ヤナーチェクのグラゴル・ミサ原典版とプロコフィエフの交響曲第6番(シャンドス30周年BOX:CD14&15)


「シャンドス30周年BOX」収録盤の感想記の続きです。今回はCD14とCD15を聴きました。

ANNI-14
ヤナーチェク グラゴル・ミサ(原典版)
&コダーイ ハンガリーの詩篇
 マッケラス/デンマーク国立放送交響楽団
 1994年録音

このデンマーク国立放送響とのグラゴル・ミサは、同曲の「原典版」による世界初録音盤と表記されています。

このグラゴル・ミサの録音に際して一般に用いられている8楽章構成の「改訂版」と比べた場合、原典版は改訂版での終楽章「イントラーダ」が冒頭にも配置された9楽章構成となっているようですし、細部の音形なども改訂版とは異なる場面がかなりあるようです。

もっとも、このマッケラス/デンマーク国立放送響のグラゴル・ミサには、そういう演奏版の稀少性とは独立した演奏自体の良さがあり、ことにオーケストラの充実感が総じて素晴らしく、例えば第5楽章の(7:30)などの、決めどころでのティンパニの痛打に聴かれる、綺麗事でない荒びた迫力などを始め、全体に名匠マッケラスがヤナーチェクの音楽の美質をうまく引き出していて、聴いていて音楽にグングン惹き込まれます。

ちなみにマッケラスの指揮によるグラゴル・ミサというと、一般的に知名度の高いのは以下のチェコ・フィルとの改訂版による録音ではないかと思います。

COCO70412
ヤナーチェク グラゴル・ミサ(改訂版)
 マッケラス/チェコ・フィル
 スプラフォン 1984年 COCO-70412

このチェコ・フィルとの改訂版グラゴル・ミサは、一般的な版による演奏である点と、ヤナーチェクの本場チェコ・フィルによる、完成度の高く洗練された演奏で、この曲の代表的名盤として認知されるに足る内容だと思うのですが、私の印象としては、いささか洗練が過ぎて、聴いていて意外にヤナーチェクの音楽の魅力たる土俗感、ないしスラブ的なパッションといった要素が抑制されてしまっている感もあり、そのあたりに物足りなさも残るものでした。

その点、本ディスクのデンマーク国立放送響とのグラゴル・ミサは、むしろ本場チェコ・フィルよりもヤナーチェク的な雰囲気が強いような感じがして面白いと思いました。

ANNI-15
プロコフィエフ 交響曲第6番、ワルツ組曲第1、3、4番
 ネーメ・ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管弦楽団
 1984年録音

このCDは、ネーメ・ヤルヴィがスコティッシュ・ナショナル管を振って録音したプロコフィエフの交響曲全集からの抜粋なのですが、私はちょうど今年の初め、その全集の再発ボックスを入手していますので、交響曲に関してはダブリになってしまいました。

とはいえ、併録のワルツ組曲の方は、その全集ボックスには含まれていませんから、完全なダブリでもなくて良かったなと思います。

私はプロコフィエフの7曲の交響曲では2番が最も好きで、次いで3番・4番、さらに1番・5番と続くのですが、これらに比べると6番と7番は正直いまひとつ苦手というか、ピンと来ない気がします。

それでもこのCDの交響曲第6番を改めて聴いてみて、演奏自体の凄さを再確認させられる思いでした。第1楽章の(9:38)から(10:40)あたりまでの音響的迫力、その凄味など、並のものではないと思います。

カラヤン/ベルリン・フィルによるヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」全曲


ヴェルディ 歌劇「ドン・カルロ」全曲
 カラヤン/ベルリン・フィル
 EMIクラシックス 1978年 TOCE-6437-39
TOCE-6437-39

ヴェルディのオペラ「ドン・カルロ」につき、昨日のムーティ/スカラ座のライヴ盤に続いて、今日はカラヤン/ベルリン・フィルの全曲盤を聴いてみました。こちらもリコルディ4幕版に基づく録音です。

5人の主役級のキャストは、ドン・カルロがホセ・カレーラス、フィリッポ2世がニコライ・ギャウロフ、エリザベッタがミレルラ・フレーニ、ロドリーゴがピエロ・カプッチッルリ、エボリ公女がアグネス・バルツァという、壮観なまでに豪華な布陣ですね。さらに宗教裁判長はルジェーロ・ライモンディですし、テバルドにエディタ・グルベローヴァ、修道士にヨセ・ファン・ダム、天の声にバーバラ・ヘンドリックスと、端役にまで贅を尽くした超豪華キャスティングです。さすがにカラヤン・プロダクションというところでしょうか。

しかしながら、ひと通り聴いた印象としては、皮肉なことに上記の豪華な歌唱陣の歌唱が十全に活かされているとは、必ずしも言えないように思います。

というのも、このカラヤンの全曲盤の最大の聴きものは、間違いなく「ベルリン・フィル」だと思われるからです。とにかくオーケストラの鳴りっぷりが尋常でなく、オケが中心に聴かせる段であろうと、なかろうと、金管や高弦を中心にアンサンブルを容赦なくガンガン響かせ、ティンパニなどもカラヤンにしては珍しいくらいにアグレッシブに鳴らされ、こと管弦楽的な音響的醍醐味を堪能するという観点では、このカラヤン盤の右に出るものは、おそらく無いのではないかというくらいの勢いです。

それはいいのですが、ここで大きく問題となるのは、総じてオーケストラに威力があり過ぎて、歌手を中心に聴かせる下りにおいてさえ、自分たちが主役とばかりにオーケストラが過分に出しゃばり過ぎる局面が頻繁に聴かれる点でしょう。例えば、第1幕でカルロが初めて登場し、「Io I'ho perduta!」と第一声を張り上げる場面など、これに被るオケのトッティが強すぎてカレーラスの歌声が霞んでしまっています。ここなど、昨日聴いたムーティ/スカラ座の全曲盤での同じシーンと聴き比べてみると、オケと歌手のバランスが全然違っていることに驚かされるくらいです。

昨日聴いたムーティ/スカラ盤では、全体的にオケと歌手との連携ぶりが万全であることが素晴らしく思われ、その感想の中でも、「歌手が華々しく登場する場面や、聴かせどころのアリアを披露する段では、必ずオーケストラが一歩下がった感じになり、必要以上に出しゃばらず、むしろ歌唱を大いに引き立ていて、オーケストラがメインで聴かせる段との変わり身の鮮やかさを際立たせています」と書いたのですが、このカラヤンの「ドン・カルロ」では逆に、そのあたりが甚だ遜色するというのが率直な感想です。少なくともムーティ/スカラ盤を聴いた後だと、ここでのカラヤンはオケと歌手との連携という観念を、それほど重視していないのではないかという疑問をかなり感じます。

以上のような理由で、せっかくの豪華キャストなのに、その歌唱の醍醐味がフルに伝達されないところが聴いていてもどかしいのですが、それではカラヤン盤は平凡かというと、決してそうではないのが悩ましいところで、前述のようにオーケストラの純粋な充実感が際立った水準にあるため、ここぞという時の聴き応えに並々ならないものがあります。

この「ドン・カルロ」というオペラは、ヴェルディの書いた一連のオペラの中では最もワーグナーに接近した作品だと評されることがあるのですが、このカラヤン盤を聴いていると、そのことを強力に実感させられます。とりわけ多用される金管強奏に聴かれる豪快で壮麗なフレージング展開は、ヴェルディ作品としても異色なくらいの趣きなのですが、少なくともそういうワーグナーのような趣きを、聴いていて鮮明に感得させられるという点では、ムーティ/スカラ盤よりもカラヤン/ベルリン・フィル盤の方が確実に優れていると思います。

もうひとつ、カラヤン盤の方がムーティ盤より確実に優れていると感じたのは、ロドリーゴ役ピエロ・カプッチッルリの迫真の歌い回しで、稀代のヴェルディ・バリトンの凄味が全編に充溢していて、聴いていて圧倒される思いでした。例えば第1幕ラストで、ロドリーゴがフィリッポ2世の異教徒弾圧を諌めるために、「la pace e del sepolcri!(墓場の平和)」と叫ぶ場面など、これ以上無いというくらいの迫力を披歴し、ここだけ比べてもムーティ盤のコーニとは圧倒的な差を示しています。それもオケに対して引っ込み気味の歌唱バランスで録られて、ここまで凄いのですから、やはりさすがだと感服させられました。

このカプッチッルリの名歌ぶりに対して、カレーラス、ギャウロフ、フレーニ、バルツァはいずれも、さすがに名歌手だなという印象はしますが、それでもかれらの本領からすると、もう少し感興が伸びる余地があるような気もします。もしカラヤンでなくムーティの指揮下で歌ったならば、全体にもう一歩良くなるのではないか、そんな気がしました。

ムーティ/ミラノ・スカラ座によるヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」全曲


ヴェルディ 歌劇「ドン・カルロ」全曲
 ムーティ/ミラノ・スカラ座管弦楽団
 EMIクラシックス 1992年ライヴ TOCE-8318-20 
TOCE-8318-20

来月ですが、ヴェルディのオペラを2つ、観に行こうと思っています。

ひとつは新国立劇場の新シーズン開幕公演の「オテロ」で、もうひとつはミラノ・スカラ座の来日公演の「ドン・カルロ」です。

このうち「ドン・カルロ」の方は、私がこれまでに聴いた頻度として実演・録音ともに「オテロ」よりずっと少なく、ちょうど3年前に新国立劇場で上演されたのを観たのですが、それ以来のご無沙汰です。

そこで来月、スカラ座の公演を聴きに行くまでに、予習がてらCDの全曲盤をいくつか聴いておきたいと思い、今日はまず、ムーティ/スカラ座のライヴ盤をひと通り聴いてみました。

この「ドン・カルロ」はヴェルディ後期の傑作のひとつと目されているものですが、上演には最低5人の主役級歌手を必要とするため、ヨーロッパの有名な劇場でも記念公演など特殊な機会でもなければ容易に上演に掛からないオペラとされています。

また、この作品は本来フランス風のグランド・オペラとして書かれ、パリ・オペラ座で初演されたのですが、この5幕によるフランス初演版は今日あまり上演されず、後年ヴェルディが改訂し1884年にミラノ・スカラ座で初演された「リコルディ4幕版」というのが今日一般に上演される版のようです。このムーティ/スカラ座の全曲盤もそのリコルディ4幕版に基づいていますし、来月のスカラ座来日公演でもやはりこの版が用いられます。

さて、今日ムーティ/スカラ座の「ドン・カルロ」を、シナリオの流れを思い出しながら、ひと通り聴いてみたのですが、聴き終えて、改めてこのオペラは聴きごたえのある傑作だなという印象を深めました。

シナリオはフリードリヒ・フォン・シラーの戯曲に基づく重厚なストーリーで、ヴェルディの多くのオペラの中でも傑出したもののひとつだと思います。よく主人公が5人いるなどと言われるように、個々のキャラクタに互角の存在感があるため、シナリオの綾が重層に折り重なっていて、気が抜ける場面がほとんどなく、ヴェルディ後期の熟達な音楽の書式とあいまって醸し出されるオペラとしての濃密な緊張感と壮大なスケール感には、改めて感服させられます。

それだけに残念な気がするのが、幕切れの展開で、そこではシラーの原作を曲げて、前国王の亡霊が突然現れカルロを墓に呼び込むという、マンガみたいなことをしていて、それまでせっかく迫真の人間ドラマが展開されていたのに、これでちょっと水を差され、余韻が少し削がれたような印象を受けます。何か、余計なことをしたなというのか、そんな気がするのは私だけでしょうか。

演奏ですが、ムーティ/スカラ座のオーケストラに関しては、イン・テンポ様式の無駄のない音楽の運びから過不足のない音楽情景が展開されていて、安心してオペラに身を浸すことのできるものでした。

そして、聴いていてスカラ座はやはり凄いなと思ったことが、幾つかあります。

ひとつにはオーケストラの奏でる音響的なニュアンスが、テンポの抑制ぶりからすると驚くほど多彩であることです。それも喜怒哀楽といった単純な言葉では表し切れない複妙な趣きが、場面場面で絶妙に押し出されてきて、それが少しも押し付けがましくなく、無言の説得力に満ちています。いまひとつは全体にオケと歌手との連携ぶりが万全であることで、歌手が華々しく登場する場面や、聴かせどころのアリアを披露する段では、必ずオーケストラが一歩下がった感じになり、必要以上に出しゃばらず、むしろ歌唱を大いに引き立ていて、オーケストラがメインで聴かせる段との変わり身の鮮やかさを際立たせていました。

いずれもおそらくスカラ座の伝統の力だと思うのですが、ムーティの統制力の賜物のような気もします。来月のスカラ座公演の「ドン・カルロ」では、ダニエレ・ガッティが指揮をとるのですが、アンサンブル運用に関しては、ぜひともこのディスクの水準で聴かせて欲しいです。

5人の主役級のキャストですが、ドン・カルロがルチアーノ・パヴァロッティ、フィリッポ2世がサムエル・レイミー、エリザベッタがダニエラ・デッシー、ロドリーゴがパオロ・コーニ、エボリ公女がルチアナ・ディンティーノという布陣です。この中では、ロドリーゴ役コーニに少し物足りなさがあるのですが、他の4人は充分過ぎるほどの名唱を聴かせています。

特に外題役パヴァロッティは持ち前の「黄金のラッパ」を高らかに鳴らし、カルロの直情的な性格を、実にナチュラルに(自然に歌っているだけなのにそのように聞こえる!)歌い表していて惹き込まれました。パヴァロッティの声質を考えると、ドン・カルロはまさに打ってつけな役柄のひとつですね。

「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」全演奏の音質評価リスト


「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 アウディーテ 1947~54年ライヴ AU21403
AU21403

ちょうど一か月前に購入した「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」ですが、収録のCD12枚を少しずつ聴き進めて、今日ようやく一通り聴き終えました。

そこで、各演奏の音質に対する私なりの印象をメモ的に記しておきます。

なお、基準としては主に音響的な実在感の強弱に重きを置いたもので、ノイズの多寡や聴き易さ等はそれほど重視していません。

S:極上
A:上等
B:まずまず
C:やや落ちる

A:ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」(47年5月25日)
A:ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」(47年5月25日)
B:メンデルスゾーン 序曲・真夏の夜の夢 (47年9月28日)
B:ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲(47年9月28日)
           ソリスト:ユーディー・メニューイン
C:バッハ 管弦楽組曲第3番(48年10月24日)
B:ブラームス 交響曲第4番(48年10月24日)
C:シューベルト 交響曲第8番「未完成」(48年10月24日)
S:ブルックナー 交響曲第8番(49年3月15日)
A:シューマン マンフレッド序曲(49年12月18日)
A:ブラームス 交響曲第3番(49年12月18日)
B:フォルトナー ヴァイオリン協奏曲(49年12月18日)
          ソリスト:ゲルハルト・タシュナー
A:ワーグナー ジークフリート葬送曲(49年12月19日)
A:ワーグナー マイスタージンガー前奏(49年12月19日)
S:ヘンデル 合奏協奏曲Op.6-10(50年6月20日)
B:ブラームス ハイドン主題変奏曲(50年6月20日)
A:ヒンデミット 管弦楽のための協奏曲(50年6月20日)
B:ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」(50年6月20日)
A:グルック 「アルチェステ」序曲(51年9月5日)
A:ヘンデル 合奏協奏曲Op.6-5(54年4月27日)
B:ウェーバー 「魔弾の射手」序曲(52年12月8日)
B:ヒンデミット 交響曲「世界の調和」(52年12月8日)
A:ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」(52年12月8日)
B:シューベルト 「ロザムンデ」序曲(53年9月15日)
A:ブラッハー 管弦楽のための協奏音楽(54年4月27日)
A:シューベルト 交響曲第8番「未完成」(53年9月15日)
A:シューベルト 交響曲第9番「グレート」(53年9月15日)
A:ブラームス 交響曲第3番(54年4月27日)
A:R.シュトラウス 「ドン・ファン」(54年4月27日)
B:ワーグナー トリスタンとイゾルデ前奏曲(54年4月27日)
B:ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」(54年5月23日)
A:ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」(54年5月23日)

クベーラとコティック/S.E.M.アンサンブルによるケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」


ケージ ピアノとオーケストラのためのコンサート、アトラス・エクリプティカリス
 クベーラ(pf) コティック/S.E.M.アンサンブル
 Wergo 1992年 WER6216-2
WER6216-2

おととい、サントリーホールで開催されているサマーフェスティバルの一環である現代音楽のコンサートを聴き、昨日その感想を掲載したところですが、私がこれまで聴いた同ホールのサマーフェスティバルの中で、最もエキサイティングで面白かったコンサートを挙げるとすると、サマーフェスティバル2002での「ケージ特集 管弦楽」になります。

これはジョン・ケージ没後10年にちなんだコンサートで、演目は①四季②プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲③ピアノとオーケストラのためのコンサート、 指揮は高関健、ピアノが高橋アキと一柳慧、オーケストラは都響でした。

このうち聴いていて断然面白かったのは③で、これはケージが1950年代後半に作曲した一種の実験音楽であり、ケージが偶然性の作曲技法に則して書いたものとしては代表作とも目されている作品なのですが、実演で耳にしたのはその時が初めてでした。

この曲にはスコア(総譜)は無く、指揮者には「指揮者用のパート譜」があてがわれるのですが、そこには数字が並んでいて、それを見ながら指揮者は時計の針のように両手を回していきます。オーケストラ奏者はリハーサルさながらの私服姿で、いちおう楽器を携えてステージに登るのですが、実際は楽器を弾くというより、時折、断続的に音を発するのみで、後は個々の奏者が、唐突に足を踏み鳴らしたり、それまで座っていた椅子をいきなり蹴飛ばしたり、ペットボトルを床に叩き付けたり、紙袋を膨らませて破裂させたり、奇声を発したり、とそういうようなことを、ステージ上で大体30分くらい延々と繰り返す、というものでした。

こういう風に事実だけ書いてしまうと、一体そんなものを聴いて何が楽しいのか、と思われるかも知れないですが、私はこのパフォーマンスに対し、何か自分でも異様なほど興奮した面持ちでじっと聴き入っていたのでした。

それまで私はジョン・ケージというと、時に哲学的とすら思えるほどに難解な思索で理論武装した、かなり取っ付きにくい作曲家として捉えていたのですが、このコンサートを聴いて彼の音楽を、もしくは彼の音楽の醍醐味の一端を初めて自分なりに実感できたような、そんな気がしました。

そのとき私がケージに対して掴んだイメージが、果たして妥当かどうかは正直それほど自信はないのですが、少なくともあのコンサートで聴いた音楽には、上品で優雅で耳当たりが良くて、という「クラシック音楽」のまさに対極に位置する雰囲気が充満していて、それに私は聴いていて強く惹きつけられ、気持ちを大きく動かされました。

ここでCDの話に移りますが、これは上記コンサートを聴いてしばらく後に購入したもので、ジョーゼフ・クベーラのピアノ・ソロ、ピーター・コティックの指揮、S.E.M.アンサンブルの演奏によるケージ作品のアルバムで、「ピアノとオーケストラのためのコンサート」と「アトラス・エクリプティカリス」が収録されています。

もちろんお目当ては「ピアノとオーケストラのためのコンサート」で、つまりサントリーホールで聴いた先の実演での感興なり興奮なりを追体験できるかもしれないと思ったのでした。

それで聴いてみたのですが、やはり、厳しいというのが率直な印象です。収録されている音響そのものは十分に刺激的で、純粋にその刺激感を楽しむというぶんには過不足はないのですが、それはかの実演での感興なり興奮なりからは遠いものでした。

その原因が、視覚的インパクトをも伴う生演奏ならではの醍醐味にあると言ってしまえばそれまでですが、むしろケージの場合、その音楽の根本概念としてチャンス・オペレーションという偶然性の思想があるので、それをCDに録音として固着することの矛盾を考えると、果たしてどうなのだろうという疑問が、CDを聴いていて着かず離れず浮かんできたりもします。

だからケージ作品を録音で聴いてもつまらない、とまでは短絡的に言えないとしても、レコーディングという概念を排斥する要素が他の作曲家よりも格段に強いことはおそらく事実で、したがって同じ曲を実演と録音とで聴いた場合、その落差が最も大きな作曲家のひとりがケージであるということを、このCDをサントリーでの実演とひき比べて思い知らされたような気がしました。

2002-08-28

サマーフェスティバル2009「音楽の現在」の感想


サマーフェスティバル2009「音楽の現在」(サントリーホール 8/25)の感想です。

最初に演奏されたのは、イタリアの大家サルヴァトーレ・シャリーノの「リコーダーとオーケストラのための4つのアダージョ」でした。

冒頭トロンボーンの奇怪な響きで幕を開け、10型編成のオーケストラが奏でる鋭角的なモチーフがさまざまに組み合わされて得られる、旋律性に乏しいハーモニーの動きと、それに対峙するかのようなリコーダー・ソロの旋律性豊かな吹き回しとの、異様なまでのコントラストがユニークな雰囲気を形成する作品で、ことにリコーダーのフレージングは尺八をかなり強く連想させるような趣きがあり、その和風な色合いに対しても不思議な感覚を抱きながら耳を傾けました。

その独特の雰囲気といい、奇抜なコントラストといい、聴いていてかなり惹き込まれた作品でしたが、同時に、私が当初イメージしていたシャリーノの作風と大分かけ離れていたことに驚かされもしました。

というのも、私がシャリーノに対して抱いていたイメージというのが、例えば音響の極限的な希薄化を伴う作風とか、ドイツのラッヘンマンと双璧ともいうべき特殊奏法の開拓者であるというものでしたが、この作品にはそういう希薄化された音響の感触とか特殊奏法といった要素は特に目立たなかったからです。

このあたりは単に私の理解が浅かっただけかも知れませんが、いずれにしても、ちょっと意表を突かれたのは事実で、おかげで私の先入観が半ばリセットされた状態で作品に接することになり、そのため結果的に音楽の発する新鮮な刺激と感興とに予断なく身を委ねることができたような気がします。

続いてアメリカの女流作曲家オーガスタ・リード・トーマスのヴァイオリン協奏曲が演奏されました。

「楽園の曲芸師」と名付けられたこの作品は、オーケストラが楽園、ヴァイオリン・ソロが曲芸師をそれぞれ担当するというもので、ハープやチェレスタの耽美的な響きを強調したオケのハーモニーに、ソロのラプソディックなフレージングが巧く対比されていました。雰囲気的には少々ロマンティックで、先のシャリーノ作品でのソロv.s.オケの異様なコントラストを聴いた後だと、いまひとつピリッとした緊張感に乏しい嫌いもありましたが、時おり垣間見せた幽玄で静謐な音楽の景色が息を呑むほどに美しくて印象に残りました。

休憩を挟んで、イギリスの若手作曲家ルーク・ベッドフォードのオーケストラのための「花輪」が演奏されました。これは今回の演目で唯一、協奏曲形式でない作品で、ティンパニが使われたのはこの曲だけでしたし、コントラバスクラリネットという珍しい楽器まで動員し、すこぶるダイナミックな音響レンジがアンサンブルから表現されていて、その点では傾聴させられるものでした。

しかし、作風自体はいささか陳腐というか、冒頭で金管斉奏により提示されるモチーフを執拗なまでに繰り返しつつ、少しずつ変化を持たせていくという風で、要するにミニマル・ミュージック的な色彩が強く、音響の圧倒的なダイナミクスの割りに、斬新という印象は聴いていてそれほど受けませんでした。

最後はハンガリーの大家ペーター・エトヴェシュの「2台ピアノとオーケストラのための協奏曲」が演奏されました。これは全5楽章からなる協奏曲で、エトヴェシュと同郷のバルトークへのオマージュであると述べられています。

印象的にはバルトークの「オーケストラのための協奏曲」をさらに抽象化し音響的に極限まで研ぎ澄ましたような激烈な音楽で、ここではティンパニを用いない代わりにスネアドラムが効果的に用いられ、ここぞという時に強烈なビートを打ち出していましたし、ピアノはソロとして立ち回るというよりむしろ打楽器の一種としてオケの中に組み込まれているという風でした。とにかく本公演の4曲の中では最もエキサイティングな作品で、聴いていて率直に興奮を禁じ得ませんでした。

以上、本公演で耳にした4曲の現代作品においては、その作風の多彩さと共に、各作品の主張する個性的な音響展開の醍醐味をじっくりと堪能することができ、その点では大満足な内容でした。

ただ敢えて言うなら、いずれの曲も、かつて一度も耳にしたことが無い、くらいの途方もなく斬新な音響とまでには到らなかった点に一抹の物足りなさも残るものでした。

この点でラッヘンマンなどはやはりすごいと改めて思うのですが、その意味では、シャリーノの作風が予期に反していたのは良くも悪くも、、というところでしょうか。もちろん十分に面白く聴いたのですが、あの作風が本当にシャリーノの本領だったのかどうか、正直そんな疑問も少し残りました。

サマーフェスティバル2009「音楽の現在」(サントリーホール 8/25)


今日はサントリーホールで「サマーフェスティバル2009 音楽の現在」を聴いてきました。
2009-08-25

「サマーフェスティバル」は毎年この時期にサントリーホールで開催されている現代音楽の連続演奏会ですが、今日の公演「音楽の現在」はその連続演奏会の一環として、最近1~2年の間に世界各地で初演された現代作品を取り上げて演奏するという趣向のコンサートです。

演目は以下の4曲です。

①サルヴァトーレ・シャリーノ リコーダーとオーケストラのための4つのアダージョ(2008年初演)
②オーガスタ・リード・トーマス ヴァイオリン協奏曲「楽園の手品師」(2008年初演)
③ルーク・ベッドフォード オーケストラのための「花輪」(2007年初演)
④ペーター・エトヴェシュ 2台ピアノとオーケストラのための協奏曲(2007年初演)

以上、全曲とも本公演が日本初演とのことです。

演奏は、指揮が沼尻竜典、オーケストラが東京都交響楽団。また①のリコーダーは鈴木俊哉、②のヴァイオリンは千々岩英一、④のピアノ・デュオは瀬尾久仁と加藤真一郎により、それぞれ演奏されました。

このフェスティバルは、私は毎年聴きに行っているわけではないのですが、自分なりに興味のある作曲家の作品が上演にかかったら行く、というスタンスで過去に何回か足を運んでいます。今回は①のサルヴァトーレ・シャリーノと④のペーター・エトヴェシュに興味があり、足を運びました。

感想については、また後日に出しますが、4曲それぞれ傾向の違う作品がうまく並べられていて面白いと思いましたし、全曲を通して、現代作品ならではの予断を許さない音響展開の醍醐味をじっくりと味わえたコンサートでした。


キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管によるプロコフィエフの交響曲全集


プロコフィエフ 交響曲全集
 キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
 フェニックス・エディション 2005~07年ライヴ PE135
PE135

今日はドミトリー・キタエンコ指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の演奏によるプロコフィエフの交響曲全集を聴きました。これは2005年から2007年にかけてケルンのフィルハーモニーで行われたプロコフィエフ・チクルスでのライヴ録音です。

リリースされたのは昨年の秋で、新譜ではないのですが、インターネット上の少なからぬサイトで、その演奏内容に関して絶賛されているのを拝見し、ちょっと気になっていたものです。それで先日オンラインで注文し、それが昨日届いたので、今日ひととおり聴いてみました。

実際聴いてみて、確かにこれは凄い演奏だなという印象を受けました。

プロコフィエフの交響曲全集というと、私の場合、昨年の暮れにゲルギエフ/ロンドン響、そして今年に入ってネーメ・ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管のものをそれぞれ聴いていて、それらの演奏のイメージがまだ記憶に新しいのですが、このキタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管の演奏はそれらとの対比からすると、ちょうど各々の長所を巧く兼ね備えたような形になっていることに、まず驚かされました。

以前、私はヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管のプロコフィエフ全集の感想の中で、ヤルヴィ盤の演奏とゲルギエフ盤の演奏を足して2で割れば理想的な演奏になるのではないかというような趣旨のことを書いたのですが、それに相当するのがまさにこのキタエンコ盤であり、全集中の各曲とも、オーソドックスな音楽の運びから、アンサンブルの表現力に満ちた高声の鳴りっぷりと、質感豊かで訴求力に満ちた低声の充実感とがこよなく強調されていて、素晴らしい聴き応えがもたらされています。

私がとくに惹かれたのが交響曲第2番の演奏で、それはこの作品の魅力を改めて認識させてくれるものでした。

第1楽章の冒頭から同楽章全般に立ち込める異常なほどの音楽の緊張感が素晴らしく、このあたりの楽想の狂気的な暴力性を、これほど明晰に抉り出した演奏というのも滅多にはないと思われるもので、高声の鳴りっぷりはゲルギエフ盤を凌ぎ、バスの迫力はヤルヴィ盤を凌ぎ、両者が絶妙な地点で結託して破壊力抜群のアンサンブルを供出していて、とにかく圧倒されます。なかんずく(8:25)の再現部突入部での最強奏の激烈ぶりは常軌を超えた凄まじさです。

第2楽章も見事な表現力で、前半の変奏部は淡々と進めているようで音楽の叙情が聴いていて浸みいるようであり、なおかつ木管のソロを中心にシャープに研ぎ澄まされた怜悧なフレージング展開から醸し出される、音楽の屈折感のある陰りも印象深く、そのあたりの屈折した表情が、変奏が後半に移るに従いジワジワと台頭していくあたりの恐怖感が、強い説得力を持って導き出されていて、傾聴させられます。

実際この演奏はダイナミクスの構築やテンポの動きに奇を衒ったところのない、正攻法な表現に他ならないのですが、それだけに緊迫した音楽の運びや重量感に富んだアンサンブル展開に対して強力な説得力がもたらされている、そんな印象を受けます。

この第2番に次いでは第3番と第4番あたりの演奏内容も素晴らしいのですが、それにしてもこのキタエンコ盤を耳にして、プロコフィエフの交響曲というのは、何と強烈にして過激な音楽であるか、今さらながらに実感させられる思いでした。

サイモン・ラトルによるアメリカン・ミュージック録音集成ボックスセット


アメリカン・ミュージック録音集
 ラトル/バーミンガム市交響楽団ほか
 EMIクラシックス 1986年~99年 2150142
2150142

昨年購入した、サイモン・ラトルのアメリカ音楽のレコーディングの集成盤(CD7枚組)です。

これは以前、感想を掲載すると言っておいて、出しそびれていたものなのですが、ちょうど先日マゼール/クリーヴランドの「ポーギーとベス」全曲盤を聴いたばかりで、いい機会ですので、今日一通りざっくりと聴いてみました。

CD1:
ジョン・アダムズ作品集
 ラトル/バーミンガム市交響楽団 1993年録音

収録曲は、
①ハーモニウム(和声楽)
②管弦楽のためのフォックストロット(議長は踊る)
③2つのファンファーレ(トロンバ・ロンターナ、ショート・ライド・イン・ア・ファスト・マシーン)

いずれも1980年代のジョン・アダムスの代表的な管弦楽作品です。アダムズとしてはポスト・ミニマルの作風期に属し、現代音楽としての強烈な前衛精神こそ控えめながらも、取り付きやすい旋律の援用を伴いながらの精妙な色彩和声の推移と、全奏時の強烈なハーモニーの色彩照射に特徴が感じられます。

そういう音楽の特徴を、ラトルはバーミンガムのアンサンブルを自在に駆使して緻密かつ大胆に再現していて、その入り組んだハーモニーの綾を解き解すような明晰な演奏展開といい、トッティにおいてアンサンブルが発するカタストロフ的な表出力といい、すこぶる研ぎ澄まされた音響展開に思わず惹き込まれました。続くCD2以降がかなり「軽め」なこともあり、本ボックス全7枚の中では最も重量感に富んだ一枚です。

CD2:
バーンスタイン ミュージカル「ワンダフル・タウン」
 ラトル/バーミンガム市交響楽団 1998年録音

バーンスタインの残したブロードウェイ・ミュージカルのひとつで、アメリカン・ドリームを夢見てニューヨークにやってきた若い姉妹のサクセス・ストーリーが描かれています。歌詞対訳をもっていないのでストーリーの細部までは分らないのですが、ミュージカルはオペラと違って対訳が無くても意外と不都合は感じないもので、大まかな話の流れに沿って音楽を追っていくだけで十分楽しいですね。ディスクの余白にはバーンスタインの「プレリュード、フーガとリフ」も収録されています。こちらはロンドン・シンフォニエッタとの演奏です。

CD3:
デューク・エリントン・アルバム
 ラトル/バーミンガム市交響楽団 1999年録音

「A列車で行こう」、「ユーアー・ザ・ワン」、「ソフィスティケイテッド・レディ」といった、デューク・エリントンの有名なナンバーが12曲収録されています。オケはラトルの手兵バーミンガム響ですが、各種ソロ・パートにはジャズ・ミュージシャンの有名どころが起用されているとのことです。ちなみにこのジャズ・アルバム、ラトルが録音したのは、すでに次期ベルリン・フィル音楽監督に内定していた時期! このクロス・オーバーぶりが、ベルリン・フィルでも活かされれば面白いと思うのですが、、、

CD4~CD6:
ガーシュウィン 歌劇「ポーギーとベス」全曲
 ラトル/ロンドン・フィル 1988年録音

このラトル/ロンドン・フィルの全曲盤は、マゼール盤の全曲盤とはテンポ感がかなり違いますし、少なくともジャズっぽさというか軽妙なノリの良さというか、そういう要素はマゼール盤よりも強く感じます。

「ポーギーとベス」をジャズでもミュージカルでもオペレッタでもなく、あくまでオペラとして録音する、と表明して史上初のノーカット録音を行ったマゼールの演奏は、最高のアンサンブルを駆使しての音楽の精緻な流れが魅力でしたが、表情として多少堅苦しいような印象もありました。こちらのラトルの演奏はマゼール盤よりはブロードウェイ風なムードが強く、そのぶんジャズ・オペラ的な面白さを印象付けられるものでした。

ポーギー役はマゼール盤と同じウィラード・ホワイト。歌唱力、演技力ともにマゼール盤のそれよりさらに磨きがかかっていますね。ただ、かつてのとんがった感じは後退し、表情が少し丸くなったようですが、、、

CD7:
①ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
 ドノホー(pf) ラトル/ロンドン・シンフォニエッタ 
 1986・87年録音
②ガーシュウィン 「ソング・ブック」
 ドノホー(pf) 
 1990年録音
③ガーシュウィン ピアノ協奏曲ヘ調
 ドノホー(pf) ラトル/バーミンガム市交響楽団 
 1990年録音

「ラプソディ・イン・ブルー」は通常録音されるオーケストラ版ではなくバンド用のオリジナル版による演奏です。これはポール・ホワイトマン楽団のジャズ・ブラスが1924年にこの曲を初演した際の編成で、オーケストラ版より規模が小さく、編成内容も、ホルンがないかわりにサクソフォーンが加えられていたりします。そして、この演奏ではサクソフォーン・ソロに、イギリスの名サクソフォーン・プレーヤーのジョン・ハールが起用されています。

オーケストラ版よりもジャズ・テイストの強い表情が新鮮で、ロンドン・シンフォニエッタのノリのいいリズムと華やかなフレージングが爽快です。ドノホーのピアノ・ソロもいいですね。

しかしこのディスクの白眉はむしろピアノ協奏曲だと思います。フットワークの効いたドノホーのソロの洒脱感がいいですし、ラトル&バーミンガム響の伴奏も、「ラプソディ・イン・ブルー」の時より充実感が勝り、豪快なティンパニ強打をも伴う勢いのあるリズムの愉悦は、まさにラトルの本領という感じが強く出ています。

カシオーリによるベートーヴェンのピアノ作品集(月光、テンペスト、エロイカ主題変奏曲)


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第14番「月光」、同第17番「テンペスト」、エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ
 カシオーリ(pf)
 デッカ 2008年 4763208
4763208

ジャンルカ・カシオーリの新譜である、ベートーヴェン作品のアルバムを聴きました。

カシオーリというと、若干17歳でグラモフォンからデビューしたのが1997年で、その時のデビュー盤はヴェーベルン、シェーンベルク、リゲティ、ブーレーズという、ビジネス路線に敢然と背を向けたようなものでした。

私がカシオーリの録音を最初に耳にしたのは、もう一枚の方のデビュー盤である以下のピアノ小品集です。

POCG-10027
ピアノ小品集
 カシオーリ(pf)
 グラモフォン 1996年 POCG-10027

このCDにはバッハ、スカルラッティ、ベートーヴェン、リスト、ドビュッシー、ブゾーニ、ファリャ、プロコフィエフといった作曲家の手による、いずれも難技巧を要求するピアノ小品がぎっしり収録されているのですが、その最初のバッハ「トッカータとフーガ ニ短調BWV565」ブゾーニ編曲版の演奏が実に瞠目すべき演奏内容でした。

全体に個々の打鍵は強靭な力感を帯びていて若々しく、それでいて演奏を進める間合いの取り方が大人びているというか、沈思的、あるいは黙考しているような歩の取り方。そして、その思索的な様相を強く帯びた音楽の表情から時おり浮上するパッション、例えば(7:17)から主題がバスに移って激しく歌われる場面での左手の凄みが放つ沸々とした激情。一体こんな深みのあるバッハを、本当に17歳のピアニストが演奏しているのかと、聴いていてちょっと信じがたい気がするものでした。

バッハ以外の曲では割りと力押しな部分が強くて、プロコ「束の間の幻影」などは演奏の間合いが閃きに富んでいて傾聴させられるのですが、ブゾーニ「インディアン日誌」やプロコフィエフ「悪魔的暗示」あたりだと、テクニック依存の割合が高いぶん音楽としての黙考感がバッハに比べていまひとつであるところに物足りなさが残ります。それは逆に言うとバッハが突き抜けているということですが、、

そういうわけで、上記CDを耳にして以来カシオーリのディスクはだいたいチェックしているのですが、結局グラモフォンからはわずか3枚のリリースにとどまり、その後デッカに移ってからも頻度的にはさほど上がっておらず、どうもレコーディングにあまり意欲的なスタンスではないピアニストのようです。

以上、前置きが長くなりましたが、今回の新譜はカシオーリ初のオール・ベートーヴェンで、どんな演奏が聴けるか、興味深いところです。

それで聴いてみると、最初の「月光」ソナタでは冒頭のppの3連符から一貫して速めのさらりとしたテンポで淡々と進められ、第2楽章も含めて、何かあっという間という感じに音楽が過ぎ去るという風で、どうも引っ掛かりに乏しい印象でした。

これが終楽章になると、冒頭のテーマ右手を音量をかなり抑えると同時に左手のバスを大きく強調し、大胆なバランスを構築したり、(1:15)あたりでのスタカートをソフトに描いたりなど、かなり仕掛けてきます。展開部以降も明らかに高声の比率を薄め、低声の比率を高めた個性的なバランスが聴かれるなど、オーソドックスではないやり方が披歴され、カシオーリが自分の個性を刻印しようとしている様が聴いていて明確に伺われます。

確かに、これはありきたりの表現ではないですし、カシオーリ自身の考え抜かれた演奏だなという印象は強く受けるのですが、それにしては聴いていてどうも感銘が薄い、もしくは感銘がいまひとつ伸びないような気がしたのも事実です。

続く「テンペスト」と「エロイカ変奏曲」においても、およそ常套的な表現法とは言い難い、かなり個性的なベートーヴェンが披歴されていて、フレッシュな印象には事欠かないのですが、それに見合う深みが付随しているかという点では、聴き終えてやや疑問の残るものでした。

あくまで私の印象なのですが、全体的に個性感を出そうと考え過ぎて肝心のタッチの方が浅かったり、フレージングが軽く流れてしまっている気配があり、つまるところ、やや細工(知的操作)が過ぎて肝心の音楽の味が薄くなっているような、そんな印象が聴いていて随所に伺われたというのが率直なところです。

このカリオーリのベートーヴェンは、テクニックも含めて表現力としては確かに冴えており、並のピアニストには軽々しく出来ない地点の演奏だと思うのですが、しかし若干17歳のデビュー盤で、あれだけの深みのある演奏を成し遂げたピアニストのベートーヴェンとして聴くと、やはり不満が残ってしまいます。ちょっと、伸び悩んでいるような気配があるというか、、、

もっとも、単に私に聴き込みが浅いからそう思うだけなのかも知れないですし、もう暫らく聴き込んでみたいと思っています。ただ、現状での感想は以上の通りです。

ヒルデガルト・ベーレンス死去


ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」全曲
 レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団
 グラモフォン 1987年 423389-2
423389-2

ドイツの名ソプラノであるヒルデガルト・ベーレンスが東京都内の病院で死去されたというニュースが、昨日報道されました。享年72歳とのことです。御冥福をお祈りします。

追悼の意を含めて、今夜は上記レヴァイン/メトのワルキューレ全曲盤を取り出し、聴くことにしました。もっとも全幕は時間的に聴けないので、第2幕の後半と第3幕全部、つまりベーレンスの歌うブリュンヒルデを中心に聴きました。

やはり同じブリュンヒルデでも、例えばニルソンとは色々な点でずいぶん違うな、というのが率直な印象ですね。傑出したワーグナー・ソプラノの名にふさわしい、キリッとした凛々しさの光る歌唱を披歴しているのですが、ニルソンのやや人間離れした歌唱に比すると、ずっと人間的で、女性的な感情表出の豊かさ、多様なニュアンスの使い分けなど、ドラマティックなのに知的な雰囲気を常に纏っている点が、ベーレンスならではのブリュンヒルデなのだなと、あらためて認識させられたように思います。

できれば、実演で聴きたかった歌手なのですが、日本では遂にオペラの舞台に立たなかった人でした。

ただ、私は一度だけ、ベーレンスの歌うワーグナーを生で聴くチャンスがありました。それは2003年2月に東京文化会館で開催された「オペラ・ガラコンサート」と銘打たれた催しで、以下はその時のチケットです。

2003-2-13

これは10人の世界的オペラ歌手を一堂に集め、それぞれの持ち歌を披露するという趣向のオペラ・コンサートで、その出演予定の10人のひとりにヒルデガルト・ベーレンスの名前がクレジットされていました(詳しくはこちらに記載されているとおりです)。

ところが、当日ホールに行ってみると、ベーレンスは体調不良のためキャンセルとの告知がありました。結局、ベーレンスの代役にはエヴァ・マルトンが招聘され、コンサート自体は当初の予定どおり行われました。

このコンサートのトリには、「ワルキューレ」第3幕冒頭の「ワルキューレの騎行」の場面を、6人の女性歌手が歌うという趣向があり、その6人というのがギネス・ジョーンズ、エヴァ・マルトン、アレッサンドラ・マーク、カラン・アームストロング、アグネス・バルツァ、アンナ・トモワ=シントウというとんでもなく豪華な顔ぶれで、後にも先にもこんな凄い「ワルキューレの騎行」を耳にしたことはなく、これを文化会館の最上階で聴いていて頭がクラクラする感じがしたのを覚えています。

そんなことを、ベーレンスの歌うブリュンヒルデを聴きながら、ふと思い出しました。

今にして思うと、あそこでベーレンスが聴けなかったのが残念ですね。あの6人の歌唱は確かに圧倒的なものでしたが、あそこに「本職」のワーグナー・ソプラノのベーレンスがいたら、さらに、、、という思いも残ります。

マゼール/クリーヴランド管によるガーシュウィンの歌劇「ポーギーとベス」全曲


ガーシュウィン 歌劇「ポーギーとベス」全曲
 マゼール/クリーヴランド管弦楽団
 デッカ 1975年 F90L-50212/4
F90L-502124

先日、ワレリー・ゲルギエフがロンドン交響楽団を指揮したバルトークの歌劇「青ひげ公の城」全曲盤の新譜についての感想を掲載したのですが、そこでは外題役の青ひげ公にウィラード・ホワイトが配されていました。

その名前を目にして私の頭に浮かんできたのが、このマゼール/クリーヴランドの「ポーギーとベス」でした。ここでウィラード・ホワイトはポーギーを歌っているのですが、ちょうど彼がオペラ劇場にデビューした頃の録音で、これが「ポーギー歌い」としてのキャリアを築く契機ともなったと記憶しています。

久しぶりに、このマゼールの「ポーギーとベス」を、昨日と今日の両夜でひととおり聴いてみました。

これは言うまでもなくガーシュウィンの「ポーギーとベス」の古典的名盤として名高い録音で、同オペラ初の完全全曲盤、つまりノーカット・レコーディング・ディスクとされているものです。「黒人以外の歌手に歌わせてはならない」というガーシュウィンの指示に従い、歌唱陣はすべて黒人歌手で占められています。また、これがクリーヴランド管としての史上初のオペラ全曲録音となるものです。

この録音に際してロリン・マゼールは、「ポーギーとベス」をジャズでもミュージカルでもオペレッタでもなく、あくまでオペラとして録音する、という決意表明を行っていますが、その言葉の通り、演奏内容としても従来までのブロードウェイ風なムードを極力排そうというような、「本格派」の演奏という感じがするものです。音質も上々で、少しステレオ的プレゼンスが強調され過ぎている感もあるものの、デッカならではの鮮明度の高い音質水準は21世紀の現在においてもそれほど古さを感じません。

とはいえ、ノーカット・レコーディングとしたことに関しては、その歴史的意義は別として、聴いていて少し冗長感が先立つような印象も、正直受けます。特に第1幕がそうで、中盤で登場人物がクラップゲームに興じるシーンが長くてちょっともたれますし、終盤でクラウンがロビンズを殺害するシーンはかなり盛り上がるのですが、そこまでが長いですね。

そういう意味では、このオペラは第2幕に最も魅力を感じます。同幕第3場までのほのぼのとした空気はジャズ・オペラ特有の良さが充溢していますし、それがクラウンの唐突な出現を境に激変するあたりのメリハリもいいですし、第2幕第4場の緊張感にも素晴らしいものがあります。もちろん、第3幕のポーギーによるクラウン殺害場面にも圧倒させられます。

歌唱陣に関しては、演技力という点ではポーギー役のウィラード・ホワイト、そして歌という点では有名な「サマー・タイム」を歌うクララ役バーバラ・ヘンドリックスが秀逸です。両歌手ともにオペラ劇場にデビューした頃の録音なのに、良くこれだけ歌えるものだなと、改めて感心させられました。

ヴェネチアの復刻によるゴロワノフ/モスクワ放送響の名演集


ゴロワノフ&モスクワ放送響の録音集成盤
 ゴロワノフ/モスクワ放送交響楽団
 ヴェネチア 1948~53年ライヴ CDVE00008
CDVE00008

これは今月リリースされた、ニコライ・ゴロワノフの指揮によるモスクワ放送交響楽団のライヴ録音集で、以下の6曲がCD3枚に収録されています。

①チャイコフスキー 「1812年」序曲
②同 交響曲第6番「悲愴」
③スクリャービン 交響曲第1番
④ボロディン 交響曲第2番
⑤ムソルグスキー 交響詩「禿山の一夜」
⑥同 組曲「展覧会の絵」

ニコライ・ゴロワノフは1891年にモスクワに生まれ、主にスターリン時代に活躍した旧ソ連の指揮者で、モスクワ放送交響楽団の首席指揮者を1937年から亡くなる53年まで務めており、今回のライヴ集に収録されている演奏はいずれもその最晩年の時期のライヴになります。

とかく「怪演奇演系」の指揮者として論ぜられることが多いゴロワノフですが、その最晩年のライヴが、高音質な復刻レーベルのヴェネチアからまとまって出るというので期待して購入してみました。

それで先週末から今日にかけて、ひと通り聴いてみたのですが、6曲すべてが音響的に振り切れたような重厚・濃密を極めるアンサンブル展開となっていて、聴いていて圧倒されっぱなしという状態でした。重量感に満ちた弦奏といい、強烈な色彩感を帯びた木管パートといい、濃厚にしてパワフルな響きの金管パートといい、そのアンサンブル・バランスはソ連的というよりむしろロシア的という言葉がピッタリなのですが、とにかくその原色感むきだしのワイルドな音響感においては、聴いていて何か原始的な響きの凄味が迫ってくるようなものすごさがあり、この独特を極めるアンサンブル特性だけで、おそらく十分に興奮させられるのではないか、そんな気がします。

「おそらく」というのは、上記のような特異なアンサンブル特性さえも場合によっては霞ませてしまうほどの、ゴロワノフの常軌を逸したような指揮運用が激烈なインパクトを叩きつけているからです。

それが最も顕著に発現されているのは、やはり②のチャイコフスキー「悲愴」ということになると思います。1948年に録音されたこのライヴは、従来からゴロワノフの代名詞のような演奏であり、かつてBOHEME-MUSICから出ていたものと同一ですが、音質的には今回のヴェネチア盤の方がひとまわり良好な感じがします。

この「悲愴」は、第1楽章の(2:15)からの第1テーマに聴かれる、2小節ごとにアダージョとアレグロが唐突に入れ替わるという突拍子もないテンポ変化からしてあぜんとさせられるものですが、続く(4:55)からの第2テーマでの猛烈なリテヌート(ほとんどルバートに近い)といい、(10:22)からの展開部の冒頭から揺れに揺れるテンポといい、いずれも造型的には珍妙を極めているとしか言いようがなく、したがって、このゴロワノフの「悲愴」が空前絶後の怪演であるということの論拠として、よく指摘されたりもします。

確かに造型的には珍妙で、そういう意味では怪演的な要素も多分に保有する演奏には違いないのですが、ただ、そう言い切ってしまうのはどうも躊躇してしまう、というのがこの演奏に対する私の率直な印象です。例えば(14:17)あたりのクライマックスなどを聴く限り、アンサンブルとしては全身全霊としか聴きようがなく、とても奇を衒うだけの演奏とは思えないからです。つまり、演奏としては迫真に満ちているのに、造型的にはおよそ迫真とはかけ離れている、という不思議さがこの「悲愴」にはあり、そのアンバランスさが私にはどうにも不可解で、どうも、一筋縄ではいかない演奏だと思います。

第2楽章以降においても、聴いていてビックリするようなアゴーギグが随所に顔を出し、面喰らってしまいますし、デュナーミクにおいてもかなり珍妙です。とくに第3楽章のコーダ、第334小節(7:38)で、スコア上はfffのところをいきなりピアニッシモまで落とし、そこから猛烈なクレッシェンドを仕掛けて最強奏で締めくくる大芝居などは、聴いていて呆気にとられる思いです。

終楽章も、スローテンポから切々と奏でられる金管のフォルテ・コラール、中盤での気の狂ったようなアッチェレランドと、とにかく常軌を逸したような音楽の気配が充満しています。やはり一筋縄ではいかない感じなのですが、少なくともここには怪演の二文字で安易に片づけられない深いものが、底流に流れているような印象が聴いていて離れませんでした。

「空想の音楽会」全巻の感想を掲載(ブログ開設1周年特別企画)


当ブログ開設1周年の特別企画としまして、エラートの「空想の音楽会」全30巻の感想記を別館の方に掲載しました。

「空想の音楽会」というのは、かつてエラート・レーベルからリリースされていたシリーズであり、そこではヨーロッパの著名な城や宮殿、あるいは大聖堂などにおいて開催されたであろう演奏会を、仮想的なプログラムに基づいて再現するという、斬新なコンセプトが売りものでした。

この「空想の音楽会」シリーズは今でも私の愛聴盤であるとともに、かつては古楽の分野への興味を私に開いてくれた、掛け替えのないシリーズなのですが、残念ながら現在は廃盤となって長らくという状態にあります。

しかし前述の斬新なコンセプト自体、率直にワクワクさせられますし、演奏自体の水準としても、21世紀の現在耳にしても十二分に傾聴に値するものだと思います。

おそらく復刻リリースは難しいと思われますが、その期待も込めて、ここに全30巻の感想記を掲載する次第です。

また、この機会に別館の構成や内容にもかなり手を加えました。

きのう書いたところの、当ブログ開設以前の過去数年分の感想メモを、今後は「ひとりごと編」として別館の方に随時追加していくようにしたいと考えていますので、そちらの方も宜しければ御覧頂ければと思います。

おかげさまでブログ開設1周年


本日で、このブログを開設してから、ちょうど1年になります。

CDを聴き、その感想を書く、というようなことを私はこの数年間にわたり続けているのですが、それをネット上に、ほぼリアルタイムで公開しているのが当ブログの内容になります。

もともとは単純に個人的な忘備録として、もしくは本を読んで読書感想をノートにつけるのに近い感覚で続けていたものです。

そもそも開設当初は、それまでにメモってきた過去数年分の感想記をなかば機械的に掲載していく予定だったのですが、それだとどうもつまらなくて、やはりブログというのは日々の生活の営みに密接したことがらを扱った方が、メディアとしての色彩にマッチするとの思いから、途中で方針を転換し、文体を変えたりして、現在のような日々聴いたCDの感想を掲載するというスタイルに落ち着きました。

本来なら開設後に聴いたCDすべてをブログで取り上げたいところですが、それは時間的にも無理なので、ある程度は選んで取り上げています。やはりCDを何枚も聴いていると、ピンと来ない演奏や、どうにも取りつく島もない演奏というのも中にはあるので、そういうのは避けて、自分なりの明確な感想が組み立てられるものを優先的にセレクトするようにしています。

まあ基本的には、あまり時間をかけずに聴いて感じたことを素直に書く、という方針でマイペースで1年やり、それで一定の更新頻度を保ちつつ何とかやってこれたので、この調子で今後もやりたいと思う次第です。

ただ、ここまでクラシック音楽の感想、ほぼ一辺倒でやってきているのですが、もう少し広がりを持たせられないかと、ちょっと考えている今日このごろです。

サイトの宣伝の方はかなりサボっていて、外部リンクなどもまだ5本以下のはずですが、開設1年で2万を超すアクセスを頂いて恐悦のいたりです。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管によるショスタコーヴィチの交響曲第1番と第15番


ショスタコーヴィチ 交響曲第1番、第15番
 ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管弦楽団
 Mariinsky 2008年ライヴ MAR0502
MAR0502

先月リリースされた、ワレリー・ゲルギエフが手兵・マリインスキー歌劇場管弦楽団を指揮したショスタコーヴィチの交響曲第1番と第15番の新譜を聴きました。

ゲルギエフとマリインスキー管はショスタコーヴィチの交響曲の4番から9番までを、これまでフィリップス・レーベルからリリースしてきていたのですが、今回はマリインスキー歌劇場の自主制作レーベルからリリースされています。

まず交響曲第1番ですが、最初、第1楽章を聴き終えて、ゲルギエフにしてはちょっと穏健かなという印象が残ったのですが、楽章が進むにつれて尻上がりに良くなり、ことに終楽章は抜群でした。

第1楽章は全体にいまひとつ調子が乗っていない風でもあり、冒頭の木管ソロはややあっけらかんとして表情に冴えがにぶく、(5:38)あたりのトッティのエネルギーや(7:35)あたりの打楽器の量感なども、ゲルギエフにしてはどこか手ぬるい、そんな感覚を聴いていて拭えませんでした。

続く第2楽章も序盤までは表情がどうも煮え切らない感じでしたが、ピアノ・ソロが入ってくるあたりからアンサンブルに精彩が徐々に増していき、ことに終盤の破壊的な全強奏からピアノの最強打につながるあたりの激烈感においては、ああようやく、いつもの「ゲルギエフのショスタコーヴィチ」を耳に出来たと、聴いていて安堵する思いでした。

第3楽章はこのコンビならではの、バス・パートの重く逞しい音響的な重量性が、そのまま音楽的な重量性に転換させられたような、実にへヴィーで抜き差しならない聴きごたえに満ちていますし、そこから連続する終楽章においては、この若きショスタコーヴィチの作品に内在する凶暴を極めた情動の揺籃が、ゲルギエフの破壊的なエネルギーを満たした熾烈なアンサンブル展開によって強く抉りだされていて、その表現力に聴いていて圧倒させられ、そして聴き終えて心が沸き立つ思いでした。

続く交響曲第15番ですが、こちらは交響曲第1番と違って、第1楽章から演奏がパリッとしています。第1楽章冒頭のフルート・ソロからして表情が強いですし、中盤でのウィリアム・テルのテーマを中心に展開されるダイナミクスの唐突的な奇異の刻印といい、終盤のクライマックスの音響の張り具合といい、いずれも見事で傾聴させられます。第2楽章は交響曲第1番の第3楽章と同様に、音響的な重量を音楽の重量として聴かせるという風の、オーケストラの重みのある陰影が印象深く、そして(9:29)あたりの破滅的な色彩を帯びた最強奏の凄味には震えがくるほどでした。

第3楽章も相変わらず集中力に満ちたアンサンブル展開から、音楽のグロテスクな佇まいがまざまざと披歴されていて間然としませんし、終楽章においては、パッサカリアが進むにつれて、次第に空間がジワジワとねじれていくような音響の吸引力に聴いていてゾッとするものがあり、この音響的なエネルギーのひずみが、(8:44)からのパッサカリア主題最強奏シーンで一挙に爆発するときのインパクトも、空恐ろしい感触に満ちていて、これでこそ、この曲を聴く醍醐味という感じがします。全曲を聴き終えて、すこぶる深い余韻の残る演奏でした。

なお、音質については、SACDハイブリッド仕様ゆえの臨場感の豊かさにおいて、これまでのフィリップスのものよりも秀逸と感じましたが、ボリュームレベルが若干低めに録られているようで、それなりのハイ・ボリュームで聴かないとこの演奏の醍醐味は上手く感得できないかも知れません。

今回のゲルギエフ/マリインスキーのショスタコーヴィチの新譜は、前回のフィリップスからのリリースより若干ブランクが空いたこともあって、ちょっと不安だったのですが、聴いてみると以前のゲルギエフのショスタコーヴィチで耳にした音響的な充実感がきちんと継承されていて安心しました。リリースの継続がやや心配ですが、あと残りの、少なくとも10番から14番までの5作品は何とか出てくれることを祈ります。

モザイク四重奏団によるハイドンの「第2トスト」弦楽四重奏曲集


ハイドン 弦楽四重奏曲集「第2トスト」「エルデーディ」「ロプコヴィツ」
 モザイク四重奏団
 Naive 1989~2002年 E8924
E8924

今年はちょうどハイドン没後200年ということで、交響曲を中心にハイドンの各種CDがかなり活発にリリースされていて賑やかですね。

私も春先にドラティの交響曲全集を思い切って購入し、聴き進めているところですが、ハイドンといえば、また弦楽四重奏曲のジャンルにおいても交響曲に負けず劣らずの功績があり、やはり今年あたり、その全集を含め、かなり多くのディスクを見かけるようになりました。

しかし、全68曲にも及ぶハイドンの弦楽四重奏曲においそれと手を出すには時間的にちょっと難しく、さすがに買いあぐねていました。

そんな時にCDショップで見かけたのが、このモザイク四重奏団のボックス・セットです。CD5枚組の廉価ボックスで、作品64の第2トスト四重奏曲集の6曲、作品76のエルデーディ四重奏曲集の6曲、作品77のロプコヴィツ四重奏曲集の2曲に作品103の未完の四重奏曲を加えた計15曲が収録されています。

これくらいなら時間的に十分聴けるな、と思って購入しました。

これはボックス・セットといっても、過去に単独でリリースされたパッケージが一つのボックスに詰め込まれたもので、それぞれのブックレットもそのまま含まれています。
E8924-2

さて、ハイドンの弦楽四重奏曲では最も人気が高いのが作品76のエルデーディ四重奏曲集で、それに次いでは作品71・74のアポーニー四重奏曲集あたりかと思われますが、作品64の第2トスト四重奏曲集あたりになるとポピュラリティもグッと落ちる感があり、私も正直あまり馴染みのない作品集です。

とりあえず、その「第2トスト」をひととおり聴いてみました。印象としては、6曲のうち唯一ニックネームをもつ第5番「ひばり」、唯一の短調曲の第2番、おそらく最高傑作の第6番、この3曲はそれぞれに味のある名品で、さらに第3番も面白い曲だと感じました。これら4曲に比べると第1番と第4番は、ちょっと地味で、やや物足りないですね。

ということで、まだ「第2トスト」の2枚しか聴いていないのですが、モザイク四重奏団の演奏はかなりいい感じですし、残る「エルデーディ」と「ロプコヴィツ」についても、また時間をみつけて聴いてみたいと思います。

ヨッフム/フランス国立管によるブラームス交響曲第1番の82年ライヴ


ブラームス 交響曲第1番&ワーグナー トリスタンとイゾルデより「前奏曲と愛の死」&ブルックナー 交響曲第7番
 ヨッフム/フランス国立管弦楽団
 INA 1982年ライヴ(ブラームス)、80年ライヴ(ワーグナー、ブルックナー) IMV033
IMV033

先日、オイゲン・ヨッフムがベルリン・ドイツ交響楽団を指揮したブラームスの交響曲第1番(1981年のライヴ録音)について感想を掲載しました。

それを掲載してから思い出したのですが、その録音とほぼ同じ時期、ヨッフムは同じブラームスの1番に、極めつきともいうべきライヴ盤を残していことを迂闊にも失念していました。今日は、それについて書きたいと思います。

このブラームスの1番は1982年5月におけるフランス国立管弦楽団を指揮してのコンサートのライヴで、当時の放送音源がかなり良好なステレオ音質でディスク化されています。併録はワーグナーのトリスタンとイゾルデより「前奏曲と愛の死」と、ブルックナーの交響曲第7番で、こちらはともに1980年2月のライヴです。

実はこのCD、もともとブルックナーの交響曲第7番を目当てに購入したものです。ちょうどヨッフムが例のドレスデン・シュターツカペレとのブルックナー全集を録り終えた頃のライヴで、名演が期待できると踏んだのですが、いざ聴いてみると意外に振るわなくて、ちょっとがっかりでした。というのも、オーケストラが明らかにブルックナーに不慣れで、共感に乏しいからで、残念ながらヨッフムのブルックナーとしては全体にいまひとつの水準に落ち着いている感じが否めないところです。

しかしながら、このディスクの真の聴きものは、実はブラームスの方でした。最初に耳にした時、これがフランスのオーケストラによるブラームスとは俄かに信じられないくらいでしたが、今日、久しぶりに聴いてみて、その神憑り的な演奏内容とも言うべきヨッフム会心のブラームスに、やはり圧倒させられました。

第1楽章冒頭から思わず仰け反るような凄味のある強奏展開が呈示され、主部以降も、どっしりと揺るぎない安定感を保持するテンポを基調に、あたりを払うかのような音楽の比類無いほどの威容にひたすら圧倒される思いです。ことに弦合奏の発するぎっしりとした音響密度、そのフレージングの豪胆さ、ヴァイオリン・パートを中核とする高声の常軌を逸した鳴りっぷり。トランペットを中心に金管パートもここぞという時に凄まじい咆哮を巻き上げ、特に第1楽章再現部突入時の(9:52)でのトランペットの最強奏などは、ベルリン・ドイツ響でのライヴでも凄かったものですが、このフランス国立管とのライヴではそれをも凌ぐかというくらいに、振り切れています。

中間の2楽章も、もしこれをブラインドで聴かされたらフランスのオーケストラが演奏しているとは、まず看破できないと思えるほどにフランス色は希薄であり、平明な色彩感ながらも実に深みのある響きが充溢し、媚びの欠片もないフレージングの格調も含め、ヨッフム最晩年の境地が映されたような懐の深い演奏内容に、聴いていて心打たれる思いです。

終楽章は冒頭のティンパニの豪打からして途方もなく、主部以降の音楽の高揚力も尋常でなく、その堂々たる歩の進め方から展開される音響的緊迫感がまた素晴らしく、まさに聴いていて息の詰まるようなドラマに満ち、聴いていて鳥肌が立つほどですが、さらにコーダ(15:30)からの爆発的なアッチェレランドにおいては鳥肌どころか総毛立つくらいで、その振り切れた高揚力に叩きのめされ、聴き終えてしばらくグッタリしてしまうほどでした。

それにしても、先般のベルリン・ドイツ響とのブラームスに続いて、このフランス国立管とのブラームスを耳にし、最晩年のヨッフムはやはり相当のカリスマ性を備えた指揮者だったのだなということを改めて思い知らされました。このフランスの名門オーケストラのポテンシャルが、これほどまでに発揮し尽くされた演奏というのも滅多にあるものではないと思うのですが、オーケストラがドイツであろうと、フランスであろうと、アンサンブルを徹底的に自分の色に染め上げ、自分の意の通りの演奏を再現できるというのは、本当にすごいですね。

フンメルのピアノ協奏曲集とミサ曲集(シャンドス30周年BOX:CD12&13)


「シャンドス30周年BOX」収録盤の感想記の続きです。今回はCD12とCD13を聴きました。

ANNI-12
フンメル ピアノ協奏曲第2番、第3番
 ハフ(pf) トムソン/イギリス室内管弦楽団
 1986年録音

フンメルのピアノ協奏曲全7曲の中でも比較的知名度の高い2曲を収録したディスクで、演奏はピアノ・ソロがスティーヴン・ハフ、オーケストラがブライデン・トムソン指揮のイギリス室内管弦楽団です。

このうちロ短調のピアノ協奏曲第3番はフンメルの代表作として名高い作品ですが、私はどちらかというとイ短調のピアノ協奏曲の方により惹かれました。

このイ短調のピアノ協奏曲第2番は、後年ショパンが偏愛し、ショパン自身のピアノ協奏曲の曲想の根源にもなったとされる曲ですが、確かに聴いていると、ショパンのピアノ協奏曲を連想させるパッセージやムードが随所に見受けられます。

それでいて、フンメルの師であるモーツァルトのピアノ協奏曲を思わせる雰囲気も、同時に纏っている点が面白く、ある時はモーツァルト、ある時はショパン、そんな雰囲気が独特ですね。

ピアノ・ソロ、オーケストラともに好演で、特にショパンを思わせるテンポ・ルバートが音楽の流れに良くフィットしていて、いい感じです。

ANNI-13
フンメル ミサ曲ニ長調Op.111、同変ロ長調Op.77、オッフェルトリウム「恵み深き乙女」
 ヒコックス/コレギウム・ムジクム90
 2001年録音

前記のCD12に続いてのフンメル作品集で、こちらは宗教曲を収録したアルバムです。

ハイドンやモーツァルトに師事し、ベートーヴェンと同時代に活躍した作曲家ながら、交響曲をついに一曲も残さなかったフンメル、そのメインフィールドはまずピアノ音楽、次いで宗教音楽ということになるようです。

その宗教音楽の分野においては、5曲のミサ曲を中心として数々の業績が残されていますが、特に本ディスク収録の2曲のミサ曲を聴く限り、どこかモーツァルトのレクイエムの残照を帯びたような透明感のある美しい楽想が印象的なものでした。

演奏は昨年11月に心臓発作により享年60歳で急逝したリチャード・ヒコックスの指揮で、本ボックスにおいてはCD5のディーリアスCD7のグレインジャーに続いて三度めの登場です。

CD5のディーリアス同様、このフンメルでも亡きヒコックスの演奏手腕の卓抜ぶりがよく発揮された名演奏だと思います。古楽器アンサンブルに拠りながら、古楽器風アプローチ特有の強烈感を押し出すというより、むしろこの一連のミサ曲の透明感を大切に音化されたような雰囲気があり、その緻密かつ有機的な合唱のハーモニーともども聴いていて魅了させられました。

ヨッフム/ベルリン・ドイツ響によるブラームスの交響曲第1番


ブラームス 交響曲第1番
 ヨッフム/ベルリン・ドイツ交響楽団
 ヴァイトブリック 1981年ライヴ SSS0098
SSS0098

オイゲン・ヨッフムがベルリン・ドイツ交響楽団を指揮したブラームスの交響曲第1番のライヴ録音が新たにリリースされました。1981年6月、ベルリン・フィルハーモニーでのライヴ収録です。

ヨッフムの指揮によるブラームスの1番の録音には、スタジオ録音だけで3種類もありますが、その最後のものである、以下のロンドン・フィルとの録音は並々ならない名演でした。

TOCE13481
ブラームス 交響曲第1番
 ヨッフム/ロンドン・フィル
 EMIクラシックス 1976年 TOCE13481

今回の新譜は、その5年後のライヴで、同じように名演が期待できるとの思いから購入してみました。

聴いてみると、第1楽章冒頭部からアンサンブルの充実感が素晴らしく、ティンパニの刻む強打音などロンドン・フィル盤と比べても明らかに冴えがありますし、(2:33)あたりの最強奏などは音響的に振り切れた感じがして凄いと思いました。

主部以降も屈強な構成感を印象づけるテンポをベースに、響きのぎっしりとした密度感と凝縮力が超一級ですが、聴いていて何より嬉しかったのは、ロンドン・フィルとのスタジオ盤において物足りないと感じた、バスの充実感が十分に引き立っていることで、これにより言わば鬼に金棒というのか、とにかく真にドイツ的な迫力感に満たされたブラームスが披歴されていて聴き惚れるばかりです。

中間の2つの楽章も、木管の音色の冴え、バスのコク、アンサンブルの味の濃さ、いずれもロンドン・フィルとのスタジオ盤をさらに一歩凌いだ地点で高度なまとまりを呈していて、本当にドイツ的な音楽の味わいというか、何の奇も衒わない、オーソドックスなアプローチなのに、音楽が聴いていて体内にグングン浸み込んでくるような、そんな感じが聴いていて新鮮でした。

終楽章も圧巻というべきで、ここではヨッフムの棒のもと、さらに一段と充実の度を増したアンサンブルの鳴動力が、実に峻厳な表情のブラームスを形成させていて惹き込まれました。多少フレージングのミスが耳につくところもありますが、テンポの緩急に拠らずにずっしりと厚ぼったいハーモニーの充実感には聴いていて惚れぼれしますし、ことにコーダなど、どんなにテンポが速まってもアンサンブルが薄く流れることがなく、全体を通してヨッフムの強力なオーケストラ統制力が、純粋な音楽の迫力そのものを、圧倒的な説得力を持って音化せしめていて、聴き終えて充実し切った余韻の残る、そんな演奏でした。

ロンドン・フィル盤との対比にも少し触れますと、今回の新譜はライヴの一発録りゆえに、ところどころにミスが聴かれ、少なくとも完成度という観点ではロンドン・フィル盤には及ばないと思います。とくに第3楽章の第50小節(1:16)で、高声(木管)とバス(低弦)の線が一拍ずれているのが気になり、最初はヨッフムの解釈なのかなとも思ったのですが、同じところをロンドン・フィル盤で聴くと全然ずれていないので、やはりミスのようですね。

逆にロンドン・フィル盤より明らかにアドヴァンテージと思われるところは、オーケストラ自体の特性を別とすると、やはりライヴならでは燃焼感に溢れた演奏展開ということになると思います。例えば第1楽章の再現部突入場面、(9:50)からトッティを突き抜けて響き渡るトランペットの壮観なこと、ロンドン・フィル盤を大きく凌駕していますし、ティンパニの強打音なども今回のライヴの方が明らかにパリッとしていて、ことに終楽章での音楽の高揚力に大きく拍車を掛ける役割を果たしていたりなど、聴き比べてみて総合的にロンドン・フィル盤よりも一歩深い感銘を覚えるものでした。

以上、このベルリン・ドイツ響とのライヴは、細かい傷はあるにしても、その内容的充実度において、ヨッフムとしてもおそらく会心のブラームスではないかと思われますし、また今日ではもう滅多に聴けないような、ドイツ本場の雰囲気を満面にたたえたブラームスを堪能できた点でも、大満足の一枚でした。

ゲルギエフ/ロンドン響によるバルトークの歌劇「青ひげ公の城」全曲


バルトーク 歌劇「青ひげ公の城」全曲
 ゲルギエフ/ロンドン交響楽団
 LSO-Live  2009年ライヴ LSO0685
LSO0685

ワレリー・ゲルギエフが手兵・ロンドン交響楽団を指揮したバルトークの歌劇「青ひげ公の城」全曲盤が先月リリースされました。2009年1月、ロンドン・バービカンホールでの演奏会形式での上演のライヴ収録で、青ひげ公役にはウィラード・ホワイト、ユーディト役にはエレーナ・ジドコワがそれぞれ配されています。

これはゲルギエフがロンドン響のポストに就任して初のオペラ録音のリリースで、またゲルギエフによるバルトーク作品の録音もこれが初めてのはずですし、興味をそそられる要素が豊富ですので、購入して今日、聴いてみました。

ひと通り聴いた感想ですが、、、「どうも、いまひとつ」というのが率直なところです。

こと二人の歌手に関しては素晴らしい歌唱を全編に披歴していて惹き込まれましたが、肝心のオーケストラ展開において、聴いていてどうも生ぬるいような感が否めず、その印象を最後まで払拭することができませんでした。

ここでのゲルギエフは、確かにロンドン響の大編成のアンサンブルから分厚いハーモニーを繰り出し、ダイナミックにしてスケールの豊かなアンサンブル展開を成し遂げていますが、それでいて個々のパッセージにも揺るぎない安定感があり、各奏者の卓越した技量が伺えると同時に、ゲルギエフの細部に対する目配せの程も良く伺えるもので、SACDの空間性に富んだ音質のもたらす臨場感も含め、完成度と音響的スケールに関してはそれこそ瞠目に値するようなレベルの演奏であることは間違いないと思います。

それでは何が物足りないのかという話になりますが、それは端的に言えば、このバルトークのオペラ作品に内在する、ある種の猟奇性ということになると思います。

このバルトークのオペラは、聴いていてゾッとするような聴感を伴う場面に事欠かず、それがこの作品の代えがたい魅力と私は捉えているのですが、このゲルギエフの演奏では、確かに聴いていて凄い迫力だなと感じる場面は多くても、その迫力が狂的なところまで伸びなくて、例えば以下のブーレーズの全曲盤において耳にするような、聴いていて血の匂いさえも漂ってくるようなリアルな猟奇性からすると、かなり物足りない感じがしてしまうのも事実でした。

CSCR8105
バルトーク 歌劇「青ひげ公の城」全曲
 ブーレーズ/BBC交響楽団
 ソニー・クラシカル  1976年 CSCR8105

まず最初の「プロローグ」のくだりですが、このゲルギエフ盤の(6:13)から管に出る「血の動機」のパッセージはあまりにサラッとしていて血の感触が希薄です。ブーレーズ盤の第3トラック(1:28)からの同じ場面と聴き比べてみれば、その表情の差がかなり明瞭に感じ取れます。

その少しあと、ユーディトが青ひげへの情熱を激しいトーンで歌う(8:45)からのくだりにおいても、オーケストラの強奏展開にいまひとつ緊迫感が伴わず、それこそ表面的に青ひげへの情熱を歌っているように聴こえてしまうのが気になりました。というのも、ここはブーレーズ盤で聴くと、内心は恐怖ではち切れんばかりのユーディトの心理状態が実に生々しく、まさに非情なまでの生々しさで、情け容赦なく抉りだされているからです。

「第1の部屋」(拷問部屋)冒頭の、弦のトレモロ強奏と木管のトリルが織り成す響きにも猟奇感がいまひとつ弱く、「第2の部屋」(武器庫)や「第3の部屋」(宝物庫)、そして「第4の部屋」(花園)に聴かれる管楽器を中心とした音彩の冴え、音響描写の鮮やかさはさすがと思わせるものですが、各部屋で、武器、宝物、花園がいずれも血塗られていることにユーディトが気付くあたりでの音響的などきつさ、ショック感のようなものが大人しくて、やはり物足りなさを感じます。

次の「第5の部屋」冒頭でフル・オーケストラが奏でる燦然たる響きなどは実に素晴らしく、ここはブーレーズ盤を凌いで、聴き惚れるばかりです。しかし、オペラ全体のクライマックスともいうべき、ユーディトが「第6の部屋」の(10:55)で最後の第7の部屋の扉を開けるように青ひげに嘆願する場面、ここが必ずしも十分な表出力をもって描き切られていないことが、聴いていて最も不満でした。

確かに全合奏の鳴りっぷりは良いのですが、その「鳴りっぷりが良い」という以上の、そこに行ってはいけない、つまり、ここからまさに禁断の領域に踏み込むというような(シナリオの話だけでなく、音響的な意味も含めて)何か常軌を逸したような気配が、ここに十分に伴っているかという観点においては、果たしてどうでしょうか。

全体を聴き終えて思ったことですが、もしかゲルギエフ自身、このバルトークの作品に対する距離感を掴みかねているようなところがあるのではないか、そうでなければ意識的に距離を置いて、半ば突き放したような表現に徹しようとしたのではないかと、どうもそんな気がします。少なくとも、ブーレーズのような冷厳たる客観演奏の放つ透徹的な凄味をここに聴くことは、ちょっと難しいのではないかと思いました。

以上、このゲルギエフ/ロンドン響の「青ひげ公の城」は、私としては必ずしも満足の行く内容ではなかったのですが、それでも完成度、音響的スケールに関しては瞠目に値するようなレベルの演奏であることは間違いないですし、音質の良さも特筆的です。

そもそも問題なのは私の聴き方のほうであって、むしろここではオペラの心理劇の領域に深く立ち入らず、純粋にシンフォニックな醍醐味を堪能するという聴き方を取るべきなのかもしれないですね。

フルトヴェングラーRIASレコーディングス(ベートーヴェン「英雄」52年ライヴ)


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 アウディーテ 1952年ライヴ AU21403
AU21403

先般購入した「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」に関して、今回は9枚目のCDに収録されている、1952年12月8日のベートーヴェン交響曲第3番「英雄」のライヴ演奏につき音質を比べてみました。

音質の比較盤ですが、以下のターラ盤になります。
FURT2002
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 ターラ 1952年ライヴ FURT2002-2004

このターラ盤と今回リリースのアウディーテ盤とで聴き比べてみたのですが、これがかなり微妙で、一概にどちらが上とは決めかねるくらいでした。

まず、双方ともおそらく同一のマスターテープからの復刻ではないかと思うのですが、両レーベルにおけるリマスタリングのポリシーにおいてかなり明確な違いが出ています。

アウディーテ盤は、ノイズリダクションを積極的に行い、聴き易さを追及すると同時に、リマスタリングに伴うソノリティの実在的感触の目減りをギリギリまで抑制したような印象があり、演奏の臨場的迫力が素晴らしいレベルであると同時に、アンサンブルの克明な浮き出しぶり、つまり情報量という点でも驚異的な水準にあります。

対してターラ盤はというと、アウディーテ盤とは逆に、ノイズリダクションを出来るだけ行わず、聴き易さよりもソノリティ自体の実在感を最大限に尊重したような方向性が感じられ、それだけに、こと情報量という観点ではやや遜色するかわりに、こと演奏自体の純粋な音響的迫力においては圧倒的なものが感じられます。

私が聴いて、より直観的に興奮させられるのはターラ盤の方です。まず第1楽章冒頭の例の強和音のところからして、ターラ盤の方がアウディーテ盤よりも明らかに高迫力にしてマッシブな感触に満ちていて、続く主題部での低弦のリアルな感触、高弦の艶なども、やはりターラ盤の方が音楽としての生々しさ、実在感に一歩優位するように思われます。

しかし、前述のように、このアウディーテ盤の音質水準もあまりにも高くて、そういう聴いていて興奮するかとかいう視点より、もしかすると、このアウディーテ盤の方が、このフルトヴェングラーの「英雄」の真の姿ではないのかと、そんな気がしてしまいます。

総じてアウディーテ盤の方が音響的な臨場感がひとまわり豊かで、聴いていてライヴであるという実感が、ターラ盤よりも強く湧いてくる感じがしますし、ノイズレベルの低く、克明感の高いソノリティによるトータルな演奏の迫力において驚異的な水準にあると思います。

そういうわけで、このクラスになるともう、一概にどちらが上とか言うのはおそらく無理なような気もします。

それにしても、このフルトヴェングラー/ベルリン・フィルの52年ライヴの「英雄」は、ひとむかし前まで全く冴えない音質だったのですが、それがこれほどにまで改善されるとは!

フルトヴェングラーの録音は、演奏は最高だけど音質がひどくて、、という時代はもう過去のものになりつつあるのかも知れないですね。

ハーティのアイルランド交響曲&ホルストの惑星(シャンドス30周年BOX:CD10&11)


かなり間隔が開いてしまいましたが、「シャンドス30周年BOX」収録盤の感想記の続きです。今回はCD10とCD11を聴きました。

ANNI-10
ハーティ アイルランド交響曲、コメディ序曲
 トムソン/アルスター管弦楽団
 1980・83年録音

ハミルトン・ハーティの代表作である1904年作曲のアイルランド交響曲にコメディ序曲が併録されたアルバムです。

ここでのブライデン・トムソン/アルスター管の演奏は素晴らしく、ことにアイルランド交響曲は全曲を聴き終えて実に深々と充実した余韻の残るものでした。

第1楽章冒頭のホルンからして実に気持ちいい鳴りっぷりで、続く弦の第1テーマの清冽なメロディの流れといい、もうこの時点で演奏に強力に惹きつけられましたし、(2:39)からのクラリネットの第2テーマのメロディの得も言われぬ美しさ、そして展開部以降の雄大な起伏形成など、とにかくアンサンブルの響きが冴え渡っていて、聴いていて心洗われるような音楽の美彩がコーダまで充溢しています。

以降の楽章においても、このハーティの交響曲の、アイルランド民謡をベースとする親しみ易い旋律構成の魅力と、そこから導出されるアイルランドの雄大な自然を連想させる楽想のニュアンスとが、実に共感豊かに、そして大いなる管弦楽的雄弁性をもって表現されていて、聴いていてこの交響曲の傑作性をまざまざと感得させられる思いでした。

現状、このハーティのアイルランド交響曲は録音自体が少ないですが、このトムソン/アルスター管の録音は、おそらくこの作品の決定的名盤と言い切ってもいいのではないでしょうか。

ANNI-11
ホルスト 惑星
 ギブソン/ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団
 1979年録音

シャンドスレーベル初のデジタル録音とされるものですが、音質的にはトッティでのソノリティがやや厚みに欠ける嫌いがあり、例えば上記トムソン/アルスター管のハーティなどよりは臨場感が少し落ちる印象も受けました。

演奏ですが、この曲としては至極オーソドックスなアプローチで、聴いていて何らかの新鮮味を喚起させられるような斬新なファクターは希薄としても、ギブソンの指揮は正攻法のスタイルからオーケストラを爽快に鳴らした切れ味鋭いもので、スコティッシュ・ナショナル管のアンサンブルの感度良いレスポンスも好感的です。

弱奏時のアンサンブルのきめ細やかさや音色の立ち具合が総じて秀逸なこともあり、印象的には火星・木星・天王星といった強奏主体の曲よりも水星・金星・土星・海王星といった弱音比率の高い曲の方に聴いていて魅了される部分が多いと感じました。

ルイージ/ドレスデン・シュターツカペレによるモーツァルトの歌劇「イドメネオ」全曲


モーツァルト 歌劇「イドメネオ」全曲(R.シュトラウス版)
 ルイージ/ドレスデン・シュターツカペレ
 オルフェオ 2006年ライヴ ORFEOR701072
ORFEOR701072

確か、ひと月ほど前だったと思いますが、現ドレスデン国立歌劇場の音楽総監督であるファビオ・ルイージが、2012年のシーズンからチューリヒ歌劇場の音楽総監督に転任するというニュースが報じられました。

なにしろオペラ劇場としては名門中の名門であるドレスデン歌劇場を辞してチューリヒ歌劇場へ転身というので、ちょっと意外というか不可解な印象を覚えたのですが、もしか保守的なドレスデンよりは急進的なチューリヒの方が自分の個性に適していて、本当にやりたいことが出来るなど、そういう判断があったのかも知れないですね。

ところでルイージ/ドレスデンの録音はこれまでソニーからいくつかリリースされていて、そのうちのひとつ、ブルックナー9番については当ブログで以前に感想を掲載していますが、ソニー・レーベルの音質は往々にしてリマスタリングでの作為が行き過ぎて不自然な音場感に帰着する傾向があり、私の印象としても、少なくともルイージの形成する音響表情のメリハリを感得するには適していても、ルイージ体制下の有りのままのドレスデン・サウンドの実情を、必ずしも的確に捕捉していないのではないかと感じていました。

そこで登場するのが2006年ザルツブルク音楽祭でのライヴ収録である、このモーツァルトの歌劇「イドメネオ」全曲盤なのですが、このディスクは、もともとR.シュトラウス編曲版というあたりの珍しさに惹かれて購入したものでした。それが聴いてみると、版云々よりもむしろオーケストラの奏でる音響的な味わいの方にグッと惹きつけられました。

最初の序曲冒頭に聴かれる表現力に富んだ強和音、そして高速テンポで導出される第1テーマを奏でる弦合奏の、押し出しのある響きと迫力。(1:06)からの第2テーマではイ短調へと揺れるハーモニーの素晴らしいコントラストが聴かれますし、以降もそのアンサンブル展開においては、ハイ・テンポを主体としながらも安心して聴ける盤石の安定感と、充実したドレスデン・サウンドの醍醐味が充溢して聴き惚れるばかりです。

本編以降も、全幕を通してオーケストラのオペラ演奏に対する高度な技術と演奏表現力が随所に息づき、リヒャルト編曲版であるがゆえの濃厚な味付けの音楽を、実に濃厚な音響展開をもって音化せしめていて傾聴させられます。第2幕中盤の間奏曲(3:10)あたりの高弦の嘆きの響きなどは特に迫真に満ちていて素晴らしいですし、さらに第3幕終盤のイドメネオ、イダマンテ、イリアの三重唱の場面に立ち込める、むせ返るような芳醇なオーケストラ・サウンドにおいては、それこそリヒャルトの「ばらの騎士」さえも彷彿とさせる雰囲気があり、それこそ陶然とした面持ちで聴き入っているうちに全編の幕を迎える、という感じになります。

もっとも、このルイージ/ドレスデンの「イドメネオ」全曲盤は、モーツァルト作品の本来の音響スケールからはかなり逸脱した、ある種の不自然さは否めないところでしょう。それでも、このオーケストラの保有する類まれなポテンシャルと音響美が相当に充溢する演奏内容であることは確かで、音質的にもソニー・レーベルのような人工臭が薄く、有りのままの響きという感じがしますし、少なくともルイージ体制下におけるドレスデン・サウンドの実像を感度良く伝達する稀少なCDではないかと、私には思われます。

山田一雄/札響によるベートーヴェン交響曲全集


ベートーヴェン 交響曲全集
 山田一雄(第1番のみ矢崎彦太郎)/札幌交響楽団
 タワーレコード 1989~91年ライヴ TWCO-1001/5
TWCO10015

タワーレコードから先月リリースされた山田一雄/札幌交響楽団のベートーヴェン交響曲全集を聴きました。

これはヤマカズの愛称で親しまれている巨匠・山田一雄が最晩年に札幌交響楽団と行った一連のベートーヴェン・チクルスの演奏会のライヴで、そこでは1989年4月の7番を皮切りに、91年5月の「第9」まで計8曲が演奏されたのですが、同年8月にヤマカズ氏が急逝されたため、あと一歩でチクルス完成には到りませんでした。

そして、その未収録の交響曲第1番はヤマカズ氏の愛弟子・矢崎彦太郎の代行により同年10月に演奏されました。そのライヴを含めることで、晴れて交響曲全集として完成しリリースされたものが本ディスクです。

まだ一枚目しか聴いていませんが、この最初の「英雄」が非常に素晴らしい演奏内容でした。

ところで、「“炎の巨匠”が最後に辿りついた魂のベートーヴェン!」というのがこのCDのオビに記載されているキャッチフレーズですが、このフレーズは変な先入観をもたらす怖れも多分にあるような気がします。

少なくとも、このヤマカズ氏の最晩年のベートーヴェンは、真っ赤に燃え上がるような灼熱の演奏というのではなくて、むしろ風格のある造型の格調や知的な構成感といった特徴が強く、それがアンサンブルの有機的な音響展開と結託し醸し出す音楽の色合いにおいて、聴いていて指揮者の人生の、その年輪の重みを感じさせるような独特の深い境地に到達したベートーヴェンではないかと、そんな風に私は感じました。

この「英雄」においては、全楽章とも必要以上な加速減速を抑制した、堅固な造形感に基づく正調のベートーヴェンが展開されているのですが、それでいて四面四角な硬直とも無縁な血の通った音楽の息づかいが聴いていて顕著なところが、まず印象的でした。粘るところはフレーズをリテヌートさせ、決めどころではフレージングに思い切った張りを与え、といった味付けが要所要所に為されているからですが、そういう味付けを、これ見よがしの誇張でなしに、むしろ音楽の表情の当然の帰結のように聴かせてしまうあたり、やはり並の指揮者ではないなと、聴いていて思わず感嘆させられました。

それもおそらくギリギリの抑制なのではないかと思います。感情に振り回されず厳しい自己抑制を常に怠らない真摯な演奏姿勢。だからこそ、そこから滲み出てくるものの重みに聴いていて素直に打たれる、というべきでしょうか。

実際このヤマカズ氏の「英雄」の後、続けて矢崎彦太郎氏の1番が収録されているのですが、続けて聴くと明らかに音楽の表情の造り方に違いが聴かれます。矢崎氏はヤマカズ氏よりもさらにカッチリした感じの端正な演奏ですが、ヤマカズ氏のそれと比べるとフレーズをリテヌートさせない角張ったベートーヴェンとなっていて、少なくともヤマカズ氏の演奏の後で耳にすると、聴いていてどこか型どおりといった印象が残ってしまいます。逆に言うとヤマカズ氏のベートーヴェンにはヤマカズ氏ならではの融通無碍なフォームが聴いていて見え隠れするのですが、そのあたり、おそらく氏が最後に辿りついた境地に由来し、かつ氏ならではの精神性を踏まえたような、なにか掛け替えのないもののように思えてなりません。

残りの7曲もじっくりと聴いてみたいと思います。

ビリー/バイエルン放送響によるプッチーニの歌劇「ボエーム」全曲


プッチーニ 歌劇「ボエーム」全曲
 ビリー/バイエルン放送交響楽団
 グラモフォン 2007年ライヴ 4776600
4776600

今日は、ベルトラン・ド・ビリーの指揮、バイエルン放送響の演奏によるプッチーニ「ボエーム」の全曲盤を聴いてみました。

これは昨年にリリースされたディスクですが、先月、都内のCDショップのセールでかなり安く売られていたのを購入したものです。

2007年4月のミュンヘン・ガスタイクでの公演のライヴ録りで、バイエルン放送局との共同制作による収録のようです。ミミ役に超人気ソプラノのアンナ・ネトレプコ、ロドルフォ役に現在売り出し中の若手テノール、ローランド・ヴィラゾン、そしてフランス人のベルトラン・ド・ビリーがドイツの名門シンフォニー・オーケストラを振っての演奏にして、ムゼッタ役ニコール・キャベル、マルチェロ役マリウス・キーチェンと、指揮・オケ・主要キャストにおいてとにかく「イタリア」が出てきません。まさか意図的にイタリア産を排除したというのでもないと思いますが、ちょっと意表を突かれたような気がしました。

それはさておき、この「ボエーム」というオペラですが、私はプッチーニの最高傑作ではないかと思っています。

出世作の「マノン・レスコー」、人気ナンバーワンの「トスカ」、日本が舞台ゆえに親しまれている「蝶々夫人」、絶筆の「トゥーランドット」、いずれも名作ですが、どれか一つを取るとすると、私の場合は「ボエーム」で、聴き終えた後の余韻の深さが、プッチーニの他作品とひき比べても一味違うように思われるからです。プッチーニの主要作の中ではドラマティックな要素は控えめで、そのあたりの抑制の効いた作風が却ってドラマを雄弁たらしめているような、絶妙な味わいのオペラ、そんな感じがします。

本ディスクですが、特に感心させられたのは音質です。眼前にステージが広がるような、抜群の臨場感。これはグラモフォンというよりバイエルン放送局の録音技術の賜物ではないかという気がしますが、いずれにしても、この音質の良さは多くの「ボエーム」全曲盤の中でもおそらく一頭地を抜く水準にあるように思います。

ベルトラン・ド・ビリーとバイエルン放送響のアンサンブル展開はすこぶる正攻法なものですが、このオペラならではの音響的な楽しさが聴いていて良く伝わってくるあたりは好感的で、特に第2幕などはおもちゃ箱をひっくり返したような雰囲気が良く出ていて楽しさの限りですね。

歌唱陣については、ネトレプコのミミは第1幕から早くも歌に暗いムードを匂わせていたり、全体にちょっと演技過剰で、しかもそれがいまひとつ真に迫らないような印象も残りました。声量やテクニックなどは文句無しという感じですが、肝心の情感表現においては、稀代の「ミミ歌い」たるテバルディ、フレーニあたりと比べて、いまひとつの物足りなさが否めませんでした。ネトレプコはその美貌も大きな武器とされますから、実演で聴くならまた印象も変わってくるような気もしますが、、

むしろ、ロドルフォ役のローランド・ヴィラゾンの方が情感表現に秀でていて、聴いていて魅了される場面が多々ありました。例えば第3幕でマルチェロに「もうこれ以上、この苦しみを隠しておけない」と言って本心を独白する場面など、それを境にそれまでの明るく陽気な振る舞いからムードをガラッと一変させ、痛切を極めたようなニュアンスを表出させていて、かなり真に迫っています。そのあたりの超演技的な歌唱表現力において、単に美声のテノールというに留まらないものを秘めているような、そんな印象を感じました。

フルトヴェングラーRIASレコーディングス(ブラームスの3番・49年ライヴ)


ブラームス 交響曲第3番
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 アウディーテ 1949年ライヴ AU21403
AU21403

アウディーテの「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」ですが、昨日に続いて今日は1949年12月18日のブラームス交響曲第3番のライヴ演奏を聴いてみました。

ここでの音質の比較盤ですが、以下のグランドスラム盤になります。

GS2011
ブラームス 交響曲第3番
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 グランドスラム 1949年 GS2011

これは2006年リリースのグランドスラムレーベルによる復刻盤です。カップリングとして1952年録音のウィーン・フィルとのスタジオ録音によるベートーヴェンの交響曲第4番が収録されています。

このグランドスラム盤はもちろん板起こし盤で、シャーという針音が一定の音量で続いていますし、スクラッチノイズ、プチプチノイズといった板おこし盤に特有するノイズもかなり混入しています。対してマスターテープからダイレクトに音録りしたアウディーテ盤には当然これらのノイズは無く、テープノイズも非常に低く抑えられています。したがって、昨日とりあげたブラームス4番の48年ライヴにおけるミソスv.s.アウディーテの図式がここでもそのまま当てはまります。

それで聴き比べての印象はというと、少なくとも昨日のような板おこし盤(ミソス)の明確な優位というのでなく、それぞれに一長一短で甲乙付け難い、そんな気がします。

グランドスラム盤ですが、音響のマッシブな実在感が相変わらず抜群で、聴いていて嬉しくなります。重低音の部分が全般に痩せ気味なのが若干気になりますが、高音の響きがかなり良く、とくにヴァイオリン・パートの響きの色合いがすこぶる鮮やかですし、中音域の実在感もかなり秀逸です。ことに第1楽章の展開部の、あの極限的なテンポの揺さぶりを伴う最強奏の凄味など、他盤の演奏との比較を絶する凄さですし、中間2楽章もものすごい密度ですね。終楽章でのすさまじい緩急強弱を伴う悪魔的な音楽の起伏なども、高感度な音質によりその凄さがまざまざと伝わってくる感じです。

対してアウディーテ盤の方は、音響自体はそれほどマッシブな感触は目立たず、すっきりした感じで、迫力的にはグランドスラム盤に一歩引けを取る感じがします。しかし、とにかくノイズレベルがグランドスラム盤より圧倒的に低いため、ノイズに煩わされることなく演奏を堪能できますし、このノイズレベルの低さゆえに、ボリュームレベルをグランドスラム盤より2割増しくらいにすることで、迫力を相当に補完することができます。グランドスラム盤の音質は確かに素晴らしいとはいえ、さすがにミソスのブラ4のような奇跡的な復刻レベルとまではいかない感もあるので、マスターテープから直接復刻したアウディーテ盤の音質がかなり肉薄しています。

以上、この49年12月18日のブラームスの3番に関しては、両盤ともほぼ互角の、高水準の復刻内容を誇っていると思います。あとはもう聴き手の好みの問題ではないでしょうか。

あと音質比較とは関係ないですが、グランドスラム盤にカップリングされているウィーン・フィルとのベートーヴェンの4番は音質が信じがたいほどの良さで、これはフルトヴェングラーのスタジオ録音盤の中でもおそらく最優秀の部類だと思います。

先のブラームスと違ってここでのベートーヴェンは全楽章とも遅めのテンポを維持した客観スタイルの凄みが充溢する演奏ですが、音質の良さもあり、ウィーン・フィルのアンサンブルの響きの美感が聴いていて圧倒的に伝わってきます。それにしても、なんという有機的な響きでしょう、往年のウィーン・フィルというのは、、、

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