カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(上)


carlos-biografie

 「カルロス・クライバー
  ~ある天才指揮者の伝記(上)」
   アレクサンダー ヴェルナー 著 
   喜多尾道冬・広瀬大介 訳 
   音楽之友社



「クライバーを名乗る以上、凡庸は許されない。彼はそのことだけははっきりと息子に釘をさした。こうして彼はカルロスの二十歳の誕生日に、息子が音楽の道を進むという高く掲げた夢と目標を実現するよう励ましたのである。」


2008年にドイツで刊行されたカルロス・クライバー初の評伝、その邦訳本です。今年の秋に刊行されて、少なからぬ反響を呼んでいる本ですので、もう読み終えたという方も多いのではと思いますが、私も遅まきながら読み始めました。

この正月休み中に読むつもりで、昨日に購入したのですが、最初の数ページを読んでみたら、あまりに面白くて、そのまま100ページほど一気に読んでしまいました。

父エーリッヒとの確執(10代のころ父に指揮者になりたいと言って「クライバーは一人で充分」と言い返されたことなど)に始まり、フルトヴェングラーとカラヤンに心酔していたこと、逆にハンス・クナッパーツブッシュとカール・ベームが嫌いだったこと、ミヒャエル・ギーレンとの親交、ポツダムのハンス・オットー劇場でオペレッタを振って指揮者デビューを飾ったこと、初録音のこと(ハンブルク放送管弦楽団とのテレマンのターフェルムジーク)、エーリッヒの死後、ようやくウィーン・フォルクスオーパーのコレペティートアに就任したのに、ミュージカルの多さにうんざりして辞任したこと、その後、ザルツブルグ州立歌劇場でスメタナ「売られた花嫁」を振って、オペラ指揮者として華々しくデビューしたこと、、、

などなど、生前から神格化されていた指揮者カルロス・クライバーの、キャリア初期の興味深い足跡が、事実を淡々と綴った、飾らない文体から次々と明らかにされていて、それを興味深く読み進めていたら、いつの間にかページがドンドン進んでいました。残り400ページは、正月の間にゆっくり読もうと思っています。

さて、もう2009年も終わりですが、2010年も録音・実演ともに、どんな未知の名演に出会えるか、楽しみですね。それでは、良いお年を。

クリヴィヌ/ラ・ションブル・フィルハーモニックによるドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」


ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」&シューマン 4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュトゥック
 クリヴィヌ/ラ・ションブル・フィルハーモニック
 Naive 2008年 V5132
V5132

エマニュエル・クリヴィヌ指揮ラ・ションブル・フィルハーモニックの演奏による、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」の収録されたCDを聴きました。

これは仏ナイーヴより昨年リリースされたCDで、新譜ではありませんが、先日都内のCDショップのワゴンセールで見かけて、興味深く思って購入したものです。

というのも、ラ・ションブル・フィルハーモニックが「ピリオドアンサンブル」であるとの表記が目に留まったからで、ドヴォルザークの「新世界」の、ピリオドアンサンブルによる演奏というのは、今まで聴いたことがなく、そのあたりの興味から購入したのでした。

それで聴いてみたのですが、この「新世界」は全体的に音楽の新鮮な肌合いが素晴らしく、聴き慣れたはずの音楽が景色が、ピリオドアンサンブルならではの斬新な造型形成により、こうも変わるものかという驚きと、そこから沸き起こる愉悦感から、それこそ心弾む思いで全編を聴き終えたのですが、ともあれ、こんなに惹きつけられた「新世界」の演奏というのは久しぶりの体験でした。

このCDのライナーノートには、オケのメンバー編成が記載されていますが、それを見ると第1ヴァイオリンは8人のみです。「新世界」を8型で演奏するというのは、いかにも小編成なので、聴く前は正直これで大丈夫なのか、つまり迫力不足で退屈な演奏ではないかという心配も多少あったのですが、いざ聴いてみると退屈どころの騒ぎではなくて、小編成ながらも鋭利な抉りを帯びた弦の刻み、痛快なほど突き抜ける管の強フレーズ、ここぞという時の激烈なティンパニのド迫力など、全般にアンサンブルの表出力が尋常でなく、この小編成から、これだけの圧倒的な迫力が捻出されることに、聴いていて驚きを禁じえないほどでした。

この演奏を指揮するクリヴィヌは、このアンサンブルを緻密にコントロールし、細部まで念入りに描き込んでおり、その意味では何ら奇を衒ったところのないアンサンブル展開とも言えるのですが、そこにピリオドアンサンブルならではの特性(ノン・ヴィブラートのフレージングによる、ハーモニーのシャープな結像感、小編成の弦に対しコンスタントに優位な管のバランスなど)が明瞭に発揮されているため、結果的にオーソドックスなアプローチとは一線を画した、個性的な感触が立ち現われているところがユニークです。

もっとも、おそらく奏法上の制約もあるのか、フレーズの呼吸感は概ね浅く抑えられ、ひとつひとつメロディの歌い込みにしても必ずしも十全とは言い難く、強フレーズの耳当たりの激しさもあり、例えば旋律的な美しさのような、この交響曲の歌謡的な側面を堪能するには、少々そぐわない演奏とも言えるかもしれません。

しかし、そういった「新世界」の録音こそ、むしろ山ほど有ることを考えると、このCDに聴かれるアンサンブルの衝撃的なまでの表出力、あるいはユニークにしてリアリスティックな音響の感触こそ感嘆に値するものだと思います。

これに対し、併録されているシューマンのコンツェルトシュトゥックの方は、フランス国立管の首席ホルン奏者デイヴィッド・グリアーを筆頭に披歴される、4人の豪腕ホルン奏者の豪快な吹き回しが聴きものとなっていますが、この作品に関しては、かつてガーディナーが手兵のピリオドアンサンブルとアルヒーフに録音した演奏もありますし、少なくとも「新世界」ほどの画期的な印象ではありませんでした。

以上、ここでのドヴォルザークは、おそらく「新世界」の演奏としては他に類例を見ない、ピリオドアンサンブルの手による素晴らしい演奏内容と感じられましたし、さらに言うなら、マーラー等の後期ロマン派のオーケストラ作品に対する、ピリオド・アプローチとしての、ある種の規範とも成り得る可能性を匂わせるような演奏でもありました。

バーンスタイン/ベルリン・フィルによるマーラー交響曲第9番のOIBPリマスタリング盤


マーラー 交響曲第9番
 バーンスタイン/ベルリン・フィル
 グラモフォン 1979年ライヴ 4778620
4778620

先週リリースされた、レナード・バーンスタイン指揮ベルリン・フィルの演奏によるマーラー交響曲第9番の新リマスタリング盤を聴いたのですが、、、

ここに収録されている演奏は、あまりにも有名な、あのバーンスタインとベルリン・フィルの一期一会の共演コンサートにおけるライヴなのですが、それが今回、新たにオリジナル・イメージ・ビット・プロセッシングによるリマスター盤として再リリースされたのでした。ここでは全82分の演奏がCD一枚に収録されており、そのぶん価格も、従来の2枚組価格から大幅に抑えられています。

このバーンスタイン/ベルリン・フィルのマーラー9番は、私も今まで従来盤(POCG-1509/10)で繰り返し耳にしてきた名演中の名演ですが、それが今回リリースの新リマスター盤では音質改善がなされているというので、その音質向上に対する期待感から購入し、さっそく従来盤との音質の比較を試みました。

ところが事もあろうに、今回リリースの新リマスター盤は、その肝心の音質が大幅に悪くなっていたのです。従来盤の音質と比較して、それこそ絶句を余儀なくされるほどに、、、

私としては、まさか音質向上をうたっているリマスター盤が、ここまで酷い音質だとは思いもよらなかったので、ちょっと愕然とした気持ちでした。何より、あの歴史的名演が、こんな劣悪な音質によりスポイルされてしまったことが残念でなりません。

この事については、私自身もう少し検証した上で、年明けにでも改めて書くつもりでいますが、少なくとも本リマスター盤は、この一期一会の演奏の醍醐味を堪能するという点では、全く不十分な音質と言わざるを得ませんので、私としては買わないことをお勧めします。つまり、この演奏を聴くのであれば、従来盤の方を聴かれることを強くお勧めします。

ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管によるプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」全曲


プロコフィエフ バレエ音楽「ロメオとジュリエット」全曲
 ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管弦楽団
 フィリップス 1990年 PHCP265-6
PHCP265-6

昨日の更新で、ワレリー・ゲルギエフが手兵のロンドン交響楽団を指揮したプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」全曲盤の新譜についての感想を掲載したのですが、ゲルギエフはプロコフィエフの「ロメジュリ」全曲盤を、彼のもう一つの手兵であるキローフ歌劇場管弦楽団を指揮して以前にレコーディングしています。

この旧録音は、ゲルギエフが1988年にキーロフ歌劇場管の音楽監督に就任したあと、このオケと最初に手掛けたレコーディングになるのですが、その背景として、おそらくキーロフ歌劇場管との記念すべき初録音に、この歌劇場にゆかりの作品が選ばれたのではないかと思われます。というのも、このプロコフィエフの「ロメジュリ」は1940年にキーロフ歌劇場において世界初演された経緯があるからです。

それで、このキーロフのオケとの旧録音と、今回リリースされたロンドン響との新録音とで、少し演奏の聴き比べをしてみたのですが、少なくともフレージングの組み方などは双方とも似ていて、この作品に対するゲルギエフなりの演奏ビジョンが、おそらく初録音の時点で既に固まっていたのではないかと思われました。

このキーロフ管との演奏は、例えば最初の前奏曲(1:22)から「ロメオとジュリエットの愛の主題」が、アンサンブルの低声に大きく歌われる場面の惚れぼれするような濃厚なコクを始めとして、全体的に低音部の濃密な味わいに得難い魅力があり、特に情緒的に歌わせる場面での訴求力が素晴らしいですし、全4幕を通して、晴れやかにしてロマンティックな雰囲気から、暗く悲劇的な情緒に到るまで、この作品に要求される音楽的な情感が過不足なく、いわば等身大に表現されていて、このプロコフィエフ作品にゆかりの深いオケの演奏に恥じない、高度な完成度の演奏という印象を感じます。

しかしながら、ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管の本領からすると、いささか優等生的な演奏、という印象も受けます。私の場合、ちょうど今月の初めにサントリーホールでゲルギエフ/キーロフ歌劇場管の「春の祭典」の超絶的な実演を耳にしているので、尚更そういう風に感じられてしまうのかも知れないですが、演奏が等身大であるがゆえに、このコンビの絶好調時に聴かれる、計り知れないほどにダイナミックな表現力の発露が、ここでは割り合い大人しく、特に打楽器や金管の効き具合が今一つ突き抜けないのが聴いていて気になりますし、全体的にゲルギエフにしてはダイナミック・レンジにおいて少し思い切りに欠けるというか、完成度は高いものの、それなりに抑制を効かせた感じのバランスに仕上げられているような感じがします。

これに対して、今回リリースされたロンドン響との新録音においては、昨日も書きましたように、こと完成度の面では若干の綻びが伺われるとしても、こと表出力においては素晴らしい水準にあり、アンサンブルを思い切り良くドライブし、SACDの高音質を追い風に、ゲルギエフらしい音楽の豪胆性が聴いていて仮借なく伝わって来るような演奏でした。

以上のように、両盤を聴き比べた結果、少なくとも演奏全体の完成度や、ロシア音楽としての旋律的な情緒の発露の度合いについては、キーロフのオケとの旧盤に軍配が上がり、音質の良さや、思い切りの良いアンサンブル・ドライヴがもたらす音楽としての表出力の強さにおいては、ロンドン響との新盤に軍配が上がる、というのが私なりの両盤に対する率直な印象になります。

私は、どちらかというと今回の新録音の演奏に強く惹かれるものがあり、おそらくゲルギエフが本当に表現したかったのは、今回の新盤の演奏なのではないかという印象さえ感じているのですが、仮にそうでも、それは彼の録音キャリアの原点ともいうべき、このキーロフ管とのロメジュリがあればこそとも思われますし、何といっても同作品の初演オーケストラによる貴重な録音なのですから、その存在意義は、やはり揺るがないでしょうね。

ゲルギエフ/ロンドン響によるプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」全曲


プロコフィエフ バレエ音楽「ロメオとジュリエット」全曲
 ゲルギエフ/ロンドン交響楽団
 Lso-Live 2008年ライヴ LSO0682
LSO0682

先週リリースされたLso-Liveの新譜で、ワレリー・ゲルギエフが手兵のロンドン交響楽団を指揮したプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」の全曲盤を聴きました。

収録されている演奏は2008年11月下旬におけるロンドン・バービカン・ホールでのコンサートのものですが、この直後にゲルギエフはロンドン響を率いて来日し、サントリーホールでプロコフィエフの交響曲全曲チクルスを行いました。私はそのうちの最終日の公演を聴きに行き、その感想もブログに掲載しているのですが、その時の演奏の素晴らしさは今だ印象に残っていますので、今回リリースされたプロコフィエフの新譜も待ってましたとばかりに購入しました。

さっそく一通り聴いてみたのですが、まず何より嬉しいと感じたことは、随所において昨年サントリーホールで聴いたロンドン響来日公演の、あの素晴らしいプロコフィエフの演奏を彷彿とさせる雰囲気が如実に感じ取れたことです。録音時期が近いこともありますが、やはりSACD仕様の音質が大きく物を言っていて、まるでコンサートホールで聴く感じに近い臨場感が確保されているので、結果かのコンサートで受けた感銘までもが聴いていて何だか蘇ってくるような気分に捉われました。

大編成のアンサンブルから繰り出される重厚味を帯びたフレージングと、それが織りなす深々とした響き、あるいは大胆かつ繊細にコントロールされた響きの推移と音色の変遷がもたらす、複層的な響きのパースペクティブ、そして聴かせどころにおける、アンサンブルの重低音の強烈な押しと高音の苛烈な色合いとの劇的な交錯、いずれも紛れもなく昨年のコンサートで耳にした、ゲルギエフならではの感嘆すべき特質が示されていますし、こと音楽の表出力においては、それこそゲルギエフ会心のプロコフィエフ演奏のひとつとも言える出来栄えと思えました。

もっとも、例えば第16曲のマドリガルの(2:03)で、ジュリエット主題の音形をフルートが大きく吹き損なうミスが聴かれるなど、わずかではあるにしろ演奏ミスのキズが入っているので、こと完成度の面においては、もう一歩ブラッシュアップできるような余地もありそうです。

とはいえ、この程度のミスならライヴ一発取りの制約として十分に許容範囲ですし、むしろミスを恐れて小さく縮こまるような演奏よりは、このゲルギエフ盤のように、多少のミスよりも表出力の強さを優先する演奏の方が、ずっと好ましいようにも思えます。

いずれにしても、このロメジュリは表出力においてゲルギエフ会心のプロコフィエフとも思われる、聴いていて胸のすくような演奏でしたし、さらには昨年のコンサートで受けた感銘の追体験という、思わぬ機会が与えられたことも、私に取っては大きな喜びでした。

シナイスキー/マルメ響によるフランツ・シュミットの交響曲第2番


フランツ・シュミット 交響曲第2番、フーガ・ソレムニス
 シナイスキー/マルメ交響楽団
 ナクソス 2007年 8.570589
8570589

ナクソスから最近リリースされた、フランツ・シュミットの交響曲第2番を収録したCDを聴きました。ヴァシリー・シナイスキー指揮、マルメ交響楽団による演奏です。

併録は「フーガ・ソレムニス」ですが、これはオルガンと16の管楽器と打楽器のための作品で、オルガンはアンダース・ジョンソンにより演奏されています。

マルメ交響楽団というのは、私は初めて聴く名前なのですが、スウェーデンの都市マルメのオーケストラとのことです。ライナーノートには1925年設立とあるので、かなり古い、歴史ある楽団ですね。なおシナイスキーは2007年からマルメ響の首席ポストを務めている指揮者です。

さて、フランツ・シュミットの交響曲第2番なのですが、このシンフォニーを私が初めて耳にしたのは、ネーメ・ヤルヴィがシカゴ響を振って録音した、以下のライヴ盤でした。

CHAN8779
フランツ・シュミット 交響曲第2番
 N.ヤルヴィ/シカゴ交響楽団
 シャンドス 1989年ライヴ CHAN8779

上記CDの感想についてはこちらのメモ書きのとおりですが、それ以来、この曲とは御無沙汰でした。それが、今回ナクソスから新譜として出ているのを見つけて、これは懐かしいなと思って購入した次第です。

それで、ひと通り聴いてみたのですが、全体的にヤルヴィ/シカゴ盤でのそれよりも一回り落ち着いたテンポを基本として、作品の姿を丁寧に描き出しているという風で、そのあたりの誠実なアプローチに好感の持てる演奏でした。

もっとも、この作品は特に金管パート(ホルンが8本も必要)を中心に高度な演奏技術を要求するものでもあり、それに対するオーケストラ性能の限界が伺われるような局面も、正直それなりに伺われました。特に私の場合、かつてヤルヴィ/シカゴ盤の録音で同曲を知ったこともあり、ここぞという時にブラス・セクションの咆哮が突き抜け切らない点などにおいて、いささか物足りなさが感じられてしまうのです(実際ヤルヴィ/シカゴ盤に聴かれる、ブラス・セクションの迫力は抜群ですので)。

しかし弦パートのアクティビティに関しては文句なく素晴らしく、このため局面によってはヤルヴィ/シカゴ盤をも凌ぐほどの表出力が披歴されていて傾聴させられます。例えば第1楽章のクライマックスの(7:59)あたりなどトッティの迫力が半端でなくて聴いていて圧倒させられますし、全体的にトッティ等での弦パートの力動感が充実しているあたり、やはりオーケストラとしての地力がものを言っているような感じがします。

それにしても、この曲に久しぶりに接してみて、いい曲だなと改めて感じました。1913年という作曲時期からすると、やや保守的な作風なのは否めないとしても、マーラー、ブラームス、ブルックナーなどの交響曲と、どこか似たような巨大な造型物としての音楽の雰囲気を漂わせながら、それらのどれとも違う斬新な造型や響きの美しさが、そこかしこに感じられて、その独特のムードを噛み締めつつ全曲を聴き終えました。

そして、そういう風に思ったということは、ひっきょう演奏が素晴らしい故だと思い到りました。確かに私が以前聴いた、ヤルヴィ/シカゴ盤のような豪快さ、極彩色の響きからすると、かなり地味な色合いの演奏ではあるのですが、むしろ実質的な部分で作品の本質を確実に掴んでいる演奏ではないかと思われますし、いずれにしても、この演奏は聴き終えて私に深い充足感を残してくれました。

ミュンシュ/パリ管によるベルリオーズの幻想交響曲(スタジオ録音盤)


ベルリオーズ 幻想交響曲
 ミュンシュ/パリ管弦楽団
 EMIクラシックス 1967年 TOCE-7008
TOCE-7008

一昨日、ミュンシュの指揮によるパリ管弦楽団の発足演奏会のライヴ盤を聴いての感想を掲載しましたが、あれから日を置いて、今度はミュンシュがパリ管を指揮してEMIに録音したベルリオーズ幻想交響曲の、かの有名なスタジオ盤の方も改めて聴き、それと今回リリースされたパリ管の発足演奏会での幻想交響曲の演奏との表現の異同について探ってみました。

すると驚いたことに、ほぼ同じ時期に係る演奏であるにもかかわらず、運用面で少なからぬ違いが見受けられるのです。

録音時期については、今回リリースされたパリ管の発足演奏会は67年11月14日で、EMI盤の録音は同年10月23~26日ですので、両演奏は一ヵ月と離れていない時期の演奏ということになります。

まずテンポ面は全体的にパリ管発足演奏会でのライヴの方が、スタジオ盤のそれより概ね速めで、特に第3楽章はライヴの方が演奏タイムで2分も短くなっています。音楽の雰囲気としても、今回のライヴの方がスタジオ盤の演奏より、ある種の抜き差しならない急迫感が、より強く打ち出されているような感じがするのですが、それはもしかすると、このあたりのテンポ感の違いが一因かも知れません。

そしてデュナーミクの動きの面でも、全体的に今回リリースのライヴの方が、ひとまわり研ぎ澄まされたような、尖鋭な感じを受けます。

例えば第2楽章の冒頭、序奏部の最後のところ(第32~36小節)を今回のライヴで聴くと、その弦パートに指定されたff→f→pにミュンシュは従っておらず、それどころか逆にクレッシェンド的な処理さえ与えているのです。

ここは普通ディミヌエンドを掛ける場面であるだけに、ミュンシュの「幻想」の異彩を強烈に印象づけられるシーンとも言えるのですが、同じシーンをEMIのスタジオ盤で聴くと、その異彩性が今回のライヴほど引き立っていないことに気付かされました。スタジオ盤でも確かにディミヌエンドは掛かっていないのですが、ライヴのようにクレッシェンドが掛かっているという感じまでは伝わらないので、そのぶんライヴの方が、感極まって感情が弾けるといった趣きが強く打ち出されている印象を受けます。

もともとミュンシュの「幻想」は、その演奏展開における主観性の激しさゆえに独特であり、それが聴き手によっては抵抗感を生み出す原因ともなるのですが、その主観の激しさというか、主観的運用の発露の度合いという点では、少なくとも私の印象では、全体的に今回リリースされたパリ管発足演奏会での「幻想」の方が、かのスタジオ盤を一歩しのいでいるのではないかと思われる局面が多々ありました。

それは一昨日も書いたように、このEMI盤と聴き比べる前から、うっすらと感じていたことなのですが、今回あらためてEMI盤と比べてみて、その感覚が自分なりに裏付けられたのでした。

シャルル・ミュンシュは、よく「ライヴの指揮者」であると言われ、実際、残されている彼の放送録音などを耳にすると、確かにライヴだとスタジオ録音とは一味違った、それこそ途轍もない燃焼力が漲る演奏が展開されていることが少なくないのですが、そのような傾向は、例えば以下のボストン響との幻想交響曲のライヴ盤にも良く現われています。

TH067
ベルリオーズ 幻想交響曲
 ミュンシュ/ボストン交響楽団
 "0""0""0"CLASSICS 1962年ライブ TH067

上記プライヴェート盤の演奏については、こちらの方に感想をメモしてあるのですが、ここでの「幻想」も、同年のボストン響との同曲のスタジオ盤よりも、さらに燃焼力に溢れた熱演となっています。こういった図式が、おそらく今回リリースの「幻想」にも当てはまるように思われます。

しかし、あのパリ管とのスタジオ盤の「幻想」というのは、その演奏内容の超絶性により、これまで長らく彼のベストモードでの「幻想」と看做されてきた録音です。それだけに、今回のパリ管発足演奏会での「幻想」を聴いた時の私の驚きは強烈なものでした。あのスタジオ盤の表出力を上回るミュンシュの「幻想」が存在するとは、まさか思いもよらなかったというのが率直なところです。

そういうわけで、今回EMIのスタジオ盤の「幻想」と聴き比べてみて、改めてパリ管発足演奏会での「幻想」が、いかに人間業を超えた圧巻無二の演奏内容であるかが、ひしひしと実感されましたし、あれだけの大舞台でこれほどの大演奏を成し遂げてしまう、ミュンシュの指揮者としての底知れない力量にも驚嘆せずにはいられませんでした。

パリ管弦楽団の発足演奏会におけるミュンシュ指揮のベルリオーズ「幻想交響曲」とドビュッシー「海」


ベルリオーズ 幻想交響曲&ドビュッシー 交響詩「海」
 ミュンシュ/パリ管弦楽団
 アルトゥス 1967年ライヴ ALT182
ALT182

シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団による、ベルリオーズの幻想交響曲とドビュッシー「海」のライヴ演奏が収録されたCDを聴きました。

これはアルトゥスから先週リリースされたディスクで、ここに収録されている演奏は、パリ管弦楽団の発足後、最初の公演となった1967年11月14日、パリ・シャンゼリゼ劇場でのコンサートのものとされています。

周知のようにパリ管弦楽団は、もともとパリ音楽院管弦楽団の発展的解消を受けて創設されたオーケストラであり、その初代音楽監督ミュンシュのもと、オーケストラとしての新たなスタートを切った、その記念碑的な第1回公演の演奏が本CDに収録されています。その幻想交響曲は伝説的名演として現在まで語り草になっているほどですが、肝心の当該公演の録音は、これまで一度もリリースされたことがなく、その実像を知る術はありませんでした。

その伝説の公演の録音が、なぜ今になって突如として日の目をみたのか、そのあたりの経緯は残念ながらライナーノートに何ら記載がないのですが、CD面にはINAのロゴが表記されているので、INA(国立フランス視聴覚研究所)に眠っていた録音テープが最近になって発見されたということなのでしょうか。

いずれにしても、あの伝説のパリ管発足演奏会におけるライヴ録音が聴けるというのは堪えられない喜びですし、私も飛びつくように購入し、その伝説の演奏に、さっそく耳を傾けてみました。

まずドビュッシーの「海」ですが、これぞまさに「ミュンシュ流」という感じの情熱的な感情に溢れた演奏で、この作品の性格を考えると、印象主義的な陰影のデリカシーよりも猛々しいパッションのうねりが支配的なあたり、聴き手の好悪を分けそうな気もするのですが、とにかく吹っ切れたようなオーケストラ・ドライヴの豪快ぶりに、聴いていて惹き込まれるばかりです。第2楽章(5:00)前後の火を噴くようなアッチェレランドといい、あるいは第3楽章(1:43)で豪烈を極めたティンパニの最強打が入る直前ミュンシュの豪快な唸り声が聴かれたり、とにかく全編に音楽の熱感が強烈な、ミュンシュならではのマグマのような「海」に圧倒させられます。

音質については、嬉しいことに極めて良好で、本当に40年以上も眠っていた音源かと驚かされるくらいです。リマスタリングのノイズ・リダクションのせいか、やや彫りが浅いかという感もありますが、解像度やステレオ感など、いずれも素晴らしく、往時のコンサートの臨場感を伝えるのに十分すぎるくらいのものだと感じました。

続いて、いよいよ伝説の幻想交響曲のライヴを聴いたのですが、これは率直に言って、聴いていて私自身ちょっと我を忘れるくらいに強烈な興奮が怒涛のごとく湧き起こるような、そんな演奏でした。

ここには、おそらくミュンシュ以外の誰もなし得ないのではないかというような、超絶的な演奏が刻み込まれていたのですが、その演奏自体の法外ぶりに加えて、この記念碑的な演奏会における、あの伝説的な「幻想」のライヴを、これほど良好な音質で耳に出来る圧倒的な喜びと相まって、聴き終えて言語を絶するくらいの絶大な余韻が残され、その感激のあまり聴後しばらく茫然とすることを余儀なくされるほどでした。

実は私は、今日この新譜を聴き終えた後、続いてミュンシュがパリ管を指揮してEMIに録音した、あの有名な同曲のスタジオ盤の方も聴いて、両演奏の異同等について調べてみようと思っていたのですが、この新譜を聴き終えた時点で、とてもそういう気分にならない自分に気が付きました。また後日にでもと思ってはいるのですが、少なくとも今日は、こんなに気持ちが高ぶっていては無理だなと思って止めたのでした。

ただ、そのミュンシュ/パリ管のEMIの「幻想」は私自身これまで幾度となく耳にしてきたCDでもあり、その印象を踏まえて思うに、今回リリースのパリ管発足演奏会での「幻想」は、あのEMI盤の超絶的な「幻想」すら、さらに一歩しのいだ地点での、それこそ極限的な演奏内容ではないかと思われてなりませんでした。

いずれにしても、このパリ管発足演奏会の「幻想」は、まさにミュンシュ渾身の超絶的演奏であり、熱演というも生ぬるい、それこそ指揮者の命が掛かっているのではないかというくらいの迫真を極めた演奏内容であり、これを聴く者に強烈に訴えかけ、その心を猛烈に揺さぶる、途方もない表出力といい、この演奏自体の記念碑的なドキュメントとしての意味合いといい、これはまさに「バイロイトの第9」クラスの歴史的名演と言っても過言ではない演奏だと私には思えました。

新日本フィルの「第9」演奏会の感想


昨日(12/20)のサントリーホール、フルシャ/新日本フィルの「第9」演奏会の感想です。

オーケストラ編成は12型、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べた配置でした。

まずドヴォルザークの「テ・デウム」が演奏されたのですが、これはドヴォルザークの書いた最後の教会音楽として知られる作品です。私は実演で聴いたのは今回が初めてですが、CDで聴いた時よりも、ずっと美しい趣きを感じました。全体で20分ほどの作品で、「第9」の前に演奏するには少し規模が大きいようにも思えましたが、聴いてみると意外な魅力に満ちていて心が洗われるようでしたし、メインディッシュの前に出された思わぬ御馳走でした。

そのメインディッシュの「第9」ですが、こちらに関しては要所要所においては確かに素晴らしい演奏展開とも思われたのですが、いろいろな意味で中途半端な表情付けが随所に顔を出していて、どうも消化不良の気味というのか、演奏の主張するところが今一つピンと来なかった憾みもありました。もっとも、これは私の方で、演奏を十分に咀嚼し切れていないせいかも知れません。

ヤクブ・フルシャの指揮には、およそ年齢(まだ20代という若さ!)に似合わないくらいの堂々たる貫禄があり、また体全体を駆使したダイナミックな運動感なども、その指揮姿を観ているだけでも惚れぼれするくらいでした。

そして、そのタクトは新日本フィルのアンサンブルから実に引き締まった、充実感のある響きを引き出し、ここぞという時のパワフルな牽引力といい溌剌たる音楽の表情といい、総じて若々しい運動感に満たされた、爽快ですがすがしい演奏展開が披歴され、聴いていて心地良い感動に誘われる思いでしたし、その意味では紛れもなくフルシャの指揮者としての才気が良く伺われる演奏であったと思えます。

とはいえ聴いていて、何となしに引っ掛かった点というのも幾つか有りました。まずパート同士の連携や組み上げが端然としているシーンと、そうでないシーンとの開きが少し気になる水準であるように思われたことです。つまりアンサンブルの完成度にムラがあり、言わば精緻な場面と荒っぽい場面とがニ極化されたような、いささか中途半端な仕上がりの演奏だなという印象を受けたのでした。

そのあたりはフルシャの統率力の限界というよりは、むしろ慣れないオーケストラとの共演という条件下でアグレッシヴでヴァイタリティ溢れる演奏展開を果敢に披歴した、その積極性をこそ称賛されて然るべきとも思えますが、それだけに部分的にしろ緻密さを欠いたアンサンブルの流れが気になる局面が見受けられたのが残念でした。

また本演奏ではベーレンライターの新校訂版が用いられたのですが、私が聴いた限り一ヶ所だけ新校訂版の指示を明らかに棄却して演奏された箇所がありました。終楽章の第330小節のvor Gottのところで、ベーレンライター版には無いはずのティンパニのディミヌエンド(ff→p)を敢えて実行していたのですが、なぜ当該個所に限って新校訂版の指示を棄却したのか私にはピンときませんでした。

オーケストラの配置に関しても少し疑問を感じました。前述のように第1ヴァイオリンとヴィオラを対向させる変則配置だったのですが、この演奏では内声の明瞭な浮き出しが実感されるという特徴はさほどに強くは出ていなかったように感じました。もっとも、ベートーヴェンの交響曲では普通に演奏していても内声が埋もれるという状況は考えにくいですが、、

こういったことから、要するにアンサンブルの完成度の面、使用スコアの忠実な再現という面そしてアンサンブル編成の面などで変に中途半端というのか各コンセプトが十全に伝わり切らないような引っ掛かりがあり、そのあたりが気になったのでした。

しかし以上のような疑問点というのは私自身の咀嚼不足によるものかも知れませんし、前述のようにフルシャの指揮ぶり自体は見ていても聴いていても気持のいいものでしたし、そこから繰り出される新日本フィルの充実感のある響き、ことに強奏時のはち切れんばかりのトッティの迫力、決めどころでのティンパニの強烈感、いずれも昨年の都響との素晴らしい演奏を彷彿とさせるものでした。新日本フィルとの一期一会的ともいうべき盛り上がりも含めて全体的には聴きごたえのある「第9」でしたし、ベーレンライター版に特有のシーンも随所において意外に強い刺激を耳にもたらしてくれました。

新日本フィルの「第9」演奏会(サントリーホール 12/20)


今日はサントリーホールでベートーヴェンの「第9」を聴きました。

2009-12-20

オーケストラは新日本フィルで、指揮者はチェコ生まれの若手指揮者ヤクブ・フルシャ。演目は前半がドヴォルザークの「テ・デウム」、後半がベートーヴェンの交響曲第9番でした。

ベートーヴェンの「第9」は年の暮れにコンサートホールを賑わす風物詩ですし、私も例年いずれかの公演を聴きに行っています。それで今年は、昨年5月に聴いた都響定期演奏会でのヤクブ・フルシャの見事な指揮ぶりが印象に残っていたので、フルシャ/新日本フィルの「第9」を選びました。

今日の感想は後日、改めて出すとしまして、以下は少し余談というか、どうでもいい話ですが、実は今日、私は休日出勤でして、それを2時間だけ抜け出して勤務先の近所のホールに聴きに行ったのでした。

いつもは年末に「第9」を聴いてホールを出ると、もう今年も終わりだなという感慨がヒシヒシと湧くのですが、さすがに今日は、、あまり湧きませんね。また仕事ですし。もちろん自分の責任なので仕方なしですが、、

クラッゲルードのヴァイオリン演奏によるシンディングのヴァイオリンとピアノのための作品集(第1集)


シンディング ヴァイオリンとピアノのための作品集(第1集)
 クラッゲルード(vn) ハドラン(pf)
 ナクソス 2006年 8.572254
8572254

ナクソスから最近リリースされた、クリスチャン・シンディング「ヴァイオリンとピアノのための作品集」を聴きました。ヘンニング・クラッゲルードのヴァイオリンと、クリスチャン・イーレ・ハドランのピアノによる演奏です。

ヘンニング・クラッゲルードというと、私には2004年にリリースされたシベリウスとシンディングのヴァイオリン協奏曲を収録したCDでの圧倒的な名演ぶりが思い浮かぶのですが、今回リリースのアルバムでも同様にシンディング作品が取り上げられています。

収録曲は以下の通りです。

①カントゥス・ドロリス Op.78
②エレジー第1番 Op.106-1
③ロマンスニ長調 Op.79-1
④アルバムの綴り Op.81-2
⑤古い方法 Op.89-2
⑥セレナーデ Op.89-1
⑦古風な組曲 Op.10
⑧アンダンテ・レリジオーゾ Op.106-3
⑨ワルツ ト長調 Op.59-3(第1稿)
⑩ワルツ ホ短調 Op.59-4
⑪ワルツ ト長調 OP.59-3(第2稿)
⑫エア Op.81-1
⑬子守歌 Op.106-2

クリスチャン・シンディングは、グリーグ、スヴェンセンと共にノルウェーの3大作曲家として知られる、後期ロマン派の作曲家なのですが、その作風にはドイツ・ロマン派の音楽のような雰囲気も強く(ライプチヒ音楽院で作曲を学んでいます)、今回のアルバムでも、どこかシューマンの作品を聴いているような感覚に近しいものを感じました。

少なくともノルウェーの民族的な色彩は、それほど分かりやすい形では表面化していないのですが、聴いていると、そこかしこに北欧の抒情的な気分が音楽の中から不意に顔を出してきて、いつのまにか北欧の空気に触れているような爽快感、すがすがしさにドップリと浸っている自分がいました。

クラッゲルードのヴァイオリンは、素晴らしいの一言で、1744年製ガルネリから繰り出される響きの芳醇なこと。個々の音符に対する集中力、ボウイングの凝縮力、いずれも前回のシベリウスの時と変わらず抜群で、全体的にくつろいだムードの、和やかでロマンティックな曲が多くを占める中、良い意味でのピリッとした緊張感が、安易なムード音楽とは一線を画した、言わば作品の真の魅力の方に聴き手の意識を誘導するような、そんな気概の漲る演奏でした。同郷の若手ピアニスト、ハドランとの息の合った呼吸や連携も見事というほかありません。

全13曲における白眉を挙げるなら、やはり⑦でしょうか。この組曲はシンディングの最も有名な曲のひとつで、ライナーノートに書かれているところによると「これまでヤッシャ・ハイフェッツ、フリッツ・クライスラーといった偉大なヴァイオリニスト達によりコンスタントに演奏されてきた」作品なのですが、実際、かなり高度な演奏技巧を要求するヴァイオリン曲で、特にハイフェッツが好んで演奏したと言われています。

ここでのクラッゲルードの演奏は冒頭のプレストからアグレッシヴにボウイングを切り込み、それこそ往年の巨匠ヴァイオリニスト達にも優に伍するほどのテクニックの冴えで弾き進んでいくのですが、そこには同郷の作曲家に対する深いリスペクトを下敷きとした、作品に対する深々とした共感というものがそうさせるのか、ものすごいテクニックの冴えなのに、ボウイングにドライな印象がまるでなく、むしろ弾き手が音楽に込められたパッションと一体化し、心ゆくまで楽しみながらメロディを歌い込んでいるという風であり、聴いていて心に深く染み入るような、その有機的な音楽の味わいに、自ずと感動の境地に誘われる思いでした。

以上、このCDを耳にして、あらためてクラッゲルードのシンディング作品に対する適性や共感の深さが尋常でないことを認識させられました。続く第2集も楽しみに待ちたいと思います。

雑談:タワレコインの不条理


今日は少し雑談を。

以前にも書いたことがありますが、私はCDを買うのに、自宅からネット経由で購入する場合は主としてHMV、CDショップに出向いて買う場合は主としてタワーレコードを利用しています。

そのタワーレコードの方の話なのですが、特定の日にCDを購入すると「タワレコイン」というコインのようなものが購入額に応じて配布されます。

このコインをレジでの支払時に渡すと、枚数に応じて幾つかのサービスが受けられるのですが、そのサービスというのが、以下のように決められています。

①コイン1枚:ダブルポイントサービス
②コイン2枚:全品10%オフ
③コイン3枚:ポイント3倍サービス

おそらく気が付いている方も多いのではないかと思うのですが、これは少し変ですね。なにしろコインの枚数と還元率が比例していませんので。

現在のタワレコのポイント還元方式は500円買う毎に20ポイントで、1ポイント=1円なので還元率は4%。したがって、①の還元率は8%、③の還元率は12%です。

これだけ見ると、コイン枚数と還元率が比例しているようにも見えますが、実のところ①~③の中で還元率が最も高いのは②です。

というのも、②の場合10%を引かれた後の90%に対し、さらにポイントサービスが適用されますので、それを加えた実質的な還元率において③を上回るからです。

つまり②の実質的な還元率というのは、0.1+0.9×0.04=0.136すなわち13・6%ですから、③の12%より上ですね。

ちなみにダブルポイントセール期間の場合だと、実質的な還元率は0.1+0.9×0.08=0.172すなわち17・2%にまで上がります。

さらにトリプルポイントのケータイクーポンとの併用を考えた場合、実質的な還元率は0.1+0.9×0.12=0.208すなわち20・8%まで上がるのですが、これはさすがにNGのようで、「タワレコインとの併用は不可」とクーポンに明記されています。残念、、

いずれにしても、本来なら最も還元率が高い②をコイン3枚にしなければならないはずなのに、そうなっていない点が不条理というかオカシイという話でした。つまらない話で恐縮ですが、以前から気になっていたので、ちょっと書いてみました。

バーメルト/ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズによるヴァンハルの交響曲集


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に23枚まで掲載しているのですが、今回はCD24を聴きました。

ANNI-24
ヴァンハル 交響曲集
 バーメルト/ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ
 1997年録音

シャンドスが現在まで続けている「モーツァルトと同世代の作曲家シリーズ」からの一枚で、ヨハン・バプティスト・ヴァンハル作曲の3曲の交響曲が収録されています。マティアス・バーメルト指揮、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズの演奏です。

ヴァンハルはチェコ出身にしてウィーンで活躍した作曲家で、モーツァルトやハイドンとも親交があったとされています。交響曲だけでも約100曲も作曲し、その中にはこれまでハイドンの作と思われていたものもあるらしいですが、その作風は、なるほどハイドンのそれをかなり彷彿とさせるものですね。

実際、本ディスクに収録されている3曲のうち、最後のハ短調の曲(ブライアン番号c2)の第1楽章は、ハイドンの交響曲第45番「告別」の第1楽章にかなり似ています。偶然とは思えないほどで、おそらくハイドンの同作品に感化されたヴァンハルが、自作において模倣したのではないかと、聴いていて思いました。

ところで、私がヴァンハルの交響曲を初めて聴いたのは、以下のサラステ盤の演奏でした。

CD-288
ヴァンハル 交響曲集
 サラステ/ウメオ・シンフォニエッタ
 BIS 1984年 CD-288

上記CDのジャケットには作曲家名が「ヤン・クシチテル・ヴァンハル」と表記されていますが、これはボヘミア語表記による本名で、バーメルト盤で表記されている「ヨハン・バプティスト・ヴァンハル」(ドイツ語名)と同一人物です。

ちなみにウメオ・シンフォニエッタはスウェーデンの都市ウメオのオーケストラで、弦中心による「古楽器演奏以前」のスタイルを感じさせる演奏です。管の響きに物足りなさがありますが、弦はよく鳴っていて音楽の溌剌たる感じが良く伝わります。

対して本ディスクのバーメルト盤はサラステ盤よりも管楽器の冴えが全体に良好で、弦も含めて色彩的なメリハリが鮮やかですね。

ヴァント/ミュンヘン・フィルによるブルックナーの交響曲第6番と第9番のライヴ


ブルックナー 交響曲第6番、交響曲第9番
 ヴァント/ミュンヘン・フィル
 キングレコード 1998・99年ライヴ KICC813/814
KICC813-4

ギュンター・ヴァント指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるブルックナーの交響曲第6番と第9番のライヴ録音を聴きました。

これはキングレコードから先月の末にリリースされたCDで、交響曲第6番が1999年6月、交響曲第9番が1998年4月における、いずれもミュンヘン・ガスタイクでのコンサートの演奏です。両CDとも、実質的にはドイツのProfilレーベルからの直輸入なのですが、それに日本語ライナーノートを付けて国内盤仕様としてリリースされています。

ヴァント指揮ミュンヘン・フィルのブルックナーとしては、2006年に4、5、8番の交響曲のライヴが既にリリースされていましたが、いずれも素晴らしい演奏内容でした。

そして今回リリースの6番と9番も、やはり期待通りの素晴らしさというのか、いずれにおいても仰ぎ見るような雄渾なブルックナーが立ち現われていて、実に深々とした余韻の残る演奏でした。

ミュンヘン・フィルはベルリン・フィルと並んで、ヴァントが死の直前期まで客演を続けた、たった2つのオーケストラのうちの一つであるとされているのですが、ことブルックナー演奏に関しては、何といっても長年シェフを務めたチェリビダッケの薫陶もあり、そこで鍛え上げられたアンサンブルの強力なポテンシャルが、ブルックナーに対して絶対的ともいうべき演奏ヴィジョンを有する、最晩年の巨匠ヴァントの熟達のタクトと絶妙に呼応し合い、これほどまでの素晴らしいブルックナーに結実したのではないかと思われてなりません。

また、当時のヴァントの手兵である北ドイツ放送響を指揮したブルックナーを思い起こした場合に、それとはアンサンブルの奏でる響きの感触に、少なからぬ差違が感じられるのですが、これはミュンヘン・フィルの南ドイツ的な響きの特性がそうさせるようにも思えますし、或いはチェリビダッケ時代に隅々まで沁み渡った、オーケストラとしての自発的な個性がそうさせるようにも思えます。

もっとも、こういった差違が聴いていて違和感として滞留することなく、むしろ絶大な感銘を呼び覚まして止まないのは、ひっきょうヴァントの造り出すブルックナーの、音楽としての圧倒的な真実味に起因するものに他ならないと思うのですが、これと似たような現象として、例えばフルトヴェングラーの指揮による、ベートーヴェンの「運命」の超絶的な演奏を考えた場合、同じような表現様式なり真実味なりをもって演奏が展開されたとしても、オケがベルリン・フィルかウィーン・フィルかで、聴こえてくる演奏の色合いに微妙な変化が与えられるように、ここでのヴァントの場合も、オケが北ドイツ放送響かミュンヘン・フィルかで、自ずと微妙な色調の変化がもたらされるのではないかと、そんな風に私は捉えました。

いずれにしても、このミュンヘン・フィルとのライヴにおいては、ヴァントの指揮としてみると意外なほどの、ある種のまろやかさが伺われ、聴いていて陶酔的なまでの美しさが豊かであるとともに、シビアな局面との肌合いの対照も際立っていて、全体としての音楽の深みに掛けがえのないものを感じさせる演奏でした。

それにしても、先日のジュリーニ/ベルリン・フィルの、これまた素晴らしいブルックナーのライヴと、ほとんど同時にリリースされた偶然も、何かの縁かも知れませんね。

チョン・キョンファのベルリン・フィルへのデビュー公演におけるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲


チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
&ドヴォルザーク 交響曲第7番ほか
 チョン・キョンファ(vn) ジュリーニ/ベルリン・フィル
 テスタメント 1973年ライヴ JSBT28439
JSBT28439

チョン・キョンファのベルリン・フィルへのデビュー公演におけるチャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲の演奏が収録されたCDを聴きました。

これは昨日掲載したジュリーニ/ベルリン・フィルのブルックナーと同時にテスタメントから先週リリースされたCDで、1973年5月10日と11日におけるカルロ・マリア・ジュリーニ指揮ベルリン・フィルのコンサートでの演奏が収録されています。収録曲は以下の3曲です。
①ムソルグスキー 歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲
②チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
③ドヴォルザーク 交響曲第7番

上記の②のソリストを務めているのが、韓国の天才ヴァイオリニスト、チョン・キョンファなのですが、この公演が彼女とベルリン・フィルの初共演とされます。

チョン・キョンファはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を2回、デッカにスタジオ録音しているのですが、そのうち最初の録音は彼女のデビュー盤で1970年の録音、2度目は1981年の録音です。

POCL-9960   POCL-5013
1970年録音のデビュー盤   1981年の2度目の録音

この2つのスタジオ盤は、どちらも素晴らしい演奏だと思うのですが、どちらかと言えばデビュー盤の方が、表出力において新盤を凌いでいるように私は感じられます。しかし、世評としては新録音の方の圧倒的に高く、デビュー録音の方の評判は、あまり芳しくないようです。

なぜ両盤の評判に、少なからぬ落差が生じているのか、ちょっと不思議な気がするのですが、その原因としてまことしやかに言われているのが、かつて音楽評論家の宇野功芳氏がデビュー盤の演奏を「不出来」と評し、新録音の方を絶賛しているのを、多くの人が信じたからではないか、ということです(詳しくはこちらをご覧下さい)。

しかし、あのデビュー盤の演奏が不出来というのも俄かには信じがたく、それほど多くの人の意に留まるとは考えにくいようにも思えます。音質に少し開きがあるので、そのせいかも知れないと思っているのですが、、

少し話が逸れましたが、いずれにしてもチョン・キョンファのライヴ録音というのは非常に珍しいですし、ベルリン・フィルをバックに、どんな演奏を彼女が披露するか、興味津々という体でCDを聴いてみました。

聴いてみると、第1楽章のソロの入りから、キョンファは天下のベルリン・フィルを前に臆することなく、それこそ桁違いの表現力を披歴していて圧巻の極みです。

この演奏におけるヴァイオリン・ソロの全体的な雰囲気としては、彼女のデビュー盤にかなり近しいものを感じさせるのですが、ライヴゆえのリアリティもあり、聴いていて彼女のボウイングの発する途方もないパッションが、スタジオ盤よりも遙かに強く胸に迫ってくるような感じがします。

例えば第63小節からのフォルテッシモのスタカート進行(2:59)など、いかにも渾身の力を込め抜いたボウイングの気迫が素晴らしいですし、(10:19)からのカデンツァにしても、最初やや慎重な気配もあるのですが、途中から炎のようにカッと燃え上がるような演奏のテンションに、聴いていて実直に心打たれる感じがします。

もっとも、それでも部分的にはフレージングが妙に落ち着きに欠ける気配もあったり、いかにもボウイングが荒っぽかったりといった局面も聴かれるのですが、ライヴである以上、ましてベルリン・フィルとの初共演という緊張したステージである以上、完全無欠な演奏を要求するのは酷ですし、いずれも私には十分に許容範囲と感じられました。むしろコーダのラストスパートなど、ここぞという時に披歴される、もの凄い集中力から繰り出されるフレージングの訴求力がケタはずれで聴いていてゾクゾクしますし、第2楽章と終楽章も含めて、多少のキズはあっても、スタジオ盤とは一味ちがった、彼女の掛け替えのない表現力が仮借なく露わにされた演奏、そんな風に思えました。

ジュリーニの展開する伴奏は、全体的にキョンファを優しく包み込むというような包容力と、どっしりとした安定感が顕著で、そのあたりに指揮者としての器の大きさを感じさせるような、しごく好感の持てる伴奏でした。

音質ですが、ノイズ感が少し気になるレベルで、トッティになると細部のキメが荒くなったり、少々ざらついた感じのソノリティではあるのですが、ステレオ感は良好ですし、実在感のあるクッキリとした音像も、少なくともキョンファのヴァイオリンは的確かつ鮮明に捕えていて申し分ない感じです。

また2枚目のCDに収録されているドヴォルザークの7番ですが、ジュリーニとしてはかなりの熱演で、ことに終楽章ではベルリン・フィルを活発に煽ったハイ・テンションの演奏が披歴されていて、こちらも聴きごたえ充分といった感じでした。

以上、このチョン・キョンファのベルリン・フィル・デビュー公演のライヴ盤は、彼女のスタジオ録音とはまた一味ちがった、生々しい感情のうねりが赤裸々に伺える、強烈なまでのインパクトを備えた名演奏でした。昨日のジュリーニ/ベルリン・フィルのブルックナー同様、このような歴史的演奏が、こうして録音として残され、こうして耳にできたことを、素直に喜びたいですね。

ジュリーニ/ベルリン・フィルによるブルックナー交響曲第8番のライヴ


ブルックナー 交響曲第8番
 ジュリーニ/ベルリン・フィル
 テスタメント 1984年ライヴ JSBT28436
JSBT28436

カルロ・マリア・ジュリーニがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した、ブルックナー交響曲第8番のライヴ録音を聴きました。

これはテスタメントから先週リリースされたCDで、演奏は1984年2月におけるベルリン・フィルハーモニーザールでのコンサートのものです。

ジュリーニのブルックナー8番と言えば、ウィーン・フィルを指揮したスタジオ録音がグラモフォンからリリースされていますが、それは1984年5月にウィーン・ムジークフェラインザールで収録されています。今回リリースされたベルリン・フィルとのブル8は、そのスタジオ録音より3ヶ月前の演奏ということになります。

445529-2
ブルックナー  交響曲第8番
 ジュリーニ/ウィーン・フィル
 グラモフォン 1984年 445529-2

上記ウィーン・フィルとのスタジオ録音については、別館の方に感想を書いているのですが、ジュリーニ晩年の深みのある音楽の流れに、ウィーン・フィルのアンサンブルが最高のパフォーマンスで応えた超名演であり、数多くのウィーン・フィルのブル8の中でも、少なくともデジタル録音に限るならベストに位置づけられる演奏ではないかと感じていました。

今回リリースのライヴは、そのスタジオ盤と時期的にも近く、オーケストラの違いや、ライヴとセッションの違いを含めて、どのようなブルックナーが聴けるか、興味深く耳を傾けてみました。

それで聴いてみたのですが、全体としてスタジオ録音と同じようにスロー・テンポをベースとしながら、ベルリン・フィルから美しいカンタービレのフォルムを引き出していて、まさにジュリーニならではのブルックナーという感じがしますし、ライヴならではの演奏の生々しさもあり、同時期のスタジオ盤よりも強い表現力に聴いていて心打たれる局面も多く、これをもしナマで聴いたなら、それこそ一生の記念ともなる演奏ではないかという気さえします。

ライヴとは言え、アンサンブルのバランスに対する吟味の度合いはスタジオ盤にほぼ比肩する水準にあり、全楽器が鳴り切った時の響きの溶け合いなどの素晴らしさを始め、練りに練られ、高度に完成された演奏という印象を受けるのですが、それにしても全編で86分という長丁場(ノヴァーク版としては最長の部類に入るでしょう)を、緊張感を絶やさず弛緩なくアンサンブルを組上げるジュリーニの力量には、聴いていて敬服するばかりですし、同時にジュリーニの展開する巨匠風なブルックナーに対し、最高のレスポンスで応答するベルリン・フィルの合奏力にも驚嘆の念を禁じ得ませんでした。

ウィーン・フィルとのスタジオ盤との違いについては、完成度としては多分互角だと思うのですが(実際このライヴをスタジオ録音だとして聴かされても私は疑わないと思います)、ウィーン・フィル盤での濃厚な音色感は全体的に大人しく、特に管パートの艶やかさに差が認められ、ウィーン・フィル盤でウィンナ・ホルンが隆々と響きわたっているフレーズが、こちらのベルリン・フィル盤だと響きが少々薄かったりと、ことアンサンブルの深いコクに関しては、さすがにウィーン・フィル盤には一歩を譲るかという印象を感じました。

逆にウィーン・フィル盤に優位する点は、フォルテでのダイナミクスの逞しさ、そして艶やかというより質実剛健な響きの色合いと、そこから導かれる重厚で渋い音楽の佇まいといったあたりだと思うのですが、ジュリーニの展開する音楽のコンセプトが両盤で同一と思われるだけに、やはりオーケストラの違いというのが大きく作用していて、ウィーン・フィル盤とは趣きを異にする個性感や深みが演奏に付与されているのが明瞭に認められ、興味深い感じがしました。

もうひとつ、私が本ライヴ盤を耳にして興味深く感じたことは、例えば第1楽章の第10小節から弦がメゾ・フォルテのメロディを奏でる場面で、そのメロディをジュリーニが指揮しながらハミングで口ずさんでいるのが聞こえるなど、時々メロディを気持ち良さそうに口ずさむ場面が聴かれたことです。

この点、私はスタジオ盤の感想の方で、「ブルックナーの音楽に、これほどまでのメロディの魅力が隠れていたのかと、このジュリーニの演奏で初めて意識させられるような部分が少なからずある」と書いたのですが、ライヴ演奏でもメロディを大事にしている様子が、前述のように明確に伺われたので、ああやっぱりという風に思ったのでした。

音質については、アナログ録音ゆえの経年劣化が心配されたのですが、聴いてみると状態は良好で、ノイズ水準はかなり低いですし、解像度も申し分なく、ライヴ録りの制約ゆえか音質の彫りが少し浅く全強奏での中域のエネルギーに少々物足りなさも感じるものの、全体的には演奏会場の臨場感が高感度で捕捉された優秀な音質と感じました。

以上、このブルックナーは、名匠ジュリーニの力量のほどが存分に発揮された地点に、ベルリン・フィルの素晴らしい表現力が結託して生まれた、充実の極みにある演奏であり、また聴き終えて絶大な感銘の残る演奏でした。録音から四半世紀も眠り続けた音源なのですが、もし他にも、このような演奏が久しく眠っている状態にあるとすれば、どんどん発掘してもらいたいと願わずにいられませんね。

ゲルギエフ/ウィーン・フィルによるチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」


チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
 ゲルギエフ/ウィーン・フィル
 フィリップス 2004年ライブ UCCP-1097
UCCP-1097

先週、私はサントリーホールでゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管弦楽団の来日公演を聴いたのですが、その際ロビーで購入した公演プログラムを読んだところ、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の演目紹介のところに、以下のような記載がありました。

ゲルギエフは、2004年11月19日にサントリーホールでウィーン・フィルを指揮し、「北オセチアの子供のための支援基金」および「新潟県中越地震被災者支援」のためのチャリティ・コンサートを行ったことがあるが、その時に演奏した曲こそ、ほかならぬこの「悲愴交響曲」であった。第4楽章はまさに凄愴な盛り上がりとなった。演奏のあとには1分以上も静寂が続き、最後に聴衆は粛然と退場していったのである。


上記のコンサートは、私も聴きに行きましたので、これを読んで何だか懐かしい気持ちになりました。

2004-11-19
             その時のチケットです。

これは実は平日の公演で、開演が正午キッカリ、演目は「悲愴」のみという、異例のコンサートでした。ちなみに私は勤務地がホールの近所にあるので、昼休みを利用して聴きに行ったのでした。

上で書かれているように、このコンサートはチャリティーとして臨時に開かれたものでしたが、それには同年の9月にゲルギエフの故郷・北オセチアで、チェチェンの独立ゲリラが小学校を占拠し、350人以上の市民が犠牲になるという事件が背景にあり、本来その支援基金を募るためのコンサートという位置づけでした。

ところが、同年の10月23日に、今度は日本で新潟県中越地震が発生し、多数の死傷者が出たことを受けて、急遽コンサートの収益の半分を、新潟の方へ寄付することになったのでした。

このコンサートでは、演奏の前にゲルギエフのスピーチがあり、コンサート開催の趣旨に配慮して終演後の拍手は控えて欲しい、ということが述べられました。

このため、上記の「演奏のあとには1分以上も静寂が続き、最後に聴衆は粛然と退場していったのである」という状況が実現したのでした。こういうのは私も初めての経験でしたので、ちょっと夢覚めやらぬといった気持ちでホールを後にしたことを覚えています。

その時にホールで購入したのが本CDなのですが、これは同年9月におけるウィーン・ムジークフェラインザールでのコンサートにおける「悲愴」のライヴ録音です。

このCDはライヴ録音ですが演奏後の拍手は無く、そのあたりの雰囲気も、あのコンサートを彷彿とさせるのですが、いずれにしても聴くたびに(今日も聴いたのですが)、あのコンサートで耳にした超絶的なまでの「悲愴」の感触が蘇ってくるようで、何とも言えない気持ちにさせられる演奏です。

引き続き、アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによるバッハ・教会カンタータ新録音盤


J.S.バッハ 教会カンタータ作品集
 アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
 ドイツ・ハルモニア・ムンディ 2006・07年(新録音)、1974~84年(旧録音) 88697567942
88697567942

おととい書きましたように、ニコラウス・アーノンクールがウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを指揮して新たに録音したバッハ・教会カンタータ作品集につき、あの後ボーナス・ディスクの方の、カンタータ3曲の古い録音の方もひととおり聴きましたので、新録音との違いも含めて、私の思うところを以下に書きます。

まず両演奏の印象の違いですが、これについては、私は以前これと似たような興味から、アーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが2003年に再録音したモーツァルトのレクイエムの新譜を、その古い方の録音と聴き比べてみたことがあります。その際の感想は別館の方に掲載している通りですが、その中で私が触れた録音環境とか、オリジナル楽器演奏の技術的進歩という要因などについては、今回のバッハのカンタータに対しても、概ね該当するものではないかと思います。

つまり、旧録音の方はウィーンのテルデック・スタジオでの録音で、その音質にはいきおい硬質感が先立ち、聴感がハードですが、今回の新録音の方はウィーン・ムジークフェラインザールでの録音ですので、旧録音よりも必然的に残響感が多く取り込まれ、いかにもホール的な音響の拡がりですし、ピリオドアンサンブルの洗練された響きにしても、旧録音でのフレージングに聴かれる素晴らしい鋭角性を保存しつつ、響きの美感と無理なく両立されている感じがします。こういう要素が重なって、今回の新録音は、旧録音よりもひとまわりソフィスティケイトされた地点での演奏であることが明瞭に打ち出されているのですが、その演奏自体の進歩性に対しては、確かに聴いていて実直に感嘆させられるものでした。

ただ、それでも今回のバッハの新録音は、その対応する旧録音を聴き終えて振り返ってみると、私には何か引っ掛かりのようなものが感じられてなりませんでした。

ところで一昨日も書いたのですが、今回リリースされたCDには、どうぞ聴き比べてくださいと言わんばかりに、新旧2つの録音が並べられています。それで聴き比べた結果、仮に両方とも同じような演奏としか聴こえなかったなら、演奏側としてはちょっと格好がつかないのではないでしょうか。

それで実際に聴き比べてみたら、確かに新旧2つの演奏では明確な違いが打ち出されていたのですが、その度合いというのが甚だしくて、ほとんど誰が聴いても分かるのではないかというくらいのレベルで違っています。

もともと旧録音の演奏におけるコンセプトというのは、バッハの時代の演奏様式の忠実な再現に核が置かれていて、ソプラノにはボーイ・ソプラノ、アルトにはカウンターアルトというように、当時の慣行に従い女性歌手を徹底的に配した歌唱陣で録音に臨んでいましたし、オケや合唱の規模も当時の小型編成でした。

しかし今回の新録音においては、そんなコンセプトは何処へやらという風に、ソプラノにもアルトにも女性歌手をガンガン投入し、オケや合唱の規模も旧録音より一回り拡大してボリューム感を出し、カンタータ第61番に到っては原曲をわざわざ移調した上で演奏しています。とにかく旧録音との違いを出そうと、躍起になっているのではないか、という風に私には読めます。

そもそも、こういう形でリリースする以上、この新譜を購入した聴き手は、必然的に新旧の両演奏を聴き比べるでしょうね。それを見越して手を打った、というあたりの、ある種のあざとさが、私には何か不自然な印象として、うっすらと感じられたのでした。

確かに私などは、普段この手の「再録音」の新譜を購入したなら、さっそく旧録音を引っ張り出してきて、さあ何が違うんだろうとか思いつつ聴き比べてしまうのですが、そんな聴き方を誰でもするとは限りませんし、そもそも旧録音が手元になければアウトでしょう。しかし、今回の新譜なら、まず誰でも聴き比べてみるはずです。

つまり、聴き比べを前提とした演奏表現の違いの付与というのは、そもそも本末転倒ではないかと思うのですが、どうでしょうか。例えば前述のモーツァルトのレクイエムと同じように、新旧の演奏の違いを、録音環境と、それこそオリジナル楽器演奏の技術的進歩という要因に留めて、あとは同一の様式で押し通したなら、純粋な表現としての掘り下げ、つまり演奏の深化そのものが、むしろダイレクトに印象付けられたのではないでしょうか。どうもそんな気がしてなりません。

以上が、今回の新譜を聴いての私の率直な感想です。演奏自体の良し悪しはともかく、様式選択において今一つ必然性に欠ける憾みがあり、それが演奏としての説得力に、微妙に影を落としているような、そんな引っ掛かりが残りました。

アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによるバッハの教会カンタータ3曲の新録音盤


J.S.バッハ 教会カンタータ作品集
 アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
 ドイツ・ハルモニア・ムンディ 2006・07年(新録音)、1974~84年(旧録音) 88697567942
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ニコラウス・アーノンクールが手兵のピリオドアンサンブルであるウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを指揮して新たに録音した、バッハ・カンタータ作品集のCDを聴きました。

これは先月リリースされたCDですが、バッハの教会カンタータ第29番、第61番、第140番の3曲が収録されています。いずれもウィーン、ムジークフェラインザールでのセッション録音のようです。

周知のように、かつてアーノンクールはレオンハルトと共同して、史上初となるバッハの教会カンタータ全曲の録音を成し遂げているのですが、その全集でアーノンクールが受け持ったカンタータの中には、今回録音した3曲も含まれていました。

したがって、3曲ともに同じ顔合わせでの再録音ということになるのですが、今回リリースされたCDには、御丁寧にも、その3曲の古い方の録音も一緒に、ボーナスディスクとして付属しているのです。どうぞ聴き比べてくださいと言わんばかりですが、これは相当の自信の現れというところでしょうか。新旧の両演奏の違いを、我々は確実に聴き手に実感させる、というような、、?

そのあたりの興味もあり、ひととおり耳を通してみました。もっとも、今日聴いたのは新録音の方のみです。旧録音の付属CDの方まで聴く時間が無かったからで、そちらは明日にでも改めて聴くことにします。その上で、どういう風に違うか、そのあたりの感想を書いてみたいと思います。

さて、最初に収録されているカンタータ第140番「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」は、三位一体の祝日後第27日曜日のためのカンタータで、30分近くを要する大規模なコラール・カンタータです。もっとも「三位一体の祝日後第27日曜日」というのが、暦のうえで10年に一回くらいの割合でしか巡ってこないため、当時ほとんど演奏される機会を得なかったとも言われます。メインテーマとして使われる「目覚めよと呼ぶ声あり」のコラール主題が実に深々とした情感を湛えていますし、あまりにも美しい第4曲のテノールのコラール主題は、後にシュープラーコラール第1番としてオルガン編曲されています。

続くカンタータ第61番「いざ来たれ、異邦人の救い主よ」は、待降節第1日目のためのカンタータです。これはバッハの全カンタータ中でも屈指の有名曲でしょう。この3曲の中では唯一、バッハのワイマール時代の作品なのですが、この新録音ではイ短調の原曲が、あえてロ短調に移調されて演奏されています。

これについては、ライナーノートの中で、アーノンクール自身がインタビューに答える形で移調の理由について説明しています。「古い録音ではイ短調だったのに、なぜ今回はロ短調で演奏したのか?」という問いに対し、それはバッハ後年のライプツィヒ時代での再演を想定したものであると答えているのですが、要するに、このカンタータは合唱パートがコールトーンという、ワイマール特有の高いキーを持つピッチで書かれているため、これを後年ライプツィヒで再演する際に、ライプツィヒの低いピッチ(いわゆるカンマートーン)を前提とし、かつワイマール時代と同じ音程での演奏を可能とするには、ロ短調に移調するほかなく、おそらくバッハもそうしたはずだと述べています。

もっとも、以上に書いたことは、あくまで私がライナーノートの英文を読んで要約した内容ですので、もしかしたら何か読み損なって不正確なことを書いている可能性もあります。そこは御注意ください。

最後のカンタータ第29番「われら汝に感謝す、神よ、われら感謝す」は、市参事会員交代式のためのカンタータで、祝祭的性格がかなり強い、華やかなカンタータです。ここではオルガンのオブリガードが非常に美しいのですが、特に第1曲に聴かれるオルガンのメロディが出色で、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番の第1楽章のメロディを聴いていて彷彿とさせますね。

以上、前述のとおり感想の提示は今日はひかえます。古い録音の方もひと通り聴き、それを踏まえて改めて出します。

ヤンソンス/オスロ・フィルによるチャイコフスキーの交響曲第5番


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に22枚まで掲載しているので、次はCD23の番なのですが、、

ANNI-23
チャイコフスキー 交響曲第5番
 ヤンソンス/オスロ・フィル
 1984年録音

現在、ロイヤル・コンセルトヘボウとバイエルン放送響という、世界トップクラスの2大オーケストラのシェフを務めているマリス・ヤンソンスの、そのキャリア初期における記念碑的録音とされるチャイコフスキーです。

この演奏に関しては、ちょうど先月リリースされた、ヤンソンスの同曲の新録音(オケはバイエルン放送響)を聴いての感想を掲載した際、それと対比させる形で、このオスロ・フィルとの旧録音の演奏についても言及していますので、以下それに若干、追記するような形になります。

ここでのオスロ・フィルの音色は、北欧のオーケストラに特有する、ケレン味のない実質的なものですが、この持ち味をヤンソンスは実に巧く引き立てている感じがします。つまり、音色を洗練させて美しく、耳当たり良く聴かそうという演奏ではなくて、むしろ飾らない響きの根源的な表出力にすべてを賭けるとでもいうような、アグレッシブな表出力がこの演奏の最大の魅力ではないかと思います。実際、クライマックスにおける弦と金管をフルに鳴り切らせたような押しの強い最強奏など、聴いていてゾクゾクするほどの充実感が張り詰めています。

そもそもシャンドス・レーベルというと、このボックスセットのCDのラインナップを見ても明瞭に伺えるように、ほとんどイギリスゆかりの作品、ないしイギリスゆかりの演奏家・演奏団体によるレコーディングで占められているのですが、それなのに演奏家・演奏団体、曲目ともにイギリスとは無縁とも思える、本ディスクのレコーディングが実現したのは、1983年のヤンソンス/オスロ・フィルのイギリス・ツアー時の演奏が、それを聴いたシャンドスの首脳部に絶大な感銘を与えたからであると伝えられています。

そして本ディスクを聴く限りにおいても、このチャイコフスキーはヤンソンス会心の演奏と言っても過言でない見事な名演だと思います。

後年ヤンソンス/オスロ・フィルはメジャーレーベルたるEMIからディスク・リリースを行うようになりますが、残念ながらそちらはあまりパッとせず、例えばドヴォルザークの後期シンフォニーなど、このチャイコフスキーと本当に同じコンビの演奏かと疑うくらい、冴えを欠いた内容と言わざるを得ません。これにはEMIのボヤッとした音質に、足を引っ張られているような部分もかなりあるような気がしますが、いずれにしてもヤンソンス/オスロ・フィルの全盛期は、やはりシャンドス時代ではないかと私は思っています。

ハイティンク/シカゴ響によるマーラーの交響曲第2番「復活」


マーラー 交響曲第2番「復活」
 ハイティンク/シカゴ交響楽団
 CSO・RESOUND 2008年ライヴ CSOR901916
CSOR901916

今日の夜にNHKで放送された、司馬遼太郎原作の歴史ドラマ「坂の上の雲」を観たのですが、ドラマ中、夏目漱石(塩原金之助)役の俳優に、かの小澤征爾の実子である小澤征悦がキャストされていました。

それで言うわけではないのですが、クラシック音楽の愛好者層と、夏目漱石の小説の愛読者層というのは、実は多分に重なるのではないかと私は以前から思っているのです。

なぜかというと、おそらく音楽評論家の吉田秀和氏が、、、

、、、いや、それは私の憶測に過ぎず、特に確証もないので、やっぱり止しますが、とにかく当該キャストを目にして、ちょっと不思議な縁を感じたのでした。

閑話休題としまして、先月リリースされた、ベルナルド・ハイティンク指揮シカゴ交響楽団の演奏によるマーラー交響曲第2番「復活」のCDを聴きました。

これはハイティンクが手兵シカゴ響と手掛けているマーラー・シリーズの最新盤で、2008年11月のシカゴでのコンサートのライヴ録音です。メゾ・ソプラノにはクリスティアーネ・ストーティン、ソプラノにはミア・パーションがそれぞれ起用されています。

このマーラー・シリーズについては、そのリリース第1弾の交響曲第3番と、それに続く交響曲第6番「悲劇的」、いずれも各リンク先に感想を掲載している通り、すこぶる見事なマーラーでした。

それで今回リリースの「復活」ですが、まず第1楽章冒頭を耳にして、あまりの迫力の無さに、ちょっとビックリしました。そのあと提示部だけ数分聴いて、いくら何でも、これはオカシイと思い定めて、アンプのボリューム加減を再確認することにしました。

その結果、このCDは、どうやら録音レベルが異常に低く設定されているということが分かりました。具体的には、、、

私が普通、マーラーの交響曲を聴くときは、だいたいの目安として以下のボリューム位置(赤丸)で聴いています。
volume-1

しかし、このハイティンク/シカゴの「復活」は、これではダメで、以下のボリューム位置(赤丸)で聴くと、ちょうどいい感じになるのです。
volume-2

上記の設定は、普通のCDだと、ひとつ間違うと耳を傷めたり再生機器を破損したりする危険があるので、普通はしません。しかし、私が年間で購入するCD数百枚のうち、百枚に1枚くらいの割合で、この種の録音レベルが異常に低いCDに出会います。最近だと、例えば広上淳一/コロンバス響によるチャイコフスキーの交響曲第5番のCDがそうでした。どうも、SACD仕様のものに多いようですね。

そういう次第ですので、以下における私の感想は、上記のようなボリューム設定が前提と了解ください。

それで肝心の演奏ですが、全体の演奏時間は82分となっていて、巨匠風というような遅めのテンポがベースとなっているのですが、そこには凄い緊張感が漂っていて、ひとつひとつのフレーズのどっしりとして揺るぎない定着感といい、アメリカのオケらしからぬとさえ思えるほどの重厚感といい、いずれも素晴らしく、聴いていて惹き込まれるばかりです。演奏のスケール感としても並でなく、実に深々としたフレージングの呼吸が、そこかしこに聴かれるのですが、それでいて勢いで押し切るような強引さがなくて、このあたりなど、それこそ作品が完全に指揮者の掌中に入っているからこそ可能な境地なのではないか、という印象さえ受けるほどです。

そして全体を聴き終えて、私には今年初頭にサントリーホールで聴いた、ハイティンク/シカゴ響の来日公演でのブルックナーが思いだされてなりませんでした。

その時の感想として以前に書いているとおり、シカゴ響のアンサンブルというと「強力なブラス・セクション」という印象を抱いてホールに赴いた私は、当夜のブルックナーを聴いて少なからず面喰らったのですが、おそらくハイティンクには、これ見よがしにブラスパートを強調することを必要以上に避けて、弦を中心とするドッシリとしたバランスで聴かせたいという、確固たるビジョンが存在したのであって、だからあのブルックナーは、ああいうバランスだったのかと、今更ながらに得心しました。

というのも、このマーラー「復活」においても、全体を通して金管パートと互角以上の存在感や訴求力を満たした弦パートの充実感が、やはり際立っているように私には思えたからです。ここぞという時に地の底から突き上げるかのような、ズッシリとした低弦の迫力など、ショルティ時代のシカゴ響からすると、隔世の感とも思われます。

以上、このハイティンク/シカゴのマーラー「復活」は、事前の期待を裏切らない抜群の演奏内容でした。このマーラー・シリーズのリリースは今後も継続して欲しいところですし、少なくとも交響曲第9番の演奏は、ぜひ耳にしたいですね。

ブーレーズ/クリーヴランド管によるストラヴィンスキー「春の祭典」(グラモフォンの新盤)


ストラヴィンスキー 春の祭典、ペトルーシュカ
 ブーレーズ/クリーヴランド管弦楽団
 グラモフォン 1991年 435769-2
435769-2

今月の2日、サントリーホールで聴いたゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管の来日公演につき、一昨日その感想を掲載したのですが、その補足を少し書きます。

その感想の中で、ロシア音楽的「春の祭典」としては唯一無二ともいうべき圧巻の演奏内容であるとしても、現代音楽の起点としての意味合いが相当に希釈化された演奏ではないかという趣旨のことを書きました。

そして、それは同じ顔合わせで録音されている同曲のCDを聴いて感じた印象とも概ね重なるものです。

UCCP1035
ストラヴィンスキー 春の祭典
 ゲルギエフ/キーロフ(マリインスキー)歌劇場管弦楽団
 フィリップス 1999年 UCCP-1035

上記CDですが、これを「史上最高のハルサイ」と主張している音楽評論家もいますし、世評も絶大なのですが、私には少し過大評価な嫌いもあるように思います。確かに素晴らしい演奏内容とは思うのですが、少なくともハルサイとして完全無欠な演奏かと言えば、そうは思えないからです。

そこで思い当たるのが、ピエール・ブーレーズがクリーヴランド管弦楽団と録音したハルサイ(ブーレーズとしてはハルサイの最新の録音)のCDです。というのも、このCDで聴くと、この作品が、いかに精巧を極めた音楽造型の精華であるかがよく伝わってくるからです。

このブーレーズ盤のハルサイですが、まず、一つ一つのフレージングの、ディテールに対するこだわりが尋常でなく、例えば冒頭のファゴットのフレーズからして、ゲルギエフ盤で大雑把に処理されている、細かい装飾音に対する扱いが圧倒的に緻密であり、したがって聴いていて格段にシャープな感じを受けます。他においても、例えば第1部の(9:39)から(練習番号51)ピッコロが吹く重要なフレーズなど、ゲルギエフ盤では弦の重厚な音幕に埋もれてアップアップという風なのに、ブーレーズ盤では弦に埋没させずに、アンサンブルの頂点でバシッと鳴り響いていたりなど、全体を通して、どのフレーズを強く、どのフレーズを弱くといった、細やかな切り分けが徹底的に考え抜かれたような演奏が披歴されていて、聴いていて圧倒的な音楽の奥行きを意識させられます。

テンポにしても、ゲルギエフ盤の方で猛烈なリタルダンドが仕掛けられる練習番号53からのフォルテ進行を、ブーレーズ盤の(10:20)で聴くと、冷厳なまでのイン・テンポが維持され、音量が増大しても透き通るようなハーモニーが持続し、音の情報量が恐ろしいまでのレベルで確保されていると同時に、ひとつひとつのフレーズの確かな実在感が積み上がって、聴いていて怖いくらいの音響的な立体感が捻出されているのですが、このあたりなどもブーレーズの面目躍如たる素晴らしさを感じます。

要するに、このブーレーズ盤でのハルサイは、慎重に慎重を重ねて、アンサンブルを最高の緻密さで練り上げることにより、このハルサイという作品の、造型的な特異性と、そこから導かれる音楽の美しさ、あるいは恐ろしさなどが、仮借なく抉り出されているという点において、ロシア音楽というよりはむしろ現代音楽を聴く際の感覚に近いものがあると思うのですが、この方面において、このブーレーズ盤以上に突き詰められた表現というのを私は聴いたことがないですし、従って、この行き方でのハルサイの醍醐味が無上に引き立っている演奏なのではないかと思われます。

以上、先日の補足でした。ここでゲルギエフ盤と対比したのは、あくまで両盤の解釈の対極性ゆえのことで、演奏としての優劣を云々する意図は全然ありませんし、むしろ両盤それぞれの方面において、それこそ超絶的なまでのハルサイの演奏を堪能することができる点で、どちらも素晴らしいと私は思っています。

「春の祭典」のDover版のスコア


今回は雑談的な内容なのですが、ストラヴィンスキーのハルサイのフルスコアが、わずか800円くらいで買えるってご存知でしょうか。

http://www.musical-score.net/22_236.html

昨日、ふと上記サイトで価格を調べて、ちょっとビックリしました。実は私が持っているのも、このドーヴァーのスコアなのですが、これを私が数年前に購入した時は、ここまで安くはなかったはず。

2009-12-04
「春の祭典」のフルスコア(Dover版)

ひょっとしたら最近の円高情勢が反映された価格なのかも知れませんが、いずれにしても、ハルサイのフルスコアが800円くらいで買えるというのは、オドロキですね(中古の方が2000円くらいするのは、別の意味でオドロキですが、、)。

何故こんなに安いのか、に関しては、こちらに書かれているとおりです。要するに「リプリント版」なので、安いのですが、出版時点できちんとした校訂作業を行っていないので、信頼性の点では必ずしも万全でないとも言われています。

いずれにしても、名曲のスコアが、これだけ安く手に入るのは嬉しいことですし、この機に私もスコアを少し買い漁ってみようかと思っています。

マリインスキー歌劇場管弦楽団来日公演の感想


昨日のサントリーホール、マリインスキー歌劇場管弦楽団来日公演の感想です。

2009-12-03

オーケストラ編成は12型で開始されました。配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置でした。

まずバレエ音楽「カルタ遊び」が演奏されたのですが、これはポーカーの3番勝負を音楽で表現した作品で、ストラヴィンスキーの新古典主義時代に作曲されたバレエ音楽のひとつです。

「ハルサイ」に代表されるストラヴィンスキーの原始主義時代の激しいリズム的ダイナミクスの名残を宿しながら、全体的にはユーモアたっぷりの、面白い音楽に仕上げられているのですが、ゲルギエフの指揮は、やや抑制を効かせてアンサンブルを整然と鳴らしつつも、この作品のユーモラスな側面を殊更に強調するというよりは、どっしりと構えた本格的な演奏を展開するという趣きでした。

必然ある種の洒脱さには乏しい憾みもあるとしても、例えば第1ラウンドのジョーカーの踊りのグロテスク感の強さとか、第2ラウンドでのハルサイを思わせるようなアンサンブルの目まぐるしい変わり身とか、あるいは第3ラウンドで、いきなりロッシーニ「セビリアの理髪師」の主題を真似したメロディが唐突に響きわたるあたりの、突拍子もない面白さなど、いずれも演奏が本格的であるがゆえに、作品のシュールな側面が浮き彫りにされるという印象があり、そのあたりが聴いていて新鮮でしたし、同時にオーケストラの素晴らしいアンサンブル能力を存分に印象づけられました。

続いて、編成を14型に拡大した上で、アレクサンドル・トラーゼをピアノ・ソロに迎えて「ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ」が演奏されました。この曲はストラヴィンスキーの作曲したピアノ協奏曲のひとつなのですが、協奏曲ではなく敢えてカプリッチョと命名されているように、かなり自由な形式で書かれていて、その雰囲気にはエレガントな側面も強く、ロマン派のピアノ協奏曲のムードを随所に散りばめた、ストラヴィンスキーとしてはかなり聴き易い部類に入る曲です。

しかし、見かけの自由なメロディの造りに対し、そのリズム構造は、それこそバッハ並みの厳格さで緻密に組みあげられているため、ラプソディックな即興性を強調するか、緻密なリズム構成の質量感を強調するかで、演奏の雰囲気がガラッと変わってくるのですが、当夜のトラーゼのピアノ・ソロは、ゲルギエフの伴奏ともども、おそらく後者の行き方であったようでした。重くて、ワイルドな打鍵から展開される演奏の趣きは、カプリシャスな味わいよりも重厚な表情を指向した雰囲気が強く、聴き応え抜群でしたが、作品の性格からすると、ちょっと気真面目過ぎるというのか、正直もう少しジャズ的な味付けを押し出して欲しいなと、いうような不満も幾つかの局面で感じました。

休憩を挟んで、いよいよ「春の祭典」が演奏されました。この演奏に関しては、昨日も書きましたように同じ顔合わせで録音されているハルサイのCDで披露されている表現に、概ね沿った行き方でした。言わば予想された通りの「ゲルギエフのハルサイ」に他ならないのですが、少なくとも、その人間業を超えたような驚異的なまでのパフォーマンスの凄さには、もう聴いていて圧倒されっぱなしという状態でした。

そもそもマリインスキー歌劇場のオーケストラは、基本的な合奏性能からして惚れぼれするばかりで、これほどまでに重量感満点のアンサンブルが、ゲルギエフのタクトに俊敏に反応し切って意のままに一体的に駆動していく様子だけでも、十分に途方もないのに、そのアンサンブル展開というのが、例えばバス・パートの法外なまでの押しの強さとか、金管パートの豪烈を極めたような最強奏の迫力、あるいはトッティにおけるメガトン級ともいうべき響きの戦慄感とか、ここぞという時にホールを文字通り震撼させるティンパニの猛烈な激打など、もはやこれ以上にワイルドなハルサイというのもちょっと考えられないのではないかというくらいの迫力がみなぎるものである以上、その激烈なまでの演奏の聴き応えは圧巻というほかなく、クライマックスに到ってはそれこそホールを吹き飛ばすかのような壮絶な音響展開をもって聴き手を問答無用の興奮のるつぼに叩きこむというような勢いでしたし、私も実際そのるつぼに投げ込まれたクチなのでした。

そういうわけなので本来なら無条件で絶賛して然るべきところなのですが、それが昨日も書きましたように、そう単純にはいかない側面があり、確かにCDで聴く以上に興奮度満点の演奏でしたが、それに伴い、この演奏の弱いところ、いわば問題点もまたCDで聴く以上に実感せざるを得なかったというのが率直なところです。

というのもゲルギエフのハルサイは、ある意味かなり極端な解釈に立脚しているため、それによりもたらされる音楽的な快感や興奮が確かに途方もないのですが、その極端さの代償として失われている側面もまた小さいものではない、という風に私には思われるからです。

何が問題なのかと言えば、まずハーモニーにおける透明感の不足、そして作品自体の構造的ニュアンスの伝達不足ということになり、このために、確かに聴いていて演奏としての途方の無さは良く伝わるかわりに「音楽自体が途方も無い」という感覚が十分に付随しないもどかしさが残ります。

つまり、このハルサイにおけるゲルギエフのアプローチというのは極めて主観性が強くて、スコアを有りのままに再現するという意識よりも、おそらく自分の絶対的なビジョンというのが強くあるがゆえに、やりたい放題とまでは言わなくても、それにかなり近いところまで作品を誇張化した演奏を展開しているように感じられます。その象徴が例の最後2小節における前代未聞ともいうべき「4秒のパウゼ」で、誰もやらないことを敢えてやる、というゲルギエフのスタンスが端的に伺われるものです。

実際ゲルギエフの展開したハルサイは緩急や強弱を中心に、デフォルメ感のかなり強い演奏であって、例えば春のロンドの中盤、スコアの練習番号53から54に到るまでの部分で猛烈なリタルダンドを仕掛けて引き摺るような歩みを強調するなど、かなり大胆な表情付けが随所に敢行されていました。

もともと強靭なバスの威力を伴う厚ぼったい響きであるところへ大胆な緩急強弱の揺さぶりを仕掛けるものだから、ひっきょうハーモニーの透明感が犠牲になり、トッティで特定のフレーズが埋没してしまい、それが聴き手に音楽の構造的な醍醐味を必ずしも明確に伝え切らないという弱点となって現われる、という図式です。結果、確かに聴いていて血湧き肉躍るような快感を味わうという点では、これ以上ないというくらいの成果に到った演奏である反面、もうひとつの側面つまり当時の前衛作曲家ストラヴィンスキーの手による精巧を極めた音楽造型の精華としての側面が希釈化されてしまっているような印象を否めません。

そもそも、このハルサイという作品は現代音楽のスペシャリスト達が好んで演奏したり録音したりするように、緻密な変拍子構造に代表される、考え抜かれたようなリズムに基づく斬新な構成力といい、無調的な響きに対する希求の度合い(先祖の霊を呼び覚ますあたりなど、シェーンベルクの語法を思わせる、ひんやりとした気配があります)といい、純粋な「ロシア音楽」としての意味合いだけでなく現代音楽の起点としての意味合いの方も大きいと思うのですが、当夜のゲルギエフの演奏においては、そういう方面に対する目配せが必ずしも十分なセンに到っていない、要するに「ロシア音楽」としての醍醐味を圧倒的に推し進めた代償として「現代音楽」としての醍醐味が相当に引っ込んでしまった、これが「ゲルギエフのハルサイ」における一つの難点だと私には思われました。

当夜のコンサートはゲルギエフならではの、最高にエキサイティングな「春の祭典」を実際に耳にできて感無量でしたし、最後のパウゼで聴衆の誰もが期待していることを期待通りに実行してしまう、そのゲルギエフの胆力においては感服の極みでしたが、同時にウィークポイントも相当程度に露見された演奏でもあったと感じました。

マリインスキー歌劇場管弦楽団の来日公演(サントリーホール 12/2)


今日はサントリーホールでマリインスキー歌劇場管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2009-12-02

指揮者はワレリー・ゲルギエフ。演目はオール・ストラヴィンスキーで、前半がバレエ音楽「カルタ遊び」、続いて「ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ」(ピアノ演奏はアレクサンドル・トラーゼ)、後半がバレエ音楽「春の祭典」というものでした。

また、前半のアンコールには トラーゼによりスカルラッティのニ短調のソナタが、後半のアンコールにはシチェドリンの「お茶目なシャストゥーシュカ」が、それぞれ演奏されました。

今日の目当ては、ずばり言って「春の祭典」(ハルサイ)でした。

なにしろ同じ顔合わせで録音されているハルサイのCDが、それこそ人間業を超えたような演奏内容ですので、これが実演に掛かる以上は聴いておきたいという思いでホールに足を運びました。

そして当夜のハルサイの演奏ですが、基本的にはCDで披露されている表現に沿った行き方でした。最後の2小節の、あの前代未聞の「4秒のパウゼ」も、しっかり再現されていましたし(今日の実演でもキッカリ4秒!)。

その意味では、あらかじめ予想された「ゲルギエフのハルサイ」でしたが、さすがに実演の迫力というのは圧倒的に凄くて、その意味では予想以上にエキサイティングなひとときでした。

もっとも感想としては少し複雑なところで、もの凄い演奏でしたが無条件に絶賛するにはちょっと、という気もします。

というのも、確かに聴いていて湧き起る興奮に気持ち良く身を委ねる自分がいる一方、このハルサイはやはり少々問題があるのではないかという素朴な疑問を感じながら聴いている一方の自分もいる、というような、スパっと簡単に割り切れない感覚を最後まで拭い切れなかったからです。個性的であるがゆえのニ面性、というべきでしょうか。

いずれにしても、感想は改めて後日に。

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