コンタルスキーによるシュトックハウゼンのピアノ作品集


シュトックハウゼン ピアノ曲Ⅰ~ⅩⅠ、ミクロフォニーⅠ・Ⅱ
 コンタルスキー(pf)
 ソニー・クラシカル 1965年 SICC-1223
SICC-1223

今月タワーレコードから復刻リリースされた、アイロス・コンタルスキーのピアノ演奏によるシュトックハウゼンのピアノ作品集を聴きました。

主な収録内容はシュトックハウゼンの11曲のピアノ曲(ⅠからⅩⅠまで)ですが、それに加えて「タムタム、2本のマイク、2つのフィルターとポテンショメーターのためのミクロフォニーⅠ」と、「合唱、ハモンド・オルガン、リング変調器のためのミクロフォニーⅡ」も併録されています。

この復刻盤は、前衛作曲家シュトックハウゼンの、チャンス・オペレーションという概念に対する壮絶な格闘の足跡ともいうべき、彼の一連のピアノ作品集(そして、その頂点に位置づけられるのがピアノ曲ⅩⅠ)にじっくり耳を傾ける好機と思い購入したものです。

チャンス・オペレーションというと、かつて私はジョン・ケージの専売特許みたいに捉えていた時期があったので、その後シュトックハウゼンのチャンス・オペレーションに対する発想を知るに及び、それがケージとは根本において全く異なっていることを知って、驚かされたのでした。ケージのように、基本的に演奏家まかせというのとは違い、形式を徹底的に規則化した上で演奏家に驚異的な自由をもたらす、その発想が見事ですね。

まずシュトックハウゼンが考えた発想というのは、演奏家に厳しい制約を与えることにより、逆に演奏における不確定性の要素を捻り出すという離れ業なのですが、具体的には、スコアに小音符と呼ばれる細かい音符を散りばめ、それらをピアニストが、できるだけ速く弾かねばならず、しかもはっきり区切って聴こえるように弾かれなければならない、という厳しい制約を置くことにより、同じ曲を演奏するにしてもピアニストの力量いかんにより演奏の雰囲気がガラッと変わるようにしたのでした。それがピアノ曲Ⅰ~Ⅳの発想になります。

これがピアノ曲Ⅴになると、小節線も拍子記号もスコアから無くなり、シュトックハウゼンの言う「よい演奏家の無限に微妙な非合理的ニュアンス」に多くを委ねる形になるのですが、この考え方は続くピアノ曲ⅥからⅩまでの各作品にも継承されていき、作品ごとに様々な不確定性要素の新機軸が打ち出されていきます。もっとも、ピアノ曲Ⅸでは、一時的に小節線と拍子記号が復活するのですが、この作品ではピアノ曲Ⅰ~Ⅳでの発想の根幹である小音符の手法が強力に押し出されているため、かえって不確定要素が強まっている印象すら受けます。

そして、この一連の流れが頂点を迎えるのがピアノ曲ⅩⅠなのですが、ここでは再び小節線と拍子記号が復活するものの、ピアニストに与えられるのは19のフレーズのみで、どのフレーズをどの順番で弾こうとピアニストの自由という、圧倒的な自由度が許されています。

ですが、たった19のフレーズでは、聴く方にしてみると、最初のうちは新鮮でも、演奏が進むにつれて、さっき聴いたばかりのフレーズが、また同じように延々と顔を出すようになるだけの、しごく単調で退屈な音楽になりはしないか、と誰でも思うはずです。

ところが、この19のフレーズには、その次に選択されるフレーズに対するテンポ・強弱・奏法の指定が逐一書き込まれているため、同じAというフレーズを弾くとしても、その直前のフレーズがXかYかで、印象が全然変わってくるようになっているのです。

しかしながら、例えばX→Aと何度も続けて弾くとすると、その限りではAのフレーズのテンポ・強弱・奏法は常に一定なのですから、ひっきょう同じことの繰り返しになってしまう可能性が残ってしまいます。

そこでシュトックハウゼンは、その可能性をも封じるため、一度選択したフレーズ順を2度繰り返す時には、オクターブ上げたり下げたりするという制約を書き込んでいるのです。つまり、一回X→Aと弾いたあと、ピアニストが再びX→Aと弾こうとするなら、Aはオクターブ上げるか下げるかしなければならない。それでは同じ順番が3度繰り返されたらどうなるかというと、そこで演奏が終わらなければならない、とまで規定しています。

以上はシュトックハウゼンの考え出した、可変的形式と呼ばれる有名な概念ですが、まさにこの概念ゆえに、このピアノ曲ⅩⅠは画期的であり、演奏者に形式上の自由を与えた、ヨーロッパで最初の作品であると言われる所以にもなっています。

一口にチャンス・オペレーションと言っても、西洋音楽の伝統を背負わないケージのそれは、4分33秒みたいに、半ば投げやりというのか、ほとんど聴き手を挑発する、おちょくるというような性質が強いのに対し、シュトックハウゼンのそれは、西洋音楽の形式的伝統に対し、不確定性という概念を、どうやってドッキングさせようかと、真剣に考察した結果としての音楽の現われである、という印象が強いですね。もちろん、いくら発想がエポックメイキングでも音楽自体がつまらないのでは本末転倒ですが、この曲では19のフレーズ自体、それぞれが鋭利に研ぎ澄まされたような訴求力を備えているので、それだけでも聴き手の心に喰い込んでくる性質を帯びているところ、それが可変的形式により飛躍的に増幅されるため、こと感銘の度合いにおいても十分な手ごたえを感じます。

シュトックハウゼンというと、晩年における妙に宗教がかった作風などは、私は正直あまり感心しないのですが、初期には優れた作品が多いですね。革新的でありながら、同時に西洋音楽の伝統を死守しようとするスタンスにおいて、人間の想像力の営みの偉大さや奥深さが垣間見えるような気がします。

アーノンクール/ヨーロッパ室内管によるガーシュウィンの歌劇「ポーギーとベス」全曲


ガーシュウィン 歌劇「ポーギーとベス」全曲
 アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団
 RCA 2009年ライヴ 88697591762
88697591762

先週リリースされた、ニコラウス・アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団の演奏によるガーシュウィンのオペラ「ポーギーとベス」全曲盤を聴きました。

これは2009年夏のグラーツ・シュティリアルテ音楽祭における、演奏会形式上演のライヴ録音とされており、ポーギー役のジョナサン・レマル、ベス役イサベル・カバトゥを始め、歌手はすべて黒人キャストで占められています。

それにしても、あのアーノンクールがガーシュウィンを振るというのは、一体どういう風の吹き回しだろうと思ったのですが、このオペラは実はアーノンクールにとって子供の頃から愛着のある、お気に入りのオペラだったそうで、それを自身80歳を迎える今年、満を持して?録音を果たしたということのようですね。

さて、この「ポーギーとベス」の録音ですが、演奏形態としてもコンセプトとしても、ちょっとオーソドックスとは言えないようなところがあって驚かされました。具体的には、以下の点がユニークです。

①1935年初演版に基づくカットの実施。
②ガーシュウィンの手稿譜に基づく追加の実施。
③このオペラを「ヴォツェック」のアメリカ版と規定。

以上につき、本CDのライナーノートに書かれていることと、実際に私が演奏を聴いて認識したことを踏まえて、それぞれ以下で簡単に触れてみたく思います。

まず①ですが、このアーノンクールの録音は、マゼールの全曲盤ラトルの全曲盤のような「完全全曲版」ではなく、このオペラ初演時に使われた短縮版をベースに、アーノンクールが独自に編集した楽譜が使用されています。例えばオペラ冒頭の序奏の後に、完全全曲版だと「ジャスボ・ブラウン・ブルース」が入るのですが、このアーノンクール盤ではカットされていて、いきなりサマータイムをクララが歌い出しますし、劇の進行にしても、ところどころカットがあり、例えば第1幕後半部の、刑事がロビンズ殺害の聴き込みをするシーンで、ピーターが「クラウンが殺したのを見た」といった途端、その後の刑事とポーギーとの会話を飛ばして、いきなり重要参考人として連行されるといった按配です。

次に②ですが、まず第2幕の前半で、ポーギーとべスの短い会話が挿入されています。CD2の第2トラック、(00:20)以降の部分なのですが、これはガーシュウィンの最終稿にはなく、実際マゼールやラトルの録音にも入っていないものです。もうひとつが第3幕の終盤に収録されている「ノイズのシンフォニー」で、これは1927年にオペラ原作「ポーギー」のステージ監督を務めたルーベン・マムーリアンの要望に基づき、当時ガーシュウィンが作曲した間奏曲で、キャットフィッシュ・ロウの早朝における、町の喧噪の様子がノイズ的に表現されています。

そして③ですが、これについてはライナーノートのP.10以降にアーノンクール自身のコメントが掲載されているのですが、その英文を読むと、まずガーシュウィンがヨーロッパのウィーンに渡ってアルバン・ベルクと会った際に、「ヴォツェック」の総譜のコピーを手渡されたという経緯が述べられ、この「ポーギーとベス」は実はガーシュウィンが、ベルクの「ヴォツェック」から少なからぬ影響を受けて作曲したオペラであるという最新のスコア研究(アメリカの音楽学者クリストファー・レイノルドが2007年に発表)について言及しているのです。

以上、簡単に書きましたが、このうち①については、この録音が演奏会のライヴであることからすると、おそらく聴衆の聴き疲れに配慮したカットと思われますし、②については、独自性を打ち出したいという、ある意味アーノンクールらしい視点の反映とも言えそうですが、いささかマニアックなのも事実で、単に珍しいという以上の意義は薄いようにも思えます。

しかし③の視点については、かなり興味深く思われました。特に「ヴォツェック」というと、私は最近、新国立劇場で舞台を観たばかりなので、なおさらビックリしました。というのも、私は「ポーギーとべス」というオペラが、まさか「ヴォツェック」と関係があるなんて、これまで考えたことがなかったからです。

確かに、両オペラは貧困問題を扱っているという点で、似ているのですが、それでも両オペラを関連付けるには、それぞれの音楽の雰囲気が互いにあまりにもかけ離れているように思うので、そういう連想が私には働かなかったのでした。

それでは、実際ここでアーノンクールが展開している演奏が、聴き手に「ヴォツェック」を強く意識させるような雰囲気を醸し出しているかというと、、これは正直、微妙ですね。

そもそも、このオペラを史上初めて「オペラ」として録音したのがマゼール/クリーヴランド盤で、その流れを引き継ぎつつ、ややブロードウェイ風なムードに引き戻したのがラトル/ロンドン・フィル盤、というのが私の認識なのですが、今回のアーノンクール盤は、マゼールを起点としてラトルと逆方向のベクトルを指向したもの、すなわち表現主義的でシリアスなムードを一層推し進めた雰囲気に傾斜したものと、私には思われました。その限りでは、確かにヴォツェック的な演奏と言えるかもしれません。

しかし同時に、いくらこの「ポーギーとべス」を表現主義的かつシリアスな方向に引き伸ばしていったとしても、かの「ヴォツェック」の地点まで到達させるのは、ちょっと無理なのではないかと私には思えてなりませんでした。言いかえると、ここでの「アメリカのヴォツェック」というコンセプトが、どうも私には聴き終えてあまりしっくり来なかったというのが率直なところです。

したがって、少なくとも私には、必ずしもコンセプト的に成功しているとは言えないような印象も残るのですが、ある種の斬新な問題意識を聴き手に喚起させるという点では、確かに意義のあるコンセプトのように思います。実は気楽に聴くようなオペラではないのだ、というようなアーノンクールの主張自体は、聴いていて良く感じられましたし、そこかしこにおいて、何だか初めて聴くオペラみたいな気がしたのも事実です。

その意味において、このアーノンクール盤は、おそらくファースト・チョイスには向かないのでしょうね。余計な御世話と言われそうですが、例えばマゼールかラトルの録音を耳にしてから聴いた方が、いろいろな意味で面白く聴けるように思います。

内田光子による新ウィーン楽派のピアノ作品集


新ウィーン楽派のピアノ作品集
 内田光子(pf)
 フィリップス 1998年・2000年 468033-2
468033-2

今月リリースされた、マイケル・ティルソン・トーマス指揮のベートーヴェン交響曲全集を今日までに一通り聴きました。それで今日のブログ更新分では、それについて感想を書こうと思っていたのですが、、、

それが残念ながら、私には何を書いたらいいのか、ちょっと見えてこない演奏でした。というより演奏内容に、ほとんど興味が持てなくて、何か感想を書こうという気持ちが湧いてこない、と言った方がいいかもしれません。

そういう次第ですので、今日は予定を変更し、内田光子の演奏するベルクのピアノ・ソナタのCDについて書くことにしました。ちょうど今週、実演を聴いたばかりで、その余韻の覚めないうちが好機ですので。

このディスクは2001年にリリースされたもので、収録曲はすべて新ウィーン楽派のピアノ作品で占められています。まずシェーンベルクのピアノ協奏曲(ブーレーズ指揮クリーヴランド管の伴奏)に始まり、ヴェーベルンのピアノのための変奏曲、シェーンベルクの3つのピアノ曲(作品11)、6つのピアノ小品(作品19)、そしてベルクのピアノ・ソナタ作品1が収録されています。

そして、これらの5曲中でも、私が特に素晴らしいと思うのが最後のベルクのピアノ・ソナタの演奏です。

そのことについては、先日のコンサートの感想の中でも書きましたが、簡単に言いますと、情動と抽象との間の、激しいせめぎ合いの中から生み出される、途方もない表出力が素晴らしいと私には思われるのです。

このソナタは基本的に、現代曲のような曖昧な調性構造と、古典的なソナタの構造とが不可分に同居しているあたりが特殊で、言うなれば昼でもない夜でもない、その中間に佇むような据わりの悪さがあるのですが、内田光子の演奏で聴くと、そういう据わりの悪さよりも、むしろ作品の奥にある深いものに意識が向けられる、といった趣きがあり、少なくとも私にとって、このベルクのソナタが、これほど鮮やかな魅力をもって耳に飛び込んできたのは初めての経験でした。

特に(7:12)でffffのクライマックスを迎えてから、(7:47)で出されるピアニッシモの第2テーマ(の変形)に、音楽が推移するあたりの、情動と抽象との激しい葛藤のドラマは、何度聴いても惚れぼれするばかりです。

このクライマックスの譜面は、以下のように書かれているのですが、このようなリテヌートを伴う、ffffの猛烈な最強打というのは、聴き手にイヤでも情動的なものを強く連想させるものです。
berg1

しかし、そのクライマックスの直後に出される第2テーマは、以下のようにピアニッシモで静謐に書かれていますし、それ以上に、和声の動き自体が伝統的な調性からすると非常に曖昧に書かれています。
berg2

このあたりの表情の振幅の激しさが、このベルクのソナタ特有にして掛け替えのない魅力ではないかと私は思うのですが、そう思い到ったのは、この内田光子盤を耳にしたからこそであり、その理由は、先のコンサートの感想の中で書いた通りです。

そういうわけで、内田光子の演奏するベルクのソナタの実演は、機会があればぜひ聴きたいと思っていたのですが、今週それが叶って、しかも想像以上に演奏が素晴らしかったので満足の極みでした。

こういう風に、ある優れた演奏のCDを聴くことによって、初めて作品自体の魅力に気付いた、開眼したというような経験は、おそらく誰にでもあることではないかと思います。私にとっては、この内田光子盤がベルクのソナタの「開眼盤」でした。

内田光子の1991年サントリーホールでの演奏会のライヴ


内田光子の1991年サントリーホールでの演奏会のライヴ
 内田光子(pf)
 フィリップス 1991年ライヴ PHCP-3464/5
PHCP-34645

さる24日にサントリーホールで聴いた内田光子のピアノ・リサイタルにつき、一昨日その感想を掲載したところですが、その感想の中で、最初に弾かれたモーツァルトのロンドK511に関し、私は「内田光子はこの曲を、83年と91年に録音しているのですが、当夜の演奏は明らかに再録音の方に近い」という風に書きました。

今日は、そのあたりの補足を少しだけ書きたいと思います。

その91年の録音というのが本ディスクで、内田光子が1991年5月にサントリーホールで行ったリサイタルの演奏がライヴ収録されています。この時の演目はオール・モーツァルトで、ピアノ・ソナタ第14番、15番、17番、18番などが弾かれているのですが、その中に「ロンドK511」が含まれています。

これに対し、83年の録音というのは以下のスタジオ録音を指します。

412122-2
モーツァルト ロンドK511、ピアノ・ソナタ第15番・第18番
 内田光子(pf)
 フィリップス 1983年 412122-2

これは内田光子が、ピアニストとしてのキャリアの初期に成し遂げた、モーツァルトのピアノ・ソナタ全集に含まれる録音になります。

以上2つの「ロンドK511」の録音につき、私は今週のコンサートに行く前に耳を通しておいたのですが、少なくとも同じようには弾かれていないという事実を認識しました。というのも、再録音の方が明らかに即興的な揺らぎを意識したような表情の度合いが強く披歴されているからです。

それが良く伺えるのは、例えば中盤に出てくるシチリア風のイ長調のメロディなのですが、再録音の(4:43)から聴かれるメロディは即興的に崩された趣きが強いのに対し、初録音の同一箇所(4:58)から聴かれるメロディは、ほとんど型どおり、スコア通りであり、少なくとも再録音での、崩されたようなフレージングの印象は感じられません。

その少し前、再録音の(3:31)あたりのクレッシェンドにしても、初録音での同一箇所(3:41)あたりと比べると、かなりスピード感が違いますし、他も含めて、全体的に再録音の方が、初録音よりも、演奏が活き活きとしているというか、スコアの制約を必要以上に強調せず、むしろピアニストとしての自由なイマジネーションから来る感興のたゆたいを前面に押し出した表情が形成されているという感じがしますし、演奏全体の訴えかけの強さにしても、初録音よりも一回り高い水準にあると私には思われてなりません。

逆に言うと、初録音は、スコアに誠実で、完成度も高く、その限りで確かに、全体的にモーツァルトに対する深い敬意が露わにされた表現とも言えるように思うのですが、それだけに独自性のある表情造りという点では必ずしも十全とは言い難く、いわば規範的なアプローチの範囲内でベストを尽くした演奏であるように思われます。

以上、一昨日の感想の補足でした。先日聴いた内田光子の実演は、この91年の演奏以上に、独自性というか、ピアニストとしての自我の強さのようなものが、より打ち出された行き方だったのですが、それが却って、モーツァルトの音楽の呼吸に絶妙にフィットするかのようでした。もし今、内田光子がモーツァルトのピアノ・ソナタ全集を再録音したなら、少なくとも前回の全集とは少なからず趣きを異にした、とても奥行きのある演奏になるのではないでしょうか。

内田光子ピアノ・リサイタルの感想


昨日(11/24)のサントリーホール、内田光子ピアノ・リサイタルの感想です。

2009-11-25

最初に弾かれたモーツァルトのロンドK511では、ある程度まで即興的な揺らぎを意識したような独特の表情の付け方が印象的でした。

内田光子はこの曲を83年と91年に録音していますが、当夜の演奏は明らかに再録音の方に近いものでした。それこそモーツァルトに対しての確固たる音楽観が見え隠れするような、凛として迷いの無いフレージングが導出する天衣無縫ともいうべきメロディの動きと、その妙感が素晴らしく、特に曲の後半で弾かれる、あのイ長調の美しいシチリア風メロディなど、CDで聴くよりずっと深い孤独の影が宿ったような含蓄が託されていたように思えましたし、とにかく魅力的なモーツァルトでした。

続いてベルクのピアノ・ソナタが弾かれたのですが、この演奏は圧巻でした。

本来このソナタは、その調性の希薄な構造からすると意外なくらいに感情の動きに則したような情熱的なフレージング構成を備えているので、ピアニストは普通、現代音楽の方向へ引っ張っていくかロマン派の延長線上で捉えるか、という風に考えて、実際その何れかの線に則して演奏されると思われますが、内田光子のそれは、そういう二分法では計れない彼女特有のアプローチに基づき、他のどんなピアニストからも聴けないような表現を、この作品から引き出したのでした。

そのアプローチは、こと造形的な見方からするとアグレッシブなテンポの変化や、鋭い起伏感を伴う強弱の付け方など、明らかにロマン派の延長線上の情動的な行き方に則したものなのですが、その演奏を情動的というには個々のタッチにおいて、あまりにも響きが透明で、音色が澄み切っていて、和音が恐ろしいほどに研ぎ澄まされているので、そこには夢見心地などという雰囲気は薬にしたくもなく、その底知れないほどに繊細なピアニッシモや、強靭を極めたフォルティッシモを耳にすると、とても安易な陶酔や逸楽が入りこむ隙間がなくて、その凛とした響きの佇まい自体が、とても深くて透明な寂しさをさえ聴き手の心に惹起せしめ、ひいては聴き手に対し厳しいまでの精神の覚醒を強要する、そんな趣きの演奏でした。

以上の感覚はCDにおいても伺われるのですが、実演においてはピアニッシモの訴求力などが段違いであることなどにより、その透徹したピアニズムの真価がまざまざと伝わってきて、もう惹き込まれるばかりでしたし、正直このベルク1曲だけでも、もう十分というくらいに素晴らしい演奏でした。

次に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第28番が弾かれたのですが、これも近年リリースされたCDと同様、全体に内田光子のピアニストとしての主観性が強烈に反映された演奏となっていました。

そのCDを初めて聴いた時の私のメモ書きには、「テンポひとつとっても、遅い部分と速い部分のメリハリが際立っているが、それでいてステレオタイプな運用感からは遠く、いわゆる類型的な緩急展開とはなっていない。よって表現の真実味が高く、演奏者の、こう解釈したいという表力な表現意欲が音楽に満ち溢れんばかりだ」とあるのですが、当夜の演奏において、さらに付け足されるべきと思えるのは、CDで聴くよりも遙かに思索的な演奏だったということです。というのも、どのタッチひとつ取っても和声や、その繊細な移り行きを細かく音化することに対する音響的な突き詰めの度合いが尋常でないと思われたからで、これはCDからは窺い知れない類のものでした。

そして、その厳しく律された音楽の流れから不意に意に浮上してくる思索的な感覚が途方もないほどに素晴らしく、それこそ名状しがたいほどの感銘を聴いていて覚えたほどです。ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタには、人を安易に寄せ付けないような深々とした思索が宿っている、ということを、まざまざと思い知らされた演奏と言うべきでしょうか。

そして最後にシューマンの幻想曲が演奏されました。内田光子としては現時点で未録音の曲ですので、どういう解釈が披歴されるか固唾を呑んで聴き入りました。

その印象を一言でいうなら、彼女のピアニズムは概ね直前のベートーヴェンのそれと軌を一にするアプローチであって、安易なロマンティシズムに流れる風ではなく、この曲を彼女独自の思索で表現しようというスタンス、と思えました。

ところが彼女のピアニズムがベートーヴェンの時に勝るほどの集中力と気迫をもって、作品から必死に思索を彫り出そうとすればするほど、そのような意気込みが空回りし作品の方が十分に応えてくれないような、ちぐはぐな印象が聴いていて感じられてなりませんでした。

何故そうなるのか、演奏を聴きながら私なりに考えたところが、おそらく当夜における彼女のピアニズムの、どの音符ひとつにも吟味し尽くされたような打鍵が披歴する音響的な突き詰めの度合いが尋常でないのと、そこから必然的に導かれる思索の深さゆえに、かえって作品自体の底を露呈してしまったのではないかということに思い到りました。

というのも、この幻想曲はシューマンのベートーヴェンに対する深いリスペクトに立脚する作品であって、作風としてもベートーヴェンのピアノ・ソナタのような古典的な構成感と力強さを備えた作品なのですが、ベルクのピアノ・ソナタのような調性感から離れた地点に成立する厳しい抽象の美や、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタのような人を安易に寄せ付けないような深々とした思索とひき比べて見ると、やはり作品自体のキャパシティに物足りなさが否めないように私には思えるからです。そのあたりの、いわば相対的な作品としての限界が、なまじベルクとベートーヴェンの後に演奏されただけに、かえって仮借なく浮き彫りにされてしまい、演奏自体の素晴らしい充実感と裏腹に聴いていて感銘がいまひとつ伸びてこないという結果に帰着したのではないかというのが私なりの考えです。

とはいえ、これを純粋にシューマンの演奏として耳を傾けるなら、そのピアニッシモはたとえようもないほどに禁欲的な美しさを醸し、全体を包み込む柔らかい詩味も形容のしようもないほどでしたし、その意味では素晴らしい演奏内容でした。ベルクとベートーヴェンの後でなければ、また印象が変わってきたかもしれませんし、当夜は私もベルクとベートーヴェンのソナタで大きく心の動いた後だっただけに以上のような感想を抱いてしまったのかもしれません。

当夜の公演プログラムを読むと、内田光子のプロフィールの中に「シューマンのソロ・ピアノ作品の録音プロジェクトも予定されている」とあるので、この幻想曲も近いうちに録音されるのではないかと思うのですが、その場合はあらためて虚心坦懐に耳を通してみたいと思っています。

以上、いろいろ書いているうちに長くなってしまいましたが、当夜における内田光子のリサイタルは、どの演奏ひとつ取っても聴いていて何らかの啓示があり、作品を再現する意義というものを圧倒的に感じさせるものでした。表情の新鮮さにハッとさせられたモーツァルト、最も心が震えたベルク、思索性に打たれたベートーヴェン、そしてベートーヴェンの思索性を、可能な限り引き継がせようという果敢な意欲の滲むシューマン。

アンコールの2曲も含めて掛け替えのないピアニズムでしたし、現在の内田光子が真に世界に誇り得る数少ない日本人ピアニストのひとりであるという事実を、改めて強く認識させられました。彼女の今後の活躍にも、大いに期待を寄せたいと思います。

内田光子のピアノ・リサイタル(サントリーホール11/24)


今日はサントリーホールで内田光子のピアノ・リサイタルを聴いてきました。

2009-11-24

演目は以下の通りです。
①モーツァルト ロンドK511
②ベルク ピアノ・ソナタ
③ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第28番
④シューマン 幻想曲
(以下、アンコール)
⑤シューベルト 即興曲OP.90-3
⑥モーツァルト ピアノソナタK310より第2楽章

私としては、特に②と③を目当てに、ホールに足を運びました。というのも、両曲とも内田光子は既にCD録音済みの作品なのですが、いずれも本当に素晴らしいと思える演奏内容なので、それらが実演にかかる以上、万難を排しても聴きに行きたいと思っていたからです。

そして、今日耳にした内田光子の実演は、①も含めて、やはりCDで聴くよりも一味もふた味も違う印象を受けました。とりわけ弱音のリアリティと、その表出力が段違いで、聴いていて高揚が胸に込み上げてくる瞬間というのがCDよりずっと多くて、惹き込まれっぱなしというような、本当に素敵な演奏でした。

しかし④に関しては、どうしたことか聴いていて、意外に感銘が伸びなかったというのが率直な印象です。彼女のピアニズムは、明らかに②や③に輪をかけて冴えていると思われたのですが、おそらく問題の所在は、、、

そのあたりも含めて、感想は改めて後日に。

ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツによるバッハのブランデンブルク協奏曲全集


J.S.バッハ ブランデンブルク協奏曲全集
 ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
 ソリ・デオ・グローリア 2009年ライヴ SDG707
SDG707

今月リリースされた、ジョン・エリオット・ガーディナー率いるイングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏による、バッハのブランデンブルク協奏曲全集を聴きました。

イングリッシュ・バロック・ソロイスツはマタイ受難曲、ロ短調ミサ、管弦楽組曲全集といったバッハの主要作品を、かつてガーディナーの指揮によりアルヒーフに録音していますが、ブランデンブルク協奏曲は録音していませんでした。今回のリリースは満を持して、というところでしょうか。

そのあたりの興味もあり、聴く前にライナーノートをひと通り読んだのですが、それによると演奏形態が一風変わっていて、6曲の協奏曲のうち、ガーディナーが指揮をしている曲は第1と第2の協奏曲のみであり、残りの4曲は指揮者を置かずに演奏されている(そして、その演奏をガーディナーは客席で聴衆と一緒に聴いていた)と書かれています。

その理由としては、この協奏曲集の演奏には基本的に指揮者は要らないとガーディナーが考えていること、ただ、第1と第2の協奏曲については、編成が大きいので、響きのバランスをコントロールするために指揮者を置く方が好ましいという風に考えていることが述べられています。

さらにガーディナーのコメントで興味を惹くことに、彼はこの協奏曲集を本質的にダンス音楽であると規定したうえで、「ジャズ、ロックンロールにすら匹敵する音楽である」とまで述べているのです。

以上を踏まえて、いざ聴いてみると、確かになるほど、と思わせるような感じのする演奏ですね。協奏曲第1番のホルンや第2番のトランペットの爽快な鳴りっぷりは、何となくジャズ演奏を思わせる雰囲気を充分に満たしていますし、ザクザクとした弦のリズムの切れ味も素晴らしく、さすがにロックンロールとまでいうには厳しいとしても、とにかく聴いていて胸のすくような、快適で、気持のいい演奏で、フレージングのそこかしこに、洗練されたバロック・アンサンブルならではのウィットな妙感が充溢しています。

しかし、ひと通り聴いて少し気になったのは、指揮者を置いた第1と第2の協奏曲と、それ以外の4曲の協奏曲との、表情の強さに、やや落差があるように思われた点です。というのも、私が聴いた限りでは、全6曲のうち、どうも指揮者ありの第1・第2協奏曲の方が、指揮者なしの他4曲と比べて、ひとまわり演奏が活き活きとしているように思われるからです。

つまり、第1・第2協奏曲ではホルンやトランペットの痛快なまでに闊達な吹き回しを中心に、それこそ表情が冴えわたっているのですが、それに比べると残り4曲はおしなべて表情が穏健で、音楽の生彩としても最初の2曲の域からすると少し聴き劣りがする印象を受けます。

とはいえ、聴き劣るといってもあくまで第1・第2協奏曲と比べての話であり、いずれも退屈からは程遠い演奏であることは言うまでもないですし、むしろ、指揮者なしのピリオドアンサンブルが、これほど技術的に安定無比な演奏を成し遂げられるという成果自体に目を向けるべきなのかもしれません。

いずれにしても、ピリオドアンサンブルによるバッハ演奏が既に成熟期にある現在において、むしろ成熟を拒んだようなコンセプトに基づく、これほどに溌剌としたバッハを耳にすることができるのは一つの福音のように思えます。久しぶりに、ブランデンブルク協奏曲のフレッシュな演奏を満喫しました。

新国立劇場のベルク「ヴォツェック」の感想


昨日(11/21)の新国立劇場、ベルク「ヴォツェック」の感想です。

まず演出の印象から書きます。本公演はバイエルン州立歌劇場との共同制作によるものだそうで、同歌劇場において昨年の11月に上演された「ヴォツェック」の演出がそのままの形で用いられているとのことでした。

ドイツの演出家アンドレアス・クリーゲンブルクの手による演出で、その強烈な舞台場景には確かに率直に圧倒させられるものがありましたし、その意味では称賛に値する演出だと思うのですが、いくつか引っ掛かりも感じました。

演出全体の印象を一言でいうなら、このオペラの残酷な側面、つまりヴォツェックとその家族に対する、周囲の人々の悪意が、えげつないまでに剥き出しに描かれた舞台、という感じでしょうか。これは確かに観ていておぞましい印象を受けましたし、人によってはそれこそ吐き気を催すというくらいのものではないかと思われるほどでした。第2幕のラストで、ヴォツェックが鼓手長に打ちのめされた後、周囲の兵隊たちからも殴る蹴るのリンチを受ける、第3幕のラストで、ヴォツェックの息子に両親の死を告げた子供たちが、息子に寄ってたかって石を投げつける、、、まあ何とも酷いものでした。

このあたりのコンセプトは実に徹底されていて、観た目においても、ヴォツェックとその家族以外のすべての登場人物には不気味な化粧が施されていましたし、大尉と医者に到っては、とても人間とは思えないような奇矯な外観が与えられていて、むしろ理性を失いつつあるはずのヴォツェックの方が、まともな人間に見えるように仕向けているのか、とさえ思われるくらいでした。

このあたりが、実は私が観ていて少し引っ掛かった点でした。というのも、そもそも周囲の人物のスタイルがあまりに誇張され過ぎて、かえってマンガみたいになってしまい、むしろ現実感を低めているように見えましたし、それ以上に、ヴォツェックが必要以上に「まとも」に見えてしまうようなバランスに違和感を覚えたからです。

そもそも悪いのは社会の方で、ヴォツェックは被害者だ、悪くない、なんていう主張はもちろん的外れですが、それは例の秋葉原連続殺傷事件などを思い浮かべれば明白なように、いくら周囲から迫害されていても、殺人自体を正当化することには一切ならないからですね。それがどうも「ヴォツェックがまともでない」という演出上の視点というか工夫が、観ていてあまり感じられなかったので、バランス的にどうなんだろうという疑問を、ちょっと抱いたのでした。

舞台上の全面に張られた水も、また演出における大きな特徴となっていましたが、これについては公演プログラムに演出家のコメントが記載されています。いわく「水のぴちゃぴちゃという音」を「自然の音による伴奏」と規定した上で、「至高の芸術である音楽に対して、それとは違う音を対抗させたかった」と述べています。

そのアイディア自体は確かに新鮮で、観ていて実直に感心させられました。ただ、少し気になったのは、その水のぴちゃぴちゃいう音が時として、せっかくのオーケストラの響きを無粋にかき消してしまったことですね。例えば第3幕の終盤、ヴォツェックが溺死した後に奏でられるインヴェンションのシーンで、その最強奏を過ぎて響きがピアニシモに沈静していこうとする時、いきなり子供たちが水をぴちゃぴちゃさせながら一斉に飛び出してくるので、肝心の音楽がはっきり聴こえない、など。

というように、幾ばくかの疑問も残る演出だったのですが、何しろ見応えのある舞台でしたし、その点では観ていて十分に満足のいくものでした。「ヴォツェック」という異常な雰囲気の強いオペラに対し、「異常には異常をもって対抗する」という発想自体は正鵠を射たものだと思いますし、その旺盛な表現意欲といい、全体的にはかなり好感の持てる演出であったように思います。

ヴォツェック役トーマス・ヨハネス・マイヤー:
ヨハネス・マイヤーは、今年9月のミラノ・スカラ座来日公演のヴェルディ「ドン・カルロ」で、本来ロドリーゴを歌う予定だったところを、体調不良で来日キャンセルしていますね。それで私が観た公演では、代わりにダリボール・イェニスがロドリーゴを歌うはめになったのですが、そんなこともあり、今回は大丈夫かなと思っていたら、どうやら無事、大役を果たしました。さしずめ休養十分というところでしょうか。かなり良かったと思います。ヴォツェックは難しい役柄ですので、欲を言えばそれこそキリもないですが、全体に良く声が通っていましたし、後半から終盤あたりで人格的異常に拍車が掛かるあたりも、まさに迫真の表現というべきで、観ていて思わずゾクゾクするくらい、のっぴきならない雰囲気が良く表現されていました。

マリー役ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン:
歌唱力、演技力ともに高水準(第1幕の第3場で、意味不明な話をするヴォツェックに「フラ~ンツ」と叫ぶあたりの絶望的なニュアンスなど、すごく良かった)なのですが、惜しむらくは全体に高音の伸びが突き抜け切らない点です。特に第2幕1場ラストで絶叫する、マリー最高の決めセリフ「この世の人間すべてが地獄に落ちればいい」がいまひとつでした。ここは音域が明らかにソプラノ歌手向きで、メゾにはキツいですね。やはり、マリーはメゾ・ソプラノよりソプラノ歌手の方が合うように思います。

ヘンヒェン指揮による東京フィルの演奏:
最初のうちは木管の音色にギラッとした強さが希薄だったり、トッティで響きが必要以上に丸っこかったりと、聴いていて正直あまり感心しなかったのですが、中盤以降は見違えるほどに良くなりましたね。特に終盤に関しては文句なしで、もう惹き込まれるばかりでした。ひんやりとしたアンサンブルの放つ音楽の虚無的な緊張感は、耽美な音彩の向こう側に潜んでいるカタストロフの恐怖を、そしてそれが終盤に加速度的に増していく様を、まざまざと表現しているように思えましたし、ここぞという時の破滅的な最強奏の凄味も素晴らしく、特に終盤のインヴェンションでの表出力は抜群で、聴いていて激しく心揺さぶられるものでした。

それだけに気になったのが、最弱奏で聴こえる前述の水のぴちゃぴちゃ音で、このせいで本来ピアニッシモの緊張感により導かれるはずの音楽自体の恐怖感が、それなりに薄められているような気がして、ちょっと勿体ないと思いました。

新国立劇場のベルク「ヴォツェック」(11/21)


今日は新国立劇場で、ベルクの歌劇「ヴォツェック」を観ました。

2009-11-21

指揮はハルトムート・ヘンヒェン、オケは東京フィルハーモニー交響楽団。主要キャストは以下の通りです。

ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー
マリー:ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン
鼓手長:エンドリック・ヴォトリッヒ
アンドレス:高野二郎
大尉:フォルカー・フォーゲル
医者:妻屋秀和

「ヴォツェック」は、新国立劇場では1997年の開場以来、今まで一度も上演に掛かっていなかった演目なのですが、このオペラは20世紀最高のオペラのひとつとして評価されている作品であり、本来もっと早く上演に掛かって然るべきでしょうね。

それだけ需要が少ない、ということなのでしょうか。まさか、最近のような、殊更に貧困問題の深刻化が叫ばれる状況が到来するのを、虎視眈々と伺っていたとか、いうこともないでしょうし、、、

今日の公演ですが、なかなか見応えがありました。特に演出は、かなり強烈でしたね。情け容赦の無い、非情を極めたような演出。観ていて正直、そこまでするか、というくらいなものでしたが、このオペラの残酷な側面を、えげつないまでに剥き出しにせしめたという点では、まあ大成功でしょう。

そして公演を観終えて、ある小説の一節が私の脳裏に浮かびました。夏目漱石「虞美人草」の中の、以下のくだりです。

「道義に重(おもき)を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。欺(あざむ)く。嘲弄(ちょうろう)する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受(きょうじゅ)し得るが故に――喜劇の進歩は底止(ていし)するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下(くだ)る。 
 道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄(みだ)りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外(はず)して、死の圜内(けんない)に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌(い)み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫(えいごう)の陥穽(かんせい)なる事を知る。陥穽の周囲に朽(く)ちかかる道義の縄は妄(みだ)りに飛び超(こ)ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」

(尚、上記テクストはインターネット図書館の青空文庫からコピー&ペーストさせていただきました)

漱石流に言うなら、「ヴォツェック」というオペラは最も偉大な悲劇ということになるかもしれないですね。

今日の公演の感想は、改めて後日に。

アムランとタカーチ四重奏団の初共演によるシューマンの室内楽アルバム


シューマン 弦楽四重奏曲第3番、ピアノ五重奏曲
 アムラン(pf) タカーチ四重奏団
 ハイペリオン 2009年 CDA67631
CDA67631

ハイペリオンから先般リリースされた、タカーチ四重奏団の演奏によるシューマンの室内楽アルバムを聴きました。

シューマンの弦楽四重奏曲第3番とピアノ五重奏曲を組み合わせた内容ですが、ピアノ五重奏曲ではピアノ・ソロを、現代屈指のヴィルトゥオーソピアニスト、マルク=アンドレ・アムランが務めていて、アムランとタカーチ四重奏団という豪華な共演が実現されているのが興味を惹きます。

聴いてみると、最初の弦楽四重奏曲第3番においては、全編において安定した構成感からシューマンならではの幻想的な詩味や叙情性が曖昧なく披歴されていて、聴き進むほどに、その演奏の深い味わいが心に沁み入ってくる思いでした。

「幻想的」なのに「曖昧なく」というのは矛盾のようですが、キリッと音像を構成すればするほど、シューマンの音楽の根底に潜んでいる漠とした幻想性、いわばロマン派の情念のようなものが、音楽の表面に立ち現われるというような、そんな感覚ですね。ここぞという時の内燃的なパッションのほとばしりも素晴らしく、ハンガリーの団体でありながら、ドイツものを演奏させたら当代随一のカルテットとも言われる、タカーチ四重奏団の実力がいかんなく発揮された演奏だと思いますし、ブリストルのセント・ジョージ教会のまろやかな残響特性にしても、ここでのシューマンの音楽の性格を考えると、おそらく絶妙ではないでしょうか。

続くピアノ五重奏曲ですが、これがまた素晴らしく、その立役者は何といってもアムランのピアノ・ソロです。

ここでのアムランのピアニズムは、持ち前の超絶技巧を存分に駆使しながら、シューマンの想定する複雑なピアノの書式に対して何らの曖昧さも残さず、この上ない明晰性でバリバリと音化していきます。明晰に音化すればするぼどシューマンの幻想的詩味が増すというあたりは、まさに先の弦楽四重奏曲第3番と同じ図式であり、その意味では弦楽カルテットとソロの方向性は軌を一にしたものですし、両者の息もピタリとあっていて申し分がありません。

しかし、それ以上に私がこの演奏を素晴らしいと感じるのは、全編においてアムランのソロに闊達な訴求力が漲っていて、それが聴いていて痛快極まりないからです。

この点、私は今年の春先にリリースされた、アムラン初のショパン・アルバムを耳にした時、その感想として、その演奏技術の凄さに感心しつつも、「このピアニストでなければまず聴けないというような主観的な色付けを伴う表出力の化体の度合いが、このアムランのショパンには相対的に乏しい印象が否めず、そのため圧倒的な技術力のわりには、いまひとつ胸に迫り切らないような煮え切らなさが残ってしまった」と書いたのですが、要するにテクニック以外の主観的な色付けを伴う表出力の化体の度合いが希薄と思えた点が不満だったのでした。

それが今回のシューマンでは、スタンスがかなり変化しています。例えば、第1楽章の冒頭でメインのテーマがピアノ・ソロにより強奏提示されるところ、ここをアムランは渾身の力を込めた最強奏で弾き出し、初手から音楽に対する並々ならない意気込みを披露するのですが、ここは実は、スコア上は音量がf1つとなっていて、普通はこれほど大胆な打ち込みはしないところです。しかしアムランはそんなこと構うかとばかりにフォルテッシモで出します。

そうすると、この同じテーマが再現部のアタマでf2つの音量で提示される段ではどうするのかと思って聴いていると、その段(6:12)においては、やはり冒頭と同じくらいの強烈さで押し切っています。つまり明らかにダイナミックレンジを本来のシューマンの指定よりも拡張し、たとえf1つであろうと自分がフォルテッシモだと「感じる」ところでは自分の感性を優先してフォルテッシモを付与している、そんな主観的な演奏スタンスが伺われるのです。

以上は一例に過ぎず、このシューマンにおいてはアムランならではの主観的な色付けが随所に聴かれ、それが技術一辺倒でない、根元的な表出力に昇華されたような趣きが強く、タカーチ四重奏団という強力なバックアップを得て、聴いていて音楽が痛切に胸に迫ってくるような表情の強さとして結実されている、そんな感じがします。

それにしても、仮にアムランがこれほどの表現力を完璧に備えたとなると、テクニックが無上であるだけに、それこそ鬼に金棒どころの騒ぎではないと思うのですが、この演奏はタカーチ四重奏団との初共演という要因からくる変異的なものである可能性も、また拭いきれないように思うので、今後も同じ顔合わせでの共演が継続リリースされるか否かは分かりませんが、いずれにしても今後の動きに注目してみたいと思います。

パリー/ロンドン・フィルによるR・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」ハイライト盤


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に21枚まで掲載しているのですが、続いてCD22を聴きました。

ANNI-22
R・シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」ハイライト
 パリー/ロンドン・フィル
 1998年録音

これはデヴィッド・パリー指揮ロンドン・フィルハーモニックの演奏によるリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」ハイライトで、オペラ全曲のうち以下の5つのシーンが収録されています。

①前奏曲と第1幕冒頭のシーン(マルシャリンとオクタヴィアンの朝の二重唱)
②第1幕終盤のシーン(オックス退出の直後から終幕まで)
③第2幕冒頭のシーン(開幕からゾフィーとオクタヴィアンの出会いの二重唱まで)
④第2幕終盤のシーン(オクタヴィアンとオックスの決闘の直後から終幕まで)
⑤第3幕終盤のシーン(オックスが退場する場面から終幕まで)

また、歌唱には原語(ドイツ語)ではなく英語が使われています。ディスクのジャケットには英語歌唱とは書かれていないため、最初オクタヴィアンが英語で歌い出すのを聴いて少々面喰らいました。

印象的には、やはり英語歌唱という点が良くも悪くも独特ですね。それがこのディスクの聴きものということにもなるようですが、、

率直に言うと、やはり原語歌唱に比べると聴いていて音楽の雰囲気として違和感を覚える部分が少なからずで、特にドイツ語特有の濃密な耳当たりが、英語に置換されたことでなんとなく軽く感じられてしまい、ここぞという時の歌唱高揚力が伸び切らない物足りなさがあります。

ただ局所的には、ある程度聴き慣れている原語歌唱と比べて新鮮に響くシーンもあります。例えば第1幕終盤のマルシャリンのモノローグ、「時は不思議なもの」のところを“time is a mysterious thing....”と歌い出すあたりの英語ならではの美しいニュアンスなどは、聴いていて思わずハッとさせられるものでした。

このように部分的に聴くとフレッシュな局面もあるものの、全体としては違和感の方が勝る、という按配で、その意味では全曲録音でなくハイライト録音として正解だったかもしれないですね。

主要キャストはマルシャリンがイヴォンヌ・ケニー、オクタヴィアンがダイアナ・モンタギュー、オックスがジョン・トムリンソン、ゾフィーがローズマリー・ジョシュア。いずれも歌唱力は申し分ないと思うんですが、やはり英語歌唱のためか、全体に発声が軽く、ある種の(リヒャルト的?)濃密さに不足する印象を拭えないように思います。

ヨーヨー・マとマゼール/ベルリン・フィルによるドヴォルザークのチェロ協奏曲


ドヴォルザーク チェロ協奏曲、森の静けさ、ロンド作品94
 ヨーヨー・マ(vc) マゼール/ベルリン・フィル
 ソニー・クラシカル 1986年 SRCR2675
SRCR2675

私は先週、サントリーホールでバイエルン放送交響楽団の来日公演を聴き、そこでヨーヨー・マ独奏のドヴォルザーク・チェロ協奏曲の実演に接し、ひとかたならぬ感銘を受けたのですが、その余韻がまだ冷めないうちとばかりに、ヨーヨー・マが初めて録音したドボコンのCDを久しぶりに聴いてみました。ここでの伴奏はロリン・マゼール指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団です。

これは既に世評の高い録音ですし、私などが演奏について今更何か言うこともないのかも知れないですが、マゼールの展開するスロー・テンポの上で、若き日のヨーヨー・マが繰り出す会心のチェロ独奏の切れ味が素晴らしく、演奏全体の充実感も惚れぼれするばかりですね。ドボコンの多くの録音中でも特筆すべき名演でしょう。

ですが、先週ヨーヨー・マの実演を耳にした上で、このCDを改めて聴いてみると、やはりチェロの対オーケストラバランスが、やや不自然な感じに映りました。

もちろんそれは実演を基準とした上での不自然さなので、CD録音としては全く標準的なバランスなのですが、ここでのベルリン・フィルが表出する響きの、破格なくらいの恰幅の良さと、圧倒的な重厚感に対し、ヨーヨー・マのソロががっぷり4つに受け止めているように聴こえるのは、やはり録音のマジックなのだなと聴いていて思わざるを得ません。

とはいえ、それは別に深く突っ込むような話でもなくて、実演は実演、CDはCDと切り離して捉えればすむことですし、普通は誰でもそういう感覚で聴いているものだと思います。

それよりも、私が今回このヨーヨー・マのドボコン初録音を聴き、それを先週の実演での印象とひき比べて興味深く思ったのは、ボウイング表情の違いに関してです。確かに本CDにおけるヨーヨー・マのソロ演奏は、凄いのですが、実演での呆気に取られんばかりだった、あの変幻自在ともいうべきボウイングの変わり身という点においては大人しくて、ひいては物足りない気がしたのでした。

そして、実演で聴かれたボウイング表情の多彩感という点においては、この初録音よりも、むしろ再録音盤の方に強く出ているのではないかと思い、そちらも聴いてみたのですが、やはりそうで、ことヨーヨー・マのソロ表情に関しては、初録音盤よりもマズア/ニューヨーク・フィルとの再録音盤の方に、先週の実演と明らかに近しい雰囲気が感じられました。

SRCR2675-2
左が初録音盤、右が再録音盤です。

ヨーヨー・マが録音したドボコンは現在、上記の2種のみですが、この両演奏におけるコンセプトの違いを、ヨーヨー・マ自身が述べたくだりが、再録音盤のライナーノートに掲載されています。

それによると、彼は新録音では初録音の演奏よりも「旋律の下にあるものを重視した」と述べているのですが、まず「ドヴォルザークを他の作曲家と隔てているもの」を「信じられないようなリズムの変化の発明」にあると規定した上で、「旋律の下にはリズムの絶対的な秩序がある」ことを発見し、10年前の自分だったら旋律を歌うことをとにかく重視したのに、今ではメロディの下にあるものを掬い出すことにより、この作品をさらに美しく聴かせたい、と述べています。

それでは、演奏もそうなっているのかと言うと、これは確かにそうなっていることが分かります。例えば第1楽章のソロ提示部の冒頭で、あの有名な主題をソロが出すところのボウイングを、両盤で対比すると、初録音盤ではかなりメロディアスにゆっくりと弾き出しているのに対し、新録音盤では勢いよく雪崩れ込むように弾き出しつつ、メロディの流れよりもリズム感を強く押し出したボウイングを披歴していることが、はっきりと伺われます。

おそらく初録音においては、大家マゼールの提供する伴奏のワクが、良くも悪くもヨーヨー・マのソロの方向性を規定していたのではないかと思われます。というのも、あの異様に遅いテンポでは、リズミカルに弾こうと思っても自ずと限界があるからで、逆に新録音だと、メロディにリズムを交えたボウイングの切り分けが、よりはっきりと打ち出されている感じがします。

この意味において、先週の実演でヨーヨー・マが披露した千変万化のボウイングの妙に近いのは、明らかに新録音だと思うのですが、それでは新録音と同じかと言うと、これがまた違っていて、実演ではさらに音色自体の魅力がぐっと深化していたように私には思われてなりません。つまり、先週の実演を踏まえた上で、改めてヨーヨー・マの2つの録音を耳にしてみると、何だかヨーヨー・マの、このドヴォルザークのチェロ協奏曲という巨大な作品に対する演奏スタンスの進化の過程が、うっすらと見えてくるような気がしたのでした。

ヨーヨー・マは、特に21世紀に入ってから新譜リリースの頻度がグッと減っていて、それもクロスオーバー的な演目にかなりシフトしているように思うのですが、例えばベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集とか、バッハの無伴奏チェロ、あるいはドボコンなど、いずれも今現在もし再録音したなら、旧盤とはまた一味もふた味も異なる名演に結実するのではないかと、そんな予感が私には有ります。

多分そのうちに出てくると思っているのですが、そういう状態がもう何年も続いているので、少し気になりますね。

ヤンソンス/バイエルン放送響によるチャイコフスキーの交響曲第5番


チャイコフスキー 交響曲第5番
 ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団
 BrKlassik 2009年ライヴ 900104
900104

マリス・ヤンソンスがバイエルン放送交響楽団を指揮した、チャイコフスキー交響曲第5番のCDを聴きました。

これは先週、サントリーホールで購入したディスクなのですが、本来なら今月の下旬にリリースされるところを、ホールで先行的に販売されていたものです。

収録の演奏は今年の10月9日、ミュンヘン・ガスタイクのフィルハーモニーでの演奏会のライヴですので、かなりのスピードリリースになりますね。

ところでヤンソンス指揮のチャイコフスキー交響曲第5番のディスクには、既にオスロ・フィルとの有名な録音があるのですが、そのオスロ・フィル盤は、ちょうど私が今聴き進めている「シャンドス30周年BOX」収録盤の中に含まれていますので、この機会に聴き比べてみました。

900104-2
左が今回リリースの新譜、右がシャンドスの旧録音です。

まず今回の新譜を聴いてみると、全体的に遅めの安定感のあるテンポを持続させた、重量級のアンサンブル展開が素晴らしく、その圧倒的なダイナミック・レンジといい、バイエルン放送響のアンサンブルのズシリとしたバスのふくよかな量感といい、強奏時の圧し掛かるようなトッティの凄い質量感といい、すこぶる聴き応えのある、まさに重厚な感触のチャイコフスキーが披歴されています。

もっとも、これは聴く前からある程度予想された範囲の演奏であることも事実で、先日聴いた同じ顔合わせでのブルックナーの7番のCDや、先週の来日公演での実演の様子から、このチャイコフスキーもおそらくこういう感じだろうという私のイメージに、概ね沿った内容でした。

したがって、そのブル7のCDや先週の実演を聴いて感じた疑問点を、ここでも同程度に感じたのでした。つまり、ヤンソンスとしての主体的な表現付けがおしなべて大人しいという側面です。

続いて、オスロ・フィルとのシャンドス盤を聴いてみたのですが、こちらの演奏では、全体的に基調テンポがバイエルン放送響盤よりもひとまわり速くて、表情もずっとアグレッシブであり、響きの重厚感やアンサンブルの立体感などでは新譜に及ばないとしても、こちらの旧譜のほうが色彩的などぎつさやフレージングの鋭角性などが冴えている感じがあり、ひいては、ヤンソンスの能動的な表情形成の個性感が、よりくっきりと刻印されているような印象を聴いていて感じました。

つまり双方の演奏とも、ある面では素晴らしいのですが、ある面では物足りなくて、その足りない部分というのを各演奏がどうも相互に補完的に備えている関係にあるような、そんな気がします。

なぜそうなるのかについては、よく分りませんが、ヤンソンスがバイエルン放送響の統率自体に集中力を要し過ぎて、オスロ・フィルでの演奏で聴かせたような際立った個性感を演奏に付帯する余裕がないのかも知れないですし、あるいはバイエルン放送響のオケとしてのカラーを踏まえて、敢えてオスロ・フィルより穏健な表情形成を選択しているのかも知れません。

以上、このチャイコフスキーは名演だと思うのですが、それだけに惜しいなという気持ちも含めて、結論としては先週掲載したブル7のCDと、概ね同じ地点に落ち着いたなというのが率直な感想です。

バレンボイム/ベルリン・シュターツカペレによるベルクの歌劇「ヴォツェック」全曲


ベルク 歌劇「ヴォツェック」全曲
 バレンボイム/ベルリン・シュターツカペレ
 テルデック 1994年ライヴ WPCS-5649/50
WPCS-5649-50

ベルクの歌劇「ヴォツェック」につき、先週のケーゲル/ライプツィヒ放送響の全曲盤に続いて、今日はダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレの演奏による全曲盤を聴きました。

これは1994年4月のベルリン国立歌劇場での上演のライヴ録音で、ヴォツェックにはフランツ・グルントヘーバー、マリーにはヴァルトラウト・マイヤーが配されています。

このバレンボイム盤は世評も高くて、このオペラの全曲盤としては往年のベーム盤に代わる現在のスタンダードとして位置づけられる録音のようですので、私もこの機会にじっくり耳を傾けてみました。

全体を聴いての印象ですが、オケ・歌手・音質、ともにかなり高いレベルでまとまっているという感じがします。特に外題役のグルントヘーバーが出色で、前半あたりは抑制を効かせて、ヴォツェックの鬱屈した心情をリアルな息づかいで表現するのですが、ストーリーが後半に進むに従い、徐々にヴォツェックの人間性が破壊されていく様が、抜き差しならないまでの迫真さで描き出されていて、終盤あたりなど聴いていて身の毛もよだつというのか、とにかく壮絶なまでの歌唱ぶりです。

こういう歌唱を耳にすると、やはりヴォツェックという役柄には、ある種特有の適性が要求されるような気がしますね。ワーグナー歌手のカラーとは明らかに違う、さりとてドイツ・オペラとしての様式において、ヴェルディ・バリトンにも務まらない、なかなか難しいですが、その意味において、このバレンボイム盤に聴くグルントヘーバーのヴォツェックは、そのひとつの理想形を示していると言えるのではないでしょうか。

対してマリー役のヴァルトラウト・マイヤーは、確かに張りと艶を兼ね備えた見事な歌唱を披歴しているのですが、高音域に弱さがあり、肝心なところで突き抜け切らないなという印象を感じます。それは本来メゾ・ソプラノのマイヤーがソプラノ歌手向けのマリーを歌う以上、必然的とも思えるのですが、歌唱自体は立派なだけに、惜しいと思いました。

バレンボイム指揮するベルリン・シュターツカペレの演奏は、精緻さと大胆さを兼ね備えた表現、というべきでしょうか。ここでの全幕の演奏タイムは95分ですが、先週のケーゲルの全曲盤では85分ですから、平均テンポはケーゲル盤よりも遅めということになります。しかし聴いていると、速いところは相当に速いので、要するに緩急のレンジを大きく設定した、起伏感の豊かなオーケストラ・ドライブであると言えるでしょう。緩やかな速度の場面ではベルクの精妙なテクスチャの綾を解きほぐすかのような繊細な音を出すかと思うと、速いテンポの場面ではオケを激しく煽ってアグレッシブに攻め立てる、そんな強度なメリハリが聴いていて確かに魅力的です。ただ、それは同時に諸刃の剣ともなる危うさも孕んでいるような気もします。

というのも、こういう様式のオーケストラ・ドライブはワーグナーには合うと思うのですが、このオペラには必ずしも合わないような感じが聴いていて付きまとうからです。つまり緩急を効かせてドラマティックな振幅を強調するよりは、むしろ緩急を殺して淡々と歩を刻む方が、かえって音響的な凄味が増幅するように思えるからで、例えば先週聴いたケーゲル盤のような即物的なテンポの方が、このオペラには合うのではないかと私には思われます。

実際、このバレンボイム盤とケーゲル盤とでオケの響きを比べてみると、ケーゲル盤の方が音楽としての苦味の色合いというか、それこそ地獄の底でうめくような絶望的な響きの感触が強くあるのに対し、バレンボイム盤の方は、確かに聴かせどころでのパワフルな迫力には途方もないものがあるのですが、アンサンブルの響きの洗練度が強いぶんだけ、そういうドス黒いまでの音響的な凄味が、相対的に薄くなっている憾みがあります。

以上、私の印象として、このバレンボイム盤はヴォツェックを歌うグルントヘーバーの歌唱の素晴らしさに対し、バレンボイムのオーケストラ展開にはいまひとつの疑問が残るものでした。音質が非常に良いだけに、惜しいのですが、それでもオケ・歌手・音質の際立ったバランスの良さにおいて、これは確かにハイレベルの充足感を有する、現代の「ヴォツェック」屈指の録音のひとつだと実感させられるものでした。

バイエルン放送交響楽団来日公演の感想(後半のワーグナーについて)


一昨日のサントリーホール、バイエルン放送交響楽団来日公演の感想の続きですが今回はコンサート後半に演奏されたワーグナーについてです。オーケストラ配置は前半と同じシフトでしたが編成は16型に拡大されました。

まずタンホイザー序曲で始まりましたが、ややリミッターの掛かったような前半のドボコン(それでも十分に厚ぼったくて重量級でしたが)での鳴りとひき比べても見違えるばかりのズシリとした質感とギッシリとした密度感、それに法外なまでにダイナミックな音響的迫力が披歴され、いきなり度肝を抜かされました。

まさにワーグナーこそ我らが本領と言わんばかりに水際立ったアンサンブル展開から繰り広げられる、重厚壮麗を極めたような響きがホールを満たし、続くジークフリートのラインへの旅と葬送行進曲(ホルンの豪快なこと!)、ワルキューレの騎行(トランペットの濃厚な鳴りっぷり!)、そしてアンコールのローエングリン第3幕への前奏曲(勇壮無比なトロンボーン!)まで含め、このオーケストラにはそれこそワーグナーの精神が宿っているのかとまで思われた瞬間が何度あったかと思うくらいでした。

そして、この演奏はひとえにヤンソンスの練達の指揮とオーケストラの並はずれたポテンシャルとから必然的に導かれた結果なのだなという認識に到りました。まずはオケの配置パターン(ヴィオラがステージ向かって右の客席正面側に置かれた)ですが、この配置の狙いというのはヴィオラを重視すること、いわば内声重視かつ中音域重視にあると考えられますが、私が当夜のワーグナーを聴いて感心させられた特徴のひとつがまさにそれで、いわば異常なまでの内声の浮き上がりぶりと中音域の圧倒的な充実感です。もともとバイエルン放送響はドイツのオケの中でも際立って重量感が豊かで、ことにバスの強さなどはすこぶるつきですが、ヤンソンスは敢えてハーモニーの内声ならびに中音域を重視するという意識をアンサンブルに浸透させることにより、すこぶる立体的なハーモニーをアンサンブルからひねり出したのではないかという風に思えます。

いまひとつは、このオーケストラの底知れないポテンシャルに関してですが、とにかく聴いていてアンサンブルが安定無比であり、どんなにテンポが速まっても些かも線がぶれず最強奏においてさえ個々のフレーズが微塵も揺るがず、逆に最弱奏においてさえ揺るぎないフレージングの定着感があり、つまりはアンサンブルとしての圧倒的なまでの求心力というか一体感が比類ないのでした。

この点、私は昨年の今ごろ同じホールでサイモン・ラトル率いるベルリン・フィルの来日公演を聴いたのですが、そこでは各奏者のテクニックの呆れるほどの上手さに聴いていて惚れぼれしたことを覚えていますが、当夜のバイエルン放送響は各奏者が個別に上手いというよりはオケ全体がべらぼうに上手いというのか、それ自体がひとつの楽器かと思われるくらいにアンサンブルが高められていて、それがヤンソンスのタクトに対して機敏に反応し切るという按配でした。

この圧倒的なワーグナーにおいてわずかに画竜点睛を欠いたと思われた点は全体に表現上の新機軸や意外性が足らなかったことでしょうか。これは最近聴いたCDでも感じたのですが、ヤンソンスの指揮はアンサンブルを秩序立てて豪快に鳴らせることにかけては本当に素晴らしいのに、こと自己主張としての強烈な個性の刻印となると意外に大人しくなる憾みがあり、そのあたりは何か勿体ないような気もしてしまいました。

バイエルン放送交響楽団来日公演の感想(ヨーヨー・マのドボコンについて)


昨日のサントリーホール、バイエルン放送交響楽団来日公演の感想です。2回に分けます。今回は前半に演奏されたヨーヨー・マ独奏によるドボコンについて。

オーケストラの配置は向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べたシフトで編成は14型でした。

ヨーヨー・マのチェロ独奏は作品全体を通してその天性の運弓の業を発揮し、聴いていてヴァイオリンかとさえ思われるほどにチェロの重力から解放されたような途方もない運動性と躍動感を帯びたフレージングを存分に披歴し、ドヴォルザークの美しいメロディを朗々と歌い上げ、その呼吸の伸びやかなことやボウイングの自在なことにおいては比類もなく、ひたすら聴き入るばかりでした。

当夜における彼のボウイングの個性味を一言で形容するなら、機敏というよりむしろ機を見るに敏とでもいうべきものでした。というのも彼のボウイングというのはリズムを強調すべき場面やメロディラインを強調する場面、或いは音色自体の美しさを強調する場面などでそれこそ変幻自在ともいうべき変わり身を呈するものだったからです。

第1楽章で言うなら独奏提示部で第1テーマが弾かれる時には小躍りするばかりに躍動的で愛嬌たっぷりのボウイングを披露したかと思うと、第2テーマでは歌謡性を極めたようなスムーズにして無上にメロディアスなボウイングを披露し、それが展開部アタマで変イ短調に振れるくだりになると今度はチェロ楽器自体の甘美な音色の魅力をたっぷり聴かせる、といった按配でした。

そして、このような圧倒的な表現レンジの根底にあるものは何かを推し量るならば、まずどんな切り口をも選択することのできるボウイング技術の高み、そして圧倒的な音楽センス、その両者が合併した地点で初めて生まれるものではないかと聴いていて思いました。いずれにしても少しも奇をてらっていないオーソドックスなアプローチなのに、表出される音楽の新鮮味が抜群という不思議な感覚と、そこから生じる何とも言えない愉悦感は演奏が終っても容易には私から離れていきませんでした。

これに対しオーケストラの伴奏はと言うとこちらもすこぶる立派で、わけても重量感たっぷりにしてガッチリとしたバスの響きが素晴らしく、どっしりとした基調テンポも演奏を存分に格調高らしめると同時にヨーヨー・マのボウイングに対しても十分な自由度を与えていましたし、その意味では理想的なものと思われました。

ただ聴いていて少し気になったのは、例えばオケとソロが応答する場面や全奏の上にソロが乗る場面におけるチェロ独奏の相対的な音勢の弱さで、これはいささかバランスを失しているようにも聴こえました。ヨーヨー・マはもともとフレージングの厚ぼったさや重量感で勝負するタイプのチェリストではないだけに、こよなく厚ぼったくて重量級のバイエルン放送響のアンサンブル展開はアンバランスな感もあり、均衡を考えるならヨーヨー・マはむしろ編成を10型くらいに絞って重量感を抑えたオケと共演する方が相性的にいいのではないかとも思うのですが、しかし14型のバイエルン放送響のアンサンブルの繰り出す潤沢な響きの質感と迫力に聴いていて魅了させられる瞬間が多々あったのもまた事実です。

後半のワーグナーについては後日に。

バイエルン放送交響楽団の来日公演(サントリーホール 11/12)


今日はサントリーホールでバイエルン放送交響楽団の来日公演を聴いてきました。

2009-11-12

指揮者はマリス・ヤンソンス。演目は、前半がヨーヨー・マをソロに立てての、ドヴォルザークのチェロ協奏曲。後半はワーグナーの管弦楽作品4曲が以下の順に演奏されました。
①「タンホイザー」序曲 (ドレスデン版)
②「神々の黄昏」よりジークフリートのラインの旅
③「神々の黄昏」よりジークフリートの葬送行進曲
④「ワルキューレ」よりワルキューレの騎行

上記の他に、当初の予定では「ローエングリン」第1幕への前奏曲も演目に入っていたのですが、これは演奏されない旨がロビーに掲示されていました。ヤンソンスの希望により演目から外されたとのこと。

2009-11-12-2

これを見て残念と思ったのですが、どうやら公演時間が長すぎるのでカットしたようです。というのも、アンコールがかなり盛り沢山だったからで、実際カットしてなお終演時刻は21時30分過ぎでした。

そのアンコールは、以下の4曲でした。
⑤ジャン・ベリエール「二つのチェロのための二重奏曲」から第3楽章
⑥サイグン「無伴奏チェロ組曲」から「アドニー」
⑦ワーグナー 「ローエングリン」第3幕への前奏曲
⑧ハイドンのセレナード(弦楽四重奏曲第17番の第2楽章)

以上のうち⑤と⑥は前半のアンコール曲で演奏者はもちろんヨーヨー・マです。⑤はバイエルン放送響の首席チェロ奏者とのデュオでした。

⑦と⑧は後半のアンコール曲ですが、⑦が演奏された後、ステージにヨーヨー・マがまさかの再登場を果たし、おもむろにオーケストラに加わって⑧が演奏されました。

今日のコンサートは演目も盛り沢山でしたが内容的にも素晴らしく、ホールを後にした時はクタクタでしたが実に心地良い疲労感でした。

スヴェトラーノフの1999年におけるBBC響客演ライヴ


スヴェトラーノフの1999年BBC響客演ライヴ
 スヴェトラーノフ/BBC交響楽団
 BBCレジェンド 1999年ライヴ BBCL4259
BBCL4259

BBCレジェンドから先月リリースされた、エフゲニー・スヴェトラーノフの1999年におけるBBC交響楽団への客演ライヴを聴きました。

これは同年10月28日、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおけるコンサートで、演奏曲は①ラフマニノフ 交響詩「死の島」②ラフマニノフ(レスピーギ編) 2つの「音の絵」③ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」となっています。

スヴェトラーノフとBBC交響楽団との顔合わせというのは、たぶん正規盤としてはこれが初だと思うのですが、非正規盤としては、2002年にBBC響に客演した際のライヴであるチャイコフスキー・交響曲第1番「冬の日の幻想」がCD-Rでリリースされています。

ELS03310
チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」
 スヴェトラーノフ/BBC交響楽団
 EnLarmes 2002年ライブ ELS03-310

上記のCD-R盤については別館の方に感想を掲載しているのですが、これはスヴェトラーノフの死去する直前期における名演として有名なものです。非正規盤なのに有名というのも変ですが、なにしろ演奏内容が圧倒的なので、そのように認知されます。

そのあたりの予断もあり、今回リリースの99年ライヴに対しても、期待して耳を傾けてみたのですが、ひととおり聴いてみた印象として、嬉しいことに3演とも並々ならない名演であり、上記02年ライヴにも肉薄すると思われるほどの充実感に満ちた演奏でした。

まず①から、スヴェトラーノフ最晩年の時期の、巨匠的なまでの音楽の威容が素晴らしく、全体で25分をかけた遅めのテンポをベースとし、粛々と、時に激烈の情熱を湛えてアンサンブルを牽引し、この作品としては破格なくらいの素晴らしい迫力とスケール感が導出されていて惹き込まれます。ただ演奏とは関係ないですが、終曲近くで音楽が沈静する(23:59)で、客席から大きなアラーム音がホールに鳴り響いているのですが、これはいささか耳障りでした。

②においても、相変わらず引き締まったアンサンブルの充実ぶりが際立っていて、レスピーギ編曲の豪奢な音響的魅力を存分に満喫させてくれるのですが、それでも①から続けて聴くと、いい意味で肩の力が抜けたような、親密な味わいもあり、外面効果一辺倒でない、音楽の内面の奥行きをも聴き手に感得させてくれる懐の深い演奏だと思います。

③ですが、やや遅めのテンポを基調としながらも停滞感のない音楽の流れから、BBC響のアンサンブルを巧みにドライブし、時にはイギリスのオーケストラらしからぬと思えるほどの濃密を極めた極彩色のハーモニーを描き出したかと思うと、時に澄み切って晴朗なハーモニーのパースペクティヴをこよなく印象づけられるというように、曲趣に応じた音響構築の切り替えの鮮やかさが見事です。

それにしても、これら各演奏での並々ならない充実ぶりは、スヴェトラーノフがこの時期に到達した人格的魅力、いわゆるカリスマ性にオケ側が強く揺さぶられた結果なのでしょうか。

いずれにしても、このBBCライヴは、単にスヴェトラーノフとBBC響の貴重な顔合わせの記録という以上に、演奏自体がすこぶるつきのものであり、嬉しい限りです。このような素晴らしいコンサートの録音が、公演からちょうど10年後に日の目を見たことを素直に喜びたいですし、この顔合わせでのさらなる音源の発掘にも期待したいと思います。

ヤンソンス/バイエルン放送響によるブルックナーの交響曲第7番


ブルックナー 交響曲第7番
 ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団
 BrKlassik 2007年ライヴ 4035719001
4035719001

マリス・ヤンソンスがバイエルン放送交響楽団を指揮した、ブルックナー交響曲第7番のCDを聴きました。

これはドイツのバイエルン放送が新たに立ち上げた「BR KLASSIK」レーベルから先月リリースされたもので、2007年11月にウィーン・ムジークフェラインザールで行われたコンサートの演奏がライヴ収録されています。

それでひと通り聴いた印象としては、これは名演に違いないという確信が一方にあるのですが、もう一方において、そう確信することへの一抹の抵抗感も拭えないという、ちょっと微妙な位置にある演奏だなと感じました。

この演奏において掛け値なしに素晴らしいと感じたのは、バイエルン放送響の奏でる音響の、驚くべき充実ぶりです。大編成の利もあるのでしょうが、とにかく響きが分厚く、音色が芳醇で、ひとつひとつのフレージングのズシリとした質感も素晴らしく、これほど味の濃いブルックナーを現代において耳にし得るということ自体が新鮮な体験という気がしますし、それこそ聴いていて嬉しさが込み上げてくるような思いに駆られるほどでした。

これにはバイエルン放送局の録音技術の優秀さ、あるいはSACD仕様の音質の利といった要素もあるとしても、おそらく根本的にはオーケストラの卓抜した合奏能力に起因するものではないかと思い到りました。

なにしろポテンシャルの高いオケですので、ここぞという時の表出力が抜群ですね。第1楽章で言うなら、中盤(10:59)からのモルト・アニマート(第233小節)でffまで登って、その8小節後でfffまで登っていく所など、f2つとf3つの違い、つまりf3つの驚異的な迫力が見事に表現されていて、これでこそという気がしますし、あるいは第371小節(16:30)で、それまでpppだったのがいきなりfになり、そのすぐ2小節後に(ffを飛び越して)fffに移るあたりなども聴くと、やはり同様にデュナーミクの表面的な切り分けに留まらない、音響密度の鮮やかな集約というべきものが披歴されていて惹き込まれてしまいます。

アンサンブルのバランスにしても、例えば弦を抑制して管のパッセージを相対的に浮き上がらせるといった、小細工と言って悪ければ技巧とは無縁と言わんばかりの、弦の厚みを十分に活かしたボリューム満点のアンサンブル展開なのですが、それでは管パートが埋もれるかというと、全然そうでないところが凄いもので、ここぞとばかりに厚い弦の音幕を軽々と突き抜けて響きわたるホルンやトロンボーンの強奏など、まさに壮観の一言に尽きます。

以上のようなオーケストラの合奏面での美質に対し、ヤンソンスの指揮はと言うと、全体にオーソドックスを地で行く表現というのか、特に個性を振りかざすことはせず、ひたすら誠実に、バイエルン放送響という名器を通してブルックナーのスコアを音化することに徹している、そんな佇まいです。

それはいいのですが、私が聴いていて引っ掛かったのは、ヤンソンスの表情形成がどうにも大人しいというのか、その音楽の流れが穏健な方向に大きく傾斜している点で、局面によっては少し緊張感不足かなという印象を正直感じました。こと迫力は素晴らしいのに、その迫力にある主のトゲというか牙が伴わない物足りなさ、というべきでしょうか。

例えば第2楽章で言うなら、中盤のクライマックスたる第177小節のところ(17:04)で、ノヴァーク版なのでシンバルやトライアングルが打ち鳴らされるのですが、それらがいかにも申し訳程度に鳴らされていて、トライアングルなど注意して聴かなければ鳴っているのかいないのか分からないほどです。これならわざわざノヴァーク版でやらなくても、ハース版で十分だと思われますし、ティンパニも全曲とおして抑制一辺倒ですし、弦のアタックも総じてまろやかですね。

繰り返しますが、このブルックナーはオーケストラの音響的な充実度が驚異的な水準にあるので、確かに聴いていてドイツ本場のブルックナーを聴く喜びが胸に沁み入る思いがします。しかし沁み入る以上の心揺さぶられるような気持ちには誘ってくれない、というあたりに一抹の物足りなさがあるというのが、この演奏に対する私の率直な感想です。

もちろん無いものねだりと言ってしまえばそれまでですが、せっかくここまで見事なブルックナーなのだから、という気持ちが私の中に浮かんだのでした。特に第3楽章などは、もっと牙を剥き出しにしたような苛烈さが欲しいですし、全体にヤンソンスがブルックナーの音楽を、もっと自分の側に引き寄せてみたらどうかという、ある種のもどかしさを聴いていて感じました。

あれこれと書きましたが、いずれにしても、この演奏は名演に違いないという確信を聴き終えて感じたことは前述の通りですし、SACDならではの高音質の利もあり、全体としては近年まれにみるほどに味の濃いブルックナーを、久々に堪能させてくれた一枚でした。

ケーゲル/ライプツィヒ放送響によるベルクの歌劇「ヴォツェック」全曲


ベルク 歌劇「ヴォツェック」全曲
 ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団
 ベルリン・クラシックス 1973年 0020682BC
0020682BC

先週も書きましたように、今月下旬に新国立劇場で上演されるアルバン・ベルクの歌劇「ヴォツェック」を観に行く予定で、その予習がてらCDの「ヴォツェック」全曲盤をいくつか聴いておこうと思います。前回聴いたカール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ演奏のグラモフォン盤に続いて、今日はヘルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団による全曲盤をひととおり聴きました。

ちなみに、私の言う予習というのは、オペラ上演の際に字幕をいちいち見なくてもセリフの内容が大体わかるまでに聴き込んでおくという意味です。著名なオペラを観に行く時には、ふつう誰でもやっていることですね。

このケーゲル盤の演奏ですが、オーケストラの表出する熾烈なまでの音響的インパクトが素晴らしく、このオペラならではの破滅的なまでに強烈きわまる音楽の醍醐味を存分に満喫することのできる演奏だと思います。

ここでのライプツィヒ放送響の最盛期におけるアンサンブルは充実を極めていて、あたかも狂気と耽美とが紙一重で共存するような、ギリギリの領域で音楽が進展し、その強烈ぶりに聴いていて惹き込まれます。言うなればシナリオの絶望感を、演奏の狂気感が超えている、という感じでしょうか。

例えばマリーの背徳を描いた第1幕ラストの圧倒的な音響的苦味とか、第2幕1場ラストでマリーが「この世の人間すべてが地獄に落ちればいい」と絶叫する場面を受ける強奏展開に聴かれる、マリーの心情を代弁するかのような壮絶なフォルテ、或いは第3幕でヴォツェックがマリーを殺害する場面に続く管弦楽間奏の空恐ろしいまでの響き、そして終幕近く、ヴォツェックが溺死するくだりに続くアダージョのインヴェンションの破滅きわまる音響展開、いずれにおいても一度聴いたら容易には忘れがたいほどの衝撃に満ちていて圧倒させられます。

残念なのは、歌唱陣の方の表情に穏健な気配が免れず、ケーゲルの展開するオーケストラ演奏の凄みに、必ずしも拮抗しないことでしょう。特にヴォツェック役のテオ・アダムは、声質としてワーグナーのオペラには最適であっても、ヴォツェックにはどうでしょうか。ザックスやヴォータンのようなキャラクターと違う、この役柄の底知れない内面の暗黒が、それこそ剥き出しというくらいの凄みにまでは、彼の歌唱は残念ながら到っていないような印象が残ります。特に後半が弱いですね。声量は凄いですし、堂々たる貫録なのですが、むしろそれゆえに、聴いていてタガが外れたような衝動の恐ろしさが、さほどには伝わってこないというのが率直な印象です。

バックハウスの最後の演奏会のライヴ・ディスク


「バックハウス最後の演奏会」
 バックハウス(pf)
 デッカ 1969年ライヴ POCL-9941/2
POCL-99412

ヴィルヘルム・バックハウスの残した一連の録音は、かつて私も夢中になって聴いた時期があったのですが、ここ数年ほどは御無沙汰でした。

それが、先週リリースされたザルツブルグでの協奏曲ライヴを耳にして、何だか彼のCDを無性に聴いてみたくなりました。それでまずブラームスの第2協奏曲のスタジオ盤を聴き、昨日それについて書いたところですが、今日も引き続きベートーヴェンのソナタや協奏曲を中心に色々と聴いてみました。

POCL-99412-2

そして、これら一連の録音のなかでも、ひときわ趣きの深い演奏として、聴いていて気持ちが強く揺さぶられたのが、この「バックハウス最後の演奏会」と題されたライヴ盤です。

このCDは1997年にリリースされたもので、1969年6月26日と28日の2日間に渡り、オーストリアのオシアッハにある修道院で開催されたバックハウスのピアノコンサートの演奏がライヴ収録されています。収録曲は以下の通りです。

①ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
②シューベルト 楽興の時
③モーツァルト ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」
④シューベルト 即興曲作品142の2
以上、6月26日のコンサートより
⑤ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第18番(第3楽章まで)
⑥シューマン 幻想小曲集「夕べに」と「なぜに?」
⑦シューベルト 即興曲作品142の2
以上、6月28日のコンサートより

その28日のコンサートにおいてベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番を弾いている途中、バックハウスは心臓発作を起こしてしまい、演奏も第3楽章で中断を余儀なくされるのですが、控え室で休憩の後にステージに立ち帰り、終楽章の代わりにシューマンの幻想小曲集「夕べに」と「なぜに?」、そしてシューベルトの即興曲作品142の2を演奏してコンサートを終えたのでした。そして、その時の心臓発作がもとで、28日のコンサートから7日後の7月5日にバックハウスは永眠してしまいます。

おそらく誰が聴いても思うように、バックハウスのピアニズムには他のピアニストの誰とも似ていない、まさに独特のタッチの感触が有りますね。その理由として、彼はピアノを美しく鳴らそうという発想を優先しないから、ということがよく言われていて、私も多分そうだろうと思うのですが、いずれにしても彼のピアニズムというのは、特にベートーヴェンの「熱情」ソナタを頂点として、時に法外なまでの表出力をもって、恐ろしいまでの凄味を発する演奏を披歴します。しかし、敢えて彼のピアニズムに欠けている点を指摘するならば、それはおそらく、ある種の感覚的な美しさであって、これは美しく鳴らそうという発想を優先しない以上、必然的にそうなります。

だから聴き手も、そういう陶酔的な音色の美しさなどは、彼のピアニズムには過分に求めないで、その代わりもっと掛け替えのないものを求めるのですが、ともかく以上のようなスタンスでバックハウスのピアノに耳を傾ける聴き手は、おそらく本CDの上記⑥と⑦の演奏を聴いて、言い知れない感銘を覚えずにはいられないのではないでしょうか。というのも、上記⑥と⑦の演奏は恐ろしいまでに美しいからです。

それも、人工的に設計したところで表出するのが不可能ではないかというくらい、限りなくピュアで、透徹して、澄み切った美しさを湛えたピアノの響き、、、抜けるようなピアノの音色の透明感、、

これは作品にストイックに没入するというよりも、むしろピアニストとしての何か超然とした境地に一人佇むような、突き抜けた趣きがあり、およそ人間がこのようなピアノを奏でられるということに、聴いていて畏敬の念すら湧いてくる、そんな演奏です。

このCDに聴かれるバックハウスの「白鳥の歌」は、おそらく彼の命の最後の光芒が生み出した、聴き手に途轍もない感銘を呼び起す感動的名演であって、バックハウスのディスコグラフィにおいても特筆されるべき録音だと思うのですが、もう久しく廃盤の状態なのですね。本当にもったいないと思います。

バックハウスとベーム/ウィーン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第2番(デッカのスタジオ盤)


ブラームス ピアノ協奏曲第2番
 バックハウス(pf) ベーム/ウィーン・フィル
 デッカ 1968年 POCL-9928
POCL-9928

先週リリースされたバックハウスとベーム/ウィーン・フィルの共演によるザルツブルグ・ライヴについての感想を、一昨日書いたのですが、それを耳にしたのに続いて、同じ顔合わせでデッカにスタジオ録りされたブラームスの第2コンチェルトの録音を久々に聴いてみました。

一昨日のザルツブルグ・ライヴが68年8月の演奏だったのに対し、このスタジオ録音は67年4月のものですが、バックハウスの死去は69年7月ですので、双方とも最晩年の時期に係る録音になりますね。

POCL-9928-2

両演奏を対比してみると、全4楽章の演奏時間はもとより、造型の取り方やフレージングの付け方といった特徴も概ね共通していて、バックハウスとしてほぼ盤石に固まった演奏様式であることが伺われます。

ところで、一昨日は「やはりライヴならではの良さというものはある」と書いたのですが、今回あたらめてスタジオ盤を耳にし、ライヴのそれと比べてみると、どうも逆に「スタジオ盤ならではの良さ」というものも確かにあるのだなということを感じました。それを端的に言うなら、「完成度」と「音質」という点になります。

完成度についてはスタジオ録りである以上言わずもがなですが、むしろ驚異的なのは音質でしょう。昨日も書きましたように、ザルツブルグ・ライヴの音質も決して悪くはなく、むしろ年代を考えると上質だと思うのですが、それでもこのスタジオ盤の音質と、こうしてひき比べると少なからぬ遜色感を否めない感じがします。その印象が特に強いのがウィーン・フィルのアンサンブルの響きにおいてであり、両盤を比べてみると、オーケストラの響きの強さがこちらのスタジオ盤の方が大幅に勝っていて驚かされるくらいです。

しかし、この点に関して私がむしろ印象深く思ったのは、これだけ両盤でオーケストラの響きの色彩感に差違が認められるにもかかわらず、バックハウスのタッチの感触自体は、双方において少なくともオケほどには差違が大きくないように感じられることです。なまじバックのオケの響きの色彩的な差違が顕著なだけに、なおさらそれが聴いていて強く意識されます。

この点に関し、実は一昨日は時間が無くて書かなかったのですが、今回リリースされたザルツブルグ・ライヴのブックレットには、ゴッドフリート・クラウスの簡単な演奏評が掲載されていて、それが私にはちょっと興味深く思えたのでした。

そこではバックハウスのピアニズムについて、クラウスは「A Unity of the Traditional and the Contemporary」という表現を用いて称賛しています。

つまり伝統性と現代性の融合という風に評しているわけですが、この表現は私の感覚からしても、言い得て妙だなと感じました。というのも、バックハウスのピアニズムには、確かにそういう独特の2面性があると思われるからです。

例えばこのブラームスにしてもそうで、そのピアニズムにおける造型形成やフレージング展開においては、いわゆるロマンティック様式に傾斜しない、明らかに古典的なものであって、それは新古典的という切り口からすると当時としてはモダーンな表情付けなのでしょう。しかし、そういう現代的な様式にしては、その個々のタッチの色彩感が、およそ現代的なピアニズムの華やかさに対し敢然と背を向けたような、禁欲的なくらい飾らない、枯淡で質朴な音色となっていて、それは現代的というよりむしろドイツ伝統の響きに深々と根ざしたピアニズムを指向しているような感じがします。

こういう背反性が、確かにバックハウスのピアノにはあると思うのですが、それをクラウスは伝統性と現代性の融合という言葉で端的に言い表してみせたので、それを読んで思わずハッとしたのでした。さらにスタジオ盤を聴いてみて、そのことを改めて実感したのですが、その理由は前述のとおりです。

私の印象としてもバックハウスのようなピアニズムの持ち主は、ほとんど他に例が無いように思っていたのに、何故そうなのかという理由については今一つ確信が無かったので、前記のようなクラウスの視点は、ちょっと印象深い感じがしました。

バックハウスとベーム/ウィーン・フィルのザルツブルグ音楽祭でのモーツァルトとブラームスの協奏曲


モーツァルト ピアノ協奏曲第27番、
ブラームス ピアノ協奏曲第2番
 バックハウス(pf) ベーム/ウィーン・フィル
 オルフェオ 1960年・68年ライヴ ORFEOR796091
ORFEOR796091

ドイツの名ピアニストであるヴィルヘルム・バックハウスがザルツブルグ音楽祭においてカール・ベーム指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共演したモーツァルトとブラームスの協奏曲のライヴ盤が、オルフェオレーベルより先週リリースされました。

2曲ともザルツブルク祝祭大劇場でのコンサートの収録で、モーツァルトは1960年、ブラームスは1968年の演奏です。

モーツァルトの27番、ブラームスの2番、ともにバックハウスとベーム/ウィーン・フィルはデッカレーベルにスタジオ録音を残していますが、それらは21世紀の現在においても確固たる評価を享受する名盤であるところ、これら2曲の、同じ顔合わせによるライヴ録音を組み合わせたCDというのは、それこそ夢のようなリリースですので、速攻で入手し聴いてみました。

心配された音質は、予想以上に良くてホッとしました。2曲ともモノラル収録ながら、聴いていてモノラルなことを忘れるくらいの音場の拡がりが確保されていますし、ソノリティの鮮明感、実在感ともに上々で、部分的には高音域がもう少しほぐれていたらと感じることもありますが、リマスタリングとしてはまず上質の部類に入るのではないでしょうか。

肝心の演奏も素晴らしいですね。両雄のスタジオ盤の表現にライヴの生々しい臨場感が加味されて鬼に金棒、と言ってしまえば簡単ですが、やはりライヴならではの良さというものはあるもので、この2曲の演奏を聴いていて、往時のバックハウスとベーム/ウィーン・フィルというのは、互いにとって如何に掛け替えのない関係にある個性なり特性なりを備えていたか、そして彼らの共演において如何にそれが強く増幅されるか、その雰囲気がスタジオ盤よりも強く刻印されているように思います。聴き終えて深々とした感銘の残る演奏でした。

余談ながら、ここでのモーツァルトは、やはり旧版のスコアで演奏されているようですね。第1楽章の(1:36)で、現行版にあるはずの7小節の楽節が抜けているのが確認されます。

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団来日公演の感想


昨日のサントリーホール、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の公演の感想です。

オーケストラの配置は向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置で、編成は前半のメンデルスゾーンが14型、後半のブルックナーが16型でした。

まずメンデルスゾーンの「宗教改革」ですが、昨日も書きましたが「初期稿」と呼ばれる版で演奏されました。第1楽章の第2テーマの直前に聴いたこともないメロディが出てきたり、確かに聴いていてオヤッというような新奇さが印象的でしたが、異版としての鮮烈性そのものは、最近シャイー/ゲヴァントハウス管のCDで耳にした、「スコットランド」のロンドン版ほどには際立っていないようにも思えました。

しかし演奏自体は素晴らしく、上記「スコットランド」のCDを聴いて感じたことが、当該実演でも概ね当てはまるものでした。

アンサンブルは第1楽章から響きの立ち上がりが異常に良く、早くもエンジン全開という風で、推進的なテンポの颯爽とした音楽の構えから、密度感ぎっしりの充実した音響が披歴されましたし、強奏時のアンサンブル展開でもCD同様、激しいアクセントを伴う弦の刻みが聴かれ、聴かせどころでのホルンやトランペット強奏の味の濃い響き、ティンパニの闊達なアクティビティなど、いずれも大変な聴きものでしたし、さすがにメンデルスゾーンゆかりのオーケストラだなと感服しました。

後半のブルックナー交響曲第4番では、前半のメンデルスゾーンよりはテンポを落としつつ、シャイー特有の流動的でしなやかなアンサンブル展開から、16型の深々としたソノリティの広がりを聴き手にじっくり聴かせるというような、手堅い運用を基本としながら、ここぞという時には強烈なまでの変わり身の速さで、ドラマティックな起伏力を聴き手に存分に印象づける、そんな演奏でした。例えばクレッシェンドから全強奏に移る瞬間に、感極まったようなテヌートを披露する場面が何遍も聴かれましたし、最弱奏と最強奏の間のダイナミックレンジの途方もない広がりといい、トッティでのホルンやティンパニの猛烈な鳴りっぷりといい、いずれも手堅い一辺倒でないスリリングなまでの迫力と、美しい一辺倒でない荒々しい表出力とが確として刻印されていたので、その聴きごたえは確かに並々ならないものでした。

もっとも、このような演奏様式は、私が最近CDで耳にしたブロムシュテット/ゲヴァントハウス管のブルックナー6番に聴かれるものとは、方向性において少なからぬ隔たりが感じられたのも事実で、昨日書いたところの「留保」というのも、そのあたりに関係してきます。

というのも、そのブロムシュテットの演奏は折り目正しい職人気質的な運用であって、そこには安心して音楽に浸れる造型の揺るぎない安定感があり、それゆえにゲヴァントハウス管が持つアンサンブルの美質そのものが前面に仮借なく押し出される形にもなり、実質的な意味での音楽としての訴えかけの素晴らしさや、聴いていて「本場のブルックナー」としての醍醐味を満喫させてくれるような演奏の雰囲気に、私は強く惹かれたのですが、その感じから計ると、本演でのシャイーの表現は演奏としての深みの度合いとして、ブロムシュテットの水準には到達していないような印象を最後まで拭えなかったからです。確かに聴きごたえは並々ならないのですが、その割に聴いていて深い演奏だな、という感覚が充分に追随しないもどかしさ、というべきでしょうか。

これはどういうことかと考えるに、やはりシャイーの指揮というのが根本的に、ブロムシュテットのような実質的な音楽としての訴えかけというより、もっと感情の赤裸々な動きを重視したり、感覚的な方面に対する愉悦を志向したりするところに、要因のひとつがあるのではないかという気がします。

おそらくメンデルスゾーンやシューマンといった、ロマン派の激しい情熱を押し固めたような作品であれば、様式的にも最適に近い上に、これらの作品に対するゲヴァントハウス管のずば抜けた適性も十二分に発揮され、ひっきょう圧倒的な表出力に昇華されるようなメカニズムになっていると思うのですが、これがブルックナーのようなロマン派の範疇から激しく逸脱する作品となると、このようなメカニズムも百パーセントの機能性を発揮するまでには、必ずしも到らないのではないか、、、もちろん、演奏としての深みの度合いという、甚だしく抽象的なものさしを、こんなシンプルな解法で円満に解決しようなんて絶対にムリなのは分かっていますが、ただ深みが云々と言うだけでは、あまりに生産性がないので、とにかく私なりに思うところを率直に書いてみました。

それにしてもゲヴァントハウス管のアンサンブルというのは、本当にいい音を出していて、これはもう聴き惚れるばかりでした。少なくとも日本のオケには、ちょっと出せないような趣きがあるというのか、例えばシャイーの棒で激しく煽られる局面においてさえ、その奥の方には同楽団の地肌の響きの温もりが常にデンと構えたような定着があり、ウィーン・フィルのような色合いとはまた異質ながらも、そこにはドイツの深々とした伝統のようなものが、やはり揺るぎなく下敷きになっていて、それこそが民営のオーケストラとしては世界最古とされるゲヴァントハウス管の、無形文化財をも思わせる掛け替えのない美質にほかならないという実感が、当夜の演奏会を通じて私の中で更に深まったように思えました。

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の来日公演(サントリーホール 11/2)


今日はサントリーホールでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2009-11-02

指揮者は同楽団の現在のカペルマイスターであるリッカルド・シャイー。演目は前半がメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」、後半がブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」でした。

もっとも、メンデルスゾーンの「宗教改革」は通常の版ではなく、「初期稿」と呼ばれる版で演奏されました。

この「初期稿」というのは私は初耳なのですが、ロビーで購入した公演プログラムによると、クリストファー・ホグウッドの校訂に基づき、先日ライプツィヒで演奏されたばかりの版とのことです。しかし肝心の、通常版との具体的な相違点については、残念ながら何も書かれていません。

それはさておき、ゲヴァントハウス管弦楽団というと、私は最近リリースされた2つのCDを耳にしたのですが、いずれも素晴らしい内容と思えるものでした。ひとつはシャイーの指揮による「メンデルスゾーン・ディスカバリー」と銘打たれたアルバム、もうひとつがブロムシュテットの指揮によるブルックナーの6番です(それぞれの感想は各リンク先に掲載してあります)。

この点、今日の公演は前半メンデルスゾーン・後半ブルックナーと、ちょうどいい案配でしたので、これ幸いとホールに足を運んだ次第です。

印象としては、前半のメンデルスゾーンは、まあ期待通りでした。後半のブルックナーも、概ね良かったと思うんですが、こちらは少し留保を付けたいと思います。そのあたりの感想は後日、あらためて出します。

ベーム/ベルリン・ドイツ・オペラ管によるベルクの歌劇「ヴォツェック」全曲


ベルク 歌劇「ヴォツェック」全曲
 ベーム/ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
 グラモフォン 1965年 POCG-9072/5
POCG-9072

今月の下旬に、新国立劇場でアルバン・ベルクの歌劇「ヴォツェック」が上演されるのですが、それを観に行く予定です。それまでに予習がてら、CDの「ヴォツェック」全曲盤をいくつか聴いておこうと思います。

まず今日はカール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ演奏のグラモフォン盤をひととおり聴きました。

「ヴォツェック」は、今でこそ私の好きなオペラ作品のひとつですが、昔はそうでもなくて、むしろ取っ付きにくいオペラだと思っていました。具体的には①無調で書かれていることによる、旋律面での取っ付きにくさと、②シナリオが暗くて救いが無いことによる、ストーリーとしての取っ付きにくさです。

この「2重の取っ付きにくさ」のうち、①に関しては、戦後のいわゆる現代音楽に耳を通す機会が増えるにつれて解消していきましたし、②に関しても、昔はともかく少なくとも今では、それほど暗いストーリーでもないなという感じがしています。

というのも、ここ数年来マスコミを通じて、このオペラの筋と似たような雰囲気の、それこそ暗くて救いのない「現実の事件」が、かなり頻繁に報道されるようになったからです。

その最も分かりやすいものとしては、例の秋葉原連続殺傷事件が挙げられるでしょうね。報道などで知るかぎり、私の目にはあの事件の、確か加藤なにがしという犯人が、まるで「現代のヴォツェック」みたいに映ったのですが、その後に起きた類似の事件、例えば茨城の土浦で起きた連続殺傷事件だとか、中央大学で起きた教授刺殺事件だとか、そういうのも含めて、いずれも詰まるところ「貧困による衝動的な殺人」なのであって、その底知れない闇においては、多分このオペラとも深いところで繋がるものがあるのかも知れませんが、いずれにしても、こういった凄惨な現実の事件が頻繁に報道される最近の情勢においては、もはや「ヴォツェック」のストーリーがことさら暗いとは感じられなくなってしまった、ということです。

そして、以上のような2重の取っ付きにくさが取り払われた目でこのオペラを眺めて見ると、改めて音楽としてのエネルギーが如何に尋常でないかが良く実感されますし、むしろその救いのないストーリー自体が、この強烈なエネルギーの放出力を増幅するために必要不可欠であるかのようにさえ思われもします。とにかく、この「ヴォツェック」には、少なくともそれまでのオペラ作品とは一線を画する、途方もない音響的衝撃力があり、そのあたりが時に「20世紀最高のオペラ」とさえ言われる絶大な評価の所以でもあるのでしょう。

このベーム/ベルリン・ドイツ・オペラ盤は、言うまでもなく「ヴォツェック」の古典的名盤ですが、カール・ベーム指揮の「ヴォツェック」全曲盤にはもうひとつ、以下のディスクもリリースされています。

AN3060
ベルク 歌劇「ヴォツェック」全曲
 ベーム/ウィーン国立歌劇場管弦楽団
 アンダンテ 1955年ライブ AN3060

私は上記のライヴ盤を昨年購入し、その感想を以前に書いているのですが、実はその中で、今日聴いたスタジオ盤にもライヴ盤と対比する形で言及しています。今日あらためて聴いた限りでも、以前の印象と同じですし、それをもって本盤についての私の感想に代えさせて頂きます。

Powered by FC2 Blog
Copyright © クラシックCD感想メモ All Rights Reserved.