チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルによるラヴェル「ボレロ」ほか


ラヴェル ボレロ&ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」
 チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル 
 EMIクラシックス 1993年ライヴ(展覧会の絵)、83年ライヴ(ボレロ) TOCE-9589
TOCE-9589

昨日掲載したカンブルラン/バーデンバーデン・フライブルクSWR響のラヴェル・アルバムについての感想の中で、その「ボレロ」のタイムに驚きつつ、「チェリビダッケなどは多分もっと遅かったはず」とも書きました。

そこで、そのチェリビダッケの演奏によるボレロでは実際どうだったか、CDを確認してみました。そうしたら、やはりというか、18分強というタイム。カンブルランの17分弱よりさらに1分以上長いものでした。

このチェリビダッケ盤は購入してからもう10年は経つものですが、最初に聴いたとき、確かに異色を極めた、驚異的な演奏内容であることは認めつつも、ラヴェルの演奏としては何かしらが違うような違和感も同時に伺われるものでした。

今回ひさしぶりに聴き直してみても、やはり同様の印象を感じましたが、カンブルラン盤の演奏を聴いた直後であったためか、その違和感のみなもとがうっすらと判ったような気がしました。

カンブルランのボレロと、このチェリビダッケのボレロ、遅めのテンポという点で表見的には共通しますが、両指揮者においては作品に対する演奏のスタンスが根本的に異なるように思います。

カンブルランの方は、同じフランスの作曲家ラヴェルの音楽への強い共感をベースに、まるで現代音楽を扱うような精緻さと切れ味の鋭さで表現された、客観的なスタイルの演奏です。

対してチェリビダッケの方はというと、その演奏にはカンブルランほどにはラヴェルへの強い共感は伺われず、むしろ「チェリビダッケ流のボレロ」と言い得るような、主観性の強さを強く匂わせる表現内容となっていて、かつその主観性がラヴェルの音楽のイメージを上回るほど強いため、その絶大な音楽のスケール感、ないしハーモニーの極度に拡張されたような美感などに惹き込まれつつも、ラヴェル本来の音楽のイメージに照らすと聴いていて何か違和感も残る、そんなところがあるように思います。

チェリビダッケのボレロの冒頭、客席のざわめきに紛れ込むかのように密やかに始まる小太鼓のリズム打音。この超ピアニッシモをスコア冒頭のppと規定して始まる、長大なタイムスケールのクレッシェンドに耳を傾けていると、その過程におけるp、mp、f、mf、ffといったデュナーミクを、チェリビダッケが必ずしも精度良く音化していないことに気付かされます。

例えばスコア上初めてffとなる(15:47)からの主題展開など、このチェリビダッケの演奏では、そのだいぶ前からffの域に達しているため、聴いていて「ここからff」というような感触は希薄で、むしろ「気が付いたらffだった」というようなニュアンスでしょうか。こういうニュアンスは他部においても伺われ、その型破りなタイムスケールと相まって、「規格外の演奏」であるというイメージが増幅させられ、何かとんでもないものを耳にしているような、言い知れぬ戦慄が聴いていて湧き起るほどです。

こういう「チェリビダッケの魔術」は確かに凄いものですが、カンブルランの客観的なボレロの持つ凄味とは明らかに別物、というより対極で、それでいて感銘の度合いは甲乙付け難い、両盤の演奏を聴き比べることによって、そういう演奏行為の多様性の妙を改めて印象づけられたような気がします。

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