話といったエピソードが豊富に記載されています。

とはいえ、これはまだ「上巻」ですので、取り上げられている録音も1970年代後半の時期までのものに限られています。

それを具体的に見ますと、まずオペラ以外のジャンルの正規録音としては、以下のものが取り上げられています。

①ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」・第7番
②シューベルト 交響曲第3番・第8番「未完成」
③ボロディン 交響曲第2番
④ドヴォルザーク ピアノ協奏曲
kleiber-1

また、オペラ(全曲盤)の正規録音としては、以下のものが取り上げられています。

⑤ウェーバー「魔弾の射手」
⑥J.シュトラウスⅡ世「こうもり」
⑦ヴェルディ「椿姫」
⑧R.シュトラウス「ばらの騎士」
kleiber-2

これら以外に、実は非正規の録音で聴ける演奏も相当数取り上げられており、こちらに関しても、出来れば別の機会にでも触れたいと思っているのですが、ともかく以上のようなクライバーの録音というのは、オペラであれ交響曲であれ、いずれも名盤中の名盤と認知されているものばかりで、私なども一体これまで何回くらい聴いたのか分からないくらい耳にしてきた録音ばかりです。

こういった、我々にとって御馴染みな録音について、隠されたエピソードが色々と書かれているのですから、これはもう面白いどころの騒ぎではありませんでした。

例えばクライバーのウィーン・フィルとの初録音となった、ベートーヴェン「運命」の録音については、以下のようなエピソードが掲載されています。

楽員の多くは、演習の間、クライバーによる具体的な比喩の数々に馴染めなかった。クライバーはこの比喩を用いて、作品が持つ単なる楽譜以上の意味合いを伝えようと試みたが、クライバーがファゴット奏者に、猿の群れを自分の周りに集める猿山のボスを連想してくれと要求した時は、さすがの彼らも困惑した。ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルは、当時をこう振り返る。『クライバーから普通の説明を期待することはできません。「走る豹のように演奏しろ、とか言われるんですから。だれかがある部分を下げ弓か、上げ弓か、どちらで弾くのかと訊いた時、クライバーは怒りましたね』。オーケストラの慣習的な演奏法と練達の技術と、クライバーがライヴだけでなくレコード録音でも行おうとした奏法とは、頻繁に衝突を繰り返した。クライバーの芸術上の理想に従えば、すべてが完全にぴたりと揃っている必要は、雰囲気が炎のように燃え上がることが大事だった。・・・
               (以上、評伝のP.428~)


こういうのを読んでから、改めて当該録音を聴き直すと、何だか新鮮な感じがするものですから、この年末年始にかけて、私は本の中で取り上げられているクライバーの録音を、片っぱしから聴く羽目になってしまいました(ので、年末に買い込んだ新譜が、全然聴けないという有り様でした)。

この「運命」にしても、あの優雅なウィーン・フィルが、よくぞここまで、というくらいの大演奏だと思うのですが、上記のようなことを読んでから聴くと、そのあたりの背景が僅かながらに垣間見れた、そんな気もしたのでした。

カルロス・クライバー/ウィーン・フィルによるシューベルトの交響曲第3番と「未完成」


シューベルト 交響曲第3番、交響曲第8番「未完成」
 C・クライバー/ウィーン・フィル
 グラモフォン 1978年 POCG-1188
POCG-1188

以前にも書きましたように、この年末年始にかけて、私はクライバーの評伝「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(上)」を一通り読んだのですが、それについて思うことを少し書いてみたいと思います。

ちなみに上記シューベルトのCDですが、それを聴きながら評伝を読んでいたので(その理由は以下で触れます)、ここで引き合いに出した次第です。何を今さらという有名盤ですし、ここで特に感想を書くということはしません。

このクライバーの評伝、面白いという点では確かに凄く面白いのですが、それは読んで感動するという性質のものではなくて、純粋に好奇心をくすぐるという観点において面白かった、というべきものでした。

これが例えばベートーヴェンや夏目漱石の伝記だったら、私などは読むと圧倒的に感動してしまうのですが(ちなみに、このクライバーの評伝と並行して読んだ寺田寅彦の評伝も感動的な内容でした)、このクライバーの伝記は特に読んでいて胸を打たれる、という感じにはならないのです。

その意味で、このクライバーの評伝を読んで私が具体的に面白いと感じた要素は、大きく分けて2つあります。ひとつは、これまであまり語られなかったクライバーの人となりが、その仕事ぶりも含め、かなり赤裸々に活写されていて、これが読んでいて滅法おもしろいと同時に、色々と考えさせられるような内容だったからです。

何しろクライバーの辞書には「妥協」の文字がなく、オペラ公演にしろ演奏会にしろ録音にしろ、いかに彼が周囲の人間と火花を散らしながらの、抜き差しならない状況下、あくまで自己の理想としての音楽を作り上げていったか、それがイヤというほど書かれているのです。むろんクライバーの気難しい性格は周知でしたし、ある程度は予想もできた内容であるとはいえ、それでも、まさかこれほどとは、、、というのが率直な印象でした。

この評伝の内容が完全に真実かどうか、それはまた別とするにしても、少なくとも私は、これがもしクライバー以外の指揮者だったら多分、ここに書かれている内容を、まず信じなかっただろうとさえ思うのです。それほど常軌を逸したエピソードがゴロゴロ書かれているのですから。

例えば、64年シュトゥットガルド州立歌劇場「椿姫」のキャンセル事件、、

・・・シェーファー(注:シュトゥットガルド州立歌劇場総監督)は自伝の中でこの出来事をこう述べている、「ある女性歌手がプローベに来なかった、それはもちろんけしからんことだった。カルロスはピアノの前に腰を下ろしてしばらく待っていた。それから私のところにやって来て、降りますと言う。『それじゃあ、帰りの切符代を払おうか』と訊くと、『いいえ、けっこうです。そのくらいの金はあります』。我々は二人ともそれ以上話すことはなかった。わたしはこのクライバーとかいう男にこれ以上会うまいと心に決めた」・・・
               (以上、評伝のP.148~)


あるいは、65年チューリヒ歌劇場「ばらの騎士」キャンセル事件、、

・・・彼に≪ばらの騎士≫の再演を持ちかけた時、最初の問題が生じた。最初のプローベの朝、オーケストラは指揮者が来るのを待っていたが無駄だった。彼に電話してもらちが明かなかったので、心配した劇場総監督は事務局長に様子を見に行かせた。カルロスは寝巻き姿のまま絶望してレコード・プレーヤーの前にしゃがんでいて、『とてもこうはできない』とうめいた。ターンテーブルの上には彼の父のLPが乗っていた。・・・
               (以上、評伝のP.182~)


他にも66年エジンバラ音楽祭での「ヴォツエック」の指揮を、ラジオ中継のマイクが目ざわりという理由で当日キャンセルし、膨大な損害を被らせたことや、69年シュトゥットガルド州立歌劇場「トリスタンとイゾルデ」を、そんなオペラは妻が陣痛で苦しんでいる時には振れないと言って「ばらの騎士」に変更を要求し、劇場側を激怒させたこと、などなど。

そもそもクライバーという指揮者の類型を考えた場合、少なくとも「仕事を巡って周囲の人間と摩擦を起こすことを厭わずに、あくまで自己としての理想の演奏を、徹底的に追求する指揮者」という点において、紛れもなくトスカニーニやフルトヴェングラー、あるいはセル、チェリビダッケといった、いわゆる独裁型の、ドグマティックな指揮者と共通する気質を備えているように、私には思われるのですが、しかし例えば、、、

・・・ある≪ばらの騎士≫の上演では、急遽代役で登場した楽員が、一か所でミスを犯した。クライバーは指揮台で怒り、「出て行く!」と言った。≪椿姫≫では、歌手たちに憤慨し、足を壁にもたせかけ、数分指揮をするのをやめた。70年代初め、≪椿姫≫の演奏がルーティンに陥っていると気がついたクライバーは、その指揮を降り、別の指揮者が代わりに立った。彼の芸術的な要求という観点から見れば、これらはすべて首尾一貫した行動である。二回行われた≪オテロ≫の公演では、「デズデモナは本当に絞め殺されてしまえば良いのに」と言った。歌手かオーケストラが間違えた時は、左手をズボンのポケットに突っ込み、壁により掛かったまま、右手だけで指揮をした。・・・
               (以上、評伝のP.333~)


ここまでになると、さて前述のトスカニーニやフルトヴェングラー、セル、チェリビダッケといった指揮者と、クライバーは果たして同じタイプなのだろうかと、かなり疑問にも思われてくるのです。

こういった巨匠指揮者と、クライバーとの気質の違いを考えるなら、それはおそらく職業指揮者としての社会的責任感とでも言うべき意識が、クライバーには欠落していたということになるのでしょう。自分の関わる演奏会なり舞台なりを、最終的に成功に導く、という意識を、クライバーは基本的に重視しない。自分の理想が実現できるか否かがすべてであって、実現できないと分かった途端、その責任を顧みることなく、実に簡単に投げ出す、、、

常識的に考えるなら、こういう気質を押し通していくとなると、社会的な業務に携わることは、まず不可能とも思えるのですが、そこは演奏芸術という行為自体の特殊性と、何より彼の天才性という要因から、最終的にノープロブレムと看做されたのでしょう。これは考えてみると、実に凄い話ですが、、、

要するに、クライバーという指揮者は、世界中の職業指揮者においても本当に例外的なくらいに、アナーキーな気質の指揮者だったのですね。少なくとも私は、こういったタイプの指揮者を他に思いつきませんし(アーティストという範囲では、ピアニストのミケランジェリが唯一おもい浮かぶくらいですか)。

以上のような話とは別に、このクライバーの評伝を読んで興味深かった、もうひとつの点ですが、それはクライバーの残した一連の録音につき、各演奏の背景や裏話といったエピソードが豊富に記載されていたことです。例えば、ウィーン・フィルとの上記シューベルトの録音に関しては第5章「1974~1978年 ウィーン・フィルとのレコード録音」のP.341~343に記載されています。

何しろ今まで何度となく耳にしてきた、お馴染みとでもいうべきクライバーの一連の録音について、あれこれ興味深いことが書かれているのですから、評伝中で言及されている録音のCDについては、これを機に改めて聴き直してみたのでした。もちろん、該当箇所を読みながらです。

この点については、また次回に改めて書きたいと思います。

ティーレマン/バイロイト祝祭管によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲より「ラインの黄金」


ワーグナー 楽劇四部作「ニーベルングの指環」全曲より
「ラインの黄金」
 ティーレマン/バイロイト祝祭管弦楽団
 オーパス・アルテ 2008年ライヴ OACD9000BD
OACD9000BD-1

オーパス・アルテから先般リリースされた、クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲CDから、「ラインの黄金」を一通り聴きました。

これは2008年のバイロイト音楽祭における「リング」全曲チクルスのライヴ録音で、この「ラインの黄金」と、「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の楽劇4部作の、CD14枚組による一括リリースとなっています。

OACD9000BD-0

バイロイト祝祭管の演奏する「リング」全曲盤のリリースとしては、20年近く前のバレンボイム盤以来ということになるのですが、そのバレンボイム盤はバイロイト音楽祭の完全なライヴではなく、同音楽祭の完全ライヴ形式での「リング」の録音としては、ベーム盤以来、実に40年ぶりのリリースということのようです。

いずれにしても21世紀に録音されたバイロイト音楽祭の「リング」としては、現状このティーレマン盤が唯一であり、そのあたりの「21世紀のバイロイトのリング」が聴けるというあたりが、私としての主な購入動機でした。

それに加えて、昨年の秋に新国立劇場で観劇したヴェルディ「オテロ」で、外題役を歌っていたステファン・グールドが、このバイロイトのチクルスではジークフリートを歌っていることにも興味を惹かれました。

それで今日、まず序夜「ラインの黄金」全曲を聴いたのですが、ここでの歌唱陣は以下のような陣容です。

 ヴォータン:アルベルト・ドーメン
 ローゲ:アルノルト・ベゾイエン
 アルベリヒ:アンドリュー・ショア
 フリッカ:ミシェル・ブリート
 フライア:エディット・ハラー
 ドンナー:ラルフ・ルーカス
 フロー:クレメンス・ビーバー
 ファゾルト:クヮンチュル・ユン
 ファフナー:ハンス=ペーター・ケーニヒ
 ミーメ:ゲルハルト・ジーゲル

当代随一のワーグナー・バリトンと評価の高いアルベルト・ドーメンを中核に、2002年以来ずっとバイロイトでローゲを歌い続けているアルノルト・ベゾイエンなど、総じて実力派の布陣で固められていてスキがなく、さすがにバイロイト、という感じのする豪勢なキャスティングで、実際に聴いた印象としても、かなりの満足感を覚えるものでした。

ティーレマンですが、2002年に「マイスタージンガー」でバイロイト音楽祭にデビューして以来、既に同音楽祭の常連指揮者となっていて、バイロイトでは他に「パルジファル」と「タンホイザー」も振っていますし、さらにウィーン国立歌劇場での「トリスタンとイゾルデ」全曲のライヴ盤もリリースされていることを合わせると、この2006年からの「リング」全曲チクルスにより、もはや押しも押されもせぬワーグナー指揮者という評価を、ほぼ確立したようにも思えます。

加えて、現在ティーレマンは名門ミュンヘン・フィルの音楽監督を務めていますし、更にはドレスデン国立歌劇場の次期シェフに就任が予定されているなど、まさに今が旬の指揮者ですし、そのティーレマンがバイロイトの「リング」で、どのような演奏を披露するか、そのあたりも私には聴く前から楽しみでした。

そのティーレマンの指揮ですが、まだ序夜「ラインの黄金」を聴き終えたところですし、具体的なことは次の「ワルキューレ」を聴いた時点で改めて書きたく、ここでは、とりあえず演奏タイムについてだけ触れておきたいと思います。

このティーレマン/バイロイトの「ラインの黄金」のCDは、トータルタイムが151分余り、その最後の1分余りは拍手ですので、実質150分ということになるのですが、それでは他の録音ではどうかと思い、私の手持ちの「ラインの黄金」の幾つかのCDで調べてみたら、ベーム/バイロイトが137分、カイルベルト/バイロイトが141分、カラヤン/ベルリン・フィルとショルティ/ウィーン・フィルが共に145分、バレンボイム/バイロイトが148分、といった按配でした。従って、ことタイムの面では、このティーレマンの「ラインの黄金」は最長クラスと言えるかも知れません。

あと印象的だったのが音質で、これは聴いた限り、かなり独特な感じがします。少なくとも、これまでにリリースされてきた「バイロイトのリング」全曲盤とは少々毛色の異なる音質だなという感じがするのですが、これについても次の「ワルキューレ」で改めて書きたいと思います。

最後にパッケージに関して、ひとつ気になることがあります。このCDのリリース元のオーパス・アルテは、もともと英国ロイヤル・オペラ・ハウス傘下のソフト部門にして、本来DVD専門のレーベルのようですが、私はDVD方面には基本的に手を出さないようにしているので、正直このレーベルに関しては良く知りませんでした。

何が気になるのかと言うと、付属ブックレットに歌手の情報(プロフィール、経歴など)が全く掲載されていないので、そのあたりの情報が(自分で調べないと)分からず、いささか不親切だなと感じたのでした。

かなり良心的な価格設定ですし、殊更にあげつらう気もないのですが、せっかく21世紀初の記念碑的な「リング」全曲リリースなのですから、出来得るなら手を抜かないでリリースして欲しかったですね。

ガンバ/BBCフィルハーモニックによるヴォーン=ウィリアムズの映画音楽作品集


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に25枚まで掲載しているのですが、今回はCD26を聴きました。

ANNI-26
ヴォーン=ウィリアムズ 映画音楽作品集
 ガンバ/BBCフィルハーモニック
 2002年録音

これはヴォーン=ウィリアムズが作曲した映画作品用付帯音楽で構成されたアルバムで、ラモン・ガンバ指揮BBCフィルハーモニックの演奏により、以下の3曲が収録されています。

①映画「南極のスコット」からの組曲(完全版)
②「沿岸警備隊」組曲
③人々の土地

このうち興味深いのは①の「南極のスコット」の付帯音楽組曲で、これは後年ヴォーン=ウィリアムズが第7交響曲「南極シンフォニー」を作曲する際のベースとなった作品です。

それで一通り聴いてみたところ、確かに南極シンフォニーの方で聴き覚えのあるメロディが随所に聴かれる反面、ちょっと聴いたことがないようなメロディも多くて、南極シンフォニーのどこと、どう対応しているのか、いまいち捕捉できませんでした。

そこで簡単ながら、以下のアンドリュー・デイヴィス/BBC響の南極シンフォニーの演奏と対比してみました。

0630-13139-2
ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第7番「南極シンフォニー」
 A.デイヴィス/BBC交響楽団
 テルデック 1996年 0630-13139-2

まず組曲の第1曲「メイン・タイトル」でのメロディは、交響曲の第1楽章冒頭のメイン・テーマとだいたい同じで、第2曲「プロローグ」でのソプラノ歌唱のメロディは、交響曲の第1楽章中間あたり、デイヴィス盤(3:30)からのソプラノ歌唱のメロディとほぼ同じですね。

また、第7曲「ペンギンの踊り」のメロディは、交響曲の第2楽章の中間部、デイヴィス盤(3:09)からのメロディと全く同じですし、第10曲「ブリザード」から第16曲「氷山を降りる」までの音楽の雰囲気は、交響曲の第3楽章全体にかなり近いもののようです。

対して、組曲の第5曲「出航」、第8曲「オーロラ」、第9曲「仔馬の行進」などは、交響曲の方には対応するメロディが見当たらず、逆に交響曲の方の第4楽章冒頭のオーボエの美しいメロディなどは、組曲の方には見当たりませんでした。

おおまかな対比としては以上ですが、このディスクの組曲版そのものの印象としては、交響曲とそれほど変わらないなという感じがしました。南極シンフォニー自体が交響曲というより組曲のような構成を取っていることもありますが、組曲版の方も、第1曲のメイン・テーマが第3曲「暗い運命」や第13曲「氷山上のスコット」などでそのまま使われていたり、結構まとまりのある構成で、聴いていて南極シンフォニーの別アレンジ版といった感じがします。

とはいえ、映画音楽である以上、場景描写性により音楽としてのイマジネーションがそれに限定されてしまうため、やはり作品自体のキャパシティに一定の限界があるのは否めないと思います(それは南極シンフォニーに対しても言えることですが)。むしろ映画の方の主題ともいうべき大自然の厳しさ、それと対比される人間の脆さ、そういう要素の映画的な音響展開の醍醐味を味わうべき作品だと思いますし、それをガンバ/BBCフィルは過不足なく音化しているように思います。

インバル/ベルリン・ドイツ響によるヤナーチェクのグラゴル・ミサとシンフォニエッタ


ヤナーチェク グラゴル・ミサ、シンフォニエッタ
 インバル/ベルリン・ドイツ交響楽団
 デンオン 1995年 COCO73056
COCO73056

エリアフ・インバル指揮ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏による、ヤナーチェクのグラゴル・ミサとシンフォニエッタのCDを聴きました。

これは新録音ではありませんが、デンオンの「クレスト1000シリーズ」の最新盤として先般リリースされたものです。

1995年ベルリンのフィルハーモニーでのスタジオ録音で、グラゴル・ミサの声楽陣はユリア・ヴァラディ(ソプラノ)、シュテラ・ドゥフェクシス(メゾ・ソプラノ)、ヴァレンティン・プロラート(テノール)、ピーター・ローズ(バス)が務めています。

このCDは先日インターネットで新譜を物色していた時に目に留まったものです。というのも、ヤナーチェクのシンフォニエッタと言えば、先週サントリーホールでプラハ交響楽団の演奏を耳にし、この作品に対する感銘を新たにしたものですから、好い機会だと思って購入してみたのでした。

それで一通り聴いてみたのですが、このインバルのヤナーチェクは、すこぶる刺激的な演奏で驚かされました。どちらかというとシンフォニエッタが目当てで購入したのですが、聴いてみると、むしろグラゴル・ミサの演奏の方に傾聴させられました。

そのグラゴル・ミサですが、その演奏全体を支配するかのような猛烈なまでの狂想感が独特で、それがためヤナーチェクというより、むしろマーラーのシンフォニーを聴いているのではないかと錯覚するほどなのです。

このインバル指揮の演奏で聴くと、このグラゴル・ミサという作品が、単純な教会音楽でもなければ、チェコスロヴァキアの民族的な音楽の魅力に背骨を支えられた作品でもない(と言って決してドイツ音楽でもない)、むしろ汎ヨーロッパ的な範疇にある音楽のように聴かれますし、それ以上に、この作品の中にヤナーチェクがこっそりと潜ませたのではないかと思うような、音楽の内に秘められた人間の生々しい感情のうねり、喜びや哀しみ、絶望などが、聴いていてダイレクトに胸に刺さってくる、そんな演奏なのでした。

とくに第3楽章の(5:56)からラストまでの情動のテンションなど、聴いていて異様なほどですが、こういう赤裸々なパッションというのは、ヤナーチェク本来のスラブ的な情熱というより、むしろユダヤ的な情熱の高まりに裏打ちされているように思われ、それでマーラーのようだと先に書いたわけですが、それに関しては、おそらくマーラー指揮者インバルのユダヤ的な資質が関与しているのではないかと、私には思われてなりませんでした。

以上のグラゴル・ミサに対し、シンフォニエッタの方も、雰囲気としては近いのですが、グラゴル・ミサほどの強い主観性は披歴されておらず、むしろオーケストラの優れた機能性を中心に聴かせるといったスタンスではないかと思われました。

音質は全体に良好で、クリアにして空間性に富んだものですが、ヴォリューム・レベルが少し低めで、アンプの音量調整を思い切って高めにするくらいがちょうど良いようですね。

カンブルラン/バーデン=バーデン・フライブルクSRW響によるリームの「神とは何か」


リーム 「神とは何か」「描かれざる絵」「女/声」
 カンブルラン/バーデン=バーデン・フライブルクSRW響他
 ヘンスラー 2007年・1991年・1989年 CD93.236
CD93236

ドイツの現代作曲家ヴォルフガング・リームの作品の継続的な録音を続けているドイツ・ヘンスラーから先般リリースされた、リーム作品3曲を収録したアルバムを聴きました。

これは「ヴォルフガング・リーム・エディション」の第4集とのことで、以下の3曲が収録されています。

①「神とは何か」(2007年作曲)
②「描かれざる絵」(1994年作曲)
③「女/声」(1989年作曲)

①は合唱とオーケストラのための作品(ここでの演奏時間は33分)で、シルヴァン・カンブルランの指揮、バーデン=バーデン・フライブルクSRW交響楽団の演奏と、SRWヴォーカルアンサンブルの合唱により、2007年に録音されています。

②は純粋なオーケストラ作品(ここでの演奏時間は16分)で、フリードリヒ・ゴルトマン指揮、バーデン=バーデン・フライブルクSRW交響楽団の演奏により、1991年に録音されています(1994年作曲なのに91年に録音というのも不可解ですが、ここではライナーノートの表記に従います)。

③は2人のソプラノとオーケストラのための作品(ここでの演奏時間は20分)で、ミヒャエル・ギーレンの指揮、バーデン=バーデン・フライブルクSRW交響楽団の演奏と、イゾルデ・ジーベルト、カルメン・フギスの両ソプラノの歌唱により、1989年に録音されています。

本CDは、とりわけ①に興味を惹かれて購入したのでした。というのも、カンブルラン指揮のリーム作品の録音として昨年リリースされた「離接輪郭(Dis-Kontur)」の演奏での強い印象が記憶に新しかったからです。

加えて、現代作曲家リームの最近の作風に対する興味もありました。リームというと、その際立って多作な作曲スタンスで知られているところで、これまでの作品総数も500作を超えるとされているのですが、特に21世紀に入ってからは、さすがに往時の勢いは衰えてきたようでもあり、その発表作品も明らかに減少してきているのです。

それで聴いてみたのですが、何と言いますか、リームも随分と作風が丸くなったな、というのが第一印象でした。

その前に、この「神とは何か」という作品について、ライナーノートに書かれていることから簡単に説明しますと、これはリームが1997年5月17日に南ドイツ新聞に掲載された記事を読んで着想を得たとされる作品で、その記事の内容というのが、遙か昔24人の哲学者が神について議論を行った末、各人が神の定義を述べる、という内容のものなのです(その24の神の定義も、ライナーノートに書かれていますが、これはラテン語なので残念ながら私には内容が分かりません)。これらはヨーロッパ神知学の基礎をなすテクストであるとも書かれています。

そして、これら24のラテン語のテクストを声楽合唱が朗唱するという形でリームが音楽として仕上げた作品が、この「神とは何か」ということのようです。

その演奏に耳を傾けると、リームらしい手の込んだ管弦楽技法に基づく神秘的な音彩に声楽合唱が精妙に絡み合い、すこぶる特異にして超常的な音響世界が全編に披歴されていて、とても一言では表せないくらいに複妙を極めた趣きの音楽に仕上げられており、その意味では確かに現代を代表する作曲家リームの面目躍如という印象も聴いていて強く感じさせるものでした。

ただ、昨年の「離接輪郭(Dis-Kontur)」での、それこそ世界の終末のイメージをも湧き起こすような、空恐ろしいほどの凄味に満ちた音楽の気配感からすると、全体的に音楽の雰囲気がまろやかに傾いていて、要するに作風が丸くなったのではないか、という印象も少なからず感じられるのです。

「離接輪郭」はリームの22歳の時の作品、今回の「神とは何か」は55歳の時の作品ですから、作風に開きがあるのは当然なのですが、リーム往年の尖鋭な色彩感、鮮烈なまでの表現主義的な指向からすると、やや表出力が大人しい気配もあるので、それが少し気になったのでした。

とはいえ今回の「神とは何か」においても、(23:40)あたりから奈落に落ちたかような凄まじい音響展開が聴かれますし、その音楽が大きく老け込んでいるという感じは受けません。あくまで、リーム初期の作風と比べてという話です。

いずれにしても併録の2曲を含めて、リームの比較的近年の作品を、良質な演奏と、良好な音質で耳にし、改めて作風の特異性と、その変遷について目を向ける機会を与えられました。その点では本CDのリリースに感謝ですが、この種のアンノウンな音楽に関しては、できれば日本語による作品解説が欲しいですね。

引き続き、インマゼール/アニマ・エテルナによるベルリオーズの幻想交響曲


ベルリオーズ 幻想交響曲、序曲「ローマの謝肉祭」
 インマゼール/アニマ・エテルナ
 Zig-zag 2008年 KKC5074
KKC-5074

昨日の続きです。結局まとまり切りませんでしたが、、

このインマゼールの「幻想」においては、例えば第1ヴァイオリン9人という小編成のアンサンブルがノン・ヴィブラート奏法の上に展開するハーモニーを耳にすると、あたかも不純物が精錬されたダイヤモンドの原石のような感触の片鱗が伺われたりもするのですが、その肝心の音色自体が、随分とアッサリしていて、それゆえ新鮮な音楽の景色に耳をそばだたせられる前に、それが儚く消えてしまう、といった按配なのでした。

そもそも、ここでインマゼールの披瀝するアプローチが何というか独特で、全楽章とも徹底的なイン・テンポの歩調を崩さず、この作品の客観的な再現に徹するという、かなり覚めた目線が、聴いていて如実に伝わってくるのです。

それは例えばミュンシュの指揮に係る「幻想」のように、作品を自分の側へ強く引き付け、自己の主観に基づく濃厚な表現と激烈な情動をもって再現するというのではなく、むしろ反対に、自分から作品の方へ近寄り、その内部深くに入り込んで、そこから普通に演奏していたのでは、まず浮かんでこないような、繊細な色彩なりニュアンスなりを、集中力に満ちたアンサンブルの組上げから、まざまざと浮かび上がらせるという風なのですが、そこに浮かび上がる肝心の色合いというのが、どうにもアッサリとし過ぎていて、少なくとも私には、それにより何がしかの魅力を喚起させられるという瞬間が、さほどに訪れなかったのでした。

もっとも、このインマゼールの「幻想」は間の悪いことに?、かのミュンシュのパリ管発足ライヴの超絶的な「幻想」ライヴと、ほぼ同一のリリース時期に係ってしまい、私なども、かのミュンシュの「幻想」から受けたインパクトがあまりに絶大であったので、その反動から、こちらのインマゼールの「幻想」に対して、何か冷やかな印象を感じてしまうような心の働きがあったのかも知れません。

しかし、もう少し客観的に本CDを眺めると、私には音質に何か根本的な問題があるのではないか、という風にも思えるのです。というのも、本CDの音質は総じて奥行きに乏しく、聴いていて空間的な広がりを実感しにくい憾みがあり、果たしてピリオド・アンサンブルの精緻・精妙な音色のヒダを、この録音がどれだけ捉えているのだろうか、という疑問も聴いていて少なからず感じられたからです。

以上、このインマゼール/アニマ・エテルナの「幻想」は、何より作曲当時の様式に基づく作品の再現性という観点においては、間違いなく拝聴に値する演奏だと思われるのですが、肝心の演奏自体の魅力が事前に期待したほどでなく、雑ぱくに言って失望感が先立ったという感じでした。

もちろん、まだ聴き込みの浅い段階での話ですし、もっと繰り返し耳にすれば、この演奏の良さというものが私にも分かってくるのかも知れませんし(ただ、何回も繰り返し聴かないと良さの分からない演奏というのも、どうなのだろうという気もするのですが)、もう少し付き合ってみようと思っていますが、現状における私なりの正直な感想としては、以上のようなところです。

インマゼール/アニマ・エテルナによるベルリオーズの幻想交響曲


ベルリオーズ 幻想交響曲、序曲「ローマの謝肉祭」
 インマゼール/アニマ・エテルナ
 Zig-zag 2008年 KKC5074
KKC5074

ジョス・ファン・インマゼール指揮アニマ・エテルナの新譜として先般リリースされた、ベルリオーズ・幻想交響曲のCDを聴きました。

ベルリオーズ「幻想」のピリオドアンサンブルによる演奏としては、かなり前にノリントン、ガーディナーの両盤がリリースされていますし、ピリオド楽器とモダン楽器を折衷した演奏様式に拠るミンコフスキの録音もリリースされていますが、そんな中で鬼才インマゼールが、このベルリオーズの名作に対し、どのようなアプローチをするか興味深く、さっそく聴いてみました。

その印象を一言でいうと、これは成熟を極めたピリオドアンサンブルの演奏による、驚異的に煮詰められた「幻想」であり、その作品の「再現」に対する突き詰めの度合いが半端でない、そんな演奏なのですが、それでは掛け値なしの名演だと思うのかと言うと、それには正直に言って留保をつけざるを得ない、そんな演奏でもあるのです。

まずライナーノートに目を通すと、この「幻想」をインマゼールとアニマ・エテルナが演奏するにあたり、いかに彼らが、この作品の演奏された当時の楽器の再現に拘ったか、が実に良く伺われます。

アンサンブル編成のうち、トロンボーンだけは当時の楽器で使用可能な状態のものが見つからなかったため、18世紀のトロンボーンで代用したそうですが、それ以外は万全ともいうべき再現ぶりで、オフィクレイドやピストン・コルネットといった特殊楽器も当たり前のように使われていますし、終楽章の「鐘」に到っては、インマゼールがベルリオーズ自身のスコアへの書き込みと、当時の演奏環境から総合して判断した結果、「ベルリオーズが本物の鐘を用いたことはありえない」という結論に達し、この演奏では鐘の代わりに、何と「ピアノ」が用いられているのです。

少なくとも以上を読んだ時点においては、私は先日ミクロコスモス弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲全集の新譜を聴いた時と、ほぼ同じようなことを感じました。つまり、表面的に当時の編成を再現したからといって、その演奏が必ずしも素晴らしいということにはなりませんが、ここでのインマゼールとアニマ・エテルナの場合は、その度合いが半端でないので、その過程で作品研究を通した作曲家との、意識レベルでの深い交流が図られることになり、結果その演奏自体に絶大な説得力が還元されるのではないか、ということなのです。

ところが、いざ演奏に耳を傾けてみると、全体的に音楽の精彩が今一つ振るわず、その表情としても中庸の印象という域を出ず、少なくともミクロコスモス四重奏団のバルトークさながらに、演奏を聴きながら私の意識が作品の深部へとグングン入り込んでいき、果てには作曲家ベルリオーズその人の意識までもが聴いていて生々しく伝わってくるような、そんな感覚を味わうには、かなり程遠いような演奏であったと言わざるを得ませんでした。

それが一体どうしてなのか、に関しては、すみませんが今日のところは、私の考えがまとまるに到りませんでした。

ですので、もう一度そのあたりの考えを整理した上で、後日、このインマゼール/アニマ・エテルナの「幻想」に関する私の感想を改めて書いてみたいと思います。

シュトリンツル/ムジカ・フロレアによるドヴォルザークの交響曲第7番と第8番


ドヴォルザーク 交響曲第7番、第8番、管弦楽作品集
 シュトリンツル/ムジカ・フロレア
 Arta 2004・05年 F10180
F10180

マレク・シュトリンツル指揮ムジカ・フロレアの演奏によるドヴォルザークの交響曲第7番と第8番が収録されたCDを聴きました。

これは昨年末リリースの新譜で、以下のドヴォルザーク作品6曲がCD2枚に収録されています。
①交響曲第7番
②交響的変奏曲
③交響曲第8番
④オペラ「ヴァンダ」序曲
⑤プラハ・ワルツ
⑥ポルカ「プラハの学生たちのために」

以上のうち②と③がプラハ・ドヴォルザーク・ホールでの2005年の録音、それ以外の4曲がプラハ・チェコ国民銀行コングレス・センターでの2004年の録音とされています。なおムジカ・フロレアは、マレク・シュトリンツルにより1992年に創設されたチェコのピリオド楽器オーケストラです。

ドヴォルザークの交響曲をピリオド楽器オーケストラが演奏した録音として、私は昨年末にクリヴィヌ/ラ・ションブル・フィルハーモニックによる「新世界」のCDを耳にしました。その時の感想はこちらにある通りですが、それは聴いていて心弾むような演奏でしたし、また聴き慣れたはずの作品がピリオドアンサンブルならではの斬新な造型形成により、ずいぶん新鮮なものとして耳に響くことに驚かされもしました。

対して本CDでは、同じくピリオド楽器オーケストラの手によるドヴォルザークの7番と8番が聴けるということで興味津々です。

さっそく一通り聴いてみたのですが、交響曲第7番、第8番ともに、これらの作品の演奏としては初めて耳にする、ピリオド楽器オーケストラ特有のバランスが醸し出す、音楽の新鮮な味わいが素晴らしく、現代楽器のアンサンブルとは一線を画した、オケの響きのユニークなバランスや、キリッとリファインされたようなハーモニー(ヴィブラートは必要最小限に抑えられています)の爽快な鳴り具合、胸のすくような鋭いアクセント、切れの良いフレージング展開など、その個性的な感触の強さには聴いていて驚くばかりです。

しかも、その個性的な感触というのが、ただ奇を衒っているようなものとは明らかに違っていて、むしろ現代楽器オケの演奏では意識されにくいような、ドヴォルザークの音楽が生来的に持っている土俗的な味わいを、聴き手に改めて強く意識させるような、そういう絶妙なフィット感が聴いていて強烈に匂いたつような演奏となっているのです。

また面白いことに、ここでは交響曲第7番と第8番とで、演奏アプローチに違いが与えられています。交響曲第7番はテンポ的にすっきりとした運用が取られ、フレージングもクールで精悍な感じがするのですが、交響曲第8番の方では、時々びっくりするような遅いテンポを取ることがありますし、フレージング面でも第7番の時よりロマンティックな運用が聴かれます。

この点に関しては、ライナーノートに本演の指揮者シュトリンツル自身のコメントがあり、いわく「交響曲第8番では弦楽奏者にグリッサンドを積極的に掛けさせた。しかし交響曲第7番では、グリッサンドを忌避した往年のヴァーツァフ・ターリヒの様式を尊重し、それを控えた」とありますので、このあたりの方針の違いが演奏の表情の差違として端的に現われているようです。

いずれにしても、これらの演奏は彼らなりの演奏の流儀と信念をもって、作品を生き生きと再創造した画期的な演奏と言えるように思いますし、前述の「新世界」同様、その新鮮さ並びに演奏自体の圧倒的な表出力により、聴いていて心弾むような気持にさせてくれた演奏でした。

スウィトナー/ベルリン・シュターツカペレによるブラームス交響曲全集


ブラームス 交響曲全集
 スウィトナー/ベルリン・シュターツカペレ
 ベルリン・クラシックス 1984~86年 BC2137-2
BC2137-2

オトマール・スウィトナーが今月8日にベルリンで死去された旨が報道されました。それで私は先日、スウィトナーがベルリン・シュターツカペレを率いて来日した、1988年サントリー・ホールにおけるコンサートのライヴ盤を聴き、それについての感想を書いたのですが、今日は彼が手兵ベルリン・シュターツカペレを指揮してスタジオ録音した、ブラームス交響曲全集に、改めて耳を傾けてみました。

このブラームス全集は既に名盤の誉れ高いディスクですし、私などが今更あれこれ言うまでもないのかも知れませんが、この機に、私なりの印象を書いてみたいと思います。

まず1986年に録音された交響曲第1番ですが、全体として高弦はよく鳴るも、バスがいまひとつ大人しく、ティンパニも弱く、テンポ的にも何となく淡白で、確かに正調で格調の高い演奏なのですが、少なくとも88年のサントリーホールでの同曲のライヴでの熱演ぶりからすると、表情的には今一つ乗り切れていないような印象も付随します。

例えば第1楽章の第1テーマなど、ヴァイオリンが厳しい音を出し、真に迫った表情ですが、(4:39)からの第2テーマは木管がやや冴えず、展開部から再現部あたりも、ヴァイオリンは全く申し分ないものの、全体にバスの効きとティンパニの鳴りがいまひとつで、速めのテンポとあいまって、どこか腰の軽い感じが残ってしまうのです。

第2楽章は、(1:13)や(2:40)あたりなど木管パートのくすんだ音色の美感が味わい深く、第3楽章の冒頭なども同様で、素朴にして、朴訥で、一抹の哀感が滲むような気配というべきでしょうか。終楽章は序盤のティンパニが豪快で驚かされるものの、主部以降は意外に大人しく、後半以降は第1楽章同様、迫力的に振り切らないもどかしさも残るのですが、この演奏は迫力より、むしろアンサンブルの響きの色合いに惹かれる瞬間が多い、そんな演奏だと思います。

続いて1984年録音の交響曲第2番ですが、第1楽章冒頭から低弦の豊かなソノリティが耳を捉えます。弦の走りは摩擦感をまとい、木管はくすんだ味わいを醸し、金管の音色も朴訥、、、言わば、かつての東欧基調の色合いが支配的で、同じベルリンのオケでも、同時期のベルリン・フィルとは響きの感触が、およそ正反対とさえ思えるほどです(それは良し悪しでなく、性質の話としてですが)。展開部冒頭のホルン・木管の美しいこと。外面的な派手さの希薄なアンサンブルの、フォルテッシモの味の濃さ(12:37)、終盤のホルン・ソロの有機的な音色。

第2楽章・第3楽章は、第1番の中間楽章と同様に、アンサンブルのコクの深さがなによりの魅力で、第2楽章(1:50)からのホルンの原色的な音色の味など、惚れぼれするばかりです。終楽章は、主部がすごく速いテンポなので細部は描き切れないような感じですが、その響きは質実剛健で、歯応え抜群。コーダのアッチェレランドも物凄いの一言で聴いていて圧倒させられます。

そして1985年録音の交響曲第3番ですが、第1楽章は冒頭から弦の厚味が効いていてテンポも遅め、雄大な流れを形成しつつ、第1テーマにおいて2小節ごとに配される短2度下降のスタカートで、グッと腰を落とし念を押す解釈が、独特ながら巧く決まっています。第2テーマのクラリネットはかなり渋く、スコアのp~ppの音量変化はさほど強調されず、おおらかに表現されていますし、展開部(7:01)からのアジタートは、細かい刻みに荒さがあるものの、重厚なうねりの起伏力が並みでなく、コーダなども相当な粘り腰で、呼吸が深く、その音楽のスケール感も素晴らしいものです。

第2楽章は、冒頭といい(2:28)からの第2テーマといい、全編にクラリネットの古調な美しさが映え、地味ですが、それは俗感の薄い美しさというべきでしょうか。第3楽章冒頭のチェロも、音色はそうとうに渋いですが、そのフレージングの響きは極めて有機的で、まるで音楽の哀調が内側から滲みでるような気配です。

終楽章は、冒頭の第1テーマから響きに厚みが乗っていて、それがかなり独特です。というのも、この辺のpをpp並みに解釈する演奏が、むしろ多いのですが、少なくともスウィトナーはそうしていないからです。よって、(0:30)のトロンボーンのppの緊迫が実に活きているのです。

そして全合奏部に入ると、アンサンブルの深い鳴動が雄渾なソノリティを創出し、(2:05)からのff展開などスケール味抜群ですし、後半も遅めのテンポを守り切り、そこには誇張もハッタリもない、堂々たる音楽の造型が構築されています。何と素晴らしい演奏なのだろうと、改めて思わずにはいられないほどでした。

最後に1986年録音の交響曲第4番ですが、第1楽章冒頭の第1テーマでは主題形より低音弦の上行アルペジオの色合いに惹き付けられます(これがハッとするほど美しい!)。全体にオーソドックスにして折り目正しい進め方の中から、細かい音色の味わいが随所に零れ落ちる、そんな演奏で、(5:59)あたりの金管の強奏のコク、(6:25)の木管の素朴な美しさ。展開部から再現部あたりもすこぶる正調な歩の進め方で、あくまで構築的です。しかしコーダは、定速的な構えから(12:03)前後の最強奏で一瞬だけテンポアップ、、これは聴いていて、さすがに痺れました。

第2楽章は第1テーマのクラリネットの、儚い情感を醸すような音色といい、(3:52)からの第2テーマの、物悲しい訴えかけといい、おそらく「壁」崩壊を目前にひかえた時期の東欧オーケストラに残存した、アンサンブルのリージョンカラーの、貴重な果実を聴く思いがします。第3楽章はかなり几帳面で、豪放感は薄いものの、アンサンブルの有機的なソノリティに惹かれますが、むしろ白眉は終楽章で、その響きの有機性が頂点を極めるのです。何という味の濃いハーモニクス。第11変奏の (3:17)の木管など最高ですし、コーダのスローテンポ終結がもたらす深々とした余韻も、また格別としか言いようがないものでした。

以上、こうして全4曲を聴き終えて思ったのですが、これらはスウィトナーが、いかにブラームスのダイナミックの扱いに通じていたかが、明確に伺われるような隙のない演奏内容でありながら、そのように自己を厳しく律して抑制を効かせたアンサンブル展開から、ふと迸る情熱の高まりというような瞬間があって、その感銘が、オーケストラの発する虚飾ない響きの味わいにより増幅され、忘れ難い感銘を聴いていて与えられる、そのような音楽の襞が私には何より印象的でしたし、ひいてはブラームス全集として余盤に代えがたい魅力が、そこにあるのではないか、そんな風にも思われるのです。

いずれにしても、こうして久しぶりに彼のブラームス全集を耳にして、改めて偉大な指揮者であったことを、まざまざと認識させられたのですが、惜しむらくは引退の時期が少し早すぎた、ということでしょうか。主にパーキンソン病の影響が言われていますが、その引退時期が、ヘルベルト・ケーゲルのピストル自殺の時期と重なっているのも、おそらく偶然ではないのでしょう。彼はクルト・マズアのようには、自己の音楽との関係において、おそらく時の東欧情勢の激動と無縁ではいられなかったのではないでしょうか。この虚飾なきブラームス全集を聴いて、そんな風に思わずにはいられませんでした。

プラハ交響楽団来日公演の感想


プラハ交響楽団来日公演(サントリーホール 1/14)の感想です。

最初のシューベルト「未完成」は、14型のオーケストラ編成、ステージ向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置で演奏されました。

しかし、この「未完成」は正直、特に聴いていて気持ちが動かされるような演奏ではありませんでした。確かに過不足の無い、無難で、手堅い演奏でしたが、それだけ、という印象も否めず、いわば曲を聴かせるという以上の、このオーケストラならではの色合いを聴かせるという強い気概が、全体的に乏しいような、そんな味気なさが残ったというのが率直なところです。

続いて編成を12型に刈り込み、仲道郁代のピアノ・ソロでショパンのピアノ協奏曲第1番が演奏されました。

これは圧倒的に美しいショパンでした。それは単に和音が奇麗だとか、フレージングが滑らかだとかいう話とも違って、いわば音楽それ自体としての美しさというのか、ショパン演奏の一つの様式美とでもいうべきものが、おそらく彼女の中で完全に確立されていて、それが全体として聴き手に訴えかけて、その心を揺さぶらせずに置かない、そんな演奏なのでした。

仲道郁代のピアノ・ソロには、弱音での夢のように柔らかいタッチから強音での凛々しいフレーズの躍動に至るまで、すべてのフレージングがショパンの音楽に吸着するかのような、揺るぎない様式感と多彩なニュアンスの反映が随所に聴かれるのですが、そういったものが、それこそ盤石の演奏技術の上に展開される(当夜の演奏においてはミス・タッチは皆無でした。この難曲で!)のですから、聴いていて何か、このショパンのコンチェルト自体の作品としての底の浅さを超えて、非常に奥深い音楽に接しているような感覚が湧き起こるのです。

仲道郁代は周知のようにレパートリーを絞りに絞るタイプのピアニストであって、おそらくショパンとシューマンが中核で、その周辺にブラームスとベートーヴェンがあるという感じだと思うのですが、いずれにしても彼女の弾くショパンは、もはや一つの名人芸とでもいうべき領域に入っているような、そんな印象を抱かざるを得ないほどに、当夜の演奏は素晴らしいものでした。そのピアノの詩味、幻想味、いずれも聴いていて気が遠くなるくらいでしたし、バックのオーケストラも、「未完成」の時よりは随分と演奏に気が入っているように思えました。

休憩後、いよいよヤナーチェクのシンフォニエッタが披露されましたが、これは編成を16型に拡大した上、さらに別動隊として、ステージ後方P席の、また後方に位置するパイプオルガン正面の通路上に、9人のトランペット奏者と、テノール・チューバ及びバス・トランペット要員の2人を含む、計11人のブラスバンドを配置させての演奏でした。

この作品を本場チェコのオケの実演で聴くのは、私は当夜が初めてでしたが、第1楽章から大編成の金管群が奏でる野趣に満ちたフレージングが迫力満点で、その豪快なヤナーチェク・サウンドの渦に浸っているうち、あれよあれよという間に楽章が進んで行き、最後は終楽章の熱狂的な締め括りをもって爽快に全曲が結ばれ、その後には心地よい興奮と陶酔が余韻としてもたらされる、一言でいうなら、そんな感じの演奏でした。

マーカルの指揮に関しては、代役登板なので少し不安だったのですが、当夜ロビーで購入したプログラムを読むと、驚いたことにマーカルは「2003年~09年の間に、プラハ響とは80回の定期および特別公演、多様な音楽祭への参加、26もの海外ツアーにおける101回のコンサートをこなした」と書かれており、ほとんど常任指揮者のような関係さえ伺わせます。当夜のヤナーチェクにおいても、それを裏付けるかのような抜群の安定感でアンサンブルを統率し、全体を通して、テンポが概ね速めの一本調子で、じっくり腰を落として聴かせる場面が少なかったことを除いては、およそ非の打ちどころの無い演奏展開であったと思います。

それにしてもプラハ響は不思議なオーケストラで、上手いのか下手なのかが聴いていて一概に判然としないのです。

というのも、アンサンブルは全体にしっかり組み上げられて危うさがないのですが、個々のパートに目を向けると、奏法上のテクニカルな切れというものが総じて希薄で、フレージングがボッテリとしていて、良く言えば素朴な味があり、悪く言えば田舎くさい感じが付きまとう、そんな感じのアンサンブル展開が披歴されたからです。

そこには、ある種の洗練味やスマートさが薄いかわりに、むしろ朴訥とした風情や、おそらくチェコのローカルな響きの味わいというべきものが濃厚に聴かれたのですが、そのような色合いのオーケストラで、このヤナーチェク作品を聴いていると、これこそが作品の本来の姿ではなかろうかという、何か啓示みたいなものが、何時しか私の中に閃いたのです。

つまり、この曲をプラハ響の実演で聴くと、ホールに居ながらにして、あたかも自分がチェコの片田舎の、賑々しい野外音楽会か何かに紛れ込んだみたいな(この曲をヤナーチェクが着想した通りの)感覚に、聴いていて否応なく引き込まれるような感じがしましたし、そこでの雑然としたハーモニーの活気と、素朴で飾らないメロディの愉悦とからなる、独特なまでの響きの奔流が織りなす音楽の雰囲気は、私が同曲のCDなり実演なりで体験したものとは一味も二味も異なる新鮮な趣きに溢れたものであって、それ故この曲の隠された魅力に何だか初めて気が付いたような、そんな気さえしたのでした。

それは本来CDで聴いたって気が付いても良さそうなものですが、私の知る限り、この作品のチェコ・ローカルなオケによる録音には、何か模範演奏のような感じのものが多くて、正直あまり惹かれるディスクが無かったのでした。それだけに、当夜の実演により、この作品の素晴らしさに改めて気付かされたような、そんな充実感を味わったのでした。

以上、当夜のコンサートは仲道郁代の素晴らしいショパンと、プラハ響の素晴らしいヤナーチェクを心ゆくまで堪能し、いろいろと私なりに得るところの大きなコンサートでした。今年最初のコンサートとして、まず上々の滑り出しで幸先いいかなと思っています。

プラハ交響楽団の来日公演(1/14 サントリーホール)


今日はサントリーホールでプラハ交響楽団の来日公演を聴いてきました。

2010-01-14

指揮者はズデニェク・マーカル。もともと予定されていたプラハ響の首席指揮者イルジー・コウトが、健康上の理由で来日できなくなったことにより、マーカルの代役登板となりました。

演目は前半がシューベルトの交響曲第8番「未完成」、続いて仲道郁代のピアノ・ソロによるショパンのピアノ協奏曲第1番、後半がヤナーチェクのシンフォニエッタというものでした。

今日ホールに足を運んだのは、仲道郁代のショパンも久しぶりに聴きたかったのですが、何といってもヤナーチェクのシンフォニエッタが狙いでした。

この作品は、普段あまり実演に掛からないですし、チェコ・フィルあたりも最近なぜか日本で演奏しておらず、私は今まで本場チェコのオーケストラの実演で、この作品を耳にしたことがありませんでした。

聴きに行く前に少し気になったのが「ニューイヤー名曲コンサート」という公演タイトルで、つまり、お気楽なスタンスでの演奏だとイヤだなと思ったのですが、聴いてみると(「未完成」を除いて)すこぶる本格的な感触のコンサートでしたし、特にヤナーチェクのシンフォニエッタは、なるほど本場のオケだと、こういう感じになるのかと、聴いていて色々と啓示に富んだ演奏であると共に、かつて私が(実演でも録音でも)この作品を聴いて味わった覚えのないような、新鮮な音楽の景観と、その独特の趣きを体験することができました。

そのあたりの感想は、また改めて後日に。

ルービン四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲全集


バルトーク 弦楽四重奏曲全集
 ルービン四重奏団
 ブリリアント・クラシックス 2003年 BRL6901
BRL6901

一昨日の更新で、ミクロコスモス弦楽四重奏団のバルトーク弦楽四重奏曲全集を聴いての感想を書いたのですが、そのとき「私はバルトークの弦楽四重奏曲全集を見かけると手当たり次第に購入している」と書きました。

それを書いてから思ったのですが、その全集を私は全部で何セット持っているのだろうと疑問になり、それでCD棚を漁って、それらを一堂に集めてみました。

そうしたら、私の持っているバルトークの弦楽四重奏曲全集のCDというのは、どうやら全部で17セットというところでした。以下、アイウエオ順に列記しますと、、、

①アルバン・ベルク四重奏団
②エマーソン四重奏団
③ケラー四重奏団
④ジュリアード四重奏団(旧録音)
⑤ジュリアード四重奏団(新録音)
⑥タカーチ四重奏団(旧録音)
⑦タカーチ四重奏団(新録音)
⑧チリンギリアン四重奏団
⑨東京カルテット(旧録音)
⑩東京カルテット(新録音)
⑪ニュー・ブダペスト四重奏団
⑫ハーゲン四重奏団
⑬ハンガリー四重奏団
⑭フェルメール四重奏団
⑮ベルチャ四重奏団
⑯ミクロコスモス四重奏団
⑰ルービン四重奏団

Bartok-sq-01
Bartok-sq-02
Bartok-sq-03

以上の他に、バラだと一昨年のアルカント四重奏団の5番と6番、昨年のカルミナ四重奏団の1番と2番などもあるのですが、全集盤としては以上です。

実は他にも、てっきり持っていると思っていたのに、探してみたら見つからなかったものもあるのですが、いずれにしても集めてみれば、それほどに大した数ではなく、「手当たり次第に購入」なんて大きなことを書かなければ良かったなと少し反省しています。

それはさておき、せっかく集めたのですから、この中の一つであるルービン四重奏団の全集について、この機会に書いてみたいと思います。

これは激安レーベルのブリリアントから2004年にリリースされたもので、このCDで私はルービン四重奏団という名前を初めて知ったのですが、この四重奏団は実はメンバー4人全員が女性奏者で構成されているという、一風変わったカルテット団体だったのです。

何しろ奏者が全員女性ということもあって、演奏を聴くまでは軽快で、スポーティなアンサンブル展開なのかも知れないという先入観も、正直あったりしたのですが、いざ聴いてみると、すこぶる本格的な構えの演奏で、あっけらかんとしたムードは希薄ですし、フレージングの切れ味の鋭さ、完成度の高さなど、いずれも素晴らしくて思わず感嘆させられるほどでした。

もっとも、そういう要素とは別に、この演奏がユニークなのは、聴いていて随所に斬新な響きの色合いが浮かびあがってくる点です。4人の女性奏者の演奏ならではの、こまやかで、しなやかなボウイングの綾が、バルトークの異世界的な音色の妙と巧く呼応している、そんな演奏なのです。

そして胸のすくようなアンサンブルのドライブ感にしても、おそらく結成から12年という練達の為せる業なのでしょう。音質が残念ながら平板な感じで、必ずしも十全とは言い難いのですが、このカルテットの実力や音楽性の高さはよく伺われますし、これほどのバルトーク全集が、千円を切る低価格で手に入るのですから、凄いコストパフォーマンスですね。

オトマール・スウィトナー死去


ブラームス 交響曲第1番&モーツァルト 「魔笛」序曲
 スウィトナー/ベルリン・シュターツカペレ
 アルトゥス 1988年ライヴ ALT-024
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オーストリアの名指揮者オトマール・スウィトナーが、8日、ベルリンで死去された旨が報道されました。享年87歳とのことです。御冥福をお祈りします。

スウィトナーはN響の名誉指揮者でもあり、日本には度々来日していたのですが、私は残念ながら彼の実演に接する機会は一度もありませんでした。

そこで今夜は、スウィトナーの追悼盤として、彼がベルリン・シュターツカペレを率いて来日した、1988年サントリー・ホールにおけるコンサートのライヴ盤を聴くことにし、その演奏に耳を傾けてみました。

スウィトナーがベルリン・シュターツカペレを指揮したブラームスの1番には、86年スタジオ録音のベルリン・クラシックス盤の演奏もあるのですが、それに比べると、このライブ盤のブラームスはテンポ、ダイナミクスともに一段と活性化されているのが耳を捉えます。

第3楽章など、音楽の動きが不安的なほどにテンポを速めたりしていて、アンサンブルの安定感という点では、やや危なっかしい局面もいくつか聴かれるのですが、なにより音楽が素晴らしい燃焼感に満ちていて、聴いていて圧倒させられるくらいです。例えば終楽章の(11:19)でのホルンの最強奏の凄さ、その直後の激烈な加速ぶり!

音質も良好で、嬉しい限りです。というのも、ベルリン・シュターツカペレというオーケストラは、私は何度か実演を聴いていて、そこでは本当に惚れぼれするような、素晴らしい響きを聴かせるアンサンブルなのに、何故か録音となると、(例えば、バレンボイム指揮による一連のテルデック録音などのように)その良さが十分に伝わりにくいような傾向があるように私には思われるのですが、このディスクに聴くソノリティの感触は、おそらくオーケストラの響きの実像に近いように、聴いていて感じられるのです。

思うに、このオーケストラ特有の飾らない響きの味わい、その深々とした趣きというのは、おそらく1964年から90年までの、長きに渡るスウィトナーの政権時代に、じっくりと時間を掛けて育まれたものなのでしょう。

その意味で、スウィトナーの残した音楽的遺産は、現在のベルリン・シュターツカペレに脈々と受け継がれているように私には思えます。ただ、実演を聴けなかったことが心残りでした。

ミクロコスモス弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲全集


バルトーク 弦楽四重奏曲全集
 ミクロコスモス弦楽四重奏団
 フンガロトン 2008年 HSACD32513
HSACD32513

昨年末にリリースされた、ミクロコスモス弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲全集のCDを聴きました。

ミクロコスモス弦楽四重奏団は、私は初めて聴くカルテット団体なのですが、ライナーノートによると、1998年に創設されたハンガリーのカルテットとのことで、その構成メンバーを見ると驚くべきことに、かのタカーチ四重奏団の創設者ガーボル・タカーチュ=ナジが第1ヴァイオリンを務めており、さらに巨匠ミクローシュ・ペレーニがチェロを務めているのです。何という豪華な顔合わせなのでしょう!

さっそく第1番の四重奏曲から聴いたのですが、そこでは4人の奏者ひとりひとりが一騎当千ともいうべき訴求力を帯びた、切れ味とインパクトの素晴らしいボウイングを展開しているのですが、それでいてカルテットとしての求心力も揺るぎなく、何処までもピタリと合わさった呼吸感の絶妙さ、そして怖いほどの集中度の高さも比類無く、そこから紡がれる強奏部の緊迫感も半端でなく、もうひたすら圧倒される思いで演奏に聴き入るばかりでした。

全体的にズシリと重い質感を伴う、テヌート風フレージングの表出力が並々ならないのですが、特に第1楽章の(4:40)からの中間部主題において、スコアにあるスラー間の休符の含蓄を最大限に活かすようなボウイングが披歴されているのには、聴いていて少なからぬ衝撃を受けました。こういうフレージングの動きというのは、この演奏ほど明確には聴いたことがないと私は思いますし、なにより旋律の切迫感が並々ならず、これこそバルトークの真の意図なのでは、とすら思われたのです。

さらに他の5曲も一通り聴いたのですが、全体的に、何か初めて耳にするような、ある種の衝撃感を伴う表情の付け方がそこかしこに耳に飛び込んできて、聴いていて新鮮な驚きと、それによる強い感動とが、それこそ引っ切りなしに訪れ、これは一体なんという凄い演奏なのだろうと、心から敬服したくなる思いで全曲を聴き終えました。

そして聴き終えて、全体このバルトーク全集における圧倒的な表出力が、何に起因するものなのか、私なりに暫く考えてみたのですが、結果おそらくカルテット各奏者のメンタリティが、作曲家バルトークの意識なり心情なりと、限りなく一体化しているからこそ演奏の説得力が途方もないのではないか、ということに思い到りました、

というのも、まず何より、このミクロコスモス四重奏団の構成メンバーが、全員ハンガリーの奏者で占められているという事実から、おそらく自国の作曲家に対するシンパシーの度合いが非常に高いということが推し量られるのですが、それ以上に、このバルトーク全集自体の演奏方針として、バルトークの自筆譜を徹底的に研究し尽くして、作曲家の意図を可能な限り再現する、というポリシーが明確に打ち出されているからです。

実際、これについては本CDのライナーノートに、本演の演奏方針に関する記述があるのですが、例えば第4番の四重奏曲の第1楽章では、ぺサンテの和音の性格に従いテンポを柔軟に変化させることや、第5番の四重奏曲では、フレージングにおいてスピッカートを必要以上に掛けないことなど、いずれもバルトーク自身が指示したとされる演奏方針が順守された演奏であることが明記されているのです。

もちろん表面的にバルトークの指示を順守したからと言って、その演奏が必ずしも素晴らしいということにはなりませんが、彼らの場合、まず作曲家に対する深いリスペクトが確固たる土台としてあり、しかも各奏者が並はずれた力量の持ち主であり、それに自国ハンガリー最大の作曲家バルトーク屈指の作品を録音し世に問うという絶大なモチベーションが加わり、さらに作品研究を通した作曲家との意識レベルでの深い交流が図られているのですから、ひっきょう演奏の説得力が、これほど途方もないことになっているのではないか、というのが私なりの結論でした。

以上、色々と考えてみて出てきた答えが、結局ありきたりで申し訳ないのですが、とにかく私は本演奏が、如何に素晴らしいものだったかということが言いたかったのでした。

私はバルトークの弦楽四重奏曲全集を見かけると手当たり次第に購入しているのですが、これほどまでに心を強く動かされたカルテット全集というのは、かつてのジュリアード四重奏曲の全集を聴いた時以来かと思われましたし、ハンガリーのカルテットによる本場のバルトークとしては、SACDの高音質も含めて考えると、ついに真打ち登場と言っても過言ではないくらいの演奏だと思います。

ヒコックス/ロンドン響によるヴォーン=ウィリアムズの交響曲第2番「ロンドン」(1913年初稿版)


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に24枚まで掲載しているのですが、今回はCD25を聴きました。

ANNI-25
ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第2番「ロンドン」
&バタワース 「青柳の堤」
 ヒコックス/ロンドン交響楽団
 2000年録音

CDジャケット面に「世界初録音」と書かれているので、最初は何だろうと思ったのですが、ここでのヴォーン=ウィリアムズ・交響曲第2番「ロンドン」の演奏は、どうやら「1913年初稿版による世界初録音」のようですね。

この「ロンドン」交響曲に関しては、1913年作曲以来3回の改訂が加えられていて、1954年改訂版がいわゆる「現行版」として広く用いられているところ、このヒコックス/ロンドン響による初稿の録音は、ヴォーン=ウィリアムズの遺族による特別の承認のもと、大英博物館に保管されていた初稿スコアに基づいて為されたものとされています。

この初稿版に対し、後年ヴォーン=ウィリアムズは改訂の度にカットを加え、最終的に54年稿に落ち着いたようなのですが、実際その54年稿が総タイム40分程度の規模であるのに対し、この1913年初稿版は総タイム1時間を要する楽曲規模なのです。

ちなみに、この曲の最初の改訂となる1920年稿を用いた録音としては、アンドリュー・デイヴィス/BBC響のテルデック盤が知られています。これは1920年稿を用いた数少ない録音です。

4509-90858-2
ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第2番「ロンドン」
 A.デイヴィス/BBC交響楽団
 テルデック 1993年 4509-90858-2

好い機会ですので、このデイヴィス盤の1920年稿と、本ディスクの1913年稿とを少し聴き比べてみたのですが、どうやら双方同一なのは第1楽章のみで、第2楽章以下に大きく改訂のメスが加えられていることが判りました。

例えば第2楽章は、ラヴェンダー売りの情景が始まる中間部のヴィオラのテーマが、デイヴィス盤では(4:54)から出ますが、ヒコックス盤では(6:44)からとなっていて、そこまでの旋律要素の多寡が明確に異なりますし、第3楽章に至っては総タイムがデイヴィス盤の8分強に対しヒコックス盤は16分強となっていて、改訂時にほぼ半分が刈りとられた計算になります。

1913年稿に対する全体的な印象としては、多分に冗長な側面も否定できないところで、交響曲というより連作交響詩というような雰囲気が勝る感じがしますが、少なくともヴォーン=ウィリアムズ特有の、抒情的な旋律展開の魅力に関しては、タイムスケールが上回るぶんだけ強調された形になっていると思います。

それにつけても素晴らしのは本演におけるヒコックス/ロンドン響のアンサンブルの充実度で、そのシンフォニックな厚み、音響密度、燃焼力など、いずれをとってもA.デイヴィス/BBC響のそれを大きく凌駕する水準にあると感じられました。このディスクの真価は、初稿版による稀少性よりも、むしろ演奏自体の良さにこそあるような気がします。

シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管によるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全集


J.S.バッハ ブランデンブルク協奏曲全曲
 シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 デッカ 2007年ライヴ 4782191
4782191

先般リリースされた、リッカルド・シャイー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏による、バッハのブランデンブルク協奏曲全集を聴きました。収録されている演奏は2007年11月、本拠地ゲヴァントハウスにおけるコンサートのものです。

シャイー/ゲヴァントハウス管というと、前回リリースされたメンデルスゾーンのアルバムは素晴らしい内容でしたし、それに昨年秋にサントリーホールで聴いた来日公演でも、ひとかたならぬ感銘を与えられたものですから、今回の新譜のバッハにも期待して、さっそく購入してみたのでした。

ところが、この演奏は正直、聴き終えて失望感が先立ちました。何より、表面的な完成度を超えたところにおける、演奏自体の訴えかけが弱く、前記のような私の予断からすると、一体どうしたことかと聴いていて不思議に思えるほどなのです。

そういう次第ですので、この演奏については、私自身あまり感じるものはなくて、ブログへの感想掲載もスルーしようかとも考えていたのですが、ちょっと引っ掛かることがあるので、敢えて取り上げてみることにしたのです。

というのも本CDは、演奏自体の良し悪しというのとは別に、どうも製品としてのプロデュース自体に問題があるのではないか、という風に思われるふしがあるからです。具体的には音質面と、ライナーノートの記載情報の御座なりさ加減から、そのような印象を与えられます。

まず音質ですが、デッカの録音にしてはソノリティの精彩が振るわず、とくに管パートを中心に高音の響きが全般に冴えない感じがします。全体的にアコースティックがフラットで、音場感に窮屈さが伺えますし、聴いていてマイクのフォーカスが甘いのではないかと思われることも度々でした。

そしてライナーノートですが、はっきり言って情報が少なすぎると思います。協奏曲6曲の各曲ごとの編成規模に関しての記載が無いというのは、廉価盤ならいざ知らず大手レーベルの新譜としては、少々お粗末だと言わざるを得ませんし、それに協奏曲第3番の第1楽章と終楽章の間に、ヴァイオリンのカデンツァが演奏されている(おそらくバイオリンパルティータ第2番の「シャコンヌ」の編曲かと思われます)のに、それについての言及が何も無いというあたりも、どうなのでしょうか。

この協奏曲第3番のカデンツァは、もともと原曲のスコアにはなく、演奏家の方針によりバッハの別の作品の緩徐楽章が演奏されることがあるのですが、例えば昨年リリースされた鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンの新録音では、ここに「3台のハープシコードのための協奏曲」BWV1064の第2楽章が演奏されていましたし、同じく昨年リリースのガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツの録音では、そこに無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番のグラーヴェ楽章の自由な編曲が演奏されていました。そして、そのことはBCJ盤・ガーディナー盤ともに各ライナーノートに明記されています。

要するに、このバッハのブランデンブルク協奏曲全集をリリースするにあたり、当然に記載されるべき情報が余りに抜けているのが私には引っ掛かるのです。これと上記の音質のことから、私には本CDのプロデュースに関して、製作者としての取り組みが少し投げやりというか雑というか、そんなスタンスが透けて見えるように思えてしまいますし、従って本当はもっと素晴らしい演奏なのに、その良さが十全に伝わらないだけなのかも知れないと、そんな風にも思えるのです。

詰まるところ、この新譜には直観的に何か違和感があり、いろいろ思うところを自由に書いてみたのでした。もちろん単に私自身が、この演奏の良さが分からないだけなのかも知れないのですし、何といってもバッハゆかりのオーケストラのバッハ演奏なのですから、もう少し付き合うつもりではいるのですが、少なくとも現時点での、私の率直な感想は以上のとおりです。

朝比奈隆/ベルリン・ドイツ響による89年ベルリンでのベートーヴェン「英雄」のライヴ


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 朝比奈隆/ベルリン・ドイツ交響楽団
 ヴァイトブリック 1989年ライブ SSS0104
SSS0104

昨年末にリリースされた、朝比奈隆が当時のベルリン放送交響楽団であるベルリン・ドイツ交響楽団を指揮したベートーヴェン「英雄」のライヴ盤を聴きました。

これは第39回ベルリン芸術週間におけるコンサートのライヴで、1989年9月24日、ベルリン・フィルハーモニーホールでの演奏とされます。この年の11月にはベルリンの壁が崩壊するのですが、その直前期の緊迫した状況下、ベートーヴェンの「英雄」を十八番とする朝比奈が、ドイツの名門放送オケに客演し、どのような演奏を展開するのか興味津々で、さっそく聴いてみました。

すると第1楽章冒頭から弦の厚味とバスの豊かな支えに導かれるように、朝比奈らしい風格に満ちたメインテーマが描き出され、以降も堂々たるスローテンポを持続させつつ、全体的に弦パートを確として上位に据えた、まさに朝比奈流アンサンブル展開の魅力が充溢し、その演奏の素晴らしさには、聴いていて実直に胸打たれる思いでした。

本場ドイツのオーケストラを振りながら、全く朝比奈流の様式が披歴されているあたりの、その徹底ぶりにも驚かされるばかりで、例えば展開部に入ってテンポが減速するにつれて響きの凝縮力が跳ね上がるのは、朝比奈演奏の大きな特徴ともいえるのですが、この演奏でもその特性がしっかり確保されており、聴いていて嬉しい限りでしたし、再現部からコーダまでの大河的な音楽の流れも比類ないくらいのスケール感があり、実に深々とした余韻が刻み込まれました。

続く第2楽章ですが、冒頭あたり、指揮棒とアンサンブルの呼吸が合わず、和音がグラっとした感じになっているのが気になりますし、少なくとも中間部まではアンサンブルの流れに何処かスムーズさを欠いたギクシャク感があり、正直このままだと良くないなと、いう感じで聴いていたのですが、それが後半のフーガに入るや一気に立て直されているのです。

そのフーガにおいては、(9:30)あたりで渾身のクレッシェンドを仕掛けて、もうデュナーミクの限界とさえ思える直後の(9:41)で、更なる圧倒的なクレッシェンドを仕掛ける、この超絶的なクレッシェンドの畳み掛けが、何と言っても圧巻であって、これには聴いていて本当に言葉に尽くせぬほどの絶大なる感銘が湧き起こり、同時に楽章前半の演奏に対する不安や不満も吹き飛ばされてしまいました。

第3楽章と終楽章も徹底的ともいうべき遅めのテンポで一貫された、すこぶる重厚な造形展開が貫徹され、さすがに躍動感こそ欠けるものですが、その聴かせどころにおいては、演奏を無難にまとめようという気など、まるで無いような、はち切れんばかりの表出力が宿っていて、ひっきょう音楽の深みが並々ならない水準にまで到達している、そんな見事な演奏でした。

以上のようなことに加え、私が当演奏を聴きながら印象深く思ったのは、朝比奈の同曲の多くのCDの中でも、この演奏ならでは、というような独特の色合いが伺われたことです。

その色合いというのは、それがドイツのオケとの数少ない共演であることによるのか、あるいは、「壁崩壊」直前という特殊な時期的要因によるのか、その両方か、正直よく分らないのですが、とにかく名状しがたい独特の緊張感が最初から最後まで立ち込めていて、時々なにか緊迫した儀式でも耳にしているかのような、ある種の張り詰めたムードが強くあり、あたかも希有な瞬間に立ち会っているとでもいうべき感興が聴いていて湧き上がるような、不思議な体験を味わいました。

そういえば私が朝比奈の「英雄」の、現在10種類以上あるCDの中で最も好きな演奏というのは、実は新日本フィルとのフォンテックのライヴ盤になるのですが、それは今回のベルリン・ライヴと同年の演奏なのですね。やはり、この時期が朝比奈の「英雄」演奏史における一つの絶頂期ではないかと、そんな風に思わずにはいられませんでした。

テンシュテット/シカゴ響によるマーラー交響曲第1番「巨人」の90年ライヴ


マーラー 交響曲第1番「巨人」
 テンシュテット/シカゴ交響楽団
 EMIクラシックス 1990年ライヴ TOCE3321
TOCE3321

先日の更新で、クラスス・テンシュテットがロンドン・フィルを指揮したマーラー「巨人」の90年ライヴを聴いての感想を掲載したのですが、テンシュテットは同じ90年に、シカゴ交響楽団に客演したコンサートにおいて、この同じマーラー「巨人」を取り上げており、その演奏のライヴ盤が以前にEMIからリリースされています。

このシカゴ響との演奏は90年5月・6月におけるシカゴ・コンサートホールでの演奏会のものですが、今回リリースされたロンドン・フィルとの「巨人」が同年1月の演奏会ですので、その直後の演奏ということになります。

そこで良い機会とばかり、これら2つの演奏を聴き比べてみたのですが、さすがに演奏様式として似ている部分も多く伺われる一方で、かなりの相違点も伺われるのです。

こちらのシカゴ盤の方は、まず音質が圧倒的に良いですし、演奏自体の完成度も圧倒的に高く、オーケストラの機能性においても素晴らしく、そこにテンシュテットならではの情動的な振幅の激しさが加えられていることもあり、私としては少なくとも今回リリースされたロンドン・フィル盤を耳にするまで、この作品に対するテンシュテットの演奏としては、それこそ会心の演奏ではないかとも思っていました。

しかし今回のロンドン・フィル盤の後で聴くと、いささか聴き劣る印象も否めませんでした。というのも、私が先日の更新で書いたような、途轍もなく衝撃的で常軌を逸したインパクトが、こちらのシカゴ盤においては、さほどには強く伺われないからです。

つまり、このシカゴ盤の演奏は、おそらく慣れないアメリカのオケへの客演であることによるのか、今回リリースのロンドン・フィル盤のそれに比べて、いくぶんか表情に抑制を効かせているような気配が伺われるのです。

例えば第1楽章の演奏タイム(提示部は共に反復されています)が、シカゴ盤が18分でロンドン・フィル盤が17分と、ちょうど1分もの差があるなど、総じてシカゴ響との演奏の方が、聴いていてアンサンブル展開が慎重な感じを受けます。

結果そのぶんだけ、こと演奏の表出力という点では今回のロンドン・フィル盤の方が一歩凌駕しているように感じられるのですが、これは客演指揮という制約上、止むを得ないのかも知れません。

それでも90年代のテンシュテットの演奏というのは、いずれにも鬼気迫るような独特の凄味があり、その奥部には我々のような凡人からすると、何か迂闊に触れるべからざるものが潜んでいるように思われてならないのですが、それに関連するかどうか、最近に読んだ寺田寅彦の評伝における、以下のくだりが、私には思い起こされるのです。

ところが、もう一つの夢である文学的表現者として立ちたいという願望は、容易には実現しそうになかった。恩師である漱石は、寅彦が東京に出てきた時点では、まだ熊本の五高で英語を教えていたし、一年後にはロンドンに留学することになる。子規という漱石から紹介された師はいたが、六尺の病床に身を横たえ、日々激痛に耐える状態であった。さらにまた、文学者として立つには、文章表現上の才能だけでなく、人生上の深刻な挫折、絶望による精神上の地獄巡りを潜り抜けることが不可欠だが、寅彦にはその体験が欠けていた。しかし二年後、夏子の喀血と自身の発病と療養、さらに夏子の死による絶望という形で、人生上最大の危機にさらされるようになる。
     「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」より


あたかもベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」を彷彿とさせるようなエピソードなので、読んだ際に印象に残っていたのですが、これをテンシュテットの場合に引き直すとするなら、もとからマーラー指揮者としての圧倒的な才覚を有していたところが、ガンという死病との抜き差しならない闘病生活を経ることで、その才に異常なまでの磨きが掛かった、とでも言うべきなのでしょうか。

いずれにしても、最晩年のテンシュテットが到達した演奏家としての境地が、如何に隔絶的であるかを、改めて強く認識させられた次第ですし、今後も彼の同時期のライヴは、ちょっと聴き逃せないと思うので、もし他に埋もれている音源があるのであれば、音質は多少悪くともリリースを切望したいと思います。

バーンスタイン/ベルリン・フィルによるマーラー交響曲第9番OIBPリマスタリング盤の音質に関して


マーラー 交響曲第9番
 バーンスタイン/ベルリン・フィル
 グラモフォン 1979年ライヴ 4778620
4778620

昨年末にリリースされた、レナード・バーンスタイン指揮ベルリン・フィルの演奏によるマーラー交響曲第9番の新リマスタリング(OIBP)盤を聴いて、その音質が従来盤に対し良くなっているどころか、逆に悪くなっているとしか思えず、聴き終えて愕然とした気持ちにさせられたことを以前に書きました。そのことにつき、今日は少し詳しく書きます。

まず、ここで私の言う従来盤というのは、以下のCDのことです。

POCG1509
マーラー 交響曲第9番
 バーンスタイン/ベルリン・フィル
 グラモフォン 1979年ライヴ POCG-1509/10

上記の従来盤の音質に対し、今回リリースされた新リマスター盤の音質というのは要するに、全体的に残響感を高めて、ふっくらと円やかにさせたようなソノリティとなっているのです。これは一番やってはいけないことをやってしまった、というのが私の率直な印象です。

事実この音質の違いを、聴いていて明瞭に実感させられるのは、特に渾身の最強奏により形成される幾つかのクライマックスの場面での響きの迫真性においてなのですが、それは言うまでもなく演奏自体の訴求力に、ダイレクトに影響を及ぼしてしまっています。

例えば第1楽章の中盤のクライマックスである第201小節前後を、まず新リマスター盤の(12:01)-(12:10)で聴き、その同じシーンを従来盤で耳にすると、フォルテッシモの熾烈さにおいて如実に差が感じられますし(特にシンバルのクレッシェンドの迫力、あるいはティンパニの打音の強さ等が新リマスター盤では明らかに遜色する)、他の同様の場面にしても総じてフォルテッシモの凄味が削がれ、音響的なインパクトが鈍くなっており、ひいては聴かせどころでの音場展開において、せっかくの演奏本来の持つ、それこそ振り切れたような音響的迫真性を感得しにくい状況になってしまったように、私には思われてなりません。

それでは他の要素はどうかと言うと、アナログテープの(シャーという)ノイズレベルは双方ほぼ同じくらいの高さで、新リマスター盤の方が音響的な解像度が向上している感じは特にしませんし、従来盤に比べて音像が更に引き締まって聴こえたり、細部の表情がブラッシュアップされたような感じに聴こえたりというような印象も特に受けません。

以上から思うに、この新リマスター盤の音質改善というのは単に余計なエコーを掛けただけではないのでしょうか。そもそも従来盤の音質というのは極めて良質で、聴いていてオーケストラ・サウンドがリアルに展開されるような、およそ申し分のないものだったのに、今回のリマスター盤はヴェールを被せたような見通しの悪さを与えただけで、少なくとも私には音質改善に何ら貢献しているとは思えないのです。

以上が本リマスター盤の音質に対しての、私なりの率直な印象になります。しかし、これはあくまで私の印象であり、聴き手によっては、私とは全く反対の意見をもたれるかも知れません。

というのも、このリマスター盤は従来盤と比べて、確かに「耳当たり」が良くなっているからです。上品な感じの音質になった、と言い換えてもいいかもしれないですが、ともかく前述のようなエコー効果により、表面的にはリッチなソノリティの感触が付加されていて、従来盤よりもゴージャスで潤いのある音質であるという雰囲気が強く押し出されています。さらに言うなら、同じマーラーの9番として、カラヤンが同じベルリン・フィルを振り、このバーンスタインのライヴの直後にスタジオ録音した、あの演奏の雰囲気に何処かしら近いような肌触りが感じられるように思うのです。

ですから聴き手によっては、このリマスター盤の方の音質を好まれることがあっても不思議はないと思いますし、もし当該カラヤン盤を好むような嗜好を持たれているのなら、今回の新リマスター盤はむしろ歓迎すべき音質ということになるかもしれませんが、しかし私のように、そのカラヤンのスタジオ録音に何ら感じるものを見いだせない聴き手に取っては、今回のリマスター盤の音質は、どうにも受け入れ難いと言わざるを得ないのです。

以上、私としては今回リリースされた新リマスター盤が今後、当該演奏のデフォルト録音として認知されるようにならないことを祈りたいと思いますが、もしCD2枚組の従来盤が廃盤となり、その供給がストップするような事態になったら、この歴史的ライヴの演奏の真価を後世に伝える上で、それこそ一大事になるのではないかと本当に心配しています。

テンシュテット/ロンドン・フィルによるマーラー交響曲第1番「巨人」の90年ライヴ


マーラー 交響曲第1番「巨人」
 テンシュテット/ロンドン・フィル
 BBCレジェンド 1990年ライヴ BBCL4266
BBCL4266

BBCレジェンドからリリースされた新譜で、クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルの演奏による、マーラー交響曲第1番「巨人」のライヴ盤を聴きました。

収録されている演奏は1990年1月のロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおける演奏会のライヴ録音です。なお、併録曲はグリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲ですが、こちらは1981年エジンバラ音楽祭での演奏会のものとされます。

このマーラーのライヴは、ちょうどテンシュテットが喉頭ガンとの闘病生活から復帰した時期の演奏になるのですが、テンシュテットが最晩年の90年代に、手兵ロンドン・フィルを指揮したライヴには、例えば91年のマーラー「悲劇的」、92年のベートーヴェン「第9」、93年のマーラー7番など、いずれも神憑り的な名演が残されています。

ですので、今回リリースされたロンドン・フィルとの90年のライヴも、それらに類するような演奏なのではないかという、漠とした予感から購入したのですが、結論から言いますと、これは私の事前の想像をも超えた、まさにテンシュテットの迫真ともいうべき、壮絶を極めたマーラー演奏でした。

まず音質に関してですが、シャーというアナログノイズが一貫して高いのに加え、音擦れのようなノイズも割り合い多く、少なくとも聴き易い音質とは言い難い印象は否めません。これはマスターテープの保管状態が、それほど良好でなかったのかも知れません。

このため第1楽章冒頭の弱奏進行あたりまでは、音質が思ったより良くないので、正直これで大丈夫かなと思ったほどなのですが、そんな不安が消失したのは、強奏部に入るやテンシュテットが、異常なまでの響きの濃密さや、各パートの放つ音色の持つ抜き差しならない表出力など、すこぶる緊迫した音楽の色合いをロンドン・フィルのアンサンブルから抽出し始めたためです。

特に音楽が楽章の終盤に進むにつれ、とても気楽に森を散策するなどという雰囲気ではない、むしろ得体不明な何かが急迫するとでもいうような、常軌を逸した緊迫感が演奏全体に立ち込める様は、我ながら自分が現に聴いている音楽が、本当に「巨人」なのかと疑ってしまうほどで、ことに楽章終盤でトランペットやホルンが強奏するモチーフが、こんなに戦慄的に響くのを、私は初めて聴くような気さえしますし、コーダのアッチェレランドに到っては、およそ常軌を逸しているとしか言いようがなく、これは一体なんという演奏なのだろうと、聴き終えて暫く茫然とさせられるほどでした。

少し落ち着いてから、第2楽章を聴き始めたのですが、これがまた凄まじく、まるで暴風雨のような雰囲気が演奏に張り詰めていて圧倒させられる思いです。ここには安逸で軽薄な雰囲気など薬にしたくてもなく、この第2楽章で、こんなに深刻な表情が可能であること自体が、私には驚異的に思えました。

続く第3楽章も、やはり重々しいムードに包まれながら音楽が進行するのですが、粛然とした中にも何所か切迫した緊張感が絶えず、それが破滅の終楽章に向かってジワジワと高まる様は、まるで死地に赴く人間の心情に近いのではないか、とさえ聴いていて思えるほどです。

終楽章は文字どおり超絶的な演奏としか言い様がなく、冒頭から世界の破滅のような響きが鳴り響き、異常なまでの緊張感が張り詰め、この世のすべてを薙ぎ払うかのようなアンサンブルの最強奏といい、(2:06)での命が掛かったような全身全霊のリタルダンドといい、(8:29)での断末魔的な金管の絶叫といい、いずれにおいても迫真とか壮絶とかいう言葉では到底言い表せないくらいの、名状し難い演奏が展開されていて、聴いていて興奮を通り越し、それこそ鳥肌の立つような精神の激しい揺さぶりとでもいうべきものを、聴き手の心に巻き起こすような、そんな途轍もない演奏でした。

それにしても、このマーラー交響曲第1番「巨人」という、聴いていて率直に(お手軽に)興奮させられるような演奏も少なくない作品において、このテンシュテットのライヴのように、聴いていて精神が激しく揺さぶられるような状態にまで追い込まれる演奏というのは、極めて稀ではないかと私には思えてなりません。

この演奏においては、例えば猛り狂うアンサンブルの傍にさえ、まるで破滅を予感しているような一抹の悲しい虚無感があり、それが合流し一体化するとき、いわく名状しがたい深みのある奥行きが演奏に与えているのです。この作品で、聴いていて、こんなに胸が詰まるような演奏というのは、少なくとも私は初めての体験のように思えました。

読書三昧の年末年始


本日よりブログ更新を再開します。昨年に引き続きまして、本年もどうぞよろしくお願いします。

この年末年始は、まとまった本を読むチャンスとばかり3冊の単行本を読み漁りました。

ひとつは前回の更新で書いた、カルロス・クライバーの伝記です。これは8割がた読んだのですが、とにかく面白く、また読了した時点で改めて書こうかとも思っています。

もう一冊はイギリスの長編小説なのですが、これは半分くらいしか読めていませんので、いずれ読み終えた時に改めて紹介します。

残りの一冊は以下の本です。

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 「寺田寅彦
   バイオリンを弾く物理学者」
  末延 芳晴 著
  平凡社



これは昨年末に刊行された単行本で、明治・大正期に活躍した地球物理学者および文学家として知られる寺田寅彦の、主に西洋音楽との関わりを中心とした評伝が内容となっています。

寺田寅彦が日本近代文学史において決定的に重要なのはやはり夏目漱石との関係というのが私の認識なのですが、それは彼自身が漱石文学から大いに薫陶を受けているのみならず、漱石文学の成立そのものに対しても、彼自身が多大な影響を及ぼしているためです。

例えば漱石の代表作である「吾輩は猫である」の水島寒月、そして「三四郎」の野々宮宗八が、共に寺田寅彦をモデルとするキャラクターであることは有名ですし、「野分」で描かれている、上野奏楽堂でベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが演奏されるコンサート風景も、実際に漱石が寺田寅彦に誘われて上野奏楽堂で聴いたコンサートの実体験がベースとされていたりします。

夏目漱石は、周知のように明治・大正期の大文豪なのですが、同時に近代日本の生んだ最高の文化人のひとりでもあり、例えば彼の小説「草枕」を読むと、小説中で俎上にのせられるジャンルというのが西洋文学、日本絵画、西洋絵画、俳句、漢詩、茶道、陶芸と、実に多岐に渡っています。そのアート全般に対する漱石の造詣の深さには、読んでいて驚くほかないのですが、そこに唯一すっぽりと抜け落ちているジャンルが「西洋音楽」なのです。そして、この漱石の唯一ともいうべき苦手ジャンル「西洋音楽」に精通していたのが、漱石の門下生であった寺田寅彦にほかならないのでした。

寺田寅彦は、西洋市民社会に根づいた生活音楽文化を、明治の終わりから大正・昭和の初めにかけて積極的に取り入れていった最初の近代市民であった。寅彦は大学生のころから、機会があれば西洋音楽のコンサートを聴きに出かけ、ベートーヴェンの『第9』交響曲やマーラーの交響曲第5番などの日本初演に立ち会い、家族の団欒の場に蓄音器を持ち込んで子供たちと一緒に動揺や唱歌を聴き、歌い、またスコアを前にタクトを振りながら蓄音器が奏でるベートーヴェンの『第9』の演奏を指揮した人でもあった。・・・
     「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」より


内容的にも前記クライバーの評伝に負けず劣らずの面白さですし、これはクラシック音楽および日本近代文学の愛好家には必読の書ではないかと思います。

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