読売日響定期演奏会(サントリーホール 9/30)


今日はサントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。

2009-09-30

指揮者は、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー。演目は前半がモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」、後半がショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」でした。

今日の公演に関しては、ちょうど1週間前、同じ顔合わせの公演として東京芸術劇場で聴いたブルックナーの交響曲第9番が素晴らしかったので、その余韻に誘われたのに加えて、あまり実演に掛からないショスタコーヴィチの交響曲第11番をじかに耳にする興味も少なからずありました。

感想はまた後日出しますが、全体的には、期待通りの演奏内容で、先週のブルックナーのような期待以上という地点までは及ばずという感はあるとしても、これほどのショスタコーヴィチの生演奏は滅多に聴けるものではないという水準でしたし、滅多に実演に掛からない曲を聴けた満足感も含めて、先週のブルックナーとはまた違った、新鮮な体験となったコンサートでした。

ところで、ミスターSことスクロヴァチェフスキーは現在、読売日響の常任指揮者の地位にあるのですが、今日配布された公演プログラムによると、読売日響側はさらに「桂冠名誉指揮者」の称号を贈ることを決定し、ミスターS本人にその旨を伝え、快諾を得たとのことです。

読売日響はこれまで「桂冠指揮者」の称号をゲルト・アルブレヒトに、「名誉指揮者」の称号をクルト・ザンデルリンクなど4人の指揮者に、それぞれ贈っているのですが、「桂冠名誉指揮者」の称号は今回贈られるスクロヴァチェフスキーが初めての授与となります。

これはおそらく、これまでのスクロヴァチェフスキーの読売日響に対する、ひとかたならぬ功績や貢献に対し、読売日響側が最高の礼で応えたということになると思われますが、私としても、これほどの指揮者が東京のオケの常任にいるというのは、全く嬉しいかぎりと思っていましたので、このたびの読売日響側の決定を素直に喜びたい気持ちです。

内田光子/クリーヴランド管によるモーツァルトのピアノ協奏曲第23番と第24番


モーツァルト ピアノ協奏曲第23番・第24番
 内田光子(pf、指揮)/クリーヴランド管弦楽団
 デッカ 2008年ライヴ 4781524
4781524

これまでロンドンを拠点に演奏活動を続けてきた功績が認められ、イギリス政府から男性の「ナイト」にあたる大英帝国勲章「デイム」が授与されることが決まったとのニュースが、本年6月に報道された内田光子ですが、先月、新譜としてモーツァルトのコンチェルト・アルバムがリリースされましたので、聴いてみました。

これは2008年12月のクリーヴランドでの演奏会をライヴ収録したもので、ここでは内田光子はソロだけでなく指揮も兼ねています。内田光子はモーツァルトの一連のコンチェルトを1980年代にフィリップスに録音していますので、今回リリースの23番と24番のコンチェルトは、共におよそ20年ぶりの再録音となるものです。

それで聴いてみると、ピアノ協奏曲第23番、第24番ともに、やや遅めのテンポから、一つ一つのフレーズをじっくりと噛みしめながら演奏しているといった趣きで、同時にオーケストラをピアノ・ソロとほぼ一体化させ、すこぶる集中度の高いアンサンブルを展開するとともに、ピアニストとしての主観的な表情の付け方を、オーケストラにまでこよなく浸透させたような、強い求心力が演奏にみなぎり、その点は少なくとも旧録音を一歩凌いだ地点での、表情の深みとさえ感じられます。そして、ゆったりとした中で、モーツァルトの言葉をじっくりと聴かせてくれるという風な、内田光子の会心ともいうべきモーツァルトを聴き終えて、何とも言えない深い感銘と充実感が胸に残る、そんな演奏でした。

さらに、この新譜の両曲を聴いてから、それぞれの旧録音も取り出して聴いてみました。そうしたら旧録音も旧録音で素晴らしくて、これは一概に今回の新録音の方が上とか、安直なことは言えないなと思ったくらいなのですが、それでも究極的に考えると、第24番のコンチェルトに関しては旧録音の方が一枚上で、逆に第23番のコンチェルトに関しては、新録音の方が一枚上ではないかと、そんな気がしました。

というのも、今回の新録音は弾き振りなので、ピアノとオーケストラとのアンサンブルの一体感が高い反面、ここぞという時のトッティの凝縮力が旧録音より弱く、そのあたりがシンフォニックな楽想を有する第24番のコンチェルトにおいて多少気になったからです。

しかしこれが第23番のコンチェルトになると、逆に楽想自体のインティメートな性質にこよなくフィットしている感じがします。

PHCP-3132
モーツァルト ピアノ協奏曲第23番
 内田光子(pf)テイト/イギリス室内管弦楽団
 フィリップス 1986年 PHCP-3132

上記の旧録音も確かに並々ならない名演だと思うのですが、今回の新録音はさらに一歩、音楽の深みが増しているような印象を受けます。例えば第1楽章の第2テーマなど、新録音の(3:16)から聴かれる、長調とは思えないほどの陰りのある色合いは、おそらく内田光子ならではの深みのある色彩だと思うのですが、旧録音の同じ部分(3:08)を聴くと、第1テーマと同じような軽やかさでサッと弾いているという趣きで、歩調といい色合いといい、新録音ほどの含みには乏しい気がします。あるいは第2楽章の冒頭のメロディとか、終楽章(3:34)からの嬰へ短調のメロディなどに聴かれる、ピアノのタッチの鮮やかさも、旧録音より一歩キリッとしていて、音楽の純度が素晴らしく、総じてモーツァルトの音楽の持つ、独特のフォルムの美しさを聴いていてより実感させられるのは、新録音の方ではないかと、そんな風に思いました。

いずれにしても、今回の新譜は両曲ともに、前回の録音よりもさらに深化した内田光子の音楽的イマジネーションの羽ばたきが、モーツァルトの持つ音楽自体の訴求力に見事に照応していて、素晴らしいと感じました。この録音を契機に、21番や22番、27番といったモーツァルトの他のコンチェルトも再録してもらいたいところですし、モーツァルトのピアノ・ソナタも、今もし再録したなら、おそらく並はずれた名演として結実するのではないでしょうか。

アリシア・デ・ラローチャ死去


シューマン ピアノ作品集(「謝肉祭」作品9ほか)
 ラローチャ(pf)
 デッカ 1987年 POCL-3056
POCL-3056

スペインの女流ピアニスト、アリシア・デ・ラローチャが25日、スペイン・バルセロナで死去されたとの報道を昨夜に知りました。享年86歳とのことです。御冥福をお祈りします。

それで今夜は、ラローチャの追悼盤としてシューマンのピアノ作品集を選び、その演奏に耳を傾けてみました。

グラナドスやアルベニスといったスペインものをレパートリーとして活躍したラローチャですが、ドイツ・オーストリア系の作品も得意とされ、特に古典派ではモーツァルト、ロマン派ではシューマンの演奏に定評がありました。

特にシューマンの「謝肉祭」作品9は彼女の得意レパートリーのひとつとされる作品で、1978年と87年との、2回の録音を残しているほどです。

このCDの演奏はその2回目の録音に当たるものですが、私はかつて、このシューマンの「謝肉祭」という作品を、何か取っ付きにくくてピンとこない曲だと思っていたのに、このラローチャの演奏を耳にして初めて、この作品の魅力を何となく実感できたような気がして、嬉しい気持ちになったことを覚えています。

それには音質が非常にいいという要因も、確かにあるのですが、やはりラローチャの熟達のピアノ運びが、この作品の取っ付きにくさ(と私が感じていたもの)を解きほぐしてくれたことに尽きるように思います。

というのも、このラローチャのピアノで聴くと、よく言われるような、この作品が4つの音符の仮面舞踏会である云々という、瑣末な視点よりも、むしろピアノ音楽としての純粋な愉悦味の方に、聴いていて意識が自ずと向けられる感じがするからです。フレーズのちょっとした愛らしいユーモアだとか、メロディの魅惑的な情感、あるいはシューマン特有の詩的な美しさ、そういった要素が凝縮されて詰め込まれているのが、この「謝肉祭」というピアノ作品に他ならないということを、ラローチャ一流の奥行きのある優しい歌い口から聴き手におのずと感得させてくれる、そんな演奏です。

11曲目キアリーナの(1:28)あたりの艶やかな高揚力、終曲の行進曲の(2:55)あたりの激しい情熱味など、彼女のスペイン的な感性もそこかしこに散りばめられていて、表情的にも素晴らしいですし、なんていい曲だろうという感懐が、聴いていて素直に湧き起るような強い説得力が、この演奏にはあると私は思います。

ラローチャは1972年にアメリカの音楽ジャーナリズムから「ピアノの女王」という称号を与えられ、一躍スターダムに躍り出たピアニストですが、しかしその語り口には、そういう派手な呼称とは相容れない内面的な深みがありますし、むしろ個々の音楽作品の魅力を純粋に掘り下げるストイックな姿勢から滲み出る味わいが、彼女のピアニズムの大きな魅力を形成していたように思うのですが、いずれにしろ彼女には、シューマン、モーツァルトを始め、本当にいい演奏を残してくれたことを心から感謝したい思いです。

ラトル/ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲全集


ブラームス 交響曲全集
 ラトル/ベルリン・フィル
 EMIクラシックス 2008年ライヴ 2672542
2672542

サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるブラームス交響曲全集の新譜を、今日ひと通り聴きました。

これは今月の上旬にリリースされた輸入盤の方で、国内盤の方は先月に先行リリースされていたのですが、そちらはDVDが付いているために6千円という高値でした。私はDVDは特に要らないので、輸入盤の方を待って今月ネットで購入しましたが、国内盤の定価のちょうど半額で済みました。

このブラームスは、昨年10月から11月上旬におけるベルリン・フィルハーモニーでのコンサートのライヴ収録なのですが、このあとラトルとベルリン・フィルは来日し、ブラームスの4曲をサントリーホールで披露しました。私はそのうちの3番と4番の方の公演を聴きに行き、その感想もブログに掲載しています

そういうこともあり、今回リリースの全集は、昨年聴かなかった1番と2番が聴ける興味とともに、実演で聴いた3番と4番の追体験を期待し、耳を傾けてみました。

まず交響曲第1番ですが、第1楽章は序奏のティンパニがかなり弱い感じで意外でしたが、弦パートの押し出しはかなり強く、屈強感があり、(3:02)からの第1テーマはチェロ・パートの実在感がたっぷりで、全体にやや遅めのペースを維持し、じっくりと煮詰めたような入念性と緻密性がアンサンブルに漲り、強奏時の張り詰めたような音響の緊迫感が素晴らしい迫力を付与していて見事です。ただ、(9:05)からの中盤のクライマックスは、ティンパニが大人しいのと、金管が突き抜け切らないのが仇となり、迫力が振り切れない物足りなさも残ります。しかしコーダのクライマックスは見事で、ことにリタルダンドの頂点(12:26)で初めてティンパニを激烈に叩き、圧巻の迫力を生ぜしめていて惚れぼれします。

第2・第3楽章も、全体にふくよかなバスのコクに、高弦と管楽器の澄んだ音色の美彩が絶妙に絡みつき、落ち着いたテンポ感で歌われるフレージングの情感の深さも並々ならない感じがします。終楽章は、前半はじっくりと厳かなテンポで、中盤の第94小節のアニマートあたりから推進的な音楽の流れに推移しつつ、時にはあっと驚くようなバランスが耳を捉えます。例えば第185小節からのラルガメンテ(8:36)で、管のスタカートを強調して一風変わったバランスを描いているところなど、ずいぶん新鮮ですね。コーダは白熱的な弦の最強奏に、ティンパニ渾身の最強打が張りを与え、畳み掛けるような終曲で感動的に締め括り、余韻も嫋々です。

交響曲第2番ですが、冒頭から相変わらずバスのコクが深く、落ち着いたテンポから表現力のある音が刻み込まれていて演奏に惹き込まれます。ここぞという時の迫力も素晴らしく、なかんずく中盤のクライマックス(7:55)あたりの最強奏の凄味はゾクッとくるほどでした。中間の2つの楽章では、ウエットなアンサンブルの色合いが、聴いていて羽毛のようにソフトな肌ざわりを印象づけたかと思うと、最強奏においては熾烈を極めるトッティを発し、その落差たるや天変地異的な趣きさえ宿していて魅了させられます。

終楽章はデュナーミクにかなり即興的な動きを仕掛けてくる感じで、速いテンポに乗ってオーケストラが第1テーマを力を込めて弾いている最中、ふっと力を抜いたボウイングを披歴し、聴いていて体が浮くような不思議な感覚に襲われたりします。終曲時の迫力なども、交響曲第1番のそれに劣らず抜群でした。

交響曲第3番と交響曲第4番は、これらを昨年サントリーホールで聴いた際の実演のイメージが概ね重なりました。実演ではオーケストラが必ずしもベスト・コンディションではないかなとも思ったのですが、この録音はさすがにバシッとしていて、バスも強く、おそらくベスト・コンディションに近い感じがしますし、それに伴い、強弱の意表を突く変化など、ラトルのやりたかったことが、実演時より明瞭に伝わってくる感じがします。

もっとも交響曲第4番は、録音だとヴァイオリンを中心に高声が全般に少しモワッとしていて、実演の方が凄かったような気もしますが、いずれにしろ聴いていて、客席で味わった感銘が素直に蘇るとともに、あらためてラトルの提示する斬新なブラームス像に魅了させられる思いでした。

以上、ひととおり聴き終え、このラトル/ベルリン・フィルのブラームスは確かに並々ならない名演だと感じたのですが、それでも、ラトルにしては、という思いも少しは残るものでした。実際、昨年の実演の感想でも「彼ならもっと強烈な演奏をやれるように思う」と書いたのですが、この録音を聴いても、正直やはり同じような思いが残ります。

ラトルはバーミンガム時代に強烈無比な録音を少なからず残しているので、そのあたりの印象からそういう風に思ってしまうのですが、あの往年のラトルの鮮烈な音楽性は、ベルリン・フィルだと表現が難しいような気もします。このブラームスにしても、往時にバーミンガム響と録音していたら、また異なる印象だったかも知れず、あのショスタコーヴィチやマーラーのような、それこそ狂気と紙一重のブラームスが聴かれたかも知れない、そんな気もします。

とはいえ今回のラトルのブラームスの新譜は、過去の歴代ベルリン・フィル音楽監督の残したブラームスの録音とひき比べてみても遜色ないばかりか、そのどれとも明らかに違う新鮮なブラームス像を確立させていて、昨年耳にした実演の追体験を別としても、率直に魅了させられるものでした。

サバイーノ/ミラノ・スカラ座管によるプッチーニの歌劇「ボエーム」全曲


プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 サバイーノ/ミラノ・スカラ座管弦楽団
 ボンジョバンニ 1928年 GB1125/26-2
GB112526-2

私はここ最近2か月くらい、土曜日というと必ず、何がしかのオペラを聴いているような気がして、ブログの題目のリストを確認してみたところ、実際その通りになっていて、自分のことながら少しビックリしました。

先週と先々週は「オテロ」ですし、その前は2週とも「ドン・カルロ」ですし、さらにその前はラトルの「ポーギーとベス」で、その前にもゲルギエフの「青ひげ公の城」がありますから、少なくとも最近2か月に限るなら、私の場合「土曜日はオペラの日」みたいな感じになっているようです。

別にそれは単なる偶然なのですが、そのあたりの習慣からか否か、今日あたりも何かオペラを聴かないと据わりが悪いような気持ちになり、結局この「ボエーム」全曲盤をひととおり聴いてしまいました。

これはカルロ・サバイーノの指揮で1928年にコロンビアに録音したSP盤を復刻したものです。ちょうど一週間前に、同じ顔合わせのヴェルディ「オテロ」全曲盤を聴いていますので、その流れで選びました。

その「オテロ」の方は全曲盤としての世界初録音でしたので、こちらの「ボエーム」も購入時、世界初録音に違いないと思ったのですが、調べてみると「ボエーム」全曲の世界初録音はなんとその10年も前の1918年に、同じくサバイーノとミラノ・スカラ座のオーケストラにより為されていました。ただ、そちらは当然ラッパ吹き込みによるアコースティック録音なので、電気録音による「ボエーム」全曲盤としては、この28年のサバイーノ盤が世界初録音だと思われます。

音質は、年代からするとかなり良好な部類です。全体にノイズレベルが低く、各歌手の歌唱がくっきりと高感良く聴こえる点に感心します。ただ、オーケストラの演奏が歌唱のそれと比べると総じて引っ込んだ感じにモヤッとしているあたり、ノイズリダクションが少し行き過ぎという気もしますが、、

演奏ですが、歌唱陣が全般に立派で、特にロドルフォ役のジョルジーニが素晴らしく、かつてのパバロッティをも思わせる高音域の表現力に卓抜したものを感じます。ミミを歌うロジーナ・トーリの歌唱力も魅力的ですが、病弱なミミの可憐なイメージを強調したかったのか、それとも単に音質が古くてそう聞こえるのか、全体的に歌唱の線がちょっと細めで、例えばテバルディあたりのミミからすると(変な言い方ですが)ちょっと貫禄不足という印象も残ります。

そういう個別の歌手の印象とは別に、この録音は聴いていて、スタジオ録音というよりオペラ劇場でのライヴみたいな、リアル感のある雰囲気が感じられ、興味深い感じがしました。

ちなみに私は、同じ「ボエーム」全曲盤の、ビリー/バイエルン放送響の最新録音盤について先月感想を書いたのですが、こちらはライヴ録音なのに、むしろスタジオ録音を聴くような雰囲気を聴いていて感じました。

一例を挙げますと、第1幕終盤のミミとロドルフォの有名な愛の二重唱のラストで二人が「amor」と歌うくだりで、このサバイーノ盤ではテノールのジョルジーニがプッチーニの原譜にないハイCを披露しています。これはオペラ劇場ではテノールの見せ場のひとつとして慣習的に行われているやり方ですが、これに対してビリー盤のヴィラゾンは原譜どおりです。すなわち、この点に関してはスタジオ録音のサバイーノ盤の方がライヴ録音のビリー盤より明らかにライヴ的です。

他にも、第4幕ラストでミミが息を引き取る場面で、サバイーノ盤ではロドルフォが絶叫の後に号泣する(ビリー盤では絶叫のみで、こちらも原譜どおり)など、やはりレコーディングがさほど一般化していない年代だけに、歌手の方も劇場感覚で録音に臨んでいるような節が伺えます。

そういうこともあり、音質のハンデは確かに大きいとはいえ、このサバイーノ盤はその音質水準を超えて聴いていて強く訴えてくるものがあります。その録音自体の歴史的な重みも含め、同じ「ボエーム」全曲盤でも、最新録音たるビリー盤で聴くのとはまた別種の深い感銘が聴き終えて残るものでした。

小澤征爾/ウィーン・フィルによる2002年ニューイヤー・コンサートのライヴ


「2002年ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート」
 小澤征爾/ウィーン・フィル
 フィリップス 2002年ライブ 468999-2
468999-2

今月に入って、新譜CDの感想をあまり出してないですし、未聴CDもたまっているので、今日あたりひとつ、、、と思ったのですが、どうも気が乗らなくて、結局やめにしました。

というのも、先週から今週にかけて、コンサートとオペラとで、超弩級の公演が立て続いた反動から、ちょっとした虚脱モードに入ってしまったようなので(単にコンサート疲れとも言いますが、、)。

まずミラノ・スカラ座来日公演に始まり、続いてウィーン・フィル来日公演、さらに新国立劇場の「オテロ」プレミエときて、最後にミスターSのブルックナーでトドメを刺された感があり、いずれにしろ、ちょっと落ち付くまで、新譜CDの封を切るのは控えた方がいいかなと判断しました。

とはいえ、何も聴かないのも体に良くないので(なぜ?)、今日とりあえず帰宅後に聴いたのが、このCD、2002年ニューイヤー・コンサートのライヴ盤です。

いや、いちおう脈絡はありまして、先週聴いたウィーン・フィル来日公演のアンコールでヘルメスベルガーとシュトラウスⅡ世のポルカが出されて、それをニューイヤー・コンサート気分で聴いていた時に、2000年の秋に同じくサントリーホールで聴いた、ウィーン・フィル来日公演のことを思い出したので、、、

2000-11-19

この時の指揮者は小澤征爾で、オール・ブラームスのプログラムだったのですが、アンコールでウィンナ・ワルツを演奏したのでした。本プロでは用いられなかったトライアングルやシンバルといった鳴り物楽器パートを投入して、シュトラウスⅡ世のワルツ「朝刊」とシュトラウスⅠ世のポルカ「シュネル憂いもなく」が演奏されました。これが実に良くて、むしろメインのブラームスよりも印象が強かったほどです。

もっともブラームスの方は、演奏が正直いまいちでした。第1シンフォニーなど、アタックはそれほど強調されず、音色の強靭性もそれほど強調されず、という按配であって、確かにアンサンブルはデリケートで、音彩も上質ではあったのですが、いささか音楽のムードがまろやかに過ぎ、厳しさを欠き、その点が聴いていて大きく不満でした。それだけにアンコールのシュトラウスには救われた思いがしたのですが、、

そんなこんなで、今夜はその小澤征爾の指揮によるウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのCDを久々に聴いてみました。日本人の指揮者がウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの指揮台に立つというのは、やはり歴史的快挙と言えるものですし、演奏自体も素晴らしくて、まさに雑味のないウィンナ・ワルツという感じがします。白眉は6曲目に収録されているヨーゼフのワルツ「水彩画」で、美演の一言ですね。

スクロヴァチェフスキー/読売日響のコンサートの感想


スクロヴァチェフスキー/読売日響のコンサート(東京芸術劇場 9/23)の感想です。

前半のベートーヴェン・ピアノ協奏曲第4番に関しては、全体にピアノ演奏の精彩がいまひとつ振るわず、いわゆる模範的な演奏というのか、プロのピアニストとして技術的に要求されることをきちんとクリアした地点での、ソツのない演奏でしたが、ベートーヴェンにしてはフォルテの腰が軽く、フレージングが押し並べて画一的で引っ掛かりに乏しいなど、完成度の割りに表出力がいまひとつ伴わないような印象を最後まで払えませんでした。

後半のブルックナー9番がとにもかくにも圧巻で、これは名匠スクロヴァチェフスキーのブルックナーとしても、おそらく会心の演奏ではないかと思ったのですが、いずれにしても、この1時間はまさに至福の一時でした。

オーケストラ編成は16型、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラと並べた変則配置でした。

第1楽章ですが、冒頭の弦のトレモロから再弱音にして驚くべき張りがあり、それに重なるホルンも絶妙な音量をもってクッキリとした筆致で奏でられるなど、最初の数秒だけでもう、ミスターSならではの稠密なブルックナーの世界に立ち入ったような気配が、ホールに充溢したのですが、これが最初のフォルテッシモの場面になるや、桁違いの表現力がオケから引き出されるのを耳にし、度肝を抜かれました。

そこではオーケストラ渾身の最強奏でありながら一点の曇りも濁りもない、練り切られたアンサンブル・バランスの奏でる、透徹したフォルテッシモというべきものが立ち現われたのですが、そのデュナーミクの驚異的な伸びと、ティンパニの激しい強打を伴う、熾烈なフォルテッシモを構築しながら、ハーモニーの透徹したパースペクティヴが、音楽の構造美を明晰に聴かせる、そんなギリギリのせめぎ合いに挑むようなアプローチと、そこから繰り出される音響の深い奥行きに、聴いていて心底しびれる思いでした。

この楽章を通じ、読売日響のアンサンブルの充実感は目を見張るばかりで、スクロヴァチェフスキーの要求する速めのテンポ、闊達なアゴーギグ(第325小節からの猛烈なアッチェレランド!)、緻密なアーティキュレーション、細密なハーモニー展開、といったハードルをほぼ完璧に音化しながら、ここぞという時には、前述のような驚異的なフォルテッシモのインパクトを叩き付け、このブルックナーのシンフォニーがいかに構造的に美しく、そして同時に、いかに音響的に凄絶であるかを、ギリギリのバランスでもって並列的に突き付ける、そんな演奏でした。それが途方もなく強烈なインパクトに満ち、それゆえ聴いていてある種の畏怖の念すら沸き起こるくらいでした。

第2楽章になると、冒頭のテーマからチューバを大胆に鳴らしての際立ったアクセントで演奏され、ティンパニの刻む激しいリズム、そして金管セクションの抜群の鳴りっぷりを背景に、すこぶる雄弁にして刺激的なオーケストラ・ドライヴが披歴され、異様なテンションでありながら、その背後においては、全パートの隅々まで常に神経の張り巡らされたようなアンサンブルの圧倒的な集中力が、ブルックナーの音楽の持つ深い思索を聴き手に意識させる、そんな演奏で、まるで天国と奈落とが隣り合わせに隣接しているような趣きの、この楽章本来の異常な緊張感に拮抗する音響的な緊張感に魅了させられる思いでした。

終楽章は冒頭から身が引き締まるような深々としたアンサンブルの鳴動がホールに立ち込めたのを皮切りとし、時に冷厳なまでにひんやりとして美しい響きや、時に慰めに満ちた温かい響きや、時に恐怖をも伴うほどに緊張した響きが、音楽の推移に従い絶妙のタイミングとリアルな肌ざわりで披歴される様子を、固唾を飲んで聴き入るばかりでしたが、この終楽章の錯綜する楽想がミスターSの手にかかると、まるで一本芯の通ったような一貫性のある表現力でもって緻密に描き分けられていて、まさに感服の極みでした。

ここではオーケストラもおそらくポテンシャルの120%くらいをもって応答し切っていたように思われますし、トッティの鳴りなども尋常ではなかったのですが、それにしても16型にしては、およそ響きに贅肉感がなくて、常にハーモニーが引き締っていたのも印象的でした。ヴィオラを敢えて客席側に配して
内声をくっきり聴かせるといった、パート配置上の工夫もおそらく一役買っていたのではないかと思うのですが、最終的には、スクロヴァチェフスキーの妥協を排した厳しい統制力の賜物のような気がします。トッティの強靭な一体感、練り切られた音響バランス、いずれも惚れぼれしましたし、こうして振り返っても、改めて感心せずにはいられません。

以上、本公演のブルックナーは、およそ期待を裏切らない素晴らしさなどというのでなく、私の期待値などよりも遙かに上を行く演奏内容というのか、ブルックナーの実演を聴いて、これほど心揺さぶられる体験というのは、ここ数年来ちょっと記憶にないほどでした。

そして、それを突き詰めて考えると、スコアの細かい解釈云々などというよりも、むしろスクロヴァチェフスキーの展開する熟達のアンサンブル運用に、読売日響のアンサンブルが最高のレスポンスで応答し切ったということではなかったかと、そんな気がします。

オーケストラがそれこそ力の限りをぶつけた地点で、なお正確な合奏を展開し、限りなく精妙なハーモニーが立ち現われる様相をまのあたりにした時の、言語を絶するほどの感動。それはかつて、ギュンター・ヴァントが北ドイツ放送交響楽団を率いて来日し、披露したブルックナーの9番の公演を客席で聴いた時に味わったものに、限りなく近くて、何だかすごく懐かしいものに再会したような、そんな気持ちでホールを後にしました。

今回の公演をもって、スクロヴァチェフスキーが読売日響と続けてきた一連のブルックナー・チクルスはひとつの頂点を極めた感もありますが、読響常任のポストを2010年3月で退任するまでに、まだ交響曲第8番という大物にして最後の公演が残っていますので、これもぜひ聴きたいところです。

終演後に楽屋前でスクロヴァチェフスキーのサイン会があり、プログラムにサインを頂きました。

2009-09-23a
今日の素晴らしいコンサートの思い出に、、、

スクロヴァチェフスキー/読売日響のコンサート(東京芸術劇場 9/23)


今日は東京芸術劇場で、読売日本交響楽団のコンサートを聴きました。

2009-09-23

指揮者は、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー。演目は前半がベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ・ソロはアンドレ・ワッツ)、後半がブルックナーの交響曲第9番でした。

今日はミスターSのブル9を目当てに足を運んだのですが、そのブルックナーが実に驚異的な名演で、私がここ数年来で耳にしたブルックナーの実演の中でも、最高度に魅了させられた演奏でした。

感想は後日、あらためて出したいと思いますが、来月で86歳にもなるミスターSの、まさに老巨匠ならではの至芸が招来するかのような極め付きの充実感を伴う、本当に素晴らしいブルックナーでした。

ムーティ/ミラノ・スカラ座管によるヴェルディの歌劇「運命の力」全曲


ヴェルディ 歌劇「運命の力」全曲
 ムーティ/ミラノ・スカラ座管弦楽団
 EMIクラシックス 1986年 7474858
7474858

先週、東京文化会館でミラノ・スカラ座のヴェルディ「ドン・カルロ」を観劇し、久々にラ・スカラの舞台に再会しましたが、こと歌唱陣に関しては感想にも書きましたように必ずしも万全とは言い難い印象も残ったのが残念と言えば残念でした。

これに対して9年前(2000年)に同じ東京文化会館で観たミラノ・スカラ座来日公演のヴェルディ「運命の力」は、それこそ非の打ちようのない名舞台だったことを覚えています。

2000-9-16

この時はリッカルド・ムーティの指揮だったのですが、ことにオーケストラの濃密なバスを中心に展開されるダイナミクスの豊かさと音色の味わい、いずれも文化会館のホールに最高の美しさで広がっていき、すごいものだと感心しきりでした。単に美しいだけではなく、ここぞという時の底力も見事で、例えば終幕近くで瀕死のドン・カルロが実妹・レオノーラを自らの剣で貫く場面に聴かれた、肺腑をえぐるような戦慄を帯びた最強奏のインパクトなど今でもちょっと忘れられません。

歌唱陣も素晴らしく、特にドン・アルヴァーロ役のサルヴァトーレ・リチートラとレオノーラ役のマリア・グレギナは、いずれも抜群で、なかんずく第4幕ラストの悲劇の中で哀しみにあえぐように「罪あるものだけが、罰を受けることなく生き残るのか」と叫ぶリチートラの絶唱など、9年経った今でも耳の奥に刻みこまれているほどです。

ところでムーティ/スカラ座によるヴェルディの「運命の力」はCDでもリリースされていますが、このディスクは音質が特に良く、ムーティのスカラ座との一連の録音の中でも最上部類の音質ではないかと感じています。同じ顔合わせで同時期に録音されたヴェルディの「レクイエム」などと比べると格段にいいですし、冒頭の序曲(2:20)あたりからレオノーラの主題が大きく盛り上がるところでのバスの豊かさなど、実演を彷彿とさせるくらいですし、演奏全体を通して強音はキリリと締まり、弱奏はふくよかに美しく、味が濃く、カンタービレの味わいも豊かで惹き込まれます。第3幕冒頭のロマンツェ前奏での木管ソロなども美しさのかぎりです。

歌唱陣は主役3人をドミンゴ、フレーニ、ザンカナロが務めていて、いずれも貫禄の名唱を聴かせています。ただ、ここでのフレーニはドラマティック・ソプラノ張りに強音が強くて立派なのですがフレーニの本来の歌唱様式からすると、ちょっと無理をしているような感じもします(レオノーラは本来マリア・グレギナのようなドラマティック・ソプラノが歌うべき役柄ですので)。

新国立劇場のヴェルディ「オテロ」の感想


昨日(9月20日)の新国立劇場、ヴェルディ「オテロ」のプレミエ公演を観ての感想です。

やはり演出のことから書きたいと思います。これは人によっては評価が分かれそうですが、私は称賛に値する演出とみました。

まず開演前にロビーで購入した公演プログラムに、本公演の演出を手掛けたマリオ・マルトーネの談話が掲載されていたので、軽く眼を通してみると、舞台装置は「一杯飾り」(転換の無い舞台セット)にしたと書いてあったので、それだと舞台進行が単調に流れないかと心配したのですが、いざ開演してみると単調どころか、目を見張るシーンの連続で驚かされました。

幕が開いてまず驚いたのは、ステージの表面積の半分超に対し水が張られた舞台の光景です。これは水の都ヴェネチアをイメージした舞台設定とのことですが、これにより合唱団を中心とする多くの登場人物は、ひっきょう水の張られていない区間に限定して配置されることになるため、観ていて舞台が人でごちゃつかずに、常に整然と秩序だったように映ります。この「水」と「人」との配置領域の設定がまず面白いと感じました。

面白いと言えば、照明効果もかなり独特で面白いものでした。前述のように舞台装置は「一杯飾り」なので、場面ごとの色分けは照明を中心に行うのですが、そこではヴェネチアの雰囲気を表すグレーを基調としながら、舞台の進行に伴って光の色合いが細かく変化するので、転換の無い舞台セットなのに、観ていて各幕ごとに全く違う印象がもたらされるものでしたし、局所的にも、例えばイアーゴがオテロに姦計を仕掛ける場面では、舞台全体にクモの巣のようなパターンを揺らめかせて、オテロがイアーゴの罠に絡め取られていく様を示してみせたりなど、時にはキャラクターの心理面も積極的に照明効果で表現するという趣向が見られました。

さらに特筆すべきは、ここぞという時の「水」の使い方で、この点は観ていて最も感心しました。というのも、基本的に登場人物は、水の張られている区間には立ち入らずに劇を進めるのですが、ここぞという時は登場人物をそこに敢えて立ち入らせることで、視覚的にドラマティックなインパクトを巧く提示していたからです。具体的には、第2幕冒頭のイアーゴの「クレド」のアリア、第4幕冒頭のデズデーモナの柳の歌、そして終幕でオテロが自害する場面、といったあたりが挙げられますが、特にすごいのは最後のオテロ自害場面で、ここではオテロが実際に水の中に倒れ込んで息絶えるという光景が披歴されました。

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上の写真は、終演後に売店で買った舞台写真で、オテロの絶命の場面です。これはリハーサル時の写真なので、舞台に水が張られていませんが、本番では体が水に浸かった状態で息絶えることになります。

以上が、演出の主だった特徴です。「一杯飾り」の統一感のある舞台に「照明」と「水」とで巧く変化と起伏をもたせたなというのが私の印象で、確かに「クモの巣」など多少あざといというか、視覚的な説明が過ぎるようなところもあるにしても、全体的には個性感のある「楽しめる演出」だと感じました。

ちなみに前回(2003年)の新国立劇場の「オテロ」では、エライジャ・モシンスキー演出のプロダクションで、これは1987年のコヴェント・ガーデン王立歌劇場プレミエの舞台をそのままレンタルしたものだったのですが、とにかく観ていて変化にも起伏にも乏しくて、およそ感心できないものでした。それに比べると、今回の「オテロ」でのマリオ・マルトーネの演出は、ずっと良かったと思います。先週観たスカラ座の「ドン・カルロ」の舞台でもそうでしたが、やはり演出家の旺盛な表現意欲が滲み出るような舞台というのは、それが成功か失敗かは別としても、観ていて気持ちがいいものですし。

演出についての感想は以上で、あとは歌手などについて個別に。

オテロ役ステファン・グールド:
ヘルデン・テノールとして活躍する世界的歌手です。オテロは確かに、通常のテノールには歌いこなせない難役として知られますが、彼はさすがに高音域の朗々たる歌唱力と中音域の屈強な声質を兼ね備えた歌唱を披歴し、ここぞという時の高音の突き抜けぶりも見事なものでしたし、演技力も非常に良く、特に第3幕のラストなどは発狂的な凄味が素晴らしく、観ていて文句なく圧倒されました。

しかし、例えば第1幕のデズデーモナとの二重唱など、カンタービレをメインに聴かせる場面では、やや物足りない印象も残りました。というのも、歌唱様式がやはりヘルデン・テノールなので、イタリア・オペラの歌唱に必要な瞬発的高揚力がいまひとつ弱く、例えばデル・モナコやドミンゴといった生粋のオテロ歌いのそれとは微妙に趣きが異なるように思えたので。とはいえ、そのあたりはさすがに無い物ねだりですし、全体としてはやはり優れた役作りを披露し舞台全般をグッと引き締めていたと思います。

デズデーモナ役タマール・イヴェーリ:
悪くはなかったのですが、デズデーモナとして当初予定されていた、ヴェルディ・ソプラノのノルマ・ファンティーニの代役としては少し小粒かなという印象も感じました。全体に歌唱の線が細くて、可憐なイメージは強く出ていたのですが、局面によってはもう少し声に強さが欲しい感もあり、その清潔感のある澄んだ美声には聴いていて素直に惹かれたのですが、少なくともヴェルディ・ソプラノという感じはあまり出ていなかったように思います。

イアーゴ役ルチオ・ガッロ:
ずいぶん大物のバリトンを持ってきたなと思ったのですが、少なくとも私には、ガッロはモーツァルトの方面の歌手(フィガロとかドン・ジョバンニとか)というイメージが強くて、イアーゴは何となくミスマッチ、という印象を最後まで拭えませんでした。この人は演技力が凄いので、役作り自体は完璧で、それでカバーしていたようにも思えたのですが、ギリギリのところで違和感が、、、やはり、声質的にオペラブッファ向きだと思うので。第2幕や第3幕でオテロを陥れようと画策するあたりなど、まるでフィガロが伯爵を陥れようと画策するような雰囲気がダブってしまったり。03年の新国「オテロ」で観たホアン・ポンスのイアーゴは素晴らしかったのですが、その印象からしても、ガッロの歌唱様式はヴェルディ、特にイアーゴとしては、少なからず違和感があったというのが率直なところです。

新国立劇場のヴェルディ「オテロ」(9/20)


今日は新国立劇場で、ヴェルディ「オテロ」の初日公演を観ました。

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指揮はリッカルド・フリッツァで、オーケストラは東京フィル。主要キャストは以下の通りです。

オテロ:ステファン・グールド
デズデーモナ:タマール・イヴェーリ
イアーゴ:ルチオ・ガッロ
カッシオ:ブラゴイ・ナコスキ
エミーリア:森山京子

このうちデズデーモナは、当初ノルマ・ファンティーニが予定されていましたが、健康上の理由でタマ―ル・イヴェーリに変更になったとのことでした。

さて、新国立劇場でヴェルディの「オテロ」を上演するのは、2003年以来になりますが、私はその前回公演も観に行きました。

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左側が今日の公演プログラム、右側が2003年の公演プログラムです。

2003年の時はまだ新国がダブルキャスト制だった時代で、私が観たのは外題役がウラディーミル・ボガチョフの回だったのですが、この時は主要キャストの歌唱・オーケストラ演奏・演出ともに決め手に欠けるような印象があり、全体にいまひとつという感じで、そんな中ヤーゴ役ホアン・ポンスの老獪な名唱ぶりのみ際立っていて孤軍奮闘という印象でした。

対して今日の公演ですが、全体的に03年の「オテロ」よりも高いレベルでまとまっていて、かなり見応えのある内容でした。

ことに演出がかなり凝っていて、観ていて惹き込まれました。やや凝り過ぎて、人によっては音楽に集中できないとか、反対意見も出そうな気もしますが、私は称賛に値する演出とみました。少なくとも03年の「オテロ」で観た、あの単調を絵に書いたような演出よりは、今回の方がずっと演出的表現力のレベルが高いと思いますし。

オーケストラ演奏も見事で、先週のスカラ座のそれにも肉薄する内容だったと思います。しかし歌唱陣には、少し引っ掛かりを感じました。別に凡庸というのではなく、歌唱自体はすこぶる立派だったのですが、各人の役柄に対する、歌唱様式の適性というか、そういう面に若干ズレがあるような気がして、そこが聴いていて引っ掛かりました。

そのあたりも含めて、また後日、あらためて感想を掲載します。

サバイーノ/ミラノ・スカラ座管によるヴェルディの歌劇「オテロ」全曲


ヴェルディ 歌劇「オテロ」全曲
 サバイーノ/ミラノ・スカラ座管弦楽団
 プライザー 1931・32年 PR20012
PR20012

ヴェルディの歌劇「オテロ」ですが、先週カラヤン/ウィーン・フィルの全曲盤と、ミュンフン/パリ・バスティーユ・オペラの全曲盤を聴いたのに続いて、今日はカルロ・サバイーノ指揮ミラノ・スカラ座の全曲盤を聴いてみました。

このサバイーノ盤は、「オテロ」全曲の世界初録音として知られるものです。

そのあたりの記念碑的な意味合いもあるとしても、この録音の真価はむしろその音質でしょう。とにかく驚異的な音質で、30年代初頭の録音とは俄かに信じがたい気さえします。

例えば、現状このサバイーノ盤以外で、「オテロ」全曲のミラノ・スカラ座による唯一の正規録音である、1985年に録音されたマゼール盤(EMI)とひき比べてみても、信じがたいことに、オーケストラの響きの豊かな肉厚感といい、ハーモニーの鮮明感といい、ソノリティ全体の実在感の強さといい、いずれもこちらのサバイーノ盤の方に軍配が上がると思います。デジタル録音がSP初期の録音に音質で負けるなど、常識では考えられない話ですが、、、

この高音質を背景に、当時のスカラ座の歌手たちの爽快な歌いっぷりを時代を超えて堪能できるというのも、ちょっと堪えられない喜びで、色々な意味でこの録音は貴重だと思います。

外題役ニコロ・フサティの歌唱は、さすがにデル・モナコやドミンゴなどと比べるとやや小粒という感もありますが、要所要所で聴かせる、抑えがたい衝動を赤裸々に叩きつけるというような迫真の歌いぶりが見事です。デズデモナ役はマリア・カルボーネ、イアーゴ役はアポロ・グランフォルテ。

それにしても、スタジオ録音であるにもかかわらず、聴いていると何となくオペラ劇場でのライヴみたいな雰囲気を感じるのですが、この年代のオペラ録音には、こういう雰囲気のものが少なからずあるようですね。

ウィーン・フィル来日公演の感想


ウィーン・フィル来日公演(サントリーホール 9/17)を聴いての感想です。

オーケストラ編成は16型、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた変則対向配置で、第1ヴァイオリンの後方にコンバス、チェロの後方にティンパニ、ヴィオラの後方にハープという陣形をとり、大ホールのステージからはみ出さんばかりに陣取ったウィーン・フィルのアンサンブルというのは観ているだけでも壮観でした。

まずバルトークの「管弦楽のための協奏曲」ですが、第1楽章は冒頭の弱奏進行からさざ波のように広がる弦の音幕を起点にピリッと引き締った響きが立ち込め、緊張した佇まいがホールを満たし、この作品としては上々の滑り出しと感じました。主部のアレグロに移ってからは快適にして流暢なアンサンブル展開が爽快な気分を呼び起こす、そんな演奏で、推進的なテンポから管パートの音色が軒並み冴えていましたし、ことに展開部終盤の壮大なカノンから再現部に突入するまでのところで、金管パートの味の濃い音色が繰り広げる畳み掛けの迫力に思わずゾクゾクしました。

第2楽章に入ると主役は木管パートに移るのですが、ここではファゴットといいオーボエ、クラリネット、フルートといい、ウィーン・フィルならではというような響きの色彩感が冴えていて惹き込まれました。この楽章でこんなにエレガントな演奏が可能なのかとビックリしたくらいですが、ここでもメータはかなり速めのテンポで何らもったいぶらずに歩を進めるという風で、やや含みに乏しいとしても、竹を割ったような潔さでアンサンブルを巧く取りまとめていたように思います。

第3楽章は圧巻というべきで、当夜の白眉と感じました。冒頭のオーボエが吹く主題、それを彩るフルートとクラリネットのアルペジオ、これらが織り成すこの世ならぬ音響美から早くも別世界というのか、聴いていて違う世界にスッと吸い込まれるような感覚に襲われたほどでしたし、楽章全体を通して、どんなCDや実演からも聴くことあたわざるような、超常的にして幽玄なソノリティが、精妙かつ艶やかなウィーン・フィルのアンサンブルから鮮やかに立ち現われるのを、陶然とした面持ちでひたすら聴き入るとともに、その感動に震える思いでした。これにはウィーン・フィルの力量に加えて、コンサートミストレスを務めたダナイローヴァの女性的な感性が、何らかの影響を及ぼしていたような、そんな気もしました。

第4楽章に移ると先の第2楽章同様、エレガントの極みという風で、この楽章の性格からすると、もう少しグロテスクな色合いが強くても、とも思われましたが、中間部の雰囲気などウィンナワルツみたいで、ウィーン・フィルらしい演奏だなと感じました。つづく終楽章は冒頭のウィンナホルンの豪快な咆哮で幕を明け、素晴らしいレスポンスのアンサンブルが手に汗握るドライブを披露し、その絢爛たる色彩感も含めて管弦楽的な醍醐味に満ち、聴いていて否応なく酔いしれましたし、おまけにここではウィーン・フィルならではの興味深い光景をも目撃することができました。

興味深い光景というのは、終楽章後半の弦のフガートに入る直前、ティンパニがロール打ちをするのですが、この場面で隣の小太鼓奏者が、おもむろに立ち上がり、ロール打ちに合わせてティンパニのハンドルを操作し、また着席するという一連の光景です。

これは割り合い有名な話ですので、御存じの方も多いと思いますが、一応書きますと、ウィーン・フィルは楽器の伝統をかたくなに守るオーケストラであるため、ティンパニにおいても現在一般に普及しているペダル・ティンパニを使用せず、昔ながらのハンドル式マシーン・ティンパニを使用しているのですが、これだと音階移動の際、もしティンパニ奏者の両手が塞がってしまうと、ハンドル操作ができないので、そのような場合、他の団員が臨時にハンドルを操作して切り抜けるという工夫をするということです(詳しくは金子建志編著・立風書房「オーケストラの秘密」P.172参照)。

そういうことを話には聞いていたのですが、実際見るのは初めてで、見ていてなるほど大変だなと思いましたが、そこまでしても守りたい彼らの伝統というものの重みに、何となく意識を向けられた気がしましたし、そのあたりのウィーン・フィルの演奏姿勢に対し、改めて敬意を喚起させられもしました。

以上、初めて耳にした「ウィーン・フィルのオケコン」に対する、全体的な印象として、聴いていて魅力的なシーンも多々あったのですが、同時にそれらはバルトーク的なアトモスフィアとはややかけ離れた雰囲気でもあり、特に第2楽章や第4楽章などは、もっとグロテスクさというかドス黒さというか、ある種のオカルト的なムードというか、そういう色彩が欲しい気もしました。とはいえ、それと引き換えにウィーン・フィルならではの刻印がなされていたのは確かだと思いますし、こういう洗練を極めたような音響美のバルトークというのも、いいものだなと結局は納得させられてしまう、そんな演奏でした。

後半のベートーヴェンですが、前半のバルトークの16型をそのまま継続しての、ボリューム感のある演奏でした。メータの指揮は概ね速めのテンポで、第1楽章の提示部を反復しないかわりに第2楽章に移る際アタッカで繋げていたのですが、それ以外は良くも悪くも、絵に書いたようにオーソドックスな運用でした。表情としてあまりに「ふつう」なので、ほとんどウィーン・フィルに下駄を預けてしまったかとも聴いていて思ったのですが、しかしよく考えると、この16型の大編成を速めのテンポでピシッと曖昧なく鳴らし、淀みなく走らせていくのは、それだけで至難の技とも思われますし、それ以上にウィーン・フィルの鳴りっぷりが胸のすくほど良く、聴いていてしきりにウキウキさせられましたし、やはり何もしていないようで実はメータの睨みがしっかり張り巡らされた演奏ではなかったかと、聴き終えて感じました。いずれにしても、久々に爽快で気持の良いベートーヴェンを聴けて嬉しかったです。

爽快で気持の良いという点では、ある意味ベートーヴェン以上だったのがアンコールの2曲のポルカ。思えば当夜のウィーン・フィルと、その前々日に観たスカラ座とを合わせて、何だか盆と正月が一緒に来たような気持ちだったのですが、ここにおいて、オペラの最後で先祖の幽霊が登場して幕切れというスカラ座の方が「盆」、ニューイヤー・コンサートさながらにシュトラウスのポルカで締めくくったウィーン・フィルの方が「正月」というオチが、どうやら付いたようです。お後が宜しいようで、、、<(_ _)>

ウィーン・フィル来日公演(サントリーホール 9/17)


今日はサントリーホールでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2009-09-17

今年の指揮者は、ズービン・メータ。演目は前半がバルトークの「管弦楽のための協奏曲」、後半がベートーヴェンの交響曲第7番でした。また、アンコールにはヘルメスベルガーのポルカ「軽い足取り」とヨハン・シュトラウス2世のポルカ「雷鳴と電光」が演奏されました。

話題となっているコンサートマスターですが、前半のバルトークではアルベーナ・ダナイローヴァが、後半のベートーヴェンではフォルクハルト・シュトイデがそれぞれ務めました。もっとも、ダナイローヴァは女性奏者ですので、正しくはコンサートミストレスというべきですね。

さて、ウィーン・フィルを聴くのは、昨年9月16日の来日公演以来ちょうど1年ぶりになります。そのときは前半がハイドンの交響曲第67番、後半がブルックナーの交響曲第2番という世にも珍しい演目でした。

それで今年ですが、去年ほどではないにせよ、なかなか興味深い演目が含まれていました。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」(オケコン)です。

オーケストラの名技性が要求されるこの作品は、世界の一流オーケストラが軒並み録音をしているなか、ウィーン・フィルのオケコンだけは、なぜかこれまで一枚も録音がありませんでした。それが実演にかかるというので、大いに聴く価値ありと踏み、今日の公演を選んでホールに足を運びました。

感想はまた後日出しますが、今日の公演では16型の大編成によるウィーン・フィルの、ボリュームたっぷりの音を満喫しました。やはりウィーン・フィルの実演というのは格別で、去年聴いたばかりだから、今年は見送るか、などと思ったところで、結局は聴きに行ってしまいますし、、、

それにしても、一昨日のスカラ座の余韻覚めやらないうちに、今日のウィーン・フィル。こういう贅沢も年に一回くらいは、いいですね。

ミラノ・スカラ座来日公演ヴェルディ「ドン・カルロ」の感想



昨日(9月15日)の東京文化会館、ミラノ・スカラ座来日公演ヴェルディ「ドン・カルロ」を観ての感想です。

まず演出のことから書きます。本公演の演出に関しては、これまでのスカラ座の、過装飾なほどに豪華絢爛な舞台に敢えて背を向け、シンプルで実質的な舞台装飾とした上で、演出に力を入れるという触れ込みでしたので、どんな感じだろうと興味深く観ました。

その印象ですが、全面的に称賛とまではいかないとしても、かなり考えられた演出だと思いました。この演出では、カルロとロドリーゴの少年時代を象徴するキャラクターを子役に演じさせていたのですが、それが過去の回想シーンのみならず、本編のシナリオ自体にも巧く絡められていた点に、ちょっと意表を突かれたような斬新さがありました。

それを具体的に書くと、まず第2幕のラストの異端者の処刑のシーンで、異端者に混じって何故か少年時代のカルロ(子役)が刑木に縛り付けられます。そのあとカルロが登場してフィリッポとやり合うのですが、カルロの振りかざした剣を取り上げる段になって、台本ではロドリーゴが取り上げるところ、ここでは少年時代のロドリーゴ(子役)がカルロから剣を取り上げてフィリッポに手渡します。以上を伏線とし、続く処刑の場面で「天の声」が「高く舞い上がれ、哀れな魂よ」と歌うのに合わせて、刑木に縛り付けられていた少年時代のカルロが、(ワイヤーで)宙に浮いて昇天し幕切れ、という展開でした。

これを観ていて、特に昇天のシーンなど、なるほど面白いなと思ったものですが、しかし幕間の休憩時に少し頭を冷やして考えてみると、あれはちょっと変だなという気もしました。というのも、あれだと、あそこで二人の友情が客観的に切れたと見えてしまうのですが、別に切れていないことは第3幕の展開から明らかですし、よしんばあれがカルロの主観を映したものだとしても、第3幕の牢獄の中で、カルロがロドリーゴそっちのけでエリザベッタのことばかり嘆いていることとの整合が付かない印象が残るからです。

ロビーで売られていたプログラムを読むと、そこには本公演でのシュテファン・ブラウンシュヴァイクによる演出に関して、シラーの原作ではカルロとロドリーゴの友情の描写が掘り下げてなされているのに、それがヴェルディのオペラでは十分でないので、演出の方で踏み込んで表現してみたという趣旨の記載が見られます。

その視点は確かに、なるほどと思うのですが、前述のように、微妙にシナリオと合わないしこりも感じましたし、むしろロドリーゴがカルロをかばって絶命するシーンで何の工夫も凝らさなかった点が、演出のビジョンからすると中途半端な気もしました。

結局のところ、このオペラは主題が多すぎて扱いが難しいではないかと思います。カルロとエリザベッタの不倫の苦悩という観点では例えば夏目漱石の「それから」に似た雰囲気があったり、ロドリーゴとの友情という観点では太宰治の「走れメロス」を彷彿とさせたり、ロドリーゴとフィリッポとの関係では統治政策をめぐる政治問題だったり、フィリッポと宗教裁判長との関係では政治権力と宗教との二重統治の問題だったりするので、マーラーの交響曲のように、主題が3つも4つもあるような構造になっていて、演出としても焦点が絞りにくいのでしょう。

その意味では、敢えて「走れメロス」的なクローズアップを観客に示唆した本演出は、それが必ずしも成功だったか否かはともかく、演出家としてのチャレンジ精神は旺盛に感じられたため、観ていて気持ちの良いものでした。少なくとも、3年前に新国で観た「ドン・カルロ」の舞台の、キューブ状の壁を進行に合わせてグルグル回すだけの、半ば投げやりな(私にはそう見えました)演出よりは、演出家のこうしたいという強い主張が明確に出ていて好ましい感じがしました。

演出についての感想は以上で、あとは歌手などについて個別に書きます。

ドン・カルロ役ラモン・ヴァルガス:
率直に言って、あまり良くなかったと思います。思ったより声が飛んできませんでしたし、表情のメリハリもいまひとつ精彩がなく、ここぞという時の高音の突き抜けぶり(第2幕終盤の「救い主」のフレーズなど)もヴァルガスにしては物足りない出来でした。印象としては、9年前のスカラ座来日公演の「リゴレット」の時の方がずっと良かったように思います。この時は、ヴァルガスはマントヴァ公を歌ったのですが、NHKホールの3階席で聴いていて、舞台から声がガンガン飛んでくるのに驚嘆したのを覚えています。それが頭にあるので、今回は正直、不満が残りました。加齢により声が衰えたか、単に不調だっただけか、おそらく後者だとは思いますが、、、

エリザベッタ役ミカエラ・カロージ :
こちらは絶好調で、ヴァルガスの不調?を上手くカバーして舞台を引き締めていた感じでした。美声で、十分な声量を持っているにもかかわらず、ここぞという時以外は程良い抑制を効かせて一音一音の語感を大事に歌う、クレバーな歌いぶり。メインキャスト中唯一のイタリア人で、ネイティヴの強みがよく出ていた様子でしたし、第4幕の冒頭から中盤にかけてのアリアなど、声の力で聴かせる場面での表出力もすこぶるつきで魅了させられました。紛れもなく当夜の最高殊勲歌手だと思います。

フィリッポ二世役ルネ・パーペ:
もともとサミュエル・ラミーとのダブルキャストだったところ、ラミーの降板により全公演を一人で歌い切らなければならなくなりました。そのあたりの影響が微妙にあったのか、やや疲れが垣間見える感じもしましたが、それでも第3幕冒頭のアリアなどは迫真のリアリティをもって歌い上げ、世界的歌手たる貫禄を示すに十分なものがありましたし、少なくとも当夜の男性歌唱陣の中では圧倒的な存在感を示していました。

ロドリーゴ役ダリボール・イェニス:
こちらもパーペ同様、もともとトーマス・ヨハネス・マイヤーとのダブルキャストだったところ、マイヤーの来日キャンセルにより全公演を一人で歌い切らなければならなくなりました。それでも、声は充分出ていましたし、悪くはなかったのですが、例えばフィリッポとやりあう場面など、もう少し感情が振り切れた感じが出ていたら、なお良かったように思います。

エボリ役アンナ・スミルノヴァ:
ドローラ・ザージックの代役ということでした。声量はすごくて、当夜の歌手の中でも一番なくらいだったのですが、声質がずいぶん重くて、やや違和感がありました。ワーグナーの方面の歌手かと思ったくらいで、経歴を見るとそうでもないようですが、いずれにしても、イタリア語のイントネーションがちょっとベタッとした感じで、エリザベッタ役のカロージが抜群だっただけに、それが尚のこと気になりました。

ガッティの指揮によるミラノ・スカラ座の演奏:
スカラ座のオケは相変わらずバスが豊かで、コクのある、いい音を鳴らしていました。ガッティの指揮も、前評判はいまひとつとも聞いていたのですが、当夜は素晴らしいと感じました。全体に音楽の流れがスムーズでありながら軽くもなく、ここぞという時には金管を猛烈に鳴らし、ティンパニを強打させ、ホールを揺るがすトッティの鳴動を生み出したり、そのあたりの起伏形成力は、前任者ムーティのそれに比しても遜色を感じないくらいでした。

そのムーティとの違いという点ですが、ガッティはイン・テンポを主体としながら、時にムーティのやらないような大胆なテンポ変化をきかせていました。例えば第4幕のカルロとエリザベッタの二重唱の終盤「Or che tutto fini(今や全てが終った)」からのくだりなど、ムーティ/スカラ座のライブ盤よりも倍近くおそいテンポでじっくりとメロディを歌い込んでいましたし、少なくともテンポ選択という点ではかなり柔軟なアプローチを取るように思います。スカラ座の次期音楽監督候補とのことですが、そうなればムーティとはまた違った方向性が打ち出されて面白いのではないかと、そんな気がします。

版について:
基本はリコルディ4幕版でしたが、第3幕のラストで、ロドリーゴの死をフィリッポ2世が嘆くアリアが追加されていました。これはリコルディ4幕版にはなく(ムーティ/スカラ座のライブ盤でも歌われません)、5幕版からの借用なのですが、パッパーノ/パリ管のライヴ盤で耳にしたとき、カットするには惜しいアリアだと思ったので、それが聴けて思わぬ収穫でした。

ミラノ・スカラ座来日公演のヴェルディ「ドン・カルロ」(東京文化会館 9/15)


今日は東京文化会館でミラノ・スカラ座来日公演のヴェルディ「ドン・カルロ」を観劇しました。

2009-09-15

指揮はダニエレ・ガッティ。主要キャストは以下の通りです。

ドン・カルロ:ラモン・ヴァルガス
エリザベッタ:ミカエラ・カロージ
フィリッポ二世:ルネ・パーペ
ロドリーゴ:ダリボール・イェニス
エボリ公女:アンナ・スミルノヴァ
宗教裁判長:アナトーリ・コチェルガ

このうちロドリーゴとエボリ公女は、当初トーマス・ヨハネス・マイヤーとドローラ・ザージックがそれぞれ予定されていましたが、上記のように変更となりました。

実は格安の席が首尾よく入手できたので、平日の公演ながらも観に行く決心を前から固めていました。

2009-9-15

とはいえ問題は時間で、開演時刻は夕方とはいえ、18時というのは会社帰りに寄るにはさすがにキツいです。それで早退するか有給を使うか、迷いましたが、結局、有給を取ることにし、夏休みに取らなかったぶんをシフトさせて、何とか遣り繰りしました。

何の因果か同じようなことを3年前にもしていまして、2006年9月平日の新国立劇場のヴェルディ「ドン・カルロ」も、今回のように有給を使って観に行きました。

2006-9-21

この時は14時からの公演で、平日の真昼間からオペラを観たのは、後にも先にもこの時かぎり。「ドン・カルロ」は滅多にやらないのと、格安席だったこともあり、観に行ったのですが、その時は、このオペラをスカラ座が日本に持ってくるとは、まさか思いませんでしたね。-_-)>

そういうことで、今日は3年ぶりに「ドン・カルロ」の舞台を、本場スカラ座の演奏でじっくり堪能しました。感想は、また後日出します。

ヨーラ・ギュラーによるショパンのマズルカと夜想曲集


ショパン マズルカ・夜想曲集
 ギュラー(pf)
 Doron 1956年 DRC4012
DRC4012

スイスのDoronレーベルから先月リリースされた、ヨーラ・ギュラーのショパン・アルバムを聴きました。

ヨーラ・ギュラーはロシア人を父に、ルーマニア人を母にもち1895年パリに生まれた女流ピアニストで、カザルスやエネスコといった多くの大芸術家と親交があり、第2次大戦前のヨーロッパ楽壇において華々しく活躍した演奏家のひとりとして知られています。

しかし大戦後は病に倒れ、演奏活動も低調となり、その録音も数えるほどしか残されていません。

今回リリースのショパン・アルバムはその貴重な録音のひとつですし、ギュラー独特のピアニズムの味わいを期待して演奏に耳を傾けてみました。

やはり、いい演奏だなと思いました。ギュラーのピアニズムの様式はかなり独特で、簡明に言うのは難しいのですが、新古典主義的な様式を基本としながらも、ロマン様式を自分の感性に託してまぶしたような妙感のあるフレージング、強弱自体はかなり抑制されているのに不思議なくらいな音域の広さを印象づけるタッチ、はかなくて甘美な音色、こういった要素が混然となって立ち現われるピアニズムの深みと奥行きに抗しがたい魅力があります。

11曲のマズルカでは、作品17の4に最も魅了されました。触れれば壊れるような、はかなく美しいピアニズム。このはかなさと美しさは、まさにギュラーならではのショパン、そんな気がします。あるいは作品50の3で、(4:41)あたりに聴かれる高揚の、えもいわれぬ甘美なエレガンシー。

5曲のノクターンもため息が出るほど魅力的でした。戦前の様式のような、そうでないような、いずれにしてもここでのノクターンに聴かれる、崩さないロマンティズムの味わいには何か人を強く惹きつける妖しさがあり、アルバムを聴き終えて格別の余韻の残る、そんな演奏でした。

音質は、全体にノイズを抑えてスッキリとした聴きやすいソノリティです。ノイズカットがいくぶん実在感を削いでいる気配もなくはないですが、モノラルながらもギュラーのピアニズムの味わいが良く伝わってくる感じです。おそらくレコーディング・エンジニアのアンドレ・シャルランの音録り自体が優れているのでしょう。

ミュンフン/パリ・バスティーユ・オペラ座によるヴェルディの歌劇「オテロ」全曲


ヴェルディ 歌劇「オテロ」全曲
 チョン・ミュンフン/パリ・バスティーユ・オペラ座管弦楽団
 グラモフォン 1993年 439805-2
439805-2

ヴェルディのオペラ「オテロ」につき、昨日のカラヤン/ウィーン・フィルの全曲盤に引き続き、今日はミュンフン/パリ・バスティーユ・オペラの全曲盤を聴いてみました。

主要キャストは、外題役にドミンゴ、デズデモーナにステューダ、ヤーゴにレイフェルクスというメンバーで録音されています。

印象としては、歌い手のキャスティングが必ずしも万全でない弱みもありますが、オーケストラ演奏は紛れもなくベスト水準だと思います。

そのオーケストラ演奏は、冒頭アレグロ・アジタートの全合奏のド迫力を始め、強奏の鮮烈性がのきなみ立っていて圧倒されますし、第4幕のデズデモナ殺害の前後などは特に壮絶をきわめ、昨日聴いたカラヤン/ウィーン・フィルをさらに凌ぐほどの凄さですが、こういった迫力面のこと以上に、オペラのキャラクタの心理的な機微に対する、アンサンブルのレスポンス感度が抜群で驚かされます。

例えば第2幕ラストでオテロがヤーゴに「貴様はわしを十字架にかけたな!」と叫ぶ場面での管パートの激情的な音彩といい、逆にヤーゴがオテロに「どのような確証をお求めで?」と誘う場面での木管の妖奸な音彩といい、いずれも精妙をきわめ、聴いていてキャラクタの感情の動きが手に取るように分かるような印象さえ受けます。

バスティーユ・オペラ座管は、確かにイタリアのラ・スカラのような濃密さやバスのコクにこそ劣るのですが、全体に繊細なハーモニクス構築に優れていて、このオペラの心理劇的な面白さを満喫させてくれるものでした。

外題役ドミンゴは、「微妙」ですね。良いところとそうでないところが割合はっきりしています。ムラがあるというべきでしょうか。

第1幕でいうなら、2度目の登場シーン「剣をひけ!」はこれ以上考えられないほどの絶唱で、高音の屈強ぶり、フレーズのたくましさ、絶大な音量など、まさに稀代のオテロ歌いの凄みが充溢します。しかし 第1幕のラスト、デズデモナとの二重奏の段ともなると、「ed io t'amavo ~」とか「E tu m'amavi ~」あたりのハイ・フレーズなどに、いっぱいいっぱい的な苦しさがにじみ、年齢的な衰えが顔を出すようです。

とはいえ、やはり並みの歌い手ではなくて、特に第3幕序盤でのデズデモナとのやり取りでハンカチに固執するあたりなど、発狂状態に近い壮絶な雰囲気が素晴らしいと思います。

ドミンゴの「オテロ」のディスクといえば、85年録音のマゼール/スカラ座盤もあるのですが、音質にかなり問題があり(それについては以前、C.クライバー/スカラ座の「オテロ」の感想の中で書きました)、少なくともドミンゴの本領を伝えるものではないと思うので、このミュンフン盤は音質的にも貴重でしょう。

ヤーゴ役レイフェルクスは、バリトンにして高音の表現力はほとんどテノール並みであり、第2幕のクルドなど、高音域をおよそ苦もなく楽々と歌いきり、すごい技術です。ただ全体に低音が軽いのが気になりますし、それ以上に、芝居気がずいぶん希薄です。その歌唱からはヤーゴの邪悪な気質があまり表面化せず、淡白な感じが否めませんでした。もっとも、あからさまに邪悪ぶりを示さないことが、かえって効果的な場面もあって、そこは面白いと思いました。第2幕中盤のオテロとのやり取りなど、その無表情ぶりがかえって不気味です。

デズデモナ役ステューダは、完璧な歌唱力と水晶のような美声を披歴しているのですが、役柄への没入度がいまひとつ弱い感じがします。幕が進むにつれてオテロに追いつめられていくあたり、切迫味が伸び切らず、ドミンゴの狂気的な歌唱におされ気味という風です。

カッシオ役ヴァルガスとロドリーゴ役ダルカンジェロは、さすがに巧いですし、声質的にもオテロ、ヤーゴと明確に差別化されていて聴きやすいですね。ちなみに、ここでカッシオを歌うラモン・ヴァルガスは、今週聴きに行く予定のスカラ座来日公演ヴェルディ「ドン・カルロ」で、外題役カルロを歌います。これも今から楽しみです。

カラヤン/ウィーン・フィルによるヴェルディの歌劇「オテロ」全曲


ヴェルディ 歌劇「オテロ」全曲
 カラヤン/ウィーン・フィル
 デッカ 1961年 4759984
4759984

来週、スカラ座来日公演のヴェルディ「ドン・カルロ」を観に行く予定ですが、その次週、新国立劇場で上演される、同じくヴェルディの「オテロ」も観る予定です。

「ドン・カルロ」の方は、先週までに3種類の全曲盤をすでに聴き終えていて、とりあえず準備完了というところですので、今度は「オテロ」の全曲盤を、今日と明日とで聴いてみることにしました。

それで今日は、古典的名盤たるカラヤン/ウィーン・フィルのデッカ録音をひと通り聴いてみました。

このカラヤン/ウィーン・フィルの「オテロ」は、外題役にマリオ・デル・モナコ、デズデモーナにレナータ・テバルディ、ヤーゴにアルド・プロッティという布陣で録音されており、しばしば「デル・モナコを聴くディスク」とも言われるように、稀代のオテロ歌いデル・モナコの歌唱の醍醐味を、良好なステレオ録音により、存分に堪能することができるのが大きな美点です。デル・モナコの歌う「オテロ」には、もうひとつの正規盤エレーデ/ローマ聖チェチーリア管の録音(デッカ 54年)の他に、海賊盤も少なからずあるのですが、いずれも音質面が十分でないので、このカラヤン盤のすっきりとした音質は貴重だと思います。

実際ここでのデル・モナコは、通常の意味におけるテノールとは一線を画した、中音域の圧倒的な訴求力を全編に披歴し、圧倒的な黄金の美声を披露し、およそ人間の声というものの可能性の、ひとつの極限を画しているとさえ思えるほどです。第2幕の終盤でヤーゴから、デズデモーナのハンカチがカッシオの手にあると聴かされる場面や、第3幕のデズデモナとのハンカチをめぐる緊迫したやりとりなどに聴かれる、感情の振り切れたような壮絶な表出力は、とにかく凄まじいの一言です。

デズデモーナのテバルディはデル・モナコに拮抗して一歩も退かず、したがって可憐というキャラクターでは必ずしもないとしても、その朗々たる美的発声を駆使した歌唱力の素晴らしさという点では、聴いていてこれでこそイタリア・オペラ、という雰囲気に満ちていて魅了させられます。

ヤーゴ役のプロッティは、声量は充分ながらも、やや凄味に欠ける嫌いもあり、どうもノーブルというのか、ヤーゴのドス黒い本性のようなものがいまひとつ、滲み切らない印象も受けます。同時期に録音されているセラフィン盤では、ゴッビの歌うヤーゴが圧倒的に素晴らしいので、このカラヤン盤でも、もしプロッティではなく、ゴッビが配されていたら、デル・モナコ、テバルディ、ゴッビという「オテロ」最高のトライアングルが形成されていたはずで、この3人の揃いぶみというのは海賊盤も含めて皆無なだけに、ちょっと惜しい気がします。

カラヤン/ウィーン・フィルですが、とにかくオーケストラをガンガン鳴らしますね。これだと、並の歌手ではオケの響きに埋もれてしまい苦しいところですが、ここでは幸いデル・モナコといい、テバルディといい、並の歌手では全然ないので、いい意味でのオケv.s.歌手の火花散るような緊張感が、全編にピリッとした雰囲気を形成せしめていて、むしろ好ましい感じがします。いざという時にはウィーン・フィルの味の濃い響きが時に美しい、時に壮絶な彩りを場に付加していて惹き込まれます。この「オテロ」は、やはりカラヤンの残した多くのオペラ盤の中でも、傑出したもののひとつでしょう。今日あらためて耳にして、そんな印象を深めました。

ボロディン・トリオによるラフマニノフのピアノ三重奏曲第1番と第2番


「シャンドス30周年BOX」収録盤の感想記の続きです。今日はCD17を聴きました。

ANNI-17
ラフマニノフ ピアノ三重奏曲第1・2番
 ボロディン・トリオ
 1983年録音

ラフマニノフの残した2曲のピアノ三重奏曲を収録したアルバムになります。

このうち第1番の三重奏曲は1楽章形式で書かれた小規模な作品で、習作ともみなされているのに対し、第2番の三重奏曲の方は演奏時間45分を要する大作で、知名度的にも内容的にも第1番を大きく上回ります。

このピアノ三重奏曲第2番は「悲しみの三重奏曲」、あるいは「偉大な芸術家の思い出に」という副題を有する作品ですが、その背景にはラフマニノフが敬愛するチャイコフスキーの死を悼んで作曲された経緯があります。

そしてチャイコフスキーの方も、師ルービンシュタインの死を悼んでのピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」という傑作を残していますが、このラフマニノフの三重奏曲でも、その同じタイトルが受け継がれていて、それがチャイコフスキーへの敬愛の念を浮き彫りにさせているようです。

ラフマニノフとしては不慣れな室内楽の分野の、しかも20歳の若書きの作品ゆえ、この作曲家の本領が全開する作品とまでは言い難いところもありますが、チャイコフスキーへの哀惜の念に満たされたメロディの美しさにはやはり聴いていて実直に惹かれるものがあります。第1楽章(5:08)からチェロで奏でられる第2テーマの甘美など、一度聴いたら容易には忘れがたいほどです。

ボロディン・トリオは旧ボロディン四重奏団のヴァイオリン奏者ドウビンスキーが1976年に西側へ亡命後に立ち上げたトリオ団体で、故国ロシアものの演奏には定評のあるところですが、このラフマニノフでもおおむね定評通りの演奏という感じで、ことに終楽章に聴かれる音楽の苦悶の表情の強さにはひとかたならぬインパクトが漂い、いたるところに祖国の作曲家への強い共感を伺わせる感銘深い名演だと思います。

ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークによるブラームスの交響曲第3番


ブラームス 交響曲第3番、声楽作品集
 ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
 ソリ・デオ・グローリア 2007・08年ライヴ SDG704
SDG704

ガーディナーの運営によるソリ・デオ・グローリア・レーベルより、ガーディナー/ORRによるブラームス・プロジェクトの第3弾となるディスクが新たにリリースされましたので、聴いてみました。

今回の収録曲はすべてブラームス作品で占められ、①「私は角笛を苦しみの谷で鳴らす」(「5つのリート」作品41の1)②ハープは鳴り響く(「4つの女声合唱」作品17の1)③夜警「静かな胸の音」(「5つの歌」作品104の1)④もの憂い恋のうらみ(「13のカノン」作品113の13)⑤運命の女神の歌、そして⑥交響曲第3番が演奏され、最後に⑦悲歌(作品82)で締めくくられています。合唱曲ではモンテヴェルディ合唱団が起用されています。

このシリーズについては、昨年9月リリースの交響曲第1番を含むアルバム、続いてリリースされた交響曲第2番を含むアルバム、ともにその新鮮なブラームス像に驚かされるとともに、いずれもピリオドオーケストラによるブラームスのシンフォニー録音としては、紛れもなく画期的な成果であるという風に感じていましたので、今回の交響曲第3番を含むアルバムもさっそく購入しました。

それで今日ひと通り聴いた印象ですが、演奏自体の素晴らしさもさりながら、7つの曲が絶妙に配置されたアルバム構成がもたらす、音楽の深い味わいにおいても格別なものがありました。

まず①は無伴奏合唱曲なので、静謐にひっそりと始まるのですが、それが②③④と進むうち、管弦楽が徐々に厚みを増していき、そして⑤に到り、ほとんどシンフォニーかというくらいの壮大な管弦楽の展開を示す、その音楽の景色の推移が妙味たっぷりというか、まるで夜明けを望むように暗闇から徐々に光が差していき、光量が増え、ついに⑤において燦然たる光輝を帯びるまでの一連の流れに際し、あたかも一個の大曲を耳にしているかのような、強い求心力とスケール感を印象づけられ、聴いていて意外な視点での感動を与えられます。

それだけでなく、⑤の「運命の女神の歌」での、あの神々の行いを歌い上げる勇壮な楽想の余韻覚めやらぬうち、⑥の交響曲第3番に雪崩れ込むあたりや、その終楽章の、あの浄化を思わせる静けさが⑦の悲歌(作品82)の浄化的な楽想にスッと接続する、こういったあたりの音楽の繋がりが、有機性な関連性というのか、ある種の必然性を伴い響きてくる趣きがあり、このアルバム全体が単なる寄せ集めではなく、一片の壮大な叙事詩か何かのような、そんな風に感じられて実に面白く思いました。

ふつうブラームスの声楽曲というと、交響曲がメインのCDに取って付けたようにフィルアップされることが多いだけに、このガーディナー盤のアルバム構成には新鮮を極めたような感があり、結果これら一連の声楽作品の魅力と美しさをあらためて教えられたような気さえします。

以上、おもにアルバム構成上の感銘について述べましたが、演奏自体の素晴らしさも相当なものだと思います。

ここでの交響曲第3番の演奏では、まず第1楽章冒頭の第1テーマのくだりで金管をびっくりするほど抑制し、弦楽器のヴァイタリティを全面に押し出したバランスが披歴されているのが耳を捉えます。直前の「運命の女神の歌」が、ホルンを中心に金管楽器をこよなく強調したバランスとなっていただけに、その落差に驚かされましたが、別に奇を衒った感じはなくて、この自在なまでのオーケストラ・ドライヴは、むしろガーディナーの演奏ヴィジョンの帰結として感じられるものでした。

ORR管の充実度もあいかわらずで、第1楽章では、展開部のアジタート(5:57)あたりの驚異的なハイ・テンポのくだりでさえ整然として切れ味が鋭く、そしてキリリと引き締まったアンサンブル展開が描かれていて驚嘆させられますし、コーダの(9:53)あたりの最強奏においては楽章冒頭で抑えた金管を目いっぱい強奏し迫真の響きを生ぜしめ、その直後のアッチェレランドも激烈を極め、ここなどあまりの凄さに楽章を聴き終えて思わず嘆息を禁じえませんでした。

第2楽章以下も含めて、このガーディナー/ORRの交響曲第3番は、全体にピリオドアンサンブルならではのシャープでシリアスな響きの感興が豊かというだけでなく、他のオケからは容易に聴くことのできないまでに魅力的なソノリティとして昇華されていて、アルバム全体としての余韻の深さも並でなく、前2回のアルバム同様、素晴らしい成果が披歴されていると思います。これは今後も、繰り返し聴いていきたいCDです。

パロット/タヴァナー・プレイヤーズによるパーセルの歌劇「ディドーとエネアス」全曲


「シャンドス30周年BOX」収録盤の感想記の続きです。今回はCD16を聴きました。

ANNI-16
パーセル 歌劇「ディドーとエネアス」全曲
 A・パロット/タヴァナー・プレイヤーズ
 1981年録音

アンドリュー・パロット指揮タヴァナー・プレイヤーズの演奏によるパーセルの歌劇「ディドーとエネアス」全曲盤で、声楽陣にはエマ・カークビー、ジュディス・ネルソン、デヴィッド・トーマス、それにタヴァナー合唱団が起用されています。

「ディドーとエネアス」はパーセルの残した唯一のオペラで、17世紀オペラ屈指の名作として認知されており、シナリオとしてはギリシア神話を題材とした、トロイ王子エネアスとカルタゴの女王ディドとの悲恋を扱ったものです。

ところで、このパロット盤を聴いていて、これと全く同一の題材を、後年ベルリオーズがオペラ作品に取り上げていたことを思い出しました。歌劇「トロイアの人々」です。

POCL15203
ベルリオーズ 歌劇「トロイアの人々」
 デュトワ/モントリオール交響楽団
 デッカ 1993年 POCL1520/3

このベルリオーズの歌劇も、パーセルの歌劇「ディドーとエネアス」と同一のシナリオに基づくものです。

もっとも細かい点に多少の違いがあるようで、例えばエネアスにディドーを捨てイタリアへ向かうように決意させるのは、ベルリオーズの方ではトロイアの英雄ヘクトールの亡霊なのに対し、パーセルのオペラではマーキュリーに化けた魔女ですし、ディドーが自殺するラストのくだりなども、ベルリオーズの方ではエネアスとローマを呪いながら壮絶に息絶えるのに対し、パーセルのオペラでは「死は今や私の友」と述べつつ、運命を受け入れ安らかに息を引き取るという形になっています。

とはいえ、そういう差異以上に聴いていて面白いのが、同じシナリオに拠りながらオペラ作品としての雰囲気がまるで正反対である点で、もちろんかたや17世紀、かたや19世紀という年代の違いもあるとしても、やはりパーセル、ベルリオーズそれぞれの作曲家としての気質が本質的に対極である点が大きいのでしょう。

後年のワーグナーのオペラの先駆とさえ評されるベルリオーズの「トロイアの人々」での、魔術的なまでの管弦楽的色彩感に対し、弦楽器だけの質朴なオーケストレーションでスタティックに綴られる「ディドーとエネアス」の音楽美。

パロット/タヴァナー・プレイヤーズ&合唱団の演奏は古楽演奏としての実質的なアプローチに基づくものですが、透明感を帯びたアンサンブルの優雅さがこのオペラの音楽美に絶妙に照応して申し分なく、清らかな美声が印象的なエマ・カークビーのディドーも役柄としてはおそらく理想的でしょう。

「トロイアの人々」のデュトワ盤についても簡単に触れますと、ディドー役のフランソワーズ・ポレを中心に、ほとんどワーグナーを聴いているような感覚に近い、ドラマティックな表出力が聴かれ、オーケストラもこのオペラの管弦楽的魅力を満喫させてくれる名演を披歴しています。また現状、このオペラ全曲盤として歌詞対訳が付いている唯一のディスクとしても貴重ですね。

ドラティ/ロイヤル・フィルによるハイドンのオラトリオ「天地創造」


ハイドン オラトリオ「天地創造」
 ドラティ/ロイヤル・フィル
 デッカ 1976年 POCL-3612/3
POCL-36123

少し前の話になりますが、本年6月に復刻リリースされたドラティ/ロイヤル・フィルのベートーヴェン交響曲全集につき、ひと通り聴いた時点での率直な感想として、必ずしも期待通りの印象ではなかったという趣旨のことを、以前に書きました

あの後、もう少し聴き込んでみたのですが、印象はやはり変わらず、「英雄」と「7番」の2曲以外は、少なくともドラティのフィルハーモニカ・フンガリカとのハイドン交響曲全集と比べると演奏自体の表出力がいまひとつ振るわず、ことに弦パートの力感などに物足りない印象を否めないものでした。

しかしこの原因が単純にオーケストラの違いによるものなのか、あるいはグラモフォンとデッカとの音質の違いによるものか、その両方なのか、そのあたりが良く判りません。そこで思い出したのが、このハイドンのオラトリオ「天地創造」です。

ドラティはフィルハーモニカ・フンガリカとハイドン交響曲全集の録音をコンプリートした後、続いて同じデッカにハイドンの声楽作品の録音をいくつか行っているのですが、そこでのオーケストラには、当時ドラティが首席指揮者のポストにあったロイヤル・フィルが起用されています。

したがって、そこではドラティ/ロイヤル・フィルの演奏の感触を、ハイドン交響曲全集と同じデッカの録音によって確認できるため、グラモフォン録音による同じ顔合わせのベートーヴェン交響曲全集と比較するにはうってつけです。

そこで今日、このドラティ/ロイヤル・フィルによるハイドンのオラトリオ「天地創造」のデッカ盤を聴いてみました。

その印象ですが、フィルハーモニカ・フンガリカとのハイドン交響曲全集よりは若干アンサンブル展開の迫力が鈍い感じもしますが、少なくともベートーヴェン交響曲全集における「運命」「第9」あたりよりは明らかに良くて、例えば第3曲の大地創造のための嵐の場面(1:34)や、第6曲のラファエルの海陸区分のアリア、第11曲のウリエルの天体創造のレチタティーヴォの伴奏といったあたりに聴かれるヴァイオリン・パートの鮮烈な鳴りっぷりと表出力は、いずれも惚れぼれするほどで、第14番のガブリエルの生物創造アリアでの、鳥の声を模倣する木管楽器の音色の発する美しいソフト調の響きとのコントラストも実に鮮やかです。

こういった弦のフレーズ展開の充実感、あるいは弦と管とのコントラストの強い音色感といった特性は、ベートーヴェンの方では概ね希薄であり、こういうことから考えると、やはりどうもグラモフォンの音録りに問題があったのではないか、という気がします。

そもそもベートーヴェン交響曲全集の中でも、「英雄」と「運命」とでは後者の方が音響的なプレゼンスが明らかに引っ込んでいて、これは音録りが良くないのではないかと感じたのですが、今回「天地創造」のデッカ盤を耳にして、そういう印象がさらに強まりました。

それにしても、この「天地創造」の演奏は見事ですね。指揮良しオケ良し音質良しの3拍子に加えて声楽歌唱がひときわ良く、ガブリエルにポップ、ウリエルにホルヴェーク、ラファエルにモルという人を得たキャスティングに、ブライトン・フェスティヴァル合唱団の充実ぶりが華を添えています。第10曲の、大地創造3日目最後となる合唱など、大音量でも音響的に淀みがまるでなく、神々しいまでの合唱演奏が披歴されていて聴きほれるばかりです。

そういうわけで、かのベートーヴェン交響曲全集も、もしグラモフォンではなくデッカが音録りしていたなら、このオラトリオ「天地創造」と同様の名演を耳にし得たのではないかと、そんな気がしました。

シャイー/ゲヴァントハウス管による「メンデルスゾーン・ディスカバリー」


「メンデルスゾーン・ディスカバリー」
 シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 デッカ 2009年・06年ライブ 4781525
4781525

今月リリースされた、リッカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるメンデルスゾーン・アルバムを聴きました。

収録曲は以下の3曲です。
①交響曲第3番「スコットランド」(1842年ロンドン版)
②ピアノ協奏曲第3番(マルチェロ・ブファリーニ補完版)
③序曲「フィンガルの洞窟」(1830年ローマ版)

①と②は2009年、③は2006年のゲヴァントハウスでのライヴで、②はロベルト・プロッセダのピアノ・ソロによる演奏です。

そして①~③のいずれも、このCDが世界初録音とされます。つまり「スコットランド」、「フィンガルの洞窟」ともに、通常版とは異なる版に基づく演奏となっています。その相違点に関しては英文のライナーノートに記載がありますので、ピアノ協奏曲第3番のことも含めて、以下、簡単に書いてみます。

まず①ですが、1842年に完成され、ゲヴァントハウス管により初演された「スコットランド」交響曲は、その3ヶ月あと、ロンドンの演奏会でメンデルスゾーンの指揮によりイギリス初演されるのですが、その演奏会の際に若干の改訂を加えられたものが「1842年ロンドン版」です。ただ改訂といっても、第1楽章と終楽章において、通常版から計39小節の追加と計49小節の変更が与えられているに留まる、比較的小規模なものです。

第1楽章は、大きなところではコーダの第483小節つまり(13:11)から(13:26)までの間に、通常版には無い荒々しいパッセージが追加されているのが耳を惹きます。終楽章の方は改訂の度合がやや大きく、例えば(00:44)からのパッセージから第2テーマ登場までの流れがだいぶ違っていて驚かされます。

次に②ですが、これは1842年に起草されながら完成に到らなかったメンデルスゾーンの未完作品のひとつです。これに関しては、私はちょうど一か月ほど前に、キルシュネライトのピアノ演奏によるメンデルスゾーンのピアノ協奏曲全集を購入していたのですが、そこには未完のピアノ協奏曲第3番が収録されていました。今回リリースのプロッセダ/シャイーの録音も、多分あれと同じではないかと思って聴いたところ、やはり同じ曲でした。

ただ、同じなのは第1楽章と第2楽章だけで、終楽章は全く違っています。もともとこの曲は3楽章のうち2楽章と終楽章の移行部まで作曲され、終楽章が未完だったのですが、この終楽章をキルシュネライトの方では、ラリー・トッドの補完によりメンデルスゾーンのホ短調のヴァイオリン協奏曲の終楽章がそのまま流用されていました。しかしこちらのプロッセダの方は、マルチェロ・ブファリーニの補完として新規に書き下されたものが演奏されています。

したがって、正確に言うならキルシュネライトのピアノ演奏盤は「ラリー・トッド補完版」の世界初録音であるのに対し、今回のプロッセダ/シャイーの録音は「マルチェロ・ブファリーニ補完版」の世界初録音、ということになると思います。

最後に③ですが、この「フィンガルの洞窟」は、もともと1830年にローマで作曲され、その後1832年にロンドンで改訂され、これが現在一般に演奏されている最終稿なのですが、このシャイー盤の演奏では改訂前の1830年ローマ版が用いられています。これは最終稿より計43小節長くなっているほか、オーケストレーションの相違点も多く、総じて最終稿よりも荒びた感じを受けます。

以上、各収録曲の特色についてライナーの記載を参照しながら簡単に書きました。これらは確かに聴いていて新鮮な印象に事欠かず、大変興味深く聴いたのですが、単に珍しいというだけなら、いわゆるクラオタ向けのCDということで済むところです。しかしながら、このディスクに関しては、私は版云々という観点よりもむしろ、シャイー/ゲヴァントハウス管の演奏自体の素晴らしさの方に、聴いていて遙かに惹かれるものがありました。

3曲ともに見事ですが、特に「スコットランド」は特筆的な名演ではないかと思います。全楽章とも速めの推進的なテンポによる颯爽とした音楽の構えですが、その速めのテンポ感と裏腹に、さらさらと流れる印象は微塵もなくて、密度ぎっしりの音響的な充実が絶えず、ことに強奏時のアンサンブル展開においては、激しいアクセントを伴う弦の刻みといい、ここぞという時の金管強奏の強烈な色彩感、ティンパニのピリッとした効き具合、いずれも強烈かつリアルな迫力を醸しだしていて、惚れ惚れするばかりです。とりわけ終楽章の(3:45)あたりで仕掛けられる猛烈なアッチェレランドから、直後にロンドン版特有の荒々しくフレッシュなパッセージにつながるあたりの怒涛のような音楽の流れには、聴いていてゾクゾクさせられました。

このシャイーの「スコットランド」は、同じゲヴァントハウス管を指揮した録音でも、かつてのクルト・マズアの、のっぺりとして平板な「スコットランド」とは比較にならないほどの名演だと思います。メンデルスゾーン生誕200年の今年、作曲家ゆかりのオーケストラであるゲヴァントハウス管に、ようやく「スコットランド」の名演が誕生したことを嬉しく思いました。

パッパーノ/パリ管によるヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」全曲


ヴェルディ 歌劇「ドン・カルロ」全曲
 パッパーノ/パリ管弦楽団
 EMIクラシックス 1996年ライヴ TOCE-9203-5 
TOCE-9203-5

ヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」につき、先週ムーティ/スカラ座の全曲盤カラヤン/ベルリン・フィルの全曲盤を聴いたのに引き続き、今日はアントニオ・パッパーノ指揮パリ管弦楽団の演奏による全曲盤を聴いてみました。

これは96年のパリ・シャトレ座での公演のライヴ収録で、フランス語の5幕版という珍しい形式で録音されています。普通はミラノ・スカラ座初演時のイタリア語による「リコルディ4幕版」が用いられるところ、このパッパーノ盤はフランス初演時に近い形式で演奏されているようです。

この5幕版では、通常の4幕版でカットされている第1幕が聴けるのが大きな特徴で、そこではフォンテヌブローの森における、カルロとエリザベッタの邂逅のシーンが描かれるのですが、これがなかなかドラマティックに出来ていて、思わず惹き込まれました。

とりわけカルロがエリザベッタに正体を明かし、愛の二重唱を歌った後、祝砲とともにフランスとスペインの講和条約締結の報が告げられ、ここまで幸福感をさんざん煽った直後に、エリザベッタの婚約者が急遽カルロからフィリッポ2世に変更になったと知らされるのですが、この場面での音楽の、まさに「天国から地獄」的な雰囲気が圧巻で、つい30秒前まで「幸福が魂をとらえて離さない」と二人して歌っていたのが、「奈落が口を開いた」、「地獄に落ちた魂」、「いっそ墓に入りたい」という激烈な歌唱内容に切り替わるのには、聴いていてちょっと呆気に取られるくらいです。

このあと第2幕に移るのですが、ここからはリコルディ4幕版の第1幕以降とだいたい同じ内容になるようです。細部においては4幕版との違いがいくつか聴かれ、例えば、第2幕でカルロがサン・ジュスト修道院に登場する時に歌われる有名なロマンツァ「フォンテヌブロー、広大で淋しき森よ」は、5幕版だと第1幕のフォンテヌブローの場面で歌われるので、第2幕の方ではカットされていますし、逆に第4幕のラストでは、ロドリーゴの死をフィリッポ2世が嘆くアリアが追加されています。その追加されたアリアのメロディというのが、ヴェルディの「レクイエム」での、かのラクリモサの有名なメロディにそっくりなのでビックリしました。

全体的な印象としては、5幕版の方が当然ながらストーリーに厚みが出ますし、上記のように5幕版の第1幕が省略されるのが惜しいくらいのドラマティックな内容ですし、確かに4幕版よりも5幕版の方が秀逸なような気もします。

ただ、あくまでCDで自分のペースで聴くぶんには、5幕版の方がいいのかも知れないですが、これを実演で聴くとなると、さてどうだろうという気もします。5幕版を上演するとなると上演時間が4時間を超えることは必定と思われ、それこそワーグナー並みになってしまうからです。これでは演奏する方も大変でしょうし、聴く方としても、第5幕のあたりなどクタクタになってしまうのではないかと思います。

もともと長距離走的な書かれ方のワーグナーだと、4時間聴いてもさほど聴き疲れはしないのに対し、もともと短距離走的な書かれ方のヴェルディだと、4時間はさすがにキツいのではないか、どうもそんな気がします。

そういうわけで、5幕版はCDで聴くぶんにはいいのですが、実演で聴くには、やはり4幕版の方がいいかなというのが一応の結論です。

それはさておき、演奏の方ですが、パッパーノ/パリ管のアンサンブル展開は、その洗練された洒脱な味わいにおいて独特のものを感じました。弦といい管といい、総じて色合いの豊かにして艶やかな音色、響きのエレガンシー、あるいは聴き手の感傷にダイレクトに訴えかけるような音響美が素晴らしく、この「ドン・カルロ」というオペラが、これほど美しい景色に満ちているということを、このパッパーノ/パリ管の演奏を聴いて初めて教えられたような気がします。例えば、第4幕終盤のロドリーゴの死に際のアリアや、第5幕冒頭のエリザベッタの悲しみのアリア等に聴かれる、管弦楽の得も言われぬ美しさ。

もっとも、やや耳当たりの良さが勝ち過ぎ、ここぞという時の音響的な厳しさに欠けるような印象もあり、このオペラのシリアスな佇まいが霞みがちになる気配があるのが、気にはなりました。このオペラ初演時のグランド・オペラ的な雰囲気を味わうには最適なCDだと思うのですが、本格的なイタリア・オペラとして聴くには、正直ちょっと厳しい感じもします。

5人の主役級のキャストですが、ドン・カルロがロベルト・アラーニャ、フィリッポ2世がヨセ・ファン・ダム、エリザベッタがカリタ・マッティラ、ロドリーゴがトーマス・ハンプソン、エボリ公女がワルトラウト・マイヤーという、ビッグネームがズラッと並んだ布陣で、これは先週聴いたカラヤン盤にも劣らない豪華な顔ぶれです。

ただ、全体に舞台上の歌手の音録りがオケよりも少しオフ・マイク気味に、引っ込んだ感じになっていて、いまひとつ厚みが乗らない嫌いもあります。せっかくの豪華キャストなので、もっとオン・マイクで録られていればと、少しもったいない気もします。

もっともそれを差し引いても、かなりハイ・レベルな歌唱展開が披歴されていて十分に楽しめました。特にカルロ役のアラーニャは、母国語の強みもあり水を得た魚という趣きで、聴き惚れるばかりでした。若さを前面に押し出しつつも、ムーティ盤のパヴァロッティのように直情的なカルロとも一味違う、屈折したニュアンスを天性の美声にまぶして、陰影のあるキャラクタを巧妙に創造していく様には、テノール歌手として卓抜したものを感じました。

ロドリーゴのトーマス・ハンプソンは、さすがにカラヤン盤のカプッチッルリの域には及ばないとしても、ムーティ盤のコーニよりはずっと良く、フランス語との相性も上々で、知的にして細やかな感情の機微に富んだロドリーゴの名歌を聴かせてくれます。フィリッポ2世のヨセ・ファン・ダム、エリザベッタのマッティラもまずまずでしょう。エボリを歌うマイヤーは、歌唱様式が重々しいドイツ・オペラ風なのでヴェルディにはちょっと合わない気がしなくもないのですが、第4幕のアリア「呪わしき美貌が」などでは純粋に声の力が凄くて、客席から盛大な拍手を引き出しています。さすがに貫禄勝ちというところですね。

カラヤン/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの7番とストラヴィンスキー「春の祭典」の78年ライヴ


ベートーヴェン 交響曲第7番
&ストラヴィンスキー 「春の祭典」
 カラヤン/ベルリン・フィル
 PALEXA 1978年ライヴ CD0531
PA0531

昨日はカラヤン/ベルリン・フィルによる、72年ロンドン公演でのストラヴィンスキー「春の祭典」のライヴ録音を聴いての感想を掲載しましたが、その中で度々言及した、78年スイス・ルツェルン音楽祭でのハルサイのライヴを収録したCDというのが本ディスクです。2004年にカナダのPALEXAレーベルからリリースされました。

このCDの収録曲はベートーヴェンの7番とストラヴィンスキー「春の祭典」で、ベートーヴェンの方は78年1月28日ベルリン・フィルハーモニーでの演奏会のライヴ、ストラヴィンスキーの方は同年8月31日スイスのルツェルン音楽祭における演奏会のライヴになります。

今日あらためて本ディスクを聴いてみましたので、その感想を以下に書きます。

ベートーヴェンですが、第1楽章冒頭の序奏部の強奏展開からして本当にカラヤンの演奏かというくらいの血湧き肉躍るような熱感に満ちていて、初めて耳にした時などは、これはカルロス・クライバーの演奏ではないのかと思ってしまったほどでしたし、主部以降もはち切れんばかりのヴァイタリティに溢れたアンサンブル展開の充実が一貫し、例えば(6:10)あたりの高弦の強烈なアクセントの強調など、なぜこれをスタジオ録音でやらないのか、不思議な気がするほどです。再現部からコーダにかけても、緻密さよりも豪快さを印象づけるような、胸のすくようなオーケストラ・ドライブが披歴されていて圧倒させられます。

第2楽章以降も素晴らしく、いずれの楽章も、とにかくカロリー満点といった風のアンサンブル展開であり、ことに終楽章の凄さは特筆的で、あのいつもの低カロリーなカラヤンは、一体どこに行ってしまったのか、聴いていて不可解な気すらしますが、いずれにしても、ここでの本気モードのベルリン・フィルが、カラヤンのカリスマに呼応して奏でる、その音響的な充実感には聴いていて実直に気持ちを揺さぶられる思いです。カラヤンのベートーヴェンでは感動できない、という人は存外多いのではないかと思うのですが、たとえそうでも、このライヴは分けて考えなければならないように思われます。

続くストラヴィンスキーの「春の祭典」ですが、これが先のベートーヴェンに輪をかけて強烈を極めた演奏です。

「春のきざし」冒頭のアルコの弦のスタカートが奏でる峻厳な迫力からしてスタジオ録音でのカラヤンとは一線を画した、野性的なまでの迫力が全開で、以降もここぞという時にアグレッシブに容赦なくガンガン仕掛ける、すこぶる攻撃的なハルサイとなっていて驚かされます。

このハルサイにおいては、アンサンブルを破綻なく仕上げて美麗な音響の絵巻を聴かせようというカラヤン美学とは、およそ無縁というくらい、破綻すれすれまでアンサンブルを追い込んでの極限的な展開となっていて、とにかく聴いていて耳を奪われる思いです。クライマックスでの荒れ狂う弦、断末魔的な金管、そして破壊的な打楽器の最強打。およそ、狂気とは無縁であるはずの指揮者カラヤンが、ここまで狂気を曝け出した迫真の演奏展開というのは、他にちょっと無いのではないかと、そんな気さえします。

この演奏は、おそらくベルリン・フィルのハルサイとしては空前絶後のインパクトがあり、本気のベルリン・フィルの恐ろしさが存分に伝わってくる録音ですが、それと同時に本気の?カラヤンの凄味がどれほどのものであったのかを垣間見ることのできる稀少な録音ではないかと思います。

カラヤン/ベルリン・フィルによるストラヴィンスキーの「春の祭典」の72年ロンドン・ライヴ


ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」
&モーツァルト ディヴェルティメント第15番
 カラヤン/ベルリン・フィル
 テスタメント 1972年ライヴ JSBT8453
JSBT8453

これは先月リリースされたCDで、カラヤン/ベルリン・フィルのロンドン公演(1972年5月15日、ロイヤル・フェスティヴァル・ホール)がライヴ収録されています。演目はモーツァルトのディヴェルティメント第15番K.287と、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」です。

このうち「春の祭典」は、カラヤンの正規盤としては4つめのもので、既に2つのスタジオ録音盤(1964年、77年)と78年のライヴ録音盤が正規リリースされています。そしてこれら既出の3種のカラヤンのハルサイの中では、何といっても78年のスイス・ルツェルン音楽祭でのライヴが超絶的とも言うべき演奏内容として知られており、私としても、これはおそらくカラヤンの残した録音すべての中でも別格的な位置づけにある演奏のひとつと捉えています。

そして、今回リリースされたカラヤン4番目のハルサイは、70年代のライヴという点でその78年のルツェルン・ライヴのハルサイと共通します。このCDを購入した主たる理由はそこにあり、もしこれが78年のライヴ並みの演奏内容だとしたら、ちょっと聴き逃せないと考えました。

それで聴いてみると、ハルサイの冒頭あたりはフレージングに落ち着きがなく、アンサンブルもやや雑然とした感じがあり、全体におっかなびっくりという雰囲気なのですが、それでも次第にきっちり立て直してくるあたりはさすがにカラヤンで、(2:12)あたりの木管の高音域のパッセージなどには音色にキリッとした鋭さもあって、20世紀音楽としての鋭角的なムードが出ていたり、かなりいい感じです。

しかし(3:10)からの「春のきざし」冒頭の弦のスタカートのフォルテ進行はやや抑制がかっていて物足りなく、(4:33)からのティンパニもかなり抑えが効いていて、いずれも78年のルツェルン・ライヴに聴かれる凄味とは比較にならないほど穏健です。

「春のロンド」でフォルテッシモの展開に入った(2:53)あたりの金管強奏のおどろおどろしさなど、確かにカラヤンの演奏としてはかなり真に迫った雰囲気なのですが、打楽器の強打音が全体にモコモコした感じでパリッと響き切らなかったり、弦の刻みなどもシャープさに欠け、もっさりした感じだったり、その中から金管パートが時折スタンドプレイ的にドスの効いた咆哮を発するという按配で、聴いていて何かまとまりに欠けるような印象を否めませんでした。

全体を聴き終えてみると、このロンドン公演のハルサイは、通してアンサンブルの大きな乱れとか、明らかな吹き損ない等の、ミスらしいミスが特に無い点で、このライヴ録音がおそらく無編集であると仮定すると、さすがにベルリン・フィルという感じはするのですが、肝心の表出力という点では、78年のルツェルン・ライヴのハルサイと比較し、色々な意味で「大人しい」演奏であって、したがって物足りない印象も正直かなり残るものでした。

ただ、私がこのロンドン公演のハルサイを聴いて特に印象的と思ったのは、ベルリン・フィルの響きにおいてスタジオ盤よりもずっと「活きた」温度感があることです。例えば第2部の「選ばれし乙女への賛美」に入るあたりなど、カラヤンにしてはかなりホットというか、ワイルドというか、アンサンブル展開に熱いたぎりがあり、こういうのは彼のいつもの、あの取り澄ましたようなスタジオ録音ではちょっと聴けないような表情だと思われますし、おそらくこのあたりが、後のスタジオ再録音のハルサイを経由し作品を掌中に収め切った上で、最終的にあの自己の胸中を曝け出すかのような、壮絶なルツェルン・ライヴのハルサイに結実していったのではないかと、どうもそんな気がします。

併録のモーツァルトに関しては、当然ながら後半のハルサイとは比較にならないほど小規模な編成による、肩の力を抜いたアンサンブルの、気楽な雰囲気の演奏であり、内容的にもディヴェルティメントそのものであって、印象としてはムード音楽をその通りに演奏している、という以上のものを持ち得ませんでした。

以上、このカラヤンのロンドン公演のハルサイは、少なくとも78年のライヴ並みの演奏内容を期待して聴くと、かなり聴き劣りがすることは否めないのですが、むしろ私としては、カラヤンのスタジオ録音とは一味ちがった、ライヴ・モードならではの血の通った音楽の表情に聴いていて惹かれました。78年のライヴのような完全燃焼とまではいかなくとも、十分に傾聴に値する演奏だと思います。

メルクル/ライプツィヒ中部ドイツ放送響によるブラームスの交響曲第4番


ブラームス 交響曲第4番、ハンガリー舞曲集
 メルクル/MDR交響楽団
 アルトゥス 2008年ライヴ ALT166
ALT166

先月リリースされた新譜で、準・メルクルが手兵・MDR交響楽団(ライプツィヒ中部ドイツ放送交響楽団)を指揮したブラームス・交響曲第4番の演奏を聴きました。

これは2008年3月のライプツィヒ・ゲヴァントハウスでのコンサートのライヴ録音となっています。併録として同じくブラームスのハンガリー舞曲集より第3、5、9、19、21番の5曲が入っていますが、こちらはスタジオ録りのようです。

準・メルクルというと、私が初めてその実演に接したのは、2001年の新国立劇場でのワーグナー「ラインの黄金」になります。オケは東京フィルでした。私は2階R席の舞台寄りの位置から観ていたのですが、ここからだとオーケストラ・ピットでのメルクルの指揮姿が良く見え、しばしば舞台よりも彼の棒さばきの方に見取れたことを覚えています。曲線的な棒の動きが実に美しく、その所作にはおよそ無駄が無く、あたかもカルロス・クライバーを彷彿とさせる、その華麗な指揮の様子に、、、

そんなこともあってか、今回のMDR響とのブラームスのシンフォニーを聴いていて、なんだかカルロス・クライバーの演奏にどこかしら近い感じがするなと、そんな印象を少なからず感じました。

まず第1楽章冒頭の主題のメロディが、やや遅めのテンポをもって重厚に、しかし情熱的な色彩を孕んで奏でられる、その様を耳にした時点で、そんな印象がしました。楽章全体を通して最も驚嘆させられたことは、アンサンブルの弦パートを中心に、ズシリとした重量感としなやかな流動感との、見事な共存関係が常に絶えない点で、弦をすこぶる重厚にたっぷりと鳴らしながらも、生き生きとしたフレーズの伸縮性を少しも排斥せず、音楽の流れに淀みや停滞がなく、聴いていて凄い求心力を感じさせる演奏です。

MDR響の弦パートのみずみずしい音彩も特筆的で、そのフレージングが発する混じり気のないシックな美しさと深いコクが素晴らしく、ドイツ伝統の色彩を堅持しつつ、そこに現代的に洗練された潤いをもたせたような響きというのか、あまり上手く言えないのですが、とにかく惹きつけられます。

ただ、弦パートの充実ぶりに比し、管パートが必ずしもそれに拮抗していないのが少し残念です。特に金管パートが全般にウィークポイントのようで、例えば第1楽章(5:00)からのホルンのフォルテ・フレーズなど、マルカート指定があるのにいかにも弱く、弦の豊潤な強奏の厚みに半ば埋もれてアップアップという風ですし、同じようなバランスは他にも幾つか見受けられるのですが、なにしろ弦の充実ぶりが目覚ましいだけに、これに管が拮抗していたらさぞかし、という思いも残りました。

それにしてもメルクルの指揮ぶりは第2楽章以降もやはり見事なもので、第3楽章などは冒頭からかなり大胆なハイテンポを披歴し、中盤まで一気呵成に聴かせていて息もつかせないくらいですし、終楽章も、聴いていて彼独特の無駄のない流麗な棒の運びが目に浮かんでくるような、すがすがしく、それでいて濃厚な音楽の流れが聴かれ、そのスリリングな共存関係を最後まで存分に堪能させられる、そんな演奏でした。

聴き終えて、このブラームスは確かにカルロス・クライバーの演奏に似た雰囲気をどことなく孕みつつも、最終的にはやはり準・メルクルの個性が確として刻印されたブラームスだなという結論に帰着するものでした。また、MDR響との相性の良さという点でも並々ならないものがあるような気がします。いずれにしても、今後もこのコンビの演奏にはちょっと注目してみたい気になりました。

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