藤原歌劇団によるポンキエッリ「ラ・ジョコンダ」公演(1)


2009-1-31

昨日のブログに書きましたように、今日は東京文化会館で、藤原歌劇団によるポンキエッリ「ラ・ジョコンダ」のオペラ上演を観てきました。

東京文化会館でオペラを観るのは久しぶりで、昨年2月の二期会によるワーグナー「ワルキューレ」を観て以来約1年ぶりになります。

「ラ・ジョコンダ」は、実演を観るのは今日が初めてですが、日本での上演頻度自体かなり低めで、本上演のプログラムによると、2000年のソフィア歌劇場来日公演まで日本では一度も舞台上演されたことのなかった作品とのことです。

ちなみにこのオペラ作品そのものに対しての私の印象を述べると、第1幕があまりパッとしないのに対し、第2幕以降はシナリオの流れや音楽の精彩においてかなり魅力的な部分が少なくなく、特に最後の第4幕は短いながらもかなりの密度感のある充実した内容だと思います。

とはいえ、しばしば言われるような、この「ジョコンダ」がヴェルディの「オテロ」の姉妹作という評価に関してはかなり疑問ですね。確かに両オペラとも台本作家が同じボイートで、作品の構成もかなり似ていますが、でも何か違うなというのが率直な印象です。例えば「ジョコンダ」での悪役バルナバは、「オテロ」のイアーゴのような狂気を孕んだ凄味のある悪役というのでなくて、どうも絵に書いたような悪役というか、ステレオタイプな感じが強く、役柄としての強烈なリアリティがいまひとつで、少なくともそのあたりは「オテロ」よりも大きく遜色する点ではないかと思います。

そういうわけで、私としてはこのオペラは、ヴェルディの最高傑作「オテロ」との関係で捉えるような作品ではなく、むしろイタリアのグランドオペラの傑作として捉える方がしっくりくるような気がします。とくに幕切れあたりの雰囲気にはヴェリズモに片足を踏み入れたような強烈さがあるので、グランドオペラ的な華やかさとヴェリズモ的なリアリティとが共存した音楽の振幅の強さにオペラ作品としての独特の面白味があり、今日の上演を観てそういう印象を強く感じました。

今日の上演の細かい感想についてはまた後日あらためて書きますが、総括的な感想としては、本作品上演に際しての藤原歌劇団のチャレンジ精神が旺盛な演奏意欲として端的に表れたような名舞台で、観ていて新鮮な感動に誘われるような素晴らしい公演内容でした。

ヴィオッティ/ミュンヘン放送響によるポンキエッリの歌劇「ラ・ジョコンダ」全曲


ポンキエッリ 歌劇「ラ・ジョコンダ」全曲
 ヴィオッティ/ミュンヘン放送交響楽団
 EMIクラシックス 2002年 TOCE-55562~64
TOCE-5556264
明日の1月31日、藤原歌劇団の上演によるポンキエッリの歌劇「ラ・ジョコンダ」を東京文化会館に観に行く予定です。そのための下準備として、シナリオの流れや歌詞や内容などを確認するため、歌詞対訳付きの全曲盤である本ディスクをひと通り聴いてみました。

本ディスク自体は2003年にリリースされたもので新譜ではありませんが、録音自体が少ないこのオペラ全曲の国内盤としては、おそらく最新の録音ではないかと思います。

アミルカーレ・ポンキエッリは当時ヴェルディの後継者としての名声を得、ミラノ音楽院に教授として迎えられ、そこでマスカーニやプッチーニの育成にあたった作曲家として知られています。しかし、ポンキエッリ自身のオペラ作品のなかで、今日オペラ劇場の演目としてかろうじて認知されているのはこの「ラ・ジョコンダ」一作のみで、上演される頻度もあまり高くありません。ポンキエッリのオペラ作曲家としての才能には非凡なものがあったとされていますが、同時代に活躍するヴェルディ、マスカーニ、プッチーニといったイタリア・オペラ史上燦然と輝く巨星の影に、なかば埋もれてしまったような形になっています。

そのポンキエッリの「ラ・ジョコンダ」は、1876年ミラノ・スカラ座にて初演された作品で、イタリアにおける事実上最後のグランド・オペラとも言われます。また第3幕の後半に演奏されるバレエ音楽「時の踊り」のメロディは、おそらく誰でも一度は聴いたことがあるくらいに有名なものです。

ストーリーは17世紀ヴェネチアを舞台として歌姫ジョコンダを中心とする愛憎劇の顛末を描いたもので、救いのないラストも含め、同じグランド・オペラではあっても、例えばヴェルディの「アイーダ」よりはかなり陰鬱なムードが強く、ヴェリズモ・オペラへの先駆けとも呼ばれる所以になっています。

以上、おおまかに書きましたが、私自身、このオペラに対してはそれほどに馴染みがあるわけではなく、実演もこれまで観たことがありません。ただ、ヴェルディやプッチーニの主要なオペラ作品の上演にはこれまでひと通り接していて、その延長として、このポンキエッリの代表作も一度観ておきたいというのが明日の観劇のおもな動機です。もちろん、滅多に上演されないオペラに接し得る貴重な機会というのもあります。

ちなみにこのヴィオッティ盤の演奏の感想についても簡単に触れますと、指揮・オケ・歌手ともに突出した印象はそれほど強くないですが、音質の良さも含めて、このオペラの規範的な演奏として充分に堪能できる内容だと思います。とくに外題役のヴィオレッタ・ウルマーナは、メゾあがりの特性を活かしたような中高音域の充実感がめざましく、本オペラの核ともいうべき悪役バルナバ役のラード・アタネリの歌唱も随所に残忍なニュアンスが滲み出る名唱だと思います。ただ、エンツォ役のドミンゴは、年齢的にも明らかにギリギリで、確かに発声量やカンタービレの美しさなどは今だ驚異的な水準にあると思いますが、それらに力を使い過ぎているためか、発声様式に以前にもまして画一感が強く、表情のリアリティがいまひとつ振るわない印象が否めないところです。

カルロス・クライバー/ドレスデン国立管によるワーグナー・楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲


ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲
 C・クライバー/ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
 グラモフォン 1980~82年 FOOG20056/9
FOOG200569
カルロス・クライバーのオペラ盤感想記シリーズの第3回です。

このクライバーの「トリスタンとイゾルデ」は、第3幕が圧巻だと思いますが、第1幕と第2幕が相対的に弱く、とくに第2幕はクライバーにしてはいまひとつという感じがします。

まず第3幕の印象ですが、冒頭の前奏曲の嘆きの動機といい、続く牧童による牧笛の旋律の悲痛さといい、物悲しいニュアンスがすこぶる際立ち、その管弦楽の絶妙なリズムと繊細な響きは聴いていて心魂打たれるような趣きを呈しています。

トリスタンのせん妄の場面、イゾルデとの再会への憧憬を歌う場面、運命を呪いながら意識を失う場面と続く一連のシーンではルネ・コロの歌唱が絶品で、これはもう劇的迫力にあふれた圧倒的な激唱なんですが、クライバーの管弦楽伴奏も俊敏に感情に反応した激しい起伏が素晴らしく、その相乗効果により表出される感興には計り知れないものがあります。

その後のイゾルデとの再会シーンも劇的感動が最大級に表現され、トリスタン絶命後の戦闘シーンにおける管弦楽の鋭い音響の冴え、そしてラスト「イゾルデ愛の死」の場面におけるプライスの、激情をはらみながらも清楚な歌唱とオケのしなやかなアンサンブルとにより奏でられる愛の旋律の美しさなど、いずれも筆舌に尽くしがたいほどです。

これに対して、第1幕は、第1幕第5場で愛の酒を飲みほすシーンの前後における管弦楽の雰囲気の激変といい、終幕近辺でのクライバーならではのダイナミックなオーケストラ・ドライブがもたらす充実した劇的高揚といい、やはり卓抜したものがあるとしても、第3幕ほどには振り切れた感じはなく、どこか音楽がもっと雄弁に語りかける余地を残しているような気がします。

第2幕も、指揮・管弦楽・歌手ともに非常に高いレベルにある演奏である点は疑いの無いところですが、クライバーのオペラ演奏としてみると音楽の訴求感が十全でない印象も否めず、このドレスデン・ルカ教会という、ある意味この第2幕の内容にかなり相応しくないロケーションが微妙に音楽のノリに影響しているのでは、というかなり穿った考えも聴いていてふと浮かんできてしまいます。

それはさすがに穿ち過ぎとしても、この「トリスタンとイゾルデ」はクライバーがその出来に必ずしも満足していなかったことは知られているところで、それはこの録音に3年も要していることからも伺えるところです。その不満足部分が具体的にどこかは伝えられていませんが、少なくとも私の印象では、第3幕はパーフェクトで、第1幕も高水準、しかし第2幕は、クライバーの才能からするともう少しできるような気が、、、というのが率直なところです。

ツェートマイヤーとブリュッヘン/18世紀オーケストラによるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集


モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全集
 ツェートマイヤー(vn) ブリュッヘン/18世紀オーケストラ
 Glossa 2000年~2005年ライヴ GCD921108
GCD921108
18世紀オーケストラとしては久々のモーツァルトの新譜で、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲全5曲とヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調がライヴ収録されています。

このうち、第1・第4・第5協奏曲はトーマス・ツェートマイヤーの弾き振りによる演奏で、それ以外はフランス・ブリュッヘンが18世紀オーケストラを指揮しての演奏です。

録音年は、第1協奏曲が2002年のブラジル・クリチバでの録音、第2・第3協奏曲が2005年のオランダ・ユトレヒトでの録音、協奏交響曲が2005年オランダ・ロッテルダムでの録音、第4・第5協奏曲が2000年のオランダ・ユトレヒトでの録音とされています。

以上のように、このモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集は録音年、録音場所、指揮形態などの条件が作品ごとに相違していて、そのため演奏の印象としても相互に微妙な相違が感じられます。ヴァイオリン協奏曲全5曲においてはとりわけ2005年録音の第2・第3協奏曲が圧巻で、いずれもヴァイオリン・ソロの惚れぼれするような爽快な弾き回しと、オーケストラの陰影豊かで美しいアンサンブル展開との織りなすハーモニーが絶妙を極め、その霊感豊かな表情の鮮やかさはかつて耳にしたことがないとさえ思えるほどです。

例えば、このディスクより半年前にリリースされた、カルミニョーラとアバド/モーツァルト管弦楽団によるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集なども、目の覚めるような美演でしたが、それと比べてもこのツェートマイヤーの演奏は表出力がひとまわり上という感じがあり、何というか単に美しい演奏というにとどまらないフレージングの深み、音色の吸引力などが付帯された、本格的な美演というか、そんな感じがします。

そして、これら2曲と同格と思えるのが協奏交響曲の演奏で、ここではツェートマイヤー四重奏団のヴィオラ奏者ルース・キリウスがヴィオラを弾いていますが、両ソロの織り成すハーモニーの豊かさがまた尋常でなく、いずれも気取りのない引き締った音色でありながらその純化された響きの美しさに聴いていて惹き込まれるばかりで、これはおそらく、同曲の最高の名演といっても過言ではないような気がします。

以上の3曲に比べて、2000年録音の第4・第5協奏曲の方も相当な名演だと思うものの、2005年録音の3曲に聴かれる表現の純度からするとちょっと及ばないような感じもあります。そのこととブリュッヘンが関与していないこととの因果関係はよく分りませんが、少なくとも聴いた限りでは、05年の3曲の協奏曲よりはオーケストラの響きのニュアンスがやはり微妙に違う感じがします。

唯一ブラジルで録音されている第1協奏曲は録音条件に拠るのかソロ・オケとも全体に高音の表出力が相対的に振るわない嫌いがあり、アンサンブル展開もややこじんまりした感じで、印象的には他の5曲とはやや開きがある内容だと感じました。

ブラレイによるシューベルトのピアノ・ソナタ第20番


シューベルト ピアノ・ソナタ第20番、3つの小品(D.946)
 ブラレイ(pf)
 キングレコード 1994年 KICC-684
KICC-684
これはおとといサントリーホールで購入したCDです。この演奏はフランク・ブラレイのデビュー盤で、もともとはハルモニア・ムンディからリリースされていた録音ですが、それは長らく廃盤で入手困難とされていたところ、昨年キングレコードから国内盤として再リリースされました。

フランク・ブラレイというと、2003年アルゲリッチ音楽祭での「アルゲリッチの代役」という超重責を見事に果たしたエピソードが有名なところですが、近年は日本でも最も人気のあるピアニストのひとりとされているようです。実際、昨年のラ・フォル・ジュルネ・ジャポン2008では、チケットがどうしても取れませんでした。おとといのサントリーのコンサートも、上岡人気との相乗もあり前売り完売、当日券もゼロという状態でした。

まずコンサートで聴いたモーツァルトの印象から書きますが、第1楽章冒頭から一貫的に粒の揃った澄んだ怜音が展開されていき、その音色自体の魅力には率直に感じ入るものがありましたが、ダイナミクスがかなり限定的に抑制されていて、強弱のメリハリに乏しく、最初のうち、少なくとも同楽章の中盤くらいまでは、聴いていて確かに綺麗だけどもずいぶん単調な演奏だなという印象を否めませんでした。

しかし、この限定的なダイナミクスの独自の魅力に気付き始めたのが同楽章後半あたりです。ブラレイのタッチはたとえ同じ音量の和音であってもフレーズごとに左右の高低のバランスを絶妙に切り替えることにより、表面的なメリハリを超えた内面的なニュアンスを巧みに湧出させ、結果的に強弱に頼らずにすこぶる雄弁な音のドラマを創出させていたことに気付かされました。第2楽章と終楽章も含め、その創造力というかインスピレーションの豊かさには聴いていて思わずため息が出るほどで、ことに終楽章の素晴らしさは、上岡の名伴奏もあり、ちょっと筆舌に尽くし難いものがありました。

以上のサントリーでのモーツァルトに対して、ブラレイのデビュー盤であるこのシューベルトの演奏では、そのモーツァルトと違って全体的にダイナミクスのメリハリがかなり強力に活用されています。しかしサントリーでのモーツァルトと共通するのは音楽の創造性に対するアーティストとしての豊かな才能の度合で、例えば第1楽章の(1:43)からの第2テーマでの深く沈みこむような翳りの色合い、このテーマが展開される(4:39)あたりの病的なまでに怜悧な強音展開、あるいは第2楽章の中間部(4:00)あたりに聴かれる悪魔的なまでの表出力など、いずれもある種常軌を逸した凄味を感じます。こういう傾向は3曲の小品の方も同様で、総じて型に嵌まらないアウトロー的な雰囲気を醸したような、シューベルトの素晴らしい独創的名演ですね。

上岡敏之/読売日響の演奏会について


昨日のコンサートの感想です。今日はまず上岡敏之の印象について書きます。

プログラムがちょっと異色ですね。前半の冒頭に、いきなり当夜4曲中最大の演奏時間を要するマーラーが配されている点、マーラーの交響曲の後休憩無しでモーツァルトのピアノ協奏曲が配されている点、そして後半冒頭にヨゼフ・シュトラウスのワルツという聴き慣れない演目が配されている点などです。

このヨゼフ・シュトラウスのワルツは、実はリヒャルトの「ばらの騎士」第2幕終盤に出る有名な「オックスのワルツ」の原型となった作品のようです。当夜は続けてその「ばらの騎士」組曲が演奏されたため、2つのメロディがいかにソックリかが聴いていて良く分かりました。

さて、上岡敏之は一部に熱狂的なファンを有するほどの人気指揮者とされていますが、私の印象では、少なくともそのCDの演奏を聴く限りは、それほどには、、、というのが率直なところでした。

とはいえ、録音だけだと伝わりにくい何かがあるのかも知れないので、そのあたりを実演で確かめてみたいと思ってコンサートに足を運んでみました。

前半のマーラーはかなり物足りなさの残る演奏で、再弱音の張り詰めるような緊張感、前半から中盤までの陶酔的なアンサンブルの流れなど魅了される部分も少なくないものの、後半の山場での不協和音の最強奏がいかにもソフトで響きの鋭角感に欠け、トランペットのA音強奏の強度不足も含めて、肝心なところが迫力不足という印象が否めませんでした。

しかし後半のヨゼフ&リヒャルトの両シュトラウスは好演、ことに「ばらの騎士」組曲は非常な名演で、アンサンブルの表情の強さ、響きの精彩、湧き立つような音色のメリハリ感など、いずれも抜群の水準で安定していて、まさに原曲のオペラティックな醍醐味を彷彿とさせるまでの素晴らしい躍動味と陶酔感を纏った演奏でした。

上岡の指揮はオーヴァーアクションなまでにダイナミックなもので、両手のみならず体全体を常に駆使し、時には指揮台の上で飛んだり跳ねたりも厭わず、という風で、見ていて全身で音楽を形成するというような情熱性の漲る指揮ぶりでした。それが音楽の表情の強さに対して(視覚効果を含めて)一定の作用を及ぼしていたことは確かだと思います。

いまひとつ印象的だったのがピアニッシモ時における極端に動きを抑制した指揮棒の動きで、時には棒をピタッと静止させてもいましたが、これは強奏時のダイナミックなアクションからするとモーションの落差があまりに極端です。これが再弱音での張り詰めるような緊張感をアンサンブルから誘うとともに、フォルテに対しての強いコントラストをも励起させているような気が見ていてしました。

後半の両シュトラウスの好演ぶりに比して前半のマーラーがいまひとつだったのが引っ掛かるところですが、プログラム構成上の機知も含めて、全体としては上岡の非凡な才の一端が垣間見れたような演奏会でした。

アークヒルズのライトアップ


arkhills-2009-01-23
今日は久々にサントリーホールでコンサートを聴いてきました。読売日響の定期演奏会で、指揮者は上岡敏之。

曲目はマーラーの交響曲第10番よりアダージョ、ヨゼフ・シュトラウスのワルツ「隠された引力」、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲、それにフランク・ブラレイのピアノ・ソロによるモーツァルトのピアノ協奏曲第23番という、かなり盛り沢山のプログラムでした。

上岡敏之、フランク・ブラレイ、ともに実演を聴くのは当夜が初めてで、両者とも一度実演を聴いてみたいと思っていたところ、それが一度に聴けるコンサートということで勇んで出かけました。

感想についてはまた後日書きたいと思います。

ちなみに、上の写真はサントリーホール入口横にあるアークヒルズの噴水のライトアップ風景を、コンサートの休憩の合間に携帯のカメラで撮影したものです。

アムランによるショパン・アルバム


ショパン ピアノ作品集
 アムラン(p)
 ハイペリオン 2008年 CDA67706
CDA67706
先月リリースされたマルク=アンドレ・アムランの新譜です。持ち前の超人的技巧を駆使して多くの秘曲的なピアノ作品の録音を数多くリリースしてきたアムランですが、今回はショパンの2曲のソナタを中心に編まれたアルバムで、アムランにしては珍しいポピュラー曲の録音です。収録曲は、①子守歌作品57②ピアノ・ソナタ第2番③夜想曲第7番④夜想曲第8番⑤舟歌⑥ピアノ・ソナタ第3番の6曲です。

アムランにしてはちょっと意外な曲目が取り上げられていることが逆に興味をそそられるようなところがあり、購入して聴いてみました。

全体的にアムラン持ち前の辣腕ぶりがいかんなく発揮されている演奏内容で、例えば第2ソナタは第1楽章冒頭から推進力みなぎるテンポに乗って繰り出される、鋭いカミソリのような切れ味のタッチを駆使しての鋭角的なフレージング展開の強烈味が素晴らしく、展開部のストレッタでの入り組んだ書式の場面など、まさに水を得た魚という風にバリバリと弾き進め、弾き崩しを抑制しつつその研ぎ澄まされた演奏技術の凄味を存分に披歴してコーダまで一気に聴かせています。第2楽章冒頭のスタカート・フレーズなどでの惚れぼれするような粒立ちの良さ、第3楽章の鐘音的強和音の圧倒的な強度感、終楽章の驚異的な指回りの速さなど、いずれも聴いていて、ことテクニックの冴えに関しては、聴いていてさすがはアムランと思わせるに充分な表現力です。

第3ソナタの方も印象的にはおおむね同様で、おそらくアムランにとっては、このソナタはさほど難曲でもないということからか、すべてのタッチが一分の隙もなく完璧にコントロールされたような技巧的洗練度の演奏となっていて、この曲の技術的な側面における醍醐味がこれ以上ないというほどに開陳された、ある種の究極的な表現力の示されている演奏とも言えるように思います。

以上のように、このアムランによるショパンの両ソナタは、確かに技術的な方面の凄味に関しては強力に魅了されるものがありましたが、そのわりには、聴いていていまひとつ胸に迫るものが薄いというか、満足感が高まり切らないようなところがあるというのが率直な感想です。

では何が物足りないかというと、このアムランのショパン演奏では、ことテクニックの冴えに関しては超一級であることは疑いの無いところですが、テクニック以外の側面に対する、ピアニストとしての主観的な色合いの付与の度合いが総じて大人しく、例えば聴いていてドキリとするようなテンポの揺らぎとか、右手と左手のバランスの大胆な再構成とか、音色の異色感とか、そういう方面における個性味の発現がかなり抑制されているため、テクニックに起因する表出力に、テクニック以外に起因する表出力が伴わないようなある種のもどかしさを聴いていて否めませんでした。

やはりショパンのソナタのような超人気曲ともなると、ここでのアムランに完全に伍するような演奏技術の高みにある録音はさすがに多くないとしても、それに近い水準にある録音は極めて多くリリースされている状況にあり、聴いていてこのソナタのこの部分は、かつて聴いたあのピアニストの録音での雰囲気に似てるような気がするとか、どうしてもそういう印象になってしまいがちです。逆にいうなら、このピアニストでなければまず聴けないというような主観的な色付けを伴う表出力の化体の度合いが、このアムランのショパンには相対的に乏しい印象が否めず、そのため圧倒的な技術力のわりには、いまひとつ胸に迫り切らないような煮え切らなさが残ってしまったような感じです。

とはいえ、このアルバムは少なくともアムランのヴィルトゥオーソ・ピアニストとしての持ち味という点では充分に堪能できる一枚であることは疑いなく、この作品の演奏技術面のひとつの極みを示した名演であるという点もまた疑いないものです。それだけに、何かもう一味の個性味が付加されれば表出力が飛躍的に高まるような気もするんですが、、、

ミュンフン/フランス国立放送フィルによるシューベルト「未完成」とアルゲリッチのソロによるシュマコン


シューベルト 交響曲第8番「未完成」&シューマン ピアノ協奏曲
 アルゲリッチ(pf)、チョン・ミュンフン/フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 仏グラモフォン・タワーレコード 2001年ライヴ PROA-232
PROA-232
2001年12月1日パリ・シャトレ座でのコンサートのライヴ録音で、もともとエイズ撲滅チャリティ用に制作されたCDです。リリース当初はフランス国内限定販売とされ国外へはほとんど出回らず、入手困難とされていましたが、昨年10月にタワーレコードのヴィンテージ・コレクションとして日本初リリースされました。

前半の「未完成」はアーティキュレーションをかなり曲線的に構築した滑らかなアンサンブルの運動感と、ミュンフンならではの管パートの音色の活かし方(例えば第1楽章の第2テーマ部(1:59)あたりの木管の音色の絶妙な色合い、同展開部(8:31)からのトランペットの色合いの鮮烈さなど)が印象的な美演で、重厚ではないものの独特の濃密感と陶酔感の立ち込める不思議な味わいの演奏です。

後半のシュマコンはアルゲリッチのピアノソロの絶好調ぶりに圧倒させられます。能動的な情熱の高揚を直截に描いたような打鍵の魅力が抜群で、第1楽章展開部(6:26)あたりの情熱を叩きつけるような激烈な強打、カデンツァの(12:20)あたりの猛烈な飛ばしぶりなど、まさにアルゲリッチのピアノを聴く醍醐味が充溢しています。

アルゲリッチのシュマコンは他にも異演盤がいくつかありますが、その中でもこの演奏は間違いなくトップクラスでしょう。アルゲリッチの録音でこれに抗し得るのは、おそらくアーノンクール/ヨーロッパ室内管と1992年にライヴ録音したテルデック盤だと思いますが、そこではピアノソロは同格としてもアーノンクールのオーケストラ伴奏がいまひとつ手ぬるいので、やはりこの2001年ライヴの方が一枚上だと思いました。

アルゲリッチの情熱的な弾き回しに煽られるかのようにミュンフンの伴奏も前半の「未完成」より格段にパッショネイトな色合いが増し、素晴らしい熱演ぶりですね。

パレー/デトロイト響によるシューマン交響曲全集


シューマン 交響曲全集、マンフレッド序曲
 パレー/デトロイト交響楽団
 マーキュリー 1953~58年 PROA-247
PROA247

先月タワーレコードの「ヴィンテージ・コレクション」として国内初リリースされたポール・パレー指揮デトロイト響のシューマン交響曲全集です。

このパレーのシューマン全集は、10年前に一度だけ外盤としてCD化されたことがありますが、すぐに完売状態となり、その稀少性ゆえネットオークションでも高値で取引されるなど、いわゆるレア盤的存在だったものですが、聴いた印象としては確かに指揮よしオケよし音質よしと三拍子そろった優れた録音で、これまでも単にレア盤という理由だけで高値取引の対象とされていたわけではないことが実感されます。

パレーの指揮は全曲ともに古典的フォルムに基づく均整感の強い音楽造りですが、概ね推進力ある速めのテンポによりながらもアンサンブルの彫りの深い練り上げ具合が半端でなく、エネルギッシュな運動感とバランスを極めたような立体感の共存の度合に聴いていて感嘆させられるとともに、その手兵デトロイト響から抽出される分厚く濃厚なサウンド自体の魅力にも実直に惹きつけられます。

このデトロイト響のみならず、ボストン響、ニューヨーク・フィル、コロンビア響など、総じて1950年代のアメリカのオーケストラのサウンドにはこの時代特有の味の濃さ、少なくとも同じオーケストラであっても21世紀現在におけるそれとは一線を画した魅力がしばしば感じられますが、このパレーのシューマンもそういう感じです。

音質に関しても半世紀も前の録音とは思えないほどの高音質で、1953年録音の第4交響曲のみモノラルですが、それでもステレオ的なプレゼンスが豊かで、58年録音の「春」やマンフレッド序曲ともなると最新録音にも近い域にあるような臨場感です。

カルロス・クライバー/バイエルン国立管によるヴェルディの歌劇「椿姫」全曲


ヴェルディ 歌劇「椿姫」全曲
 C・クライバー/バイエルン国立管弦楽団
 グラモフォン 1976・77年 F66G50244/5
F66G502445
先週に引き続き、カルロス・クライバーの残した一連のオペラ盤について感想を書くというシリーズの第2回です。

私はかつてこのオペラの魅力にすっかりハマってしまった時期があり、この「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」こそがイタリア・オペラの帝王ヴェルディの最高傑作だとかなり本気で思っていました。実際このオペラの公演はかなり観ましたし、全曲盤なども店で見かけたらとりあえず買っていました。

しかし、現在の私は、どうも往時ほどにはこのオペラに対して強い思い入れを抱けなくなっているようで、どうも30歳あたりからそういう傾向が強まったように思います。そのシナリオの底の浅さが気になり出し、オペラ作品としてはある種の極限的な強烈味に欠ける作品ではないか、というような印象が自分の中で台頭し出したからです。もし現在、ヴェルディのオペラ作品の最高傑作を挙げるとすると、私は「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」ではなく「オテロ」と答えると思います。

とはいえ、この「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」がオペラの傑作であることもまた疑いないところで、実際かつての私のように、この作品をきっかけにオペラが好きになったという人もかなり多いのではないでしょうか。

このクライバー盤の演奏ですが、言うまでもなく名盤の誉れ高いものです。

クライバーの指揮は持ち前の躍動的なリズム的表現力や情熱的なアクセントの打ち込み等に基づく極めて力動的な演奏を展開し、聴いていて音楽の方から積極的に訴えかけてくるような強力な演奏活力に満ち、さらに場面場面におけるキャラクターの感情起伏に対する俊敏な感応力にもずば抜けているという、ある種の究極的な演奏内容ではないかと思います。

まずオペラ冒頭、悲劇を予告するかのように繊細に揺れ動く管弦の細やかな動きの前奏曲に続いて、華やかで歓喜的な第1幕導入曲へ移行する際の音彩的な激変にまず惹き込まれますし、第1幕前半で頻出するワルツ風音楽に対するしなやかな語り口も格別で、例えばアルフレードのアリア「乾杯の歌」の直前の猛烈な管弦の巻き上げによってその後の歌唱に対する期待感を高めるやりかた、また後半でのヴィオレッタのアリア「そはかのひとか」に移る際にピアニッシモからしだいにデュナーミクを引き上げて緊張感を高めるやりかたなど、いずれもクライバーならではの出色な効果だと思います。

第2幕はとりわけヴィオレッタとジェロモンとの2重唱の場面などに聴かれる、激情を孕んだ動表現と悲痛な静表現とが交差するような響きの色分けや、切ないまでに痛ましい和音の刻み、さらにヴィオレッタがアルフレードに別れを告げて走り去る場面における慟哭のようなデュナーミクの起伏などが素晴らしく、第3幕ではアルフレード登場の場面からラストに向かうあたりでの、悲劇の影を表現するかのような痛々しいまでのリズムの打ち込み、そしてラストシーンのヴィオレッタ絶命シーンにおける力動的なフォルテッシモなど、いずれも深い感動的余韻を刻み込むものです。

ヴィオレッタ役コトルバスは声量や歌唱力以上に、そのいかにも可憐で弱々しい情趣をたたえた声質そのものが、この薄幸の悲劇の主人公に対してすこぶるフィットしていて、とにかく声の表現としてわざとらしさがなく、自然体に歌っているだけなのにこの上もなくヴィオレッタのキャラクタを表現し切ったような歌唱が絶品ですね。例えば第1幕の最後のカバレッタ「花から花へ」での細くかよわい声彩による、精一杯強がっているかのようないじらしさ、第2幕のジェロモンとの2重唱で自己を犠牲とする決心を語る際の切々と哀感のこもった歌い回し、アルフレードのもとから走り去る場面での迫真の表現などがそうですが、第3幕のラストにおける燃え尽きるような絶命のシーンなども真に迫る強烈味があります。

アルフレード役ドミンゴはその全盛期に近い時期と思われ、ハイ・トーンの音域で随所にギリギリ感が滲むとしても、その張りのある中高音域の充実感に加え情熱的な感情表現力においても傑出し、第1幕のアリア「乾杯の歌」やヴィオレッタとの歓喜の2重唱、第2幕後半における激情表現、第3幕における力強くヴィオレッタを勇気つけるシーンの表現など、いずれもこの役として過不足のない名唱だと思います。

ハンク・ノックスによるフレスコバルディの鍵盤のための作品集


フレスコバルディ 鍵盤のための作品集
 ノックス(cemb)
 アーリーミュージック 2007年 EMCCD-7767
EMCCD-7767
これは先月リリースされた、ジローラモ・フレスコバルディの鍵盤音楽で編まれたアルバムで、以下の作品が収録されています。
①「カプリッチョ集 第1巻」よりド・レ・ミ・ファ・ソ・ラのカプリッチョ、ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ドのカプリッチョ
②「トッカータとパルティータ集 第2巻」よりカンツォーナ第1~4番、トッカータ第1・7番、ガリアルダ第2・3番、コルレンテ第1番
③「トッカータとパルティータ集 第1巻」より「パッサカーリャによる100の変奏」
④「フランス風カンツォーナ集」よりアリア「バレット」

以上のように、構成上のメインは②の「トッカータとパルティータ集 第2巻」ですが、それに①、③、④を交えて配曲したアルバム構成になっています。

フレスコバルディは言うまでもなくスヴェーリンクと双璧をなすヨーロッパ鍵盤音楽の開祖的存在ですが、その鍵盤音楽の演奏ディスクとしては、私の印象としては「トッカータとパルティータ集」といった曲集単位での録音がほとんどで、このアルバムのように、複数の曲集から奏者が自由に作品を選んでアルバムとして構成するというようなディスクは割合少ないように思います。そんなところに興味を惹かれて軽い気持ちで購入してみました。

聴いてみるとこれが素晴らしい演奏で、ハンク・ノックスの奏でるチェンバロはクリアーで純度の高い音色と絶妙なニュアンスの彩りの添えられたタッチを駆使しながら、フレスコバルディの音楽の美しい構築性とともに、美しいメロディの形成するマドリガル的な味わいをも随所に感じさせる練達の演奏となっていて、聴いていて心が清々しい思いで満たされるような、その独特の開放感に何とも言えないものがあります。

実際このディスクの演奏は、既出のどのフレスコバルディの録音と比べてもひときわいいと思いましたが、その要因には、上に書いたような奏者の名演ぶりの他に、アルバムの配曲に工夫がされていることと、チェンバロの調律にも工夫が凝らされていることなどが関与しているように思います。

アルバムの配曲ですが、一般的な曲集単位のディスクだと例えばトッカータのみ、カンツォーナのみ、あるいはカプチッリョのみとなり、これだと続けて聴いているといまひとつ変化に乏しい印象も伴うところ、このディスクではそのあたりがうまくメリハリ付けられていて、続けて聴いていても単調感をさほど感じません。

チェンバロの調律に関してはライナーノートに詳述されていますが、平均律ではなく純正律に近い1/4コンマ・ミーントーンという調律法が採用されているため、個々の音の濁りが最小限に抑制され、純度の高い音色が器楽的に担保されるというものです。したがって、演奏を聴いて感じた個々の音色のクリアーに澄んだ色合いは、演奏者のテクニックのみならず調律上の効果にも拠るものということのようです。

以上、このディスクは軽い気持ちで購入したところが驚くほどの名演で、これを聴いてフレスコバルディの音楽の良さを再認識させられたような感じがしました。

広上淳一/コロンバス響によるチャイコフスキーの交響曲第5番


チャイコフスキー 交響曲第5番、幻想序曲「ロメオとジュリエット」
 広上淳一/コロンバス交響楽団
 DENON 2008年ライヴ COGQ35
COGQ35
このCDは、昨年12月23日にすみだトリフォニーホールで広上淳一/新日本フィルのベートーヴェン「第9」演奏会を聴いた際、終演後ロビーで購入したものです。

このCDは広上淳一が2006年から音楽監督を務めた米コロンバス響との最初の録音となるもので、08年11月にリリースされたものですが、皮肉なことに同月、広上はコロンバス響のポストを任期半ばで辞任することになってしまったため、おそらくこのディスクが広上と同オケとの、最初にして最後の録音となる公算が極めて高くなりました。

その演奏ですが、このチャイコフスキーは私の印象では間違いなく名演だと思うんですが、ただこのCDは、どうも再生にかなり特殊な設定が必要なようで、そのためせっかくの名演なのに、その真価が伝わりにくいような状況になってしまっているような感じがします。

このCDは、ボリューム・レベルが極めて低めにとられていて、通常シンフォニーを聴くときの音量で聴くと、室内楽のようなこじんまりした感じに聞こえてしまうようです。したがってアンプのボリュームをかなり高く設定しなければならないのですが、その設定レベルというのが、普通だとスピーカーあるいはヘッドフォンの損傷の危険を伴いかねないほどの高さとなってしまっています。

ボリュームをその水準に設定して聴くと、この広上の演奏の名演性が良く伝わってきます。ただ、普通そこまでボリュームを上げて聴くことはないとも思われるため、こじんまりして迫力不足の演奏と感じる人も案外少なくないのではないかと危惧されるところですが、、、

ここでの広上の指揮は、すみだトリフォニーで聴いたベートーヴェンの第9の時とおおむね同様で一貫性があります。そのアプローチは基本的に正攻法で、アンサンブルの内声の埋没を出来る限り抑止し、全奏であろうと弱奏であろうと個々のパートの輪郭線を曖昧なくクッキリと描き切るというものです。楽章を問わず、アンサンブル内声部の充実感が素晴らしく、もちろん迫力も抜群で、大局的にどっしりとしたテンポ運びもその迫力を増幅させている感じがします。ここぞという時以外はテンポを速めない組み立てで、それだけにテンポを速めた時のインパクトもまた際立った感じがします。例えば交響曲第5番の終楽章の(3:55)で仕掛けられる思い切ったテンポ・シフト。

加えて印象的なのは、コロンバス響の響きの質の高さですね。聴いていて、良い意味で「アメリカのオケらしさ」が薄い感じがします。ケレン味のなく、引き締った硬質な音色は、むしろヨーロッパのオケの感じに近いような、、、残響をかなり抑えた録られ方なので、そういう印象が助長されるのかもしれないですが、とにかくアメリカのオケとしては珍しいほど深みのある音色だと思います。

ルイージ/ドレスデン・シュターツカペレによるブルックナー交響曲第9番


ブルックナー 交響曲第9番
 ルイージ/ドレスデン・シュターツカペレ
 ソニー・クラシカル 2007年ライヴ 88697299642
88697299642
現在ドレスデン・シュターツカペレの音楽監督を務めているファビオ・ルイージによる初のブルックナーとなるディスクで、SACDハイブリッド仕様でのリリースです。将来の巨匠とも目されている実力派若手指揮者ルイージが、ドレスデンの名門オーケストラを駆りどのようなブルックナーを聴かせるのか興味深いところで、さっそく聴いてみました。

第1楽章は冒頭のppから(2:22)のfffに到るまで、緻密に練り込まれた感じのアンサンブルから発せられる、透き通るように見晴らしの良いハーモニーのパースペクティヴと、シャープに冴えた音色と、引き締った音響密度の充実感に惹きつけられます。テンポはいくぶん遅めですが奇異性は特になく、アーティキュレーションも堅実。展開部以降も同様で、例えば(14:25)からのfff全奏など、全管パートを強力に鳴らしながらも全弦による隈取りがキリリと響いていたり、どんなに音量が伸びても克明かつ立体的なハーモニー構成に対して危うさがなく、その意味での安定感は素晴らしいですが、反面、アンサンブルの重厚感や音色の濃密感などは聴いていていまひとつの物足りなさがあり、腹にズドンとくるような重みというか、そういう手ごたえは全体にいまひとつです。

第2楽章は主部の全奏強和音の鮮烈ぶりが尋常でなく、鋭利な刃で切りつけるようなシャープなアーティキュレーションが音響的にすこぶる痛烈です。このあたり、ルイージの現代的感性がよく発現されている感じで、それに高感度に応答するドレスデンのオケのアンサンブル能力にも聴いていて感心させられますが、量感面がいまひとつなのは全楽章同様で、これでバスがもう少し強ければさぞかし、という気もします。

終楽章も印象的にはここまでと同様で、重みよりも鋭さ、コクよりも透明感、というようなルイージのアンサンブル運用の方向性におおむねブレはなく、それがために感得される音楽としての深みが最大限には伸び切らないような印象も伴うとしても、表現としては一貫性があり、それによりもたらされる美質も少なくないです。なかんずく(22:00)近辺のクライマックスなど、フルボリュームでの透明感が圧巻で、その複層的な迫力には思わず息を呑むほどです。

全体としてこの演奏は、長短含めてドレスデン管のブルックナーというよりルイージのブルックナーという側面の強い演奏ですが、世界最古のオーケストラのブルックナー演奏におけるひとつの到達点として傾聴に値する内容ではないかと思います。

フルトヴェングラー/ウィーン・フィルの51年ザルツブルグ・ライヴの「第9」


ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」
 フルトヴェングラー/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 オルフェオ 1951年ライヴ C533001B
C533001B
このCDは新譜というわけではなく、もうかれこれ9年ほど前に購入したものです。1951年8月31日のザルツブルグでの「第9」のライヴで、「バイロイトの第9」から約1ヶ月後の時期における演奏となります。

1月6日付の本ブログの感想記で、フルトヴェングラーの「ニコライの第9」デルタ・クラシックス盤の音質の良さと演奏内容の素晴らしさに強い感銘を与えられたことを書きましたが、それに当てられるような形で、同じウィーン・フィルとの「第9」ライヴである、この51年ザルツブルグ・ライヴの演奏の方も聴き返してみたくなり、久しぶりに聴いてみました。

このウィーン・フィルとの51年ザルツブルグ・ライヴの「第9」は、「バイロイトの第9」と収録時期が接近していることもあり、バイロイト盤での極限的な表出力の発露がかなりの程度まで継承されたような、フルトヴェングラーの「第9」中屈指の名演として知られているものです。

今回あらためて聴いた限りでも、少なくとも演奏内容に関してのそういう印象は揺るぎませんでしたが、むしろ気になったのが音質です。

このオルフェオ盤の音質は、「ニコライの第9」のデルタ盤の音質に対して明らかに聴き劣る感じがします。それはこのオルフェオ盤とデルタ盤とを聴き比べてみれば明瞭で、デルタ盤での解像度の比較的高いクリアーな音像感に比して、このオルフェオ盤は全体に霞みがかったようなモコモコ感が強く、ソノリティもエコーがかったようなモヤモヤした感触が先立ち、どうもパリッとしません。

もちろん同じウィーン・フィルとの演奏とはいえ「ニコライの第9」とは音源自体が違う以上、単純比較は無意味ですが、しかし少なくともデルタ盤での音質を耳にした後でこれを聴くと、どうも引っ掛かる感じがします。

ちなみにこのオルフェオ盤のリマスタリングエンジニアとして記されているのはアイヒンガー&クラウスですが、このコンビのリマスタリングによる音質はパッとしないものが少なくありません。リマスタリングの方向性として、表面的な聴きやすさを志向するあまり、原音の雰囲気感とか臨場感を必要以上に削いでしまう傾向があるからです。

そういうこともあり、この51年ザルツブルグの「第9」も、どうも音質改善の余地がかなりありそうな気がするんですが、、、そうだとすると、演奏自体が圧巻なだけにちょっと勿体ない気がします。

おもに音質のことばかり書きましたが、演奏内容にも簡単に触れると、表現の根底にあるのは極限に張り付いたようなフルトヴェングラーの主観的表出力の発露で、その点ではバイロイト、そして翌年のニコライの両「第9」ライヴに通底するものですが、その主観的表出力の発露の度合いがバイロイトよりはいくぶん抑制され、客観的な方向にわずかにシフトしたような様式性が感じられます。

ただそれは「ニコライの第9」のように最晩年の様式に属するような特徴というのではなく、むしろフルトヴェングラーの意図というよりオーケストラの性質に起因するもののようにも思われます。つまり、フルトヴェングラーとしてはおそらくバイロイトのライヴとほぼ同じ主観的表現様式での演奏を意図していたところ、それがウィーン・フィルというバイロイト管よりも遙かに洗練されたアンサンブルを媒介して音響化されたことにより、バイロイトよりはいくぶん理性的・客観的な様式での「第9」が立ち現われたというような感じでしょうか。

いずれにしてもこの51年ザルツブルグの「第9」もまたバイロイト、ニコライの両「第9」とともにフルトヴェングラーの真骨頂の聴ける貴重な録音ですので、可能であるなら出来得る限りの音質改善を望みたいところです。

マタチッチ/N響の1967年のワーグナー・ライヴ


ワーグナー 管弦楽作品集
 マタチッチ/NHK交響楽団
 キングレコード 1967年ライヴ KICC3073
KICC3073
これは昨年の12月にリリースされた「マタチッチ・N響 伝説のライヴ」全8タイトルの中の一枚です。収録曲は①「さまよえるオランダ人」序曲②「ローエングリン」第1幕への前奏曲③「タンホイザー」バッカナール④「神々の黄昏」ジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~終曲。

マタチッチ&N響のワーグナーというと、すでにリリースされている1975年録音のアルトゥス盤の演奏が凄かったので、同じコンビによるこの67年ライヴもおそらく凄いだろうという予測のもとに購入して聴いてみたところ、予想以上に凄くて驚かされました。これはアルトゥス盤よりもワンランク上の超名演というのが率直な感想です。

おそらくマタチッチの全盛期の演奏という点に加えて、東京文化会館での収録という好条件の影響もあるような気がしますが(ちなみに75年のアルトゥス盤はNHKホールです)、とにかく全曲ともに圧倒的な演奏内容で、これほどの録音がこれまで日の目を見ず眠っていたという事実にはちょっと驚かされます。

最初の「オランダ人」冒頭から弦の猛々しいうねりが強烈で、ことに地深くから沸き起こるような低弦のリアルな脈動ぶりなど、まるでドイツのオーケストラのような重厚さと力強さが感じられるほど。ここでのN響の表出力は充実を極めたもので、(5:10)での天に抜けるような神々しいクレッシェンドといい、(9:55)あたりの金管の深々としたアーチの神々しさといい、現在のN響とは別のオーケストラとさえ思えるほどの表出力に圧倒させられます。そういう意味では、おそらくN響のひとつの黄金時代における貴重な録音という感じがします。次の「ローエングリン」の(6:01)あたりの極限的濃密度しかり、「タンホイザー」の(3:16)あたりの常軌を逸したド迫力しかり、、、

最後の「神々の黄昏」はマタチッチの配曲により編まれた組曲形式で、「ジークフリートのラインへの旅」の前の序奏部分から始められていて、オペラ本作のダイジェスト版のような感じです。演奏内容はまさに熱演で、綺麗ごとから遠く離れたN響迫真の響きが全面に充溢し、とくに葬送行進曲から終曲に移行するあたりの音楽の揺さぶりの激しさには聴いていて強烈な印象を与えられました。

カルロス・クライバー/バイエルン国立管によるJ.シュトラウスⅡ世「こうもり」全曲


J.シュトラウスⅡ世  喜歌劇「こうもり」全曲
 C・クライバー/バイエルン国立管弦楽団
 グラモフォン 1975年 F66G20054/5
F66G200545
カルロス・クライバーの残した一連のオペラ盤について感想を書くというシリーズの第1回めとして、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「こうもり」の録音を取り上げてみたいと思います。

「こうもり」というのはオペレッタ中の登場人物のひとりで舞踏会の主催者フォルケ博士のアダ名で、この「カッコ悪い」アダ名の原因を作ったのがこのオペレッタの主役アイゼンシュタインです。それを根にもった「こうもり」ことフォルケ博士がアイゼンシュタインへの復讐を企て、自分が主催する舞踏会にアイゼンシュタインおよびその妻などの身内をすべて仮名のもとに(つまり仮面舞踏会ならぬ「仮名舞踏会」)招待し、その無礼講の場でアイゼンシュタインの本性を身内に暴露し、彼らの人間関係をメチャクチャにしてやろうという狡猾な計略がはかられる、というのがこのオペレッタの大まかなシナリオになります。

こんな風に書くとなにかドス黒い人間ドラマのようにも聞こえますが、実際にはコミカルなドタバタ劇で、最後の幕切れも「すべてはシャンパンのせい」という予定調和な終幕で後味もすっきりしていて、それにシュトラウスの軽妙な音楽が付けられた上質な娯楽作品です。

ここでのクライバーの演奏ですが、本編に配されている各種のワルツ音楽において、ワルツとしてのリズムの魅力と、その旋律の魅力とが同時に強調されているような巧妙さがあり、結果的にシュトラウスのワルツ音楽がもたらす優雅なムードをバックに展開される、問答無用に楽しいドタバタ劇というコントラストがすこぶる味わい深く音化されているように感じます。とりわけ第2幕の第11番フィナーレ後半、バレエの場面から終幕のワルツにかけての一連の場面の素晴らしさは特筆的だと思います。

このバレエの場面は、このクライバー盤ではシュトラウス本来のバレエ音楽の代わりに同じシュトラウスのポルカ「雷鳴と閃光」が用いられていますが、これは実際の舞台においても適当にシュトラウスのワルツやポルカで置き換えて構わないことになっているようです。このクライバー盤においてポルカ「雷鳴と閃光」が使われているのは、この曲がクライバーの十八番だからで、この場面における音楽的昂揚力は圧巻ですね。それに続く第2幕終幕のワルツ、「こうもり」の代名詞のようなあの有名なワルツにおける高雅な表情は、まさにポルカとワルツという対照性がくっきりと印象付けらた希有の名演だと思います。

キャスティングですが、ヘルマン・プライ、ユリア・ヴァラディ、ルチア・ポップ、ルネ・コロにヴァイクル、クッシェという最強ぶりです。

アイゼンシュタイン役ヘルマン・プライはその際立った演技力と、ネアカ的に明るく洒脱的な歌い回しを主体とする性格表現に傑出し、特に第3幕第15番の三重唱での喜怒哀楽の豊かさなどが際立ちますが、プライは歌唱場面以外のセリフ場面でさえ際立って表情的で、例えば第2幕の中盤でフォルケ博士の「こうもり」のアダ名の由来を話す場面での、いかにも愉快といった語り口など、聴いているだけでこちらまで愉快になってくるほどです。

ロザリンデ役ユリア・ヴァラディは艶麗な美声と甘美なフレージングが濃色で、それでいて第2幕でのアイゼンシュタインとの「時計のニ重唱」などでは微妙な心理の機微まで表現していて、すごいですね。アデーレ役ルチア・ポップはその純心溌剌たるすがすがしい歌唱が魅力的で、特に第2幕第8番クープレでの見事なコロラトゥーラ唱法と、第3幕第14番クープレでのリリカルな清廉さの両面性が印象深いものです。

アルフレード役ルネ・コロは第1幕フィナーレ「酒の歌」などにおいて持ち前の透きとおるような高音美声をいかんなく発揮、「こうもり」ことフォルケ博士役ヴァイクルはそれほど表情的でもないですが、ウィーン出身歌手の強みで微妙なイントネーションの機微に富み、アイゼンシュタイン役プライと好対照の歌い口となっているようです。フランク役クッシェのコミカルな性格表現も上手いですね。

唯一問題なのがオルロフスキー役レブロフ。この人はオペラ歌手ではなく、ロシア民謡を得意とした当時のドイツ・テレビ界のスターらしいですが、そのオカマさながらの歌唱はいささか鼻につくようなところもあり、確かにこのオペレッタの娯楽色を強めるという点では大いに貢献しているとしても、せっかくの最強メンバーなのですから、ここも本来のメゾ・ソプラノ歌手でバシッと決めても良かったのでは、という気もします。

フルトヴェングラーの「ニコライの第9」のデルタ・クラシックス復刻盤


ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」
 フルトヴェングラー/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 デルタ・クラシックス 1952年ライヴ DCCA0054
DCCA0054
昨年の暮れにデルタ・クラシックスから復刻リリースされたフルトヴェングラーの「ニコライの第9」、すなわち1952年2月3日にウィーン・ムジークフェラインザールで行われた「オットー・ニコライ記念コンサート」のライヴ録音です。

ちなみに「ウィンザーの陽気な女房達」等で知られる作曲家のオットー・ニコライはウィーン・フィル創設時におけるウィーン宮廷歌劇場の指揮者でもあり、1842年にウィーン・フィルの最初のコンサートの指揮を務めるという歴史的功績を残しています。

この「ニコライの第9」はフルトヴェングラーの多くの「第9」の中でも音質的に極めて良好な状態にあるものとして知られているものですが、さらにフルトヴェングラーの復刻を多く手掛けているデルタ・クラシックスはリマスタリングに定評のあるレーベルですので、これは音質にかなり期待ができるのではないかと見込んで購入し、聴いてみました。

音質面に関しては、おおむね期待どおりという感じで、やはりソノリティの解像度が非常に高いと感じます。特に弦楽器の生々しい実在感が特筆的で、この点に限るならバイロイト第9のグランドスラム盤やミソス盤にも匹敵するようなクリアーな音響感で鳴り響いています。終楽章の(12:52)でマスターテープに拠る僅かな音飛びがありますが、全体的にはかなり良好なリマスタリングと感じました。

とはいえ、トッティでの音響的膨らみなどはやはりいまひとつで、強奏時においてソノリティが薄手になリ勝ちで、ことクライマックスでの迫力に関してはバイロイト盤に一歩も二歩も引けを取る印象は否めないところです。もっとも逆に言うと、いかなる強奏展開においてもハーモニーの混濁の度合いが大人しいため、バイロイト盤などではあいまいな細部の動きが比較的鮮明で、そういう点での迫力に関してはこの「ニコライの第9」ならではのものがあると感じます。

演奏内容自体はバイロイトの第9に比肩しうる素晴らしいものですが、バイロイトのそれよりもいくぶん客観指向性が高く、その意味でフルトヴェングラーの最晩年の様式に属するような特徴もかなり出ています。

フルトヴェングラーの主観的個性を極限まで叩きつけたようなバイロイトのライヴに対し、このニコライのライヴはその極限的な表情を根底としながらも、バイロイトの第9を理性により客観的に再構成したような趣きがあり、音質の良さを含めて、フルトヴェングラーのひとつの真骨頂が聴ける貴重な録音だと思います。

ペライアによるベートーヴェンの中期ピアノ・ソナタ作品集


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第12番、第9番、第10番、第15番「田園」
 ペライア(pf)
 ソニー・クラシカル 2008年 88697326462
88697326462
指の故障からカムバックしたマレイ・ペライアによる久々のベートーヴェン・アルバムです。ベートーヴェンのソナタ作品のまとまったアルバムとしては、1990年と94年に録音されたピアノ・ソナタ第1番~第3番以来とのことです。

ちなみにそのペライアによるソナタ第1番~第3番の録音(SRCR9806)をかつて聴いたときには、初期作品でこその快演、という印象を受け、仮に後期の大作でもこのスタイルだと、さすがにちょっと苦しいのでは、というような感想を抱きました。

それが今回の新譜ではベートーヴェンの中期のソナタ、それも比較的地味な作品を取り上げてのシブい配曲で、そこでペライアが披露するピアニズムが前回のアルバムと同様か、あるいはガラリと変えてくるか、そのあたりに興味をそそられて聴いてみました。

まず最初の第12番ソナタですが、冒頭からペライアのタッチはいつもながら美彩で、感覚的な愉悦味に満ちています。弱音はもとより強音においても水晶のような透明感であり、およそ響きが曇るという感じがなく、各打音の質感も繊細なもので、小気味良いスピード感も、その独特の美音の儚さを支え、全編にペライア一流のファンタジーが充溢する演奏です。

続く9番と10番の2曲のソナタでも印象的には同様ですが、この2曲のソナタに関しては、ベートーヴェンというよりまるでモーツァルトのソナタを聴くような天真爛漫とした佇まい、晴朗にして俗の無いニュアンスが素晴らしく、ベートーヴェンでこういう演奏が可能であるということに驚きすら感じるほどです。ある種の、突き抜けた美しさがここにはあります。この2曲の演奏は、ぺライアの卓抜した音楽センスが最良の形で発揮された超名演だと思いました。

最後の第15番「田園」は、作品との相性のためか、9番・10番の演奏ほどには突き抜けた感じは受けないですが、やはりぺライアならではの美演で、冒頭からもったいぶらないスマートなテンポで軽妙に始められ、全楽章とも歯切れの良いフレージングをベースに展開されるスピーディなタッチと粒立ちの良い音色に惹きつけられます。概ね個々のタッチの力感を抑え目としながらデリケートに弾かれたベートーヴェンで、聴いていて心和むような美演が披露されています。

以上、このペライアのベートーヴェンの新譜は、ベートーヴェンを聴くというよりペライアを聴くという側面の強い個性的なアルバムで、ことに第9・第10ソナタに聴かれる突き抜けた美しさにはひとかたならぬ感銘を受けました。

ただ、最初に書いたように、仮に後期の大作でもこのスタイルだと、さすがにちょっと苦しいのでは、というような印象は今回の新譜においてもやはり同じでした。今後ソナタ全集の録音に発展するかどうかは分らないですが、少なくとも初期と中期の作品の演奏には非常に期待がもてると思いますし、そのあたりを中心に今後もソナタ録音のリリースを継続して欲しいように思いました。

レーピンとシャイー/ゲヴァントハウス管によるブラームスのヴァイオリン協奏曲


ブラームス ヴァイオリン協奏曲、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲
 レーピン(vn)、モルク(vc)シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 グラモフォン 2008年 4777470
4777470
これは昨年12月にリリースされたレーピンの新譜ですが、それと同じ時期にレーピンはロンドン交響楽団とともに来日し、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番を弾きました。その実演をサントリーホールで聴いた印象については本ブログにも前に書きましたが、旧ソ連の生んだ神童ヴァイオリニストとして喧伝されていたかつてのレーピンのイメージから計ると、テクニカル面での迫力の幾ばくかの後退とともに、表現の深化というか円熟味が加味されているというものでした。

したがって、この新譜のブラームスの演奏も、おそらく同じような感触ではないかと予想して聴いてみました。結果的にその予想は半分当たっていましたが、その予想の範疇に留まるだけの内容でもなく、このブラームスは想像以上に名演でした。

素晴らしいのはレーピンのソロの表出力で、正攻法の真正なブラームスにして劇的な緊張感に富み、そのボウイングや音色には、かつてのレーピンとは一味ちがった深みが付帯している感じがします。

ヴァイオリン協奏曲第1楽章の(2:46)からのソロの入りにはオーケストラを圧するような貫禄というか迫力があり、以降も最高の集中力をもってブラームスの音楽の機微が抜群の感度で音化されていきます。第2テーマの(6:50)あたりの精緻な強弱の与え方、結尾テーマ(8:19)あたりの強奏に張り詰める乾坤一擲の迫力。展開部から再現部にかけても、余裕のあるテクニックを持ちながらも、それを殊更に強調させ過ぎす、むしろ作品の内面に鋭く切り込むといった気迫を伴う充実を極めるボウイング展開に、聴いていて感嘆させられます。(17:29)からのハイフェッツ作のカデンツァにも同じことが言えますが、加えてシャイー&ゲヴァントハウス管の伴奏部の方も充実し切った見事な演奏で、惚れ惚れするような音響密度です。

この第1楽章に限らず第2楽章と終楽章においても、ソロには聴いていて強く訴えかけてくるような深みがコンスタントに感じられますが、そこにはかつてのレーピンの演奏とは明らかに一味もふた味も違う独特の感触があり、例えば昨年の来日公演時にサントリーホールで購入したプロコとショスタコのコンチェルト・アルバム(1995年録音)の演奏にはこういう感触は希薄だったと思います。おそらく、95年当時仮にレーピンがブラームスのコンチェルトを録音していても、このディスクのブラームスほどの名演にはならなかったような気がします。

しかし逆に、いま現在のレーピンが仮にプロコとショスタコのコンチェルト・アルバムを録音したとしても、95年録音の演奏には及ばないような気もします。なぜなら技術でねじ伏せるようなかつてのテクニカル面での迫力はさすがに後退していると思われるからで、それと引き換えに格段に円熟し深化した表現力は、むしろブラームスのような技術プラスアルファの求められる作品で最大の力を発揮するように思われ、それがまさに今回のブラームスで発揮されているように思います。

ダブル・コンチェルトの方は、チェロを弾くトルルス・モルクのフレージングがやや軽い感じですが、ヴァイオリン・ソロとオーケストラに関してはヴァイオリン協奏曲と同格の名演ぶりです。

本年もどうぞよろしく


2009年最初のブログ更新です。昨年に引き続きまして、本年もどうぞよろしくお願いします。<(_ _)>

この三が日は、年末に買い込んだ新譜を聴きながらのんびりと過ごしました。

それとは別に、カルロス・クライバーのオペラ録音をいくつか取り出してきて久々に聴いてみたりもしました。

昨年の大晦日に感想を書いた「ばらの騎士」の素晴らしさがかなり強烈だったので、それを機にクライバーの過去の録音を聴き直してみたくなったからです。

それで、新たに「カルロス・クライバーのオペラ録音」というカテゴリを作りました。そこにクライバーのオペラ盤の感想を書いていこうと思います。ただ、これは今までの「特集」カテゴリのように短期集中的に掲載するのではなく、不定期に掲載する形にしたいと思います。とりあえず週一回くらいの頻度で考えてます。

ということで、明日からのブログ更新は、昨年の年末にかけてリリースされた新譜アルバムの感想をメインに、随時クライバーのオペラ盤の感想を交えるという形で進めたいと思います。

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