「寺田寅彦随筆集」第5巻より「小浅間」から「俳句の精神」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は最終回として、「小浅間」「日本人の自然観」「小爆発二件」「三斜晶系」「俳句の精神」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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小浅間
(昭和十年九月、東京朝日新聞)

1935年の夏に寅彦が長野県の小浅間山に登り、頂上で火山観測のためにテントで泊まり込んでいる東大地震観測所のT理学士と合流、そこで歓談のひと時を過ごす、という内容。

地道な地質学の研究に邁進する一研究者へ捧げられた、短いながらも重みのあるエッセイです。

日本人の自然観
(昭和十年十月、東洋思潮)

 今私は浅間山のふもとの客舎で、この原稿を書きながらうぐいすやカッコウやホトトギスやいろいろのうたい鳥の声に親しんでいる。きじらしい声も聞いた。クイナらしい叩音(こうおん)もしばしば半夜の夢に入った。これらの鳥の鳴き声は季節の象徴として昔から和歌や俳句にも詠ぜられている。また、日本はその地理的の位置から自然にいろいろな渡り鳥の通路になっているので、これもこの国の季節的景観の多様性に寄与するところがはなはだ多い。雁やつばめの去来は昔の農夫には一種の暦の役目をもつとめたものであろう。

寅彦が昭和10年の8月に浅間山の麓に避暑に赴いたおりに、ホテルの一室で書きあげた長編エッセイ。テーマは「日本の自然」で、日本の自然というものが世界的に見て如何に特異であるかを論じ、その特異性が日本人の生活に如何なる作用をもたらしたか、いう風に論が進められています。

なお、ここでいう「日本」というのは日清戦争以前の日本の領土が対象であるということが間接的に仄めかされています。要するに朝鮮、台湾、南樺太は(当時の)日本ではあっても本エッセイの範疇にない、ということなのでしょう。

それにしても、これは自然を生涯こよなく愛した寅彦の、日本の自然に対する親愛の念が読んでいてヒシヒシと伝わってくる素晴らしいエッセイです。さすがに地球物理学者の筆になるだけに、日本の地質学的な特性が的確に指摘され、それを踏まえた論理的な文章の展開であり、ほとんど学術論文と言ってもいいほどの密度で書かれていますが、それでいて、そこに寅彦一流の風流な表現が散りばめられており、無味乾燥な論文とは程遠い、深い趣きが全編に溢れています。例えば以下の部分。

 このような理由から、日本の気候には大陸的な要素と海洋的な要素が複雑に交錯しており、また時間的にも、週期的季節的循環のほかに不規則で急激活発な交代が見られる。すなわち「天気」が多様でありその変化が頻繁である。
 雨のふり方だけでも実にいろいろさまざまの降り方があって、それを区別する名称がそれに応じて分化している点でも日本はおそらく世界じゅう随一ではないかと思う。試みに「春雨」「五月雨(さみだれ)」「しぐれ」の適切な訳語を外国語に求めるとしたら相応な困惑を経験するであろうと思われる。「花曇り」「かすみ」「稲妻」などでも、それと寸分違わぬ現象が日本以外のいずれの国に見られるかも疑問である。たとえばドイツの「ウェッターロイヒテン」は稲妻と物理的にはほとんど同じ現象であってもそれは決して稲田の闇を走らない。あらゆる付帯的気象条件がちがい従って人間の感受性に対するその作用は全然別物ではないかと思われるのである。
 これに限らず、人間と自然を引っくるめた有機体における自然と人間の交渉はやはり有機的であるから、たとえ科学的気象学的に同一と見られるものでも、それに随伴する他要素の複合いかんによって全く別種の意義をもつのは言うまでもないことである。そういう意味で私は、「春雨」も「秋風」も西洋にはないと言うのである、そうして、こういう語彙自身の中に日本人の自然観の諸断片が濃密に圧縮された形で包蔵されていると考えるのである。
 日本における特異の気象現象中でも最も著しいものは台風であろう。これも日本の特殊な地理的位置に付帯した現象である。「野分(のわき)」「二百十日」こういう言葉も外国人にとっては空虚なただの言葉として響くだけであろう。

小爆発二件
(昭和十年十一月、文学)

 昭和十年八月四日の朝、信州軽井沢千が滝(せんがたき)グリーンホテルの三階の食堂で朝食を食って、それからあの見晴らしのいい露台に出てゆっくり休息するつもりで煙草に点火したとたんに、なんだかけたたましい爆音が聞こえた。「ドカン、ドカドカ、ドカーン」といったような不規則なリズムを刻んだ爆音がわずか二三秒間に完了して、そのあとに「ゴー」とちょうど雷鳴の反響のような余韻が二三秒ぐらい続き次第に減衰しながら南の山すそのほうに消えて行った。大砲の音やガス容器の爆発の音などとは全くちがった種類の音で、しいて似よった音をさがせば、「はっぱ」すなわちダイナマイトで岩山を破砕する音がそれである。「ドカーン」というかな文字で現わされるような爆音の中に、もっと鋭い、どぎつい、「ガー」とか「ギャー」とかいったような、たとえばシャヴェルで敷居の面を引っかくようなそういう感じの音がまじっていた。それがなんだかどなりつけるかまたしかり飛ばしでもするような強烈なアクセントで天地に鳴り響いたのであった。

浅間山で起こった火山爆発について綴られたエッセイ。「一度浅間の爆発を実見したいと思っていた念願がこれで偶然に遂げられたわけである。」として、現地の様子が活き活きと描写されています。

 毎回の爆発でも単にその全エネルギーに差等があるばかりでなく、その爆発の型にもかなりいろいろな差別があるらしい。しかしそれが新聞に限らず世人の言葉ではみんなただの「爆発」になってしまう。言葉というものは全く調法なものであるがまた一方から考えると実にたよりないものである。「人殺し」「心中」などでも同様である。
 しかし、火山の爆発だけは、今にもう少し火山に関する研究が進んだら爆発の型と等級の分類ができて、きょうのはA型第三級とかきのうのはB型第五級とかいう記載ができるようになる見込みがある。
 S型三六号の心中やP型二四七号の人殺しが新聞で報ぜられる時代も来ないとは限らないが、その時代における「文学」がどんなものになるであろうかを想像することは困難である。

そのうち、S型三六号の感動やP型二四七号の名盤が音楽雑誌で報ぜられる時代も来ないとは限りませんが、その時代における「音楽」がどんなものになるであろうかは想像したくもないですね。

三斜晶系
(昭和十年十一月、中央公論)

「夢」「とんぼ」「三上戸」の3編からなるショートエッセイ集。

このうちの「夢」は、寅彦が自分の夢の中で「何か法事のような儀式」に立ち会うという話です。

「何か不安な予感のようなものがそこいらじゅうに動いているよう」な儀式で、その夢の中で行われたことを後から寅彦が色々と分析するが、結局はよく分らず、夢の解明をフロイトにでもお願いしたいというユーモアで終わっています。

このエッセイが書かれたのは昭和10年の7月から8月にかけての時期ではないかと推察されるところ、その同じ年の12月に、寺田寅彦は脊髄の病気により享年58歳で死去することになります。

おそらく、このエッセイを書いた時は本人は思いもよらなかったはずですが、ここでいう「法事のような儀式」「何か不安な予感のようなもの」などは、寅彦自身の死の前触れというか、ある種の予兆だったのではないかと思えなくもありません。これは何か妙に、不思議な余韻を醸すエッセイです。

俳句の精神
(昭和十年十月、俳句作法講座)

 ステファン・マラルメは仏国の抒情詩をおぼらす「雄弁」を排斥した。彼は散文では現わされないものだけを詩の素材とすべきだと考えた。そうして「ホーマーのおかげで詩は横道に迷い込んでしまった。ホーマー以前のオルフィズムこそ正しい詩の道だ」と言ったそうである。
 この所説の当否は別問題として、この人の言う意味での正しい詩の典型となるべきものが日本の和歌や俳句であろう。雄弁な饒舌は散文に任して真に詩らしい詩を求めたいという、そういう精神に適合するものがまさにこうした短詩形であろう。この意味でまた日本各地の民謡などもこのいわゆるオルフィズムの圏内に入り込むものであるかもしれない。
 詩形が短い、言葉数の少ない結果としてその中に含まれた言葉の感覚の強度が強められる。同時にその言葉の内容が特殊な分化と限定を受ける。その分化され限定された内容が詩形に付随して伝統化し固定する傾向をもつのは自然の勢いである。さらばこそ万葉古今の語彙は大正昭和の今日それを短歌俳句に用いてもその内容において古来のそれとの連関を失わないのである。またそれゆえにそれらの語彙が民族的遺伝としての連想に点火する能力をもっているのである。

このエッセイは実質的に寺田寅彦の生涯最後の作品です。寅彦が生涯にわたり趣味として愛して止まなかった俳句を題材とする長編のエッセイで、俳句という日本に独特の文化が発達した背景には、日本に特有の自然感と切っても切れないとして、この直前に発表した「日本人の自然観」の内容を引き継ぐような形で論が進められています。

 一例として「荒海や佐渡に横とう天の川」という句をとって考えてみる。西洋人流の科学的な態度から見た客観的写生的描写だと思って見れば、これは実につまらない短い記載的なセンテンスである。最も有利な見方をしても結局一枚の水彩画の内容の最も簡単なる説明書き以外の何物でもあり得ないであろう。それだのにこの句が多くの日本人にとって異常に美しい「詩」でありうるのはいったいどういうわけであろうか。この句の表面にはあらわな主観はきわめて希薄である。「横とう」という言葉にわずかな主観のにおいを感ずるくらいである。それだのにわれわれはこの句によって限り無き情緒の活動を喚起されるのは何ゆえであろうか。
 われわれにとっては「荒海」は単に航海学教科書におけるごとき波高く舟行に危険なる海面ではない。四面に海をめぐらす大八州国(おおやしまのくに)に数千年住み着いた民族の遠い祖先からの数限りもない海の幸いと海の禍(わざわ)いとの記憶でいろどられた無始無終の絵巻物である。そうしてこの荒海は一面においてはわれわれの眼前に展開する客観の荒海でもあると同時にまたわれわれの頭脳を通してあらゆる過去の日本人の心にまで広がり連なる主観の荒海でもあるのである。「大海(おおうみ)に島もあらなくに海原(うなばら)のたゆとう波に立てる白雲」という万葉の歌に現われた「大海」の水はまた爾来(じらい)千年の歳月を通してこの芭蕉翁の「荒海」とつながっているとも言われる。

このエッセイは、文筆家としての寺田寅彦を読み解く上でも興味深い事柄が多く記述されていて興味が尽きません。「俳句の修業はその過程としてまず自然に対する観察力の練磨を要求する。俳句をはじめるまではさっぱり気づかずにいた自然界の美しさがいったん俳句に入門するとまるで暗やみから一度に飛び出してでも来たかのように眼前に展開される。今までどうしてこれに気がつかなかったか不思議に思われるのである。」「一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これは普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性によるものと解釈されるようであるが、しかしそれよりも根本的なことは、書く事の内容の取捨選択について積まれた修業の効果によるのではないかと思われる。俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。」こういったあたりを読むと、寅彦文学の本質は夏目漱石と同じく、実は俳句にあり、ということもできるように思えます。

そして最後、以下の一文をもって彼の最後のエッセイは結ばれます。

自分は、俳句のほろびない限り日本はほろびないと思うものである。



以上、寺田寅彦の随筆集として岩波文庫から刊行されている全5巻に収録のエッセイ、そのすべてを今回までに一通り、ざっと概観しました。

かなり駆け足での取り上げ方となってしまい、それでも結局まる一ヵ月も掛かってしまいましたが、如何だったでしょうか。

寺田寅彦の随筆には、何より21世紀の現在に起きている、さまざまな事象のレファレンスとして読まれるようなところが至る所に出てきます。時代を超えた訴求力というのか、そういう意味では、漱石の小説にさえ比肩するようなパワーがあると言っても過言ではないかも知れない。

もちろん、寺田文学の本当の真価を伝えるとなると私ごときには甚だ任が重く、とても無理な話ですし、むしろ私などよりも遙かに適任な方も多く居られるでしょう。あくまで私は私なりに寺田寅彦を読んで感じた面白さをいうものを、素直に書いたまでのことで、おそらく私が見落としている大事なことも、それこそ無数にあると思います。

それでも私の一連の記事から、私なりに感じた面白さというものを少しでもお伝えできたならば、本懐の至りです。

「寺田寅彦随筆集」第5巻より「映画雑感4」から「映画と生理」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「映画雑感Ⅳ」「B教授の死」「災難雑考」「糸車」「映画と生理」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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映画雑感Ⅳ
(昭和十年六月、渋柿)

寅彦の「映画雑感」シリーズの4番目のエッセイ。「商船テナシティ」「外人部隊」「ベンガルの槍騎兵」「ロスチャイルド」「麦秋」といった当時の映画館での話題作が多く取り上げられています。

興味深いのは「四 映画批評について」の以下の部分。

 このごろはそれほどでもないがひところはソビエト映画だとなんでもかでもほめちぎり、そうでない映画は全部めちゃくちゃにけなしつけるというふうの批評家があった。しかしそういう批評をいくら読んでみても一方の映画のどういう点がどういうわけで、どういうふうによく、他方のがどうしていけないかという具体的分析的の事はちっともわからないのであった。こういうふうに純粋に主観的なものは普通の意味で批評とは名づけにくいような気がする。
 批評はやはりある程度までは客観的分析的であってほしい。そうしてやはりいいところと悪いところと両方を具体的に指摘してほしい。

B教授の死
(昭和十年七月、文学)

このエッセイ、最初に読んだときには「本当に実話なのか?」と思ったくらいでしたが、やはり実話のようです。

ここで書かれているのは、「十余年ほど前に東京のSホテルで客死したスカンジナビアの物理学者B教授のこと」ですが、かなり衝撃的な内容で驚かされます。

1917年の春、ノルウェーの物理学者B教授が日本に来日して東京帝大の理科研究室を訪れ、そこで寅彦と知遇を得ます。

 それから二三日たって、箱根のホテルからのB教授の手紙が来て、どこか東京でごく閑静な宿を世話してくれないかとのことであった。たしか、不眠症で困るからという理由であったかと思う。当時U公園にS軒付属のホテルがあったので、そこならば市中よりはいくらか閑静でいいだろうと思ってそのことを知らせてやったら、さっそく引き移って来て、幸いに存外気に入ったらしい様子であった。

なお、文中の「U公園」というのは上野公園で、「S軒」というのは精養軒のことです。

 ある日少しゆっくり話したいことがあるから来てくれと言って来たのでさっそく行ってみると、寝巻のまま寝台の上に横になっていた。少しからだのぐあいが悪いからベッドで話すことをゆるしてくれという。それから、きょうはどうもドイツ語や英語で話すのは大儀で苦しいからフランス語で話したいが聞いてくれるかという。自分はフランス語はいちばん不得手だがしかしごくゆっくり話してくれればだいたいの事だけはわかるつもりだと言ったら、それで結構だと言ってぽつぽつ話しだしたが、その話の内容は実に予想のほかのものであった

その話というのは、B教授が何か軍事的に重大な発明をして、それがもとで某国の軍事スパイから命を狙われている、というものです。

 翌朝P教室へ出勤するとまもなくS軒から電話でB教授に事変が起こったからすぐ来てくれとの事である。急病でも起こったらしいような口ぶりなので、まず取りあえずN教授に話をして医科のM教授を同伴してもらう事を頼んでおいて急いでS軒に駆けつけた。
 ボーイがけさ部屋をいくらたたいても返事がないから合いかぎでドアを明けてはいってみると、もうすでに息が絶えているらしいので、急いで警察に知らせると同時に大学の自分のところへ電話をかけたということである。
 ベッドの上に掛け回したまっ白な寒冷紗(かんれいしゃ)の蚊帳(かや)の中にB教授の静かな寝顔が見えた。枕上(まくらがみ)の小卓の上に大型の扁平なピストルが斜めに横たわり、そのわきの水飲みコップの、底にも器壁にも、白い粉薬らしいものがべとべとに着いているのが目についた。

この事件は実際に1917年6月15日に発生しており、表向きはB教授の自殺ということで処理されたそうですが、果たして真相は、、、?

災難雑考
(昭和十年七月、中央公論)

「まさか、あの寺田寅彦が、こんなことを書くなんて?」と思わせられるエッセイ。防災の必要性を繰り返し提言してきた寅彦ですが、本エッセイでは、あきらかに論調が「おかしい」のです。

・・・よくよく考えて見ていると災難の原因を徹底的に調べてその真相を明らかにして、それを一般に知らせさえすれば、それでその災難はこの世に跡を絶つというような考えは、ほんとうの世の中を知らない人間の机上の空想に過ぎないではないかという疑いも起こって来るのである。
 早い話がむやみに人殺しをすれば後には自分も大概は間違いなく処刑されるということはずいぶん昔からよくだれにも知られているにかかわらず、いつになっても、自分では死にたくない人で人殺しをするものの種が尽きない。若い時分に大酒をのんで無茶な不養生をすれば頭やからだを痛めて年取ってから難儀することは明白でも、そうして自分にまいた種の収穫時に後悔しない人はまれである。
・・・
 また一方ではこういう話がある。ある遠い国の炭鉱では鉱山主が爆発防止の設備を怠って充分にしていない。監督官が検査に来ると現に掘っている坑道はふさいで廃坑だということにして見せないで、検査に及第する坑だけ見せる。それで検閲はパスするが時々爆発が起こるというのである。真偽は知らないが可能な事ではある。
 こういうふうに考えて来ると、あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えをもう一ぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものであるという、奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。

要するに、人類が災難に遭うのは一種の宿命であり、人為的に軽減できるものではないのではないか、と言うのです。

 もしもこのように災難の普遍性恒久性が事実であり天然の方則であるとすると、われわれは「災難の進化論的意義」といったような問題に行き当たらないわけには行かなくなる。平たく言えば、われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって、ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育って来たと同じように災難を食って生き残って来た種族であって、野菜や肉類が無くなれば死滅しなければならないように、災難が無くなったらたちまち「災難饑餓(さいなんきが)」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか。
 古いシナ人の言葉で「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」といったような言い草があったようであるが、これは進化論以前のものである。植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下泰平だと分裂生殖が終息して死滅するが、汽車にでものせて少しゆさぶってやると復活する。このように、虐待は繁盛のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれない。
 日本の国土などもこの点では相当恵まれているほうかもしれない。うまいぐあいに世界的に有名なタイフーンのいつも通る道筋に並行して島弧が長く延長しているので、たいていの台風はひっかかるような仕掛けにできている。また大陸塊の縁辺のちぎれの上に乗っかって前には深い海溝を控えているおかげで、地震や火山の多いことはまず世界じゅうの大概の地方にひけは取らないつもりである。その上に、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分(のわき)は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止を企て、このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれないが、幸か不幸か今のところまずその心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように、また一般民衆はいっこうそんな事には頓着しないように、ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。

「地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値する」「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止を企て、このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれない」など、思わず目を疑う主張が展開されています。

 以上のような進化論的災難観とは少しばかり見地をかえた優生学的災難論といったようなものもできるかもしれない。災難を予知したり、あるいはいつ災難が来てもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残り、そういう「ノア」の子孫だけが繁殖すれば知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まって行く一方であろう。こういう意味で災難は優良種を選択する試験のメンタルテストであるかもしれない。そうだとすると逆に災難をなくすればなくするほど人間の頭の働きは平均して鈍いほうに移って行く勘定である。それで、人間の頭脳の最高水準を次第に引き下げて、賢い人間やえらい人間をなくしてしまって、四海兄弟みんな凡庸な人間ばかりになったというユートピアを夢みる人たちには徹底的な災難防止が何よりの急務であろう。ただそれに対して一つの心配することは、最高水準を下げると同時に最低水準も下がるというのは自然の変異(ヴェリエーション)の方則であるから、このユートピアンの努力の結果はつまり人間を次第に類人猿の方向に導くということになるかもしれないということである。

「優良種を選択する」などという、ナチス・ドイツのような発想が平然と書かれている点にもビックリします。

しかし以上のような主張は、むろん額面どおりに捉えるべきではないのでしょう。こういったことを本心から書いているのではなくて、おそらく当局なり国民なりに、防災意識の重要性を「強烈に」訴えたいがために、敢えてこういう過激とも思える論調を採ったものと思われます。その意味で、このエッセイは寅彦一流のブラックユーモア、といったところでしょうか。

糸車
(昭和十年八月、文学)

 祖母は文化十二年(一八一五)生まれで明治二十二年(一八八九)自分が十二歳の歳末に病没した。この祖母の「思い出の画像」の数々のうちで、いちばん自分に親しみとなつかしみを感じさせるのは、昔のわが家のすすけた茶の間で、糸車を回している袖(そで)なし羽織を着た老媼(ろうおう)の姿である。・・・この糸車というものが今では全く歴史的のものになってしまったようである。自分の子供などでもだれも実物を見たことはないらしい。産業博物館とでもいうものがあれば、そういう所に参考品として陳列されるべきものかもしれない。

以上のような書き出しに始まり、かつての祖母の回していた糸車の追憶が語られます。

 昔の下級士族の家庭婦人は糸車を回し手機を織ることを少しも恥ずかしい賤業とは思わないで、つつましい誇りとしあるいはむしろ最大の楽しみとしていたものらしい。ピクニックよりもダンスよりも、婦人何々会で駆け回るよりもこのほうがはるかに身にしみてほんとうにおもしろいであろうということは、「物を作り出すことの喜び」を解する人には現代でもいくらか想像ができそうである。
 ついでながら西洋の糸車は「飛び行くオランダ人」のオペラのひと幕で実演されるのを見たことがある。やっぱり西洋の踊りのように軽快で陽気で、日本の糸車のような俳諧はどこにもない。また、シューベルトの歌曲「糸車のグレーチヘン」は六拍子であって、その伴奏のあの特徴ある六連音の波のうねりが糸車の回転を象徴しているようである。これだけから見ても西洋の糸車と日本の糸車とが全くちがった詩の世界に属するものだということがわかると思う。
 この糸車の追憶につながっている子供のころの田園生活の思い出はほんとうに糸車の紡ぎ出す糸のごとく尽くるところを知らない。そうして、こんなことを考えていると、自分がたまたま貧乏士族の子と生まれて田園の自然の間に育ったというなんの誇りにもならないことが世にもしあわせな運命であったかのような気もしてくるのである。

文中、「飛び行くオランダ人」のオペラのひと幕とあるのは、おそらくワーグナーの「さまよえるオランダ人」第2幕冒頭の「糸紡ぎの場」を指しているのでしょう。

映画と生理
(昭和十年八月、セルパン)

 ある科学者で、勇猛に仕事をする精力家としてまた学界を圧迫する権威者として有名な人がある若いモダーンなお弟子に「映画なんか見ると頭が柔らかくなるからいかん」と言って訓戒したそうである。この「頭が柔らかくなる」というのはもちろん譬喩的(ひゆてき)の言葉であるには相違ないが、しかしその言った先生の意味が正確にどういう内容のものであったか、当人に聞いてみなければ結局ほんとうのことはわからない。ただその先生の平生の勉強ぶりから推して考えてみると、映画の享楽の影響から自然学問以外の人間的なことに興味を引かれるようになり、肝心の学問の研究に没頭するに必要な緊張状態が弛緩すると困るということを、こういう独特な言葉で言い現わしたのではないかと思われる。
 この訓戒はこの学者の平生懐抱するような人生哲学からすればきわめて当然な訓戒として受け取られるのであるが、これとは少しちがった種類の哲学の持ち主であるところの他の学者に言わせると、それと反対に「映画でも見ないと頭がかたくなっていけないから時々見るほうがいい」とも言われうるからおもしろいのである。

冒頭「ある科学者」というのは、当時の寅彦の東大での同僚の物理学者・長岡半太郎のことだそうです。対して「これとは少しちがった種類の哲学の持ち主であるところの他の学者」というのが寅彦自身なのでしょう。

 たださえ頭を使い過ぎて疲れている上に、さらにまた目を使い耳を使いよけいな精神的緊張を求めるのであるから、結果はきわめて有害でありそうにも思われるであろうが、事実は全くその反対で、一、二巻のフィルムを見ているうちに、今まで頭の中に固定観念のようにへばりついていた不思議なかたまりがいつのまにか朝日の前の霜柱のようにとけて流れて消えてしまう。休憩時間に廊下へ出て腰かけて煙草でも吹かしていると、自然にのどかなあくびを催して来る、すると今までなんとなしにしゃちこばってぎこちないものに見えた全世界が急になごやかに快いものに感ぜられて来て、眼前を歩いている見知らぬ青年男女にもなんとない親しみを感じるようになるのがわれながら不思議なくらいである。

これだけなら映画が気分転換になって健康にいい、という割りと有り来たりの話ですが、ここからが寅彦ならではの展開で、そこから一歩進んで「映画の生理的効果」について思考を巡らせているのです。

 若い人にはとにかくとしても、もはや人生の下り坂を歩いているような老人にとっては、映画の観覧による情緒の活動が適当な刺激となり、それが生理的に反応して内分泌ホルモンの分泌のバランスに若干の影響を及ぼし、場合によってはいわゆる起死回生の薬と類似した効果を生ずることも可能ではないかという、はなはだ突飛な空想も起こし得られる。
 内分泌の病的異常が情緒の動きに異常な影響を及ぼす一方で、外的な精神的の刺激が内分泌の均衡に異常を生じうることも知られているようである。映画の場合でも、官能の窓から入り込む生理的刺激が一度心理的に翻訳された後にさらにそれが生理的に反応する例も少なくないようである。最も卑近な例をあげると、スクリーンの上にコーヒーを飲む場面が映写されるのを見て急に自分もコーヒーが飲みたくなるような場合もあるであろう。
 それとほぼ同じようなわけで、もはや青春の活気の源泉の枯渇しかけた老年者が、映画の銀幕の上に活動する花やかに若やいだキュテーラの島の歓楽の夢や、フォーヌの午後の甘美な幻を鑑賞することによって、若干生理的に若返るということも決して不可能ではないように思われる。ことに、年じゅう研究室の奥にくすぶって人間離れのした仕事ばかりしているような人間にはそうした効果が存外に著しいかもしれないと思われる。昔の人間でも貝原益軒(かいばらえきけん)や講談師の話の引き合いに出る松浦老侯(まつうらろうこう)のごときはこれと同じ種類に属する若返り法を研究し実行したらしいようであるが、それらの方法は今日一般にはどうも実用的でない。これに反してここで言うところの「映画による若返り法」はきわめて実用的に安直であり、しかもなんらの副作用や後害を及ぼす危険がないようである。

映画を観ると生理学的に若返る、、かなり突拍子もない話とも思えますが、意外と本当なのかも知れないですね。

「寺田寅彦随筆集」第5巻より「俳句の型式とその進化」から「自由画稿」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「俳句の型式とその進化」「あひると猿」「詩と官能」「物売りの声」「自由画稿」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

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俳句の型式とその進化
(昭和九年十一月、俳句研究)

「新型式俳句」と呼ばれる現代俳句の新型式に対して、寅彦が思うところを書いたエッセイ。

「新型式俳句」というのは、いわゆる従来までの「五・七・五」の17文字の型に捉われない新型式の現代俳句のことで、文中では以下のように書かれています。

 二十二字三字四字から二十五字六字というのがあるかと思うと三十四字五字というのもある。文字数においてすでに短歌の三十一文字を凌駕しているのであるが、一方ではまた短歌のほうでも負けていないで、五十文字ぐらいは普通だし六十字ぐらいまではたいして珍しくもないようである。

読んでみると、どうも遠まわしに新型式俳句を批判している感じがします。

 古い昔の短い詩形はかなり区々なものであったらしい、という事は古事記などを見ても想像される。それがだんだんに三十一文字の短歌形式に固定して来たのは、やはり一種の自然淘汰の結果であって、それが当時の環境に最もよく適応するものであったためであろう。それには、この詩形が国語を構成する要素としての語句の律動(リズム)の、最小公倍数とか、最大公約数とかいったようなものになるという、そういう本質的内在的な理由もあったであろうが、また一方では、はじめはただ各個人の主観的詠嘆の表現であったものが、後に宮廷人らの社交の道具になり、感興や天分の有無に関せずだれも彼もダンスのステップを習うように歌をよむことになって来たために、自然に一定の型式を必要とすることになったのではないかと想像される。
 こういうふうにいったん固定してしまうと、それが他のあらゆる文化の伝統と連鎖を成してあたかもクロモソームのように結合し、そうして代から代へと遺伝されて来たものであろう。
 しかしまた遺伝のほうでいわゆる「突然変異(ミューテーション)」が行なわれるように、時々はいろいろな奇形児が生まれたであろうということは想像し難いことではない。しかしまた、そうした奇形児がいくらできてもその当時の環境に適合しなければその変形は存続することができなくて死滅したであろうと考えられる。

新型式俳句を「奇形児」に喩えて、まあ、そのうち自然淘汰されるだろうというのが大まかな見解のようです。

現在にしても「五・七・五」の17文字に拠らない形式の俳句というのは、ほとんど聞きませんので、当時の寅彦の予想は正しかったと言えそうです。

あひると猿
(昭和九年十二月、文学)

昭和9年の夏、寅彦が軽井沢の星野温泉という旅館に避暑に赴いた際の動物観察を題材とするエッセイ。旅館の前の池に住んでいる何匹かのあひる、それに当地の動物園にいる猿の、それぞれの生態について写実的な視点で生々しく記述されています。掲載雑誌が雑誌なだけに、少々えげつないことも書かれていますが、それだけにリアリティのある内容となっています。

詩と官能
(昭和十年二月、渋柿)

自分自身の「詩心」が、なぜだか「味覚」と密接に結びついた地点から発生し易いようだ、という自己観察に基づくエッセイ。これはあまり自慢にならない話のようにも思えるが、しかし松尾芭蕉のように、抽象的精神的な要素の多い詩を作るよりは具象的官能的な要素に富んだ詩に長じた人もいるようだから、「官能的であるということ自身がそれほどいけない事でもなさそうである」という風にまとめています。非常に短いエッセイですが、言いたいことが無駄なくコンパクトにまとめられているあたりなど、やはり読んでいて流石と言うほかないものです。

物売りの声
(昭和十年五月、文学)

 毎朝床の中でうとうとしながら聞く豆腐屋のラッパの音がこのごろ少し様子が変わったようである。もとは、「ポーピーポー」というふうに、中に一つ長三度くらい高い音をはさんで、それがどうかすると「起きろ、オーキーロー」と聞こえたものであるが、近ごろは単に「ププー、プープ」というふうに、ただひと色の音の系列になってしまった。豆腐屋が変わったのか笛が変わったのかどちらだかわからない。
 昔は「トーフイ」と呼び歩いた、あの呼び声がいったいいつごろから聞かれなくなったかどうも思い出せない。すべての「ほろび行くもの」と同じように、いつなくなったともわからないようにいつのまにかなくなり忘れられ、そうして、なくなり忘れられたことを思い出す人さえも少なくなりなくなって行くのであろう。
 納豆屋の「ナットナットー、ナット、七色唐辛子」という声もこの界隈では近ごろさっぱり聞かれなくなった。そのかわりに台所へのそのそ黙ってはいって来て全く散文的に売りつけることになったようである。

以上の書き出しに始まる、街の路上での昔ながらの物売りの声が、時代の流れとともに消えゆくことを惜しむような内容のエッセイ。

これら「物売りの声」は、当然ながら21世紀現在の東京では、すでに「絶滅」という状況にあります(廃品回収のように、録音した声を拡声器で機械的に流して周る業者は今でもいるが、無論それには風情も何もない)。

以下、寅彦自身が幼少のころに耳にした、さまざまな「物売りの声」が次々に回想されていき、かつての日本の街の路上が、いかに物売りの声で賑やかであったかが読んでいて偲ばれます。

そして最後、以下のように百年後の時代を思った、寅彦らしい提言で結ばれます。

 今のうちにこれらの滅び行く物売りの声を音譜にとるなり蓄音機のレコードにとるなりなんらかの方法で記録し保存しておいて百年後の民俗学者や好事家に聞かせてやるのは、天然物や史跡などの保存と同様にかなり有意義な仕事ではないかという気がする。国粋保存の気運の向いて来たらしい今の機会に、内務省だか文部省だか、どこか適当な政府の機関でそういうアルキーヴスを作ってはどうであろうか。

自由画稿
(昭和十年一月~五月、中央公論)

最初に「はしがき」に始まり、以下18編のショート・エッセイが続きます。いずれのエッセイも最晩年の寅彦の熟練した筆致といい、内容の面白さといい、絶品ともいうべきエッセイ集に仕上げられていますが、この中で私が特に興味をそそられたものは、9番目の「歯」と題されたエッセイです。

まず、冒頭あたりで、

 子供の時分から歯性が悪くてむし歯の痛みに苦しめられつづけて来た。十歳ぐらいのころ初めて歯医者の手術椅子一名拷問椅子(torture-chair)にのせられたとき、痛くないという約束のが飛び上がるほど痛くて、おまけにそのあとの痛みが手術前の痛みに数倍して持続したので、子供心にひどく腹が立って母にくってかかり、そうしてその歯医者の漆黒な頬髯(ほおひげ)に限りなき憎悪を投げつけたことを記憶している。コカイン注射などは知られない時代であったのである。

という読むからに痛々しい記述に始まり、寅彦が幼少の時分から虫歯に苦しめられているという境遇が語られます。

それに続いて、以下の文章が続きます。

 徴兵検査のときに係りの軍医が数えて帳面に記入したむし歯の数が自分のあらかじめ数えて行った数よりずっと多かったのでびっくりした。それが徴兵検査であっただけにそのびっくりはかなり複雑な感情の笹縁(ささべり)をつけたびっくりであったのである。
 とうとう前歯までがむしばまれ始めた。上のまん中の二枚の歯の接触点から始まった腐蝕がだんだんに両方に広がって行って歯の根もとと先端との間の機械的結合を弱めた。そうして、いつかどこかでごちそうになったときに出された吸い物の椎茸(しいたけ)をかみ切った拍子にその前歯の一本が椎茸の茎の抵抗に負けてまん中からぽっきり折れてしまった。夏目漱石先生にその話をしたらひどく喜ばれてその事件を「吾輩は猫である」の中の材料に使われた。この小説では前歯の欠けた跡に空也餅(くうやもち)が引っかかっていたことになっているが、そのころ先生のお宅の菓子鉢の中にしばしばこの餅が収まっていたものらしい。とにかく、この記事のおかげで自分の前歯の折れたのが二十八歳ごろであったことが立派に考証されるのである。立派なものがつまらぬ事の役に立つ一例である。

以上は本エッセイの導入部分で、この後も歯に関する話は続いていきますが、ここに書かれている「折れた前歯」の話が夏目漱石の小説の中で使われたという、いわゆる「楽屋ネタ」みたいな話を読むに及んで、私が以前、同小説を読んだ際に引っ掛かっていた素朴な疑問が氷塊したのです。

以下は、夏目漱石「吾輩は猫である」の中で水島寒月が初めて登場する場面です。

 おりから門の格子がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。吾輩は肴屋(さかなや)の梅公がくる時のほかは出ない事に極めているのだから、平気で、もとのごとく主人の膝に坐っておった。
 ・・・
 しばらくすると下女が来て寒月さんがおいでになりましたという。この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという話しである。この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る。
 ・・・
 「しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から大(おおい)に活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐(ひも)をひねくりながら謎(なぞ)見たような事をいう。
・・・
 見ると今日は前歯が一枚欠けている。「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええ実はある所で椎茸(しいたけ)を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭(じじいくさ)いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く叩く。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大(おおい)に吾輩を賞める。「近頃大分(だいぶ)大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。

           夏目漱石「吾輩は猫である」より

この部分、「しいたけを食べて前歯が折れた」という設定は、てっきり私は後々で何かの伏線に違いないと(勝手に)思いこみ、それで読んでいっても、以降その折れた前歯のことには小説中、とうとう最後まで触れられずじまい。あれは一体、なんだったんだろう?という素朴な疑問が残りました。

要するに、あれは伏線でも何でもなく、水島寒月のモデル寺田寅彦そのひとの前歯が、しいたけを食べたせいで折れていたという「実話」が、そのまんま小説の設定として取り込まれていただけだった、ということが本エッセイにより判明したわけです(笑)。

まあ些細なことですけど、これで何となくモヤモヤが晴れた、みたいな気分になったのでした。

「寺田寅彦随筆集」第5巻より「地図をながめて」から「天災と国防」までの5編


寺田寅彦のエッセイですが、今回から「寺田寅彦随筆集」第5巻に収録の作品を順次、取り上げていきます。

Torahiko-Essay-Collection-5

この巻の収録作品のタイトルは以下の通りです。

地図をながめて
映画雑感Ⅲ
疑問と空想
破片
天災と国防
俳句の型式とその進化
あひると猿
詩と官能
物売りの声
自由画稿
映画雑感Ⅳ
B教授の死
災難雑考
糸車
映画と生理
小浅間
日本人の自然観
小爆発二件
三斜晶系
俳句の精神

以上20編。

今回は「地図をながめて」「映画雑感Ⅲ」「疑問と空想」「破片」「天災と国防」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

地図をながめて
(昭和九年十月、東京朝日新聞)

陸地測量部から安価に出版されている地図(特に五万分一地形図)の有用性を讃え、測量部員の地形測量の際の苦労話を紹介し、その労をねぎらうという内容。

さらに、今のところ人間の活動範囲は主に地上に限定されているが、これから航空が発達していくと空中用地図が必要になる時代がくるかもしれない、と述べ、さらに「空中ばかりでなく人間の交通範囲は地下にも拡張される傾向がある」として、「関東大震後に私は首都の枢要部をことごとく地下に埋めてしまうという方法を考えたことがある」という、壮大な構想を披露します。

 九月一日は帝都の防空演習で丸の内などは仮想敵軍の空襲の焦点となったことと思われる。演習だからよいようなものの、これがほんとうであったらなかなかの難儀である。しかし、もしも丸の内全部が地下百尺の七層街になっていたとしたら、また敵にねらわれそうなあらゆる公共設備や工場地帯が全部地下に安置されており、その上に各区の諸所に適当な広さの地下街が配置されていたとしたら、敵の空軍はさぞや張り合いのないことであろうし、市民の大部分は心を安んじてその職につき枕を高くして眠ることができるであろうと思われる。もしそうなれば、東京の地図が一枚で足りないというめんどうぐらいは我慢してもだれも小言はいわないであろう。
 これは今のところでは一場の夢物語のようであるが、実はこの夢の国への第一歩はすでに踏み出されている。そうして昨今国民の耳を驚かす非常時非常時の呼び声はいっそうこの方向への進出を促すように見える。

このあたりは、あながち「夢物語」とも思えず、むしろ慧眼とも言えるでしょう。事実このエッセイが書かれてから10年後、東京は米軍の大空襲により焼土と化すことは周知の通りです。防空壕などという一時凌ぎでなく、最初から首都の枢要部を地下に建造していたなら、「敵の空軍はさぞや張り合いのないことであろう」ということにもなっていたはず、、、

映画雑感Ⅲ
(昭和九年十月、映画評論)

寅彦が昭和9年に観た、計13本の映画に対する各々の所感が綴られています。

これに限らず、寅彦の映画評を読むと、当時の日本映画、おおむねチャンバラ映画に対して辛辣な評が書かれているのが目を引きます。ここでの13番目の「血煙天明陣」は、その典型例で、「この映画は途中から見た。ずいぶん退屈な映画であった。」と書き出し、チャンバラの場面の立ち回りの「お約束」ぶりに辟易したことが書かれています。

 子供の時分に老人から聞いた話によると、ほんとうの真剣勝負というものはこれとはまるでちがうものだそうである。にらみ合う時間ばかり長くて、刀の先がちょっとさわったと思うと両方一度にぱっと後ろへ飛びしざってまたにらみ合う。にらみ合うだけでだんだん呼吸がせわしくなって肩息になるのだという。聞いただけでもすごくなる。
 ・・・
  千篇一律(せんぺんいちりつ)で退屈をきわめる切り合いや追っ駆けのこんなに多く編入されているわけが自分には了解できない。あるいは、これがいちばん費用がかからないためかとも思う。
 こういう時代物の映画で俳優たちのいちばんスチューピッドに見えるのは、彼らが何かひとかどの分別ありげな思い入れをする瞬間である。深謀遠慮のある事を顔に出そうとすればするほどスチューピッドになるのは当然のことである。
 日本の時代物映画も、もうそろそろなんとか頭脳の入れ換えをしたらどうかと思う。

疑問と空想
(昭和九年十月、科学知識)

ほととぎすの鳴き声には、どのような意味があるのか、および九官鳥の口まねは、どうして人語のように聴こえるのか、という2つの疑問に対して、自由に空想を膨らませて思うところを述べる、という内容。注目すべきは以下の部分でしょう。

 われわれの言語を言語として識別させるに必要な要素としての母音や子音の差別目標となるものは、主として振動数の著しく大きい倍音、あるいは基音とはほとんど無関係ないわゆる形成音(フォルマント)のようなものである。それで考え方によっては、それらの音をそれぞれの音として成立せしめる主体となるものは基音でなくてむしろ高次倍音また形成音だとも言われはしないかと思う。
 こういう考えが妥当であるかないかを決するには、次のような実験をやってみればよいと思われる。人間の言葉の音波列を分析して、その組成分の中からその基音ならびに低いほうの倍音を除去して、その代わりに、もとよりはずっと振動数の大きい任意の音をいろいろと置き換えてみる。そういう人工的な音を響かせてそうしてそれを聞いてみて、それがもし本来の言葉とほぼ同じように「聞こえ」たとしたなら、その時にはじめて上記の考えがだいたいに正しいということになるであろう。
 これはあまりにも勝手な空想であるが、こうした実験も現在の進んだ音響学のテクニックをもってすれば決して不可能ではないであろう。

この「空想」は実のところ当たらずとも遠からじで、特に音響学的な倍音の重要性はオーディオマニアならずとも現在では多くの人の知るところとなっています。つまり、一般に倍音成分が多いほど、響きが良く通る、豊かな音になる。逆に倍音成分が少ないほど、くぐもったような、通りの悪い響きになる。しかし、こういう知識は、今だから普通に言われているのであって、昭和9年という段階で、こういう知識なり発想なりを持ち得た人というのは、ほとんどいなかったのではないかと思うのです。寅彦自身「あまりにも勝手な空想」と断っていますが、実際ある程度の真理を突いているところが凄いところです。

破片
(昭和九年十一月、中央公論)

13編のショート・エッセイを集めたもので、いずれも当時の何気ない日常のひとコマが題材とされています。読んでいると昭和初期の時代の東京の空気がリアルに伝わってくるよう。例えば4番め収録のエッセイは、、

 八月二十四日の晩の七時過ぎに新宿から神田両国行きの電車に乗った。おりから防空演習の予行日であったので、まだ予定の消燈時刻前であったが所によっては街路の両側に並んだ照明燈が消してあった。しかし店によってはまだいつものように点燈していたにもかかわらず、町の暗さが人を圧迫するように思われた。いつもは地上百尺の上に退却している闇の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた。これでは、明治時代、明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである。
 一週間も田舎へ行っていたあとで、夜の上野駅へ着いて広小路へ出た瞬間に、「東京は明るい」と思うのであるが、次の瞬間にはもうその明るさを忘れてしまう。
 札幌から出て来た友人は、上京した第一日中は東京が異常に立派に美しく見えるという。翌日はもう「いつもの東京」になるらしい。
 けんかでなしに別居している夫婦の仲のいいわけがわかるような気がする。

最後の一文は寅彦らしいオチでニヤッとさせられますが、それにしても、「新宿から神田両国行きの電車」に乗っている時の外の景色が、「町の暗さが人を圧迫するように思われた」、「闇の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた」というのは、今では想像もつかない光景というほかなく、これについて文中では「明治時代、明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである」と書かれていますが、21世紀の我々にしてみれば「思い出す」以前に想像すらできないものです。

天災と国防
(昭和九年十一月、経済往来)

「天災は忘れた頃にやってくる」の名言を後世に残し、防災意識の重要性と必要性を生涯に渡り訴え続けた寅彦ですが、その中でも本エッセイは最高位に属するものだと思います。

 日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。

ちょうど日本が国際連盟から脱退し、諸外国との関係が緊張を孕んできた時期のエッセイだけに、日本政府は今まで以上に国防に力を注ぎ始めますが、それと同じくらい防災にも力を注ぐべきではないか、という提言が為されています。

 二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう。
 ・・・
 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

この部分、「二十世紀の現代では」と書かれているものの、これを「二十一世紀の現代では」と置き換えると、ますます妥当してしまう点が読んでいて恐ろしいところです。

 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤(えんてい)が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる。
 こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂ではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。

このあたりの記述は、今の時代に読んでも、いささかも訴求力が衰えないばかりが、むしろ増大しているとも言えます。21世紀に(必ず)起こるであろう関東大震災クラスの地震に見舞われた際、果たして「この世の地獄」は出現するのでしょうか。

 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究の描き出した空中楼閣だとばかりは言われないであろう。五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。

これに関しては、「五十年百年の後」に洋上どころか宇宙空間に人工衛星を飛ばして気象を観測するとまでは、さしもの寅彦も読めなかった、というところでしょうか。

「寺田寅彦随筆集」第4巻より「踊る線条」から「とんびと油揚」までの6編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「踊る線条」「ジャーナリズム雑感」「函館の大火について」「庭の追憶」「藤棚の陰から」「とんびと油揚」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-4

踊る線条
(昭和九年一月、東京朝日新聞)

 フィッシンガー作「踊る線条」と題するよほど変わった映画の試写をするからぜひ見に来ないかとI氏から勧められるままに多少の好奇心に促されて見に行った。プログラムを見ると、第五番「アメリカのフォクストロット」。第八番、デューカーの「魔術師の徒弟」。第九番、ブラームス「ウンガリシェ・タンツ」というふうに楽曲の名前が並べてあるだけで、いったいどんなものを見せられるか全く見当がつかない。

念のため書きますと、上記でデューカーの「魔術師の徒弟」というのはデュカスの「魔法使いの弟子」のことです。

 さて、映写が始まって音楽が始まると同時に、暗いスクリーンの上にいろいろの形をした光の斑点や線条が順次に現われて、それがいろいろ入り乱れた運動をするのであるが、全く初めての経験であるからただ一度見ただけでは到底はっきりした記憶などは残りようがない。しかし都合六編だけ通覧したあとでの印象は、実に思いのほかにおもしろいものであったということである。
 たぶんは退屈で、しいて理屈をつけて見ているうちに頭が痛くなるようなものではないかと思っていた予想に反して、ただぼんやり見ているだけでなんとなく気持ちのいい、ともかくも充分楽しめるものであるということを発見して少々驚いたのであった。残念ながら大部分は肝心の楽曲をよく知らないから困るのであるが、ただ一つモツァルトの「ニ長調メヌエット」だけは曲の構造をよく知っている上に、光像の踊りも簡単であるから、比較的らくに光像の進行を追跡することができたようである。第一のテーマは楽譜の形からも暗示されるように、彗星のような光斑がかわるがわるコンマのような軌跡を描いては消える。トリラーの箇所は数条の波線が平行して流れる。

以下、クラシックの名曲をスクリーン上の線条の運動に見立てて表現した当時の実験映画「踊る線条」を観た印象が、新鮮な感懐とともに綴られていきます。

 舞踊というものをその幾何学的運動学的要素に一度解きほごして、それから再び踊りというものを構成するとすればその第一歩はおそらくこの映画のようなものになりそうである。そういう意味でわが国の舞踊家ならびに舞踊研究家にとってもこの映画は必ず一見の価値があるであろうと思われる。一方ではまた純粋音楽というものの「空間化」の一つの試みとして音楽家ならびに音楽研究家にとっても多少の興味がありそうである。これは決して音楽を冒涜するものではなくて、音楽の領域に新しきディメンジョンを付加することの可能性を暗示するものではないかと思われる。これが、別に頼まれもせぬ自分がこの変わった映画の提燈(ちょうちん)をもって下手な踊りを踊るゆえんである。

ジャーナリズム雑感
(昭和九年四月、中央公論)
 
 ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出て来る。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする。その殺人現場における事件の推移はもちろん、その動機から犯行までの道行きをたとえ簡単にでも正確につきとめるためには、実は多数の警察官や司法官の長日月の精査を要し、しかもそれでもなかなか容易にはすみからすみまで明白にしにくいのが通例である。それを僅々(きんきん)数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末を記述し関係人物の心理にまでも立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。
 この不可能事を化して可能にする魔術師の杖は何かと調べてみると、それは、言わば、具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化とでも名づけるべき方法であると思われる。・・・

主にジャーナリズムの弊害について寅彦が思うところを自由に書いたという趣きのエッセイ。寅彦の新聞嫌い、ジャーナリズム嫌悪の性癖は割り引いて読むとしても、空論には程遠く、現代の我々が読んでも傾聴に値する内容だと感じます。

 このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撤き広げ、あたかも世界じゅうがその類型で満ち満ちているかのごとき錯覚を起こさせ、そうすることによって、さらにその類型の伝播をますます助長するのである。ジャーナリズムが恐るべき性能を充分に発揮するのはこの点であろうと思われる。たとえば大新聞がいっせいにある涜職事件(とくしょくじけん)を書き立てると全国の新聞がこれに呼応してたちまちにして日本全国がその涜職事件でいっぱいになったような感じをいだかせる。冷静なる司直の手もまたいくぶんこれに刺激されてその活動を促進されることがないとも限らない。またたとえば忠犬美談で甲新聞が人気を呼ぶと、あとからあとからいろいろな忠犬物語がほうぼうから出て来て、日本じゅうが犬だらけになり昭和八犬伝ぐらいはまたたくひまに完成するのである。一犬は虚をほえなくても残る万犬の中にはうそ八百をほえるようなのもたくさんに交じるのであるが、それがみんな実として伝えられるのである。ジャーナリズムの指はミダスの指のように触れる限りのものを金に化することもあり、反対に金もダイアモンドもことごとく石塊とすることもある。キルケのごとくすべての人間を動物に化することもあるが、また反対にとんでもない食わせものの与太者を大人物に変化させることもできるのは天下周知の事実であって事新しく述べ立てるまでもないことであろう。そうしてだれしもそれを承知していながら知らず知らずこのジャーナリズムの魔術にかかってしまうのは実に恐るべきことと言わなければならない。

函館の大火について
(昭和九年五月、中央公論)

昭和9年3月21日の夕から翌朝へかけて函館市に発生した大火が、二万数千戸を焼き払い二千人に近い死者を出したという大惨事を受けてのエッセイ。「これが昭和九年の大日本の都市に起こったということが実にいっそう珍しいこと」と述べています。

そして、火災発生当時の気象条件を細かく検討した上で、不幸にも偶然に偶然が重なった結果かくも歴史的な大火災が生じたに違いない、と分析しているのです。あたり、さすがにひとかどの学者の手によるエッセイだと読んでいて唸らされます。
 火事は地震や雷のような自然現象でもなく「おやじ」やむすこのような自由意志を備えた存在でもなく、主としてセリュローズと称する物質が空気中で燃焼する物理学的化学的現象であって、そうして九九プロセントまでは人間自身の不注意から起こるものであるというのは周知の事実である。しかし、それだから火事は不可抗力でもなんでもないという説は必ずしも穏当ではない。なぜと言えば人間が「過失の動物」であるということは、統計的に見ても動かし難い天然自然の事実であるからである。しかしまた一方でこの過失は、適当なる統制方法によってある程度まで軽減し得られるというのもまた疑いのない事実である。

寅彦の防災意識の強さは彼の他のエッセイにも度々見られますが、本エッセイは大惨事の直後だけに、舌鋒の鋭さがひときわ目立ちます。

 いずれにしても今回のような大火は文化をもって誇る国家の恥辱であろうと思われる。昔の江戸でも火事の多いのが自慢の「花」ではなくて消防機関の活動が「花」であったのである。とにかくこのたびの災害を再びしないようにするためには単に北海道民のみならず日本全国民の覚醒を要するであろう。政府でも火災の軽減を講究する学術的機関を設ける必要のあることは前述のとおりであるが、民衆一般にももう少し火災に関する科学的知識を普及させるのが急務であろうと思われる。少なくもさし当たり小学校中等学校の教程中に適当なる形において火災学初歩のようなものを插入したいものである。

今でこそ小中学校で当り前のように行われている火災発生を想定した避難訓練なども、ほとんど行われていなかった時代に書かれているだけに、ズシリと重みのある提言となっています。

庭の追憶
(昭和九年六月、心境)

土佐にある寅彦の実家を貸しているT氏から、その屋敷の庭の紅葉を写生した油絵が、このたびの上野の美術展に出品されているという書信を受けて、その絵を寅彦が観に行った際のエピソードが綴られています。

 さっそく出かけて行って見たら、たいして捜すまでもなくすぐに第二室でその絵に出くわした。これだとわかった時にはちょっと不思議な気がした。それはたとえば何十年も会わなかった少年時代の友だちにでも引き合わされるようなものであった。「秋庭」という題で相当な大幅である。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るもまぶしいくらいなので、一見しただけではすぐにこれが自分の昔なじみの庭だということがのみ込めなかった。しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。

そして、持ち前の写実的な筆致から、自身の屋敷の庭を写生した油絵を観た寅彦の脳裏に去来する思い、ある種のノスタルジックな感懐が、その少年期における幸福な記憶とともに、鮮明に描き出されていきます。

さらに以下のように、寅彦の最晩年の、孤独に囚われた心境が生々しく綴られていて、読む者に少なからぬ感銘をもたらしているのです。

 このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇(うちわ)で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩の飛び石であった。・・・飛び石のそばに突兀(とっこつ)としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。

そして、最後に以下のような文章で、このエッセイは締め括られます。とくに「死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない」と書かれた寅彦の重い言葉は、ひとつの真理を照射して止まないとともに、深々とした余韻を読み手に投げかけているように思えます。

 国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請(いとまご)いをした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像(ナハビルト)のようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
 こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下のほうへおりて行くのであった。

藤棚の陰から
(昭和九年九月、中央公論)

19編の短いエッセイをまとめたもの。

 電車に乗って空席を捜す。二人の間にやっと自分の腰かけられるだけの空間を見つけて腰をおろす。そういう場合隣席の人が少しばかり身動きをしてくれると、自然に相互のからだがなじみ合い折り合って楽になる。しかし人によると妙にしゃちこばって土偶か木像のように硬直して動かないのがある。
 こういう人はたぶん出世のできない人であろうと思う。
 もっとも、こういう人が世の中に一人もなくなってしまったら、世の中にけんかというものもなくなり、国と国との間に戦争というものもなくなってしまうかもしれない。そうなるとこの世の中があまりにさびしいつまらないものになってしまうかもそれはわからない。
 こういう人も使い道によっては世の中の役に立つ。たとえば石垣のような役目に適する。もっとも石垣というものは存外くずれやすいものだということは承知しておく必要がある。


かなり痛烈なことが書かれていますが、おそらく道徳の重要性を言いたかったのでしょう。特に年々モラルの廃れつつある感のある最近の日本の状況においては、あながち笑って読み過ごすわけにもいかない気がします。

とんびと油揚
(昭和九年九月、工業大学蔵前新聞)

「とんびに油揚(あぶらげ)をさらわれるということが実際にあるかどうか確証を知らないが、しかしこの鳥が高空から地上のねずみの死骸などを発見してまっしぐらに飛びおりるというのは事実らしい」と書き出し、「高空から地上のねずみの死骸を判別するには、視覚的には不可能ではないか」という問題提起を行い、「とんびが実は視覚ではなく嗅覚を利用して高空から地上の物体を判別して飛び降りてくるのではないか」という仮説を立て、それを検証するという内容。

寅彦の学者としての斬新な着眼点と思考力の鋭さが端的に発揮された内容ゆえ、彼のエッセイ中でも比較的有名なものの一つです。ただし残念ながら、ここでの寅彦の仮説は、現在では否定されているというべきでしょう。というのも、とんびの視力というのは異常なまでに発達していて、嗅覚など他の助けによらず、視力だけで高空から地上の様子が手に取るようにわかる、ということが今では解明されているからです。

ただ、それは現在だから分かっていることに過ぎず、そのあたりのメカニズムが当時は解明されていなかった以上、一概に「ハズレ」として責めることはできませんし、むしろ、その発想の柔軟性にこそ注目し、讃えられて然るべきものと思えます。

以上、これで「寺田寅彦随筆集」第4巻に収録の全エッセイを一通り取り上げました。次回からは最後の第5巻に収録のエッセイに移ります。

「寺田寅彦随筆集」第4巻より「試験管」から「思い出草」までの7編


寺田寅彦のエッセイですが、今回は「試験管」「科学と文学」「科学者とあたま」「沓掛より」「さるかに合戦と桃太郎」「人魂の一つの場合」「思い出草」を取り上げます。なお、テキストは青空文庫のものをコピーして使わせていただきました。

Torahiko-Essay-Collection-4

試験管
(昭和八年九月、改造)

「靴のかかと」「草市」「熱帯魚(その一)」「熱帯魚(その二)」「熱帯魚(その三)」「音の世界」「においの追憶」「鏡の中の俳優I氏」の8編からなるショート・エッセイ集。

いずれも日常生活の些細な物事をキッカケに話を膨らませたエッセイばかりで、昭和初期の東京の風物詩がありありと息づいている点も素晴らしく思われます。

特に興味深く思ったのは、「音の世界」の以下の部分です。

 すべての音は蓄音機のレコードの上に曲線として現わされる。反対にすべての週期的ないし擬週期的曲線は音として現わすことができる。たとえば験潮儀に記録されたある港の潮汐(ちょうせき)昇降の曲線をレコード盤に刻んでおいてこれを蓄音機にかければ、たぶんかなりな美しい楽音として聞かれるであろう。そうしてその音の音色はその港々で少しずつちがって聞こえるであろう。それでこのようにして「潮汐の歌」を聞くことによって、各地の潮汐のタイプをある度まで分類することができるかもしれない。あるいはまたこの方法によって、調和分析などにはかからない潮汐異常や、地方的固有振動を発見することもできるかもしれない。
 またたとえばひと月じゅうの気圧の日々の変化の曲線を音に直して聞けば、月によりまたその年によっていろいろの声が聞かれるであろう。その声を聞いてその次の月の天候を予測するようなことも、全く不可能ではないかもしれない。
 同じように米相場や株式の高下の曲線を音に翻訳することもできなくはないはずである。

主に音を実利的に活用する話ではあるものの、例えば港の潮の満ち引きの曲線を音楽に変換するという発想など、かなり大胆な感じがしますが、これに近い発想を20世紀の現代音楽の作曲家は行っているのです。

例えばイアニス・クセナキスの1950年代の確率論的な音楽作品(ストカスティック・ミュージック、いわゆる確率音楽)においては、音の密度など様々な音楽的要素を決定するための確率計算において、自然現象の内部論理が利用されています。「雨がテントを打つ音」といった自然界の「音の出来事」を数学的に処理したうえで音楽的な構造に置換する、という発想です。

こういった自然界の「音の出来事」を音楽に変換するという発想において、上の寅彦のエッセイでの考え方は、後年のクセナキスの作曲技法に相通じるものがあるような印象があって興味深く思えたのでした。

科学と文学
(昭和八年九月、世界文学講座)

以前に発表した「科学者と芸術家」(第1巻に収録)での話を更に推し進めたような内容です。

 たとえばある一人の虚無的な思想をもった大学生に高利貸しの老婆を殺させる。そうして、これにかれんな町の女や、探偵やいろいろの選まれた因子を作用させる。そうして主人公の大学生が、これに対していかに反応するかを観察する。これは一つの実験である。ただしこの場合における実験室は小説作者の頭脳であり、試験される対象もまた実物ではなくて、大学生や少女や探偵やの抽象された模型である。こういう模型は万人の頭の中にいるのであるが、すぐれた作者の場合にのみ、それが現実の対象とほぼ同じ役目をつとめることができるのである。そういうすぐれた作者の作品を読むときにわれわれはその作の主人公のすべての行為が実に動かすべからざる方則のもとに必然な推移をとっていることを悟るであろう。
 ・・・
 このようにして、作者は、ある特殊な人間を試験管に入れて、これに特殊な試薬を注ぎ、あるいは熱しまた冷やし、あるいは電磁場に置き、あるいは紫外線X線を作用させあるいはスペクトル分析にかける。そうしてこれらに対する反応によってその問題の対象の本性を探知すると同時に、一方ではまたそれらの種々の環境因子に通有な性質と作用の帰納に必要な資料を収集するのである。ただ物質と物質的エネルギーの場合とちがって、対象のすべてが作者の中にあるのであるから、その作者が最も鋭利な観察と分析と総合の能力をもっていない限り、これらの実験が失配に終わることはもちろんである。

以上のように、ここでは文学の創作を科学的な実験になぞらえて論が進められます。

 しかし、こういう実験が可能であるということは古来今日に至るまでのあらゆるすぐれた作品がこれを証明している。シェークスピアとかドストエフスキーとかイブセンとかいう人々は、人間生死の境といったような重大な環境の中に人間をほうり込んで、試験檻の中のモルモットのごとくそれを観察した。しかしまたチェホフのような人は日常茶飯事的環境に置かれた人間の行動から人性の真を摘出して見せた。
 ・・・
 文学が芸術であるためには、それは人間に有用な真実その物の記録でなければならない。また逆にすべての真実なる記録はすべて芸術であるというのである。どんな空想的な夢物語でも多感な抒情詩でも、それが真の記録であるゆえに有益であり同時に美しいというのである。ここまではおそらく多くの読者も少なくも多少の条件付きでは首肯されるであろうと思われる。しかし、さらに一歩を進めて、科学上の傑出した著述はすべて芸術であると言おうとすれば、これにはおそらく容易に同感を表しかねる人が多いであろうと思われる。
 ・・・
 手近な例を取ってみても、ファーブルの昆虫記や、チンダルの氷河記を読む人は、その内容が科学であると同時に芸術であることを感得するであろう。ダーウィンの「種の始源」はたしかに一つの文学でもある。ウェーゲナーの「大陸移動論」は下手の小説よりは、たしかに芸術的である。そうしてまた、ある特別な科学国の「国語」の読める人にとっては、アインシュタインの相対性原理の論文でも、ブロイーの波動力学の論文でも、それを読んで一種無上の美しさを感じる人があるのをとがめるわけにはゆかないであろうと思う。ただ事がらが非情の物質と、それに関する抽象的な概念の関係に属するために、明白な陳套(ちんとう)な語で言い現わされるような感情の動揺を感じることはないであろうが、真なるものを把握することの喜びには、別に変わりはないであろう。
 それだのに文学と科学という名称の対立のために、因襲的に二つの世界は截然(せつぜん)と切り分けられて来た。文学者は科学の方法も事実も知らなくても少しもさしさわりはないと考えられ、科学者は文学の世界に片足をも入れるだけの係わりをもたないで済むものと思われて来たようである。
 しかし二つの世界はもう少し接近してもよく、むしろ接近させなければならないように自分には思われるのである。

そして「科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる」と記していますが、これは少々、我田引水な印象がないでもありません。

科学者とあたま
(昭和八年十月、鉄塔)

 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
 この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。

「頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人」は、おそらく科学者ではなく評論家ということなのでしょう。

沓掛より
(昭和八年十月、中央公論)

夏の2週間ほどを避暑を目的に信州の沓掛(今日の軽井沢)で過ごした際の体験を踏まえたエッセイ。「草をのぞく」「盆踊りとあひる」の2編からなり、高原での植物観察のこと、盆踊りのこと、温泉宿の前の池に住むあひるの生態などが新鮮な驚きと共に語られているあたり、読んでいて惹き込まれてしまいます。

さるかに合戦と桃太郎
(昭和八年十一月、文芸春秋)

最近ある地方の小学校の先生たちが、児童に共産主義を教化する目的で日本固有のおとぎ話にオリジナルな解釈を付加して教授した、という新聞紙上の話題から始められます。「なんでもさるかに合戦の話に出て来るさるが資本家でかにが労働者だということになっており、かにの労働によって栽培した柿の実をさる公が横領し搾取することになるそうである」。

そして、このような教育方法に、以下のような苦言が呈されています。

 おとぎ話というものは、だいたいにおいて人間世界の事実とその方則とを特殊な譬喩(ひゆ)の形式によって表現したものである。さるやかにが出て来たりまた栗のいがや搗臼(つきうす)のようなものまでも出て来るが、それらは実はみんなやはりそういう仮面をかぶった人間の役者の仮装であって、そうしてそれらの仮装人物相互の間に起こるいろいろな事件や葛藤も実はほんの少しばかりちがった形で日常にわれわれの周囲のどこかに起こっていることなのである。その事が善いとか悪いとかいう批判を超越して実際にこの世の中に起こっている事実なのである。
 ・・・
 さるのような人もありかにのような人もあるというのも事実であって、それはこの世界にさるがありかにがある事実と同じような事実である。さるなどというもののあるのはいったい不都合だと言って憤慨してみたところで世界じゅうのさるを絶滅することはむつかしい。かにの弱さいくじなさをののしってみたところでかにをさるよりも強くすることは人力の及ぶ限りでない。蜂やいが栗(ぐり)や臼がかにの味方になって登場するのもやはり自然の方則に従って出て来るので、法律で蜂と栗と臼の登場を禁じると、今度はさそりやばらやたくあん石が飛び出して来るかもしれない。また、桃太郎が生まれなかったらそのかわりに栗から生まれた栗太郎が団子の代わりにあんパンかキャラメルを持って猫やカンガルーを連れてやはり鬼が島は征伐しないでおかないであろう。いくらそんな不都合なことはいけないと言っても、どうしてもだれか征伐に行くのが現世の事実である。
 ・・・
 おとぎ話というものは、そういう人間世界の事実と方則を教える科学的な教科書である。そうして、どうするのが善いとか悪いとか、そんな限定的なモラールや批判や解説を付加して説明するにはあまりに広大無辺な意味をもったものである。それをいいかげんなほんの一面的なやぶにらみの注解をつけて片付けてしまうのではせっかくのおとぎ話も全く台無しになってしまう。
 おとぎ話はおとぎ話でよいのである。

それにしても「桃太郎が生まれなかったらそのかわりに栗から生まれた栗太郎が団子の代わりにあんパンかキャラメルを持って猫やカンガルーを連れてやはり鬼が島は征伐しないでおかないであろう」というあたりのユーモアは痛快です。

人魂の一つの場合
(昭和八年十一月、帝国大学新聞)

寅彦が信州の温泉宿の離れに泊まっていた、ある夏の夜の事、寅彦の家族が宿のベランダから人魂が動くのを見たと話します。例によって好奇心に駆られた寅彦が、その目撃証言に基づいて実地検証した結果、温泉の浴室の天井の電燈の明滅を人魂と錯覚したのではないかと推断します。

人魂が「動く」のを見たと言うのに、動かない浴室の天井の電燈では辻褄が合わない点に関しても、これは暗黒に馴らされた目に、あまり強くない光の帯が映ずる場合に生ずる主観的・生理的錯覚として説明できるとしています。

思い出草
(昭和九年一月、東炎)

俳句を題材とした短いエッセイ。まず松尾芭蕉の「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」、次に夏目漱石の「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿(つばき)かな」が取り上げられ、以下の思い出の文章が続きます。

 漱石先生の熊本時代のことである。ある日先生の宅で当時高等学校生徒であった自分と先生と二人だけで戯れに十分十句(じっぷんじっく)というものを試みたことがあった。ずいぶん奇抜な句が飛び出して愉快であったが、そのときの先生の句に「つまずくや富士を向こうに蕎麦(そば)の花」というのがあったことを思い出す。いかにも十分十句のスピードの余勢を示した句で当時も笑ったが今思い出してもおかしくおもしろい。しかしこんな句にもどこか先生の頭の働き方の特徴を示すようなものがあるのである。たぶんやはりその時の句に、「駝(たくだ)呼んでつくばい据えぬ梅の花」というのがあった。その「たくだ」がむつかしくてわからず、また田舎者の自分にはその「つくばい」がなんだかわからなくて聞いたのであった。また別なときに「筋違(すじかい)に葱(ねぎ)を切るなり都ぶり」という句を君はどう思うと聞かれたときも句の意味がわからなかった。説明を聞かされて事がらはわかったがどこがいいのか了解できなかったので、それは月並みじゃありませんかと悪口を言ったものであった。今考えてみるとやはりなかなか巧妙な句であると思う。

このあたり、何となく「吾輩は猫である」でのクシャミ先生と水島寒月との遣り取りを思い起こさせる、ほのぼのとしたエピソードです。

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