読書間奏「東大生の論理―『理性』をめぐる教室」


「東大生の論理―『理性』をめぐる教室」
高橋 昌一郎 (著)
ちくま新書

T881

ちくま新書から発売された「東大生の論理―『理性』をめぐる教室」を読みました。

東大の教養学部(駒場での前期課程)で主に理科系の学生を対象とした記号論理学の講義を担当することになった著者が、その講義での学生の受け答え、あるいは提出レポートなどを材料に、東大生の思考における論理、考え方の志向性のようなものを考察することが本書のテーマとされています。

と同時に「講義のさわりの雰囲気を伝えるエッセイ集」として読んで欲しいと著者が述べているとおり、論理学の楽しさを分かりやすく読み手に伝えるという側面もあり、そちらの方がむしろ本書の醍醐味ではないかと思えます。社会心理学者ミリグラムの「スモールワールド仮説」、社会心理学の「腐ったリンゴ仮説」、社会的ジレンマの問題、ナッシュ均衡、パレートの法則、ベンサムの功利主義、ラッセルによる理性主義と神秘主義のイデオロギー、、、

とかく教条的で無味乾燥に陥りがちな学問ジャンルのエキサイティングな側面をエッセンスとして縦横無尽に抽出し、講義での学生との応答というリアルな媒介を介して、その「生きた面白さ」を読み手に分かりやすく伝えていく、いわば「哲学エッセイ」としての部分が滅法おもしろく、しかも分かりやすいので私のような哲学初心者でも一気に読み通せてしまいます。

それに対して本書の中心テーマとされている、東大生の思考における論理の考察に関しては、講義を通して著者が把握した学生の志向性に基づいて、分析力、適応力、洞察力、あるいは理解できたと納得するまで諦めない姿勢とか、正義感が強い、感受性が鋭くユーモアセンスがある、などの人並み以上に優れた「10の志向性」が列挙されていますが、このあたりも流石に論理学の専門家の著者が書かれているだけあって、全体的に理詰めですし、読んでいて納得させられてしまうものでした。

ただ読み終えて、ひとつだけ気になったのは、私が個人的によく知っている、ある東大卒の人物の持つ人柄と、本書で挙げられている「東大生の志向性」とが、どういうわけか随分と懸け離れているように思われた点でした。

その私が知っている人というのは、東大の理科一類に入学し、駒場での教養課程を経て本郷へ進学し機械工学を専攻、さらに大学院に進んで修士号を取ったそうです。その後は都内で普通に会社勤めをしていて、立身や出世などに取り立てて意欲を燃やすでもなく、地道に働きながら、余暇にはCDを人並みに聴いたり、コンサートやオペラなどにも人並みに足を運ぶような、要するに普通の生活を送っているような人で、人物としてみても普通そのもの、という印象しかなく、分析力、適応力、洞察力などが人並み以上に優れているようには到底おもえないような平凡な人物です。

しかし世間では東大を出ると出世が約束されているように思われているふしがあることから、そんな偏見とのギャップにより周囲から言われなき非難に見舞われることも時々あるとかいう話です。

そんなことから彼は夏目漱石の小説がとても好きなんだと言っています。立身や出世などとは縁のない東大卒がゴロゴロ出てくるからだそうです。それらのキャラクターに強いシンパシーを感じるし、ちょっと人事とは思えないとさえ思っているらしいですね。虞美人草が特に好きだと言っていたかな。

読書間奏「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(下)」


「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(下)」
アレクサンダー・ヴェルナー(著)
喜多尾道冬、広瀬大介(訳)
音楽之友社

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昨年秋に音楽之友社から発売されたカルロス・クライバーの伝記「カルロス・クライバー~ある天才指揮者の伝記(下)」を読みました。

上巻同様、いや上巻以上に面白い「逸話」に事欠かない内容で、読んでいると稀代のキャンセル魔クライバーの武勇伝が次々に出てきますが、とくにレコーディングがらみのトラブルが多く、おもだったところを抽出しますと、まずドイツ・グラモフォンのプッチーニ「ボエーム」全曲録音、これをミラノ・スカラ座とセッション形式で進めていたがレコーディングの途中でクライバーが「もうできない」と言い放って、最終的に頓挫。ドレスデン・シュターツカペレとの「トリスタン」は録音の大詰めの最終段階でルネ・コロと大喧嘩して指揮を降板(しかしクライバーがグラモフォン側に説得されて、しぶしぶ発売を許諾したため奇跡的に日の目を見る)。

1982年6月のベルリン・フィル創立百周年記念コンサートでクライバーはベートーヴェンの交響曲第4番とドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」を振る予定で、この時の「新世界」に関してはEMIからLPでリリースされる手はずだったが、プローベに入る直前にパート譜を巡る些細な(?)トラブルで御破算となった。1982年12月のウィーン・フィル定期演奏会におけるベートーヴェンの交響曲第4番と第6番「田園」は、本来グラモフォンにより録音されレコード化されるはずだった。しかしクライバーは最後のプローベの途中で急に姿をくらました。それで御破算。

1993年ウィーン・フィルとの「英雄の生涯」のライヴ。ソニーからリリースされる手筈だったが、ややこしい事情で結局は御破算に。2001年ごろ、ドイツ・グラモフォンにシューベルトの最後の交響曲「グレート」をベルリン・フィルと録音する計画が進められていたが、これも最終的に頓挫、、、、

以上がレコーディングがらみの主だったケースとして本書に記載されていたトピックスですが、それ以外にも録音の絡まない演奏会のキャンセル絡みのトラブルも多数とりあげられています。クライバーらしい奇抜な言動の例としては、例えば、、、

1978年6月18日の「ばらの騎士」上演をクライバーは指揮しなかった。指揮を引き受けたホルスト・シュタインは、クライバー・ファンからブーイングを受ける羽目になった。クライバー本人の弁によれば、今回の出演を辞退したのには音楽と関係のない、しかるべき理由があるとのことだった。おりからサッカー・ワールドカップの最中で、アルゼンチン対ブラジルの試合を見逃したくなかったのである。・・

このくらいならまだしも、、、

・・ウィーンで、彼はまたぞろウィーン・フィルハーモニー管弦楽団長とオーパーリングを歩いていた。彼はクライバーにコンサートを指揮するのかどうかと尋ねた。二人はメルセデスの営業所の前を通りかかった。店にはぴかぴかのモデルが展示されていて、クライバーの目はそれに吸いつけられた。彼は尋ねた、「この車、今すぐ手に入るかな」。店に入って問い合わせると、その車はすでに売約済みで、数か月待たなければならないと告げられた。するとクライバーは言った、「じゃあ指揮はやめだ」。

さすがに、ここまでになると正直「どこまで本当なのか」という疑念が生じます。事実に反しているのではという意味ではなく、クライバーの言動が、どこまで本当の意思表明なのか、という意味でです。

例のショスタコーヴィチの「証言」ではないですが、これでは単純に書かれていることだけでクライバーの本心を読み取るのは難しいのではないかとも思えてきます。

最晩年にクライバーが指揮をする気持ちをなくしていったのには幾つか理由があるとして、オペラ興行の衰退(歌劇場の公演水準の低下)と作品の良さを阻害する演出主導のプロダクション(レジーテアーター)に対する嫌悪の念、それに聴衆の無批判(問題意識のない演奏家を称賛する聴衆のデカダンスの傾向)といった理由が本書では挙げられています。

しかし、このあたりも果たして迂闊に信じていいのかという疑念が拭えません。額面どおりに受け止めるのは危険ではないかという気もします。

少なくとも、常人の理解を遙かに超越した指揮者クライバーの晩年の心象風景は、この伝記出版をもってしても依然として謎に包まれたままだったというのが率直な印象です。

読書間奏「物理学はこんなこともわからない」


「物理学はこんなこともわからない」 
川久保達之・著 PHPサイエンス・ワールド新書

    PHP-036

・・昭和の初め、物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦は「映画の世界像」という随筆で映画のフィルムを逆回しにしたときに見られるような現象、たとえば、燃え尽きた灰が焔に変わって最後に白い紙になるような現象が実際には絶対に起こらないのはなぜか、という問題に言及しています。
・・。
 ここで「現象が不可逆的である」とは上のような意味です。普通の人にとっては当たり前のことで、バカバカしい疑問をもつものだと思うでしょう。しかし、物理学者がなぜこんな奇妙なことに興味をもつのかというと、ニュートンの運動法則にその理由があるようです。・・・

先月に発売されたPHPサイエンス・ワールド新書「物理学はこんなこともわからない」を読みました。物理学者の著者による、物理学に関するエッセイ集といった趣きの内容ですが、ここでは現代の物理学をもってしても完全には解明できない幾つかの問題が話題として取り上げられています。

現代の物理学でも解明できない問題と言われると、我々は例えば現代宇宙物理学におけるダークマター問題などの壮大なスケールの話題を連想しがちですが、本書で取り扱われているのはそういった壮大なトピックスではなく、むしろ我々の日常と隣り合わせともいうべき「身近な物理現象」に徹底的にこだわっている点が非常にユニークなところです。

まず、なぜ5メートルもの高さから飛び降りた猫は人間と違って怪我もせず無事なのかという話題から始まり、なぜ10メートル以上もの高さの樹木が地中からてっぺんまで水を吸い上げられるのか、なぜ磁石は肩こりに効くのか、など、いずれも我々が日常的に当たり前だと思っていることの中に実は未知の問題が潜んでいるという視点に基づいて、それぞれの現象が物理学的にどういう原理にのっとって生じるのかということが考察されています。

私は本書を書店で手に取って最初の方を少し読んでみた時に「これは何となく寺田寅彦のエッセイに似ている」と思って購入し、読んでみたところ、ついに最終章で寺田寅彦の名前が出てきて(上記引用部)、ああやっぱり!と思いました。

著者は本書の中で「日常当たり前だと思っていることのなかに問題があることに気づくことが大切な態度」と書いていますが、これは実は寺田寅彦の研究スタンスと軌を一にするもので、実際にも寺田寅彦のエッセイの中には例えば金平糖のツノが生まれるメカニズムとか、水の入った洗面器が振動して音が出るメカニズムとか、そういった身近な現象を究明せんとしたものが数多くあります。おそらく本書もそのようなスタンスで書きおろされたものではないかと読んでいて思いましたが、寺田寅彦の名前を見るにおよびそれを確信しました。

とくに面白いと思ったのが、浴槽や流しの吸い込み口から水が流れ出ていくときに渦ができる現象に関して、「北半球では浴槽の水は左巻きの渦をつくる」という俗説があり、それが本当か検証するというトピックス。そもそも渦が発生する原因として、まず地球の自転により生じる慣性力として知られる「コリオリ力」に着眼する。しかし実際に方程式を解いて検証を行ってみるとコリオリ力が有効に作用するには水流の速度が小さすぎるということが判明、そこで、さらに詳しく水槽実験と流体方程式に基づいた検証を行ってみる。結果、吸い込み口からの水の流出量が大きく粘性が小さいほど渦が出来やすいということまでは物理学的に究明されるが、渦の回りが左右がどちら向きになるのかは、初期条件や環境条件などの、いわゆる境界条件(と私は理解したが)により左右されるので、現在の物理学では予測が難しい(要するに非平衡系の相転移の問題なので)という結論が呈示されます。

このように、現在の物理学ではここまでは分かるがここからは分からない、というあたりの限界点が示されている点が本書の特徴で、けっこう思いもよらない未知の領域が日常の中にあるものだと読んでいて唸らされました。なんだか寺田エッセイの21世紀版を読んだみたいで面白かったです。

読書間奏「モーツァルトの陰謀」


「モーツァルトの陰謀」
スコット・マリアーニ著(訳・高野由美) 河出書房

     TheMozartConspiracy

「わたしは、あの手紙がオリバーの死と何か関係あると思うんです」とリーは言った。
 教授の表情が険しくなった。「きっとそうだろうね」
「説明していただけますか?」
 アルノは考えをまとめるまで、少し時間がかかった。「最初から始めなくてはならないな。知ってのとおり、お兄さんの本のテーマはわたしが長年研究してきたものだ」
「モーツァルトの死ですね」とリーは言った。
「モーツァルトの死だけじゃなくて、それにいたるまでの出来事、それにまつわること。それにその原因と思われること。・・わたしはあれが原因だと思っているんだが。これを説明するには、18世紀まで遡る必要が・・・」
「失礼ですが、教授」ベンは口を挟んだ。「ほくたちは、200年以上も前に亡くなった人物について、歴史の講釈を聞きにきたんじゃないんです。ぼくたちはオリバーに何があったのか知りたいんです」
「わたしの話を最後まで聞けば、きみたちがそれを理解するのに役立つと思うよ」とアルノは答えた。・・

スコット・マリアーニ著「モーツァルトの陰謀」を読みました。

これはイギリスでベストセラーになった長編小説の邦訳版で昨年10月に発売されたものです。原題は「The Mozart Conspiracy」。邦題の「モーツァルトの陰謀」だとモーツァルトが陰謀を企てたようなニュアンスがありますが、むしろ「モーツァルトが巻き込まれた陰謀」という方が内容的に近いと思います。

単行本の背表紙に、本作のストーリの簡単な概要が書かれていますので以下に引用します。

軍隊時代の旧友、オリバー・ルエリンの不慮の死を調べていく中で、ベン・ホープは、何世紀も昔の「モーツァルトの死」の謎に巻き込まれていく。オリバーが追い求めたモーツァルトの書簡は、どこにあるのか。そして、オリバーが生命をかけて郵送したCDには何が眠っているのか。オリバーの葬儀のあと、ベンは、世界的に有名なオペラ歌手となっていたリー・ルエリンから突然の呼び出しをうけて再会する。だが、それは二人にとって15年前の苦い過去との再会でもあった。凍てついた冬のヨーロッパ。二人が「モーツァルトの死」の真実に迫るとき、モーツァルトを葬り去った殺人者たちも、歴史のむこうから蘇ってくるのだった。

これを書店で見て興味をひかれて購入し、ひと通り読んでみました。小説の舞台は現代つまり21世紀初頭のヨーロッパで、主人公ベン・ホープというのは、元はイギリス陸軍のエリート戦闘部隊に所属する軍人、今は「危機対応コンサルタント」として、国際的犯罪組織に囚われた人質を奪還するなどの危険な仕事に従事するタフガイ。ヒロインのリー・ルエリンは世界的なオペラ歌手として知られ、おもにロイヤル・オペラを中心に活躍するソプラノ歌手。この二人がふとしたことからモーツァルトの死因をめぐる謎を探っていく過程で、いつしか謎の巨大組織との命がけの抗争に巻き込まれていくという筋立てです。

感想ですが、確かに面白いと言えば面白いんですが、いささかサービス過剰ではないかと思えなくもないです。というのも、これは明らかにハリウッドのアクション映画の雰囲気で書かれていて(そのことは著者も巻末で明言してます。クライマックスでは墜落しているヘリのコクピットの中で主人公と宿敵とが壮絶な肉弾戦を繰り広げるなんてシーンもあるし、もう「ダイ・ハード」さながら)、とにかく読者を飽きさせないようにということが徹底されている。読んでいると、とにかく矢継ぎばやに話が急転し続け、読者が息つく暇も与えないくらい。例えば、主人公たちが逃げる先に面白いように組織の手掛かりが落ちていて、逃げれば逃げるほど、いつのまにか敵を追い詰めている、みたいな展開です。このあたりはエンターテイメントに徹した潔さというべきで、面白いといえば面白いが、そのぶんリアリティが弱いですし、確かに娯楽的な意味でのサービス精神がすこぶる旺盛な反面、ストーリーが多分に御都合主義的な状況に傾き、読み手によってはストーリーが全体的に軽すぎる(軽やかすぎる)と感じるかもしれない(少なくとも重厚感のある話の運び方とは、ちょっと言えない)。

正直なところ、ちょうど私が昨年の今頃に読んでいたイギリスのベストセラー長編小説「コレリ大尉のマンドリン」のような重厚な読みごたえの内容を期待して読み始めたんですが、その意味では期待を少々はぐらかされたかなというのが率直なところです。読んでいる時は確かに夢中で読めるんですけど、ちょっと余韻が薄いといいますか、、

とはいえ「モーツァルトの死の原因」として小説の中で想定されているプロットに関しては読んでいてなかなか面白いと思いました。この小説ではモーツァルトの死に関して暗殺説をベースにしています。その暗殺説として一般に言われているのが(むろん暗殺説自体が超少数説ですけど)サリエリ毒殺説、それにフリーメーソン暗殺説、この2つですが、しかし本書の場合サリエリでもフリーメーソンでもない第3者たる謎の組織にモーツァルトが暗殺されたという斬新なプロットで書かれている。その暗殺理由というものに一定の説得力があり(というか、その設定こそが小説としてのシナリオの肝になっているんですが)、詳しくはネタバレになるので伏せますが、少なくとも、その理由だったら確かにモーツァルトは殺されることも有り得たかもしれないと読者に納得させるだけの理由づけにはなっていると思います。

読書間奏「検察に、殺される」


「検察に、殺される」
粟野仁雄 ・著 ベスト新書

   B-307

・・2010年、「天下の特捜検察」がガタガタになっている事件を私たちは目の当たりにした。
 法廷内で繰り広げられるドラマを一部始終見届けたら、終焉の直後に、法廷でいつも見ていた主任検事が逮捕されるという、仰天するような事件に発展したのである。
 ご存じ、郵便不正事件に絡み、厚生労働省の局長だった村木厚子氏が犠牲になった「冤罪裁判」である。そして、その事件にともなうフロッピーディスクの改竄で大阪地検特捜部の前田恒彦検事(当時)らが逮捕された一連の事件である。
・・・
 激震は止まらない。前田検事の逮捕に驚く間もなく、今度は上司の特捜部長だった大坪弘道検事と副部長だった佐賀元明検事が、「前田検事の意図的改竄を知りながら、隠蔽工作を図った」とのことで最高検に逮捕、起訴された。
 最高検の検事が自ら乗り出し、捜査、逮捕するなど聞いたこともない。厳しくなった国民の眼を何とかかわそうとする死に物狂いの組織防衛なのだろうか。
 長年、自己が所属した組織の頂点たる最高検との全面戦争に突入した。もはや、検察庁は「炎上」している。・・

昨年末に発売された新書「検察に、殺される」を読みました。本書で主に扱われているのは世間を大きく揺るがした、例の大阪地検特捜部主任検事の証拠(FDデータ)改ざん事件です。

この検察不祥事に関して私は以前、当該検事の逮捕に伴う一連の報道に触発され、同じベスト新書の郷原信郎・著「検察が危ない」を読んでみたところが、そこに書かれていた内容に衝撃を覚えました。それについては以前ブログに書いたとおりです

ですので、この「検察に、殺される」も興味深く読みましたが、そこに書かれていた内容というのは上記「検察が危ない」に勝るとも劣らないくらい衝撃的なものでした。本書に書かれていることはちょっと俄かには信じ難いくらいです。

しかし著者は徹底した現場取材を旨とするジャーナリストであり、その綿密な取材と検証が、本書の記載事実ならびに問題提起に対し強度のリアリティと説得力を感じさせます。

まず第1章「特捜部の凋落」では一連の事件の中心人物たる、かの検事の逮捕に至るまでの顛末が、第2章「最高検察庁の決断」では同検事の上司の特捜部長と副部長の逮捕に至るまでの顛末が、それぞれ詳細に記述されます。第3章「検察無法地帯の構造」では今回の不祥事が決して検事個人の責任のみに帰すべき特殊な問題ではなく、検察内部の構造的な問題にほかならないという著者の分析が披歴されます。

そして第4章「でっちあげ裁判の全貌」ですが、これが凄まじい。ここでは村木裁判の公判過程における検察側の卑劣を極めた取り調べの状況が生々しく綴られています。その過程での検察官の悪辣ぶりが際立っているがゆえに、最後に村木氏が無罪判決を勝ち取るくだりが、実に感動的な余韻をもって読者の胸を打ちます。と言っても、そんな読後感を別に著者は「狙って」書いているのではなくて、ただ事実を淡々と書き綴っているだけなのに、です。正義のはずの検察の全面敗北によって正義が守られたという壮大なアイロニーも含め、これは少し不謹慎かもしれませんが、下手な小説を読むより遙かに面白く、そして意義深い内容です。

さらに第5章「冤罪の暗黒史」では郵便不正事件に先立つ過去の様々な冤罪事件について言及されていきます。これを読むと冤罪の危険性は何も検察だけでなく実は警察官や裁判官にまで及んでいるという実態が分かります。

そして終章「余波」で本書のタイトルの意味が明かされます。正直に言いますが、私は本書の「検察に、殺される」というタイトルが少しばかりオーバーではないかと、読む前に思いました。村木裁判にしても確かに検察の取り調べの悪辣ぶりは際立っているが、しかし被告人の実際的な生命に関わるというほどではない。むろん何の罪もない村木氏にしてみれば、社会的生命の不当な危機に晒されたわけですし、そういった意味のことを少しばかり大袈裟に表現したタイトルなのだろうと思っていました。

ところが、それは違っていました。この終章に記載されているのは、かつて大阪府枚方市の副市長だった小堀隆恒氏が、無実の罪で逮捕され、検察により熾烈な取り調べを受けた際の体験談です。なお小堀氏は副市長時代の2007年に官製談合事件で業者に落札最低価格を教えたとして大阪地検特捜部に逮捕されましたが裁判で冤罪を晴らし無罪判決を勝ち得ています。

その際の大阪拘置所での、検察による人権無視ともいうべき壮絶な取り調べの実態が著者により取材され生々しく開陳されています。

 取り調べは罵詈雑言・恫喝の繰り返しでした。よくこれほど大きな声で怒鳴れるなと思ったほどです。「クズ野郎」「ゴミ野郎」「バカ野郎」と終始どなっていましたし、「小堀さん」と呼ばれたことは記憶にありません。
 ・・「かみさんも同じ目に遭うぞ」「息子や娘も同じ会社にいられるかわからないぞ」「親戚も徹底的に調べてやる」「介護施設の母親も取り調べするぞ」
・・そして何もわからない妻と姉が取り調べを受けました。
 90歳を超えた下半身不随の母親から何を聞き出そうというのでしょうか。また「どうやって調べるのか」と聞くと、「ストレッチャーがあるやないか」というのです。母親は2年前にわたしの無罪判決を聞く前に亡くなりました。・・・
・・「お前ら家族を、街で歩けないようにさせてやる」「否認しているのはお前だけだ。一人で否認しても全部お前にかぶせられる」「ここから出られなくなるぞ。わかっているのかバカ野郎」・・聞くに堪えないような取り調べが21日間一日も休むことなく続きました。・・・
 取り調べのひどさが拘置所の中で話題になっているのかと思わせることがありました。取り調べが終わってへとへとになって11時くらいに部屋に戻ったときです。入り口に大柄の背広の人がいました。
「お前が小堀か。大変な取り調べを受けているらしいが、くれぐれも間違いを犯すなよ」
 疲れていましたので、とっさに意味がわかりませんでした。「今の人は誰なんですか」と刑務官に聞くと、「ここの一番偉い人や」と答えました。
 部屋に戻ってから、この人は私に「自殺するな」と言っていたのです。・・

おそらく、これが本書のタイトル「検察に、殺される」の本当の意味なのでしょう。21世紀の民主国家どころか戦前の日本さながらの国に我々は住んでいたのかと読み手を愕然とさせる、衝撃的な内容です。

巻末には本書の著者と、前記「検察が危ない」の著者・郷原信郎氏との特別対談が収録されています。これも読んで考えさせられる、重い内容です。

思うに、現在の裁判員制度の施行により我々のひとりひとりが裁判に参加する権利を平等に保有していますが、それに伴い、こういった冤罪に加担して何の罪もない人間を地獄へと落とす、そんな危険性をも、やはり我々は平等に保有しているとも言えそうです。

であれば、これはまさに国民全体の問題とも言えますし、自分には別に関係ない話と目を逸らすことは許されないような気がします。

なお、くだんの検察不祥事に関する直近の動きとして昨年末に、検察のトップたる検事総長が今回の検察史上前代未聞の不祥事の責任を取る形で検事総長の職を辞任しています。現職の検事総長が不祥事で引責辞任するのは史上初めてとのこと。激震いまだ収まらず、、

読書間奏「インフレーション宇宙論」


「インフレーション宇宙論」
佐藤勝彦・著 ブルーバックス

   B-1697

 私たちの住んでいるこの宇宙には、「はじまり」があったのだろうか? もし「はじまり」があったのなら、それはどのようなものだったのか? これらは、人類の歴史が始まった頃から問われつづけている問題です。かつては、これらの疑問に答えられるのは宗教や哲学しかないと考えられていました。あまりにも雲をつかむような話なので、科学では太刀打ちできないとされていたのです。
 しかし、いま、「科学の言葉」でこれらの疑問に答えることができる時代になってきています。宇宙の誕生や進化・構造について研究する学問分野である「宇宙論」が、この100年ほどの間に驚くほどの進歩を遂げたからです。・・

昨年の9月にブルーバックスから発売された新書「インフレーション宇宙論」を読みました。著者は以前ブログで取り上げたPHPサイエンス・ワールド新書「相対性理論から100年でわかったこと」の著者でもあり、宇宙の始まりを解明するための有力な理論「インフレーション理論」の提唱者である宇宙物理学者の佐藤勝彦教授です。

その「相対性理論から100年~」が発売されたのが昨年10月で、このブルーバックス「インフレーション宇宙論」と同じ時期です(なお、私はブルーバックスの方から先に読み、その後で「相対性理論から100年~」を読みました)が、同じなのは時期だけでなく、これら2つの本は実は内容的にも多くの部分で重なっていることが分かります。

「相対性理論から100年~」の方はタイトルの通り直近100年の間の現代物理学の歩みとして相対性理論、量子論、素粒子論、宇宙論という4つのジャンルにつき万遍なく取り上げた構成だったのに対し、その最後の宇宙論に焦点を絞って取り上げられているのが、こちらの「インフレーション宇宙論」ということになります。しかし宇宙論に焦点が絞られていても、その宇宙論の構築の土台となっているのが相対性理論や量子論、素粒子論である以上、これらのジャンルも必然的に本書で参照されることになります。

そういうわけで、本書はちょうど「相対性理論から100年~」の続編的な位置づけになると思われます。現代物理学100年の歩みを踏まえたうえで、最先端の宇宙論がどのような展開を示しているかが、著者独特の簡にして要を得た筆致から綴られていき、おそらく読み終えたときに読者は、この雄大な宇宙における我々人類の立ち位置をリアルに認識させられると同時に、その雄大な思考の広がりに感嘆の念を抱くことになります。

「相対性理論から100年~」の方でも述べられていたように著者は基本的に「宇宙論とは宇宙の膨張の様子を研究する学問である」と規定します。なぜなら宇宙の膨張の様子が分かれば宇宙の歴史や構造が把握できるからですが、しかし宇宙の膨張と言っても、19世紀まで宇宙は膨張などしない永久不変の存在と認識されていたため、宇宙の歴史や構造を研究しようにも、どうにも取っ掛かりが見出せませんでした(なにしろ永久不変の存在であるなら始まりも終わりもなく、そんなもの手も足も出ない)。しかし20世紀になって相対性理論が、時間と空間が伸び縮みするという仕組みを示したことで状況が一変します。時間と空間が伸び縮みするなら宇宙だって伸縮するのではないか、そうなら、宇宙の始まりというものを物理学的に考えても良さそうだ、この発想を後押しするかのように、1929年にアメリカの天文学者ハッブルが宇宙の膨張を実際に確認したことで宇宙論の可能性が一気に広がります。

この流れを受ける形で1946年にビッグバン宇宙論が提唱されます。これは「かつての宇宙は超高音の小さな火の玉だった」とすることで膨張のメカニズムを物理学的に解明した理論であって、一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式が示した「宇宙の膨張」という理論的事実を出発点とするものですが、さらに1965年にビッグバンが事実であったことの決定的な証拠が観測されるに及び、ビッグバン宇宙論は現代物理学的宇宙論のベースとしての地位を不動のものとします。

このビッグバン宇宙論を受けて、本書の著者である佐藤勝彦氏により1980年に、「インフレーション理論」が提唱されます。「宇宙は誕生直後にものすごい急膨張(インフレーション)を遂げた」とするもので、この理論によりビッグバン宇宙論の様々な問題点が一気に解決できる画期的な理論であり、このインフレーション理論は現在、宇宙初期の様子を説明する標準理論として認知されています。

しかし、そのインフレーション理論をもってしても、宇宙誕生直後の状態までは何とか説明できるが、宇宙誕生そのものについてのメカニズムは説明ができず、別の理論が必要になる。著者のいう「私たちが神様の助けを借りずに宇宙の始まり・時空の始まりの謎に立ち向かうための理論」として、宇宙誕生のメカニズムを説明するためには、「量子重力理論」と呼ばれる、相対性理論と量子論を完全に統合した理論が不可欠と言われています。なぜなら 宇宙は過去にさかのぼるほど小さくなり、誕生の瞬間は素粒子よりも小さな超ミクロの存在だった。したがって宇宙誕生の様子を考えるには、ミクロの世界の物理法則である量子論と、ビッグバン宇宙論の土台である一般相対性理論を融合した理論の完成が必須となるからです。

現在、量子重力理論の候補として有力なのはウクライナの物理学者ビレンキンの「トンネル効果理論」、アメリカの物理学者ホーキングの無境界仮説などが知られているものの、いずれも仮設の上に建てられた仮設に過ぎないとして、まだまだ未完成であることが述べられます。つまり、このあたりが現在の人類の、宇宙の真理に接近する臨界点ということになるようです。そして、その臨界点の先には暗黒(ダーク)エネルギー問題という、現在の宇宙論における最大の謎が横たわっており、この解明により現代物理学が次のステージに進めるのではないかと著者は予想しています。

・・エーテルの問題は相対性理論を生み、黒体放射の問題は量子論を生みました。難問を解決することで、まったく新しい20世紀の物理学が創られたわけです。同じように私はダークエネルギーやダークマターの問題を解決することで、21世紀の物理学、、次世代の新たな物理学を創ることができるのではないかと思っています。
 宇宙の中で私たち人間は、確かにはかない存在です。でも私たちは、自分たちが住んでいる宇宙についてみずからの生み出した科学の言葉でここまで認識し、それを通して自分たちが何者であるかを知ることができるようになりました。そのような人間は、この宇宙の中で、はかないけれどもすばらしい存在だと私は思っています。

本書は単独で読んだとしても十分に面白く、新しい知に触れる喜びに満ちていますが、私の印象では「相対性理論から100年~」と合わせて読むとまた、感銘の度合いや知見の密度などがぐっと深まるように思います。

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