キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管によるショスタコーヴィチ交響曲全集


ショスタコーヴィチ 交響曲全集
 キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
 Capriccio 2002~04年(一部ライヴ) C49545
C49545

今日はドミトリー・キタエンコ指揮、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の演奏によるショスタコーヴィチ交響曲全集(SACDハイブリッド12枚組ボックス)のうちの、交響曲第4番から番号順に第7番までのCDをひと通り聴きました。

私は以前、キタエンコとケルン・ギュルツェニヒ管のコンビによるプロコフィエフの交響曲全集を聴いて、その素晴らしさに仰天したのですが、そのプロコフィエフ全集同様、このショスタコーヴィチ交響曲全集に関しても、インターネット上の少なからぬサイトで絶賛されており、ぜひ聴いてみたいと思っていました。ところが、このショスタコーヴィチ全集の方は2005年にリリースされた後、メーカー在庫切れのため、しばらく入手不能の状態が続いていたようなのですが、今月になって再リリースされるようになり、それを先日ネットで注文したところ、昨日の夜に届いたという次第です。

それでさっそく交響曲第4番のCDから聴いてみたのですが、これが期待通りというより期待以上の素晴らしさで、その圧倒的な表出力に聴いていて言葉を失う、そんなレベルの演奏でした。

第1楽章冒頭あたりの凄絶ぶりからもの凄く、(1:34)の全強奏の破滅的な色彩など問答無用の凄みを放ち、(4:58)あたりの張り詰めた雰囲気も尋常には程遠く、以降もどっしりとした揺るぎないテンポ感から、先のプロコフィエフ全集同様、アンサンブルの表現力に満ちた高声の鳴りっぷり、そして質感豊かで訴求力に満ちた低声の充実感とが、こよなく強調されていて、それが異常なほどの音楽の緊張感をブーストさせ、それにSACD仕様の高音質が加わり、実に恐ろしいほどの聴きごたえがもたらされています。

中盤の(17:25)からの弦のフガートにおいては奈落の底が口を開いたような壮絶な雰囲気が立ち込め、(19:49)あたりのクライマックスに到っては、あまりに凄いので聴いていて気が動転するくらいで、もう正気を保っているのが精一杯という有り様でしたし、(23:27)からの再現部では、かつて聴いたこともないような猛烈なテヌートを仕掛けて強烈無比な起伏を作り出し、その狂気的な音景に半ば押し潰されそうな体でコーダまで聴き通しました。

第2楽章と終楽章も含めて、このキタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管によるショスタコーヴィチの4番は、その熾烈を極める演奏展開が実に容赦なくリアルに迫ってきて、果ては人間の実存自体に纏わる恐怖といった観念に思いを巡らせられる地点にまで、聴き手を引き摺りこむかのような、そんな途方も無い演奏でした。

それにしても、21世紀の現代において、これほどのショスタコーヴィチを表現できる指揮者が存在するというのは私にとって少なからぬ驚きでもあり、かつてモスクワの楽壇で活動したというキタエンコの経歴から察するに、往時の旧ソ連に立ち込めていた何がしかの異常な空気のようなものが、この演奏には封じ込められているのではないかとか、演奏を聴きながら、ふとそんなことを思ったりしました。

そのあと5番、6番、7番と聴いたのですが、こと表出力においては前述の4番と同格で、素晴らしいのですが、惜しいことに完成度面では若干ながらムラがあるようですね。

というのも、この全集の録音形態はスタジオ録りとライヴ録りとが混在しているのですが、ライヴ録りの方において若干のミスが聴かれるからです。例えばライヴ録りの交響曲第7番の第1楽章コーダ(24:50)で、弦の一部が盛大にフライングしているのが耳を捉えます。

ともあれ、このキタエンコのショスタコーヴィチ全集、残り11曲も時間をみつけてじっくり聴かせてもらうつもりでいます。

ヒコックス/BBCウェールズ・ナショナル管によるスタンフォードの声楽作品集


「シャンドス30周年BOX」収録盤の感想記の続きですが、今回はCD21になります。

ANNI-21
スタンフォード 声楽作品集
 ヒコックス/BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団
 2005年録音

アイルランド出身でイギリスにゆかりの深い作曲家チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの声楽曲を収録したアルバムです。収録曲は①歌曲集「艦隊の歌」②艦隊のバラード③歌曲集「海の歌」。

ひと通り聴いたのですが、この3曲中では②の「艦隊のバラード」に最も惹かれました。

当CDのブックレット記載の英文に拠りますと、この曲はアルフレッド・テニソンの詩「The Revenge:A Ballad of the Fleet」を歌詞とする合唱曲で、大航海時代のイギリスの提督サー・リチャード・クレンヴィルが、1591年のスペイン艦隊との攻防の折り、旗艦リヴェンジで戦死を遂げる、いわゆる「グレンヴィルの最後の戦い」が題材となっているとのことです。

ところで少し余談になりますが、このボックスセット自体には、実はブックレットは収録されていません。

そのかわり、シャンドスレーベルの運営するオンラインサイト上から、このボックスセット収録の全30枚のCDのブックレットを無料でダウンロードできるようになっているようです。上で書いた「当CDのブックレット」とは、このダウンロードファイルを指しています。

ダウンロードファイルの形式はPDFですので、ファイルを閲覧するためには、例えばアドビのアクロバットリーダーのようなPDFビューアが必要ですが、それさえパソコンにインストールされていれば、収録CDすべてのブックレットを自由に読むことができます。以上、ご参考までに、、

話を戻しますと、ヒコックスの指揮はいかにも彼らしい、端正にして見晴らしの良いアンサンブル形成で、第10トラック(2:05)あたりで語られるクレンヴィル戦死のくだりなども、殊更に効果を狙わない抑制の効いた語り口で表現されていて、かえって感銘深い感じがしますし、全体的にもスタンフォードの手による抒情的で親しみやすい音楽の魅力を過不足無く伝えた好演奏と感じました。

①と③の歌曲集ではカナダの若手バリトン、ジェラルド・フィンリーが独唱を担っていて、こちらもなかなかの歌唱を披歴しています。①「艦隊の歌」終曲「Farewell」(4:42)からのFor ever more their life.....あたりなど聴いていてジーンと来ました。

クリュイタンス/パリ音楽院管によるラヴェルの「マ・メール・ロア」全曲


ラヴェル 「マ・メール・ロア」全曲、高貴で感傷的なワルツ
 クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団
 EMIクラシックス 1962年 CC33-3398
CC33-3398

先週末に、最近発売されたクリュイタンス/パリ音楽院管来日公演ラヴェル・コンサートの新リマスター盤を聴き、その印象について音質を中心に掲載したのですが、そのCDのライナーノートに、アンドレ・クリュイタンスの来日時に日本のレコード雑誌から受けたインタヴューの内容が記載されていました。

そのインタヴューの中で、それまでクリュイタンスが録音したレコードの中で最も好きなものは何か、という記者の質問に対し、クリュイタンスは「私はマ・メール・ロワが一番良く出来たと思っていますし、このレコードが好きです。」と答えています。

周知のようにクリュイタンスはパリ音楽院管とともに、EMIにフランス作品の録音を数多く残していますが、私の印象として、それら一連の録音の中ではビゼーの「アルルの女」第1・第2組曲と「カルメン」組曲を収録したCDがベストではないかと感じていました。しかし前述のようにクリュイタンス本人はマ・メール・ロワであると述べています。

この点、マ・メール・ロワは来日公演の演目でもあり、日本の聴衆への多少のリップサービスの意も含まれていたのかも知れないですが、いずれにしろ、クリュイタンス本人が会心の演奏と述べた、その「マ・メール・ロア」全曲盤を、久々にプレーヤーに掛けて聴いてみました。

その印象ですが、演奏自体はまさに同曲の古典的名盤と呼ぶに相応しい、立派なものだと思うのですが、ラヴェル演奏としてはやはり録音の古さによる音質的不利がそれなりに、という感じもします。「眠りの森の美女のパヴァーヌ」の出だしあたりなど、弱奏時の響きの夢幻がかなり削がれている点が惜しいですし、他曲にしても、やはりこの「マ・メール・ロア」はノイズを抑えたデジタル録音の方が、ずっと楽味が引き立つような気がするので、たとえ録音当時は最高音質であったとしても、21世紀の今日においては、そのようなデジタル録音の競合盤よりは音質的な土俵において、少なからぬ後れを取っていることは否めないような気もします。

しかしそれでも聴いていて惹きつけられてしまうのは、アンサンブルの表情の色合いが、まるで生き物のようなリアル感をもって鮮やかに推移していく点で、それは音質に関係なく凄いと思います。いわばラヴェルの捉えどころなく変化する音楽の表情が、過度に繊細ぶらない肉厚豊かな筆致によりガッチリと捕捉されているばかりか、そこでは曲調に相応しい幻想味をひき立てつつ、飄々としたフレージングの上に展開される管パートの色彩的な饒舌さがその幻想味にさらに拍車をかけている、そんな感じの演奏ですね。

もっとも、「美女と野獣」の(1:06)からの、野獣を表す低音パートの音色は、ちょっと優雅過ぎるという気もしますし、先に挙げたビゼーの「アルルの女」・「カルメン」両組曲の録音よりは、総じてシンフォニックな濃厚さが抑制されている(曲想を考えれば当然ですが)ことも含めて、やはりクリュイタンスのフランスものの中ではビゼーの「アルルの女」・「カルメン」組曲を収録したCDがベストという、私の認識を揺るがすには到りませんでした。

それでもやはり、この「マ・メール・ロア」全曲盤もまた名指揮者の至芸に、往年のパリ音楽院管の味の濃い音色が華を添えた、クリュイタンスの面目躍如たる演奏なのだということを、改めて思い知らされました。

安永徹のベルリン・フィル退団記念コンサートのライヴ盤


安永徹のベルリン・フィル退団記念コンサート
 安永徹(vn)、ベルリン・フィルの弦楽メンバー
 Ippnw 2009年ライヴ IPPNW66
IPPNW66

世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルの第一コンサートマスターを1983年以来務めてきた安永徹は、周知のように今年2月のコンサートを最後にベルリン・フィルを退団されたのですが、その退団を記念した室内楽コンサートのライヴCDがドイツIppnwレーベルより先月リリースされました。

2009年2月1日ベルリンのフィルハーモニーでのライヴで、演目は以下の3曲です。
①ドニゼッティ 弦楽四重奏曲第5番
②ブルックナー 弦楽五重奏による間奏曲ニ短調
③チャイコフスキー 弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」

上記①~③いずれも、本来の編成に対しコントラバスが追加された形で演奏されています。したがってドニゼッティは弦楽五重奏、ブルックナーは弦楽六重奏、チャイコフスキーは弦楽七重奏曲の形態でそれぞれ演奏されていることになります。

ここでの演奏者は安永氏を始めとして、第2ヴァイオリンにはアレッサンドロ・カッポーネ、ヴィオラにはヴォルフラム・クリスト、チェロにはルートヴィヒ・クヴァントというように、アンサンブル全員がベルリン・フィルの弦楽奏者によって構成されています。

その演奏を聴いてみると、最初のドニゼッティにおいては、編成が比較的小さいことと、作品の性質によるのか、安永徹のヴァイオリン・ソロにおいては、力を抜いてリラックスした構えから繰り出される、スムーズなメロディの動きやソノリティの美しさが素晴らしく、他の4人のメンバーとともに、カチッとしたアンサンブルからアットホームな音楽の表情が形成されていて、そのこなれた合奏の佇まいに率直に魅了されたのですが、これが次のブルックナーになると、編成の増加と作品の禁欲的なムードに伴い、ピリッとした緊張感のようなものが合奏に付帯し、アットホームな雰囲気は残しながらも、次第に本格的なアンサンブルの構えに移行していくようなずしりとした手ごたえが、先のドニゼッティよりもひとまわり強い印象を演奏に纏わせています。

そして最後のチャイコフスキーになるや、第1楽章冒頭から安永徹の迫真ともいうべきボウイング展開が耳を捉え、そのまま最後まで捉えて放さない、まさに入魂の演奏というべきでしょうか、とにかく聴いていて激しく心揺さぶられる演奏です。なかんずく再現部冒頭でメインのテーマが最強奏で出る(6:27)での研ぎ澄まされたヴァイオリン・ソロの表出力など、本当に惚れぼれしますし、合奏全体の緊密な一体感や求心力もただごとでなく、ことにコーダに入ってものすごい加速を経た、全力疾走のアンサンブルが一糸乱れぬあたりなど耳にすると、ああこれがベルリン・フィルなんだと、今さらながらに納得させられてしまいます。第2楽章以下も同様に素晴らしく、終楽章などは何か万感の思いの籠ったような、聴いていて怖いほどの迫真の表情に満ち、聴き終えて改めて、その演奏のひたむきさに心打たれる思いでした。

正直、私はこのCDを聴く前は、そのフェアウェルコンサートという位置づけから、おおよそ演奏としても最初から最後までリラックスした気楽なムードのものはないかと想像していて、半ばそのインティメートな雰囲気を味わうつもりでプレーヤーに掛けたのですが、いざ聴いてみると、コンサート中盤以降は気楽どころかむしろ真剣勝負の気概が演奏に立ち込め、最後のチャイコフスキーに到っては気魄に溢れた圧巻ともいうべき熱演となっていたのでした。そもそも1977年の入団以来、30年以上にもわたり務めたベルリン・フィルを退団する記念コンサートというものの重みを、いささか軽く考えていた私自身を恥じる思いがしましたが、同時にこれほど充実を極めた、安永徹会心の演奏を耳にしたことによる、その余韻と感動とは、聴き終えてからも容易に私を解放してくれませんでした。

以上のようなことから、私は本ディスクを一人でも多くの方が耳にして頂きたいと願って止みません。

もちろん本ディスクが既に大評判になっているのなら、こんなことは敢えて言わないのですが、少なくとも現状において、どうも全くと言っていいほど話題になっていないようですので、あまりにも勿体ないと思い、僭越ながら書き添える次第です。

ジャパン・シンフォニア第13回定期演奏会の感想


昨日のコンサート(井上喜惟/ジャパン・シンフォニア 第一生命ホール)の感想です。

オーケストラの編成は全演目とも8型、編成は向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置でした。

ちなみに今回の演奏会には「ハプスブルグの幻影」というテーマが設定されていました。これは要するに往年のオーストリア=ハンガリー帝国の地域性を踏まえた選曲ということなのでしょう。

最初のスメタナの歌劇「秘密」序曲ですが、これは初めて聴く曲ですね(CDでも聴いた覚えがない)。冒頭トロンボーンの勇壮な強奏で幕をあけるのですが、かの「わが祖国」と作曲時期がほぼ重なっているということからか、聴いた感じも、だいぶ似た雰囲気があり、10分弱の作品ながら、チェコの民族色豊かな佳曲という印象が残りました。

続くコダーイのガランタ舞曲ですが、ハンガリーの民謡が題材に組み入れられているという点で、こちらもやはり民族色の強い音楽と言えるのですが、この演奏を客席で聴いていた時に、私の脳裏に、ちょうど一ヵ月前サントリーホールで聴いたウィーン・フィル来日公演のバルトーク「管弦楽のための協奏曲」(オケコン)が浮かんできたのでした。

というのも、コダーイとバルトークはハンガリーの同郷ですし、作品自体としても、作曲時期が互いに近いことや民族色が強いこと、或いは管パートを中心にソロイスティックな技巧が要求されるという点などで、ガランタ舞曲はオケコンと共通する性質があると、聴いていて感じたからです。

それはあくまで音楽としての性格の話であって、ことさらに強調することも別にないのですが、それがどうも聴いているうちに、そういった作品の類似性を一歩超えて、さらにはオーケストラ自体の演奏様式としても、ジャパン・シンフォニアとウィーン・フィルは何かが似ているのではないか、という観点に思い到りました。

具体的に何が似ているのか、というのはかなり感覚的な話になってしまうのですが、個々のフレージングの伸縮に総じて柔軟性があり融通の利いた表情の多彩さがあるとか、或いはパート同士の連帯が緊密で、例えばフルートとオーボエのユニゾンがまるで一つの楽器のように聞こえるとか、そういうことの積み重ねからそういう風に感じたのでした。

そもそもジャパン・シンフォニアというのは、ヨーロッパの楽団の演奏様式なり奏法なりを研究し、その成果を自身のアンサンブルに反映させた音楽造りを行うオーケストラである、という話をしばしば耳にするのですが、私には今までそれがピンとこなくて、「そう言われてもなぁ」くらいに思っていたのですが、このコダーイを聴いて、ひょっとしたらそういうことなのかも知れない、というような実感を自分なりに掴んだような気がしました。もちろん気がするだけで、全く見当外れである可能性もあるのですが、いずれにしても、このあたりの感覚は日本のオーケストラ一般のそれとひき比べても希有のものであるように思われるので、胸に留めておいても良さそうだなと感じました。

しかし後半のブラームスの4番になると、そういったウィーン・フィルに似ている云々の感覚は後退し、むしろ室内楽バランスによる音響のユニーク性に対して私の意識が強く向けられました。

この交響曲を8型で演奏する以上、普通に演奏してもオーソドックスなバランスとは懸け離れたものとなるのは自明ですが、それが井上喜惟の指揮により、非常に洗練された、ピュアな音響体に昇華された上で聴き手に披露されるので、聴き慣れた音景とは一味もふた味も異なる、その音楽のフレッシュな趣きと、それに付随する音響自体の得も言われない美感に、聴いていて強く惹き込まれる思いでした。

例えばホルンにしろフルートにしろ、ことさらに力奏しなくても、パッセージがナチュラルな強度で弦の音層の上に乗るので、全奏であろうとなかろうと、とにかく響きが濁らず、したがって重奏においても透明でピュアな響きが保たれますし、低弦と高弦とのフレーズの掛け合いにおいて室内楽のような緊密さと親密さとで対話が交わされていくあたりなども素晴らしい聴きものであり、色々な局面において聴いていて実直にわくわくするような感じが満載の演奏というべきものでした。

敢えて気になった点を挙げるなら、全体的にテンポの振幅が穏やかに馴らされていたことでしょうか。作品のカラーに照らすと、いまひとつ意図が掴みにくいものでしたし、むしろテンポを積極的に動かしてフットワークを強調した方が、小編成オーケストラの利である一体感と求心力が活きるような気もしますし、、もっとも、それは素人考えなのかもしれないですが。

以上、本公演は演奏も十分に良かったのですが、それ以上に、まず初聴きのスメタナ、意外なアンサンブルの美質に意識を向けられたコダーイ、そして室内楽バランスのユニークにして洗練を極めたブラームスと、いずれも各々の新鮮なインプレッションを堪能した結果として、濃厚な余韻の残るコンサートでした。

ジャパン・シンフォニアの定期演奏会(第一生命ホール 10/25)


今日は第一生命ホールでジャパン・シンフォニアの第13回定期演奏会を聴きました。

2009-10-25

指揮は音楽監督の井上喜惟、演目は前半がスメタナの歌劇「秘密」序曲とコダーイのガランタ舞曲、後半がブラームスの交響曲第4番でした。アンコールとしてブラームスのハンガリー舞曲第5番が演奏されました。

ジャパン・シンフォニアを聴くのは今年4月の第12回定期演奏会以来ですが、今回の演奏会では特にブラームスの4番が演目に載せられており、これは聴き逃せないと思っていました。

というのも、私は一昨年の秋のジャパン・シンフォニア第9回定期演奏会においてブラームスの交響曲第1番を聴いたのですが、そこでの演奏自体の素晴らしさもさることながら、室内楽ホールでブラームスの交響曲を初めて体験し、聴き慣れているはずの作品に対して改めて新鮮な気分で向き合えたことの愉悦が、今でも印象に残っているからです。

2007-11-10
↑第9回定期演奏会(07年11月)の時のプログラム

感想は例によって後日あらためて出しますが、やはり一昨年同様に、新鮮なブラームスが披歴され、その音景を満喫しました。見慣れているはずの風景が、角度を変えて眺めたら見たこともないくらいフレッシュな景観だった、みたいな感じですね。

また、今日のジャパン・シンフォニアのアンサンブルからは、先月ウィーン・フィルの実演を聴いた時の感覚に何となく近しいような印象を聴いていて感じたのですが、それについても、少し触れてみたいと思います。

クリュイタンス/パリ音楽院管の64年東京でのラヴェル・コンサートの新リマスター盤


ラヴェル 管弦楽作品集 
 クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団
 Altus 1964年ライヴ ALT167/8
ALT167

先般リリースされた、クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団の東京でのラヴェル・コンサートを収録した新リマスター盤を聴きました。

これは1964年5月、東京文化会館におけるクリュイタンス/パリ音楽院管の最初で最後の来日公演のライヴで、オール・ラヴェル・ブログラムによる当日のコンサートが完全収録されています。

収録曲は、①スペイン狂詩曲②マ・メール・ロア③ラ・ヴァルス④クープランの墓⑤亡き王女のためのパヴァーヌ⑥ダフニスとクロエ第2組曲、それにアンコールとして奏された⑦ベルリオーズのラコッツィ行進曲と⑧同じくベルリオーズの「妖精の踊り」、以上の計8曲で、すべてモノラルなのですが、これらとは別に、②③⑤⑥の4曲に関してはステレオ・ヴァージョンの録音も併録されています。

今回初出とされる⑧を除く①~⑦の演奏は、実は以前アルタゥスからリリースされたALT004/5に収録のものと同一演奏なのですが、そのリリース後、上記②③⑤⑥のステレオ録音のテープが新たに発見されたことに伴い、先のALT004/5収録のモノラル録音に新リマスタリングを施した上で、新発見のステレオ録音と組み合わせてリリースされたのが本ディスクということになるようですね。

そのALT004/5は私も以前購入していて、その簡単な印象も別館の方に出しているのですが、演奏は良いと思われるのに音質がいまいちで、もったいないなというのが率直な感想で、具体的には、「その音質に関しては、モノラル録音である上、テープノイズの水準がかなり高くて、弱音部の音抜けがかなり悪いなど、ALT003の幻想交響曲と大体同じような感じで、良好とは言い難い。ベルリオーズでは音質以上の音楽としての雄弁な語り口に惹かれたが、さすがにラヴェルともなるとそれも厳しい」という風に書きました。

対して、今回の新リリース盤は、ALT004/5の音質を新リマスターで改善した上にステレオバージョンまで付いてくるというので、どんな感じだろうと思い購入してみました。

ALT004
左が今回のALT167/8、右が以前のALT004/5です。

それで両盤をざっと聴き比べてみたのですが、まず新リマスターのモノラル版に関しては、なるほど確かにALT004/5の音質と比べてかなり聴き易くなっている感じがします。全体にテープノイズの水準がかなり低く抑えられているのが良く、おかげで弱音部の音抜けがかなり改善されているようですし、色彩的なメリハリもひとまわり強くなっていて、ALT004/5よりもカラフルな音響展開が耳を楽しませてくれます。

もっとも、ALT004/5より若干、フレージングの線が細くなったかなという気もします。例えば、亡き王女のためのパヴァーヌの冒頭のホルンなど、同じ音量で再生すると、ALT004/5の方が厚みが乗ってリアルな感じがしたりするのですが、そのあたりはノイズカットと色彩補強の代償としてやむを得ないというところでしょうか。

いずれにしても、こちらの新リマスター盤の方の音質が、全体的には良好とみられました。これによりALT004/5では何となく察せられるに留まっていた実演時のソノリティの雰囲気の極上な美しさが現前に立ち現われ、まさにフランス的なイメージがピタリとくる妙なる音の醍醐味に聴いていて酔わされる思いでした。

つづいて、併録のステレオ版を聴いたのですが、これは率直に言ってガッカリでした。

なにしろノイズレベルがALT004/5に輪をかけて高く、非常に聞き苦しいですね。モノラル部から続けて聴くと、尚更そう感じます。ステレオ感はまずまずなだけに、ちょっと勿体ない感じがしますし、これはリマスタリングでどうにか出来なかったのかという疑問も残ります。

そういうわけで、新発見のステレオ部の方は、いささか期待外れでしたが、新リマスターのモノラル部に関しては満足のいくものでしたし、これはおそらくステレオ部はオマケ程度に考え、モノラル部をメインに聴くという感じになるのではないかと思います。

引き続き、クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管によるマーラー交響曲第7番「夜の歌」


マーラー 交響曲第7番「夜の歌」、5つの歌
 クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
 EMIクラシックス 1968年(交響曲)、62年(歌曲) TOCE-3233-34
TOCE3233

昨日の続きです。結局、まとまりませんでしたが、、

ここでクレンペラーが行っている運用上の特徴は、「スローテンポを貫徹すること」です。したがって、この演奏ではマーラーがスコアに記載した事細かいテンポ変化の指示が、全面的に排除し尽くされています。

このテンポ変化の指示に対する排除の度合いがとにかくハンパでなく、第1楽章を例にとると、(4:17)からの第1テーマにおけるアレグロ指定といった、広域的なテンポ指示を完全無視するのはもちろんのこと、第174小節(8:26)からのモルト・ぺサンテのような、局部的なテンポ指示さえもことごとく無視されていて、何があろうとイン・テンポのスロー、一点張り。これではなるほど、総タイム100分にもなるわけで、まさに「異形の演奏」としか言い様のない、そんな演奏です。

私が聴いていて思わず頭を抱えたくなったのは、一体マーラーの直弟子たるクレンペラーが、何を意図してこういう奇怪な解釈を実行したのか、それがどうにもピンとこなかったからです。確かに最晩年のクレンペラーは、イン・テンポのスタイルに傾斜しており、このマーラーもその流れで捉えれば話は簡単とも思えますが、その時期のクレンペラーの他の録音とひき比べて見ても、このマーラーでの造型の異形性はあまりにも際立っているように思えます。

演奏を聴きながら、こういう常軌を逸したテンポ設定を行い得る指揮者は、さて他に誰がいるだろうと考えてみると、唯一思い当たるのが、最晩年のチェリビダッケです。しかしチェリビダッケは、マーラーには手を出さなかった、、、

果たして、このクレンペラーのマーラー7番は、演奏として成功しているのか、失敗しているのか、私にはちょっと判りかねます。なるほど、他盤では絶対に耳にし得ない音楽の景観となっているのは確かで、それは聴いていて新鮮ですし、イン・テンポの積み上げが巨大な音楽の造形をイメージたらしめ、宇宙的なまでのスケールの広がりを垣間見させる局面も少なからずあり、そういった意味では成功しているのかも知れないのですが、比率的には、そうでない部分の方がむしろ多い、というのが率直な感想です。あまりにもテンポの起伏に乏しく、音楽が淡々と流れ、表情がもの憂く、聴いていて退屈さを催す局面も正直かなり有りました。とにかく、集中力を維持して聴き通すだけでも一苦労です。

マーラーの想定した楽曲の生理に、敢えて背き抜いたクレンペラーのマーラー7番。名演か迷演か、快演か怪演か、その判断は少なくとも私の手に余るものでしたし、たぶんいくら考えても、スパッと割り切れないような気もします。迷宮のような、ブラックホールのような、不思議な演奏です。

クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管によるマーラー交響曲第7番「夜の歌」


マーラー 交響曲第7番「夜の歌」、5つの歌
 クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
 EMIクラシックス 1968年(交響曲)、62年(歌曲) TOCE-3233-34
TOCE3233

今日は、オットー・クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮して最晩年に録音した、マーラーの7番の演奏を聴いたのですが、、、、

このクレンペラーのマーラー7番は、その演奏内容の際立った異色性のため「異形の演奏」として語られていながら、これまで長らく入手不能とされてきた盤です。私も一度耳にしたいと思っていたのですが、どうにも入手できずにいたところ、最近になって再プレスの運びとなり、それが先月リリースされて、ようやく入手することができました。

それで、いざCDをプレーヤーにかける前、パッケージに書かれた演奏時間の記載を確認しました。第1楽章27分半、第2楽章22分、終楽章24分、、、尋常でない数字が並んでいます。総タイムは、、、何と100分。

このような数字自体、演奏内容の異形性を雄弁に物語っていて、何というか、聴くのにひるむというか、ちょっとした勇気が要る感じです。

それで勇気を奮い?、ひと通り聴いてみたのですが、、、、

率直に言って、想像を絶する演奏内容でした。

この演奏は、一体何なのだろうと、聴いていて思わず頭を抱えたくなるような、冗談ともつかない、取り付く島が容易に見つからない、それがこのクレンペラーのマーラー7番に対する、私の第一印象です。

本来なら、いつものように、ここで何らかの感想を書くところなのですが、申し訳ないですが考えがまとまりませんでした。この演奏をどう捉えるべきか、それがどうにも見えてきません。こういうことは、滅多にないのですが。

そういう訳で、また明日あらためて聴き、その上で、この演奏に対する私の考えを何とかまとめてみたいと思います。それでも考えがまとまらない恐れも多分にありますが、その時は御容赦いただきたいと思います。

ショスタコーヴィチJrのピアノ・ソロによるショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番


「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に19枚まで掲載しているのですが、続いてCD20を聴きました。

ANNI-20
ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番、室内交響曲110a
 ショスタコーヴィチJr.(pf) 
 M.ショスタコーヴィチ/ムジチ・ドゥ・モントリオール
 トゥロフスキー/ムジチ・ドゥ・モントリオール(室内交響曲)
 1984年録音

ピアノ協奏曲の方の演奏はピアノ・ソロがドミトリー・ショスタコーヴィチの孫で、指揮も息子のマキシム。いずれもショスタコーヴィチ直系の肉親によるもので、やはり作曲家と同じ血の為せる説得力のようなものが息づいている演奏というべきでしょうか。

第1楽章(1:28)あたりの第2テーマのマルカーティッシモなどのように、高速テンポでのフレージングの切れ具合が総じて素晴らしいですし、またこのコンチェルトの核心ともいうべき第2楽章の中間部における表出力もただごとでなく、なかんずく4つのフォルテがスコアに刻み込まれた(3:25)からのくだりにおける打ち込みの鮮烈感など、ピアニストの作品に対するシンパシーの強さが良く表れているようで、聴いていて実直に感じ入りました。

この協奏曲の最近の録音では、マツーエフがRCAにテミルカーノフ/サンクトペテルブルク・フィルと収録した演奏が記憶に新しいところで、それと比べるとこのショスタコーヴィチ・ジュニアの演奏は迫力的にやや及ばない印象も残るところですが、前述のように、この演奏はなにか迫力とは別の強い説得力に満ちていて、おそらく血脈のつながりに起因する共感の深さによるものなのか、聴いていて、すべての音符が強度なリアリティをもって鳴り響いているような、そんな気配を感じます。

併録の室内交響曲ですが、こちらもオーケストラはムジチ・ドゥ・モントリオールですが、指揮者がユーリ・トゥロフスキーに代わっています。

この室内交響曲Op.110aは同作曲家の弦楽四重奏曲第8番のオーケストラ編曲版として知られる作品で、その編曲者は指揮者のルドルフ・バルシャイです。

ここでのトゥロフスキー/ムジチ・ドゥ・モントリオールの演奏は、シャープでリアルなアンサンブルの練り上げに惹かれるものがあり、ことに第2楽章に聴かれるヴァイオリンのハイ・トーンの痛切な色合いなどには、この作品の狂気を端的に音化しているような趣きがあります。

ただ、この曲においては異演盤にも名演は少なくなく、例えば編曲者バルシャイ自身が残している複数の録音などがそうであり、中でもバルシャイがミラノ・ヴェルディ響を指揮した最新盤が圧巻の名演として私の記憶に残っています。他にも、最近ではバシュメットがモスクワ・ソロイスツ合奏団と録音したオニキス盤などのような名演もあり、そのあたりの演奏と比較すると、このトゥロフスキーの演奏は聴いていて何かあとひとつ、決め手が欲しいような印象も残りました。

パッパーノ/ローマ聖チェチーリア国立音楽院管によるヴェルディのレクイエム


ヴェルディ レクイエム
 パッパーノ/ローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
 EMIクラシックス 2009年ライヴ 6989362
6989362

先月リリースされた、アントニオ・パッパーノが指揮するローマ聖チェチーリア国立アカデミー管の演奏によるヴェルディ「レクイエム」のCDを聴きました。

09年1月ローマのアウディトリウム・パルコ・デラ・ムジカで行われたコンサートでのライヴ収録ですが、終演後の拍手はカットされていました。独唱陣はソプラノがアニヤ・ハルテロス、メゾがソニア・ガナッシ、テノールがローランド・ヴィラゾン、バスがレネ・パーぺというメンバーで、いずれもイタリア・オペラ方面における現在のスター歌手を並べた豪華な顔ぶれですね。

さて、パッパーノのヴェルディのCDというと、私はちょうど先月パリ管との「ドン・カルロ」を聴いていますし、ローランド・ヴィラゾンについても、先々月聴いたビリー/バイエルン放送響盤の「ボエーム」においてロドルフォの名唱を堪能したところですし、さらにレネ・パーぺに関しては、先月のミラノ・スカラ座来日公演のヴェルディ「ドン・カルロ」でフィリッポⅡ世を歌うのを客席で聴き魅了させられたばかりです。

そんなこんなで、このヴェルレクは何だか私にとってタイムリーなリリースだなという気がしました。

それで聴いてみると、パッパーノ/ローマ聖チェチーリアのオーケストラ・ドライブは相変わらずの素晴らしさで惚れぼれするばかりです。このコンビに関しては、私はチャイコフスキーの後期交響曲集を聴いたあたりから注目していたのですが、つまりところ指揮者とオーケストラの相性がいいのか、アンサンブルの充実感に目を見張るものがあり、そこにイタリアのオーケストラの個性感が高いレベルで付着されていて、聴きごたえ満点というほかありません。

第2曲「ディエス・イレ」冒頭「怒りの日」など、アンサンブル展開が圧倒的な強烈度で迫ってきて度肝を抜かれましたが、そこではトランペットの強アクセントが目の覚めるばかりに強調されていて、それが最強奏を突き抜けて鳴り響いていて壮観の極みですし、ティンパニのド迫力もすこぶるつきで、まさに「この世の終わり」のジリジリするような緊迫感が立ち込め、これでこそという気がしました。同じことは「チューバ・ミルム」でのトランペットのユニゾンの後の全合奏や、「リベラ・スクリプタス」の終盤アレグロ・アジタートで「怒りの日」が再帰する場面などにも当てはまり、いずれも熾烈を極めた色合いの鮮やかさにおいて、このコンビならではの素晴らしい果実が伺われるものでした。

声楽陣の歌唱様式は全体にかなり表情的で、第1曲「レクイエム」のキリエ・イレイソンなどメリスマをたっぷり効かせた様式が披露されていますし、「チューバ・ミルム」後半の全休止の後のモルト・メノ・モッソで最後の審判に対する畏怖を歌う場面など、パーぺの表現力の鮮やかさもあり、まるでオペラのひとコマのような臨場感と迫真のリアリティに惹き込まれます。4人の独唱陣の中ではやはりパーぺが一頭地を抜いた感があり、なかんずく「ラクリモサ」のくだりでは、先月のスカラ座来日公演ドン・カルロの第3幕ラストで披歴されたロドリーゴ追悼のアリアでの名唱ぶりが、聴いていてオーバーラップしました(何しろメロディが同じですので)。

次いではガナッシの名唱ぶりが印象的で、「リベラ・スクリプタス」冒頭の凄いヴィブラートといい、やや芝居がかった感じも強いとしても、いかにもオペラ的で、気持のいい歌いぶりです。ハルテロス、ヴィラゾンもまずまずですが、パーぺ、ガナッシのような突き抜けた感じはなく、彼らの実力からすると、わずかに不完全燃焼かなという感もあるのが惜しいところでした。

オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会の感想


オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会(浜離宮朝日ホール 10/17)の感想です。

オーケストラ編成はハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンすべて6型、バランスは第1ヴァイオリン6人に第2ヴァイオリン5人、ヴィオラとチェロが各4人、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリンと並べた対向配置でした。

例のごとく入念なチューニング(OLCはチューニングに普通のオケの倍以上の時間をかけますが、フレージングでヴィブラートを抑制する関係上、音程のブレが許されないからでしょう)に続いて、最初のモーツァルト・交響曲第29番冒頭の、麗しい主題フレーズが、透明感のある弦の響きを起点に滑らかに流れ出します。以降もアンサンブルにおける室内楽的なまとまりの揺るぎなさと、クリアーにフォーカスされたハーモニーの美しさと、ピリオド・アンサンブルならではの繊細なニュアンスと、そういった要素が混然として織り成す夢のようなモーツァルトが披歴され、いきなり凄い耳の御馳走だなと感じ入ったのですが、ただその雰囲気は、一様に女性的というのか、迫力面を前面に押し出すことはむしろ避けられていて、モーツァルトの29番としてはこれで充分としても、ハイドンの88番と、ベートーヴェンの1番でも同じ調子だったら少しマズいな、という気がしたのも事実でした。

これが次のハイドン・交響曲第88番になると、先のモーツァルトよりはアンサンブルに格段に力感と迫力が漲り出し、先程の心配が全く杞憂だったことを強く思い知らされるとともに、これまでCDなり実演なりで幾度となく耳にした「OLCのハイドン」が鳴りだした安堵感に、心地よく身を委ねて音楽に浸りました。彼らがハイドンを、いかに自家薬籠中のものとしているか、それが端的に伺われる演奏というべきでしょうか。ハイドンの綿密な設計によって創り出された音響的なイメージが、曖昧のないキリッとしたオリジナル楽器アンサンブルの手により、白日の下にされるような、そんな演奏。先のモーツァルトとはまた趣きを異にする耳の御馳走とでもいうべき音響の稠密ぶりと充実感に、聴いていて今さらながらに惹き込まれる思いでした。

休憩を挟んだベートーヴェン・交響曲第1番ですが、これは先のハイドンに輪をかけてアンサンブルの力感と迫力を前面に押し出した、OLCとしては異例とも思えるほどに熱のこもった演奏となっていたことに驚かされました。ことに最初のモーツァルトでの、クールで温雅なアンサンブルの佇まいと比べると、ほとんど別団体かというくらいの、鮮烈を極めたベートーヴェン。激しいアタックを伴う弦の厳しいボウイング、ここぞという時に繰り出す金管の最強奏の圧倒的な鳴りっぷり、そしてティンパニの激烈な強打。トッティでのホールを吹き飛ばすかのようなド迫力も素晴らしく、オリジナル楽器の飾らない音色の迫真も存分に引き立ち、これでこそベートーヴェンという感じがこよなく漂う、そんな見事な演奏でした。

こうして見ると、本公演でOLCは3人の作曲家の各交響曲に対し、その表情というか味付けをはっきりと差別化して臨んでいたことが、ほぼ明瞭に伺えました。最初のモーツァルトでは女性的な感じのソフトな表現から始め、ハイドンを中間点として、ベートーヴェンになるとむしろ男性的なイメージを強く押し出した、強烈なヴァイタリティとゴツゴツとしたハードな感触を伴う表現にシフトしていったのですが、その変化を聴き手に印象づけるのに、真ん中のハイドンが如何に重要な役を演じたか、それが振り返って印象的でした。

ただ少し気になったのが、OLCはヴァイオリン奏者における女性の比率が際立って高く、本公演でも第1ヴァイオリン6人は全員女性、第2ヴァイオリンも5人のうち4人までが女性という状態でした。対して弦低声部はほぼ男性奏者で占められています。こういうバランスだとアンサンブルにおいてある種のメリハリ、言うなればソフトでまろやかな高声に対比するハードで引き締った低声といった、絶妙なコントラストが付き、それがハーモニーの色彩に巧く立体感をもたらしているような感もありますが、もし今後OLCがベートーヴェンにさらに進むなら、曲によってはヴァイオリンパートに男性奏者を積極的に投入して、バランスを再構成した方が上手くいくような気がしなくもありません。

以上、本公演はOLCのオリジナル楽器オーケストラとしての幅広い表現力を改めて実感させられましたし、特に最後のベートーヴェンに到っては、多少の綻びはあっても、OLCの次のステージの可能性を存分に感じさせるとともに、浜離宮朝日ホールでの有終の美を飾るに相応しい感動的な演奏が披歴され、日本のオリジナル楽器アンサンブルの表現力の、ひとつの到達点を画すという意味でも意義深いコンサートと感じました。

オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会(浜離宮朝日ホール 10/17)


今日は浜離宮朝日ホールで、オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会を聴きました。

2009-10-17

指揮者はもちろん鈴木秀美、演目はまずモーツァルトの交響曲第29番、続けてハイドンの交響曲第88番「V字」、休憩を挟んでベートーヴェンの交響曲第1番というものでした。アンコールにはベートーヴェンの「6つのメヌエット」WoO.7よりニ長調のメヌエットが演奏されました。

周知のようにオーケストラ・リベラ・クラシカ(OLC)は、オリジナル楽器を用い、レパートリーを古典派の音楽に限定して演奏するというポリシーを掲げるオーケストラで、これまでハイドンの交響曲作品を中核としながらC.P.E.バッハやモーツァルトなども取り上げてきたのですが、今回はいよいよベートーヴェンの交響曲作品が、少なくとも彼らのホームグラウンド浜離宮朝日ホールでの公演としては初めて演目に載せられました。

この点に関し、今日の公演プログラムに掲載された鈴木秀美氏の寄稿文には

OLCとしてはハイドンを中心とする18世紀中ごろから後半の音楽を少しずつ流れにしたがって追体験してきたのでありました。それがここにいたって初めてベートーヴェンという大きな境目を超えるのです。

とあり、OLCとしても相当な意気込みであることが伺われます。

その意味では、本公演はおそらくOLCにとって大きな区切りとなる、記念すべき演奏会だと思われるのですが、皮肉なことに、本公演はOLCにとってもうひとつの、それも望ましからざる区切りとなる演奏会ともなってしまいました。

これについては私自身、今日ホールに行って初めて知ったのですが、2002年の旗揚げからOLCが一貫してホームグラウンドとして使用していた浜離宮朝日ホールが、今日の公演を最後にOLCのホームグラウンドでなくなる、というものでした。

その理由については、「諸般の事情」としか書かれていないのですが、おそらくオーケストラ運営上の経済的苦境が大きな理由だろうと推察されます。来年以降は東京文化会館の小ホールを中心に活動を継続するとのことですが、、、

実際、今日のコンサートにしても空席が思ったより多くて、ちょっとビックリしました。ざっと見て6・7割くらいの入りでしょうか。いずれにしても、土曜日の公演で、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンというウィーン古典派の3大作曲家の交響曲作品をズラッと並べて、東京のど真ん中の室内楽ホールが満席に程遠いというのは、どうなんでしょう? やはり不況でコンサート離れが想像以上に進んでいて、オーケストラ経営にとって厳しい時代になっているのでしょうね。

今日の公演の感想は後日出しますが、内容的には最後のベートーヴェンが抜群でした。まさに浜離宮朝日ホールでの有終の美を飾るというような、素晴らしい気迫と充実に満ちたベートーヴェン。日本のオリジナル楽器アンサンブルの表現力のひとつの到達点という意味でも、記念碑的なコンサートだったように思います。

2009-10-17-2
終演後にはホワイエでワインが振舞われました。

ライアン/ボルドー・アキテーヌ国立管によるラフマニノフの交響曲第2番


ラフマニノフ 交響曲第2番
 ライアン/ボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団
 Mirare 2008年 MIR087
MIR087

フランスのMirareから最近リリースされた、クワメ・ライアン指揮ボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団の演奏によるラフマニノフ・交響曲第2番のCDを聴きました。

クワメ・ライアンはカナダ生まれの黒人指揮者で、07年よりボルドー・アキテーヌ管の音楽監督を務めているのですが、2008年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」音楽祭においてボルドー・アキテーヌ管とともに初来日し、シューベルトの交響曲などを日本の聴衆に披露しました。

そのシューベルト交響曲第9番「グレイト」のコンサートを私は客席で聴いたのですが、それは同音楽祭で私が接した公演の中でもベスト・コンサートと言うべきものでした。それで終演後にCD売り場で、公演と同じ「グレイト」の同じ顔合わせによるCDを発見して購入しました。そのCDの感想は以前書きましたが、今回リリースのラフマニノフの2番は、ライアン/ボルドー・アキテーヌとしては、かの「グレイト」以来ほぼ1年半ぶりの新譜とのことで、今回はどんな演奏が聴けるか、楽しみに購入してみました。

それで聴いてみると、第1楽章冒頭から、まさに昨年のラ・フォル・ジュルネで耳にした、このコンビならではの響きの感触が全開で、思わず懐かしい気分が込み上げるとともに、その響きの醸す雰囲気がラフマニノフの音楽に意外なほどフィットしていて興味深い感じがしました。

ライアン/ボルドー・アキテーヌの響きの感触というのは、実演時に感じた印象と同様、フランス風の音響的な特性をポジティブに活かしての、明るく美しく、生命感に溢れた色彩の妙感と、細やかにして明晰なアンサンブル展開の創出するニュアンスの豊かに、聴いていて新鮮な喜びを喚起させられる、そんな感触です。

全編において標準的なテンポで歩を進めながらも、個々のフレーズを綿密に歌いこんで鳴らすとともに、フランス音楽を思わせる、つややかで明るめの音色で、独特の色彩感を描きだし、濃厚ではあるものの本場のロシア風の色彩とはまた一線を画した、まろやかで美しいハーモニーの溶け合い方。聴いていて心地よく穏やかな陶酔に誘われます。

それにしても前回リリースのシューベルト「グレイト」でもそうでしたが、金管パートが相変わらず冴えていて嬉しくなります。第1楽章(14:20)以降の金管コラール強奏展開など、トロッとして味の濃い音色のエレガンシーが素晴らしく、フランスの楽団によるラフマニノフも意外といいものだなと、そんな感想が聴いていて自然に湧いてくるものでした。

この演奏に幾ばくかの物足りなさがあるとすれば、フォルテッシモが全般にいまひとつの威圧感というか厳しさに欠けるあたりだと思うのですが、むしろ聴き疲れのない爽快なオーケストラ・ドライヴから繰り出される、フランス風アンサンブル展開の新鮮味ゆたかなラフマニノフを堪能できて、そして聴き終えて穏やかな感動の残る演奏でした。

モルトコヴィチとN.ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管によるショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲集


今年の初頭に購入した「シャンドス30周年BOX」につき、これまで収録盤の感想記を順に18枚まで掲載しているのですが、続いてCD19を聴きました。

ANNI-19
ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番・第2番
 モルドコヴィチ(vn) ネーメ・ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管弦楽団 1989年録音
 
リディア・モルトコヴィチのヴァイオリン・ソロ、ネーメ・ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の伴奏による、ショスタコーヴィッチの2曲のヴァイオリン・コンチェルトを収録したアルバムです。

モルトコヴィチのヴァイオリン・ソロは、特に第1コンチェルトにおいて、第1楽章の冒頭弱音導入からヴィブラートを強めにかけていたりなど、局面により表情がいくぶん情緒的に流れる傾向があるようですね。

この作品の演奏では、むしろハードタッチのシリアスな表情の方が、個人的には好みで、その最高峰に位置づけられる録音としては、コーガンとコンドラシン/モスクワ・フィルのメロディア録音(ヴェネツィア CDVE04241)が挙げられます。対して本ディスクのモルトコヴィチは総じて表情が甘口な嫌いがあるのが気になるところですが、情動が極限に高まるような楽節、例えば第1楽章の(8:37)からのくだりなどで聴かれる、情熱を叩きつけるようなボウイングの高揚力に関しては聴いていて率直に脱帽させられるものがあります。第2コンチェルトの方も同様で、不足感のないテクニックの切れともども、安心して聴き通せる感じの演奏です。

ヤルヴィ/スコティッシュの伴奏に関しては、例えば本ボックスのCD15でのプロコフィエフのアルバムと同様、ここでも軒並みアンサンブル高音パートの訴求力が際立ち、ここぞという時のトッティのパンチ力も含め、すこぶる充実したアンサンブル展開です。

難点は、高音パートの燦然たる響きに比して、低音域の楽器の実在感が相対的に埋もれがちになっている点でしょうか。例えば第1コンチェルト第3楽章の冒頭のホルン斉奏など、音色の立ち具合が抜群ですが、その後の(第1変奏の)チューバの音色などはかなり抑制がかっています。聴いていて、場面によっては重低音をもっと強力に押し出した方が楽想がより引き立つのではないかという印象も残りました。

グラモフォン・リリースによるミケランジェリの未発表音源のシューマンとドビュッシー


シューマン ピアノ協奏曲&ドビュッシー 「映像」(抜粋)
 ミケランジェリ(pf) バレンボイム/パリ管
 グラモフォン 1984年ライヴ・1982年 4778569
4778569

ドイツ・グラモフォンから今月発売された、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの未発表音源の正規リリース盤を聴きました。

収録曲のうちシューマンのピアノ協奏曲は、ダニエル・バレンボイム指揮パリ管弦楽団との共演による、1984年のライヴ録音とされ、終演後の拍手まで収録されていました。それにドビュッシーのピアノ曲集「映像」から抜粋した「水に映る影」、「ラモーを讃えて」、「葉末を渡る鐘の音」、「金色の魚」の4曲が併録されていますが、こちらは1982年のスタジオ録りのようです。

これらはいずれもドイツ・グラモフォンが録音していたのですが、ミケランジェリ本人のリリース許可がついに下りず、お蔵入りとなっていたところ、今回ミケランジェリ夫人のリリース許可を得て、晴れて日の目を見ることになったということのようです。

このCDで興味を惹くのは、やはりシュマコンでしょう。これまでにミケランジェリの同曲の正規録音はありませんでしたが、海賊盤としては、ミケランジェリがチェリビダッケ/ミュンヘン・フィルと共演した1992年のライヴ録音が、かつてメモリーズからリリースされていました。

そのチェリビダッケと共演したシュマコンのライヴについては、別館の方に感想を書いているのですが、全体に残響感が高くて、かつオフマイク気味な録られ方となっているためか、ミケランジェリの本領を聴くまでには少し到らないような感も残るものでした。

そのあたりが今回のグラモフォン正規リリースのシュマコンではどう聞こえるか、そういう興味も含めて演奏に耳を傾けてみました。

全体的な印象としては、録音も含めて、かのメモリーズ盤よりも「ミケランジェリのピアノ」の醍醐味が良く感得することのできる、優れた演奏だと感じました。音質に関しては、さすがにグラモフォンの正規録音だけあって、適度な残響感、それに音像からの適度な距離感と、いずれもメモリーズ盤よりもソノリティがくっきりと、的確に捕捉されていて申し分ない感じがします。

ここでのミケランジェリのピアノ・ソロには、彼のポリシーとも言うべき、音色美に対する徹底的なまでの追及姿勢が聴いていて見え隠れするような、磨き抜かれた玲瓏な響きが付帯していて、その透徹した音響美に対しては、まさに言い様のない快感すら湧きおこるほどなのですが、その現実離れした音色の表現力とは裏腹に、これがライヴ録音であるという事実が、個々のタッチの実存的な連なりを確固として聴き手に意識させるので、それが固有の強いリアルティを喚起し、いわば現実離れしているのに現実感が強いという、半ば矛盾した趣きがあります。そのあたりの演奏の不思議な趣きの共存が、ミケランジェリの種々のスタジオ録音の印象とひき比べてみても、一種独特の音楽の奥行きとして掛け替えのないもののように、私には感じられました。バレンボイム/パリ管のアンサンブルも全般に詩味豊かなハーモニーで絶妙に寄り添っていて、ピアノ演奏に対し揺るぎない調和をもたらしていて見事です。

それでは、この演奏をなぜミケランジェリは許可しなかったのか、ということになると、私のような凡人にはとても判断がつきかねるというのが率直なところです。おそらく何かがそうさせたのでしょうけれども、たとえ彼の眼鏡にはかなわない演奏であっても、その個性の刻印の強さにおいては、スタジオ盤にも優に比肩すると思いますし、それにライヴゆえの感興も加わった、音楽の全体的な感銘としては、まだこの上があるのだろうかと、疑いたくなってしまうほどです。

併録のドビュッシーは、1971年のスタジオ盤からほぼ10年ぶりの再録音ですが、確かに旧録音よりもさらに研ぎ澄まされたような雰囲気があって、むしろ87年のヴァチカン市国でのライヴに近い感じがしました。それだけに、4曲のみの録音に留まったのが惜しい気もします。

いずれにしても、このCDは新たにミケランジェリのディスコグラフィーに加わって然るべき内容だと思いますし、これほどの演奏が日の目を見たのは喜ばしい限りですね。

鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全曲(2000年録音盤)


J.S. バッハ ブランデンブルク協奏曲全曲
 鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン
 BIS 2000年 BIS1151/1152
BIS1151

昨日の更新で、鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の演奏によるバッハ・ブランデンブルク協奏曲集の2008年録音盤についての感想を掲載したのですが、その際にBCJによる同曲集の旧録音と、軽く聴き比べをして、雰囲気の違いなどを確認した関係から、今日はその旧録音について、私の思うところを、いくつかトピックスを交えて書いてみようと思います。

この2000年録音のブランデンブルク協奏曲全集に関しては、私は当時、それこそ古楽器アンサンブルの手による究極のバッハ演奏ではないかという印象を感じたのですが、その印象は、同団体の新録音を聴いた今でも揺らぐような気はしませんでした。

アンサンブル編成としては、例えばかつてのレオンハルト盤やマリナー盤などと同様、奏者を各パート一人に限局した編成に拠っていますので、コンチェルトというより重奏という趣きですが、そこから繰り出されるキリッとした響きの実在感、変化に富んだ闊達なアーティキュレーション、そして古楽器の美しい音色に鮮やかに彩られた、バッハ演奏としての圧倒的な瑞々しさが素晴らしく、演奏技術的にもこの演奏を超えるものは、ちょっと考えにくい気がします。それでいて演奏メンバーのバッハ演奏に対する帰依の強さが、聴いているとひしひしと伝わってくるような、活き活きとした音楽の表情が最高にいいですね。

さて、私はバッハのブランデンブルク協奏曲が大好きで、これまでCDもさまざまに買い集めているのですが、この協奏曲集においては、演奏に際してどのようにスコアリングを行い、或いはどういう器楽編成を選択するかという点で、演奏家・演奏団体それぞれの裁量の余地がかなり大きいことがひとつの特徴になっています。そして、各演奏家・演奏団体がどのような演奏様式を選択したかという点から、その演奏におけるコンセプトや表現としての方向性のようなものが、客観的に垣間見れるというケースも少なからずあるようです。

この観点から、BCJの旧録音盤を眺めてみますと、まずこの演奏ならではという演奏様式上の工夫として真っ先に挙げられるのが、協奏曲第2番におけるトランペット・パートの楽器選択でしょう。

このパートはもともと、バッハの時代特有の楽器である「トロンバ」という楽器のためのパートとして書かれたものであることが知られているのですが、この楽器は現在は存在しないため、通常はトランペットで代用されるところ(クイケン盤やマリナーの旧盤など、まれにホルンが使われます)、このBCJの演奏においては、実際に「トロンバ」が使用されています。これはBCJのトランペット奏者・島田俊雄氏がバッハの時代の資料をもとに独自に復元した自作楽器です。

その響きの独創性もさることながら、こういうこだわりの強さ自体も、演奏全体の説得力の強さに、少なからず影響しているような気がします。なお、昨日は書き落としたのですが、このトロンバは、BCJの新録音の方でもしっかりと使われていました。

さらに、協奏曲第3番の第2楽章についての演奏様式の選択においても、BCJとしての演奏の見識が伺えるように思います。

これについては第2楽章というよりも「アレグロの両端楽章の間に挟まれている1小節2和音構成のアダージョ楽節」という方が正確なのかも知れないですが、いずれにしてもこれをどう解釈するかという点から、各演奏の作品に対する解釈の方向性があるていど垣間見えます。

具体的には、
()譜面どおり2和音(またはアルペッジョ)をそのまま演奏
()通奏低音の短いカデンツァを挿入
()バッハの別の作品の緩徐楽章を演奏
の3パターンがあり、私の印象では、前者ほど原典尊重派、後者ほど演奏様式尊重派(バッハの時代にはここには何かの作品が演奏されていたと考えられているようです)ということになると思われます。

この点、一般的な傾向として、古楽器アンサンブルの演奏では原譜重視つまり()、モダン編成アンサンブルの演奏では()を採用することが、比較的多いようです。ただ、そういうアンサンブルのタイプとは別に、とくに「バッハの時代の演奏様式の再現」をポリシーとする演奏(例えばマリナー盤やグッドマン盤など)では()が採用される傾向にあると考えられます。

そしてこのBCJ盤でも、BWV914のトッカータのアレンジが配されていますし、そのBCJの新録音でも、昨日書きましたように、BWV1064の協奏曲の第2楽章が配されていますので、やはりバッハの時代の演奏様式の再現をポリシーとする演奏スタンスであることが、間接的に浮かび上がります。それは前述のトロンバの復元という点とも整合しますし、このスタンスをさらに推し進めた結果が、新録音における「ヴィオロンチェロ・ダ・スパラの使用」ということになるのではないでしょうか。

もうひとつのトピックスとして、このBCJ旧録音盤では、協奏曲第5番の第1楽章に「初稿版」が収録されていることが挙げられます。

もともと、ブランデンブルグ協奏曲の演奏においては、協奏曲第1番および第5番について、初稿版か最終稿か、スコアを選択しなくてはならないという問題があるのですが、これについては最終稿選択が一般的で、初稿版による演奏はかなり例外的です。

私の知る限りでも、初稿版で通しているのはホグウッド盤くらいではないかと思うのですが、このBCJ旧録音盤では、第5番の第1楽章のみ、初稿版と最終稿のダブル収録となっていて、どちらを聴くかは聴き手の自由みたいな形態になっています。

私の印象の限りでは、やはり初稿版は第1番での楽章短縮や、第5番でのチェンバロのカデンツァの大幅な短縮など、最終稿と比べて総じて華やかさに欠ける感じは否めないと思います。ただ、それは演奏家の方でもおそらく分かっているはずですから、それでも敢えて初稿版を使うというあたりには、音楽として最終稿より遜色するぶんは演奏でカバーする、みたいな演奏者の意気込みの強さが感じ取れるような気がします。特にこのBCJ旧録音盤においては、そういう感じが強いですね。

鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハ・ブランデンブルク協奏曲全曲の08年録音盤


J.S. バッハ ブランデンブルク協奏曲全曲、管弦楽組曲全曲
 鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン
 BIS 2008年(協奏曲)、03年(組曲) BISSA1721
BISSA1721

今日は、鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏によるバッハ・ブランデンブルク協奏曲集の最新盤をひと通り聴いてみました。

これは先月発売されたディスクで、ブランデンブルク協奏曲全6曲に、同じくバッハの管弦楽組曲全4曲を併せた、SACDハイブリッド3枚組でのリリースです。もっとも管弦楽組曲の方は2005年に単独でリリースされたものをボーナス的に再収録したもので、価格もCD2枚組相当となっています。

今回のブランデンブルク協奏曲集は鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏としては、これが2回目の録音となり、2001年にリリースされた前回の録音(BIS1151、2000年録音)から、8年ぶりの再録音ということになります。

その前回録音のブランデンブルク協奏曲全曲盤は、それこそBCJのアンサンブルを磨き抜いて描かれたような、精緻を極めて一分の隙もない、見事なまでのバッハでしたので、あれを超える演奏というのが果たして可能なのかという興味が、演奏自体の純粋な期待感とは別に、私の中に少なからずありました。

それで聴いてみたのですが、今回の新録音は、前回リリースの旧録音とは、様式的にも、雰囲気的にも、いろいろな点でずいぶん違うなというのが率直な印象です。

2009-10-11
左が今回の新録音、右が旧録音です。

まず今回の新譜には、ライナーノートに鈴木雅明氏自身によるプロダクション・ノートが英文で掲載されているのですが、それによると、この新録音においては、ブランデンブルク協奏曲の表現の可能性を広げるために、演奏において2つの「実験」を試みたということが述べられています。

その「実験」というのは、ひとつが復元楽器「ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ」の使用で、もうひとつが、協奏曲第3番の第2楽章に対して「3台のハープシコードのための協奏曲」BWV1064の第2楽章を転用することであると書かれています。

「ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ」というのは肩に担いで演奏する小型チェロで、バッハの時代には普通に用いられていたものの、その使用が時代とともに次第に廃れていった楽器とされています。したがって、演奏に際してはチェロよりもヴァイオリンに近いテクニックが必要となり、当全集でも協奏曲第4番ではフランソワ・フェルナンデスが、協奏曲第6番では寺神戸亮が、それぞれ奏者を務めています。

協奏曲第3番の第2楽章に関しては、プロダクション・ノートに書かれているところによると、この作品は特に3という数字にこだわって作曲された形跡があり、バッハの他作品の中から、その3という数字にこだわりがあるものを探すと、唯一BWV1064の協奏曲が該当するので、その第2楽章を当てはめてみたのだそうです。

以上の2つが、今回の新録音における演奏様式上の主な特徴となるようですが、それでは旧録音での様式上の特徴であった「弦楽器の各パートを奏者一人で演奏する」という点が、今回はどうなっているかと思って、編成表記を見てみると、例えば協奏曲第1番では第1ヴァイオリンが2人、第2ヴァイオリンも2人となっているので、今回はどうやら各パートに奏者一人ではない、むしろオーソドックスなバランスのようです。

このように、今回の新録音は、旧録音とは編成バランスが違う上に、2つの「実験」という新機軸も加わっているので、この時点でまず、様式的にずいぶん違う感じがするのですが、それでは雰囲気としての違いはどうかと言うと、ここからはあくまで新旧両演奏を聴き比べての私の印象になるのですが、新録音は旧録音よりも何となく落ち着いた雰囲気というのか、総じて演奏の表情が穏やかで、まろやかなムードに富み、少なくとも聴いていて心地よい快感に誘われる割合においては、全体的に旧録音を凌いでいるように感じられました。

これは別に旧録音の表情がとんがっていて落ち着かないという意味ではなく、旧録音の表情から、さらに熟成を増したようなアンサンブルの醸し出す、こなれきった音響の和みの表情において一種独特のものがあって、それが音楽の雰囲気に、前回とはまた違った奥行きをもたらしめているように思われる、ということです。

加えてヴィオロンチェロ・ダ・スパラ特有のおっとりとした響きの特性や、前回よりも心持ち遅めなテンポ設定(特に協奏曲第1番の第4楽章は、前回録音よりも1分以上タイムが伸びています)もあり、前回録音時の、それこそ一分の隙もなく織り上げられたような表現からすると、今回はリラックスしたスタンスとまでは言わないとしても、やや余裕のあるスタンスでの音楽造りという感じがします。

したがって、部分的には、表情が幾分おっとりしているような印象も受けるのですが、それだけに「温か味のある演奏」という印象も強くて、そのような心地よい開放感が、私には聴いていて何より印象深く感じられました。と同時に、聴く前に頭に思い浮かべた、今回の新録音が前回の録音を超えるとか超えないとかいうような、いかにも浅薄な視点を抱いた自分を恥じる思いでした。

以上、今回リリースされた鈴木雅明/BCJのブランデンブルク協奏曲全集は、まさに現在のBCJの、バッハ演奏に対する熟成したスタンスを投影させたかのような、温か味ある佇まいが素晴らしい珠玉の名演であり、純器楽的には最高の境地とさえ思われた旧録音とは方向性を異にしながらも、さらにこれほどまでの演奏を打ち出すことのできるBCJのアンサンブルとしてのポテンシャルと懐の深さに、あらためて感服させられました。

ズヴェーデン/オランダ放送フィルによるワーグナー・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲


ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 ズヴェーデン/オランダ放送フィル
 Volkskrant 2009年ライヴ QL2009014S
QL2009014S

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲盤を今日、ひと通り聴きました。

これは今月リリースの新譜で、オランダのVolkskrant新聞社から発売されたものです。収録内容は2009年2月のオペラ公演のライヴのようで、終演後のカーテンコールの様子まで収録されていました。

歌唱陣でひときわ目につくのは、オランダのバス・バリトンで、日本でも人気のリート歌手ロベルト・ホルがハンス・ザックスに配されている点でしょう。また数年前、小澤征爾の指揮によるウィーン国立歌劇場のプッチーニ「マノン・レスコー」のプロダクションで、外題役マノンを演じたバーバラ・ハーヴェマンがエヴァ役に配されています。ワルター役はブルックハルト・フリッツ、ベックマッサー役はアイケ・ヴィルム・シュルテです。

ズヴェーデンはオランダ放送フィルの首席指揮者を2005年から務めていて、このコンビによるブルックナーの交響曲の一連の録音はいずれも日本で高い評価を得ていることは周知の通りですが、それがワーグナーの、しかもライヴ録音でどのような表現が聴けるのか、そのあたりの興味と期待感から購入してみました。

それで聴いてみると、まず第1幕の前奏曲冒頭の打楽器の凄い打ち込みからして、演奏に対する期待感を一気に高めるに十分なものでしたが、それから例のマイスタージンガーのメイン・テーマが提示され、フルートにエヴァの動機が歌われる(1:02)に到るまで、すこぶるダイナミックで張りのあるオーケストラ・ドライブが披歴され、(2:30)からフォルテッシモで芸術の動機が繰り出されるに及んで、その演奏の素晴らしさに聴いていて早くもノックアウトという有り様でした。

ここでのズヴェーデンはオランダ放送フィルのアンサンブルを自在に駆使して、綿密にして細やかな表情の変化から巧みな音楽の流れを創り出しているのですが、そこでは弦楽器の美しくまろやかな響き、管楽器の明朗で柔らかな響きなど、耳を楽しませる音響的な感覚美に富んでいながら、同時に聴いていて身が引き締まる造型的な緊張感を導出するという離れわざを、事も無げに為し得ている点に驚きを禁じえない、そんな演奏です。

そんなズヴェーデンの展開する前奏曲を、それこそ胸高鳴る気持ちで聴き入っていると、天空に駆け上がるようなクレッシェンドの頂点(9:19)からマイスタージンガーのメイン・テーマが、圧倒的な高揚力をもって最強奏で出された後、すぐに幕が開いて礼拝の壮麗な合唱が耳に飛び込んできます。それにしても、このオペラ幕開けにおける、これでもかというような音響的な畳み掛けは、さすがにワーグナーというのか、音楽それ自体がもう、絶品としか形容しようがないほどで、何度耳にしても本当に惚れぼれしてしまいます。

ズヴェーデン/オランダ放送フィルのアンサンブルの充実感は本編においても相変わらず見事で、その緩急を柔軟につけながらも崩れのない造型の取り方など、おおむねワーグナーの様式美を十分に尊重した上での、正攻法の演奏展開に立脚しながら、フレーズの安定感といい、デュナーミクの巧みなコントロールといい、いずれも堂に入っていますし、コクのあるハーモニーの味わいも素晴らしく、本場ドイツのオーケストラの演奏でも、なかなかこうはいかないのではというくらいの、アンサンブルの広範なダイナミクスと演奏のスケール感に、聴いていて感嘆させられるとともに、オランダ放送フィルの技量の高さにも改めて感心させられるものでした。

ザックスを歌うロベルト・ホルですが、師であるハンス・ホッターゆずりの風格というのか、歌いぶりがとにかく貫禄たっぷりで、どのフレーズひとつとっても深みを絶やさない、スケール豊かな歌唱を披歴しています。その点は確かに立派なのですが、しかしこの役柄に対する適性としては、ちょっとどうかなという気も正直しました。

というのも、全体に貫禄があり過ぎるというのか、例えば第1幕で、マイスター達に「人民を裁判官に」と主張するところなど、いささか古老がかった風格が出過ぎて、かえって説教臭い感じがしてしまったり、色々な意味で重みがかった歌唱形態が、聴いていてところどころで引っ掛かる感じがしました。もちろん単独のアリアなどは圧倒的な深みが歌唱に伴うので、どちらかというと、やはりオペラよりもリートの人なのではないかと、そんな印象もよぎりました。もっとも、ザックスというと私の中ではベルント・ヴァイクルがスタンダードなので、そのあたりの印象の違いからくる違和感なのかも知れませんが、、

他の歌手に関しては、それぞれに人を得た万全の歌唱が披歴されていて、安心してワーグナーに浸れるものでしたが、中でもワルター役のブルックハルト・フリッツの歌唱にひときわ魅了されました。1970年ハンブルグ生まれのテノールとのことですが、ここぞと言う時に、往年のルネ・コロを思わせる陶酔的なまでの美声を披露し、こと表出力という点でロベルト・ホルとも互角に渡り合っていて凄いなと思いました。

スクロヴァチェフスキー/ザール・ブリュッケン放送響によるブルックナー交響曲第9番


ブルックナー 交響曲第9番
 スクロヴァチェフスキー/ザール・ブリュッケン放送響
 エームス・クラシックス 2001年ライヴ BVCO38015
BVCO38015

今日はスクロヴァチェフスキー指揮、ザール・ブリュッケン放送響によるブルックナー・交響曲第9番のライヴCDを聴きました。

購入してからもう数年は経ち、これまで幾度か耳にしてきたCDですが、先月スクロヴァチェフスキーが読売日響を指揮した同曲の実演で、多大な感銘を覚えたこともあり、同指揮者のブル9の録音を久しぶりに聴いてみたくなって、プレイヤーに掛けてみました。

ミスターSことスクロヴァチェフスキーの指揮によるブルックナー・交響曲第9番の録音は現在まで2種類あり、ひとつがこのザール・ブリュッケン放送響とのライヴ盤、もうひとつがミネソタ響とのスタジオ盤ですが、ミネソタ響とのものは、クセのある音質と、オーケストラのぎらついたアンサンブル特性が音楽としての深みを削ぎ、あまり感心できない印象だったのに対し、こちらのザール・ブリュッケン放送響とのものは、ミスターS熟達の演奏展開、クセのない素直で良好な音質、アンサンブルの質実剛健な響きと3拍子揃っていて申し分ない感じです。

もちろん一般にも評価の高い演奏ですし、私などが今さらどうこう言うこともないのかも知れませんが、全体に音楽の輪郭を鮮やかに描き切ったかのような、精緻を極めるアンサンブル運用に加え、どんな強奏時においてもハーモニーが澄んだ美しさを保持した、精妙な透明感があり、それでいて響きの力感も高く、迫力的にも素晴らしいなど、さすがに熟達の演奏展開だと、聴いていて納得させられてしまいます。

もっとも、このミスターSのブル9は、かなり個性的な一面もそれなりに強く出ていて、造型的には必ずしもオーソドックスではなく、そのあたりに、聴き手によっては抵抗を感じることがあるかも知れません。

私の場合も、この録音を初めて聴いた時に、何かヘンテコな印象を、少し感じたのも事実です。例えば第1楽章だと、第1テーマ強奏提示後の(2:58)あたりのリタルダンドは少し大袈裟ではないかとか、展開部の中盤(11:05)からの唐突なテンポ変化は奇異ではないかとか、再現部突入時に猛烈なアッチェレランドを仕掛けるあたり(13:20)など、効果を狙い過ぎではないかとか、そんなようなことが頭によぎった覚えがあります。

ところが、先月ホールでミスターSのブル9を耳にした際には、これらの運用に近い表現が披歴されたのにもかかわらず、変だとか奇異だとか、そんな印象を抱くのも忘れて、演奏自体の圧倒的な感銘に心地良く身を委ねていた自分を図らずも発見しました。

結局これは実演と録音との間の、どうにもならない間隙とでもいうべきもので、要するにホールで実演を目の当たりにする時には、家でCDを聴くような冷静で客観的な面持ちでは到底いられなくて、特に演奏自体が素晴らしいケースに到っては、その臨場の実在感自体が、細かい部分がどうこうという視点よりも、演奏と自分とがホールを媒介に一体化したような途方もない快感をもたらしてくれる、そんなコンサートならではの醍醐味を私に満喫させてくれたのが、先月のミスターSのブルックナーに他ならないものでした。

とはいえ、こういうのは無論、私なりの考え方であって、人によっては全く別の考え方を取ることも十分考えられるところでしょう。

例えば、録音は何度でも繰り返し聴けるので、実演だと聴き逃すおそれのある、演奏者が本当に表現したいことを聴き逃す恐れが少ないから、クラシック鑑賞には実演よりも録音の方が適している、という趣旨の主張も、時々耳にします。

それもまたひとつの真理であり、少なくとも間違いではないと思うのですが、録音メディア(SACDも含めて)がいかに進化したところで、あるいは音響装置にそれこそ何千万円という大金を投入したところで、実演のリアリティには到底及ぶものではないと私には思われますし、したがって実演を録音の下位に置く考え方に、そう軽々しく首肯できない気持ちもまた、私の中に根強くあります。

そんなことを、今日このミスターSのブル9の録音を聴きながら、つらつらと考えました。おそらく先月聴いた実演の印象が、まだ私の中で影響を残しているからか、以前聴いた時に感じた奇異感が、何だか今日はずっと薄くなっているような気がして、聴いていて自分でも意外なくらいでした。

サイモン/フィルハーモニア管によるレスピーギの「シバの女王ベルキス」と「メタモルフォーゼ」


今年の初頭に購入した「シャンドス30周年BOX」につき、収録盤の感想記を随時、掲載しているのですが、現在のところ、全30枚のうち17枚のCDまで進んでいます。

このボックスセットは、これまで聴いた限りにおいて私にとって予想以上の手応えがあり、すっかり気に入ってしまいましたので、残りあと13枚ですが、前言どおり、収録盤すべての感想記を出すつもりでいます。

できれば年内には全30枚を完走したいと思っていますが、いずれにしても、完走すると言って途中で投げ出すような、みっともないことはしないようにしますので。

それで、今日はCD18を聴きました。

ANNI-18
レスピーギ バレエ組曲「シバの女王ベルキス」、メタモルフォーゼ(管弦楽のための主題と変奏曲)
 サイモン/フィルハーモニア管弦楽団
 1985年録音

ジェフリー・サイモンの指揮、フィルハーモニア管弦楽団の演奏による、レスピーギの管弦楽作品集で、バレエ組曲「シバの女王ベルキス」に関しては世界初録音盤のようです。

レスピーギは有名な「ローマ3部作」以外にも優れた管弦楽作品を残していて、このバレエ組曲もその中のひとつですが、ローマ3部作に比べると知名度的にはグッと落ちてしまい、録音としてもおそらくこのサイモン盤を含めて、現状でも二ケタに満たない数ではないでしょうか。

このサイモン盤ですが、とにかく派手で豪快な演奏です。「ソロモンの夢」でソロモン王が入場するくだりのスペクタクルともいうべき響きの色彩ぶりといい、「戦いの踊り」での金管群と打楽器群を容赦なくガンガン鳴らしての盛り上げぶりといい、いずれも痛快なオーケストラ・ドライブで、レスピーギならではの極彩色の管弦楽法の魅力を素直に堪能させられました。

反面、「夜明けのベルキスの踊り」でのコーラングレやフルートなどの音色は妖艶というには少しあっけらかんとした感じに聴こえてきますし、最後の「狂宴の踊り」でも、確かに鳴りっぷりは凄いのですが、アンサンブルの腰が軽くて響きに重みが乗らず、音楽的にやや浅薄というか掘り下げ不足というような印象も残りました。

併録の「メタモルフォーゼ」の方はレスピーギの管弦楽作品としては表題性や描写性を有しない珍しい作品で、録音も「シバの女王ベルキス」同様かなり少ないはずです。

ここでのサイモン/フィルハーモニア管の演奏は、さすがに「ベルキス」とは違った感じで、地に足の着いた堅実な表情形成となっていて、聴いていて「ベルキス」よりは掘り下げて演奏しているなという感じはします。しかし、今度は逆に「ベルキス」での豪快さが抑制されてしまっているようで、やはりこのあたりのバランスのさじ加減はなかなか難しいようですね。

ユロフスキ/ロンドン・フィルによるチャイコフスキーのマンフレッド交響曲


チャイコフスキー マンフレッド交響曲
 ユロフスキ/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 2004年ライヴ LPO0009
LPO0009

おとといの更新では、ユロフスキ/ロンドン・フィルの新譜であるチャイコフスキー交響曲集についての感想を掲載したのですが、当該CDと合わせて購入した、同じ顔合わせによるチャイコフスキー・マンフレッド交響曲のCDを、今日は聴いてみました。

これは2004年12月、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのコンサートのライヴです。もともと2006年にリリースされていたCDですが、未入手でしたので、この機に購入しました。

聴いてみると、第1楽章冒頭の木管のフォルテッシモ開始からすこぶる表現力のある音色が耳に飛び込み、序奏部を通して、個々のフレーズを細やかに組み上げつつハーモニー全体に引き締った重みが付与されていて、聴いていて身が引き締まる思いですが、これが(5:09)からの強奏展開になるや、凄いパンチ力のある、ユロフスキならではのアグレッシヴなオーケストラ・ドライヴが披歴され、(6:02)あたりのティンパニ連打のもの凄さも特筆的で惹き込まれます。

そして、やがて(6:42)でロ短調に転じたアンダンテ、いわゆるアスタルテ楽想においては、先ほどまでのマンフレッドの懐疑地獄を慰めるかのような柔和で温かく、幸福感に満ちたアンサンブルの表情付けが耳を和ませてくれるのですが、コーダでは再び熾烈を極める最強奏で悲劇的に締め括り、すこぶる深い余韻が、聴き終えて刻みこまれる思いでした。このコーダにおけるアンサンブルの鋭敏なレスポンスは瞠目に値するもので、(16:27)あたりの弦の高揚力など、その沸点突破的ともいうべきボウイングの激しさに聴いていて言葉を失うほどです。

第2楽章は、第1楽章の終結との対比から、一条の明るい光の差すような色合いの楽想が提示されるのですが、その仄かな安逸の情感が、(2:30)からのアスタルテ主題を中核として、明晰で曇りのないアンサンブル展開の中からクッキリと描かれていて魅了させられます。続く第3楽章は牧歌的風景を描いた一幕ですが、耳当たりのよい響き一辺倒に傾くことなく、クールな視線で現世的な実在感のある表現を構築しようとするスタンスが聴いていて伺われるような演奏です。

終楽章は、冒頭からの山霊が乱舞するシーンで展開される、アンサンブルの豪快にして荒びた迫力に圧倒される思いですが、それは高度に洗練されたバーバリズムというのか、オーケストラのポテンシャルをフルに駆使しながら、再弱音から最強音にいたるまで、常に細心のコントロールの効いた稠密な音響の構築の中から、原始的なまでに荒れ狂う響きが展開される様は、聴いていて圧巻というほかなく、以降コーダにいたるまで、チャイコフスキーの誇大的ともいうような音画的描写を心ゆくまで堪能し、素晴らしいカタルシスとともに全編を聴き終えました。

以上、このユロフスキ/ロンドン・フィルの「マンフレッド交響曲」は、チャイコフスキーというより、むしろマーラーに近いくらいの情感振幅の激しさと、幅広いダイナミック・レンジが強烈に印象づけられる、おそらくユロフスキとしても会心に近い演奏内容ではないかと思いました。現在進行中の、チャイコフスキーのシンフォニー全曲チクルスの方も、もしかこれくらいの水準で為されたなら、驚異的なことになると思いますし、このコンビの現在の実力からしても、十分いけそうな気がします。

ユロフスキ/ロンドン・フィルによるチャイコフスキー交響曲第1番と第6番「悲愴」


チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」、交響曲第6番「悲愴」
 ユロフスキ/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 2008年ライヴ LPO0039
LPO0039

ウラディーミル・ユロフスキが手兵ロンドン・フィルを指揮したチャイコフスキーの2曲の交響曲のライヴCDが、ロンドン・フィルの自主制作レーベルから先月リリースされましたが、それを今日ひと通り聴いてみました。

ウラディーミル・ユロフスキは次代を担う最も有望な若手指揮者のひとりとも目されているロシアの俊英で、いまだメジャーレーベルにこそ録音がないものの、その優れた音楽性は既に日本でも多くのリスナーに認知されているところです。

私が初めて接したユロフスキのディスクは、ロシア・ナショナル管とのショスタコーヴィチのアルバムでしたが、そのショスタコーヴィチが素晴らしい演奏だったので、続いてユロフスキのデビュー盤たるラフマニノフのアルバムも聴き、その新鮮なラフマニノフ像に魅了させられました

今回リリースのアルバムは、ユロフスキのロンドン・フィル首席ポスト就任後に予定されていたチャイコフスキー交響曲全集録音の第1弾とのことで、期待して耳を傾けてみました。

まず交響曲第1番「冬の日の幻想」ですが、第1楽章冒頭から驚くほどコクのあるハーモニーが耳を捉え、木管パートを中心に潤いに満ちた響きの連なりが、速めのテンポから鮮やかに描出されていく様など、聴いていて惚れぼれしますが、これが展開部になるとユロフスキの本領たる熾烈な強奏展開の醍醐味が存分に披歴され、目の覚めるようなダイナミクスで繰り広げられる主要モチーフの畳み掛けの素晴らしい迫力といい、(5:57)からトッティが繰り返す強和音の凄味といい、そのただならない表出力に実直に惹き込まれる思いです。

第2楽章から第3楽章においては、各フレーズを自然に呼吸させ、全体を精緻に構成し、音楽が美しく抒情的に進行する中で、ここぞという時には反抗的な気分を鋭く、苛烈に抉り出して見せ、その変転が実に鮮やかですし、終楽章はガッツ溢れるアンサンブル展開で一気に駆け抜け、それゆえ含みこそ少し乏しいながらも、ユロフスキの若い気風が、このチャイコフスキーの若書きの作風にうまく照応したような気持のいい表情で、全曲を締めくくり、聴き終えて爽快な余韻の残る演奏でした。

続いて交響曲第6番「悲愴」ですが、こちらもアプローチとしては前述の「冬の日の幻想」同様、解釈自体は奇を衒うものではなく、オーソドックスなバランスから主題や楽想の変化がもたらす音楽の抑揚をシャープに練り上げたという趣きがあり、クライマックスでのアンサンブルの堂々たる鳴りっぷり、充足した迫力など、やはり並のものではないと思うのですが、それでもこの「悲愴」は、ユロフスキにしては今一つ何かが物足りない、そんな印象も聴き終えて残りました。

というのも、この「悲愴」はこと音勢的な迫力面ではおそらく最高クラスにあると思うのですが、アンサンブルの組み上げ自体において個性味の刻印が弱く、鳴りがいいという以上の切羽詰まった情感のようなものが振り切らない感じがするからです。

例えば、前述のロシア・ナショナル管とのショスタコーヴィチのアルバムに関しては、「ただ迫力があるというに留まらず、ギラリとした凶暴さをもアンサンブルから抽出せしめていることに何より惹かれる感じがする」と私は書いたのですが、そのあたりの、若さの特権ともいうべきような過激性が、この「悲愴」では思ったほどには発揮されていなかったのが残念と言えば残念な気がしました。

以上まとめますと、「冬の日の幻想」に関しては作品にふさわしい迫力と充実度の漲る、掛け値なしの名演と感じたのに対し、「悲愴」に関しては、名演ではあるものの、作品自体のキャパシティを考えると表現力の掘り下げの余地を多少なり残したような物足りなさが残る演奏内容と感じたのですが、それはあくまでショスタコーヴィチやラフマニノフといったユロフスキの既出CDの演奏との対比からそう感じたということでもあって、演奏自体はとてもレベルの高いものだと思いますし、やはり聴き終えて2曲ともに充実した満足感の残る、優れたチャイコフスキー・アルバムだと私には感じられました。今後リリースされる残り4曲についても、期待したいと思います。

アバド/ウィーン・フィルによるモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」全曲


モーツァルト  歌劇「フィガロの結婚」全曲
 アバド/ウィーン・フィル
 グラモフォン 1994年 POCG1784
POCG1784

8月以降、私のなかで何となく定着してしまった感のある、「土曜日はオペラを聴く」という習慣?に従い、今日はクラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるモーツァルトの「フィガロの結婚」全曲盤を久しぶりに聴いてみました。

というのも先週、新国立劇場で観劇したヴェルディ「オテロ」プレミエ公演で、イアーゴを歌ったルチオ・ガッロが、このアバドの「フィガロの結婚」ではフィガロを歌っているので、かの実演の印象がまだ覚めないうちに、CDの方での歌いぶりをちょっと聴いてみたくなったからです。

ちなみに私はその公演の感想の中で、ガッロのイアーゴに関して「モーツァルトの方面の歌手というイメージが強くて、イアーゴは何となくミスマッチ」とか、「第2幕や第3幕でオテロを陥れようと画策するあたりなど、まるでフィガロが伯爵を陥れようと画策するような雰囲気がダブってしまったり」などと、書いたのですが、そのあたりの予断のきっかけが、実はこのアバド/ウィーン・フィルのフィガロなのでした。

それでひと通り聴いてみたのですが、面白いことに、ガッロのフィガロが今度は逆にイアーゴのような腹黒い悪人の色彩を帯びた人物のイメージとして浮かんできて、これはいくらなんでも自分の感じ方が変だなと、自分でも可笑しく思ってしまうくらいでした。

これは要するに、ガッロの歌唱様式として、このCDに聴くフィガロと、先日実演で聴いたイアーゴとで、それほど大きな相違点が認められないくらい似かよっている感じがするので、結局「計略において主人を陥れる」という2つのキャラクターがダブってしまうからなのですが、逆に言うならそれだけ実演でのインパクト(実際、かなりの熱演でしたし)が、いまだ私の中で強く印象に残っているんだなと、何だか変に納得させられる気持ちでした。

もちろんそれは、先の実演の印象があるからそう思うだけかも知れないのですが、いずれにしても、以前このCDを聴いた時の私の印象よりも、いっそう感情に含みを持った渋味のあるフィガロとして感じられて面白く思いました。

アバド/ウィーンフィルの演奏ですが、全体に響きが軽量級とはいえ、およそモダン・オケらしからぬ軽快なリズムと躍動的なテンポ、旋律の鮮やかな流動感、細部の繊細な音色など、なかなか美点の多い演奏展開だと思いますし、要所要所の場面で音楽の感興が誇張なく、柔軟な形で、それも絶妙に捻出されていることに、あらためて驚かされます。いわばオペラ・ブッファに適したアバドの感性にウィーン・フィルの地力が加わり鬼に金棒、という感じでしょうか。

歌唱陣は、伯爵にボイエ・スコウフス、伯爵夫人にチェリル・スチューダー、スザンナにシルヴィア・マクネアー、ケルビーノにチェチーリア・バルトリ、バルバリーナにアンドレア・ロスト、、、こうして見ると凄いメンバーですが、録音時点だと、フィガロのガッロも含めて全体的に若手中心の起用なのが、いかにも特徴的です。

したがってベテラン歌手の持つ独特の風格には欠けるのはやむを得ないとしても、へたに重みが無いのが奏功し、このオペラの喜劇的な魅力をうまく際立たせて、聴いていて愉悦感がグングン込み上げてくる感じがします。

特に演技力に秀でた男性陣に対し、女性陣はそれぞれに個性味のある声の美しさを存分に活かした、フレッシュで溌剌たる歌唱ぶりを披露し、それにオーケストラの精彩豊かな伴奏が絶妙に絡み、とにかく聴いていて爽快な時間を過ごすことのできる「フィガロ」だと思うのですが、敢えて物足りないところを挙げるとするなら、ここにはある種の濃密さが欠けていて、後味がさらっとし過ぎていることが、気になると言えば気になるところでした。

ウィーン・フィルによる「フィガロ」というと、古くはエーリッヒ・クライバーあたりから、最近ではアーノンクールのザルツブルグ・ライヴにいたるまで、結構な数の録音がひしめいているのですが、このアバドの全曲盤は、その一連の中でも、「若さ」の勢いを屈託なく前面に押し出している点において、長短ふくめて独特の個性と存在感のあるディスクだという印象を、聴き終えて改めて感じました。

コンヴィチュニー/ドレスデン・シュターツカペレによるショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」


ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」
 コンヴィチュニー/ドレスデン・シュターツカペレ
 エーデル・クラシックス 1959年 23222CCC
23222CCC

これは2002年にエーデル・クラシックスからリリースされた「アート・オブ・コンヴィチュニー」という11枚組のボックスセットで、1950年代から60年初めにかけてフランツ・コンヴィチュニーが残した録音がまとめて収録されています。収録曲はベートーヴェン、ブルックナー、ワーグナーといったドイツ音楽がほとんどですが、ショスタコーヴィチの交響曲も2曲収録されていて、それがゲヴァントハウス管との交響曲第10番と、ドレスデン・シュターツカペレとの交響曲第11番となっています。

このボックスセット中の一連の演奏の中でも断トツともいうべきものが、ドレスデン・シュターツカペレとのショスタコーヴィチ・交響曲第11番の演奏で、これは文字通り超絶的名演と言うしかない、そんな演奏です。

それについては、昨日掲載した読売日響の定期演奏会(サントリーホール 9/30)の感想の中で、「数年前、あるCDでこの曲を聴き、その演奏内容があまりに凄いので、この作品に対する私の見方が一変させられるという体験をした」と書いたのですが、そのCDというのが本コンヴィチュニー盤です。

昨日も書いたのですが、以前の私の印象だと、もともとこの作品は、ショスタコーヴィチの15曲の交響曲のうちでも、それほど重要視されない曲であって、もろに標題的で分かりやすい楽想を持つ、通俗的な音楽であって、詰まるところは例のジダーノフ批判を受けて体制に迎合したショスタコーヴィチの妥協の産物であって、少なくとも前作の交響曲第10番における深い思索性からすると、音楽としての底の浅い作品であると思っていましたし、要するに、私はこの曲を、同じショスタコーヴィチの交響曲第2番および第3番と、ほとんど同列に捉えていました。

しかし、この作品をコンヴィチュニー/ドレスデン・シュターツカペレの録音で聴くに及んで、必ずしもそう言い切れないような印象もまた、強く湧きました。だからといって、ショスタコーヴィチの15曲の交響曲のうちでも特筆すべき名曲とまでは言えないと思いますが、少なくとも、この交響曲第11番を交響曲第2番とか第3番あたりと同列に考えるのは無理だなと思うようになりました。

さて、このコンヴィチュニー/ドレスデン・シュターツカペレの演奏は、ひとえに第2楽章の表現力が超絶的であって、こと第2楽章の表出力に限定するならば、このコンヴィチュニー盤に匹敵する録音は、まず絶無だと思います。私の知る限り、唯一ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルのスタジオ盤が肉薄するのみですが、いずれにしても、一度このコンヴィチュニー盤で、この交響曲第11番の第2楽章を耳にしてしまうと、他の録音が軒並み生ぬるく感じられてしまうほどです。

そして、この交響曲の核心は第2楽章にあると私は考えます。この作品は第1楽章と第3楽章が楽想上の起伏や変化に乏しくて、それが場合によってはこの曲が凡作であるとの論拠を与えることにもなっているのですが、第1楽章はあくまで第2楽章の序奏、逆に第3楽章は第2楽章のエピローグとして捉えるべきで、したがって演奏全体が活きるも死ぬも第2楽章次第ということになります。

その第2楽章において空前絶後ともいうべき演奏を展開せしめたのが、このコンヴィチュニー盤に他ならないのですが、その第2楽章は、まず(1:52)近辺の異常な緊張感を始めとし、(2:46)からの破滅的な最強奏など、いずれもボリュームを高めに維持して聴く(これがかなり重要です)なら、音楽の恐ろしさに必ず震えがきますし、(6:42)あたりの猛り狂ったようなアンサンブルのうねりから、前半のクライマックスを激烈に形成するあたりの、凄まじい音響的迫力も完全に振り切っていて絶句させられます。

しかし、その楽章前半部に輪をかけて熾烈を極めるのが後半部であって、(10:41)を皮切りに後半部に突入しますが、そこではアレグロの急迫的なテンポをいささかも動かさずに、激烈を極める音響的な地獄絵図が展開されていて、もはや聴いていて言葉を失う、そんなレベルの演奏です。(12:28)あたりのトランペットの血飛沫のような色合いなど、この世のものとは思えないくらいの色彩を放ち、(13:17)からの最終局面(民衆への銃撃)においては文字通り阿鼻叫喚というくらいのもの凄さです。

私がクラシック音楽というジャンルに強く惹かれるのは、ひとつにこのジャンルが、他の音楽ジャンルにおいて耳にする可能性に乏しい、音響的なある種の極限状態をまま耳にし得るからなのですが、ここでのコンヴィチュニー/ドレスデン・シュターツカペレの手による前述の第2楽章の演奏は、その絶好の例証というべきものだと思います。

スクロヴァチェフスキー/読売日響の演奏会の感想


スクロヴァチェフスキーの指揮による読売日響の定期演奏会(サントリーホール 9/30)の感想です。

オーケストラ編成は前半のモーツァルトが10型、後半のショスタコーヴィチが16型で、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べた変則配置でした。

前半のモーツァルト・交響曲第41番「ジュピター」では、全体に速めの引き締ったテンポと、引き締った造形の彫琢に印象づけられる、感傷を排した端然たる古典的なモーツァルトが展開されました。提示部の反復指定をすべて履行した長丁場において、集中度の高いアンサンブルを展開しながら、聴いていて堅苦しいようなところはなく、淡々とした語り口の中に純度の高い響きがまぶさって組み上げられた、精巧なガラス細工のような肌ざわりのモーツァルトで、最初のうちこそ音勢が弱くて物足りないなと思っていたのが、いつのまにか、その独特の味わいの世界のうちに誘われ、気がつくと充実した余韻に浸っていた、そんな奥深い感じのする演奏でした。

後半はショスタコーヴィチ・交響曲第11番「1905年」が演奏されたのですが、この曲は周知のように、1905年の第1次ロシア革命と、その発端となった「血の日曜日事件」を題材とした標題音楽ともいうべきものです。

ショスタコーヴィチの全15曲の中でも、メジャーな位置にあるとは言い難いこの交響曲は、その作曲の経緯からしても、そのあからさまに標題的な曲想からしても、一般にあまり人気のある曲とは言えないですし、正直かつての私自身、それほど大した曲ではないという認識でした。

しかし数年前、あるCDでこの曲を聴き、その演奏内容があまりに凄いので、この作品に対する私の見方が一変させられるという体験をしたのですが、要するに演奏如何によっては、並々ならない感銘を与えられるポテンシャルを十分秘めた作品だというように私は捉えています。

そこで当夜の演奏ですが、第1楽章は冒頭のピアニッシモ開始から16型の弦の全奏を巧みにコントロールし、ひんやりとした弱奏を響かせ、そして演奏が進むにつれて、ロマノフ王朝の宮殿前広場での暗鬱にして重苦しい雰囲気が、じわじわと立ち昇るのですが、2つのロシア労働歌を含めた楽想自体は、すこぶる単調で変化にも起伏にも乏しいのに、そこには何か凄惨を極める光景の前触れのごとき不穏な気配が、付かず離れずうごめいていて、その気配が耳を捉えて離さない、そんな雰囲気がホールに満ちていました。

これが第2楽章になると、アレグロの急迫テンポに切り替わり、民衆歌「おお皇帝われらが父よ」の切迫したフレーズとともに音楽が大きく起伏するのですが、ミスターSはこの一連の場面で、秩序だった最強奏のハーモニーを鋭利に磨き抜くことで、そこに込められた、憤怒や慟哭など様々な情感が織り交ざった色合いを、強烈無比な迫力をもって披歴せしめていて、そのあまりの凄さに、聴いていて激しく心揺さぶられる思いでしたし、それ以上に、この第2楽章にはある種の名状しがたい恐怖感がつきまとい、その言い知れぬ恐怖に半ば当てられたような気持ちで、楽章半ばまで固唾を飲んで聴き入るばかりでした。

さらに楽章後半部になると、王朝の軍隊による民衆の大虐殺という、世界史的にも希有なほどに凄惨を極める場景が描かれるのですが、ここをミスターSは急きこむような高速テンポで開始し、そこから一気呵成に、凄まじいまでの音響的カタストロフをホールに現出せしめ、聴いていてひたすら圧倒される思いでした。そこでは管と弦の断末魔のような熾烈な色彩に打楽器の最強打が容赦なく絡みつき、まさにこの世の地獄というくらいの音景でしたが、ミスターSは一貫して冷静沈着なアンサンブルの運びから、この地獄の光景をまざまざとリアルに音化せしめていて、その視覚的な凄味とゾッとするような音響的恐怖感とにより鳥肌の立つのを禁じえない、そんな壮絶な演奏展開でした。

続く第3楽章においては、その楽想を歪曲なく音響化したような、まさに取り返しのつかない深刻な色合いがホールを強く支配し、終楽章になると、曲趣に沿ったストレートな表現から迫真のオーケストラ・ドライブでもって、かりそめの勝利を高らかに盛り上げ、終曲近くの不穏なムードも含め、実に最善の手を尽した演奏と感じたのですが、この終楽章はそもそも、どこか取って付けたようなところがあるというのか、迫真に表現すればするほど、逆にリアリティが薄れるようなジレンマがあるので、正直そのあたりのあやふやな音楽の印象もまた、強く浮き出てしまったように思われるものでした。

以上、実のところ私は、この曲の実演に今日初めて接したのですが、やはりこの曲の中枢は第2楽章で、他楽章は付け足しに近いのではないかという実感を強く感じました。楽想自体の表出力として、第2楽章がずば抜けていて、他との落差が激しいからで、そのあたりにおそらく、この作品の評価が一般に定まっていない要因があるように思うのですが、裏を返せば、第2楽章さえ良ければすべて良し、ということですので、その意味において当夜の演奏は申し分なく、その肝心の第2楽章が、これ以上はおそらく望めないというくらいの壮絶度で描き切られていて、大満足でした。

それにつけても、スクロヴァチェフスキーはこの10月で86歳にもなるのですが、その年齢におよそ似つかわしくないまでのスタミナぶりに感嘆させられました。というのも、この交響曲第11番は全4楽章が切れ目なく通されるので、ほぼ1時間という長丁場、全く手を休めることができないのですが、それをミスターSは直立不動で精悍にタクトを振り通してみせたからで、演奏とは別に、その事自体にも感服せざるを得ませんでした。

そういうこともあってか、あるいは当夜がスクロヴァチェフスキーの、今年最後のコンサートだったことにも拠るのか、終演後オーケストラの面々が全員ステージから去っても、依然として拍手が鳴りやまず、最後にミスターSのみステージに再登場して一礼し、ようやくお開きとなりました。

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