フルトヴェングラーRIASレコーディングス(ブラームスの4番・48年ライヴ)


ブラームス 交響曲第4番
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 アウディーテ 1948年ライブ AU21403
AU21403

アウディーテよりリリースされた「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」に関して、引き続き「ティタニア・パラストのブラ4」として知られる1948年10月24日のブラームス交響曲第4番のライヴ演奏を聴いてみました。

ここでの音質の比較対象は、以下のミソス盤と本家EMI盤です。

MPCD1002
ブラームス 交響曲第4番
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 MYTHOS 1948年ライブ MPCD1002

TOCE-3294
ブラームス 交響曲第4番
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 EMIクラシックス 1948年ライブ TOCE-3294

このうち、上記ミソス盤については、以前にも当ブログで書きましたが、音質がこれ以上ないと思えるほどの良さであり、ここでのフルトヴェングラーの演奏の破格ぶりが、こよなく伝わってくるものです。

それで聴き比べてみた結果ですが、やはりミソス盤には及ばない、というのが正直なところです。

まず、このアウディーテ盤の音質は、決して悪いものではなく、少なくとも、同じくオリジナル・マスターによる本家EMIのブライトクランクステレオ方式・HS-2088リマスタリングによる上記TOCE-3294よりは遙かに良い音質水準です。

しかしながら、くだんのミソス盤(MPCD1002)と比べると、まず同じ音量レベルで再生してもアンサンブルの迫力やソノリティの臨場感において少なからず引けをとる印象を否めず、ボリュームを上げても、ミソス盤での最大ボリューム近辺において聴かれる壮絶を極めた音楽の表情には残念ながら比肩しない、というのが率直な感想です。

ただこれは、あくまで私の音質に対する個人的な嗜好を踏まえての結論であり、人によってはこれと全く逆の印象を持たれることも、多分にあり得るかと思われます。

というのも、こと聴きやすさという点ではアウディーテ盤の方がミソス盤よりもずっと良好だからです。ミソス盤はレコードからの板おこし盤なので、当然シャーという針音が常に一定の音量で続いていますし、スクラッチノイズやプチプチノイズといった板おこし盤に特有するノイズもかなり混入しています。対してマスターテープからダイレクトに音録りしたアウディーテ盤には当然これらのノイズは無く、テープノイズも非常に低く抑えられています。したがって、少なくともノイズに煩わされることなく演奏を堪能したい、という向きにはこのアウディーテ盤はまさに打ってつけと思われるものです。

しかし私の場合、聴きやすさやノイズの多寡よりは演奏自体のリアリティ、すなわち音響的実在感の度合いを重視するため、やはりミソス盤の優位と結論せざるを得ませんでした。

そういうわけで、このアウディーテ盤の音質は決して悪いものではなく、それどころかオリジナル・マスターからの復刻という範疇においては最上位の音質ではないかと思われるほどであり、これはこれで十分に傾聴に値するものでしたが、いかなオリジナル・マスターといえども、録音から60年もの歳月を経ればそれなりの老朽化(磁気劣化)は避けられず、ミソス盤のように、むしろ保存状態が真に良好なレコードから起こした音質の方が聴き映えがするという事実を、あらためて思い知らされることにもなったように思います。

プレヴィン/ウィーン・フィルによるハイドンの交響曲集


ハイドン 交響曲第92番「オックスフォード」、第96番「奇跡」、第102番、第104番「ロンドン」
 プレヴィン/ウィーン・フィル
 フィリップス・タワーレコード 1992年・93年 PROC-1013/4
PROC-10134

先月タワーレコードより復刻リリースされた、アンドレ・プレヴィンがウィーン・フィルを指揮して録音したハイドン後期交響曲集を聴いてみました。

「オックスフォード」と「奇跡」は92年、102番と「ロンドン」は93年にそれぞれ録音されていますが、ウィーン・フィルがデジタルでハイドンの交響曲を録音したものは、他にはあるのかどうか、ちょっと思いつきません。事によると、ここでのプレヴィンの4曲だけかも知れないですね。

それにしても、この一連のハイドンは美しい。弦といい管といい、昨年ウィーン・フィル来日公演の折にサントリーホールで聴いたハイドン(67番)での演奏の美しさが、聴いていて間接的に脳裏によみがえってくるような、そんな気がしました。

ここでのプレヴィンの指揮は、一聴するとウィーン・フィルに下駄を預けているようで、実はそうではなく、全体のフォルムの設計が実にきめ細やかに為されていることが、その曇りのない芳醇なハーモニーの組み上げからはっきりと感じ取れます。

4曲とも、大袈裟な表現とは無縁の端正なフォルムで、むしろ都会的なスマートさを匂わせる音楽の運びでありながら、そこにウィーン・フィルならではの典雅なエレガンシーを浸みこませたようなアンサンブルの響き具合が素晴らしく、聴いていて陶然とさせられる局面に事欠かない、美演です。

オックスフォードの第2楽章でいうなら、(3:07)からのト短調のフォルテ楽節こそ今一つの彫りや厳しさに欠けるとしても、(5:41)あたりからコーダまでの1分半の時間はまさに夢の一時であり、これを耳にして、やはりウィーン・フィルというのはいいなと、今更ながらに実感する思いでした。

ハイドンのロンドン・セットについては最近、ドラティとフィルハーモニア・フンガリカの全集の録音を聴きましたが、それはシンフォニックな迫力の充溢する本格派スタイルでの名演でした。ただ、美演という言葉が聴いていて頭に浮かぶような演奏ではありませんでした。対して、ここでのプレヴィン/ウィーン・フィルのハイドンは、美演という言葉が聴いていてスッと頭に浮かぶような、そんな演奏ですね。

フルトヴェングラーRIASレコーディングス(ベートーヴェン「運命」「田園」47年ライヴ)


ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」、第6番「田園」
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 アウディーテ 1947年ライヴ AU21403
AU21403

昨日書きましたように、「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」に収録されている、47年5月25日におけるベートーヴェン「運命」と「田園」の音質を同一演奏の既出盤と聴き比べてみました。

これらは言うまでもなく、フルトヴェングラーの戦後ベルリン復帰演奏会初日における記念碑的なコンサートのものですが、この両演奏に関しては、昨年末にターラからリリースされた、以下のライヴ集を今年の春先に耳にして、その音質の良さに仰天させられた記憶が新しいところです。

FURT2002
ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」、第6番「田園」
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 ターラ 1947年ライヴ FURT2002-2004

そこで、このターラ盤と今回のアウディーテ盤とで、双方の音質を比べてみました。

まず「運命」の方ですが、いずれ互角の素晴らしさで、ちょっと簡単には甲乙付け難いですね。

いずれも当日の演奏会における常軌を逸した音楽の迫力が、信じがたいほどに生々しい臨場感で伝わってくるもので、どちらで聴いても感銘の深さは大きく変わらないのですが、敢えて言うなら、ターラ盤の方が肉厚感が豊かで、強奏時の迫力に一歩勝る気がしますし、逆にアウディーテ盤は響きの肉厚がやや大人しい代わりに、アンサンブルの輪郭に対するフォーカスが非常にキリッとしていて、克明感の高いソノリティによるトータルな演奏の迫力において一歩勝るように思われます。

次に「田園」ですが、こちらはターラ盤よりも今回のアウディーテ盤の方に軍配が挙がると思います。

というのも、アウディーテ盤の方が明らかにソノリティの克明感が高く、ターラ盤においては聴き取れないほどのちょっとしたトーンまでも鮮明にすくい取られているからで、これは正直、聴いていて驚かされました。

例えば第1楽章の冒頭4小節めの後半あたり、アウディーテ盤ではステージ上の奏者の座る椅子が軋む音が、はっきりと聴き取れるのですが、ターラ盤の同じ箇所では全く聴き取れませんね。同じようなことは他の部分にもあり(特に第2楽章に顕著)、総じてアウディーテ盤の方が音響的な臨場感がひとまわり豊かで、聴いていてライヴであるという実感が、ターラ盤よりも強く湧いてくる感じがします。

ターラ盤の音質とて決して悪いとは思わないのですが、上には上があるというところでしょうか。

残り11枚はまだ未聴ですが、何とか時間をみつけて聴いて行くつもりですし、そのいくつかの演奏については、また改めて、今回と同じように音質の比較をしてみたいと思います。

フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス


「フルトヴェングラー・コンプリートRIASレコーディングス」
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィル
 アウディーテ 1947~54年ライヴ AU21403
AU21403

ドイツのアウディーテ・レーベルから先月リリースされたボックスセットで、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが戦後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、ベルリンで行ったコンサートのRIAS放送局によるライヴ録音がCD12枚に集成されています。

収録曲は以下の通りです(カッコ内は収録の年月日)。

1:ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」(47-5-25)
2:ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」(47-5-25)
3:メンデルスゾーン 「真夏の夜の夢」序曲 (47-9-28)
4:ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲(47-9-28)
           ソリスト:ユーディー・メニューイン
5:J.S.バッハ 管弦楽組曲第3番(48-10-24)
6:ブラームス 交響曲第4番(48-10-24)
7:シューベルト 交響曲第8番「未完成」(48-10-24)
8:ブルックナー 交響曲第8番(49-3-15)
9:シューマン マンフレッド序曲(49-12-18)
10:ブラームス 交響曲第3番(49-12-18)
11:フォルトナー ヴァイオリン協奏曲(49-12-18)
           ソリスト:ゲルハルト・タシュナー
12:ワーグナー ジークフリート葬送行進曲(49-12-19)
13:ワーグナー マイスタージンガー前奏曲(49-12-19)
14:ヘンデル 合奏協奏曲Op.6-10(50-6-20)
15:ブラームス ハイドン主題変奏曲(50-6-20)
16:ヒンデミット 管弦楽のための協奏曲(50-6-20)
17:ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」(50-6-20)
18:グルック 「アルチェステ」序曲(51-9-5)
19:ヘンデル 合奏協奏曲Op.6-5(54-4-27)
20:ウェーバー 「魔弾の射手」序曲(52-12-8)
21:ヒンデミット 交響曲「世界の調和」(52-12-8)
22:ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」(52-12-8)
23:シューベルト 「ロザムンデ」序曲(53-9-15)
24:ブラッハー 管弦楽のための協奏的音楽(54-4-27)
25:シューベルト 交響曲第8番「未完成」(53-9-15)
26:シューベルト 交響曲第9番「グレート」(53-9-15)
27:ブラームス 交響曲第3番(54-4-27)
28:R.シュトラウス 「ドン・ファン」(54-4-27)
29:ワーグナー トリスタンとイゾルデ前奏曲(54-4-27)
30:ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」(54-5-23)
31:ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」(54-5-23)

以上、音源的には特に目新しいものはなくて、私もほとんど所有済みなのですが、このアウディーテのものは、いずれの収録曲も放送局所有のオリジナル・マスターテープに基づく新リマスタリングとのことで、かなり高い水準の音質が期待されると聞き及んでおり、価格もCD12枚で6千円程度とかなり廉価なこともあって、先日HMVにオンラインで注文してみました。それが今日の夜、帰宅後に届いたという次第です。

それでさっそく最初の一枚に収録されている、47年5月25日のベートーヴェン「運命」及び「田園」の両ライヴを聴いてみたのですが、これが嬉しいことに、予想以上に良好な音質でした。

まだ最初の一枚しか聴いていないとはいえ、どうやら音質的にはかなり期待が持てそうな雰囲気です。

そこで、全12枚に含まれる演奏に関し、さすがに全部は無理としても、いくつかをピックアップして、それらと同一演奏の既出盤との間で音質の比較を行ってみたくなりました。

さしあたって、今日聴いた「田園」と「運命」に関し、後日あらためて比較結果を掲載したいと思います。

若杉弘/都響によるマーラー交響曲第7番「夜の歌」


マーラー 交響曲第7番「夜の歌」
 若杉弘/東京都交響楽団
 フォンテック 1989年ライヴ FOCD9024/5
FOCD90245

先日亡くなられた若杉さんの残したマーラーの録音のひとつ、交響曲第7番「夜の歌」のCDを今日、久しぶりに聴きました。1989年6月のサントリーホールでの、東京都交響楽団とのコンサートのライヴ収録です。

マーラー演奏においては日本のオーケストラ団体として随一の演奏技術を持つと言われる都響、その基礎を築くに多大な貢献を果たしたのが、若杉氏との一連のマーラー・チクルスであり、この機会に、きちんとその演奏に向き合ってみたいと思ったので、、、

まず第1楽章ですが、冒頭の導入部から弦の最弱音(pp)と管の強音(f)とを適切な強弱バランスに維持しつつ、かなり慎重に開始されるのですが、主部のアレグロ楽想に入った第1主題(3:32)など、アンサンブルの動きがやや堅いような感じで、オーケストラ全体にちょっと緊張過多のような雰囲気が漂っています。

しかし次第にアンサンブルの起伏に柔軟さが戻り、ホッとします。ことに(5:07)からの第2主題部あたりでは主旋律の伸縮がかなりナチュラルな形で描き出されていて、本来の都響のパフォーマンスに戻ったなという感じがします。

楽章を通して、おおむね速めの良いテンポを基調とする正攻法のアプローチで、音楽的にはかなり端正な構えとなっており、対位モチーフが複雑化する展開部中盤あたりでも構築的にはガッチリしており、そういう意味での完成度は高くて傾聴させられます。

もっとも、ところどころ主旋律を過分に重視したようなバランスが演奏の前面に立ち過ぎるあたり、聴いていて少し引っ掛かりました。ことに展開部中盤のモデラート楽想やその後半の第2主題展開楽想などがそうで、いずれも副旋律や内声のニュアンスがやや埋没しがちであるように思われ、ディテール面でいささか物足りなさを感じたのも事実です。

しかし、むしろここでの若杉/都響の演奏の素晴らしさは、およそ小細工を弄することなしに、この大曲に正面切って立ち向かっているという事実が、聴いていてひしひしと実感される点にあるような気がします。特に展開部後半の導入部再帰場面におけるテノール・ホルンやノーマルのホルン、トロンボーン、チューバといった各種金管独奏の響きには朴訥とした自然味が豊かで、味があり、この場面がこんなにケバケバしくない演奏というのも珍しいとさえ思うほどですが、ここなど外面的な音響効果よりも内省的なハーモニーを意識した若杉/都響の面目躍如という感があります。再現部からコーダにかけても、楽節ごとに緩やかな起伏を描きつつ、特に複数のクライマックスにおける強奏場面でさえ飽和しないハーモニーの感触が秀逸で、これなどもやはり指揮者の厳格な統制力の賜物なのでしょう。

中間の3つの楽章では、いずれも造型のラインを曲線的にならしたような快適な音楽の流れが、一体感のあるアンサンブルから湧出されていて、落ち着いて音楽に向える雰囲気は高いのですが、全体的にいまひとつの独自的な抑揚というか、意表を突くようなアクセント、ないし思い切ったメリハリのようなものが香辛料的に欲しいような思いも残りました。

終楽章も派手な音響的発散を防ぎつつ、まるで音楽的な支離滅裂さを極力表面化させないとでもいう風な、きっちりと統制されたアンサンブルの理性的な佇まいが印象的です。理性的といっても決してドライではなく、ハーモニーの感触はむしろ柔和にしてウエットであり、第5ロンド・リフレインの第361小節から入ってくるグロッケンシュピーゲルの局所的な最強打(11:12)だけはちょっとやり過ぎのような感があって、そこだけ全体から浮いてしまっている感じが否めませんでしたが、それ以外は安心して音楽に浸れる、ストイックなまでに正攻法の、誠実な語り口の演奏でした。

したがって、それだけ聴き手の想像力に下駄を預けた表現とも言えそうですが、いずれにしても本ライヴはこのマーラー作品の、日本での演奏史におけるひとつのマイルストーンとして貴重な記録というだけでなく、内容的にも指揮者とオーケストラの旺盛な演奏意欲に裏打ちされた、ストレートながらも求心的で引き締ったアンサンブル展開の充実感に聴いていて惹かれ、それを楽しめました。

この7番も含めて若杉/都響のマーラー・チクルスはいずれも現状廃盤のようですが、この機会に再発されるといいですね。

キルシュネライトのソロとケムニッツ・ロベルト・シューマン・フィルによるメンデルスゾーンのピアノ協奏曲全集


メンデルスゾーン ピアノ協奏曲全集
 キルシュネライト(p) ベールマン/ケムニッツ・ロベルト・シューマン・フィル
 アルテ・ノヴァ 2008・09年 BVCC40006-7
BVCC40006-7

先月にリリースされた、マティアス・キルシュネライトのピアノ・ソロと、フランク・ベールマン指揮ケムニッツ・ロベルト・シューマン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲全集を聴いてみました。

以下の4曲がCD2枚に収録されています。
①ピアノ協奏曲第1番
②ピアノ協奏曲第2番
③ピアノ協奏曲ホ短調(ラリー・トッドによる補完完成版)
④ピアノ協奏曲イ短調。

ショップでCDを物色していた折に見つけたものですが、最初は、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲全集で2枚組なのは不思議だなと思って手に取ってみたところ、通常の2曲のピアノ協奏曲に加えて、第3のピアノ協奏曲である未完のホ短調の協奏曲が補完完成版として収録されていました。それが上記③で、このアルバムが世界初録音とされます。

ちなみに④のピアノ協奏曲イ短調は、正確にはピアノと弦楽オーケストラのための作品で、メンデルスゾーン13歳の時の習作的な雰囲気の残る作品です。

さて、本ディスクの目玉ともいうべき③のホ短調の協奏曲ですが、これはメンデルスゾーンの未完作品のひとつで、1842年に起草されながら、あの有名なホ短調のヴァイオリン協奏曲の作曲のために中断し、そのまま未完に終わった作品ということです(3楽章のうち2楽章と終楽章の移行部まで作曲され、終楽章が未完)。そして、本CDの解説によると、「この未完作品のスケッチにはそのヴァイオリン協奏曲と明らかに共通する楽想が伺われ、途中からヴァイオリン協奏曲に移行していったものと考えられている」とも書かれています。

それで聴いてみると、確かにそんな感じがします。例えば第1楽章の(2:29)からの第2テーマの音形はヴァイオリン協奏曲第1楽章の第2テーマにかなり似ていますし、(4:39)から弦で大きく奏でられるメロディなども、ヴァイオリン協奏曲第1楽章の第1テーマを彷彿とさせるものです。

未完の終楽章に関しては、このCDではヴァイオリン協奏曲の終楽章がそのまま流用されています。当然、ここでは本来のヴァイオリン・ソロのパートがピアノに置き換えられて演奏されています。

印象ですが、まあ終楽章に関してはちょっとムリヤリという気がしなくもないのですが、2つの完成楽章に関しては、音楽的にもかなり傾聴させられる内容で、埋もれさせておくには、ちょっと勿体ないような作品ですね。もし終楽章が完成されていたなら、もしかメンデルスゾーンの代表作ということにもなっていたのかも知れないですし、いずれにしても、メンデルスゾーンの生誕200年の今年にこうして日の目を見たのは意義のあることではないでしょうか。

第1・第2のピアノ協奏曲も含めて、キルシュネライトのピアノ・ソロは音立ちの綺麗なタッチといい、流暢にして淀みないフレージングの流れといい、安心して音楽に身を浸すことのできるものでした。経歴を見ると、師事したピアニストとしてアラウ、マイセンベルク、ゲルバー、ペライヤと言った名前が並んでいますが、その中ではペライヤのピアニズムにどこか近しさがあるような、そんな気がしました。

クレーマー/BBCフィルによるハイドンの交響曲のライヴ集


ハイドン 交響曲第22番「哲学者」、第26番「哀歌」、第67番、第80番
 クレーマー/BBCフィルハーモニック
 BBCミュージックマガジン 2007~09年ライヴ
BBC-2009-07

これはBBCミュージックマガジン2009年7月号の付録ディスクで、ニコラス・クレーマーの指揮BBCフィルの演奏により、ハイドンの4曲の交響曲がライヴ収録されています。

このCD(というか雑誌ですが)は、実は交響曲第67番を目当てに購入しました。

この曲は昨年9月のウィーン・フィル来日公演(サントリーホール)で取り上げられた曲で、私も生で聴いたのはそれが初めてでしたが、そこでウィーン・フィルの織りなした、交響曲というよりもむしろ室内楽的とも言うようなインティメートなアンサンブルの掛け合いの妙に、客席で聴いていてすっかり魅了させられました。

そして、このあたりの音楽の親密な妙感は、おそらくスタジオでカッチリ固めた録音よりも、むしろライヴの方が引き立つのではないかと思うのですが、しかしこの曲のライヴ録音など、果たしてあるのだろうか、と思っていたところ、折よくリリースされたのが本ライヴ盤というわけです。

さっそく交響曲第67番の演奏を聴いてみると、全体に編成の絞られたアンサンブルの織り成す軽妙なハーモニーが心地よさの限りで、弦といい管といい、各パートのフレージングにはスタジオ録音のようなカッチリ感は希薄で、各パートの自発性が程よく尊重されたような気さくなアンサンブル展開が、スタジオ録音とはまた一味違った音楽の生々しい息遣いを感じさせ、くだんのウィーン・フィルの生演奏での印象が、何だか聴いていて蘇ってくるようでした。

例えば第3楽章の(00:46)からミュート付きソロ・ヴァイオリンのデュオが織り成すトリオなど、このクレーマーの演奏で聴くといかにもインティメートな味わいに富んでいて、ハイドンの音楽を肩肘張らず、何気なく楽しむことができる、そんな雰囲気がこよなく醸し出されています。

このクレーマーの演奏の後で、同じ交響曲第67番を、ドラティ/フィルハーモニカ・フンガリカの演奏で聴いてみると、全体に弦の音圧が強く、造形的にもカッチリと一分の隙もないといった感じの、風格に満ちた立派な演奏で、これはこれで素晴らしいと思いますが、ちょっと立派すぎてナチュラルな表情感の醸成に弱いことも否めず、もちろん曲にも拠りますが、こと67番に関しては、私としてはドラティよりもクレーマーの演奏の方に惹かれました。

他の3曲も同じ演奏スタイルですが、第22番「哲学者」と第26番「哀歌」に関してはアンサンブル配置が一風変わっていて、通常配置のチェロの位置にオーボエが配置されています。つまり「弦と管の対向配置」になっているようです。

この変則配置に関しては、ブックレットにクレーマー自身による解説が記載されていますが、その英文を要約すると、つまりオーボエ奏者がヴァイオリンを正面視して演奏することになるので両パート間のユニゾンないし掛け合いに一体感が増し、より室内楽的な音彩が提供されるということのようです。

そう言われるとそんな気もしますが、むしろ印象的なのはオーボエの響きの、ヴァイオリンに対するユニークなバランスの方で、例えば第26番の(00:26)からの例の受難曲のメロディなど、普通の演奏だと弦の主旋律をオーボエが軽く支えるという感じに聴こえるところ、ここではオーボエの響きが弦のそれをふっくらと包みこむような独特のバランスで聴こえてきます。そのハーモニーの意外な新鮮さと美しさにはちょっと陶酔させられました。

ところで、こういうのは日本の音楽雑誌などではやはり難しいのでしょうか。やって欲しいのですけど、、、

若杉弘/ドレスデン・シュターツカペレによるマーラー交響曲第1番「巨人」


マーラー 交響曲第1番「巨人」
 若杉弘/ドレスデン・シュターツカペレ
 ソニー・クラシカル 1986年 32DC1060
32DC1060

若杉弘氏の訃報が報じられました。昨日、東京都内の病院で多臓器不全のため死去されたとのことです。享年74歳。御冥福をお祈りします。

氏の実演には幾度となく接し、その意欲的なプログラムも含めて、常にクオリティの高い演奏を聴かせてくれていただけに、残念です。最近、めっきり指揮台に立たれる機会が減っていただけに、気になってはいたのですが、、、

そこで今夜は、氏の代表盤として名高い、このドレスデン・シュターツカペレを指揮してのマーラー「巨人」を聴いて故人を偲ぶことにしました。

なぜかマーラーのシンフォニーをほとんど録音しない、この名門オーケストラによる数少ないマーラーですが、ここでは氏の良い意味で抑制を利かせたオーケストラ・ドライブが、アンサンブルからまろやかで奥行きのある音響の感触を引き出していて、正調ながらも聴き進むほどに味わいが深まる、そんな感じの演奏ですね。

第1楽章の序部や提示部などの弱音主体の場面、のみならずコーダなど急速テンポのフォルテの場面においてさえも耳に挑まない、しっとりとした響きのまろやかさが絶えず、このオーケストラがマーラーを演奏するとこういう風に響くのか、という啓示に富んでいますし、第2楽章の愉悦感も、第3楽章の哀愁味も、そして終楽章の動と静のダイナミズムも、いずれもオーソドックスなスタイルからアンサンブルの卓越した表現力でもってキメ細かく、そして過不足なく描き出されていて、コクのあるドレスデン・サウンドの妙音と相まって、単に完成度が高いというにとどまらず、聴き終えて深々とした余韻が残る演奏でした。あらためて、いい演奏だなと思いました。

このドレスデン・シュターツカペレとの「巨人」は、またオペラの分野でも実績の豊かな氏の表現力の面目躍如という感もあり、名実ともに氏の代表盤というに相応しいような気がします。

ブロムシュテット/ゲヴァントハウス管によるブルックナーの交響曲第6番


ブルックナー 交響曲第6番
 ブロムシュテット/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 クヴェルシュタント 2008年ライヴ VKJK0816
VKJK0816

今月リリースされた、ヘルベルト・ブロムシュテットがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してのブルックナー・交響曲第6番の新譜で、08年9月のゲヴァントハウス大ホールでのコンサートにおけるライヴ収録です。

ブロムシュテットはブルックナーの6番を、かつてサンフランシスコ交響楽団とデッカにスタジオ録音しています。

POCL-1314
ブルックナー 交響曲第6番
 ブロムシュテット/サンフランシスコ交響楽団
 デッカ 1990年 POCL-1314

この旧録音の演奏は、ブルックナーとしてはやや軽量級な印象もあるのですが、全体にブロムシュテットの職人気質に根ざした堅実にして入念な造型運用をベースとし、その上にサンフランシスコ響のアンサンブルのみずみずしい明彩性が良く発揮された美演で、私はこれを一時期かなり聴き込んだものでした。

今回のドイツの名門ゲヴァントハウス管との新録音では、演奏の印象が旧録音からどう変化しているか、興味をそそられるところです。

さっそく聴いてみると、第1楽章の提示部から、旧録音同様、折り目正しい職人気質的な運用が顕著であり、安心して音楽に浸れる造型の揺るぎない安定感が見事です。

対して、ハーモニー・バランスにおいては旧録音でのみずみずしい明彩性は幾分後退し、代わりに弦合奏のズシリとした響きの手応えが旧録音より相対的に強く、いわばアメリカ的なバランスからドイツ的なバランスへと、かなり顕著にシフトしたような感触があります。

例えば第3主題提示部(4:54)での管群声部のユニゾン・シーンにおいては、サンフランシスコ響との旧盤同様、この新盤においても、トランペット高声部を突出させた局所効果狙いを慎み、高声から低声まで相互に調和し良くブレンドされたユニゾン構造が形成されているのですが、このシーンにおける多声ユニゾンの色彩的な妙感が高感度に活かされているのは、明らかに旧録音の方でしょう。というのも、このゲヴァントハウス管との録音では、その弦楽パートの押しの強さゆえに、管楽器の音響的占有率が相対的に削がれ、その分だけハーモニーの明彩的なパースペクティブにやや後退を来たした感が否めないからです。

これに対し旧録音において難と感じたアンサンブルの軽量感に関しては、全体にグッと向上していて、それゆえに旧録音よりもずっと音楽の深みを感じさせるような局面が少なからず耳を捉えます。展開部後半でのフル・オーケストラによる強奏シーン(9:01)などがそうで、ここは旧録音ではどちらかというと水彩画的な明彩感に基づく音画的な楽しさを印象付けられるところでしたが、この新録音はそういった感覚的な愉悦よりも、もっと実質的な意味での音楽としての訴えかけが素晴らしく、聴いていて「本場のブルックナー」としての醍醐味を堪能させられる感じがします。

第2楽章は旧録音よりもテンポが速めで、そのぶんハーモニーに密度感が増し、ことに弦合奏の表出力という点では旧録音を遙かに凌ぐものを感じます。逆に管楽器の音色の美彩感はやや後退しているとはいえ、ゲヴァントハウス管のアンサンブルにはサンフランシスコ響のそれとはまた違った独特の美しさが顕著で、ブロムシュテットの熟達な指揮のもと、聴いていて味わい深いブルックナーの音楽の世界に吸い込まれるような思いでした。

後半の楽章においても、ブロムシュテットは的確な作品把握から音楽の姿を丁寧に描き出していますが、造型の取り方に関しては、旧録音での多少堅苦しい感じが消え、こなれているというか、作品が完全に自分の手のうちに入ったかのような余裕が感じられ、この辺りもやはり聴いていて惹き込まれるばかりでした。

そこには、ライヴ録りとスタジオ録りの差とか、オーケストラの保持する伝統力の差なども少なからず影響していると思うのですが、何より指揮者自身の表現力における内的な円熟味のようなものが、大きくものを言っているような、そんな気がしました。

以上、このブロムシュテットのブルックナー6番の新譜は、私自身まだ旧録音ほどには聴き込んでいないこともあり、さらに聴き込んでみたいと思っていますが、いずれにしてもサンフランシスコ響との旧録音から18年を経て、ブロムシュテットのブルックナー表現における内面的な深化を強く感じさせる完熟した演奏に仕上げられていて傾聴させられました。

ライプツィヒ四重奏団によるメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲全集


メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲全集、室内楽作品集
 ライプツィヒ四重奏団
 MD+G 2000~02年 30715712
30715712

メンデルスゾーン生誕200周年の今年、長らく廃盤状態でこれまで入手困難とされていたドイツの名門ライプツィヒ四重奏団のメンデルスゾーン・弦楽四重奏曲全集が、廉価のボックスセットで再リリースされていたので、購入してみました。

これはCD5枚組のセットで、番号付きの6曲に習作の変ホ長調を加えた計7曲の弦楽四重奏曲と、八重奏曲(作品20)、アンダンテ(作品81-1)、スケルツォ(作品81-2)、カプリッチョ(作品81-3)およびフーガ(作品81-4)がCD4枚に収録され、最後の5枚目には、交響曲第1番、 第5番「宗教改革」、序曲「フィンガルの洞窟」および序曲「ルイ・ブラス」の、珍しい室内楽バージョンに基づいた演奏が収録されています。

メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲というと、番号付きの6曲のうち最初の1番と2番はベートーヴェンの影響が色濃く、メンデルスゾーン自身の個性味が明確に発現されるのは第3番以降で、特に最後の第6番はメンデルスゾーンの残した全作品とひき比べても最も深みのある作品のひとつ、というのが私なりの大雑把なイメージです。

そんなイメージを背景に、このライプツィヒ四重奏団の全集をひと通り聴いてみたのですが、やはり全6曲の中でも、最後のへ短調の第6番は破格だなという思いを新たにしました。

メンデルスゾーンの死の直前の作品であるこの作品に浮遊する異常な雰囲気、ことに終楽章の(4:14)からの慟哭のような楽想など、これを聴くと、もしメンデルスゾーンがさらに長生きしていたら、こんな凄い作品がもっと創出されたのか、否、死の直前だからこそ、これだけの曲が書けたのか、など、色々と想像させられます。

ライプツィヒ四重奏団のアンサンブルは全体に正攻法の手堅い運びですが、ここぞという際のえぐりの効いたフレージングの切迫感が素晴らしく、第6番などこの曲の異常性が聴いていてまざまざと伝わってくる感じですし、初期作品にもベートーヴェン作品を聴くかのようなピリッとした緊張が良く付帯していて傾聴させられるものでした。

尾高忠明/読売日響のコンサートの感想


昨日の尾高忠明/読売日響のコンサート(サントリーホール 7/17)の感想です。

オーケストラは「フィンガルの洞窟」と「スコットランド」では10型編成、ヴァイオリン協奏曲では8型編成で、いずれも対向配置でした。

前半の「フィンガルの洞窟」、後半の「スコットランド」、ともに速めのテンポを主体に、小気味よいリズムの流れに乗って、音楽が淀みなく進められ、各パート間の均衡が概ね理想的に保たれたアンサンブルのバランスも含めて、尾高忠明らしさの良く伺われる、いわゆる「実質的な」演奏だなという印象を聴いていて感じました。

構えを拡げない端正な造形展開、強奏時においても繊細なダイナミクスの処理、弱奏時においても明快なアーティキュレーションの刻み分け、いずれひとつとっても、聴き手の意表を突くような刺激性とは無縁である反面、音楽生来のロマンティズムが十分に語り尽くされた表現となっていて、それが当たり前のように、ごく自然な音楽の佇まいとして奏でられ、それがために聴き終えてすがすがしい余韻の残る、そんな演奏でした。

それは特に後半の「スコットランド」に顕著で、音楽の一面を強調するよりも、さまざまな要素の均衡を大事にした演奏であるがゆえの味わい深さ、そんなものが潤沢に感じられる演奏だったと思います。

ヴァイオリン協奏曲における戸田弥生のソロは、そのエリザベート王妃国際コンクール第1位という肩書からすると、技巧的には全体にかなり大人しい印象を受けましたが、テクニックの切れ味というより、むしろ弾力感に富んだしなやかなボウイングから導出される、フレーズラインの心地良い起伏感が聴いていて魅力的であり、多少の細部のキズは有ったものの、聴き終えて満足感が大きく勝った演奏でした。

読売日響のアンサンブルに関しては、1月の上岡敏之、4月のカンブルラン、6月の下野竜也、そして今回の尾高忠明と、いずれもハーモニーの色調が微妙に相違していて、面白いと思いました。今回のがもっとも無色調で、イギリス風の色調というのか、清潔にして澄んだ音色と透明感の豊かな響きが印象的でしたし、それは無論メンデルスゾーンの音楽に対し良く調和したものでした。

感想は以上です。何かいろいろ書いてしまいましたが、いい暑気払いになりました。

しかし、例のサントリーとキリンの経営統合の件は、やはり気になるところです。ここ十数年来、私がコンサートを聴きに足を運んだ回数において、サントリーホールは都内のホールの中でもダントツなので、、、

昨日はやや悲観的な意見を書きましたが、願わくはそれが私の思い過ごしであらんことを、、、

尾高忠明/読売日響(サントリーホール 7/17)


今日はキリントリーホール、、、ではなく、サントリーホールで読売日本交響楽団のコンサートを聴いてきました。

2009-07-17

指揮者は尾高忠明。演目はオール・メンデルスゾーンで、前半が序曲「フィンガルの洞窟」、続いて戸田弥生をソロに迎えてのヴァイオリン協奏曲ホ短調、後半が交響曲第3番「スコットランド」でした。

今日は、納涼気分で会社帰りにぶらっと立ち寄ったという感じです。なにしろここ数日の真夏日と、うだるような蒸し暑さ。

その点、今日のコンサートは、いかにも涼しげな演目が並んでおり、暑気払いにはちょうどいいなと、そんな感じでホールに立ち寄りました。

感想は例によって後日、、と言っても、今回はいつもよりは書くことが少ないかと思います。いや、演奏は十分良かったのですが、演目が演目ですので、、、

ところで、既にご存じの方も多いと思いますが、先日、関東の梅雨明けを告げるニュースとほぼ時を同じくして、サントリーとキリンが経営統合に向け交渉中という、驚くべきニュースが報道されました。

この場合の(クラシック愛好家の)興味の焦点は何と言っても「サントリーホールの運営がどうなるか」ということになると思いますが、これに関してはおそらく楽観派と悲観派に分かれそうな気がします。

私はどちらかというと悲観派で、特にサントリーのメセナ重視の社風が、経営統合により変容してしまうことが何より怖いですね。株式公開制への移行となると、これまで以上に利益追求に傾かざるを得なくなるのは必定ですし、いずれにしても統合後のホール運営に関しては、あまり楽観視はできない状況になるような気がします。もちろん、単なる思い過ごしであって欲しいところですが、、、

テンシュテット/ロンドン・フィルによるマーラー交響曲第6番「悲劇的」のEMIスタジオ盤


マーラー 交響曲第6番「悲劇的」
 テンシュテット/ロンドン・フィル
 EMIクラシックス 1983年 CC30-9059-69
CC30-9059-69

おとといはテンシュテット/ロンドン・フィルのマーラー6番・83年ライヴについての感想を掲載しましたが、テンシュテットとロンドン・フィルはこの曲を同じ83年、EMIにスタジオ録音していますね。そのEMI盤を久しぶりに聴いてみました。

表現様式としては、今回の新譜である83年ライヴでの演奏と大体に同じですが、さすがに音質的にはこちらのスタジオ盤の方がずっと良くて、細部までくっきり鮮明に録られているので、ノイズレベルの高いライヴ盤で聞き苦しい弱奏時の表情なども手に取るように分かる感じがします。

ハーモニーの色合いもすこぶる鮮やかで、こうして改めて耳にすると、弦・金管はもちろんのこと木管パートにおいてさえ甘さを排したような峻厳な威圧が伝わってきて圧倒される思いです。例えば第1楽章提示部の114小節からのフォルテ・モチーフや展開部の162小節からのフォルテッシモ・モチーフなど、ライヴ盤以上に烈火的な音彩が展開されていて驚かされます。

それではこのスタジオ盤の演奏の方が先のライヴ盤より感動的か、というと、必ずしもそうではないというのが率直なところです。むしろどちらが感動的かと聞かれれば、ライヴ盤の方だと答えると思います。

確かにこのスタジオ盤は、演奏の完成度や音質面においてライヴ盤を大きく凌いではいますが、しかし聴いていてライヴ盤を耳にした時ほどには表情に隔絶的な印象が伴わず、スタジオ録りだからか、どうも構えているようなところがあり、少なくともライヴ盤での赤裸々なまでのアンサンブルの色合いから表出される極限的緊張度から計るといまひとつの物足りなさも残ります。

とは言っても、それはあくまでライヴ盤と比べての話であり、かのライヴ盤と比べなければ名演であることに疑いの余地はなくて、およそ凡庸な表現とは一線を画した、稀代のマーラー指揮者テンシュテットの演奏手腕を、十分に堪能させられる演奏です。

ところでテンシュテットは、この時期EMIに数々の録音を残していますが、そのうちシューベルトやシューマン、ブルックナーなどの交響曲ではベルリン・フィルを振り、マーラーなどではロンドン・フィルを振っています。もし、このマーラーの6番がベルリン・フィルだったらどうだったか、ちょっと想像をかき立てられるところです。

コンディションにも拠りますが、ベルリン・フィルのオーケストラ性能と、その潜在的なポテンシャルを余すところなく引き出せたなら、、、おそらく同曲の録音史上に残るような演奏となっていたのでしょうね。

テンシュテット/ロンドン・フィルによるマーラー交響曲第6番「悲劇的」の83年ライヴ


マーラー 交響曲第6番「悲劇的」
 テンシュテット/ロンドン・フィル
 ロンドン・フィル自主制作 1983年ライヴ JLPO0038
JLPO0038

先月リリースされた、クラウス・テンシュテットがロンドン・フィルを指揮したマーラー6番のライヴ盤です。これは1983年8月、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのコンサートにおける演奏とされます。

テンシュテットのマーラーのライヴともなれば演奏が悪かろうはずもなく、かなり期待して購入しました。ところが、第1楽章の最初あたり耳にしてオヤッという感じがしました。演奏ではなく、音質についてです。

シャーというテープ録音特有のノイズ音がかなり高めで、それも不規則に大きくなったり小さくなったりと煩わしい感じです。こういうのはエア・チェック音源の海賊盤などではよく耳にしますが、正規盤としては珍しく、ことによると原テープの保管状態がさほど良好ではなかったのかも知れません。

この音質では、さしものテンシュテットのマーラーと言えども苦しいのではないかと危惧しましたが、結果的にそれは全くの杞憂で、聴き進むうち、そのあたりの音質的瑕疵に関してはほぼ気にならなくなっていました。演奏自体が破格にして、圧倒的であるがゆえに。

これはまさにテンシュテットならではの極限に張り付いたような音響的凄味が全編に充溢するマーラーであり、ここまで激烈な管弦楽的表出力を湛えた演奏というのも滅多にあるものではなく、これでもし音質が万全だったら、と思うと空恐ろしいくらいです。

とても書き切れるものではないですが、第1楽章でとりわけ印象的なシーンをざっと概観すると、、、展開部に入って間もなく(9:56)あたりの急迫的なテンポに漲る殺気立った気配、(15:49)あたりのヴァイオリンの恐ろしい叫び、その痛ましさ、(16:59)近辺の金管楽器の奏でる血なまぐさいまでの咆哮、そして357小節(18:33)のヴァイオリンの、果てしなく伸ばされる死力のソステヌート、、、

第2楽章も第1楽章の苛烈をそのまま継承し、その凄まじさに圧倒され、ただただ時間を忘れて聴き入ってしまうほどでしたし、第3楽章の真に迫ったカンタービレの美しさなども、感動的というのも生ぬるいくらいのものですし、必ずしも万全でない音質でここまでの感銘を与えられるということは、実演だと一体どうなってしまうのか、ちょっと想像がつかない、そんな演奏です。

終楽章も圧巻で、強奏時のオーケストラの鳴動には第1楽章に輪をかけた恐るべき表出力が付帯し、弱奏場面との音響的なコントラストには聴いていて気が遠くなるくらいですし、その強奏時の迫力たるや、ことに(14:44)あたりなど、この世のすべてを薙ぎ払うとでもいうかような死ぬ気の裂帛が聴かれ、ここなどはもう聴いていて鳥肌どころか総毛立つほどでした。

以上、このテンシュテットのマーラー6番は、音質が万全でないのが悔やまれるとしても、おそらくテンシュテットの残したマーラーの中でも最上位に位置づけられる凄演と確信させられるものでした。

これほどの深い感銘を覚えたマーラー6番のCDとしては、私が最近聴いたものではベルティーニ/ベルリン・ドイツ響の73年ライヴ、あるいはラトル/ベルリン・フィルの87年ライヴが思い起こされます。

今回聴いたテンシュテット/ロンドン・フィルの83年ライヴもこれらと同格だと思うのですが、しかし音質のハンデを考えると、、、、その実演は、おそらく私などの想像を超えたものだったのでしょうね。

ハジェット/アンサンブル・ソネリーによるバッハの管弦楽組曲全曲(原典版)


J.S.バッハ 管弦楽組曲全曲(原典版による演奏)
 ハジェット/アンサンブル・ソネリー
 アヴィー 2007年 AV2171
AV2171

これは先日、CDショップで新譜を物色していた際に興味をひかれて購入したディスクで、モニカ・ハジェットのヴァイオリンと指揮、ゴンサロ・ルイスのオーボエ・ソロとアンサンブル・ソネリーの演奏によるバッハ・管弦楽組曲の全曲盤です。

最初は、バッハの管弦楽組曲の全曲盤で1枚収録のものは珍しいな、くらいに思って手に取ってみると、何やら「原典版」による演奏という、よく分らない表記があります。さらに見ると、「アンハルト・ケーテン侯レオポルド王子のために」という、さらによく分らない表記もあります。

それで購入して、ライナーの英文をひと通り読んでみました。それを要約すると、以下のようなコンセプトに基づく演奏のようです。

---バッハの4曲の管弦楽組曲はいずれも正確な作曲年代が不明で、現在一般に演奏されている版は、後年バッハがスコアを加筆改訂した版である可能性が高い。しかるにこれら組曲の推定作曲年代は、1720年頃のケーテン時代であるというのが通説であり、そのケーテン時代にバッハが仕えたレオポルド王子お抱えの宮廷楽団の編成に基づいた版こそが、バッハが当初想定したもの、すなわち「原典版」であるはず。このような仮説をもとに、管弦楽組曲のスコアを我々の手で再構成して演奏したものが当ディスクである。---

一般の版と具体的にどう違うのかについても同ライナーに記述されているので、それを見ながら4曲ひと通り聴いてみました。

まず組曲第1番ですが、これは何ら編成が変わっておらず、一般に演奏されている版どおりで演奏されています。ライナーによると、4曲のうちこの組曲第1番だけは後年のバッハの改訂を免れた曲なので再編成の必要なし、とのことです。

続いて組曲第2番ですが、フルート・パートが削除され、代わりにオーボエが用いられています。例えば序曲(2:18)からのフーガ冒頭で、普通ならフルートが華やかなソロを展開するところ、ここではオーボエに置き換えられていて、かなりシックな感じです。ケーテン時代の宮廷楽団の編成を鑑みると、このように考えるのが妥当、とライナーでは述べられています。

組曲第3番と第4番ですが、いずれもトランペットとティンパニが削除され、ティンパニはチェンバロに、トランペットの旋律線はヴァイオリンに、それぞれ置き換えられています。これもやはりケーテン時代の宮廷楽団の編成に基づくもののようですが、いずれにしても通常版とはかなり音楽の印象が変わってくる感じです。

以下は私なりの感想ですが、組曲第2番に関しては聴いていて新鮮な音楽美に事欠かず、かなり傾聴させられました。本来のフルートの方が確かに華やかで、メルヘンチックですが、オーボエに変わるとメルヘンというより現実感に根ざした音色の美しさの方が立ち現われる感じで、地味ながら音楽がキリッと締まった感じになる、そんな気配があります。それは版の違いに加えて、おそらくオーボエ・ソロのゴンサロ・ルイスの表現力によるところも大きいのでしょう。

対して、組曲第3番と第4番ですが、率直に言っていささか厳しいと思います。組曲第2番と違って編成的には単純な引き算になるので、響きがいかにも緊縮的ですし、それ以上にトランペットとティンパニの離脱はこれら2曲のイメージの根底に関わるような、そんな気もしました。また、4曲続けて聴いていると、編成を統一してしまっているためコントラストがたたず、第3番・第4番も第1番・第2番と同じような曲に聞こえてしまうあたりも問題かと思います。

版のことはさておき、演奏自体はかなりの名演で、全4曲が1枚のCDに収録されていることからも伺われるように、全体にテンポはかなり速めですが、それでいて雑然とすることなく、端正でキリッとしたフォルムが形成されていますし、編成を絞っているとはいえ、一貫して求心力に富んだアンサンブル展開にもかなりの充実感があります。

以上、このハジェット/アンサンブル・ソネリーのバッハ管弦楽組曲「原典版」のCDはなかなか興味深いコンセプトで、内容的にも新鮮で楽しめました。もっとも第3番・第4番については、やはり通常版の方がいいなと思ったのも事実ですが、そう思えたのも本ディスクを耳にしたからこそであり、このバッハは私には色々と有意義でした。

アバドの指揮による3つの「ウィーン・モデルン」


「ウィーン・モデルンⅠ・Ⅱ・Ⅲ」
 アバド/ウィーン・フィルほか
 グラモフォン・タワーレコード 1988・91・92年ライヴ PROC-1024/5
PROC-1024-5

先月に復刻リリースされたクラウディオ・アバド指揮による現代音楽作品集で、現代音楽祭「ウィーン・モデルン」の第1回、第4回、第5回におけるコンサートでの演奏がCD2枚組にライヴ収録されています。これはかつてグラモフォンから「ウィーン・モデルン」のⅠ~Ⅲとしてそれぞれ個別に出ていたアルバムを集成したものです。

収録曲は以下の通りです。
①リーム 出発
②リゲティ アトモスフェール
③リゲティ ロンターノ
④ノーノ 愛の歌
⑤ブーレーズ ノタシオンI~IV
⑥ノーノ 進むべき道はない、だが進まなければいけない
⑦クルターク サミュエル・ベケット -ことばとは何
⑧フラー 熱の顔
⑨リーム 像はなく/道はなく
⑩ダラピッコラ 夜の小さな音楽
⑪クセナキス ピアノ協奏曲第3番「ケクロプス」
⑫ペレッツァーニ 魂の春
⑬ヘンツェ 歌劇「孤独大通り」より間奏曲集
⑭ヘンツェ 歌劇「バッカスの巫女」より狂乱の狩

このうち①~⑤が第1回ウィーン・モデルン(1988年)でのライヴで、オーケストラはウィーン・フィル、⑥~⑨が第4回ウィーン・モデルン(1991年)でのライヴで、オーケストラはアンサンブル・アントン・ヴェーベルン、⑩~⑭が第5回ウィーン・モデルン(1992年)でのライヴで、オーケストラはグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団です。コンサートホールは第1回と第4回がムジークフェラインザールで、第5回がコンツェルトハウスとなっています。なお、アンサンブル・アントン・ヴェーベルンはグスタフ・マーラー・ユーゲント管のメンバーによる現代音楽用の別動部隊です。

このシリーズはいずれも未聴でしたので、この機会に購入し、ひと通りじっくりと聴いてみたのですが、演奏内容が予想以上に良くて、ちょっとビックリしました。

①のリームから素晴らしく、(3:11)あたりや(5:39)あたりなど、あの優雅なウィーン・フィルが、こんな断末魔的な叫びを、というくらいの凄さです。②③のリゲティといい、⑤のブーレーズといい、聴いていて惚れぼれするくらいですが、しかしアバドはこれを、何故ベートーヴェンではできないのか、それが不思議です。音楽として言いたいことはベートーヴェンと何ら変わらないと思うんですが、、、。ノタシオンの第2番や第4番の壮絶なこと!

ウィーン・モデルンⅡに入ると、オーケストラがウィーン・フィルからアンサンブル・アントン・ヴェーベルンに変わって、響きがよりシックな色調となり、ソノリティの硬質感も一段強くなる感じがあり、⑨など、同じリームでも①より迫力的には落ちる代わりに、室内楽的な精緻感が見事です。

ここで私が最も興味深く聴いたのは⑦のクルタークで、その聾唖者の奇声を模したような、奇怪にして幽玄な、独特を極めた音彩が支配する幻想的な音響展開においては、聴いていて神経が麻痺するような、異様な感覚に襲われるほどでした。ここではアネット・ザイーレ(ソプラノ)の歌唱の凄味が強烈を極めています。⑥のノーノも演奏としてはいいのですが、(9:57)あたりから断続的に客席のひそひそ声が入るのがちょっと玉にキズですね。

最後のウィーン・モデルンⅢですが、ここではホールがムジークフェラインザールからコンツェルトハウスに移ったため、残響感が抑えられて、耳当たりの厳しさにさらに拍車がかかった感じです。ここでは⑩のダラピッコラといい、あるいは新ウィーン楽派(特にアルバン・ベルク)の残照が色濃い⑬と⑭のヘンツェといい、全体にウィーン・モデルンⅠとⅡよりも「聴きやすい」作品を集めているなという気がします。

そんな中でひときわ異彩を放っているのが⑪のクセナキス・ピアノ協奏曲第3番「ケクロプス」。いきなり冒頭のトッティから、この世のすべてを吹き飛ばすかのような激烈な音響が炸裂する、まさに1秒聴いただけでクセナキスの作だと判る音楽。聴き進むほどに音楽の緊迫感が加速度的に増幅していく、恐ろしい音楽。演奏も素晴らしくて聴いていてゾクゾクするほどですが、それにしてもアバドはこれを、何故ベートーヴェンではできないのでしょうね。不思議です。

プレトニョフ/ロシア・ナショナル管によるベートーヴェン交響曲全集


ベートーヴェン 交響曲全集
 プレトニョフ/ロシア・ナショナル管弦楽団
 グラモフォン 2006年 4776409
4776409

ミハイル・プレトニョフがロシア・ナショナル管を指揮して短期間で一気に録音したベートーヴェン交響曲全集です。2007年秋にリリースされるや、その演奏内容の奇抜さにより賛否両論を巻き起こしたことは周知のとおりです。

これは昨日のロシア・ナショナル管の公演感想より先に書いておいた方が良かったような気もしますが、いちおう、本全集に関する私なりの感想をここで書きます。

まず最初の一枚である第1番と「英雄」から聴き始めて、第1番を聴く限りは、今時ずいぶんロマンティックな解釈だけれど、それほど奇抜ではないな、という印象でしたが、これが「英雄」になると状況が一変します。

この「英雄」の第1楽章、まず(1:02)で唐突にガクッとテンポを落とし、すぐ元に復帰。以降もこのストップ・アンド・ゴーの繰り返しで、展開部など、ここからスロー、ここからは高速、とまるで接続曲かなにかみたいに進めていって、聴いていて何だろうこれは?、と思うほどにフォルム感が脆弱です。以下の楽章も含めて、こんなショパンみたいなベートーヴェン、初めて聴いたなと、半ば呆れる思いで耳を傾けていました。

しかしこれはまだ序の口で、「田園」ともなると、斬新な解釈というよりもキテレツそのもの、そんな印象を最後まで拭えませんでした(第1楽章の最初の5小節目のところ、初めて聴いた時に思わずふき出した人は沢山いるはず、、)。

このプレトニョフの演奏と同様、ベートーヴェンの交響曲の造形構造に対し極限的な揺さぶりをかける指揮者としては、例えばフルトヴェングラーの名前を挙げることができるかと思います。しかし、このプレトニョフのベートーヴェンは、フルトヴェングラーのベートーヴェンに比して、その表現の真実味において、どうにも圧倒的な開きをを感じざるを得ません。

フルトヴェングラーのベートーヴェンというのは、およそ人間の演奏行為における極限地点での勝負の記録であり、同時に演奏表現としても限界ギリギリをゆくものであり、その臨界性こそがフルトヴェングラーの絶大な表出力の根源になっているのですが、このプレトニョフの方はというと、聴いていてそんな限界ギリギリという気配感が、率直に言ってどうにも希薄です。単なる場当たり的な思い付き、面白半分、とまで言うと言い過ぎかも知れませんが、正直それに近いような匂いがプンプンする、そんな演奏です。

とはいえ、録音はしょせん録音に過ぎす、これだけ聴いて真実味がないなどと軽々しく結論づけるのも早計であり、実演では印象が全然ちがって、真実味たっぷりに聴こえるかも知れない、だからもし機会があり、このコンビのベートーヴェンを実演で聴けるなら聴いてみたいと、思っていたところ、それが聴けるというのでサントリーホールに赴きました。結果は残念ながら、昨日掲載したとおりです。

というわけで、このプレトニョフのベートーヴェン全集は、私には総じてピンとこない演奏なのですが、それでも聴いていて迫真な感触を受ける楽章が1つだけあります。「第9」の第1楽章です。

この「第9」第1楽章はかなりの名演ではないかと感じました。冒頭部をこんなに長々と引っ張った演奏というのは前代未聞ですが、それはそれとして、続く最初の強奏のパンチ力が目も覚めるほどに強烈で、提示部など明らかにアンサンブルの集中力が違う感じがします。展開部中盤から再現部冒頭までは怒涛のようなテンポで走り抜けていますが、このテンポにしてかなり抉りの効いたフレージング展開で、このあたり聴いていて興奮させられますし、再現部冒頭のアンサンブルの鳴動力も素晴らしく、コーダの(13:59)あたりの緊迫に満ちた最強奏の凄味も驚嘆に値するものです。

しかし第2楽章は第1楽章ほどの緊迫力はなく、第3楽章もテンポをかなり動かした表現で、「英雄」の時みたいなデタラメな感じが付きまといますし、終楽章もかなりキテレツですね。とくにバス独唱の登場する直前の全強奏の場面などは前代未聞で、さすがにここは聴いていて失笑を禁じえませんでした。

ロシア・ナショナル管弦楽団来日公演の感想


ロシア・ナショナル管弦楽団来日公演(サントリーホール 7/9)の感想です。

オーケストラ編成は14型(正確には第1ヴァイオリン15人、第2ヴァイオリン13人)、配置はステージ向かって左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並べた変則対向配置で、これは先月、同じホールで聴いたロシア・ナショナル・フィルの時と同じ配置でした。

例のベートーヴェン交響曲全集での演奏を聴く限り、もっと小型の編成を予想していたので意外でしたが、いざ最初のベートーヴェン交響曲第7番が始まると、アンサンブルの感触としてはCDとほぼ同じでした。普通の14型の編成からすると、質感的な迫力が抑制気味で、逆にフォーカスはこの上なくクッキリとし、トッティでも再弱音でも曖昧なくキリッと鳴り響いていました。このあたりは先月のロシア・ナショナル・フィル公演の前半に聴いたチャイコフスキーの時とは全く逆の印象になります。

個々の奏者の技量には総じて安定感があり、安心して聴いていられる反面、ここぞという時の根元的な迫力や凄味に不足感がある、という印象もCDのとおりで、それはナマでもあまり相違するものではありませんでした。テンポの動きに関しても大体CDどおりという感じで、例えば第3楽章トリオから主部への繋ぎの箇所での即興風な動きなど、CDどおりに再現していました。

とはいえ、この7番の演奏は、くだんのベートーヴェン全集の中でも、プレトニョフとしてはまだ穏健な部類に入るものです。その意味で、プレトニョフの言うところの「即興的要素の重要性」をより明確に確認することができるのは、後半の「運命」の方だと踏んでいました。

そこで、私は本公演を聴きに行くにあたり、プレトニョフのCD録音の「運命」を聴き直し、プレトニョフならではというような、個性的な運用の聴かれるシーンを4つの楽章からそれぞれ一つずつ抽出して、それらが果たして実演で再現されるか否か、確認してみようと思いました。

その4つのシーンとしては、以下のものを選びました。タイム表示は、プレトニョフのCD録音の「運命」における各トラックでの該当タイムを示しています。

①第1楽章:
オーボエのカデンツァの直前、第266小節のクレッシェンド指定のあるところ(4:58)で大きくリタルダンドすること。

②第2楽章:
コーダの第204小節(8:17)でのテンポ・ルバート。

③第3楽章:
第44小節のディミヌエンド指定部(00:46)にリタルダンドを組み合わせること。

④終楽章:
コーダの第321小節(6:08)でフルート・ソロの入りを一拍遅らせること。

以上の①~④に共通することは、いずれもテンポの動きが即興風で、しかもスコアの指示に無い運用であり、さらにプレトニョフ以外にはちょっと実行する指揮者はいないのではないかというくらい個性的な動きであることです。少なくとも、①~④の条件すべてを満たす演奏は、プレトニョフのCD以外、まず有り得ないと断言できると思います。

そして、私の考えはこうです。もし、プレトニョフの演奏に聴かれる即興風な動きというのが、真に即興的な、つまり本当にその場その場での人格的な内面から滲み出る衝動や感興の動きに根ざしたものであるなら、それらはその場かぎりのものとして、少なくとも再度そのまま、判で押したかのように再現されることはないはず、と推察されます。逆に言うなら、仮に①~④がCDどおり、そっくりそのまま判で押したかのように再現されるのであれば、それは真に即興的なものではなくて、疑似的な即興にすぎないものであることが伺われます。

結果はどうであったかというと、これが残念ながら、当夜の実演では①~④とも全く判で押したかのように、CDと同じように再現されました。

つまり、そういうことです。

結局のところ、あの一連の奇矯なテンポの動きは、いかにも即興風にみせかけているだけであって、その実は、全然「即興的」でなく、あらかじめ固められた、即興風という名のフォーマットの通りに寸分たがわず演奏しているだけでした。プレトニョフのベートーヴェンが、聴いていて面白いという以上の、もっと真に迫った訴求力を獲得していないように思われるのは、そんなところに一因があるのではないか、当夜のコンサートを聴き終えて、そんな風に思いました。

今回のコンサート感想は、ちょっと否定的なことばかり書いてしまって恐縮ですが、以上が私なりの率直な感想です。もし真に即興的な表現が聴けたなら、印象は全然変わっていたと思いますし、私はむしろそれを期待していたのですが、少なくとも昨日の実演ではそうはならず、残念な思いでした。

ロシア・ナショナル管弦楽団来日公演(サントリーホール 7/9)


今日はサントリーホールでロシア・ナショナル管弦楽団の来日公演を聴いてきました。

2009-07-09

指揮者はミハイル・プレトニョフで、演目はオール・ベートーヴェン。前半が交響曲第7番、後半が同第5番「運命」でした。また、アンコールにはJ.S.バッハの「G線上のアリア」ストコフスキー編曲版が演奏されました。

プレトニョフとロシア・ナショナル管のベートーヴェンといえば、一昨年リリースされて賛否両論を巻き起こした、あの超個性的な交響曲全集の録音が思い起こされるところですが、くだんの全集に関しては、私はおおむね否定的な印象を抱いています。曲にも拠りますが、あれは総じて、いまひとつ真実味を感じ難い演奏だと思います。

とはいえ、聴いていて色々と興味をそそられる演奏であるには違いなく(とにかく聴いていてあれほどスコアを見たくなるような演奏というのも滅多にはない)、また録音はしょせん録音、実演では印象が全然ちがって、真実味たっぷりに聴こえるかも知れない、というような幾ばくかの期待も抱いて、ホールに足を運んでみました。

その結果は、、、

正直、「厳しい」としか言い様がないところで、ある程度は想定していたことですが、録音同様、実演においても、やはり私にはどうにもピンとこないベートーヴェンでした。

ただ、私にとってプレトニョフのベートーヴェンがなぜピンとこないのか、という根本的な理由が、今日聴きに行ってうっすらと判ったような気がしました。それが収穫といえば収穫でしたが、、、

プレトニョフのベートーヴェンというのは、特にテンポなど、いかにも即興的な感じがするんですが、実は全然「即興的」ではないんですね。

そのあたりの具体的な感想は、また後日に。

デュトワ/フィラデルフィア管によるラフマニノフの交響曲全集


ラフマニノフ 交響曲全集、管弦楽・声楽作品集
 デュトワ/フィラデルフィア管弦楽団
 デッカ・タワーレコード 1990~93年 PROC-1006/9
PROC-1006-9

これは先月、タワーレコードから復刻リリースされた、シャルル・デュトワ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏によるラフマニノフの交響曲と管弦楽・声楽作品集です。

3曲の交響曲に加えて、交響詩「死の島」、幻想曲「岩」、「交響的舞曲」の各管弦楽作品と、合唱交響曲「鐘」、カンタータ「春」、「3つのロシアの歌」の各声楽作品(いずれもフィラデルフィア芸術協会合唱団の合唱で、ソプラノはアレクサンドリナ・ペンダチャンスカ、テノールはカルディ・カルドフ、バリトンはセルゲイ・レイフェルクス)がCD4枚に収録されています。

デュトワ/フィラ管のラフマニノフは、交響曲第2番を収録したCDを持っていて、それは演奏としても上々なので同じ顔合わせによる2番以外のCDも欲しいと思っていたのですが、そちらはこれまで再発盤も出ず、中古盤も見つからず、という状態でした。それがこのたび思いがけず再発され、喜んで購入しました。

デッカ・レーベルによるラフマニノフの交響曲全集というと、一般には以下のアシュケナージのものが良く知られていると思います。

455798-2
ラフマニノフ 交響曲全集
 アシュケナージ/アムステルダム・コンセルトヘボウ
 デッカ 1980~84年 455798-2

これはデッカのドル箱とも言われる人気盤で、これまでも幾度となく再発されてきたロングセラーです。

どうもデュトワ/フィラ管の一連のラフマニノフは、これまで同じデッカのアシュケナージ/コンセルトヘボウ盤の人気の割りを食っていたような感じだったのですが、それが今回、こうして全集の形で廉価で再発されたのは喜ばしい限りで、さっそく一連の演奏に耳を傾けてみました。

音質的には、アシュケナージ/コンセルトヘボウ盤と比べるならば一歩を譲る感もありますが(むしろアシュケナージ盤の音質の良さが常軌を逸しています)、優秀な音質であることに疑いはなく、その高音質を背景に、デュトワ/フィラ管ならではとも言うような美彩なオーケストラ・サウンドの粋を存分に満喫させられる演奏です。

一連の収録曲の中でも、特に交響曲第3番の演奏が一頭地を抜いていると感じました。この曲は、世界初演がフィラ管、世界初録音もフィラ管(しかもラフマニノフ自身の指揮)という、このオーケストラゆかりの作品ですが、曲想的にも華麗なフィラデルフィア・サウンドに良くフィットしていますし、当意即妙なデュトワの指揮ぶりもその面目躍如という感じがします。

第1楽章では、例えば(1:58)からの第2テーマに聴かれるチェロの音色のエレガンシー、メロディの夢想な味わいなど、聴いていて強力に惹き込まれますし、展開部後半(9:42)あたりから(11:46)の再現部までのクライマックス形成に聴かれるアンサンブルの充実した迫力と響きのめくるめく光彩美など、まさにフィラデルフィア・サウンドの醍醐味が全開という風で聴き惚れるばかりです。

そうかと思うと、第2楽章ではフィラ管のアンサンブルの各種ソロの技量の豊かさがこよなく印象的であって、冒頭のホルンや、それを受けるヴァイオリンのソロ、あるいは(2:06)からのフルート・ソロの音立ちの美しいこと、まるで極上のフランス産果実酒の如しで、以降も楽章全体に、聴いていてゴージャスな音響展開一辺倒にとどまらせないデュトワの棒の冴えが良く伺われます。

終楽章も含めて、デュトワは全体にフィラ管の芳醇な音響美を十全に活かしながら、そこにフランス風味のしっとりとして瑞々しい音色の潤いを付着させることに成功していて、アメリカの名門オーケストラの機能性にフランス風の美彩な色調感が実に巧く調和しているなと、聴いていてしきりに思わされるものでした。

ケーゲル/ライプツィヒ放送響によるベートーヴェンのミサ・ソレムニス


ベートーヴェン ミサ・ソレムニス
 ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団
 ヴァイトブリック 1987年ライヴ SSS0067
SSS0067

ヘルベルト・ケーゲルがライプツィヒ放送交響楽団及びその合唱団を指揮して、1987年12月30日と31日にベルリン・コンツェルトハウスにて演奏されたベートーヴェンのミサ・ソレムニスのライヴが収録されています。

このCDは今年5月下旬にリリースされたものなのですが、実はHMVのオンライン・サイトでは早くも「廃盤」とされていて購入不能となっています

リリースから一か月余りで廃盤というのは普通は有り得ず、何らかの事情によりリリース中断を余儀なくされたと考えるべきですが、この件に関して、くだんのHMVサイトのディスク・レビュー欄には録音が「逆位相になっている」ので廃盤になったのではないか、と書かれています。

いずれにしても気になったので、購入して確かめてみました。ちなみに、今のところ廃盤扱いされているのはHMVのみのようで、タワーレコードなどではまだ普通に売られています。

聴いてみると、、、確かに逆位相のようですね。例えば3曲目「クレド」のアレグロ・モルト(10:00)あたりのキリスト讃歌のくだりでは高弦の強奏の音像が明らかに右側ですし、4曲目「サンクトゥス」でベネディクトゥスの開始をしめやかに告げる(6:28)からのヴァイオリン・ソロもやはり右側から聴こえてくるようです。

ただ、音響全体としては残響感に富み、ハーモニーの溶け合いも良好で、いわゆる分離型のソノリティではないため、逆位相とはいえ聴いていてそれほど違和感は強くなくて、言われなければ気付かない可能性さえありそうです。

というわけで、おそらく逆位相に気付いたHMV、あるいはヴァイトブリックが自発的にリリースを打ち切った、というあたりが真相かと思われますが、これは甚だ残念な気がします。このケーゲルのミサ・ソレムニス、聴いてみると予想をずっと上回る名演だったからです。

ケーゲルとライプツィヒ放送響による声楽系の宗教曲というと、1985年にスタジオ録音したブラームスのドイツ・レクイエムが有るのですが、この演奏は私にはそれほど深みのある表情とは思えなかったため、このミサ・ソレムニスの方も過度な期待を抱かずに聴いたのですが、これが非常な名演で、正直びっくりしました。

このミサ・ソレムニスにおいても、先のドイツ・レクイエム同様、アンサンブル展開としては全体に厚みのある響きとは言えないのですが、ここではアンサンブルの鳴り切ったような燃焼力が豊かで、少なくともドイツ・レクイエムでの表面的な感じの鳴り具合とは一線を画した充実感が伺われますし、それ以上に、アンサンブルが鳴り切った場面においてさえ決して飽和せず、不思議なほどの透明感を満たしたハーモニー展開が描き出されていて、これには聴いてきて思わずグッとさせられました。

例えば2曲目「グロリア」の(12:46)からのグロリア・フーガなどがそうで、この場面でこれほど音響的に深みのあるアンサンブル展開というのも滅多に耳にし得ないと思われますし、最後の(17:44)からのプレスト部の追い込みに至っては、そのプレスト進行のアンサンブルの織り成す天上的なハーモニーの雰囲気に、聴いていてぞくぞくするようなカタルシスを覚えずにはいられないほどでした。このプレストのテンポから、これほど天上的な雰囲気を満たした演奏というのも珍しいのではないかと思います。

全体の演奏時間は83分と、この曲にしては標準よりやや遅めという風で、際立ったものではありませんが、聴いているとテンポの緩急にかかわらず、個々のフレージングには隅々まで血の通ったような確たる訴求力が感じられますし、それらのフレージングが総体的に形成するところの、俗離れしたような響きのめくるめく音響美にも強く心を動かされるものでした。

このケーゲルのミサ・ソレムニスは、事によるとこのまま「お蔵入り」になる危険もあるかと思われますが、もしそうなった場合、演奏内容が素晴らしいだけに残念な気がします。

ドラティ/ロイヤル・フィルによるベートーヴェン交響曲全集


ベートーヴェン 交響曲全集
 ドラティ/ロイヤル・フィル
 グラモフォン・タワーレコード 1975・76年 PROC-1001
PROC-1001

これは先月、タワーレコードのヴィンテージ・コレクションとして復刻リリースされた、アンタル・ドラティ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるベートーヴェンの交響曲全集です。

このベートーヴェン全集は当初イギリスでのみ販売されてほどなく廃盤となった「幻の全集」とのことで、これまでCD化されたこともなく、今回のタワレコ復刻盤が世界初CD化にして日本初リリースとされています。

1975年にドラティはルドルフ・ケンペの後任としてロイヤル・フィル首席指揮者のポストを得て、78年まで在任していますが、本全集はちょうどその時期に録音されていたもので、75年3月から76年10月という比較的短期間で全9曲を一気にレコーディングしています。

ドラティといえば、その代表的録音たる史上初のハイドン交響曲全集が、ハイドン・イヤーの今年になって超廉価で再発され、私も春先にそれを購入して聴き進めているところで、そこでの演奏内容の素晴らしさに関しては、本ブログにも既に何度か書き込んでいるところです。

今回リリースされたベートーヴェン全集は、オーケストラとレーベルは相違するとはいえ、そのハイドン全集と録音時期的にも近く、あのハイドンでの名演ぶりがベートーヴェンでも再現されるのか!と、心躍る気持ちで購入しました。それでさっそく第1番から順に聴いてみましたが、、、、

結果から言いますと、このベートーヴェン全集での演奏は、かのハイドン全集でのそれと同水準の素晴らしさ、とまではいかなかったというのが率直な感想です。確かに全9曲のうち「英雄」と7番の2演に限るなら、ハイドン全集において聴かれた充実感にかなり近いものが感じられるのですが、他の7演は残念ながら、その水準から計るといささか苦しい感じが否めませんでした。

全曲とも概ね端正にして楷書体風のベートーヴェンで、フレージングの折り目正しさ、アーティキュレーションの確実な刻み込み、地に足の着いた堅実なテンポ感、いずれひとつ取ってもまさに規範的であり、完成度としてみると一分の隙もない立派なベートーヴェンです。

しかしながらその完成度の高さに、演奏自体の表出力が比例しないのが何とも残念で、ロイヤル・フィルのアンサンブル展開はフィルハーモニカ・フンガリカのそれと比べて、弦のフレーズの力感といい音色の濃密感といい今一つ振るわず、前述の「英雄」と7番は別としても、特に「運命」「第9」あたりは、聴いていて全体にこじんまりとした雰囲気の演奏との印象が最後まで拭えませんでした。

音質は可もなく不可もなくで、クリアですが特徴に乏しく、少なくともハイドン全集の方での、デッカによるオンマイク的な音録りがもたらす音色の強度感や響きの迫力は全体的に希薄と言わざるを得ないと感じます。

ただ、以上はあくまでひと通り聴いた時点での私の印象に過ぎませんし、単に私の聴き込みが浅いだけかも知れず、もう少し聴き込んでみるつもりではいますが、少なくとも現時点での率直な感想としては、以上のような感じです。

ワルター/コロンビア響によるベートーヴェン「田園」のグランドスラム盤


ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」
 ワルター/コロンビア交響楽団
 グランドスラム 1958年 GS2035
GS2035

これまで数々の歴史的名盤につき驚異的な高音質での復刻を成し遂げてきたグランドスラム・レーベルから、今度はワルター/コロンビアの「田園」の復刻CDがリリースされたとのことで、購入してみました。

例によってLPレコードからの板起こし盤ですが、制作者のコメントによると、ここで使用されているLPは最初期に販売されたもので、後年販売のLPないしCDと違って音質加工の度合いが少なく、有りのままの響きが収録されている、とのことです。音質に関しては「各奏者の座席位置までもはっきりと聴き取れるほど」とも書かれています。

それで聴いてみたところ、このCDの音質には確かにずば抜けたものを感じました。そして聴き終えて、何というか、ちょっと言葉にならないくらいの感銘を覚えました。このワルター/コロンビアの「田園」は、今さら言うまでもなく歴史的名盤であり、演奏そのものが破格の名演ですが、それをこの音質で聴かされた日には、、、

既存盤との比較という意味で、以下のディスクと音質を比べてみました。

SRCR2007
ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」
 ワルター/コロンビア交響楽団
 ソニー・クラシカル 1958年 SRCR2007

これは本家ソニーによる1996年発売のSBMリマスタリング盤です。

ノイズレベルは全体的にソニー盤よりグランドスラム盤の方が高く、板起こし盤特有の針音も含めて、ソニー盤の方がすっきりとした耳当たりです。

その意味で単純に「聴き易い」のはソニー盤の方ですが、こと響きの実在感、アンサンブルの発するソノリティの生々しい臨場感という観点では、グランドスラム盤の方がソニー盤よりも遙かに上というほかなく、その違いには聴いていて唖然とさせられるほどです。

例えば第1楽章の第2テーマ(1:19)からの低弦の流れなど、両者を比べればグランドスラム盤の方が明らかにリアルでふくよかな音色の彩りに満ちています。この第2テーマの場面で適度に重低音を強調させ表情に奥行きを与えているのはこの演奏の特徴のひとつで、ソニー盤でもそれは認識できるものですが、このグランドスラム盤で聴くと遙かに説得力が感じられ、ここでワルターの言いたかったことさえまざまざと伝わってくるような、そんな気さえします。展開部でメインテーマがクレッシェンドしていく(3:14)あたりの弦楽器の素晴らしい臨場感などもそうで、そのむせ返るような響きの味わいが、ワルターの形成する開放的かつ愉悦的な音楽の情緒をさらに増幅せしめていて、このあたり聴いていて思わず感極まるほどのものでした。

以上の第1楽章に限らず、以後の楽章においても、総じてコロンビア響各パートの音色の発する色彩感がくっきりと、かつ生々しく収録されている点がこのグランドスラム盤の音質の大きな美質で、ソニー盤で聴くと何気なく通り過ぎてしまいそうなところも、グランドスラム盤だと意外な訴求力を獲得していて惹き込まれたり、そのあたりも新鮮な体験でした。

正直このグランドスラム盤は、聴く前は半信半疑で、「各奏者の座席位置までもはっきりと、、」というのも何かオーバーな感じがしましたが、実際聞いてみると、あながちオーバーとも言いきれない気もします。「はっきりと」というのはやや言い過ぎとも思いますが、コンサートホールを彷彿とさせる強い臨場感がよく確保されているのは事実でしょう。逆にそういう感覚がソニー盤の方にそれほど強くないのは、やはり聴き易さを過度に追求するあまりのリマスタリングの過剰による、化粧されたソノリティが、かえって本来の演奏の味わいを削ぎ落しているからではないか、そんな気もしました。

いずれにしても、このグランドスラムによるワルター/コロンビアの「田園」を耳にしたことは、私にとって極めて有意義な体験でした。こと音質面に関しては、ほぼ決定盤と言い切ってもいいのではないでしょうか。

それとは別に興味深かったのが本CDの楽曲解説で、その執筆者は、ベルリオーズです。これはベルリオーズが1830年代に書いたとされるベートーヴェン「田園」に関するエッセイ風の論考が、そのまま掲載されています。

第1楽章について「楽器法は特に描写性に富むものではないが」などと書かれていてビックリしますが、ベルリオーズからすれば確かにそうかも、、という気も。第4楽章は「恐ろしき天変地異、世の終わり」というように捉えていたようですね。

ドラティ/フィルハーモニア・フンガリカによるハイドンの交響曲「朝」「昼」「晩」


ハイドン 交響曲第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「晩」
 ドラティ/フィルハーモニア・フンガリカ
 デッカ 1972年 4781221
4781221

先般購入したドラティ/フィルハーモニア・フンガリカのハイドン・シンフォニー全集ですが、ザロモン・セットの12曲に続いて、交響曲第6番から第8番の3部作を聴いてみました。

この3部作は周知のように、ハイドンが1761年にハンガリーの大貴族エステルハージ侯の宮廷音楽家に就任した直後に作曲したとされるもので、ハイドンの初期のシンフォニー群の中では抜群の知名度を有するものですが、これら3部作をハイドンが本当に「シンフォニー」として作曲したのかは疑問の余地がかなりあるようで、内容的にはコンチェルト・グロッソに近く、演奏に際しては木管パートを中心にかなり高度なソロ・テクニックが要求される作品のようです。

しかし、ここでのドラティとフィルハーモニア・フンガリカの演奏においては、おそらくこれら3部作を確信をもって「シンフォニー」として表現したような演奏となっていて、弦パートを中心に漲るハーモニーの厚みの豊かさといい、鮮やかな立体感といい、聴いていて実に気持のいい演奏です。木管の各ソロのフレージングが多少ボッテリした感じではあるとしても、ヴァイオリンやチェロは合奏・ソロを問わず素晴らしい鳴りっぷりで胸がすく思いがします。

このドラティ盤において相対的に不足気味なのは、これら3部作のコンチェルト・グロッソとしての醍醐味ということになるかと思いますが、そちらの醍醐味に関しては他のCDでも聴けますし、このドラティ盤での確信的なシンフォニー・スタイルの演奏の方が、むしろ現在では表現として貴重のような気がします。

ちなみに、これら3部作のコンチェルト・グロッソとしての醍醐味が良く伺われる録音としては以下のマリナー/アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ盤を挙げたいと思います。

PHCP-9237
ハイドン 交響曲第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「晩」
 マリナー/アカデミー室内管弦楽団
 フィリップス 1980年 PHCP-9237

モダン楽器の名手を揃えた室内オーケストラによる、各種木管ソロを含めた器楽的な表現力の冴えが楽しめる一枚で、シンフォニックなドラティ盤の演奏とはかなりスタイルが異なりますが、このスタイルの中では傾聴に値する名演奏だと思います。なお全曲ともリピートは提示部のみで、ドラティ盤で行われていた展開部反復は省略されています。

チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルによるラヴェル「ボレロ」ほか


ラヴェル ボレロ&ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」
 チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル 
 EMIクラシックス 1993年ライヴ(展覧会の絵)、83年ライヴ(ボレロ) TOCE-9589
TOCE-9589

昨日掲載したカンブルラン/バーデンバーデン・フライブルクSWR響のラヴェル・アルバムについての感想の中で、その「ボレロ」のタイムに驚きつつ、「チェリビダッケなどは多分もっと遅かったはず」とも書きました。

そこで、そのチェリビダッケの演奏によるボレロでは実際どうだったか、CDを確認してみました。そうしたら、やはりというか、18分強というタイム。カンブルランの17分弱よりさらに1分以上長いものでした。

このチェリビダッケ盤は購入してからもう10年は経つものですが、最初に聴いたとき、確かに異色を極めた、驚異的な演奏内容であることは認めつつも、ラヴェルの演奏としては何かしらが違うような違和感も同時に伺われるものでした。

今回ひさしぶりに聴き直してみても、やはり同様の印象を感じましたが、カンブルラン盤の演奏を聴いた直後であったためか、その違和感のみなもとがうっすらと判ったような気がしました。

カンブルランのボレロと、このチェリビダッケのボレロ、遅めのテンポという点で表見的には共通しますが、両指揮者においては作品に対する演奏のスタンスが根本的に異なるように思います。

カンブルランの方は、同じフランスの作曲家ラヴェルの音楽への強い共感をベースに、まるで現代音楽を扱うような精緻さと切れ味の鋭さで表現された、客観的なスタイルの演奏です。

対してチェリビダッケの方はというと、その演奏にはカンブルランほどにはラヴェルへの強い共感は伺われず、むしろ「チェリビダッケ流のボレロ」と言い得るような、主観性の強さを強く匂わせる表現内容となっていて、かつその主観性がラヴェルの音楽のイメージを上回るほど強いため、その絶大な音楽のスケール感、ないしハーモニーの極度に拡張されたような美感などに惹き込まれつつも、ラヴェル本来の音楽のイメージに照らすと聴いていて何か違和感も残る、そんなところがあるように思います。

チェリビダッケのボレロの冒頭、客席のざわめきに紛れ込むかのように密やかに始まる小太鼓のリズム打音。この超ピアニッシモをスコア冒頭のppと規定して始まる、長大なタイムスケールのクレッシェンドに耳を傾けていると、その過程におけるp、mp、f、mf、ffといったデュナーミクを、チェリビダッケが必ずしも精度良く音化していないことに気付かされます。

例えばスコア上初めてffとなる(15:47)からの主題展開など、このチェリビダッケの演奏では、そのだいぶ前からffの域に達しているため、聴いていて「ここからff」というような感触は希薄で、むしろ「気が付いたらffだった」というようなニュアンスでしょうか。こういうニュアンスは他部においても伺われ、その型破りなタイムスケールと相まって、「規格外の演奏」であるというイメージが増幅させられ、何かとんでもないものを耳にしているような、言い知れぬ戦慄が聴いていて湧き起るほどです。

こういう「チェリビダッケの魔術」は確かに凄いものですが、カンブルランの客観的なボレロの持つ凄味とは明らかに別物、というより対極で、それでいて感銘の度合いは甲乙付け難い、両盤の演奏を聴き比べることによって、そういう演奏行為の多様性の妙を改めて印象づけられたような気がします。

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